芦塚陽二のBeyer教則本manualについての

総括的な概論

index

Beyerと指導manualについて

[Beyer教則本の教則本であるための本来の意味] 

[Beyer教則本と指導manual]

[Beyer教則本はsoftではない。]

Beyer教則本に対しての批判

Beyermanual a la carte

曲の持つ絶対tempo

Alberti-Baßの奏法Ⅰ

Alberti-bassの奏法Ⅱ

Beyerのgrade

Beyerのgrouping

3度の練習について

Slurについて

Beyer教則本と暗譜について

A:練習番号付け

B:暗譜のmethode

Niveauについて


付録

Facebookより抜粋

 

                               本文

Beyerと指導manualについて

この小冊子は私の著書である「Beyer教則本研究」に対しての解説書ではありません。

あくまでも、「芦塚陽二著 Beyer教則本研究 全三巻」に対しての概要を説明した概論に過ぎないのです。


[Beyer教則本の教則本であるための本来の意味]

大元の『芦塚陽二著 Beyer教則本研究』は、全三巻からなり、第一巻はPianoを弾く上での姿勢やtouchについての、基本的な説明で、第二巻、第三巻がBeyer教則本のsystemの説明と各曲の指導上の留意点と、生徒が陥り易い間違いのpointと、1曲毎の練習方法を解説・説明をした膨大なBeyer教則本の指導manualとなっています。

これまでは、芦塚音楽研究所の芦塚methodeの骨子を為す指導の基本的なmanualとして、教室の指導者になる事を希望する生徒達に対してだけ、この教則本の指導manualによって指導・lectureをして来たのですが、教室でよく問題になる一つの一般の人達や、教室外の指導者達の大きな勘違いを正すために、Beyer研究のmanualの存在を一般にも、公開するために、Beyer研究manualの概論をhomepageに掲載する事にしました。

勿論、教室に取っては最重要なsoftなので、その全てを一般公開する事は出来ませんが、その一部だけを、公開して、Beyer教則本の指導上の難しさを指導者や子供を持つ保護者の人達にも理解して欲しいと希望する所です。

よく、一般の人達から勘違いをして思われる事があります。
それは『教室の生徒達ならば、芦塚methodeで学んだのだから、芦塚methodeでの指導が出来るハズである。』という勘違いです。

しかし、生徒達はあくまでも、『芦塚methodeで学んだ』のであり、『芦塚methodeを学んだ』のではないのです。
教室でPianoを学んだから・・と言っても、それで、Beyer教則本が構築しているmanualのsystemを理解している分けではありません。

逆の言い方をするならば、『Beyer教則本の論理的な構成を理解する事無く、Beyer教則本の指導が出来る』 分けは無いのです。

指導者ならば、誰しもBeyerの教則本を弾いて、模範演奏をする事は可能かも知れません。
しかし、そのBeyer教則本が持つ教則本としての価値とsystem上の難しさは、演奏をする事ではなく、そのsystemを学ぶ事であり、優れた指導者はBeyer自身がimageする所のforte-pianoの奏法のtechnicalな面を易しく、簡単明瞭に解説して自分のtechnikとして身に付ける事が基本なのです。

つまり、教則本の教則本たる所以は、Beyerの教則本の曲を弾けるようにする事が目的ではなく、そのtechnikを身に付ける事が目的なのです。
これはBeyer教則本に限らず、全ての教則本でも同じ事が言えるのです。

教室で多くの生徒達を指導しますが、子供達が曲を上手に間違いがなく弾けるようにするのは、簡単な事なのです。
正しい、姿勢や正しいtouch、曲の演奏法を身に付けられれば良いだけなのですからね??
しかし、「正しくPianoを弾けるようになったから」・・と言っても、その演奏法の原理が理解出来た分けではないのですからね??

[Beyer教則本と指導manual]

Beyer教則本が多くの人達に取って困難な難しい教則本であるのは、指導者側の責任であり、生徒はBeyerの意図したPiano演奏上のtechnikを身に付ければ、良いだけなのですが、当然、そのBeyer教則本の指導manualはありません。

Beyer自身が指導のmanualを後世に残した分けではありません。

Beyer自身が書いた自分の教則本の使用manual(所謂、取説) は出版された事はない。 勿論、Beyerが活躍していた当時から、Beyer教則本のmanualは公開されたことはなかったのだ。 ・・・という話をすると、色々な先生達から「Beyer自身が何故(どうして)、自分の教則本の「取り説」を書かなかったのか?」と尋ねられることがある。
しかし、それは、実に馬鹿げた質問である。

ヨーロッパの人達に限らず、日本人でも、昔の人達は自分のソフトに対して、かなり厳しく守っていた。
日本の伝統芸能に関する「一子相伝」とか言う言葉も、softを如何に大切に守り抜くか・・という姿勢の表れでもあり、当然、宮本武蔵の五輪の書の至るまで、多くの書物に随所に見受けられる、「口伝」という言葉にも、私達はsoftを大切にして来た日本人達の伝統を窺い(うかがい)知る事が出来る。

その大切な伝統が崩れ始めたのは、家元制度による教育や、学校教育の制度が根本的な原因となる。
家元制度でも、学校教育でも、お金を払えば学ぶ事が出来、一通りcurriculumをこなせば、それで卒業となる。
家元制度と徒弟制度とは何が違うのか??
それは家元制度は教養と嗜みの為に学ぶのであり、徒弟制度は商売として学ぶものであるからだ。
徒弟制度の場合には、技術力が水準に達しないと、免許を貰う事が出来ない。(これはEuropaに於けるguildの制度も同じである。)
学校教育に於いては、それが習得出来ていようが、いまいが、その時期が来たら卒業させられてしまう。(Europaの大学では、未だに教授の認可が無いと卒業出来ない。これは日本の大学とは根本的に違う。)


個人のソフトが社会的に財産として認められて、社会から守られ、著作者を保護するようになったのは、やっと21世紀になってからの事である。(しかし、中国などの文化後進国では、いまだにその権利が守られていない。)

そういった自分の開発したソフトを守られていなかった時代では、(BachやHaydnの作品にさえ、実は他の人の作曲のものが多数含まれている。)自分の権利であるソフトをしっかりと守るためには、他人を当てにしないで自分自身で守らなければならなかった。

その結果が「口伝」というsystemを産みだした。
そういった口伝の伝統は、今日でもヨーロッパ社会にはしっかりと根付き残っている。

・・という事で、Beyer自身が自分の教則本のmanualを残している分けではない・・・と言う事を確認しておきたい。

[Beyer教則本はsoftではない。]

もう一つ、世の中の人達がよく勘違いしている事があるのだが、『Beyer教則本自体がソフトである』という勘違いである。

教則本には、textとなる教則本と、それを使用するためのmanualが必要なのだが、Beyer教則本の本当の価値はBeyerが構築したmanual(所謂、systematicなtechnikの構成)の方にあるのだ。
一般のPianoの指導者は、教則本の価値は美しいmelodieにあるのだ・・とか、子供達の好きな曲を集めたものが子供達の興味を抱かせて、Pianoの技術の向上に貢献する・・・といった、誤った勘違いをしているのだよ。

別にBeyerだけに限った話ではないのだが、優れた芸術や科学におけるソフトは、それを保護すると言う意味で、殆どの場合、自分の愛弟子に一子相伝として伝えられていった。
これはこんにちの家元制度と同じである。(徒弟制度の場合には、働き手は1人でも多い方が良いので、一子相伝は有り得なかったのだよな?)

しかし、そういった一子相伝の技術は、その技術が時代を経るうちにそのうちにいつの間にか、その意味が取り違えられて、或いは技術そのものが忘れ去られて、型だけが相伝されて、本来の意味は全く失われてしまう結果となった。

そういった『失われた技術』の例は音楽に限らず、全ての芸術や工業的な技術にも数多く見受けられる。
そのよく知られている実例としては、絵画の歴史では、19世紀の後半から20世紀の前半の絵画の黄金時代に、スラーやマネ等の優れた画家達の手によって、そういった歴史上の大家(ダ・ビンチやミケランジェロ等)の作品が、詳しく分析されるようになって、その創作上の秘密の技術(構造式や数式等)が私達の目に触れることが出来る様になった。(勿論、その手法を駆使して、印象派の絵画が花開いた事は、周知の事実である。)

しかし、相変わらず職人芸的な闇雲の努力の蓄積だけに頼っている音楽社会の場合には、絵画や他の芸術に比べてそういった理論的な解析は遅れたままで、いまだに情緒的、感情的な解釈ばかりがまかり通っている。

勿論、私は『職人的な努力』を否定しているわけではない。
どのように勤勉な職人であったとしても、その勤勉性の中に、向上心とたゆまぬ研究心がなければ、それは論外である。

逆に言うと、どのように優れた職人であったとしても、温故知新の心がなければ、職人の技を持ち続ける事すら出来まい。

しかし、そういったたゆまぬ努力を怠って、闇雲な野狐的な努力をする人間が、先人達の古き技術をいたずらに批判し、その知恵を学ぼうとはしないのは、歯痒い限りである。

Beyer教則本の真価は、Beyer教則本が持つsystemと膨大なmanualを使いこなせての価値である。
どんな良薬であろうと、一つ使い方を誤ってしまうと、大変な毒になって、人を死に至らしめる。
この本に掲載されているmanualは、あくまでも私自身が研究し、解析したBeyer-methodeであり、当然、当たり前の事ではあるが、Beyer自身が書いたものではない。
しかし、子供の為の教則本を書いたPianoの指導者としてではなく、優れたPianoの教育者であったBeyerに真摯に立ち向かえば、子供達へのPianoの教育的課題は、なんの苦もなく解決されるであろうよ。

