芦塚先生のFacebook(そのⅢ)抜粋

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FacebookⅡへ 2016年


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芦塚先生のFacebookⅢ 2017年1月1日より




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あけましておめでとう~ございます
2017年1月1日13:50

「寝正月」
1月3日 8:10

「音人の会延期のお知らせ」
1月8日 10:24

「それはそうと」
1月8日 15:50

「オケ練習の前日に」
1月14日22:14

Genzmer先生の口癖の言葉です。
1月16日 13:10

bloglink1
1月17日8:28

「咳が・・・」
1月17日 21:21

Viv1aldiのOp.ⅢのNr.8の2台のviolinのためのconcerto a moll(調和の霊感L'estro Armonico)
「Ashizuka-versionの作成にあたって」
1月19日

「教育とNiveau(=水準)のお話Nr.1」
「教室開設まで」
1月24日10:53

「教育とNiveau(=水準)のお話Nr.2」
「人生3度の分かれ道」
1月25日21:12

「教育とNiveau(=水準)のお話Nr.3」
「私が音楽の道に進んだ人生の間違い」
1月25日21:12

「教育とNiveau(=水準)のお話Nr.4」
「上手な演奏と心を打つ演奏」
1月27日9:48

「教育とNiveau(=水準)のお話Nr.5」
「純正調と平均律のお話」

「教育とNiveau(=水準)のお話Nr.6」
「体の揺らし方のお話」
1月29日4:54

「教育とNiveau(=水準)のお話Nr.7」
「夢を叶えると言う事」
1月31日15:51

「教育とNiveau(=水準)のお話Nr.8」
「アングルのviolin」
2月2日5:43

「寒い!北風が部屋に吹き込んで来る!!足が冷えて眠れない!!!」
2月3日3:52

「教育とNiveau(=水準)のお話Nr.9」
2月5日6:26

「教育とNiveau(=水準)のお話Nr.10」
この文章はproを目指す人達を対象に書かれているので、音楽教室に対しては内容が厳しいので削除しました。

「きゃ~ぁ!大変だ!!帯状疱疹が、再発した!!!」
「帯状疱疹Ⅱ-1」
2月6日3:21

「教育とNiveau(=水準)のお話Nr.11」
「Stradivari-schule」


「Facebookについて」
2月12日0:05

「お弁当箱のお話」
2月12日5:08

「音人の会」のお知らせ
2月13日11:05

「帯状疱疹Ⅱ-2」
2月13日12:14

「帯状疱疹Ⅱ-3」
2月16日3:54

「帯状疱疹Ⅱ-4」
2月17日17:07

「蜘蛛の糸」
2月17日19:33

「帯状疱疹Ⅱ-5」
2月18日22:58

「音人の会翌日」
2月20日19:43

「2017年2月19日の音人の会」
2月21日6:42


明日はいつものオケ練習‼
2月26日

17年2月26日の京成検見川教室でのオケ練習の風景です。
2月28日

Sweelinckの新しい変更箇所の連絡です。
2月28日

相変わらず、鬱が酷くて眠れない!!
3月1日

 Op.3Nr.8a moll 二台のviolinのためのconcerto
3月1日

 「La Primavera」四季より「春」
3月1日

咳がブリ返して
3月2日

「kadenzについて」
3月4日

「近況報告」
3月6日

「発表会と対外出演の違い」
3月6日

一生懸命勉強をしている子供達の3つのtype
3月7日

「子供の能力について」
3月7日

明日は春待ちコンサートなのに、2時半を過ぎた頃から、
3月12日

昨日の春待ちコンサートは大変盛況な内に終了いたしました。
3月13日

今日は、おとなしく動画の編集を朝早くからやっているところです。
3月13日

春待ちコンサートの演奏風景です。
3月15日

またまた、文章を入力中にFacebookがぶっ飛んでしまいました。
3月16日

lesson開始早々、バテて意識朦朧の状態になってしまいました。
3月18日

オケの総合練習①の次の日の月曜日!!です。
3月20日

ブルーベリーヨーグルトのパンケーキの香料がキツ過ぎて、
3月22日

昨日は芦塚先生と梨紗さんと弓を選びに行きました。
3月23日

「物忘れについて」無駄話し
3月25日

春の発表会への最後の総合練習
3月27日

「超、びっくらこいた!!」
3月27日  (江古田教室に関しての不動産屋からの突然の電話)

動画が無かったFranckの練習風景の写真です。
3月28日

「昨年の秋の発表会」の動画
3月30日

金華学園の校庭の桜が何と、5分咲か??
3月30日

先程の写真の朝の写真です。
3月31日

1年前、16年の3月31日の同じ場所の写真です。
3月31日

2018年(来年)の春の発表会は、4月15日(日)千葉市文化センター・アートホールに決定しました。
4月1日

今日は発表会です。
4月2日

発表会の朝は
4月3日 8:58 ·

習志野組は、後、18日しか無いのを忘れないで‥・!!
4月4日

「芦塚メトードによる正しい学習法、その1」
4月5日

「芦塚メトードによる正しい学習法、その2」
4月5日

「芦塚メトードによる正しい学習法、その3」
4月7日

「芦塚メトードによる正しい学習法、その4」
4月7日

「子供の夢」「親の夢」
4月11日

教室推薦の演奏会
4月11日

(16年4月18日に「鬱々コンサートについて」のPageに少し、追記しました。)
4月13日

習志野市市民会館の賛助出演
4月15日

「今日(4月16日)は発表会の反省会の後の初見大会の日です。」
4月16日6:4

大雨の中を歩いたので、洗濯されてしまったど~ル‼
4月18日5:42

今日の天気
4月18日16:38

「追記の日にちの書き込みに際して」
4月18日19:52

江古田駅の真ん前に、スーパーが出来ていました。
4月19日23:56

カバー写真を変更しました。
4月20日7:12

「VivaldiのOp.3Nr.3のG Dur Ⅰ楽章」
4月21日7:49

ツツジの季節になったのだが
4月22日7:26 

毎度お馴染みの話なのだが
4月22日17:48

「対外出演に関してのこもごも」
4月23日1:02

またまた、いつもの愚痴なのですが
4月23日8:13

習志野市市民会館での賛助出演
4月25日7:22

「17年4月27日 少し、愚痴を追記しました。」
4月26日1:28

春待ちコンサートの動画の編集
4月26日18:54

Vivaldiの a moll Op.3Nr.6のⅢ楽章の最後の6小節です。
4月27日7:01

「The Bird!」
4月27日11:05

今回の演奏会は次回の演奏会のrehearsalです。
4月28日5:48

今日は朝早くから又々鬱が酷い
4月29日14:45


「楽譜の準備のお話」
4月30日7:04

相変わらず鬱っています。
4月30日14:56

「仕事としての音楽への意識」
5月1日6:00

「有名な演奏家である事と、優れた演奏家である事の条件」
5月1日7:46

 VocaliseのMetronom課題
5月1日8:04

「3月27日の江古田教室のお話の続きです。」
5月5日18:47

Facebookの問題点
5月9日1:14

「防音室」
5月9日4:04
自分でも出来る防音の方法です。

「まあ、良いか?」に対する考察
5月9日12:49
最初は文章を書き始めて、一芸を目指す人達の特別な考え方なので、一度は削除しました。しかし、音楽の勉強をする人達には重要な考え方になるので、もう一度、新たに書きました。

「無駄な一日」
5月11日22:02
作業中に、突然、finaleが立ち上がってパソコン全体がfuzzyしてしまいました。
指導の範囲と3点支持
5月13日 4:45

またまた、鬱に悩まされているのだ
5月14日14:36

「Facebook、blog、homepage、twitter」
5月16日2:05


Vivaldi Op.3Nr.11 d doppel
5月16日2:28

Tartini Devil`s Trill Sonata
5月16日3:33

「八千代のコンサート出演について」
5月16日14:56

Vivaldi violin‐concerto Op.8 Nr.11 D Dur Ⅲ楽章
5月16日17:04

いや~あ、鬱と体調不良と摂眠障害とが酷い!! 
5月17日17:29

「blue-out」
5月17日23:34

相も変わらず,超、鬱が酷い!!
5月20日19:10

「Vivaldi a moll Op.3Nr.6Ⅰ楽章の補足説明」
5月23日7:09

くちなしの季節
5月25日2:50

「Urtext-Ausgabe=原典版」
5月27日20:05

「この半年間、延々と転居の手続きをしているのですよ!」
5月29日22:10

「5月18日の花園のlessonから」
5月30日22:08

「椎名町からハイツに戻って来て」
6月1日 2:11


日延の口実
6月5日 8:14

八千代のコンサートの日にちが決まりました。
6月5日12:12

「videoの申し込みとCembaloの右手のpartの作成」
6月6日15:05

辛さに耐え忍んで
6月7日9:13

ベネチアンマスク
6月9日23:15

「指揮用のscoreとpart譜と、その校訂について」
6月10日19:12

「Ashizuka‐Knaben‐kammer‐streich‐orchestraの『Knaben』の意味について」
6月12日5:30

自宅のメインのパソコンが壊れた!
6月12日11:14

「何時もの通りに、冷蔵庫には何も入っていないのだが、何とも食欲が起こらない!! 」
6月14日0:06

折角、頑張って、冬物を仕舞って、夏物に替えたのに
6月15日20:44

「徘徊と認知症の疑似体験(夢とうつつと)」
6月17日13:51

yahooでは今の練馬区の気温は26度だそうだが
6月19日13:16


テレビが壊れた!!
6月20日10:13

「LGテレビの故障のお話の続き」
6月20日17:33

本当は書きたかった話は、洗濯屋の話ではなくって、飲みに行かなかった話なのですよ。
6月21日5:38

ドイツ人の国民性とでもいうのか、数字国民らしく、小学生の間からやたらと数字で物事を理解しようとする。
6月22日6:28

vivaldiのop.3のno.6の一楽章のtempoの設定の話
6月24日9:22

くちなしの花
6月25日

「ワイドコンバージョンレンズ」
6月26日

この所、不整脈と鬱が酷い
6月27日

「Träumerei」
6月28日

「今日は蕎麦の日である。」
6月28日

「思考のpattern」
6月29日

one patternではあるが、いつもの通りに、鬱が超酷い❢❢
6月30日

「人生のPyramid」
7月2日

山のあなた カール・ブッセ
7月2日

「芦塚メトードについて」
7月2日

「心療内科の話」
7月3日

「今日は朝からパソコンが壊れた」
7月4日

昨日は七夕でした。
7月8日

やっとパソコンが修理から戻って来ました。
7月11日

「日本と西洋の文化の違い」
7月13日

寝室のクーラーを30度に設定したのに、まだ寒い‼
7月14日

Googleでは、現地(練馬区小竹町)の気温は30度になっているのだが
7月16日

防音には、三つの方法があります。
7月17日5:41

「人は気づかない限り、自分を直す事は出来ない」
7月19日10:57

今日は34度まで上がる猛暑日の予定です。
7月20日8:58

爪が剥がれてなくなっていた。
7月21日10:59

心療内科の薬を飲み始めてから、ひさしぶりで、鬱が酷い‼
7月22日19:29

スマホの現在地の気温は31度になっているのだが
7月25日12:38

たけしさんの「名医に聞く…」という番組をTVで、やっていて
7月25日22:16

対処(症)療法というと
7月26日2:11

今日(27日)は合宿の初日です。
7月27日8:49

7月31日の夜にやっと江古田教室の引っ越し作業を終了して、
8月1日20:58

昨日の8月の2日は8月というには超寒い22度でした。
8月3日5:54

今日はお昼からJ-comが来て、テレビの回線のcheckをしました。
8月3日21:15

8月3日の夜は、久しぶりに、何と無く寝付けなくって
8月4日12:18

斉藤先生がスマホ用のhomepageを作成中なので、
8月5日19:33

朝の11時にBlu-ray-driveが届きました。
8月7日19:45

今日は明日のlessonに備えて、
8月8日2:11

かなり長い文章を打ち込んで、チョッと確認のために
8月9日9:35

昨夜は鬱は差ほどではなかったのだが
8月10日12:41

8月は、5日6日から7日8日9日と連チャンで練習やlessonがあって
8月14日21:27

今は8月朝の9時半です。
8月15日9:45

今日(17日)は、朝から鬱が酷いと思っていたら
8月17日 20:54

それにしても寒いし、湿度の高さは尋常ではない
8月18日2:47

今日は、夏休み明けの最初のオケ練習があります。
8月20日4:44

フクロウの思い出
8月22日8:44

Vivaldi a moll Op.3Nr.6の2楽章のbowslur
8月22日14:35

高校時代の学生証の写真
8月23日6:19

夕方の6時半だというのに、外の気温はまだまだ33度だそうです。
8月23日18:31

今日は珍しく、お昼を食べに、椎名町の事務所に行きました。
8月24日13:53

Vivaldi d moll doppel Op.3Nr.11のsicilienneのRicordi版
8月26日7:41

今日は夏休み最後のオケ練習でした。
8月28日0:06

homepage「芦塚陽二の闘病記」閉鎖のご連絡です。
8月28日11:52

残暑ざんしょう~??
8月29日13:45

昨日からの続きです。
8月30日9:53

今日は8月31日
8月31日9:58


9月へ


9月に入って寒い日が続いていますが
9月2日

昨日(9月3日)のオケ練習は、
9月4日

台風一過というには、東京は
9月19日

実はトイレに行くために起き出したのですが
9月20日

心療内科の薬が新しくなって、
9月20日

17年9月17日(日)のリハーサルは、台風の真っただ中で
9月20日

昨日の土曜日はお久しぶりに千夏と梨紗が椎名町に来るというのに
9月24日

確かに、不眠症は私の高校生の時代からのトラウマになっていました。
9月24日

8月の17日にオケと室内楽のrehearsal をしましたが、夏休みのおふざけモードで
9月26日

今日はとても良い天気だ❢
9月27日

今日は冬眠の日ですが、これだけ、不眠が続いているのにも関わらず
9月29日

9月30日の深夜のお話なのだが、これは超酷い❢❢
9月30日




10月へ

今日は総合練習の2日目、つまり、発表会の1周間前の最後の練習です。
10月1日

何時に寝たとしても 定刻の 5時には どうしても目が覚めてしまう‼
10月3日

深夜3時半ぐらいになって「やっと眠れた❢」と思ったら、非常に嫌な夢を見て
10月4日

今日は、とても美しい中秋の名月を見ることができました 。
10月4日

Titleは「UFOと中秋の名月」です。アハッ!
10月5日

この一月で体重が一番高くなっている。
10月5日

眠れないという事が、こんなにも苦しい事だとは、今まで思った事もなかった。
10月5日

明日は発表会ですね。頑張ってください。
10月8日

明日は・・・ではなくって、もう既に今日は発表会です。
10月9日

発表会は昨日(月曜日・祝日)、千葉市美浜区美浜文化ホールにて、恙なく終了しました。
10月10日

流石に、昨日の発表会の前日は、殆ど完徹状態だったので、
10月10日

下のコメントに、掲載した写真は、今回の発表会の会場の写真です。
10月11日

「発表会の後の動画の編集の躓きのお話です。」
10月11日

太男、総身に血がまわりカネ⁉
10月12日

長い間、置きっ放しのKontrabassやlessonの道具を取りに四日市迄、
10月13日

人生というものは、流れる川のように・・と言うと、なんともはや
10月14日

発表会からハイツに帰って来て、次の日には、Vivaldiのd mollのdoppelを
10月14日

今日は反省会???
10月15日

You TubeのURLを削除したら、そのURLの前に書いて置いたFacebookのコメントも一緒に
10月17日

このところ、発表会を始めとして、色々なイベントがてんこ盛りだったので、
10月17日

このところ、携帯でのfacebookの調子が悪くて、携帯からfacebookに
10月18日

この間の発表会で、楽屋で現役芸大生の暉君達をつまみにして、日頃の
10月18日

オケ練習は、練習の回数で、2回オケと3回オケがあります。
10月19日

昨日から、今度は、何度もFacebookのコメントを訂正しようと思っても
10月19日

「ハイツのrenewal工事で・・」
10月20日

ギャー‼ヨーグルトが爆発した‼
10月20日

ChaussonのPianoQuartettは大変な難曲で、You Tubeでも
10月20日

この無伴奏のviolaは、芦塚先生の当初の予定では、YouTube等には、uploadはしない予定でしたが
10月20日

今日は、不思議な事に、斜め隣上のリニューアル工事は、部屋の解体作業が終わったらしく
10月21日

以前から不思議に思っていたのではあるのだが、改めてコメントの不具合が携帯スマホでは
10月22日

今は深夜の3時半を過ぎた所なのだが、久しぶりに、入眠が
10月22日

学校などの試験では「間違えた場合」にはどのような間違いであったとしても「 間違いは、間違い」として
10月22日

日本の封建制、所謂、世襲制度は、徳川家康が作ったもので、
10月23日

昨夜は、台風の中を、車で湾岸を走って事務所迄帰って来ました。
10月23日

お誕生日おめでとうございます
10月24日

「このお話は前のお話からの続きになります。」
10月24日

前回のlineに、HändelのLascia ch'io piangaの譜面で、takt34から40迄の
10月25日

そろそろ、夕方の5時ですから、もう12時間働いている事になります。
10月25日

今まで1時間近くも書いていた文章が、ものの見事に総てブッ飛んでしまった。
10月26日

昨日は発表会明けからの、初めてのone-lessonでした。
10月27日

私の昔々からのcomplexは、兎に角、仕事が遅い事です。
10月27日

「そんなに良い教室ならば、どうしてどんどん有名になって大きくなって行かないのですか??」と、
10月27日

・・・てな事をFacebookに書きながら、今日は13年振りぐらいで肉体労働をしてしまいました。
10月28日

いや~あ、昨日の日曜日は新しいオーケストラの顔合わせと、曲目紹介と初見練習の予定と、私の誕生日のお祝いも
10月30日

オケ室内楽の顔合わせから、一夜明けて、次の月曜日です。
10月30日

批評家には、良い批評家と悪い批評家がいるそうです。
10月30日

今は昔、千葉市主催のイベントに演奏にでかけたとき、
10月31日

ここの所、2回程、血圧が150以上になる事があって、おや??と思ってしまいました。しかし、
10月31日


11月




日曜日の夕方のオケ練習の最中から、段々 喉が痛くなって 来て
11月1日

八千代の予約の状況は
11月2日

牧野先生が、八千代と確認をとってくれました。
11月2日

突然雨が降り出したぞ~❢❢
11月3日

sarabandeへのone point-adviceです。
11月3日

昨夜、教室の重要な書類を探すのに
11月3日

そう言えば、「今日の認知症」
11月3日

業者や先生達と大喧嘩をしている…夢を見る事があります‼
11月5日

70歳というのは、古希だそうですが
11月5日

自治会館コンサートと八千代のコンサート迄に
11月5日

人生の夢を叶える・・・「もう一つの選択肢」
11月7日

牧野先生が事務仕事で超、忙しく
11月9日

20年ぐらい前に、手軽にお粥を作るために
11月9日

「芦塚メトードの成り立ち」
11月9日

仕事で使っているwindows7のパソコンのhard diskが壊れてblueoutするようになったので
11月11日

「行き詰まりについて」
11月12日

自治会館コンサートや八千代のコンサートが近づいて、
11月15日4:45

「子供の記憶力や集中力を著しく損なうもの」
11月16日4:19

「椎名町のspinet」
11月19日 0:23

「深まる秋のコンサート」
11月20日13:10

「深まる秋のコンサートNr.2」
11月21日 4:18

山の音楽家のオケversion
11月21日 16:53

チョイmemoを、その場でプリント・アウト出来るようにしたいのだが
11月21日

「深まる秋のコンサートNr.3」
11月21日

「深まる秋のコンサートNr.4」
11月21日

「深まる秋のコンサートNr.5」
11月22日

「八千代のコンサート オータム クラシック コンサート 秋を纏う弦の調べ」
11月24日

昨夜は編集作業が白カメのdataの不具合で
11月25日

八千代市の生涯学習プラザが、広告をしてくれました。
11月25日

今日は反省会兼打ち上げ兼初見練習をしました。
11月27日

な、な、な、何と❢❢❢不具合は白カメだけだと思ったら
11月27日

山の音楽家と蛙のtrioのuploadは、もう暫くお待ちください。
11月27日

自治会館と八千代市生涯学習プラザは両方とも多目的ホールです。
11月27日

「仕事は出来るときに終わらせておかないと・・」
11月28日

「日本人の持つ甘えの構造」
11月28日17:17

「でも、まあ、そこら辺の話は、大学の先生がお話する事であって・・」
11月28日

今日は久しぶりで工事の音がうるさい❢❢
11月30日

《シオンさんからのmailです。》
11月30日

『12月23日の花園自治会館のクリスマス会での、Saint-Saënsの・・』
11月30日

テレビで、千葉県は明日から12月だと言っていたけれど
11月30日 17:36



12月


Hoffmeisterのviola-concertoですが、
12月1日

「40肩、50肩」
12月1日

それにしても、windows10がもう1時間以上も更新をしていて
12月1日

楽譜のコピーはいけません❢❢
12月1日

「Harald Genzmer Piano-concertino 第二番 Ⅰ Ⅳ楽章」
12月2日

「発表会の「曲決め」についてのコモゴモ」
12月3日

「事故の日です。」
12月3日

「芦塚メトードによる指導法」
12月3日

「きよしこの夜の五重奏」
12月3日

「八千代の最後の動画を編集しました。」
12月5日

「Ⅰ 今日は5ヶ月ぶりに超、鬱が酷い❢❢」
12月7日

「Ⅱ 5ヶ月振りの鬱が1日経っても未だ続いています。」
12月7日

「きよしこの夜」の以前のscoreにfinaleで練習番号を入力
12月12日

「よく見た夢を書く事があります。」
12月12日

「明日は新車と、車を交換に行かなければならないので、」
12月13日


「新車を駐車場に入れた❢❢」
12月13日


昨日は超鬱が酷く、夜は眠れなかったので、朝、無性に
12月14日


「昨日は車を購入した次の日で、千葉のlessonだったので・・」
12月15日


「今日は15日の金曜日になります。」
12月15日


「loss-timeとlost‐timeのお話」
12月16日


「昨日は12月17日クリスマス会の前の最後の練習でした。」
12月18日


「挨拶と会釈」
12月19日


「バナナのお菓子」
12月21日


「12月23日Christmas会」
12月23日


「クリスマス会は恙なく終了しました。」
12月24日

「クリスマス会と合宿について」
12月24日

「きよしこの夜」のAshizukaversion
12月24日

「おさらい会」のvideo-cameraの不具合について
12月24日


日本人の弦楽器奏者の和音の弾き方
12月25日

今日は冬の合宿の初日でした。
12月25日


「今日は12月27日、合宿の最終日」
12月27日


Vivaldiのa mollのcelloconcertoなのですが
12月29日


今回の「曲決め」
12月29日

Bachの組曲ロ短調のAria
12月31日




indexの最後尾


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1月1日 13:50 ·

あけましておめでとう~ございます
ほんねんもよろしくおねがいします


椎名町の事務所で、ジルベスターのカウントダウン・コンサートを聴き(見)なががら、年越しそばを食べているのが恒例でしたが、今年は斉藤先生が風邪でダウンしているので、カウントダウンの年越し蕎麦は無く、江古田のハイツの自宅に戻って、ティーパックの紅茶を飲みながら、カウントダウンコンサートの最後の方だけを、聴いていました。私の体調も、風邪っぽい微熱ギリギリの所でなんとか留まっているし、ベッドに横になると、今度は腰痛でトイレまでが歩けなくなるので、椅子に座って、パソコンの文章を手直ししていると、そのままいつの間にか寝てしまっているし・・、どうも、体のcontrolがうまく行きません。

牧野先生も、声が相変わらず出なくて、寝込んだままなのでしたが、風邪をおして31日にはプリを連れて里帰りをしました。合宿が終わった28日から寝込んだままなので、合宿やクリスマス会で使用した荷物の整理もそのままで、このままでは、「音人の会」の準備に差し障るかも知れませんね。冬休みは何時もは私が高熱を出して寝込む事が多いのですが、今回は私が一番軽い症状です。

めでたさも 中くらいなり おらが春 ・・てな感じですかね??

明日からの正月は、すっかり風邪で、休み中は完全寝正月・・になってしまいそうです??
いや~ぁ、困った!困った!!
椎名町の事務所にドルっ歩に出かけて、今日の一食目である朝食を22時に食べました。
お相撲さんの食事ですよね。

以前、ミラノのオペラが日本公演に来た時に、私の親友の女の子もオペラのボイストレーナーとして(合唱ではなく先生としてですが、勿論、本番は彼女も出演しています。)付いて来ました。ツーリング中には、午前中は総練習で、お昼からやっと、休憩なのですが、4時半ぐらいからリハーサルがあって、それから本番を迎えて演奏会が終わって、会場を出るのは、11時だそうです。朝の練習前は食事をすると、声が出なくなるので、お昼までは何も食べれなくて、午後は、休憩なのですが、そこで食事を取ると、やはり、本番に影響するので、軽く軽食を取るだけだそうです。
夜の11時に公演が終わると、演奏会場の直ぐに近所の、唯一開いている焼肉屋で、オペラの連中全員で一日分を思いっきり食べる毎日で、半年の演奏旅行が終わる頃になると、全員、5㌔、10㌔は肥るのが当たり前だそうです。勿論、ヨーロッパに帰ったら、必死に元に体重を戻るのだそうですが、これが大変らしい。
ヨーロッパの女の子はそれでなくても直ぐに肥るので、本当にダイエットに関してはかわいそうです。

日本にいる間に、一度江古田の教室に遊びに来てくれましたが、キートンの映画で、プリマの人が声を出すと鏡や窓ガラスが割れるシーンがあったけれど、あれって、本当なのだよね??
grandpianoの前に座って、部屋の中で彼女が出す声が江古田の商店街中に響いて、私は「鼓膜が破れるのではないか??」と思いましたが、それぐらいの声量のままに、4時間はコンスタントに歌えないと、オペラで歌うというのは無理なのだそうですよ。
一発ではなく、延々と・・なのですから、凄い!!
3octaveのポンピングとか、超高音域で、pianissimoからcrescendoしてfortissimoにしたり、とかありとあらゆる発声のTechnikを見せてくれました。
超高度なテクニシャンで、改めて驚いてしまいました。
普段は、wineを一緒に飲んだり、お喋りをしたりるす関係なので、彼女の練習している所は見た事が無かったからです。
彼女、ミラノの音楽大学で、日本人の弟子が30人は何時もいるそうです。
彼女の日本人びいきなのは私のせい??
彼女はスカラの傍で産まれた典型的なmilaneseで、子供の頃からスカラのオペラ座に忍び込んで、舞台袖で、演奏を聴いて育った生まれながらのオペラ歌手です。
ヨーロッパには、そういう羨ましい人達もいるのよね??

1日の深夜というか、2日の朝と言うか、とうとう私の喉も腫れて来て、咳が少し出始めました。
「とうとう、伝染ったのかな??」「ひょっとして明日から寝込むのかな??」
「これまでも、殆ど寝込んでいるので、これ以上寝込んだらどうなるのだ??」・・・・ という事で、喉の薬龍角散ダイレクト」や「のどぬ~るスプレー」を直接、吹きかけて、喉が悪化するのを防いでいます。
1月2日 10:57


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1月3日 8:10 ·
「寝正月」
12月の27日に合宿が終わって、それから新年を迎えても、延々と、先生達も私も全員風邪の症状に苦しめられています。
・・でも、思い返してみると、「ひょっとしたら、それは、毎年の事では無かったのかいな??」
 それから・・もう年も開けて、正月も3日になるのに、ベッドから起き出して、パソコンの椅子に座っていても体のあちこちが痛いので、慌てて、ベッドに寝て見ても、やはり、体中がピキピキとして痛い‼
・・どうしたら一番楽なのか、それが分からん‼
・・困ったもんだ‼
勿論、ビタミンB群もC3000も飲んでいるのだが、全く効果はない!!
私が治りにくいのは糖尿系なので致し方ないのだが、先生達が同じように治りにくいのは理解に苦しむ。
今回は、病院の薬が全く効いていないのだよね。

・・と、思っていたら、その内に悪寒や喉の痛み、咳等が出始めて、「これはイカン!!」
・・という次のstageの症状になって来た。

「このままだと、またまた寝込んでしまって、9日までに体調を戻すのは無理だな??」
・・と言う事で、イチかバチかの対処療法を試みる事にした。
体力勝負で、うまく行けば症状は改善するけれど、失敗すれば、そのまま寝込んでしって、9日はお休みという事になってしまう、という一か八かの勝負だ。

「・・でもこのtimingを逃すともう無理だよな!」・・と言う事で、3日の深夜からなのですが、部屋を暖房で温めて、暮れに入ったまま、体力が失くなって洗えなくなっていた風呂を、お湯だけを交換して、ウンと熱くして、「汗出し」を約30分程やった。
そのまま、大急ぎで、バスローブを着て、汗を拭き取って、ベッドに潜り込んだ。

今回は、非常にうまく行って、今までになく熟睡出来て、症状は大幅に改善していた。

体力勝負なので、体力が心配なので、失敗する公算の方が高いと思ったのだが、以外とうまくいくもんだ!!

しかし、この治療法は、団塊の世代の終戦時の治療法だから、普通の世代の人達にはお勧めは絶対にしません。
真似はしないように・・??
それはそうと、たった今、始めて体温を測って見たら、なんと8度8分もあったよ!!結構熱があったんだよな??改めて、気がついたのですよ‼
今回は一晩に3回も汗だしの民間療法を試したのだが、なんと平熱に戻ってしまった。やってみるもんだ??
・・でも、絶対に真似はしないでね。
これは、私が大学時代から、「どうしても‼」という時の非常手段に時々やっている方法なので慣れているのでね⁉

4日の午前中は、体から汗が吹き出して、止まらなくなってしまいました。
部屋中のストーブを止めたのだがそれでも汗が出るのです。
それがお昼の12時を過ぎた途端に、体感温度が下がり始めました。
汗が止まったと思ったら、今度は咳が出始めました。寒暖の差が酷いのですよね。
・・と思ったら、目がゴロゴロして、目やにが出てどうしようもなくなったので、鏡を出して見たら、何と、目が真っ赤っ赤です。
これは、ウイルスにでもやられたのか、鼻水が目に入ったのか、無味無臭のはずの目薬をさしてもしみて痛い!!
いったいなにがどうなっているのだ??
「これは、眼科かいな??」いやあ、参った!!
今日はもう5日になってしまいました。ベッドに入ってゆっくり寝ようとすると咳が出て寝むれなくなってしまいます。
パソコン用の椅子に座っていると、咳は収まってやがて眠くなるのですが、それで、ベッドに入ると体が温まって来るに從って咳が出始めて眠れなくなります。
いつもの咳のpatternですよね。
困ったもんだ!!

諦めて、6日の金曜日には、大野病院に薬を貰いに行って来ました。
抗生剤と咳止めと痰の出やすくなる薬を貰いました。
1月7日 5:04

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1月7日 10:11 ·

今日は7日です。「冬から春へ」ですよね。もう7日なので、七草粥の日でもありますよね。
正月の休み中は、ベッドの中で意識朦朧としていたのですが、Vivaldiの「冬」の音が結構キツかったので、少し優し目の音の粒粒の演奏をする団体をパソコンで探して見たのですが、全く、見つからなかったので、netの検索条件にperiodを入れて見たのですが、全く同じように、私が欲しいstyleの演奏は見つかりませんでした。
冬はピキピキと体が悴む分けなので、そういった優しい演奏はきっとないのかもね??
でも、次は「春」なので、三美神が出て来るので、きっと優しい演奏は幾らでもあるかもしれないよね。

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1月8日 10:24 ·
「音人の会延期のお知らせ」
毎回のハプニングですが、明日の音人の会は、私の悪性の風邪で、急遽、日にちを延長させていただきます。
延長の日にちは追ってお知らせします。誠に申し訳ございません。
折角のお食事や、wineの味が分からないと寂しいですからね。


残念ですが先生の体調が回復されますように。
今日は寒さも厳しいですね。
ご自愛ください。
1月8日 10:38


楽器を冬眠させたままなので、起こしときますね...。
1月8日 22:59

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1月8日 15:50 ·
「それはそうと」
それはそうと、話が前後してしまいましたが、今年最初のオケ練習を病気でスッポカシてしまいました。
27日までが合宿で、28日までが病院だったので、28日に薬を貰いに行ったのですが、その次の29日から咳が出始めて、それからは延々とこんにちまで寝込んでしまいました。
歳を経るにつれて、寝込んでしまうのが慣習化してしまっていますよね。困ったことです。
唯、一つだけ良いことは、目標体重(理想体重ではありませんよ!あくまでも目標の体重です。)に限りなく近づいて来た事です。
勿論、その理由は食べれない動けない事による筋の減少によるものなのですが、その体重を頑張ってキープすれば、本当に良い事になるのでね。

散々な年越しだったんですね💦
早く良くなりますように。
1月9日 0:18

いつもありがとうございます。
お大事になさって下さい。
1月9日 7:48

早い回復をお祈りしています😢
1月9日 22:41


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1月14日22:14
「オケ練習の前日に」
昨年の冬の合宿が終わってから、大晦日やお正月はすっかり寝込んでしまいました。
冬休みが終わっても、とうとう起きれないままに寝込んでいましたが、これ以上、オケ練習を休んでいたら、子供達の練習の回数がもうそろそろlimitで、これ以上は休めないので、明日は頑張ってオケ練習に千葉まで行くつもりです。
明日は「今年一番の冷え込み」と言ってテレビでは大騒ぎをしています。

それはさておいて、相変わらず、声を出そうとすると、咳が出て言葉にならない!!困ってしまいます。
明日はどうやって、オケ練習をしたら良いのだろう??困った!困った!!
誰か、私の代わりに、私がlectureしたい事を喋ってよね!!

・・明日は、斉藤先生は四日市の出向で、オケ練習にはいないよ!!
だから、誰か、私の代わりに喋ってネよ??・・よろしくね??


四日市は大雪で、何時、電車が止まるかの話で、お迎えの車も出せない状況なので、斉藤先生の四日市出向は順延になって、急遽、千葉のオケ練習に合流になりました。(私にとっては)本年最初のオケ練習だったので、助かりましたが、咳で声が出ない時のhelpには、やっぱりなりませんでした。
以心伝心は誰かいないのかね~ぇ??


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1月16日 13:10 ·

Genzmer先生の口癖の言葉です。
Zart か弱い、脆弱な、虚弱な、きゃしゃな、感じやすい、デリケートな、繊細な、
・・・zart-lich 情愛のこもった、愛情にあふれた、優しい、細やかな、心のこもった、
・・・zart-heit 脆さ、か弱さ、華奢、しなやかさ、ほのかさ、思いやり、控えめ 
歯ぐきを合わせて、ツァート!!
「優しいね??」とか言う時の、日常用語で音楽用語ではありません。
何か親切にされた時等にも、よく使います。 
「ご親切に・・??」とか言う意味です。

Satteザットには、 豊かな、たっぷりとしたという意味もあります。
面白い事に、ドイツ語ではSA(サー・・)という発音は本来はありません。SAはザーになります。
しかし、バイエルンの方言ではSは濁らないので、ナガザキではなく、ナガサキになります。
Yは発音出来ません。ヨージは英語式にジョージか、ヨヒ(旧約聖書の人々の父)とか、酷い時には、ヨキになってしまいます。
ドイッチェ・ママ達は、最後までヨーチェと発音していました。
France人はホーム(H)が発音出来ません。オームになってしまいます。アハッ!

それはそうと、昨夜はオケ練習の後、花園から東京に戻る準備の時に、車の後ろのドアを開けて荷物を積み込んでいたら、ドアがいつの間にか、下がって来て、頭を思いっきりぶつけて、血だらけになってしまいました。
久しぶりで怪我をしたので、しっかりと、メゲたね~??







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1月17日8:28
頭がいい人は「分かりやすい説明」をする時、何を考えているのか
当たり前の話かも知れないんですが、ちょっと書かせてください
「・・・省略」



全く、共感出来ます。
私事になってしまいますが、音楽を指導している立場で言うと、生徒達が理解したつもり・・になって、それで、出来たような気になっている事が多くて、困ってしまいます。
理解したつもりの「つもり」が取れて、やっと、「理解出来た」になっても、それは単に「分かった」ような気になっているのに過ぎません。
何故、「ような気に・・」か、と言うと、音楽では、そこから自分を人へ伝達する「表現」が始まるからです。
「理解が出来たから」・・と言っても、人に伝達するのは、その次の技術になります。
此処から始めて、音楽家の勉強がスタートするのです。
演奏家が犯す一番の過ちは、演奏出来れば、指導出来るという勘違いです。
演奏出来ても、子供の語彙や、一般人の知識の中の語法でその演奏の意味を指導するのは、全く別の技術になります。
ヨーロッパでは演奏家と指導者は全く別のgenreの人種として区別されています。
それはどの分野でも同じ事でしょうね??

芦塚先生、コメントありがとうございます!
何でもシェアしてみるものですね笑
日々身の回りの事を模索する中、子育てにおいて、こども達にきちんとわかるように様々な事を説明出来なくてこの記事は成る程ーと思いました。
バイオリン含め、今取り組んでいる事について、ハルマも私もわかったつもりになっている事が多い気がしてハッとしました。
バイオリンはことさら私が無知の為、どう支えていくべきか、方向性なども悩みどころです、、
最近はハルマが幼稚園クラスの楽典で教える立場を経験させて頂いたり、それも彼の学びに繋がりますからとても有難いです!説明したつもりではなく、きちんと説明してあげられる技術を先生やお姉さん達から学び取って欲しいです(^^)
ところでお風邪長引いてらっしゃいますね。
身体に良いスープなど召し上がって身体を休めて頂けたら良いのですが、、
2時間前


有難うございます。元気なときには、土鍋でご飯を焚いたりするのですが、体調が悪くなると、レンジでチンが、精一杯になります。コンビニに食物を買いに行く事すら、その気にならないのでね・・??
体力のこともありますが、それよりも鬱が酷いので、気力が起こらないのですよ。 

それはそれとして、話を元に戻して、・・テレビで林先生がよく「教える事の重要性」をお話されていますが、「分かったつもり・・」から「分かった」になって、それから「教える」(説明をする)と言う事には、全く別の次元の難しさがあるのです。

よく昔から「一を聞いて十を知る」と言われていますが、私達はよくその逆のことを言います。
「10を知って、始めて1が書ける」・・というのが、作家達の常識なのですからね??  

特に音楽を勉強する人達の場合には、曲を弾ける様になる事を目標にしがちなのですが、曲を弾けるようになるだけでは、人を感動させる事は出来ません。
それ以上の、10の技術とNiveauが必要になるのです。
私達が指導する場合には、その総合的なもの(具体的には色々と有り過ぎて一つ一つを取り上げても、詮無いことなのですが・・)を評価の対象にします。
演奏が出来ても、姿勢や弓の持ち方、体躯の移動等々、checkpointは多いのです。
大家(たいか)と呼ばれる人達の共通する意識は、この初歩の初歩に戻れるか否かの音楽に対しての、或いはaudienceに対しての謙虚さを持っている人達なのですよ。
人に聴かせる事の出来る演奏をするためには、ありとあらゆる、それこそ1ではなくって、10の・・というか、100の・・否、1000のTechnikや意識が必要となるからなのですよ。
基本の基本は大切です。常に基本に立ち戻りながら、勉強を進めるのです。

今の山登りは、登山道がしっかりと整備されていて、前の人に付いて歩けば山頂に辿り着けますが、私が子供の頃の山には道もなく、獣道を辿りながら、遠くが見える場所に辿り着いた時には、地図で3点、4点を確認して、自分の位置を探しながら山登りをしました。
それでも、迷って帰れなくなった時には、付き添っている二匹の犬に「もう、帰ろうか??」と言うと、犬が踵を返して、家の方へ私を連れて帰ってくれました。
今のワンちゃんは、過保護犬なので、散歩している最中に、道が分からなくなってしまって、私の顔を覗き込んで、「道が分からなくなっちゃた!!」と泣きついて来ます。
「オイ!犬だろう??」 
・・「でも、シーズーじゃぁ、なあ~??」「しょうないか??」 

今の子供達はそういった経験をした事が無いので、一次が万事そうですよね??
可愛そうですよね。危機管理がなっていない。
manualに書いていない事には対応が出来ないのです。 

音楽大学の院生に課題を出した時に、「先生、国会図書館まで行って調べたのに、資料がありませんでした。」と、烈火の如く怒って、私に訴えて来た生徒もいます。
「そんな、netで調べたり、図書館に解説の本があるような課題を生徒に出す分けはないでしょう??」「俺って、そんなに親切じゃあないからね??」と、言ったら、怒ってlessonに来なくなってしまいましたがね。
「おいおい!貸していた本は返してよ!!」 

でも、同じ問題を中学1年生の女の子に出して、見事に回答していたのですけれどね??
教室で育った生徒は、それぐらいは当たり前なのだけど、一般の勉強をして来た人達は、manualがなければ、迷子になってしまうのですよ。
それでは、globalな世界では生きて行ける分けはないのですがね??
そこら辺の事が、世界を旅して来ても分からない。
心此処に在らざれば、見れど見えず、聴けど聞こえず


千夏ちゃん高校生達が、「ヒ~ヒ~!」とネを上げながら先生達から指導を受けているlectureの仕方ですが、教室を見学に来た多くの指導者の人達にとっては、先生達の指導は、あまりにも普通に指導しているので、「普通に指導しているだけなのに~??」と、その違いが分からないようです。
先生達は、見学して見ても、その違いが理解らなければ、教えても結局は、その場の事としてしか、理解しないのだから、本当の意味は理解出来ないのよネ??・・・・って、言っていましたがね。 

大学の卒論のために、大手の音楽教室の大御所の先生のlessonを見学に行った教室の生徒である大学生が見学をしている時に、その先生が生徒に「私は何故あなたが分からないのか、その理由が分からないワ!」とこぼしているのを見て、呆れて教室の先生に報告していました。
分からないから、お金を出して習っているのにネ??

10を教わる以前に、音符もわからないままとりあえず弾く事だけはできるようになってしまったので1が出来るまで遠回りになってしまいました。道のりは長いですが楽しみながら親子で頑張ります。
こどもの個性に合わせて指導して下さって、お陰さまで以前より親子でクラシック好きになってしまいました!
お姉さん達、こども達、日々応援してます(^ ^)
2時間前


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1月17日 21:21 ·
「咳が・・・」0

昨日から、咳が完全にぶり返してしまった‼
寝ようとしても、咳が止まらないので、中々眠れなくって困ってしまう‼
あいも変わらずも冷蔵庫にはなにも入っていない‼
しかし、コンビニに食料品を買いに行く気にもならないし、食べに出掛ける気にもならない‼
いつもなら、行きつけの寿司屋で、熱燗でも飲んでいるところなのだろうけど⁉
そういった気にもならない‼
困った‼

・・・なんちゃって、毎回、同じ事を言っているよな??
それにしても、今日は鬱が酷い!!
原因ははっきりしていて、嫌な事があったせいではあるのだがね⁉
しかし、その鬱で、周りに迷惑を掛けないように、・・まぁ、頑張って引き籠もる事にしよう!!



先生どうかお大事に。ネットスーパーが便利ですよ(*´∇`)
1月17日 23:41


有難うさん!!
早速、netで調べて見ましたが、新江古田は配送範囲らしいのだけど、江古田駅周辺は無いような雰囲気だよな??
食材を買っても、料理もしないしね。
デリバリーは、ピザはあるのだけどね。美味しい方のピザ屋は配達区域外で、一人分は配達してくれないし、あまり美味しくないピザ屋だけど、結構高いので人が訪れている時しか頼みません。
・・で、一人だから、頼みたいのに、そういったお店は無いのよね??
矛盾しているのよ!!
1月18日 15:27


イトーヨーカドー上板橋店が範囲かも??
雨の日や重いものが欲しい時も、お総菜やお弁当も買えて重宝してます。
ピザは普段使いにはけっこう高いですよね。「出前館」はどうですか?
1月18日 23:29

あれま~あ、色々と調べてくれたの??有難う!!感謝!感謝!!
椎名町は昭和20年から30年ぐらいのタイムスリップした老人の街なので、近所にも老人食の弁当のデリバリーがあったりしますが、月決めなので、こういった非常事態の場合には、対応はしていません。
江古田は学生の街(大学が3っつもあるので)なので、結構、ラーメン屋の激戦区で、池袋の**軒が2軒もあったりして、食べ物屋も若者向きです。
その分、老人や病人は見捨てられていて、病人食を出しているという、「わたみん家の糖尿病食」でも頼もうか?・・・と思ったのですが、毎日2回の配達らしいので、頼むのは止めました。
ほとんどの場合には、前日の夜食を弁当に持って帰ったり、昼間にセブンに寄れたら、お弁当を買っておいて、食事に備えたりしています。
学生の街なので、お弁当屋は多いのですが、デリバリーはしていないのと、肉肉と脂なので、私には無理なのですよ。
以前出前館のお弁当のカタログが入っていたのだけど、メニュに食べれそうな物が無いので、捨ててしまいました。
千川通りにエスカマーレというスーパーがあって、高級なものを売っていて、老人にも食べれそうな、お弁当も作っているのですが、西武のデパ地下よりも高いのですよ。
ものはとても良いのだけどね??
それと、もう一つ、デリバリーには、ハイツには、構造上の致命的な問題があって、配達に来ても、中で仕事をしていても、呼び鈴もノックの音も聞こえないのです。それで、近場のコンビニで間に合わせているのです。
netの通販もハイツでは届かないので、椎名町の事務所に届けてもらうようにしていて、先生達にめんどくさがられていますが、本当にハイツで、荷物が届いた試しはないのですよ。(勿論、時間指定をしても・・です。)
1月19日 4:15




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Vivaldi Op.Ⅲ Nr.8 2台のviolinのためのconcerto a moll (調和の霊感L'estro Armonico)
1月19日 11:05
生徒さん達にとってはお馴染みの、VivaldiのOp.ⅢのNr.8の2台のviolinのためのconcerto a moll(調和の霊感L'estro Armonico)という曲なのですが、今までも、教室の発表会だけでなく、教室の対外出演でも、よく演奏して来た事のある曲なのですが、国民性のRicordi版らしく、そのscoreやpart譜の間違いの多さには辟易させられます。とは言っても、Ricordi版のscoreは、同じVivaldiの色々な曲を演奏する度に、この曲に限らず、毎回、Ricordi版を使用する時には、その間違いの多さには、辟易させられます。
そのために、訂正用のサポート楽譜(pocket‐score)に使用している日本版のpocket‐scoreも、Ricordi版同様に、どうしようもなく間違いやミス・プリが多くて、これが困った事に、参考にならないのですョ!!

必ずしも、日本人のに音楽家限らず、世界の音楽家達も同様に、出版された楽譜に対して、その楽譜(音符等)を訂正するのは、(多分、作曲家に対しての畏敬の念から・・と思いますが、また、出版社に対しての遠慮もあって、)気が引けて難しいようです。
このa mollの曲の場合でも、3楽章のscoreで明らかに「間違い」と思われる音(3楽章59小節目の2ndの音で、F#でなければならない音がscoreではF♮になっているのを、私が#に訂正したら、梨紗さんが「I MusiciもF♮で演奏している。」と言っていました。しかし、この時代には、e mollのⅠ度の和音で経過音が下行の派生音になる事はないので、(そういった使用法をするのは、Wagnerからの技法になります。)単なるミスプリがそのまま底本になってしまった‥・という事なのです。

私の場合にも、ご多分に漏れず、必要に迫られた訂正箇所を、その演奏の都度に、口頭で伝達して、お茶を濁しているぐらいが関の山なのですが、Ricordi版の場合には、あまりにもミスプリが多過ぎて、私と先生達間の伝達がうまく行かなくなる場合が多過ぎて、オケ練習の都度に、何度も何度も、同じ箇所の訂正をさせられるので、(購入した原譜であるRicordi版に直接訂正をすれば良いのですが、先程も言った、出版された版に直接訂正を書き込むのは、どうしても気が引けるらしいので・・・)等々、今回も、私が、ついに切れてしまって・・、楽譜をrenewalしてしまいました。
・・とは言っても、このお話のpatternは、Ricordi版のVivaldiの楽譜に関しては、毎回繰り返されるroutineになってしまったお話なのですがね・・??

「どうせ、finaleでを楽譜入力し直すのならば・・」という事で、楽譜のrenewalついでに、間違いの箇所の訂正だけではなく、楽譜としては正しいのですが、orchestraとしては、soliとオケの音量のbalanceの悪い所を、concertante‐soloとripieno‐soloに手直してみたりして、色々と弄ってしまいました。
と言う事で、「チョッとやり過ぎでは無かったのかな??」と反省をしたりしながら、参考までにと、You Tubeで色々な演奏団体の演奏を聴いてみたら、何と!!私と全く同じに訂正している団体も結構ありましたよ。
proの演奏家達ならば、わざわざ、soloに変更しなくても、演奏の仕方でオケのpartの音量を抑えるだけでも、balanceを取れるはずなのですが、そこはproであっても、より安全策を取っているのですよね~ぇ??
石橋を叩いて渡る、という確実性の重視という事でしょうかネ・・??

私も、練習の都度に、「整合性T17 2nd T261st 付点4分音符は、T66 2nd、4分音符と整合しない。4分音符がbesser
T26の2ndの付点4分音符はfalsch!T27の音型がrichtig!」等々・・、口頭で伝達を繰り返していましたが、「限が無い」だけでなく、伝達ミスが多すぎるのですよ。
繰り返しミスプリの伝達をしていたら、こっちのミスを訂正していたら、いつの間にか、あっちのミスが、元のミスの譜面に戻っていたりして、結構トサカに来ていたのですが、昨夜の丑三つ時には、すっかり諦めて、これからも演奏して行く常設曲なので、原譜と訂正譜が混在すると、毎回、またまた、同じ注意をしなければならないので、finaleでscoreを入力して、その訂正箇所を修正してしまいました。
kritik‐Ausgabeです。

最初の予定では、Ⅰ,Ⅱ楽章は全面改訂で、Ⅲ楽章は、articulationやbow-slurだけなので、口頭での伝達にしよう・・・と思ったけれど、やはりRicordi版の楽譜だけあって、実際に演奏をして見ると、原譜のmistakeが多すぎるのと、相も変わらずCembaloのpartのRealisationがヘボ過ぎるので、結局、作り直す事にしました。
・・・と言うか、23日(月曜日)の朝の9時にはもう出来ていたのだけどね??

昨日のオケ練習で、楽譜のrenewalの報告をすると、上級生達が、「どうしてそんなに早く入力出来るの??」・・て、驚いていました。
それは、私が、芦塚メトードによる、徹底した「時短の入力法」をしているからなのですよ!!
上田敏さんの「日延ばしは、時間の盗人」という一節が有りますが、「時短」のコツは、薄利多売と同じで、パソコンの入力でも、finaleの音符の入力でも、「如何に、入力する個数を減らすか?」なのですよ!
「時短」の下手な人の口癖は、「そんな面倒くさい手間を掛けるのなら、直接打った方が早い!」という事です。
finaleでもコピペと移調を組み合わせたり、最初に原譜の小節数に合わせた空のtemplateを作って、同じpassageを、同じ小節にコピペする作業をして、虫食い譜を作ってしまうのです。
料理で言う処の「下ごしらえ」の作業になります。
実は、この作業は、音楽理論の中の楽曲分析の作業と同じ事なのです。
練習番号付けの作業が、音楽理論の中の形式学の構造分析と同じ課題である事と同じです。
音楽大学では、非常に難しい科目とされる、この二つの音楽理論ですが、実用の中で学ぶと、小学生でも、ちゃんと出来るようになるのです。此処ら辺が芦塚マジックなのですよ。アハッ!

今回の小学生達の課題にしている、芦塚メトードである「勉強の仕方」のcheck‐noteの取り方ですが、例えば、私のオケ練習のlectureをmemoる場合ですが、昨日の日曜日の報告ですが、宿題の報告では、Ⅰ楽章の中で子供達は10個ぐらいを丸付き数字を付けて、checkをする事が出来ました。
しかし、目下、instructorの指導の勉強をしている千夏ちゃんの場合には、1楽章の中のB-1の中だけで、10個のcheckが出来ます。
ちなみに、B-1の中には11小節ありますが、1楽章全体では340小節あります。
つまり、先生の注意を「正確に」、しかも、「落とし無く覚えて」ちゃんと「理解する」には、「それなりの」、しかも、「そのための」・・「勉強が必要だ!」・・という事なのです。
音楽の勉強に限らず、どのような勉強であったとしても、世の中には、学び上手な子供達がいます。
それを一般的には、才能という言葉で片付けてしまうようですが、Haydn先生やBach先生達の口癖は、「才能という言葉は、努力を惜しむ人達の弁解の言葉である。」と言う事なのですよ。
Haydn先生の正しい言葉は、馬車屋の子供として、非常に貧しい家に産まれたHaydnが、苦労を重ねて、世界の頂点に立った時に、弟子達に言っていた言葉は、「人は無から有を作り出す事が出来るのだよ!私を見なさい!!」という言葉でした。
あの神に愛されたMozartですら、全く同じ事をその手紙で言っているのですから、驚きです。Mozartは、天才と言われるのを極端に忌み嫌っていたのですからね。
「俺は努力をしたのだよ!」
「どうして皆は、それを認めてくれないのか?」という風にです。
では、「どうして同じ努力なのに、差が出来てしまうのでしょうか?」それは、簡単だし、私が何時も言い続けている事です。
努力が、「濃い努力なのか、無駄な努力なのか?」の違いだけなのですよ。
無駄な努力ならば、毎日、7時間、一年中、絶対に休まないで、練習を続けたとしても、無駄に過ぎないのです。この原理は私のオセロ練習法で学ぶ事が出来ます。
本当に意味のある練習を7時間出来るようになれば、世界はあなたの直ぐ前にいる・・・と言う事なのですよ。
・・・もう、いい加減、耳タコでしょう???




パート譜も作り直し配り直しになるのでしょうか…?
1月19日 11:50

part譜に関しては、斉藤先生と相談してください。celloやCembaloは、必要ない・・伝達だけで良いと思いますけれど・・。1楽章のscoreは君達もいるのでは??生徒達には未だ配ってはいないのよね??2楽章は、伝達だけで良いと思います。Cembaloを含めても・・。いずれにしても、これからこの曲を演奏する時には、私のkritik‐Ausgabeからになると思うので、それも含めて、楽譜を整理するようにしてください。
1月19日 12:37


ちなみに、今回のVivaldiのa moll doppelconcertoの演奏のstyle(interpretation)は、一般の対外出演なので、学術的なperiod奏法ではなく、traditionalの奏法で演奏します。
ですから、一般的のYou Tubeの演奏と同じです。
1月20日 10:47


Ⅱ楽章の訂正と、Ⅲ楽章のfinale入力が終わった。今から朝食にしよう!!チョッとくたびれたかな??1時間程休憩しよう!!
1月22日 9:40

3楽章のCembalo‐partと、soloのarticulationを朝9時までに作りあげました。homepagebuilderの調子が悪くて、昨日の夜から延々と朝早くまで格闘しているのですが、soft自体の問題でどうもうまく行きません。finaleも突然bugが起こって、installし直したのですが、それでも直らないので、finaleに問い合わせている処です。それと並行してVivaldiの入力を終わり、朝食を食べ終わって、薬を飲んで・・・、チョッとくたびれた処です。
1月23日 9:59

私は、音楽家なので、鉛筆は2B以上(3B,4B)じゃないと使わないし、シャープペンは、直ぐに折れて、全く使えないので、楽譜を書く時にも、シャープペンを使う事はなかったのですが、今度、uniで1㍉軸のボールペンの4色+シャープペンが発売されて、1㍉軸は魅力だったので、買って使用しているのですが、調べて行くとペンテルからシャープペンの芯で超高度芯・・「折れない(折れにくい)」が発売されていたので、早速買い求めて、uniの4色+シャープペンに使用しています。基本的には、鉛筆は楽譜を書く時以外は使用しないのですが、折角なので、使わない箇所を残しておくのは勿体ないのでネ。梨紗ちゃんにメーカーを聴かれたので、調べて見ました。箱買いしているので、5年ぐらいは補充しないでも良いので、机の引き出しのゴミになっています。最初の話に戻って、Mac時代のfinaleはチョッと酷かったのですが、ハイブリットからは、なんとかfinaleも作曲に使えるようになってきたので、この10年は全くそのhighーuniの2Bの鉛筆も、全く使わなくなって、五線紙も全く使用しなくなってしまいました。論文等もパソコンに直接入力しているので、本当にペーパーレスになってしまいました。
1月24日 21:55





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1月24日 10:53 ·

「教育とNiveau(=水準??)のお話Nr.1」

「教室開設まで」
私は日本の音楽大学はちゃんと卒業したのにも関わらず、教職の免状は持っていません。
大学に入学したばかりの時には、教職の授業を真面目に取ろうと思って、1月間程は、教職の授業には出席しました。しかし、最初の指導要領の講義を聞いた時に、指導要録の本を開いて
「教育とは日本国民として、国家に・・etc」の一節を目に入って、昭和の敗戦の年の生まれの私としては、「チョッと何かが違うな??」と疑問に思っていたのですが、教育学の授業を受けて、「離乳食が・・etc」で、もっと驚いてしまって、「これは教育ではなく、育児だ!」と言う事で、時間が勿体無いので、総ての教職の授業を放棄する事にしました。それでも、他の学生達よりも、倍近い授業時間数だったのでね。

それに、私自身は
「音楽教室等で、子供や中、高生を教える事は、有り得ない!!」或いは「私が中、高校に先生として就職する事は有り得ない!」という考え方だったからなので・・です。
つまり、当時の私は、親から、生活費を送って貰える事はなかったので、生活のために、大学の先生達から音楽大学の受験生を回して貰って、受験指導をしていたのですが、そういった経験上、
「絶対に学校の先生だけにはなりたくない!」と言う事や、「子供への音楽教育の指導だけはしたくない!」・・という前提で音楽の勉強をしていたからです。
未だ音楽大学に入学したばかりで、自分の音楽を極める事の方が、私に取っての最優先事項であって、他人を教育する事・・なんていう事を考える・・(省みる)、ゆとりはなかったからでもあり、音楽家としての、背水の陣を自分に科したからなのです。

ですから、留学から帰国して、某大学に奉職した大学講師時代に紀要に提出した教育関係の論文が文部省関係の人の目に触れて、「『芦塚先生の教育のmethodeを実践して、その理論が机上の空論ではない。』‥・という事を証明して見せて欲しい」・・と頼まれた時にも、子供を教える(人に何かを教える・・)という事自体は、相変わらず好きではなかったので、教育の方法論のサンプルとして、「5年間だけという約束で、『芦塚メトードによる教育法』を、実践してみせます・・」という事で、千葉の音楽教室を始めました。

この話を受けた当時は、私としては、別に音楽教室ではなくても、・・・つまり、一般の学習塾でも良かったのですが、methodeの実践の条件と言うのが、私が指導して教育的な成果をあげても、それは私の指導力になるので、然程の意味も無く、私のmethodeを、学んでくれる先生が、子供達を指導をして、そこで成果が上がって始めて、methodeの実証になる・・という事で、私のmethodeを、学んでくれて、子供達を指導してくれる先生を大急ぎで探さなければなりませんでした。
丁度、その頃に、私が音楽大学時代に、私が音楽大学への受験の指導をした生徒で、音楽大学を卒業して、東京で営業のQuartettを組んでいた昔の弟子が、「私のmethodeを勉強しても良い!」と言ってくれたので、彼女に私のmethodeの実験台になってくれるのをお願いして、結果的に、千葉に音楽教室を開設して、私のmethodeで指導してくれる事になったのです。それが今の花園教室です。

大阪に「芦塚メトード研究会」という、projectを作って、全国から、指導を見学に来れるような状態を作って、音楽教室を稼働し始めて、5年ぐらいの期間を経て、当初の目的であった、私の「methode」の証明が終わった頃に、そのmethodeで学んできた生徒達から、「芦塚メトードでそのまま指導出来る(働ける)音楽教室が欲しい。」と、頼まれたので、芦塚メトードの実践の場であった花園教室を、そのまま、音楽教室として、会社の登録をして、弟子達を会社の役員にして、音楽教室として(それまでは私個人のmethodeの研究室であり、芦塚音楽研究室、音楽教室だったので)、今のような公的な「㈲芦塚音楽研究所」ではなかったのですよ。)
・・・てな、会社設立の話をしよう・・と、思っている分けではなく、今日の「お題」は、「Niveau(=水準)のお話」です。

「競争教育と水準のお話」
日本の学校教育のconceptでは、子供の教育するという事と、競争教育の方向が混在してしまっていて、それが、学校教育の指導の在り方を混乱させています。
学校教育で、社会の仕事を学ぶ時には、「子供である・・」という前提から、子供に無理をさせない、良い所だけを体験させる・・という過保護的な子供への教育(所謂、簡易楽器的な発想)がなされているのですが、その事が逆に、大学で実際の教育実習等で、本当の現場(職場)に体験学習に行った生徒達が、所謂、世間で言う所の「3Kの問題」で、「こんなはずではなかったのに・・??」と、夢を挫折させるだけでなく、大学を中退する事さえ増えて、社会問題になっています。
私達も、よくその手の相談を学生から受ける事もあります。
そう言う風に、過保護的に、良いとこ取りのボランティア活動に絞って、社会勉強をさせている中学、高校と言えども、一旦、受験になると、突然、社会の現実になって、生徒達の評価の対象が成績のみになって、成績を上げる事が、教育の唯一の目的となってしまいます。
つまり、大学の受験や、資格の試験になった途端に、水準が唯一の基準となってしまうのですよ。それを一般的には、ボーダー・ラインという言い方をします。そのborderlineとは、受験に合格出来るか否かではなく、「受験が出来るか否か」の線引の話になってくるのです。

此処で学校教育のborderlineのお話をするのは、どのような世界であったとしても、社会は競争社会である事実は変わらない・・という前提をお話するために・・なのです。
そこは、音楽の指導やathlete達の教育にしても、学校教育と同様に、教育の基本は競争教育が一般的なのです。

しかし、競争教育であったとしても、「その競争に参加出来るか否か」は、borderline(所謂、厳しい水準)があって、その水準に到達出来ないと、競争に参加する事すら許されません。
それを分かり易くしたのが、center試験であります。
center試験が行われるようになる以前は、「どうせ落ちるならば、東大!」とか、合否を判定して貰う以前の、夢だけを押し通しての受験でイタヅラに有名大学に受験生が集中して、大学側を混乱させていました。center試験と言うのは、夢と現実を混同させないようにするための配慮でもあったのですよ。

そこの所は、職人の世界に似ています。
職人の世界では、どんな初心者でも、その作業がどんなに簡単な作業であったとしても、水準に達しているか否かの判断や、評価の基準(borderline)は、初心者でも、20年、30年のベテランでも変わらないのです。
そこが初歩には、初歩なりのborderline(=水準)を与えてくれる学校教育の保護主義と職人の世界の基本的に違う所なのです。

芦塚音楽教室と言えども、所詮は、法務局的には、利潤追求の一般の音楽教室に過ぎないので、一般のカルチャースクールとして、趣味の生徒達にも、音楽を楽しく指導lectureします。

一般の音楽教室と、私達の教室の一番大きな違いは、一般の音楽教室や、カルチャースクールには、その技術の指導はありますが、教育の指導はない・・という事です。教育には利潤追求と言う意味はないからです。ですから、私達の教室でやっているbaroqueの演奏にしても、オケ・室内楽にしても、会社としての活動として認められている分けではありません。あくまでも、私の個人的な希望で行われている事にしか過ぎません。

昔から、一般論として言われていた、「子供達の教育は学校で指導されて、家庭はその補佐をする」‥・というような考え方なのですが、今は、教育指導は学校では実際にはおこなわれていないようで、教育は総て家庭に任されているようです。
もしも、学校が教育的な機関であるとすれば、いじめの問題等も一瞬で直す事が出来るはずです。
いじめの原因は簡単です。
いじめには二つの要素しかありません。
いじめは社会の歪の反映に過ぎないのです。
それは他人、他者との競争と、異種・異分子を排除しようという現代社会の歪が引き起こすものです。
その顕著な例が、イスラム国であり、トランプの保護主義なのです。それらは、学校でのいじめの将来の型なのですよ。
競争を助長しているのは、学校教育そのものであり、先生達自身でもあるのです。
しかも、「競争を無くす」‥・という事の一番お粗末な解決が、軍隊や宗教のように力で支配する事なのです。
それは「負の意味での平等」に過ぎないのです。

学校が勉強を教えるだけの場所であるとすれば、塾のhow-toに敵う分けはありません。塾には教育という縛りが無い分、また、淘汰をする事が出来る・・という事に於いて、学校よりも、成績を上げるという命題を熟す事は楽な事になるからです。
と言う事で、面白い事に(笑える事に)塾と学校のコラボがおこなわれたりしています。
その話を聞く度に、本末転倒に、笑いが出てしまいます。アハッ!

一般の多くの人達が勘違いをしている事なのですが、技術を指導するのが学校であり、音楽大学であるのならば、その土壌からproが育つ事はありません。
proは技術の賜物ではないからです。
どの道であったとしても、proに成れるか否かは、proとしての意識を持てるか否かなのです。
そこの処は、日本の教育制度の在り方と、私の考え方の根本的に違う所です。

「競争教育について」
学校でも、concoursでも、受験でも、日本の教育の総てが、生徒達のtopになるための努力によって、評価されます。
音楽以外の場合には、それでもそれ相応の成果を見せる事が出来るかもしれませんが、音楽の場合には、solisteとして世界一になるのなら兎も角としても、violinでもcelloでも、一人で演奏会を開く事は出来ません。
concoursに出場する場合でも伴奏者が必要だし、音楽の世界では、人との協調が基本として必要となるからなのです。
競争教育では、1番になれなければ、それは総て挫折になります。
考え方はsolisteは一人しか、必要ないからです。
では、音楽大学の学生がどんなに努力をしたとしてもproに成れる事は100年に一度の奇跡でしかありません。
どうして、音楽を勉強する人達がそこの所に気づかないのか、不思議でしかありません。
もしも、音楽でproとして、活動をしたければ、proとして活動出来るように勉強すれば良いだけなのですがね??genreをしっかりと決めて勉強して行けば、世界一の演奏家になる事も不可能な事ではないのですがね??

しかし、残念ながら、明治時代の「音楽事始め」から日本社会では、間違えたsoloとしての教育が罷り通って来ました。
「日本では、戦後、音楽が一般的になって来た」と思われているのですが、それは間違いで、明治から大正、昭和に掛けて、「夕方になると家々から音楽が流れて来た。」という時代があって、多くの文豪達にその光景が描かれています。しかし、第一次世界大戦と第二次大戦を経て、一度完全に音楽が忘れられてしまったのです。
ですから、今、やっと出版されているHohmannの全5巻の作品や、Ravel等のPianoの作品、Faure 等の多くの作品等の多くは、昭和初期や大正年間に出版されていました。
その当時の楽譜を、私はハイツのarchiveに個人的に収集して、所有しています。
戦前の音楽教育が根無し草になった一番の原因は、音楽が一人の楽しみとして日本に入って来て、室内楽やorchestraとしての音楽が入って来る事が全く無かったからです。
しかしながら、音楽は一人では成り立ちません。
音楽で、一人で演奏家として成り立つのは、室内楽やorchestraとの共演を拒むpianistか、organistの場合だけです。
こんにちの音楽教育は、その「明治時代の音楽事始めの過ち」を再び繰り返しているだけなのです。
歴史から学ぼうとしないのは、音楽の技術の面やinterpretationの面だけではなく、そういったヨーロッパの音楽が育んできた一番のエキスの部分を学ぼうとしないからです。
下の絵は、彭城(サカキ)貞徳(和洋合奏の図)明治36年頃の長崎美術館蔵の作品です。

基本的には、音楽教室は、何処の音楽教室であったとしても、教育機関ではなく、巷のカルチャースクールに過ぎませんし、音楽大学も、単なる一般的な教育機関に過ぎないのです。
一般大学と同様に、proを養成する分けではなく、その道への導入をするだけなのです。
そこから、proに成れるのか否かは、本人の努力次第なのですよ。
大学を卒業して、会社に就職をして、それから、仕事へのskillを磨いて、その道のproになる・・というのは、どのような世界でも同じなのです。

つまり、私が何時も言っているのは、athleteの場合や音楽家、Ballerinaの場合のように、体を作って行かなければならない職種の場合には、中学生や高校生で、その道に入るための努力をしたとしても、到達出来る水準は、限定されてしまうのです。ですから、音楽やathlete、Ballerinaの場合には、中学生、高校生で音楽の道に進むのは、無理難題なのですよ。

学校教育でも、音楽大学でも、教室の発表会でも、その生徒の出来る範囲内で評価をします。しかし、これが受験やconcoursという事になると、社会の競争教育と同じなので、評価されて、水準に達していないと、落とされてしまいます。これが社会的評価です。
つまり、proとして社会で働いて行くためには、その水準が要求されるのです。

音楽教室の場合でも、発表会やおさらい会等で、演奏する場合には、その生徒達のNiveauや、出来る範囲で演奏していく事が出来ます。しかし、対外出演というのは、社会に対しての活動なので、proになるための、準備段階として、そのNiveauを学ぶ必要があるのです。人と比較して誰が1番かと言うのは、音楽の世界にはありません。proとして必要なのは、その演奏がその水準に達しているか否かなのです。

自分が、生涯のライバルと思っていたとしても、自分も、そのライバルも水準に達していなければ、それは誰も認めてはくれない・・それが社会の現実であり、proの世界なのです。学校教育とは違うので、幾ら努力をしたとしても、それが認められる事はありません。
世界のconcours、国際concoursともなると、水準に達した人がいない場合には、1位、2位、3位抜きの、4位と言う事もザラなのです。
一位の水準の人はいない・・という事です。
職業として、何かを学ぶと言う事は、幾ら頑張って、努力して、何かを作ったとしても、水準に達していなければ、その努力が認められる事は無いのです。その反対に、何の努力をしなかったとしても、その作りあげたものが水準に達していれば、それは売れるのですよ。アハッ!

「子供の憧れとcapacityのお話」
子供達は、音楽の指導がうまく行っていて、子供の性格が積極的であれば、capacity以上に、頑張ろうとして、自滅する事もあります。
反対のcaseでは、同じに指導がうまく行っていたとしても、子供の性格が消極的な場合には、もう少しcapacityを増やしてくれると良いのにな??と思う事もあります。
こういった消極的な場合には、子供を乗せて少しづつ積極的にしていけば良いので難しくはないのですが、問題は逆の場合です。

指導する先生の立場としては、積極的な生徒が、頑張ってcapacity以上に色々と勉強をしようとするのを、安全策を取って、capacityを守らせる事は、子供のやる気を削ぐような感じになってしまうので、指導者としては、あまりやりたくない事なのです。
しかも、子供達の場合には、幾らcapacityを狭めてNiveauを高めようとしても、子供達の場合には、それでNiveauを上げると言う事は、難しいのですよ。
子供の場合には、守備範囲を狭めても、逆に広げても、どっちみちNiveauが上がる分けではないのでね。
まあ、それでも、子供達はcapacityの中で努力をしなければ、潰れてしまいます。
もっと面白い事は、Niveau(成績)はその人の持っている意識で決まるという法則があるのです。
教室でも、今は受験のために、音楽をお休みする生徒が多いようですが、学校の成績が本来は50点ぐらいの生徒でも、音楽が70点ぐらいの水準を持っていたとすると、勉強も70点ぐらいの成績を取れるのです。しかし、音楽の勉強をお休みして、最初の2ヶ月ぐらいは一次的に成績が上がるかも知れませんが、その期間を過ぎると、その生徒の、本来の勉強の成績である50点に戻ってしまうのです。
つまり、成績を引き上げていたのは、音楽の勉強で持っている意識による水準だったからなので、勉強の意識の水準に戻ってしまうのです。
私達は子供を見る時に、その子供の意識で、成績や音楽的な水準を判断します。
音楽への意識が70ぐらいの生徒ならば、勉強に専念しなくても、意識をチョッと勉強の方へ持って行くだけで、勉強の成績も70のrankにする事が出来ます。
音楽の意識が70でも、勉強が50の意識しか無いとすれば、その生徒が音楽をお休みしてしまうと、その生徒の意識は50になってしまうので、勉強の成績である50に戻ってしまう‥・という事なのですよ。



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1月25日 14:25 ·

「教育とNiveau(=水準)のお話Nr.2」
「人生3度の分かれ道」
Genzmer先生が、若いpianistの女の子にadviceをしていた「人生には3度のchanceがある」と言う言葉は、これまでそのまま、多くの人達、生徒達に伝えて来たのですが、その言葉自体の持つ簡明さから、その内容の奥深さが理解されないままに、軽く捉えられてしまう事が多かったのですよ。
先ず、多くの人達は、自分の人生を分ける「分かれ道」を、「分かれ道」と判断出来ない・・事の方が多いのです。
人生の分かれ道は、ほんの些細な事や、何気ない選択から、大きく分かれて行きます。
ですから、私が、その一つ一つの分かれ道に対してadviceをするのですが、結局の所は、幾ら説明をしても、・・その場では分かったような顔をしたとしても、結果的には、「一番安直な道を歩む人達しかいない」‥・という結論に達してしまい、advice自体を諦めてしまいました。

Genzmer先生に直接adviceを受けていたその女の子ですら、Genzmer先生の言われている理屈は分かっていたとしても、将来の夢ではなく、今現在の自分の感情をcontrolする事が出来ず、夢は夢として、一般的な楽な道を歩んで行ったからです。
私のadviceを参考にして、「家族で相談する」・・と、言った時点で、その判断は、「音楽とは無関係の音楽の世界では素人の判断」になるのですよ?
athleteであろうと、balletの道であろうと、それは職人としての、proの道なのです。その勉強の方法は一般の勉強の仕方とは全く違いますし、その社会は、一般の社会とは全く違うのですよ。
「そこの所が分からないから、proの人に相談をする」・・という所までは理解出来るのですが、その判断を、学校の先生や、親同士での相談で、出来る分けはありません。学校の先生は多くの生徒達の進路相談をして来たように思えるのかも知れませんが、成績で割り振っただけだし、ましてや、音楽の世界の事を知っている分けでもありません。音楽のproの社会の話が、一般の人達の知識で、手に負える分けはありません。
だから、人の一般一般論としての、素人としての傍目の間違えた選択肢を選んでしまうのですよ。
この事が、何度説明をしても一般の人達には理解出来ない。
親達にとっては、始めての経験で、最良の方法を選択したのかもしれないけれど、私達の場合には、100名近い多くの子供達の未来の現実を見て来たのですからね。そこには、断固とした現実があるだけで、夢の夢はないのですよ。

つまり、私達の教室の話ではなく、一般論としてお話をしたとしても、「中学、高校の勉強の延長線上に音楽大学は無い」のですよ。そんな当たり前の事すら、私が何度説明しても理解出来ない。
高校生になって、決断が出来る音楽の世界というのは、現実的には有り得ないのですよ。(勿論、有名私立の音楽大学に入学して、卒業と同時に結婚して、家庭で近所の子供達の音楽のlessonをする、ぐらいなら、何の問題もないのですがね。)proとして演奏活動を続けて行きたい・・と願うのなら、それは無理の無理の話です。

だから、私に「判断を仰ぐ」・・というのと、私の「意見を聞きたい」・・というのでは、その人の人生の目的や目標が違って来るのです。
私の意見を聞きたい・・という人達は、これまでも多くの人達が私の意見を求めて来て、質問して来た人達と同じ数だけ全く同じadviceをして来たのですが、そのadviceが報われた事はありません。その人達にとっては、質問は質問に過ぎず、回答は質問の前に既に決まっているのですよ。
私にとっては、その人達へのadviceは、常に同じで、(耳タコではなく、)口タコなので、これ以上、何度も何度も同じお話をしなくても良いように、homepageのあちらこちらに詳しく書いておきました。
私からのadviceを色々と聞いたとしても、自分達で判断をして、家族の中で決断をしたい人達や、私に、あくまでも「参考までに」意見を聞いてみたい人達は、是非、先ず最初に、私のhomepageを参考に読んで見てください。それで、何か、それ以上のものを得たい場合には、喜んでadviceをしたいと思っていますからね。

オケ練習の時にも繰り返し、何度も何度も、言っているように、「山を登るのは大変な努力と時間が掛かるのだけど、山を落ちるのは一瞬にしか過ぎない・・で、改めて、もう一度チャレンジしようと思っても、二度と戻れないのが一般的なのだよ!」
音楽を将来の趣味にする場合には、正しい技術を習得する必要はありません。中学や高校のズブの素人の先輩が学校の部活で教えてくれた、100年も前の「音楽事始め」の時代の古めかしい日本にしかない奏法をそのまま学んで、「腱鞘炎は、練習をし過ぎた結果なので、それを克服しないと真の音楽家にはなれない」・・とか言って、「腱鞘炎は練習の成果なのだ!」とか思い込んで、二度と弓を持てなくなって、音楽の世界から去って行けばそれで良いのですよ。
教室で幾ら正しい奏法を学んでも、一度、部活の演奏法に慣れてしまったら、元の教室の正しい奏法に戻るのはほとんど不可能です。
教室の人達のお話ではなく、一般的な音大生にも、そういう人達は結構多いのですが、脱落していった仲間のそういう負のお話をする事は絶対にありません。
だって、そのお話をすると言う事は、今、現実に自分がやっている事を否定してしまう事になるからなのですよ。

正しい奏法で練習をするのなら、何時間練習しても、腱鞘炎になる事はありません。
腱鞘炎は、奏法が不自然だからなるのです。
violinを学ぶ事、Pianoを練習する事に腱鞘炎は当たり前・・と言っている人達は、自分の過ちを認めようとしない人達です。そういう人の言う事を聞いて、正しい道が見えない人達に音楽は微笑む事はないのですよ。ましてや、proを目指す人達がそういった悪い奏法をする分けはないはずですからね。
それは、当たり前の事ではないですか??ベルリン・フィルのSchwalbé先生が日本に来る度に、「AIDS奏法が酷くなる!」と嘆いていましたが、その大元の先生はもう、お亡くなりになったのに、AIDS奏法は益々酷くなる一方です。

私が音楽の世界に旅立とうとしている生徒達に言っているのは、こう言ったお話は、もう音楽の道に進むという事を決めた段階で、adviceを受ける立場ではなく、adviceをする立場に変わるのだよ!という事です。
「甘えの構造」の母系社会である日本では、教育大学の学生達ですら、「教える立場を学んでいる」という自覚がありません。
現場に出て、行き詰った時に、周りの友人達に相談すればなんとかなる・・と思うのは、どんぐりの背比べか、ブリューゲルのマタイによる「盲人の寓話」に過ぎないのですよ。

一般の人達が音楽の道に進もうとする時には、幾つかの壁を乗り越えなければなりません。私が子供達を指導するのが、嫌いだった・・という、その最大の理由は、音楽を学ぶ子供達や親のブレです。
音楽大学に在学していると、大学の音楽教室に来る生徒達は、親が子供を音楽の道に進ませたい事を望んでいる親達の集団です。
ですから、どんな厳しいlessonであっても、先生の無理難題の指導にも、泣きながらでも耐えて、付いて行きます。それだけ、頑張っているのなら、全員が音楽大学に進学出来るはずなのですが、親が幾ら頑張っても、指導する先生の側のlevelが低ければ、その生徒達が、音大に進学出来る事はないし、ましてや、その難関の音大に入学出来たとしても、留学出来たとしてもproに成れる分けは無いのです。
私が音楽大学の学生であった頃に指導をしていた音大の受験に失敗した生徒達は、「音楽の道に進む」と言う事に関しては、もう、親も子供も、ブレは全く無いからです。
つまり、私は親や子供達の、心の悩みの問題を解決してあげる必要は全く無く、音楽上の技術の面だけを指導し、水準を超えさせれば良いだけなので、受験が決まっている生徒を指導するのは、極めつけに簡単な事なのですよ。
(但し、この場合のお話は、一般の音楽に進学したい学生の場合であって、教室で音楽を学んでいて、音楽の道に進みたいという生徒の事ではありません。教室の生徒の場合には、音楽の演奏の技術は極めつけに優れているのですが、音楽を仕事として勉強しようとする意識は、親も子供も全く無くて、そこの厳しさは一般の方が、遥かに厳しいからです。教室の生徒の場合には、技術ではなく、意識の点だけを見ると、趣味の延長線上から抜け出していないのですからね・・??)

私達の音楽教室であったとしても、音楽教室である限り、カルチャースクールの延長線上に教室があるという現実は否めません。

しかし、生徒達の技術が一般の音楽に進学したいという事を望んでいる生徒達を凌駕するようになると、当然、音楽をlifeworkにしたい・・という生徒達が出て来るのは、当然の話です。
そういった生徒達は、学校教育とは対して変わらないculture‐schoolの延長から、意識を直さなければなりません。
芦塚音楽教室を開設して、音楽に進む生徒達が増えてからは、音楽という職業はどういうものか?というお話を、一般的な風評の誤りを正すというとてつもなく面倒くさい事から始めなければならなくなってしまいました。

今、テレビで松たか子主演の「Quartett」という番組が始まって、その名前に釣られて、あらすじを読んでしまいました。音楽のproとして、チョッとだけ技術力が足りないmemberが、バイトをしながら、あちらこちらで演奏活動を続けている恋愛模様のてんこ盛りです。
最初は、チョッと笑ってしまったけれど、良く振り返って考えて見ると、音楽大学を卒業した人達は多かれ少なかれ、そのように思っているのかもね??と、考えさせられてしまいました。

留学から帰って来て、演奏活動の場もなり人達に良く「演奏する場所が無い!」と相談されるのですが、「じゃあ、私達とコラボしませんか?」と声を掛けてあげても、それで来た人はいません。
今は、音楽活動を諦めて、音楽大学の先生をやったりしているようですがね。

一番多いお話は、「Classicでは食べていけませんよね??」というお話ですが、Classiconlyで50年間生きて来た人に聞く話ではないと思うし、私は音楽教室で子供を指導して、そのお金で、食べているのでは無いですからね。音楽教室では、演奏活動もbaroqueのconcertも、禁止されているので、(収入のための演奏活動ではないので、有限会社の活動としては、法務局が認め無いのです。勿論、演奏活動を個人の立場でやるのは構わないし、有料で演奏活動をするのは、法務局の指針に沿っているのでもっと問題はないのですがね。)私の個人的な財産で、その演奏活動をやっているのですからね。音楽教室は私にとっては、趣味の世界なのですからね。

親は学校で真面目に勉強する事が、子供に大人になる、或いは、社会人になるsomethingを与えてくれる・・と信じて疑いません。
私も、或る分野では、それを否定はしません。
その或る分野とは、子供が将来の目標を持たず、良い(この場合の良い‥・という意味は名の売れた一流と言われている・・という意味です。何故ならば、目標を持っている場合には、良い大学の意味は有名大学ではなく、良い研究をしている・・或いは、良い指導者のいる大学に変わるからで、そういった大学は必ずしも有名大学ではないからです。)大学に進学し、何処でも良いから一流企業に就職して、将来を期待される男性と結婚する・・とかいう目標です。
学校教育では、子供用にデフォルメされた教育教材をデフォルメされた技術で、サワリならばまだしも・・そうではなく、導入の一部の良いとこ取り・・だけを、指導します。
私は、昔は、それが音楽の分野に限った話だ・・と思っていたのですが、大学の講師時代に美術や、演劇等の色々な分野の人達と親しくお話をする機会があって、そういった学校教育の問題点を話た時に、それぞれの分野の人達が、全く同じ悩みを抱えている事を知りました。
文部省でしか有り得ない、日本の放送界の音楽の発声法による、合唱concours等、Classicに人達の目から見ると、理解し難い独特の発声法なのですが、それが合唱教育としてまかり通っているのですからね。
それが、中、高生のボランティア活動等も、会社見学等も同じなのですよ。



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1月25日 21:12 ·


「教育とNiveau(=水準)のお話Nr.3」

「私が音楽の道に進んだ人生の間違い」
一般的には、音楽家equal演奏家と思われる事が多くて、私が一番、よく人に誤解される事は、私が「演奏家・・、つまり、proのPianoのsolisteになりたくて(表舞台で活躍したくて)、音楽大学に進んだのでは??」※)という大きな勘違いです。
実は、私は(小学生の頃から、基本的には対人恐怖症なので)人の前に出る事も、外で演奏活動をする事も好きではありませんでした。
私が音楽大学に進んだ最大の理由は、中、高生の時に読んだ作曲家の伝記による勘違いで、「作曲家は竹林の七賢人のように、孤独で孤高の存在である」・・と思い違いをしてしまったからです。

「上手な演奏と人を感動させる演奏」
私自身は人の前で演奏するのが好きではないので、ほとんど演奏活動をした事はありませんが、それでも、やむにやまれぬ諸事情で、外で演奏をする事があります。
演奏会では、不思議な事に、とても優れた演奏でも、良い演奏であったとしても、基本的には、audienceの側からのrepeatが掛かって来る事は稀でしょうかね。
それぐらい、Classicの音楽は、非日常的であり、ツンデレの世界かも知れません。
しかし、私が外で演奏活動をすると、必ず、私に演奏を依頼した人達や聴きにいらしてくださった人達から、次の演奏へのrepeatが掛かります。
私の大してうまくもない演奏や指揮に、repeatが掛かって、私よりも数倍も上手な演奏家達の演奏や、proの人達の演奏に対して、repeatが掛からないのは、とても不思議なのですが、それを熟考してみると、その違いは、私と日本の演奏家達との音楽に対する姿勢の違いだと思います。

それは、私の演奏のconceptが、「上手な演奏ではなくて、人の心を感動させる演奏でなければならない」という事を目標にしているからなのです。
「ミスのない、上手な演奏を、演奏の目標にするのではなく、clientからrepeatの掛かるような演奏でなければならない」・・というのが、私のconceptなのだからです。

でも,「人の心を打つ演奏」というと、よく「聴衆に媚びた演奏」と、勘違いされる事が多いのです。
大衆の好むイージー・リスニングの曲や、Classicであったとしても、非常に有名な曲だけを集めて・・・、etcです。
しかし、repeatの掛かる演奏と言うのは、audienceに対して媚びる演奏では、絶対に有り得ません。
媚びる演奏をすれば、二度と演奏のorderは掛かって来なくなります。
音楽を勉強している人達の多くがそこの所が分からなくて、悩んでいるようです。私達に取っては、何故悩むのか・・さえ、分からないのですがね。心の落とし所が違うと、本当に別世界になってしまうのですよネ??

私が子供達に何時も厳しく言っている言葉も、「上手な演奏ではなく、人の心を感動させる誠実な演奏でなければならない」・・という言葉なのです。※)
子供達がひたむきに誠実に音楽に立ち向かって演奏しているのならば、必ずrepeatが掛かって来るのですよ。

この文章の冒頭でも述べたように、私は、人と協調するのが小学校時代からとても苦手で、芸術家は「自分の部屋に閉じ籠もって作曲だけしていれば、自己主張や自立した生活が出来るのでは??」というとんでもない勘違い・・から、音楽の道に進んでしまったのですよ。作曲家とは、音楽界のリーダー的な存在であり、社会的な活動の中心であるとは、Genzmer先生に指導されるまでは、思っても見なかった事した。

・・という事で、私の日本での音楽大学時代は、周りの学生達は、演奏家は楽器の演奏だけが優れていれば良いので、自分達は「練習だけしていれば良い!」という勘違いをしている学生がほとんどでした。
他校の大学の作曲科の学生や、美術大の学生、演劇大学の学生達と飲み会等で交流をすると、お互いの意志が通じるのですが、自分の音楽大学の学生達とは全く意思の疎通は出来ませんでした。
つまり、音楽大学では友人は一人も出来なかったのですよ。また、高校時代に大病をした時の後遺症が治りきらずに、授業のための教室の移動で大学の階段を2階、3階まで登るのもしんどくって、踊り場のベンチに休み休みしながら、教室を移動していて、学校の教務課の先生達や校務医の先生は「大学を卒業は出来ないだろう?」という事で、東京での親戚の叔父と一緒に、大学在学中に死んでも、大学は一切責任は負わない、という書類に署名をさせられました。やはり、高校時代の後遺症で、音楽大学時代にも、半年程、大学病院に入院したり・・しました。

大学を卒業して、Münchenに留学したら、学生のほとんどは私よりも歳上だし、殆どの学生が男性だったし、皆がproを目指している人達だったので、人生の目標が皆同じだったので、友人もいっぱい出来て、話も通じるし、牛乳もビールも添加物は入っていなくって、空気は乾燥していたので、ヨーロッパの生活は結構住みやすくて、体調もすっかり、戻って健康になってしまいました。
免疫力と言うのは、本当に、自分の気力が充実しているか否かの問題なのですよね。
音楽大学では、「明日まで、生きているだろうか??」と言われて、大学病院の先生からは「30の壁までは・・」言われていた私が・・、留学をする時には、「生きては帰って来ないだろうかな?」と思って送り出したお袋が、健康になって帰国した私を見たのは、Genzmer先生の厳しい、周りの学生達に「よく生きているね!」と驚かれるようなlessonのおかげだと思って言ます。

それでも、留学中の生活を続けるには、二つだけ、大問題がありました。
その一つは、日本の学生時代に留学のために溜めていたお金が、底を付いて来た事です。そこは養父に、「歳を取って、働けなくなったら誰が面倒を見ると思っているのだ!」と脅迫をしたら、「そこまで思ってくれているとは思わなかった!」と感激されて、最後の1年間の生活費を出してくれる事になりました。
二つ目の問題は、Genzmer先生に、「作曲家は総ての音楽家を統率する役目を持っているのだよ!」と、引っ込み思案の私に対して、「もっと、積極的に音楽家達を統率するように」と、諌められた事です。

時代は遡りますが、確かに、日本の音楽大学での学生時代の時でも、NHKのconcertmasterでもある先生達と管の生徒達と、一緒に飲みに行ったりすると、先生が私に対して敬語で喋って来るのです。そこで、先生に質問をしたら、「演奏家は常に作曲家に対しては、尊敬の念を持って接しなければならないからです。」と言われて、「学生であっても、作曲家は作曲家だからね」と言われた事を思い出しました。特定の先生ではなく、演奏家である先生達皆がそうだったのですよ。つまり、当時の大学の演奏家でもある先生達は、そういう意識と気概を持っていたのですよ。

München時代のお話に戻って、italiaの作曲の国際concoursに一位を取った時も、Genzmer先生は、「君はPreisträgerなのだから・・」と、その後は1人前の作曲家として、扱われて、敬語でお喋りをされて、とても困った事があります。
自らが世界的な人達はそういった謙虚さを持っているのですよネ。本当の自信がない人達は、その自信の無さを威張る事で補うようですがね。

日本に帰国してから、NHKの子供向けのお話の音楽を頼まれた時に、有名な童話作家の女性の方と打ち合わせをしたのですが、番組で用いる音楽対して、その作家先生と大喧嘩をしてしまいました。「その先生のために、毎週、私が音楽を提供するのは、私にとって感情的に許せない」・・と言う事で、私を紹介してくれた人には大変申し訳なかったのですが、その有り難いお話はお断りしてしまいました。
日本での私の職場を探すために、色々なorchestraや指揮等の現場、録音スタジオ等にも出入りをして、生活のために、小銭を稼いだりして見たのですが、やはり、そういったマスコミ系の仕事は私には向いていない事が分かりました。(でも、マスコミ系の仕事は、直ぐに家が建てられる程に、小銭でも稼げたのですよ。でも、大学の時のバイトと同じで、やはり、そういった場所でのタツキはあぶく銭にしかなりませんでした。幾ら稼いでも、貯金も出来ないで、飲み代として、消えて行ってしまうのですよ。つまり、稼ぎも大きいけれど、その分、生活も派手だ‥・という事です。
次に大学に就職する事を考えたのですが、実際に、の大学講師室に行って見ると、何もしない日常と安定した生活で、ほのぼのとしてしまって、大学は演奏界の現場の仕事に疲れた人達にとっての保養所であるか、最初から、現場の厳しさに耐えられないお嬢様達の地位を約束する場所・・という気がしてきて、それでも、幾つかの大学に一応努めては見たのですが、「自分が堕落してしまうから、絶対に5年以上は勤めない」・・と、自分に厳しく諌めて、それを守って、5年目には総ての大学に務める事を止めてしまいました。
世の中とは面白いもので、無職の時や、大学の講師をしていた時には、音楽大学生や音大の卒業生達が私の元に、大学で物足りない‥・という事でlessonを受けに来ていたのですが、音楽教室を作った途端に一人の学生も、そういった理由では来なくなってしまいました。音楽教室の経営者である私は教えを請う人間ではなく、就職の場所にしか、過ぎなくなってしまったのです。
その他にも、本を出版したり、何をしたり、蟹をしたりと、色々とやってみたのですが、その何れの職業も、私のlifeworkとするには程遠かったのよね??
困った事に、男性には、結婚という就職先はないしね・・??
えつっ??あるの???
そう言えば、そんな話もあったよね??アハッ!



