芦塚先生の教育論U

野狐禅

昔々、音楽大学での受験での事であるが、最初のBachの課題曲ではthemaの入りのtrillを指が硬直して、自分では「トチってしまった!失敗した!!」と、思ったのだが、周りで聞いている人達はそれが分からなかったそうである。

そして、自分よりも前の受験生達が自滅して行くのを見て、私もすっかり舞い上がってしまい、Beethovenのsonateでは、自分が演奏可能と思っていたtempoよりも、かなり早い、世界のpro奏者のレコードのtempoで弾き始めてしまった。

自分でも「しまった!」とは思ったのだが、後の祭り・・崩れて自滅するまで、頑張って弾く他はないか!!と、指に任せて、弾き切る事にした。

しかし、これは練習量の賜物・・自分の意識とは無関係に勝手に指が動いて、ノンミスで最後まで凄いtempoのまま弾ききってしまった。
審査する先生達も「ほう!!」という感じで感心していたよ。
間違えて、Pianoの凄いtechnicianと勘違いしたようだ。

これが、産まれて初めての、意識と指が分離して演奏した時の話・・・、舞い上がっただけの話なのだがね。でも、ちゃんと練習が出来ていれば、そういう事が可能なのだ・・と、始めて知った・・という事だよ。


私が未だPianoの演奏活動をしていた頃、自分の演奏を聴きながらその演奏があたかもレコードを聴くように、聴こえて来た事が何度もある。
Pianoを、、まだ真面目に一生懸命に練習していた頃の話ではあったのだが、自分が自分の演奏を、他人として聴けた・・最初の出来事でもある。

それによく似た話は、よく聞く事があるのだが、それはamateurの人達がよく陥るcaseで、自分の思い描いている音を、頭の中で勝手に想像して、現実の音を取り違えて聞いている、という、所謂、陶酔した、思い違いの音楽なのだ。
某大手音楽教室のPianoの先生が、子供に
「自分は上手いのだ!」と示すのに、chopinのワルツを弾いて聴かせるのに、pedalを踏みっ放しで弾いていた。
Pianoが轟轟と音を立てているだけで、何の曲を弾いているのか、全く分からなかったよ。でも本人はchopinのワルツを弾きまくっているつもりらしい。
兎角、日本人はpedalを使い過ぎる傾向にあるのだが、それは左脳国民で、雑音を嫌がらない国民だからなのだがね。


話を元に戻して、そういった自己陶酔型の人へ、その間違いを指摘するのは、・・つまり、鼻っ柱を折るのは、簡単に出来るのだよ。
つまり、その人の演奏をvideoに撮って、本人に見せれば良いのだよ。

でも、もっと、面白い事に、そのvideoの演奏が自分の演奏だという事を、信じない人達もいるのだよ。
「それはvideoで撮影された機械による演奏なのでそういう風に聞こえる分けで、私はそういう風には絶対に演奏していない。」と、自分の演奏を信じて疑わない人達だ。
教室では、必ずlesson風景をvideoに撮って、問題があれば、その場で再生して、生徒に確認をさせるので、演奏と耳がズレる事は基本的にない。

野狐的ではなく、本当の意味で、そういった状態を言うとすれば、なんの意識もなく勝手に指が動いて、レコードを聴くように、音が自分勝手に、自然にPianoから立ち上がって来る・・という感じです。






音楽の世界

私の教育論に関しては、もう既に無数の論文があり、言い尽くしているという感もあるのですが、やはり、一番理解して貰えない部分でもありますので、老骨に鞭打って、今一度これを記す事にします。

以前、音楽家を志す生徒本人や父兄から次のような質問を受けた事があります。
「毎日、4時間練習すれば音楽大学に入学出来ますか?」という質問です。
受験に合格出来るか否かが練習の量、時間に拠るものと勘違いをしている人達なのです。
有名音楽大学の教授に師事すれば、合格出来ると信じて、4歳、から芸大の主任教授に習っていた生徒もいます。その悲劇は、人間性の問題かもしれません。




「毎日、4時間練習すれば音楽大学に入学出来ますか?」という質問です。
この質問に答える事は出来ません。
何故なら、それでは条件が確定出来ていないからです。
先ずは、音楽大学に入学したいのかどうか?と言う事ではないですか??
親が幾ら子供を音楽大学に進学させたいと思っても子供がそう思わなければ、集中出来る事はありません。
幾ら練習しても、ちゃんと集中していなければ、練習のノルマは達成出来ないからです。
「では、ちゃんと集中して、練習出来れば、音楽大学に入学出来ますか?」
否、それでも無理でしょう?
だって、間違えた練習を間違えた方法論でやっていたとしても、成果が上がる分けはないでしょう??
正しい練習法で正しい練習をしていたら、そして、ちゃんと集中して、丁寧に練習したら、今度こそ、音楽大学に入学出来ますか??