そういった、Beyerの持つ教則本的なmanualを何等理解しないままに、ただ批判だけをする似非音楽指導者が多い事には、辟易される。[1]

 

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Beyer教則本に対しての批判

私が音楽大学の学生である頃から言い続けていることは、批評家達が(勿論、個人的な批判は別としても)公開で何かを批判するときには、その批判されるものをちゃんと研究し理解してからでなければならない・・・、ということだ。

「Beyerは過去の教則本である」と主張する人は多い。
しかし、その人達が「これこそが優れた教則本だ。」と主張している教則本を、他の先生達が使用している感想を聞いたり、或いは私自身がその教則本を使用したり、その内容をcheckしてみたときにも、教則本的には一長一短があって、比較してBeyerほどは優れてはいない。

勿論、その中の何箇所かは、とてもよいものがあったとしても、教則本として一冊を通しで使うには不具合のほうが多すぎるのだ。
ということで、「Beyerは百害あって一利なし」とか、「Beyer教則本では3年遅れる」とか言っている人達が推奨している教則本は、20年30年経ってもいまだに定番にはなっていない。

私は、教室にやってきた若い先生に、Beyer教則本の中の1曲についてmanualを時々説明する事がある。
(何で1曲かというと、全部をちゃんと説明しようとすると、それを聞いている先生はカルチャーショックでショック死するからね!)

そうすると、みんな驚くね。
「Beyerって、そこまで深く考えているんですか?」
「こんな簡単な譜面なのに、そんなにいっぱいのソフトがつまっているのですか?」

その発想自体が根本的に間違えているのだよ。
「単純なものは、内容がない。」と考えるのは、愚の骨頂だよ。

私が師匠のGenzmer教授によく言われたことは、『simple is best』・・さ!
いつも「単純に物事を考えなさい。」と怒られていたよ。
だから頑張って、単純に作曲をして行くと、『これはkindereiだ!』と怒られてしまう。
だから、少し凝って作曲をすると、『これはkompliziert!だ!』と更に怒られる。
だから、ある時にGenzmer先生に言ったよね??
「先生の言っているeinfach(単純)とは、vereinfach(単純化)という事ですよね?
Genzmer先生更に真っ赤になって怒っていたよ!!
『Nein!Nein!!絶対にeinfachだ!!』って!!

子供の曲であったとしても、「単純なので、もう教える事がないのだ!」と思ったのならば、音楽の指導者はやめるべきで、そういう人は、演奏家に専念すれば良いのだよ!!

人生の道に外れた老人のpianistが古典派のsonateやMozartやHaydnの曲を卒業(?)して、初めてChopinの曲を先生に貰った時に、「やっとこれで無味乾燥な教材曲集から解放される」と思った・・と自慢げにNHKで話をしているのを見て、『この人の演奏だけは聴きたくないなあ??』と思ったのだよ。
世間一般では結構持て囃されている人なのだけどね??

歴史にしかるべく名を残す物はすべて単純なのだよ。
『春祭』やHindemithの無伴奏等の作品のsimpleな事・・優れた作品は全て単純なのだよ!!

相対性理論でも数式は単純明快!
Mozartも然り!

人々は「単純で簡明である」と言うだけで、「長い音楽の歴史の中で生き残ってきた教則本である」と言う重みを皆感じなさ過ぎるのだよ。
それだけの価値があったからこそ、百五十年以上の長い時間、たくさんの子供達に使用されてきたのだよ。

そこの所で、もう一つ勘違いをしていけないのは、それまでの長い長い時代にはたくさんの初歩の教則本が作られてきたと言うことなのだよ。

つまり初歩のピアノの教則本はBeyerだけではなかったと言う事だ。
私はBeyerと同時代やそれ以降の時代の数十冊にのぼる出版されている初歩の教則本を買い込んできて、実際に子供達に指導してみたよ。

やっぱり、Beyerと比べると、「帯び(たすき)」なんだな! これが・・・!
子供達を指導した経験もない、若い先生達が、未熟な指導力の中で、ただ単に「使いづらいから・・!」といって、Beyerを批判、評価されると困るんだな。

Beyer教則本の事を馬鹿にする人達には実に面白い共通点がある。

それはCzernyの教則本には絶対の信奉をしていると言うことだ。
私はCzerny30番やCzernyの小さな手の教則本までは、結構順を追ってきちんと指導するのだが、Czernyの40番等は飛ばしてしまう事が多い。
反対にCzerny30番を2往復したりして、intempoで弾ける様になるまで、指導する。
そうすると40番は必要なくなってしまう。
50番も全部させる事は無い。
40番、50番の必須曲を抜粋して、生徒の性格や相性、技術的な弱い部分をcheckして、クラマー・ビューローやモシュレス、モシュコフスキー、ヘラー、ケラー等のÉtudeを併用して使用する。
勿論、全部の曲ではなくその生徒に必要な曲を抜粋して練習させるのである。

しかし、Czernyの信奉者達はバックナンバーを全部順番にやらせないと気が済まない。要するに硬いのだね!

私は、その人達の事を「Beyer教則本の指導manualに関する研究は何にもしていないのに、批判だけをして・・・!!」なんて批判はしないよ!
・・・って、批判しているか??  ハッ、ハッ、ハッ!  

人が人を批判するのも、否、戦争が起こるのも、相手の事を知らない(知ろうとしない)事が原因である事が多いのだよね。
第二次大戦のときに日本では、敵性国語として、それまで使っていた外来語まで絶対的に使用させなかった。
うっかりと使おうものなら、非国民として官憲につかまった。マッチは西洋火付け木とかね。
しかし、敵国のアメリカさんは、日本人を徹底的に研究して、日本人の考え方を知ろうとしたね。
そこに大人の国と子供の国の差がある。歴史から言えばアメリカなんて全く若い国なのにネ。

それから30年近く経った今日でも、いまだにBeyer教則本は売れ続けているが、もうその「3年遅れる」の本や「百害あって・・」の本の事を知っている人は今ではもうまれだろうからね。
日本で活躍しているピアニスト達ですら、多くの人達は、Beyerの擁護者でもある。
それは、演奏家として活躍しているピアニストは、あくまでクラシックの演奏家であって、popularの音楽の演奏家ではないからだ。(popularの演奏家の話だったら、全く別の世界の話だからね。私の想定外の話だよ。)

Beyer教則本を批判する人達が言う事の定番は、「古臭いアカデミズム」ということである。

しかし、クラシックの音楽を勉強しようとするとBeyerよりももっともっと古い、BachやBeethoven等のそれこそ「古臭いアカデミズムの音楽」を学ばなければならないのだ。[2]

 

Beyerが「Étude臭い」という人もいるだろう。
しかし、音楽大学によっては入学試験にCzernyのÉtudeを試験曲にするところすらあるのだ。

音楽を本当に勉強しようとする人にとっては「古臭い」なんていうものは有り得ないし、Étudeの批判すらする事は出来ない。
音楽の専門的な勉強はÉtudeによって成り立っているわけだからである。

「Étude臭い。」といって嫌がるか、否かは、それは単にプロとアマの差だよ!
「古臭い」とか、「Étudeだ!」という批判がまかり通る世界、それはあくまでpopularの商業主義の世界の話である。
音楽を趣味として付き合っていく人達と、あくまで音楽を専門に勉強しようとする人達や、教養として勉強しようとする人達とは、「音楽に対する価値観」という意味において一線を画するわけである。
まあ、そういった意味合いも含めて、今現在、若い指導者達を中心にして流行している教則本の殆どは、アメリカの音楽教育の指導者を中心として作られている。(ヨーロッパ系の教則本はコダーイシステムや他の教則本もBeyer同様古臭いアカデミズムを踏襲している。
ピアノの初歩の導入のきっかけはどうあろうと、ちゃんとある程度上達したら、BeethovenやBach、Chopinの音楽に進まなければならないからである。)

 繰り返して言うがアメリカ系のピアノの教則本は、ジャズやpopular、或いは趣味としての音楽に進むのには支障がなくとも、クラシックに進むには、色々な弊害がある。それは作っている殆どの人達がEuropaの歴史的なrootsを知らない事によるのだ。
「音楽は弾ければ良い!」
という誤った概念に囚われているからなのだ。

しかし私が、それを否定する分けではない。
なぜならば、ピアノを学んでいる人達の90%以上の人達は音楽を専門に勉強しているわけではないし、また音楽の基礎教育を学びたいわけでもないからなのだよ。

popularの曲を弾ける事を目的としている人達の殆どが、今流行の曲が弾けさえすればそれでよいのである。だから譜面を読める必要も無ければ、正しい指使いを覚える必要も無い。そんなかったるい事は必要とはしていないのだよ。
趣味で音楽を勉強するのに何の制約もないのは、至極、当たり前の事である。

しかし、(例えそれがプロになるつもりは、もうとう無かったとしても、)クラシックの音楽を専門に勉強しようとすると話は違ってくる。
やはり、古臭いアカデミズムといわれようと、(私達はちっとも古臭い等とは思ってはいないのだが、確かに、百年、二百年前の音楽だからそういわれてしまえば、仕方がないかね??)