※)ご存知の方も多いと思いますが、私がPianoを習い始めたのは、大学病院に1年間、入院した後の高2の時からです。(ですから、実際には1年ダブっているので、通常なら高3の年齢になります。)
音楽大学に入るために必須であるPianoを水準まで持って行くために、受験高校であった高校の授業が終わって夕方の補講が始まる前の4時には、学校を自主退校して、それから全くトイレにも行かないで、9時過ぎまで猛練習をそれこそ毎日休まないでしました。
日曜日は練習の不足を補うために、朝の9時から夜の9時までぶっ通しで練習しました。

学校の補講は、早朝の補講が授業が始まる前の6時から9時までと、4時から9時まであったので、「練習が大変だ!」という意識はありませんでした。
学年主任の先生は、「音楽大学と言えども、文部省の指導要領に従わなければならないので、高校の音楽の授業をちゃんと受けていれば音大には合格出来るはずだ!」ととんでもない事を言って私や担任の先生を困らせました。
担任の先生は英語の先生ですが、大学では心理学を専攻した先生で、フロイドや仏教哲学を教えてくれました。
音楽が好きなので、私の受験の事情を良く理解してくれて、音楽の先生と共に、出席日数を計算して、休みの取れる期間を出してくれて、「大学病院で診断書を貰って来なさい!」と言ったので、大学病院で主治医の先生に「先生、診断書書いてください!」「どれくらいの?」「絶対安静で、即、入院の・・」というと直ぐにその場で書いてくれました。
早速高校に持って行くと、担任の先生が、「誰にも見つからないように、即、東京に行きなさい」と言われたので、その場から、駅に直行して東京へ出かけました。
従兄弟の知人の方のPianoの部屋を借りて、それこそ朝の9時から夜の9時まで、毎日、3ヶ月、トイレにも行かないで練習を続けました。
夜、9時に下宿に帰る途中で一日一回の食事と、風呂に入って、それから2時頃迄は和声学や音楽理論の勉強をしました。

作曲の先生の所には、お父さんが有名な作曲家で某有名音楽大学の教授でお兄さんが現役の音大の作曲科の学生で、私と同じ大学を受験する女の子がいて、8月頃に始めてその先生の元で一緒に勉強をした時に、「まだそんな所をやっているの?」と嫌味を言われてしまいました。
受験直前に、再び、「あなた、何処をやっているの?」と聴かれたので、「お前、未だそんな所をやっているのか?」と半年振りのしっぺ返しをしました。
「本当に嫌なヤツだ」と、我ながら思いますネ。
そして大学では4年振りのたった一人の作曲科の学生と言う事で、音楽大学に入学出来て、憧れの日本でただ一人の外人教授であるPringsheim先生の門下になれたのですが、授業は甚だ不本意なもので、しかも、大学の雰囲気は、華やかで艶やかで、「これは単なる花嫁学校ではないか??」「こんな勉強をしていたら、音楽でproになるのは不可能だぞ??」と、すっかり大学の授業に失望してしまい、憧れのPringsheim先生との仲も険悪になって、2年次には、中途退学を考えました。
西武グループの顧問である平田先生から、「何処かの大学は卒業していた方が良い」とadviceを受けて、「留学するための下準備をしよう。」と思い直して、Pringsheim先生とも仲直りをして、大学を私有化して、留学に望みました。
しかし、この間に、Pianoや作曲に対する情熱は、すっかり醒めてしまって、pianistである条件の毎日休まないで、数時間は練習をするという気力は失われてしまいました。

それに、音楽教室を開設するにあたって、「母校の卒業生でも雇ってあげようか?」と思ったのですが、就職課の先生達の余りの、生意気さに辟易して、「母校の卒業と言う事で大学のお世話になっているのだから・・」と言われて、「俺の最終学歴はMünchenだよ!」と捨て台詞を吐いて、申込み用紙をその場で破り捨てて帰って来ました。
私自身、留学から帰国して、既に50年も経ちますが、一度も日本の音楽大学の事を履歴にも、書いた事はありません。
音楽を職業とする限り、日本の音楽大学の履歴は、proの世界では必要はないのです。
日本のproオケでも、音楽大学以外を卒業している人の数は非常に多いのですからね。
1月26日 9:14

少しでも、読みやすくなるように、行間を開けたり、文章の修正をしていたら、文章がブッ飛んで、写真だけになってしまいました。編集履歴から、コピペして、元に戻したら、読みやすくするための作業が全部消去されていました。要するに、メモリー・オーバーと言う事なのかな??
1月26日 9:19



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1月27日 9:48 ·

「教育とNiveau(=水準)のお話Nr.4」

「上手な演奏と心を打つ演奏」
一生懸命に練習を積み上げて、本人にとっては演奏会では上手に演奏出来た・と思ったのに、audienceからは「不誠実な演奏だ!」と評価された演奏家がいます。
小さな子供の演奏であるのに過ぎないのに、その演奏を涙を流しながら聴き入っている老夫婦がいるケースがあります。勿論、演奏している子供の家族や近親縁者ではありません。※)
ヨーロッパには、proを目指して必死にconcours荒らしをしているpianistに対して、concours‐pianistという、その姿勢を揶揄する言葉もあります。
その違いは何でしょうか?
※)このお話は極めて例外的なお話の場合だけです。一般の社会では、学校主催、教育委員会の主催を除いては、子供が一般の社会の対外活動を出来る可能性はありません。子供で対外出演を依頼されても、それは先生達に対してのofferであり、子供の出演を想定したofferがあった事はありません。その事は八千代の対外出演の演奏会でも同じ事なのです。子供でもproと同じ水準で演奏出来るのなら・・という絶対的な条件が断固としてあるのですよ。
「子供だから」という「甘え」は外の演奏活動にはないのですよ。

一生懸命に練習を積み上げる事が「誠実の証」と思って練習をして来たのに、それを認めて貰えなくて、悩んでいるpianistがいます。
音楽が機械的、即物的にならないように、一生懸命に情緒的、感情的に演奏したのに、「それは大衆に媚びた演奏だ!」と、先生に破門されてしまったpianistさえいるのですよ。
音楽に誠実に対峙していると思っているのに、そういった評価を受けてしまっては、立場がないですよねぇ~??
本当に、音楽を学ぶ事は難しい・・!!
一生懸命に努力をしているのに、不誠実と言われないように練習の方向性、或いは落とし所を、ちゃんと出来ると良いですよね~ぇ??

立場を変えて、音楽を学ぶ側、演奏する側ではなく、逆に指導する側である指導者の立場から言うと、練習も真面目で熱心で、曲の出来もそれなりに出来ているのに、・・その演奏に何かが足りない生徒がいて困ってしまう事があります。
それとは反対に、幼くって演奏もいまだに未熟なのに、心に染み入る演奏をして来る生徒もいます。「下手だけど、うまいな~あ~!」と唸らせる演奏をする生徒です。

指導をしていて、「年齢に関係無く・・・??」人を感動させる演奏が出来る生徒がいる・・という事は、それはその生徒の才能なのでしょうか??
アハッ!
・・そういってしまうと、指導者としての「敗北」を認める事になるのですよ。

確かに、何事につけても、感の良い子はいます。反応の早い子供はいます。それと、何度同じ事を教えても、理解出来ない子供もいます。ですから、先生によっては、そういった反応のよい生徒を依怙贔屓する先生も多くいます。・・でも、それは、生徒の性格のようなもので、lessonは反応の良い生徒の方が楽かも知れませんが、生徒の将来的な成長と言う事を考えると、その違いは3年、5年後には無くなっていまいます。寧ろ素直さのようなものを持っている方が伸びが早くなるのは事実でしょうかね。
その場で、指導して直ぐに出来てしまうのだけど、次の週にlessonをすると、すっかり元に戻ってしまっている生徒よりも、ブキッチョで中々分かってくれない生徒でも分かった分だけは確実に自分の身にして行く生徒の方が結果的には、伸びが早いのですよ。

才能は育てて、得れるものなのです。
生まれながらの才能というものを認めている大作曲家は一人もいないのですよ。
(此処で、大指導者って言ったって、歴史上の話になると、誰が誰を育てたかは、分からないでしょう??でも、教室の弟子に書かせた指導者の系譜の論文には、指導者達の技術指導の歴史上の系譜があるのですよ。だから、作曲家の系譜同様に指導者の系譜もあるのですよ。)

あの、超天才のMozartですら、「音楽は才能ではない!努力だ!!」と断言しているのですからね。
BachやHaydn等の大作曲家になると、自分が努力の化身であると思っている事は自明の理でしょう??つまり、どのような大天才だとしても、人一倍の努力無しには、歴史に名を連ねる事が出来る分けはなかったのですよ。

では、どのようにすれば、人を感動させる演奏をする事が出来るのでしょうか??
この事については、明確な答えを、大Bachの大息子であるC.P.E.Bachが言っています。音楽史を勉強する者にとっては、超有名な言葉です。(後述します。)

そのためには、音楽と向かい合う前に、或いは、音楽を学びながら、自分の音楽に対する意識を一度振り返って見る必要があります。
 
あなたは、これまでに、音楽を聴いて、感動で、涙を流した事はありますか??
もし、過去に、そういう経験があるのならば、あなたは感動する心を持っているのだから、心を打つ演奏は出来るはずです。

もし「音楽は美しくって、心をなごませてくれるのもだ、という事は分かっているけれど、音楽を聴いて、涙を流すように心を揺り動かされた経験は無いわ・・??」という人は、・・・そういった経験が一度も無いのなら、それはあなたが神に依怙贔屓されている「人生を一度も悩んだ事のない、とても幸せな人だ!」と言う事が出来ます。
その場合には、演奏をする側の与える側の立場ではなく、演奏を聴いて楽しむ側の享楽する側の人に、自分の立場を変える事をお勧めします。
音楽が綺麗で美しいと感じているのならば、それはaudienceの立場です。音楽が心を揺さぶるものだと思うのならば、その人は演奏家に成れるでしょうし、ヒョットしたら、作曲家にもなれるかもしれませんよね??

先程書いたように、この言葉は、私の言葉ではなく、C.P.E.Bachの有名な言葉なのです。
エマニエル先生の口癖は、「人は自分が感動する事なく、他人を感動させる事は出来ない」という言葉で、その言葉は感情表出主義の言葉として音楽の歴史上でもよく知られている言葉なのです。

私の箴言集「ヨージーの法則」からの一文で、上級の生徒達に何時もお説教する言葉では、「99%の意識と1%の努力」という言葉をよく言います。
私はよく生徒達にお説教をしますが、そのお説教で「ちゃんと練習をしなさい!」と叱った事は一度もありません。
寧ろ、「やる気が無いのなら、練習なんてしなくて良いよ!」と真面目にadviceをするぐらいなのですからね。
「練習が嫌なら、3分間だけ、練習してみたら??」とか、「その3分も嫌なら、楽器を磨くだけで良いよ!」というadviceをします。
嫌々ながら練習して来た状態をlessonするよりも、何も練習しないで、来てくれた方が、手直しのしがいがあるし、先生と一緒に楽しく練習する事が出来て、それで充分上手になるからです。(私達の教室で、先生が生徒に対して叱らないのは、上手な指導は従わせる事ではなく、理解させる事に尽きるからです。)
「でも、時々芦塚先生は叱っている・・」って??
アハッ!バレたか??
ちゃいますよ!!芦塚先生が叱っている時は、マナーや危険な事をした時、周りのお友達に対して、嫉んだ時だけなのですよ。つまり、音楽上でお説教をする事、叱る事は全く無いのです。
そこは凄いでしょう??

演奏家の条件の先ず第一は、音楽が自分の人生の中で一番好きで、練習も楽しい、と思っている事です。
しかし、このselectが音楽大学の学生の大半(多分、90%以上の生徒達)が脱落してしまう事になります。
私がよく、学生達に言う言葉があります。彼らの練習の究極の目的が、「自分の演奏が上手だ!」と言われたい・・と言う事なのだからです。
演奏でも、上手な演奏が聴きたければ、CDで世界的なpianistの演奏を聴くか、私のように、computerに演奏させれば良いのですからね??(此処で、冒頭のconcours‐pianistという言葉が登場するのですよ。技術的には完璧だけど、人の魂を打たない演奏家の事なのです。)

技術的に完璧な演奏が、必ずしも心を打つわけでは無いのです。
音楽はオリンピックではないし、演奏家もathleteでは無いのですからね。
オリンピックのタイムトライアルのように、1分、1秒の速度を競争して、愉しむ人達も多いのですが、それはそれで、そういった人達でグループを形成すればよいのです。
音楽には色々な聴き方があっても良いのですから・・それはそれで構わないのかも知れませんよね??

でも、私は音楽を聴いて、「凄い」と思うよりも、感動をして、演奏者と一緒に涙を流したい・・派、なのですよ。
小さな子供達が老人の心を感動させる事が出来るように、真摯に音楽に対峙すれば、俗にまみれた私達でも、人を感動させる事は出来るのです。

よく引き合いに出すお話ですが、私達の教室に就職の面接に来た音大生に「教室のconceptとしては、音楽の楽しさを指導して欲しいのですが」と話をしたら、相手の音大生が烈火の如く怒り出して「音楽は楽しいものではありません。厳しく辛いものなのです!」と、切り替えされてしまいました。当然、「私達の教室は音楽大学ではなく、巷の音楽教室なのですから・・」と丁重にお断りしましたがね。

人の心を感動させるには、そういった心の落とし所の他に、私がlessonで何時も生徒達に指導しているような、「演奏の表現」が必要になります。
つまり、音楽を演奏する事で、人を感動させるための演奏技術(Technik)が、それなりに必要なのです。
それも音楽の勉強をする上で、音楽を演奏するためのTechnik(技術)と共に、学ぶべき・・音楽表現という一つのgenre・・なのです。
音楽が、言葉になるためには、テレビのドラマを見ていても、大根役者という言葉があるように、その表現の技術が、表面を真似るだけの心に至らなくて、絵空事になっている表現ならば、それは人を感動させる演奏は出来ません。
先程のお話の続きなのですが、テレビのドラマを見ていても、セリフが棒の役者さんや、動作のぎこちない俳優さんも多いのよね??
そういった台本の言葉の行間を読めないで、型通りにセリフを棒のように、(心を通わせないままに)話てしまう役者の事を大根役者と言いますが、同様に、技術が幾ら優れていても、演奏そのものが大根ならば、音楽の場合には棒弾きって言うのですよ!!アハッ!

日本の音楽の教育界では、指導は技術のみ指導される事が殆どなのだ・・というお話をproのpianistとしていたら、その人が「私は自分の生徒に、crescendoや、decrescendoも、ritardandoもちゃんと指導しているわよ!」と言っていました。そういった事が音楽表現だと思い込んでいるのだよね??
こりゃ~、話ても、無理だわ???

ドラマの台本でも、「ここはささやく様に・・」とか、「怒鳴り声で・・」とかのト書きぐらいは入っています。
でも、それを表現とは言わないのですよね~ぇ??
それで、「台本に忠実に囁くように喋ったわよ!」と言われても、それで、演技を表現した分けでは無いのだけど、それが分からないのですよ。
困ったものです。

あの手この手で、子供達に表現の仕方を指導していると、年齢に関係無く、未だ、心では未経験のはず(精神年齢的に)の表現が出来るようになります。小学生の生徒の方が、話が通じるようになるのだよ!
(つまり、「話が通じる」・・という事は、(私が年齢的にチョッと難しいお話をしても、)打てば響くように、話が通じるのは、必ずしも、年齢ではないのです。
小学生の生徒や、中学生の子供が、年頃の女性よりも、私のお喋りをちゃんと一言で理解出来るcaseも数多くあるのです。
つまり、そこの所が演奏の「心琴の部分」と同じなのですよ。
小学生の子供の方が、魂を揺さぶる演奏が出来る場合を多く見かけるのです。しかし、音大の演奏を聴きに行っても、そこで魂が揺さぶられるような演奏にお目にかかった事はありません。
つまり、音楽を魂として理解しようという姿勢があるのか否かです。Beethovenはこのように言っています。
Von Herzen-Möge es wieder-Zu Herzen gehn! 心から心に至らん事を!
そこが、演奏家に成れるか否かの分かれ道なのだけどね~ぇ??

何故、子供が大人の情緒や感情の表現が出来るのか??と言う事はよく反論される事です。
しかし、これもテレビ・ドラマで言われている事で、犯人役の人が、実際に人を殺さないと、殺人者の感情表現は出来ない・・となったら、誰も、舞台で演技なんかはやらないでしょうよ!!

テレビ・ドラマは、目線が近いので、演技をする時には、日常の動作や表現に非常に近いものがあります。
でも、同じ表現を舞台上でやると、左甚五郎の三十三間堂の龍のお話のように、青大将になってしまうのです。
私がよく引き合いに出すお話は、玉三郎さんの女性らしい所作に感激した谷町の人が、「私の娘はがさつなので、玉三郎さんの所で女性らしさを学ばせたいのだけど・・」と言ったら、玉三郎さんが、「私の女性らしさは舞台上の仕草なのですから、日常で同じ所作をしたら、とても奇妙な(eccentricな)ものになりますよ。」と言う事を説明した・・という話です。

音楽の表現も、オペラや歌舞伎のように、舞台表現なのです。
客席が30名ぐらいの、非常に近いsalonconcertのような場所から、100名200名ぐらいのミニホール、500名ぐらいの小ホール、1000名を越す大ホール、等々で、表現の幅を変えて行かなければなりません。forteやPianoのようなダイナミズムから、vibratoに至るまでの表現の総てが変わって来るのですよ。

ですから、テレビドラマのように、日常のコピー表現では、少し何かが違って来て絵空事の世界になってしまうのですよ。
役者さんに当て嵌めて見ると、薄っぺらな外面(そとずら)だけの表現と、感動を生み出す表現の違いが、目に見えて分かると思いますよ??

ある時に、お腹が痛くなって、病院に行きました。
病院の先生が「どのようにお腹が痛いですか??」と聞いて来たので、返答に窮していると、先生がすかさず、「キリキリと痛いですか?鈍痛ですか?それとも・・・」と、痛みの種類を30種類ぐらいの言葉で表現してきました。
流石は、医者だ!と感心してしまいました。それを「餅は餅屋」というのでしょうね??

つまり、「ここは悲しげに・・」とト書きに書かれていたとしても、その悲しげの表現は、結構無数にあるのですよネ??
それを文学的には、「行間を読む」とか表現するようですが、全く音楽表現の場合も、楽譜上に記譜された表現のための記号の裏の意味が読めなければ、演奏をするのは無理なのですよ。
正しく行間を読んで、それを音楽の演奏表現に当てはめて見ると良いのです。
でも、音楽を表現する場合には、その音楽を情緒的、感情的に表現する前に、その曲が作曲された当時の、正しい演奏様式や、時代様式に依るinterpretationが必要になります。
また、舞曲のような定まった演奏形態の場合には、そのdanceの持つ、特有のrhythm等を、そのstepにmatchするように演奏しなければならないのです。

audienceのように、受動的な聴き手の場合には、そういった知識は必要はありませんが、演奏する立場の人達は、そういった基礎的な知識をヨーロッパの人達と同じように共有する必要があります。しかし、日本人の演奏家の場合には、遠い外国の歴史的な話なので、「分からなくって当然!」という意識が、この21世紀になっても、未だにあるようです。

教室では、生徒が「この曲はどのtempoで奏くのですか?」と質問してきても、「この曲はMenuettだから、Menuettのtempoで奏くのだよ!」「baroqueでも、古典派でも、ロマン派でもMenuettはMenuettのtempoで弾くのだよ!」と言ったら、「分かりました」と言ってMenuettのtempoで弾いているのだがね??

Menuettはdanceなのだから、当然stepがあります。だから、baroqueの時代でも、古典派の時代でも、その踊りを踊るための・・stepのための、歴然としたtempoが存在するのですよ。
それを私達は絶対tempoと言っています。
(baroque-danceや、古典派の時代のMenuettの踊りは、いつでもYou Tubeで見る事が出来ますよ。)
しかし、その話をすると、日本人達からは、必ず、「Chopinのワルツは、Pianoのための曲であって、踊りを前提とした曲ではないから、ワルツのtempoやrhythmである必要はない!」という返答が返って来ます。
でもね、ワルツのtempoやrhythmで演奏しない・・という前提ならば、ワルツというTitleは付ける事は(作曲家的には)許されないのですよ。踊れるか否かは別としても、(ChopinのMazurkaのように、その曲で踊るには、短か過ぎる場合もありますが・・)その一つ一つのpassageは、その曲の独特のrhythmを持っているのですよ。それが短いから踊れないだけなのです。
3拍子だからワルツではないのですよ。ワルツのrhythmだからワルツなのですよ。
ヨーロッパの音楽を学びたいのなら、そういったもっと基本的な事を学ぶと「猿真似」と言われないで済むのだけどね??
一般の社会はとうの昔にglobalな時代に突入していて世界常識になろうとしているのに、日本の西洋音楽だけは、未だに日本独自の100年以上も前の「音楽事始め」の「猿真似」の時代の古い間違えた演奏法を後生大事に貫いているのですからね。
首を傾げてしまいますよ。
流石は家元制度の伝統を重んじる儒教の国民性ですね。



芦塚先生のお教室に入室以来、親子で沢山の変化がありました。
ハルマも私も譜面の見方を知らなかったので読めるようになって面白く感じるようになり、どこにいてもクラシックが流れると『これ誰々が弾いていたよね』と一緒に聞き入ってしまったり、以前よりも様々な音楽を聴いて楽しめるようになりました。
そして、前々から知っているバイオリンが上手なお友達の演奏を聞いて、以前程良いと思えなくなってしまった事がショックだったのですが、それは先生がおっしゃるように私が感動できなくなってしまったんだと気づいてしまいました。
とても勉強になります。ありがとうございます!
なかなか私の頭が固くて、子どもにはやきもきしてしまいますが、少しでも本人の『意識』が育まれるように応援していけたらと思います。
1月27日 23:03


こちらからも、有難うございます。
上手だと思っていたお友達の演奏がそれ程ではなくなった・・という事は、教室で勉強している多くの生徒達も同様に感じている事です。
それは音楽の技術が、お友達と同等か、それ以上になって来たという証になりますよね。
それと、日本人の国民性として、親方日の丸や寄らば大樹という基本姿勢があって、大きい所や有名な所に集中する・・という姿勢があります。ブランドに対する絶大な信頼等も、その一つではないでしょうかね??
行列の出来るレストラン・・というのがありますが、私は並んで食べるのが大嫌いで、渋滞も結構遠回りでも、避けて運転します。(何の話か??って)本当の名店と呼ばれる店には高くて食べには行けませんが、そこは行列は出来ないのですよ。・・てな話です。

つい先日も、某国立音楽大学の卒業生達の演奏会を聴きに行った教室の小学生の子が、「Vivaldiの春」の難しいパセージを「誤魔化し弾き」をしていた!!と怒っていました。
知らなければ、某国立の卒業生の演奏だから、上手な演奏だと思ってしまいますよね。昔の話ですが、I Musiciのsolisteのおばさんに、「あそこはなんでそう弾いたの?」と噛み付いた教室の小学1年生の女の子がいて、solisteの先生が、「練習不足なの!次までにはちゃんと弾けるようにしておくね??」と弁解していたそうで、冷や汗ものでした。I Musiciですよ!!

今まではとても上手だと思っていた日本人の演奏家の人の演奏がそれ程上手とは思えなくなって来た・・というお話も保護者の人達から結構頻繁に聴きます。

それは、普段、子供のlessonを聴いていて、無意識にでも、音楽の聴くpointが分かって来て、批判力も着いて来るからです。
しかし、感動が鈍くなって来た分けではありませんので、ご心配無く!!
要するに、本当の本物とイミテーションの見分けがつくようになったと言う事なので、本当の良い演奏を愉しめば良いだけなのです。
本当に感動出来る演奏には巡り合う機会は少なくなったとしても、本物の演奏で、感動するのは、深い感動なのですよ。
その点、日本には海外の非常に優れた演奏家の人達が多く訪れるので、生の音を聴く時も、良い演奏会に巡り合う事は、そんなには、難しくありません。
唯、良い演奏会になればなる程、チケットが取り難くなる事は否めない事実ですが、それも含めて楽しんでください。
1月28日 7:53


Hrm本人も私も本当の音楽の楽しみ方がわかってしまったんです。ありがたい事です。
その上手なお友達は頑張ってるし、本当に上手なんです。
でも
お教室での皆さんの演奏がカラフルに感じるのに、その時は色を感じられなかったんです。
今では心で音楽が楽しめるようになったんだと思います。
クラシックが流れると親子で笑顔になってしまいます。
発表会では息子の演奏の失敗が気が気でなかったんですが今では前程神経質にならなくなり、周りのお友達の音楽を聴くのがより楽しみな日になりました。
親子でもっと音楽を楽しんでいきたいと思います(^^)
1月28日 9:59

結構上手だと思っていたブランド的※)な演奏のメッキが見えて来るのは、lessonを受けている子供達だけではなく、そのlessonの風景を見ている親も同じに成長してしまいます。今まで上手だと思っていた演奏のボロが見えて来るようになってしまいます。(※)ブランドとは、どこそこ卒業とか**コンクール入賞とかのブランドです。)

某有名音楽大学の卒業生による弦楽オケのコンサートで、ヴィヴァルディの四季を全曲弾いたらしい。
自分達が今、教室で丁度ヴィヴァルディの四季を勉強しているので、模範演奏を聴くと言う事で聴きに行ったのだが、春の1楽章の最後から2番目のsoli部分で、ピヨピヨを32分音符を2つずつのスラーで弾かなければいけないところを、全部スラーにして誤魔化して弾いてた‼
子供たちは一生懸命練習してるのに「スラーでごまかして弾いてた‼」という事で怒っていた。
「夏」のtuttiの速いところは、32分音符1個とか2個分とかずれたまま弾いていて、ぐちゃぐちゃになっていて、「いくらなんでもそりゃないでしょ‼」と、聞いたてられなかった。
夏は、演奏がずれてしまって、お母さんでも分かるくらい酷いズレ方で、指揮者がいないとそうなっちゃうのかな?と思った。
「冬」の最初では、全員がトリルを入れて弾いていて、なんの曲か分からなかった。
というのがsrちゃんの感想です。
大人なので、技術的に難しい所はボロを出さないように、適当にそう言う風に聴こえるように、演奏してしまいます。
しかし、子供達にとっては、誤魔化し弾きは誤魔化し弾きに過ぎないのですよ。そこが許せない!!
そこの子供達のstoicさはとても大切ですよね。

次のお話ですが、[baroqueの演奏会]と銘打っているコンサートがあったので、[baroque専門かあ~!]と、楽しみに聞きに行ったのだけど、調弦はろくに合わせないままに演奏に入ってしまった。ヴァイオリンとヴィオラの二人のコンサートなのだけど、教室でお馴染みのカノンを弾いて、[ヴィオラで弾けないんならヴァイオリンで弾けばいいのに❗]と思って、とてもとても聴くに耐えなくて、10分くらいで会場を出てきてしまったそうです。
生徒から聞いたばかりの真新しい感想二題です。

2月3日 8:55



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1月28日 22:37 ·

「教育とNiveau(=水準)のお話Nr.5」

「純正調と平均律のお話」
2,3日前の話なのですが、「椎名町詣で」に来ている上級生が、「近頃、Pianoの三和音の音がどうしようのなく汚く聴こえて困るのですよ。」という話をしていました。実は、その話は、耳が出来て来るとよく聞く話なのです。
「それじゃあ、Pianoの代わりに、Rolandの電子Cembaloでも買わないと、駄目かもね??」という返事を冗談にしています。※)
弦楽器の純正の和音の響きに慣れて来たのですよ。
つまり、耳が育って来て、平均律と純正調の音の違いを聞き分ける事が出来るようになったのですよ。
これも音楽的な「Niveau」が上がって、音の違いが分かるようになった・・と言う事なのです。
※)冗談ではなく、本当は正しい音感を身に付けるためには、純正律の和音が出来るKeyboardを身近に置く事はとても素晴らしい事です。こういった楽器が発売されるようになったのは、21世紀に入ってからの事なのですからね。私達が勉強して来た時代には、そういった純正調の音を出す楽器は存在しなかったから、Cembalo等で小一時間も掛かって調律しない限り、その響きを体感する事が出来なかったのですから・・・。

(本文に戻って・・)
それなのに、音楽大学では、「音程が悪い」と言って、先生が調律もまともに出来ていないPianoで、一個一個の音を合わせて、演奏をさせているのには、呆れてしまいます。
だって、同じFの音一つ取っても、C DurのFの音と、Des DurのFの音は違うし、ましてや、moll(短調)になったら、もっと、修正をしなければならないのだから、Pianoの音に合わせて、音をとる練習をする‥・という事は「音感を悪くする」事にほかならないのですからね??

以前、Facebookやhomepage上で、orchestraでは、A管のclarinetやB(♭)管のtrumpetや、果てはF管のhorn等の楽器を一緒に音を出すので、一つのAの音だけ出す事でも、音を揃えるのは大変なので、orchestraでは基本的に平均律の音になる・・というお話をしました。
では、純正調の音で演奏するのは、baroque時代や古典派の限られた時代だけなのでしょうか??
否、これが違うのですよね??

優れたorchestraになると、ロマン派や近、現代の音楽でも、同族の楽器の演奏の箇所では、純正の響きをさせます。
弦楽器だけで演奏する部分や、管楽器だけのpartでも、同族の楽器の場合では純正の響きをさせるのです。
そのために、Wagnerは総ての管楽器に、独立してQuartettで演奏出来るように、不足している楽器に新しい楽器を作り、それぞれの楽器が独立してharmonyを演奏する事が出来るようにしました。

また、純正調の響きは、そういった高度なTechnikを持っているproのorchestraだけのTechnikなのではなく、amateurである日本の一般大学のグリークラブの合唱や、趣味のamateurの合唱団でも、チョッと水準の高い演奏団体になると、純正の響きを極、普通に聴く事が出来るのですよ。

(ですから、平均律しか教えようとしない音楽大学の姿勢には、甚だ疑問を感じてしまいます。)
では、何故、音楽を教育する場である音楽大学で純正調を指導しようとしないのでしょうか?
・・答えは簡単です。
それは、音楽大学で指導している先生達が純正の響きを聞き分ける事が出来ないからです。
では、楽器の専門家であるはずの先生が何故、純正の音を取る事が出来ないのか?
答えは、すこぶる簡単です。
それを習って来なかったからです。

通常、ensembleを高校や大学で学んだとしても、はそれ純正調で演奏する分けでは無く、もし純正調で学んで来た先生がいたとすると、相当に優れた和音感を持った先生の元で勉強する事が出来た、運の良い極稀な学生であったのですよ。
という事で、それぞれの楽器を指導する先生が、ensembleを指導する分けでは無いので、それが、出来る先生はensembleや、室内楽を指導する先生、作曲家の先生、指揮の先生に限られて来るからです。
(この限られて来る・・という意味は、出来る可能性のある先生は・・と言う意味で、その人達ならば必ず「出来る」という意味ではありません。

またまた、困った事に、baroqueの曲を純正調で演奏していたとしても、常に純正調で演奏する分けでないという場合もあります。
教室のオケ練習でも、純正の響きの和音の音を、少し修正して演奏している場合があるという意味のお話なのですが、その中でも、純正の和音を特定の和音に対して、ワザと外して演奏する、「導音処理」というものがあります。
melodieの音が導音の音を演奏する場合には、純正の和音の響きの音で演奏するとかなり低めの音になってしまうので、和音の響きの音を犠牲にして、導音を純正の音ではなく、導音として高めに取らせる事がよくあります。
或いは、弦楽orchestraの導音の音楽は純正で響かせて、solo-violinの導音だけを、同じ音ではなく、高めに演奏する事もあります。
solo-pitchの導音versionの場合です。Tommaso Vitaliのchaconneのorchestra-versionの冒頭で、その響きを聴く事が出来ます。

ドイツ語の音名では、「C,D,E,F,G,A,H」と、最後の音が英語のように、Bではなく、Hになっています。ドイツ語の音名の場合には、Bは英語の音名のB♭を意味します。その理由はCの音を基音にした倍音では、第七音は、シの音では無く、かなり低めの殆どB♭に近い音が出ます。つまり、自然倍音では、シの音はB♭の方が正解なのです。教会旋法では、基本的には、6個の音で歌われます。
7個目の音は、終止の時に、導音として出て来るだけなのです。
という事で、「H」とは、引き上げられた音、「hebenされたhighな音」
つまり、導音処理された音という意味になります。

はてさて、「違いが分かる・・」・・というお話に戻って、よく耳にするMozartのEine kleine Nachtmusikや、PachelbelのCanonなのですが、世界のpro-orchestraの演奏でも、純正で演奏している団体と、平均律で演奏している団体があります。
一昔前までは、総ての演奏団体が、平均律で演奏していたのですが、period奏法で、古典に還る事が多くなったこんにちでは、periodの演奏団体でなくても、純正調で演奏するorchestraが増えて来ました。やはり、和音のpureさがダントツに違うからです。
当然、聴き手に取っても、「何かが違うのだけど、上手下手の違いなのかな?」というlevelの感覚的な聴き方と、「ああ、このorchestraは平均律で演奏しているのだ??」と、判断が出来るのが、この「違いが分かる音子の珈琲!」という事になります。
教室のthema曲であるPachelbelのCanonなのですが、初級versionでは、勿論、当然、一般的な平均律で演奏しますが、上級versionでは、日本ではproのorchestraですら採用していない純正調で演奏しているのです。(基本的な純正調の調律は、通常は、Werckmeisterの調律法や、Kirnbergerやmeantoneの調律法がありますが、調性の関係で教室では、その都度調律を変えて演奏しています。)
初級と上級では、まったくapproachのlevelが違うのですよ。




補足説明です。日本流の間違えた指導法では、音楽大学を受験する弦楽器の生徒のために、先生がPianoで音を叩いて、平均律の音を覚えさせます。
それで基本の音を覚えて、音楽のproになってから純正の音を覚えればよい!と曰わっている大先生もいます。
しかし、これは大変な誤解です。
先ず平均律の音と言うものは、存在しません。
大手の音楽教室等では、クロマティック・チューナーのようなもので、基音となるoctaveの音を、平均律で調律しますが、それぞれの企業でその半音階のpitchが微妙に違います。
優れたpianistは、専用の調律師を雇っていますが、それはactionの調整だけではなく、微妙に異なるpitchで自分にあったtuningをしてくれる調律師だからです。
私は個人的にはある大手の音楽教室の調律が結構嫌いです。その大手の音楽教室の調律師が調律した音は、音が詰まった感じがするからです。
ある時に、教室の近くの音楽教室から、その教室の調律師が「会社の調律コンクールで全国1位になったから、是非一度調律をさせてください」と言われて、「じゃあ・・?」と頼んだ事があります。
それで、調律が終わって、Pianoを弾いて見ると、モロ音が寸詰まりになっていて、「こりゃ、たまらん!」という事で、その日の内に、Bösendorferの調律師の人に、調律をやり直して貰いました。
それぐらい、人によって、調律のtuningの音は違うのですよ。
tunerのpitchがPianoのtuningの音と思っている先生は、とても音楽家とは言えませんよね??
pianistならば、少なくとも、「私は**さんのtuningが好きだわ!」というはずですからね??
少なくとも、ヨーロッパのpianist達は皆そう言いますよ??
私も、Cembaloをtuningする時には、時間がないので、基音のoctaveは、tunerを使って調律します。しかし、tunerが無い時には、自分で普通に調律するのですが、その日の気分で、皺寄せの音を決めます。
#系の場合には、使用したい調の関係で、B♭やEs、Asに皺寄せを持って行きます。
これは古典調律であるMetronomの調律でも同じです。
完全な平均律というのは有り得ないのですよ。
octaveを完全に分割したら、平均律にでもなると思っているのかね??使用する調の、3度や、5度に合わせて、微妙なpitchを補正するのだよ!!
それが分からないのなら、音楽の練習の前に、中学校の物理の授業からやり直しだわさ!!
2月7日 20:15


先程は基音のoctaveのpitchのお話をしましたが、追記で、octaveの関係のpitchのお話をします。
実は442のAの音のoctave上の音は絶対に884ではないし、octave下の音も221cycleではありません。
だからPianoの調律師の人達は、自分の感性でoctave上は広めに、下は狭めに調律をします。
だから、基音となるoctaveの上のoctaveはもう、オシログラフの領域ではないのですよ。機械のtunerでは、その補正はしてくれません。機械のtunerは計算値なので、octave上の音は、やはり884なのですよ!!だから、機械のtunerを使ってoctaveをそのまま調律すると、上のoctaveや2octave、3octaveでは、エライ事になってしまいます。
総ての弦楽器の奏者は、それを分かった上で演奏しているのではないですかね??それを知った上での弦楽器奏者でなければ、octave補正は出来ませんよ!!
それは世界のproのsolisteの演奏家は皆、ちゃんと守って演奏しています。あのPerlmanですら、ちゃんと補正をしているのですよ。(あの‥・という意味は、Perlmanは指が太すぎるので、その補正が、highpositionになると、音程の間隔が狭くなってしまうので、指の補正のpositionがどうしてもオーバーになってしまうのですよ。)
日本人の先生達は、そんな音楽の常識さえ知らないと言う事なのだよな??
そりゃ、・・・困ったもんだ!!
2月7日 20:22



チョッと前のお話に戻って、日本の弦楽器奏者の場合には、多くの奏者はvibratoを下に掛けないといけないので、positionを取る時には、正確なpitchではなくて、aboutな下の位置に仮想のpitchを取ります。つまり、aboutな下の「仮想のpitch」から上方へvibratoを掛けるのです。当然、そのpitchは「仮想のpitch」なので、そのpitchが正確なpitchであるはずは有り得ません。それにもまして音をPianoで探るという事は、自分自身で正確な音を否定している事になってしまいます。
では、もし、悲劇的にそう言った先生に師事した場合にはどうすれば良いのか?
答えは簡単です。
純正の絶対的な音は、それぞれの調の上にあって、定まった固定された一つの音ではありません。
ですから、Pianoのaboutな平均律の音は、その音と上の音の中間にあるのです。
平均律のpitchしか演奏出来ない人が純正の音を弾くことは至難の技なのですが、純正のpitchを弾きつけている人が平均律の音を弾くことは、純正の音の中間音を弾けば良いだけなので、すこぶる簡単です。
つまり、今弾いている調の中間音を弾けばそれがPianoの平均律の音になります。
先程のコメントでも言ったように、調律は或る調の上方と下方の五度をなるべく活かすように調律します。
・・そこで、何調の五度を助けるのかは、調律師の個性です。#系の人や、♭系の人、meantoneのように、#、♭を3つ迄の調を持って来る人、人それぞれです。
チョッと、注意をして先生の家のPianoの調律を聴けば、調律師の特性は直ぐに分かります。
より高度な技術は劣っている技術を凌駕するのは当たり前の事ですから、勘違いをしている先生を納得させるのはすこぶる簡単な話です。
そういったlevelの低い事を納得させるのは、要領の良さだけで充分なのですからね。
皺寄せは、私の場合には、面倒くさいので、一つの音にしますが、丁寧な人は、二つ、三つの音に少しずつ皺寄せをして、皺寄せが分からないようにする場合があります。
しかし、皺寄せの音が、三つともなると、もう平均律ではなく、KirnbergerやWerckmeisterの古典調律になってしまいますよね。アハッ!
2月5日 8:45


何度修正してもコメントの修正が出来なくなってしまいました。Facebookの不具合は、同しようもない!!
今日はオケ練習なので、もう、これぐらいにして、オケ練習の準備をする事にします。
2月5日 9:03


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1月29日 4:54 ·

「教育とNiveau(=水準)のお話Nr.6」

「体の揺らしのお話」
基本的に日本の音楽教育では、体を揺らして演奏すると、先生に怒られてしまいます。これが、ロマン派のSibeliusのconcertoであったとしても、或いは、Kreisler等の近、現代の演奏家のValseのような作品であったとしても、体を揺らして演奏する事は、極端に忌み嫌らわれ、先生から怒られてしまいます。「日本だけなのかな??」と思っていたら、結構、世界中の演奏家でも、体を硬直させて直立不動で演奏する演奏家が多いようです。

体を揺らす事を忌み嫌う風潮には、それなりのちゃんとした理由があります。
体を揺らして演奏する演奏家の殆どが、意味も無く、陶酔して体を揺らすからです。
一番よく見受けるのは、pianistの場合で、椅子の上で上半身をクルクルとまるでワルツでも踊りながら弾いているように、回転させながら演奏する演奏家です。陶酔どころではなく、見ている方も船酔いして来てしまうようです。(勿論、演奏している音にも、微妙にその回転運動による影響が現れてしまうので、演奏している音もぐるぐると回って音の粒が変化しています。)これは演奏家の人達は絶対にしてはいけない演奏法なのです。

それは「揺らし」とは言わず、単に陶酔して演奏しているに過ぎないのです。
「揺らし」は感情的に、感覚的に揺らしてはいけません。
落語では、お客さまを笑わせるのだから、落語家本人は絶対に笑いません。当たり前でしょう??
若者達の「お笑い芸人」の世界では、大して面白くもない事にお客さんが笑わなかったら怒り出す芸人もいたりしますが、それは言語道断です。

「揺らし」をしてはいけない・・という理由には多くの理由がありますが、その一つに、例えば、violinの場合には、足のstanceを充分に取らないで、上半身だけを左右、前後に揺らす人達が多い・・・という事があります。
こういった揺らしは「揺らし」とは呼びません。

世界の演奏者が体を揺らす事をしない(或いは、情緒的感情的に揺らす)一番の理由は、「体を揺らす」ためのmethode(寧ろhow-toかな?)が無いからなのです。
(驚く事に、vibratoのmethodeもないので、色んな種類のvibratoを弾き分ける事の出来る演奏家が少なくって、困ってしまいます。)

それでも、二次大戦の前までぐらいは、古いbaroque時代のperiodの奏法が未だ伝承されていて、体躯の移動のmethodeも残っていたのですよ。
私が始めて、体の「揺らし」を学んだのは、ドイツで戦前に活躍したラバQuartettの1st violinの奏者であったラバ教授のMünchen音大の学生達への指導を聴講していた時でした。
そこで、ラバ先生の体躯の移動の指導(lecture)を見て、驚ろいてしまいましたよ。
何故??って、それは、体の「揺らし」が、日本の古武道の体躯の移動とまったく同じだったからです。

violinには、基本的には、「揺らし」のmethodeはないのですが、それは、体躯の移動をする時に、世界の音楽家達は、上半身だけで、「揺らし」をやろうとします。
そうすると、楽器が不安定になって、音にも影響がでます。

古武道では、上半身だけで体のbalanceを取ろうとすると、体の芯のbalanceが崩れてしまうので、そんなbalanceを取ったら、先生に、投げ飛ばされてしまうのですよ。
古武道の先生に、ぐるぐると曳き廻されて、上半身のbalanceが崩れた瞬間に飛ばされると、受け身をしようとしても、受け身が出来ないので、頭から落っこちて大変痛い思いをする事になります。
古武道の先生達は「姿勢!」とか、言葉では注意はしてくれないからね??注意をする前に、いきなり投げられて、それで終わりです。
「右に投げられる!」と思って、右への受け身の姿勢を取ったら、左に投げられて、とんでもないみっともない格好で投げられるのですよ。ものの見事に裏切られる!!素晴らしい先生のTechnikです。
「痛い思いをして覚えろ!」という事なのですかね。投げられる方はたまったものじゃあ、ないけれどね??

音楽のrhythmを感じる時には、足のつま先で、体全体で、rhythmを感じる必要があるのですが、体を揺らす事をtabooとしている演奏家達は、自分達自らが、体でrhythmを取る事が出来ないので、(日本の演奏家に限らず、世界の演奏家達も)、ついつい、舞台で前後、左右に歩いてしまいます。
それも、前、後ろに歩いて、元の位置に戻って来るのならば、未だ許される・・とは思う(?)のですが、そのまま、どっかに行ってしまう演奏家も多いので、笑えますよ・・?
(正しい体の「揺らし」が出来ないので、その場の感情的な動きなので、そう言ったeccentricな動きになってしまうのです。)

教室では、体を揺らす時には、必ず、bowingと体重の移動が、しっかりと連動しなければなりません。
感情や感覚で、体を揺らす事は、決して許されないのです。楽譜に指定されたbowingに從って、正確に揺らさなければならないのです。

そこの所のapproachが、世界の「揺らし」と、教室の「揺らし」のconceptの違いになります。
臍の下の「丹田」の部分を、大きなお皿に見立てて、その上に満面に水を湛えて、どんなに体を揺らしても、一滴の水もこぼれないように体躯を静かに移動させて、始めて体の「揺らし」というのです。
格好良いスポーツカーを買って越に行っている音楽家を捕まえて、「音楽家は車に楽器を乗せて走るのだから、楽器が痛まないように、車のダッシュボードに水を入れたコップを立てて於いて、水をこぼさないように走るのが、音楽家の車の運転なのだよ!」とお説教しておきました。

江戸時代には、武士の子供達は、冬の凍えるように寒い時に、溢れるばかりの水を入れた水桶を頭の上に乗せて、何度も歩く練習をさせられました。頭の重心がぶれないようにするための厳しい訓練でした。
今では、剣道もすっかりスポーツになってしまって、そういった重心の移動や体躯の動きの事を注意する指導者は皆無になってしまいましたが、昔はそういった体の姿勢や重心の位置を整える事がとても大切だったのですよ。
そしてその事は、violinやcello、或いは、Pianoの座り方もそうなのです。

教室にあるCembaloを作ってくれた古典楽器センターの佐藤さんが、話てくれた事なのですが、世界的に有名で、多くの弟子を育成したCembalistであるGustav Leonhardt先生が、某有名音楽大学のCembalo科の生徒達を10日間lessonをする事になって、佐藤さんが通訳として、その現場に立ち会った時のお話です。
音大のCembalo科の生徒達は、「世界的なCembalistから何を教えて貰えるのだろう??」とワクワクしてlessonに臨んだのですが、その10日間のlessonは、一度もCembaloの鍵盤をtouchする事もなく、椅子の座り方のlessonだけで終わったそうです。
音大生達は、不平不満だらけだったそうですが、佐藤さん達に取っても、私に取っても、それは当たり前の事で、正しく座れない限り、正しいCembaloの演奏は有り得ないと思います。
時々、足を組んでPianoを演奏するpianistを見かけるけれど、言語道断だよね!!
勿論、violinもcelloもだよ!!
正しい構えで、……襲われた時には、瞬間的に逆襲出来るような体勢!…で演奏するのだよ!!音楽は格闘技なのだよ!




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1月31日 15:51 ·

「教育とNiveau(=水準)のお話Nr.7」

「夢を叶えると言う事」
今日はオケ練習の次の次の日、つまり火曜日です。月曜日と同様に朝早く起き出してパソコンの前に座ると、意識が朦朧として1,2時間はtripしてしまう・・、それで慌てて布団に潜り込むと、直ぐに目が覚めて起き出して、パソコンの椅子に座るとそのままtripしてしまう・・という同しようもないroutineの日々を、もう二日間も続けてしまっています。疲れが普通ならば、熟睡すれば抜けるのでしょうが、中々良い眠り(睡眠)が取れないのですよ。どうも、眠ると、あちらでも別の世界があって、よしゃいいのにそこでも頑張って働いているようで、諸問題を克服しなければならないので、怒り心頭に発しているのですよね。夢の世界で疲れ切ったら目が醒めるのですよ。いや~あ、困った!困った!

今日は水曜日・・。
二日間、意識朦朧と混濁を繰り返していたので、流石に、今日は三日目なので、もう大丈夫なのだろう・・と思っていたのですが、何と、何と、三日目の今日も、やはりパソコンの前に座ると、意識が朦朧として来て、1,2時間程、時間がtripしてしまうのですよ。
という事で、中々本題の「教育とNiveau(水準)のお話」に入れない。
毎回、せめてintroだけでも・・・と思っているのですが、そのintroだけですら、書けない・・のです。
Mein junges Leben hat ein End!
若い頃には、こんなウダウダは思いも寄らなかった事なのですが、しかし、片肺飛行でよく此処まで歩いて来たものです。

私の考え方では、人生は総て意識の持ちようで決まる・・と思っています。
「ヨージーの法則」の「99%の意識と1%の努力」なのですが、「99%の努力」を良しとする、儒教の国民には、そのお話は通じません。儒教では努力のない所に、成果はないはずなのですからね。
ですから、同じ「ヨージーの法則」にある「望むのならば夢は総て叶う」という法則が理解出来ません。
この法則には、二つの条件が付きます。
その一つは、「望む」という事がDurst(渇望)すると言う事であると言う事で、二つ目は、潜在意識的にも「望んでいる」事が一番である・・という条件です。
「音楽家になりたい!」「演奏家になりたい!」いやさ「proに成りたい!」という人達の殆どがこの条件を満たす事はありません。

次には、Genzmer先生の言われた「人生での3回のchance」なのですが、「そういったものは訪れなかった。」という人達が多いようです。
そこにも、二つの理由があります。
その一つは、そのchanceが訪れても、気付かなかった!という人達です。
殆どの人達は、人生の分かれ道に差し掛かっても気づかないのです。
上のstageに居る人達には、その分かれ道が見えているのに、当人には、ただの道にしか見えていないのですよ。そして、より楽な道を選択して、苦労をするのです。
正しい厳しい道を選択すれば人生は楽になるのにね。

二つ目は、Genzmer先生の言われた人生の分かれ道と言うのは、私がGenzmer先生に師事していたのは、先生が60代の頃の話なので、「60歳までに・・」というお話だったのですが、実際には、教室の練習番号の付け方と同じ、或いは、ハインリッヒの法則と同じで、60歳までに、人生を分ける大きな分かれ道が三つあるのですが、その一つ一つに、また、中位の分かれ道が三つあって、その一つ一つに更に分かれ道があるのです。
女性の厄年は19歳、33歳、61歳で、その前の年を前厄、後ろの年を後厄と言って、注意を喚起しています。当然体の変わり目でもありますが、人生の変わり目でもあるのです。
その一つ一つの分かれ道の選択肢は、とても難しいように思いますが、それはありません。
殆ど、「望むのならば夢は総て叶う」という「ヨージーの法則」で、自動的にその人の望むように選択されてしまうのです。
ですから、もし本当に夢を叶えたいと思うのなら(願うのならば)自分の一つ一つの選択を、潜在意識に照らし合わせて、修正をしていかなければなりません。
しかし、その自分への修正をする人は殆どいません。‥・という事で、人生の夢を叶える事は、駱駝が針の穴を通るのよりも難しくなってしまうのです。

proを目指す人達は、どのようなgenreであろうと、師事する先生の影響を受けます。
どのように頑張って練習をしても、優れた指導者に巡り合う事がなければ、proになる事は困難です。
指導者の指導力の差が、生徒が同じ努力をしたとしても、技術や音楽性が身に付く事はありません。
そして、指導者の指導力の差が、学ぶ者の夢が叶うか否かの絶対条件になるのです。
この条件も日本人の音楽を学ぶ者達にとっては非常に難しい。
日本人の学びの姿勢は、江戸時代からの家元制度の学び方が身に付いているからなのです。
ヨーロッパの音楽を学ぶ人達(学生達)は、有名な演奏家が優れた指導者であるとは思っていません。
演奏家は演奏家で指導者は指導者という概念が定着しているからです。
日本の場合には、優れた指導者イクオール演奏家であるという妄想があります。
殆どの音楽大学でproの生徒を育てた先生はいないのですがね??
指導力と演奏力は別物なのですがね。
そこの所が分かっていない。

・・てな、proを目指す人達の話は、巷の音楽教室の先生である私には関係のない話だけどね??



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2月2日 5:43 ·


「教育とNiveau(=水準)のお話Nr.8」

「アングル(Ingres)のviolin」
「天は二物を与えず」と言いますが、実際には二物どころか、三物も四物も持っている人がいて、妬ましく思えてしまうことがあります。
その代表的な人が、アングル(Jean-Auguste-Dominique Ingres 1780年8月29日フランスの南部 都市モントーバン - 1867年1月14日)という画家です。
アングルは(ロマン主義の代表的画家でChopinの親しい友人でもあったドラクロ( Delacroix)に対して、師ダビッドとともに)徹底的に古典主義を守った画家であります。
学校の教科書には「古典主義の画家である」と記されていたので、中学・高校時代、私は絵画の古典派の時代の画家とばかり勘違いをしていました。絵のタッチも古典派そのものでしたしね・・・??
アングルが、非常に優れた歴史的な画家であった事は否めない事実ですが、それと同時に、非常にヨーロッパ中に名前を轟かせたviolinの演奏家でもありました。
彼は、当時有名なviolinの奏者であったニコロ・パガニーニ(!)と弦楽四重奏を結成するぐらいのviolin奏者であり、ヨーロッパの辞書を「アングルのviolin」で引くと、「趣味の域を逸脱して、proとして・・と言うよりも既に名人の域に達している」・・という意味になるぐらいのamateurのviolin奏者でした。彼が主催する演奏会にはヨーロッパ中から彼の演奏を聴くために多くの名士達が集まって来た程です。

私の周りにも、そのように別に本職を持って活躍をしながら、演奏家としても、proよりも優れた技術を持ち合わせているamateurの人達が何人かいて、その演奏技術にはほとほと感心をする事がありました。
彼らの演奏は、本当にテレビ等で活躍している一流のproの人達よりも、もう一つ上なのですよ。
でも、そういった技術を持った人達が無名のままであると言う事は、音楽に勤しんでいる人達には理解出来ない事かも知れませんね。
殆どの音大生達が、技術を磨く事がproになる絶対条件だと信じて疑わないからです。
しかし、一般の大衆に知られている・・所謂、有名であると言う事と、優れた演奏家であるという事、或いは、優れた演奏をする人である‥・という事はまったく関係のない事で、全く別の事なのです。有名になる‥・という事は、有名になるためのプロセスを踏むと言う事であり、その実力や技術とはあまり関係のない事なのです。
ヨーロッパでは非常に優れた演奏家であるのにも関わらず、その人の研究しているgenreがmaniacでacademicであるが故に無名である演奏家はザラにいます。
period奏法の演奏家達(baroque音楽専門の演奏家達)もそうです。
私が未だ音楽大学の学生であった頃に手に入れたBärenreiter-Archiv版のHändelのviolin-sonateのRecordは無名の若手の女性violinistの演奏でしたが、ornamentも素晴らしく、violinの響きが本当に澄み切った「これこそHändel!」という秀逸の演奏でした。「こんな凄い名前の知られていないviolinistがいるんだ??」と当時は、すっかり驚いてしまいました。未だ、period奏法のない時代のBärenreiter社が自分の原典版を出版した時に、その音源として発売したRecordです。今から50年も前の話なのですよ。凄い!!流石はBärenreiterです。
violin等の弦楽器に限らず、ヨーロッパでは音楽は細分化され、より高度な専門的な技術を必要とするようになっています。
歌の世界でも、オペラ歌手とリート歌手、cantata等の宗教を歌う歌手は発声から全く違います。cantataの中でも、カウンター・テナーのような歌手はまた独特の発声法を駆使します。
そう言った一つ一つが独自の技術を要するのです。

さて、元の話に戻って、・・・しかし、天から二物を貰った彼らの演奏を聴いて何時も思う事は、その演奏上の何か(something?)が違うのだよ??
つまり、やはりそういった人達の演奏は、潜在意識的に、音楽がその人に取っての生きる糧ではなく、演奏の技術はとても上手なのだが、やはり音楽そのものがamateurに過ぎない・・という、心のどこかが、彼ら自身ではなく、よそよそしいのだよな??
まるで、音大生の音楽のように、心に染み入って来ないのだよ!
とは言っても、本職から転職をして音楽を本職にしてしまう人達も数多くいるので、このsomethingの話は込み入って来ます。
かの有名なコロラトゥーラの歌手であるリタ・シュトライッヒはお医者さんでしたし、数え上げれば限はないのですが、転職をして本職になってしまっているので、二物もへったくれもありません。音楽にどっぷりと体中浸かってしまっているのですから。

私が生徒達を指導する時に、よく言う言葉があって、それは「上手なamateurと下手なproでは、audienceはどちらを評価するのか?」という事です。
この問に一言で答えるのは難しい。
或るたった一つの曲に対してのみの場合には、amateurの人が演奏技術も、曲に対しての思い入れもproよりも優れている場合もあるかも知れないからです。
でも、program全体の総合的な評価となると、やはり上手なamateurよりも、下手なproの演奏の方が優れて来ます。
それは、amateurには、音楽の曲に対してのNiveauはあったとしても、音楽そのものへのNiveauはないからなのです。
超有名なproの演奏家と言えども、全員が歳と共に名人の域に至る分けではありません。多くの演奏家は或る歳を境にして、衰退の一歩を辿ります。あまりにも早い時期に天才の域に達した**もその最たる演奏家です。
しかし、当然、その逆の人達も多くいます。
歴史に名を残している名pianistのRubinsteinですが、私が音楽大学の学生だった時代には、派手派手しい演奏でそんなには好きなpianistではありませんでした。彼が60歳を過ぎて、新たにMazurkaの全集を出した時に、そのRecordを手に入れて、私は、彼は神になったと実感しました。それ迄の派手派手しい演奏が詩情豊かな演奏に豹変していたのです。コルトー然りです。
このお話は演奏に限ったお話ではありません。
Aaron Rosandのお話ですが、Aaron Rosandの音大生達への公開lessonを聞いて、典型的な3点支持のlessonで、日本の先生達とあまり変わらない、分かり切ったもう見え見えのlessonだったので、失望を禁じ得なかったのですが、3年後に再び日本に来て公開lessonをやった時に、私の生徒達がまたまた「聴講に行こう」と強く誘ったのですが、3点支持の下手なlessonを聴講するのは億劫で、「嫌だ!嫌だ!」と断っていたのですが、生徒が、「lessonの内容が全く変わったので、どうしても見て欲しい」・・と言うので、仕方なく、公開lessonに行って、マジに驚いたね!!
僅か3年で、全く完璧に私達の教室と同じ1点支持のベルギー派のmethodeに変えていたのですよ。60を過ぎて、自分のmethodeを完全に変えて来るそのvitalityに驚いてしまいました。
やはり、一流処は何処かが違うのですよネ。
そこがpro足る由縁です。


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2月3日 3:52 ·
「寒い!北風が部屋に吹き込んで来る!!足が冷えて眠れない!!!」

この数日、北風が吹いて寒い日が続いている。私の住んでいるこの古いマンションでは、構造上の問題なのだろうか、北風になると、冷たい風が閉めきった部屋の中に吹き込んで来るのだよ。暖房を最大にしていても芯から冷えて来てしまう。部屋を温めるのを諦めて布団に潜り込もうと思うのだが、冷たい布団に入るのが億劫なので、意を決してテレビで宣伝中の布団乾燥機を買った。
勿論、古いタイプの袋に送風するタイプの布団乾燥機は持っているのだが、宣伝の文言の通りに、一々出すのが面倒で使わないので、冷たい布団に潜り込むのが億劫だから、ベッドを温める事のできるという触れ込みの今回の布団乾燥機を買った。
靴の乾燥機も持っているのだが、ポイントで貰ったもので、2時間掛かっても靴が乾燥しないので、靴の乾燥も出来るという宣伝に惹かれたのもある。
今日は、試運転で、タイマーが切れるまで布団を温めて布団に潜り込んだ。
ホカホカと温かい‼気持ちが良い!!

しかし、今日は一日中、ホカホカの厚手の靴下を履いていたのにもかかわらず、膝から下が氷のように冷たい。
体は普通に温かいのに、膝から下だけが氷のように冷たいのだ。
つまり、膝から下の血流が滞ってしまっているのだ。
こう言った状態になると、足は何時間温めても温まらないし、体も冷えきってしまうので、眠りにつく事も出来なくなる。
半ば強制的に足を温めなければならないので、これは、もう電気アンカの領域だよな⁉(まさか風呂で足湯でもないのでね??)

お袋には、以前、「足が冷える!」と言うので、通販の電気の足温器をプレゼントしたのだが、それすら面倒くさがって、一度も使ってくれなかったようだ! 
その足温器は、残念ながら、私には、小さすぎて足を入れておく事が出来ないので、家を処分するついでに、一緒に処分してしまいました。
昔は、発泡スチロール製のお湯を溜めるタイプの足温器を使っていたのだが、お湯をそれだけ目一杯溜めるのが面倒くさいので、倉庫の肥やしになっている。

・・・という事で、せっかく温まった布団から、冷えきった部屋の中に起き出して、電気のアンカを取りに行かなくては……、と思ったのだが、それも寒くて辛い。
布団から外に出るのは諦めて、眠れるか?眠れないか?凍え死ぬか??・・成り行きに任せる事にしよう!!
人生、悩み抜いて、結果、運命を天に委ねるのが私の性格だからね??


今日も寒い!テレビでは、相変わらず、「大雪だ!」「関東地方にも雪が降る!」とか言っている。凍えるように冷えてしまった布団を、電気布団乾燥機で温めて、布団に潜り込んだのだが、膝から下が冷えて温まらないのでは、体中冷え切って眠れない。
と言う事で電気アンカを出したのだが、足が温まって来て、血流が改善されると、人間は勝手なもので、今度は低温やけどが心配になって来る。
そのために電気アンカの電源を切るために布団から出る気にはならない。
どうしても布団をでなければならない次のトイレタイムを待って、やむにやまれぬ状況で、布団から出ればよいだけなのだが、それ迄、体が冷えて行くのも堪らない!!これは、シーソーゲームだな??

2月12日 9:33


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2月5日 6:26 ·
「教育とNiveau(=水準)のお話Nr.9」

私は、音楽大学を受験する高校生の時の1年間だけ、日本人の先生に師事しましたが、基本的には、日本人の先生に師事した事はありません。高校の1年間から、音楽大学に入学して4年間はPringsheim先生でしたし、それから直ぐに、ドイツに留学したので、作曲の先生はGenzmer先生と言う事で、常にドイツ人の先生でした。
日本に帰国して弦楽器を学ぶべく、始めて、日本人の著名な教授に師事をしましたが、そこで不思議に思った事は、教授が自ら尊敬するナバラ教授のmethodeを聴講出来た事や、その指導を私に説明しながら、私達への指導は、彼が受けて来た日本流の指導法を、何が何でも、追体験させようとする事・・でした。
上級の生徒にも、結局は、ナバラmethodeではなく、独自の全く違う奏法を要求しながら、初級の私達には、それとは無関係の、自分達が戦前に学んで来た、なんともおかしな奏法を要求して来ました。
まあ、それでも、石の上にも、3年間は辛抱してみたのですが、3年目に思った事は、「これまで3年間、私が彼から学んで来た事は、私ならば、一月で指導出来る」という事で、そのためのcurriculum「初心者のためのcello教則本」を書き上げて、江古田に来た大人の方に早速実践しました。
勿論、一月目には、Haydnの簡単なQuartettを皆でensembleが出来るようになっていましたよ。

この日本独特の、世にも不可思議な、「自分が初歩の時代に習った事を、自分の生徒に追体験させる」という非合理的で無駄な教授法は、最初は、「私の先生の癖なのかな?」と、思っていたのですが、実際には、私が師事したcelloの教授だけの習性ではなく、日本人の多くの指導者達に共通した指導法でした。

「自分はだけこれ無駄な意味のない練習に耐えて、根性だけで努力を積み上げて、今の自分が出来たのだよ!」「だから私の事を尊敬しなさい!」という意味なのですかね??
これはヨーロッパの人達には、考えられない指導法ですよねぇ~??
合理主義的なヨーロッパ人の気質には、そういった無駄を学ぶという事は有り得ないのですよ。
流石は、儒教の国、根性論の国です。アハッ!
無駄に無駄を積み重ねた涙の上に、目標に辿り着く・・ですか??
それは、私には、考えられん!!
私なら、自分が無意味に思われた練習法の疑問に思った総てを省いて、自分が信念を持って正しい・・と、言える事だけを、子供達に指導するのですがね??

そうすると、いとも簡単に楽に上達してしまうので、有り難味が湧かないのですよ!
だから、生徒達はそれが自分の能力と勘違いして、私や私のmethodeとして、認める事は無い。
methodeと言うものは、もっと習得に大変な時間と努力を使うものでなければ、払ったone lesson代の対価にならないのですよ。
そんなに簡単に手に入るものに、優れた物が有る分けはない!!

そう思われてしまっては、指導者は、生徒への教育の努力の割に、報われない。
それは損な事だよね。
それなら、日本型の根性主義の方が、先生として尊敬されて、お金も高額に取る事が出来るし、それが良いに決まっている。
音大の先生は3日やると、やめられないのだよ!笑いが止まら無い。追体験様様だよね!!

追体験は、指導者にとっては、生徒に根性主義的な無意味な努力を教え込むには、良い事もあるようです。指導者がそれだけの苦痛に耐えて、現在の地位を作って来た、という事を生徒に知らしめるだけでも、とても価値の多い事に思えるかも知れませんが、実際には、逆の学ぶ立場の側として考えると、大変な事になってしまいます。
一度、間違えた方法論を学ぶと、幾ら頑張っても、正しいmethodeを身に付ける事は、不可能になってしまうのですよ。
自分がこれまでに学んで来た事を捨てなければ、新しいmethodeが覚えられないとすると、今までの、20年近い努力と掛けたお金と、血と汗と涙が、総て無駄になってしまうのですよ。それなら、多少間違えていたとしても、過去を否定されないほうが良いに決まっているじゃあないの??そうだ!そうだ!!

まあ、私の性格上の問題も色々とあって、なるべく子供達や生徒達を指導しなくても良いように、・・・日本に帰国してから、先ず最初には、マスコミの世界で活動をしようかな?と考えて、マスコミの世界で仕事をしようと活動をしました。
しかし、その世界を知るに付けて、その世界に呆れ果てて、やむを得なくて、大学に就職をしたのですが、音楽大学で生徒を指導する時に、proのための演奏のTechnikを指導する前に、その生徒達が学んで来た間違えたmethodeを正して、基本に戻すのには4年では足りない‥・という事に気づきました。
つまり、大学生に何かを指導するのは、大学の4年間では、とても不可能!!・・と言う事に気づいたのです。

という事で、大学の講師生活は5年で止めて、生徒の指導はしない事にしました。その後の何年間かは、一人暮らしのニートを続けて、来た仕事を適当に熟すという生活をしていたのです。
マジ、作曲三昧の引き篭もりの生活で、放っておくと、1月間も、誰一人とも、口をきかない・・・人と会話をしない日もあったのです。それでも、生活が出来るから音楽の世界はやめられないのですよ。

私は音楽を生徒や弟子達に指導するのは、とても嫌いなので、大学の講師をやりながらの生徒指導は、やむにやまれぬ、ほんの2,3人の弟子と子供を除いたら、大学onlyで過ごしました。
最初から日本流ではなく、ヨーロッパのmethodeで、大学生ではなく、小さな子供達を最初から指導すれば、無理無く上達出来ると言う事は、理解出来たのですが、私は子供を指導するのは無理だと思っていたのでね・・??
この音楽に対しては、極めつけにstoicな私が子供達に、接する事が出来る分けはないでしょう??

それなのに、それなのに、文部省の口車に乗せられて・・。
「本当に優秀な人材は、企業に取られてしまって、教育時間の足りない短大生が教育の現場で教えているのだよ!」「だから21世紀の子供達への指導者は、優れた人材でなければならない!」「世界のコンクールで一位を取ったような人達が、子供を指導しなければならないのだよ!」なんて、あたかも、オレオレ詐欺のような口車についつい乗ってしまったのが、Pech!!の始まりなのですよ。
「Ich hatte Pech!」困った!訳語が無いぞ!!
どうすんべ~ぇ??
しらばっくれるか・・・??

音楽の道に進む事を決めた時には、「子供達や音大生を指導する、教育者にだけはなりたくない!」のが私の信条だったのですがね。
それがいつの間にか、音楽教室の先生をやっている・・、理解不能だ・・!!
まあ、そうは言っても、感情の世代、情緒世代の子供達(所謂、自我が発達し始める迄の、小学4,5年生までの子供達)の一途さは、私の憧れでもあります。曰く、その一途さを大人になっても、失わなかったのが、芸術家なのですよ。人間は成長するに從って、そう言った一途さは失われて来て、常識や利害や自我が優先されるようになってきます。私は中学生や、高校生の頃から、人の心の声が聞こえるようになって、とても苦しんだ事があります。「この人はこう思っているのだろう?」と思うのではなく、マジに頭の中に声が聴こえて来るのです。それが一番酷くなって、発狂するのではないか??と迄、悩んだのが音大の時代です。
しかし、不思議な事に、留学してGenzmer教授の元で勉学に励むようになったら、その声はいつの間にか、聴こえなくなってしまいました。
要するに、人が私の事をどう思っているのか??などと言う事は、どうでも良くなったのですよね~ぇ??
私の高校生の時に自費出版した詩集「ある少年のメルヘン」のsubTitleは、(ハンス・カロッサHans Carossaからの)「小さな植物には、あまりにも雨が降り過ぎる、太陽がきつすぎる」という一節でした。

結果的にはその恩恵にあずかれてよかったです❤️
2月5日 11:56




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2月6日 3:21 ·

「きゃ~ぁ!大変だ!!帯状疱疹が、再発した!!!」

此処の所、体調不良が続いていて、深夜、悪夢※)に悩まされて、二時間、三時間の睡眠で、トイレに目が覚めてしまい、二度寝、三度寝をする事がどうしても出来なくって、寝るのを諦めてFacebookを深夜の3時、4時頃に更新をしたりしていたのですが、一昨日から、昨日に掛けて、どうも、その不快な症状が、帯状疱疹が振り返して来たのでは・・・??と思われるようになって来ました。
前回と全く同じ場所に、また同じような吹き出物が出来て、まぶたの上や、眉毛がゴロゴロと痒くなって来て、前回と、同じような症状を辿るようになって来ました。
・・・これで、眼球の芯が痛くなって目が開かなくなって来たら、本当の本物の帯状疱疹ですが、今、現在はどちらとも言えないので、未だ成りかけのきょうびの内に、病院に行って薬を貰って来ようかな??・・と思っています。
なにせ、今回は1週間以上も、ハイツの自室に引き籠もる事はschedule的に無理なのでネ。

帯状疱疹を引き起こす根本的な原因は、疲れによる免疫力の低下らしいので、良質の睡眠が取れない原因を探して、不眠や、浅い睡眠の改善をしなければならないと思っています。
そのための心地良い睡眠を導入する薬は、netで探して、随分前から、寝付けない時には、飲んでいるのですが、効いていないようですね。
※)悪夢とは言っても、魑魅魍魎が出て来る劇画調の楽しいお話とは違って、「現実の仕事がどうしても上手くいかない」・・という目覚めても、それが現実なのか、果たして夢なのか、しばらくの間は理解出来ない・・という困った夢で、結局、起きていたのか、寝ていたのかよく分からない、という夢なのですよ。
以前には、起きてしばらくの間も、夢とうつつのどちらが現実かが、分からないという事もありました。(夢の中で「こう言ったぞ‼」と怒って、現実に先生達を、お説教したりして…‼)

それにしても、二時間睡眠、三時間睡眠が続いているのに、よく生きているよね⁉
不思議だ⁉
心理学では、「摂眠障害の人は、無意識に仮眠をしている」…と、よく言われる事があるのだが、音楽という仕事柄、それは不可能だからね⁉
それに常に生徒や先生達とコミュニケーションをしなければならないので、一瞬でも、tripするとバレてしまうのでね⁉
音楽は100分の1秒の世界だから無意識の仮眠はあり得ないのだよ⁉

それはそうと、随分前からなのですが、手足の爪の厚みが薄くなって来て、驚いていましたが、近頃は、気付かないのに、爪が欠けていて、困ってしまいます。
Pianoを弾いて、黒鍵と白鍵の間の隙間に爪が引っかかってかがした事もあって、若い頃にはそういった経験がなかったので、すっかりめげてしまっています。
それもいつ欠けたのか分からないままに爪が欠けてしまう事に困っています。
歳を取って骨が脆くなって来ているのですかね??

私は、戦後の食料難の時代に生まれて来たので、美味しい食事よりも、今日の食べる物を‥・という、雑食で生きて来たので、骨粗鬆症には関係がないと思って来たのですがね⁉

足に至っては、右の人差し指の爪が、二度も、三度も剥がれてしまって、今も、半分くらいの長さなのですよ‼
私の足の指は、人差し指だけが長いので、よくぶつかって、爪を剥がしてしまうのですよ。
普段、とても目が疲れてしまうので、部屋の中ではメガネをかけないので、足元に物が置いてあっても、見えないのだよ‼
毎回動線上に物を置かないように注意しているのだけどね⁉
それでもいつの間にか動線上に物が置いてあるのでね??
ハイツの自宅では、深夜、トイレに起きる事が多いので、灯りを付けなくても、トイレまで歩いて行けるように、足元には特に注意をしているのだけど、皆が生活をしている事務所では、そうはいかないようだよな??



今日は睡眠導入剤の入っていない睡眠導入※)の薬を飲んで、(普段は効かないのだけど・・)朝の11時頃から夕方の3時半ぐらいまで、眠る事が出来ました。善哉!善哉!という事で、未だ病院には行けていません。はてさて、どうしたものか??いずれにしても、時間が足りない・・・!
※)病院からマイスリー錠を貰っているし、チョッと普段用には強すぎるので、ドリエル等の市販の薬を買って見たのだが、やはり、良い睡眠とは言えないので、・・睡眠導入剤の入っていないタイプの睡眠補助薬をnetで買ったという意味です。
2月6日 17:27



やはり11月から12月に掛けての帯状疱疹の、再発らしく、今日は、頑張って行きつけの病院に行って来た。
前回の薬は飲み始めても効きが悪くて、飲み始めて3日目ぐらいから、ドンドン病状が進んで行って、2週間ぐらい寝込んでしまったので、別の新しい薬を処方して貰ったのだが、話を聴くと、前回の薬の方が一番よく処方される薬で、しかも1番強い薬だったそうで、今回の新しい薬はそれよりも少し弱いということであった。
何れにしても帯状疱疹は薬では殆ど治療効果は無く、薬を飲んでも、「飲まないよりは、少しはマシかな??」というぐらいだそうで、「今日から薬を飲み始めたとしても、前回同様に、これからドンドン酷くなる事は覚悟をするように!」と言われた。
前回も右顔半面が腫れ上がって、お岩さんのようになってしまい、コンビニにも行けなくなってしまって、(当然、生徒にも顔を見せられない状態になったので、)今回も、「あまり酷いようだったら、皮膚科への入院!」という事も検討した方が良いそうだ。・・・という病院の先生のお話だった。神経に沿っての痛みなので、兎に角痛いのだよ!その時の顔の写真もあるのだが、「写真は絶対に公開しないように・・」との先生達からのお達しなので、非公開にします。

それと前回の血液検査では、体調も良くて、少しはマシだと思った血糖の値が、実際には逆に、*.*の***と非常に悪く、肝臓の数値も腎機能の数値も良くない!
ここの所の、どうしようもなく疲れて、意識が朦朧とするのも血液検査にしっかりと反映されているようだ。
まじ体調不良だ!!
いくら体調をコントロールして体をリハビリしようとしても、鬱状態で、精神的に追い詰められてしまうのならばどうしようもない。それじゃあ、免疫力を云々するまでもないわサ!!
2月9日 9:57


昨夜も、色々と、超、鬱の原因となる事があって、ハイツの自宅に帰ってからも、ベッドに入っても、眠れないままに朝を迎えてしまって、そのまま、諦めて病院が開くのを待って、薬を貰いに行って来ました。
病院から帰ったら、疲れ果てて、意識が朦朧として来たので、「これは幸い!」と摂眠導入剤を飲んで、もう、11時頃にはなっていましたが、ベッドに入って寝ました。
「取り敢えず、よく寝るように!」との病院の先生からの指示があったからです。
夢は相変わらず見ていて、夢と現実の落差がよく分からなかったのですが、それよりも、時計を見て、5時頃まで、熟睡出来たのは良かったのですが、その5時が、次の水曜日の午前中の5時と、思い込んでしまって、薬を飲む準備をしたり、食事の準備をしてしまいました。
ふと、思いついて、パソコンで日にちを調べたら、なんと、未だ、火曜日のまま・・(火曜日の夕方の5時)だったのですよね~ぇ??
まあ、なんだろね~ぇ??
マジに、ボケたかな??
多分、日光に当たらないから、体内時計がリセット出来ないだけだと思いますがネ??
2月9日 9:58


心臓が痛い!!
「魔女の一刺し」というと、ドイツ語で、「Hexenschuss」と言いますが、これはぎっくり腰の事です。
心筋梗塞の場合には、心臓に強烈な一撃(schuss)が来て、その場で、「絶命!」と言う事になるので、(運良く傍にAEDがあって、人が傍に居たら・・という稀な場合には例外が成り立ちますが)、基本的には、その場で絶命なので、魔女の一撃は成り立ちません。(竹林山の七賢人が、本当に七賢人出会ったなら、その山にその人達が住んでいた事すら・・誰も知らないだろうにね??)
死んでしまえば、その言葉は有り得ませんからね??
バイパス手術の後で、心臓の不整脈が酷くて、血圧も高血圧と超低血圧を繰り返していた時に、ペースメーカーの話になってしまって、すっかりめげてしまって、病院に行くのも億劫になってしまった時に、担当の先生が「心臓は1回でも、止まれば、それで終わりなのだよ!」と言われてしまって、納得は行ったのですが、「それで死んでしまうのなら、それでも良いか?」という気持ちになってしまいました。
心臓外科の先生ではなく、循環器の先生に担当が変わって、「血圧を下げる薬が強すぎて、その症状になっているのだから・・」という事で、血圧を下げる錠剤を半分に砕いて、飲み始めたら、血圧の極端な低下は無くなって、寧ろ、高血圧の症状のままでした。
4,5年経って、ある年の9月頃から、突然薬が効き始めて、それ以降は、心臓の細動も起こらないで、血圧も今までになく安定しています。(普段は・・、と言う事です。)

疲れが溜まって来たり、ストレスが掛かったり、鬱が酷くなると、てきめん、心臓に来るようですが、それは致し方ない事だと思っています。
心臓には神経が来ていないので、「心臓が痛い!」と言うのは、心臓の周りの筋肉が痛いのだそうです。
勿論、心臓の調子が悪くて、周りにその心臓の反射が起こっている場合も、そういう症状が起こるのだそうですが。

心臓が痛い!
今日は一日中、心臓が痛い!
・・・ようは、鬱なのだよな??
まあ、そうは言っても、どうしても今日が火曜日である事を何度も確認しないといけない。困った事だな!!
人間の最大の癒やしと言うのは、忘却だという事は知っていた??
2月9日 21:19


今日は牧野先生classのone lessonを千葉の花園教室でします。・・と言うのに、いつもの通りに、全く昨夜から眠れないのだよ!何度も何度も、布団と、椅子を往復しているのだが、(勿論、当然、薬も飲んでいるのだが)眠れないのだよ。困った!!「今夜も私は、眠れな~いでいると~!」
2月10日 8:18


普段のオケ練習では、1時にはlessonの開始なので、11時には自宅を出発して、椎名町から千葉へ移動しているのだけど、今日はオケ練習ではなくって、個人のlessonなので、生徒達の教室私に来れる時間の関係で、開始時間が遅いので、「11時までには、幾ら何でも、少しは眠れるのかな?」と思って、「1時間でも2時間でも仮眠が出来たら、その後の時間はなんとかなるのかな??」と思っていたのだが、その11時になっても、全く眠れない!‥・。いつものことなのだが、布団に入ると鼻が突然詰まって息が出来なくなって、それで、眠れなくなるのだよ!!起き上がると、鼻は普通に通るので、蓄膿症ではないか?と疑ったのだが、そうでは無いらしい。薬の飲み過ぎで、横になっていると、胃がムカムカする。これも、起き出すと治るのだよな??困った!!なるべく薬は飲みたくないのだが、そうも言っていられないしね~ぇ??
2月11日 7:08

・・・という事で、大渋滞もあったので、早め、早めにハイツを出発して、渋滞や雪の降る中をプリドルを連れて、千葉により時間を掛けて出発しました。上級の生徒達のlessonとなるのですが、殆どの生徒達は「あけまして‥・」というよりも、クリスマス会や、合宿でも会わなかったので、ほぼ2ヶ月振りという感じで、「お久しぶり~!」と再会を懐かしがるlessonでした。曲は、超難度のlevelの曲なのに、lessonもお久しぶりなので、結構、細かい注意が大hardなものでした。
まあ、夕方の5時からのlessonを始めたので、夜遅くなったとしても、それ程の時間を指導した分けではないのですが、それでも夜の10時の音出しの出来るギリギリまでの時間のlessonだったので、(・・その前日が全く眠っていないので、)途中で、体調が切れてしまい、帰りの高速を一人走っている時には、心がすっかりと折れてしまいました。それでも、なんとか頑張って、椎名町に辿り着いて、お弁当でも食べようと思ったのですが、食欲がなくなったので、タッパーに詰めて、ハイツに持ち帰りました。それは、まだ冷蔵庫に入ったままで食べていないのに、それなのに、この体重という奴は・・、ほんと、controlが難しいのだよな??
2月11日 7:05


土日は斉藤先生が四日市に出向なので、椎名町詣で組もお休みだし、プリドルも昨日のlessonの時に、ついでに花園へ連れて行ったし、珍しく、私は東京に、全く独りでいます。
「全く一人」という意味は、牧野先生は、土曜日は花園でlessonですし、仮に斉藤先生が四日市出向で、いなかったとしても、常にプリドルは椎名町には、居るからです。(ワンちゃんですが、やはり会いに行かないといけないので、結構、時間が拘束されてしまいます。)
という事で、珍しい私に取っては「得難い独りの日」なので、今日は、「ここの所の、体調不良を戻す事に専念しようかな⁉」と思っています。

しかし、明日のオケ練習は、斉藤先生も、梨紗さんもいないassistが千夏さん一人しかいないオケ練習なので、指導する側の人数不足という事で、よほど要領の良い指導をさせないと、オケ全体の練習が、澱んでしまいますから、「楽譜上に、lectureのpointを書き出してnet上で報告してあげようかな?」と思っていたのですが、そうすると、折角の今日の私の「珍しい得難いお休み」が、無くなってしまうので、日曜日の練習の時に、現場で、pointを、口頭で説明する事にしました。
と言う事で、オケ練習がいきなり練習に入るのではなく、pointの練習の方法論の解説が、中心となってしまって、通常のオケ練習とは、少し練習の方法が変わってしまいますが、日にちも少なくなって来たので、効率を優先する事にして行きます。
2月11日 18:15


昨日のオケ練習ですが、「梨紗さんがお休み」と言うのは、私の勘違いらしくて、何時もの定型の時間には、頑張って、駆けつけてくれました。
練習は予定通り、pointを細かく纏めて、自主練習、若しくは千夏さん達の上級生が下見を出来るように、全部の曲を纏め直しました。
常設曲であるべきCanonも、主流の小学生達は、今回が演奏家としては、2回目の練習なので、多分、前回指導したはずの、「Canon体操」の本意の説明を細かくやり直して、体躯の移動の仕方等々の原則論のmethodeを確認しました。
改めて、感じた事は、今の子供達は体が硬い!
それにしても、時間が足りないので、練習の枠内では、見る事の出来ない、「割愛した曲」が多いので、困っています。
曲のgroupとgroupの間の休憩やお茶菓子timeを、割愛すれば、もう少し、曲のcheckを増やす事も出来るのでしょうが、それでは、子供達の集中力が持続出来ません。休憩timeやお茶菓子timeは、子供達の集中力の持続にとってとても大切なのです。どうせ休憩timeを取るのならば、そこで基本的なマナーや自己紹介の勉強を・・という意味です。

まだ集中力を持続する事が出来ない小学生達には、こういった集中力を持続する訓練には、意識的な持続力の訓練だけではなく、ある程度は、練習の積み重ねによる持続力の経験も大切なのです。集中が持続出来ないから‥・と言って、ガミガミと叱っても、出来ない事は出来ないのですよ。そこを焦っては教育にはなりません。

流石に中、高生くらいになると、その持続力はかなり身に付いていて、オケ練習程度では、集中力が切れる心配は全くないのですがね??
2月14日 7:37


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2月6日 20:19 ·
「教育とNiveau(=水準)のお話Nr.11」

「Stradivari-schuleのお話」
schule(=シューレ)はドイツ語でschule、英語でschoolの学校という言葉なのですが、音楽の世界、・・特に楽器のお話で、**schuleと言うと、その有名なviolin製作者の工房で弟子達によって作られた楽器を指します。
その「**-schule」と付く名前で、一番有名なのは、多分、「Stradivari-schule」ではないかと思われます。
Stradivariと呼ばれる楽器で、Stradivari本人が制作した楽器ではなく、(単にStradivariの楽器の寸法で作成された楽器を除いて、=これは通常、Stradivari-modelという言い方をします。)、所謂、Stradivariと呼ばれる楽器には、勿論、当然の事として、Stradivari本人が作成した楽器と、彼の弟子と一緒に作った楽器、(その殆どを弟子が作ったとしても、一応、Stradivariの手が入っているもの)それにStradivariの愛弟子がStradivariの工房で作った楽器までが、Stradivari制作と呼ばれる事があります。
しかし、、Stradivariの工房には、6000人の弟子がいたとされ、楽器が大量に生産されていました。baroque時代の大量生産と言う事が出来ます。
そして、この工房で働いている弟子達が作った楽器を、実は総て「Stradivari-schule」と呼ぶのです。
ヒョッとしたら、言葉でadviceするだけではなく、一削りぐらいはStradivariが削って手を入れたかも知れない・・と言うくらいの事です。勿論、「Stradivari-schule」の作品は、Stradivariと同世代かほんの少し後までの時代の作品ですが、結構、駄作も多いのよネ。
弟子にも色々いるからね??

「門下を意味するschuleという言葉のお話」
schuleには、そう言う風に工房と言う意味もありますが、本来は、寧ろ、methodeの流派を指す場合が多いのです。
差詰め、日本の家元制度と同じような感じですかね~え??
日本ではスズキ・メトードの事も鈴木schoolが有名ですよね。
幾ら、日本の有名音楽大学の卒業だったとしても、その大学の教授、所謂、指導者や流派はそれぞれの教授、教授で違うので、「私は**大卒(**大-school)です。」というのは、変ですよね??
それならば、「**教授門下(school)!」と言わなければなりませんよね。

この「門下(school)」という言葉は、日本人の演奏家の人達にとっては、結構、曖昧な言葉で、ヨーロッパの各都市でよく催なわれている夏季音楽祭での夏期講習会を受講しただけの学生や、日本でよく催われている・・海外の有名な教授を呼んでの、1回か2回の、公開lesson等で、lessonを見て貰っただけの音楽家の卵達が、「**教授門下」と自称している人も多く見受けられて、みっともないと思います。
お飾りにされた当の教授は、多分、その生徒の名前さえも覚えてはいない・・と思いますよ。
こう言った一見(いちげん)の指導者への依存は、やっぱり寄らば大樹・・の日本人独特の「虎の皮」タイプの人達の話なのですかね~ぇ??

「ヨーロッパの学生の歴史のお話」
ヨーロッパの演奏家の人達は、「どこそこの大学の卒業」という事は音楽の履歴には書かない人達が多く、せいぜいコンクール歴を書くぐらいなのですが、それにはれっきとした理由があります。

それは、日本人のように、たった一人の先生の元で指導を受ける事よりも、ヨーロッパの学生達は、結構、色々な先生の元を転戦し、指導を仰ぐ学生達が多いからなのです。
その日本人の持つ意識の違いは、「忠臣は二君に事えず、貞女は二夫を 更えず」 の儒教的な思想から来るのでしょうかね??

反対に、ヨーロッパの学生達の思想を歴史的に考えると、ヨーロッパの勉強のstyleは、ゲーテのウィルヘルム・マイスターの修行時代や、Schubertの「冬の旅」等に表されるような、マイスター(親方)を訪ね歩いて、弟子入りをして修行し、また次のマイスター(親方)を尋ねて・・という風に多くの師匠=親方(=Meister)の元に弟子入りをして、自分がマイスターの試験に合格して、マイスターという資格を取れるまで、修行の遍歴をする・・というのが、ヨーロッパの歴史上の普通の勉強のstyleでした。
Wagnerの楽劇「マイスター・ジンガー」もそのお話ですよ。

日本では「ちょうちょ」として知られている児童唱歌も、原曲はドイツの童謡で、古い時代のヨーロッパの子供達の生活を歌っているのです。(以下、原曲の歌詞)
「Hänschen klein ging allein   In die weite Welt hinein.  Stock und Hut steht ihm gut  Ist gar wohlgemut.  Aber Mutter weinet sehr, Hat ja nun kein  Hänschen mehr.  "Wünsch dir Glück", sagt ihr Blick, "Kehr nur bald zurück !」

「まだ幼いけど好奇心旺盛なハンス君は、ある日広い世界へ冒険の旅に出る事を決意します。よく似合う帽子と杖を持って、ご機嫌で歩いて行ってしまいました。お母さんはひどく泣いて悲しみましたが、それでも息子の幸運を祈り、心の中では、すぐに帰って来てほしいと願っていました。」
http://www.worldfolksong.com/son…/germany/hanshen_klein.html

日本では、「蝶々」してと知られるこの可愛らしい童謡も、古い時代の子供達の社会を反映して歌われています。解説では、幼いハンスちゃんが、ただ、冒険のために広い世界に旅立ったように書かれていますが、それでは、ヨーロッパの社会の歴史を反映していません。
実は、ヨーロッパの多くの国では、お店を開くためには資格が必要なのです。
現代の日本社会でも同じですよね。
飲食店を開くには、調理師の免許が必要だし、医者になるにも、国家試験に合格しなければ成りません。
資格を取るだけなら、調理師の学校で学ぶだけでも充分なのでしょうが、本当に料理を修行しようとすると、有名料理店のシェフに付いて弟子として修行します。日本の場合にはそこで認められると「暖簾分け」をして貰えます。私の行きつけの蕎麦屋も同じ名前の蕎麦屋が無数にありますが、それは暖簾分けなので、それがヨーロッパのマイスターの資格に相当するのでしょうかね??
有名ラーメン店の話も有名ですよね。

・・そのお話は、古いヨーロッパの時代も同じで、マイスター(=親方)の資格を取らなければ、自分のお店は開け無いのですよ。(そこの所は、ヨーロッパは資格がないとお店が開けないのですが、日本では調理師の免許を持っているとお店は開けるので、日本の方が少しは楽だと思います。)

幼いハンスちゃんは、家族を支えるために、自分のお店を作るために、マイスターの資格を取るための修行の為の旅に、マイスター(親方)の元に弟子入りをするための旅に出かけるのです。

ヨーロッパでは、靴屋のマイスター、肉屋のマイスター、床屋のマイスター、等々、職人を目指す殆どの若者が、その仕事をするための資格を全国のマイスターの所へ弟子入りをして、技術を学び、マイスター達に認められた時に始めて、マイスターという資格を持って、お店を構える事が出来るのです。当然、今現代でも、そこは同じで、今はどうか知りませんが、ドイツの小学生は、小学校の4年生の時に、職業学校(Handel-schule=ハンデルシューレ,今はBerufs-schule=職業学校)に進むか、勉強の為に、 Gymnasium(日本では中高一貫校)から大学(ユニバスティ)に進学するか、が決まります。小学生の親を持つドイツ人に、「そんなに幼い時に将来を決めるという事は、親がその決断をするのですか?」と質問したら、「ドイツの子供達は、小学校4年生でも、自分の一生の決断は出来ます。」と一喝されてしまいました。
確かに、日本の小学生とは比べ物にならないくらいにしっかりはしているのですがね。
という事で、ドイツでは、音楽大学からマイスタクラスを卒業して、国家試験に合格した、Pianoのマイスターやviolinのマイスターも多数いるのですよ。ハイ!