音楽の教育には、大きく分類して3つのgenreがあります。
その一つは音楽の技術に関するlectureであり、指導です。





二つ目は音楽の理論的な知識であります。


3つ目は音楽に対する心です。
これらは、音楽を学ぶ本人の勉強に関する事なのですが、


一般的には、音楽教室では、優秀な生徒は、音楽大学の先生に回すのが通常である。。
指導して後は無責任に有名私立の教授や芸大の教授に回してしまう。落ちても入っても、その責任は回避出来るし、「あの音楽教室は音大と直結している」と言って、有名になり、結果、生徒も集まる。

音楽教室が楽器店と提携しているのは、発表会等の企画運営を楽器店がやる事になって、楽器の購入や楽譜の購入等々で利潤をあげる事が出来る。
大手の企業の音楽教室に就職した(と思い込んでいる)先生達が、「私達は大切にされているので、発表会等の雑用は楽器店がやってくれて、私達は何もしないで良い。」と思い込んでいる。楽器店にとっては、楽器店で教える先生達は、会社の社員ではないのだ。一見すると大切にされていない楽器店の売り子は楽器店の店員で社員なのだよ。指導する先生達は社員ではなく、日雇いの**に過ぎないのです。
発表会やそういった企画を楽器店がするのは、その企画や運営を先生が覚えてしまうと、楽器店がその先生を飼い殺ししているという状況はなくなる。だから、常にお客様にして、何もさせないでおくと、先生が自立出来ないので、いつまでも、飼い殺しが出来る。




教室が世界に広がる条件とは

芦塚音楽研究所が全国展開をするためには、教室の指導者となる先生をたくさん養成すると良いのだ。
たくさん、先生を養成するには、芦塚メトードの指導manualをうんと簡単なものにすると良い。
レコードを聞いてそれに合わせて弾くとか、無味乾燥に唯ひたすら計算を繰り返すとか・・である。
manualが簡単で、1,2週間でマスター出来るものなら、先生は幾らでも集まる。
芦塚音楽研究所のように、manualの習得が難しいcurriculumなら、先生は集まらないし、教室も増えない。
音楽大学を卒業してからも、勉強しようという人は原則として居ない。
音楽大学を卒業した事で、ライセンスが取れたと勘違いするのだよね。




音楽の表現
音楽の表現をするには、全ての要素が統合された状態でなければならない。


oberflachlich(表面的な、うわべだけの)
不誠実な演奏をしている人達の大半の演奏家が、自分がoberflachlichな演奏をしているとは思っていないのが、問題なのです。自分の演奏が、表面的な演奏であると思って演奏している人はいないのです。
それが、hypocrite(偽善者)の本来的な意味になります。



偽善的な
偽善的の言葉の意味は、勿論、表面的には、善良であるように見えても・・・実際には(本音では)偽ることを言う・・とされている。つまり、外面的には善い行為に見えても、それが本心や良心からではなく、虚栄心や利己心などから行われる事を指しているとされる。しかし、実際には、本人は善人で善行をしていると思い込んでいるのにも関わらず、無意識下で偽善的な行ないになっているcaseの方が多いのではないであろうか??

語源[編集]

英語のhypocrite(偽善者)はギリシャ語hypokrisis 「舞台の見せかけの役」から来ている。 英語hypocriteは「見せかけの役を演じる役者」という意味であり、行動が心の底からの行いではないので「偽善者」の意味になった。




大いなる勘違い

もし、企業の社長が自分の後継者を育てようと思ったら、
社長の後継者たる人間は自分で決断、決済が出来る人間でなければならない。
社長は、当然、様式で自分の後継者を育てあげる。

しかし、会社員所謂、サラリーマンは、違う。皆が各自自分の判断で動くと、統括した集団である会社は成り立たなくなってしまう。
トップダウンの忠実に命令に従うロボットのような(或いは兵士のような)人間が理想の人間である。
学校教育とは、その大多数の人間を育てる事に意義があるのだ。
だから、アスリートや芸術家や、学者のような人間を育てる事は出来ない。


音楽大学で教授が教授で有り続けるためには、常に生徒から尊敬され続けなければならない。そのためには、生徒が自主的に音楽を判断し理解し演奏出来るようになるとすこぶる困るのである。
Mozartのsonateを勉強するのだが、次の曲になるとまた白紙でlessonが始まる。
その生徒はその先生の門下生である事が余儀なくなるし、常に白紙から育てて貰えるのだから、感謝感謝でひたすら尊敬してやまない。
自分自身では曲を作り上げる事が出来ないのだから、当たり前の話である。

芦塚メトードで学んだ生徒達は、様式で学ぶ分けなので、ある程度まで、levelが上がると、先生に頼らなくても、自分である程度までの水準を保つ事が出来るようになる。そうすると、それを芦塚メトードの成果とは思わなくって、自分の才能、能力と勘違いして来て、先生に対しての尊敬の念が無くなって来る。
その後、ネームバリューで、有名な教授に師事すると、最初の半年ぐらいは、自分で水準を保てるので、先生も生徒も凄いという事になるのだが、やがて、その先生のsystemがそうなのだから、その生徒自身も、他の生徒達と同じように、新しい曲は常に白紙になってしまう。そうすると、やはり、その教授に依存しないと曲が作れなくなる。
だから、
「やっぱり、**の先生は凄い!!」と、尊敬してしまう。

宮本武蔵の五輪の書というのがある。武蔵の剣法の極意書である。文庫本で出版されているので、読むとよい。
pointになると、「以下、口伝」と、書いてある。
Beyer教則本であろうと、wien-philであろうと、その演奏技法に関しては書いてある書物はない。口伝は秘伝なのだから・・・。

日本人はソフトに関して、価値を然程見出さないのだが、外国人は違う。wien-philの人達がWien奏法というか、古典派の奏法を弟子に教える分けはないのだよ。そこまでは甘くないのだわさ!!
だから、日本人はWien奏法を知らない。でも、基本は、古典派の奏法なのだから、知らなくても古典派の奏法が出来ればWien奏法は出来るのだよ。それも様式なのだからね。