そう言った意味合いにおいても、私達の音楽教室はクラシックの専門の教室であって、例え趣味であったとしても、生徒達にもpopularの音楽を指導する事はないからね。(その旨は、生徒さんが教室に入会される時点で、私達の教室の意図を説明して了解を取った上で、入会してもらっているからだ。)

 

(「古臭い」か「古臭くないか」という感情論はさておいて)確かにBeyerには大きな欠点がある。
それは、「よい教則本である」という事は、とりもなおさず、習得が難しいと言う事であるからだ。

(但し、「習得が難しい。」と言う意味は「生徒にとって」と言う意味ではない。
あくまでも「先生にとって、指導上で・・」と言う意味である。)

私達の教室でBeyer教則本を使用していて、Beyerが嫌いだとか面白くないといっている子供にはいまだにお目にかかった事は無い。[3]

むしろ、子供達は逆に、当節の「popularの音楽はつまらない。」という。
幼い子供であったとしても、クラシックを勉強する生徒にとっては、当節のpopularはつまらないらしい。
それは音楽に対する根本的な価値観の違いである。

音楽が只の趣味で楽しい音楽であるというのと、音楽は自分の心の成長の糧であるという考え方では、価値観は相容れない。
当たり前の事である。
そのlevelでBeyerの批判をする事自体、馬鹿げている。

「Beyerが単なる指の練習曲である」と言ったり、「苦行である」という、くだらない馬鹿げた意見も、単にその先生の音楽に対する理解力と指導力の不足がもたらすものであり、「Beyerでは3年遅れる。」と言った人もいるが、私達の教室でBeyer教則本を修了するのに3年もかかった生徒は一人もいない。

一番早く終わらせた生徒のレコード保持者は、わずかピアノを始めて触ってBeyerの教則本を修了するまでに1ヶ月(4回のlesson)しかかからなかった。
これは例外中の例外であろうが、通常の生徒でも、早いペースで勉強してくる生徒は大体3ヶ月程度でBeyerの教則本を終了して、次のBurgmüller等の教材に進む。

(勿論、ピアノの進度は年齢にもよる。
就学年次以前の生徒(2,3歳の子供や幼稚園ぐらいの年齢の子供は、小学生の低学年、中学年の子供よりも、教則本を勉強するのに、少し時間がかかるのは当たり前の事である。)

いつもお話するように、教室では全く練習してこなくとも、先生が生徒を叱る事はないし、それで指導者が感情的になる事もない。
家で練習してこなければ、先生と一緒に教室で練習すればよいからだ。
全く練習してこない生徒であっても、それでもBeyer教則本を終了するまでに、2年以上かかる事は無い。
教室で先生と一緒に練習するだけでも結構うまくなるものだよ。


勿論、子供達がBeyerをそれぐらいの早さで勉強出来るのは、指導する側がBeyerのmanualを熟知しているからであり、そういった指導者の元で勉強しているという前提の下にである。
Beyerのmanualも知らないままに、あてずっぽうにBeyer教則本を使用している人にとっては、これほど難しく、無味乾燥で、面白くない教則本は無いであろう。

 

「Beyer教則本はつまらない。」 それは、Beyer教則本を批判している人達の言う事も、ある意味においては正論である。

この教則本を使用する上でのmanualの難しさ、それがこの教則本をして、無理解者を多数作る基となっている。

良薬は(良薬になればなるほど)口に苦し と言うところであろうか・・・?

あるmethodeが世の中に広がるための条件がある。
それは、それを学ぶ先生(指導者)達が如何に手軽にmanualを学べるかという事にある。
せいぜいone coursの講座(長くて1週間程度)でマスター出来る・・・という条件である。
しかし、本当によいmethodeは習得するのに何年もかかる。
今日日(きょうび)と言うか当節というか、そういったものは、最早、流行らない。
miserableな事だよな??

 

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Beyermanual」 à la carte

 

曲の持つ絶対tempo

先生が生徒をlessonをする時に、「生徒がその曲をどの速度まで弾けたら合格にするのか?」と言う事が、指導する先生の側でよく理解できていない事が多い。[4]

発表会直前にもかかわらず、非常に遅いtempoで弾いていたので、私が「この曲の目標tempoはこのtempoだよ!」と言って、Metronomtempoを指示したら、生徒はおろか先生すら呆然としていたことがあった。

つまり、先生が生徒に選曲をする時に、「その曲が本来持っているtempo(その曲の曲想が生かされるためのtempo)」を想定しないで、ただ単に譜づらの読みやすさや見せ掛けの譜面上の簡単さなどだけで曲を選曲して、実際に発表会やコンクール等で、大失敗している例は数多く見ている。

先生がそういった見せ掛けの簡単な曲を選曲して、「生徒がどれぐらいのtempoで弾けるか?」は、生徒自身の練習量や、出来不出来に任せる・・と言ったような、そういった投げやりな選曲は、私にとっては我慢の出来ない許せない行為である。

曲には本来、その曲がその曲であるための絶対tempoと言うものがある。
その曲の目標のtempoがその曲であるためには、その曲の持っているMetronomの絶対tempoよりも遅かったり速かったりしすぎたりしてはいけないのである。
そして曲自体が持っている絶対tempoの許容範囲はそんなに広いものではない。言い方を変えるとChopinのEtudeでも、非常に遅いtempoで演奏すればBeyerと同程度のmechanicalな曲になってしまうのだよ。
誰も、ChopinのEtudeを倍に遅いtempoで演奏させる指導者はいないハズである。
でも、それがMendelssohnの無言歌や、他の作曲家の曲となるとまかり通るのだから、驚きを禁じざるを得ない。


選曲は、本来その生徒の持っている演奏技術と、その曲の難易度によって決定されるべきであり、その技術の中には当然、その曲が持つMetronom tempoの範囲内である・・というMetronomtempoの課題も含まれるのだよ。[5]

子供達を指導する先生達が、発表会の曲の選曲として、最も気をつけなければいけない事は、発表会を聞きに来ている一般の人達は、その生徒の親や兄弟ではないのだから、「その曲の持つtempoでしか曲を聴こうとはしない。」、と言う事なのだ。
つまり、発表会を聴きに来る一般の聴衆は、自分の生徒の縁者では無いのだから、演奏する生徒に対して、先生や親や兄弟達のように好意的には聞いてくれないのだよ!

このお話は一般的な選曲に対してのお話なのだが、当然、Beyerを指導する時にも、その曲を合格とし得る『tempoの範囲』がある。

それはBeyer教則本のそれぞれのgradeには、そのlevelで演奏可能なtempoの設定が、下記のBeyergradeであるgroupingと整合しているからである。

例えば、第一stepである、1番から出て来るtempoの設定は、Moderatoから、Allegretto、Comodoと続く。
次の課題になると、逆に遅い歌い込みであるtempoに課題が変わる。決して、速いtempoに進む分けではないのだ。

32番からAndante、表情記号はlegato44番でsempre legato、61番で初めてdolceが出てくる。

58番でcrescendodecrescendoが出てくる。
ここまでの段階で、充分にPianoという楽器に慣れさせて、指を回す(速い指の動き必要とする)gradeに移行するのだよ。

次のgradeでは、速い指の動きが要求される。
速度標語は、次のstepである60番以降で初めてAllegro moderato6162番)・・・、でもAllegroでは無いという事に留意するべきである。
次のstepでは、
99番でAdagio,100番でAllegroの以上のtempo設定しか、Beyer教則本には出てこないのである。

(「出てこない」と言う言い方には、かなり語弊がある。
つまり、Beyerの段階ではそれだけのtempo記号を正しく認識できれば充分なのである。
それが総ての音楽のtempoと表情記号の基礎となるからだ。

この考え方はかなり重要な考え方である。
tempo(速度)にしても、forte、Pianoという音の強弱にしても、その表現には、絶対的な設定と、相対的な設定があるからなのだ。

相対的なtempoと言う事は、中々理解出来ないと思われますが、実際に子供がlessonや発表会等で、演奏出来る範囲内の目標のtempoを決めてlessonや練習に入ります。
lessonが進んで、その目標のtempoで生徒が楽に演奏出来るようになると、やがて不思議な事にそのtempoでは遅く感じるようになってしまいます。
proの演奏している曲を聴いても、結構ゆっくりとしたtempoで弾いているように思えるのですが、実際にMetronomでtempoを測ってみると、結構速いtempoで演奏しています。しかし、それがゆっくりとしたtempoに聴こえるのです。これが技術力による所の相対tempoなのです。
勿論、そのtempoで子供に演奏させるととんでもない事になってしまいます。
つまり、そのproの演奏家と同じ感じで演奏させるには、その生徒の感じる演奏tempoである必要があるのです。