さて、また歴史のお話に戻って、しかし、残念な事に、有名な親方(=マイスター)の元に弟子入りが出来たとしても、そこでMeisterの資格を貰える人は、ほんの僅かの人しかいません。
殆どの人達は、マイスターの所で働いていて、技術をある程度身に付けるだけで、その店の使用人として一生を終わりました。
それが、現実!
日本の社会も同じでしょう??
但し、このお話も今は昔のお話で、ヨーロッパの社会でも、国家試験に合格すると、お店(演奏家も同じですよ!!)を開く事が出来るようになって、昔のように、暖簾分けの必要は無くなって来ました。でも、その国家試験の水準が日本とヨーロッパでは比べようがないのですよ。(先程も言ったように、日本人の音楽家で、ヨーロッパの演奏家の資格を取った日本人はいないはずです。「いないはず・・」と口を濁しているのは、近頃の話は知らないので‥・、という意味です。)

頑張って、Meisterの資格を取るために、遍歴修行の旅に出かけた幼いハンスちゃんも、7年目には挫折して故郷に帰ってしまいます。
でも、故郷を7年間も離れていたのだから、妹さえも、ハンスちゃんの顔を分からなかったのですよ。幼いハンスちゃんは、青年になって戻って来た分けなのですからね。
ただ、一人、お母さんだけがハンスちゃんの顔が分かったのです。
  (/_;) ホンと、泣けて来るお話ですよねぇ~??

ぺールギュントも、世界中を旅をして、歳を取って、夢に挫折をして、故郷の恋人ソルヴェイの元に戻って、そこで死んでしまいますが、当時は人生の挫折が流行っていたのかね⁉

勿論、ヨーロッパの音楽大学で、「soliste」と呼ぶ事の出来る人は、日本の大学院に相当するマイスタークラス(Meister-class)を卒業して、国家試験に合格をして、solisteのライセンスを取った人だけです。
本当は、そのライセンスを持った人達の事をマイスターと呼ばなければなりません。
マイスターは国家資格なので、これまで日本人の留学生で、ヨーロッパに留学をして、その資格を取った人は、明治時代の「音楽事始め」以降、未だに、一人もいないはずですがネ。
solisteとしての資格を取る(masterになる)‥・という事は、それ程、難しいのですよ。
これも、ヨーロッパと日本のlevel差なのですよ。

「でも、多くの日本人がヨーロッパの中でも演奏活動をしているのでは・・??」と、思う人もいるかもしれませんよね。
それは、単に、楽器を演奏するための技術が優れていているからであって、音楽そのものが、ヨーロッパのsolisteの水準に達していたという意味ではありません。
音楽力は、演奏の技術だけではなく、曲のその解釈や、時代考証などもちゃんと出来ないといけないのです。

日本でも、昔は、テレビ等の気象予報では、お天気にチョッと詳しい人達がお天気のキャスターや、新しくは「お天気お姉さん」として、可愛い美人のお姉さん達が、気象の予報をやっていましたが、国家資格になって、日本の有名なお天気キャスターの人が、その試験で落ちた時には、結構、大騒ぎになりましたが、その道のproとして活躍したいのならば、ちゃんと総合的に勉強をしなければなりません。
ただ天気を予報するだけならば、占い師の方がよく当たるかもしれませんからね??

私達物書きが、物を書くにあたっては、書いている事に対して100の知識があって、それで、やっと一つか、二つかの文章を書けるのですよ。
10の知識があって、その10の知識を使える事は、物書きの世界にはありませんからね。
1を知っているだけで、その道のproのつもりになっている人達も多いようですが、それが、うわべだけの軽薄さと、本物の重厚さの違いになります。いい加減な努力だけで、高僧になった・・と思い込んでいる人達の禅の事を、野狐禅と言いますが、本当の禅定と野狐禅の違いが分かる人は少ないのですよ。
その違いが分かる人達は、ブランド社会の日本では、極めつけに
少ないのでネ??

「日本人の音楽家の留学への姿勢」
ヨーロッパへ留学する事が音楽家になるためのstatusと勘違いする事がstandardになったこんにちでも、日本人の音楽大学の卒業生が、ヨーロッパの音楽大学のcurriculumの中の音楽上の大切な一般教科を学ぶ日本人留学生は殆どいません。(この場合の一般的な教科と言うのは、日本の一般教科の意味ではありません。音楽のより専門的な音楽史や、和声や対位法、形式論や、音響学、指揮法等々の音楽を勉強する上で必要な音楽上の一般教科の事なのです。)
私は、小学生から高校生になるまでの生徒達に、「その曲を演奏するのならば、その曲に付いて、最低でも40分間はお話が出来なければならない!」と言い続けています。その練習として(勿論、おさらい会とうで、子供達に40分間お喋りをさせる事は出来ないので・・)演奏する前にone pointのコメントのお話をさせています。(教室に入会して、お喋りの第一歩は、自己紹介です。3歳児、4歳児の始めての自己紹介は、「お名前、年齢、習っている楽器」・・です。人の前で発表をする事は、大変なpressureです。でも、音楽は人へのappealなので、人へのcommentを臆してしまうようでは、本当の演奏は出来ません。

Pianoの生徒はPianoのlessonだけを受けて、「**大学を卒業した」と自称していますが、先ずは、その教科だけを卒業しようと思ったとしても、本当は、自分を指導してくれた教授から、「卒業認定の試験を受けて、教授から合格の認定」を受けなければなりません。

wien等のヨーロッパの音楽大学のPiano科を卒業するには、100曲に登る課題曲があって、それを全曲、試験を受けるか、公開演奏会で演奏するか・・で、1曲、1曲を、潰して行かなければならないのです。
つまり、4年間でその大学のピアノ科を卒業しようと思ったら、その課題の100曲を4年間で、公開演奏をするか、試験で合格を貰わなければなりません。つまり、試験に合格をする・・という考え方ではなく、repertoryを作る上での、第一歩なのですよ。

しかも、その100曲とは、ChopinのEtude、opus25なら、その25を1曲と数えるし、BeethovenのPianosonateならば、そのPianoの曲のOp.*を1曲として数えるのです。
だから、Nr.1、2、3を独立した曲として数えてはいけないのです。
だから、日本の音楽大学のように、半年で、1曲、一年に2曲という課題の勉強の仕方では、4年間一生懸命頑張ったとしても、演奏会のrepertoryは出来ません。つまり、音楽大学を卒業しただけでは、演奏会を開くための実力さえ、作って貰えないのですよ。
それでは、とてもとても、ヨーロッパの水準には追いつけないのですよ。
勿論、ヨーロッパの音楽大学でも、その生徒が、4年間で100曲を熟す事が無理ならば、「卒業は無理だ!」と言う事はありません。
本人が、それでもよければ、8年間でも、10年間でも、その教授の元で、曲を確実に1曲、1曲、潰して行って、100曲のrepertoryを作り上げれば良いのですから。
だって、ヨーロッパの音楽大学の学生は、10年以上音大生を続けている学生はザラだ・・・って、言ったでしょう??30過ぎの学生の方が多いのですからね。

日本の音楽大学では、例えProkofievのPianosonateを演奏したとしても、「1楽章だけ・・」という人達の方が殆どでしょうが、ヨーロッパの音楽大学の学生では、その考え方はありません。全楽章が普通なのですよ。
まあ、言われて見れば当たり前の事なのですがね。

私達の教室でも、例え、小学生の子供が演奏する場合であったとしても、室内楽のHaydnの「ひばり」や「五度」は、全楽章を建前にしてlessonをしています。

有名な1楽章だけでは、その曲を理解するのは4分の1に過ぎないからです。
発表会では、時間の関係や、生徒自身のキャパシティーの関係で、1楽章だけしかlessonをしないし、発表会でも演奏出来ないので、昔は「Etude-program」としてや、室内楽、soloのprogramとして、数名の音楽に進む生徒だけのVortrag-Abendのためのミニミニ・コンサートをよく開いていました。そう言う風に発表の場を作って全楽章を勉強していたのです。

ヨーロッパの音楽大学では、一つの国立の音楽大学に入学出来れば、国をまたいだ総ての音楽大学に転校する事が出来ます。
そういった前提なので、ヨーロッパの音楽大学では、一つの国立の音楽大学に入学すると、もし、学生がそれを望むのならば、ヨーロッパ全土の国立の音楽大学に転校する事が出来ます。勿論、その音楽大学の教授が許可をするならば・・という条件はありますがね?
だから、ヨーロッパの大学には、日本のように、4年間で大学を卒業するという考え方はありません。何時卒業するかは、本人達の自由なのですよ。

というわけで、私の持っている学生証ですが、半年に1個ハンコを押す欄が無数にあって、1枚の学生証で10年以上は使えます。
科によっては2年の所や3年の所もあるし、violin科で卒業したら、Piano科や指揮科に入って勉強を続ける事が普通なのですよ。
勿論、教授が認めてくれたらの話ですが、入学しているのだから、教授に認めて貰えるのは、そんなに難しくはないのです。それは人間関係の問題なのでね。

何度も繰り返してお話をしますが、普通、ヨーロッパの音楽大学の学生達は、10年ぐらいは在籍しているのですよ。

私は日本の音楽大学を卒業してにMünchen行きましたから、「多分学生の中では、最年長だろうよ!」と思って、19歳や、20歳そこそこの若造と一緒に勉強しなければならない・・と覚悟を決めて行ったのですが、実際には、Münchenの音楽大学では、入学時には、最年少でした。※)
※)その内に、pipeorganの教授でもあるKarl Richter教授の元に、14歳の女の子が飛び級で入学して来ました。超、可愛かったよ!
それよりも、14歳と言うのは、日本では、未だ中学生ですよね??そいつは、凄い!!

ヨーロッパの大学生が、10年以上も大学に在学している‥・という事は、金銭上のお話だけを取り上げても、日本では考えられない事だと思いますが、そこは日本人の大学生とヨーロッパの大学生では、大学に対しての考え方が全く違っているからなのですよ。

ヨーロッパの大学生達は、殆どの学生が、仕事をしながら大学に通っているので、親の仕送りと、費を学出して貰って、大学に通い、学生生活を満喫している日本人の学生とは、勉強の姿勢が根本的に違うのです。
それに私達の時代では、ヨーロッパの国立の音楽大学は、入学金や授業料は無かったのですからね。無料だったのですよ。無料!!

テレビで学生が、「就職はしたくなくて、遊びたいから大学に行く!」と言っていましたが、実際に多くの子供達がそのように思っています。お金を出す親に取っては堪ったものではない・・と思いますが、親も大学に入学させるのは、statusのためなのでしょうから、大学で何を学ぶかは、興味はないようなので、普通なのかもしれませんよね。
苦学をして、働きながら、大学を卒業して、留学をした私としては、そのstatusと言う考え方は理解出来ません。

しかし、ヨーロッパでは、大学は働くための知識や技術、学者としての研究のTechnikを身に付けるための大学であり、遊びたい学生は、容赦なく教授に切り捨てられて行きます。

私が師事していたGenzmer先生は、非常に厳しくて有名な先生で、私が在学中にも、多くのGenzmer門下生が、途中で放校になっています。
私も、その現場に何度も遭遇して、目のやり場に、困ってしまいました。Genzmer先生達、教授達はギリギリ迄待ちますが、破門を言い渡す時には、総ての弁解を否定し、受け入れません。「これまで待ったのだから、充分だろう?」という前提の破門なのですからね。
「どうして、彼らは、勉強の仕方が分からないのだろう??」と、私は何時も、悩んでしまいました。
某有名国立音楽大学を卒業して、某有名音楽大学で講師をしていたpianistの女の子(とは言っても私よりも歳上の人ですがネ。)が、Münchenの憧れの有名看板教授の元に師事出来たのですが、彼女が先生の前で曲を演奏すると、先生がとても、褒めてくれます。彼女は、先生の指導を期待するのですが、ヨーロッパの先生で、指導をしてくれる先生はいません。彼女は先生を見つめて、先生は彼女に頬笑み掛けて・・、それで10分程でlessonは終了してしまいます。
ここで彼女は、私にhelpを求めて来ました。
私が日本に帰国する迄の、半年間、私は彼女に事前にlessonをしました。「この曲のこのpassageは、こういう弾き方と、こういう弾き方の2種類がある。先生はどちらをどのような考えで勧めますか?」とか、「ここの所は、こう言う音で弾きたいのですが、どういうtouchをしたら、そう言った音を出す事が出来るのですか?」と言ったような、質問事項を大量に作ってlessonに望ませました。
勿論、それからは、lessonが非常に上手く行ったのですよ。
※)(このお話をすると、また、文章が非常に長くなってしまいますので、homepageの方を参考にしてください。ここでは、割愛します。)

ヨーロッパの人達は、音楽大学で勉強をしながら、並行して仕事を持って働いている分けなので、学生を何年も続ける事が出来るのですよ。現場では、既にproなのですからね??
そこは日本人と外国人とは、甘えの構造が全く違います。

私は音楽大学に入学した時も、留学した時も、親からはお金は出しては貰えませんでしたので、留学するまでは、「苦学をしている」・・というcomplexの意識が、心の何処かに・・あったのですが、ヨーロッパやアメリカの大学生は、皆、自分で働きながら大学に通っているので、「それが当たり前だ!」「普通だ!」という事に気づいて、すっかりズッコケてしまいました。
「なんだ???」「音楽大学で、自分で働いて、勉強をするのは、当たり前だったのだよ!!」
世界のstandardではね??
苦学をしている・・というcomplexは、すっかりと消えてしまいました。
自分が勉強したいのだから、自分で働いて金を溜めるのは当たり前の話だよね??
留学して何が良かったか??と言うと、ヨーロッパに行った事で、そこに気づいた事だけでも、収穫でしたよ。ホンとに!!

それと一つの国の音楽大学の学生証があると、他の国の音楽会でも、美術館でも、電車でも、総てに学割が使えるのです。
但し、音楽会で椅子に座れるのは、空席があった場合のみで、普段は、天井桟敷の立ち席になります。
舞台が真下に見えて、高所恐怖症の私には、結構怖いものがありましたけれどね。

大学を変える=教授を変えると言う事は、私の在学中にも同僚の学生がMünchenの音楽大学の作曲科からBerlinの音楽大学の作曲科に転校しました。
彼の作曲に対する嗜好は、結構、Contemporaryな作風だったので、Genzmer先生のtraditionalなMünchenの気質(Hindemith先生は新古典派の作曲家ですからね)には、合わなかったようです。
国を越えてヨーロッパの中の音楽大学ならば自由に転校が出来、教授が受け入れを許可するのならば、自由に大学を変えて行く事が出来るから、日本人の音楽家のように、大学をstatusにする事は、全くの無意味な事だからなのですよ。

ですから、私にとっては、母校の音楽大学をstatusとして、後生大事に抱え込んでいる日本の音楽家の習性は全く理解しがたいものがあります。
「何故??」って・・??
それは歴史に名を残している偉大な作曲家達が一番忌み嫌った事だったからです。
作曲家は、そういった権威や権力に対して、反骨精神の塊みたいなものですからね。
あの、子供のように優しいMozartですら、そういった権威、権力に立ち向かう時には、凄まじいpowerを見せていたのですから・・。

「先生への感謝の念」
「自分を教え導いてくれた恩師に対して尊敬の念を持つのは当たり前だ!」・・と言われそうなので、追記して起きますが、日本の音楽家達は、自分の音楽上の履歴には、有名音楽大学の教授の名前を連ねるのが普通で、自分の人生を変える事を導いてくれた幼い日の指導者の名前を書く事も、尊敬の念を払う事もありません。

寧ろ、どの音楽家達も、自分が幼い頃、音楽を指導してくれた指導者への感謝を全否定して、あたかも自分が生まれついての才能の持ち主で、それを指導したのが著名な教授大学であったかのように文章等でも書いています。

幼い頃に受けた音楽教育は、音楽教育ではなく、単なる育児であったかのような払いをしているのですよ。

それこそ、大学の教授や留学でlessonを受けた著名な演奏家の人の名前を列挙しているので、誰が本当にその人を指導したのか、理解不能です。
たった一度の公開lessonのみで、人はそんなに変わるものなのでしょうかね??
自分を指導してくれる先生との、人間としての対決があって、始めてその人の影響を受けて行くのではないのでしょうかね??
ですから、先程の「じぶんを教え導いてくれた恩師に対して・・」の言葉に誠意を感じる事はありません。

それなら、自分を音楽の道に導いてくれた最初の先生に対して、その言葉を言うべきでしょう。
それこそ、日本の音楽家達は、権威主義の権化のように見受けられます。
ヨーロッパの音楽家達は、そこの所は、非常に大人で、自分が本当に影響を受けて、自分の信念を持つ事を示唆してくれた先生に、恩義を感じて履歴に明記する人が多く、若者が、音楽大学の教授に対してよりも、自分の音楽への道を開いてくれた先生への、感謝を語る時、その若者の謙虚さは、見るからに、とても気持ちが良いのですよ。

まあ、・・そうは言っても、これはヨーロッパの人達の、人事のお話であって、・・・私達の音楽教室は、巷の音楽教室に過ぎないので、そういった日本人の演奏家達の状況を、僻む必要も、嫉む必要もないし、また、・・・日本の児童達への音楽教育の現状は、殆どが大手の教室に依存していて、個人の教室は数少ないようですし、非常に特殊で稀な存在の・・子供のうちから音楽に進む事を希望する家庭では、巷の音楽教室や個人の音楽教室に手習いに行く事は無く、最初から、音楽大学の先生の元で勉強をするのが普通なのです。
ですから、巷の音楽教室から、音楽の世界に進んだ生徒は殆どいない事が普通ですし、もしも、まかり間違えて、個人や巷の音楽教室で、頭角を現した生徒も、早い時期に、一般的な風説に影響されて、摘み取られて、有名な音楽大学の教授に師事する事が、すこぶる一般的で普通なのです。

ですから、私達の音楽教室のように、巷の音楽教室から、音楽大学に進学したり、高校から直接ヨーロッパの音楽大学に飛び級で入学したりする事がある・・と言う事を、一般の人が信じる事はなかったし、有り得る・・という事すら信じなかったのですよ。

つまり、目の前で、教室の先輩の生徒達が、留学をしたり、コンクールに入賞したりしても、それを信じる人達はいないのですよ。

「なにを信じるの??」って??
・・・信じるのは、自分が目の前で見た現実ではなくって、一般の常識、風評だけなのですよ。
或る意味、凄い??て、思いませんか??
自分が見たものを信じられない・・と言う事は・・??

昔は、教室に、とても世話焼きの保護者の人がいて、教室のスターの生徒に、「もし、音楽の世界に進みたいと思うのならば、こんな巷の音楽教室で勉強していては駄目よ!!N響の先生を知っているから紹介してあげるわよ!」と言って、一生懸命勧誘していました。
「それなら、自分の子供をその先生に付ければ良い」・・と思ったのですが、その質問には「私の子供なんて、音楽では駄目よ!」「だからココの教室で、丁度、いいわよ!」と言っていたそうです。
まあ、いずれにしても、失礼な話ですよねぇ~??
でも、本人は今だに(!)教室に対して失礼な事をした・・とは思っていないようなので、本当に、分かっちゃ、いないのよね~ぇ??
その程度なのですよ。一般の人達の水準は・・??

しかし、その考え方は結構普通の常識的なお話なのですよ。
小学校や、中学校を卒業する事を契機に、音楽大学の教授の元に、変わって行く生徒も多いのです。
ミュージックプラザの社長や、お姉さん達は、「芦塚先生、真面目に、そこまで子供達を指導・教育しないで、サッサと、中学、高校生ぐらいまで育てたら、某有名国立音楽大学の教授に生徒を回せば良いのよ!」「そうしたら、『あそこの教室に入ると、某有名国立音楽大学の教授に紹介して貰えるわよ!』と言う事になって、音大受験を目指す良い生徒がいっぱい集まるわよ!」という話でした。
まあ、「教室の経営と言う事なら、それも有りかな??」、とも思ったのですが、教室を開設した目的が・・、conceptが・・と言う事で、未だに某有名音楽大学の教授には、教室からは紹介はしていません。

私的に私自身としては、某有名音楽大学の教授に紹介をしてあげると言う事は、「それはそれでも、良い」「全然、問題はない!」・・とは思うのですが、しかし、そこで、私が疑問に感じた事は、「音楽の世界で音楽のproとして活躍したい!」・・と願い、夢見た子供達の大半が(否、殆ど全員が)音楽大学の有名な教授や、orchestraの有名な演奏家に師事をしたその後、proの道には歩んで行けず、音楽の道を断念しているのですよ。
教室を開設当時に、某有名国立音楽大学の主任教授の所に行った、生徒のその後を、教室の先生達が調査しました。先生達とは言ってもその頃は、まだ中学生、高校生ぐらいの頃です。
その生徒の調査では無く、その先生の元で勉強をしている総ての生徒と、大学を受験して合格した生徒の調査です。
その先生と同じviolinistである奥さんの元には、常時20名の生徒がいますが、1年後のその門下の発表会では、その20名の生徒の大半がいなくなって、新しい門下生に入れ替わります。教室からその教授の元に代わって行った生徒が、音楽大学に進むか否かの6年間を調査したのですが、彼女が入門してから、高校の3年生になるまでに、続いた生徒は一人もいなかったし、しかも彼女自身も音楽大学、というかviolinは捨ててしまいました。本当は、中学生の内に止めたかったのですが、父親の上司の人の紹介では、止めるに止められなかったのです。
もっと、面白い事は、その教授の元から、毎年、10名、20名の生徒が某国立音大を受験するのですが、その生徒達の大半(殆ど全員が、1回、2回のlessonを受けるだけで、)実際にその先生の元に弟子入りをする分けでは無いのです。つまり、1回、2回、その先生のlessonを受けるだけで、音楽大学に合格出来れば、その教授の門下生になるし、合格出来なければ、1,2回のlessonしか受けなかった、他の先生の門下生になる・・と言うだけの事です。
つまり、常時、10名以上の生徒の受験を合格させている・・というのは、そういったカラクリに依るのですよ。
その生徒がその先生の元を去った時点で、その先生の生徒達の動向の調査はしていません。全く、無意味なので、まだ高校生であった生徒達も辟易していたしね!!
殆どの生徒達は、音楽大学の教授の元で、挫折をして音楽の世界を恨み嫉みながら、一般の世界に去って行くのですよ。

今お話をした、・・教室を開設したばかりの頃の教室のスタープレーヤーの生徒のお話の補足説明なのですが、・・パパの上司の人のadvice(その上司の人の娘さんもその有名な教授の元で勉強をしていたからです。)で(このadviceの事を私は赤提灯のadviceと呼んでいます。)、その上司と同じ、某有名国立音楽大学の主任教授の元に、突然、泣き泣き「弟子入り」をする事になりました。

江古田の、私の行きつけの珈琲屋に、その女の子の両親から呼び出されて、その父親が「あなたが子供を指導出来る限界はココまでです。だから、後は某有名国立音楽大学の教授の所に連れて行きます。」と、面と言われてしまい、呆れ果ててしまいました。
これ程の屈辱を味わったのは、嘗て無かったのですが、私は怒りを堪えて、「ああ、そうですか?」と頷くだけで、黙って聞いていたら、珈琲屋のご主人が、私の代わりに烈火の如く怒り捲って、「芦塚先生、何故、相手の両親に対して、怒らなかったのですか?」と、叱られてしまいました。

或る意味、悲劇なのは、・・親は、先生の水準をその人の地位でしか判断出来ないのですが、その先生から学んでいる当の子供達は、先生の技術の水準がよく分かります。子供は比較が出来るからなのです。

だから、地位や権威ではなく、どういう先生の元で勉強をしなければならないのか?と言う事が、親よりも、理解出来るので、地位や権威で納得出来る事はありません。

当然、これ以上、自分を育ててくれる事のない先生の元で、lessonを受けるのは、その生徒にとっては、死にたくなる程の悲劇なので、よく教室の下で、車の中で母親と一緒にオロロンと泣く姿を見る事がありました。
本当ならば、もう一度私に教えを請いたいのでしょうが、父親が許す分けは無いからね。
だって、会社の上司の紹介を断ったら、父親としては、仕事に差し障って、不味いでしょう??

つまり、母親は子供と一緒に私のlessonを受けているので、ある程度の音大の先生のlevelは、その先生のlessonを見ているだけで分かるのですよ。
しかし、父親は、私のlessonを見てそのlessonの内容や、水準を理解する事はないし、説明して貰ったとしても、音楽のお話なので、それを理解する事は、有り得ないのですよ。
だから、「赤提灯での話」を世間の一般論として、真に受けてしまうのだよね。

音楽の世界は、技術職で職人の世界なので、世間の一般論で音楽の世界を理解し、通用する分けはないのに、驚いた事に、子供の教育の事となると、一般論が通用してしまうのだよね。
音楽は、基本的に職人の世界なのだよ!!
水準が総ての、世界なのだよ!
所詮は一般の人達には理解不能な、特殊な世界なのにね??

そういった先生に師事した彼らに取っては、音楽の世界は厳しいだけで、「音楽を好きだ!」と思う事は、彼らはなかったのでしょうが、それでも、「音楽を嫌いだ!」「音楽に関わった事で人生を無駄にした。」という言葉を言わせるのは、私には苦痛です。

そこで、(ここの所は話の筋が前後するのですが、そこは無視して・・)私は自分が奉職している大学を辞めて「Ashizuka-Schule」として芦塚音楽教室を立ち上げました。
そこで私に師事した多くの子供達を音楽の世界に送ったのですが、此処で非常に面白い事は、小学生の時までや、中、高生迄私の元で学んだ生徒達が、有名音楽大学に入学後に、私の元で勉強をして来た事をひた隠しにする事です。

その理由の一つは、芦塚メトードが日本の音楽教育の王道である3点支持のmethodeに逆らって、世界standardの1点支持のベルギー派のメトードである・・という点です。
昔は、私のmethodeを説明するのが面倒くさかったので、人によく言われていた「ベルギー派」を売りにしていたのですが、私は本当は「ベルギー派」とは無関係の、「roots派」とでも言うのかな??楽器のrootsからこのmethodeを編み出したのです。ベルギー派は、baroqueや古典派のtraditionalを色濃く身に付けています。
それで、同じ出典を持っているから、methodeが似てしまったのですよ。

音楽大学で勉強を続けて行くためには、教室のメトードを捨てて新しく学び直さなければならない‥・という事で、教室のmethodeを否定するためには、「やっぱり、巷の音楽教室は・・??」てな事になるのでしょうかね??

ですから、音楽教室を立ち上げる前の生徒達は、音楽大学在学中や卒業してから私の元にlessonに来て、ヨーロッパやアメリカへの留学の準備をした分けなので、芦塚先生門下(所謂、Ashizuka-Schule)と自称するのはやぶさかではないようですが、私の教室で私に学んで、その後を音楽大学に進学した生徒達にとっては、教室の芦塚メトードは、異端であり、音楽大学に進めたのが教室のmethodeであったとしても、大学に入学してからは、子供の頃に学んできたmethodeが、異次元の間違えたmethodeであったような気がして来て、ついつい、教室を全否定したくなってしまうのでしょうね。

「Ashizuka-SchuleとAshizuka-methodeのお話」
日本の音楽大学の教育に対して疑問を感じて、ヨーロッパ留学の前に、ヨーロッパのメトードを学ぶために、私の元に来る・・という生徒達や、教室から音楽大学に進学しないで、直接留学をした生徒達と、教室から日本の有名音楽学に進学した生徒達には、教室の価値や、私に対しての尊厳に大きな意識上の落差があります。
私の仲間の人達は、私の生徒達に対しての褒め言葉として、よく「Ashizuka-Schule」という言葉を使うのですが、私自身は、その言葉を一度も使った事がないのです。

・・その一番の大きな理由は、音楽大学に進学して現場で活躍している生徒達に取って、「Ashizuka-Schule」で学んで来た・・という事が、迷惑な、忘れてしまいたい実事として捉えられているのではないか??という危惧の念からです。
つまり、「Ashizuka-Schule」という言葉は、生徒達が自主的に使えば良い言葉であって、教室が「あの生徒は、教室で学んだ生徒なのですよ。」と公表する必要は全く無いのです。

子供達を指導するようになって、既に40年近くの歳月が経ってしまいました。
とてつもない長い長い月日です。
齢い70を越して、彼の有名な絵かきの末期の言葉ではないけれども、「天が後**年、寿命を与えてくれたら・・」と、人生の限界を感じるようになって、自分の技術や勉強が・・私の頭の中だけで、このまま消えて、消滅してしまうのではないか??という恐れに囚われるようになって、・・・・未だ死んでいないけれど・・!!なんとかせにゃあかん・・と、焦ってしまうようになって来ました。

という事で、子供達である‥・という事で、齢いは満たないとしても、或いは、水準に到達出来ていないので、とても、マスタ-出来る水準ではなかったとしても、ただ単に、その技術を、ほんの少し囓って置くだけでも、何か心に残って来れるのではないか??・・と言うような妄想に囚われて、年齢を考えないで、今、現実に私の傍にいる生徒達に、伝えておかなければ・・という事で、総ての技術や方法論を年齢の枠を外して、指導する事にしました。

小学生から、period奏法で弦楽器の演奏法のrootsを勉強させるようにしたのも、この2,3年前からの突然のお話で、前回の八千代のコンサートの後半で、少しperiod奏法を中、高生の演奏に、おっかなびっくりで「演奏出来るかな??」と、不安を感じながら、取り入れて見たのですが、驚いた事に、音大生やproの弦楽器奏者を指導するよりも、何倍も指導が楽だったのですよ。
つまり、現代のTourte棒に侵されていないだけ、本当のbowの持ち方や奏法に、障壁がなかったのです。

という事で、昨年からは、教室の小学生の生徒に迄、範囲を広げて、period奏法を中心として、純正調や、ornament奏法と、音楽大学でも勉強をする事のない、高度な技術を指導する事にしました。

40年間私が指導して来たメトードですが、そのGrund(基本基礎)を、net上でアップロードした事はなかったのですが※)、今回、小学生達に対しても、period奏法を指導するに当たって、始めてFacebook上に、私のmethodeや研究論文を発表し、如何に日本の音楽教育が世界に取り残されたガラパゴス島になっているのかをappealする事にしました。

つまり、私のmethodeの理論的な解説のお話は、今回が始めて一般の人達に向けてappealする話になるのですよ。
※)homepage上には、ほんの少しだけ芦塚メトードに関する記述を記載していますが、難しいmethodeを簡明に文章に書く事よりも、ハイツのカラスにその場でlectureする事の方が、数倍簡単なのですよ。

それでも、敢えて、今回はその無謀なチャレンジを始めたのは、これも、もう、此処で、appealしなければ、私の論文が一般の人達に読まれ、知られる事はない・・という、危機感が原因なのかも知れませんよね。

今から40年ぐらい前の私が未だ30歳ぐらいの時には、年金がいずれ破綻を来たすというお話を役所にして、「お国のやる事が破綻をするはずはない!」と、役所の人達や周りの保護者の人達のブーイングを受けてしまいました。
バブルの時も、結局は実質のないものに、価値を与えて行けば必ず破綻を来たす・・という話をしたのですが、その時も誰も信じては貰えませんでした。
トイレットペーパー騒動の時も、或る日の突然の事だったので、あるだけのトイレットペーパ-を大切に使えば、この騒動は落ち着くと先生達に言い聞かせて、騒ぎに巻き込まれないように注意をしていたのですが、教室のトイレットペーパー無くなるギリギリの1月の時に、世間は落ち着いて、普通の通りになりました。
その時に30年分のトイレットペーパーを買った人もいて、4,5年前にやっとそのトイレットペーパーを使い切った所です。
period奏法は今はやっと一般的になってきましたが、教室の先生達に指導し始めて、1990年には、baroque楽器によるperiod奏法の演奏会を始めましたが、その頃は、未だ世界でも数人の人達しか研究を始めてはいなかったのですよ。
ですから、「何を奇妙な事をやっているの?」ぐらいの感覚でしか、見られていなかったし、今現在でも、baroque-concertというと、単にbaroqueの曲を演奏するだけで、baroque-concertだという人達がいて、教室の小学生の生徒が、「何処がbaroque??」と怒っていました。
日本の水準なんて、そんなもんなのですよ。アハッ!
30年後に、もう一度お話をしてみましょうよね??(生きていたら・・ですが)アハッ!


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2月12日 0:05 ·
「Facebookについて」
30分程前に、色々と文章を編集して保存しようとしたのですが、保存の段階で、全部ブッ飛んで、編集履歴にも残っていませんでした。
本当にFacebookには頭に来ます。
Facebookやめようかな??
‥・・て、毎回、言っているよな??
Facebookに変わるメディアが見つからないので、そのままになっているのだよな!!

斉藤先生によると、四日市は大雪だそうなので、今日の降り具合では、「東京に帰って来れるかな??」・・の状態だそうです。
それそうと、昨日丸々一日は、ひたすら安静に体力の回復に努めていましたが、今日の夕方迄は、寝ても直ぐに目が覚めてしまう摂眠障害のpatternを繰り返していたのですが、夕方から突然に、逆のpatternの「目が覚めない!」「起きあがれない!」「意識朦朧の状態!」になってしまいました。
しかし、これで寝不足は無くなったので、one stageは体調が戻ったのかな??
今日のオケ練習は、いつものオケ練習の時間のamの10:30にはハイツを出発する事になります。でも、椎名町で積み込みを済まして、椎名町出発は11時になるので、渋滞がないとしても、12時半に千葉の教室に着になります。
帰りは、渋滞がなければ、千葉から椎名町へは、40分で帰れるので偉い違いですよね。


lessonを終わって、「さあ、帰ろう!」と思ったら、何と、京葉道路が上下線とも通行止めでした。ずっこけたネ!!調べて見たら、来週の日曜日も朝の6時から次の日の6時まで、やっぱり上下線とも通行止めだってよ!!まいったね??何してんだ??
2月13日 9:07

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2月12日 5:08 ·
「お弁当箱のお話」

折角、2,3日前に、椎名町から持って来たお汁粉なのですが、幾ら頑張っても、蓋が開きません‼
とうとう蓋を開ける事を諦めてしまって、そのまま椎名町に戻そうと思っていました‼
ちなみに、熱湯で温めるというのも、既に試みて見ましたが、全く無駄骨でした‼
今日になって、段々と、超、腹が立って来たので、オープナーが折れるか、蓋が壊れるかを覚悟で、オープナーの端っこを家具に固定して、両手で強引に、瓶をこじ開けました。
単なる、力業だったけれど、なんとか開いたし、取り敢えずは、瓶の蓋も、オープナーも壊れなかったし、なんとか無事に開きました。
でも、勿論、お汁粉はもう、すっかりと、醗酵して駄目になっていました。チェッ!!食べたかったのにな???

この魔法瓶を入れる可愛らしい袋ですが、とても気に入って、絵柄違いの入れ物を、二つ(二種類)買ったのですが、二つとも、チャックの上の部分が裂けててしまいました。
布がお洒落な分、魔法瓶に食べ物を入れると、その重さに耐えられないようで、手持ちをすると、裂けてしまうようです。
この魔法瓶と袋を買ったお店で2回とも交換してもらったのですが、3回目も同じように、同じ箇所から、この写真のように裂けてしまって、「もう一度、お店で交換して貰ってくれ!」と先生に言ったら、「3回目なのだから、クレーマーになっちゃうよ!」と言われて、裂けた入れ物は、捨てられてしまいました。
3回目でも4回目でも、私は替えて貰っても、良いと思うのですがね・・??






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2月13日 11:05 ·
「音人の会」のお知らせ

お待たせしました!!
「音人の会」日時が確定しました。
音人の会
19日(日)花園自治会館、
4時準備開始、
4時30分開演、
8時30分終演、
片付け終了9時退出の予定です。



「音人の会」当日の午前中から、夕方迄の、オケ練習の伝達です。
「19日のオケ練習は、cスケです。」

朝一よりオケ教室でオケ練習になります。3時30分終了。
午前は、前回の私の出題した課題を分奏で復讐します。
千夏さんは午前休みで、梨紗さんは、6時過ぎの音人の会後半からのinだそうなので、オケ練習には間に合いません。(以上、牧野先生からの伝達です。)という事で午前中は斉藤先生だけ出し、私も、体調を温存するために、基本的には音人の会迄に行くつもりなので、書記係の人達は頑張って斉藤先生にlectureの内容を連絡してください。
2月15日 3:16

復讐は無しでお願いします( ̄∇ ̄)!!
2月13日 23:47

アッハッハ‼復讐はわざとの誤変換です‼
勿論、正しくは、復習です。
今日(月曜日)は斉藤先生に、昨日のオケ練習の時の、私のlectureをvideoを見ながら伝達と説明をするつもりだったのですが、「音人の会」の打ち合わせだけで時間いっぱいになったので、オケ練習に関しては、全く伝達出来ませんでした‼

本来は、斉藤先生にオケ練習の内容を伝達する役割は、今現在、千夏ちゃんが「伝達」の勉強中なので、千夏ちゃんの役割なのですが、そのlectureは、結構難しいし、時間も掛かるので、「伝達が正しく出来たか?」の確認作業は、私自身も参加しなければならないので、どうしても、他の事務的な作業の時間がなくなってしまいます。
次回のオケ練習の時の、復習の伝達や指導方法は、私のlesson内容が正しく理解出来ていないと、生徒達へ伝達と、練習が出来ないので、結構大変なcurriculumなのです‼
2月15日 3:20


上記の「伝達を学ぶ」という意味が分からないかも知れないので、その補足説明をします。.

例えば、学校の勉強では、10、教えて、1、理解出来れば良い・・とされる事が多いのです。学校は、指導要領で、その勉強の進捗迄、細かく指定されているので、一人一人の理解力に合わせて指導する事は出来ないからなのです。
つまり、子供達が理解出来なかった事の、残りの9は自分で家庭で復習するか、塾の先生から学びなおせばよいのです。
ここでその是非を論じる事はしません。それは学校教育の問題であり、音楽教室の問題ではないからです。

でも、本当の効率を論じるならば、10を教わったら、その場で10理解出来たら、家庭で、復習をする必要も、塾に行く必要もない‥・という事なのですよ。

そんな、夢みたいな事があるのでしょうかね??
それがあるのですよ!!
その方法論が、私が教育の現場に無理やりに引きずり出された「芦塚メトード」という教育法だったのですからね。

では、どうすれば、10教えて、10理解出来るようになるのでしょうか?
それは、簡単です。(但し、時間があって、やる気さえあれば・・なのですが。)

先ず第一のpointは、10教えたその場で、10理解出来たかを確認すれば良いのです。
今、オケ練習で書記係を作って、私の指導をcheckさせています。(書記係は自主的に一つ一つの曲に一人の書記係を決めます。)
今の回答率(私が注意した箇所を全部check出来るか?・・・この場合には、理解出来たか否かではなく、箇所を指摘出来たか?だけです。)今現在の普段の回答率は10/1程度です。
この回答率は、その生徒のviolinの技術に比例します。高校生ぐらいになると、10/10の確立になりますが、但し、lessonやオケ練習に関してのみで、学業には反映されていません。そこはまだ弱いのですかね??
つまり、checkpointは指摘出来るのだが、指導内容に関しては、人に指導出来る程の理解力はありません。
先生の言った通りに説明出来る‥・指導出来るようになったら、100点満点です。千夏ちゃん達の勉強もその勉強の意味もあるのですよ。
2月15日 3:36

色々と芦塚メトードによって、最良の勉強の方法論をアドバイスをしても、それを皆が、中々出来るようにならないのは、芦塚メトードが難しい・・という理由ではありません。
丁寧に芦塚メトードのsystemに乗って、確実にやって行けば良いだけなのです。
それが出来ないのは、methodeに乗る事が難しい分けではなく、単に、面倒臭いからなのです。
人は、頭を使って行動をする事を極端に忌み嫌います。何も考えずに行動する事を望んでしまいます。
何も考えずに指だけを回す練習ならば、それこそ、7時間の練習でも、苦痛なく出来ると思いますが、一つ一つの課題を確実に熟しながらの練習ならば、proと言えど、せいぜい4時間が限度です。一般の音大生ならば、2時間は持ちません。
教室の生徒達は、そう言った練習で、音楽の勉強を学んで来ているので、その2時間の練習はなんでもないのですが、一般の音大生で、毎日7時間の練習を耐えて来た人達は、教室の2時間の練習が苦痛で、練習を継続させる事が出来ません。
私に取っては、単純に7時間練習するよりも、集中して2時間練習をした方が楽なように思うのですが、一般的には、7時間の練習の方が効果があるような風に思われているようです。
名門大学や、大手の会社に集まる人達は楽に見えて一番厳しい人生を選んでいるのですが、それに気づいている人達はいません。そんなもんですよ。

芦塚メトード自体は、非常に簡単なmethodeであり、誰でもそれを実行する事が出来ますが、問題は、それを継続する事が出来ないのです。

その一番簡単な例を上げるとすれば、暗譜の例でしょうかね。
暗譜を一つの技術として捉えると、「暗譜は、出来る人は出来るし、出来ない人は出来ない」という、「出来る人と出来ない人の落差」が、一番大きい技術のgenreです。

暗譜の能力を習得するために、子供達に私が何時も言い続けている事は「暗譜は記憶の能力ではなく、単なる癖なのだよ!」という事です。

暗譜をする一番簡単な事は、譜面を見ないで毎日の練習をする事です。
その一番簡単な事が、中々出来ない!!

譜読みに自信が無くて、曲を貰ってから譜読みの段階が非常に困難な人は、(譜読みを丁寧にするならば、)1,2小節を単位に(一つのphraseを単位に覚えて行きます。)一つのphraseを譜読みして、それだけの小節を暗譜で練習する事は簡単ですよね?

人は楽譜に目が行っていては、音や指使いに集中する事が出来ません。
或いは、抜き出し練習の箇所は音に集中しなければならない・・と言う事なので、抜き出し箇所の譜読みを正確にしたら、後は耳や目を使って練習しなければなりません。
この場合の耳は自分の弾いた音を正しい音を弾いているかを確認する事で、目は鍵盤上の手の型や姿勢等々がちゃんと出来てイルカであって、楽譜上の音のcheckであっては、絶対にいけません。
それだけの事を守れば暗譜の癖は直ぐに付くようになるのですが、それだけの事が出来ないのですよ。
つまり、面倒臭くなってしまうのよね??
勉強に、「面倒臭い」という言葉が出て来た時点で、methodeを習得するのは不可能になります。
そこは、王道はないのですよね。
「出来る人」と、「出来ない人」の差は、その「面倒臭さ」だけなのですよ。
でも、その差は、あっという間に、致命的な迄に開いてしまいます。
「少ない努力で、早く出来る事」と、「いつまでもコツコツとやらなければならない事」は、「どちらが楽か??」と思うのですが、一般的には、皆、コツコツを選択してしまいます。
私には、そこが理解出来ません。不可思議ですよね??
2月15日 11:40

色々とアドバイスをしても、それが中々出来ないのは、それを継続出来ないせいなのです。
一番簡単な例を上げるとすれば、暗譜の例でしょうかね。
暗譜は、出来る人は出来るし、出来ない人は出来ないという、出来る人と出来ない人の落差が、一番大きいgenreです。
暗譜の能力を習得するために、子供達に私が何時も言い続けている事は「暗譜は記憶の能力ではなく、単なる癖なのだよ!」という事です。
暗譜をする一番簡単な事は、譜面を見ないで毎日の練習をする事です。
譜読みの段階が困難な人は、譜読みを丁寧にするならば、1,2小節を単位に(一つのphraseを単位に覚えて行きます。)2,3小節を譜読みして、それだけの小節を暗譜で練習する事は簡単ですよね?
或いは、抜き出し練習の箇所は音に集中しなければならない・・と言う事なので、抜き出し箇所の譜読みを正確にしたら、後は耳や目を使って練習しなければなりません。
この場合の耳は自分の弾いた音を正しい音を弾いているかを確認する事で、目は鍵盤上の手の型や姿勢等々がちゃんと出来ているかであって、楽譜上の音のcheckであっては、絶対にいけません。
それだけの事を守れば暗譜の癖は直ぐに付くようになるのですが、それだけの事が出来ないのですよ。
つまり、面倒臭くなってしまうのよね??
勉強に、「面倒臭い」という言葉が出て来た時点で、methodeを習得するのは不可能になります。
そこは、王道はないのですよね。
「出来る人」と、「出来ない人」の差は、その「面倒臭さ」だけなのですよ。
でも、その差は、あっという間に、致命的な迄に開いてしまいます。
「少ない努力で、早く出来る事」と、「いつまでもコツコツとやらなければならない事」は、「どちらが楽か??」と思うのですが、一般的には、皆、コツコツを選択してしまいます。
私には、そこが理解出来ません。不可思議ですよね??
2月15日 10:38

音人の会...欠席でお願いします......残念...。
2月13日 22:37

久し振りでお喋り出来るかな?と思ったけれど、残念ですね??じゃあ、また今度の機会ででも・・・。
2月14日 2:10

はい、なかなかレッスンも再開出来ませんが、江古田はアクセスも良いのでぜひまた伺いたいです!
2月16日 22:33


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2月13日 12:14 ·
「帯状疱疹Ⅱ-2」

昨日のオケ練習では、小学生の子供達の表情に元気がない事が気になって、練習中に何度も子供達に「どうしたの?」と聞いたりしましたが、皆、「そんな事はないよ!」とか「普通に元気だよ!」という答えが返って来ました。そこで、ほっぺたが赤くなっている子供の熱を体温計で図ったら、やはり、7度超で、少し微熱があるようで、「キツければ早退しても良い」と言ったのですが、途中で帰るのは厭らしくて、最後まで頑張っていました。
今千葉ではインフルが流行っているそうですよ。

小学生組が帰って、高校生や大学生のlessonになった頃には、私もなんとなく、顔が火照って来て、「ウツされたかな??」という感触だったので、千葉から東京へ戻ってから、急いでハイツに戻って、そのまま後片付けもしないままに寝て、今朝、起き出したのですが、体調が戻らないので、改めて、体温計で図ってみたら、やはり案の定、7度5分の微熱なのですよ。
いや~あ、参った!!

取り敢えず、その夜はそのまま休んで、何時もの定型の体重測定の時間(朝5時丁度)に起き出して、昨夜のそのままの状態の、楽譜類や仕事道具だけを先に片付けて、衣類は脱ぎっぱなしの状態のままで、体力切れ・・・と言う事で、布団に再び潜り込んだにですが、横になった途端に鼻詰まりが酷くなって、窒息しそうになって、慌てて布団から起き出してしまいました。
困ったもんだ!!

明日の火曜日は、病院に帯状疱疹の薬も貰いに行かなければならないし‥・、それにインフルの薬まででは、薬漬けになってしまうよな⁉
病院通いが日課になってしまっては、まるで、老人のようだぞ!!
いやあ、困った!
おまけに昨夜は珍しく、熟睡は出来ていたのですが、起きて腰が立たないし、鼻詰まりで息も出来ないし、微熱で顔も火照っているし、**いるし、**いるしで、・・こりゃあ、どうすんべ~ぇ??

という日常がroutine化して来ているようですな??


少し、安静にしておこうと思って、布団に入ったら、いつもの鼻づまりになってしまった。勿論、起き出して椅子で休むと鼻は通るのだよ‼困ったものだ‼

写真は、鼻の洗浄器です。後ろの袋が塩で、生理的食塩です。人肌のお湯で鼻を洗浄するので、痛くはないし、辛くもないのですが、それで人前に出ると、脈絡なく突然に、鼻から水が流れ出るので、人前に顔を出さない時しか使えないのですよ。深夜寝ていても突然水が出てしまうしね。
それでも、今回のように、いつまでも、鼻づまりで眠れない時には、非常手段として、使用します。ハイ!
2月13日 15:05

今日は帯状疱疹の薬が終わったので、病院に行って来ました。病院によると、帯状疱疹の薬は、非常に高価なので、1週間分しか処方出来ないそうで、後は様子を見て、これ以上悪くなるようならば、皮膚科に入院して点滴で薬を入れないといけないのだそうです。
いずれにしても、一番大変な時期は過ぎたので、様子を見るという事で、痛み止等を処方して貰いました。
ついでに、風邪の鼻水と咳止の薬を貰って、風邪の細菌感染を防ぐ薬を貰って来ました。
う~ん、なんだかね~ぇ??
2月15日 3:14

一夜明けて、今日は水曜日です。
日にちが過ぎるのは早いもので・・・、ではなく、帯状疱疹の薬が終わったばかりなのに、もう少しあちこち頭の中のぶつぶつが腫れて来たのと、折角、鼻水の薬と喉の薬を貰って来たのに、今日は鼻水が止まらなくなって、喉が痛くなって、咳が止まらなくなって来て、朝から眠れなくなって、困っています。折角、病院に行ったのに、どうなっているのかな??病院でインフルと帯状疱疹を貰って来た・・とか??
それに微熱まである!!
2月15日 14:21


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2月16日 3:54 ·

「帯状疱疹Ⅱ-3」

「帯状疱疹の再発」 
火曜日に帯状疱疹の薬が無くなってしまったので、貰いに行ったのですが、帯状疱疹の薬は非常に高価な薬なので、1週間以上は処方する事が出来ないと言われて貰えませんでした。それならば、という事で、少し風邪っぽかったので、ついでに風邪薬も貰って来たのですが、病院から帰ってきた途端に、咳が酷くなって夜も眠れなくなってしまいました。熱は微熱程度なのですが、鼻水と咳があまりにも酷くて、深夜、とても眠れなくって、起き出してしまって、パソコンの椅子に座りましたが、意識朦朧なのでパソコンを開いても、目が開かないので、mailを読む事すら出来ません。頭もボケまくって、Keyboardを打つ事すらままならないのです。咳が酷いと、その前に体力が消耗してしまって、やる事なす事ウダウダで、本当に、仕事にならないのよね~ぇ??それが今日(木曜日)の近況です。



体調はまだ完全ではないのですね。ご自愛ください。
因みに帯状疱疹の薬が一週間を超えて処方されないのは、高価であることが理由ではないのです。ウイルスに対する治療は一週間で完結して、また健康保険の適用も一週間以内に限られているからです。一週間を過ぎて痛みや発疹が残る場合は痛みや発疹に対する治療をしていくことになります。
2月16日 8:52

ご教示、有難うございます。最初帯状疱疹になったのは12月6日の話で、なんとか外に出れるようになったのは、一月ぐらい掛かったのですが、結局は、前回も、治りきらないままに発疹が頭部のアチラコチラに残ってそれが、今回また再発してきました。今回も薬は飲み終わりましたが、少し進行しているようです。「高価である」・・というのは、なんでその先生が言っているのか分かりませんが、その先生の口癖です。前回の薬は殆ど効果が無くて、飲み始めてからも病状が進行して、結局一月近く掛かってしまいました。と言う事で、今回はお願いして別の薬を処方して貰いました。前の薬の方が一般的で薬も強いので・・と、言っていましたが、あまり私には適してはいないと思ったので。私は保険が100%なので、薬局でお金を払った事がないので、そう言う風に言いたくなったのかもしれません。それにしても、風邪の方は、鼻水は少し快方に向かったのですが、咳が酷くて夜も眠れません。薬は処方して貰っているので、兎に角安静にしています。糖尿病の値が悪いので、病気が総て治りにくいのは致し方がない・・という事らしいです。
2月16日 16:37

今回のお話とは、関係がないのですが、私がまだ中学生の頃の昔々のお話なのですが、開業したばかりの養父が患者により良いようにと、処方した薬が高価であるという理由で保険医療に認められないとして戻って来てしまい、そういった事が度々あったので、友人の開業医に相談していました。半年か1年くらいもすると、要領が分かったようで、そう言った薬のトラブルは一切無くなったようですが。
その当時は、・・ジェネリックの薬品が出る前の時代で、必要のない高価な薬を処方して、売上を上げる悪徳医者が社会問題として騒がれていた時代でした。医療費が高額になって、国政を圧迫している‥・という事で、薬の選択にも、厳しい制約を言われていた時代でした。
今私が通っている病院も先生が処方した薬を、薬局の先生が、「ジェネリックが出ているから、」と言う事で電話で先生と相談して、よくジェネリックに交換しています。大学病院等では、新しい薬を試験的に使用するのが、基本なので、高価な薬という概念は無いようですが、町医者は結構締め付けが厳しいので色々と大変なようです。
2月17日 6:32


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2月17日 17:07 ·


「帯状疱疹Ⅱ-4」
「帯状疱疹から風邪へ??」

昨日の夕方と言うか、夜頃からと言うか、突然、咳がドライな空咳ではなく、ウエットな咳に変わって、咳の回数が少なくなって来て、睡眠を取る事が出来るようになって来たので、体が非常に楽になってきました。
2日ぐらい前から、冷蔵庫の中の食料が底を付いてしまったので、代わりに小岩井の無添加野菜を食料代わりにしてしのいでいました。今日は椎名町からお弁当の配給があったので、早速、食べ過ぎないように注意しながら、食べたのですが、やはり、食べ終わった所で、微熱が出てしまって、今から布団に戻る事にします。

咳が乾咳の時には、喉が切れてしまうのでは、・・と思えるように、痛くて辛かったのですが、咳がウエットになって、痰が出る様になったので、体力的には大変助かりました。
風邪の薬は14日から飲み始めたので、昨日の夜は16日目で、ちょうど2日目なので、薬の効き具合としては、そんなものですかね??
でも、それでも咳をするとお腹の筋肉が痛くて仕方がありません‼
バイパス手術の後のように、咳をする時には、肋骨を押さえて、痛みを止めています。

それはそうと、今回の病は、一つが良くなりかけると、次の病気が始まるというパターンのように思える感じなのですがね。(そもそもの切っ掛けは、昨年の7月31日の長崎旅行が始まりで、それがいまだに続いているような感じなのですがね⁉)
やっと咳の回数も減って、体調も少し良くなって来たのですが、その代わりに、今日は朝から腰痛が酷くて、いつものようにトイレに行くのにも、何かそこにある物に捕まらないと行くことが出来ません。

腰痛は治らないし、微熱も出て来たので、久し振りの食事を終えて、安静にしてようと、布団に潜り込んだのですが、仰向けのままに、咳き込んでしまったら、気管に逆流して、息が出来なくなって、超パニックになってしまいました。
腰痛で超痛い腰を思いっきり捻って、うつ向きになって、咳をして、なんとか、息が出きるようになりました。
この咄嗟の動きが出来なくなった時が、そろそろ生きて行くtimelimitなのだろうかね⁉

昨年は、大きな病をしても、それが治ったら、しばらくの間は普通の生活が出来たし、もう、二、三年前なら風邪をひく事すらなかったのだけどね~え⁉
毎年、一歩、一歩体力、体調が衰えて行きますよね~え⁉
その分、早く若い芽に引き継いで欲しいのだけどね⁉
急げ🏃➰💦急げ🚄



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2月17日 19:33 ·


「蜘蛛の糸」

芥川龍之介という作家は、中、高生の頃は結構愛読をした小説家でした。
特に、子供向けに書かれた童話や、侏儒の言葉のような箴言集はとても簡明なので、大好きで、よくいろいろな書き物に引用したりしていたものです。
但し、結構ひねくれた中、高生時代を送っていた私ですから、それらの話をそのまま受け入れて書いていた分けではありません。
例えば、「蜘蛛の糸」というお話では、カンダタという罪人が生きている時に、小さな蜘蛛を踏み殺そうとして思いとどまった‥・という事をお釈迦様が思い出して、蜘蛛の糸を地獄に垂らして、カンダタを救おうとするが、(以下略)・・というお話で、原文はポール・ケラス(Paul Carus)著 鈴木大拙訳 長谷川書店、1898年9月「因果の小車」という本ですが、内容は流石に難しく、芥川龍之介が子供たちのために、簡明に書き直した名著である事は否定しません。

原文は仏教の寓話の中の一節なので、とてつもなく深遠な内容を持っているのですから、ここでその事を論じるような不遜な事はしません。
私がもし、芥川龍之介で、私の立場で、この原文を弄って見るとすれば・・という前提で考えて見たのですが、仮にカンダタ(本当の読みはケンダタだそうですが、門外漢なので敢えて触れません。)お釈迦様ともあろう人がそのような「意地悪」をする分けは無いのですよ。

「何故、意地悪なのか??」という事ですが、寓話の中の登場人物であるカンダタは自分の事しか考えられない・・、自己の利益追求のために人を殺して来た人なので、自分のために垂らされた蜘蛛の糸にしがみ付いて来る他の人達を許す事が出来ないのは当たり前の性格だし、お釈迦様にとって、カンダタが、自分の蜘蛛の糸に掴まっている他の人を許さないであろう事は当然、自明の理として分かっていたはずなのだから、カンダタがその蜘蛛の糸で天国に救出される・と言ったような「淡い期待」をお釈迦様が、カンダカに抱かせるようないたずらをする事は絶対に無いと思うのですよ。

人(他人)を救済する事は、とても大変な事です。
それは、人によって、民族によって、宗教によって、正義とされる事が異なるからです。
同じ国民であっても、人によっても、善悪の基準が異なってしまうのです。人間というとても大きな区分から、同じ町の住人とか、家族という小さな単位迄も、その基準は異なります。
しかし、人は皆何時も自分の基準がstandardであると思い込みます。そして、自分の基準に周りを従わせようとします。
しかし、そういった思いやりは、私達にとっては、それが当たり前の事で、とても楽でそれをする事がとても楽しい事であったとしても、それが出来ない人達にとっては、酷と言うものに過ぎないからです。
そういった人達が「一歩を踏み出す」という事は、出来ない人達にとってはとても酷な事なのですよ。

もし私がお釈迦様の立場なら、天国に来たい人達全員にそれぞれ一本の蜘蛛の糸を垂らしてあげたいと思いますよ。
それならば、他人を怨み嫉む事もなく、自分自身を見つめて行けるからね⁉
諦めるのも、諦めないのも、自分自身だけです。
それなら納得出来るってもんよ‼
・・・否、それはないでしょうね??
現実的には、それは正しい回答ではありません。
先程も言った、「その一歩を踏み出せない人」にとっては、その踏み出せないという理由を、自分のせいにするのが、辛いから、他人のせいにするのですよ。
出来た事は自分の力で、出来なかった事は他人のせい‥・・、それなら、カンダタとなにも変わらないよな⁉
出来た事は自分の力で、出来なかった事はお釈迦様のせいなのですよ。
人間なんてそんなものですよ。
それにもう一つ、蜘蛛の糸がたくさん垂れてきたら、人はどうすると思いますか?
勿論、一番人が集まって登っている事に集まって来るのですよ。
それは日本人のとても悪い習性です。
必死になって、遠い天国を目指す人達‥・・!
たくさん集まって来た蜘蛛の糸で、カンダタのように周りの人を押し退けて、先へ行こうとしたら、道はなくなってしまうのだよ‼
だって、自分を導いてくれる人も、結局は自分のライバルなのだからね⁉
必死になって、遠い天国を目指す人達‥・!
これって、現代社会の何かと似ていませんか??

まあ、それにしても、必死になって目指す天国とは、あなたにとって、なんですか?
のんびりと美味しいものが食べられて、穏やかな気候に恵まれて、なにもしないで、幸せに過ごす事‥・?? 
それとも、お金持ちになって、物に恵まれた生活をする事かな⁉ 
・・それが一年、365日続く事!或いは未来永劫続く事ですかね~ぇ??

3日もすれば飽きるんじゃあないの??そんな生活‥・!!
芥川龍之介は、そう言った天上界での生活の事は何も語っていませんよね??
では、カンダタは、天上界になにを求めたのでしょうかね??

意外と、自分が人を殺傷しないでも良いという普通の人間としての生活を送れる環境であり、そういった社会だったのかもね⁉
そう言った生活を夢見て、下に連なって来る人を保身のために否定する❗
儒教的な修身の授業ならば、人を救う事で、蜘蛛の糸は強くなるって教えたかもしれませんね⁉

しかし、私は小学生の子供たちに、真逆の事を指導するのですよ‼
自分自身が成すべき事を成さないで、人のために、何かをする事は、偽善に過ぎない、と……‼

蟻とキリギリスの話しでも、キリスト教の団体が出版している反対の絵本を知人にプレゼントして貰った事があります。
そのストーリ-では、働かないキリギリスは、夏の間、遊んで楽しい事をいっぱいに心に詰め込んで、冬の寒い時には、暗い洞穴の中で、皆の目を瞑らせて、楽しいお話や美しい景色のお話をいっぱいしてやったそうですよ。
働き蟻達はそのお話を春が来てまた世の中で働けるようになるまで、聞き入っていたそうですよ。

私がまだ、高校生か大学生の頃に、偉人達の最後の言葉を集めた本を買いました。中々格好良い決め台詞のような末期の言葉が多い中で意外と同じ言葉が言われている事に気づきました。
その例を上げると、ヨーロッパで、或る有名な偉人が死の床に付いた時に、終油の秘跡のために訪れた司祭様が言いました。「あなたは生前のその善行の故に神の御国に召されるでしょう!」と…。
・・彼は司祭に言いました。「・・もう疲れた!休ませてくれ!」アハッ!
いや、酷い会話だ!!
でも、
このお話を敢えて、「或る有名な偉人」としたのは、偉人達の最後の言葉で、同じような言葉を述べた偉人は、このpatternが一番多かったのですよ。

ゲーテが書いたファーストのストーリーでは、悪魔であるメフィストが年老いた学者であるファーストの元に訪れて、「世界は美しい」という一言を言えば、メフィストの勝ちで、「魂を貰う」という約束をします。そして若返ったファウストが人生をやり直して、王様になって、世界が円満に治世が行われているのを夢見て、ファーストはその夢の中で、「世界は美しい」と呟いてしまいます。ゲーテは、この解決を「天に救われる」パターンと、「地獄に落ちる」パターンの二つを書いています。
ファーストは未完の作品なのですよね⁉

葛飾北斎は、天が望みを叶えて、天で筆を持って良いことになったら、満足の行く絵が描けるまで未来永劫絵を書き続けていたでしょうし、BeethovenもBrahmsも自分の作品を推敲し続けたでしょうよね。

じぶんが自分なりに出来うる最高の仕事を成し遂げた人の最後の言葉は、「静かに寝かせて来れ!」に決まっているでしょうよ!!

私のような凡人は人生行き詰まる事は日常茶飯事なのですから、その都度、苦しみ悩み抜いていては、生きて行けないのですよ。
だから、行き詰った事は、2年でも、3年でも、それが完全醗酵するまで寝かせます。
人生とは面白いもので、悩み抜いた事が、それだけで、意図も簡単に解決してしまう事があるのですから。
なければどうするの??・・って?
それは、焦り過ぎですよ!!
3年待って駄目ならば、10年!
10年待って、駄目ならば30年待てば良いだけです。
30代で書けないものは、60代になれば必ず書けます。
それが蜘蛛の糸の意図なのですよ!!

お釈迦様は、救いの手を差し伸べても、無駄だという事がご存知のはずなのですから、悲しみや哀れみの心を持って蓮池を去って行くという一節はないはずです。
そういった人生の無駄は、凡人にこそ許されているのですからね。



それにしても、一晩の温度差が20度というのは、酷いよネ??それじゃ~、体調不良になっても仕方ないよね??完全に地球はおかしくなっているのだけど、それでも、経済なのかね??
2月19日 6:43





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2月18日 22:58 ·

「帯状疱疹Ⅱ-5」

帯状疱疹はどうやら落ち着いたようなのだが、今日は起きて椅子に座ったまま、動けなくなってしまった。意識朦朧状態になったのだ。ヒョッとしらたら、血圧が下がりすぎて‥・??と、計って見たら、案の定、上が95で下が53だ。「布団に戻って寝直すか?」・とも思ったのだが、solo組の練習がもう殆どtimelimitでrotation的に伸ばす事が出来ないので、lessonを休む事が出来ない。頑張って行かなければ、と言う事で、「目覚めのお茶を飲もう」と思ったのだが、ポットの所まで、動いて行けない。
困っていたら、helpのmailで、明日の衣装を準備に来てくれる・・と言うので、それを待つ事にして、自分は椅子の上でfreezeしておく事にした。その内に、先生がやって来て、意識朦朧で動けないという事で、血圧の事を話したのだが、「熱は?」と聞かれて、「ああそうか?」「気にしていなかった。」と慌てて計って見ると、なんと38度もある。もう、微熱ではなく、しっかりとした熱ではないか⁉立とうとすると目が回るのは当たり前の事だったのだよ。
それでも、練習は、timelimitなので、椎名町迄出かけて、solo組のlessonをした。
耳と頭は正常なのだから、立つと目が回っていても、lessonは普通に出来るのだよな。
lessonが終わったので、今日のプリドルっ歩は付き合わないで、大急ぎでハイツに帰って寝ます。
明日は、殆どlessonをする機会のないHaydnのQuartett「ひばり」と、時間切れでいつも割愛されてしまうHändelのpassacagliaだけ見る事にして、後は、体力温存のために、その前のオケ練習はお休みします。

38度でインフルでもないとなると、、怖いですね。
お大事にして下さい。
2月18日 23:29


有難うございます。咳が大分楽になって来たので、意識朦朧は日常生活に影響するだけで、被害を撒き散らしているのではないので、体力的には助かります。元気な時と、病気の時の落差が若い時のように大きくはなくって、ほんのチョッとした差なので、我ながらcontrolが難しいです。子供の前では元気でいなければ、何も始まらないしね~え??
2月18日 23:39


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2月20日 19:43 ·
「音人の会翌日」

昨日の音人の会では、温故知新、大変楽しい時間を過ごす事が出来て喜ばしい限りでした。
一夜明けて、20日の月曜日、音人の会のご報告のページを作成しなければならないのですが、なんと、熱と咳がぶり返して、しっかりと、朝から寝込んでいます。SDcardも椎名町だしね。兎に角、安静にしとくか??

…とは言っても、咳と鼻水で、横になっているだけで、全く眠れません‼
音人の会の前日も熱と咳で寝込んでいたので、なんと、当日だけ元気だったようですよね。次の日からは、元の木阿弥で、寝込んでいます。
さて、病院からの風邪薬はもう既に、音人の会前には、しっかりと飲み終わっているし、また病院に貰いに行くか?それとも、市販の薬で間に合わせるか?思案のしどころですかね⁉
何ヶ月、繰り返し、飲み続けているのか分からないのだけど、効き目は今3って所かな??
これで、いったい、何日間寝込んでいるのかね⁉⁉
困ったものだ‼



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2月21日 6:42 ·

「2017年2月19日の音人の会」
1月予定の「音人の会」は先生達全員が風邪で順延になってしまいました。なんとか2月の19日に無事開催出来て、喜ばしい限りです。
オーバーなようですが、なにせ前日までも寝込んでいたので……、私にとっては偶然の奇跡の一日でしたので…‼ハイ‼
それに、後日談ですが、次の日からも、また寝込んでしまったので・・、やはり奇跡の1日でした。

https://www.youtube.com/watch?v=AqXBQxc2bwA
斉藤純子先生Kreislerのpugnaniの主題による前奏曲とアレグロ
伴奏:萩元美紀さん
https://www.youtube.com/watch?v=zpXOKZ_h290
風戸星那さん 伴奏:萩元美紀さん

https://www.youtube.com/watch?v=djXJ8BUCwuI
本田梨紗さん(大1)太田千夏さん(高1)
二重奏
Halvorsen=Händel passacagliaとLeclairのsonate1楽章



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2月26日 0:52 ·
明日はいつものオケ練習‼
という事で、明日の起床に備えて、二時間以上も寝るために格闘をしているのだが、布団に入ると、咳が止まらなくなってしまうのだが、椅子に座ると咳が止まるのだ。しばらく安静にして落ち着いたら、布団に戻って眠ろうと、試みるのだが、すぐに咳が出始めて、またぞろ止まらなくなってしまう。病院の薬はこの2ヶ月間飲み続けて見たのだが全く効かない。はてさて、どうしたものか?困ってしまうのだよな⁉気管支拡張剤は無かったのかな??



アレルギー?
2月26日 5:47


アレルギ-の検査はしたのですが、薬のアレルギーはないようなのですがね??
2月26日 7:54

ほこり、寒暖差?
2月26日 8:03


寒暖差は確実に影響があるようですので、加湿と温度差に気をつけています。
2月26日 8:04

季節の変わり目、ご自愛ください。手紙みたいな言い方ですみません。
2月26日 8:06


いえいえ、お気遣いいただき有難うございます。今日は東京は天気も良く温暖で、少し楽なようです。
2月26日 8:08


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2月28日 3:40 ·
17年2月26日の京成検見川教室でのオケ練習の風景です。
曲はVivaldi L,Estro Armonico Op.3Nr.8a moll 二台のviolinのためのconcertoです。

https://www.youtube.com/watch?v=G7ssmDel5qw
春待ちコンサートで演奏予定の曲です。
2楽章のornamentはまだ作成途中です。
このまま、2楽章のAnalyseに続けようか?と思ったのですが、楽譜を掲載しなければならないので、Pageを新たにする事にします。



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2月28日 12:58 ·
Sweelinckの新しい変更箇所の連絡です。
「全員:」1Page目は12小節目の入りの休符を削除しました。cello、Kontrabass、viola:67、68、80、81のpizzicatoとarcoを削除しました。

「斉藤先生、千夏、珠加:」2枚目の写真の86小節目3拍目1stのEをC#、2ndの3拍目のC#をAへ、celloの3拍目の4分音符を2分音符にして、AEAへ、
「全員:」92小節目 poco rit.と❜を追加、


「斉藤先生、梨紗:」3枚目の写真96小節目、1stの2拍目のc♮を#へ、violaのC#をEへ、

取り敢えずは、以上です。
uploadされている楽譜は既に訂正された楽譜になります。
各自訂正をお願いします。よろしく!



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3月1日 0:28 ·
相変わらず、鬱が酷くて眠れない!!
またぞろ、ベッドから起き始めて、ぬる湯に浸かって、それからパソコンを開いている。
本来ならば、ここでwineでも飲む所であろうが、そこまでの体力が無い。お酒を飲むのにも体力が必要なのだよ!
そう言えば、今日は火曜日、通常ならば、行きつけの寿司屋で超熱燗を飲みながら、ツマミをついばんでいる頃の時間だよな??
・・・・で、
「今は何を飲んでいるの??」・・って??
何と、オレンジジュースなのだよ!!

もう、私の人生も、そろそろ終盤と言う事で、ぬる湯の中で、「もし、私が誰だったら、今の私は幸せなのだろう??」・・と考えて見た。
驚いた!!
私が、「そうなりたい!」・・と思える人生を送っている人、人生を交換したいと思える人、・・それが、誰一人もいないのだよな??
作曲家のBrahms然り、Beethoven然りなのだよ!!

人間としての、全人格であるお釈迦様が悟りの境地に辿り着いた時に、バラモンがお釈迦様に質問をした。「あなたは悟りを得て、魂の平安を得たのですか?」と‥・。お釈迦様は応えて言った。
「私の得た境地を衆生にどう伝えたら良いのか??私の悩みはより深くなってしまった。」・・と。

パソコンの傍にあるテレビで、又吉さんの「火花」に次ぐ2作目の執筆に関してのドキュメントをやっている。
又吉さんの、ideaが出なくて鬱々としている所を放映しているのだ。
まるで、私の鬱が移っているような感じで、なんとも奇妙にシンクロしている。
テレビを消せば、それで良いのだろうが‥、なんとなく見入ってしまう。困ったものだ!!

話を日曜日のオケ練習にまで戻して、日曜日のオケ練習の事後報告みたいな話になってしまうのだが・・・、この所、帯状疱疹以来、昨年の暮れから、まるまる二ヵ月の間、風邪で寝込んだままで、私がいなければ仕事にならない、日曜日だけの私の活動になってしまっている、・・・その日曜日という事で、久し振りで、ベッドから起き出して、フル活動をしたので、一日、全く尿意が起きなくて、その日の間に、トイレに行ったのは、夜の10時過ぎの一回だけであった。
私の場合には、腎臓が1個しか無いので、体が過労を感じた場合には、体の動きを活かすために、腎臓の活動が極端に抑えられてしまう。
発表会のprogramや春待ちコンサートのprogramを強引に熟すために、夜の10時迄練習をして、それから大急ぎで、東京の事務所に戻ってから、バイクを走らせて自宅に戻ったのは、何時もの通りに3時過ぎになってしまった。
何時ものroutineの通りに、荷物等の総てをそのままの状態で、兎に角、ベッドに潜り込んで、眠ったのだが、案の定、定時の5時には、目が覚めてしまって、それから、午前中は延々と、お定まりの1時間おきの頻尿である。
通常ならば、利尿剤等を服用して、尿を出やすくして、頻尿を抑えるのだろうが、疲れ切っている腎臓を薬でcontrolするのは良くないので、血液がきれいになるまで、頻尿を我慢するのは、なんとも致し方が無い。
毎週、月曜日は、日曜日の疲れを整えるリハビリに掛けているので、それも定型のroutineではある。
まあ、人間、齢70を過ぎると色々とあるわさ!!
70を過ぎてからは、体調の回復も、月曜日だけでは、体調が回復しなくなって、酷い時には水曜日までも、木曜日までも、体調が回復しないままに、鬱々が続いてしまう。
そして、今週の木曜日は、violin組のlessonで、またぞろ、千葉へ出かける。
そうすると、日曜日の体力が~、・・・???


えへへ
そんな時に申し訳ありませんがレッスン追加していますので宜しくお願い致します!!
3月1日 21:21



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3月1日 8:29 ·

曲はVivaldi L,Estro Armonico
 Op.3Nr.8a moll 二台のviolinのためのconcerto
花待ちコンサートで演奏予定の曲の2楽章のAnalyseです。
timelimitで練習時間(lesson時間)が無いので、Facebook上でのlectureにします。








①楽器の編成
1stsoloと2ndsolo、originalのorchestraでは、violinとviolaのtuttiで演奏する事になっていますが、多くの場合には、soliのviolinとのbalance的に、viola-soloのみでBegleitung (伴奏)する事が多いようです。今回の春待ちコンサートでも、ripieno-soloのbalance上の理由で、viola-soloのみで、演奏する事にします。

②構造分析
1. 曲の入りは4小節のorchestraのunisonで、あたかもchaconneのthemaのような、D⇒C⇒B♭⇒Aの基音からなるcantus firmus(カントゥス・フィリムス=定旋律)を演奏して、それからcantus firmusはそのままbasso continuoのviolasoloに受け継いで、1stviolinsoloからmelodieを演奏し(い-1、5小節目から8小節目迄)、同じmelodieをそのまま2ndviolinが引き継ぎます(い-2、9小節目から12小節目まで)。baroqueの音楽では、こう言った単純なmelodieの場合には、ornamentを入れて演奏しますが、このように同じmelodieが繰り返される場合には、最初のmelodieのornamentに対して、繰り返されたmelodieはより複雑なornamentで演奏しなければなりません。
ここまでのbasso continuoの旋律は、chaconneと同じmelodieを3回繰り返します。(Takt12小節目迄)
また、曲の冒頭の4小節のCembaloのpartは、通常は和音で演奏する団体が多いようですが、今回の演奏では、tasto-solo(タスト・ソロ=和音を含まないunison)で演奏します。Cembaloの和音だけが目立ち過ぎるので‥・。

2.13小節目からは、basso continuoの旋律は、quint-Zyklus(クイント・サークル=五度圏)の音を演奏します。D⇒G⇒C⇒F⇒B♭⇒E⇒A(本来的にはここで五度圏は終了するはずなのですが、この場合には、次の20小節目の頭の音迄オーバーランしています。)⇒D(20小節目の頭から、い-4の入りまでの5小節は小展開をして、前半部のclimax20小節目と21小節目を作って終止句=kadenzとなります。)24小節目2拍目の裏からのviolapartはつなぎのpassageなので、定旋律のauftaktになります。
遅れて入って来る2ndviolinのmelodieを、後攻する1stviolinが4度上で同じmelodieをrefrainします。当然、2ndviolinが演奏したornamentを1stviolinは、より複雑なornamentにして演奏しなければなりません。

3.い-4、T25からT31小節目迄は、い-3の全く同じ繰り返しになります。ornamentの原則通りに、い-3で演奏したornamentよりも、より複雑なornamentがこのpassageでは要求されます。

4.T31の2拍目の裏からは、2楽章の結びの終止句(kadenz)になります。T37の頭の音迄が、その終止句であり、い-5からは、そのpassageのWiederholungなのですが、T31小節目の2,3拍と34小節目からT37 小節目の頭の拍までがabkürzung(アップクルツング=縮小型)されています。

5.う-はthemaがtuttiで、再び繰り返されて、attaccaで次の終楽章に入ります。

6.T18 小節目や、T30 小節目のornamentのお話ですが、soliが平行3度で動くpassageが何箇所か、ありますが、この場合には、各partが勝手なornamentをしてはいけません。原則は1stのみがornamentをして、2ndは元の音符のままにするか、soliで同じ動きを3度でするか・・でなければなりません。
特に、39小節目は曲の纏めとしての長いornamentが必要なので、1stのsoloよりも、soliとしての、平行3度がより望ましいでしょう。

7.日本人の悪い癖 「演奏上の留意点」
日本人には、日本人の弦楽器奏者やPianoを演奏する人達に特有の独特の悪い癖があります。
それは、同音の後ろの音を強く伸ばす事です。特に、MozartのPianoの曲等のkadenzの最後の音が繰り返された時に最後の音を強く長く伸ばして弾くという癖です。
これは、高温多湿の国の「音に対する感性」の国民性で、ヨーロッパの風土のように、乾燥した石造りの国の「音に対しての感性」であるkonsonanz(響鳴音)に対して、モンゴルのような大草原で、反響音が全く帰って来ない平原の音や、龍笛のように、高温多湿で音が湿って響かないために、喉を締めて、空気の流れを早くし、音を鋭く出す国の「音に対する感性」の違いに拠るものが多く、日本人の弦楽器奏者の場合には、そういった「後押し奏法」に対して、それを不自然と感じない国民性なので、ヨーロッパ的なkonsonanzを響かせるという音を意識出来ないために、アジアの「後押し奏法」が、基本的に治らない・・、(不自然に感じない)・・という問題があります。
浪花節や演歌のように、最後の音を力で押すという歌唱法があって、それを心地良い・・と感じる国民性なのですが、ヨーロッパの人達に取っては、その「後押し奏法」は、とても辛抱の出来ない不自然な奏法になってしまうのです。

この文章は、国民性の違いを述べる文章となってしまうので、とても長い論文になりますので、ここで話を展開する事は出来ません。
homepageの方に詳しく書いてありますので、興味のある方はそちらを参考にしてください。

さて、今回のVivaldiの注意点(留意点)は、themaに繰り返される1拍目のoctaveの音の裏の音が、常に長めになるという事をオケ練習の時に注意をするのを忘れてしまいました。
・・という事で、ここで確認をします。
ヨーロッパの演奏上の正しい弾き方は、octaveを頭をエグリbowで裏を抜きで演奏するので、裏拍は常に「抜き」で同じ長さ(・・か、少し短め)で演奏しなければなりません。
この注意は、古典派の曲を演奏する度に、注意していたので、今回はうっかりと、注意をしたつもりになってしまっていました。
前回の日曜日のオケ練習でも、初見練習ではありましたが、これは常設的な注意なので、octaveの後ろの音が長く強くなっていたので、気を付けるようにしてください。
兎に角、演歌にならないように‥・!!
追記:オケ練習で、violaの同音をoctaveに変更するように、注意をしておきましたが、T16、T18、同様に、T28、T30小節目の1拍目の裏の音がoctave下の音に変更されていません。訂正をしておいてください。(17年3月1日)



とりあえず印刷します。
3月1日 21:22

やっと読んで確認しました。それほど難しい話ではないのに、こうやって文章にするととても難しくなってしまいますねえ・・・・まず用語を調べてから・・・?お姉さん方は調べなくても知ってる?
3月4日 13:26


そうなのよ!!普段lessonで言っているAnalyseのお話なのだけど、文章にするととんでもない論文になってしまう。言葉で言うと一瞬なのにね??
3月2日 13:39

homepageにも、随分昔に書きましたが、私が音大生の時代に、baroqueやrococoの時代の音楽を、C.P.E.Bachの名著や、他の作曲家の文献を使用して、periodの奏法を再現して演奏しようとすると、とても、eccentricな演奏になってしまうので、困ってしまいました。「幾ら古い、昔々の演奏であったとしても、そんな珍妙な奏法である分けはない」と思って悩み抜いてしまいました。その解決を見出したのは、何と、draculaの映画の中の、王宮でのMenuetのdanceでした。そうです!C.P.E.Bachも他の作曲家達も、音楽を作るのは天才であったとしても、言葉を使いこなすのは、少々無理があったのですよ。正確に表現しようとすればする程、eccentricになってしまったのですよ。当時、recorderがあれば、「聴いてください。」の一言で済んだのでしょうがね??Menuetに限らず、MazurkaやPolonaiseも、ちゃんとしたstepがあるので、音楽のtempoもrhythmも限定されてしまいます。baroquedanceをよく見て、stepを覚えて、C.P.E.BachやQuantz等の歴史的な名著を読み直すと、作曲家が四苦八苦して書いている文章が、なんでもない、当たり前の、全く普通の事であったという事がよく理解出来ます。極々当たり前の普通の事を、普通に書く事は至難の業なのですよ。



用語は、教室で普段使用している単語はそのまま書いています。横文字をカタカナ表記にしないのは、日本語の発音とカタカナ表記の発音が一致しないので、ピザかピッザかの話ではなく、音楽の勉強の場合には、楽譜を読む上で原語表記が基本なので、横文字に慣れる必要があるからです。日本語のカタカナ表記でもう一つの問題点は、和製英語が非常に多い・・と言う事です。英語だと思いこんで、そのまま書いても外人さんには通じないのよね。
新しく出て来た単語と、難しい単語には()で、読みと日本語の訳語を書いていますが、これがどうせ意味をなさないのは、当たり前です。無理やり作った日本語なので‥・。後は、文部省が明治時代に作った音楽の訳語が日本の教育界の正答として学校等で使用されていますし、音楽大学の入学試験でもそのように回答しなければならない単語が無数にあって、それが、本家本元のitaliaでは、通じない・・と言うか、意味を取り違えているのですよ。だから、音楽大学に入学した後で、留学帰りの先生に学ぶ時には、文部省的な解釈とは全く別の意味で理解しなければならない。
これは日本の音楽の教育界と音楽の現場のdouble-standardで、本当に困ったものです。
3月3日 15:18

solo-concertoの時の伴奏のsolo(soli)は、そのままsolo(soli)なのですが、Concerto Grossoの時の伴奏(Begleitung )のsolo(soli)は、concertanteに対しての、ripieno-soloになります。
そう言った事は、幾ら本やnetで調べても、何処にも書いてないのよね!!当たり前の事だからね??でも、音楽の世界では、「こんにちでは、そんなには、当たり前じゃあない!!」と思うのだけど、それが多いのよね~ぇ??困った!!
3月3日 14:43

以前も、2台のviolinのconcerto、所謂、doppel-concertoと、Concerto Grossoを同じに扱っている楽譜やnetの解説があって、困ってしまったのよね~ぇ??それがRicordi版やPeters版だったりすると、ズッコケてしまうのよね~ぇ??一応は世界的な権威のある版でしょうが‥・??(‥・でも、Ricordi版は、間違いだらけの版として知られているし、お国柄なのでしょうがないので、Ricordi版を鵜呑みに信じて演奏しているproはいませんよ!日本の音楽大学の学生は兎も角としてもネ??
表紙にはConcerto Grossoとなっていて、内側の表紙には、doppel-concertoなんて印刷されている・・!!おい、おい!あんた達お国の音楽だろうが??Concerto Grossoとdoppel-concertoは楽器の編成は同じでも、作曲上の形式が少し違うのだよ!!
当時の作曲家達は、それぐらいの区別は、ちゃんとしているよ!!
先程の伴奏のsoloも、Concerto Grossoだったら、ripieno-soloになるけれど、doppel-concertoならば、soloにしかならないのだよ!!困った!困った!
「明治は遠くなりにけり」・・か??
3月3日 15:21



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3月1日 22:12 ·
「Vivaldi Il_cimento_dell'armonia_e_dell'inventione(「和声と創意の試み」よりOp.8Nr.1
 「La Primavera」四季より「春」

前回にuploadした、Vivaldiのa moll doppelconcertoと同じ日の、2017年2月26日の芦塚音楽研究所千葉京成検見川音楽教室のorchestraの練習風景です。
春待ちコンサートで演奏予定の曲です。
1楽章のsoloは愛ちゃん(小5)3楽章は紗來ちゃん(小4)です。2楽章は春待ちコンサートでは斉藤純子先生、春の発表会では愛ちゃんの予定です。
17年2月26日芦塚音楽研究所千葉京成検見川音楽教室のオケ練習の風景です。
https://www.youtube.com/watch?v=VaAVOcBUyn4&t=602s


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3月2日 4:26 ·
咳がブリ返して
この二、三日、二ヶ月振りに、やっと収まっていた咳なのだが、今日(1日、水曜日)の夜は、椎名町の事務所から駅まで、冷たい雨の中を、歩いてプリドルを迎えに行ったのに、待ち合わせが上手くいかなくって、事務所への帰り道は気力がすっかり萎えてしまって、咳がぶり返してしまった。
という事で、雨の中をバイクを飛ばしてハイツに戻って、大急ぎで布団に入って、眠ろうとしたのだが、咳が全く止まらなくなってしまって、全く眠れなくなってしまった‼
もっと最悪な事に、病院から新しく貰った咳止めの薬は、椎名町の事務所に置いたままだ‼

以前の咳止めの薬は、私には全く効かなかったので、月曜日には、新しい咳止めの薬を出して貰ったのだが、その薬が効く、効かないの話しではなく、それ以前の話しだ。

明日は千葉で、violin組のlessonがあるので、朝早く起きなければならないのだが、咳が止まらないので、全く眠れないのに、時間だけが過ぎて行く。
困った事だ‼
眠れない事が、更にpressureになって、ますます眠れなくしてしまう‼
いつもの、堂々巡りであるぞなもし‼



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「kadenzについて」
kadenzとは、「カデンツァ(伊: cadenza, 独: Kadenz)とは、一般に、協奏曲やオペラ等のアリアに あって、独奏楽器や独唱者がオーケストラの伴奏を伴わずに自由に即興的な演奏・歌唱 をする部分のことである。」勿論、この解説には、多くの例外もあるのですが、一々解説をするのも、面倒くさいので、Wikipediaより抜粋しました。
kadenzがいつから演奏されるようになったのかも、すこぶる曖昧です。Locatelli の作品集にも、kadenz風な曲が出て来ますが、勿論kadenzとはとても言えません。baroqueの後期のconcertにも、kadenz風なpassageが出て来ますが、それは、とても短いpassageのようなものが多いので、kadenzというよりは、寧ろeingangとか、episodeとか言うべきでしょうかね⁉

勿論、kadenzには、「終止形」の意味を指す場合もあります。
(T⇒S⇒D⇒T、Tonika⇒subdominant⇒dominante⇒Tonika)

面倒くさい・・の意味は、ここで私が解説をしたいのは、kadenzの定義の事ではなく、奏法の話だからです。

kadenzはbaroqueの後期から、古典派の時代に掛けては、演奏家がその場で、即興で演奏をしていました。しかし、時代が下るに從って、作曲家の手だけではなく、演奏家の手によって書かれる事が多くなりましたが、その様式、所謂、即興で演奏をした・・というstyleだけは、その後も継承していったのです。
即興には曲の本来のMotivを断片的に使用して、その曲のkadenzである・・という統一性を持たせました。

下の譜例はDittersdorfのviolin-concerto Gの1楽章のkadenzです。後世の校訂者によるkadenzになります。
AからH迄の、それぞれのMotivは1楽章の中の何処のpassageであるかを、確認して見てください。

AからH迄の8つのStollenから成り立っていますが、Eは元の曲同様に、themaであるpassageが①②③と繰り返されて、展開されます。Fは単につなぎであるscaleの繰り返しなので、Stollen的には、EからG、Hは一繫がりになります。

Aから、それぞれのpassageは、断片的に切れて(音楽的には切断されて・・という言葉を使用します。)それぞれに纏められなければなりません。
この手法は即興演奏の名残で、即興風に演奏する・・という意味になります。
でも、本当は、即興演奏の名手は、即興演奏をしていても、断片的に弾く分けではありません。
Karl Richter教授は、orgelの演奏会で、四声部のfugaをど忘れして、16小節間を即興で繋いで演奏していました。(忘れてしまった16小節間を即興で演奏したのですよ。)会場の誰一人として、Karl Richter教授がど忘れをして、即興をした事は気づかないで、次の日の新聞にもその名演奏の事は書かれていたのですが、即興に付いては一言も触れられていませんでした。名手の手に掛かるとそんなものなのですよ。
Karl Richter教授のHändelのorgel-concertoの殆どの曲には、2楽章が無く、3楽章への繋ぎの和音だけが書かれています。
つまり、Händel自身も即興演奏の名手だったので、演奏会の当日、即興で2楽章を演奏したのです。
Karl Richter教授のレコードも、見事な2楽章の即興演奏が収められていて、You Tubeでも聴く事が出来ます。

だから、Mozartでも、あくまでも即興風に作曲しているのであって、即興風でないように、厳格に演奏する事も出来るのです。
古典派時代からのfantasiaとか、Improvisationとかは、そういうstyle(雰囲気)で演奏されたのです。kadenzのstyleの演奏法を身に着けましょう!!

蛍光ペンで塗り絵をしたのですが、写真にuploadしたら、橙色が映像として出ていなくて、何処を塗ったのかが分からなかったので、色補正をし直しました。楽譜の色がチョッと変なのは、橙色を強く出したので、黒も少し色が変わってしまったからです。手書きの楽譜では色はちゃんと出ているし、パソコン上でも、はっきりと見えるので、Facebook上での話なので、ご了承ください。楽譜上でこれ以上強い色を塗ると音符が見えなくなってしまうので、パソコン上での補正にしました。


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3月6日 1:48 ·

「近況報告」
発表会のrehearsalと、春待ちコンサートの最終rehearsal を終えて、am1:45自宅に帰宅!!
暫し、shock状態!!
やる気無し!
鬱酷し!
分かり切った事ではあるが、やはり、私には教育には向いていない。
海の見える断崖絶壁の丘の一軒家に引き篭もりたいなあ~!
そろそろ、もう、余生でも良いか????

ダメです。笑
マッサージでも、してさしあげましょうか♬
3月6日 11:21


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3月6日 9:42 ·

「発表会と対外出演の違い」
発表会と対外出演の違いをFacebookやhomepageでも説明をした記憶があるのですが、Facebookを昨年の7月まで遡って、checkしてみたのですが、見つからなかったのですよ。
「コンサートの形態」については書いていたのですが、それは一般論に過ぎないので、これとは書く意味が根本的に違うのでね??
‥・また、新たに、書くのも面倒くさいのですが、諦めて、シコシコと書いています・・・!!

演奏のpro達(演奏家達)にとっては、不思議な事に「対外出演」という言葉はありません。
なぜなら、proが演奏する場合には、常に対外出演だからです。
それ以外は公開で演奏する事はないからです。

もう一つ不思議な事は、日本の音楽家達の場合には、演奏会を開く場合には、殆ど持ち出し(自分で費用を負担する事)が一般的です。
私達は、お金持ちのお嬢様達のように、芸術としての音楽ではなく、音楽をタツキとして生活をしているので、そう言った「持ち出し」の演奏会は、演奏会とは言わないで、自主公演と言っています。勿論、そう言った自主公演を批判しているのではありません。現に、昨年の11月に私達が開いたbaroque-concertも、チケットを売った分けではないし、寄付を仰いだ分けでもないので、完全な自主公演です。そういった意味では、一般的な音楽家の人達の方が、足りない分を自分で出して、チケットの売れた分は回収出来るので、proっぽいでしょうかね??但し、チケットには税金が掛かりますし、ホール代も、売りの場合には、自主公演とは違って、とても高額になります。

concert-hallで演奏会を開くと、最低でも100万単位のお金が掛かります。
自主公演にはそれぐらいの経費を負担する必要があるのです。

私達が演奏活動をする場合には、生活のために営業として演奏活動をしているので、基本的にはお金の「持ち出し」はしません。

但し、市や県での企画として、演奏活動を依託される場合、官公では基本的にお金を出してくれないので、Classicの音楽を演奏するという条件で、私達に取ってメリットが多い場合には、私達が自分で顎足(食費と交通費)を負担して演奏をする場合もあります。
顎足までは、自腹を切る事はありますが、それ以上、負担する場合には、生活費に影響して来るので、演奏会自体をお断りします。

結構、強気なように見えるかも知れませんが、これは、長く演奏活動を続ける為の知恵であり、秘訣でもあるのです。
つまり、持ち出しで、格好良い演奏会をしたとしても、お金が続かなくなってしまうので、2,3回が限度になってしまいます。
音楽大学の先生の場合には少し条件が変わります。
私が大学講師時代に教育論文を公開したのも、文部省に対しての、大学の先生を続ける為の必須条件です。

発表会とは「教室主催」・・という事になっているのですが、実際には、発表会費は出演者(勿論、子供達の場合には保護者の人)が出しているので、自主公演になります。
・・そう言った意味では学校主催のイベントも同様の形態になります。つまり、お国がお金を出す‥・という事は、営利目的ではないからです。学校主催と言う事は生徒の為の・・という絶対条件があるからです。
発表会の同じ流れとしては、以下・・、おさらい会とかクリスマス会もそれに準じます。
日本舞踊等では、生徒達にチケットを割り当てて、資金を分担させますが、これは演奏会と同じ扱いになるので、ホールの使用料や税金にかんしても、かなり高額になります。日本舞踊や、バレーの発表会の費用が高額なのは、設備費だけではなく、その前の公的な支払いから、既に高額になるからです。

ボランティア活動も、基本的には、学校や教室が出演者を募るので、発表会に準じた扱いになります。
勿論、出演者本人が費用を負担しているので、なんでも有り・・の、我儘が通用すると思われては困ります。
これは団体活動なので、団体の利害が個人よりも優先されるからです。
これは公的機関である学校でも当然同じ事になります。
個人の申し出が、学校や教室に認められない事が多いのは、それを認める事によって、出演者全体に迷惑が掛かる事になるからです。

対外出演とは、それとは全く違っていて、主催者は、地域であったり、企業であったりします。
ですから、当然、主催者側から、出演者に条件が課せられます。
その条件の第一番目は、何時も、繰り返し、耳タコでお話をしているNiveau(水準)という条件です。
主催者は、保護者とも、教室とも、無関係の存在なので、Niveauに到達出来ていなければ、そこで演奏させて貰える事はありません。
別の演奏団体に依頼すれば良いだけなのですからね??
もし、そんな仕事を教室がしたとすれば、次に同じ仕事を貰える事はないのです。困った事に、何時も、そこの所が保護者の人達に理解して貰えないのです。
対外出演の場合には、「子供だから・・」という、親の甘えは無いのです。
出来なければ、出演する必要はないのですからね。

私の教育のmethodeのconceptは、99%の意識と1%の努力です。
意識さえあれば、技術は自然に付いて来ます。それが私の教育理論です。簡単ですよね。

以前、八千代の演奏を頼まれた時に、勿論、八千代からの演奏の依頼は、子供達の出演依頼ではなく、先生達に来たお話でした。
つまり、先生達だけに、出演依頼が来たのです。
それは、当たり前のお話なのですが、対外出演を続けていると、ついつい、その当たり前の事が忘れ去られてしまう事があります。

対外出演は、学校教育や教室のボランティア活動のようなものではありませんし、今、よく学校で体験させている社会実習のような、子供達のために、子供用にprogrammingされたものでもありません。
そこは、八千代の時にも、大崎の時にも、主催者側の条件は、「例え、子供であったとしても、proとしての水準があるのならば・・」という、厳しい条件が入ります。proとしての水準‥・という意味は、子供・・という想定ではなく、大人と対等の技術力を有する・・という意味になります。当然、その意識もprofessionalの大人と同等の意識を持つ・・と言う意味になるのです。

丁度、八千代から、出演依頼があった時には、教室で音楽の道に進みたいという希望者が若干名いました。
その生徒達の音楽に対する夢を叶えてあげるためには、‥・つまり、99%の意識を持たせるには、100回、お説教をして指導するよりも、そう言った場所を作ってあげて、社会の厳しい視線に晒す事が、最良の策であり、早道なのです。

・・という事で、対外出演の出演をするための条件として、「対外出演なので、家庭や学校等のプライベートよりも、練習を優先する」・・という条件を付けて、誓約書に保護者からのハンコを貰って、八千代市に子供達を参加させる事を芦塚先生がお願いしました。

しかし、最初の1年ぐらいは、生徒や保護者の緊張感と意識もあって、中々好評だったのですが、回を重ねる毎に、だんだん馴れが生じて来て、発表会との落差の意識が無くなってしまいました。
音楽に進もうとする専科生達も、練習や意識が雑になって来て、何時もの発表会のように、学校の授業やテストが優先になって来たので、「素人の演奏の限界」を感じて、私自身が対外出演のために、生徒達の練習をする事に、疑問を感じるようになってしまいました。

馴れ合いのような仕事の仕方は、子供達の社会勉強に取っても、教育上、非常に良くないし、それよりも、八千代のお客様にも不誠実である・・と思いましたので、八千代の演奏は私の方から、13年の6月の演奏会を最後にして、八千代市の方に、演奏会のお断りを申し出て、それ以後の、演奏の中止をお願いしました。

今回、花見川区の自治会からの始めての依頼と、3年ぶり、4年ぶりの八千代からの出演依頼があり、牧野先生や斉藤先生からは、「今回の子供のorchestraのmemberは、意識、技術、capacity等、未だに対外出演をする迄の水準に達していないので」、・・というダメ出しがあったのですが、「音楽の道に進みたい」という生徒達がまた、育って来たので、確かに、前回のように、鬱々コンサートを演奏出来るような技術迄は、到達出来てはいませんが、少しでも早い時期(年齢)から、社会の勉強を経験させるためにも、老骨に鞭を打って、私も頑張ってみたいと思っています。

花見川区の自治会も八千代も、教室に対して、特別の扱いをして頂いて、それは、イベントの中の一つの行事としての演奏ではなく、完全に独立した音楽会として、時間枠を貰っています。
これも、そこらの子供達の演奏と言う事ではなく、Niveauを持った生徒達・・・という特別な配慮を頂いている‥・という事なので、当然、教室側も、それに応えられる水準で演奏しなければなりません。

一芸に秀でると言う事は、色々な分野の(例えば、Ballerinaを目指す人達やathleteを目指す人達のように、)音楽を目指す人達だけではなく、その事がその人自身に取っても、その家族に取っても、一番にならなければなりません。
音楽を職業としようと思うのならば、一般の人達とは一線を画した日常に甘んじなければなりません。
それは音楽に限った話ではなく、総ての分野での、一芸を目指す人達の同じ道なのです。

proの道を目指す事で、家族が協力をする事は当たり前の事なのです。その事を良く理解してください。夢は叶える事は出来るのです。
しかし、幾ら努力をしたとしても、子供は子供なのです。
親がブレたら、子供の演奏能力は、練習の如何に関わらず、一瞬で驚く程、下手になってしまいます。
子供の成長もそこまでなのですよ。
95歳で死んだ、祖母の口癖です。
「為せば成る、成さねばならぬ、何事も・・」
90を越して言う言葉かね??



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3月7日 3:29 ·

一生懸命勉強をしている子供達の3つのtype
頑張って勉強をしている子供達(勉強中と言う事なので、音大生等も含みます。)には、基本的には、3つのtypeがあります。
私達が生徒達、子供達を指導する場合には、それぞれのtype別にcurriculumを書くのです。これを間違えると指導は上手く行きません。

その1番目はコツコツ型(所謂、勤勉型)です。
2番目は情緒型で、
3番目は理論型になります。

このそれぞれのtypeに長所と欠点があり、それを分かった上で、指導していても、結果的に、上手く行かない事が多々あります。
その理由は、問題点が本人だけの理由である場合とは限らないで、子供達の場合には、子供達を取り巻く環境にも原因があるからなのです。子供自身を教育するのは直に接しているのだから簡単です。しかし、子供を取り巻く環境となると、手の届く範囲ではなくなります。

1番目のコツコツ型は、一番成功する確立が高いのですが、このtypeの子供達は、一つ事について深く掘り下げる事は上手なのですが、その半面、全体を見る事(俯瞰する事)が苦手なので、道を踏み外して他の道を歩いていても、それに気づかない場合が多いのも事実です。
必死に努力をしているのにも係らず、それが実って来ないのは、間違えた道を歩いているからなのです。
殆どの音大生がそのtypeになります。

指導者を見極める事は、生徒が子供の間は、保護者の責任なのですが、運良く良い先生、良い指導者に巡り会えても、顕著な伸びを見せても、周りの人達の甘言に惑わされて、道を間違えてしまう人達を数多く見て来ました。
保護者の場合には、自分がその楽器等を習っている分けではないので、習っている楽器の技術水準がどれぐらいのlevelなのかが分かりません。
だから、周りの人達のadviceが、どれぐらいのNiveauでadviceをしているのか?が分からないのです。

教室の例をあげると、小学生の間は問題は起こらないのですが、中、高生ぐらいになって、その技術力が頭角を表すようになって来て、世間の評判になって来ると、それを聞きつけた一般の素人さん達が、adviceをしようと寄って来て、「音楽大学に進学するには、音楽大学の先生につかないね!?」とかなにこれ風のadviceをして来ます‼
ついついお義理等に負けてしまって、体験lesson等に連れられて行ってしまうと、その義理で、その先生の門下に弟子入りをしてしまいます。
その場では、中々断れないものですからね⁉

しかし、「まあ、有名な先生だから、別にその先生でも良いか⁉」という親と違って、生徒、子供達は、一度その先生のlessonを受けると(或いは、その先生のlessonを見学すると・・)その先生のlevelを一瞬で見抜く事が出来ます。
自分が師事をして、育てて貰える先生か否かが、生徒の場合には、瞬時に判断出来るのです。
でも、人に紹介して貰って、体験lessonを受けてしまうと、その先生の元に入門する事を断る事は、世間の手前、難しい事になってしまいます。

それからは、悲劇の始まりです。
だって、学ぶべき事のない先生に、お金を出す親よりも、学ばなければならない生徒は、可哀想・・という他はありません。
それに、その先生の指導を受ける事を終わらせるためには、先生を変わる事よりも、音楽の勉強を止めるしか手がないのですよ。
だって、日本で一番有名な先生に師事して、上手く行か無かったのだから、元の先生に戻る事は出来ないでしょう??
それで、教室に帰って来た生徒は、一人もいないのですよ。

私達の目から見ると、一般の人達がどの様に思おうと、素人の人達がproの世界の事が分かる分けはないし、見れる分けもないのです。

(またまた30分程書いた文章がぶっ飛んでしまいました。履歴を見ても残っていません。また同じ文章を書くの…??
ほんとFacebookは、困ったものです‥・??)

素人の人達が、優れた指導者であるか、否かを判断する基準は、「有名な演奏家であるか?」「音楽大学の先生であるか?」という事に過ぎないのですが、もしも、音楽大学の先生で、professionalとして演奏活動をするだけの能力がある先生(或いは演奏活動をしたい先生)は、音楽大学の先生を続けていると思いますか??

音楽大学の先生と、pro演奏家の両立が出来る程、音楽の世界は甘いものではありませんし、就職している音楽大学自体も、先生達が演奏活動をする事を嫌います。
演奏活動をする先生の生徒指導は、どうしてもその指導がお座なりになるからです‼
演奏家を続ける事を希望するのなら、音楽大学は基本的には、止めなければなりません。少なくとも、私の友人達はそうしています。
またそれが、一般的な音楽大学の講師になる条件でもあります。
唯一の例外の音楽大学は、現役の演奏家を集めて、先生として指導させることで、大学のステータスにしている桐朋だけですが、しかし、桐朋に名前を連ねている多くの先生達が、実際には名前を貸しているだけで、実際の指導にはあたっていないのも事実なのです‼

桐朋の話はさておいて、また例え一流の演奏家であったとしても、proを育てた事のない人に、proを育てられるcurriculumがある分けはないのですから、proを育てる事が出来る分けはないのです。
その演奏家が、一流の演奏家になったのは、その人の能力ではなく、その人を育てた先生の能力ではないか??と思うのですがね??

どうして、一般の人達は、そんな当たり前の簡単な事が分からないのでしょうかね??
上野の山しか登った事のない人に、エベレスト登頂のadviceを受ける人がいますか??
amateurの人達の耳学のadviceなんて、そんなものなのだけどね??

2番目は、情緒型、所謂、天才型なので、上手く行く時と、失敗する時の波が酷くて、自分でも心のcontrolが上手く行かない場合が多く、チョッとした日常の変化でも、平静を保てなくなって、失敗する事が良くあります。
私が高校生の時に、私の天才型の同級生が、自分のバイオリズムと東大の受験日を電卓で計算して(いつも言うように私の高校生の時には、未だパソコンは無かったのですよ!)、その日が最低のrhythmである事にshockを受けていました。一浪に甘んじていましたが、次の年には目出たく合格していました。
私はバイオリズムは信じていません。私のrhythmが壊れるのは、私を取り巻く周りの影響が多いからです。

指導者の選択もそうですが、周りの人達に影響されて、人生の選択を失敗して、本来の道に戻れなくなった人達も数多く見て来ました。
教室でも、最初に頭角を表すのは、この2番目の天才型のtypeの生徒達なのですが、逆の言い方をすると、この天才型のtypeの生徒達で、実際の音楽の世界で活躍する人達は、一番、少ないのでもあります。
私達指導者の立場で見ると、折角、それだけの能力と才能を持ちながら、自分で自分を壊してしまうのですから、勿体無い話ですよ。
でも、それでも、自分を信じて、努力を続けた人は、ちゃんとひとかどの音楽家になっているのです。
成功か挫折かの両極端のtypeの人達です。

世界的なPianistであるマルタ・アルゲリッチさんもその2番目の天才型のtypeで、凄い感動を与える素晴らしい演奏をしたか?と思うと、めちゃくちゃな「これがpro??」と思えるような最低の演奏をたりしして、それを目当てにフアンが駆けつけたりします。
アルゲリッチ・フアンの言葉によると、「素晴らしい時の演奏が、駄目な演奏を凌駕する」のだそうです。100の駄目な演奏でも、たった一回の素晴らしい演奏で報われるのだそうです。

私は基本的には、そう言った情緒的な天才型の演奏家は大嫌いなので、アルゲリッチのチケットを貰った時にも、コンサート会場の前で、カップルの一人しかチケットを持って無くて、「幾らでも良いから売って・・」と、人に懇願している男性に、私のチケットをプレゼントしてしまいました。勿論、ただで・・です。
そこだけは今でも後悔しています。
その後、Bierstube(ビアシュトゥーベ=小ビヤホール)に、ビールを飲みに行ったので、飲み代だけは要求すれば良かったのにね。

3番目は論理型なのですが、理屈先行型なので、中々上手くなりません。
これこそは、頭角を表す様になるまでは、膨大な積み上げが必要だし、日本人の先生では、この理論型の生徒を指導出来る先生はいません。
これは学校教育においても同じです。
学校は勉強を教える所なので、「理論を指導しない」と言われてしまうと、意外に思われるかも知れませんが、このtype生徒するの質問内容は、学校の先生の手に負えるものではありません。
学校教育の場合には、質問にも想定内の質問があって、その正道を外れた質問に対して、それに応えられる知識を持った先生は学校にはいないのですよ。(というか、学校で指導する上では、必要ないのかも知れませんよね??)

また日本の音楽家の場合においても、演奏家の場合、全員が職人typeなので、理屈よりも、「100時間練習して、弾けるようにならなければ、1万時間練習すればよいのだよ!」というだけのlessonなので、その質問すら存在しないのです。
ですから、このtypeの生徒達は、日本の教育界、日本の音楽の世界では育たないのです。そこは本家本元のドイツの教育界とは根本的に違います。
音楽を勉強する上では、音楽理論の勉強は一番大切な勉強なのにね~え??

私達の場合には、新曲のscoreを見ながら、初見で「次はこうならなければならない!」と言う事が経験上、分かるので、問題はないのですが、音大生ぐらいの年齢になったとしても、作曲家のひねくれた論理的な思考方法は、理解するのが難しいらしいので、そこの所を理解させるのには、専門の人の手ほどきが必要になります。

論理型は、一度、曲が出来上がると、天才型のように崩れる事はないし、周りのつぶやきに情緒的に惑わされる事も無いので、Niveauが出来てしまうと、本番にはとても強い、チャラチャラした演奏家typeの演奏家ではなく、所謂、professionalなtypeの本格的なtypeの演奏家になれます。
勿論、それまでは、沢山のポニョ達や、梟さん木菟さん達とは付き合わないといけないので、それを親や周りの人達が待ちきれなくて、挫折させてしまう事が多いのです。

ドイツでは非常に多いtypeの音楽家なのですが、日本では、殆どいないtypeの演奏家になります。
時間が掛かる上に、中々伸びない、それはこのtypeの修行中のお話なので、致し方ないのですがね。
勿論、このtypeの生徒は、どの分野に行ったとしても、同じなので、そのtypeなのだから・・と諦めて、じっくりと待つ他はありません。
要は、江戸時代的な表現をすると、「石橋を叩いて渡る」というtypeの子供達なのですよ。
「纏め」
type別の組み合わせですが、type1とtype3の組み合わせは、或る意味理想的な組み合わせであって、それが出来ると堅固なものになります。type1とtype2の組み合わせも、或る意味理想的な組み合わせなのですが、type1がtype2になる事はないので、type2の天才型の生徒が努力で、コツコツの勤勉性を身に着けた場合の話です。
type2とtype3の組み合わせは、相反する性格なのであり得ません。
もしあったとしたら、結構、笑えるのだけどね??



娘っ子はどのタイプなんですか?
コツコツでもなさそうですし、情緒型ではないですし、、理論型?
消去法ですが。。
3月7日 6:29

オケ練習でも、瑞希ちゃんは、花待ち組のviolinでは最年少になるのですが、年齢を超越したキツ~い一言が、周りをビックリさせています。
子供の成長と能力で「論理性」が登場するのは、早い子供の場合でも5年、6年で、寧ろ中学生ぐらいになってからが、本当の意味で年相応になります。
音楽の成長というか、人間としての成長という意味では、中学生が一番大切な時期になりますが、その時期を殆どの子供達が塾や受験勉強に無意味に過ごしてしまい、本来の能力を育てる事が出来ずに残念なのですが、親達は、子供がその時期に育った姿を想像出来ないので、年齢による「大人になった」という事しか理解出来ません。
その時期には、子供の一生を決定付ける意識や能力が育つのですが、塾や受験では、そういったものは何も育たないのでネ。

瑞希ちゃんの話に戻して、日本の学校教育では、論理性を育てる教育はされていないので、理論型の生徒は塾や学校教育で育つ事はありません。
千夏さんは教室で、lessonではそんな時間はありませんので、椎名町に来た時に、「文章を書く」・・というthemaを貰って、色々な文章を読み下しながら、分析力の勉強をしています。
学校で「文章を書く」という勉強を全くしていないので、自分が思っている事を全然書けなくて今は困っている所ですが、今年中には、千夏ちゃんも、ある程度は文章を書けるようにしたいと思っています。
梨紗さんの場合には、江古田教室で、私が小学校に入る前からlessonを見て来た生徒なので、論理性の勉強は良く出来ています。ただ、塾と学校を優先して勉強して来て、音楽に進むと言う事を、本当に決めたのは、高校の3年生になってからのお話だったので、中、高の時の基礎の勉強を、今現在に勉強をしなければならないので、大変ですがやっと今年に入ってからは、やっと、少し腰が座って来た所ですかね。
3月7日 17:07

確かに、きつ〜い一言を放ちますよね。
私も、それでよくやられます(^^;;
とても小さい頃からそうなんです。
3月7日 7:25

ひと昔前の悪い言い方をすると、「こまっしゃくれた」という子供のtypeになるのでしょうが、未だ、幼いので、自分でそのこまっしゃくれた言葉を作る事は出来ません。今までに聞いた大人の会話の中から情報の分析をして、理解して記憶する・・という事と、逆に、今の状況からどの言葉を使用出来るか?という判断力の部分のsynapseが優れて活性化しているのです。
そこは教室としては、上手に育ててあげたい所ですよね。
でも、それはナイフのようなものですから、それをどう活かし、活用して行けば、役に立つのかは、少しづつ指導して行かなければなりません。
優れたitemと言うのは、他の人とは異なるものなので、優れていると言う事が出来るので、その違いを下手に使うと逆に人と違う‥・という事で、イジメの対象になったりしてしまいます。その違いを上手に使う事が出来れば、leadershipとして人を統率出来る能力にもなります。
優れた能力には、常にその明と暗の両面を持っているのですよ。そこが教育の一筋縄では行かない難しい部分なのです。
3月7日 17:12

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3月7日 7:27 ·

「子供の能力について」

本来子供達が学び、そして育てなければならない能力を思いつくままに羅列してみました。

記憶力、集中力、理解力、考察力、発想力、想像力、洞察力 、創造力、論理力、読解力、忍耐力、思考力、 認知力 観察力 分析力 判断力 語学力、知識力、実行力、予知力 統合力 適応能力 直感力 ヒラメキ 行動力・・・等々限がないようですが、今は、子供達の社会性の欠如から、寧ろ、一般社会や教育界では「communication能力」という言葉が叫ばれているようですね。

羅列した言葉は、**力が付けばなんでも良いような感じで、数え上げれば限がないように思えるのですが、この中で学校教育で学ぶ事が出来るものはどれでしょうかね??

先ず、これ等の言葉は、単なる言葉の羅列に過ぎないので、これを分類して、枠に嵌めて行かなければなりません。
例えば、予知力と言ったオカルトめいた言葉は兎も角としても、直感力や、洞察力という言葉の場合には、その前提として、分析し、理解し、判断し、考察をする事によって、始めて、類推が出来る場合が殆どなのです。
学校教育では、オカルトまがいの「ヒラメキ」という言葉を重要視しているようですが、これは寧ろ直感力に近いもので、本来的には、総合力的な知識力が必要なのです。

良く作曲家は、感情的な人間である・・と誤解される事がありますが、少なくともClassicの場合には、膨大な知識と判断と論理性と、分析力が必要で、感性感覚は殆ど必要ではありません。

一般的には、平凡な人間が何かを新しいことを創造することは不可能なように思われているのですが、実はそれは大して難しいことではないのです。
私が留学を終えて、大学で教鞭を取っていた頃の昔々のお話になるのですが、私が創り出した絶対音感のメトードや、その他の色々な音楽的なメトードを、音楽史上で、始めて創り出した・・という話をした時に、高校の先生から、「あなたのような一般の人が無から有を創り出す事は有り得ないのよ!!」「既に、歴史の中で偉人達が必ず同じ研究をしているはずなのだよ!」と怒られてしまいました。その人にとっては、近現代の時代では、物事の全てが、既に解明されて、ありとあらゆる教育上のシステムも開発されて、この世には、不都合なものはなにもないのだと いうことなのですかね⁉
その人には、何を説明しても理解しては貰えないと確信出来たので、そのまま放っておいたのですが、実は、「無から有を生み出す事」「創造する事」はいとも簡単なのですよ。

現在の中で 何がまだ誰も 考えていない未知の分野か…を、理解し、判断するのは これまでに 研究されてきた 物事を 詳しく 絞り込んで行けば良いだけなのです‼
つまり、音楽の歴史は、 とてつもなく長い歴史のように思われますが、 実際には 西洋音楽と言っても 、単に400年500年しかないのです。 それより前の 音楽は 私たちが勉強している音楽とは、全く異なった民族音楽的な領域になるか、或いは、歴史的な中世の教会音楽の領域になって、特殊な独自の研究の分野に なるので 私たちの所謂、西洋音楽と呼ばれる分野とは関わってきません。という事で、1550年殆どを割愛する事が出来ます。 そうすると私たちが勉強しなければならない 音楽の歴史は わずか 500年程度になります。
その中でも、音楽を時代様式で捉えると、50年ぐらいから30年ぐらいのintervalの中に収まってしまいます。
例えば、baroqueの時代は150年くらいですが、前期と中期と後期 に分類するとそれぞれは 50年ぐらいにしかならないのです。 その中で色々な様式について 研究する分けなので、逆に 勉強しなければならない資料も 、極端に少なくなってしまいます。
私の場合には それを補うために 研究する資料を 音楽以外の分野に も 広く求めています。 そこが一般の 音楽家と違うところかもしれません。

絶対音感に関しても、歴史上、ずいぶん昔から研究会されて来た事のように思われますが、一般的な音楽の研究者達の、その大きな勘違いは、音を音符として定義した時からが、絶対音感の始まりと考えてしまいがちなのですが、実は、音のピッチを定義をする事は出来無かったので、絶対音という概念が出来るのは、音叉等のtuningの道具が出来てからの話で、それは随分後の時代の話になり、その年代を特定する事が出来ます。
つまり、targetを絞り込めば、自動的にその分野での文献は少なくなって、世界の著書を探しても、その内に見つからなくなってしまうので、それをどのように調べたら、良いかは、その人の力量に因るのですよ。
教室では出版されていない楽譜を大量に所有しているし、また、古楽器の演奏もしているのですよ。
専門的になると、そんな事も出来るのです。アハッ!

そういった専門的な研究でなくて、子供達の教則本として、例えば ピアノを始めたばかりの楽譜がまだ全く読めない子供達のために、音を 1個ずつ覚える子供たちのために 先生が 伴奏をつけてピアノを習い始めのその第一回目のlessonから、先生と一緒に音楽を楽しむ事ができるように、連弾の 教則本を作りました。 その教則本を作ったのは 、今から 40年以上前の話です 。その頃はそういった教本が1冊も出版されていなくて、「 なんでそういう教則本を作るの?」と編集長に叱られたことがあります。 でも今はそういったstyleの教則本が 逆に スタンダードになっています。

何が何でも音楽の演奏家として、世界的な演奏家になろう‼と思ったら、人が絶対に演奏しないマニアックな作曲家の作品を研究して演奏すれば良いのです。
不思議な事に、pianistと言うと、殆どの人達がChopinの演奏をします。まあ、Franz LisztやSchumann、RakhmaninovやMozart迄という感じですかね??
まるで必死に有名大学や、大手企業を目指す学生と変わりないですよね。その有名大学では、本当に一握りの人しか成功する事はないのにね??
みんな同じ目標を目指し、そこそこでしかないのですよ。
鶏頭となるも牛後となるなかれという諺もあるのにね。
みんな牛後になっているのですよ!
アハッ!くだらん!!

子供の能力の研究では、こう言った子供の能力の一部しか扱っていないのが殆どですし、ましてや、こう言った能力の羅列をしてあるサイトを探し出す事も困難です。
その原因となる事は、言葉の定義の問題です
葉を定義する事は哲学の論文としても、心理学や教育学の論文としても、とても難しい事だからです。

こう言った日本語特有の曖昧模糊とした、無味蒙昧な単語の羅列を整理するためには、言葉を定義するという無意味なドツボにはまらないように、archiveを先に作れば簡単で良いのです。
心理学や哲学の先生達からは叱られそうですが、実用には、それで充分なのでね。
archiveの並びは、時系列を利用すると良いでしょうね。
時系列では・・人間は必要なものがあったら、先ず情報を探し、⇒その情報を読み、⇒記憶し、⇒判断し、⇒その情報を利用し、⇒最後にその出来上がったdataを元に行動します。
この文章の中に、羅列された単語を入れて行けば、無意味に羅列された単語に意味が出て来ます。
はてさて、この分類能力はなんと言ったら良いのでしょうかね??



昔、音楽大学の院を受けたい生徒が私の元で院の受験勉強を始めました。それで、私が、院に提出する論文の課題を出したのですが、ネットでも、国会図書館に行っても、資料が見つからないと、怒り捲って私の所にやって来ました‼
そこで、私が、「netや図書館の論文を丸写しするのは、せいぜい大学の卒論までで、院を目指すのならば、参考文献は、その課題について書かれている論文を探すのではなく、寧ろ、同時代の一見すると無関係と思われる書籍の資料の中にあるのだよ‼」と説明したのですが、それでも納得しなくて、私の元で勉強するのは、やめてしまいました‼
その当時、私が指導していた中学一年生の女の子でも、世界の論文で主張されているBeethovenの作品の作曲年代についての論文で、一般的に通説化されている事への反論を、楽譜の分析を用いて平気で書いていたのだけどね⁉
それが正しい論文の在り方なのだけどね??
資料の丸写しは音大の学生までだよ!!
もっとも、私のprivateの生徒達は、中学生でもそれはしないのだけどね??
3月8日 2:28


あっつ??これじゃあ、なんの話か分からないよネ?
つまり、論文を書く時にどういう資料が必要で、それは何処を探せばあって、・・・とかいう判断力のようなものが必要になるのだが、それは何力というのかな??という話でした。

今では、当たり前の事になってしまいましたが、こんにちでは超有名なお弁当チェーン店が未だ小さなお店だった頃、売上をあげるのに悩んでいたので、曜日と時間帯で、どういう人達が何人ぐらい店の前を歩くかを店員に数えさせて、そのニーズに合わせてお弁当の種類と箱の量を決めると無駄が出なくて良いのだよ。そして、四季折々の売れ筋もdataに残すと良いのだよ!!と社長にadviceをしました。
今では、店舗経営では、至極当然の、所謂、marketResearchなのですが、当時はcomputerもないし、そんな小洒落た言葉も無かったので、結構そのadviceは喜んで貰えた時代でした。
アハッ!日本に帰って来たばかりの頃は、音楽家にもなろうかどうかを悩んでいたので、そういった音楽とは無関係の仕事もしていたのですよ。
3月8日 1:13

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3月12日 3:40 ·

明日は春待ちコンサートなのに、2時半を過ぎた頃から、15分おき、20分おきの頻尿が始まって、眠れなくなってしまいました。
5時起きで準備しなければならないのに、どうしよう‼
困った‼

昨年の10月の秋の発表会では、病気が治り切っていなくて、体調不良のままオケの指揮に臨んだので、気力はあって、頑張って棒を振ったのですが、体がふにゃふにゃで、気が丹田に来なくて、産まれて始めて気の抜けた格好だけの指揮をしてしまいました。
その時は、「よる年波の体力の限界なのかな?」と思ったのですが、次の週のオケ練習では普通に丹田に力が入って、指揮棒が振れたので、よる歳波の性ではなく、単に、病気の後遺症で、体力、気力が無かっただけだったようです。

ところが、先週の日曜日の最後のrehearsal では、生徒達の曲の出来と意識の欠落に少なからずshockを受けて、その後、丸々1週間立ち直れないまま、江古田の自宅に引き籠もっていて、今日の「春待ちコンサート」を迎える事になったので、3ヶ月も続いた風邪はなんとか治ったのだけど、オケ練習の後遺症で、気力がなんとも充実していなくて、今日の指揮は、またまた「指揮をすると、丹田から気力がザルのように抜け落ちるのでは無いか?」と心配しています。
・・とは言っても、春待ちコンサート迄は、もう、あと数時間後の話なのだけどね??

写真は高校生と大学生の上級classのrehearsal の風景ですが、一人が演奏する曲の演奏時間が20分超なので、3人で1時間超は掛かります。
人数は少ないけれど、このklasseは時間は長いのよね~ぇ??
後ろ向きと人の影で顔が見えない人が二人いますが、それが大学生達です。
後は、この写真は2枚の写真をつなぎ合わせたものです。
写真を撮影した場所の角度が少し違っていたので、どうしてもつながらない箇所がありました。
でも、まあまあ、だよね??

  



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3月13日 12:33 ·

昨日の春待ちコンサートは大変盛況な内に終了いたしました。
出演者一同お手伝い頂いた保護者の方々、主催の花園地区の自治会「しんけみ広場」の方々に感謝しております。
動画のuploadは、編集に時間が掛かりますので、もう少しお待ちください。取り敢えず、冒頭のcanonをuploadします。(パソコン、もしくはテレビ等の大画面で再生される方は、画像がボケる場合があるので、歯車のHDのアイコンにcheckを入れてください。)
曲はPachelbelのcanonです。


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3月13日 13:27 ·

昨日の春待ちコンサートを終えて、
今日は、おとなしく動画の編集を朝早くからやっているところです。・・とは言っても、忙しいのは、パソコンであって、そのパソコンが忙しく作業をしている時には、私は暇になります‼

これが私の「時短」の法則で、私の平行作業の基本の方法なのです。(つまり、パソコンが忙しく仕事をしている時には、私は別の作業が出来る・・という当たり前の話です。)※)

・・という事で、パソコンが動画の編集作業をしている間は、Facebookで、昨日の春待ちコンサートの感想を含めての雑談です。

春待ちコンサートの演奏が終わって、小道具大道具の搬入搬出が終わったら、そのまま検見川教室で、春の発表会のrehearsal を済ませて、今日一日の後片付けをしながら、梨紗さんが、「中、高生の早い時期に対外出演が出来て良いなあ~」と漏らしていたので、ついつい「八千代の対外出演は、あなた達のためにやったのでは・・?」と、愚痴ってしまいました。
勿論、梨紗さんが羨んでいた事は、対外出演や先生達の演奏に参加させて貰えると、一つの曲を何度も演奏し直す事が出来る・・という意味です。(つい先日、私が生徒達に、「今日の本番の演奏は、次の演奏会のrehearsal なのだから、本番が終わったら、その演奏を、それこそ重箱の隅をつつくようにcheckをして、練習をし直す事」と注意をしたばかりだったからです。)今回の春待ちコンサートの課題のVivaldiの「春」は、発表会でも演奏しますし、a mollは、八千代で演奏する予定です。proの音楽家に取っては、「演奏が終わったから、その曲は終了した!」という事は絶対にあってはならない事で、曲は「repertory」なのですから、何時でも、何処でも、注文があったら、すぐに演奏出来るようにしておかなければなりません。

音楽を職業として学ぶ事は、(proとしての職人を育てる事なので、学校教育では無理だ)‥・という事で、私は、教室を開く随分以前から、弟子達を育てるために、中、高生の弟子達を先生達の仕事の演奏に(学生であるという事は内緒で・・)参加させて、現場で演奏体験をさせていました。
しかし、それにしても、小学生の対外出演は、今回が始めてです。
教室で指導して来た子供達の水準では、昔々の小学生でも、個人のlevelでは、(最初から音楽を専門に目指して頑張っている子供達のlevelとしては)・・とても高いlevelの生徒達が多かったのですが、然程、大きな活動をしていないのは、流石に、小学生のオーケストラを作れるだけの人数で、そのlevel(水準)をキープ出来る事生徒達はいませんでした。

音人の会の榊原さんから八千代のお話をお伺いした時も、先生達からは、教室の再生からのlevelとしては、とても以前の「そのlevelではない」と猛反発をくらってしまったのですが、教室のlevelを復活するためにも、「一つ壁を乗り越えないと!」という私の独断で、八千代のお話を受けて参加する事にして、参加してくれる生徒達を募りました。
八千代の演奏活動では、「折角、対外出演としての勉強をするのなら・・」という事で、もう一段階、水準をあげて、period奏法を子供達に指導して、演奏させる事にしました。
period奏法は、勿論、音楽大学でも学ぶことのない、世界水準で見ても、よりmaniacな奏法なので、世界広しと言えども、子供達がperiodで演奏する事はありません。
今回の春待ちコンサートでも、昔のlevelに対して、決して意識が育っている分けではないので、「絶対に無理だと思う!」という意見が多かったのですが、何時もの私の無茶振りで、強行する事にしました。
しかし、不思議な事に今回の春待ちの小学生のmemberは、八千代の時には、未だ幼くて参加している生徒は一人も居なかったはずなのですが、発表会のオーケストラの参加を通じて、普段のオケ練習のときから、少しづつ、periodの奏法の勉強を少しづつ取り入れて、指導して来た結果、小学生にも関わらず、VivaldiのLe quattro stagioniがsoloでも演奏出来る水準迄、技術のlevelを向上させる事が出来るようになりました。
何事も勉強の基本基礎はrootsに限ると言う事ですよね。

但し、どんぐりの国の日本では、やはり、一般と横並びの教育が基本で出る釘は打たれるの発想があります。
ここがヨーロッパのi dentityの国との大きな違いで、globalstandardの時代になって、日本人が就職にも事欠くようになった原因でもあります。通常の学校生活では、目立つ事はイジメの対象にも成りかねない毛嫌いされる事なのですが、就活ともなれば、その逆のi dentityを要求されるのです。そこで幾ら人と同じ事が出来る・・と主張しても、それを認めてくれる企業はないのですよ!!
どうして、そんな簡単な事が理解出来ないのか、私には理解出来ません。

仕事に対する意識を持たせる事は、年齢とは関係なく、早ければ早いほど良いのですが、音楽に関して言うと、親の意識がない場合には、子供が育つ事は全くないのです。
音楽に関しては、子供の才能だけで、育つ事は有り得ないからなのですよ。
でもこれは年齢の問題であって、もし、これが音大生であったならば、親の意識も含めて、何の問題も、そこには起こりません。
本人がproとしての厳しさに耐え得るか否かの話だけなのですから。

ウダウダと書いていたら、本当に書くつもりの事を書く事を忘れていました。lessonと演奏には、段階(step)があって、そこの所を理解しておくと、勉強が楽になるということを書くつもりだったのです。
pro-versionの最初の段階は、lessonで先生の前で演奏している時には、上手に弾けるようになる・・というstepです。しかし、この段階では、外での演奏では、ポニョ・ミスやポロミスが出てしまいます。その段階をクリヤー出来るようになると、やっと、lessonでも演奏会でもちゃんと弾けるようになるのです。その段階の習得は意識と経験の両方が必要となるのです。一生懸命に勉強していたとしても、この二つがないと、そのlevelをclearする事は出来ません。
もっと指導上難しい事は、この二つがclear出来たとしても、普段の練習に意識負けをしていては、音楽を出す事は出来ません。演奏がチマチマとしたつまらないものになってしまうのですよ。困った事だ!!そこは「本人の意識だ!」と片付けてしまいがちなのですが、そこはなんとかしてあげたいよな!!

※)というはずなのですが、そうはいないのが、現実です。
慣れない動画の編集は当然なので、どのsoftが自分に合っているのかを探すために、色々なお試しのsoftを入れて、操作をしているのですが、操作性は中々なのに、用語が専門用語をカタカナに訳しただけの(まるで私の論文のような)softだったり、比較的に分かりやすいsoftなのに、妙に操作性が難しかったり、で帯襷で未だ「これぞ‥・!」という編集のsoftには巡り合っていません。softが決まれば、購入して、操作の練習をするのですがね??
それにしても、videocameraから、videodeckへやパソコンへ、のdataの移動が時間が掛かり過ぎるだけでなく、上手く行かなくてパソコンの調子迄悪くなってしまいます。routineが決まる迄は、動画を編集するのは、とても難しい時間の掛かる私を悩ます作業になってしまいます。
困ったものだ‥・!!

色々なお試しを試して見て、昨日の今日なのですが、softを購入しました。しかし、お試しは無料版で作ったので、ロゴが入っています。
HaydnのstringQuartett雲雀の4楽章です。
You Tubeにuploadした動画とは少し違います。
https://www.youtube.com/watch?v=wTmCwc2AQLc



動画の編集を始めて、未だ、まる24時間ぐらいだけど、少し早くなったかな??でもやっぱり難しいなぁ??それはそうと、編集のsoftをdown loadするだけで、2時間以上掛かったぞよ!!なんだ!これは!!

子供のためのピアノ三重奏曲集より「かっこう変奏曲」
芦塚陽二作曲 でやんす。

https://www.youtube.com/watch?v=BTRKckWqpYQ

3月15日 3:36

遅くなりすみません。
教室のアドレスに写真送りました。見れますか?
3月15日 3:51


今日は斉藤先生は千葉泊りなので、写真を送って貰えません。動画のTitleに指針をしたかったのだけど、眠れないままに、動画をuploadしてしまいました。明日も、椎名町に行くのは、深夜なので、取り敢えず、この写真をパソコンに取り込んで、使用しておきます。
3月15日 9:28

3月15日 4:08

Vivaldiの二台のヴァイオリンのためのコンチェルト イ短調です。早く寝ようと思ったのですが、何時もの通りベッドから起き出して、動画の編集を始めてしまいました。困ったものだ!!

https://www.youtube.com/watch?v=oFNZELFoBkw

折角のornamentの勉強なので、finaleのscoreのⅡ楽章にそれぞれのornament譜を五線を追加して、丁寧に書き込んで見ましょう。八千代までには、もう少し改定が必要です。OKな所と、もう少し練った方が良い所を入力した後で、checkしましょう。後、Leclairのscoreも完成させよう。こちらはlayoutだけの問題ですよね。下の楽譜はcorelliの作ったornamentの演奏譜です。ornamentの模範として作曲者自らの手で書かれています。
3月17日 10:31


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3月15日 17:52 ·
春待ちコンサートの演奏風景です。
2017年3月12日の千葉市花見川区花園地区自治会館 しんけみ広場実行委員会主催の春待ちコンサートの演奏風景です。
Sweelinckの「Mein junges Leben hat ein End」というオルガン曲を、弦五部にarrangeしました。
今回の演奏の出来なのですが、練習の回数が、全員揃っては2,3回しか出来なかったという事が根本的な理由である事は勿論なのですが、上級生の課題が純正の和音(harmony)を演奏する・・という課題なので、今回はその課題は今三クリヤー出来ませんでした。
私の個人的な箴言としては「演奏会は次の演奏会のためのrehearsal 」です。
八千代での挽回を目指します。ハイ!
https://youtu.be/c3KgLCPkqKQ

星那さんのマスネーのタイスの瞑想曲です。

https://www.youtube.com/watch?v=VSSLZ6KutSc

春待ちコンサートMassenet Thaïs violin風戸星那

3月16日 6:14

珠加ちゃんのFaure のAprès un rêveの演奏です。

https://www.youtube.com/watch?v=y-R-Cb9lc1U
3月16日 6:14


今日は税金でメゲているので、動画の編集は此処までです。後は、明日かな??
3月15日 19:46


・・と言いながら、春の編集もやってしまいました。・・で、2楽章は割愛しました。とても模範には成り得なかったのでね。

https://www.youtube.com/watch?v=BStbGPikcy0


春待ちコンサートLa PrimaveraⅠ、Ⅲ楽章

深夜の3時半です。真雅ちゃんのSaint-SaënsのAllegroAppassionatoの編集が終わりました。

https://www.youtube.com/watch?v=CqL8vw7iZEY
疲れたぞ~っ!!



春待ちコンサートSaint-Saëns Allegro Appassionato真雅(小4)

3月16日 3:33

で、何と、もう一曲、編集が終わっているのに、uploadするのを忘れていました。曲はEine kleine Nachtmusikの1,2楽章です。

https://www.youtube.com/watch?v=rOlmb0wB4MQ


春待ちコンサートMozart Eine kleine NachtmusikⅠ、Ⅱ楽章

3月16日 6:13

もしよければ、ルクレールのタイトルにOp.3 No.2と入れていただけると嬉しいです。
3月16日 22:39

了解!
3月16日 22:51

ありがとうございます!
3月16日 22:58

あれ??やっぱり、Ⅰ,Ⅲの後のOp.が表示されないぞ??おかしいな??
3月16日 23:07

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3月16日 3:48 ·

な!な!な!何と・・!?!?!?
またまた、文章を入力中にFacebookがぶっ飛んでしまいました。今回は、履歴すら出て来ません。結構書きかけた文章ですが、記憶でもう一度、書かなければなりません。
ホンと、Facebookと私は相性が合わないようです。
まあ、気を取り直して・・・・

音楽の表現は心・・つまり精神状態と密接な関係が有ります。
・・などと言ったら、「何を今更??」と良識を疑われそうですが、実際には、それはそんなに簡単で単純な事ではありません。

先生達との椎名町の食卓の雑談で、現役の東大生が「音楽の合奏では、一番速いtempoの演奏に順応する」という論文を書いていた・・という話をテレビでしていた・・という事を聞いて、ちょっとびっくりして、呆れてしまいました。
音楽家に取っては、そんな事は常識的に有り得ないのですよ。
amateurの場合だとしても、音楽の場合には力関係なので、上手な人の周りは順応するのが普通です。速い、遅いは関係ないのです。
でも問題点はそこではありません。

音楽では、演奏をする人の精神状態が非常によく出ます。
音楽を演奏する人のtempo感が、その人の精神状態に深い関係がある事は、良く知られている事実です。
特に子供の間や学生の勉強途上の間は、気分が落ち込んでいると、音(所謂pitch)に表れてしまいます。気分が落ち込んでいると、耳が下がった音を正しい音と認識するので、どうしてもpitchが下がってしまうのです。また、個人の気分とは無関係の事なのですが、オケ練習の時等に、天気が悪くて、湿度が高くて、空気が重たい時には……、頑張ってオケ練習をしていても、どうにも生徒達の気分が乗らない時があります。そういう時には、思い切ってpitchを443から444へ上げて、オケの練習すると、ノリが良くなる事が時々あります。
気持ちが滅入っている時だけではなく、湿度が多い時にも気分が鬱状態のように下がってしまい、pitchも下がってしまうのです。
人間の感情はそれぐらいにデリケートな物なのですよ。

子供達が、気分的に落ち込んでいると、演奏そのものも、だんだん落ち込んで行って、結果、tempoも遅くなります。
前回の生徒のtypeのお話しの時にも少し取り上げましたが、情緒的なtypeの生徒の場合には、精神状態に揺らぎがある時には、演奏するtempoも情緒的で、安定しないのも事実です。

反対に、子供達は、気分が高揚するとpitchが上がりやすくなります。
勿論、tempoもだんだん速くなる傾向が出てきます。
当然、子供達に自信が付いてくると、テンポが速くなる傾向が出て来ますが、勉学途中の子供の場合には、音楽的な内容が雑になりやすいので、早くなる事も、遅くなるのと同様に、注意が必要になります。

心と音楽の揺らぎは、しかし、これは勉強途中の生徒や学生のお話であって、水準に達した生徒(所謂、上級生)や、proと呼ぶ事の出来る演奏家にとっては、音楽が感情で揺らぐ事はありません。
例え、恋人に振られようと、親の死に目に会えなかろうと、音楽に向かう時には、その演奏するtempoやpitchが揺らぐ事は絶対に有り得ないのです。
プロの場合には、情緒的感情的に「揺らぎ」に聞こえるフレーズであったとしても、情緒的に聞かせるためのTechnikであって、単なるrubatoの演奏技術なのです。

pitchのお話については、私達の教室では、単に一つのpitchを指導するのではなく、ensembleのpitchと、solo‐pitchを使い分けさせます。
また、決め所の和音は純正の和音で演奏するので、pitchの微調整が更に必要になります。
ここは、一般の音の取り方と教室のpitchに対する考え方が大きく違っている所です。
一般の音楽大学の場合には、pitchと言うのは、例えばAの音のpitchは、440cycleの一種だけです。演奏会高度であったとしても、それは定義のお話なので、一般的には442cycleになるだけのことで、そのpitchは、正しくtuningされたPianoの音に準じます。

つまり、同じAの音でも純正のpitchのAと言う事は、なに調のAの音か??・・・と言う事でpitchが変わるし、ensembleで和音としてハモらせなければならない時のAの音と、solopitchとしてのAの音も違います。
もし、Aの音が、B♭調の導音になったとしたら、pitchはまた大幅に変わります。
violin等の楽器にギターのように、fretがないのは、その微調整をするためであって、もしviolinのpitchをPianoに合わせて練習するとかいう馬鹿な初心者のような練習をするのならば、fret付きのviolinでも作れば良いのですよ。
そしたら、「音程が取れない!」とか、pitchを取るために、必死になって練習する事は、なくなるからね。

今回の春待ちコンサートでの、Sweelinckの課題も、3和音を基本的には「純正のharmonyで取るように」という事がthemaでした。

またまた、またまた、Facebookの文字入力がおかしくなって来ました!
腹立つよね!!どうなっているの??
いつもしょっちゅうの事なのだけどね。
普通に入力している文章が文字や文節が、あっち行ったり、こっち行ったりで、入力出来ないのですよ。

一般的には、「指導が難しい」とされるpitchやtempoなのですが、教室では通常のlessonの中で、pitchもtempoも普通に、難なく指導して行く事が出来ます。それが所謂、芦塚メトードなのです。

勿論、absoluteなpitchは絶対音と言いますが、教室では、絶対音感から更に、solo‐pitchや、純正のpitch、古典調律のpitch等々を、勉強するので、絶対音感のように、単純で簡単ではありません‼

pitchに絶対的pitchが存在するのならば、pitchと同様にtempoにも絶対tempoが存在します。
所謂、一般的にMetronom‐tempoと言われているものです。

orchestraや室内楽は、東大生の論文のように、集団で演奏するものなので、力関係が起こります。
どうしてもそれは、「速い人のtempo」ではなく、上手な人のtempoに引っ張られてしまいます。
しかしそれは、amateurの音楽の場合です。
proの演奏の場合には、その上手下手の前に、楽譜上の絶対的なtempoと言うものが存在します。
proの人達は、そのabsoluteなtempoにensembleをする全員が従います。
proの場合には、上手下手だけではなく、情緒的感情的な表現よりも、absoluteな演奏に従います。
それこそ、親の死に目や恋人との別れにも、影響されないように、絶対的な演奏をする事を目標としているのです。

江古田の駅にとても美味しい蕎麦屋があったのですが、その蕎麦屋は、お店が開いていたり、時間になっても、閉まっていたり、果ては、今日はとても美味しいのだが、次に行った時には普通の味なのですよ!普通!!まるで、前の文章で書いたマルタ・アルゲリッチのようですよね。

私は、そういった情緒的、感情的な演奏は大嫌いなので、生徒達には、練習を通じて、そういった心象に揺らがないabsoluteなものを、生徒達は指導しています。
音楽はそれでも、到達出来ないのですからね??
感情的に演奏していては、音楽を理想的に表現する事は不可能なのですからね??

一般的には「音がぶら下がる」という癖のある生徒達が結構います。「音のぶら下がり」は、特に高音域に顕著に表れます。
そういった生徒達もsolo‐pitchや純正のpitchの取り方を学ぶ事に依って、或いはkonsonanzのpitchを上げて行く過程で、正しいpitchを取る事が出来るようになります。
これは絶対音感よりも、二つも三つも上のgradeの音感です。
そろそろ、またFacebookの入力がおかしくなって来て、文字の訂正が出来なくなって来ました。という事とで、ここらでおしまいにしましょう。
  



なるほど。逆にいうとピッチが下がっているときは気をつけてあげようという事ですかね、母親業の観点から見れば?

ちなみに私はブログを書くとき(もう書いてないですけど)、ノートに書いてからそれをコピペしていました。
もちろんワードとかでもいいですけど、エバーノートならクラウド型なのてまPCからでもスマホからでも編集可能なので、お役立ちでした。
3月16日 7:26





母親のように、余り子供と距離が近すぎると、逆に、身近すぎて、大きな問題を見過ごす事があります。子供の場合には、子供自身が病気等に気付かない場合もあります。ピッチは、そういった場合にも、子供の内面や体調の判断基準になって、子供自身が気づかない病気でも、pitchには如実に表れて、私達は子供の状態の判断が出来ます。
3月16日 12:36


3月16日 12:35 · 編集済み

子供の資質の中でも、子供の将来を決める最も大切な資質は勤勉性なのです。勤勉性は、親の与える最大の贈り物であると言われています。
教育界での論文の世界の中でも、人間の勤勉性とは、親が子育ての時に、何処まで親が子供のrotationを大切にするか、・・で決まるとされます。
つまり、親の都合で子供達を引っ張り回すのは、家庭重視でそれはそれで良いと思うのですが、その場合には、子供に対して、周りの人を凌駕するようにはならない、と最初から諦めるべきなのです。親が子供を自分のrotationで引張回して、子供が音楽家や演奏家、或いはi dentityの必要な仕事に従事出来る分けはないのです。
子供に勤勉性が身に付く分けはないからです。
私のように、子供時代に親から育てられなかった子供※、1)は、勤勉性の無さで苦しむ事になります。
子供の時に自由にのびのびと育てて、中、高生になって、突然「勉強に専念しろ!」と言われても、それは子供に取っては苦痛でしかありません。将来勉強に専念させるのならば、子供の内も遊ばせないで勉強をする体質を作る事が良いのです。
つまり、年齢によって、教育方針が代わってしまうのは、子供にとって、無理を強いる事になってしまいます。
小学生の時には音楽に専念させて、中、高生になったら勉強に専念させるのは、そのどちらの目的にとっても弊害が出てしまいますし、ましてや、受験のための競争教育を云々するのならば、その方向性は、教育心理学的に基本的に誤っています。

私が成長して行く上で、私にとってとてもありがたかった事は、母親が自分が働くために子育て出来なかった母親は、私が大学を卒業するまで、「勉強をしろ!」とか「**しろ!」とかいう親の一言を一度も言わなかった事です。
医学部進学のお話も、周りの近親縁者達が言っていた話で、祖母も母親も一度も「医者になれ!」とは言った事はありません。
自由にのびのびと勝手に育って来たので、私には勉強に対する勤勉性は全くなく、音大受験のために、1年間だけ、Pianoの練習を毎日、8時間から12時間練習したのですが、大学に合格した途端に、全く練習はしなくなってしまいました。
根本的に演奏家には向かない気質だったのですよね??
特に音楽家を続けている場合には、(例え、それが作曲家というgenreであろうと)勤勉性は必要です。
コツコツと決められた時間に、ちゃんと仕事が出来ないと商売にはなりません。
この私の怠け癖は、ドイツ留学中は、周りの環境から、幾分かは改善されたのですが、(なにせ、Münchenの音楽大学には、proになるための学生しかいないのでね!)ドイツ留学から帰国したら、元の木阿弥で、怠け者に、すっかり戻ってしまいました。そういった私の日常が、私の悩みのタネでした。
留学から帰っても、延々と悩み続けた怠け癖なのですが、30を過ぎた頃、Beethovenや多くの作曲家達が、一生を掛けて、自分の作品を推敲しているのに、或る時に、ふと気がついて、近所のテーラーから背広を入れる箱を買って来て、仕事で行き詰ったら、その楽譜や資料、鉛筆、物差しに至るまでの総てを、その背広の箱に入れて、indexを付けて、半間の押入れに積み上げて、凍結させる事にしました。
Beethovenも、一つのSymphonieを作曲するのに、40年ぐらいは推敲を重ねたのですが、40年間一つの曲に打ち込んでしまったら、それこそ生活は立ちません。da Vinci等もあの名作Mona Lisaを生涯未完の作品として手元に置いて置いたのですからね。そこは、「平行作業」なのですよ。

全音の編集長が仕事の打ち合わせで江古田の部屋に来て、別の仕事の話に話が行った時に、編集長からその別口の仕事の話で質問されると、「その仕事はこれです。」・・とか、「あの仕事はこうなっています。」とか、半間の押し入れに積み上げられた背広の箱を取り出して、箱からdataを出すと、編集長は「これは凄い収納だ!!」と、甚く感心していました。
「芦塚先生の仕事は全部、押し入れから出てくるのですよね!」と、私の整理術に驚嘆していました。何故って??パソコンの無い時代だったから、総てがanalogで保存しなければならなかったからです。

つまり、ideaが出た時に、箱から出して、その箱を開けるだけで、全くのtime lag無しに、一瞬で、何時でも校正推敲、出来るように、鉛筆や資料の本迄、箱の中に入っているので、怠け者の私でも仕事を続ける事が出来たからです。
この「仕事に行き詰ったら、直ぐにfreezeさせる・・」という仕事法を私は「怠け者の仕事法」と呼んでいます。
Facebookの文章も、その草稿の仕舞う場所が、「押入れ」から「net」に代わっただけの事なのですよ。

※、1)私に勤勉性が身に付かなかったのは、親が子供を連れて遊び回った分けでは無く、戦後という特殊な時代背景から、父親を亡くした家庭では、至極当たり前の極普通の事で、何処の家庭でも、母親は、子育てどころではなく、生活のために働きに行かなければならなかったからです。それが当たり前だった時代だったのです。
3月18日 4:55

文章を書く時にとても大切な要因は、その言葉の言い回しかもしれません。話の内容については記憶していたとしても、その言い回しが思い出せないと、文章自体が流れて書けなくなってしまう事が、(私の経験上)多いのです。私は30歳を過ぎる頃までは、memoを取った事は全くありません。総てを記憶で動いていたので、33歳の壁を過ぎた頃から、度忘れをするようになって、memoを取り始めたのですが、書く物と書かれる物を持ち歩く癖が中々着かなくて、未だに、memoを取る時に困ってしまいます。女性の場合には、ハンドバッグを持ち歩くのが常なのでしょうが、サラリーマンではない私の場合には、アタッシュやビジネスバッグを持ち歩く事が無いので、pocketにmemo用紙やpenを入れて、持ち歩かなければなりません。それでも冬の間は、jacketやcoat等を着るので、入れるpocketには不自由しないのですが、夏場は、Tシャツなので、それこそ入れる場所がないのですよ!ウエストポーチにしてみたり、ポシェットにしてみたり、はたまた、当世風に、ワンショルダー(ワンショット)を色々と買って見たりしたのですが、これが全部帯襷なのですよね~ぇ!!楽譜を入れる時には、結局、トートバッグになってしまうし、普段の江古田、池袋周りの時には、何も入らないポシェットになってしまうのです。いや~ぁ、困ったものです。つい先日は、デパートの鞄売り場に結構大量のポシェットが置いてあったので、「A4の書類の入るポシェットはありますか?」と訊ねて見たのですが、先ず、A4のサイズというのが分からない!
鞄のサイズ的にはA4が入るはずなのに、チャックが鞄のサイズよりも狭いので、折角A4のサイズがあっても、書類が入らない。チャックが鞄よりも外にはみ出しているtypeは、物の出し入れがし易いのよね!!(でも、おしゃれではないかもね?)じゃあ、ビジネスバッグを買えば??それはそれで、商売だから持っているのよね~ぇ!しかし、普段の街歩きにビジネスバッグはおかしいでしょう??大きく重たいので、利便性は無いしね!!デニムか何かで作って貰ったら幾らぐらい掛かるのかな??
あ・・・、memo用紙の話をしているつもりだったのだけど、話が鞄の方に行ってしまいました。
前の写真のmemo用紙について説明をしたかったのだけど、完全に脱線してしまいましたがね。アハッ!
3月22日 5:57


今(3月の22日の事です。)は、未だ朝の5時6時ですが、今日はお昼から、生徒達の弓をselectしに行く予定なので、今日の仕事を先に済ませている所です。
今日は、3,4本の弓を選びに行くので、とてつもない時間が掛かる予定です。それぞれのrankの弓を選び抜かなければならないので、都合、100本近い弓をselectする事になります。
本当は楽器本体よりも、弓を選ぶ方が難しいのよね!!
弓の良し悪しで、生徒の上達の水準が代わって仕舞うからですよ。

日本の音楽家達では、一般的にはとても良い楽器を持っている人でも、弓にはそんなにお金を掛けない人達の方が多いのですが、上手になる秘訣(失礼!上手は演奏をする秘訣)は、最低でも楽器本体の金額の半分、学生の場合でも、本体金額の1/3以上の弓を購入した方が、練習も上手く行きます。

また、この話はもう一つ別の話になってしまいますが、本当に良い弓に巡り合う事は、私のこの長い人生でも、2本しか巡りあっていません。
弓のStradivariと言われる1000万超のTourteの弓よりも、遥かに良い弓です。その時にはTourteの弓を3本ぐらい出して貰って、比較してみたのですが、1000万超のTourteと比較しても、数倍優れた弓でした。
但し、金額的には、Tourteの場合には、骨董的な価値(製作者の名前的価値)も入るので、Stradivariのように天文学的な値段になりますが、弓自体の値段としてはそんなに高価な値段ではありません。勿論、その2本とも私が押さえてしまったので、教室の関係者の人が持っていますけれどね。
巡り合いなので、その機会を逃すと二度と手に入る事は無いので、弓を欲しがっている人がいないのに、私が先に押さえてしまってから、その弓を購入したい人を探したのですよ。つまり、これは巡り合いなので、そのchanceを逃したく無かったのです。

あ~、このお話は上級者のお話です。本当に良い弓を持ったとしても、その弓を弾き熟せなければ、豚に真珠、猫に小判 ・ 馬の耳に念仏 ・ 犬に論語 ・ 兎に祭文にしかならないでしょうね。違いが分かるようになったから、弓を選びに行きます。
3月23日 6:32

ここに入力したcommentが全部消えた事は超、shockです。いつもならば、履歴をコピーしてペーストすればなんとか凌げるのですが、その履歴さえ出て来ません。結構長い文章だったのに、超shockです。・・て書いていた、commentがまた非表示になってしまいました。今回は履歴に非表示として残っていたので、表示させませた。これをクリックするとまた非表示になったりして・・!!!
3月23日 7:59

書いたcommentが梨紗ちゃんの分も、千夏ちゃんの分も全く消えてなくなりました。通常なら、履歴を見てコピペして、ここにペーストするのですが、履歴さえ出て来ないのです。超、頭さ来たな~あ!!
3月23日 7:28

コメントとして投稿したものが消えちゃうんですか?スマホからコメントしていて入力途中でもコメントが消えることはないのでパソコンからだと不具合が起きやすいのかしら…先生のコメントが気になります
3月23日 7:48


・・・という事で、気を取り直して、もう一度challengeします。
楽器選びや弓を選ぶ事はとても難しいし、一般的に生徒が楽器を選ぶ機会は、生涯に何回かしかないので、楽器の選び方を学ぶ事は不可能です。これはPianoでも同じかな??私は斉藤先生が未だ高校生であった頃から、よく「楽器選び」に同行させて、選び方のpointを伝授指導していました。梨紗さんも自分から「chanceがあったら、同行したい。」と言っていたので、何度か「楽器選び」の時に連れて行きました。
今回は、梨紗さんの弓の購入のためなのですが、椎名町の教室でlessonの時に、チョッとしたpassageが上手く行かなかったので、梨紗さんと千夏ちゃんに、私の弓を貸して演奏させてみました。「弓で音がこんなにも変わるの??」と梨紗さんに取っては超shockなようでした。今までも、私の弓を貸した事はあるのですが、その違いは分からなかったようですが、今年に入ってから、弓を使いこなせるようになって来たので、「じゃあ、」という事で、弓を買いに出かける事にしました。年度末決算セールと言う事で、梨紗さんや千夏ちゃんには特別に安くだしてくれるという社長の思し召しもあって・・です。
梨紗さんは何度か「弓選び」には同行しているので、自信があったと思うのですが、30本近い高価なold‐french‐bowを弾いて、「どの弓も完璧だ!」と、驚いていました。selectが出来ないのですよ。
だから、そのrankの弓のcheckをするpointをlectureして、その中の2,3本の弓について、違いを説明しました。充分に時間を掛けて、梨紗さんも2本の弓をselectしました。私が弾いて試して見ても合格です。と言う事で、社長を呼んで、弓の製作者と名前をcheckして、選んだ合否を出します。梨紗さんは目出たく合格で、中に1本だけ社長が隠し入れていた、名棒と、優れた弓の両方を選んでいました。
つまり、弓を弾き熟せるようにならないと、本当の銘bowをselectするのは難しいのです。
チョッと金銭的には、予定をoverしましたが、社長の好意で随分割引して貰って、親には「予算をoverした分は教室の仕事で返すから」と、納得して貰って、銘bowを買って帰りました。お祝いのお茶会ですよ。ハイ!
・・てな事をウダウダと書いていたのですがね。また、書くハメになってしまいました。
3月23日 8:42


「楽器選び」や「弓選び」は、弦楽器の奏者の人達でも、生涯に何回かしかありません。
音楽大学で生徒を教えている先生や、有名なviolinistで、数名の生徒達を教えている先生だけが、高価な「楽器選び」や「弓選び」を生徒達のために、しているのです。でも、生徒達や保護者の人を同伴させる事があったとしても、(通常はありません。先生が買って来て、ポンと渡されるだけです。「これ500万ネ!!」と言って、)

本来的には、私達のような音楽教室の場合には、生徒が高価な楽器を購入する事は基本的にありませんので、普通ならば上手になったとしてもstudent迄の楽器です。
ですから、常に小、中学生にために、高価な楽器を購入している教室と言うのは、全国的にも少ないのですよ。
それは取りも直さず、音楽大学と同程度のlevelを中、高生が持っているという意味なのですからネ。
そういった特殊な環境なので、上級生の生徒達に楽器を選別する「楽器選び」のコツのようなものを(希望者には)lectureして行く事が出来るのです。
弓の性能を熟知して、選び方のコツを学べば、もはや、鑑定書などに頼る必要もなくなります。ものを見る目が養われるのですからね。ハイ!
3月23日 9:20


もしや後ろの台形の箱達はチェンバロでしょうか??

こんな風に弓を選べる日が来ますように💕
3月23日 7:34

後ろの台形の箱は全部celloです。一つの箱が一台のcelloです。こういう風に送られて来ます。
3月23日 7:35

この二つの写真のcommentが両方共消えてしまったのは、超shockでしばらく立ち直れそうにもありません。
3月23日 7:44

100%確実に来ます。「キッと来る~♫」ですよ。その時にshockを起こさないように、少しづつ、積み上げる方が良いと思いますよ。
買い替えの時期は、その楽器を100%鳴らせるようになった時です。幾ら鳴らしても、それ以上キャパが楽器に無くなった時‥・、そうすると、その楽器は卒業と言う事になります。当然、次のgradeの楽器でないと、勉強出来なくなります。
でも、弦楽器の良さは、Pianoや車と違って減価償却がない所なのですから、それを上手く使いましょう??
銀行に貯蓄するよりも確実ですからね。
楽器は年と共に品薄になっていくので、金利よりも遥かに良いのです。そのために、絵画と同じに投資に利用する人達がいて、Stradivariのようなとんでもない値段がつくのですよ。本体の価値ではないのです。私はそういったbrandを一切信用しないので、作家不詳でもStradivariよりも良い音が出る楽器はStradivariよりも良い楽器なのですよ。ハイ!それはそうと、梨紗さんの弓には、何と、鑑定書がついていたそうです。そのうち探して送ってくれるそうだけど‥・??
昨日 6:17


えぇぇぇぇ!!!
これからお家を購入するので借金まみれです😓
母ちゃん頑張ります。。。
鑑定書付き、、あわわわわ

箱はチェロ!!だったんですね!
3月23日 9:07


Cembaloも、バラで売って来る場合もありますが、それは自主制作の場合で、私達はキットと呼んでいます。超、安い楽器になります。プラモのキットと同じ意味です。ですから、Cembaloの場合には、楽器製作者が自分で材料から作るか、出来上がった物を輸入するかしかありません。でも、もし、キットだとしても、小型の自動車ぐらいの箱になるはずです。
3月23日 9:15

「家、こもごも」Geschwafel(無駄話)

家は人生最大の買い物、とされていて、生涯一度の買い物とされていますが、ヨーロッパやアメリカでは、家に対する考え方が我々日本人とは少し違います。家が大きくなければならないのは、子供達が成長期の一時期の僅か10年間であって、子供達が一人、一人と巣立って行くに従って、部屋は広いと、逆に無駄になっていきます。ちょうどヤドカリのように、自分達に見合った大きさの住まいに買い替えて行くのが、ヨーロッパやアメリカ人の一般的な考え方かも知れません。アメリカにはフロンティア精神という考え方がありますので、定年を迎えたら、家を売ってキャンピングカーを買って、全国を旅しながら、そのまま、旅先の死んだ場所に葬られる・・という発想があります。遠い故郷の家族や近親縁者が墓を訪れるという発想はフロンティアの人達には余りありません。そういった独特の自分の死への発想は、流石に、開拓者達の「旅への誘い」の発想でしょうね。何十万年も昔に、アフリカで産まれた人類の祖先が、南アメリカ大陸の先っポのホーン岬に辿り着いたのは、人類が誕生してから、そんなに経った後ではないのですよね。
先祖代々という心で、土地や家にしがみつくのは日本人特有の傾向で、同じアジア人でも韓国や中国の人達は、土地や家に対しての思い入れは、日本人程は強くありません。遊牧民や狩猟民族にとっては、家や祖先、あるいは土地という概念すらないのですよ。土地が価値を持って、権力に結びついて行くのは、農耕民族になってからの事です。

私にとっては、長崎の街は結構住みやすい街だったので、家を売らないで、・・減築でもして、住みたかったのですが、音楽家としては、やはり地方は不利な街なので、致し方はありません。(家を売らない・・という家は、私の産まれ故郷の家ではありません。それは母が再婚した再婚相手が建てた家です。だから私はその家に住んだ事はありません。なので、家にも然程の愛着はないのですよ。)
しかし、かと言っても、江古田に住まいを購入したからと言っても、江古田の街を「終の棲家」や、故郷にする程の愛着があるわけではありません。人が言う程、私は都市型の人間ではないのですよ。山があって、海があって、釣りと、狩猟が出来るのなら最高!!(「カナダへ行け!!」って??‥・でも、南国産まれの私は寒い所は大の苦手・・です。)

どこか私の理想とする風景にお目にかかって、そこの場所を終の棲家にするのが、夢と言えば夢かも知れませんが、当然、仕事は死ぬ迄、続けて行くのが絶対的な夢なので、仕事も出来る環境というのが、絶対条件になります。
家自体は、農家でも、掘立小屋でも構わないのですよ。電気が来ていて、netが通じれば、今のマンションでも、隣の人を見たことさえないのだから、人の住んでいない環境でも、今とは変わらないのですからね⁉
それに、ウサギ小屋とか、方丈の間と言っても、今でも、私が生活しているスペースは台所一間であって、他の部屋は総て物置になっているのですからね。
昨日 9:46

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3月18日 5:09 ·
昨日(3月17日)のお昼の3時からは、千葉教室でPiano組のlessonだったのですが、
lesson開始早々、バテて意識朦朧の状態になってしまいました。朝が何時ものように早く、午前中に仕事を済ませてlessonに駆け付けたので、体力の限界になってしまったようです。 …というか、午前中に仕事をするのは 毎回のことなので 、本当の原因は その前日に よく眠れなかったことが直接の原因なようです 。
しかし、生徒のlesson自体は、Piano組の生徒達は、私のlessonのやり方で長年の訓練が出来ているので、「始めて組」を除けばlesson自体に支障はありませんでしたがね。

今日の話しの問題点は「帰りの道中」の時の話です。
前回の春待ちコンサートの時の帰りの道と同様に、居眠り運転ギリギリの状態になってしまいました。
事務所に辿り着いて、海苔巻きを2,3個パクついて、大急ぎで、自宅迄バイクを走らせて、パソコンのmail‐checkもしないままに、(ストーブに火も点けないままに、布団に潜り込みました。
・・でも、困った事に、2時間もしたら、トイレタイムで、目が覚めてしまって、またまた、眠れなくなってしまうのですよ。
体調が復調していないのに、眠れないのは、結構問題ですよね。
‥・あまりにも、微熱っぽく、顔が火照っているので、体温計を探して、計ってみたら、何と、やっぱり、7度6分もあった!
これでは「・・っぽい」のではなく「微熱だ!!」
慌てて、薬を飲んだ!!
私の場合には、8度で動けなくなるので、一歩手前と言う事だよな??
急いでベッドに入って、2時間程仮眠をとって、起き出して、仕事を片付けながら、再び体温を計ってみたのだが、相変わらず、7度3分はある。頭部の鼻から上の部分が、重い‥・と言う程ではなく、なんとなく霞んでいる。やはり、微熱っぽいのだな??

「projectorのお話」
それはそうと、自治会館等では舞台が無い(フラットな)ので、小さな生徒さん達が、前列のお客様の頭に遮られて、後ろの客席からは、全く見えません。
これは八千代のコンサートの時からの延々とした課題なのです。
市販の「お立ち台」(コンサート用の・・)を買おうか?とも思ったのですが、幾らcompactに収納出来ると書いてあっても、所詮は舞台の備品としての収納で、大変手間が掛かります。
組み立てる人も、proの大道具の人達を想定しているので‥・。
という事で、昨年のクリスマス会では牧野先生のideaでprojectorを購入しました。
普段のlessonでも威力を発揮出来ると思ったので、明るい所でも見える高性能のtypeのprojectorにしました。

早速、昨日は特別レッスン室にprojectorを持ち込んでlessonを撮影して、lessonの注意事項をprojectorで、videoの再生しながら生徒達に説明をしようと思って、・・ふと気がついたのは、そのlesson風景を撮影するための、videocameraがもう一台必要だ!という事でした。

特別レッスン室のvideocameraは、3ヶ月前に、映像がボケてしまう・・という不具合が出て、修理に出したのですが、また、同じ不具合が出て来たので、修理に出しました。
保証期間は3ヶ月だったので、ほんの何週間かは過ぎてしまっていたのですが、まあ、致し方ありません。

と言う事で、急遽、四日市教室用のvideocameraを特別レッスン室に持って行ったのですが、connector(接点)の部分が、強引な使用で不安定になっていて、これも急遽修理が必要になります。

今度の日曜日は、どのcameraで撮影すれば良いのかな??
そういった楽器だけではなく、電子機器に至るまで、道具の使い方も教室で伝授しているのですが、四日市迄は、配慮が行き渡らなかったようです。lessonがタイムラインで目いっぱいな時に、道具の使用法や、ノートの纏め方、或いはパソコンの使い方等々を指導するのは、不可能なのでね。
「椎名町詣」の上級生に時間を掛けて指導して、その先輩達から指導をさせる・・という方法が一番効率的で、学校の集団指導の時にも、そのやり方を取りました。しかし、本当は学校教育の場では、リーダー教育をやってはいけないのです。熱心な生徒も勤勉な生徒も全然やる気のない生徒も等しく平等に指導しなければならないのです。軍隊でも自衛隊の大学、所謂、防衛大学は幹部候補生を育てる場所なのですよ。一般の自衛隊員とは違って、指揮をするエリート達として教育するのにね??



ビデオカメラお貸ししましょうかー?
3月18日 22:54

いえいえ、lessonのcheckに撮影をしなければならないので、持っていてください。使い回しで、花園教室のvideocameraを使用するか・・でなんとか切り抜けます。2台同時に故障するなんて‥・驚きです。
3月18日 23:34

大丈夫です、二台あります。
必要な時は仰ってください。
3月19日 0:11

了解しました。都合がつかない時には、是非お願いします。
3月19日 2:19

今日は発表会直前の総合練習②の前の金曜日です。分かり易く言うと3月の24日、四日市教室用のvideocameraを修理にビック・カメラに持って行きます。発表会費を切り詰めるために、今までウン十年videoの撮影をお願いしていた業者さんをお断りして、教室で自主撮影をする事にしたので、パソコンに編集softを入れて、4Kのvideocameraを買いに行きます。videoのrecorderの方が、未だ4Kの対応になっていないので、撮影した動画は4KのままではBlu-rayに焼く事は出来ません。フルハイビジョン画質に落として焼く事になります。此処らは、videoのdeckが対応が遅れているのですよね。

videoの撮影と動画の編集は、私が一人で担当する事になるので、softに慣れる迄のしばらくの間は、しょぼい事になりそうですが、温かい目で気長にお待ちください。努力はします。一応・・・!!!
昨日 12:09

撮影と編集お一人で!!?益々寝られないのでは!?
昨日 21:12

動画の撮影と編集は、発表会費の中の負担額でも、結構neckになっていました!!
それに、業者の人のディスクの編集が遅くて、次の発表会の直前に、やっとディスクが出来上がって、生徒達に渡すのでは、困ってしまいますよね⁉最悪でも、納品は一カ月以内だと思いますがね⁉
しかし、専門の業者とは違って、本格的な動画の編集は、私は一度もやった事がないので、慣れる迄は、とても大変です。先生達や生徒達に手伝って貰うにも、ソフトの説明とかの操作法は、私がやらないといけません。
昔々、教室にパソコンを導入するために、業者を雇って、ソフトを作らせながら、斉藤先生達に、パソコンの使い方を、100万以上のお金を払って、毎週指導させた事があります。それも、一度ではなく、二度も雇って見たのですが、一年間かかっても、二年間かかっても、先生達はパソコンを使いこなせるようにはならなかったのですよ‼教室の事務作業のソフトのプログラミングを説明して、業者は「簡単です‼」と言うのですが、どの業者も、私のプログラミングを作れた業者はいないのですよ‼200万、300万以上のお金が、全く無駄になってしまいました‼
仕方がないので、私がジャパネットで、撮影のために使用したノートパソコンを買って、パソコンの使い方を、自分なりに研究して、斉藤先生達にパソコンの使い方を指導しました。私にとっても、生まれて初めてのパソコンだったのですが、パソコンの原理を理解しておくと、パソコンを使いこなすのは簡単なのですよ‼パソコンは、単なる計算機に過ぎないのです。車の運転と同じなのですからね⁉ハンドルを右に回すと、右にしか回らないのですからね‼
23時間前 · 編集済み

確かにビデオの出来上がり遅いね、、て保護者間でも話題になっていました。
発表会費は抑えられたら嬉しいですけれど、先生方のご負担も増えるとなると申し訳ないような気がしますが、そろそろ3人で二桁の会費になりそうなので、、、やっぱり有難いです(T . T)
14時間前

発表会に対しての考え方が、一般の音楽教室と私の考え方では根本的に違っています。

一般的には、生徒達の日頃の練習を発表するという名目上のCeremonyとしての発表会になります。
そういった生徒の発表の場としての発表会は、生徒が発表会に向けて練習して来た曲を演奏すれば良いのだから、先生も生徒も(保護者の方も)とても楽で良いのです。「え~っ?うちの教室の選曲と何処がちがうの??」と疑問に思われるかも知れませんね~ぇ??
一般的な発表会に向けての選曲は、子供達が上手に弾ける曲で格好良い曲を演奏させます。
しかし、それでは音楽を専門的に勉強しようと思ったとしたら、選曲になんの意味も見えて来ません。ですから、他の音楽教室では発表会を機会に、音楽の勉強を止めてしまう人が多いのですよ。
発表会費も、ほとんど教室とは変わりなく、1万円近くか、それ以上収めなければなりませんが、実際に舞台に出るのは3分ぐらいです。
その3分を演奏する力のない生徒は、同じmelodieを楽譜通りに、何度も繰り返させる事で時間を稼いでいます。
私達の教室では、小学生の生徒達でも、音楽を専門的に勉強している生徒さんの時間数を出演時間で単純計算すると、一人、ゆうに2時間を超える生徒が多数います。
2時間という時間は、春待ちコンサートや八千代の対外出演でもお分かりのように、演奏のprogramの必要最低時間なのです。
でも、一人で、2時間の演奏時間をコンサート会場で借りたとしたら、発表会費は莫大な金額になります。つまり、音楽大学を卒業した学生が、卒業の記念に演奏会を企画しますが、これが100万では押さえられないのだよね??
そこに芦塚magicが登場して、室内楽やorchestra等で、みんなで演奏するから、なんとか発表会費を頑張って押さえ込む事が出来るのです。
しかし、みんなでensembleをやるだけで、発表会費が賄える分けではありません。そこにも芦塚magicに拠るtrickがあって、発表会費だけでは、賄う事が出来ない諸費用を、薄利多売のチマチマの写真代や、その他の経費で、頑張って(±)0に限りなく近づけているのですよ。
そういった私達の教室の経営のための努力は一般の音楽教室の先生達には理解出来ません。
だって、一般の教室の発表会には、会場費とprogramの印刷代以外は何も掛からないのですからね??せいぜい、外注した写真屋さんに対してのpayぐらいですかね。
だから一般の音楽教室では、発表会を開催すると、先生達は〇〇◯丸儲けなのですよ。

しかし、orchestraや(もし、あったとして)室内楽の演奏会では、必要経費が莫大なものになるので、個人の音楽教室で運営するのは無理なのです。
ですから、当然、習志野や千葉のように、少年少女のorchestraは、市や県の(或いは学校の)back・upの元に運営される事になります。
しかし、そこで指導する先生は、それぞれの楽器の先生がそれぞれのmethodeで指導される分けなのですから、orchestra全体としては、一人一人がバラバラの演奏のmethodeで演奏する事になるのです。
私達の教室のorchestraが芦塚メトードによるorchestraで、単一のmethode上に成り立っているorchestraである・・という事は、世界を探しても見つからないorchestraだと思いますよ。
それこそ、Vivaldi先生以来の単一のmethodeに拠るorchestraなのです。
コンサートの経営、運営と言う事についてもう少し触れると、昨年の秋の、baroque‐concertoでも、経費は教室からの散財で、ticketを売っていないし、募金もsponsorもいない、典型的な自主公演の赤字経営なのですからね。
楽譜代から練習費、運送費に至る迄、総てのアゴアシが、教室の負担なのです。教室の負担と言う事は取りも直さず先生達の負担なのですよ。
よそさまのように、募金箱を入り口に置いたりしないと、全部先生達の負担になってしまいます。
勿論、先生達の対外出演は、これは営業活動なので、ちゃんとアゴアシも出るし、当然、収入になるのですがね。そこに生徒達を出す事はありませんからね。これはpro活動なので・・ね??
13時間前 · 編集済み

まっ、「体力の限界!」と言うまで頑張りますかね!!ハイ!
13時間前


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3月20日 16:20 ·

今日(3月20日)は、またまた
オケの総合練習①の次の日の月曜日!!です。
日曜日はオケの練習迄はなんとか体力が持ったのですが、その後の室内楽の練習は、体力が切れてしまいました。
なにせ、微熱っぽくって、薬を飲もうと思ったのですが、検見川教室に常備されているはずの風邪薬が何一つ無かったのですよ。普段は、私も必要最低限の薬は持ち歩いているのですが、昨日に限っては、どういう分けか、一つも持っていなかったのです。超、shock!!
という事で、流石に月曜日は、バテて寝込んでいたのですが、やはり、4時頃には起き出して(勿論朝のですよ‼)、そのままにしていた昨夜の(とは言っても3時間前の)後片付けと、またぞろベッドに潜り込む事を一日中、繰り返しています。それにしても頭頂骨の右中央部の帯状疱疹の後が、昨夜から時々痛むのですよね??再発しているような感じではないのですがね‥・??
なんか、千葉行きの度に、体力の限界・・って言っているけれど、何時からそう言い出したのかな??Facebookを書き始めた頃はそんな事は言っていなかった気がする、‥・という事は、この1,2年の間かな??多分、去年の7月30日の四日市の旅の後遺症が未だ治っていないような感じがするのだけど・・。その前には、そんな話は書かなかったような気がするのだが‥・。
ウン、checkしてみよう!!

Facebookを書き始めたのは、14年の9月からです。12月も冬休みに入ってから、風邪で熱を出して寝込んでいるようですが、それ以外では、やはり鬱は酷いようだけど、今回のような風邪かなにか分からないけれど、酷い病気の症状が続いた事はないようです。
やはり、・・昨年の7月30日からの最後の故郷への旅の初日の四日市での病気から、未だに延々と続いているようですね。


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3月22日 19:36 ·
いや~ぁ、弓選びの帰りに寄った代官山のお店の凝った
ブルーベリーヨーグルトのパンケーキの香料がキツ過ぎて、胃酸が出て吐き気がするぞ!!ハーブやミントも入れ過ぎると胃に良くないのだがね!!パンケーキもお洒落な分、若者向きで、俺には合わないなぁ!!simpleが良いなぁ! 