強弱のforteやPianoも同じです。
BeethovenのPiano-sonateには、fortissimoが何回にも繰り返されて書かれている事があります。
それを先生に質問すると、「fortissimoで弾き続けている事を忘れないように(確認のために・・)」という返事が返って来ます。
しかし、それは大変な間違いです。
人間には、fortissimoを聴き続けるとfortissimoがfortissimoに聴こえなくなってしまう・・という感性があります。
静かさや 磐に染み入る蝉の声・・という有名な句がありますが、気が変になる程うるさい蝉の声だとしても、やがて気にならなくなります。
雨の音も電車の音も同じです。
人間には慣れる・・という特性があって、やがて、蝉が鳴いている事すら気にならないようになってしまいます。
人間の音に対する感性なんて、そんなものなのですよ。
先ほどのBeethovenのPiano-sonateでは、phraseを繰り返す度に、phraseでmelodieを表現するためのdecrescendoをして、次のMotivのinでまた新たに入りのfortissimoを演奏するのです。そうすれば、聴いている人達は、不思議な事に延々とfortissimoが続いているように聴こえるのです。
これが相対音量によるfortissimoの弾き方なのです。

また同様に、tempoにしても、絶対tempoと相対tempoの根本的な違いがあります。

tempo設定だけを、例に取ると、生徒達の技術力から、発表会での目標tempoを、課題曲の中の絶対tempoの範囲の中から選び出します。
練習はそのtempoを目標として、生徒の技術力の向上に、徐々にtempoをupして行きますが、生徒の技術力が上がる過程で発表会の目標tempoが遅く感じられるようになってしまう事があります。
これは大変喜ばしい事で、発表会tempoから演奏会tempoに変更する事があります。
発表会の当日にいきなり変更する事があるので、生徒達が「芦塚先生のtempoの設定は当日の芦塚先生の感情で決まる!!」とかもんくを言って来ます。
『発表会の当日に、いきなりtempoをあげる』と言う事は、そのtempoで生徒達が確実に演奏出来るという確信があるからなのですよ。
曰く、確信犯です。

相対tempoでも、相対音量でもそのtempoのmeasure(計測器)となる基準のtempo、基準の音量が必要となります。これは絶対音量であり、絶対tempoなのです。
音量の場合には、その基準となる音量はmfとなります。
touchで言うと0touchが基準となるmfになります。

tempoも同様に、moderatoやcomodoがその基準のtempoになります。
forteやPianoがそれを演奏する人の体格で決まるように、tempoもその人の持つ情緒で基準のtempoが決まります。
つまり、その人がmoderatoと感じるMetronom-tempoがmoderatoなのです。(都市伝説ではその人の脈拍がmoderatoのtempoという人もいますが、実際に確認をすると、それは都市伝説の範囲ぐらいの数字でしかありません。)

全てのtempoの設定は、正しいModeratoComodoを理解する事なしに、決められる分けではありません。
その人の基準のtempoの設定が無しに、Allegroの速度Andanteのtempo感が理解出来る分けではありません。

Allegro
はただ単に『快速に』のtempoではないし、Andanteは『ゆっくりと歩くようなtempoで』ではないのであります。[6]



よく先生や生徒に「101番や103番、104番等は、譜面(ふづら)がとても簡単なのに、何でこんなに後ろの曲のグループなのか?」と言う事を質問される。
その質問自体が、このgradeの課題の意図を理解していないと言う事を暴露している。
つまり、この100番代のgradeBeyerが意図した、このグループの課題は、指の早い回し(touch)である。
leggiero
touchで、よく粒をそろえて、速い速度で弾かなければならないのだ。


99番からの課題で、重要なpointは、99番にしても、100番にしても、102番、104番にしても、前半部がゆっくりとしたmelodicなpassageから始まります。子供達はゆっくりで弾き易いので、早めのtempoで弾き始めます。そして16分音符が出て来た小節で、指がtempoに付いて行かなくなって、突然その小節から遅く弾くという間違いを数多く見受けます。

絵がたくさん入っていて、とても可愛い教則本なのですが、Beyerの意図を図る事なく、音符の譜ヅラから101番を随分前のgradeに置いています。
しかし、101番は4分の4拍子なので、単位は4分音符が単位でなければならないのですよ。 
そうしないと、この曲は4分の4拍子にはならないのです。・・・と言うことで、あえてこの曲の4分音符のMetronomのtempoを指定してみると、Allegro moderatoというtempoの設定を無視位したとしても、この曲の左手のAlberti-Baßのtempoを考えると、Metronomのtempoは最低でも88ぐらいでは弾かなければならない。
そうしないと、13小節目からの左手のトリルが成り立たなくなる。


この曲の弾かれなければならない最低のMetronomtempoNiveauを88に設定して、それから徐々にtempo upしていかなければならないのだ。
つまり、この99番以降の一見するとゆっくりとした曲と思われる練習曲の課題は、指を速い動きで回す事なのだよ。

同様に、Beyerの教育的な意図を無視して、102番を8分の4拍子で弾かせる先生が多い事には辟易する。

譜例:

phrase感を生かして弾くためには、むしろ、4小節を大きな4拍子として取らなければならない。

譜例:

この曲も、dolceで揺れるようで流れるような雰囲気を醸し出すには、4分音符は(最低でも)100ぐらいでは弾かれなければならない。
そうしないと大きなphraseで曲を演奏することが出来ないからだ。
しかも8,9小節目や、16小節目からの16beatの元気で軽快な感じを生かすには、tempoの設定が遅すぎるとよくない。
一番多い間違いの弾き方は、この16分音符が出て来るpassageになった途端に、tempoが遅くなってしまう事である。
これは論外の間違いであり、指導者の指導力を疑わざるを得ない。
冒頭のゆっくりとした歌うtempoのままで、16beatの小節が演奏出来るように指導しなければならない。

つまり、力量不足の生徒が、この16beatの小節に合わせるために、4分音符が90ぐらいのtempoで演奏すると、その16beatの軽快さは死んでしまうのである。

譜例:

流れるように優美な感じと、元気のよい軽快な軽やかさが両方とも生かされたtempo・・・・、それは非常に限られた範囲のtempoの中でしかない。



[Alberti-Baßの奏法Ⅰ]


103番はアルベルティ・バスの課題である。
Albertiはイタリアの作曲家で(1717~1740)彼が独自に発案し多用した奏法によって、Alberti-bassという名がついた。

ピアノという楽器にとっては、非常に難しいテクニックとなる『同音連打』のテクニックは、逆に弦楽器や管楽器にとっては非常に簡単で、しかも演奏効果に富んだ奏法となる。

しかし、同じ事をピアノで真似をしようとすると、Czerny30番の28番で見られるように、楽に腕の力を脱力した状態で同音連打の演奏をすることは、上級者にとっても、非常に難しいtechnikになってしまう。
無理をして、強引に腕や手首に力の残ったまま演奏すると、最悪の場合は腕や指を痛めかねない。腱鞘炎を引き起こし兼ねない曲である。

譜例:Czerny30番No.28

勿論、この曲はBeyerよりも遥かに上のgradeになるので、Metronomtempoも早い。
beatであれば最低でも150では弾かなければ合格にはならない。

なぜならばM.M=150だとしても、付点4音符の単位では、50にしかならないからである。
ためしに、M.M=50で右手の和音を弾かないで、左手のmelodieだけを歌ってみるとよく分かるだろう。
M.M=50としても、非常に遅く感じるはずである。

では、左手が気持ちよく歌えるM.M50以上のtempoで、右手の和音を弾こうとすると、無意識に腕に力が入ってしまうであろう。
軽快な管楽器のような響きが出ないことになる。

Étudeとしての、難しさを承知で作曲するのはともかくとして、通常はそういった菅楽器や弦楽器特有の音の動きを再現するのはピアニスティックではない。
そのために、管弦の楽器にとって簡単な同音連度のpassageを、よりピアニスティックに簡単に演奏出来るように翻訳したのがItaliaの作曲家であるAlbertiが多用したと言われる、Alberti-bassである。 

譜例:Alberti-bassのもっとも有名な曲の例が次の曲である。

もし、この曲の原曲が弦楽器であったとすれば、Alberti-bassのチェロの譜面はこういうことになる。

譜例:


実際に、この楽譜をピアノで弾いてみると、左手の動きが何ともたどたどしい。
つまり、ピアノにとっては同音連打とはそんなに簡単な技術ではないのである。それを如何にも簡単に演奏出来るように、ピアニスティックに編曲したのがAlberti氏である。
そして、あっという間にその方法は世界の作曲家達に使われるようになった。

もし先程のBeyerの103番の原曲が弦楽四重奏だったとしたら、たぶん次のように書かれる。

譜例:

violinⅡとviolaleggieroで軽いstaccato(もしくはflying staccato)のような独特の弾き方で奏する。とても、軽やかな感じになる。
この場合、violinⅠのslurは、Beyerに書かれているslurは(phraseslurなので、)violin用には使用されない。violinの場合はあくまで、bowslurが優先するからである。violinⅠのbowslurは1小節単位か、2小節をone phraseで奏するのが普通であろう。

と言うことで、103番の場合にも、右手のmelodietempoを決める。dolceでゆっくりと歌ったとしても4小節が一単位(one phrase)なので、それが一息(non breath)で歌えるtempoでなければならない。

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Alberti-bassの奏法Ⅱ

また、ピアノでこの曲を演奏する場合、左手もAlberti-bassであるので、弦楽器のtremoloか刻みのように、非常に軽やかにleggieroで弾かなければならない。
その場合のAlberti-bassleggieroの奏法は、まず軸になる指を決めなければならない。
この音型の場合には、親指が軸の指になる。
軸指は力を完全に抜いた状態で、動かさない。
指の重みで少し鍵盤が沈む程度でよい。そして、5の指と3の指はleggierostaccatotouchで力を抜いたまま、指先だけで弾き(はじき)上げるように、軽く弾く(ひく)
練習の初めでは親指を弾かないで、鍵盤上に置いておくようにするとよい。
軽く弾いている間に、軸の反動で音が出始める。
あえて、音を出そうと思わなくとも、自然に音が出てくる事がアルベルティ・バスのコツである。