先生―!今度代官山のときはご一緒してみたいです!
3月22日 21:23

有難う!是非!是非!
3月22日 23:02

昔はパテシエの美味しいお菓子の上品なお店があって、楽器を買ったりする度に、そのお店で生徒達とお祝いしていたのだけど、別のお店になってしまって、行きつけの珈琲屋さんがなくなってしまって、それ以来困っています。有名なお菓子やさんにも何度か行ったのだけど、チョッと味が合わないのよね?
3月22日 23:06

そう言えば、千夏ちゃん、美味しそうなアボガドのサラダの写真撮っていたよね??載っけて見てよ!
3月22日 23:08

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3月23日 7:48 ·
昨日は芦塚先生と梨紗さんと弓を選びに行きました。
弓がたくさんあって選ぶのが難しかったけど楽しい時間でした。一回梨紗さんの楽器を弾かせてもらったら音が良すぎてびっくりしました!バイオリンも欲しくなってしまった…。
その後代官山のおしゃれなカフェでサラダをご馳走になりました!美味しかったです。ありがとうございました。

  



梨紗さんの楽器はこれで無事、親の出す最終楽器になります。後はもっとお気に入りの楽器があったら、これからは、自分で買えるはずです。
千夏ちゃんは高1なので、未だまだ上手になるので、少しづつ徐々に・・で良いと思いますよ。
それはそうと、「楽器選び」には、千夏ちゃんは、未だ同行した事はないので、弓を選ぶのはとても、難しかったと思いますが、社長の年度末決算セールのサービス(これは冗談ですよ!)でoldのbowを出して貰って(oldの弓の出る範囲ではなかったのだけどね‥・??)、新作のbowとoldのbowの中から、best‐choiceを選び出したのは、流石だと感心しました。大分、弓の事が分かって来たようですね。

高い方の弓はold‐Hillという有名な弓で、社長は「売る時に売りやすいし、名前も知れ渡っているからHillにしたら??」と言っていたけれど、「もう一つの弓の方が弾きやすいから」と安い方の弓にしたのは正解です。
old‐Hillは、新作のHillと違って、見た目には、見るからにfrench‐bowのような格好をしていましたが、実はHillの弓は基本的にイギリスbowで強弓なので、3点支持の方が合っている弓なのです。
力でバンバン弾いても負けない弓なのです。
もう一つの千夏ちゃんが選び出した弓の方が、勿論、これもoldのbowなのですが、french‐bowなので、教室のmethodeに合った弓になるので、実際に教室で1点支持の奏法を学ぶ時には、こちらの方が弾きやすいはずです。という事とで、その弓を探しだした千夏ちゃんの弓の選択も正解です。
中々のモンです!!
3月23日 10:37


今回初めて自分で弓を選びに行ってとても勉強になりました。良い弓を選べるか自信がなかったのでほっとしています。楽器選びの際にもよろしくお願いします。
3月23日 21:53


一般的にはproの演奏家の場合には、2,3本選び出したら、その楽器や弓を1,2週間借りて、自宅に持ち帰って、弾き込んで決めます。でも、最初の1,2時間で決められないものを、1,2週間弾き込んでも決められる分けはないのですよ。何をcheckしなければならないのか?何処を見たら良いのかが分かってなければ、それこそ1年間弾き込んでも無理でしょうね??アハッ!
3月23日 9:25


気に入ったものに決まったみたいでおめでとう^^新しい楽器や弓ってわくわく嬉しいよね!
わたしも行きたかったー!!実は芦塚先生や斉藤先生がどう選ぶのか見たことないんです。
3月23日 9:46


lectureをするためには、情緒的な指導や感情的、(所謂、「経験だよ!」とか言う話を省いて) かなり合理的な選び方をします。
斉藤先生や牧野先生に教える所から始めたので、情緒的、感覚的な所を極端に避けて指導しました。
楽器を選ぶ人は、自分の好みが優先するので、とんでもない買い物をする事がよくあります。
もう40年以上も前の話なので、時効だと思いますので、お話しますが、某都立のorchestraのconcertmasterが自分の楽器が気に入らないからと言って、下取りに出して楽器が見つかるのを待っていました。
その頃は今の社長ではなく、先代の社長だったのですが、その楽器をnecの調整と色がとてもよくなかったので、楽器の色の塗り替えをして、音の調整をして、売り安い楽器に変えて売りに出したのですが、それを見た彼が、「これこそ私の求めていた楽器だ!」と喜んで買って行きました。
手直しだけなら、もっと安く済んだのにね??
この話が内緒!と言うのは、orchestraのmemberが全員その話を知っていて、concertmaster本人だけが知らない話だったからです。
都市伝説みたいなものかいな??
3月23日 10:13


という事で、「弓選び」の一番目の作業は、完全に力を抜いた状態で全弓を弾きます。
これで、弓の「抜け」を調べます。
多くの弓はSpitzeに指先の力が入ってしまいますが、これも「抜け」の一つの表れです。
中には、真ん中や、上1/3の所で弓が抜ける場合もあります。いずれにしても、全弓総てが均等にならなければなりません。「抜け」がないとしても、力のbalanceが崩れても駄目なので、100万以下の弓では20本、30本の弓からselectしても、約、90%の弓がこれで脱落します。
このいとも簡単な試奏に合格した弓は、その後のテストの「飛ばし」や、「clip」で抜ける事は少ないのです。「飛ばし」は、flying‐staccatoやleggieroの奏法を含みます。clipは突き弓も含みます。
それに、「飛ばし」やclip、突き弓が、上手く演奏出来るか否かは、弓の性だけではなく、楽器との相性もあるので、生徒の楽器の弓を購入する時に、自分の楽器で試演しても、評価は出来ません。
後は、良い弓になって楽器との相性も合えば、遠音(とうね)の効く音が出るはずなのですが、これは自分で聞く事は出来ないので、私は斉藤先生に演奏させた時に一番遠い場所で聴きます。
そうすると、音の伸びの特性が視覚的に見えて来ます。
つまり、この楽器はどれぐらいのホールで最大の効果を出すか??という事です。
Piano等の録音の場合には、マイクを響板の中に突っ込んで録音しますが、弦楽器の場合には、響鳴した音がその楽器の音なので、会場のその楽器が最大に響いている場所で録音をすると良い響きがします。(但し、soloの場合だけの話ですよ。)
室内楽の場合には、それぞれの楽器の響くpointが違うので、混合された場所で録音するか、それぞれの楽器に向けて原音を撮って、音を分離させるか?のいずれかです。
そういう目で見ると、ヨーロッパの録音では弦楽四重奏の録音が、orchestraのように混沌としていたり、逆に、orchestraを弦楽四重奏のように分離させて録音しているレコードがあったりして面白いですよ。
3月23日 10:34


そうそう、智さんの弓は、私が偶然カンダに行った時に、偶然見つけて、パパに「即、買いなさい!」と電話して、即決した弓だもんね。「小学生には売らない!」と大分、社長のお姉さん達に、ゴネられたのだけど、パパさんに「札びら切ったらこっちのもんよ!」と言って、大急ぎで振り込んで貰いましたっけ??・・パパの英断よ!!感謝!感謝!
3月23日 10:43

ありがとうございます。
新しい弓で練習楽しいです!
弓を買ったら楽器も欲しくなってしまいました…。
3月23日 21:59

弓の選び方で一つ言い忘れていましたので、追加します。
selectする弓を、最初に持つ時に、「ふ~わっ!」と弓を持つと、弓の軸に対して、垂直に持てるのですが、弓を持とうとすると、それが少し演奏する時のように角度が付いてしまう弓があります。
つまり、弓を持った時に捻りが入るのです。
3点支持では、力で持つので、この感覚は分からないと思いますが、このtypeの弓は、必要以上に人差し指に力が入って、手首を傷めたりする悪弓なのですが、100万迄の弓ではこのtypeの弓が未だ結構残っていたりします。3割り程度はこのtypeの弓である事が多いのです。
私はこの手の弓は最悪の「手を痛めてしまう弓だ」と思いますが、弾く前に持った感触で分かりますので、その弓をcheckする事はありません。
弓を選ぶ前に、サッサとcheck対象から外してしまいます。問題外として・・・
昨日 19:53 · 編集済み

梨紗さんや千夏ちゃんが地下のホールで弓を選んでいる間に、真雅ちゃんのcelloの弓を選んでいたのですが、先生と来ていた小学1年生の女の子とお母さん、先生が楽器本体のviolinを選んでしまったら、弓を選ぶ前に、先生さっさか帰ってしまったみたいで、女の子とお母さんが弓を選ぶのに困っていました。私に「どういう風に弓を選んだら良いですか?」と聞いて来たので、「弓の選び方は、先ず最初に・・」と言いかけてハタと困ってしまいました。
お母さんは、多分violinが弾けないのですよ。
社長がやって来たので、これ幸いに、目配せをして社長に丸投げをしたのですが、社長が弓を持ち上げるだけで、「これは駄目!」と言って、先ず3本を外しました。女の子は驚いて、「持っただけで分かるの?」とビックリしていました。社長は例の通り、ガリガリと弾き捲って、残りの3本からbest‐choiceを出しました。
聞くと、小学1年生だ、と言うのに、3年生ぐらいの背でしたよ!中々上手な子でした。air‐varieを弾いていたな??
3月24日 19:53

「いい弓の選び方」も「いい楽器の選び方」も、普通はどこに行っても教えてもらえるものではないものね!
ということで、千夏ちゃんのヴァイオリン選びの機会も勉強したいので是非同行させて下さい!!
3月23日 11:40

そうですね!私もとても勉強になりました。

梨紗さんがいてくれたらとても心強いです。ぜひぜひ楽器選びの際一緒にお願いします。
3月23日 22:01

弦楽器の選定や弓の選び方は、知識と経験に基づいたsoftになるので、演奏家でも知らないし、その選び方は中々出来ないのです。
だから、殆どの先生達は自分の好みを生徒に押し付ける事になるのですよ。
「どの弓が一番なの?」って、そこは社長に聞いても教えてはくれません。だって、それは、個人的好みの問題だし、また選定の方法は、secretの部分なのですからね。
という事で、一般的な先生の場合には、個人的好みなので、判断するので、その選定の基準が正しいのか間違っているのかは、本当は分かりませんよね。でも、社長は私達には総ての弓の値段と製作者を教えてくれるので、どの弓が正解だったかは、100%分かるのですよね。
梨紗さんが1本だけ紛れ込んでいた、もう一つ上のrankの弓をbest‐choiceとして選んだ‥・という事は、私の回答ともあっていて、正解だったのですよ。つまり、情緒的好みではなく、ちゃんと選べたのですが、何処が他の弓と比べて優れていたのか?という事迄、突き詰めて説明出来るようになると、より良いと思います。
私の場合には、一番高価な弓や楽器よりも、別の楽器をselectする場合もよくあります。楽器は値段ではなく、性能なので、作者が不詳でも、時々、優れた楽器が手に入る事があるのです。だから、私は全く鑑定書を信じないし、製作者が誰であろうと、良いものは良い・・と思うのです。そういったbrandに頼らない目を養う事が大切です。
3月24日 23:35



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3月25日 23:29 ·
「物忘れについて」無駄話し

「物忘れ」をする人、しない人には、それぞれタイプがあるように思われます。
物忘れをするtypeの人は、常に毎日と言ってよいくらい物忘れをしていて、忘れないtypeの人は滅多に物忘れをする事はない‥・という事が言えるからなのです。

一般社会では、「物忘れ」をしないようにするためには、「memoを真面目にちゃんと取る」という事が言われているようですが、私の場合は、その取ったmemoを持ち歩くのをよく忘れてしまって、「何のためのmemoか?」と怒られる事がよくあります。

何故、memoを持ち歩くのを、よく忘れるのか??
それは、私は高校生の頃から、「33歳の壁」※1)を越す迄は、memoを取った事がありません。記憶力が優れていたわけではありません。学校の勉強でも、英語や歴史等の記憶に関するものは苦手だったからです。
ただ単に、memoの必要な事に関しては、物忘れをしない性格だったからです。

「蛇足」
memoの本来の意味ですが、memoは「memorandum」(覚書)という意味になります。 「memoをする」というのは和製英語としての使い方であって、正しくは英語では「take note」「note down」等と言うべきでしょうか?つまり、memoという単語は使わないのですよ。noticeという単語の方が良いのかな??
「memorandum」の語源ですが、ラテン語のmemorare(思い出す)から来ていると言われています。
memory(記憶)も、同じ語源です。
もう一方のnoteは、ラテン語のnota(しるし)、notare(しるしをつける)が語源です。
日本では、memoは走り書き、noteは記録する
というimageですが、noteは「記録」、memoは「記憶」という意味と言っても良いかもしれません。

しかし、流石に、齢い33を迎えると、周りの同世代の友人達と同様に、物忘れをするようになってしまいました。
そこで、産まれて初めて「memoを取る」ようになったのですが、それまではmemoを取る習性も、持ち歩く事も無かったので、(学校で黒板に書かれた物をノートに書き写す・・という習性も持ち合わせて、いなかったので・・・)※2) memoを取る、という癖が全く無くって、折角、memoを取った・・としても、本当に必要な時にはそのmemoすら見つからない・・という情けない状況でした。
そこで、私は私なりの、物忘れをしないようにするための、別の方法論を探す事にしました。memo帳を持ち歩かない‥・、つまり、書く物、書かれる物を持ち歩かないのだから、必ずその時に持つている物でなんとかする他はない‥・という事です。…と言う事で一番持ち歩く物‥・つまり、携帯です。携帯の中にあるmemo帳に入力したり、音声で保存したり、一番は、自宅のパソコンにmailをする‥・という事です。しかし、その携帯さえよく忘れるのですよね。その場合には、近くにいる先生や生徒に自宅のパソコンにmailをさせます。

兎に角、その場でmemoを取るのがコツです。
後で書こう、なんてそんな**(悠長?不遜?ルーズ)な事を考えていては、memoなんか取れる分けはないのですよ。

もう1つの問題点は「物忘れ」をする人達には、「物忘れ」に対しての価値観が、希薄である‥・という事が言えるようです。
つまり、「ハンカチ、ちり紙を忘れた」・・と言う事と、「仕事の道具を忘れて、仕事に穴を開けた」・・という事を、同じ価値観の比重としての評価をするのではなく、価値観を、ハンカチ、ちり紙の必要性と仕事の重要性との価値観の軽重で判断するのです。という事で、当然、価値観の軽いハンカチ、ちり紙は「忘れた」という事は、無視されてしまいます。
それが、「物忘れ」という癖から抜け出す事を妨げているとしても・・です。

私は音楽家という立場から、音楽教室を開設するづ~と以前から、弟子や内弟子達を指導してきました。

音楽の指導者と言う立場では、直接的には、この「物忘れ」と、指導者としての立場は関係のない事のように思われるかも知れませんが、指導の仕方そのものは、一事が万事、物忘れの指導と全く同じ原理に基づくものなのですからね‼

よく弟子を指導する時に、私は生徒の犯した、取るに足らないような些細なミスを、何時迄も根に持って、グダグダと注意やお説教をしていたので、私は、そういう凄く細かい面倒くさいtypeの人間に思われていたのかも知れません。

でも、私がそんな小さなどうでも良い事をくどくどとcheckする、その本来の意味は、「そんなに簡単で、どうでもよい事を、ちゃんと治す事」が、大変な事を大変な思いをして、正すよりもすこぶる簡単だから」なのですが、そこの所が、弟子達には、中々分かって貰えません。

楽譜の暗譜でも、上級生達は完璧に暗譜するので、度忘れをする事はありません。
しかし、その上級生達でも、意識が全く音楽以外の所に行ってしまうと、起こすはずのない「度忘れ」を起こしてしまうのです。
人間の意識と言うものは恐ろしいものです。
どんなに、努力をして、習得した技術でも、心が逃げた瞬間に崩れてしまうのですから、人の心と言うのは、或る意味、怖いものですよね。

しかし、繰り返しのお話になってしまいますが、「どうでも良いこと」を何度も注意する・・という意味は、その「どうでも良い事」をちゃんと出来るようになると、「本当に難しい事」でも、簡単に出来るようになる・・という事なのだからです。

本当に大切な難しい事を、ちゃんと落としをしないで、やる事は、とても難しいし、大変な事なのですが、どうでもよい事をちゃんとやる事はとても簡単な事です。
でも、そう言った簡単な事が、ちゃんと出来るようになると、本当に難しい事でも、簡単に出来るようになるのです、というお話なのですが、誰も信じてくれません。困った事です。

人が人生の道を踏み外す時も、外の人にはよく見える事が、本人には些細などうでもよい事のようにしか、見えないからなのです。だから、ついつい、物事を軽く捉えてしまって、取り返しのつかない事になってしまうのです。

これは「ハインリッヒの法則」に非常に近いものがあります。
車の事故でも対人事故を起こしてしまっては、もう、取り返しが付きません。
軽い接触事故でも、同じです。
でも、「ヒヤリ!」とする一瞬があった時に、その日一日を、同じ「ヒヤリ」を繰り返さないように、細心の注意を払って運転すれば大事故を起こす事はありません。
でも、それだけ注意をしたとしても、現実的には、それでも、人様からの「貰い事故」というのがあって、防ぐ事の出来ない事故もあります。
それでも、自分が事故の加害者にならないように、細心の注意を払うべきです。

車の事故のお話は、音楽の演奏のお話にも通じるのです。
教室では、お姉さん達が、小さな子供の伴奏をする時には、その生徒が間違うであろう箇所と、どのように間違うかを、lessonで、シミュレーションをして、その対処法をlectureする事があります。

ある時に、斉藤先生が、伴奏をする生徒に、伴奏をする子供の当然間違う箇所に付いての、lecturelessonを見学していた先生が、「生徒が間違うであろう・・という前提で、lessonをするのは許せない‼」と怒り出してしまいました。
斉藤先生が、「子供の場合には、幾ら完璧にlessonをして、教室のlessonでは間違えなくなったとしても、本番では、色々な要素が絡んで来るので、間違ってしまう事があるのですよ‼」と、幾ら説明しても、とうとう、分かって貰えませんでした。
その先生の辞書には、「risk管理」という言葉はないのでしょうね⁉

音楽で度忘れしない演奏をするためには、毎回のオケ練習で、でも、子供達に言い続けているように、自分がしっかりと覚えている所と、何となくの「ウル覚え」の場所が分かるようになる事なのです。(これは暗譜のお話だけではなく、演奏そのものにも同じ事が言えます。)

誤解の無い様に、確認をして起きますが、私は「確実に覚えなさい」と言っているのでは、ありません。
自分が「忘れた!」と言う事を、「意識的にせよ、無意識にせよ、「価値付け」をしてはいけない!」・・という事を言っているのです。

人が、気にも留めない「うっかりミス」を犯さないように気を付ければ、人生にも影響するような重大な事故を起こす事はなくなるのです。

昔の人が「君子、危うきに近づかず」と言ったのも、不必要なミスや危険を避けるという意味で、この事故を起こさないという意味と同じ意味になるのです。

日常のどうでも良いような事でミスを回避するための練習をすれば、ハインリッヒの法則のように、大事故を回避する事が出来るのですよ。
でも、人はありとあらゆるミスに付いて、価値付けをして、軽重を問うのですよ。
それがなくならない限り、ミスはなくなりません。

あと一つのadviceは、一括管理をする事です。
一括管理をすれば、checkするのは、一箇所で済むからです。
教室の子供達が譜面を忘れたり、よくしますが、教室に持って来たのはなにか?と言う事を理解していれば忘れる事はないはずです。

弦楽器の生徒は楽器と楽譜とそれから‥・??
私の「時短」のmethodeでは、数で覚える事が出来ます。

でも、今の子供達は、物に満たされて生活をしているので、物に対しての価値観がありません。
だから、教室には鉛筆や消しゴム、ボールペンの雑多なものが山のように溜まって行きます。
時々、「あっ!!これ、私の‥・!!」と言って、持って帰る生徒もいますが、それは稀な事です。殆どの生徒達は自分が忘れた事、失くした事すら気づいてはいないと思います。

楽譜を忘れたり、弓を忘れたりする子供は、決まっているのですよ。思い当たる事はないかな??アハッ!
つまり、最後のcheckをしないで、別の事に心を奪われているからです。

私がlessonの時に使用する楽譜を準備するのには、前日は当然ですが、2日前から準備する事もあります。
楽譜を本棚から出さなければならない場合です。(普段lessonで使用する楽譜は、パソコンの後ろの食器棚の上にオケ練習用、室内楽用、soloのlesson用、periodの上級者用と、分類されて置かれています。
私は物を探すのが大嫌いで、時間の無駄としか思わないからです。
1時間その楽譜を探したとすれば、lesson代としてのrunningcostは幾らになるのかな??幾らの損失になるのかな??という事です。

コクヨのカタログに大手の企業が3分間、書類を出すのに掛かったら、企業としては幾らの損失になるか??という事がページの冒頭に書かれていて、超、shockでしたよ。数億円の損失になるのだそうです。
それに、追記をするのならば、「物忘れ」をした場合には、もう一度、同じ行程を歩かなければならないという二重の手間が掛かります。私の「時短の法則」では、一行程で済ませられる仕事は、纏めて一行程でする・・という原則があります。
例えば、ビック・カメラに行くという用事があったとします。私のパソコンにはmemo帳に「ビック・カメラ」というTitleのfileがあって、そこに、ビック・カメラでする買い物が教室用であろうと、privateであろうと、総て書き込まれています。私は体調が不良で、池袋迄買い出しに行く事が中々出来ないので、体調の良い時に、纏めて総てのビック・カメラの「買い出し」を一括してします。
しかし、もし、私がそこで、忘れ物をしたとしたら、次の池袋行きは何時になるかは、分かりません。多分、3ヶ月後、ぐらいになるでしょうね??教室のeventだったら、当然、もう終わっています。だから、「忘れる」という事は許せないのですよ。膨大な時間の損失なのですからね???

先生達でも、忙しいlessonや事務の作業の中で、物を忘れたら、それまでの作業の時間や労力は無駄になってしまいます。それを無駄だと思わない‥・という事が不思議で仕方がないのですよ。私なら、絶対に許せないのにね。時間を失うと言う事は‥・・???

だから、教室でも(事務所でも)楽譜や書類を探すという事は、3分以内でなければならないのですよ。
もし、それが3分以上掛かるのならば、そこには改善改良、或いは意志の改革が必要なのです。

でも、確実にそこにあるべきものがあるためには、確実にあるべきものをそこに戻さなければならないのです。
そこら辺・・ではなく、そこに・・です。
物忘れをする人は、自分がどこからそれを取ったのか?を覚えていません。だから、多分此処ら辺にあったのではないだろうか?という曖昧さで返却します。だから二度と出て来なくなってしまうのですよ。いつも言うように、私の場合には、目が弱いので、メガネを掛けないと、棚の本のTitleも読む事が出来ません。だから、何処の棚の何番目・・という覚え方をします。だから、真っ暗な中でも本を見つける事が出来るのですよ。でも、このお話は記憶力のお話をしているのではないのです。前にも書いたように、歳を取ると覚えるのが苦手になってしまいました。だから覚える必要はないのです。整理なのですよ。確実に同じ場所に戻す・・それを守れば、何万冊の本が棚に並んでいたとしても、確実に手にする事が出来ます。

「3分の時間をそんなに‥・、後生大事にしてもね~え??」という声が聞こえて来るようなので、私の子供時代のお話を少ししましょうね。

昔々、故郷の実家で、祖母から、玄関に靴を外側に向けて並べておく事の意味や、布団の枕元に次の日に着る服を、きちんと畳んで置いておくことの意味を教わりました。
それは、もしもの事があった時に、・・地震や火事等で、一分、一秒を争う時に、靴が横を向いていたら、その1秒で命を失くすかも知れないという江戸時代からの知恵と知識だったのですよ。
でも、それは江戸時代のお話ではない事は、皆さんよくお分かりのはずですよね。

今回の津波のお話や、糸魚川の大火は、一瞬の判断の遅れで、命を落とした人達の話を、よく聴きますよね。
でも、普段、人は、それが何時か自分に降り掛かるとは思わないのですよ。
思わなくても、「祖母の教え」‥・という事で、ちゃんと守っている人は、津波でも生き残っています。
今回も、お役人や学者先生達の見解では、「そういった想定外の事は原則としても、起こらない」・・と言っていて、「有り得ない事が起こってしまった」・・と弁解していますが、実はそうでは無かったのですよね。
ちゃんと、400年、500年前にも、今回と同じ所まで、津波が来ていたのですよね。
古文書にはしっかりと書かれているし、それを後世に伝えるために建立された神社もあるのにね。
お役人や、学者先生は、歴史に学ぶ事はないのですよ。
何のための学問をするのかね??勉強の意味は何なのかね??

なんのお話をしているの??って??
音楽でも、人生でも、総ては、その人の生き方の問題なのだよ‥・というお話をしているのです。

「忘れる」と言う事も、「ミスを犯す」と言う事も、「timingを逃してしまう」という事も、根本は全部同じ所に原因があるのです。
その原因を治せば、同じような色々なミスも同時に治す事が出来るのです。

そんな効率の良い所謂、「王道のお話」なのですが、人は、末端のどうでも良い事をウダウダと治そうとします。
それは時間の無駄なのですがね~ぇ??

「忘れる」‥・という事を恥じる人は、忘れる事はないし、「そんな、些細な事をウダウダと・・」と言う人は、結局大きな致命的なミスを犯してしまいます。

その時に、つべこべと、弁解しても誰も聞いてはくれない!!って幾ら言っても、分かって貰えないのよさ‥・・!!

つまり、結論から言うと、「物忘れ」をする人は、幾ら「物忘れ」の価値を述べても、「物忘れ」が治る事はない!!という結論です。

その人は自分のweak point(弱点)を弱点と感じないから、その人の弱点なのですよ。

弱点は基本的に、必ず克服する事が出来ます。
弱点はその人が「どうでも良い」と感じているから、治らないのです。弱点を直すのは、癖を直すのと全く同じで、気づいたら、ちゃんと修正をしなければなりません。でも、弱点を治せない人は、それを治そうとしたけれど、治らなかった・・というのが、その人達の弁解の言葉です。
癖を直すのは、大変な事ではないのですが、持続力が必要で、根気が必要です。

心理学の世界では、或る人が弱点をcomplexと感じて、それを治そうと努力を重ねて、その弱点が、人よりも優れた結果を出す事を、過剰保証という言い方をします。盲目の名オルガニストであるHelmut Walcha等がそうです。

私も高校、大学時代には、とても手先が不器用で、仕事が遅くて、苦手だったので、その不器用さを改善するために、「時短」のmethodeを作ったり、文字を書く速度を上げるための、単語登録の文字の省略法を作り出したり、平行作業のやり方、等々無数の「時短」のmethodeを作り上げました。
だから、今では、先生達や生徒達が1月掛かる作業を、1日、2日でこなす事が出来ます。

元来、先生達や生徒達は、私よりも、器用なので、私の「時短」のmethodeを覚えてくれたら(実践してくれたら)私の2倍も3倍もの速度で、より良い仕事を熟す事が出来るはずなのですが、器用な人達は、自分が不器用だとも思わないし、「時短」が必要だとも思わないので、私の仕事のやり方を覚えようとはしません。
(しょうとしても、how-toを見て見るだけで、実践しようとはしないのですよ。)つまり、必要とはしていないのです。
普通だから、劣っている・・とは思わないのですよ。
「必要は成功の母」とよく言いますが、「必要としない」から「成功する」事もないのですよ。

※1)「33歳の壁」という言葉は、私の高校生、大学生の頃からの持論で、私の場合の人生の転換期を33歳に定めていたからです。私が音楽家として、生活が出来るようになるか否かを、高校生、大学生の時には、「33歳までに」・・というtimelimitを設けて、それまでに音楽家として、生活をするのが可能で無かったら、普通の生活をする‥・と、決めて音楽の勉強に邁進して来た分けです。33歳と言うのは、夭逝した多くの作曲家の年齢が33歳(実際には34歳)であり、私の生みの親である父が原爆で死んだ年齢も33歳であったからで、私に取っては33歳が人生の折り返し地点であるからです。次の折り返し地点である66歳もあっと言う間に過ぎてしまいましたがね???

※2) 今は、緑色の黒板や、青色の黒板、果ては、ホワイト・ボード迄あるようですが、私が中、高生の時代には、正真正銘の黒板でした。
私が未だ学生であった当時は、中学校や高校で授業の度に、先生が黒板一杯に文字や表を書き込んで、生徒はそれをひたすらノートに写しながら、先生の説明を受ける・・という最悪の授業がおこなわれていました。
私が大学の講師をやっている時に、ノートをプリント・アウトして学生に配っていたら、早速、学務から呼び出されて、「お金が掛かるので止めてください。」と宣告されてしまいました。大学の言う事は聞かないと、仕方がないので、休み時間に授業をやる教室に行って、たむろしている生徒達に、私のノートを渡して黒板に書かせて、授業が始まる迄に、ノートに写しておくように・・と言いました。
中、高生の時には、「何故、ノートを取らなければならないのだろう?」と、不思議で仕方がありませんでした。私はノートを取るのが下手で、私の字は、読み返す事が不可能なだけでなく、ノートを取る(文字を書く)速度か、極めつけに遅かったので、先生が黒板に書くノートを書き写す事自体が、(私の能力的に・・)出来なかったからです。だから、中、高生の時代に自分で書いたノートを読み返した事は一度もないし、そのノート自体も失われてもうありません。
「かあさん!あの一度も読み返す事も無しに、無駄に書いていたノート!・・・、今何処にあるのでしょうね???」



娘は忘れる=恥 がないので学校でもお教室でも忘れ物多いです(~_~;)
3月26日 7:30


=恥・・という概念は、責任感が出て来て自分のi dentityが産まれた時に恥という概念が誕生します。だから、子供が恥を知るようになるのは、もう少し大きな子供の場合ですかね??但し、照れくささも恥の一種とするのならば、結構早い時期から、恥を感じる事になるのですが、基本恥の概念が大きくならないと見られないのは、恥には、社会性と迄は行かないとしても、自分と回りを比較する能力が必要となるからです。
未だ自分という概念の中で生活をしている小さな子供の間は、寧ろ「恥」よりも、失意や喪失感のようなものですかね。
つまり、怒られた・・とか、忘れ物をしたので、参加したかった行事に参加出来なかった・・とかです。昔は、親が働いていて、とても忙しかったので、子供が忘れ物をしても、それを届けてやるというようなテレビやアニメのような世界は本当は無かったのですよ。
それに交通の便も悪かったので、「忘れ物を下から、もう一度行く」と言う事は中々出来なかったのですよ。今はある意味では、子供達は恵まれ過ぎるようなので、そういったriskに対しての、価値観がないようなのですよね。
忘れても、それを必要とはしない、と言う事が主なので、忘れるとか失敗するといった事に、重要性を感じない無頓着な子供が多いようですね。
まあ、人生、楽天的でそれでも良ければ、それでも良いのですがね??
そう言った事が許されるのか、許されないのかは、その人が属する社会に起因するのです。「物忘れ」をしても、然程、問題にされる事のないより個人的な社会に属している人と、全く絶対に許されない社会に属している人がいますからね。
3月29日 10:00

「物忘れ」も或る意味、性格のようなものですから、忘れないためのroutineを作れば良いだけです。そんなに深刻ではないですよ。社会に出て、「忘れ物」をする性格が残っていたら、或る時には致命傷になる場合もあります。だから、子供の内に忘れないroutineを作って上げると良いのですよ。
3月26日 7:41

子供の年齢が低くなればなる程、「『確認』をしなさい。」という事は難しくなります。だから、「確認」をroutineに組み込めば良いだけなのです。
「確認」をroutineから外して、routineが終わってから、「ハイ、確認!」では、難しいのですよ。ネ??
3月26日 7:44


補足説明をすると、それと、子供の場合には、小さな子供になればなる程、一つの事に集中する傾向があります。つまり、興味が次の事に移った瞬間に、前に何をしていたのか??を忘れてしまうのです。
しかし、これはとても良い習性であって、出来れば大人になっても、残しておきたい感性(集中力)なのです。
世界的な著名な演奏家達はこの傾向を持っている人達が多いようです。また、それぐらいの集中力がないと演奏家は務まりません。私は、此処の所、頓に酷くなって来た物忘れの、隣の部屋に物を探しに行って、ドアを開けて部屋に入った途端に、何を探しに来たのかを忘れてしまう・・といったような健忘症的な「物忘れ」とは根本的に意味が違います。
3月27日 12:15


大学生になって、「黒板を丸写しする」という無駄な意味のないnotationの作業から解放されて、自分なりにノートを取る方法の改良を始めました。その長年やらされて来たノートを取るという作業の改良を始めました。学校の中での、強制的なノートを取るという作業の中では、自分に合ったノートを取る等という事は出来なかったからです。
私が考えたノートの取り方は、ノートを1Page全面に使用して、見開きにしたPageを使ってnotationします。
右側のPageの真ん中から2割か3割の所に線を入れます。その内側に見出しと小見出しを書き込みます。7割の所は通常のノートとして使用します。左側のPageには、書き加えられたideaや修正、その他所謂、赤入れを右側のPageに書かれた文章を丸で囲んで左側のPageまで引っ張って来て、色々な修正や補足を書き込みます。これで研究ノートとしては、非常に使い易くなったので、ドイツに留学する迄は、そのノートを使用していました。ドイツ留学の時代は、楽譜を書く事が殆どで、日本語を書くのは、簡単なessayぐらいしか書きませんでしたので、ノートを取る事も稀になってしまって、「人生雑感」と名付けられた日記風のidea‐noteだけになってしまったので、もう私の改良したnoteを使用する事はありませんでした。文章を研究校正するためのノートだったのでね。
参考までに、という事で、昔の高校生、大学生の時に書いていた、私の研究ノートをコピーしてお見せしようと思ったのですが、そう言ったノートの類は総て破棄されてしまって、1冊も残っていませんでした。
3月29日 10:18

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3月27日 6:17 ·
昨日、17年3月26日は、芦塚音楽研究所千葉音楽教室の
春の発表会への最後の総合練習でしたが、この季節は毎年‥・と言いたい所ですが、今回は特別で、総合練習の参加者が、病気やその他の理由で例年になく非常に悪く、オケの曲のpartが一人もいない曲があったりして、急遽参加の助っ人に次ぐ助っ人を、その場で補填しながらの総合練習 でした。珠加ちゃん達も私も風邪を押しての参加です。
ティシュを箱ごと持って行こうと思っていたのだけど、忘れた!!でも、薬は常備薬を箱ごとハイツから持参しました。

総合練習は、いつもの事ですが、時間がないので、通しの1回だけの練習です。
私のone point adviceもするだけの時間がありません。
Vivaldiの春は、soloの愛ちゃんが結構な病気で欠席なので、今回は急遽、紗來ちゃんが全楽章を演奏したのですが、それは初見なので、取り敢えずは割愛してⅢ楽章だけをuploadします。
https://www.youtube.com/watch?v=gIl2ngwzgog

次はHändelのpassacagliaのAshizuka-versionです。
助っ人であるか否かは兎も角として、memberがそれぞれのpartに
揃ったのは、初めてではなかったのかな??
https://www.youtube.com/watch?v=KRfzGdV2Iyk
私も「こういう曲なのだ!」と言う事を、初めて知りました。
ちゃんと、練習すると中々、良い曲になりそうな雰囲気ですよね。「ちゃんと練習すると…」・・の意味は、普段の毎回のオケ練習の時に練習の時間が足りなくなって、この曲がオケ練習の最後の曲なので、いつもこの曲が割愛されていたからです‼
だから、しっかりと練習をして、録音に配慮すると、とても良い曲になると思います。音声だけを別に録音したりして・・
人数がいるとそういう事も出来るのだけどね。

次はHaydnの雲雀Ⅳ楽章です。
この曲も1stの愛ちゃんが病気で2回とも続いてお休みなので、急遽、この総合練習のために、大学生の梨紗さんが初見で、助っ人に入ってくれました。
前回のリハーサルでは、この曲は、各自が自分のpartの演奏に必死で、全体の和音等を聴くゆとりが全くなかったので、今回の総合練習では、午前中の時間に、梨紗さんのが各小節の和音の練習をつけてくれたので、短時間ではあるのですが、ずいぶん良くなっていました。
https://www.youtube.com/watch?v=1-3v6uKZm2o
Haydn先生のQuartettは、結構、難しい曲なので、ちゃんと、練習を積み重ねて行かなければならないのですよね。Ⅰ楽章はもうやったのかな??それとも五度に行く??

Franckの練習のvideoが入っていなかったので、目下捜索中です。発見したら、upします。
· 3月27日 17:08

定点で回し撮りをしていたvideocameraにはFranckや、ChopinのPianotrioの動画は入っていなかったし、4Kのvideocameraも、試し撮りをしていた4K専用のSDcard自体を紛失して見当たらなかった。4K専用の128GのSDcardは、ビック・カメラでも1万5千以上するのだよ!!初テスト使用のcardを失くしてしまったら、その後の、4Kcameraのcheckも何も出来ないのにな!!
3月29日 12:18


4Kの方で、モーツァルト五重奏・ショパンピアノトリオ・フランクを試し撮りしていたのですが、SDカードは見当たりませんか?片付け私は見ていないのですが、誰がしていたか確認してみましょうか?
3月30日 18:19

私も雨の中を車を取りに行って、車で自治会館と花園を回っていたので、最後の後片付けは確認していません。その前には、4kの本体がないと、ビデオのcheckが出来ないので、本体に入れたままに、椎名町に持って帰るように、という事を碧人には確認したのだが、碧人は先に帰ったので、その後の後片付けを誰がしたのかは、分かりません。
だから、その後誰かが4Kのsdカードを出したという事は、椎名町行きか花園行きににはなっているはずなのですが、それを誰が最後にしたのかは分かりません。斉藤先生だと思っていたのですがね。
3月30日 20:36

最後は分からないので、確認して見てください。
3月30日 21:53

4Kのカメラバックは灰色ですか?
3月30日 22:18

布製の灰色です。
3月30日 22:19


バックの中は斉藤先生も私も何度も確認しました。
3月30日 22:19

碧人くんには確認しましたか?
3月30日 22:2
1

私は何もしていません。斉藤先生に聞いてください。
3月30日 22:22


それに碧人君のmailaddressも知りません。ハイツのパソコンのmailは、教室のmailとは違うので、
3月30日 22:23


最後に自治会館の片付けを手伝ってくれたのが千夏ちゃんと智子ちゃんと珠加ちゃんと碧人くんとなので、確認してみます。
3月30日 22:24

碧人くんが、ビデオケースのサイドポケット(説明書が入っている部分)に入れたと言っていますが、これは斉藤先生に伝えた方がいいですか?
3月30日 22:26


確認はしたはずですが、一応、斉藤先生にも連絡しておいてください。
3月30日 22:31


連絡しました。
3月31日 8:21


了解!
3月31日 8:22



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3月27日 18:45 ·
「超、びっくらこいた!!」

今日(3月27日)はFacebookに昨日の最終練習のvideoをuploadしていたら、椎名町事務所からの緊急の電話で、不動産屋に連絡を取るようにというmessageであった。
折り返し電話をすると「緊急に合いたい!」との事。
何度聞いても、「江古田の部屋の事で・・」というばかりで、後は「お会いしてから、ご説明します。」というので、「かなり込み入った内容だな??」とは覚悟をしたのだが、大体の事は想像が付く。
まあ、私の自宅である江古田のハイツにはとても、(例え業者だとしても)人を招き入れられる状態ではないので、近所の喫茶店(珈琲館)で待ち合わせをした。普段も教室の生徒や保護者の人や、生徒達も珈琲館を使う事が多い。江古田教室で、私一人で接客するには、自分で接客の用意をしなければならないからだよ。

「会ってからしか、内容は話せない」・・と言われても、こちとらも色々と持って行く準備もあるので、「会って‥・云々」と言うのも困った事なのだが、そういったクドクドとした話は省力して、要は「部屋を出て欲しい!」という事なのだろう・・と思ったのだが、業者から話を聞いて、超、ビックラこいた事には、もう既にその不動産屋に、大家の婆さんがビルを売っぱらった・・という過去形の話だった、と言う事なのだよ。
んでいる住借り手の住民に一言の相談もなく‥・・だよ。
江古田の住居は、40年以上も前に、ビルの2階の真ん中の部屋を最初に借りたのだが、その頃は、江古田の街にも、大きな賃貸マンションのビルが全くなく、主流は木造のアパートだったからなのだよ。

私が部屋を借りたその部屋は、私が入るその前も、Pianoの教室として名古屋の女の先生がlessonで使用していて、毎週、名古屋からlessonのために通っていたそうな??
反対側の隣の部屋は当時は学習塾だったし、奥の部屋の201号室は漫画家の野村シンボさんの部屋だったのだよ。
だから、音出しの公害を撒き散らす音楽家の住まいとしては、とても良い借家だったのだよ。(入居した当時は未だ、生徒は教えていなかったのですがね)

という事で、生徒を指導するようになって、弟子も出来て、江古田の部屋で教室としての事務の作業をするようになって来たら、部屋が事務所としての機能や教室としての場所にもなって来たので、とても手狭になって来たので、漫画家の野村さんが引っ越した機会を捉えて、その部屋を教室の事務所として借り入れて・・・、次に学習塾を弟子の住まいスペースとして私が借り入れて、その結果、教室と事務所と生活スペースとして、2階の全部の部屋を借り入れてやっていたので、すこぶる利便性が良かった。
他の部屋も、残りの3部屋の内の2部屋迄は、会社として借りられていて、残りの一部屋が音大生が借りていたので、所謂、普通の人は一人も入っていなかったのだよ。当時の部屋では、未だ風呂が付いていなかったので、学習塾の後の部屋だけが、風呂が付いていたのでね。
だから、夜、遅くに音出ししても、下の部屋は大家のお店だったので、夜は誰も居ないし、creamも一度も来なくて、音を出して被害を撒き散らす私達にとっては、とても住みやすかったので、手狭ではあったのだが、結果として、40年以上も住み続けてしまったのだよな。

しかし、10年近く前に、ビルのオーナーである大家の旦那が亡くなってからは、チョッと、話が変わって来るのだよ。
奥さんの方は、情緒的感情的と言うか、言う事がしょっちゅう変わって、タナコとしては、困ってしまうのだよな??
「息子にビルを譲りたいから、会社名義で借りている人は、総て出てくれ!」「個人用の賃貸にするから」と突然言われても、教室として生徒達も通って来ているのだから・・ね。
他の部屋の、会社として使っていた人達も怒り捲っていたよな~ぁ??
突然、大家側から、何の保証もなく、「部屋をでろ!」と言われてもな‥・?
仕方がないので、全くの自腹で、400万円近い引っ越し費用を自分で出して、その部屋を出たのだが、暫くすると、婆さんが「芦塚さんは長いから、そのまま居ても良いよ!」と言い出して、話がコロコロと変わる!!

だから、婆さんには、「いやあ~、もう、権利金や敷金も払ったし、引越し費用も払ったので、・・」と、やんわりと断ったのだが、事務所や教室を引っ越すとなると、司法書士を雇って、法務局の手続き等や免許やありとあらゆる物を書き換えなければならないし、生徒達もlessonに通う場所が変わってしまうので、面倒なので、「じゃあ、最初に入居した202号室けを、継続してください。」と言って、江古田教室と、事務所の所在地としての機能だけは存続をさせたのだよな。(本当の事務所は椎名町に移動してしまったのだが、法規の手続き上の事務所は・・という意味です。)

それが今度は、突然、「売っぱらった!」???
そりゃ、ないよな~ぁ!!
不動産の業者は、もうマンションの築が結構古いので、マンション自体を解体して、新築のビルにするので、予定を組んでしまっていて、そのtimelimitがあるので、焦っていたのだよな!!

「7月一杯で部屋を空にして欲しい!」と言って来たのだが、7月一杯迄、教室の行事が一杯なので、8月の第二週迄待って欲しいと言ったのだが、もうビルの解体工事の日程が決まっているそうで、日にちは譲れないらしいのだが、こちらも3人揃って動ける日は限られているので、交渉でなんとか8月の10日迄に部屋を明け渡す事で、合意に至った。

話の詳しい内容はprivateな事なので、省略するとして、大方の粗筋は、まあ、そんな所だろうよ!!



続きが気になります…
3月27日 18:56


まあ、不動産屋としては、私との交渉で、「血の雨が降る事」は覚悟して来たようだが、温厚な紳士である私は、そんな下手な会話はしないのだよな!!
そこらは、私は音楽家とは違って、世渡りは、めちゃ上手いのだよ!!
という事で、お話はcontinuo・・・
3月28日 5:33

そのまま牧野先生に転送しときます。
3月27日 21:12


何を転送するのか・・??
この文章の中には、私が不動産屋にorderした実際の具体的な交渉の話は全く書いていないのだけど‥・??
・・で、何を転送するの??
3月28日 5:37


やってらんね~!!頭さ来た!!!
3月28日 1:48


今日は一日、鬱が酷くてなにも仕事が捗らなかった。残り少ない貴重な日々からの1日を失くしてしまった。やっぱ、やってらんね~!!
3月28日 19:27

昨夜からの鬱が治らないし、朝の4時半から教室の仕事を一応は、頑張っているのに、何も進まない・・と言うよりも、やる気がさっぱり起こらないので、ふと思いついて、試しに熱を計って見たら、やっぱり7度超ある。
微熱だよな?
やる事なす事上手く行かないと思ったら、体調不良で、免疫力の低下だよな。風邪薬とユンケルの領域か‥・??
3月29日 1:08


昨夜は、ベッドに入ると咳が出て眠れなくなってしまったので、もう次の日の夕方になってしまったのだが、未だ咳が止まらないので、前回病院で貰った咳止めと言うか痰が出やすくなる気管支拡張剤の入った薬が残っていたので、それを取り敢えず飲む事にした!!
3月28日 15:31

今日は29日の水曜日なのですが、月曜日の夜から引き篭もりが始まったので、未だ2日しか経っていないのに、火曜日の朝から食料品が全く無いので、乾麺の非常食だけの食事になってしまっています。今日も椎名町には行く気が起こらないので、近場のセブンでも何か買い物に行かないと今日もまた乾麺になってしまっています。
3月29日 21:27


という事で意を決して、ハイツのすぐ傍のセブンに行って見たのですが、食い物が全くない!!と言う事で駅の回りのコンビニを3軒も回ったのに、弁当が全くないというか、あるのは売れ残りの如何にも不味そうなのばかり・・、諦めて、魚河岸でも行くか?とも思ったのだけど、チョッと一杯引っ掛けるだけの体力が全く無い。寿司屋で夜の12時過ぎにお茶をしていてもね~ぇ??という事で、そのまま帰っても、食い物がないという事実には代わりはないので、しょうがないので、冷凍の食品とサンドイッチを幾つか買って来た。まあ、非常手段にはしかたないよな??
久し振りで、外に出て歩いたので、汗をかいた!!
それぐらいで??それぐらいで!!
取り敢えずは、サンドイッチでも食べて終わりにするか??
3月30日 0:38


という事で、今日は時間も9時代と言う事で、早いし、もう一度江古田回りのコンビニを食料を探して回って見たのですが、棚はすっからかんか、あっても私の口には無理なものばかりでやっぱり、何も買わないで帰って来てしまいました。椎名町のサミット迄行くと、私でも食べれそうなお弁当を売っているのだけどね‥・・??
3月30日 21:48


売った!との過去形とは失礼千万ですね!!
この際千葉に、、、て事は難しいのですか💦?毎週の移動も大変なような?
3月28日 22:34


私の場合には、千葉でも東京でも、週に1,2回なので、あまり関係はないのですが、先生達は毎日の事なので、事務所とか住まいを千葉に移してはどうか?という話は家の引っ越しの話をする時には、必ずその話も出ます。
その話は私が何故、指導者を育てているのか?という話に繋がって行くので、説明するのは結構、難しいです。
斉藤先生は、江古田のハイツを売って事務所と一つにして、大きなビルで一緒に住むように提言してくれますが、今回の鬱の時のように、鬱が酷い時に引き篭もれる場所が無くなると、私には辛いです。
3月30日 5:18


私が海の見える小高い丘に引っ越して、教室や先生達が千葉の便利な所に教室と一緒に引っ越せば、負担が少なくて良いのでしょうがね??
3月30日 5:20


最近は、二世帯でも、扉まで別のところが主流ですし、こもる部屋を作って、、、
海の見える小高い丘。。。埋め立てのこの辺では厳しいですよね。
3月30日 20:42


椎名町の斉藤先生のお部屋は一度裏口から外に出て、階段を登って完全独立の部屋です。以前テレビで放送していたのですが、千葉の殺人事件のあった豪邸が競売に出されて、嘘みたいな値段で業者に買い取られたようですが、それぐらい広い部屋なら幽霊が出ても私的には欲しかったのですがね。
3月30日 20:45


見ました!
あそこでオケが出来そうな感じでしたよねー!
3月30日 21:10


そうそう、チョッと、リメイクすれば充分教室として使用出来たと思ったのですがね。何年も売れなかったらしいけれど、どうして過去形で、放送されるのかね??
3月30日 21:13


幽霊の間とか言うの作ったりして、HaydnやBeethovenの幽霊の演奏をしたりして・・・!!
3月30日 21:14


それはそうと、「海の見える小高い丘」は私の隠れ家の話で、幽霊のでそうな殺人事件のあった家は教室の事務所の話ですがね。
3月30日 21:50


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3月28日 17:47 ·
動画が無かったFranckの練習風景の写真です。
Pianoquintettoなのですが、Pianoの智子ちゃんが斉藤先生と被って見えません。他の写真も探してみたのですが、智子ちゃんのquintettoの時の写真で、顔の写った写真は、アップライトのピアノなのであたりまえかも知れませんがありませんでした。この写真も智子ちゃんの顔が写ったものではありませんが、二枚の写真を繋ぎ合わせたものです‼
写真を撮影した場所が違うので、写真の角度があっていませんが、Pianoも写っている写真としては、これぐらいが最大の広さかな??



今は火曜日(29日)の夜の10時半です。今、行きつけの寿司屋にでも飲みに出かければ、ちょうど夜食を食べる事が出来るのだけど、「やってらんね~!」状態の「どうでもいいや!!」状態が続いているので、自宅の部屋には食い物が全く無い状態にも関わらず、外に食べに出かけるのが億劫で、かったるいのですよ。
対人恐怖症と食欲の比較で、食欲よりも、対人恐怖症の方が勝って来ると、部屋の外に出るのも億劫になって来てしまいます。
これが1日、2日なら、別にどうってこともないのだけど、結構、長く続いてしまうと、それはチョッと問題になります。
人間、食欲が衰えると、先が見えて来るのよね~ぇ??
でも、「どうでもいいや!!」は、鬱々の症状で、気力や、免疫力が衰えてしまうので、どう仕様もないよな!!
薬が効いて来て、少し、咳が収まっているので、横になって寝ていることにします。
起きて、腹が減っていたら、その時にどうするかな?・・の事だよな??それでも外に出たくない・・とか??
3月30日 9:34


「どうでもいいや‼」の勢いのままで、なにも食べないまま、寝てしまって、いつもの体重測定の時間(午前5時です。)になってしまいました‼
「やってらんね~!!」の原因はそのままで、なにも変わっていないので、鬱の状態も、まあ、あたりまえの事なのだけど、そのままです‼
時が過ぎれば、忘れて行くような情緒的なお話ではなく、状況が改善しなければ、その胸の支えはそのままなので、何時迄も同じ状態が続いてしまう事になる。
ちょうど、前回の秋の発表会のフニョフニョ指揮の状態の再現のようだな⁉
幾ら、気持ちを入れ直して、頑張って指揮をして見ても、丹田に心が引っ掛からないで、心の伴わない形ばかりの、空振りの指揮になってしまった……、そういう、これまでも経験のない恐ろしい体験が、記憶の中に蘇って来てしまいます‼
なんとか、発表会迄には、心の拠り所、落とし所を作っておかなければ…、また、空振りの指揮振りをしてしまうと、焦ってしまう毎日なのだが……、心の拠り所は、自分の心の中の話ではないので、自分を取り巻く環境や状況が変わらない限り、如何ともし難いのだよな?
3月30日 9:43



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3月30日 15:50 ·
「昨年の秋の発表会」の動画をハイツに持って来たので、「春の発表会」の前々日ですが、3部と4部と5部と斉藤先生の「トリ」の演奏を取り敢えずuploadしました。linkを張ろうかと思ったのですが、鬱が治らなくって、体が動かないので、直接You Tubeで見てください。「16年10月16日芦塚音楽千葉教室秋の発表会」で検索をして頂くか、「402a42ka」で検索を掛けていただけば、全部がupされます。


見ました。
ありがとうございます。
3月30日 18:31


うちは何だか発表会体質でなくなったみたいでちょっとさびしいですが、Youtubeで楽しませていただきます
3月30日 19:26


前回の10月は彩葉ちゃんだけで、晟嗣君はオケには出ていないのですよね。
どうしても、You Tubeは公開にしているので、オケや室内楽の人達を中心にupする事になってしまいます。
偏っていると思われるかもしれませんが、ソロの人達の場合には、時々「You Tubeにはupして欲しくない」とcreamが来る事があるので、オケ・室内楽の参加者達だけをYou Tubeにupする事にしています。
という事で、ソロの人達は、原則として公開の了解を頂かなくても良い、対外出演の参加者の人達だけをupしています。
つまり、対外出演と言う事は、すなわち公開演奏になるからです。
例外的に3歳、4歳の子供をYou Tubeにupする事はあるのですが、その場合には保護者の方に直接、了解を貰ってからのupです。

オケや室内楽は希望参加なので、基本的には、体質やアレルギーとは関係はありませが、目的や目標に合わせて、音楽の指導内容が変わるので、子供達の音楽との関わりに合わせて、幾つものオケが作れれば良いのですが、生徒数がそんなに多くないので、オケの種類に困っています。
とても上手なお姉さん達でも、受験年次に差し掛かると、オケの負担を軽くして、受験に専念をして、オケや椎名町組は、愉しむ程度でも良い・・という人も結構いるのでね。
3月30日 21:11


晟嗣は受験を理由に6年生になる時点でレッスンを終了しました。再開の話もするのですが本人の興味はそこにはないようで、「たまには一緒に弾こうか」というとこ止まりです。教室のレベルでいうと下手ですが、それなりに身に着けたところはあると思うので親としてはちょっともったいない感がありますが、私がその昔似たような状況だったので…。
彩葉は週一のレッスンだけが練習時間という状態なので辞めることも考え、辞めてもいいけど自分で理由を含めて先生に言うよう伝えると、「それはめんどくさい」ということで今に至っております。私の誘導が下手くそなんだと思いますが、難しいです。ホントに。
3月30日 23:32

私が小学生迄に住んでいた故郷は、江戸時代から何一つ変わっていない所で、音楽的な環境と言えば、Pianoを持っているのは小学校の先生と小学校と中学校だけでしたかね。殆どは未だブカブカオルガンの時代だったのですよ。小学校5年生の時に、「合唱部に入りたい」と言ったら先生が「男の子一人だけだからそれはどうも~」と断られてしまいました。偶然、小学校の音楽の先生の家の傍と通ってlessonしている女の子を見て、「私もPianoを習いたい」と言ったら、「保護者の了解を得て来なさい」とまたまた困った顔をされたので、「男の子は音楽を習っては行けないのだよな?」と諦めました。しかし、不思議な事に、故郷の家で暮らしていた祖母は西洋音楽はあまり好きではなく、「鶏の絞め殺される時の声」とか西洋音楽の事を言っていて、唯一の文化的な媒体であるラジオも長唄や小唄端唄が常に流れている環境だったのです。何処で、Classicを覚えたのか私には記憶がありません。
3月31日 0:10


中学生になって、お袋の住む長崎の学校に転校して行きましたが、そこでも合唱部は女の子だけという事で断られて、生物部と気象部に入りました。お袋はどういう分けか、Classicにも興味があって「労音」とか言うのに入っていて、年に何回かのPianoのコンサートに連れて行かれましたが、何の事か分からないで、よく眠れました。多分、兄貴の所有しているケンプの悲壮と月光のレコードを聞いて感激していたのですが、どうして??本を読み漁り出したのも、中学生からで、作曲家の伝記等も読み漁りました。此処らからチョッと進行方向が狂って来るのよね??
3月31日 0:16


高校に入学したら、音楽部に入りました。本当はブラス・アンサンブルに入りたかったのですが、県立校はお金がないので、小、中、高校とブラスは無かったのですよ。私立の中、高にはあったのですがね。そこで音楽部の友人達から色々な曲を学びました。第9に始まって、春の祭典やMozartのレクイエムや、それこそ、古典から現代に至る色々な曲を音楽部の連中は詳しかったのよね。高校の音楽部から東大の白樺会合唱団が通常のコースで、今では色々と名の通った連中がいます。そう言った連中は道を誤らないでちゃんと東大、京大へ入学して親達を喜ばしたのですが、私だけは道を踏み外してしまいましたがね。もっとも、母親の方は私が医学部に入学しようと、音楽の道に進もうと関知していなかったので、私的には助かりましたがね。「なんで音楽大学に入るの??」と不思議がってはいましたがね。
3月31日 0:25


小林亜聖さんと共通点があるような…
3月31日 0:27


私が道を踏み外したのは、homepageにも書いていますが、Anton HeillerのHändelのCembalosuiteとClara HaskilのMozartのPianoconcertoのレコードを手に入れたからです。それは私の人生を揺るがす程の衝撃でした。
こんなにも人の心を揺さぶるものがあるのか?という驚きでした。
3月31日 0:38


当時は、音楽は、未だ極め付きにエリートの集団にしか与えられないgenreだったので、庶民からClassicと言うか音楽の世界に行こうとする人は極めて限られていて、例外的な存在だったからですよ。

それはそうと、小林亜星さんと言えば、実は私は大学1年生の時に中野ブロードウエイの亜星さんの事務所に呼ばれて行った事があります。「仕事を手伝わないか?」というお話だったのですが、私が「Classicをやりたいので!」とお断りすると、「何故、そんな金にならないものを‥・??」と不思議がっていました。
コマーシャルや映画のバックグラウンドの音楽に、それぞれの表情や長さの曲が無数に作られていて、注文に合わせて、そのArchiv(書庫)の中から取り出して加工すれば即注文に応じられるようになっていて、驚いたものです。Stradivari工房のように、工房作業だったものですから。
折角の売れっ子作曲家からのお誘いを断るという事は、当時から、あまり金銭欲は無かったのですよね。
3月31日 7:13


中野のブロードウエイで印象に残っているのは、亜聖事務所の事よりも、蛇(マムシ)のフルコースのお店の方です。これは衝撃だったよな??
3月31日 7:13


蛇のフルコース、ですか?!
3月31日 0:49


当時はとても有名なお店でしたが、ショウウインドーには生きたマムシがうじょうじょ!見るだけで、一度も入った事はありません。マムシ料理で有名なお店でしたが、そんなに高いお店ではなく、学生であった私にも払える程度の金額だったように覚えています。
3月31日 7:15


16年10月16日芦塚音楽教室秋の発表会のhomepageにYou Tubeのlinkを頑張って張りました。しかし、upする予定の動画で動画自体が無い演奏があったので、困っています。最終的に、発表会の全体の動画を貰ったので、そこから切り抜くしかないかな??超面倒だよな?discは椎名町にあるので、先ず取りに行く所から始めないといけないのだが、明日は春の発表会だよね!!なんで、半年前の発表会の処理をしているのかな??よう分からん!いずれにしても、今から病院の時間です。薬を貰いに行かなくっちゃ!!雨降っているのよね!!バイクはチョッと辛いな??薬が終わったので、しかたなかんべ~な??
4月1日 8:52



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3月30日 22:44 ·

2,3日引き籠もっていて、久し振りに見た芽も出していなかった裏の
金華学園の校庭の桜が何と、5分咲か??
この2日、3日全く買い出しをしていない‥・と言うか、昨日今日江古田回りのコンビニに買い出しに行ったにも関わらず、食べたくなるもの、食べれる物、食べ物、が陳列棚に全く無かったので、冷蔵庫の中は空っぽのままで、‥・という事で、この2,3日は非常食の乾麺を朝昼晩食べてしまいました。行きつけの寿司屋にでも行こうと思っても、体調と鬱で行けないのです。
昨夜は、少し早めの時間に、コンビニ回りをして食料品を物色したのですが、やはり、陳列棚は空っぽか、食欲をそそるものが何も無かったので、諦めて、ついに行きつけの寿司屋に飲みに出かけてしまいました。その時に夜桜を見て驚いて、カメラを取りに部屋に戻って、撮った写真です。
普段は、眠れないので、或いは熟睡したいので、飲みに出かけるのですが、実はそれは逆で、あまり眠れなくなったり、寝ても睡眠が浅かったりするそうなのですが、不思議な事に昨夜は熟睡出来ました。相変わらず、変な夢は見ていたようですがね。朝起きて「腹が減った!」という経験は珍しいです。これが鬱や体調不良からの復帰につながれば良いのですがね。ギリギリ発表会に間に合うのかな?‥・そうは、上手く行くか??





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3月31日 7:49 ·
先程の写真の朝の写真です。
雨が降っているのかな?と思える程に薄らどんよりとした空なので、確認をしにダウンを着て外に出たついでに撮影しました。あまりにも暗い鬱っぽい写真なので、補正しようかな?とも思ったのですが、今日の天気を伝える意味でもそのままにしてupしておきます。(それはそうと腹減った!相変わらず、冷蔵庫の中には・・)
撮った写真を整理しようとパソコンを開いて驚いたね??
撮った日にちが全く1年前の同じ日だったのだよ。
その日は雲ひとつない快晴!!桜もほぼ満開状態!!
今日は寒いのだよね!







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3月31日 10:50 ·
1年前、16年の3月31日の同じ場所の写真です。
昨年のこの日は快晴だったのですよね~ぇ??

先程の写真の朝の写真です。雨が降っているのかな?と思える程に薄らどんよりとした空なので、確認をしにダウンを着て外に出たついでに撮影しました。あまりにも暗い鬱っぽい写真なので、補正しようかな?とも思ったのですが、今日の天気を伝える意味でもそのままにしてupしておきます。(それはそうと腹減った!相変わらず、冷蔵庫の中には・・)
撮った写真を整理しようとパソコンを開いて驚いたね??撮った日にちが全く1年前の同じ日だったのだよ。その日は雲ひとつない快晴!!
桜もほぼ満開状態!!
今日は寒いのだよね!






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4月1日 15:59 ·
2018年(来年)の春の発表会は、4月15日(日)千葉市文化センター・アートホールに決定しました。
牧野先生の他に、10人の人達が抽選に来ていた中での、毎度お馴染みの凄い確率でした。毎回、100%の確率で希望の予定日を当てていますが、これはオカルト的な凄い確率ですよね。
   



発表会前日に抽選とは大変でしたね…
抽選、観察力勝ちですね❗️
4月1日 16:38


まあね、根性よ!根性!!
4月1日 16:52


本当にすごいですね!
毎年恒例の高倍率!
新しいホール(なんですよね??外壁だけ??)でのコンサート、楽しみですね!!
ありがとうございました!
4月1日 17:28



・・で、なんで赤鬼さんと青鬼さんとストラップの鬼さん達なのか?‥・という、質問を受けましたので、書いて起きます。つまり、来年の事を言うと、「鬼が笑う!」の鬼さん達です。ハイ!
4月3日 18:54



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4月2日 5:21 ·
今日は発表会です。
今からハイツを出発します。
今回は初めて、今も進行表が無いままに当てずっぽうに出発するのだけど、大丈夫かね??
今回からはvideoの撮影も教室でやる事になったので、発表会直前の準備、所謂、仕込み作業も生徒達では出来ないので、私が準備をしなければならなくなって、発表会が始まる迄は、超忙しい状態でした。
と言う事で、Cembaloのtuningの確認作業は省略してしまいました。
午前の10時50分のcanonから指揮を始めたので、一応は3時半過ぎには指揮が終わったのですが、その時にはもう、すっかりバテてしまって、5時、6時頃には、前回同様に、座布団を重ねて寝込んでしまって、折角、楽屋を訪ねてくださった人達に失礼をしてしまいました。
誰がいらしたかは、一応は記憶はしているのですが、体力の限界は如何ともし難く、お許し賜われ!!

それはそうと、発表会の朝に椎名町の事務所で、ニャンコ号のエンジンをかけたら、エンジンが、不整脈を起こしていました‼
発表会が終わって、帰りの高速ではもっと酷い状態になって、何時エンストしてもおかしくない状態になったので、車を騙し騙し走らせて、なんとか椎名町の事務所迄帰って来ました。
まあ、その日は取り敢えず、自宅に帰って取り敢えず寝て、取り敢えず、いつもの様に朝早く目が覚めてしまったので、取り敢えず、昨夜の後片付けをして、車の修理に取り敢えず出かけました。車の修理は、昔からの修理屋がお店をたたんでからは、メーカーに修理や点検に出していたのですが、メーカーは下請けに出してその下請けが何時も何時も、ズサンでだらしない仕事をして修理に出す度に、車を壊されるので、別の修理業社を2,3年越しで探している状態のままでした。
その話の延長が、昨年の7月のFacebookの、1時間以上高速を飛ばしての修理業社に車を持って行く時の話(故郷への最後の旅シリーズ16年7月20日のFacebookのお話)になります。

ネットで探しても、修理工場が見当たらないと言う事で、ちょうど椎名町の事務所とハイツの自宅の真ん中の地点にある中古車業社にバイクで寄って、飛び込みで修理をしてくれるか?を尋ねたのですが、年度末から年度開けと言う事で、車の修理が混んでいて、見積もりのために車を開けるのが、木曜日になってしまうという事でした。それから見積もりの後、修理なので、最悪、今週の日曜日は足がありません。困った!!


「芦塚先生の鬱々コンサート」
イギリス民謡のGreensleevesを芦塚陽二がground(Baßの定旋律=cantus firmus)で編・作曲しました。
前回、同じ八千代のコンサートで演奏した全音版を底本にしたGreensleevesの拡大versionです。
2013年6月30日の八千代市生涯学習プラザ主催の芦塚音楽教室の対外出演です。
演奏は芦塚音楽教室の生徒達とOB,OGと先生達の合同の演奏です。非常に珍しい事なのですが、全員が芦塚門下生(Ashizuka-Schule)です。

曲の途中の真ん中辺でpolyrhythmのような箇所が出て来ますが、そういった近現代の作曲法ではなく、古い時代のHemiolaのrhythmが元になっています。

この曲のarrangeでは、弦5部とsoloの部分はFlöte、若しくはGreensleevesの素朴なimageを出すために、ocarinaの独特の音を想定して作曲していましたが、この曲を弾いて貰うだけのためにocarina奏者をお呼びして、演奏をお願いするのもどうか??・・と思ったので斉藤先生がviolinでsoloを務めています。

https://www.youtube.com/watch?v=X6s1YMi7pRQ


お気をつけて!!
4月2日 5:35




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発表会の朝は

4月3日 8:58 ·
発表会の朝は、男の子達が検見川教室に駆けつけてくれてCembaloの教室からの搬出で始まります。
写真は二人でCembaloを担いでいますが、階段は狭いので、二人しか持てないのです。
下を持つ人には鍵盤部の重さが掛かるし、上の人は変な姿勢で持たなければならないので、腰に負担が来ます。階段の上げ下ろし・・此処が楽器搬入搬出作業のウィーク・ポイントです。大型の2段鍵盤でなく、1段鍵盤のCembaloをorderで作ったのは、二段になると、もう専門のCembalo搬送の業者でないと無理で、搬出するだけで7万も掛かります。もっとも、大型二段を借りても同じ値段で済みますので、以前は楽器そのものをレンタルしていました。いずれにしても、往復で14万です。それでも、tuningはやって貰えるので、至れり尽くせりなのですが、当然、発表会費には反映されてしまいます。videoを自前で撮影しようというぐらいの節約の時期なので、Cembaloの借り入れなんて、とんでもない話です。
梨紗ちゃんに拠ると、東京でも光が丘周辺では、桜は散り始めているそうですが、花園や検見川教室の周りは未だ2分咲という所でしょうかね?
同じ東京でも、椎名町や江古田周辺では未だ5分という所です。

     








男の子お二人は涼しい顔して会場入りされてましたけど、そんな大仕事されてきてたんですねぇー!有難いです!
今年はお花見期間長いですね!
4月4日 2:52


勿論、発表会の後片付けのチェンバロの検見川教室への搬入も3人で手伝ってくれています。この所、殆どの発表会の大道具をやってもらつています。いつもの話しですが、発表会後の後片付けの方が大変なのですよ‼クーリーがいない時には、先生達が後片付けをしていたのですが、そろそろ全員が腰をやられてしまったのでね⁉
4月4日 3:16


ですよね、、、
後片付けも行けたらよかったんですけど、、無理でした|( ̄3 ̄)|スミマセン。。千野家、人が足りません!!
息子もあと10年ほど経てばお役に立てます😅
4月4日 3:20


ひと声かければ駆けつけてくれるなんて素敵ですね。いい生徒さん達ばかりで幸せですね。
車ではなく、人手が不足なんですね…わが家も大黒柱は腰やっちゃってるので戦力になる時とならない時がありますが、次回からお手伝いできればと思います。
4月4日 9:31


じゃ、腰やっちゃった時のメンテナンスするよ!
4月4日 10:31


チェンバロ搬入、お手伝い行けたらいいのですが朝のバタバタで余裕なくてすみません。まだまだ運ぶ力はあるのでもう少し子ども達が大きくなったら😊
男の子達、結束力があって頼もしいです。
· 4月4日 10:39


男の子達は結構主催者楽屋でウダウダと遊んでいましたが、古い仲間が訪ねて来ての温故知新での話や、受験の目標の立て方の話や、楽しげにしていました。普段ならOG会になったり、保護者の相談会になったりするのですが、今回は高校生の悩み相談室になって、深刻に話を聞いたりしていたのですが、女の子の場合には、その悩みの殆どが親とのcommunicationの問題なので、私の範疇ではなくて困ってしまいますが、男の子の場合には、親の話が全く出て来ないので、男の子と女の子の違いに改めて驚いています。昨日は会社の入社式に親参加型の企業があった‥・という事で、これまた驚いてしまいました。なんじゃろね??
4月4日 11:56


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4月4日 ·
習志野組は、後、18日しか無いのを忘れないで‥・!!
後、3日です!!
愉しそうに、ノリの良い演奏を心懸けてください。
(前日に追記)
チューか、楽しんで来てください❗


4月22日の習志野市民会館でのコンサートが無事終わりました。
その日の夜は、事務所に行く事は無かったので、次の日の(昨夜の23日の)オケ練習の後で、椎名町に帰ってからコンサートのvideoを見ました。
う~ん、そつなくは演奏出来ているようではありますが、先ず勉強しなければならない事は、演奏をする時の時の舞台マナー(カーテン・コール等の)とaudienceに対しての演奏をしている時の表情でしょうね??
表情と言うのは、演奏中に、お客様を一度も見ていないし(お客様に対してのappealと言う事ですよ。)、演奏する側が、一生懸命過ぎて、音楽を楽しんでいるという表情もなく、怖い顔をしているし、常に下を向いているのを直さないとネ。einsatzの時に、お互いを見会えたのは、少し良かったけれど、Performanceというには、程遠かったよな??
皆さんの感想のcommentは、読みましたが、それに対してのmessageは、個別にします。
ちなみに、斉藤先生のcommentは、具体的で、もう少し辛辣だったのだけど、それも各自、個別に斉藤先生からお話して貰う事にします。
モットー:
今日のconcertは、明日のリハーサル
4月24日 23:21








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芦塚メトードによる正しい学習法




4月5日 ·
(4月19日文章の訂正と推敲)

「芦塚メトードによる正しい学習法、その1」

学校は、‥・と言うか、まあ、我々音楽教育の場に於いても然りなのだが、熱心な先生になればなる程、勉強を教えてくれるのだが、勉強の仕方を指導してくれる先生は非常に少ない。

それでいて勉強をする事を強いるのだから、当然、一番効率の悪い時間ばかりがかかってしまう方法で(所謂、儒教型で)勉強する事になる。

・・という事で、よく音楽に限った話ではなく、一般の学習に関しても、効率の良い方法を生徒達(この場合の生徒は教室の生徒という意味ではなく、一般の学生という意味ですよ。)に伝授しようと思うのだが、これが意外や意外、時間は短くて済むのに、誰も、そう言った方法を学ぼうとはしない。

先程の練習法についても、教室の生徒の場合であったとしても、「事、音楽の場合」には、教室で非常に効率の良い方法で勉強(練習とした方が良いかな??)を子供の時から、しているのだが、それが学校の勉強になった途端に、一般的な非効率な学習法で学習するのだから、困ったものだ!!

音楽の勉強と学校の勉強は全く違うとでも思っているのかいな??
勉強と言うのは、大きな括りであって、音楽の勉強も一般の学習も本質的には変わらないのだがね??

多くの人達が、私の効率的なmethodeではなく、一般的な儒教的な学習法を、勉強の仕方として採用してしまっているのは、(ここでは、その方法論を私や教室の先生達から教わって知っている・・という前提でのお話ですが・・)本当の意味で、教室で私が指導している効率的な、能率的な勉強の方法ではなくて、非効率的な儒教的な、ただイタズラに繰り返すだけの勉強法を、より多くの人達がしてしまう‥・という事は、どうしてか??・・というと、儒教的な繰り返すだけの勉強法の方が、「何も考えないで済む」ので、勉強に関して、時間がより多く掛かったとしても、「精神的に悩む事、考える事が無いので、」・・「楽で良い!」からなのだよ!!

しかし、芦塚メトードには、よく昔から言われている、逃げられない‥・methodeがあるのですよ。
・・という事で、これからは、lessonで頭角を表わして来た生徒達に、効率のとても良い、しかしながら、精神的に非常に辛い・・勉強法を伝授します。

・・とは言っても、それはmethode自体は、特別な勉強法では無いのですよ。
儒教の時代から、本当は誰でも知っている勉強法なのですがね??

次のお話は、そう言った効率的な勉強法を私が、音大生に指導した時の、お話です。
私のmethodeを、それまでは一般的な勉強法で練習をしていた一般の音大生達に、私が教室で指導している芦塚メトードの勉強法を指導した時の話なのですが、教室の生徒達に取っては、当たり前の指導法であり、練習法である、教室のmethodeが、一般の音大生に取っては、超難しく、受け入れ難いものであるかの実際のお話を一例として紹介しましょう。

教室の生徒ではない、一般の音大生で私のlessonを受けた人達がよく言う言葉があります。
音大生達の言葉そのままなのですが、それは・・・、「先生のlessonはとても分かり易くて、しかも、効率的なのだけど、余りにも簡単明瞭なので、心の逃げ場所がないのですよ!」だそうです。

「心の逃げ場」とは、中々上手い事を言ったものです。
その意味は、練習の方法論が簡明で単純なので、その通りにやれば良いだけなので、やる気が余り無い時に、「手抜き」をしようとしても、その「手抜き」の方法がない・・という意味です。

教室で私の元でか、斉藤先生や牧野先生の元で、音楽を初めから学んでいる生徒達は、多かれ少なかれ、私の簡単明瞭なmethodeで学んでいるので、教室での勉強法は、「簡単だ!」としか思わないのです。

しかし、他所で学んでいる人達が、教室に入会して来て、他の生徒達と一緒に勉強すると、そのやり方(学習の仕方)違いが、非常に効率的で、そのcheck事項の1つ1つを、忠実に守りながら、練習をするという事は、とてつもなく、難しいmethodeのように見えてしまうのですよ。

一例を上げるとすれば、暗譜のmethodeです。
一般的には、最初の言葉のように、暗譜の仕方を学んで来た生徒はいません。
だから、繰り返し楽器を弾いている間に、自然に覚えます。
ですから、一般では、何度も楽器を弾いて、楽譜を読んで、その結果として「覚える」ので、「覚える」という事は、とても大変で作業なので、中々覚える事が出来無くて、苦手意識を持っている人の方が多いようです。

教室には確固とした暗譜のためのmethodeがあります。
教室では、新しい譜面を貰ったら、「楽譜を読んで音を確認する」というために、楽器を演奏しながら譜面を見るのは、基本的には、1回か、2回迄しか、許されてはいません。

つまり、楽譜を初めて渡された状態の初見の時に、楽器を弾きながら音を確認する‥・という事は、許されるのですが、・・「楽器を弾きながら暗譜をする」という事は、「絶対にしていはいけない」というtabooになっているのです。

楽譜を覚えるのは基本的に譜面を見て、譜面を読んで覚えるので、譜面を見ながら楽器を弾いて、音を出して読んではいけないのです。
音は楽譜を読んで、頭の中で、音が聴こえて来なければなりません。
これは、とても難しい事のように感じますが、実は楽器を始める時の導入の時に、そのようにsystem化して、最初からそのmethodeで勉強しておけば、何の難しさもありません。
その後は曲が幾ら膨大なものになったとしても、曲数が増えたとしても、単純に慣れに過ぎないのですよ。

「暗譜は癖です。」
教室では、「本番を暗譜で演奏するのなら、練習も暗譜でなければならない。」と教えます。
家庭学習の時に譜面を見て練習をするから、lessonでも発表会でも暗譜で失敗するのです。
暗譜で練習をすれば、「暗譜の弱い所」、所謂、「うろ覚え」の所が直ぐに見つかります。

全ての練習(勉強)の基本は、自分のあやふやな所をちゃんと正確に自覚する事なのです。
自分から「あやふや」な所が無くなれば、音楽の演奏も上手になるでしょうし、学業も成績を上げる事が出来ます。
つまり勉強しなくても、成績が上がるようになるのです。

「暗譜は癖なのです。」
ですから、教室の上級生達は暗譜が非常に早いし、数十曲の曲数でも一瞬で覚えてしまいます。
オケや伴奏の曲等は、譜面を一度も見た事がなくても、暗譜で演奏します。
勿論、譜面上のミスはありません。
覚えるのが完璧ならば、譜面を一度も見た事が無くても「譜読み」のミスはないのです。

実は今回の発表会でも、上級生の男の子で、楽譜をコピーしてくるのが間に合わなくて、先生の伴奏を聴いて覚えて伴奏をしている生徒がいました。
暗譜で演奏しているのだけど、「譜面、未だ貰ってない!」とぼやいていたけど、発表会、終わっちゃったよ??楽譜要るの??

「間違えたやり方で、幾ら勉強しても、努力を幾ら続けても、その努力に見合うだけの、技術の向上をする事はありません。」
以下はその実例です。

某国立の音楽大学の教授や、半官orchestra(半分官制のorchestra)のconcertmasterの人でも、日本の音楽家は、生徒に音程を指導するのに、Pianoの音に合せて練習をさせる先生が多いのです。
勿論、指導者、本人自らもPianoを叩いてpitchの確認をします。

以前、生徒が音楽大学の講習に行った時に、proのorchestraのconcertmasterである先生に、「音叉やAの音を聴いて音を合せるのは、violinを習い始めた初心者のやる事で、orchestraではTunerの針を見て合せるのだよ!」と言われてshockを受けて、講習から、帰って来ました。
それならば、oboeのAの音に合わせる世界の全てのorchestraは、berlin‐philもwien‐philも、全部、amateurのorchestraになってしまうという事なのでしょうかね??
その先生の所属しているorchestra以外は、全てamateurのorchestraになってしまいますよね。

多くの音楽大学の教授達や、proのorchestraの演奏家達は、弦楽器の音を取るのに、(確認をするのに)Pianoの鍵盤を叩いて音合わせをします。
しかし、それでは正しい音が身に付かないだけではなく、弦楽器で一番大切な音である、konsonanzの音が出るようにはなりません。

だから、日本の弦楽器の奏者の人の楽器は鳴らないのですよ。
つまり最初からkonsonanzを鳴らそうというstanceが、最初から、ないからです。

Pianoの音は調律師によって違うし、また弦楽器の場合には、その調性によって、1個1個の音のpitchが変わるからです。
また、物理的なkonsonanzの音は、何もしない状態では、必ず正しいpitchよりも♭な所で響くのです。

それを、楽器にトレーニングをして、正しいpitchで、konsonanzが鳴るようにする事で、正確なkonsonanzが出るように仕向けなければなりません。

弦楽器の奏者は、そう言った楽器を育てる作業を、常日頃、しなければならないので、Pianoで弦楽器の音を取るというような、誤った事を生徒に指導し、自らもやっているようでは、proの演奏家である・・とはとても言えません。

それならamateurの方が未だ音程はマシなはずですよ。
日本の弦楽器奏者達が、誰一人として正しい音程を取れないのは、この根本から間違えた教育を受けて来たからに他なりませんし、誰一人正しい音の出し方(pitchの取り方)を知らないのだから、これから将来も、正しい音の取れる音楽家は、期待出来ませんよネ。

「芦塚先生の鬱々コンサート」
まあ、何時もの通りのお話なのですが、Marin MaraisのBazelaire版なのですが、フランスの作曲家らしく、編曲が薄いので、(と言うか、室内楽的にarrangeをしているので・・)相変わらず編曲が気に食わなくて、等々、幾つかVariationを加えながら、orchestraを分厚く改定してしまいました。
千聖ちゃんはBazelaire版は、既に演奏しているので、2回目のchallengeになります。

https://www.youtube.com/watch?v=ftpJVVIVOZ0



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4月5日 ·

「芦塚メトードによる正しい学習法、その2」

芦塚メトードとは、私が中、高、大学生の時に、私のブキッチョを是正するために、自分から開発した方法なのですが、その基本的概念は、徹底的に無駄を省いて「時短」を図る・・という事でした。無駄を省くという事は、或る意味、時間の効率化を図るという意味でもあり、極めてブキッチョな私が人並に仕事を熟せるようになった!という事でもあります。
私の場合には、私の日常の全てを大改造を何年にも渡ってやって来たので、説明するのも、実践をさせるのも少し難しい事があります。
ですから、生徒達には、生徒達の伸び(成長)を妨げている箇所だけを、pointにしてお話を進めて行く事にします。

教室のcurriculumでは、先ずは、音楽を好きになる事が第一です。個人の方が伸びる生徒、人と一緒じゃないと練習をしない子供、それぞれの性格や人格に合わせてcurriculumを組んで行きます。「子供は仲間意識があるので、集団でやらせておけば、なんとかなるのだよ!」というのは、大変な間違いで、幾ら集団でもcurriculumがなければ、そこで続けられる分けは無いのですよ。指導と言うものは、そんなに甘いものではないのです。(これは指導者に対しての苦言なのですがね。)

毎日の練習が苦にならないようになって、自分から勉強や練習が出来るようになった。
これは一つの目標の到達です。そこまで子供が成長出来たら、親は祝杯ものですよね。お金と時間を掛けたのが報われた瞬間です。

通常の一般的な音楽教室では、此処までで、大成功です。
次は芦塚音楽研究所の特別curriculumです。

次のstageでは、練習の密度、所謂、Niveauを上げて行くcurriculumになります。
その一番の簡単な勉強の方法が、ScrapBookの作成です。
芦塚音楽教室では、昔から希望者には、薄紙でScrapBook用に切り貼りをする楽譜をコピーしていました。
ScrapBookは、市販の格好良いものよりも、お絵かき帳のように、Pianoや譜面台にしっかりと見開きで乗るもので、ノリで貼っても台紙がふにゃふにゃにならないものを使用します。真ん中に針金で両サイドの紙を固定しているものもありますが、Pianoの譜面台に乗せた時に、Pianoを傷めてしまうので、フラットなものにするように注意をしましょう。
楽譜を切り貼りしたら、注意事項を書き出さなければならないので、余白を充分取って貼るように注意してください。
子供達の成長の記録にもなるし、音楽の勉強では、繰り返し復習をする事が多いので、何年越しでも使えるように、予めまとめて置いた方が良いです。lessonで課題が出来たら、そのpassageを切り抜いて、その箇所の抜き出し練習を徹底的にします。それが出来るようになると、所謂、「鞣(なめ)す」という作業、つまり、出来不出来のデコボコを平らにするのが出来るようになります。
それが出来るようになると、そのNiveau(水準)での技術のバラつきはなくなります。

バラつきは、意外と大きなつまづきの原因になる事があります。
子供達が急激に成長して来て、その技術力が突然向上した時には、曲の出来、不出来がバラバラになって、逆に不出来の所が目立つようになって、逆に下手になったような感じに見えてしまって、親や周りを心配させてしまいます。
でも、それは逆で、出来ている所が目立つようになったから、不出来の箇所が、逆に目立って下手になったような感じになってしまうのです。
言い方を変えると、下手でも、下手なりにバラつきが少ないと、それなりに、上手に見えてしまいます。
我々指導者の場合には、「何が出来るようになったか?」という事で判断をするので、そこに間違えた判断をする事はないのですが、結構、一般的には、低く評価される元にも成り兼ねないので、早めに鞣して、目立つ所を無くした方が、より良い評価を貰えるに決まっています。
そこでそう言ったバラつきを無くすための練習の方法で、「ScrapBook」の登場になります。

日本人は世界的な評価では、とても勤勉な国民として認められています。
しかしながら、不思議な事に、日本人には、ある種の勉強(若しくは練習)に関しては、結構、苦手としている日本人の練習(勉強)があるのです。

日本人はコツコツとした勉強は得意なように思われていますが、実際は、そうではなく、期限の無い同じ練習を積み上げる事は、結構、苦手なのです。
受験のように目標、目的、timelimitがある勉強の場合には、勉強に限りがあるので、続けられるのですが、それが半永久的になると、突然、練習をしなくなってしまいます。
無限や無期限は、不可能と捉えるのでしょうね??

発表会やコンサートには、演奏会の日にちが決まっています。
だから、その日を目標にして、練習をして行けば良いのです。
でも、仕事にはendless作業というのがあります。
統計を取り続けたり、手直しをやり続けたり‥・等々、兎に角続ける事が命の仕事です。

練習にも、弓の持ち方や楽器を構えた時の姿勢、等々、常に注意をし続けないといけない箇所があります。
練習にはその場で出来るようになる技術と、常に注意し続けないといけない箇所があります。
です。

「芦塚先生の鬱々コンサート」
Ariaやla folia、Greensleevesと同じように、私がこの曲を、arrangeした理由は、Giulio CacciniのAve Mariaは、底本となるオリジナルの楽譜が、全く無いのです。
その理由は、この曲はGiulio Cacciniの真作ではないからなのです。
You Tubeにこの曲をupしている或る人のコメントを読んでいると、このGiulio CacciniのAve Mariaを、Giulio Cacciniの伝記を一生懸命調べて、「この曲は彼の真作である」と、力説していました。
しかし、Giulio Cacciniは、生まれた頃は定かではありませんが、多分、1545年頃に生まれて1618年になくなったとされている作曲家です。
そういう分けなので、Cacciniはバロック時代の作曲家というよりも、寧ろ、ルネサンスの後期の作曲家と解釈した方が良いと思われます。
もし、この生年月日が合っているという事であれば、未だに長、短の調性(長調、短調の調性)が確立する以前の作曲家なので、この作品の和音の根幹を成すdominanteZyklus(五度圏)の和音進行は、当然、未だ出てこない(使用されない)ことになります。
dominanteZyklusは、バロック時代に調性が確立して以降から始めて作曲技法として採用されるようになります。
dominanteと言うのは、調があってのdominanteなのですから、調のない時代、所謂、教会旋法の時代に、5度圏の和音進行がないのは、当たり前の話なのですがね。
ですから、調というものがないルネサンスのCacciniの時代には、5度圏と言う手法は、未だ作曲技法としてはありませんでした。

このCacciniの例では、五度圏の和音が7の和音の連鎖で書かれているので、その手法はクライスラー等の近現代の擬古典の作曲家の手に依るものと断定出来ます。
勿論、五度圏はバロック時代になって調性というものが確立してからは、VivaldiやLocatelli 等の作曲家達によって使用されるようになった時から、単なる3和音の5度圏だけではなく、baroque時代、もう既に、7の和音の連結による5度圏も、頻繁に使われていたのですが、その使用方法は非常に上品な音であって、現代のような強い長7度のぶつかりを、グイグイと前面に出していくというような破壊的な行為は、まだなされていなかったのです。

[歌詞から見た作曲年代の考察]
音楽上と言うか、作曲上の理由だけではなく、歌詞もまた、この曲がCacciniの真作では無い事を物語っています。
この曲のAve Mariaの歌詞は、Ave Mariaという言葉を、何度も繰り返すだけのシンプルな歌詞ですが、これでは、もしCacciniがまだ生きていた時代で、Cacciniが作曲をしたのなら、それは不敬罪に当たってしまい、多分、宗教裁判にかけられて、哀れCacciniは火炙りで処刑されたと思いますよ。これは現代の Vocaliseと同じです。
もし、Ave MariaがCacciniの時代の曲だとすると、宗教上の理由で、次の歌詞を使用しなければなりません。
もし、Cacciniが宗教上の理由で、火炙りにされたくないのなら、ラテン語かイタリア語の歌詞で、Ave Mariaの歌詞をそのままに、作曲されなければならないのです。Ave Mariaの歌詞は、正式にはラテン語で、次のように歌われます。

Ave Maria, gratia plena,
Dominus tecum,
benedicta tu in mulieribus,
et benedictus fructus ventris tui Jesus.
Sancta Maria mater Dei,
ora pro nobis peccatoribus,
nunc, et in hora mortis nostrae.
Amen.


https://www.youtube.com/watch?v=3A5SCHRRlpU


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4月7日 ·

「芦塚メトードによる正しい学習法、その3」

[間違いの3原則]
音楽を学ぶ殆どの学習者の場合には、課題の曲を練習する時には、何度も弾き直して練習をします。
問題の小節を抜き出して練習するのならば、未だ効率的なのですが、殆どの生徒の場合には、曲全体をいたずらに繰り返し練習をするだけです。

私が留学から帰国して、東京で大学で教えている時に、多くの音楽の著名な指導者の公開lessonを見学して歩きました。
或る時に、銀座のホールで音楽教室の東京地区の発表会を見学に行った時に、音楽大学時代の私の先輩の女の人と偶然再会して、その先生の講演後のpartyに連れて行かれました。
超有名な音楽教室の創始者の先生は、私を見て、無数に居る自分の弟子と勘違いしたらしく、「君のような若者(当時は私も未だ若く30そこそこでした。)が、日本の音楽教室を支えてくれないと!!」と親しく話掛けられました。私は、取り巻き意の女性達に連れられて来ただけの部外者だったので、心が惹けてしまったのですが、「下手な鉄砲、数撃ちゃ当たる」で、「100回練習して出来なければ、1000回練習すれば良い!」と、彼の有名なご老人の大御所が言われているのを、若いお母様達が「お~ぅ!」と感激して聞いていたのを見て、考え込んでしまいました。

私の考え方では、10回、間違えて練習した場合、次に10回正しく練習出来たとしても、(±)練習回数は「0」になるのですよ。
だから、教室では、10回練習するためには、10回間違えた場合には、最低でも20回練習をしなければなりません。20回間違えなくって練習出来たとしても・・・ですよ。
つまり、大御所様の言うように、100回練習しても出来なければ、1000回練習しても、それは無駄なのですよ。

日本の音楽界では、仮に、良い先生に巡り合えた場合でも、その先生が生徒の間違えた箇所を指摘して、「そこを、ちゃんと練習しといてね?」と、指摘するだけで、殆どの場合のlessonは終了します。

親切なの先生場合には、先生が生徒の間違えた箇所を上手に模範演奏して、「こう弾くのよ!」と示唆してくれる場合もあります。
昔、proを目指して教室で勉強をていたしK君は、未だ中、高生であった斉藤先生達にadviceとして、①音楽大学の先生達の言葉の説明は、原則として聞いては行けない!!殆ど意味を成さないから‥・!②その先生が表現したいという演奏を出来る先生に巡り会える事は奇跡だ!殆どの先生の模範演奏を真似るとその先生は怒り出すのが普通だよ!!③だから、その先生の理想としている事は何か、どういう演奏か?を類推して判断しなければならないのだよ!それが生徒の条件なのだよ!と説明しているのを聞いて、いやあ、大変だな~ぁと、思ってしまいました。

殆どの場合には、大学の先生からの、「何故、そこの所を間違えるのか??」という指摘は無いので、だから、生徒はそこいらの箇所を何度も練習する事になります。何処を、何を訂正しなければならないのか??という事を理解出来ないままに・・です。
私がlessonをするとすれば、生徒が理解出来ていない場合には、練習をさせる事はありません。無駄な努力ではなく、間違いが癖になって、より不安定な演奏が身に付いてしまうからです。

私が音楽の勉強を始めた頃に、「何故、間違えるのか?」という事を深刻に悩んだ事があります。
私は高校生の17歳ぐらいで、音楽の道に進んだので、一般の音楽大学を受験する生徒達とのlevel差や、キャリアの差に悩んでいました。
私が音楽の勉強を始めたのは、大学病院の入院から1年間の自宅療養に切り替えて、高校に復学した高校の2年生の遅い年齢で、やっとPianoの勉強を始めたので、音楽の道に進むために音楽の勉強に勤しんでいる音大受験生達とは、(音楽の勉強は早期教育が命なので、)周りの人達が7歳で音楽を始めたとしても・・、既に10年の開き(遅れ)があり、そのlevelの落差に悩んでいたからです。

「何とか、その10年以上の技術の遅れを取り戻せないのか??」という事で、の練習時間的な事は如何ともし難いので、練習の内容を工夫する事で、少しでも遅れを取り戻すべく、練習の工夫に努めていました。

その工夫の中で、音楽を演奏している時に「間違える」という事で、大きな三つの原則論に気づきました。

それは初歩的なlevelでの「間違いの三原則」と、上級者の「意識的な間違い」という事で、その原則論を纏めてmethode化しました。

人が音楽を演奏して「間違える」のには、3つの要因があります。
その「間違い」を引き起こす3つの要因を、弾けない箇所に当て嵌めて、その原因を分析判断すれば、間違いの原因を簡単に見つけ出す事が出来ます。
そうすれば、pointを絞り込んで勉強する事が出来るのです。
その要因は
①音が読めていない。
②指使いが理解出来ていない。
③指が回らない。
の3点です。この3点を更に詳しく分析して行くと、原因となる要素が見えて来ます。そこまで考え抜く力が必要です。
また優れた指導者は、その原因を指摘出来る先生である・・という事であって、有名であるという条件は当て嵌まりません。
「有名である」という事は日本では、「優れた」という事と同様に思われているのですが、「有名である」という事を望むならば、その「有名になる」ための条件をクリヤーすれば良いだけなのです。
「有名になる」ためのcurriculumを作れば(projectを作れば)良いだけなのです。
だから、「有名である」と言う事と、「実力がある」という事は必ずしも、一致はしません。
その人の着眼点、つまり目的目標が違うからです。

ヨーロッパには、非常に優れた演奏をする音楽家が多いのですが、困った事に無名の人が多いのです。それはその人達が非常に音楽に対してstoicであって、人の前に出るのを好まないからなのです。
私が音楽家の道を歩む事になった、二人の演奏家の一人であるその影響を私に与えたAnton Heillerは、orgelやCembaloを勉強する人達に取っては、神様のような人なのですが、一般的にはそれ程知名度の高い人ではありません。

「練習の話に戻って・・」
繰り返して同じ事を言いますが、・・その3つの要因の内の、「二つの要因」迄は、楽器を練習する必要はない!!‥・という事が分かります。

つまり「間違いの原因」をちゃんと分析すると、練習が必要なのは、3つの要因の中で、ただ1つの原因の場合だけなのです。

これで、見違えるように練習が楽になり、pointを集中させて練習する事が出来るようになります。

練習が必要となる・・という場合には、楽器上で、機械的な練習が必要となりますが、中級、上級klasseになると、指の練習が必要な事は、滅多にありません。

楽器を使用して練習が必要なcaseは、初歩的な「指が回らない」という理由以外では、(つまり、中級の生徒や、上級の生徒の場合には)音楽的な表現の練習に楽器を使ってその表現の練習をします。
rubatoや「溜め」、シテとワキの会話(質問と答)となるnuance表現等々です。
また、和音の音の粗密や、passageに於ける音の粒を正確に聴き取る勉強も必要になります。

2つ目の理由では、「指使いの間違い」という場合があります。
「指使いの間違い」という意味は、一般的には、決められた指使いを守れない・・という意味になりますが、ここの前提では、その「指使い」の付け方自体が間違えている・・という事です。

音楽大学では、「指使い」の付け方を学ぶ事はありません。
楽譜に書かれた「指使い」をひたすら、真面目に従順に守る事が求められるだけです。Henle版が外国人の大人の男性のために書かれていたとしても、日本人の子供にHenle版の「指使い」を、何が何でも守る事が大切なのです。そのために子供の指が壊れてしまったとしても、それはその生徒がPianoに向かなかったというだけなのです。

もし、先生が「指使い」を付けなければならない状況になったとしても、Pianoの指導者達は、自分の好みの「指使い」を、感覚的、感情的に付ける事になります。だって、一度もその先生が、Pianoを勉強する時に、「指使い」を付ける事をやらされた事は無かったのですから・・」
ですから、「何故、ここはそういう指使いになるのですか?」とでも質問しようとすると、血の雨が降る事になります。

本当は、「指使いの付け方」には、幾つかのルールがあります。しかし、そのルールを知っている人はいないと思いますよ。
つまり、一般的な音楽指導の現場では、指導する先生の「好み」によって、「指使い」が付けられる・・と言うのが、殆どでしょうかね??

つまり、その先生が音楽大学の学生であった頃も、「指使い」の付け方の原則等という理論は習った事がないはずなのですからね??
ですから、殆どの先生が「指使い」を付ける時には、その先生の一番弾きやすい、「好みの指使い」でしかないのです。※1)

「指使い」が、そう言った情緒的、感情的なものであれば、必ず、misstouchが起こります。
私も元に来た音大を卒業してproを目指す最初の生徒も、他所の教室で音楽の道を歩もうとして、挫折をしかかって、私の元を訪れた中学生の生徒も、その根本的な原因は「指使い」の不安定さでした。

その生徒達は、既に「指が回る」し、曲も大曲を演奏するので、一々「指使い」迄に神経を使うのは、困難で、間違えた「指使い」を、lessonで指摘されても、本人はそこが分かってはいても、それを直すのは困難で、挫折し掛かっていて、私の元に救いを求めに来たのです。
ですから、「そこの指使いが間違えているよ!」と指摘する事は、無意味なのです。
それが分かっていて、私の元に来たのですから、そこを指摘するのは、主客転倒なのですからね。

私はその修正を、先ずは、「指使い」の原則論を生徒に説明し、理解させて、それから小さな生徒の「指使い」のcheckの手伝いを扠せました。(その生徒の指使いのミスを指摘する事は絶対にありませんでしたよ。)

しかし、半年後には、その生徒の「指使い」によるポロミスが、全く劇的に無くなったのですよ。
挫折の原因が無くなれば、夢と目標の達成は難しくはありません。目標の音楽大学も夢では無くなったのです。
次は、通常の受験のためのcurriculumに戻るだけです。

そう言う風に、一般では「指使い」はその先生の好みで付けられるのですが、本当はそう言った事は、有り得ないのですよ。
あくまでも論理的なルールに則ったものでなければなりません。
次に、大安売りで、正しい「指使い」の原則論を説明しましょう。

その一つは、「同じMotivは原則として同じ指使いをする」・・という事なのです。
此処で「原則として・・」と、恰も弁解のような言葉が挿入されているのは、Pianoの場合には白鍵と黒鍵があって、同じ指使いを使用出来ない場合があるからです。(弦楽器の場合も移弦を伴った場合があるので、原則は原則であり、柔軟に対応しなければなりません。)

二つ目の「指使い」は、blockによる「指使い」です。これは私のmethodeというよりも寧ろ、Leimer and Giesekingの「指使い」のmethodeであると言えます。
手の型を固定していて、鍵盤上を素早く動かして行くという手法です。この方法論の条件は、fingerstaccatoで非常に早い動きを伴った場合と言う事です。
音楽が遅い場合には、この方法は使用出来ません。
「型」なので、とても素早い動きをする事が出来ます。

3つ目の法則は、passageを和音として還元して、legatissimoの「指使い」を付ける事です。
この法則では、legatissimoの指使いとして、幾つかの「指使い」が考えられる場合がありますが、その考えられる「指使い」は、「換え指」として、学習して起きます。

会演奏当日の演奏上のconditionで、換え指を持つ事は、管楽器では極々普通です。私の場合には、1つの問題箇所の指使いを、複数の指使いで演奏出来るようにします。

ここでは、3つの「指使い」の原則論を挙げましたが、その法則で「指使い」に於ける殆どの問題は解決出来るはずです。

私がPianoを学び出した時に作りあげた、「間違いの3原則」ですが、その内の一つが、「指使い」に拠る所の「ポロミス」でした。※2)後述・・・

「間違いの三原則」の、他の二つなのですが、「指が回らない」という事についても、多くの指導者達は、無駄な練習を生徒達に強いています。Etudeは、医者の出す病気を治すための薬のようなものですから、私の場合には、Czernyの30番から50番迄や、cramerのEtude、その他のEtudeから、その生徒一人一人にあった(一番不得手なTechnikの)曲をselectして、練習をさせています。

だから、ポロミスの場合も、その不足している技術の練習曲をその生徒のlevelの中からピックアップして練習をさせると良いのです。Etudeは良薬なので、無駄に練習させると、弊害になりこそすれ、良い結果を産み出す事はないのですよ。

「間違いの三原則」の最後の一つは、何と「譜読み」なのです。
某国立の音楽大学を目指す高校生を教室の生徒が連れて来た事があります。

勿論、某国立の音楽大学の先生に師事している生徒です。
「Bachが遅れているので、少しadviceが欲しい」という事だったのですが、本来ならば、有料なのですが(笑)、「生徒が連れて来た」という事なので、その場で見てやる事にしたのですが、まあ、驚いたネ!!Bachのsinfoniaなのですが、音の伸ばしが全く出来ていないのですよ。

それも、その箇所を、先生に一度も指摘された事がないのですよ。私は、Bachのinventionやsinfoniaを指導する時には、Piano専科の生徒達には、安いKeyboardを買わせて、Bachの書いた音の伸びを意識させるようにしています。

また、sinfoniaの場合には、3声のpartを、右手と左手と、私が残りのpartを演奏して、声部の独立を意識させて、音のMotivの表現を練習させます。
2声部の時から、生徒に1声部だけを演奏させて、先生がもう一つのpartを演奏して、Motivの細かいarticulationを練習させるのです。

上級の生徒達が引っ掛かっているようなpassageは、どうせ、声部が込み入っているので、演奏が出来なくなっているのです。
だから、そのpassageの込み入った声部を分解して、各part別にして、演奏させると、1回のlessonで、そのpassageが弾けるようになってしまいます。
つまり、頭の中で、複雑なpassageが、それぞれのpartに分離して聴けるようになったからなのです。

また、そう言った上級classの生徒でなかったとしても、早い時期から、passageの拍節法(articulation)を勉強して、小節単位ではない、Agogikを学んでおくと、そう言った譜読みの問題は起こりません。

暗譜の問題はもっと別の初歩的な「うろ覚えの問題」なのですからね。

Facebookの入力のトラブルで、全く文章が打てなくなって来たので、Facebookの入力は此処までにします。
明日になれば、少しは元に戻っているかも知れないので、その時に、入力出来なくなった文章を直します。
今日はこれ以上は、何をしても入力出来ないので、今日は諦めます。(これはFacebookには何度も注意を促しているのですが、未だに改善は認められません。英語で入力する時にはこの問題はでないのかね??本人達の自覚はないようです。)

※1)以前、冗談で、Pianoの先生に、Beyer教則本に指使いを付けさせた事があります。Beyer教則本も後半になって来ると指使いが書いていないので、子供がついつい勝手な指使いをして来る事があるのです。ですから、子供達がそう言った間違いをしないように、確認のために指使いを付けさせようと思ったのですが、これが冗談になってしまいました。
Beyerの意図は、指使いの原則を指導するための教則本なので、最初の課題に指使いを書いておくと、後は「以下同文・・」になります。しかし、その「以下同文・・」が音大卒業の先生に出来ないのですよ。
 
そのPianoの先生は「音楽大学の学生の時代に、先生から一度も指使いの付け方を習った事がないので・・」と弁解をしながら、深刻に、指使いを付けるために、楽譜と向き合って悩んでいました。
「ヒョッとして、この先生はBeyer教則本が指使いを指導するためのmethode(教則本)だと言う事を知らないのかいな??」と、改めて驚いてしまいました。

教則本の意味が分からないままに、初歩の教則本を使用するという事は、それでは、「初期指導は無理だよね!!」という事です。

※2)「ポロミスとポニョミスに付いて」
曲がある程度弾きこなせるようになった時に、演奏している時にミスをする場合があります。
このミスを犯さないように指導する事は頗る難しい‥・し、また生徒達もそのミスを犯さないように演奏する事が困難で、一つの大きな課題になっていました。

という事で、生徒達のために、ある程度弾けるようになったにも関わらず、演奏の度に、ミスを犯してしまう、というmistakeをポロミスとポニョ・ミスの二つに分類しました。

ポロミスとポニョミスの探し方、分類の仕方は、小さな子供達の場合には、10回繰り返し演奏した時に、犯した時のミスの箇所を赤鉛筆でcheckをして、同じ小節の中に赤のcheckが二つ以上入って来た場合には、それはポロミスであり、そのmistakeには必ず原因があります。だから、「間違いの3原則」に照らして原因を追求しなければなりません。

10回繰り返し演奏して、そのミスが1回だけで、randomに楽譜上に散らばるようならば、それはポニョ・ミスになり、精神的な原因になるのです。

ポニョミスの原因は、単なる意識の問題の場合と、「暗譜が不確か」である場合があります。
暗譜の不確かさを、私はウル覚えと呼びます。
その箇所がウル覚えであれば、譜面をちゃんと検討して、正確に覚え直し、その箇所を意識を持って演奏出来るようにすれば良いだけなのです。
このポニョミスの場合には、Pianoや楽器が傍にある必要はないのですよ。ですから、楽器のない場所、お風呂や「音入れ」で楽譜を確認すれば良いのです。(何時でも、何処でも勉強出来る・・という意味です。)

次にconstantに練習が出来なくって、発表会の直前にならないと練習をしようとしない生徒達のお話をします。

「芦塚先生の鬱々コンサート」
演奏は、2013年6月30日の八千代市生涯学習プラザ主催の対外出演の風景です。
曲は音人の会の生徒さんが「ジブリ風の音楽でTelemannのアリアなんですが、楽譜があったら、是非演奏して欲しい」というリクエストを受けて、楽譜を探してみたのですが、見つからなくって、You Tubeで演奏を探して見たら、それらしいのがありました。
Kurt RedelのarrangeのTelemannのAriaです。

Kurt Redelの演奏は大変美しく、本当にジブリ風なのですが、originalの楽譜には程遠いarrangeでした。
originalのMagnificatの演奏はYou Tubeでも簡単に見つける事が出来たのですが、それはBachのcantataやoratorioに近いもので、ジブリ風とは言い難い本当のcantataで宗教的な感じの曲でした。
originalのTelemannの楽譜を注文したのですが、海外発注で演奏会までには、楽譜が着かないようなので、今回は私なりのKurt Redelの演奏の耳パクで楽譜を作成しました。
勿論、Kurt Redelの楽譜は出版されていないし、また、仮に出版されていたとしても、Kurt Redelのorchestraは大編成のfull-orchestraなので、楽譜があったとしてもそのままは使えません。
また、Kurt Redelのarrangeには幾つかの音楽理論上の間違いもあったので、それは私のarrangeでは訂正させて貰いました。
でも、Kurt Redel風というか、ジブリ風と言うかの、「その曲の雰囲気は、表現出来たかな??」と思っています。
2013年5月15日の朝までに、wineを飲みながら書き上げました。すっかり、飲みすぎたかな??アハッ!


https://www.youtube.com/watch?v=bm3iMM4cj2w




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4月7日 ·
「芦塚メトードによる正しい学習法、その4」

「発表会が近づかないと練習をしようとしない生徒の場合」
「練習をちゃんとしなさい!」と幾ら親が叱っても、発表会の直前にならないと、練習をしない生徒に対して、親が幾ら毎日毎日「練習をしなさい❗」と、言っても言う事をきかない分けなのですから、私がお説教をしても、言う事を聞く分けはありません。
私は、無駄な事が大嫌いな性格なので、そういう無駄な努力をする事はありません。

でも私は、よく回りの人達からは、「芦塚先生のお話しは子供達はよく聞くよ‼」と言われますが、それは勘違いです。
実は、私は子供達が喜んで受け入れてくれる話しをしているだけなのです‼

という事で、私が勉強をしたくない生徒に対して、「練習は毎日ちゃんと、するように‼」と、強制する事は絶対にありません‼
私が生徒に、嫌な練習を強要したとしても、もし、まかり間違えて、生徒が私の言うことを素直に聞いたとしても、それで生徒が上手くなる分けでもなく、練習の能率が上がる分けでもないからです。

但し、「練習の効率」のお話はよくします。これは、生徒にとってもかなり良い条件だからです‼
それは、発表会直前で必死になって練習をして、何とか発表会に間に合わせるタイプの生徒が結構多いのですが、それならば、私のadviceとしては、同じ発表会直前の2週間の努力を、楽譜を貰ってからの2週間の間を、一生懸命に頑張るように練習のタイミングを切り替えるようにadviceをします。
生徒にとっては、同じ努力を時期を入れ換えるだけなので、総合的には、練習の量が増える分けではないのですからネ?

オケ練習ではオケbackを演奏する生徒達は、殆ど全員が上級生で、生徒が弾くその曲は上級生達は、最低でも一度は学んだ事があるので、初見同様でも、in tempoで演奏が出来ます。
ですから、最初のオケ練習から2,3週間の間に、soloを演奏する生徒が全く下手な状態であったとすると、「何だ??これくらいか??」と上級生達に思われてしまって、練習をして来てくれなくなります。本番の直前でソロの生徒が幾ら挽回をしたとしても、そこで上級生の人達が結構練習をしてくれる分けではないのです。

しかし、最初の1,2週間で頑張って練習をすると、「オット、これは頑張っているじゃん!練習しとかないと、危ないぞ!」「上級生としての沽券に関わるぞ‼」と、一生懸命練習をして来てくれます。
その後の練習では、オケが上手で練習を積み重ねるのと、オケが下手で練習をするのでは、どちらがより上達すると思いますか??

これはお姉さん達が伴奏する場合でも同じなのですよ。
だから、同じ2週間しか、練習を真面目にやらないとしたら、最初の2週間に頑張って練習するのと、発表会の直前の最後の2週間で練習するのでは、成果に大きな差が出来るのですよ。

まあ、constantに毎日練習する生徒達には、無駄な無意味なadviceなのですがね・・・??
教室の生徒達と言えど、そんな勤勉な人達ばかりではないのでね。アハッ!

この私のadviceに耳を傾けて、発表会直前の練習を、譜面渡しの直後の練習に切り替えた生徒達は、その後は練習そのものが楽しくなって、自然に日頃の練習も出来るようになっています。だから、これは日頃の練習が楽しくなる秘訣でもあるかも知れませんよね??

「芦塚先生の鬱々コンサートより」
2013年12月22日千葉市検見川町花園教室のクリスマス会での演奏です。

この1年前、2012年11月26日の八千代では、originalのMüller-Hartmannのversionで、演奏しましたが、今回のクリスマス会のversionは全くrenewalされた新しい芦塚versionでの演奏で、かなり難しくなっています。

Pachelbelのchaconneは、originalの楽譜はorgelのための作品なので、八千代で演奏したMueller-Hartmannのarrangeは、Pachelbelのoriginalのorgelの3声のpartをそのまま、弦五部に移したものなので、曲の密度が薄く、arrangeの評判も今ひとつ良くなく、殆どのproのorchestraの演奏では、Mueller-Hartmannのarrangeを底本にして、更に編曲されているのが普通です。

私も、八千代の演奏の後で、しばし悩んでいたのですが、どうしてもMueller-Hartmannのarrangeに納得が行かないので、やはり曲を書き直すことにして、何とか、このクリスマス会の3週間前に書きおろしを直しました。

実際にクリスマス会で演奏するにあたっては、曲想も音楽的なimageも、おおよそクリスマス会には似合わない曲なのですが、敢えて「Probe(試演)」として演奏する事にしました。

教室のお楽しみ会という趣旨のクリスマス会なので、普段の仕事で忙しいOB,OGの方たちの助っ人出演が全くない状態なので、指導の斉藤先生一人だけ・・を除いたら、全員、純粋に現役の生徒達だけの演奏で、斉藤先生を数に入れても、僅か12名の中、高生達のorchestraなので、少し、技術や迫力に欠けるのかな?? とも思いますが、member的には仕方がありません。

練習も、本番迄の期間が、たった3週間しかなかった上に、毎週日曜日の練習も、学校や塾との兼ね合いで、練習に来れなくなる生徒が続出して、曲の出来具合は今一なのですが、まあ、それでも、生徒達は、それなりに一生懸命に演奏をした‥・という事で、ご勘弁をしてください。
アハッ・・!


https://www.youtube.com/watch?v=lglnDN0I_7Q



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4月11日 ·
「子供の夢」「親の夢」

9日は発表会をお手伝い頂いた大人スタフの慰労会と、子供達の反省会でした。楽しく有意義な時間を過ごしました。

大人staffの慰労会のお話としては、「本当に(潜在意識的に)その夢を叶えようと望むのならば、夢は必ず叶う」という私の信念についてお話をしました。夢が実現しないのは、誤った選択肢をしてしまうからで、正しい選択肢をするのなら、夢は必ず叶うはずなのです。
しかし、それが難しいと言われる所以は、大人は夢を色々な色眼鏡で見てしまうからなのです。
もし、自分の目が色眼鏡であるか否かを冷静に判断出来るのなら、夢は100%叶える事が出来ます。
今回はその中のthemaの1つである、「子供の夢を叶えようとする親と、親の夢を子供に叶えさせようとする親がいる」というthemaに絞ってお話をしました。

「夢=将来の願望」が「子供の夢」と「親の夢」が同じである場合には、全く持って何の問題もありません。
しかし、こういった恵まれた環境に有りながら、(天の声としては、それは理想的な環境のはずなのですが、)人生には色々な選択の道があり、それを誤ると目標には到達出来る事はありません。100%の環境があったとしても、それで、夢が叶う事が保証される分けではないのです。
その最たる例が、指導者の選択です。
指導者の選択を間違えてしまうと、夢を叶えられる事はありません。優れた指導者とは、地位のある指導者でも、有名な指導者でもなく、proを育てた事のある指導者だけなのですから。

また、親が子供に対して、自分の夢を押し付ける場合も多々あります。一番多い例は、父親が自分の女の子供に対して、中学生ぐらいになってくると、自分の初恋の人に対してのimageを抱いてしまう事です。外から軽くそう思っている場合には、なんの問題もありませんが、それがまま、極端に現れる場合もあります。父親の場合には、子供が小学生の時にはなんの問題も起こらないのが特徴です。
それで、父親が女の子に対して、親の夢を描いたとしても、子供が親の夢と自分の将来に対して、「そんなには嫌な選択肢ではない!」という場合には、何の問題もありません。
夫唱婦随の儒教の国である日本では、親の意見には、波風を立てない平々凡々な日常が良しとされるからです。特にi dentityのない子供の場合には、親の言いなりになるのは結構心地良いものだからです。

唯一の例外的なcaseは、子供が自分の夢を持ち、その夢を親が否定し、自分の願望を押し付ける場合です。その多くの例は、父親が子供を、自分の身の傍から離さない事です。自立を扠せないで、自分で将来的も面倒見ようとします。
しかし、多くの場合には、そう言ったcaseでは子供が大学を卒業する迄には、一番父親が望まない形で家を出てしまいます。
それも、心理学的には、当たり前の事なのですが、将来の事になるので、それを認めて、自分の行動を改める親はいません。

更に、子供が余程の「孝行娘」か、さもなくば自己主張の弱い性格の場合には、自分の願望を押し殺してまで、親の希望に従おうとします。
でも、それは挫折を伴った歪んだ性格を、将来的に産み出してしまいます。
無理矢理に、子供の心を否定して、親の願望を押し付けて、子供がそれをちゃんと聴いたとしても、それは子供の人格を否定する事であり、子供を精神的に殺してしまう事なのです。
一度、殺されてしまって、虚ろになった心は二度と戻る事はありません。
自分のi dentityがなく、虚ろのままに人生を他人に指図されながら終わるのです。
引き篭もり等もその典型的な状態になります。
(但し、私の場合の引き篭もりは、単に社会適応が出来ない性格だっただけで、親の性ではありません。全く、自分自身の性格のせいです。)

また反対に、子供が親に対して従順であったとしても、ある時にその親の抑圧に対して、子供の精神力が、強かった場合には、我慢が出来なくなった瞬間に、親や社会に対して、思いも寄らぬ反抗をする事があります。

よく、マスコミで大騒ぎをしているcaseなのですが、従順で理想的な子供であり、生徒である場合にも、時折見受けられる現象で、成績も良く、親に反抗もした事もなく、生徒達からの信望も厚い子供が、金属バットを持って親を殴り殺す・・という有り得ないマスコミを騒がせている事件です。
アメリカでは、成績も良く、学校での先生や生徒の信頼も厚く、息子としての鏡であった子供が突然、ピストルを手に学校に閉じ籠もって、多数の生徒や先生達を無差別に殺傷したりします。

こういった劇的な例は、例外と思われるのかも知れませんが、よく見受けられる事では、女の子の場合には、真面目を絵に描いたような女の子が、突然、家を飛び出して、歓楽街で、異性との遊びに走って、家に帰って来なくなったりする事なのです。
対処しようと思っても、友達の家を泊まり歩くので、探し出す事自体が困難になってしまいます。

超、笑えるのは、テレビで、「こんなに良い子供だったのに、信じられない!」と、よく自称教育学者の人達や、似非コメンテーターの人達が、その原因は子供自身の資質にあるように言っていますが、それは大変な間違いで、心理学的には、至極当たり前の、教育のミスによる反応に過ぎません。
教育の間違いによる、当然の結果であり、必然的な結果であります。
それを心理学的には「SNBP(負の転換点)」という言い方をします。
「窮鼠猫を噛む」・・にも近い意味になります。

SNBPを引き起こす迄は至らなくても、親のエゴで、それに近い状態を引き起こすcaseもありますが、余りにも事例が多過ぎて、説明するのにも、くだらないので省略します。

37歳の時に、断り切れない諸事情で、音楽教室を作った時に、そう言った教育の諸問題と向き合う事はある程度は覚悟はしていたのですが、現実は、それ以上の色々なcaseがあって、何度となく「教室をやめたい」と思った事も何度もあります。

しかし、たった一人の生徒でも、私の事を信じて付いて来てくれるのなら、やはり、そこは忍耐しないといけないのでしょうかね??

家庭の環境が上手く行っている場合も、上手く行かない場合も、どちらの場合も「家庭の問題」「家族間の問題」なので、私達は介入はしないのが建前なのですが、私が音楽教室を作る以前は、そう言ったお話を保護者の方達とした事は一度もありません。

「音楽の道に進みたい」・・という希望を持った生徒が私の元を訪れて来るので、進学の悩みは既に、結論が出ていて、それ以上悩む事は無いからです。

私と「音楽大学受験生の関わり」は、私自身が、未だ音楽大学の学生であった時代から、東京で生活をするための「親の仕送り」が無かったので、Pianoの教授から、落ちこぼれの受験生を紹介してもらい、受験生の受験のためのlessonして、私の生活の一部としていました。
毎年、その教授の元には100名近い受験生が訪れるそうで、その内の絶対的に合格出来る生徒は教授自らが教えるそうです。

大学の教授達が集まる教授室では、結構、教授達同士で「何人合格させたのか?」という暗黙の争いがあるそうで、「落ちる!」と分かっている生徒を指導する事は、教授間のそう言った争いに、問題があるのだそうです。「その教授の元で、何人の生徒が合格したのか?」が重要な問題で、合格者の人数が問題なのではない‥・という事らしいです。

ですから、チョッとちゃんと指導すると、合格出来る可能性のある生徒は、助教授に回し、頑張って指導すれば、合格出来るかも知れない生徒達は、講師の先生達に回して、絶対に合格出来ないというお墨付きの生徒を、毎年、2,3名ずつ、私に回して貰いました。
その絶対的に合格出来ないはずの生徒を、私が指導する教科だけで、全員、音大に合格させたので、教授は大変驚いて、私の指導力に絶大な信頼を持ってくれて、その後、私が留学する迄、落ちこぼれの生徒をドンドン、回してくれました。

私が当時、指導していた受験生は、落ちこぼれであったとしても、「音楽の道に進学する」という前提で私の元を訪れていたので、女の子という条件であったとしても、浪人をするから、私が下見をするという条件でも、そういった家庭での進学に関する親子の問題は無かったからです。

留学から帰って、大学に勤めていた時も、2,3人の生徒を指導していたのですが、音楽を目指すという条件の生徒である事は変わらなかったので、女の子であったとしても、進学に対する問題はありませんでした。

何故、繰り返し、「「女の子」という事を強調しているのか??」というと、いずれにしても、受験生に関する親子の問題は、同じ受験生でも、「男の子」達には関係のない話で、自分達の将来も、進学する大学も、自分達で勝手に決めてしまうので、親の介入する余地はないようなのですがね。母親も父親も子供が男の子の場合には、全く接し方が違うのですよ。女の子の母親と父親とは・・ね??
ですから、私が、こう言ったお話をするのは、生徒が「日本人の女の子」の場合だけなのですよ。

ヨーロッパでは、大学は研究者になる人達のみが入学します。
ドイツでは、何らかの職業に従事したい子供達は、小学4年生から、靴屋になる生徒は靴屋の学校、パン屋になる人はパン屋の学校(Handelschule=商業学校,Berufsschule=職業学校)に行くと決まっているので、高校(Gymnasium=ギムナジウム=中、高一貫校)や大学に行く人は、専門性の高い勉強をしたい学生だけです。
「チョウチョ」で知られているギルドの唄も、中世の時代からの専門性の高いドイツならではの学習形態の話だからです。

日本では、「何故大学に行くのか??」「どうしてその大学でなければならないのか??」という事が塾や学校の成績によるだけであって、「その大学でなければならない」というその理由が皆目、私には、理解が出来ません。
また、日本の大学は、よく何をやっているのかが、分からない大学が多すぎます。テレビで、受験生が、「大学に行って遊びたいから勉強をしている」という分けの分からない事を言っていましたが、それは多くの大学生の本音かも知れませんよね??

ドイツやヨーロッパの大学は、余りにも日本の大学とは違い過ぎるので、比較の対象にはならないのですよ。
日本の大学は、まるで、女性のバッグのbrandのようです。
「どこそこの大学の方が、知名度が高い!」どこそこの大学出身という肩書を付けるための大学受験です。
でも、大学は、その教授のゼミで、学習の内容が決まるのですよ。自分が付きたい教授がいないのなら、その大学にはどうして行くのかな??・・・だから、大学をbrandとして見ていると言っているのです。
男の子達は私の話をよく聴いてくれて、共感してくれるので、進学に付いての悩み相談はありません。どの大学のどの先生が良いのか?の具体的な話だけです。

女の子の場合には、自分自身のi dentityに対して、主体性が乏しいようです。
古代中国の箴言である、「女性は幼にしては父兄に従い,嫁しては夫に従い,夫死しては (老いては) 子に従う」ものとされ,それを良妻賢母とする風潮が、現代の日本社会にも歴然としてあります。今日、その思想の元である中国には、そう言った儒教的概念の影響は最早ありません。
なにせ、共産主義にとっては、儒教は真逆の理論なのでね。

日本人の女の子達も、自分の受験や将来に対しての望みは、漠然とは持っているのかも知れませんが、そこで、親の願望のズレで、悩んでいる子供達が多いようです。
それは日本の女の子達の独特の感性によるものなのでしょうね。
親が子供に頼るのか、子供が親に頼るのか、よくは分かりませんが、私にはそのどちらの立場も、理解出来ません。

ヨーロッパやアメリカでは、高校生や大学生ともなると、勉強を続けたければ自立してバイトをしてでも、自分の力で大学に行くのですよ。
少なくても、私の外国の女の子の友人達は、皆そうしていましたがね。

昔、私が大学に入学した頃に、「音楽大学の入学式や卒業式には、親が来る!」と言って、親子離れの問題に、驚いていたのですが、一昨日は、テレビで、「会社の入社式に親を同伴させる会社が出て来た!」という報道をしていて、おったまげてしまいました。

企業側の言い訳は、折角の一流企業に入社しても、入社式に出ただけで、次の日から会社に来なくなる・・という若者が多いので、その防止策なのだそうです。
つまり、「会社に行くように、親に指導させるために、会社に対しての意識を持たせる」という意味だそうです。
益々、よく分からん!!
普段はそういう事は全く言わないように気を付けてはいるのですが、鬱が酷いとついつい、愚痴りたくなってしまいます。

「その後」
お手伝い頂いた保護者の方達の慰労会と子供達のstaffの反省会が終わったら、洗い物や、食料品はそのままにして、検見川教室に移動して、習志野の対外出演組の練習をしました。
専科組は、流石に上手になって来ていて、私が、その課題の曲をcheckをして、注意をすると、その場では、そのように演奏出来るので、後の課題は、本番の会場でも、その技術を充分に活かした演奏が出来るか否か??・・が、これからの課題になります。

そのためには、演奏活動を続けて、場馴れをする事が大切です。
普段の練習では幾ら出来たとしても、本番でそれが出来なければ、それは意味はないのだからね。
という事で、今回は習志野には私は行かない事にしました。
顔が見えると依存してしまうのでね。

習志野の練習が終わって、花園教室での、反省会の後片付けも、千夏ちゃんと梨紗さんが、時間ギリギリ迄頑張ってお手伝いしてくれました。
二人にも、感謝!感謝です。proとしての自覚が出て来たと思います。それが本物になるのも、後一息の所です。

「その後のその後」
後片付けが終わって、ニャンコ号で東京への帰り道辺りから、私は強烈な鬱に襲われて、次の日も鬱が継続したために、一日七転八倒して、体調、体力的にすっかりと参ってしまいました。
牧野先生も、8度超の熱で花園で寝込んでしまいました。
インフルでは無かったようなので、取り敢えずは良かったようですがね。

私は次の日の月曜日も、鬱が続いたのですが、それ以上に体調不良で、下痢でトイレにしがみ付いている状態に、一日悩まされてしまいました。
ただ普段ならば、疲れ過ぎると、夜が眠れなくなってしまって、次の日や、次の次の日迄体調不良の影響が及んで、酷い時には、1週間丸々の間、鬱が続いてしまうのすが、その日は、夜は比較的よく安眠出来たので、次の日の鬱は、大分楽になっていました。

私の鬱の原因は、心臓の不整脈等の体調不良から来る鬱と、精神的なstressが原因の鬱があるのですが、いずれにせよ、睡眠不足はその両方に掛かる根本原因でもあります。
眠れなくては、疲れは取れないし、精神的にも良くはなりませんからね??
夜のプリドルの散歩は、普段は絶対に飲まないのですが、散歩中に下痢になっても仕方が無いので、下痢止めの薬を飲んで散歩に行きました。(勿論、私は通常、下痢止めは飲まないので、下痢止めの薬は持っていません。下痢の本来の目的は、体に入って来た毒を対外に排出するのが目的なので、下痢は基本的には止めない方が体に良いからです。と言う事で、下痢止めの薬は、斉藤先生に貰ったものです。)

「話は少し戻って・・」
日曜日の夜は、余りにも鬱が酷かったので、「夜遅くても、行きつけの寿司屋にでも飲みに行くか??」と思っていたのですが、自宅に辿り着いたのが深夜も3時過ぎだったので、流石に飲みに出かけるのは諦めておとなしく寝たのですが、次の月曜日の夜も鬱が続いていたので、「日曜日の代わりに飲みに行くか??」と思ったら、プリドルの散歩が終わって、日曜日の残り物の食事を済ませたら、なんとなんと、深夜の2時になってしまっていて、再び、飲みに出かけるのを諦めざるを得ませんでした。
だからと言っても、部屋で一人で飲むのも、鬱が酷くなりそうなので、よしといた方が良いのでね。
今更鬱なのに、更に鬱になったら、目も当てられないのでネ。

でも、普段は、一人で酒を飲む事自体は嫌いではないのですよ。色々な昔々の燗徳利で、地酒を愉しんだり、wineをビードロのグラスで愉しんだりしていますが、近頃は、お酒が全く飲め無くなってしまって、寂しい限りです。カンダの社長も2,3年前から飲めなくなってしまったと、同じ事を言っていたよな??

「話を変えて・・」
鬱や体調不良を、仕事をサボる口実にしていても仕方が無いので、頑張って、videoの編集をしました。

しかし、videoの編集は難しくって困ります。
videoのsoft自体は、色々な事が出来るので、気に入っているのですが、兎に角、取説がないので、使い方が分からないので困ってしまいます。
ですから、netのYou Tubeにupされている解説のvideoを、print outして、30穴のfileで取説を作ろうと思ったのですが、余りにも簡単なので、1Pageをprint outして、後が続きません。簡単過ぎて取説が出来ないのですよ。

編集の作業をしながら、Händel=Ashizuka‐versionのpassacaglia gの事をふと思い出して、「そう言えば、この曲を作ったのは、昨年の正月だったよな??」・・と思い起こして、Facebookを遡って見てみたりしてしまいました。
読んで見ると、2016年の1月13日の深夜から取り掛かって、朝の7時頃には作りあげて、一人乾杯をしていたというお話が、Facebookに載っていました。

一応、曲のimageとして、パソコンの音源でYou Tubeにuploadをしていたのですが、折角、Concerto Grossoで、solo‐violinと、tuttiを対立させて書いていたのに、violin属の音が、同じ音色に聴こえて、音楽的な立体性が出なくて不本意でしたが、notationのsoftであるfinaleの付属の音源で、作りあげたdataをupしているので、致し方ありません。
音源専用のmixing‐softを使えば、音的にも、もう少しはマシになったとは思いますがね。

この半年の間、Händel=Ashizuka‐version のpassacaglia gの練習は、「春待ちコンサート」や発表会の練習が間に合わないために、(練習の曲数が多すぎたために)練習時間が足りなくなって、何度も練習のprogramから、当日に割愛されてしまったので、兎に角、本番までの練習が間に合っていません。

後半の最後の二つのVariationは、練習の量だけではなく、技術的にも間に合わなかったのですが、それでもやはり「生音」(なまおと)は良いものです。・・という事で、音楽的な出来上がりは余り良くないのですが、取り敢えずuploadしておきます。
一応は、私の擬古典の作品の1つなので・・・

「芦塚先生の鬱々コンサート」
Händel‐Ashizuka‐versionのpassacaglia gです。

https://www.youtube.com/watch?v=joUKxFqQD70

体調悪い中、youtubeのアップありがとうございます。今日はまた冷え込み明日は18度と暖かくなるとか。体調、お気をつけください。
牧野先生、前日からの準備に日曜日立ちっぱなしでしたよね…インフルではなくて良かったですが38度超えはつらいですね…
4月11日 8:32


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4月11日 ·

教室推薦の演奏会
..

(※1に往年のpianistのお話を追記しました。本文にもアボガド巻きのお話やその他少し膨らまして起きました。 ※2.の後に、draculaの映画の話を少し追記しました。16年4月18日の変更分です。)

保護者の方達からの「教室推薦の演奏会を聴きに行きたい・・」と言う申し出があり、優れた演奏家の人の来日を待っているのですが、中々、本当に聴いて欲しい人が日本に来ないので、困ってします。

・・と言うか、本当の名人と呼ばれる人達はその殆どが鬼籍に入り、若手の人達は、未だ少し往年の名演奏家の人達と比べると奥深さが足りないからです。※1.)

教室推薦の演奏家でCDやDVDで聴ける演奏家はhomepageの方に著名な演奏家の名演奏のレコードをupしているのですが、ご質問は生の演奏会のお話だったので、困っているのですよ。

「音に対する考え方のお話」
それから、教室が推薦する演奏家は、「何故、日本人の演奏家ではだめなの?」という質問もあるかも知れませんよね??
当然の疑問ですよネ。

教室が日本人の演奏家を推薦しないのは、それは音(音楽)に対しての考え方がヨーロッパの演奏家と日本の演奏家では全く違うからです。

音に対しての考え方・・というと「Pianoやviolinの音」、所謂、音色と思われるかも知れませんので、音に関して言えば、「それは好みではないの?」と思われるかも知れませんよね??
確かに、音色と言うと、「好みの要素」の部分もあります。

しかし、ここで、私達が言っている「音」とは、「音、そのもの」の出し方の事なのです。

「音の出し方」そのものが違えば、当然、奏法も違って来ます。
弦楽器の場合には、弓の持ち方そのものが変わって来るからです。
(Pianoの場合には、touchそのものが変わって来ます。)
また、弓の持ち方や演奏法が違えば、当然、演奏styleも変わって来ます。

また、baroque時代や古典派の時代では、楽器の形態や作曲の様式で、現在演奏されている演奏様式とは、根本的な違いがあるからです。ヨーロッパの人達にとっては、音楽は伝統芸能なので、traditionalな決め事、所謂、約束事としての、必ず守るべき事があります。
そこの所をしっかりと押さえておかないと、ヨーロッパ人の「蝶々夫人」や、「忍者」になって、eccentric(エキセントリック=珍妙な)な音楽になってしまうのですよ。アボガド巻きが寿司か否かは、この際どうでも良いとしても・・です。

日本人が西洋音楽、洋楽として、日本に音楽を取り込んだ明治時代の初期には、日本の教育水準としては、まだそういった音楽の学術的な考証迄は、至っていなかったからなのですからね‼※2)

大元のEuropeの演奏styleでも、ロマン主義的な様式で演奏する往年の名演奏家の演奏styleに心酔している人達の演奏様式は時代考証がなされないままの演奏です‼
しかし、Epigonen(=追従者、模倣者、亜流)の人達とは違って、大元の大家の演奏では、それが、未だ学術的には証明されていないとしても、伝統(traditional)として、そのperiodの上に表現が成されているのですょ。

私が未だ若い頃、ドイツ留学中にMünchenの映画館で見た3流のオカルトの映画(言葉が未だ不自由だったので、ドイツ語の勉強のために、よく映画を見に行きました。)では、draculaの親族達が集まって、Menuetを踊るシーンで、ちゃんとbaroque-danceで踊られているのを見て、驚いてしまいました。

また、同時期に見た映画で、Wilhelm Friedemann Bachの伝記映画をみたのですが、Friedemannが令嬢に、Cembaloのlessonをするシーンがあって、Bachの単純なMenuetの曲を「それは、こう弾くのですよ!」と模範演奏をするシーンでは、ちゃんと和音が充填されて、壮大なimageで演奏されて、その時代考証の確かさに驚いてしまいました。(後ろの席の老夫婦が、オロロン・オロロン泣いているのには、参ってしまいましたがネ??)

日本では、音楽大学の教授ですら、そのようには演奏出来ないのにね???・・というか、C.P.E.Bach風に、和音を補充しながら演奏したら、日本人の教授達は怒り出してしまうのよね!!「何処にそんな事が書いてあるのだ!!」ってネ!
‥・当時の音楽の取説には、多くの作曲家や演奏家達がその奏法に付いて書いているのにネ!
どれが本当の本物であって、traditionalであるか・・日本の教育家達は、それを知らないのよネ!!

この映画のお話は、私がドイツ留学時代の若かりし頃の、つまり60年代のお話ですよ。
音楽に無関係の、3流映画を作っている人達ですら、そういった伝統を大切にして、時代考証を守って自分の作品を作っているのですよね??
そのtraditionalを忠実に守った上の3流なのよね??
そこの所が日本の演奏家達との致命的な違いで、日本の演奏は時代の重みのない薄っぺらなものに感じてしまうのよね。
でも、知らなければ何も感じないだろうけれどね。
行列の出来るお店には、食通の人は来ないのよネ??
それ、知ってた??
3流処でも、ヨーロッパのtraditionalの力を感じますよね。

また、音楽を聴くという立場の話しなのですが、私達音楽家が、勉強として聴く…と言う事と、amateurの人達が音楽を愉しむために聴く…と言う事では、少し聴き方のapproachが違ってしまいます。…という事なので、本当に、教室推薦の演奏家の演奏が、一般の人達に取っても、参考になるのか否かはチョッと疑問です。
素晴らしい演奏をしていると思われていても、論理的に理解出来たうえでの演奏でなければ、それは単なる情緒的な感覚的演奏にしか過ぎません。

それをclassic音楽(classicというジャンルの音楽)とは言っても、Classic(古典の音楽)とは言わないのです。※2)
感覚的でなく、ちゃんと理論的な裏付けがあって、その上での情緒的な表現でなければなりません。
日本では、論理性を忌み嫌う習性があります。
情緒的に感覚的に演奏するか、さもなくば、無味乾燥に演奏するかの両極端のいずれかの演奏です。

ヨーロッパの場合には、論理的なapproachをして、その基準の中で情緒的な表現をします。日本でも、演劇とかのgenreではtheoryに従った上での感情表現というのは当たり前のお話なのですが、事、音楽の世界になると、theoryとは無味乾燥な理論の世界で、情緒表現には、theoryはないとされています。基本に基づいた音表現は日本のClassicの世界にはないのですよ。

一例を説明すると、教室で子供達に指導する体の揺らしは、情緒的感情的なものではありません。
右半身の構えで、両足を肩幅よりホンの少し広く取って、弓を全弓で演奏すると、重心の位置が移動します。その移動に体の中心を委ねると、居合と同じ体躯の移動が起こります。
その体躯の移動(重心の移動)の仕方を、最初に勉強するのが、PachelbelのCanonです。
それぞれのpartを演奏する子供達が、全く同じ体躯の移動をしていますが、これは、教室独自のmethodeなので、他のorchestraで見る事は出来ません。つまり、体を揺らす事は情緒的、感情的な事ではなく、理に叶った事でなければならないのです。

ましてや、日本では、体を揺らす事は感情的な事とされるので、絶対的にtabooとされます。
日本での、良い演奏とは、仁王立ちで、体を全く動かさないで演奏するのが良しとされるのです。
例え、Kreislerの甘い切ない曲でも、ロマン派の滔々とした曲でも、体は揺らしては行けないのですよ。
それはviolinだけではなく、Pianoの表現でも、全く同じです。
体を揺らして演奏するpianistは、椅子の上で体を円運動させて演奏します。客席で見ていると、船酔いしそうになってしまいます。
本当は、fortissimoからpianissimo迄、体の移動だけで演奏する事が出来るのですよ。
そう言った事は日本人の演奏家は認めません。

ジュリアードの非常に有名なPianoの教授のclassでは、東洋人の女の子のpianist達が、曲のclimaxの所で、お尻を椅子から挙げて、落とす瞬間に出すfortissimoを勉強します。
鶴の一声のfortissimoです。
西洋人の大きな体のpianistに対抗したfortissimoの奏法です。

しかし、日本の音楽大学にヨーロッパから客員教授で来ている1メーター80を越す大きな男性が、fortissimoの所で、お尻のfortissimoを演奏していたのですが、コンサート・グランドが壊れてしまうのではないか??と恐怖したくらいでした。
弦が切れるか、hammerが折れるか、幾らfortissimoが欲しくても、偉丈夫の男性がやるべき演奏法ではありません。
多分、女の先生にその奏法を習ったのでしょうが、意味を考えて演奏しなければならないのですよ。まあ、東洋の僻地の日本に迄、わざわざ、きて来れる先生なんて、その程度な先生だろうけれどね??

まあその話は兎も角として、Pianoの、日本の先生達の場合には、どのような情緒表現でも、体を揺らしてはいけないとされます。
ましてや、お尻のfortissimoの奏法は、許されない奏法の最たるものです。
ヨーロッパやアメリカでは普通に奏されている奏法が、日本では認めて貰えないのですよ??
全く、信じられん!!
全く音楽表現の意味と言うか、表現の根本、基礎が違うのですよ。

教室で勉強をしている生徒達の場合にも、生徒達の音楽の技術水準が上達するに從って、演奏家の好みも変わって行きます。
「昔は、あんなに素晴らしい演奏家だ!」と思えた人が、1年後、2年後には、然程に感じなくなってしまう・・という事がよくあります。
生徒は、一生懸命、勉強をしているのだから、演奏家に対しての批判、批評力が身に付いて来るのは、当然の事なので、演奏家の好みも変わって来るのは、至極当たり前の事かも知れませんよね。
しかし、音楽の勉強を全くしていない保護者の人達からも、同様のお話を聴く事がよくあるのも、面白い事実です。
子供達の勉強を見ていて、音楽の聞き所が自然と身に付いてしまうのでしょうかね??

上級生の場合には、批判力も身に付いているので、問題はないのですが、問題となるのは、その過程の「練習なかば」「成長とちゅう」の子供達の場合です。
子供達が、演奏家に憧れを持つ事、夢を持って、自分の目標として尊敬をする事は大変喜ばしい事なので、教室としてもそれを敢えて批判、批評する事は基本的には余りしたくありません。

しかし、それを放置する事で、子供達が正しい音楽を学習する上で、(特に日本人の演奏家の場合には、音楽事始めの150年も前の時代からの誤った演奏のstyleである)日本人特有の音楽的な悪癖が、色々と子供に影響を与える事が多く、学習する上で甚だ不都合が多いので、困ってしまいます。
その最たるものが、日本人の持つ音への感性の問題です。

高温多湿の国である日本の弦楽器の演奏家達は、日本独自の音の出し方をします。
その独自の音に対する感性は、それが日本人の生活の中で自然に身に付いている音の感性なので、日本人に取っては自然な感性だから、その音に対して、違和感というものを感じないのです。

でも、日本人の演奏するviolinの音をよく聞くと、二胡の音にしか聞こえないし、celloを演奏している日本人の音はどう考えても、馬頭琴の音です。
おおよそ、西洋のコンサート・ホールでの、よく響いた共鳴された音ではありません。
それが何時も繰り返し注意を促している日本人独自の音の感性なのです。

日本人に取っては、日本独自の歌い回しの特徴である演歌の小節(こぶし)や、浪花節のしゃがれた押さえつけた声は、西洋人には、堪らなく汚い音に聴こえてしまいます。Genzmer先生も、「歌舞伎の独特の発声迄は、何とか堪えられるのだが、浪花節に至っては、許しがたい!」と言われてました。

しかし、そう言った発声法は、日本人には、とても聞き慣れた(gewohntな)発声法にしか過ぎないのです。
その押さえつけた音に対する日本人とヨーロッパ人の意識の差は、致命的と言える程、とても大きいのです。
また、そう言った押さえつけた音や、キリキリと喉を締め上げた音のお話だけではなく、noiseに対しての日本人の感性の問題もあります。

日本人のpianistの多くの人達は、西洋の演奏家に比較して、pedalを使い過ぎる傾向にあります。
pedalを使い過ぎて、和音が汚く濁っても、日本人は打鍵の瞬間の音しか聞いていなくて、響き込んだ音には、無関心なのです。

そのnoiseが聞けない原因は、日本人が雑音(noise)を美しいものと捉える傾向があるからなのです。

つまり、日本人に取っての癒やしである木の葉づれの音は、西洋人にとっては単なるwhite・noiseにしか過ぎないし、日本人が演奏するPianoのpedalで和音が濁ってしまう事は、pureな音を好むヨーロッパの人達には許せないのですが、日本人はpedalを踏みっぱなしでも平気な人達が多いのですよ。

だからと言って、そう言った多くの致命的な欠点を持っている日本人の演奏家達への子供達の憧れや夢を、真っ向から否定してしまうのも・・大人気なく、忍びないのですよ。

「日本人でなければそういった欠点は持たないのか?」つまり、ヨーロッパ崇拝で、日本の音楽を貶しているだけではないのか??、と言う分けではありません。
西洋人と言えるか、どうかは分かりませんが、ロシア派の人達の演奏は、力で弾く奏法なので、多くの日本人演奏家の卵を潰してしまう悪い奏法なので、困ってしまいます。
「潰してしまう」・・というのは、日本人の女の子達に比べて、体が非常に大きなロシア人は、3点支持で普通に弾いても体を痛める事はありませんが、それをとても華奢な日本人の女の子が真似て演奏すると、特に弓を持つ手を壊して、2度と楽器を(演奏のproとしては)弾けない体になってしまうのです。そう言った事は、表には出ないのですが、よくある事なのです。(どうして表には出ないのか?と言うと、演奏家に憧れて勉強をして来た学生達に取って、体を壊して、演奏家を断念する事も、挫折に過ぎないからです。その事実をひた隠しに隠します。)日本人の華奢な体には、所詮、3点支持は向かないのですよ。日本の大学ですら、生徒達が指や腕を傷めてしまったり、腰痛に悩まされているのですからね??

ロシア派の元祖的な巨匠であるHeifetzの演奏を見ると、弓の持ち方や楽器に対しての弓の押さえ方は、Heifetz先生の場合には、ロシア派のそれとは少し違います。
Heifetz先生の場合には、ベルギー派の1点支持やロシア派の3点支持の事を深く知り抜いた上で、適材適所の演奏をしているので、ロシア派特有の悪癖があまり見えません。
音楽的に必要であれば、敢えて、音の限界を越して演奏しているだけなので、それは3点支持の悪癖とは根本的に違います。

上級生になると、判断力や批判力が身に付いて来るので、その悪影響は心配は無くなるのですが、勉強途上の生徒達には、よく悪影響が出てしまって、難しい判断を強いられます。

※1)私が未だ音楽大学の学生であった頃は、私のバイトの関係で、高名な演奏家が来日する時には、ticketをただで貰えたので、招待席で歴史的な特別な演奏家の演奏を目の当たりにして聴く事が出来ました。
Jörg DemusやWilhelm Kempff等の演奏もそうなのですが、演奏を聴いているとPianoから色の付いた音符が飛び出して来るのですよ。とても美しい緑色の音や、赤い音が‥・。大家と呼ばれる人達の演奏には、音の粒粒に色があるのですよ。

ProkofievやCortot、或いはPaderewski等の演奏家の名演はレコードでも聴く事が出来ますが、中でもProkofievやPaderewskiの演奏では、非常に速いpassageの一粒一粒の音の色が色とりどりに変化するのは、「凄い!」と驚きを禁じ得ませんでした。そう言った、音に色のある演奏家は若い演奏家や中堅処の演奏家でも、今はいないのですよ。(往年の名演奏家と較べて、演奏技術が劣っている・・と言う意味ではなく、音に対して求めているものが違うのですよ。そのsomethingがね・・??

※2)Pianoを学習する初心者が必ず勉強する「sonatine・album」という教則本があります。
「Pianoのお稽古」の教則本として、子供達が必ず学ぶ教則本なのですが、実際には古典派の奏法を学ぶ上では、とても素晴らしい教則本であり、またperiod奏法の勉強には、とても難しい教則本にってなしまうのです。
市販の標準版のsonatine・albumでは、近現代的に演奏のstyle(articulation等)が変更されて書かれていますが、period奏法的には、それは正しい解釈ではありません。

近年、全音出版社から、初版、初期楽譜による校訂版として、今井顕氏による校訂版によるsonatine・albumや、sonate・albumが出版されて、正しい古典派の奏法を指導する上で、大変喜ばしく感じています。

弦楽器の場合には、そういったsonatine・albumに該当する教則本がないので、Pianoの教則本と比べて見ると、技術的には、かなりのlevel差がありますが、(・・通常は上級のlevelになるのですが、)古典派の技術を習得するためには、古典派の時代の著名な作曲家達であるDittersdorfやStamitz、Hoffmeister等々のviolinやcelloのconcertoを演奏させていますが、このcurriculumは教室だけの例外で、音楽大学等で、curriculumに登るような、一般的な作曲家ではありません。(音楽史で、登場する作曲家と言っても過言ではないでしょう。しかも、技術的には、Pianoのconcertoのlevelに該当します。)

また、教室が提供しているcurriculumである、Seitzのstudent‐concertoから始まる一連の「student‐concerto」のcurriculumも、その殆どの曲は教室外では知られていない曲で、教室独自のcurriculumになります。

※3)classicという言い方は、甚だ難しい混乱を招くものがあります。
popular音楽(jazzやrock)に対してのclassic音楽という意味と、classic音楽の中の、ロマン派やbaroqueの時代様式に対しての時代区分のclassicという言葉があるからなのです。
但し、音楽の場合には、classicと言っても、たかだか、百年くらいしかありませんが、※3)日本の古典文学の場合には、その分類は千年以上になって、大変な事になってしまいます‼
江戸時代だけでも、265年くらいは続くのですからね⁉

※4)音楽史的な作曲家に取っての古典派の時代と言うのは、定説がありません。
1730年代から 1810年代まで続いた時期の芸術音楽の総称・・とか、Bachの死(1750年)から Beethovenの死(1827)迄・・とする説もあります。
勿論、これ以外の説もあるので、定形となる説がないのです。
同じ時代の作曲家でもBeethovenは古典派の作曲家になりますが、Beethovenと同時代に活躍したWeberやSchubertは、ロマン派に区分されます。
よく知られたwien古典派として分類すると、Schubertも古典派の作曲家になります。


https://www.youtube.com/watch?v=egK0oZb5M0Q




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4月13日 ·
(16年4月18日に「鬱々コンサートについて」のPageに少し、追記しました。)

ここの所久しく内でも外でも飲む事はなかったのですが、昨晩(4月12日深夜)はYou TubeやFacebookの手直しの作業をしていたのですが、久し振りに深夜3時頃になって、何と、ついにWINEを飲み始めてしまいました。(悔恨!!)

You Tubeにupされた、私の指揮をする鬱々のコンサートをツマミに、ついつい朝の7時過ぎ迄、途中で、WINEが無くなってしまったので、それからは代わりにビールを飲んでしまいました。
仕事は捗ったのですが、ついつい飲み過ぎてしまって、朝の8時頃になって、慌てて寝ました!!
「大変だ!」「今日が始まるぞ!!」・・てな、具合に‥・!

頑張って、(仕事の道具はパソコンの前に出したままで、)なんとか朝の9時には寝たのですが、お昼の1時半頃には、目が覚めてしまいました‼(4時間半ってとこらか⁉まぁまぁなのかな⁉)

ウダウダと書類のcheckやmailのcheckをしながら、パソコンの作業をして、お腹が空いたので、冷蔵庫を開けてみたのですが、勿論、当然何時もの事ながら、冷蔵庫には食べ物は何も入っていません。

「腹が減ったぞ‼」と、言いながら、中々体が動かないので、普段は、「仕事の打ち合わせ」に使っている珈琲館に朝食を食べに行く事にしたのですが、なんと、ウダウダ状態で、幾ら頑張っても体が動かないので、準備をするのに超手間取ってしまい、珈琲館に出かけるのが、夕方の5時過ぎになってしまいました‼

とは言っても、お昼の1時半過ぎに起き出したのだから、3時間くらいしかウダウダはしていません‼
ウダウダしながらでも、ちゃんと仕事は進めながらなのでネ?

珈琲館では、茄子とベーコンのアラビアータを食べて、なんとか今日の朝の薬(!)を飲みました‼(私が「食い物が・・」と言って騒いでいるのは、薬を飲むためで・・、食欲がある分けではありません。もう、そういうドルのような若い子の食欲は持ち合わせてはいないので・・)

牧野先生は、まだ月曜日からの風邪の熱が下がり切らないのですが、シンクロするようにプリの体調も悪くなって、首や口を触っても痛がっているので、このどしゃ降りの雨の中を、病院に連れて行く所だそうです‼
私は、8時頃には、ドルのお迎えで、車で花園にお迎えに行く予定です。

珈琲館に食べに出掛けようと、ハイツの玄関を出る時には、超大雨だったのですが、江古田駅の構内を抜けて、珈琲館に着いた頃(ほんの2、3分後)には、なんと、すっかりと雨は止んでしまっていました‼

一日の内に、雹が降ったり(どっかでは雪が積もったという話ですが・・)、晴れて真夏のようになったりと、病人や老人の弱った体にとっては、とても辛い一日のこの頃ですよネ?

「その後の話です。」
牧野先生が病院から帰って来て、プリは耳からバイ菌が入って腫れ上がって、それで口を触っても痛がっていたそうです。注射をして薬を貰って帰って来たそうです。先ずは一安心という所かな??

花園へのお迎えが終わって、椎名町に戻って来て、斉藤先生はプリドルの散歩に出かけたので、プリの帰りを待たないで、取り敢えず、私は江古田に戻って来ました。

この2,3日間の心残りの「飲みに行く」という願望が今夜も続いていたので、行くべきか、行かぬべきか、小1時間程悩んでいたのですが、「悩むのなら行けばいいじゃん!!」と、心の声が言っていたので、12時を過ぎてしまいましたが、意を決して飲みに出かけました。

何時もの、2合徳利の超熱燗を小1時間掛かってチビチと飲んで、帰って来ました。
悩んでいる時間の方が長かったかな??
人生なんて、そんなもんだよね??
悩んでいる間に、10年なんて、アッと言う間に過ぎてしまうのなのにネ?
この歳になると、そういう事が分って来るのだよネ?

「今日の鬱々コンサート」
昨年、・・16年10月11日の牧野先生からのmailで、音人の会の方から「Händelのsarabandeの曲のcelloのPiano伴奏のarrangeは教室にはないのか?」という相談を受けました。

弦のorchestra用のsarabandeの曲は2,3年前に書いた覚えがあるのですが、弦とピアノの伴奏の、市販の楽譜を探しても見つからなかったので、急遽、私が作曲する事にしました。

sarabande(la folia)のthemaが結構長いthemaなので、originalのVariationは3っのVariationが書かれているのですが、それだけでも、Cembaloの曲としては、充分な長さになります。しかし、celloやviolaの擬古典の曲としては、もっと大きな作曲上の展開が必要です。

という事で、10月の13日の夜には、叩き台となる簡単versionと難しversionの二つを作りあげました。
曲の構成は、前半と後半の2部構成になっていて、基本的には前半部は、galante様式による作曲です。繋ぎのpassageを演奏しなければ、前半部迄を独立した曲としてperiodで演奏する事が出来るようになっています。
それから、4日後の17日には、後半に擬古典の様式によるtechnicalなfigurationのpassageを散りばめた、long‐versionのviolaの曲を二つ、三つ作りあげました。
同時期に、celloのversionも一緒に作ったのですが、violaのversionとは、曲がまた、微妙に違います。

それはそうと、曲の演奏技術としては、そんなに難しくはないように作曲してあるはずなのですが、パソコンの音源で聴くと、やたらと難しいように聴こえてしまいます。
はてさて、困ったものです!
梨紗に初見で演奏して貰ったのですが、難しい箇所はないようです。私は、例の通り、Rheumatismusで、指が全く回らないので、aboutな演奏で伴奏を付けて見たのですが、パソコンの演奏では、figurationが非常に速くて演奏不能にも聴こえたのですが、実際に演奏して見ると、passageは思った程、速くはありませんでしたよ。
これなら、春の発表会でも演奏出来るかな?と思ったのですが、やはり時間的にprogramに入れる事が出来ず、お目見えは却下になってしまいました。
直ぐに演奏を聴ける場所が見当たらない、・・という事で、取り敢えず、パソコンの音源をuploadする事にしました。

しかし、この曲は、弦楽器特有のperiod奏法のimageをふんだんに使用しているので、パソコンの音源では、この弦特有の奏法を表現するのは不可能なのだよね??

次のchanceとしては、17年の秋の発表会ならば、丁度、1年後になるのだけど、秋の発表会と八千代のコンサートでこの曲を演奏出来ないかな??
viola‐versionでも、cello‐versionでも、どちらでも良いから、か誰弾いてくれないかな??

誰が弾いてくれるんだ⁉
「う~~ん??」

⇒八千代か秋では、梨紗が弾いてくれるそうです。Cembaloはpinch hitterとして、美紀先生が演奏してくれるそうです。善哉!善哉!

この曲は、後半に向かってtempo-upして盛り上げて行っているように感じますが、実は、パソコンからの音源なので、Metronomのtempoで、実に機械的に演奏されています。
最後に向けて盛り上がってtempo-upしているように思われるのは、それは作曲上の錯覚です。
こう言った同じ単調なtempoで、淡々と流れて行くと、まるで恰も旅をしているような気がして来ます。
「Odysseyの大航海」のように、Voyage(旅)をしているような気がして、まだ見ぬ世界へのSehnsucht(憧憬)を感じてしまうのは、私だけなのかな??

https://www.youtube.com/watch?v=CAvqAhVQ-hQ






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4月15日 6:37 ·

習志野市市民会館の賛助出演
(会場のアクセスと時間等を追記しました。)

来週の土曜日(4月の22日)は習志野市民会館での賛助出演です。主催者の人達とは斉藤先生が打ち合わせをしているのでしょうが、詳しい内容(場所や時間等の)は報告は受けていないので、習志野の市民会館のhomepageから、転送します。
時間は4月22日pm2時から(演奏時間は約15分程度)
住所:習志野市本大久保3丁目8番20号
アクセス
京成大久保駅下車徒歩1分
JR津田沼駅南口より「屋敷経由・幕張中学校」行き、または「幕張本郷駅」行きバスで「京成大久保南口」下車、徒歩1分
出入り口は後方2箇所、左右に1箇所づつです。
400席(固定は364席です。)

珠加ちゃん、千夏ちゃん、梨紗さんが参加します。
これも勉強の一貫として・・、なので、私は演奏のお手伝いには行きません。

講演会の前座なので、保護者の方たちも演奏を聴きに行く事は出来ますが、演奏が終わって帰る時には、講演会の邪魔にならないように、こっそりと帰ってください。フランス風でお願いします‼
演奏の様子は、動画でupしたいのですが、そう言った小道具類は教室は今回は持って行かないので、ホンの15分程度の演奏会なので、動画編集のために、会場の後ろ正面と、上手側と、下手側の3方向から、皆様で、分担して、videoを撮っていただければ有り難いです。
今回の演奏に間に合うように、椎名町の事務所に、編集用のsoftを購入して、install迄終わらせましたので、千夏ちゃんと梨紗さんに、そのsoftの使い方を伝授する予定なので、出来れば自分達の演奏で動画編集のお勉強をして欲しいので、その素材を撮影してください。


演奏風景です。


4月25日 1:49



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4月16日 6:04 ·
(4月19日6:30~6:45迄 巷の音楽教室の泣き所以降に追記)
(4月20日18時以降に、更に全体的に推敲を加えました。)

「今日(4月16日)は発表会の反省会の後の初見大会の日です。」
「楽譜渡し」と「初見大会」という、子供達が楽しみにしている「member決め」の発表の日なのですが、音楽大学とは違って、毎年同じ年齢の同じlevelの生徒達が補充されて来る分けではないので、上級生達が受験年次に差し掛かると、次の世代まで、orchestraや室内楽のmemberが組めなくなってしまいます。
高校生になって、部活等で教室をお休みしていた生徒達も何人か、戻って来るという話のようですし、オケ出演者の頭数は、中級も上級も人数的には、変わらないのだけど、楽器の編成がね‥・組めるか、組めないかの話なのですよ・・???
その都度、選曲には大変苦労します。memberの都合で、curriculum通りには中々行かないのでネ。

今回も、受験年次の上級生達が抜けたので、楽器編成のmember的に秋の発表会や八千代のコンサートが出来るか否かの問題になってしまいました。
しかし、次回の発表会や対外出演のmemberは、全回の発表会の前には決まっていますが、オケ参加の申込みが出るのは、発表会後になってしまうので、曲決めが先に決まってしまうのですよ。練習の都合でどうしても、そうなってしまうのです。

次世代のmemberが、私の「鬱々コンサート」のrepertoryを演奏出来るようになるまでは、早くても3年、通常のペースならば4年間は待たなければなりません。
技術的には、今の小学生は中々のものがありますが、鬱々コンサートともなると、技術と言うよりも、心の表現がmainになるのでね。
巷の音楽教室の泣き所ですかね??

毎年、生徒が補充される音楽大学は、生徒を集める手間暇が要らないので、兎に角、オケの曲決めに関しては、何も考えないで良いので、楽な事は楽なのですが、一旦、練習ともなると、生徒が日本中から集まって来ていて、しかも、必死に練習を積んで来ているので、それぞれの生徒達に独自の悪い癖が付いていて、それを手直しして、纏めるのは、殆ど不可能に近い状態です。

悪い癖は、不思議な事に、ホンの一瞬で身に付いてしまうのですが、良い癖は、4年や6年間(4年、5年としないのは、大学は4年で、院を入れると6年と言う意味だからです。)では身に付かない・・と言うか、それよりも、悪い癖が中々取れないのですよ。
その悪い癖が取れない限り、良い癖が身に付く事はありませんのでね。
悪い癖が中々取れない理由は、集団指導の場では、生徒の人数が30人、40人といるように、その生徒の持っている癖も、30通り、40通りあるのですから、癖は個別指導が建前なので、集団の指導では、治しようがないのですよ。
それに、音楽大学の一番大きな欠点は、仮に、やっと4年経って癖が取れて、正しい演奏技術が身に付いて来たとしても、出来るようになったとしても、生徒達が卒業してしまい、オケの有力memberにならない事です。
しかも、殆どの生徒達が未完成のままに卒業してしまうのが現状ですからね。

その点、個人の音楽教室は、先生は皆、私の弟子なので、methodeが一つで、同じなので、指導は極めつけに楽です。
一人の生徒の学習期間も、10年を一単位として、教室に居るので、「技術的に出来る」ように育てる事が可能です。
しかし、教室で指導していた先生達、生徒達も、一旦教室を離れて一般の音楽界で活躍するようになると、日本流のmethodeになってしまって、教室の独特の(periodはヨーロッパではtraditionalなのですが、日本では、私達の教室独自のmethodeになってしまいます。困ったもんだ!!)教室で指導している奏法が演奏出来なくなってしまうのですよ。
(周りの演奏家達に迎合して、教室で学んだ奏法を、「しなくなる」のではなく、「出来なくなる」のですよ。マジに!!)

教室で育った生徒や弟子ですらそうなのですから、ましてや、教室のmethodeを習った事のない部外者になると、「弾ける」という事すら、ありません。
だから、外部から助っ人を呼ぶ事は不可能なので、困ってしまいます。
教室がこういったmember不足のために、既に決まっている演奏予定の曲が、「演奏出来ない」・・という非常事態にも関わらず、外部の人達(の助っ人)を入れないのは、教室の閉鎖性ではなく、例え、誰か呼んで来ても、演奏出来ない(助っ人にならない)からなのですよ。
アハッ!

教室も、教室開設の当初の昔々には、指導する先生が多く居て、生徒の人数もそれなりに多く居た時代もあったのですが、指導者が女性であるという特殊性と、少子化という社会現象で、教室の生徒数が減ってしまって、orchestraを運営していくためには、どうしても指導する側も、指導される側も、人数が足りなくなってしまって、オケのprogram(曲目)が、組めなってしまう、そういったmember不足の「端境期」が頻繁に来て、困ってしまいます。

教室に或る程度の人数が居た昔々の時代では、そういったmember不足の状態の時でも、降り番の人をmemberに補充すれば何とかなったのですが、今回のように、教室の絶対的な先生数と生徒数が少ない場合には、上級生のmemberがドサっと居なくなると、オケや室内楽のmemberを組むのが、チョッと致命的な事になります。

「何をそんな愚痴っぽい事を、ウダウダと言っているのか??」と言うと、「・・まあ、そんな事なので、今日の『オケのmember決め』が出来ません!!」……という弁解をしているのですょ。ハイ‼

・・という事で、今日の初見大会は、「曲と演奏するmemberが決まった人達」だけの初見大会です。
memberの関係で、未だ曲が決まっていない人も多数居るのですが、おっつけ、memberや時間、キャパシティの事も考えて善処します。

但し、この話は上級生の専科組の曲決めの話なので、初級組、中級組の人達には殆ど関係はありません。専科の生徒達だけのお話なのですがネ‥・??

「baroque-concertoサヤ堂ホールの動画の画質のお話」
それはそうと、昨年の11月の23日のサヤ堂ホールのbaroque-concertでのgreensleevesの演奏のお話しなのですが、私がYou Tubeにupした教室の映像が360p※1)でボケている上に、Cembaloの音が全く聴こえない・・という状態のままで、YouTubeにupされていたのですが、昨年は、動画の編集は、教室の発表会は業者の人に任せていたし、私自身のそういった作業の時間も、編集の技術的にも、未熟だったので、uploadされた映像を見るのは、甚だ不本意でした。
三人の演奏が…、ではなく、動画の映像の状態が…ですよ‼

今回の春の発表会からは、動画の編集も教室でやる(‥・という事は「私がやる」‥・という事にってなしまうのですが・・)という事になったので、編集のsoftを買ったり、4Kのvideocameraを買ったりして、video撮影の環境を少し整備して、softの活用の練習をしました。

サヤ堂ホールのコンサートでは、他の保護者の人達からもハイビジョン(Hi-Vision)画質の動画のdataを貰っていて、画質は、そちらの方がとても良かったのですが、曲が途中で切れていたり、反対に1部が全部繋がっていたり・・と、編集前の状態だったので、そのdataをupするのには、先ずは、色々とdataの編集をしてからになるので、時間がなくて、そのままになっていました。

鬱々コンサートの動画をFacebookに載せるために、再び動画のcheckしていたのですが、baroqueの動画の映像のボケ具合が余りにも酷すぎるので、Hi-Vision画質の動画の編集を、昨日の土曜日に一日掛かりで編集し直しました。
という事で、映像の方は、同じmp4でも、4k画質のmp4迄、引き上げる事が出来たので、大変綺麗な映像にはなったのですが、(但し、You Tubeでは、解像度はスマホ用の360Pと、720P迄です。4K画質で編集したとしても、4Kで見れる分けではありません。)
音声の方(Cembaloの音)は、色々とTechnikを駆使してみたのですが、いかんせん、どうしようもなく、とうとう挫折してしまいました。

私のGreensleevesなのですが、四苦八苦して、videoの画像を弄り巻くっていた理由なのですが、この動画の致命的な点は、Cembaloのpartが、速いfigurationのpassageを演奏して、ensembleとしては、一番、活躍しなければならないのに、肝心要のこのfigurationのCembaloの音が全く聴こえて来ないのですよ!!
Cembaloの音が聴こえて来ないという事は、曲のimageが半分もお客様には伝わらないので、もう2,3日掛けて、そこの所を何とか改善しようと思っている所です。

それはそうと、今日(16日の日曜日の早朝)は寝逸れてしまったぞ!!
困ったぞ!!
今日の初見大会は夜まで体力が持たないぞ!!
どうすんべ~ぇ??

・・と思ったけれど、何とか気力で、兎に角、6時迄に、大急ぎで、発表会のprogramの初見大会をして、6時からは、習志野の対外出演の練習を急いでして、何とか9時前には、練習を納めました。

という事で、10時には、椎名町でドルプリっ歩には行けたのよネ!!
それから大チョンボがあって、精神的に疲れ果ててしまったので、それから、大急ぎで、バイクを飛ばして、自宅に戻って、さあ、眠ろうと思って、取り敢えず寝たのだが、何と、1時半には目が覚めてしまって、仮眠にもなりません。
またまた、ベッドで、「眠れない」の、七転八倒を繰り返しています。
ベッドで眠れなければ、エクゼチェアで寝れば良いのだがネ‥・!!
腰は痛くなってしまうけれど‥・、眠れないよりは、ましだからね??

「今日の鬱々コンサート」
Greensleeves to a ground in C Dorisch
(ドリア調の低旋律による「緑の袖の君」)

「楽器のbalanceの問題」
大変喜ばしい事に、baroqueの音楽の演奏には、古楽器であるがCembalo使用される事も多くなって来ました。
ただ、Cembaloを使用するとしても、弦楽器はそのままのmodern楽器のviolinやcelloを使用しているcaseが多く、violinやcelloと、Cembaloとのbalanceの問題が生じています。

「modern‐Cembaloについて」
Cembaloと弦楽器のbalanceのお話ですが、19世紀に入ってCembaloが人々から忘れ去られてしまった、と言うのはCembaloの音量の不足が原因である・・と見做されて、Cembaloの音量不足を補うために、私の若い時には、modern-CembaloというCembaloの撥弦機構に改造を加えたCembaloが主流となって、何処の音楽大学でも、演奏会場でもmodern‐Cembaloが置いてあった時代があります。(音楽大学では、今でもmodern‐Cembaloを所有している所が多いようです。)

しかし、modern‐Cembaloは、音量のめんでは現代のviolinにも対抗出来るようにはなったのですが、その半面、Cembaloの特有の美しい音色を失う事になってしまいました。
forte-pianoから、現代のPianoへ、baroque‐violinから、現代のviolinへ、等々、全ての楽器は、baroqueや古典派の時代に当然聴かれていた美しい音への拘りを失ってしまったのです。

また、それは弦楽器本体のお話だけではありません。当然、その弦楽器を演奏するための弓も同様に改造がなされて来ました。
baroque時代や古典派の時代の弦楽器に関しては、violinは当然、古楽器であるbaroque楽器であり、弓も古いbaroqueの弓(baroque-bow)でした。

現代violinに比べて音は柔らかく、とても美しかったのですが、半面、音量は弱く、その当時の音楽が貴族や教会の限られた人々のものであった時代では、ホールも小さい少人数を対象にしていたので、何の問題もありませんでしたが、時代を下って、音楽が限られた特権階級の人達から、大衆のものになるに連れて、大きなホールで、沢山の聴衆を前に演奏しなければならないようになって来ました。

そのために、大きなホールでもちゃんと響き渡るような強い弓、強い音量の楽器が求められるようになって来ました。
そこで私達の教室でもよくお世話になっているstudent‐concertoの作曲家であり、自身、高名なviolinistでもあったG. B. Viotti先生が、当時、有名な弓の製作者であったTourteを訪ねて、新しい弓の開発を依頼しました。

1786年ぐらいから10年に渡って、Tourteさんは、 Viotti先生のadviceの元に、研究を重ね、現代に使用されている弓を開発、発明しました。
それによって、violin等の弦楽器は強い音量を持つようになったのです。
勿論、violin本体の方も、竿を長くして弦の張力を強くしたり、その張力に耐え得るようにviolinの内部に力木を入れたりして、強い音量が出せるように色々な改造が加えられました。

つまり、Cembaloが人々から忘れ去られた時期は、Tourteの弓を発明した時期とも重なるのですよ!!

baroque-violinや、baroque-cello、或いは、古楽器あるでviola da gamba※2)等の楽器で演奏する場合には、当時の(Historische=歴史的な)復刻のCembaloとは、音量的に、充分にbalanceが取れているのですが、今回のGreensleevesの演奏のように、violinとcelloがmodern楽器の場合には、やはり、Cembaloはマイクを通さないと音量的に無理なようです。

教室としては、一応は、サヤ堂の会場には、マイクとスピーカーは準備して持って行っていたのですが、会場で、Cembaloの音を試して見ると、響きがとても良いので、「そのままでも行けるかな?」と、ついつい、思ってしまいました。

PA※3)を通すと、生音に比べると、どうしても音の質感が低下してしまうので、生音に拘わってしまうのは、音楽家の悪い癖です。

客席で聴いていても、balance的には、そんなには問題は無い様に思えたのですが、実際にvideoで撮影してみると、videoの音声では、Cembaloの音は拾えて無かったのですよね~?? shock!!

こういう特殊なホールでは、兎に角、一度、演奏してみないと、響き具合が掴めません。
音響に配慮して建物が作られているコンサートホールとは、根本的に音の響き具合が全く違うのでネ?

※1)pはprogressive(=プログレッシブ)の略です。
これらの数字は、映像のサイズ(解像度)をあらわしています。You Tubeでは、uploadされた元fileの解像度によって自動的に付きます。
360p・・・ノーマル画質
720p・・・HD画質(元ファイルがHD以上の解像度 1280x720 1920x1080など)
基本的にこの数字が大きければ大きいほどきれいな映像、つまり大画面にしても粗く見えない映像になります。(Wikipediaより抜粋)

※2)baroqueのorchestraのbasso continuoの低音のpartは、viola da gambaで演奏するのが普通です。音量的にはcelloは少し強すぎるのです。baroque-celloは、modernのcelloと比べると、4分の3か2分の1のサイズなのですが、それでも、音量的には、強すぎます。教室でもgambaを1台、準備しているのですが、celloの5度調弦とは違って、Kontrabassのように、4度調弦なので、演奏出来る生徒を育てるのは、難しいのですよ。

※3)Public Address(パブリック・アドレス)とは、一般に英語で放送設備を指します。略して PA(ピーエー)とも呼ばれ、電気的な音響拡声装置の総称になります。
会場では、Cembaloの音は聴こえていたのですが、videoに撮ると全く聴こえて来ません。微かにこれがCembaloの音かな??という具合ですかね。
という事で、私が編集の勉強のために少し手直ししたものを、後にuploadしておきます。こういった音声の編集はPAの人達に取っても難しいので、私達素人が手に負えるものではないのですが、何事も勉強と言う事でchallengeしました。
下の動画はoriginalのvideoです。手を加えた動画のdataは、別のcameraの撮影です。720のHDの映像です。P


https://www.youtube.com/watch?v=eD0l3fGiKLA



GreensleevesのCembaloのpartと、弦のbalanceの修整のために、大元のfinaleのCembaloのpartを音源を聴いたのですが、finaleにbugが入って来ていて、和音が別の和音の音が出たり(譜面上では合っているのに・・)melodieの音が出なかったり、と色々とtroubleが発生していました。取り敢えず、和音を打ち直して見たりしたのですが、やはり、治りません。
また、音部記号を変えたのに、自動的にoctave上の音に書き換えられたりするという不具合すら発生しました。

こう言った場合の対処法は、私の経験上は、templateを新しく作って、そのtemplateに、bugの起こっている楽譜からコピペをすると、改善される事があります。

このお話はfinaleのbugの対処の仕方のお話なので、こう言った話は、私のhomepageの「finale教室」に、manualとして書いておけば良いのですが、homepageも、Page全体が重くなってくると、たった1つの単語を入力しても、なかなか動いてはくれません。back・upをしないように!!とか、色々と変更して早く動くようにはしているのですが、重くなると、何をやっても動きにくくなります。
homepageも、そういう時には、WordやFacebookに先に文章を入力して、その後homepagebuilderを開いて、コピペすると、必要最低の時間で済みます。
4月18日 2:48




「う~‥・!」「う~‥・!!」「眠れん!!」・・とは言っても、毎夜、この時間は、同じ事を言っているようだな??ちゃんと眠れても、この時間には起きて、パソコンを弄っているようだ。それに・・、5時には体重測定‥・、これもroutineだよな??
「・・al fine」

ベッドに横になると、鼻が詰まって来るので、うつ伏せで寝ようとするのだが、それでも眠れない時には、諦めて、パソコンの前の椅子に座って、「wineを・・」って、お洒落に曰わって見たいのだが、ここの所は、体がアルコールを受け付けないので、お茶だよな??
それでも、茶筅でも出して、抹茶茶碗で、お茶を点てるなら、まだしも、粉茶を木のスプーンで入れて、お湯をぶっ掛けるだけなら、味も素っ気もないのだよな??
「あれ?トトロではないの?」って??トトロはマグなのだけど、少し私には小ぶりなので、今、取り敢えず、手持ちで一番大きなマグにしています。
もっと巨大なマグが2つ、3つあるのだけど、それは流石に、片手では持てないので・・・

やっ??
眠れない!!と、言っている間に、もう、5時を過ぎたぞ!!体重測定の時間だ!!

「あれれ、のレ??」 椎名町から持って帰って来たお弁当をバイクに入れっぱなしだ!!
こりゃ、大変だ!駐車場まで取りに行かなくっちゃ!!
 ・・・と思ったて、衣装を着て、玄関迄来たら、何と玄関の棚の上に置き忘れていた。
持って帰る所までは、ちゃんとやっていたのだよね??
今日は大雨で、バイクにガソリンを入れて、椎名町の事務所に辿り着いた時には、レインコートの中に着ているジャケットのポッケに入っている伝票類がビショビショで、お金も濡れていた。
勿論、靴の中の靴下もズボンの裾もです。
でも、そのまま濡れたままで、ドルプリっ歩に出かけたのだけど、人間もワンちゃんもテンションが上がらないので、4分の1コースに縮小して帰って来てしまった。
勿論、ハイツの自宅に帰る時も大雨は続いていたので、大急ぎで着替えて、寝た事は寝たのだが、・・・で、da capo al fine になるのですよ。ハイ!


4月18日 5:51

tempoの揺れは、最初の弾き始めの3、4小節の曲のtempoを探しているのが根本的な原因です‼
情緒的感情的に揺れているtempoに、finaleの機械的なtempoを付けるのは、難しい…というよりは、不可能です‼
挫折と言うよりも、不可能です‼
手直しの可能性としては、情緒的に感情的に揺れている箇所を、先にアフレコで録音して、それからパソコンの音源の必要な箇所だけをパソコンの音源で挿入すると、上手く行くかも知れません‼
ただ、アフレコとパソコンの音源と生録とのacousticの状態を統一するのが、また非常に難しい‼
4月21日 6:48


今日は4月21日です。
昨夜から2日掛かりで、GreensleevesのCembalopartを補正しました。
丸々、1日掛かりで、作業したのだけど、いや~ぁ、大変だった!!
もう、二度とやらないぞ!!
既にupされている動画は、この動画とは同じ動画ではないし、元々の音も、Cembaloのpartはcomputerで弄り捲っているし、と言う事で、元の動画は削除はしませんが、以前upしていたパソコンの音源で作った動画2本は、削除しました。

https://www.youtube.com/watch?v=_FpnhDQWZQk

4月22日 13:42

まだ、動画の編集で、どうしても納得が行かない所が、数ヵ所あるので、もう少し手直しするかもネ?

⇒という事で、22日の早朝に、その数カ所を手直ししました。
しかし、どうしても修整が出来ない所が何箇所か残ってしまいました。
勿論、頑張って時間を掛ければ、修整は出来るのですが、しかし、私は音楽家であって、映像作家ではないのですよ。
後、2,3時間掛ければ、もう少しは良くなるのだけど、その事が分かっただけで良しとします。
・・もう、知るか??
疲れた!! 
編集の作業は、此処までにします。 
finito!!です。(英語ではないよ!イタリア語ですよ!=英語のinfinitでは、全く別の意味なのだよね。)

4月22日 13:49


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4月18日 5:42 ·

大雨の中を歩いたので、洗濯されてしまったど~ル‼
プリ!プリ‼ 

エッツ?これ顔だったの??お尻を撮ったと思ったのだけど??後ろ姿なら映像軒侵害はないからね??茶色は尻尾ですよ!! エヘ!! ちなみに、起こるんじゃあ??ではなくって怒るんじゃあ・・では??映像軒は意図です。ハイ!

4月19日 6:25

肖像権はお尻も含みます。念のため
4月18日 23:35

そっ、それは、失礼しました。
お尻に被せて起きました。
4月19日 6:25


法的には肖像権なんて認められていないんですけど、「うやむや」に人格権の一部として配布の差し止めとか、損害賠償とかが認められるんですよね。
だからかわいい子がいても、面倒くさくなるので、止めちゃうんです。
このモップに肖像権が認められるかは、一度訴訟を起こしてみてはどうでしょうか。競走馬で認められなかったケースがあるけど。馬は人間だとは主張しないだろうけど、モップは、人間だと思っているのでしょう?その辺が焦点になって、おもしろそう。
4月19日 6:55




政治家や芸能人は、顔を覚えて貰ってなんぼの世界なので、肖像権は結構めんどくさいのですよ。
双子のカワイコちゃんが肖像権を放棄して、netに写真をupして、無事に有名になった・・という話をつい先日テレビで見ました。

諫早のばあちゃんは、政治屋さんなので、
「批判されて、クソミソに言われても、それで、名前を覚えて貰う方が勝ちだ!!」と言っていました。確かに政治家を見ていると、そうですよね。
モップは、毎日、朝な夕なに、アイドル活動をセッセとやっていて、椎名町では、超名士ですぞ!
凄い沢山のフアンを持っています。
特に中高年のオジサンに人気です。
当然、芸能犬なので、肖像権は放棄しています。

4月19日 7:47



肖像権放棄ですか、、、なんて、放棄って入れたら箒ってでてきた。PCの辞書、思った以上に賢い。
我が家のぶ太(これはさすがに、意識的に変換したもの)はちゃんとモデル料を請求してきます。まつざかうし~って騒いでいますよ。モデル料も肖像権の一面なのでね。

4月19日 8:32

口に加えているのは、骨です。この骨が2日3日持たないのですよ!!
松阪牛なら、一週間ぐらいで、骨ごと食べてしまいますぞ!!


4月19日 22:09

以前、これくらいの骨をレストランのオーナーからチビに頂きました。
20分持たなかった。
死んだら、チビ太は月でも、太陽でも食べちゃいそうです。

· 4月19日 23:50


それは凄い!!
それじゃあ、ドッグフードでは物足りないよな!!
チビ太は猟犬なのだから、猪やキョンを自前でハンティングしたら??
4月19日 23:52

自分と同じくらいか、大きいものは見えていても見えないふりをするのがチビ太の特技です。
近くの黒という白い雑犬、生まれて5か月ぐらいのときに、キョンを見つけて猛ダッシュ、お尻にかみついたそうです。丸い目の可愛い男の子なんですけど。
私としては羨ましくって、
チビ太には、「お前は猟犬なんだから」って常々言い聞かせているんですけど、植物男子、草が大好き。動物性のものは、道路でするめになっている蛙。生きているのは、怖いから、見えても見えない! です。
4月19日 23:57



長い紐には巻かれろ!ですか??

4月19日 23:58

気が弱いんですかね~? 
そのくせ、相手が犬だと、秋田犬や、ボルゾイだって、平気で近寄って行くんです。
相手の親がびっくりして紐を絞るんですけど。
見慣れないものは、見えないことにしてしまうみたいですね~

4月20日 0:01



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今日の天気

4月18日 16:38 ·
自宅の食堂兼パソコンルームの窓から見た公園

(4月19日 私は寒暖の差は・・以降を少し補筆しました。)

「今日の天気」

今日(16年4月18日)は「台風一過」ではないけれど、春の嵐が一吹きして、全国に大被害を出して、東京でも、午前中は大雨だったのだけど、午後からは一転して、「晴れ」・・って、テレビでは言っているのだけど、確かに湿度は部屋で図ると30%で凌ぎやすいはずなのだけど、空は曇っていて、温度は25度もあるのに、妙に寒々しい。

体中がイリイリとするので、5階というメリットを活かして、部屋中の窓という窓を全開にして、部屋中の空気を入れ換えているのだが、何かしら空気が重たい。
布団や畳が湿っぽくなりそうな感じだよ。

私は、寒暖の差は結構平気で、Münchenに住んでいた頃は、-28℃という寒さも経験をした。「今日はチョッと暖かいな~?」と駅のでっかい温度計を見ると、-7℃を指していたよな??

暑い方は‥・??
暑い方は、長崎産まれで、40℃超えでも、結構平気なのだよ。流石に、40℃を越えて、体温よりも、気温が高くなると、Vivaldiの「夏」の状態で、畳の上に寝転がってアヘアヘと喘いで居るのだがね。

私は温度差よりも、湿度に影響を受けやすいtypeなので、湿度が高いと鬱になって、体調も不良になってしまうのですよ。梅雨の時期のように、湿度90%近くが、長く続く時には、体中から吹き出物が出たりする。この吹き出物の1個1個が超デカくて、しかも痒いのだよネ!!、

だから、「吹き出物」対策として、梅雨の時期には、部屋を締め切って、除湿機を一日中点っ放しにしている。
クーラーは部屋を冷やしてしまうので、除湿には使わない。
コンビニ・クーラーという安い移動式のcompactな除湿機では、部屋の温度を下げないで除湿をするので、体を冷やさないで良いので、非常に助かっている。

だから、今日の気象のdataを見ると、湿度30%、温度25℃と、私には、理想的なdataになっていて、最高にご機嫌な日のはずなのに、空気がどんよりとして重たいのだよな??
まるで梅雨のような感じだ。

でも、よくよく、考えて見ると、湿度が70%ぐらいあっても、軽く感じる時もあったりするので、空気の重さは湿度とは関係ないのかな??
湿度が高くても空が高い時はあるのかな??
そもそも、空気の重さって、なんだろう??
私は湿度の事か?と思っていたのだけどね。
そらジロー君は、そう言った事は答えてくれるのかな??

今日は、湿度や温度を見ると、快晴の日のはずなのに、空を見上げると、どんよりとして、まるで恰も梅雨を連想させるような天気だ!!
花散らしの雨から、いきなり梅雨になったようだよな??


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4月18日 19:52 ·

(17年4月の18日に「追記の書き込み」に関しての追記をしました。)

「追記の日にちの書き込みに際して」
私のFacebookのコメントが、後々に書き込みが増えて行って、いつの間にか膨大に膨れ上がっているので、斉藤先生から、「新しい書き込みをした時には、その日時を書き込むように!」と言われたので、今日「17年の4月18日」分から、コメントに、書き込み日時(「時」迄は書きませんが)を明記するようにしました。



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4月19日 23:56 ·


..
江古田駅の真ん前に、スーパーが出来ていました。チョッと便利かも!!

出来立てのホヤホヤなので、美味しそうな新鮮なナマコと生ダコの刺し身を売っていたので、ナマコは買って来ました。
豆乳やオレンジジュースも、東急ストアで売っていたものと同じのを売っていたので買いました。中々便利です。無かったのは、蒸しパンだけだったかな??パンの売り場のテーブルには商品が殆ど残っていなかったので‥・!

4月20日 5:06







缶ビールも昨夜殆ど飲んでしまったので、買って来ようと思ったのだけど、重いから止めました。
wineも無いし、ビールも無いし、何のおつまみにするのかな??

4月20日 0:16

駅前なら遅くまでやってそうでいいですね‼︎
なまこ、美味しそう〜
4月20日 7:26


普通の真空パックのナマコとこの活きナマコがありました。
4月20日 7:29

朝の9時から夜は11時迄だそうです。チョッと早すぎるなあ
4月20日 7:51

駅前なら終電の時間までやってて欲しいですね。
4月20日 8:12

椎名町のサミットは1時迄なのだけどね??
4月20日 9:20

セイユーがつぶれて江古田には全くスーパーが無かったので、良かったですね。
しかし、セイユーと違って24時間営業ではないですよね。そこだけやっぱり不便かな?
4月20日 10:08

せめて、椎名町のサミット同様に、1時までにしてくれれば、とても利便性が良いのだけどね??
4月20日 16:43


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カバー写真を変更しました。

4月20日 7:12 ·



そう言われても・・・・誰?これ?
4月20日 10:17


ドイツ留学から帰国したばかりの27歳(s47年1972年)の頃のPortraitです。
従兄弟のhotelのbarのカウンターで・・!
高校生の時から、35歳くらい迄は、体重は全く変わっていません。
当時の体重は55㌔でした。
身長が170あったので、かなり痩せ過ぎですよね。
この頃は、「若い」という事が仕事上ではnecになっていて、私の主張が仕事の相手には、中々認めて貰えませんでした。
「まあ、若いからね~ッ!!」という感じで、かわされてしまって‥・。
だから、35歳を過ぎてから少し太り始めた頃は、貫禄が付いて来た!・・と喜んだものです。
20代の時の主義主張と、全く同じ事を今でも言っているのですが、50を過ぎた頃からは、やっと、色々な人達に私の話を聴いて貰えるようにはなったのかな??
でも、その頃は、もう太り過ぎていたりして‥・!!
5月10日 17:16

大学時代や留学時代の写真がカラーなのに、どうしてこの写真が白黒なのか?よう分からん??
写真を見ているとモノクロと言う事で、大学時代とは、時代が逆さまに感じるのだよな??
別人である事は確かなのだがね??

4月20日 10:44






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4月21日 7:49 ·


「VivaldiのOp.3Nr.3のG Dur Ⅰ楽章」の1stのpartをsoloとtuttiの譜面に分かれた譜面を作成しました。
Greensleevesは出来ないので、代わりの仕事です。未完成のままだと、気色悪いので・・。何か1つは完成させないとネ。
冒頭に、「眠れぬままに…」と、入れておいてください



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4月22日 7:26 ·

ツツジの季節になったのだが

桜が咲いて、葉桜になって、確実にツツジの季節になったのだよな⁉
緑は深く空はどんよりと、曇っている❗
正に梅雨の到来なのだが、不思議な事に、窓辺に置いてある温度計は、23℃の33%と、凌ぎやすい気候を標示している❗
私には、既に「梅雨の季節」のように思えてしまって、心だけではなく、身もすっかりとへばっているのにだが!

何時も、話しているように、私は湿度には極端に弱い!!
しかし、不思議な事に、dataを見ると、湿度は無いはずで、凌ぎやすいはずなのだが、このどんより感は、いったい、何故なのだろう??
まるで、もう梅雨の季節に入ってしまったように思えるのだが‥・。
この所、毎日の疑問だ。

セブンに朝の食事の買い出しに行くついでに、公園の道路沿いのツツジのツボミを撮って見た。
発泡スチロール製の箱に入れられて道路の間仕切りに使われている可哀想なツツジ達なのだが、それなりに頑張って咲いている。


深夜にセブンに食料品の買い物に出掛けたついでに、スマホで撮影。
スマホでもこれぐらい撮れるんだ!!
4月26日 4:47






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4月22日 17:48 ·
毎度お馴染みの話なのだが


毎度お馴染みの話なのだが、意を決して、何か食いに出掛けるために、玄関を出ようとしたら、雨になってしまった。
傘を取りに部屋に戻ったら、かったるくなって、食いに行く気力が無くなってしまった。
「腹が減ったから、食いに行こうとした」のだが、気力の衰えが「腹が減った」‥・という、欲求を上回った‥・という事なのだよな??

この話には、当然の事ながら、幾つかの前提がある。
その1つは、「腹が減った!」のは、結構早い時間からだったのだが、「演奏から帰って一緒に食べよう」という話だったので、「食べないで待っていた」のだが、「疲れたので外に食べに行くのが無理」と言う事で、「待つ必要は無かった」・・という事の話と、全く別の話である、
「何故、何時も冷蔵庫に食い物がないのか??」という事が混在している。
「冷蔵庫に何もない」事は或る程度は、作為的であり、「買い置きをすると、今の季節では、例え冷蔵庫の中であったとしても、食料品がカビてしまったり、腐ってしまうから」という理由があるからなのですよ。
つまり、「冷蔵庫には何も入っていない!」ではなく、「冷蔵庫には、何も入れていない」のが正解なのですよ。

次のthemaは、放っておけば腹が減って、限界に達して、食いに行く・・という必然と思える事は、実は、そうではなくって、・・・若者や、ドルちゃんは、放っておけば、その内腹が減って、何かを食うために、画策するのだろうが、老人になると、その欲望は頗る希薄になってしまう・・というもう一つの方向があるのだよな??

気がついたら、「1日、一食だった!」とか、「2日、3日は何も食べていなかったとか」を、気がつかないままに、「何故か腹が減っているな~ぁ??」で済んでしまうので、それはそれで、怖いものがある。
老人性の特徴かも知れない。

無理をしてでも、食いに出かけた方が良いのだろうが、兎に角、それよりも、かったるい方が先に立ってしまう。

そのメカニズムは、腹が減れば、減る程、血糖値が下がるので、更に、眠くなって、眠くなる事で更にかったるくなって、食う事に対する欲求が減ってしまうのだよな。

介護師等は、よく見ているありふれた状況なのかも知れないが、一般的には医者ですら知る事のない糖尿病質の老人特有の問題なのかも知れない。



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4月23日 1:02 ·
(4月の23日の初回のオケ練習の日、習志野の対外出演の次の日ですが、少し補足しました。)

「対外出演に関してのこもごも」
昔々、生徒や親から、「教室の先生になりたい。」という希望が時々あって、(今では教室の先生になりたい、というなんて、考えられない事なのですが、当時はいたのですよ‼・・)音楽大学の受験生としてではなく、教室の先生として、生徒を育てる時には、特別のcurriculumとして、先生達の演奏活動に生徒を参加させる・・と言う事をしていました。
但し、先生と一緒に演奏活動をさせる生徒は、教室の優秀な生徒という意味ではなく、あくまでも、「教室に先生として残りたい」という本人や親からの申し込みがある生徒だけを、先生達の演奏活動に一緒に参加させていました。

「先生達と対外出演をしなかった優秀な生徒達」
どんなに技術的に優秀な生徒でも、音楽大学の受験生や留学の希望者には、普通の音楽教育が必用なので、先生の演奏活動に参加させる・・という事は、つまり芦塚メトードを学ぶ事になるので、一般的な音楽教育とは異にしてしてしまうので、演奏活動を共にする事はしませんでした。

その理由は、音楽大学の受験や、留学は、勉強の内容は、出版されている受験生としての勉強をすれば良いのですし、また、concoursに出る生徒であっても、一般的な基本的な音楽の勉強の中から、重箱の隅を突くような、maniacな勉強をすれば良いので、芦塚メトードとは関係のない一般的な音楽の勉強をすれば良かったからです。

こういった事は、芦塚メトードを出し惜しみした分けではなく、芦塚メトードは、日本では特別なメトードになってしまうからです。

それに対して、先生達の演奏活動は、教室で指導している独自の芦塚methode…、(と言うか、ヨーロッパでは教室のmethodeの方がtraditionalなのですが、)日本の音楽とは違って、主義主張が全く違うからです。

そういった、教室の方針や、主張のお話のような大上段のお話ではなく、単に、発表会等の教室内部の演奏と、外の演奏活動は、演奏する人にとってのpressureの種類が全く違うのです。

音楽教室の中での音楽の勉強や、音大受験としての勉強とは、その厳しさやstress等は、一人一人の演奏をする本人に向かっているので、本人が自分でちゃんと演奏出来れば、stressを感じる事はありません。本人の勉強不足が、自身にstressとして返って来るだけなのですからネ?

しかし、職業として、演奏活動をする場合には、stressは、本人がちゃんと練習が出来ているか否か・・ではなく、どういう演奏が出来ているのか??というaudienceの側からの、直接のpressureになります。
職業としての勉強、或いは、音楽の職人としての勉強は、学習とは、その種類が全く違うのです。

そういった外の演奏活動の中で、経験の浅い生徒が挫折しないように、しかも、音楽の技術や水準を保って、先生達の演奏活動に参加させるのは、大変難しく、先生の負担も、1人づつ育てる事が精一杯だったのですよ。

「先生達と組む演奏活動と、子供達参加の演奏活動の違い」
八千代や、花待ちのconcertでは、小学生達が多く参加しましたが、そのpressureは、教室の主催者として私が一手に引き受けているので、子供達や、上級生だとしても、演奏をする上でのpressureは、然程はありません・・と思いますよ。

という事で、今回の習志野のconcertは、教室の中では「ベテラン」と言う立場の生徒達ですが、対外出演と言う事では、「初めて組」になる上級生達が、私のback・up無し(!)に、対外出演をするという企画をしました。
これは、上級生達に取っては、当然初めての経験だと思いますが、教室としても、通常はやる事のない、例外的な得難い経験になります。

今回参加する生徒達は、八千代や、春待ち等々の対外出演に色々と参加したと思いますが、実際は、思いも寄らないpressureに驚いたと思います。

それはそうと、当然、演奏が終わって、生徒達の感想が送られて来ると思ったのですが、斉藤先生の「感想と評価の一文」しか届いていません。

そう言った、感想も含めて、かなり的確で辛辣な一文の報告なので、是非、出演者の人達にも読んで貰って、意識を再確認して欲しいのですが、個人の批評(これからの課題)にもなっているので、一般公開は躊躇しています。
(そこをベタ塗りで、省くと、骨抜きのタコ状態になるのでね~ぇ??)