そういう風にして出てきた音は、右手のmelodieを邪魔しない軽やかな響きがするはずである。
もしビッコを惹い(ひい)たり、ガタガタと乱暴な音になったりするときには、どこかに不自然な力が残っていると言うことである。

 

譜例:

 

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Beyergrade

これはBeyermanualを読めば理解できるはずであるので、ここであえて書く必要はないのだが、Beyerの指導に行き詰まる原因は、Beyerがそれぞれをそのgradeの中のグループとして作曲されているので、その段階の技術やtempo感や拍子感、を確実にマスターしていかなければ次のstepには移ることができないはずなのである。[1]

日本では、色々な出版社から沢山のBeyer教則本が出版されている。
可愛い絵がふんだんに盛り込まれていて、絵本としてもとても楽しい。
と言う事で、私達の教室でも小さな生徒に対しては、そういったBeyerの楽譜を使用している。
しかし、Beyerの原典版で指定されている課題曲の配列をBeyerの指導上の意図とは無関係に単なる譜面(ふづら)の易しさで並べ替えると、指導上のgradeと曲の互換性がないままになってしまう。
それは校訂者がBeyerの指導上のmethodeを知らないための無知ゆえのミスである。
それは、音楽の指導者、教育者として許せない無知である。

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[Beyerのグルーピング]

Vorschuleのgradeでは、片手練習は教室ではめったに子供にはやらせない。
(私自身は長い指導者としての人生の中で、いまだに、実際に生徒に練習させた事はない!)
それこそ、私の「キリンさんの教則本」の方が、音楽的で楽しいし、拍子感を育てたり、音感やtouchの注意などにも使用できて良いからである。
同じ「ドの音」であったとしても、「楽しいド」、「悲しいド」、「うれしいド」、「優しいド」等、色々な音色があるはずである。
「ドの音」一つの音の出し方でも、子供に音楽性を身に付けさせる事が出来る。
そういった意味で、「キリンさんの教則本」を使用していただけるとありがたい。

同様にBeyer教則本も1番から11番までは連弾になっていて、先生の持って行き様では、結構音楽的に指導する事が出来る。
また、その一曲一曲に個性を持たせたMetronomtempoを設定する事が可能であり、指導上とても効果的である。

また、Beyer教則本ではピアノのフレーズ感を育成するのに、歌わせて指導をする事を基本としている。
しかし、Beyerの基本のフレーズは4小節単位である。
小学生低学年の子供達にとっては、Beyerの4小節のフレーズはとても長く、息が持たない。
小学校の中学年生でも、まだ4小節を一息に歌う事は困難なケースが多い。
だから、私の場合にはカンニングブレストと、本当の息継ぎのブレスを最初から指導する。
(カンニング・ブレスは(∨)と、カッコつきで表わす。)

また全てのBeyerの曲が歌いながら弾けるわけではなく、特に左手のパートはBeyerの後半の課題になると、(アルベルティ・バスになるので)歌えなくなってしまう。
だから50番台迄によく左手を歌う練習をしておかなければ、左手を楽に歌えるようにするための教材がなくなってしまう。

1番から2番までが第一グループであり、3番から11番迄で第一段階の連弾を終了する。

12
番からが本格的Beyermethodeの開始になる。

それまでの教材は、私達はvorschuleと呼んでいる。

12番から、31番まではドからソの鍵盤に対してのshiftである。

基本の型であるShift上の指の独立の勉強である。
16
番は反進行と斜進行の切り替えの練習である。
複音楽的な要素で両手の対等な進行がとても大切な要素となる。

17番はlegatoのトレモロである。滑らかに右手のmelodieを邪魔しないように、さわやかに弾かれなければならない。
決して、力いっぱい元気にガタガタと弾かせてはならない。

18番は左手の3度の和音が小学生以下の子供にとっては困難である。(指導者は、事前にそれを理解しておかなければならない。)

この段階では手は動かないので、打鍵の位置や手の型、姿勢等をこの段階でマスターしておく事はとても有意義である。

特に掌の中に卵が入るようにと言う意識付けBeyer64番までに終わらせておかないと、次のstepに入るとshiftの位置が移動するし、その次のstepでは指のくぐり(scale)が入ってくるので手の型(掌)が潰れやすくなってしまう。
(この段階では、逆に一度付いた手の型が、scaleの指のくぐりのために、潰れてしまって、壊れていくのを防ぐので必死になる方が多いのだ。)

 32番からは手の基本の型は、鍵盤上の何処の位置に移動しても型は変わらないと言う事を理解させるための課題である。
その課題も、44番、45番でBeyerの第一gradeは終了する。

46番からは6度の型である。
6度の型は基本の型の延長線上になければならない。

1の指をshiftして、残りの指を移動したものと、5から2までの指をshiftして1の指だけを移動するパターンで練習する。

48番では初めての付点4分音符が出てくる。

515354番では、octaveではない、position移動による(手の形を崩さないままの)octave移動が出てくる。
一般に言われている手を広げてとるoctaveBeyerには出てこない。

7度の型が出来ない子供が正しいoctaveを弾けるわけがないからだ。
乙女の祈りのように手を広げてとるoctaveは型ではないので、初歩の段階の教則本には出てこないのだ。

だから、指を伸ばしてoctaveを取らさせては、絶対にいけない!!!
Beyerの奥深いsystemから外れてしまう。

52番は初めての6拍子である。
59番の3拍子との弾き分け、或いは52番を3拍子で弾いて、59番を6拍子で弾くとかそういった弾き分けの違いを指導する事。
(まず先生が弾いて聞かせる事)
私の場合には、3拍子の時に、むしろ1小節毎にワン、ツウ、ワン、ツウと弾く。
これでは意味が分からないよな??4分音符を1拍にワンと数えるのではなく、1小節をoneと数えるのだよ。だから小節毎に「one、two、one、two」と数えるという意味なのだよ。
6拍子の場合には、2小節でワン、ツウと弾く。強の小節、弱の小節という言い方をする場合もある。
人は自分が弾いているよりも、小さく取ってしまうからだ。
その説明はBeethovenの第9シンフォニーやピアノ・ソナタの悲愴の1楽章の時にも、歴史に名を残す大作曲家はよくそう演奏している。(何故、そのように演奏したと言う事が分るのかというと、楽譜にそのように書かれているからだ。)

58には初めての膨らまし、crescendodecrescendoが出てくる。

59番では、中間部で複雑な(この段階では)フレーズを表現させる。
それが課題である。

60番からは、速いvorbereitの練習である。

61番は高い音の譜読みの予備練習とスキップの予備練習

62番は両手のすばやいvorbereitと、左手のleggiero(指の独立の課題)
この曲のvorbereitが正しく素早く弾けなければ、ブルグミュラーのアラベスクが弾ける事はありえない。

vorbereitの練習を一人でやるにはMetronomが必要なので、この段階までに一人でMetronomが使用出来るようになっている事が望ましい。

 65番からは、次のstepである。
scaleが入ってくる。打鍵の位置や手の型が再び確認される箇所でもある。

例: 打鍵の位置 白鍵のみの打鍵の位置   と      黒鍵を含んだ打鍵の位置

      

 

3度の練習について

68番、69番、70番、71番、72
正しく、力を抜いて速度でtouchをしている子供にとっては、68番以降の3度(特に左手の3度)を滑らかに自然に弾く事は至難の業である。
それは、子供の基準となる手の重さや、力を抜いて脱力した状態の指先の力(重さ)がピアノを弾くのには充分ではないからなのである。
ピアノはヴァイオリンと違って、子供用の分数のサイズがない。
また、ヴァイオリンはサイズが縮小すると力も比例するので問題はないが、ピアノの場合にはサイズが縮小したからと言って、touchに必要な力が減るわけではない。[2]

73番(vorbereit7度の型、半音階、同音連打、臨時記号)これだけの課題が一曲の中に!!

74番指回しの練習曲です。Moderatoの美しいmelodieは右手で左手はかなり速い速度で弾かなければならない。(同音連打)トリオーレンのスキップ練習基本の3パターンの練習、melodieが右手、左手に変わる。
同じmelodieがフォルテとピアノで弾き分けられる。等!