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4月23日 8:13 ·


またまた、いつもの愚痴なのですが..

(17年4月28日に摂眠障害の所に少し追記しました。)

「また、何時もの鬱々の愚痴か??」と思われるといけないので、コメントは差し控えますが、毎週、土曜日の夜は、全く眠れなくって、次の日曜日のオケ練習は、徹夜になってしまいます。徹夜になると、夜のlessonと帰りの運転がキツいのよね~ぇ!!

なんで眠れないのか??と考えても、子供達のオケの指導に関しては、pressureがある分けはないので、pressureがあるとすれば、「*時に起きなければならない」という時間に対してのpressureだと思います。
「その時間に起きなければならない」という制約が無かったら、多分、普通の曜日のように時間に関係なく任意の時間には眠れると思うのですがね。

でも、よくよく考えて見ると、「眠れない」という摂眠障害は、高校生、音大生の頃からのようです。その当時の日記を読み返して見ると、そこかしこに、「眠れない」の文字が見当たります。次の日には、学校があるので、夜の11時頃から、1時、2時頃迄には就寝していたのですが、眠れないままに、妄想をしながら、それこそ、朝の11時頃まで、半徹をしていました。(大学は、当時は午前中は組んでいなかったので・・ネ?)
妄想をしながら、と言うのは、妄想する事で、眠れなくって、布団の中で、バタ狂うのを防いでいたのです。
時々は、それがShéhérazade並の、2日、3日も続く連作のドラマになる事もありました。
勿論、小説のMotivとして、しっかりと書き留めていましたがネ。

オケ練習の指導では、第一回目のlessonでは、前回の発表会で演奏した時の注意事項、留意点を、先ず最初に確認して、その部分を、lectureをする事から始まりますので、八千代で演奏予定の「Vivaldi a moll Op.3Nr.6」の曲に関しても、以前、Facebookで、この曲に対しての詳しい説明を何処かにしたはずなので、今日、この曲の課題となるconceptを、「以前のFacebookのコメントに追記しようかな??」と思ったのですが、Facebookのコメントの何処を探しても、Vivaldi のa mollに対しての、コメントのPageが見当たりません。
「おかしいな~??」
「あれは夢だったのだろうか??」
「母さん、あのPageは何処に行ったのでしょうか??」

Facebookとは別に、homepageの方には、八千代の演奏会のprogramの解説のPageに、AnalyseのPageを掲載しているのですが、チョッと内容的には、専門的過ぎるので、Facebookの方が、より雑談的だと思ったので、以前、掲載していた雑談っぽいPageに、「少し、四方山話を交えながら、追記しようかな??」と思ったのですがね??
・・見つかりません。
不思議だ!!

「Vivaldi a moll Op.3Nr.6についての追記の雑談」
Vivaldi の Op.3Nr.6のa mollという曲は、今では、教室でも、普通に必須の教材として、子供達が演奏していますが、この曲を教室の教材として取り込む迄には、かなりの紆余曲折がありました。

私が大学で学生達に音楽を指導をするのを止めて、音楽教室を開設して、子供達を指導するように、求められた時に、芦塚メトードとしての新しいcurriculumとして、通常のlessonの他に、「orchestraや室内楽の指導」を取り込もうと思いました。

日本の西洋の音楽教育に関して、それもviolinの教育に関しては、二次大戦後に、鈴木先生の指導によって初めて広まったように思われています。
violinという楽器が広く一般に広まった功績は鈴木先生にある事は全くその通りだと思いますが、「初めて・・」というのは、実は違います。

明治や、大正、昭和の初期の文豪達の本にも、巷の家々からviolinを練習する音が聴こえて来た・・という描写をよく読む事が出来ます。また、当時は、著作権も今ほどはうるさくなかったので、昭和初期に出版されたHohmannの5巻全巻や、violin教則本のFaure 等の近現代の作曲家の楽譜も多数出版されていて、私の個人所有になっています。Beethovenのviolin-sonateの全集等も持っています。

しかし、そう言った音楽は、二次大戦が近づいて来ると、排他運動で、全く影を潜めてしまい、ます。根無し草になって、
それは、当時の音楽教育が、あくまでも、一人で演奏するsolo楽器として日本に導入されて来たからなのです。
雪に閉じ込められる冬場に、家族で室内で音楽を楽しみ暖かい春を待ったというtraditionalな強さが西洋のensembleの強みとして、民族に残っています。
soloだけを導入した日本の音楽は、物珍しさとお金持ちのstatusとしての根無し草となって、二次大戦が近づく事によって敵性音楽として、廃れてしまいました。

ensembleの指導、それこそが日本に正しい音楽のimageをもたらす方法に違いない。
それは、私が子供達を指導しようという事になった、その当時には、未だ、日本の音楽教育界では、ensembleという概念が全く無かったからです。

その当時、音楽の学校で、Pianoの指導をする時に、curriculumの中に、連弾のoriginalの曲を入れようと思ったのですが、未だ全音や音友では、子供の育教材として、originalの教材はなく、日本人の書いたarrange物の楽譜しかありませんでした。
Pianoですら、そう言った状況なので、violinはもっと惨憺たる有様で、celloに至っては、未だcurriculumというか教則本すら出版されてなかったのです。

何時も、よくお話をしていますが、methodeが、methodeたる所以は、私が優秀な生徒を育てるのではなく、優秀な者を指導育てなければ、芦塚メトードとしての音楽教室としての、意味はありません。
私が教えた弟子達が、優秀な生徒を育てる事が出来て、初めてmethodeであり、curriculumである‥・という事が、文部省側の絶対条件でした。

という事で、音楽教室の開設にあたって、私のmethodeを学んで来れる人を探すのは、とても難しかったのですが、昔、私が受験生として指導した事のある、私の弟子に音楽教室を作るのを手伝って貰う事にしました。

早速、芦塚メトードと言う事で、orchestraや室内楽のcurriculumを取り入れようと、orchestraでは、Vivaldiのcurriculumを導入する事にしようと思っていました。

しかし、音大生は、自分が学んで来た事に、prideがあるので、海千山千の私のviolinのmethode等を学んで来れる先生は、皆無でした。

ある時に、偶然、道で私の昔の弟子とパッタリあって、その話をしたら、「協力しても良い」という返事を貰いました。

violinistに取って一番の基本、基礎となる弓の持ち方や、楽器の構え方、methodeに対しては、なんの問題もなく、受け入れてくれたのですが、この「Vivaldi a moll Op.3Nr.6」に関して、大変嫌な思い出しかなく、「その曲だけは、絶対に嫌!」と毛嫌いして、Vivaldi-curriculumだけは、断られてしまいました。

その後、多くのviolinistに遭遇しましたが、異口同音で、「Vivaldi a moll Op.3Nr.6」だけは、皆さん、以上に毛嫌いしていて、教室のcurriculumとして、演奏される事はありませんでした。

私が教室を開いたその当時は、未だYou Tubeのような便利なものは無かったので、私の所有しているFelix AyoのI Musiciのrecordを聴いて貰って、曲のimageは日本で知られているものとは、違うと言う事を納得して貰うのに、数年も掛かりました。

曲を一度聴いて、「え~っ??こんな曲だったの??」と、理解し、納得出来たとしても、子供の頃に学んだ、そう言った奏法のimageから抜け出すのは、何年も掛かる程、その人達には、難しかったのですよ。
三つ子の魂100まで・・てね??

‥・またまた入力がおかしくなっていて、文章が修整出来ません。困った!!

しかし、何とか、この「Vivaldi a moll Op.3Nr.6」を除いたら、他のVivaldiの曲のcurriculumを作る事は、やっと拒まなくなったので、orchestraと室内楽のcurriculumを作成する事が出来ました。

このVivaldiの演奏法の最たる誤りの1つは、弓の「弾き留め(detacheの勘違い)」の演奏法にあります。
多分、音符の長さを正確に教えるために、出した音の最後の音を、押さえつけて、音を留める、(弓を停止させる)のでしょうが、それは、私達には耐えられない雑音を産み出します。
また、小さな子供の内から3点支持で弦を弓で押さえつけて弾くので、violin特有の一番嫌な音である、ギ~ィ、ギ~ィとした音がして、当時、教室のstarPlayerの子供の伴奏をお願いしていたpianistが「violinって、上手い子は良いのだけど、下手の子のviolinって耐えられないのよね~?」「何処に避難すれば良いのかな?・・と思っていたのだけど、芦塚先生の所の生徒達は、どんなに小さな生徒でも、そう言った音は出さないけれど、どうして??」と不思議がっていました。
最初から汚い音を出さないように、指導すれば、どんなに小さくてもそんな汚い音を出す事はないのですよ。

以前、題名のない音楽会で、Wienでも指揮をした事のある指揮者の人が、Vivaldi奏法ではなく、Wien奏法としてですが、「弓の元をclipして、一気に弓を先端まで持って行くと、「カン!」とか「ケン」とかいう音になって、それがwienのよく響く会場では、「フォワン」という素晴らしい音になるのだよ!」と実しやかに、orchestraの弦楽器奏者に演奏させていました。
実に汚い音で、ギャン、ギャンと弾かせていました。「日本の残響の少ない会場で弾くと、そんな綺麗な音にはならないけれども❗」と、弁解しながらなのですがネ?

でも、ヨーロッパのオケが日本に演奏旅行に来て、日本のホールで、その奏法をした時には、wienのホールで演奏しているのと同じ音(響き)がするのだけど、それはご存知ないのかな??それで、よく世界的な指揮者だと言えるよな??

Vivaldiのこの曲のお話に戻って、世界一流のorchestraで、殆どのVivaldiの曲では、素晴らしい響きの(余韻)の音で演奏しているのに、不思議な事に、この曲に限っては、キャン、キャンと汚く弾いているのですよ。
いや~ぁ、その教室が、幾ら世界を席巻していたとしても、これは被害甚大だなや~ぁ!!

You Tubeでは、或る1つのbaroque-orchestraだけが、余韻を残して演奏していたのですが、3楽章は普通にVivaldiの奏法で弾いているのに、1楽章だけは、まるでリチャードクレイダーマンのorchestraのように、休符を無視して、余韻を繋げて演奏していたので、驚いてしまいました。
私と同じで、腹に据えかねて、ついついオーバーになってしまったのでしょうね?
しかし、そこまでやるかよ・・??!!

という事で、「世界のbaroque-orchestraでも出来ないのなら、教室の小学生の生徒達に演奏をして貰おう」という事で、今回の八千代のprogramに入れました。

violinは余韻のVivaldiの奏法と、純正のharmonyが課題となります。
8beatのviolaとcelloが、音色を共有出来るか否かが曲の出来のpointになります。

日本では、この曲は、3歳の子供でも(教室でも2歳半の子供が半年間で、1,3楽章をほぼin tempoで演奏しました。)よく演奏する曲なのですが、学習教材と言う事を離れて、ちゃんとしたVivaldiの曲として演奏するとすれば、中々、難しい課題が山積します。

その1つは、暗譜の問題です。
proの人達にとっては、この曲ぐらいの曲を覚えるのは、なんでもない事なのですが、violinの初心者にとっては、この曲を覚えるのは、難解なのです。

それは、Vivaldi先生が生徒にこの曲を指導する時に、間違えて演奏をする事が無い様に、配慮した事が、正しい暗譜のmethodeを学んでいない日本人の生徒達には大変難関になってしまうのです。
この曲はritornelloの形式で作曲されています。
ritornelloとは、tutti(orchestra部)とsoloの部が、combiで作曲されていて、通常、Locatelli 等の作品では、tuttiは、全く同じに反復されるのですが、それでは反復されたtuttiが、3回目か5回目か、分かりません。tuttiを弾き終わって、別のsolo部を演奏する可能性ですらあります。
そのために、Vivaldi先生の場合には、tuttiが繰り返される度に、そのtuttiにチョッとした変更を加えています。

tuttiのthemaが「今日は絶好のお花見日和だ!」というthemaだとすると、2回目は、「絶好のお花見日和だ!」となって、3回目には「今日はお花見日和だ!」で、4回目には「今日はお花見だ!」と変化します。生徒はそのテーマの変化で、このtuttiが何回目かを判断して、それに続くsolo部を演奏すれば良いのです。

Seitzのような近代の曲でも、「レラファミレ(ラ)」というthemaが、二回目には、「レラファミレ(ド)」という音に変化します。これを私はturning pointと呼んでいます。そのturning pointをしっかりと覚えると、暗譜は非常に正確なものになるのです。
勿論、これは、芦塚メトードに於ける暗譜のmethodeの1つに過ぎないのですが、そう言った暗譜の留意点を勉強するだけで、記憶を正確にしていく事が出来ます。


http://music.geocities.jp/ashizuka_sensei/vvd-a-1-analyse.html









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4月25日 7:22

習志野市市民会館での賛助出演



「習志野市民会館での賛助出演」の動画を編集、作成しました。撮影して戴いたvideo-dataが集まるのを待っていましたが、やはり、動画は生物で痛み易いので、先に貰ったvideoで、uploadする事にしました。

https://www.youtube.com/watch?v=xbN-Y9b1364

客席からの光景です。このangleは珍しい。
舞台が高いと「このangleもあり」、という事かな?
自治会館のように、フル・フラットな会場では、お客様をangleに入れると、演奏者が埋没して、見えなくなってしまいますのでね。
勿論、このangleでも、演奏中になると、舞台上にzoom‐upしてしまうのだけれどね。教室の発表会もこれくらいの集客力があると良いな??

4月28日 3:16





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4月26日 1:28 ·
「17年4月27日 少し、愚痴を追記しました。」
「17年4月29日 少し、全体的に補筆しました。」

Facebookやblogにcommentを書く場合には、不特定多数をimageして書く場合と、特定の共通の趣味主張の人達に対して書く場合があります。

私の場合にも、Facebookにcommentを書く時に語り掛ける人達は、当然、私の生活圏である周りの人達は、教室で音楽を学んでいる人達とその関係者になります。

当然、話の内容は、音楽の勉強の仕方や、学習する上でのadviceがmainになるのですが、しかし、所詮は巷の音楽教室に過ぎないので、教室で音楽の勉強している人の大半の生徒達は、学校や塾の勉強が主であって、音楽は、単なる息抜きであり趣味にしか過ぎないのが実情です。

ですから、私が、常日頃、Facebookやhomepageで、厳しいお話をするのは、音楽に進もうとする人達の場合だけです。
「針の穴に駱駝が入るための方法論」を説明しているのですよ。
音楽への道、これは中々狭い道であって、世間一般で言われているように、「音大⇒コンクール⇒留学」の延長上には、proの世界はないのです。※1)

そう言った事は、proとして現場で活躍している人達に取っては、周知の事実なのですが、それでは、日本の教育界は成り立たないので、音楽を勉強する人達へは上記のroutineが、厳然として存在しています。
だって、それは当たり前の事で、proとしての演奏家に指導を受けている子供は、基本的にはいないと思いますよ。だって、私の知り合いのproの人は、演奏活動が忙しくて、年に、2,3回のlessonをするのが、限度なのだそうですからね。それでは、音楽の勉強は出来ませんよね。

という事で、当然、音楽教育の専門家である音大の先生に付いて学ぶ事になるのでしょうから、自分の属している世界を悪く言う分けはないのですよ。

proとして活躍している人達でも、疲れて来て、演奏活動をやめて、音楽大学の先生になってしまうと、今までの主義主張をひっくり返して、routine型の勉強を推奨するようになってしまいます。(どうしてって??  それはその人がそのroutineの中に収まってしまうからなのですよ。アハッ!)

そのroutineの道の延長線上に、proとして活動出来る世界はないのですが、一般の人達には、routineとしての、安心感があるのでしょうか?‥・今でもそれを信じている人達が多いようです。(学校でも、有名高、有名大学、一流企業、というroutineを信じている人達が多いのでね。)
そのために、繰り返し、同じ話を、する事になります。
30年間もです。

私も、そろそろ歳になったので、そう言った無駄なroutine作業から離れて、思い悩む事をやめて、楽になるために、私のadviceに賛同してくれて、付いて来てくれる生徒だけを指導しても良い頃かな??・・と思っています。

教室の先生達からは、「それでは、啓蒙活動にはならない!」と、ブーイングされそうですが、心労が祟って、ポックリ逝っても、それも問題だからね??

「お話を元に戻して・・」
私が教室の生徒さん達にadviceする時の内容は、先ず第一に、「学業が優先なのか」、「音楽が優先なのか??」・・というその子供の将来の目標目的で、話の内容が、根本的に変わってしまいます。
Facebookでは、音楽に向かう人達に対してのお話が中心なので、だから、一般の大学に進学をしたい生徒さん達は、基本的には、勉強の事については、学校や塾に相談した方が良いに決まってします。そちらの方が、より専門家だと思うのですからね。

生徒達が教室で学ぶ音楽は、趣味の領域で、学校でのお友達との学校生活が優先する場合には、部活で学校のオケ部に入ろうと、教室のオケをやめようと・・、教室がそれにダメ出しをする事はありません。
逆に、部活で演奏する曲の弾き方のadviceや、後輩の指導のadviceを生徒から求められるので、よくadviceをしています。
その指導の内容が、日本の誤った方法論であったとしても、敢えてそれを否定する事はありません。
音楽を趣味とする人達のお話はそこまでとして、次は・・・

「音楽の道を歩む人達へのadvice」
へのadviceです。
就学年次以前や、小学生の時に、難しい曲を結構上手に演奏すると、「凄い!!」という事になる。
教室のmethodeを使用すると、就学年次以前の生徒ですら、超上級の曲を平気で演奏する子供が、結構頻繁に育って来る。

確かに、それ自体は凄いし、喜ばしい事だと思うのだが、しかし、それが音大生ともなるとそれぐらいの曲を、それぐらいのlevelで弾くのは・・「当たり前の事」にしかならない。
しかも、教室で小学生の時にそれだけの能力を見せながら、proに成り得た生徒は殆どいない。

それは、その次の年齢での選択肢を間違えてしまうからなのだよ。
小学生の時や、就学年次以前の生徒の「凄い!」というのは、その年令に於いてしか、・・過ぎないのだよ。
その次の年次に於いて、必要な課題を熟し、水準を常にupしていかなければ、「凄い!」という評価が持続されて行く事はないのだよ。

早期教育で幾ら凄いlevelを確保しようとも、或いは、真逆に、私のように、結構、slow-starterで、音楽を遅く始めた・・としても、コツコツと勤勉に勉強を続ければ、必ず、目的の高さに辿り着く事が可能である。※1)
勿論、意識の高さをkeepする事が、必須条件ではあるのだが‥・??

では、早期教育は無意味なのか??
いや、そうではない。それは決して、無意味な事ではないのだよ。
小学生の時に到達した、start-lineがそれだけ高ければ、同じ努力を次の年次で、続けるのなら、大学生になった頃には、もっともっと、楽により高い「高みの目標」を目指す事が出来るからなのだよ。
それこそ、その場合には、世界も夢ではなくなるのだよ。

問題は、小学生の時期に幾ら高いlevelに辿り着けたとしても、それ以後の努力がなければ、どのような天才児だとしても、大人になれば、ただの人なのだよ。
世界のtopになるという事は、非常に稀な特異な事だよな?
だから、普通の人間が普通の努力を幾らhardに続けたとしても、その夢が叶う分けはないのだよ。
人がやらない事を努力するから、その夢は叶うのだよな?

日本の社会では、小学生迄は、結構夢に向かってひたむきに邁進するのだが、中学生になると、学校教育(学業)との兼ね合いで、ウダウダと、一般的な日常を送ってしまう。

・・中学生の時に・・、或いは、高校生の時に、学校のペースでウダウダすれば、音楽一途で、ひたむきで、一生懸命頑張っている生徒達に、一瞬の間に追い越されてしまうのは、当たり前の話なのだよ。それなのに、学業に囚われている生徒や親は、自分達が追い越された事を気付かない!周りを見ていても、それが見えないのだよ。
「心此処に在らざれば、見えど見えず、聴けど聞こえず」・・だなや??

つまり、幾ら小学生の時に高いlevelに居たとしても、その後の努力がなければ、大学生の時には、普通以下にしかならないのだよ。
そこの所が、事なかれ主義の大人の人達には、幾ら説明しても、中々分かって貰えない。人と同じように‥・という事は、一般の人達と同じlevelになるという事なのだが、親方日の丸のどんぐり症候群ってトコか??

一般人の考え方とすれば、高校受験のために、勉強で遅れた音楽の技術を、高校になって頑張って取り戻せば良いと思っているのかも知れないが、それでは、余りにも、音楽の水準(level)の事を馬鹿にしているし、音楽の勉強を真摯にやっている生徒達に対して失礼であるぞよ。

中学生の時の音楽の勉強と、高校生の時の音楽の勉強では、音楽に進む場合には、その求められる水準(level)が全然違うので、一般の人達の、「後で、高校生になってから、頑張れば良い!」なんて、生半可な世界は、professionalな世界には、何処にもないのだよ。

ましてや、音楽の勉強と言うか、専門的な教育に関しては、中学生では中学生の年齢でないと、得る事の出来ない習得すべき技術があるし、高校生時には高校生の年齢でないと、得れない技術があるのだよ。

高校生になって、「中学生の時に習得する技術を学べる事」は有り得ないのだよ。
それは人間形成上の、「年齢に於ける習得」の問題になるのだよ。
そこが欠落すると、大学生になって、そこの所を補填しようとしても、中々、難しい。(・・と言うか殆ど不可能なのだがね?)
一般の人達が、分かっていない事は、professionalな世界では、「年齢は、全く無い」という事なのだよ。未就学児童であったとしても、業界にproとして認められれば、父親の数倍の収入を得る事が出来る。その歩みは、その次点から、キャリアとして認められるのだよ!

音楽の道に進むのに、高校生ぐらいになってから、一生懸命やれば、何とかなる・・ような道はない。
それは、フィギュア・スケートでも同じだし、balletでも同じだろうよ!!
それぞれの年齢でそれぞれの技術をマスターしなければ、後で、頑張って何とかなる・・という世界はない。
それはどんな道に進もうと、専門的な世界では、同じ事なのだ。
まあ、過去を悔いるのは人間の常ではあるのだがね??

一瞬の気の迷い、気の緩みが、topである事を2番手に譲ってしまう。
一度、譲ったtopの座を、取り戻す事の出来る人は、現実的には少ない。(オリンピック等で、1番手、2番手の争いをしているのだが、そこには2番手を譲る人にも気の迷いや緩みはない。張り詰めた頂点の争いの中の1番手であり、2番手なのだ。)

topを続けられる人の条件は、ひたすらに、ひたむきに、その道に邁進した人だけであり、道を誤らなかった人だけに限定される。
どのような、分野であろうと、日本の頂点に立つ事は難しい。
世界の頂点ともなろうと‥・、それは問題外であるぞよ。

こういった「ひたむきさ」は特別な人の特別な才能と思われるかも知れないが、実はそうではない。
周りの、雑多な事に惑わされる事の少ない小学生の時代には、結構、「ひたむき」は、普通にある。
それが成長に伴って、学校の受験や塾の教育によって、一般常識、一般的な通念による概念によって、壊されて行くに過ぎない。

私がもし親であって、自分の子供を教育する立場であるならば、自分の子供に対してだけは、その「ひたむきさ」を一生の宝にしてやりたいと願う。
何かにひたむきになれるという事は、人生最大の神からの贈り物(gift)だからなのだ。

そのために、学業がおろそかになろうと、成績が落ちようと、人生に取っては、そんな事は何の問題も有り得ない。giftに較べて、全くの無価値であるという事だよ。

実際に、私が登校拒否の私の姪っ子にadviceをした事は、「何かやりたいことがあるのなら、その事に邁進して、学校なんか行かなくても良い。やりたい事を勉強するためのback・upは、私がしてあげよう。しかし、何もやりたい事が見い出せ無いのなら、学校に行って、やりたい事を探しなさい。」・・とadviceをした事がある。
高校卒業の資格や、大学卒業の資格は、本人が望むのならば、通信でも得る事が出来るからね。
実際に姪っ子は通信教育で資格を取っている。

専門的に音楽の勉強をするとなると、一緒に勉強する仲間が減っていくのは、音楽の世界に限らず、全ての専門職の場合には仕方がないことだ。
ということで、本当の仲間(友人)は、常に「ライバルである」ということになってしまう。
浅田真央ちゃんのキム・ヨナ選手のようにネ??(それは違う!という話もあるのだけどネ??)
また、自分と同じlevelの相手でなければ、本当の悩みを理解する事は有り得ないからね。
ライバルであるから、同じ悩みを共有出来るのだよ!!(キム・ヨナの話はさておいたとしても・・だが)

まあ、今は、二人共、「ひたむき」に生きるのを止めて、athleteの頂点に君臨する事も止めて、普通の人間として、結婚や恋愛をしたいようなので、栄光は過去の話であって、今現在は、athleteとしては、もう問題外の人間であるのだが。
真央ちゃんがこれからもしまかり間違えて、元の道に戻りたいと思ったとしても、その「ひたむき」が戻って来る事は無いと思うよ。

これからの「ひたむき」はスキーの沙羅ちゃんかな??
・・でも、沙羅ちゃんも、随分、色っぽくなって来たので、此処ら辺迄がathleteとしては、限界かな??

athleteは、意識の問題だけではなく、体力的、年齢的な問題もあるので、balletや音楽等の一生の職業とは、少し違うよな??
まあ、それにしても、男性陣は安定しているよな??

その人のレベル(水準)は、意識的にしろ、無意識にしろ、その人が付き合っている仲間の水準で決まる。
自分が巷のヤンキーと行動を共にする場合、自分が何を言ったとしても周りの人はその人がヤンキーではないという事は認めないだろう。
自分が自分自身に対する目と、周りの人達の自分に対する目は、根本的に違うのだよ。

学校の部活で、音楽をいくら頑張っても、プロの水準に到達することはありえない。
それは音楽に対する基本的な意識、考え方が基本的には、違うからだ。
全ての社会の構造は、ピラミッドの構造になる。
芸術や、スポーツでなくても、会社の構造式ですら、同じナノだから。
会社でも、上行嗜好があるのなら、ピラミッドを目指さなければならない。
それは、どの社会でも全く同じナノだよ。

※)slow-starterと言う事では、私は高校2年生で音楽の道に進む事を許して貰った。
祖母に、Pianoを買って貰ったのも、高校2年生の時で、病院から退院した後の話だ。
それで、私の「夢は叶ったのか??」って??
それは酷な質問だよな??

しかし、よくよく考えると、・・・潜在意識的には私の夢はちゃんと叶えられているのだよな??
一般の人達から見ると、私の夢は叶えられていないように見えるのかも知れないのだが、ただ、幾ら引き篭もりの私でも、Brahms迄には、引き篭もりにはなりたくないし、況してや、当世風の、チャラチャラしたContemporaryな音楽は嫌いだ。
美術品でも絵画の世界でも、Contemporaryな作品は私には理解出来ないし、現代作品と言われる、Stravinskyの春の祭典(Le sacre du printemps)は、実に古典的な技法で作曲されているので、Contemporaryな作品ではないのだよな。私のPiano曲でも、音はsharpであったとしても、作品自体はContemporaryでは無いのだよ。

私が留学から日本に帰って来て、作曲家としての生活を探して、放送局や色々な所を紹介して貰ったのだが、放送局やマスコミの世界に、安住の地は何処にも見つからなかったのだよ。
まるで、bossの絵のように、足が地に付いていなくて浮ついた世界に見えてしまった。

所謂、音楽大学のように、academicな音楽大学関係の世界も、私の望む世界とは程遠かったのだよな。
実力もないのに、教授になる事だけが、唯一の目的で、勉強を全くしようとしない有名教授達を見るに付け、私にとっての音楽の勉強は全く別の物であるように見えてしまう。
音楽大学の教授達を見ていると、私は「こうはなりたくない」・・という反面教師にしか見えないのだよな??

そもそも、私が作曲家になりたかったのは、「創作家という仕事は、自分の庵に引き篭もっても生活が出来る」・・と思い込んでいたので、作家になりたかっただけなのだが、現実の作曲家の生活は日本では、実につまらない生活で、私の望む生活の形態ではなかった。

生徒達が憧れる演奏家という人種は、スター性が命なので、人の前で演奏をする事が好きで、観客から拍手をされる事が好きでなければならないので、例え、指揮者として・・であったとしても、引き篭もりの性格の私にはpressureが大きくて、仕事として続けるには、無理のある仕事になるのだよ。カーテンコールを逃げるようでは、starになるのは無理だよな?

つまり、私の夢を叶えるだけの環境は、今の日本の社会にはないのだよな??
どういう仕事なら、私の夢を叶える事が出来るのか??と・・言っても、私の夢が見えないのだよ。
歴代の作曲家を見ていると、理解出来ないのは、あれほどのstarであり、国家的に大騒ぎをされたFranz Lisztですら、修道院に引き篭もってしまうのは、どういう分けなのだろうか??

「引き篭もり」とは・・言っても、山奥の人っ子一人居ない場所に一人だけ、寂しく暮らすのは、怖いし、そこはかなり矛盾しているのだよな?
「修道院に行きゃれ!」てか??

・・かと言って、子供の頃の話のままに、周りの人達の言う事を聴いて、医者になる道もあったのだが、それは今でも、その道は私には辛すぎるようで、私の道ではないと・・確信している。

それに、よく勘違いされる事なのだが、芦塚音楽研究所とは、会社なのだから、私の個人の教室ではない。
本来の意味は、「芦塚メトードで指導する先生達の音楽研究所」であり、且つ「教室」・・という意味であって、何処にも私の個人の教室という概念はない。

もしあるとするのならば、それは会社という組織にはならない。もし、私の個人の教室であるとすれば、どの様に大きな規模であっても、個人の音楽教室なのだからね。
これは法務局の概念でもあり、一般の社会通念でもある。

私が教室で、個人的にたまに生徒を指導するのは、単なるaftercareであって、仕事として・・ではない。
orchestraや室内楽も同様で、これは先生達の生徒サービスのvolunteerであって、仕事としては、その収入は、先生達の「顎足のお金」にもならない。

本来は、orchestraや室内楽等のensemble教育は、私の教育のmethodeの証明のために始めたのだが、結果は、完全に証明されているので、これ以上の証明はする必要がないからだ。
単に、生徒達が異常に上手になるから、volunteerで先生達がやっているに過ぎないのだよ。
※1)留学先の先生が非常に優れた指導者で、proに成れた人はいますが、それはあくまで例外的な例です。
では、何故、その延長線上にproの世界がないのか?という事には、厳然とした理由があります。それは、世界の音楽教育は、技術教育であって、audienceを対象にした、表現の勉強ではないからです。また、表現と言っても、そこには歴史的な奏法の基礎があって、その基礎の上に表現を作らないと、それは、単なるamateurの音楽になってしまいます。
ですから、baroqueや古典の演奏法を学ぶ事はその基本の勉強をする事になります。
しかし、世界の音楽大学の先生で、古典の指導が出来る先生は今はいません。ちゃんとした古典の演奏法を指導出来る先生が誕生するためには、後、30年は待たなければならないのです。
何故、後、30年なのか??
それにも厳然とした理由があります。
それはforte-pianoの復刻が、未だ未完成で、それがCembaloのように、一般的になる迄には、後、30年ぐらいの年月が必要だからです。



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4月26日 18:54 ·

春待ちコンサートの動画の編集
..
「春待ちコンサート」でのVivaldiのa mollのdoppel-violin-concertoですが、初めての動画の編集の挑戦で、動画編集softを買う前のお試しセットでの編集で、出来る事が限られていて、その上に慣れない事もあって、編集作業の時の凡ミスと、音声が1カメから2カメに変わる時に、音声も2カメに変わって、音色や音量などが場面転換の度に変わって、「聞き辛い」という指摘もあったので、最初から作り直しました。
cameraが2台だけなので、angleが選べないという問題もあったのですが、一応、画面をズームしたりと、色々と勉強した技術を駆使してrenewalしました。まあ、素人の作業なので、こんなもんでしょう??

https://www.youtube.com/watch?v=pv5rG28sMQI


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4月27日 7:01 ·


..

Vivaldiの a moll Op.3Nr6のⅢ楽章の最後の6小節です。
通常の出版されている版では、141小節目はviolinのsoloのpartはミ♮になっています。



  






多分、その方がorthodoxに聴こえると思うのですが、3枚目の楽譜に見られるように、soloの部分から、5度圏(quint-Zyklus)で、AからA迄の5度圏で書かれています。その場合には、chromaticの進行なのか、diatonicの進行であるかが、問題となります。

baroque音楽の進行では、通常は増4度の進行はしません。つまり、141小節目の2拍目の裏のFから、次の小節の頭のhへの進行は、baroque時代には禁則になります。
禁則が起こらないようにB♭にすると、そうすると、(導音のgisの音はAsに読み替えが出来るので、)B♭、D、F、Asの単なる属7の和音になります。
つまり、soloの始まりの、Aの和音から始まって、E7,A7,D7,G7,C7,F7、B7,E7で、Aの音に一巡(回帰)します。

これは勿論、chromaticの5度圏なので、141小節目の2拍目の頭の音は(F7の和音)になるので、ミ♭でなければなりません。次にFからHの進行は、増4度になるので、禁則出し、Sequenzとしても、B(♭)が正解であります。
B♭とG#は一見すると、短2度でぶつかっているように見えますが、実際には、G#の音は、A♭の音になるので、B♭7の属和音のコードなので、前からの属和音のSequenz進行にしかなりません。
実はこちらの方が、音楽理論的には、より自然なのですよ。

馴れで、E♮の方が自然に聴こえるのですが、そうすると、E♮と基音のFが長7度でぶつかるので、凄い不響和な音がします。(cembaloのpartでは、短2度でぶつかってしまいます。)
それを逃れるために、一般的な譜面ではSequenzは139小節と140小節の2小節だけを5度圏にして、後は、Sequenzをしないで、問題の141小節目はCの3和音にして、次の音をシナチュラルにしています。

同様に、2拍目はCのⅥ度からⅣ度の7の和音、次の小節の頭をCの7度=a mollのⅡ度の和音からⅡ度の2を経て、Ⅴ度の56からⅤ度に進行させています。
簡単で良いのですが、折角のVivaldiのⅤ度cycleは聴こえて来ません。
diatonicの和音で、お茶を濁して逃げています。
Vivaldi先生に怒られそうですよね。(参考のscoreの3曲迄は私のversionです。4曲目の楽譜はRicordi版です。)5曲目のcello‐partに低音の基音のBaßの音を加えて、Ⅴ度圏を表示しました。



ナチュラルが標示されていないで、空白になっている‼
そうなんだ‼スマホにはナチュラルのフォントがないんだ!!
4月27日 10:41



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4月27日 11:05 ·

「The Bird!」
おっ!おっ!襲われる~!!



丸々とした美味しそうな犬だ!!と鳩ポッポ!
硬直するドル!!
4月27日 13:46

鳩ポッポに睨まれているドル

5月6日 9:44


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4月28日 5:48 ·

今回の演奏会は次回の演奏会のrehearsalです。
..

近頃は、発表会やおさらい会に加えて、対外出演も回数が増えて来て、色々な曲を多数、勉強する機会も増えて来ています。
という事で、私が子供達、生徒達によく繰り返し言う言葉があります。

それは「今回の演奏会は次回のrehearsalだよ!」という言葉です。

音楽の勉強をする時でも、或いは、一般の勉強をしている時でも、日本の教育では、1つの単元を勉強し終わると、「終了した‼」という風に受け取られてしまいます。
学校等でも、その単元はもう終了したのだから、勉強しなくても良い、とされる事が多いようです。

という事で、「Vivaldiのa mollは、小学生の時に勉強した曲だから、勉強しなくても良い!」と、よく音大生達が言います。
しかし、私達の教室では、もし教室の生徒が、そう言う風に曲の演奏に対して思った時には、その生徒に、その曲を模範演奏としてのrecordingをさせます。
自分の弾いた演奏の録音を聴きながら、模範となる演奏になる迄、何度も、何度も弾き直して、その演奏を修整を加えて、bestな演奏になる迄、録音のchoiceを重ねて行くのです。
その作業を2,3回、体験する事で、「初歩の曲を演奏するのは簡単だ!」という考え方は2度としなくなります。
模範演奏のrecodingする事は、初歩の曲になればなる程、誤魔化しようがないので、自分の技術の根本が試される事になり難しくなります。
昔は、この作業をするために、mixerとハード・ディスク、それにmikeを買わなければならないので、その投資に50万以上のお金が掛かりました。
勿論、教室から出費して貰える事はないので、自腹です。
しかし、今は、パソコンの中で出来るので、それこそ無料のアプリで同じ作業が出来ます。
「母さん!私のあの投資はいったい何だったのでしょうかね?」

私が、仕事で、車で全国を旅行している時に、旅のついでに、旅行のガイド・ブックではなくって(ガイド・ブックは、人気のあるお店が掲載されているので、名店は掲載されているのかも知れませんが、本当に美味しいお店が載っている分けではありませんからね⁉)、その街の古老達や友人達が「上手い」とお薦めする蕎麦屋に行って、汚い旅行服のままに、盛り蕎麦を注文すると、何時も驚いた事に、奥から店主が飛び出して来て、「お味は如何でしょうか?」と聴いて来ました。
汚い格好の若者(今は老人ですが・・)が、盛り蕎麦を頼んだだけで、お店の主人が出て来るのかは、今でも分かりません。まさか「こりゃ、駄目よ!」とは言えないしね⁉

牧野先生の話によると、「盛り蕎麦」は、蕎麦の原点なので、頼む人は、余程の食通か、お金が無いか?なのだそうですが、私は汚い格好で行ったので、お金のない方に見えるのでは・・と思ったのですがね。
食通と勘違いされたようです❗
そう言えば、時々、素うどんが食べたくなるのですが、近場で、素うどんを出すお店が無くて、困っています。一応は、江古田にも、椎名町にも、なか卯はあるのですが、美味しい素うどんを食べたいのでね⁉
私の場合は、蕎麦はセイロで、うどんは素うどんが信条なのでね。
私はよく、(家でも、)とろろ蕎麦を食べますが、とろろで蕎麦の味を誤魔化しているのではなく、本当にトロロが好きなのと、トロロで、疲れを取るのが目的なのでネ?

先日も、久し振りに、春の発表会開けで、教室がお休みになったので(今回は、珍しく、先生達は、悪性の風邪に掛かって、lessonをお休みしたので、その補講で、あまり休みはなかったので、3人の休みが噛み合った偶然の一日です❗)、先生達と一緒に、蕎麦屋に美味しい蕎麦でも食べに行こうと思ったのですが、何時もの美味しい蕎麦屋にことごとく、ふられてしまったので(何故かお店が全部休みか無くなっていたのですよ!)、椎名町の小さな鰻屋に行って、(この鰻屋は一見ではなく、2回目の訪問になるのですが、)店主のお爺さんと話込んでしまいました。
3人か、4人座れるカウンターと小さなお座敷が二つぐらいのこじんまりとした鰻屋なのですが、トヨタの会長さんとか、直木賞の作家さんとかも訪れる店なのだそうです。

椎名町には、私が目を付けている鰻屋が、後、2軒あるのですが、時間帯がどうしても合わなくて、中々行けません。
目を付けていた蕎麦屋は、一通り全部一度は行ったのですが、その内の2軒はもう潰れてしまいました。
趣味の店は幾ら美味しくても長続きはしないのです。
演奏家と同じでね。
趣味の延長線上の演奏家は、ある程度迄行くと、直ぐに、演奏家であることを、やめてしまいます。それでは、本当の音楽の事は分からないよネェ?表面的な美しい所だけを学んで、終わりかな⁉
音楽は、そこから始まるのにネ?

Beyer教則本では、106曲の課題曲が、幾つかのgradeに分かれていて、指導内容がどんどん進んで行くのですが、その指導で、もっとも大切な留意点は、第一gradeから、第二gradeに進んだ時に、第二gradeで学ぶ事は、第一gradeのbase上でなければならない‥・という事です。
つまり、「第一gradeは終了したから、新しく第二gradeを学ぶ」という考え方は基本的に、間違いなのです。
第一gradeで3つの事を学んで、第二gradeで更に3つの事を学んだ時には、練習では新しい3つの事を勉強するのではなく、第一gradeからの6つの事を同時に勉強しなければならないのですよ。
ですから、発表会や対外出演で、演奏が終わって、次の曲の練習に入る時に、その曲の反省上に練習に向かって行くのと、全く新しく、曲の練習を始めるのでは、その後の上達に、大きな差が出来てしまいます。その終わった演奏会を、次の演奏会のためのrehearsal と考えると、上達が著しいのですよ。

勉強をしていると、「slumpや行き詰まり」はしょっちゅうありますが、その「slumpや挫折の原因」は、新しく学んだ技術に付いて行かないのではなく、前のgradeで、理解出来ていない、弱い箇所を放ったらかしにしたままだったからなのです。

これは、指導をする教師側も、生徒がどのgradeのどのpointが理解出来ていなかったのかを判断し、修整出来なければなりません。
その行き詰ったpointを放ったらかしたまま、次のgradeの指導をして、その場は、何とかやり過ごす事が出来たとしても、次には必ず、同じ箇所で躓いてしまうからです。

対外出演が終わって、一人一人の生徒達に「自分の演奏をちゃんと、checkしたのか?」と生徒達に確認したのですが、「時間が無くて、未だやっていない」という答えでしたが、こういうものは「刺し身」と同じ、生物なので、新しければ、より新しい方が、新鮮で良いのですよ。

発表会が終わって、その日の内に、videoを見て、反省点や良かった点を書き出して起きます。
それが、本当の演奏会の反省であり感想なのです。
しかし、それが、1月後に、もう一度、videoを見直した時には、印象が全く変わってしまうのよね??
反省点も感想も、初回に見た時とは、全く違って見えて来ます。
そして、1年も経つと、全く別の印象になってしまいます。
その時に反省文を読み返すと、何故そう思ったのか・・すら、理解出来なくなっています。
人間の反省なんて、そんなもんなのですよ。



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4月29日 14:45 ·
今日は朝早くから又々鬱が酷い
勿論、その鬱の原因はちゃんとあって、分かり切ったものなので、その処理の方法は分かってはいるのですが、それでもその事に捕らわれて、執着して、鬱になっています。

原因が分かつているのだから、それを何とかしようと暗中模索するのではなく、ただ、人様の事なのだから、「自分には関係のない事でござんス!!」って、単に切り捨てればよいだけなのですがネ?
それが中々出来ないッスよ‼

頭の中の理窟の部分では、もう既に、切り捨てているのですが、感情的には、少しも切り捨てが出来ていないのですよ⁉

自分に直接、関係する事ではないので、何がその事について妄執を引き起こしているのかさえ分からないのですがネ?

そうです。
理屈が立たないから、抜け出せないのですよネ⁉
放下着ですかネ?
もの持たぬ たもとは軽し 店の前
うひゃ~ぁ⁉ 喝‼😠

今日の椎名町詣は、私には精神的に辛い‼鬱の状態で、平静を保つのは、結構大変なのですよ‼

朝、鬱っぽいので、もう一度、寝直していたら、夢を見ていて、mailの着信音で起こされたのだが、・・・急遽、引っ越しを余儀なくされて、その巨大なマンションのエントランスにある、シューズボックスのどれが私のシューズボックスだったのか分からなくなって、必死で探している夢だった。
そうこうしていると、先生達がそのマンションに、自転車で帰って来て、ボックスの中の靴のサイズが合わないので、私のシューズボックスではないのではないのかな⁉・・とか、あれこれ言っているのだが、その話が終わらない内に、さっさと、ジュースでも飲みに行こう!という事で、シューズボックスの話しは、そのままになってしまった😵💧・・という、分けの分からない夢だったのだよな⁉
フロイドの夢判断でも理解不能な、現実的な夢だなや??
いったい、何の夢だったのだろう⁉
単純に言うと、引っ越しをしなければならないのが、心の端に引っ掛かっているのだよな⁉
でも、それは、諦めているので、鬱の材料にならないとは思うのだけどね⁉
兎に角、今日の鬱の原因は、私には、無関係の事なのだよ‼
心を別に捕られればよいだけなのですがネ?



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4月30日 7:04 ·
「楽譜の準備のお話」

今日は(17年の4月の29日の土曜日で)、椎名町の事務所では千夏ちゃんと梨紗ちゃんがオケで配る楽譜の準備をしています。

「出版されている楽譜がない一般的な場合」
準備する楽譜は、既に出版されている楽譜があるの場合と(殆どのorchestraや室内楽の場合には、楽譜が出版されていない場合がありますが、「楽譜が無い」・・という場合には、一般的には、その時点で、その曲が演奏される事は、無くなってしまいます。(その曲に拘る理由もさしてないからです。)

「教室で出版されている楽譜がない場合には、」
しかし、教室では、曲は生徒達の技術の向上のためのcurriculumの中に組み込まれて、選曲されるので、該当する曲が出版されていない場合や、出版されていたとしても、演奏上何か問題があって、私がその曲を校訂する必要がある場合等は、教室で、楽譜の入力のsoftであるfinaleで教室として入力をして、楽譜を作ってしまいます。

「楽譜は出版されているのだが、間違いやミスが多過ぎて、使用出来るに足らない場合」
その場合、Vivaldiや他のbaroqueの作曲家の作品のように、楽譜上の間違いを訂正しただけの場合は、kritik版と言って、その間違いの箇所が訂正されているだけなので、finale等で、楽譜を制作し直したとしても、大した手間暇ではないのですが、楽譜が全く、出版されていなくて、その資料すら無い時ですが、そういった楽譜を作る場合ですが、ただpart譜がないのでpart譜を作る場合や、その逆に、scoreが無くって、part譜から、scoreを作る場合と、TelemannのAriaのように、全く楽譜自体が存在しないので、You Tubeやrecordから、私がair‐checkをして、耳パクで、作曲してしまう場合があります。

「教室の生徒のneedsに合わせて、arrangeをやり直す場合」
その場合には、その時に発表会等で、出演する人数や、生徒達一人一人の技術のlevelに合わせて、少しづつ譜面を違えて書きあげています。

同じ曲を、2度、3度と演奏する場合には、その都度、生徒達のneedsに合わせて作る事になりますので、市販の楽譜とは違って、完成原稿が一つ・・という分けには行きません。

そういった事で、私が校訂した楽譜の場合には、どの稿が最終稿になっているのか?を判断するのが、結構難しいのですよ。

「一つの曲なのに、versionが多過ぎて、どのversionが必要なのか?の判断が付かない場合」
という事で、今回、生徒達に配ったVocaliseの譜面が、私の予定していた「最終稿」とは違った版だったので、「コピーのやり直し」‥・という事になってしまって、椎名町のパソコンに残っているfinaleの Vocaliseの楽譜のdataをcheckしたら、やっぱりハイツで私が持っているscoreとは、全く違っていました。

Vocaliseを演奏する過程で、それぞれの教室の生徒達の水準(level)に合わせて、versionを作ったりした分けなのですが、この曲のversionが幾つものversionになった理由は、もう一つのやむにやまれぬ理由があります。

この Vocaliseという曲では、soloをする人の他に、orchestraの中での、オケのsoloのpartがあるのですが、そのpartを、cello‐soloが演奏する場合には、かなりのhigh‐positionになってしまって、演奏上、結構、大変なので、より簡単に無理なく演奏出来るように、violaのpartにsoloのpartを持って行ったversionを作ったのです。
勿論、cello‐soloの版は、削除された分けではなく、celloにsoloをさせたい場合のために、取って置いてある・・という分けです。
その都度の演奏する生徒の技術力に合わせて編曲してしまったのが、finaleのfileのarchiveに、vocaliseの色々なversionが増えてしまった直接の原因があります。

「単なる、filingの下手さで、紛失する場合」
パソコンのfinaleのarchiveに、dataを保存する時に、分類するためのTitle付けがまずかったり、filing自体が下手だったりして、どのversionが、どの目的のarrangeなのかが、皆目分からなくなってしまっていました。

「これは悲劇です!!」
lessonやlectureで、夜遅くなって、結構疲れてしまったので、早めにハイツに戻って、楽譜のcheckだけをして、取り敢えずは、寝よう・・と思っていたのですが、checkをすればする程、どの稿が最終稿なのかが、全く分からなくなってしまったので、面倒くさいので、最終稿と思(おぼ)しきものを1つ選んで、そのscoreに修整を加えて、(やはり、オケsoloはcelloになっていたので、violaに持って行って、tuttiのviolaを作って‥‥・etc.)その曲のCodaの部分を大幅変更していたら、突然、入力中のfinaleのdataがぶっ飛んで、dataが無くなってしまった。

眠たいのを、無理をしてパソコンに向かっていたので、超ショックで、「頭に来たな~ぁ! もう!!」

パソコンの中にあるfinaleのfileの中の 、Vocaliseのdataを、全部立ち上げてcheckして見たのですが、その時に校正していた楽譜は、とうとう見つからなかった。
全部ぶっ飛んで、疲れた時間の彼方へ、消えてしまって行ったらしい。

fileを、頑張って探している最中に、いつの間にか、そのままパソコンの前で、パソコンの椅子で寝てしまって、明け方近くになって、寒くなって目が覚めたので、諦めて、急いで布団に入ったのだが、横になっていると、だんだん、腹が立って来て、ますます眠れなくなってしまったので、仕方なく、寝るのを諦めて、ベッドから起き出して、修整箇所を、全部ぶっ飛んだ箇所と同じ修整をもう一度した。
修正箇所は、ちゃんと覚えているので、訂正自体は早いのだが、やはり、finaleに入力をしている最中に、finaleが、おかしな動きを何度かしたのだが、「これはまずい!」と思って、毎回、修整する度に、「ctrl+S」でdataを保存しながら作業をしたので、何とか事なきを得る事が出来た。

という事は、finaleに、かなりのbugが溜まっているらしい。
いずれにしても、これから、寝ます!!
各、partも大幅に更変されています。
melodieには変更はありません。全く同じです。‥・・当たり前なのだが

それと、椎名町のパソコンで無事に開けば良いのだが???
finaleのversionが少し違うので、それで、bugが発生するのかも知れないね。

「土曜日の梨紗ちゃん、千夏ちゃん達のlecturelesson」
は、encore‐programとしてのFaure の小品を3曲を楽譜を作りながらしました。
しかし、Faure のSicilienneは、本来はFaure はcelloとPianoのために作曲したはずなので、教室には私のoriginalの譜面があったはずなのですが、何と、arrange物で製本されてしまいました。
曲が探し出せなかった・・という事らしいです。
(timelimitに間に合わせる‥・という意味ならば、兎も角として、仕事としてならば、これも当然やり直しネ??)

元来、生徒達には結構悪い癖があって、自分の都合の良いように、事実認識を捻じ曲げる傾向があります。
自分の手間暇が省略で来るように、事実認識を、理論を、歴史さえも曲げて解釈しようとする傾向があります。
それがただの面倒くさがり屋としての傾向だったとしても・・・です。

それは自分が向き合っている音楽に対しての・・・、(でも、それは、結果としては、自分に振り返って来る分けなので、結局の所(究極の所)では、)自分自身を貶める事にもなるのですが、「面倒くさい」‥・という感情は、その一手間を惜しんでしまうのですよ。

まあ、そこが若い‥・、或いはamateurだ・・という事なのだろうけれどね。
でも、私は、「若さはいちづさだ」と思っているので、そこの所は、許せないのですよね。

これが男の子の場合ならば、将来の生活が掛かってしまうので、そこで、安易な妥協をする事はないはずなのですがね。
(基本的んは、私の周り‥・と言うか、教室の周辺の男の子達は、仕事に対しての、ひたむきさは持っています。

しかし、引き篭もりは、女性よりも、圧倒的に男の子の場合が多いようですが、引き篭もりは、父母に依存する事であって、自立力の欠乏に過ぎません。だから、女の子に言わせると、将来を見据える事が出来ないのは、男の子も同様なのだそうです。
教室を離れて、社会的に見てみれば、・・・
「そう言えば、そうだよな~ぁ??」

「finale入力のお話」
パソコンの入力の作業では、以前、千夏ちゃんが入力を、し掛けたままで、保留状態になっていた箇所を、コツコツと入力しようとしていたので、そう言った超、面倒くさい箇所を素早く入力するための裏技を伝授出来るように時間を作りました。

裏技なので、finaleの取説には、勿論、書いてありません。
何時もの通りに、操作の手順を、文字に書くと、途轍もなく面倒くさいものに思えるのですが、私一度代わりにやる作業を見て覚えると、如何に簡単なのかがよく分かります。

という事なので、実際の入力の時に、それぞれのcaseで指導すると分かり易いので、今回の課題の曲である、Leclairの入力を通して、超面倒くさいpassageを一瞬で入力する方法を伝授しました。

この裏技というのは、頗る問題で、finaleのsoftは、本来はMac用に作られていて、実際にはwindows用には、softを変更された物だからです。
そのために、パソコン自体が変わると、操作の手順が変わってしまって、私の子供達へのfinaleの解説である「finale教室」でも、取説の説明通りでは、そう言った動きをしない場合が多くて、取説通りには、動かない操作手順を、赤のfontで表示しています。
私が、経験上に編み出した(!!、パソコンに経験上って、いったい、なんじゃろね~ぇ??)裏技を、黒字で入力しています。

しかし、そういった裏技を、一つ一つ、homepageにupするのも、超、手間暇が掛かって超!面倒くさい!!
‥・などと、ウダウダと書いてないで、寝よう!!
……と、書いていたら、またまたいつの間にやら、椅子で、熟睡していました‼
こんどこそ、ベッドに入ってちゃんと寝ようと思ったら、またまた……??? こんどこそ・・・???  こんど・・・???



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4月30日 14:56 ·

相変わらず鬱っています。
..
    



今日は(17年4月の30日(日))4月の最後の日で、明日からは、何と5月です。今日は、 Vocaliseの入力が終わって、睡眠もある程度は取れたので、朝は何とか元気だったのですが、起きて1時間後には、鬱が再発してしまいました。

もうすぐ、千夏と梨紗のlessonに椎名町に出発しなければならないのですが、相変わらず鬱が酷くて、出かけなければならない‥・3時45分というtimelimitに、悩んでいる所です。
バイクに乗って、椎名町の事務所に、行ってしまえば、lessonとか、lectureとか、何かと忙しいので、それなりに気は紛れてしまうのですが、今悩まなければならない事も、江古田教室の事等、結構重要な事なので、本当に鬱ってしまいます。

それにしても、このFacebookでは、自己紹介のPageが勝手に開いて、「好きな食べ物は‥・?」とか、「行って見たい場所は?」とか聞いて来て、一々削除しないと、煩わしいのですが、設定の画面を開いても、それを削除出きる場所が見つかりません。困った。

2,3日前からバイクで江古田と椎名町を行き来していると、多くの家からjasmineの香りがして来ます。
勿論、椎名町の家にもjasmineの花が咲いています。
君知るや南の国 オレンジの花咲き・・・




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5月1日 6:00 ·
(17年5月3日の深夜に、少しだけ全体的に補筆しました。)

「仕事としての音楽への意識」

若い頃のお話ですが、私が留学から帰って来たばかりの頃の事なのですが、お友達と言うよりも、(少し年上の女性だったので、)先輩というべきなのでしょうが、桐朋のPiano科の主任教授の先生をやっている女性の家に遊びに行った時に、彼女が「この歳になって(アラフォーって事なのですが)やっと、自腹ではないコンサートが出来るようになったのよ!」と、自慢げに私に言ったので、驚いてしまいました。
「え~っ、桐朋の主任教授という立場の人でも、コンサートは自腹なのか??」と、すっかり驚いてしまいました。

勿論、ticketの大半は生徒に持たせたとしても‥・、それでも、自腹が派生するのですよ。
(音大の常識としての話しなので、一般の人には、分からないと思いますのでちょっと説明をすると、音大の先生には、資格の関係で演奏会を開かなければならないという義務があります。そのために演奏会のticketを売らなければならないのですが、勿論、自力でticketが、一般で買ってくれる人がいる分けではないので、自分の生徒に、20枚、30枚と割り当ててしまうのです。

先生は、一応は、「売れなかったら、ticketを返して❗」とは言ってくれるのですが、自分の先生のticketなので、返却できる生徒はいません。
他の生徒も同じなので、お互いにticketを交換して割り振るのですが、一人一人の先生に取っては、年1回のステージでも、音大では演奏会を開く先生の数が、余りにも多いので、結局、生徒同士で、ticketを持つ‥・という事が不可能になってしまい、結局、自分で自分の先生のticket代は持ってしまう(買い取ってしまう)事になります。
しかし、ticketを(買い取ったままの)そのままにしてしまうと、会場で、空席が目立ってしまう事になりますので、ticketを演奏会に行って来れる人達に、ただであげる事になります❗
音大の先生達のコンサートは、そういった犠牲の上に立ったコンサートだったのですよ‼)

音大生が演奏会を開く事は、(唯一の例外の音大である、桐朋を除いては)基本的には許されてはいません‼
生徒がコンサートで、失敗すると、学校の恥になってしまうからです。(卒業してしまうと、学校の名前を出したとしても、卒業生なので、学校は関知出来ません。自主責任の上での演奏会なのですからね!!)
音大を卒業してから、熱心な生徒は卒業をした記念に演奏会を開く事もありますが、演奏会は、或る意味、statusなので、人は、演奏会場のホールの立派さで、演奏会の水準の価値判断をします。
一般のお客様には、理解不能な難しい曲ばかりを集めて演奏会のprogramとする(自称)演奏家がよくいます。
「こんなに難しい曲が弾けるんだぞ‼」という事なのでしょうが、聴かされる人にとっては、たまったものではないよネ?

「こんな難しいrepertory!! いったい、どういう人が聴くのだろう??」と考え込んでしまうのですが、なりにそれお客様が集まっていたりします。
「何故・・??」
それが自分達の企画で、自腹の、所謂、持ち出しの演奏会であったとしても・・音大生のコンサートには、聴衆に対しての、思いやりは持っていません。
コンサートを開く事に意義があるのです。
私は音楽会の自主公演は、proとしての活動ではない・・と思っているのですが、音大生にその話をすると、逆に、「演奏会を開くのに、金銭の事を考えるのは、音楽に対しての冒涜だ!」と、言われてしまいます。
芸術は、金銭の事を考えるのは、tabooだそうです。
まあ、分かりそうな気はするのだけどネ?

しかし、苦学生であった私に取っては、自腹のコンサートは、どんなに素晴らしいホールで演奏しようとも、発表会に過ぎない・・としか見えないのですよ。
自分がお金を払って演奏会をするのならば、それはproの演奏活動とは言わない・・と、思うのですがね??1回、2回ならば、その可能性は、あるのかも知れませんが、3回、4回ともなると、生活が厳しくなって来るからなのですが、・・ね~ぇ??
そこの所が、お金に不自由した事のない音大生には分からない。

まあ、一般の子供達や若い世代の人達が、学習や勉強をする場合でも、「勉強をする」のではなく、「仕事をする」という事を学べる機会は全くありません。その機会が与えられる事はないのです。それは、未経験の子供達や若い学生達には、本当の意味での社会的な活動(所謂、仕事ですが、)は出来ない・・という想定が成されているからです。

学校や、政府、企業がやっている、体験学習は、3Kを取り除いた「良いとこ取り」の綺麗事を学ぶにしか過ぎません。
綺麗事の上で仕事は、それで、お金を稼げる事はないし、職業としての厳しさを学ぶ事はないのです。
職業が「厳しい」と感じたら、誰も就職してくれなくなるから・・というのが、企業側や、教育機関の考え方だからです。
しかし、本当ならば、働く人達が、3Kを厭わなくなった時に、お金は自動的に入って来るように成るものなのですよ。つまり、人の出来る事をしても、お金が入って来る分けはないからです。

ですから、当然、介護に憧れて勉強をして、資格を取って、いざ実際に施設に勤めた段階で、先輩から要介護者の下(しも)の世話を求められた時に、「これは私が憧れた楽しいvolunteerの仕事とは違う!」という事で、1月も経たない段階で、仕事をやめてしまいます。

何のために、長い歲月を勉強してきたのでしょうかね??
企業や、教育機関の人達は、3Kを省いて、体験学習をさせる事は、「就職してくれる人材を集めるために」・・と言い訳をしますが、それで、長く続いた試しはないのですがね~ぇ??

私達の教室でも、「江古田詣」や「椎名町詣」では、「音楽の道に進みたい」という教室の生徒達を、ただ単に、「学ぶ」・・という所(立場)から、「音楽は仕事である」・・という意識を育てるために、「椎名町詣」で、体験学習として指導しているはずなのですが、仕事という概念を学ぶ事は、今の若い世代には難しいようです。今の日本の子供達や親達には、そうまでして、「お金を稼ぎたい」「お金を稼がせたい」・・という気持ちはないからです。
今の日本の人達に取っては、幸せである事は、何もしない事なのですよ。(勿論、楽しい事・・以外はネ??)

特に、お金持ちの音大生には、生きて行くためには、金を稼がなければならない・・という意識が全くない‥・という事に改めて、驚かされます。
音大生に取っては、お金は、欲しければ、「そこにある」ものなのですよ。
いや~ぁ、不思議だ!!

まあ、育って来た時代の違いもあるけれどネ?
戦後の復興期に、食べるものを買うために必死に働いて来た世代と、バブル以降の世代では、人生の基本概念が違うのですよ。
まあ、仕方のない事なのですがね。

・・でも、まあ、音大生は良家の子女なので、結婚してしまえば、「働く」という事は全く必要なくなります。音大生に取っての「働く」という概念は、(一般庶民の抱く生活感というものは、しもじもの生活の中の事なのでしょうから、)「働く」という概念が生涯を通じて一度も起きた事が無かったとしても、理解出来ます。
サハラの砂漠の民の諺に、「金持ちが天国の門に入るのは、駱駝が針の穴に入るよりも難しい」と、いう諺があります。
真の意味で悩む事がなければ、真の意味で人生を理解出来る事も無いからね??
音楽でもやって、人生を愉しめば良いだけなのでしょうからね。音大生に取っては、音楽は愉しいものなのでしょうからね??(音楽を学ぶ事は厳しい‥・というお話とは別の次元のお話ですよ!!)

という事で、一般の音楽大学の学生達にとっては、「pro」‥・ equal「職人」・・という意識も、思考も、全くないのが普通なのでしょうからね??

もし、音楽大学の先生としてではなく・・、「proの音楽家として生きて行きたい」のならば、どんな些細な仕事だったとしてでも、雑な仕事をする事は許されません。
仕事には貴賤は無いし、どんな、軽く見える仕事でも、軽く仕事をしてはproとは呼べないのですよ。
1回のミスは、一人の客を失う事にもなってしまうのですからね?

仕事に優劣や貴賤を作るのは音大生だけです。
proは職人なので、与えられた仕事に優劣や貴賤を作る事はないし、また、その仕事に対して妥協をする事はありません。
勿論、妥協をするような性格では、proに成れる事はありません。
それが分からないと、社会では生きて行けないのよね~ぇ??
どうして分からないのかな~ぁ?? 
不思議だな~ぁ??

教室の演奏活動の基本方針は、「演奏したい曲(Classicというgenre、only)しか演奏しないけれど、もし、私達が演奏する曲を聴いてくださるのならば、顎足を出してでも、演奏しに行きます。」
「そのための練習に対して、手抜きをする事は絶対にありません。」
「但し、顎足以上の持ち出しの演奏は絶対にしません。」
顎足以上の持ち出しとは、会場の費用を負担したり、演奏者に対しての謝礼を払ったり、と色々な経費を払うという意味です。
これが教室の対外出演をを受ける基本的な姿勢であり、先生達が演奏活動をするための条件のlimitなのです。

自主公演をしたければ、或る程度は持ち出しを必要とします。
学生ならば、それは可能でしょうし、結婚して大金持ちの旦那がいればそれも可能かも知れません。

でも、既に、社会人であって、音楽で生計を立てているのならば、それを許す事は、生活して行く上で致命的なものになってしまいます。
1回か2回ならば、それでも可能かも知れませんが、3回目からは、もう生計が立たなくなります。

という事で、教室では、先生達だけの演奏活動を、結構頻繁にやって来ましたが、しかし、自主公演だけは、一度もやった事はありません。
homepageやFacebookでも、何度も言っているように、発表会は、先生達の演奏活動の履歴の中には入っていません。
発表会は、運営費を払っているのは保護者の方なのでね。
教室は代表をやって、纏めているに過ぎないのですよ。



どの業界でもプロ=専門性の高い職業、ということばかりに意識が行ってしまって、プロ=専門性を活かして収入を得る、ということが隠れて(あるいは意図的に隠されて)いるように思いますね。学習段階あるいは仕事の初期段階において「技術を以て収入を得るためにはどうすればよいのか」を身に着けていかないとその業界ごと衰退していきます。
5月1日 7:05

あれ???書いたはずの返信の文章が全く消えている!!
どうなっちゃってるの?
編集履歴にも表示されていないのだけど、何時もの事で本当に困ってしまうな??
文章はもう覚えてないぞ!!
5月1日 13:50

微かに覚えている内容は、当に音楽の道を歩み始めた当初から、Classicの人達が持っている芸術家意識が、自分達の世界をより小さな物にしてしまっていて、その世界から抜け出せないでいる‥・と言ったような事を、つれづれと言ったような気がします。ハイ!
5月1日 8:40

proを目指す勉強途中の人達が、一般的な音大生や、amateurのorchestraの人達と一緒に演奏をしていると、amateurの人達の持っている、特有の 雑さや、いい加減さ、曖昧さが、いつの間にか、自分の日常の勉強のstyleや、演奏そのものに、無意識に反映されてしまう事があります。

そのlimitが、「自分自身の仕事が雑になっても、それが許せるようになる」‥・という事であって、すなわち、「amateurismが、その人の身に、しっかりと纏わり付いてしまった」‥・という事なのですよ。

proの人達は、「出来て」お金を貰えるのだから、「出来ない」で許される‥・という事はないのですよ。出来てナンボ・・て言うでしょう??

だから、雑な仕事をして、その仕事でお金を貰うという事は、あり得ないのだけど、その雑な仕事でも、許せると思っているのか、それとも雑な仕事であるという事すら、気が付かないのですかね??

雑な仕事を自分で見ながら、それがお金になる・・とでも、思ってるのかな~ぁ??
どうして、そこの所が分からないのかな~ぁ???
分からないから、音大生なのだがね??
5月2日 7:10


そういう意識教育がされていない(教える人がいない?)こと、proの責任感を持たなくても生活できてしまうとうい環境によるのかな、と思いますね。
5月1日 14:05



幸せである故の不幸と言う人もいますよね??

5月1日 16:52

多くの日本人達にとっては、勉強をするという事や、働く事は、遊ぶためのお金を得るための手段になります。言い換えると、遊ぶ事が究極の目的になります。それをHieronymus Bosch は、「快楽の園」という3部作で表現しました。15世紀のお話です。
時代を超越した、大好きな絵画です。
5月2日 7:17 · 編集済み

Hieronymus Boschの絵は、Genzmer先生のMünchenの音楽大学の作曲家の前任の教授であった20世紀の作曲家であるCarl OrffのCarmina Buranaに描かれている世界感に相通じるものがあります。
5月2日 7:22 · 編集済み

プラド美術館ですね。20年ほど前に見ました。寓意をちゃんと考えたことはなかったかもしれませんが魅了される絵ですね。
5月2日 7:44

一つ一つが聖書から来る寓話の中の話にも通じていて、本を買い込んで来て、解説を読み漁ったのですが、中々難解なものも多いようです。天国と現世と、地獄が分かれて描いてあって、素晴らしいです。1400年代の後半にこんな絵を描くと言う事は、時代を超越した画家だと思います。19世紀のGustave Moreauの絵にも通じる所がある。 Moreauも時代を超越した大天才だと思うのだけど、更に、400年も古いのですから‥・、信じられない!!超、天才です。
5月2日 8:03

何れも素晴らしいです。近い時代ではPieter Bruegelも大好きです。
5月2日 8:24

Bruegelは、バベルの塔が有名ですが、教室では、「盲人の寓話」にお世話になっています。
「親方日の丸」や「長い物には巻かれろ」の国民には、痛い寓話です。マタイの福音書からの引用です。
5月2日 8:57

あ‼偶然ですがBruegel展今やってますよね❗バベルの搭初来日とか書いてありましたよ。面白そう❗
5月2日 13:39

..

都美ですね。でも休日はかなり混みそうですね。
5月2日 21:54

連休中はとても無理だろうという話をしていました‼
5月3日 0:42



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5月1日 7:46 ·
「有名な演奏家である事と、優れた演奏家である事の条件」
この事は、私達に取っては、余りにも当たり前の事として、言の葉に触れる程度にしか、書いて来なかったように思います。
しかし、先程の音大生のお話を書いていて、ふと感じたのは、主体的に評価をする事の出来ない音大生に、「優れた音楽家である」事の条件が理解出来るのかな?という疑問でした。

私が未だ高校生出会った時代に、Bärenreiter‐archiveの原典版の楽譜とそのperiod奏法のrecordを購入しました。女性のviolinistでしたが、この演奏は典雅で天上的に美しく、何と素晴らしい演奏なのだろうか??と驚きを禁じえませんでした。
しかし、その人は、全くの無名の演奏家なのですよ。

私が留学をして、色々な演奏家と触れ合う時に、優れた演奏家が、 equal有名な演奏家ではない・・という事に、改めて気付かされました。

私の音大時代にも、演奏家へのpromotionはしていたのですが、留学から日本に帰って来て、色々なcaseで外国人のsolisteやorchestra等の、promotionをする機会を得たりしました。

そう言ったpromotionをする・・という機会を通して、そこで実際の演奏家達に学んだ事は、「有名になる」‥・という事は必ずしも、「実力のある」・・という意味ではないのだ‥・という事を学びました。

こういったお話は、実際の例を上げてお話をすると、とても分かり易くなるのですが、その状況を説明しながら、お話をすると、個人名を特定してしまう事になってしまうので、残念ながら実例は上げられません。
しかし、日本の音楽界の場合、特に言える事は、大した実力もないのに、マスコミの力だけで、でっち上げられた音楽家が多い事には、辟易されます。

「優れた音楽家は、有名である。」
否、逆の方が分かり易いのかな??
「有名な演奏家である事は、優れた演奏家である事を意味する分けではない」という具合かな??

本当に、ヨーロッパの演奏家達でも、本当に実力のある演奏家は、無名な人が結構多いという事です。

その一番の理由は、演奏家本人の資質である、stoicな性格の人達が多い・・・と言う事ですかね??
優れた演奏家であるためには、コツコツと練習や研究を積み重ねて行かなければならないのですが、そういった日常を平気でおくれる人達は、性格的にstoicな性格の人が多いという意味です。

二番目の理由は、その人達が研究している音楽自体が、maniacである場合が多いのです。

多くの優れたperiod奏法の演奏家達がそれに属します。
period奏法の演奏家であれば、それは特殊な演奏家達だと、思われるかも知れません。
しかし、MozartやHaydn、果てはBeethoven迄も、正しくinterpretationをして演奏をしょうとすると、そこはperiodの解釈が必要不可欠になって来るのです。
そう言った時代考証に基づいた演奏こそ、本物の演奏になります。
ですから、本当に一流の演奏家(神様)と言われる人達は、そういった理論的な研究や、traditionalな奏法に付いての知識も、音楽の理論家並に優れているのです。
名人の演奏を見ると、ちゃんと、traditionalな奏法の上に、自分の独自の解釈を展開しているのですよ。
決して、日本人が思うように、情緒的、感情的に・・上手い、下手ではないのですよね。

またまた、文章がぶっ飛んでしまった。腹立つな~ぁ!!

日本で、有名になろうと思ったら、あなたが美人ならば、色気を売りにすれば良いし、美人でもない、殊更取り柄もない場合には、easy listeningの音楽を勉強すれば良いのですよ。
「人受け」するには、それ相応のTechnikがあるのですからね。そう簡単ではありませんよ!!

[イジーリスニングイジーリスニングイジーリスニングイジーリスニング]・・・どうなっちゃってるの??・・・これは??

なんじゃ、これは???
全く日本語入力が出来ないぞ!!
やめた!やめた!!・・・仕事にならん!!


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 VocaliseのMetronom課題
..
Rakhmaninovの Vocaliseの参加者は、下のURLで、1小節毎のMetronomのtempoを計って見てください。とても素晴らしい「揺らし」で、模範的な「揺らし」の演奏です。
正確な「揺らし」の勉強になります。
Metronomのtempoを楽譜に書き込む時には、楽譜を薄紙にコピーして書くと良いでしょうね。
出来たら、先生に提出してください。(八千代組だとしても、希望者のみの参加の宿題ですよ!)忙しくて出来ない人はやらなくても良いです。やりたい人だけの宿題です

https://www.youtube.com/watch?v=QAwETLTAHHM



紗來ちゃんへ!
「此処から先は、皆にも読んで欲しいので、Facebookの方に書きます。」
曲は、一般的に、そのtempoの範囲内で演奏しなければならない場所と、新しいtempoで演奏する事が要求されている場所があります。

・・という事で、「tempoの揺れ」の場合には、先ず、最初の小節のtempoを丁寧に決める(探し出す)と良いのです。

tempoを探すコツは、基本的には、tempoの変化ではない、単なる「揺れ」の状態を、探して行くので、決まった(定まった)tempoを探したら、その前後のtempoをMetronomで、一つ、二つのズレた目盛りで、探すと見つかります。
tempoの変化ではないので、余り大きなtempoの差はないので、目盛りを「一ます」、「二ます」ずらして見ると、簡単に合うtempoが見つける事が出来ます。

新しいtempo、つまり大きなtempoの変化の場所は、 Vocaliseでは出て来ませんよネ。

だから、一つのtempoが最大何処まで動くか?で決まります。

「但し、tempoがup(accelerando=accel.)やdown(ritardando=rit.)をする所等は、小節全体のtempoが揺れているので、小節の中のそれぞれ、一つ一つのbeatは合いません。だから、その小節の頭を合わせて、次の小節の頭の拍が合うように設定すると良いのです。
4拍ならば、小節の頭から、同じbeatで、次の小節の頭合えば良いのですよ。
Metronomでは、accel.やrit.等のtempoの「揺らし」は出来ませんので、拍頭を合せる事も出来ないといけません。
そこら辺は、小節内のbeatが合わなくても、fuzzyファジー=aboutアバウト=何となく・・が出来ないといけません。
この曲にはそう言った場所が多いので、Metronomのtempoを探すのは、結構、難しいかもネ??

もう一つのヒントは、この Vocaliseでは、melodie担当の1stviolinと、刻みのrhythmが合っていません。しかも、1小節もtempoが安定していなくて、84から85、86と不安定に動きます。だけど、刻みは、結構一定で刻んでいるので、そのtempoを取ると良いでしょう。
5月2日 12:03


てな事を書くと、大変難しい事をクドクドと説明しているように見えるけれど、実際の曲を、Metronomを使って、説明すると、ホンの一瞬の話なのだよね。
それに対して、当たり前の事を、クドクドと書いているのに過ぎない。
C.P.E.Bachや、Quantz等の大作曲家達がbaroqueの演奏法を、一生懸命に説明して、本に残しているけれど、世界のperiod奏者がそれを読んで、忠実に守って、実に素っ頓狂な演奏をしている。
言葉尻に捕らわれて、本質的な意味を見失うからです。
日常の実に簡単な動作でも、文章で書くと大変な事になってしまうのだよ。
そこで、チョッと、視点を変えて、baroque-danceを踊っているのを、videoで見ると、実に、C.P.E.Bachや、Veracini等の大家が書いた当時のrhythmのとり方が、よく分かるのだよね??
書かれているrhythmを、専門の人達のdanceで見ると、そのrhythmのswingの仕方が一瞬で分かるのにね。
文章に書いてしまうと、同じ事を言っているのに、実にeccentricになってしまう。
今だと、videoでその演奏法を公開するという手もあるけれどね??
こういった事は、文章は不得手なのよね~ぇ??
5月3日 7:58


(17年5月2日に少し、文章を追記しました。)

日本の音楽大学の先生達は、Metronomをとても毛嫌いします。
「Metronomは、音楽を勉強する人達は使ってはいけない!!」「非音楽的になってしまう。」と言って、生徒達には絶対に使わせないのが普通なのです。
自分の情緒的な揺れが気になって、ちゃんと、そこの所を勉強するために、先生には内緒で、こっそりと、Metronomを買って来て、家で練習していて、後で、先生にMetronomで練習していた事がバレてしまって、大変な事になった生徒がいました。
破門よ!破門!!
でも、大学の教授は生徒を追い出す権限は無いので、先生が変わっただけなので、本人は喜んでいましたけれどね。

Metronomは、単なる道具に過ぎません。
だから、Metronomが弊害に成るのか、勉強を助けて来れる、とても良い武器に成るのかは、使い方次第だけなのです。
確かに、一般的には、Metronomを、鳴らしたままで、練習する人達が多いのかもね??
音楽大学の先生達は、Metronomと言うと、そういった練習法しか、思いつかないのかもね??
確かに、そう言った下手な練習ばかりしていると、非音楽的な演奏になってしまうかもね??
でも、それは、Metronomのせいではなく、練習法を知らない使う人のせいでしょう??

それはMetronomに限った話ではありませんよね。
教室でも、仕事を速く丁寧に出来るようにするために、色々な手順を考えたり(「時短」の方法)、道具を買い込んで来て、その使い方の指導を先生達にしたりします。しかし、その手順や、道具の使い方が少し難し買ったりすると、「時間がない!」とか、「逆に手間が掛かる!」と言って、中々使用法を覚えようとはしてくれなくて、時々、私が切れてしまいます。「仕事をしていて、時間が無くなるのは、道具や手順を使いこなせないせいなのだよ!」とね!!

Metronomも、proの人達が使っているように、上手に要所要所で、使いこなせば良いのですが、それが出来ない人達が多い、もう一つの原因は、一般的な人達の場合の練習法は、「抜き出し練習」をしないし、それに、考えない「闇雲練習」をするからなのですよ。
そう言った練習にMetronomを使用すると、Metronomの効果は確かにマイナスな事になりますよね。

ですから、Beyerの教則本の初歩の段階から、上級version迄、Metronomを使ってlessonをする私達の教室は1点支持と同じで、日本では、超、異端なのですよ。proの世界では、世界standardでなくって、日本の音楽界でも、至極、当たり前なのにね??音楽大学の世界だけは違うのよネ??不思議だ!

一般の音大生達は、殆どの生徒達が、Metronomを使った事が無いし、Metronomという物自体を持っていないので、日本人の音大生達は演奏のtempoが無意識に揺れてしまうし、演奏している本人自身が、揺れている事すら理解出来ません。
曲を弾き始める時に、tempoを設定する事が出来ません。
ensembleの時でも、tempoを探り合っています。弾き始めから、2小節、3小節目になって、やっとtempoが定まって来ます。教室だと、冒頭の1小節目から、ちゃんとtempoが決まっていないと、大目玉だよネ!!
tempoを探していたら、私に怒鳴られてしまうよね??
でも、一般の音大生は、どうして、tempoを決めて弾き出す事が出来ないのかな??
・・・それは、どうしてか分かるかな??
それは、絶対tempoが無いからなのだよ!

つまり、一般の音楽を勉強する人達は、絶対tempoという概念を持ち合わせていません。曲をimageで捉えて、tempoもその中で、設定を決めているだけなのですよ。
だから、舞台に出て、お客様が満員だったりすると、情緒的に、感情的に狂って来るので、tempoを見失ってしまうのですよ。

ちなみに、「絶対tempo」と言うのは、教室の言葉であって、一般的な言葉ではありません。
私の作った、教室での造語ですよ。

ちなみついでに、オケ練習では、昔は2回オケ等もlessonを見ていたので、最初は、遅めのtempoの設定で練習をして、発表会のtempoは目標tempoとして、練習のlevelに從って、徐々にtempoを上げていましたが、前々回ぐらいからは、最初から目標tempoで練習をしています。練習の水準も上げている・・という意味です。
ですから2回オケは私は見ていません。

私が未だ若い頃、伴奏の仕事などをしていた時に、合せる時間が無くて、いきなり舞台の事がよくありましたが、本番の前日に、電話で(当時は電話だったのですよ!未だ携帯が無かったのでね)楽譜にMetronomのtempoを設定して、次の日の本番に臨んだ事があります。(本当に、一度も合わせをしなくて、本番に臨んだ事も何回もあります。)
それに、超有名なproの演奏家の人達がrecordingする時には、1日では録音は終わらないので、次の日に曲の途中から撮り直す事になります。
orchestraの場合でも、一つの曲を、1月や、2,3ヶ月掛かって録音する事がよくあります。
その日に途中迄録音して、次の日には、正確なtempoで、次のpassageを録音したのですよ。カラヤンの録音は、その切り貼りで有名でした。と言うか、初めて切り貼りの録音をした人という事で有名なのですが、当時はpianistのグレン・グールドも切り貼り録音をしていたので、カラヤンが初めてと言うのは、チョッと眉唾だけどネ??
日本の音楽大学の先生達のように、Metronomを毛嫌いしていては、そう言ったprofessionalな事は出来無くなってしまいますよね。「日本の常識、世界の非常識なのですよ。」ハイ!
5月2日 12:06


「芦塚先生のお部屋」の「Metronomに付いて」のPageは、未だ「書きかけ」で書き終わる迄、passwordで開くようにしていて、未公開の文章でしたが、永遠に、このまま未完のままのようなので、人生諦めが肝心、という事で、・・・本日を持って、passwordを解除しました。
どなたでも閲覧可能です。(但し、未完の、未校正の文章でありますので、悪しからず、ご了解の上、閲覧ください。)

http://music.geocities.jp/ashizuka_sensei/metronom.html

5月2日 6:46

7日のオケ練習の時に、紗來ちゃんと梨紗さんが、Metronomのtempoを書き出して、提出してくれました。
梨紗さんは、1小節の半分迄、丁寧にMetronomを計っていたのですが、しかし、まあ、1小節も同じtempoの箇所がない・・というのは、面白い!二人共「超、難しかった!」と驚いていましたが、千夏ちゃんも、Greensleeves to a ground in C DorischのMetronom‐tempoを計って、「出来ない!」と驚いていました。
実は、それぐらいMetronomのtempoを図るのは難しいのですよ。その難しさが分かっただけでも、一つも二つも進歩ですぞ!!
5月9日 23:19


折角、頑張ってMetronomの回答を持って来たのに、その回答合わせが無いと、物足りないと言う事で、二人だけだったので、私が作った今回の Vocaliseのfinaleの楽譜に、Metronomを打ち込んで、音声で再生させて、皆さんに聴かせようと思ったのですが、梨紗さんの1小節半分は、finaleでは最小でも1小節単位だったので、出来ませんでした。と言う事で、取り敢えずは、梨紗さんの回答も紗來ちゃんの回答と同様に、1小節単位で二人分作って見たのですが、Metronomのcrescendoや、fermataが出来ないと、やはり様にならないようで、回答として公開するのは、断念しました。tempoを決める時にはMetronomはとても有効なのですが、こういった「揺らし」に関しては、とても弱いと言う事で、sampleにはならなかったですね。
しかし、この勉強はとても大切で、役に立つのですから、無駄には絶対になりません。形にならなかっただけです。音楽の場合には、fuzzyを扱うので、形にならない事はザラなのですからね!!
そういった事も慣れるようにしてください。
5月15日8:50


本文の方でも書いたように、proの人達の場合には、合せる時間が全く無い場合が、結構あります。お互いの時間が噛み合わないのですよ。
・・という事で、楽譜を見ながら電話で打ち合わせをするのですが、カラヤンではないけれど、Metronomの10分の1迄も、正確にtempoが取れないと、電話での合わせは出来ません。本番=初合わせ、というのはproの世界では、ザラなのですからね!!
5月9日 23:23





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5月5日 18:47 ·


..

「3月27日の江古田教室のお話の続きです。」
3月27日のお話を要約すると、40年間住み続けた江古田教室の話ですが、留学から帰国して、長崎で少し療養して、その後、東京に戻って来て、その頃は、マンションというのが未だない時代で、Pianoが持ち込めるような部屋を探していたて、最初は、江古田のビルの2階の真ん中の部屋だけを借りていたのですが、その後、音楽教室を開設したので、手狭になったので、会社と教室と私の住まいスペースとして、2階全部の部屋を借りたのですが、ある時に突然、部屋を出るように言われてしまいました。

その日の事は、2,3年前の事と思っていたら、もう、7,8年前の話になってしまったのですが、「息子さんにビルを渡す事になったので、会社として借りている人達は出て貰う!」と言われて、それこそ、突然、追ん出される事になって、今の椎名町教室に引っ越す事になったのですが、江古田教室の沿線では、広いスペースと、ペット可の部屋は、それ以上広い部屋は、とうとう見つからなくって、事務所スペースの分を引っ越ししながら、lessonスペースの部屋を探していたら、大家が「芦塚さんは、おつきあいが長いから、引っ越ししなくても良いよ!」と突然、言って来たので、「もう、引っ越しで、4百万以上使ったので、戻るのは、無理なので、最初に借りた真ん中の部屋だけ、そのままに借りて起きます。」と言う事になって、それが、もう7年近く前の話なのだったのですが、今回、またまた、突然、「ビルを売った」と言う事で、不動産屋から電話で連絡があって、8月迄には、部屋を追ン出される事になった・・、という困った経緯がありました。
・・そこまでは、前回の3月27日のcommentに書いて起きましたよネ。

それにしても、3月の27日以降から連休迄の日々は忙しくて、とても直ぐに引っ越すための部屋を探す暇はとてもありませんですよね。

4月の2日は教室の発表会で春の「コンサート」だし、22日は習志野の演奏会です。
それから、「反省会」、「member決め」「楽譜の準備」、「曲決め、初見大会」と慌ただしく時は流れて、息つく暇も無く、5月の連休に入ってしまいました。

連休に入って、やっとこさっとこ‥・・、で部屋探しや、江古田教室の荷物の整理等々が出来る『時間』!!・・が出来たのですが、私は、長崎の親の家を売却したので、そこで処分出来なかった荷物が、私の自宅の部屋に散乱していて、自分自身の部屋を人間が住めるように荷物を整理しなければならなかったのですが、(もう、そろそろ、10ヶ月近く経ったのですが)、忙しくて時間がない・・と言うよりも、どちらかと言うと体調不良で、そのまま人間の住む部屋ではない、片づけられない人の状態のままに、放ったらかしになっていたのを、この連休を利用して、整理する事で目一杯で、斉藤先生も椎名町教室の2階の整理が出来ていなかったので、江古田教室から東京の事務所で必要なものを入れるスペースを作っていたのですが、それも連休の3日辺りからは、体力の限界・・over・workで、・・腰痛になってしまって、動けなくなってしまいました。

今日は、もうGWの5日目も終わりになろうとしていますが(但し、今回のGWは9連休なのだそうですが・・)、斉藤先生は腰痛が酷くて、荷物の移動どころではなく、立ったり座ったりする事もままならないようなので、重い荷物の持ち運びをしなくても仕事が出来るパソコンの前に座ったままの作業という事で、2,3年も前から保留のままになっている「スマホで教室のhomepageが見れない」というクレームの対処のパソコン作業をやって貰おうと考えました。

私が以前、homepagebuilderで作り掛けたスマホ用のhomepageなのですが、一応、スマホ用のtemplateで作成したのですが、写真や文字のサイズが合わないし、当時は、私達はスマホを持っていなくて、全員ガラケーだったので、画面のcheckすら出来なくって、とうとう頓挫してしまっていました。

私のhomepageの作成の作業の負担は、「芦塚音楽研究所」のhomepageと、音楽の勉強のためのPage「芦塚先生のお部屋」と、私個人のhomepageである「芦塚陽二の病床記」と三つのhomepageを書いていたのですが、一昨年からFacebookも始めたので、homepageとFacebookで目一杯になってしまいって、homepageの発表会のご報告のPage等々がおざなりになってしまいました。

本来ならば、教室のhomepageである「芦塚音楽研究所」のPageだけでも、教室側で作成して、uploadしてくれると良いのですが、先生の人数もすっかり減ってしまって、指導するにも、教室の雑用を熟すにも、先生達の負担が、目一杯になってしまい、とてもhomepageどころではなくなってしまいました。

それに、一番簡単な便利な方法は、私の自宅のパソコンと、椎名町のパソコンの両方で同時にhomepageを入力出来ると良いのですが、だんだんとパソコンのsoftのsecurityが厳しくなって来て、しょっちゅうhomepageのパソコンを入れ替えるのは難しくなってしまいました。

芦塚音楽研究所のhomepageを椎名町のパソコンに持って行くのは、教室の連絡だけではなく、色々な教室関連のPageも作成しなければならないので、先生達には時間が無いようなので、無理という事で、新しく教室の連絡と宣伝の二つだけを限定したPageを作成するために、新しいproviderで、教室では未だ使用していない無料のproviderを探しました。

パソコンのhomepage作成softのtemplateで、スマホの設定が、がいい加減なのは、スマホの大きさが色々とあって、その分、fuzzyで作るからなのでしょうかね??

昨年中には、教室もスマホ(Android)に買い替えたので、スマホでhomepageを作ってしまえば、斉藤先生が教室に行き帰りに、入力訂正する事が出来るので、他の問題(mailがone‐clickで開かないとか、未読のcheckの付いたmailを一括で既読に出来ない・・とかの、問題を片付けるついでに、スマホでhomepageが作れないのか?と、auショップ迄、相談に行って来ました。

ところが回答は全滅で、auのAndroidではhomepageは作れないし、auではproviderもやっていないのだそうです。
ドッチラケ!!

しょうがないのいで、斉藤先生のnotePCが教室のproviderとは違うので、斉藤先生のnotePCにproviderの設定をしました。

引っ越しの作業は少々保留になってしまいましたが、まあ、何か(something)はちゃんとやっているので、良しとしましょう!!


東京の教室は、生徒を集めるという事が先生達が忙しくて無理なので、生徒達が遠くから来ている八千代に江古田の教室を引っ越す予定です。八千代の対外出演もやっているので、教室の知名度も高いし、数人の生徒さんもいるので、生徒募集が東京よりも楽だからです。
という事で、事務所に置いてある新教室を作った時の荷物や、ハイツの倉庫にしまってある大道具類を江古田教室に集めて、集荷して貰わなければならないのですが、lessonは教室を閉鎖する迄は、続けているので、荷物を何処に置くかが問題です。昔のように自分達で車に積み込んで、新教室で降ろすという体力はもう無いので、全て業者に頼みたいのですが、そのために江古田教室に大荷物を集めて行かなければならないので、それだけでも一作業なのですよ。
いや~あ、困った!!
5月7日 9:37





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Facebookの問題点

5月9日 1:14 ·
自己紹介の設問事項がFacebookを開く度に表示されて、目障りなので、削除しようとしたのだが、どうしても出来ないので、諦めて、その設問に回答をしたら、それが、一般に表示されてしまった。
その文章を削除したのだが、削除出来ないままに残っている。
削除出来ないので、切り取りをしたら、またぞろ、自己紹介をしろと、messageが動いている。どうも目障りだ!!
どうも、Facebookの動きは稚拙である。
以下はその文章です。
「私が幸せと言うか、精神的にほっこりとするのは、「ひたむきさ」とか「いちずさ」とか「Gedult」を心に抱いている人に、めぐり会った時なのですよ。そういう人と合う機会は殆どありませんがね。」

何と、いとも簡単に出来てしまった。同じ事をやって出来なかったのに、不思議だ!!