75番左手の231の指使い

7635を広げる。

78番軽快な6拍子と左手の5の指のshift(延ばし)の練習、2小節単位のフォルテとdolceのコントラスト(弾き分け)同音連打

[80番から83番へ]

80番、81番はかなり難しい。
ワルツではなく、もっと素朴なländler(レントラー)です。
左手はleggiero3拍子(ワルツはBeyer以降の時代です。)80番は前打音と膨らましながらの半音階2octaveの飛ばし。


81番の課題は同音連打と半音階、auftaktによるverschobene Takt(推移節奏)と中間部の1拍目からのrhythmの、すばやいリズムの切り替え。

82番もmelodieauftaktで始まるのに、左手は拍頭からのrhythmで、verschobene Taktな感じがします。しかも、指を潜らせながらのoctaveのすばやい移動という難しい課題です。

この3曲が完全にintempoで間違いなく弾ければ、ここまでのBeyerの課題は合格である。
もし弾けなければ、前の指導上の問題点があると言う事だ。

実は、ピアノを学び始めた子供達の90%近い人達が、この3曲に引っかかってしまって、ピアノを挫折してしまう難関の曲なのです。
私は生徒がこの3曲を1月かかっても終了させる事が出来なければ、保留合格にして、先に進みます。
そしてBeyer教則本を終了した時点で、保留合格の曲だけをすべてやり直させます。
その頃は難しかったBeyerの難曲ももう弾ける様になっているはずですから。

これ以降の曲はBeyerの総まとめの曲で、曲としての表現や、速度と指の粒粒の滑らかさが課題です。

それらがちゃんと弾きこなせていれば、問題なく、次の課題であるブルグミュラーやCzerny30番、Czerny小さな手のための25の練習曲等々に進む事ができます。

 

88899091番、93番、98100102104番等にも、それなりの課題が含まれているのだが、あまりにも長文の論文になってしまうし、殆どがBeyer研究とダブってくるので、簡単に説明するだけにしておく。

[Slurについて]
Slurにはphraseを表すためのslurと、articulationを表すための、(所謂bow slurと呼ばれるもの)がある。

Beyer教則本の場合には、88番までは音楽表現の基本であるphraseを表すslurのみが使用されているが、89番以降はPianoの演奏技術の表現を表すための、articulation slurが数多く使用されている。

譜例:

89番歌詞

 

90番は抜きを表すためのslur、正しい同音連打の弾き方、繰り返しの後に出てくるホルン5度等、曲は比較的簡単なのにそれに用いられているテクニックは相当なものである。それらを正しく弾き表すには、それまでの技術を相当しっかりと身に付けておかなければならない。

93番のAgogik(緩急法、フレーズ法)を表すslur、98番ではverschobene Takt(推移節奏)と手首の抜きのstaccato等々、優れたrhythm感が的確に養われているかのcheckが入ってくる。

1790年代になってやっとforte-pianoCembaloに取って代わるようになって、次にforte-pianoから、やっと今日のdoubleactionPianoが開発されようとしていた当時に、まだまだ革新的であったdoubleactionPianoの色々な奏法の技術を、これだけ簡単な初心者用の教材によくもまあ色々な盛り込んだものである。

Beyerの、当時としては最先端であったPiano奏法の技術への知識と理解、それをPianoを学ぶものに指導しようとする意気込みが、ひしひしと感じられる。

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「Beyer教則本と暗譜について」

A:練習番号付け

練習番号は、Violin等のPiano伴奏を伴う曲や室内楽、orchestraの曲、・・つまり、複数の人数で演奏する場合の曲に対して、あらかじめ出版社が印刷された楽譜上に、練習番号を付けているのが普通である。

しかし、その場合には楽譜を校訂をする人の専門の楽器を中心にして、練習番号が付けられる事が殆どなので、それ以外の楽器を弾く人達にとっては不本意である場合が殆どなのだ。

また、orchestraの曲の場合には、proの演奏家達を対象にしているので、練習番号が大幅であり、難しい所の抜き出しの練習には殆ど役に立たない。

また、それぞれのpartの人達が各自、練習番号を付けても、それを纏めるのには途轍もない労力を要する。

教室で室内楽やorchestraの練習をする時に・・、或いは、ViolinやCelloの伴奏合わせをする時にも、先生達が練習番号を付けるのだが、その手間が非常に大変な時間と労力を要してしまうので、先生達の負担になってしまっている。

芦塚メトードでは、色々な勉強が複雑に絡み合って構成されている。
一兎を追うものは、二兎を得ず・・という諺があるが、私の場合には逆の発想で一つの勉強に幾つ多くの事を学ぶ事が出来るのか??・・・つまり、一石二鳥ではなく、一石二鳥が三鳥にも、四鳥にもなる事が出来る・・というのが私のmethodeである。
・・・という事で、その一つの例が、私の『練習番号付け』のmethodeである。

私はよくorchestraの指導の時に、練習番号付けをorchestraや室内楽に参加している生徒達に楽譜を渡した時に、その譜読みの宿題として『練習番号付け』を課題として渡す事がある。

そう言うと、殆どの人達からは「そんな事が出来るのか?」「皆、ばらばらに付けてくるので、役に立たないのでは?」「練習番号を纏めなければならないので、一手間どころか、仕事が逆に増えて、大変なのではないのか?」という疑問が返って来るのであろう??

しかし、これが違うんだな~!?
全員が同じ回答になるんだよ!!

練習番号を演奏上の難しい所のpickupとして捉えると、各partの人達が各自の練習番号を付けて来るので整合性が無くなってしまう。
しかし、そこに発想の転換を入れて、音楽形式分析という課題にしてしまうと、一つの答えしか出なくなるのだよ。

その大きな構造式にツリー構造による更なる練習番号を付けて、更に・・・と分析がMotivになるまで、繰り返せば良いのだ。

Vivaldiやcorelli等のbaroqueのconcertoの場合には、音楽形式はritornello形式(循環形式)なので、Locatelli 等の多くのbaroqueの作曲家達は、themaを単純に繰り返すだけで、soloのpartはその都度Sequenzを使用して作曲するので、構造式としては、A+あ+A+い+A+う+A・・・etc.etc.という事になる。

Vivaldiの場合には、themaであるAが繰り返される毎に小さな変更を伴って反復されるので、Vivaldiのconcertoの構造式は、A+あ+A2+い+A3のような構造式になる。

勿論、themaであるAはそのAの中で、より小さな単位のphraseに分かれる。大きなAの階層(大項目)から、次の階層(中項目)aの階層に分かれて行く。更に、aの中項目の階層は、更に小項目の階層に分かれて行く。「あいうえお」の階層である。更に小項目から次の階層のphraseの階層、またはMotivの階層に分かれて行くのだよ。

そうすると、どんなに膨大な曲であったとしても、最小のphraseの単位、Motivの単位は、2,3小節ぐらいの単位になってしまうのだよ。

これは抜き出し練習をするための練習番号としては、すこぶる便利であり、実用的でもある。

構造式のツリー構造は次の時代の古典派の時代やロマン派の時代に至っても音楽形式学的には何も変わる事はない。

次に、古典派のSonate形式を例にとって説明すると・・、

全てのsonateはsonate形式である以上、提示部、展開部、再現部の三部に構成されている。(長大な曲では、その後に、Codaの展開部が来るかもしれない。)

いずれにしても、それを練習番号付けすると、A、B、C(=A)、となる。
ABAの構造式なのだよ。
勿論、Coda部を入れるとC(=Coda)がプラスされる。
所謂、これが大項目になる。

次には、Aの内部の中項目であるが、Aの提示部は第一主題の提示と展開、第二主題の提示と展開、まとめの部分の三つの部分で構成される。
それが次の下の階層(所謂、中項目)である。

本来はaとすべきなのだが、一々「スモール・エー、スモール・ビー・・・」なんて言えないから、私は練習(lesson)の都合上、[あ]と表記している。A[あ]であり、A[い]となる。

次に第一主題の中を更に、節に分類していく。
それは数字1,2であり、更に細かく分類されたものは丸付き数字①、②で表す。つまり、A[あ]の1であったり、丸付き数字の1といったりする。
練習をする時には、一々A[あ]の1の丸付き数字の・・・なんていう言い方はしない。
だって練習している所はA[あ]の中のpassageなので、そこまでは省略出来るからなのだよ??

これは構造分析なので、どの生徒が番号をつけても、(最初の階層で使用する文字を定めておくと全員同じ回答になってしまうのだ。)

だから、私がオケ練習で生徒の前で練習番号付けをする必要が無くなり、練習時間や余分な(不要な)エネルギーの節約にもなる。これも芦塚メトードの時短の法則の一環である。

「・・・で、これが暗譜のmethodeと何の関係があるのか?」って??

それは歴代の作曲家達の偉大な所なのだよ。
Vivaldiの暗譜のmethodeは、現代の心理学的な記憶のmethodeに通じるのだよ。
記憶をより正確にする事は、細かい違い・・、Genzmer先生の作曲用語で「kleinigkeit」と呼んでいるのだが、ほんの小さな違いを覚える事が、A⇒A⇒A・・と演奏するよりもより正確な演奏が出来る。AとAが全く同じLocatelli 等の場合には、練習は省略出来たとしても、soloの生徒が、どのVariation(ritornello)を弾いているのかが分からなくなって、次のsoloを迷走する事があるのだよ。

Vivaldiの場合には、同じthemaAは二度と出て来ないから、暗譜が正確でないと、演奏する事は出来ないのだよ。
これは、現代の最先端の記憶法と全く同じ方法論なのだよ。
さすがは、Vivaldiで素晴らしいのだよな??

ロマン派の時代に下れば、構造式はもっと簡単になるのだよ。
例えば、Chopinのワルツやスケルツオはその殆どが、A,B,A、Codaの構造をとっている。しかも、Chopinの場合にはAの中も、さらにa,b,aの構造をとっていることが多いのだ。

と言う事で、生徒にChopinのscherzo等の、8Page以上もある長大な曲を、一月後の発表会の課題曲として出したら、生徒が「先生、こんな長い曲は、とても一月の練習じゃぁ、間に合わないよ!」と言って来ても、「だって、このPageとこのPageは同じで、このPageとこのPageも同じなら、正味3Page練習すればよいんだよ。」と説明すると、「何だ!3Pageか!?」と言う事になる。
そしてちゃんと暗譜で、弾けるんだよね。これが・・・・!
だって、同じ繰り返しならば、練習する必要はないだろう??生徒が自分で「ここでAに戻って・・」と確認すれば良いだけなのだから・・

 

B:暗譜のmethode

100里の道も一歩から」と言う事で、その構造分析や暗譜のmethodePianoを学び始めたBeyer教則本の1曲目から始まる。

教室にやってきた先生に「Beyer教則本を構造分析して、構造分析による暗譜を生徒に指導してください。」と実際の譜例をあげて説明してお願いした。

その先生は「Beyerぐらいなら、構造分析などしなくても、34回も練習すれば、覚えられますよ。」

と言って構造分析を生徒の前でする事を拒んだ。

幾ら、Beyer教則本がABAで出来ているからとって、子供に構造分析的に直ぐに覚えられるわけではない。

要するにめんどくさいんだね。

その先生に「Beyerは、必ず全曲暗譜してください。暗譜しないと、生徒の手の型や指使い等のcheckが出来ませんよ。」と言ったら、「Beyer106曲もあるので、とても覚えられません。」と来た。

だから「Beyerの曲が106曲あったとしても、音符の数は、Chopinのバラード1曲分に使用された音符の数にも満たないでしょう?」と言ったのだが、憮然として納得しなかった。

 

video-lessonでのPianoの生徒なのだけど、発表会の前日に、突然、先生からオケにCelloで参加するように言われた生徒が、寝っころがって譜面を「フン、フン」と言いながら、読んでいて、(一度も楽器を弾かないままに)当日、暗譜でノンミスで演奏しているのを見て、その生徒のお母様もPianoの先生をしているので、「私にはあの真似だけは出来ないわ!」と驚嘆されていました。「なんで楽譜を見るだけで、一度も楽器を弾かないで、ノンミスで演奏出来るのだろう??」と、自分の子供なのに、不思議な顔をして見ていました。

教室では、中、高生の先輩達に本番直前でトラを要求する事がよくある。
生徒数が少ないせいなのだけど、その時に、よく先生ともめるのは、「楽譜持っているでしょう??」と言うと、「俺、一度もこの曲をlesson受けた事もないよ!楽譜も貰っていないよ!」という話になる。それなのに、他の生徒のlessonを見ているだけで、指使いやbowingも完璧に演奏してしまうのだよ。
それでも、その生徒がGiftedという分けではなく、音楽が趣味の一般の生徒なのだよ。
つまり、百里の道も一歩から・・という事で、Beyer
の単純な構造分析的記憶法が、積もり積もると、人のレッスンを見ているだけでその曲が弾けたり、譜面だけで暗譜して演奏出来たり、と言う事が当たり前に出来るようになるのだ。
しかし、人は他の人が出来る事をうらやましがるだけで、初歩の初歩を練習を積み重ねる事はしない。

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「Niveauについて」

発表会を一月後に控えた頃、internの若い先生から、「生徒が曲を暗譜して、間違えなく弾けるようになったので、これ以上指導することがなくなったので、合格にしてよいか?」という相談を受けて、先生に対して大説教をしたことがある。
それは、私は自分の生徒達には「暗譜が完璧に出来て、正しいtempoで、正しい強弱をつけて弾けるようになってから、初めてlessonが始まる。」と常日頃から教えているからだ。

つまり音楽はただ単に「機械的にミス無く弾ければよい!」というわけではない。
音楽とは「表現」なのである。
上手に表現するには、その前にPianoが楽に弾けるようになっていないと、なかなか上手には表現の演奏が出来ない。


どういう音で、どういう揺らしで、どういうtouchで、両手のバランスは、手の動きは、姿勢体重の移動は、そういったすべての要素を上手くコントロールできるようになったときに、初めて音楽表現が上手く行く。
Pianoの技術が向上して、ChopinDebussy等の作曲家の曲を演奏出来るようになったときに、その音楽を上手に演奏していくためには、Beyer60番ぐらい以降の課題曲では、「音楽表現」という課題を盛り込んで、教材を指導していかなければならないのである。


つまり、指導者がBeyerBurgmüller等の教材を指導するとき、ただ単に「間違えなければよい。」 「曲をちゃんと覚えていて、暗譜で弾けたので、それでよい。」といった低levelの水準で指導していると、生徒を何年指導していようと、生徒が上手になることはないのだ。
どんな易しい簡単な技術levelの曲であったとしても、そこにNiveauを追求する姿勢がなければ、子供がすくすくと伸びることはないのだ。

発表会とか、コンクールとか、があるから、それを目的として生徒に水準を求めていくことも、一つの方法ではある。
評価が一般的であり、levelが素人目にも分かり易いからなのだよ。

しかし、こういった競技的な音楽へのapproachは、失うものも多い。

本当ならば、普段の何気ないlessonの中で、常に生徒の目標とする曲の合格の最低ラインの水準を引き上げる事、そしてその引き上げられた水準を常にキープさせることが、子供を一番早く上達させる方法であるのだが、その方法では、子供達の成長の過程は保護者達、音楽へのamateurの人達に取っては分かり難い。


また、日頃のlessonとして・・・と、こういう風にいうと、全ての曲を、事細かく指導しなければならないように思い込んでしまって、「大変だ!」と大騒ぎする先生達がよくいる。

しかし、子供達が指導されている一つの曲を、自分の力で正しく演奏出来るようになると、子供達は次の曲からは、その水準までは、自分だけで(先生の力を借りなくても)持っていくことが出来るようになる。
つまり、生徒が初めて練習を自分でして、持って来る曲のlevelが上がるのだよ。

それを子供達が自分の身に付ける事が出来た『Niveau』 と言う。

だから先生は、生徒に対して、最初のlevelからではなく、その次のstepから指導出来るので、結果非常に大きな時短になるのだよ。
先生に取っては、生徒が上達すればするほど、指導が楽になる・・・・と、言う事よりも、次の課題をlectureして指導しなければならないのだがね。(初歩の指導はなくなると言う意味)

しかし、もし指導する先生の目標が「間違いなくて弾けるようにすること」であったなら、その曲が上手に発表出来たとしても、次の課題を貰った生徒達は、やはり、最初の段階からのlectureとlessonを受けて、先生の手助けを受けながら、やっと間違えなく弾けるようになる、という事の繰り返しになってしまう。

子供のNiveauは先生自身が持っている音楽へのNiveauと、教材研究の力(水準)で決まるのである。

生徒が曲を間違えないで弾けたから、指導する内容がもうない・・のならば、ピアノを指導すべきではない。
子供達がそれ以上、上手くなる事はないからだ。

例え、どの水準(grade・step)であったとしても、(・・例え、それが初歩の初歩のgradeであったとしても・・)、先生に教える内容がなくなったとしたら、その時点で、指導者である事はやめるべきである。
私のadviceとしては、それを指導してくれる先生に師事するべきだよな??(もし、そういう先生が見つかれば・・という前提はあるのだが??)

2009年7月1日脱稿
     東京 江古田の 寓居にて
一静庵 庵主
一 静 庵 寂 鬱

 拝

Facebookの抜粋のページに続く(脚注の下のPage)



[1] ちなみに、Beyerの学び初めの段階では、Metronomtempoを指定してlessonをするのは困難である。Metronomの使い方は、それなりにちゃんと指導しなければならないからである。日本の音楽大学の学生達も一度もMetronomを使用した経験が全くない生徒も多く見受けられ、そういった生徒はMetronomtempoを合わせることが全く出来ない。ましてや、Pianoを学び始めの子供にとっては、Metronomにあわせられなくとも、至極当たり前のことである。そのためにそういったPianoを学び始めの子供達のtempoの設定は、一つのフレーズを一息で歌えるtempoとすればよい。(初歩の間はPianoを弾きながら、右手や左手を歌わせる指導をするとよい。)Beyer教則本では、基本の4小節がone phraseである。例外的には30番、46番や等のauftaktphraseに限定されている。

[2] このBeyer(1803~1863)教則本が書かれた時代は、非常に軽いleggierotouchsingleactionforte-pianoから、現代の非常に重たいdoubleactionPianoに移行する時代でもあった。Chopinが好んで弾いていたプレイエルピアノも、現代風なdoubleactionではなく、touchの非常に軽いsingleactionforte-pianoであった。

Beyerが教則本を作った時代はどの時代であったかは、知る由もないが、いずれにしても、過渡期のdouble actionPianoは現代のグランドピアノとは違って、touchもまだ非常に軽やかで子供が弾いたとしても、そんなに無理はなかったと思われるのであるが、現代のGrand Pianoでは体重や筋力の足りない小さな子供が演奏するのは、殆ど不可能に近い。



[1] もう、30年近くも前の事になるのだが、今も有名な音楽コンクールを主催している人と、Beyer教則本の優位性について話したことがある。(その人は有名なBeyer批判論者だったからだ。)その時にはその人は私がBeyer教則本の擁護者と言う事を聞いた段階で、頭から古いtypeの先生と言う事で馬鹿にして、最初から私のBeyerについての話を全く聞こうとはせず、まあ、その先生としては精一杯の好意なのだろうが、「自分が刊行しているピアノの先生に向けての冊子があるので、それにBeyer教則本のmanualを載せてみたら?」と言う話を受けた。勿論、原稿料はなしで・・だそうな! 勿論、断ったけれどね。  つまりその先生に限らず、日本人のソフトに関しての意識はその程度なんだよね! 文化というものを大切にしない国民の意識は・・・!

[2] もっとも、私達の教室では先生方にもっと古い時代の音楽、BiberSweelinckなどの多くの作曲家の作品を研究させて、多くの演奏会でCembalobaroqueviolinなどで演奏させている。古きを知る事が、今を知ることだからである。それは過去の偉大な作曲家達が(Bachを初めとして、List BrahmsSaint-saëns等が)過去の作曲家の優れた研究者である事を知るとよい。BrahmsCouperinPieces de Clavecinの校訂者で知られているし、ListBachの初めての作品番号の校訂者であったという事も知られている。所謂、BWVBach Werk Verzeichnisバッハ作品目録)を作った初回の研究者の一人でもあったのだ。 Saint-saënsRameauの研究者、校訂者でもあるんだよ。枚挙に暇がないとはこの事かな?少なくとも彼らは過去の作曲家の誰に対しても古臭いという言葉は使わなかったのだよね。

[3] 下記の文章はピアニスト神谷郁代さんのエッセイ「生きているピアノ」(東京音楽社)からの抜粋である。  

「ところで最近、小曲の中にも、それから子供達が、毎日練習する練習曲の中にも、素晴らしい曲があることに改めて気がついた。それらはBeyerBurgmüllerCzernyなどの中にあり、短い曲では数小節、長い曲でも数ページなのであるが、珠玉のように輝いている。」

[4] 勿論、「どの段階で・・」という判断基準は、子供の技術上のlevelによって変わる。ここでのお話は、まだPianoを学び始めたばかりの初心者に対して、(Beyerの前半のlevel)お話をしている。このお話の最後のページに同じBeyerでも、後半のlevelの生徒に対しての、もう少し高度なgradeの曲の合格ラインについて述べている。

Niveauについて」 参照

[5] 私がよく生徒に冗談で言う言葉がある。  

ChopinÉtudeだって、ゆっくり弾けばBeyerと同じlevelになるのだよ。」

[6] 先日、他の用事で近所の楽器店に行って、何気なく本を手に取ったら、非常によい本にめぐりあえた。「これで納得!よくわかる音楽用語のはなし」全音楽譜出版社  勿論、まだよく目を通したわけではないが、私がいつも生徒に話ていた事が多く書いてある。


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Facebookより抜粋


『Beyer教則本はつまらない』と言う人達がいます。

pianoを学び始めようとする子供達や初心者の人達の多くが学ぶBeyer教則本なのですが、「Beyer教則本を子供達のlessonのtextとして使うのはつまらないし、難しいし、無味乾燥で面白くない」・・という人達が結構います。

こんにち、Beyer教則本に変わる教則本が多数出版されているようなのですが、curriculum的には未だにBeyer教則本に勝る教則本は無いと思います。
Beyer教則本はPianoがforte-pianoから現代のPianoに変わる時期にいち早く作られた教則本であり、長い歴史上で淘汰されて生き残って来た教則本でもあります。

という事は、取りも直さず、「良薬は口に苦し」・・という分けではなく、幾ら良い薬であったとしても、良薬も使い方を間違えると毒薬にもなりかねないのです。
良い教則本になればなる程、その使い方は難しくなって来て、その指導法には多くを謙虚に学ばなければなりません。
多くのPianoの指導者達は、Beyer教則本を当然弾ける分けなので、そのBeyer教則本の持つ意義と意味を制覇出来たと勘違いをしています。Beyer教則本は初歩の教材なので、或程度Pianoを齧った人ならば、弾けるのは当たり前なのですが、『弾ける』という事と、その曲の持つsystemを理解するという事は全く別の事である・という事を理解しようとはしません。

子供達がBeyer教則本を学んでPiano奏法の基本を学ぶ・・という事、・・それはその教則本が持っている論理性と構築されるsystemに拠るのです。

しかし、残念な事に、教則本の書かれた歴史上で、色々な優れた教則本が作られて来ましたが、Czernyの教則本やClementiの教則本を始めとして、名著と言われる教則本でも、その教則本を作った当の本人からの教則本のsystemの解説書(所謂、manual)のようなものは全く書かれていないのが現状です。

それは、宮本武蔵の五輪の書のように、肝心要の所になると、「以下口伝・・」と記されているからです。
つまり、直弟子で免許皆伝にならないと、そのhow-toは教えて貰えないのですよ。

Pianoを学ぶ人達の一番最初の教則本であるBeyerの教則本ですら、技術は緻密にpyramidのように、grade(若しくはstep)で、段階的に、実にsystematicに構成されています。
歴史に淘汰されて生き残った物にはやはり、確固とした論理性とsystemに裏付けられたそれ相応の価値があるのですよ。
Beyerを弾けたから・・といっても、Beyerを理解した事にはならないのですよ。

それが日本人が音楽を学ぶ上での、sonatineやsonateの理解でも同じなのです。歴史的に正しくその音楽を理解したとは言えないのですよ。

Europaのtraditionalを学ぶ上での難しさは、個々の技術をclearしたとしても、step上にその技術が構成されているからなのです。
つまり、一つの技術の上に次の技術が成り立つのです。

「弾けない」・・という事は、その弾けない箇所そのものにその原因がある事は寧ろ少なく、その前のgradeをちゃんとmaster出来ているか否かに原因を見出す事の方が多いのです。

それを逆の言い方をすれば、「弾けない」箇所の、その前のgradeをしっかりと押さえすれば、難しい技術を習得する事は、なんの苦労も必要はない、いとも簡単な事になるのです。

日本の音楽教育、音楽の指導に関しては、その技術がstageで、stepで、gradeで入って来た事はありませんし、そのように指導する指導者は皆無と言っても良いようです。

日本の音楽教育では、その曲の難しいpassageのtechnikを、そのpassageで指導しlectureします。
その技術を、その技術単独に学ぶ事は非常に難しいのにも関わらず・・です。
それが、一般の人達にとっては『音楽は難しく、芸術は困難である』というimageを与えてしまいます。
音楽の道に進める人達は、その非常に困難な道を忍耐力と克己心で歩んで来た人達だけ・・というprideなのです。
音楽が好きで堪らないから・・という人は、極めて少数派の人達でしょうね??

芦塚methodeの場合には、若しも弾けないpassageがあったとすると、その前のstageが出来ているのか??その前の前のstageはmaster出来ているのか??・・と、順番にpyramidを下って行って、弾けない原点の場所を探します。
当然、前のstageなので、習得もより簡単になりますし、しかも復習になるので、難しさは半減します。
やり直しをする事に異存がある訳はありませんよね??

そうして、その間違いの原点となるpointを抜き出して練習をすると、なんの困難もなく、今直面している「難しい」というpassageをいとも簡単に弾き熟す事が出来るようになります。
という事で、『音楽の技術を習得する事はいとも容易い』という事なのです。

それは音楽の技術をその技術そのもの、としてではなく、systemとして捉えているからなのです。

難しい技術を習得する事が出来ると、たったこれだけの事で、所謂、日本人が言う所のprofessionalには、技術的にはいとも簡単に到達する事が出来ます。
しかし、音楽の世界で働く事は技術だけをclearすれば良いという分けではありません。
これは、一般社会の就職活動と同じなのです。
一般の就職活動では、幾らITの技術を持っていたとしても、それを一般の会社にappealしていかなければ、自分の望む会社に入社出来る分けではありません。
それなのに、日本の音楽家達は一生懸命技術さえ磨き上げれば、マスコミや音楽界からお誘いが来るようになる・・と有りもしない現実を信じているのですよ。
自分の事を知りもしない白馬の王子様が必ず迎えに来てくれる・・と信じている夢見る乙女のように・・・ね??

音楽界で演奏家としてdébutしようと思ったら、一般の大学の卒業生と同じように営業活動をしなければなりません。
でも日本の音楽界で、そういった営業活動をする人は稀なのですよ。
だから、過当競争はありません。
日本の音楽の世界で働く事は超簡単なのですよ。

しかし、そういったrankではなく、最っと高みのpyramidの最上段に自分の目標を定めるためには、技術力だけではなく、professionalとしての意識や生活・・が必要になります。

技術を習得する事は簡単なのですが、このprofessionalとしての意識を持つ、性格を持つ、そしてprofessionalとしての日常の生活をする・・という事はとても辛くて厳しい克己心を要求されるのですよ。

しかも、professionalであり続けるためには、一年365日いつでも常にそういう意識を持ち続けなければなりません。
そのためには、自分をそういった性格に仕上げてしまう必要があるのです。
・・という事は、自分の業に対しての闘いになってしまうのですよ。




私はBrahmsの曲は大好きだけど、Brahms本人にはなりたくはないのだよ!!
そんな孤独な隠遁生活は嫌だよな~ぁ??



独居老人はそれなりに孤独で隠遁生活を送っているのだけど、自分に対しては厳しく無い!・・分、それはそれで楽な人生なのだからね??

江古田ハイツからの『Im Abendrot』

O weiter, stiller Friede!
So tief im Abendrot.
Wie sind wir wandermüde
Ist dies etwa der Tod?







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