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5月9日 4:04 ·
「防音室」
音楽を勉強していると、近所とのトラブルになり兼ねないのが騒音の問題であります。

赤ちゃんの鳴き声は、親に取っては最高の音楽なのだろうが近所とのトラブルでは最悪のケースとなる場合が多いのです。
借家を借りる時には、Pianoを持ち込むのか?赤ちゃんがいるのか?を聞かれる事がよくあります。
勿論、音楽家や赤ちゃんのいる家庭は、部屋を借りる時のネックになります。

持ち家の人達は、防音に対して、音楽の練習室の防音室を買ったり、部屋を作る時に最初から防音対策をする事が可能なのでしょうが、地方から来た音大生達が、「Piano持ち込み可」の借家や「音出し可」の部屋を探すとなると、結構、足元を見られて、高い賃貸料を要求される場合が多いのですよ。

昔、そういった地方の貧しい音大受験生達を教えていた時に、受験生に対して、部屋の改造をしない(借家の場合の)有り合わせの材料での、防音対策のadviceを、記憶を頼りに書いて見ます。

先ず、基本の考え方は、音は振動を媒体として伝達される・・と言う事です。

一例なのですが、或る音楽家の夫婦が、マンションを購入して、当時(今から30年も前に500万以上を防音に掛けて)万全の防音対策をして入居したのですが、ご多分に漏れず、下の階の住人とトラブルになって、折角購入した部屋を出なければならなくなった・・という悲劇があります。
しかし、そこで、笑えるのは、その苦情を言って来た住人というのが、お琴の先生で、私から見れば「同業者ではないのかな?」・・と思えたのですが、騒音問題は、感情的な問題も含むので、とても難しいのです。

例えば、「子供がいない」・・と、大騒ぎをしている地区で、保育園を持って来ようとすると、住民の反対運動が起こったりします。
子供達の声が喧騒に聴こえる・・、安住出来ない、という事です。片一方では、「保育園が無い」、「幼稚園が無い」と、大騒ぎをしていて、その保育園を建てようとすると、「子供の声がうるさい」と、住民運動が起こったりするので、自治体も溜まったものではありませんよね??
それに対する有効な手段を見つけた自治体もあるのですがね。(後述します。)

「部屋の中に作る防音室なのですが、市販の防音室を買ったのだけど、思った程ではない」・・という意見はよく聞きます。特にviolinの場合には、小さな子供の間は問題はないのですが、大きくなったりすると、弓が天井にぶつかったりして、思いっきり弓を弾けない事にもなります。音楽家にとっては、天井の高い部屋は或る意味、理想的な部屋なのですよ。勿論、音的にもね。Pianoやcelloのように座ってしか、弾かない楽器には、天井の高さは、音響的な問題だけなのでしょうが、どっちみち、狭い空間では、音を響かせるとnoiseがするので、吸音しなければなりませんから、空間の問題は練習室では、余り意味がありません。

防音室の考え方は、部屋を如何に密閉出来るか??という話なのです。
・・という事なので、防音室は密閉された閉ざされた空間なので、エアコンなどの空調を入れると、その空調のダストから音が逃げて、防音にならない・・というケースが昔はよく起こり、高い金額を掛けて、防音室を作ったのに‥・??と、よく問題になった事がありました。(今は、その問題は少しは改善されたのかな??その後の話は聞かないけれども‥・??音楽教室を作ってからは、防音室の事で相談を受けた事はないので・・・。)

防音室のお話は、基本的には、業者との話なので、私は介入しないし、また、それだけの知識もありません。
ただ、防音は一般の建築とはまた、別のgenreのお話なので、専門の業者でないと、一般の建築業者の「防音室も出来るよ!」という程度の防音と、音楽の練習室では、防音のlevel(音のデシベルの範囲)が全く違うので、普通のお稽古事や、テレビの鑑賞程度を想定している一般業者の考えている防音施設とは根本的に違う‥・という事を知っておいてください。
昔は、私の従兄弟が大手建設会社(黒川さんの所)で設計士として務めていたので、「防音室の設計をしないか?」と持ちかけて、従兄弟も、それは超レアなitemになる‥・という事で、大乗り気で、何軒かの防音室を作ったのですが、60代を待たずして、心筋梗塞で死んでしまったので、その話も立ち消えになってしまいました。

それに私自身がadviceを出来るのは、地方からの貧乏音大生達で、お金もない借家住まいの音大生達の出来る範囲のお話なので、お金をふんだんに掛けた業者の話ではありませんので‥・。

「防音の原則」
防音の原則は、遮音と防音(吸音)がありますが、それらは、チョッとした工夫でかなりの改善をする事が出来ます。

関西圏のマンションは、東京とは違って個人のプライバシーを大切にするので、壁の厚さが東京とは全く違います。
約、30センチ以上の壁の厚さがあると、殆ど隣の音は聴こえません。
しかし、その分部屋の広さが狭くなるので、関東圏では、部屋の広さを確保するために、壁が薄いのが原則です。

「音の伝達」
音は、床、壁、天上伝いに振動として伝達されます。

Piano等は、通常、木の床(フローリング)の上に直接置かれる事が多いのですが、木は音響を増幅する働きがあるので、音的には良い響きがするのですが、防音としては最悪です。(自治会館は多目的ホールなので、音響に関しての配慮は全く成されていません。しかし、床が木の床なので、弦楽器に取っては音響が良いのです。)

「響きは容積率で決まる」
但し、6畳から20畳以上の部屋でも、音響的には狭いので、響かせる工夫を施しても、音は良くなりません。
反射が多過ぎてnoiseになってしまうからです。(音の反射が耳に心地良い物になるためには、或る程度の距離が必要だからです。この距離は5メーターや10メーターでは、とても無理な距離なのです。)
音響が良くなる秘訣は、入れ物(会場=ホール)の体積によります。
幾ら、広い会場で500席も入るようなホールでも、天井が低くて、容積が足りない場合には、音は歪んで来ます。
だからpopularの客席の場合には、天井や床を吸音材で音を吸音させて、スピーカーで音量を出します。つまり、これは響鳴した音ではないので、studio録音のClassicとも同じで、ホール効果はありません。電気的にエコーを入れても、生の会場録音には叶いません。
ヨーロッパの有名なrecordでは、録音された会場が書いてあって、何処其処の宮殿だとか、教会だとか・・の録音です。羨ましい限りです。

ですから、日本の狭い(借家)の場合には、寧ろ、吸音に心がけるべきなのです。(それ自体に共鳴箱を持っていないFlöteや歌の人達は嫌がりますが・・ね、)

「床の吸音と遮音」
床の吸音材としては、畳が一番です。和室にPianoを置くだけで、下の階とのトラブルはかなり防げます。
検見川教室はラバーが下に付いたかなり厚手のマットを敷き詰めていますが、実は、前の教室で厚手のマットをひいていたのを業者が剥がそうとしていたので、そのマットの上に二重にひくように言いました。
コンクリートは特に音響を伝達し易いので、そのための配慮です。

またPianoを置くお皿には、中空になったお皿がありますが、これは耐震の時にPianoが移動するのを防ぐ意味でも、音が床に伝達されるのを防ぐにも有効です。結構安いしね!!但し、その分、鍵盤の位置が高くなるので、椅子の高さの調整が難しくなります‼

「壁の吸音と遮音」
壁は、隣の部屋に音が伝達されてしまうので、マンションのように部屋が複数ある場合には、音を出す部屋を部屋の真ん中に設定すればかなり隣との関係は改善されます。

音は吸音材の厚手のカーテンと壁の間の空間で、かなり減少するので、検見川教室のように、遮光吸音のアルミ入りのカーテン(市販のカーテンでは、一番分厚いものです。学校用なので、全部の壁を隠して、昼でも真っ暗にして、mini‐concertや、録音をするには、とても便利だし、厚手のフェルトのようなカーテンはかなり高価なのですが、部屋を豪華にするには、Liszt先生のように、それでも良いと思います。)
ここで大切な事は、壁とカーテンの間に空間を作る事で、最低でも15センチ以上は壁から離してカーテンを取り付けなければ、吸音遮音の効果は出ません。
また、部屋の四隅のカーテンの切れ目は、必ず重なりあうようにするのがコツです。天井から、床に触れて、壁全面が隠れるようにするのがコツです。検見川教室のカーテンは、業者に頼んだので、天井に直接、カーテン・レールを取り付けています。少しでも、カーテンが壁を隠していないと、直接、壁が振動するので、何の役にも立たちません。一般の業者の場合も、防音に対する過信が、防音の不具合を生み出してしまっています。

grandpianoの場合には、壁よりも離す場合が多いので、壁よりも床の振動の伝達が基本になるので、先程も言ったように、中空のお皿が有効ですが、uprightPianoの場合には、壁に寄せて設置する場合が多いので、壁から離す事が最優先です。
それと、裏の響板の後ろに、吸音マット(厚手であれば、使い古しの布団のマットでも良い、勿論、畳でも構いません)を置くと、直接、音が壁に当たって、振動が伝わるのを防いでくれるので、良いと思います。
市販では、uprightの後ろの木材部分に取り付ける専用の吸音マットが売られていて、調律師に頼むと、Pianoの裏に被せてくれますが、共鳴の音を全部防いでしまうので、音が小さくなって、こもってしまうので、あまり付けた人達の評判は良くありません。

「天井の吸音」
問題は天井なのですが、それは天井は、ものを吊るすだけの耐荷重を持っていないという事です。
重い吸音材を天井に貼り付けると天井が落っこちかねないのでね。

勿論、天井の場合には業者に任せるのが一番なのですが、業者と言うのは、防音の知識のある業者は非常に少ないので、何時も、その後、問題が起こってしまいます。勿論、防音を売りにしている業者なら、問題はないのでしょうが、防音に関して、軽い気持ちしかない業者が多いからです。

そこで、私が考えたのが、発泡スチロールです。
日曜大工センターに色々なサイズの発泡スチロールが売っているので、乱反射をさせるために、丁度、スタジオのように、色々なサイズの発泡スチロールの箱(最低でも10センチの厚さ)を組み合わせて、天井に接着剤で貼り付けると良いと思います。
借家で、天井に貼り付けるのが無理ならば、四隅から釣り糸のような強い切れにくい糸で、発泡スチロールをディスプレイするようなimageで吊るすとよいでしょう。(でも、これは音が全く反射しなくなるので、楽器の音がスカスカになってしまうので、管楽器の人でなくても、弦楽器の人達も結構嫌がります。)本当ならば、音楽を勉強する人達はある程度の音の響きは欲しいのでね。

発泡スチロールの断熱吸音効果は、今では、家やマンションの壁の隙間に埋め込むのは、一般的になってしまいました。ネズミやその他の動物が入り込まない対策にもなるし、金額的にも安いので、かなり普及しています。

これだけの作業ならば、音大生の女の子達でも自分で出来る作業だし、お金も殆ど掛からないのですが、不思議な事に、こんな簡単な日曜作業でも、思った以上の防音効果があって、結構、それだけで、クレームが無くなってしまった、という経験をしました。(今までの私の生徒達へのadviceとしての経験上では・・・という意味なのですが…??)
生徒達だけでなく、江古田教室等もそういった配慮をして、部屋のコーディネートをしています。

「雑談に戻って・・」
先程の保育園のお話は、子供達と近所の人達の、音のトラブルを何とかしたのでは無く、保育園の中に無料の珈琲やお茶を飲める休憩所(community)を作って、子供達が望むのならば、いつでも老人達とも触れ合えるような場所にしたのです。
都心の地区に住んでいる人達は、自分の子供達はもう巣立ってしまって、孫が訪ねて来る機会も少ないのです。都会の独居老人になってしまっているのですよ‼
ですから、触れ合える子供達がいれば、遠くの身内よりも、近くの他人なのですよ。
それこそ、親愛の情が産まれて来ます。

老人が子供達を見守る事が出来るようにするには、老人達の居場所を作る事が大切なのですが、そこに気づいた自治体は少ないのですよ。何の事はない、昔の日本に戻るだけなのですがネ?

先程の若い音楽家夫婦の場合も、下に住んでいる老人を、洋楽と邦楽を異文化として捉えてしまえば、幾ら防音に気を使っても、それでクレームを減らす事は出来ません。
もし、その音楽家の夫婦が、同じ音楽をやる仲間か、身内のようなcommunityとして捉えたならば、そこまで騒音問題はこじれる事は無かったと思います。

「騒音問題は情緒論にしか過ぎないのですよ。」
「受験勉強をやっているので、練習する音が耳障りだ!」と思うのと、「練習、頑張っているな~あ、私も頑張らなくっちゃ!」と思うのでは、勉強はどちらが捗るかは、明白なのですがね。
音が、騒音として聞こえて来るという事は、その人が集中出来ていないという事なので、騒音が無くなったとしても、集中出来る事はありません‼
私は、ミュンヘンの留学生時代には、何時でも、パッと集中出来るように、ミュンヘンの駅の雑踏の中で、本を読む訓練をしました。だから、今では、ヤマハの楽譜売り場の、迷惑なBGMの中でも、スコアーのオケの音を、聞き取る事が出来ます。「安禅は必ずしも山水を須いず、心頭を滅却すれば火も自ら涼し」です。
杜荀鶴「夏日悟空上人の院に題す」より
今の日本人が失ったものは、「ゆとり」なのですよ。
その、失った「ゆとり」を引き出すようにすると良いのです。
「声掛け」のたった一つが、その問題を解決するのですよ。



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5月9日 12:49 ·
5月10日10時50分に全体的に少し書き加えました。大した内容の変更はないのですが・・・

「まあ、良いか?」に対する考察

(まえがきに変えて)
2,3日前にこの文章を書きかけたのですが、色々と個人的な考え方もあるので、途中迄ある程度は書いていたのですが、全部、削除してしまいました。

しかし、日をおいて、改めて考えて見るにつけて、やはり、社会人になるために、・・と言うよりも、音楽を勉強する上では、この日本人特有の考え方である「曖昧模糊」とした日本人特有の独特の考え方を理解する事は、‥・・(つまり、この「まあ、良いか?」の思考法を理解する事は、)とても大切な事ではないか??・・と思い直して、この文章をもう一度、書き直す事にしました。

「まあ、良いか?」の感情表現は、一般的にはありふれた感情表現であって、それを、殊更に問題視する人はいません。
しかし、道具はそれ自体は、「良し悪し」はないのですが、寧ろ、使う人間の、使い方次第で「良い道具」か、「悪い道具」かが決まってしまいます。

道具に限らず、物事にも、或いは、そういった感情にも、同じく、必ず裏表があります。
ですから、「まあ、良いか?」という感情は、それが良い場合と、それがその人自身に取っての心の成長を止めてしまう場合があるのです。

つまり、人との豊かな人間関係を築くためには、人の言った事を「まあ、良いか?」と言う風に、「清濁併せ呑む」事は、上手な人間関係を築く上でも、とても重要な事であり、人間としての奥深さを表しています。

しかし、自分が、社会人として、或いは職業人として、周りの人達から認められるためには、「まあ、良いか?」という感情表現を認める事は、自分自身の社会生活を、自分本人で摘み取ってしまう事になり兼ねません。

その一つの例としては、「引き篭もりの人達」の殆どの人達は、社会生活上で人との共同の生活を出来ない・・強調出来ない・・と言う事が発端の原因で、自分の世界に閉じ籠もってしまうのです。

「引き篭もりの人達」は、自分への価値観や評価を自分自身で定決してしまいます。
そこに他の人達の考え方や評価を、取り込む事はないのです。

他人が自分の仕事への評価や価値付けが見えれば、引き篭もりに陥る事はありません。
しかし、多くの「引き篭もりの人達」は、他人の評価が。自分の仕事に対する評価ではなく、自分自身の人間性に対しての評価だと思い込んでしまいます。
仕事への評価と、人間性としての評価の違い・・、それが見えないから、引き籠もるのです。

「引き籠もる人」は、「自分はこれだけ一生懸命やったのに、どうして、皆は認めてくれないの??」とよく言います。
でも、人が認めてくれない原因がその人の「まあ、良いか?」である事を理解出来ないのです。

分かり易く、その事を商品に例えて説明をし直すとすれば、「まあ、良いか?」で作られた商品に良いものがある分けはないのです。
「まあ、良いか?」は、作る側の立場では、それを作った本人にとっては、「完璧でない・・けれど、これぐらいで、まあ、良いか?」という意味合いが入ります。

仮に、その作られたものを購入する人自身が、普段は「まあ、良いか?」を連発する人であったとしても、その人が、お金を払って、商品を買う時には、同じ値段ならば、必ず、より完璧なより良いものを選んで買います。
その人が「まあ、良いか?」と普段、日常的に言い続けていたとしても、その人が、ものを買う時には、「より悪いもの」を選ぶ事はないのですよ。
どうして、ものを作り出す勉強をする人達が、そこの所が分からないのかが、私には不思議でなりません!!
このお話は、只の、仮定なのですから、音楽の勉強と置き換えて考えても良いのですよ。

そして、当然の事ながら、結果的には「まあ、良いか?」の商品は売れ残ってしまうのです。
そして、「まあ、良いか?」の商品を作った人は、その商品を作るrepeatが掛かって来なくなってしまって、その世界で生きて行くという夢を持ち続ける事も出来なくなってしまいます。

結果的には、他の周りの人達から、その作りだす物の価値を信じて貰えなくなってしまいます。
でも、それでも、その人にとっては、その仕事は、「まあ、良いか?」に過ぎないのだから、それで、その仕事を失ったとしても、それでも傷つく事はないのかもしれませんよね。
今日の社会では、例え、自分に自信が無くなって、引き篭もってしまったとしても、親が食べさせてくれるからです。
親が死んだら、その時は、成り行きに任せて、野垂れ死にすれば良いだけだからです。
そこまで考えて引き籠もる分けではないのだから、「まあ、良いか?」の人生ですよ。

話は少し変わるかもしれないけれど、以前、NHKのテレビ討論番組で、男性と女性、若者達と老人に分けたテレビ討論をやっていて、考え方の違いがはっきりと見えてとても面白くて、ついつい仕事をしながら見てしまいました。
老人の工場の経営者が、女性の起業家に向けて、「深夜、工場のlineがstopした時にも、あなたは直ぐに来てくれるのか?」と質問しているのに、女性の起業家は「私達は男性の人達に負けないように、しっかりと仕事をします。」と答えて、老人の「深夜、駆け付けて来れるのか?」という質問には答えなくて、話が平行になってしまっていたのが、面白かったのですよ。
日本の女性の起業家には、家庭もあって、子供もいて、旦那もいます。その中で、全てのgenreに責任を持つ事は、やはり難しいのだよな??と、改めて思い知らされてしまいました。
もし、男性の会社員ならば、「ハイ、何時でも、直ぐに駆け付けます!」と、躊躇なく答えたでしょうしね。また、問題なく、そう出来たはずです。女性が回答を渋ってしまうのは、女性の立場としては、致し方ないのかも知れませんが、工場の経営者に取っては、24時間駆け付けて、helpをしてくれるか否かは、それこそ、生命線なのですよ。
つまり、このお話も「まあ、良いか?」に一脈通じる所があるのですよ。

ひや~あ、Facebookが閉じなくなってしまった!!
どうすんべ~え!!
しゃぁ~ない!タスクマネージャーで閉じなければ、強制終了だなゃ!!⇒タスクマネージャーで、何とか閉じたけれど、Googleが勝手にFacebookを乗っ取ろうとしていたってさ!!
怖いね!!

「まあ、良いか?」の性格は、教育によるものが大なのですが、私が子供の頃は、それだけの教育を受けるだけの環境はありませんでした。この場合の教育とは、学校教育と言うよりも、家庭の教育のお話です。

東京等の大都会はさておいても、地方の都市では、江戸時代そのままの文化であって、それも戦後で、食べる事、明日の食事を食べれるか否かが、その日の問題であって、子供に教育を施す・・なんて、夢の又夢の時代だったのですよ。
家で、勉強(宿題)してから、学校に来る子供なんて殆どいませんでしたしね。
子供は風の子、子供は遊ぶものと言うのが、一般の常識だったのですよ。

家庭の環境は、父親が復員して来て働き出した家庭から、段々と改善されて来たのですが、私達のような母子家庭では、それも叶わず、時代に取り残されて、一番据え置かれてしまったのです。

当然、私の幼年時代には、ご飯の代わりに、(昔の極めつけに固くて不味い・・)かぼちゃが4分の1切れだけ・・という時もありました。、それでもその日に食べ物を食べる事が出来たという事は、充分幸せだったのですよ。
毎日毎日を、祖母や母は必死に子供達に食べ物を与えるために働いてくれていたのです。
当時既に、齢い60を過ぎていた祖母も、自給自足で本家の畑を耕して、食べ物を作っていました。
勉強どころではなかった時代です。
子供の教育もへったくれもない戦後のどさくさの時代だったのですよ。
当然、教育の教の字さえなかった私は、勤勉さも全く無い、「まあ、良いか?」の典型的な子供として、幼年時代を過ごしましたとさ。

そんな私が、60歳、70歳を過ぎても勤勉に仕事をしている私になっている‥・なんて、昔の私からは、とても想像も付かない事です。ハイ!
普通ならば、もう楽隠居の年齢だろうが・・、何処で間違えてしまったのだろう‥・??

「ひたむきさ」から「まあ、良いか?」を引くと、夢は限りなく遠退いてしまいます!!

でも、子供達のひたむきさを、社会通念(一般的な常識)と置き換えるのも親なのですからね??

それにしても、夢とproを取り違えている音大生には辟易させられる。
どんなに格好良い演奏でも、amateurはamateurに過ぎないのであって、どんなに嫌な仕事でも、仕事は仕事だ、と言う事を分からなければ、その人の将来はないのだよな??
格好良さだけを追求するのは、マスコミに踊らされた、brand嗜好と同じようなもんだよ。
仕事と趣味の区別が付かないのが、現代の人達の特徴ですよね。

それも「まあ、良いか?」の一つなのだがね??
「まあ、良いか?」では、全てが見えなくなってしまうのだよ!!
いや~あ、困った!!

勿論、lifeworkは趣味だというのも、良い事だと思います。
それで、人生を全うすればそれはそれでも、充分に満ち足りた人生だと思います。
但し、趣味は、あくまで自分のものであり、人と売り買いするものではありません。
私が「夢とproの世界を取り違えている音大生・・」と言っているのは、その趣味的な夢へのapproachを持って、proとしての人生である・・と勘違いしている点なのです。
音大生がその音楽を自分の高尚な趣味として、自分の楽しみとして、amateurのオケや室内楽を愉しむのはやぶさかではないのですよ。
でも、それで金を取るとなると、「おいおい、チョッと待ってよ!」てな事になるのですよ!!
でも、まあ、自分自身の心の平安のためには、音大生(人様)の事等、「まあ、いいか・・・?」だよな!!
それこそ、「不識=そんな事、わしゃ知らん!」だなゃ???



あ、あれ?つまり、のあとはどうなりました?
5月9日 14:41



つまり、の後は、Facebookがfreezeしてしまったので、中座して、何を書くのか忘れてしまいました。その内に思い出すでしょう??
5月9日 16:29


「ひたむきさ」
から「まあ、良いか?」を引くと、夢は限りなく遠退いてしまいます!
のところがよくわからないのですが、詳しく教えてもらってもいいですか?
5月10日 21:07


..
「ひたむきさ」と「まあ、良いか?」には、「水準」があります。
小さな子供が「ひたむき」になって一生懸命に音楽を演奏したとしても、proの人が「まあ、良いか?」と演奏するよりも、水準は当然proの演奏の方が良いはずなのです。
でも、溝の口に演奏に行った時に、聴きに来てくれたhomeの人達が言った言葉があります。「近所の幼稚園の子供達やN饗のmemberの人達がvolunteerで演奏に来てくれるのだが、自分達はカザルスやカルソー等の演奏を生で聴いて来たし、ちっとも感動をしない。」
そういった耳が肥えたお爺胃酸御婆さん達が、私達の子供達の演奏を聴いて、目に涙を浮かべて感動してくれました。
それが「一途さ」です。
純粋な欲の無い無垢の「一生懸命」なのですよ。
でも、小さな子供が、一生懸命に演奏したからと言っても、それが一途さになる分けでは無いのですよ。つまり、N饗の演奏も嫌だけど、近所の幼稚園の子供達の演奏も可愛いいとは思わないのですよ。
「一途さ」は、夢に向かって「ひたむき」になれるから、感動を与えるのです。
5月10日 22:04

..
「まあ、良いか?」と言うのは、本当ならば、その人の水準では、もっと上の段階まで、水準を上げる事が出来るのだけど、・・「まあ、良いか?」と、続きます。
つまり、安易な妥協を意味するのですよ。
自分に妥協をするのならば、当然、本当の意味での、向上はありません。
私が何時も言っている芦塚メトードの基本の理念である99%の意識と1%の努力というのも、その意識の持ち方を表しているのです。

私が子供達を教え始めた頃、地位のある超有名な演奏家の人と待ち合わせをするchanceがありました。
でも、その人の開いている時間と子供との時間がdouble-bookingした時に、子供との時間が先に決まっていたので、それを優先させたら、周りの人達が驚いていました。
私は「仕事には貴賤は無いから、子供に指導する時間も、超有名な演奏家とmeetingする時間も私に取っては同じなのですよ。」と言ったら、皆驚いていました。

でも、この考え方は、茶道でも禅でも、それは同じ考え方なのですよ。
物事に貴賤はないのです。

子供との仕事はいい加減で、オケや室内楽だけを優先する人達に音楽の本質は分からないと思います。

ある日、Brahmsが散歩に出ようとしたら、立派な(偉そうな)紳士が、「Brahms先生の家はここかね??」と尋ねて来たので、「あなたの会いたいBrahmsさんの家はそこですよ!」と言ってそのまま散歩に出かけたそうです。
Brahmsが言っている意味は分かりますか??全く同じ事をBeethovenも言った事があるのですよ。
つまり、あなた達が憧れているBrahms先生は、あの家にいて、私は只の老人に過ぎないのだ!と言っているのですよ。
5月10日 22:32


「一期一会」と言う言葉は、音楽にも相通じる所があります。
「1年に100回の演奏をしようとも、常に、自分のbestな演奏をしなさい。」と、いう意味になりますよね。

でも、それは、日常にも同じ事が言えるのです。今日は幾つ、「まあ、いいや?」を言ったのかな?
それは、即ち、人生を無駄にした・・という意味になるのですよ。

勉強中の子供達には、もし、疲れていて、眠たくて、集中力も、気力も出ないとしたら、その日は丁寧に楽器を磨いて、楽譜を読むだけにして、練習は無しにした方が、より良いのですよ。
絶対に惰性で練習をしてはいけないのです。

それも、一期一会なのですよ。
5月10日 22:34


今、ドルプリと斉藤先生のお迎えに行って、斉藤先生から同じ質問をされて、始めて梨紗の質問の意味が分かりました。
な、な、なんと、足すか引くかの、言葉尻に引っ掛かっていたのですよねぇ?

では、「ひたむき」を「ピュアな水」に例えて、説明しましょう。
そのピュアな水が10あるとします。(単位はLでも何でも良いでしょう??)
「まあ、いいか?」は、水溜まりの水で3あるとします。
水溜りの水は綺麗な水ではありません。
だから、綺麗なピュアな水の中には汚い水は含まれてはいないので、水溜まりの水の分を、綺麗な水で引く事は出来ないので、水溜りの水を加えてピュアな水10+汚い水の3で、合計13になるのでは??・・と考えてしまったのかな??

これは、例を水で例えてしまったから、理解出来なくなったのよね??
綺麗な水を汚い水で引く・・と、いう事が、理解出来なかったという事なのでしょうが、それは単なる言葉尻の問題で、実際にはそうはなりません。

綺麗な水は、加えられた水で汚れてしまう分けなので、10の綺麗な水は、汚れた3の水で汚なくなって、綺麗な水の3は無くなつてしまうのですよ‼
つまり、綺麗な水の10は汚ない水の3の分だけ、無くなってしまうのですよ‼

だからといって、「ひたむきさ」から「まあ、いいか?」が、引く事が出来るのですよ‼
結論的に言うと、綺麗な水の10が、汚れた水によって、目減りしてしまうのですよ‼
実際のお話しでは、「ひたむき」な時に学んだ技術も、「まあ、いいか」が入ってくると、一瞬で、その技術を失ってしまうのですよ‼
それが現実なのですがネ?

例えた例が分かり難かったという事なので、教室でいつも使用しているオセロの練習で考えれば、簡単ですよね??では、次にオセロの例で説明し直しましょうね??
5月11日 21:12


ありがとうございます。はい、言葉尻に引っかかっています。
「今までできていた技術が一瞬でできなくなる…」という話に繋がるということですよね?
綺麗な水がいくらあったとしても、汚い水が少しでも入ってしまったら濁った水になってしまうということであっていますか…?
5月10日 23:56

..
そう理解しても良いと思います。
昔、私が高名なviolinの指導者の講演会に指導の勉強をしに、部外者なのだけど、しらばっくれて、聴講に行った事がありますが、その先生が「10回練習して、上手くならなかったら、100回! 100回練習して弾けるようにならなかったら、1000回練習すれば良いのだよ!」と言っていて、来場していた皆さん達は感激していたのですが、私はその意見には根本的に反対で、それで、オセロ練習法を作ったのですよ。
10回上手に練習して、ちゃんと弾けたとしても、その後で、10回間違えた練習をしたら、プラマイ0回練習した事になる・・という理論で、これはcomputerの考え方なのですよ。
教室の生徒達が、超少ない練習時間で、concoursに合格したりしているのは、その無駄を省いた練習法のおかげなのですよね。

つまり、10の技術を身に付けたとしても、「まあ、良いか?」の意識が3入れば、(±)7になってしまって、「まあ、良いか?」の意識が、一つ増える度に、限りなく下手になって、音楽の将来の夢が遠退いて行く・・のですよ。
それが、amateurismの話なのです。
amateurの人達には、音楽で身を立てようという人はいません。(だって、もし居たらその人はproの道を目指すはずですからね??当然、意識も変わって来るはずなのですからね。)

私の教育理論では、「夢は(潜在意識的に)望むのならば、必ず叶う」という事を言っています。
その「潜在意識」とは、その人に取って、その望が一番であるならば・・という意味です。
男の子達は、大学を卒業して、社会に出ると、(本来的には、)自活しなければなりません。
望むのならば、伴侶や子供のためのお金も稼がなければならないのです。
しかし、女性の場合には、社会に出て、夢を追い求める事が厳しくなって来たら、結婚をして、主婦として音楽と関わって行けば良いのです。
そこには、潜在意識的に致命的な落差があります。女性の場合には、基本的には、社会で自立して生活をするという意識は無いのです。
だから、音楽の勉強をしていても、結局の所、趣味の域を出ないのですよ。
日本の音楽大学から、Münchenの音楽大学に入学した時に、一番驚いた事は、女性が殆どいなかった事なのです。
Münchenの音楽大学は、statusとしてではなく、職業の訓練所的な学校だったから、女の子達は、他の音楽大学に行っていたのですよ。
Münchenの音楽大学に教育学部はありませんからね。
5月11日 8:05


それと、同じぐらいに大切な考え方、いや、それよりももっともっと大切な事は音大生の「仕事に対する貴賤」(所謂、価値観)の考え方です。
学生なのだから、先生のlessonが一番なのは理解出来ます。学生に取っては、学校のオケ練習も授業の中なら大切な事は理解出来ます。しかし、もし、従業の合間にお金を取って子供達のlessonをしているのなら、それはもう職業です。でも、学生達はそれを、「バイト」という言葉で表現します。学生達は相手が子供だから・・と言う事で、ナメてバイトをします。

私は学生達がよく口にする「バイト」という言葉が大嫌いです。
それこそ、学生の無責任さを表している言葉だからです。
そもそも、ドイツ語のarbeitという言葉には、日本語で言う所の「バイト」という意味は全くありません。arbeitは、本来的な「仕事」という意味なのですからね。

教室に超有名音楽大学の生徒達が以前は、面接に来ていて、牧野先生達を怒らせていました。
「concoursを受けるので、江古田までlessonに来るので、その前後で教えたいのだけど・・?concoursに合格したら、その後の事は分からないのだけど、3.4ヶ月の間は教えられるので・・」

この話を聴いて、すっかり驚いてしまいましたが、多かれ少なかれ、毎年、面接に来る学生達の意識は、何時も、音楽教室に対しての意識は、その程度でしたよ。
挙げ句の果ては、私に向かって、「先生達は子供を指導する事にprideを持っているのですね??」だって!!
彼女等の意識は、「音楽教室は演奏家としてproになれなかった人達が、仕方なく教える所」なのですよ。自分達はproになるために勉強しているのだから、子供を指導するには、勉強は必要はない!初歩の知識と技術で充分である。
そういった態度が見え見えです。
ほんと、ぶっ飛ばしてやりたかったよな!!
それが某超有名私立の音大ですが、某国立の生徒達も同様でしたよね。
超有名な某国立や某私立の音楽大学は、学生の意識でも、日本の音楽界を席巻するものでなければならないと思うのですがね。

・・という事で、今では音楽大学に講師募集をするのはやめてしまいました。
腹が立つからね。
魂の平安のためには、音大生は雇わない事がbestなのですよ。
どうせ、来ても、また、今なら(桃迦ちゃん達に)「なんで、そんな事も出来ないの??」と素直な瞳で訊ねられるのが落ちなのでね。

昔々も、教室での面接に何とか合格した数少ない希少(レア)な学生が、検見川教室のオケ練習を見学に来た時に、小学生の低学年であった梨紗達に同じ事を言われたのだけど、自分達がなんと言ったのかは、言った当人達は忘れているのだけどね。



今まで講師募集で面接した有名音大生で、譜面の書き方のテストで、ちゃんと譜面が書けた学生は今の今まで、たった一人もいないのですよ。音大生は、ト音記号やヘ音記号ですら、書けないのです!
譜面を書いた事がないのですよ。
「そんな初歩的な勉強はする必要はない!!」と自惚れているのです。
大学の授業でも、そんな初歩の事は、出来て当然とシカトしているのですよ。

それで、音大生と呼べるのかね??
5月11日 7:36

音大生が面接に来た時に、私が教室として要求する事は、「Beyer教則本とBurgmüller、それにsonatine‐albumの1巻ぐらいは暗譜で弾けるようにしてください。」という事です。
そうしたら、「Beyer教則本は106曲もあるので、覚えられません。」と言った先生がいました。
私は「でもchopinのBallade、1曲よりも音符の数は少ないはずだけどね?」と言ったのだけど、結局、こんにちまで、誰一人として覚えてくれませんでした。
私の場合には、それぐらいの曲は暗譜しているし、(私が暗譜しているから、面接に来た学生に暗譜を要求するのですよ。)それに私は、耳で子供の弾くPianoの音を聞くだけで、指使いが見えます。
しかし、それには、相当な慣れが必要だと思うので、子供が指使いを間違えていないか?をcheckしながら、音の間違いを正すには、子供の指を見ないと無理だと思うのですけれどね??
指使いのcheckが出来ない先生に、「何故、生徒の指を見ないのか?」と質問したら、「音の間違いを指摘するために、楽譜を読んでいるから!」と答えました。曲を覚えていれば、譜面の間違いは、指使いをcheckしながらでも出来るはずだけどね??
でも、その当然の事を予習してくる学生は一人もいないのですよ。
「その程度の初歩的な事は、予習しなくても出来る!」と、思い込んでいるのですよ。

同じ音楽教室でも大手の企業の音楽教室ならば、教室も綺麗だし、或る程度はstatusにはなるので、「**に就職しました。」と宣ふのですが、企業の音楽教室では、会社員として、勤めているのは、売り子の女の子であって、指導をする講師は、正規雇用ではなく、単なる日雇いに過ぎないのですがね。そこの所も分からない。もし、「**に就職した」と言いたければ、売り子として就職しなければならないのですがネ??音大生には、そういった一般常識すら無い。困ったものです。
5月11日 7:49


「まあ、良いか?」のお話は、とても長いcommentになってしまいました。
それだけ、日本人に取っては根深い問題だからです。
「音楽の世界でproになるのは難しい」とか、「音楽で食べて行くのは不可能だ」という事が一般論になっていて、教室に来た先生から「Classicの音楽で生きて行くのは無理ですよねぇ~??」と言われた事があります。
私は音楽大学に入学をする時に、養父から勘当されて、音楽の世界に入ったので、自立と言えば、その音大生の時代から既に、自立をしています。
その頃の夢は、未だ日本に2台しかないCembaloを買いたい、steinwayのgrandpianoが欲しい・・というのが夢でした。Cembaloは今spinet2台を含めて4台持っているし、steinwayのgrandpianoは、置き場所さえあればいつでも購入する事は出来ます。
では、何故、音楽をやっていて、飯を食う事が出来ない・・と言われているのでしょうか??
それは、指導する方も、指導を受ける方も、職業として学んでいないからです。
大学院を卒業して、更に留学をしようとしている女の子に、「留学するのは良いけれど、それから日本に帰って来てどう生活をするのですか?」と訊ねた時に、「音楽大学は職業学校だから・」と言ったら、その院生が驚いて、「音楽は職業なのですか?」「これまで音楽を勉強していて、一度も音楽が職業なんて、考えた事は無かったわ!」と言われてしまって、私の方が、ビックリしてしまいました。
確かに、音大生で、職業としての音楽と言ったら、音楽教室で教えるか、高校の先生になるかだけで、後は、生活のためではなく、演奏活動をするのでしょうからね。
それじゃあ、音楽でproになるのは、難しいのは当たり前だわさ!!
5月11日 8:21




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5月11日 22:02 ·
(12日の22時半に少し追記しました。)

「無駄な一日」
今日(11日)は、パソコンの作業だけで終わってしまいました。
アハッ!パソコンの作業と言うのは、パソコンで作業をした・・という意味ではなく、パソコンの修理に一日費やしたという意味です。
CyberLinkで動画の作成をしていたら、勝手にドラゴンスピーチが立ち上がって、終わらせる事も出来なくなってしまいました。デバイスマネージャーでも、終わらないので強制終了をさせたのですが、outlookを立ち上げる度に、一緒にdragon‐speechが立ち上がってしまうのですが、dragon‐speechは開きません。何度も試していると、突然、パソコンがrecoveryを勝手に始めてしまって、2時間程掛かってしまいました。
makerから削除ツールを取り寄せて、installし直したのですが、何度色々な方法で試しても、全く同じ症状になってしまうので、今は削除をしたままです。makerの改善策を待っている所です。という事で、2日間、パソコンと格闘しています。
それはそうと、動画の編集はやって、編集のsoftで、出来る事と、出来ない事が分かって来た所かな??



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指導の範囲と3点支持

5月13日 4:45 ·

生徒からの質問に対しての回答を、ベッドに寝ながら携帯でFacebookにせっせと書いていたのですが、ふと気づくと、私は携帯を放り出して寝ていて、『一生懸命に携帯のFacebookに書き込んでいていた』・・のは、何と❢❢・・夢の中で、現実には、一文字も打ち込まれていなかったのですよ。
でも、打ち込んだ内容はしっかりと、覚えていたので、その文章を忘れないように、慌てて起き出して、今はパソコンに向かって書き始めている所なのですが、又、目が覚めるとそれも、更に夢だったりして・・・・??
Après un rêve!!

「指導の仕方と3点支持について」

「初心者の子供達に何処まで指導出来るのか?」
生徒からの質問の第一の要点は、「初級、中級、上級の生徒達に、何処まで弓の持ち方を指導して良いか?」という事ですが、その結論は意図も簡単で、それは「その生徒が出来る所まで・・」です。

ただ、そういう風に言ってしまうと、私が生徒が「出来る所までしか説明しない」ように、捉えられがちなのですが、それは全く違います。
私はmanualの出し惜しみはしないので、年齢が低くても、初心者でも、理屈だけはちゃんと説明します。
なるべく理解出来るようには、説明するのですが、年齢が低い場合や、技術力を伴っていない場合には、その説明が理解されない場合も多々あります。・・と言うよりも殆どなのです。

と言う事なので、年齢が低い生徒に分かりもしない事を教えるのは、一見すると無駄なように思われがちなのですが、実際の指導では全く違います。
その時には理解出来なかった事でも、潜在意識の中にあれば、子供が一人で練習をしている時に、ふと、そのsuggestに因って、理解出来る一瞬が来る事がよくあるのです。「ああ、これが芦塚先生が言っていた事7日??」と言う風に・・❢❢

但し、理解出来るか否かの、その一瞬は、指導される側の子供達が、必ずしも、「幼いから、分からない」・・という事では無く、また、「歳を取って、教室の在籍年数が長いから」と言っても、それで「理解力が出来る」という分けでもありません。

理解力は、その生徒の音楽的、また技術的水準、所謂、Niveauの高さで、説明された内容を理解出来たり、また技術的にも演奏出来たりします。
だから、こればっかりは、年齢とは無関係なのですよ!!

また、生徒が、頭の中で、理屈的には完全に理解出来たとしても、それをちゃんと技術的にも「演奏出来るように」指導者が生徒を指導出来る・・というのは、その生徒が「その技術を、一人でも練習出来る」という、前提があるのです。だから、当然、その技術の指導のpointは、その生徒が一人でも、練習可能な技術迄・・という技術のNiveauの限界を、配慮した上で、・・なのですよ。

(・・・言い方が難しかったかな??逆の言い方をすれば、指導される側の生徒が「話が理解出来ているのか否か」を、技術の指導でcheckしてはいけない・・という意味です。
「教えてみたけれど無理だった!!」では様にならないでしょう??)

えっつ?? それでも未だ、理解するのが、難しい??

もっと、かいつまんで言うと、子供が出来るか否かは、子供の理解力と技術力だけではなく、練習の量や質、それに意識等の総合的なものが伴うからです。

教えられる側の生徒が、「幾ら練習しても出来ない」・・或いは「練習そのものが上手く行かない」・・という事ならば、決してその段階で無理をして指導してはいけません。

家庭学習の量と質、それに本人の音楽に対する意識が伴って、始めて或る程度のlevelの指導が出来るからなのです。

極稀には、そういった全てを持ちながら、一般的な音楽の技術や理論・・そんな難しい事ではなくて、先生に対しての、信頼度の低さ・・つまり、巷の音楽教室の先生の言う事よりも、世間一般通念の方が、正しい・・と思い込んでいる・・という事です。
世間の一般通念に流されて、教室のmethode(私の芦塚メトード)を受け入れられない生徒も、教室には、結構多く居たりします。
まあ、なんと言うか、不徳の致すところではありますがね・・・??

この場合は、自分(生徒)が、尊敬出来る、先生信頼出来る先生に、先生を変わるのがbestの選択ですよね。

昔は、生徒(保護者)に、「何故、先生を変わらないのか??」と、尋ねた事があります。
答えは「音楽の専門家になる分けではないので、巷の音楽教室で充分」・・なのだだそうです。

でも、本人達は、自分が随分失礼な事を言っているのを、分かっていないのですよ。
つまり、生徒達は、それが本当だから、失礼な事を言っている分けではない・・と、思い込んでいるのです。
だから、そういう事が平気で言える。

「神よ!許し給え!彼らは自分のやっている事が分かっていないのです。」十字架上の7つの言葉より)

そういった高度な指導のlectureではなく、もっと、初歩的な内容で躓いている場合もありますよね。
つまり、幾ら1点支持の持ち方を説明しても、3点支持の持ち方になってしまうのは、1点支持の持ち方が、それだけ、難しい持ち方であるからなので、未だ弓が持てない「箱持ち」をしている初心者の生徒達に対して、1点支持や、3点支持の話をしても、それは無駄なのですよ。
先ず、1点支持や3点支持ではない、基本の弓の持ち方を指導するべきなのです。

ちなみに、安いbowの場合には、1点支持の奏法では音が出ない場合もあります。
本物の1点支持用の柳腰のFrenchbow は、現在では高騰して、150万以上します。
つまり、1点支持は、専門家の持ち方で、一般的な持ち方ではありません。
でも、だからと言って教室が3点支持の持ち方を推奨する分けでは絶対にありません。

弓は基本的には、幾ら力で抑えつけても折れないのが、原則なのですが、それでも良いFrenchbow の場合には、3点支持の無理な力で抑えつける演奏では、過去に実際に演奏会での演奏中に、弓を折ってしまった演奏家がいます。
力で演奏する3点支持の人達は、基本的には、ドイツbowやイギリスbowを使用するべきで、Frenchbow は使用するべきではありません。

また、1点支持と3点支持の間に、古典的な基本の弓の持ち方があります。baroque-bowは弓の長さが、現代のbowに較べて、非常に短いので、fingerbowのような奏法出ない限り、古い弓の持ち方ならば、欠点が出ない弾き方も出来ます。(後述)

ですから、1点支持の持ち方を指導しないのではなく、出来る所迄、少しずつ、ちゃんと指導するのです。
「教育は少しづつ、出来る所迄です。」

私がPianoの生徒にleggiero奏法を指導する時に、leggieroが弾けるようになるには、最低でも3年は掛かるのですよ。
(leggiero奏法=finger‐staccato=Mozart奏法=forte-piano奏法等々、色々な言い方が成されています。手首や指の力を抜き切って、速度だけで弾く鋭いstaccatoの奏法です。)

他所の教室でPianoを習って来ていて、手首がガチガチで弾いていても、「手首の力を抜いて、指先に力を込めて!」なんて、無理難題は指導しないのです。(それは生理学的に医学的に不可能です。)

その代わりに、手首の回転運動や、手首の抜きの仕方の指導をします。それ等が出来るようになったら、手首のガチガチは自然に治るのでね。

では、1点支持は‥・?? 私は何時も、「まあ、最低10年で早い方だよ!」と言っていますよネ。
「教えたから出来る」というそんな夢のような話は、現実的には無いのですよ。
だって、私はあなた達に、何回同じ話をしているのだろうかね??
否、それどころか、私は、いわんや、衆生に30年、40年同じ話を繰返ししているのですよ。
それでも、分かっては貰えないのです。

私が先生達と、何時も話す話は「やっと生徒が、此処まで出来るようになった・・!」という事なのですからね。

職人の技術と言うものは、学校教育のように、ちゃちゃっと黒板上で、教わって出来るようになる・・といったようなものではありません。
一つの事を完全に出来るようになるには、色々な要素との絡みが必要になります。
だから、もし上手く行かなかった時に、「それを阻害している原因となる要素は何なのか??」という事を知る事は、もう一つ上の段階なのです。
それを簡単に要因という言い方をします。

一つの曲を演奏して、「その曲が完全に演奏出来るようになった」と思う人は、演奏家としては、不向きです。演奏家はやめるべきで、音楽を趣味にする事を推奨します。
その曲が完全に演奏出来るようになった・・という事は、その人の努力が限界に達した・・という意味だからです。

BachのMenuetのような簡単な曲があります。
でも、この曲をrecordingしようとすると、半年掛けてrecordingしても、完璧に演奏出来ないのですよ。完璧とはそんなものです。

椎名町でMünchenの国際コンクールの風景の動画のvideoを見ました。先輩が出演していたからだそうです。
勿論、そのlevelになると、音のミスは一つもありません。完璧な演奏なのです。しかし、日本人の演奏は、何かが違うのですよ❢❢
勿論、日本人だから・・とかいう精神論を持ち出す気はありません。
何かが違う・・の何かは、日本人(アジア人)の特有の勉強の仕方・・なのです。音楽の勉強を技術だけだ❢❢と思い込んでいる東洋人の特徴がコンクールの演奏に垣間見えるのですよ。
音楽の勉強の基本、基礎が指導する側の先生も、学ぶ側の生徒も分かっていないのですよ。

proと呼ばれる演奏家達は、完璧に弾けたと思われる演奏を、それこそ、何度も、何度も、checkをして、シミや汚れを見つけ出して、その上手く行かなかった箇所をcheckをして「何故上手く行かなかったのか?」を分析、判断して、更に練習をして、演奏の向上を目指すのです。
そういった努力に対して、「辛い」「苦しい」と思わないで、楽しんで、勉強、研鑽を積む事の出来る性格の人は、100%演奏家に向いている人です。
つまり、練習が楽しくてしょうがない・・というtypeの人達はproになれる素質がある人達なのです。
こういったtypeの人を職人という言い方をするのです。

「何時から完全な1点支持を指導するのか」
私が教室で指導する場合には、生徒達に完全な1点支持を要求するのは、3回オケの生徒達からです。

それは、3回オケの生徒達が演奏する曲では、Spitzeのfingerbowや、同じSpitzeの色々な奏法が演奏上必要になって来るからなので、その段階では1点支持の奏法が演奏出来なければなりません。
日本の音楽界では、1点支持が指導される事はありませんが、それでも、色々な曲には、1点支持でなければ演奏不可能なpassageが出て来ます。
ですから、必要に迫られて‥・なので、どんな日本のproのオケであっても、そこのpassageは1点支持で演奏をしていますよ。
曲を演奏するlevelが高くなって、その技術でしか演奏出来ない曲を演奏するのだから、当たり前の話です。

「基本的な古典の弓の持ち方」
1点支持と言っても、常に人指し指と親指だけで持って演奏する分けではありません。
「教室で1点支持の持ち方を指導していても、3点支持で子供達が弾く」という話なのですが、そこには大きな勘違いがあるような気がします。
3点支持の弓の持ち方であるか、1点支持の持ち方であるかは、弓の背に小指を乗せているか否かの違い・・という事ではありません。
此処の所を勘違いすると、1点支持の基本的な理解が出来ていない‥・という事になります。
例え、弓の背に小指を置いていたとしても、弓の持ち方そのもので、1点支持か、3点支持かが変わってしまいます。

ちゃんと理解しておかなければならない所は、1点支持の場合でも、froschの位置からmitte迄(untere-hälfte)は、弓が不安定なので、3点支持のように弓に小指を乗せて、弓が不安定になるのを防ぎますが、その場合にも、一番の3点支持との根本的な違いは、3点支持の場合には、弓をしっかりとholdingするのですが、1点支持の場合には、ファッと力を抜いた状態で持って、弓を腕の延長にしないのが、基本的な大きな違いになります。
つまり、3点支持の場合には、腕の力で弦を弾くのですが、1点支持の場合には、弓の重さで弦を弾くので、弦に対しての説現位置や弓の当たり具合(私は弓の切り具合と言っていますが)弓速がきちんと出来ていないと、音が貧弱になってしまいます。

3点支持の場合には、(某大手音楽教室の超著名な指導者が、何時もperformanceをしていたように)弓を振り回しても、弓が腕の延長線上になるようにしっかりとholdingしますが、1点支持の場合には、フアッと(力で支える事は無く)、持つだけです。某指導者のように、弓を振り回したら、それこそ何処かへ飛んで行ってしまいます。
人指し指と小指と親指の3っつでしっかりと弓を支持すると、手首に力が入って、手首のしなやかな動きが無くなってしまいます。violinの先生達が、教室の生徒達の演奏を見て、何故、手首が柔らかく自然に動くのかを不思議がっていましたが、弓をしっかりとholdingする持ち方では、手首は柔らかくはなりませんからね。

「自然な小指のrelease」
froschからSpitzeに向かって、ゆっくりと弓を駒と平行に弾いて行くと、自然に、ある箇所(多分、mitteぐらいの位置)から小指が離れて行きます。
それも駒に平行に弾いて行くと、自然に人指し指と親指だけで弓と持つ形になります。

逆に、3点支持の場合には、小指を弓の背から離す事は出来ないので、手のreachが足りなくなって、自然に体の後ろにRを書いて弓を後方へ引いてしまうのです。
そのために、駒と弓がspitzeでは平行になる事は出来なくなって、駒に対して、外側に弓の先が逃げてしまいます。
小指を弓から離さないない分けなので、当然、fingerbowの奏法は出来ません。baroqueから近現代迄の多くの曲で登場するSpitzeのtremolo等は論外です。
(あの格好良いWagnerの Lohengrinの"Wedding March" も弾く事が出来なくなってしまいますよね??)
しかし、目が覚めると、これも夢だったりして・・・


小さな子供達に、弓が後ろへ流れてしまわないようにする、矯正法と小道具は、2,30年前から作ってあるのだけど、今は誰も使っていないようだよね。簡単なのにね??もう、使わないのなら、欲しい人にあげちゃえば良いのにネ??
5月15日22:16

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5月14日 14:36
またまた、鬱に悩まされているのだ

昨夜から、何となく、その予兆はあったのですが、やはり、朝方から、酷い鬱に襲われてしまいました。
こういった場合には、下手に自分の鬱に抗わないで、回りの人に目下鬱である事を宣言する事にして、私の無礼が鬱のせいである事を公言するようにしています。

割れ物にでも触るように…、か、腫れ物に触れるようにでも、扱って貰えば、少しは生活をするのも楽になるのかな?と、思っているのですが、年若く、元気一杯で、鬱にはなった事のない生徒達一同は、先生の取説等、全くお構い無しです。
少しは、気を使えよ‼
…と、言っても、箸が転んでも、嬉しくてしょうがないのだから、・・・まあ、無理か⁉

という事でオケ練習でしたが、相変わらず、上級生達も先生達も、誰も助けてはくれない!! 
仕方なく、鬱に鞭打って、いつものようにオケ練習を、こんなに寒いのに、孤軍奮闘で、汗ぐっしょりで、やりました。
いや~あ、てえへんだ!!

鬱は精神的な不安定さが原因なのか、肉体的に何らかの病的な原因があるのかよく分かりません。
今回も、鬱と、若干の微熱や腰痛、それに悪性の切れ痔等を併発して鬱状態になっています。
まあ、卵が先でも、鶏が先でも、どちらでも良いから、そのいづれかでも治ってくれれば、少しは楽なのかな??


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5月16日 2:05 ·

「Facebook、blog、homepage、twitter」

日本の文学の歴史では、物語文学や御伽草子文学、或いは、諧謔的な十返舎一九等による滑稽噺というgenreがあって、江戸時代には、赤本、黄本(黄色表紙=所謂、yellowエロ本ネ??)として分類されていた。

その他にも、日本には日記文学という独特のgenreがある。
その代表的な作品は「徒然草」であり、且つ、先程の十返舎一九の東海道膝栗毛等も、完全な創作文学でありながら、「旅日記」の体をなしている。
色々な時代にそれぞれの有名な日記文学が、存在している。
日記には、徒然草のような時事を書いたものや、土佐日記のように旅日記が有名で、そのgenreは今日迄延々と引き継がれている。

そういった独自の日記文学とよく比較されるgenreに、寺田寅彦を代表とするessayというgenreがある。
日本語では、随筆、随想に訳されるのだが、日本文学の場合には、寺田寅彦のessayを除いて、一般的にはessayというと、殆ど日記に近い。随想録としながら、毎日の生活の一コマを描写している随想文学があって、「少し、意味が違うだろう?」と思ってしまう。

essayの本来の姿であるべき少論文という形であるが、日本の哲学としてのessay(小論文)というgenreとしては、日本人の基本的な内観方は、根本が仏教哲学によるものが主流なので、その思考の方法に、論理性で物事の解明をする事は非常に少なく、寧ろ、精神的なsymbthyによる(共感的な、響鳴的な)理解が求められる。(所謂、瓢簞鯰の世界観だな・・や??)
ヨーロッパのessayに見受けられる内観的な、或いはlogisch(論理的)な思考法は、日本では、「理屈っぽい」‥・と言われて毛嫌いされる傾向にあり、essayというと、日本独自のessayというヨーロッパのそれとはまた異なった独自のgenreを形作っている。

essayと滑稽噺の両方の良さを併せ持ったような、日本独自のgenreである醒睡笑に代表されるような「小噺」というgenreさえある。(小噺はconte=コント=フランス語)と訳される事が多いのだが、このconteもまた、定義が安定していなくて、jokeとも同じ意味に解釈される事もある困り物である。)
江戸時代から受け継がれている「落語」というgenreで、息抜き的によく話されている「小噺」所謂、落とし話は、洗練された世界に誇るべき文学であると思う。

高校一年生の時に、大病を患って、一年程、大学病院に入院していた時には、病床で立原道造の詩集全巻を看護婦さんに買って来て貰って読破したのと、江戸小噺を読んだものである。
高校1年の時に、黄表紙の草子をね~ぇ??とは思うのだが、私の勉強の方法では、日本の教育のように、歴史を源流から勉強するのでは、負担が大きいと思うのだよ。御伽草子であったとしても、日本最古の物語では、単語や文法が難し過ぎる。高校生にとっては、表源氏も裏源氏も、源氏物語に代わりは無いのだよ。だから、時代を逆行するのが私の勉強法なのだよな。
なにせ病院では、すずめ達の観察をするぐらいに時間があったのだからね。

さて、旅文学の話に戻って、・・日本最大の文学とされる松尾芭蕉の「奥の細道」であろうと、基本は、旅日記である。(月日は百代の過客にして、行き交ふ年もまた旅人なり。と続く旅への誘いである。私は高校時代には光陰は百代の過客にして‥・と習ったのだが、それは李白の詩に対しての序文から来ているので、芭蕉の言い換えではない。)

その日に見た事、感じた事を書く留める事が、所謂、日記であり、blogである。まあ、日本人は何と日記が好きな事よ。

しかし、文学は映像の世界とは違って、人や物の動きを正確に表す事は、苦手である。たかが、melodieのswingですら、言葉に置き換えると実にeccentricになってしまう。
という事で、私も中、高時代には、文字で正確な描写をする・・という事を試みて見たのだが、それはあっさりと挫折、断念してしまった。それだけの語彙や文章の表現力を持っていなかったのに気付かされてしまったのだよ。

私が物心がついてから、始めて、日記のような、散文のようなものを書いたのは、ノートという物を身近に買う事が出来るようになった、戦後の時代である小学校5年生か、6年生の時である。
その頃の小学生達は、「肥後の守」という小型のナイフで、鉛筆が何処まで、小さく削れるか・・を、争ったものである。

そうして、貴重な、たった1本の鉛筆で書かれたその内容は、とても、日記と呼ばれるような高尚なものではなく、単なる「思いつきmemo」であり、日常の生活の一コマが描写される事は何一つなかった。

それは、私が成長して行って、中学、高校生になった時のノートでも同じで、非日常的な詩や散文、論文の思いついたmemoが書かれているに過ぎない。
つまり、私には、「日記を書く」という概念は、限りなく無駄な事に思えて、一度もそういった日常の思い出を書いた事は無い。
(・・例え、それが貴重な、記念すべき旅への思い出であったとしても・・、私がそれを書き残す事は無かった。)

教室の報告と音楽教室としての宣伝のために、homepageを起こして、その音楽の理論の解説のために「芦塚先生のお部屋」というTitleで、教室のhomepageとは別にhomepageを立ち上げた。また、私的な、愚痴や病床の感想等を、個人のproviderで「芦塚陽二の病床記」として立ち上げた。

しかし、何れのhomepageも著しくその内容を制限していたので、「もう少しrough に、文章を書きたい」と言う事で、3年前に、「おみなもすなる 日記といふものを おのこもしてみむとするなり」という事で、日記的、散文的な、genreを特定しない散文を、blogとして、私も、他の人達に習って、「書こう」と思い立った。

そこで、改めて、ネット上の色々なgenreを検討して、私が書く物に一番matchするnet上のgenreを探してみた。
(Facebookを含めて)twitterや、blog等の、色々な人達の文章を閲覧して見たのだが、私が書いているgenreにあったものは無かったのだが、私がその中でFacebookを選んだ唯一の理由は、私の昔の知り合いの多くがFacebookに入っていて、お試しで、Facebookを試みた時に、再会を喜ぶ昔の友人達からのmailが幾つかあったからである。

しかし、私の文章の書き方(方法論)は、最初から丁寧に、文章として書き上げるのではなく、徒然なるままに思い浮かぶ由無し事を、そこはかとなく書き綴り、その後、読み返す度に、少しづつ、補筆訂正をするのが私の套常なのですが、Facebookでは、日にち順に、年代順に繰り越されるので、いつの間にか、書き途中の文章が何処に行ったのかが、分からなくなってしまいます。

また、書いている内容も、genreが限られているので、読む時に、そのgenreを見つけ出しながら読むという面倒くさい事になってしまいます。
Facebookの場合には、或る程度経つと、文章が見つからなくなってしまうので、私はFacebookを1年毎に、homepageに移して、indexを付けて探しやすくなるようにしています。

特に、生徒達が、thema別に私の文章を拾い読みをして、勉強が出来るように、indexを付けるという事は、私の文章の生命線でもあります。

それとは別に、人の書いたcommentに共感して、その人のcommentにmessageを書き込んで、私の文章に、そのcommentをシェアしても、その人から寄せられたcommentはシェアされたmainの文章には付いて来ないので、不思議に思って、Facebookを調べたら、友達の友達は赤の他人と言う事で、プライバシーの問題が生じるから、共有されないので、それはFacebook側の意図だそうです。
その割には、誕生日や、誰が誰の友達になった・・とか、何度そのmessageが出ないように、何度も直しても、しつこく、また、表示されてしまって、何度もFacebookにcreamを付けているのにも、関わらず、またぞろ、出て来るので、本当に、辟易するのですがね~??
一度も会った事もない人が、一度も聞いた事のない人と友達になったと言われても、ね~ぇ??
困ってしまう!!



また、文章が書けなくなってしまった。文字が入力出来ないのだ!
Facebookは相変わらずヘボい!!
5月16日 2:22

一夜明けて、またぞろ文章を書き加えていたのだが、文章の中に訂正文を入力する事が出来なくなってしまったので、また中止をせざるを得なくなってしまった。とは言っても思考が停止したからでは無いですぞ!!
5月16日 14:27


またまた、文章を少し補筆していたら、Facebookがfreezeしてしまって、暫く待ってみたのだが、動かなくなってしまったので、補筆した文章を諦めて、捨ててしまった。腹立つよな!!
5月17日 6:47


夜中の2:00からなにやってんですか~ちゃんと寝てくださいね。
5月17日 10:31


眠れないから、書いているのだよ!!
5月17日 12:07



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Vivaldi Op.3Nr.11 d doppel
5月16日 2:28 ·

「昨日のオケ練習で、Vivaldiの2台のviolinのためのconcerto dの色塗りの宿題を集めようと思ったのだけど、提出する生徒は一人もいなかったので、改めて問題を提起します。
最初のfugaの入りの部分は、私が塗り絵をして、Facebookの写真に掲載するので、以下、各自、続けてください。塗り絵用の楽譜が未だ、貰って無いので、楽譜を貰ったら、このPageに掲載します。
Vivaldi violin‐concerto Op.8 Nr.11 D Dur Ⅲ楽章の解説で、詳しく塗り絵の仕方を説明したので、このdoppelのd mollでは、suggestするだけにします。全く同じ作曲法なのでね。

1枚目のfugaの入りのthemaは、D Durと同じで、themaの前半部のAと、後半部の5度圏のthema Bに分かれます。







themaに対するKontrapunkt(対位主題)は青のMotivと、緑のMotivが4回繰り返されて、纏め(終止)の紫で終わります。



cello・Kontrabass等が終わって2ndがthemaの入りを始める時には、violaのpartが対位旋律に入るので、
ダーマトグラフ色鉛筆の青で書かれたMotivは終止句(kadenz)になります。
同様に、そのままのcello・Kontrabassの茶色のMotivは、第二対位主題になります。
つまり、themaの対して、第一と第二の対旋律があります。
  


以下同様に、D Durと全く同じ展開が成されます。
練習番号の55小節目(通し番号では89小節目)からは、fugaのお定まりのorgelpunkt(日本語ではオルガン点と訳されますが・・)がAの音で持続されます。



Vivaldi Op.3Nr.11 d doppelのⅠ楽章の後半のcello‐soloの部分ですが、24小節目から25小節目を次のように変更します。solocelloとCembaloの人は譜面の変更をお願いします。
その理由は昨日のオケ練習で説明した通りのSequenz進行を活かすためです。
5月22日 10:32







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Tartini Devil`s Trill Sonata

5月16日 3:33 ·
Tartiniの3曲ですが、Peters版はUrtext版ではなく擬古典版なので、ハイツからoriginalのUrtext版を事務所に持って行きますが、この版は目下絶版なので、コピーが終わったら、直ぐにハイツに持ち帰ります。
以前、事務所にこの楽譜を置いていた時に、貴重書である事を何度も確認をしていたのに、表紙にシミを付けられてしまったので、ハイツに撤収しました。
carisch版でMilanoの出版社です。
ドイツ留学中にMünchenの行きつけの楽譜屋で買って来た版です。

Peters版は、日本人は聞き慣れているのかも知れませんが、擬古典版なので、色々とbowingや、articulationやarrange自体にも色々の問題点があります。

但し、皆さんが聞き慣れているのは、勿論、今回のselectされた3曲とも、Peters版なので、逆にUrtext版は、聞き慣れないので、面食らって驚いてしまうかもしれませんよね。
・・という事で、先ず、一度、orthodoxなPeters版で勉強するのも良いかもしれませんね。

悪魔のトリルの原典版は、Bärenreiter Urtextから出版されていますが、carisch版からは出版されていません。
多分、同じcarisch版のautograph版の中には、悪魔のトリルも、入っているのかも知れませんが、今の所、全巻を揃えるのは、無理なので、必要な曲だけが入っている巻をselectして買う事になるので、もう少し詳しく調べてからにします。
必要のない曲を集めても、楽譜の利用頻度が少ないのでね。

それと、netでのamateurの人達の誤った解釈を鵜呑みにする傾向がありますが、日本語では、大した解釈は表示されないので、ヨーロッパのWikipediaの論文ならば、専門的な知識の元に解説してある文章が多いので、そちらを参考にするようにしてください。
高校生た大学生ならば、英語で論文を読破する勉強にもなって良いと思いますよ。殆どの単語がイタリア語であったり、ドイツ語、ラテン語などの音楽用語の表記なので、逆に音楽家にとっては、慣れれば英字新聞を読むよりも、楽で良いですよ。

    



悪魔のトリルのoriginalの譜面です。
5月16日 4:00


コンピューターの楽譜を見慣れてくると、こういう楽譜がやけに美しく見えますね。これいつかbaroqueviolin で弾きたいです。
5月17日 10:47


まえだただしさんという人が原典版の伴奏譜を作っていたよ。中々の腕前だよ!!
5月17日 11:20


original版で演奏している人を2、3人YouTubeで見つけたのだけど、cembalo伴奏なのだけど、演奏そのものは、periodではなかった‼一人だけpickupしておいたので、そのうちに、聞いてください❗
5月17日 16:14


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5月16日 14:56 ·
「八千代のコンサート出演について」
は、本来は八千代市の50周年の記念イベントで3月の開催の予定への依頼だったそうなのですが、発表会や春待ちと習志野市のコンサートと演奏会が立て続けに入っていたので、教室の都合で6月にお願いしました。
3月の記念イベントとしての、いろいろな企画の中の三十分ぐらいの予定の依頼だったのですが、4月になって、生涯学習プラザの担当の職員の方達が入れ替わったので、企画が市の方になって、10月に変更される事になったのですが、八千代市の50週年の記念のイベントとは関係なくなったので、10月は教室のコンサートのための単独のイベントになるために、企画が教室のコンサートが全日の企画となって、三年前の企画と同じprogramの企画で開催したいそうで、そうなると1時間半の2回のprogramになってしまいます。

「八千代のコンサートへの参加の趣旨」
八千代からのコンサートの出演依頼をお引き受けしたのは、日本の教育では得る事の出来ない本当の社会活動の勉強になるからです。
学校教育等でよくされているvolunteer的な社会活動は、子供の社会生活の体験学習をさせるために、子供に楽しく体験が出来るように配慮されているので、子供の処遇は、あくまでお客さまという立場であり、その中心は子供自身です。

ですから、そこで得た、活動の知識で社会活動の勉強を続けたとしても、現実の社会に出た時に、社会が自分に対して、要求することは、その社会が必要とする事だけで、子供のための体験学習で身につけた知識は、お荷物にしか過ぎなくなっています。
そこで、自分は、体験学習で学んだことを一生懸命頑張って、勉強してきたのに、会社は、自分の事を認めてくれない、とか、現実とのギャップに反発してしまい、社会のneedsに対して、対応の出来ない子供になってしまい、引き篭もりや、ニート等を引き起してしまいます。

これは音楽の世界でも全く同じで、音楽大学でも、先生から「私の言う通りにやっていれば、proになれるのよ!」という言葉を信じて、一生懸命、勉強して来ても、それが、自分が人よりも、上手だと認めて貰えるための、演奏であるならば、audienceからの評価を受ける事はありません。
当然、proとしての演奏活動がなりゆかなくなってしまいます。
それは、clientのための演奏ではなく、自分が認められたいがための演奏なのだからです。

八千代の演奏会を企画したのは、例え、子供であったとしても、大人と全く対等に、演奏が出来るのならば、・・・そう言った意識で演奏が出来るのならば、一般の人達から子供であるという事とは無関係にproとして、大人として扱って貰える,認めて貰える・・という事を学ぶための対外出演だったのですが、そこの所が、前回はどうしても参加者の方達に、分かって貰えず、audienceの人達の暖かいご支援がまだ有る内に、演奏活動を撤収する事にいたしました。
子供達の思い出は、辛い厳しいものではなく、楽しいものであって欲しかったからです。

今回、八千代からの依頼があって、春待ちコンサートや、習志野市市民会館でのコンサートも中々良い評価を頂いて、八千代も頑張れば何とかなるのかな、と思っていたのですが、その後のmotivationが思ったほどでもなく、orchestraや室内楽の編成を決める事も中々ママなりません。
こういったorchestraや室内楽は、生徒、一人、二人の頑張りではどうにもなりませんし、また、発表会後からのmember不足も、問題としては何も解決しておりません。

一昨日(7日)のオケ練習の出来で、10月迄に、演奏上の音の雑味を取る事が可能か??・・という事に疑問を感じている事と、発表会迄の曲数が多すぎるという事を鑑みて、八千代の練習を継続するか否かを、目下、考慮中です。
後、1,2回、オケ練習の出来と、orchestraのmember全体の意識のlevelが、10月迄に何とかなりそうだったら、このまま頑張って継続しますが、無理なようなら、今回のコンサートは見合わせるか、さもなくば、先生達を中心にして、習志野市のコンサート同様に、少数の希望者だけのmemberで、演奏会に臨む事にします。

なるべくならば、一人でも多くの生徒を、出演させてあげたいのですが、volunteerの出演と違い、対外出演で最も重要な事は、水準をkeepする事なのですが、もし、それが難しいのならば、無理を押して迄は、練習を継続する事は、生徒達にとっても、過剰な負担と成り兼ねないので・・


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5月16日 17:04 ·
Mioちゃんの発表会の
Vivaldi violin‐concerto Op.8 Nr.11 D Dur Ⅲ楽章の塗り絵の課題です。

後は同じように丁寧に色塗りをして見ましょう。

以下の文章は、途轍もなく難しい事が書いてあって理解不能なように思われるかも知れませんが、実は、普段のオケ練習では、何時も言葉では、毎回説明して、皆さんも既に理解出来ている筈の事を文章に直したものです。

文章にすると、結構、難しいので、period奏者達がとんでもないeccentricな演奏をしてしまう事になってしまうのです。

文章を読む時のコツは、横に楽譜を置いて、説明されている箇所をcheckしながら、見比べて読んでください。
そして、私がオケ練習で言っていた事を、映像的に思い出すとよく理解出来ます。

八千代で演奏予定の、Vivaldi concerto in re minore per 2vionini,viononcello,aruchi,e cembalo・・・!! (ひえ~ぇ!長い!!)(つまり、「doppelのd」ですよ!)と同じに、教会sonate様式(複音楽=polyphony様式)で書かれています。
という事で、themaのritornelloの主題が対位法的なfugaの入りのようになっているので、themaの入り(赤)の部分と、伴奏になる対位主題(青)の弾き分け(thema部を少し強めに、伴奏の対位主題の部分を楽に・・)が大切です。

細かく更に見て行くと、themaは前半部のthema Aと、後半部thema Bの二つに分かれています。
伴奏のpartになる対位主題(Kontrapunkt)は、前半部が二つのMotiv(Kontrapunkt Cと、Kontrapunkt C'の二つに分かれて)後半部のMotiv、(Kontrapunkt D)に、三つに大きく分かれます。また、KontrapunktDは、部分動機、MotivE(楽譜にはKontrapunkt Eと記載してしまいましたがgradeとしてはKontrapunktよりも下のgradeになります。)として、重要なMotivとして使用されています。

fugaの入りは、dux(ドックス=主題)、comes(コメス=応答)と、定形通りに主音(alto=2ndviolin)、属音(soprano=1stviolin)、主音(Baß=cello)属音(tenor=viola)と練習番号「お」(17小節の頭拍)で一回目の入りが完結します。

scoreの小節番号はⅠ楽章からの通しの小節番号なので、scoreに書かれている番号から、Ⅰ、Ⅱ楽章の159小節を引いたのが、Ⅲ楽章の小節番号になります。

17小節目からは、MotivのEとthemaのBによる自由な展開になって、ritornelloのsolo部に入ります。

32小節目、練習番号「き」からのsolo部は最初の6小節のostinato部分(1拍目裏からレミレレレというMotivが繰り返されて、拍頭に音楽の流れを示すsoprano-führung(一般的に支持動機と言います。sopranoは声部を表すので、女性が歌うという意味はありません。また、führugは「導く」と言った意味のドイツ語なのですが、この言葉は分析用語なので、日本語の訳語はありません。)赤い丸で示した音が音楽の流れを作ります。

38小節目には、練習番号が書かれていませんが、ここは是非、練習番号は、欲しい所ですよね。38小節目(通し番号197)からは、solo部の典型的なSequenz進行です。暗譜の勉強も兼ねて、私が練習用のscoreを作る場合には、春待ちコンサートのdoppelのa mollで作ったように、次のように作ります。(譜例:参照)
47小節目=通し番号206からは、最初のostinatoとführungsMotiv(導き音)である拍頭の音と、1拍目の裏からのostinatoの音である音型が、32小節目の練習番号「き」と全く同じに繰り返されます。「き」の小節では36小節目と37小節目が繋になって、Sequenzのpassageに移動しますが、47小節目からは更に2小節追加されて(51、52)「く」の55小節目から再びSequenz部が68小節目(通し番号では227小節目)迄、繰り返されます。
つまり、このsoloの部は、二つのsoloの部が一つになったものなのです。

練習番号「こ」の68小節目からは、定形通りにfugaの入りを、順番を変えて、今度はsopranoから繰り返されます。

91小節目(通し番号250小節目)からは、再び、solo部でSequenzの進行です。

練習番号「つ」120小節目(通し番号279小節目)からは、丁度、fugaのstrettoを表すような、solo部とfugaのthemaだけで展開されて行きます。

その目まぐるしい展開を、145小節目(通し番号では304小節)で音楽の流れをsoloがmelodieのpassageを演奏する事で、tempoの流れを一度停止させます。
そして、恰も、152小節目(通し番号311小節)で、fugaの入り部が再現された(再現部)ようになるのですが167小節目(通し番号では326小節目)で、Baßの入りが突然中断して、対位主題だけの演奏になります。

171小節目(通し番号で330小節目)で再び技巧的なfiguration(訳語はありません)のsolo部が始まるのですが、練習番号「に」の後半部の145小節目と同様に突然、186小節目(通し番号345小節目からは)音楽の流れを停止して、恰もrecitativoのように自由に歌わなければなりません。

最後の締めになるorchestraのtutti部は前に中途半端に終わったfugaの入りの後半部が再現演奏されて終わります。

これがこのVivaldi violin‐concerto Op.8 Nr.11 D Dur Ⅲ楽章の構造式になります。
(Genzmer先生は構造式の事を、建築になぞらえてbau‐planと言っていましたがね)

  


  

1枚目の楽譜が斜めにprint outされていたので、cutterで切って、コピーをし直したのですが、それがパソコン上で更に修整されて、またまた、斜めに、取り込まれてしまいました。画面よりも、紙の平行を優先する見たいで、print outのし直しをしないと、cutterで紙を切って修整するだけでは、無理なようです。便利になったようでも、所詮はcomputerのやる事です。間が抜けています。ま・・、
5月17日 17:07

.
娘『色ぬりの宿題、ぜんぜんわかんなかった』と話していたのでこれを読みながら一緒にやってみますがどうなることやら😅
5月17日 18:59

.
「分からない」という意味は、音型を把握出来ないのか・・です。色付きの楽譜をthema別に切り抜いて、同じ音型を探してみると良いのかもね??
violaやcelloの楽譜になっても、同じ音型と分かるのかな??
5月17日 19:06

.
分かり易く説明すると、子供が覚えていると言う事は、音として覚えているのか?音符として覚えているのか??です。私が何時も、一瞬で覚える暗譜の方法を説明しているのに、出来る生徒が殆どいないのは、昔の生徒と違って、今の生徒達は音符を映像で覚える事が出来ないからなのですよ。音で覚えている生徒達は、分析は出来ないのです。
歴史に名を成す作曲家達は、皆映像記憶が出来るのですが、それは作曲が構造式によるからなのです。そこがClassicの作曲家とpopularの作曲家の違いになります。
5月18日 1:54


何色で何をどこにぬるのかがわからなかったようです。
ビオラ、チェロのテーマを見つけるのは出来ました。
5月17日 19:23

1枚目の上に色のindexを書いて起きましたが、言語表記なので、日本語に直しておいてください。完全にthemaが出て来る場合は、themaの色になり、themaの前半分が出て来る場合には、前半分のthemaAの色を塗ります。勿論、後半だけの場合にもその色を塗ります。同様にKontrapunktも完全型なのかMotivなのかを塗り分けるのが大切な課題です。
5月17日 19:50

.
これを読んで、Musikalische Strukturanalyseのテストを思い出しました!ドイツ語で口頭試験ってもう今は無理かも~
5月17日 22:18

.
Strukter-analyse(構造分析)というのは、予め譜面があって、演奏する側の立場で研究するという事ですが、Genzmer先生は作曲者の立場から、建築用語のBau-planという言葉を、よく使っていました。Genzmer先生の作曲の課題では、楽器編成の他に、演奏時間も設定されます。曲自体のimageは課題に登る事はありません。

そのために、aboutな構造式を作ったら、次には、まだ、曲を書いていない反古や、sketchの状態のままに、rough-layoutに、書き込んで行きます。
つまり、もし、Genzmer先生の課題が「10分」という課題ならば、ABA+Cdの構造式(音楽形式)ならば、Aは3分弱の持ち時間になります。それならば、曲の大体のimageは確立出来ます。

又、この構造分析譜の塗り絵は、そのまま、finaleの入力にも使用出来ます‼
先に楽器編成の段数と、小節数を合わせたscoreを作って(私はそれをtemplateと呼んでいます。)、themaやmotiveを、それぞれの小節と段にコピペして、移調等で修正して、roughのscoreを虫食いでtemplateに作ってしまいます。
それでroughの状態で、完成させたら、後は、虫食いの空白の部分に、真面目に入力します。

勿論、tuttiの部分だけではなく、soloの部分も同様で、コピペで、Motivを幾つもコピーしたら、それぞれを移調で、実際の音に直します。
celloのpartは、一括して最初から最後までを、KontrabassやCembaloの左手にコピーします。不必要な小節も一括で削除します。

このやり方だと、vivaldiのscoreだったら、4時間ぐらいで、作ってしまいますよ‼
全楽章でも、1日ぐらいで出来ます。
それから、ゆっくりと、Cembaloの右手のpartや、ornament、装飾音等の頭を使うところを書き加えて行きます。

出版されている楽譜は、曲のforteやPianoは原則として、構造分析から決めて行くのですが、音楽理論の専門家が分析するわけではないので、結構、間違いが多いのですよ‼

それに、楽譜上に単に、forteとPianoと単に書いてあるのを演奏する事よりも、分析して、なぜ、このpassageはforteなのか?Pianoなのか??・・・が、分かった時点で演奏する方が、演奏する上で表現により深みが出る事は明白なのだからネ?
5月18日 7:37


補筆訂正をしていたら、突然、blue‐outして、パソコンがぶっ飛んでしまった。勿論、書いた文章も全てぶっ飛んだ!!shock!!
5月17日 23:42

.
今日も補筆訂正をしていたら、Facebookがfreezeして、書いていた文章が消えて無くなってしまった。何度、同じ症状が現れるのだろう!!
5月18日 7:16


 



省略譜のⅢPage目です。soloの部分だけです。練習の仕方や記憶法に役立ててください。
5月23日 21:49

.
ありがとうございます🎵
5月23日 22:41











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5月17日 17:29 ·
いや~あ、鬱と体調不良と摂眠障害とが酷い!! 
あまりにも気力がなく、意識も朦朧としているので、パソコンでの仕事は諦めて、少しでも仮眠を取ろうと思ってベッドで横になっても、今度は、イライラして眠れないのだ。
寝室も、部屋全体が「片付けられない症候群」の部屋になってしまっていて、うっとおしい。

どうせ、眠れないのならば、気分転換に、お茶でも飲みに出かけようか・・と思うのだが、体力がそこ迄、付いて行かないのだよな??

これで明日の千葉教室でのlessonは出来るのかいな??という不安が過ぎる。
今日一日の体調を見ている限りでは、明日に体調が少しでも良くなるという可能性は万に一つもないな??

と言う事で、何時迄も鬱々と愚痴っていても仕方がないので、思い切って気分転換に、ハイツの前に新しくオープンした駅下の1000円理容室に行って髪を切って来た。
短くなった髪を見ての私なりの感想は、結構、shockで、髪にボリュームがないので、顔の下膨れが目立って、何時もにもまして太って見えるな~あ??

ついでに、バイクで走る時には、半袖では少し肌寒いので、駅の反対側にあるbebeにJacketを買いに行ったのだが、流石に、BigsizeのJacketは無かったよな??
サカゼンの領域だよな??

それにしても、空を見上げると、鬱を冗長するようなどんよりとした雲で、見るからに寒い。
何時も言っているように、私は寒暖の差よりも、湿度が弱い。長崎県人なので、高温多湿には極めて弱いのだよ!! 
アハッ!

前回の日曜日のオケ練習も、雨が振ったりしていて、湿度が高かったので、子供達の乗りも今三、良くなかった。

それも遠い今回の鬱の原因の一つなのだが、それならそれで、練習の時に、除湿を掛ければ少しはマシになるのだが、子供達が寒がって話にならない。
ハイツのように、コンビニクーラーがあれば、室温を暖めながら除湿をする事が出来るのだが、普通のクーラーは、除湿をすると室温を下げてしまうので、子供達には逆効果になってしまう。
温度を下げない設定のあるクーラーもあるようなのだが、それでも室温は下がってしまうようだ。
これは誤解を招くな??
室温は下げないで、除湿をすると、同じ温度でも、気温は下がって感じるのだよ。

テレビで「クールビズ」の話題が出ていて、会社での温度設定が28度である事が、巷では何かと話題になっている。
「28度は熱い」という事らしい。
しかし、28度の設定を冷房ではなくて、除湿にすれば、結構寒いのではないのかな??
外界の気温が30度近く迄は、涼しいはずなのだがね??

子供達が寒がらないように、除湿を設定するには、いっその事、クーラーの設定を、洗濯乾燥の設定にすれば良いのかな???


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「blue-out」

5月17日 23:34 ·
パソコンでFacebookに入力していたら、突然、blue-outしてしまった‼
black-outではないよ!! blue-outなのだよ!!
被害甚大なのだよな!?
泣けちゃうよな⁉
shock‼

毎度の事なのだけどね??
書き途中の文章が履歴にも残らないのは、結構、shockなのだよね‥・??
そういったtroubleは、スマホに直接入力する分には、ないのだそうだが…⁉
私はスマホの入力はとても時間がかかって無理なので、困ってしまうのだよな


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5月20日 19:10 ·
相も変わらず,超、鬱が酷い!!
この所、毎日毎日、鬱が続いて、中々、治らないのだよな??
酷い鬱になると、その鬱がそのまま1週間から10日以上も継続してしまうのだよな??
そして、鬱になると、どうしても体が思うように動かなくなるので、色々と、不都合が起こって来てしまう。つまり、鬱が原因で、更に、鬱が酷くなる状況を呼び起こしてしまうのだよな??
だから、鬱が継続している間に書いたFacebookのcommentは、どうしても、鬱の話になってしまう。

今日(5月20日のpm2時半頃)椎名町にlessonに行くのに、自宅の玄関を出ようとして、(新しい教室用に玄関に出していたテレビの入った)ダンボールに、右足の人差し指の爪を思いっきりぶつけて、爪を剥がしてしまった。
実は、その爪は、やはり、一年前に剥がして、一年掛かりで、少しづつ治って来て、あと2~3㍉で、全部の爪が元の生きた爪に戻るはずだったのだがね。
爪が元に戻る前に、一度、変形しておかしくなってしまった爪が、もう一度新しい、まともな生きた白い爪に変わって行って、変形した病的な死んだ爪があと、2,3㍉で、新しい爪になるはずだったのだが、その病気の爪を2,3㍉残したままに、新しい爪は、一瞬で白い色から青い色になってしまったのだ。

結構、爪の周りからも、真っ赤な鮮血が吹き出して来て、外の共有の廊下にも、べっとりと血がついてしまった。

この所、糖尿病が悪化して来て、この5年ぐらいの間に、ほぼ毎年か、1年に2回ぐらいの割合で右足の中指の爪を剥がしているのだよ。

勿論、その原因の大元は、糖尿病で、爪が薄くなって剥がれ易くなったからだ。足の爪に関わらず、手の爪も、伴奏等で、Pianoを弾くと、爪が少し欠けてしまう。布に引っ掛かったりしてしまうので、今までは使った事のない爪切りに付いているヤスリで、欠けた爪を均すのが日常になってしまった。

足の爪を欠がすもう一つの原因は、メガネを掛けていたとしても、それでも足元が良く見えないのだよな??

だから、私の自宅であるハイツでは、ぶつかり安い場所には、古くなって捨てるクッションを剥がして、スポンジをcutterで切って、巻いて、足先がぶつかっても怪我をしないようにしているのだが。特にベッドの足はベッドに隠れて見えないので、良くぶつけてしまう。
トイレに行く途中のドアを開けた所に文庫本の本棚を置いているのだが、薄い本棚なのだが、ひっくり返らないように、足だけが広くなっている。その角に良く足を引っ掛けるので、スポンでガードしていたのだが、何度ガムテープで固定しても、取れてしまう。角の部分をノコギリで取ってしまおうと思っているのだが、カバーのベークライトの部分がノコギリでは歯が立たないので、ノコギリでは切れないのだよな?
そのためにベークライト迄、切断出来るような電動の工具を買ったのだが、未だカットの作業はやっていない。
やる気が起きないのだよな??

今回、玄関に置いてあったテレビにぶつけたのは、江古田教室を引っ越すために、新しい教室へ持って行くテレビを、暫定的に玄関に置いていたに過ぎないので、そこまでの防御は、思いつかなかったのだよな??

尤も、「相変わらず」の鬱の話と、足の爪を剥がした話とは、なんの関係もないのだがね。

今日(20日)は結構、マジで鬱が酷くて、自分の精神状態をcontrolするのが、とても辛かったので、鬱の薬が欲しかったのだけどね??今の掛かり付けの医者は鬱の薬は出してくれないのだよな。

鬱が酷いのは、人生に上手く行かない原因があって、それが鬱を引き起こす分けではないのだよな。
日常生活の中に、鬱を引き起こすような切っ掛けとなる状況があったとしても、それが鬱の直接の原因である分けではないのですよ。
勿論、色々と上手く行かない事は多々あるのだけど、何時も言うように、それは私自身の問題とは関係はないのでね。

よく「鬱」で、一般の人達から勘違いされるのは、仕事や日常でトラブルがあって、それで落ち込んで「鬱」になっている、と思われる事があるのだが、それは単なる「落ち込み」であって、そういった事は、極々普通の人間にも起きる正常の範囲内での、誰でも落ち込む「落ち込み」なので、それを「鬱」と呼ぶ事はないのだよ!

つまり、鬱の場合には、人生の全てが上手く行っていても、そういった事とは無関係に、どうしょうもない鬱に落ち込む事がある。

心臓の手術をした後は、リハビリが中々上手く行かなくって、心臓に、恰も細動のような不整脈が出る事があったのだが、そうすると確実に、鬱になったものだ。逆に、鬱が酷くて心臓の調子がおかしくなったのかも知れない。

心臓の手術から、体調管理がどうしても上手く行かなくって、血圧の薬も、或る時には、効き過ぎたり、逆に血圧が上がり過ぎたりの試行錯誤を、7,8年の間、繰返していたのだが、この2,3年は非常に落ち着いてbalanceが取れているので、鬱にはなりそうもない体調なのだが、それとは無関係に、体調不良と意識混濁の状態が酷い。
当然、鬱も中々治らない。
兎に角、自分の体をcontrolするのは難しい。



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5月23日 7:09 ·
「Vivaldi a moll Op.3Nr.6Ⅰ楽章の補足説明」
Vivaldiのこの曲は昔、homepageでも説明したように、最低人数9名で演奏する事が可能な曲です。

つまり、kammerorchestra(室内オーケストラ)と言うよりも更に小規模の室内楽的なorchestraで演奏される事が多かったのです。
(baroque-orchestraの基本的な人数は、I Musiciの12名による編成、つまり、violin6名、viola2名、cello2名、Kontrabass1名、Cembalo1名の編成が基本的な人数でした。このVivaldiのa mollの曲は、violinが1partしかありませんので、2nd-violinの3名を降ろすと、当然、I Musiciの編成でも、9名(violin3、viola2,cello2,Kontrabass1、Cembalo1)の編成になります。)

また、この曲は、violaとcelloが対話をするように(交唱の形で)書かれているのですが、現代の楽器で演奏する場合には、violaとcelloの楽器の大きさや音色が違い過ぎるので対話が(contrastになってしまって、)上手く行きません。



本来的には、実際のbaroque-celloは、現代のcelloよりも小ぶりで、今の楽器のsizeでは、子供用の分数celloの3/4sizeぐらいの大きさになり、(celloではなく、gambaで演奏したとしても)音量や音色もviolaに近く、音が溶け合うので、ensemble的に見ても、非常に対話がうまくいっていたのです。




この曲は、教室の常設曲なので、毎回、このviolaとcelloの対話(交唱)を、課題として練習させているのですが、これまではこの絡め合わせが、一度も上手く行った試しはありませんでした。
練習の時には、苦肉の策として、celloのmemberの半分にviolaのpartを弾かせて、violaのmemberの半分にもcelloのpartを弾かせる事で、音色の融和と整合性を取って、練習をしてみたのですが、やはり、celloとviolaのpartは、分離したままで、うまくいく事はありませんでした。

という事で、本番の演奏でも、これまでは諦めたままでの演奏をしていたのですが、今回(21日のAschedule)の練習では、思いつきで、celloを弾く子供達と、violaを弾く子供達を向かい合わせて、お互いの顔を見ながら、呼びかけるように演奏させたら、何と、これまで全く出来なかった「呼びかけ」と「応え」が、上手に出来たのですよ。
一度、じょうずに出来ると、不思議な事に、音量、音色までちゃんと整合が出来たのですよ。

いや~あ、子供は、不思議だ!!
理解不能だよな??

でも、舞台でその交唱の並びをすると、実にeccentricな並びになってしまうよな??
さて、どうしよう?? 困った??



「orchestraの並び方と歴史」

Vivaldiのa mollの並び方(setting図)を書いて見ました。
実に変則的な配列なのですが、Vivaldiは、このviolinのpartが一つしかない編成の曲を結構、数多く作曲して残しています。
但し、violaとcelloが交唱をする曲は、基本的にはこのⅠ楽章を除いてはありません。
ですから、この並びはOp.3Nr.6のⅠ楽章だけに対する並び方かもしれませんよね??


baroqueの交唱を活かした並び方(つまり、1stviolinと2ndviolinが左右、所謂、上手と下手に別れる並び方)は、こんにちでは、全く知られていなくて、HaydnやBeethoven時代迄の並び方のように思われているのですが、実は20世紀の始めと言うよりは、二次大戦の前の戦前迄は、この並び方(左側から1stviolin、cello、viola、2ndviolinと並ぶ並び方)は、普通に見る事が出来る並びだったのです。俗に言われているHaydn並びというこの古典派の並び方がorchestraの基本的な並び方だったのです。


現代のorchestraが並んでいる並び方(1stviolin、2ndviolin、viola、celloの並び方)は、未だ100年の歴史もないのですよ。
驚くべき事なのですがね。
(ちなみに、この順番に並ぶ並び方をQuartett並びと呼ぶ人がいますが、必ずしも、Quartettがこの並び方をする分けではないので、それは間違いです。


celloのf字孔が下手を向くと、客席に音が飛びにくいので、celloを真ん中に配置する並び方も普通によくされている並び方なのです。その場合には、1stviolin、2ndviolin、cello、violaと並びます。orchestraでもこの並び方をするorchestraは非常に多いのです。)

baroque-音楽では、1stviolinと2ndviolinが対話をする交唱形式の曲が多いので、その音楽の立体性を活かすために、1stと2ndが向かい合って演奏する並び方をする場合が殆どでこれをbaroque並びと総称します。1st、cello、viola、2ndと並ぶ並び方がbaroque並びになります。

このVivaldi a moll では、violaのpartを左側(下手側)に配置していますが、これは逆だと、violaのF字孔が客席に対して、完全にそっぽを向いてしまうからで、私の個人的な考え方によります。

また、solo-violinとbasso continuo celloとCembaloをsoliとして前に出すのも、私の個人的な配列で、一般的には、orchestraの並びの中で、それぞれのpartのconcertmasterがsoloを演奏します。
5月24日 15:39


ちなみついでに、Haydn並びなのですが、実際にはHaydnが演奏会を開催した頃は、未だコンサートのための専用のホールはありませんでしたので、orchestraの並び方の基礎を作ったHaydn先生の場合には、演奏会をするホールの形状や響きに合わせて、その都度、orchestraの並び方を最良の音響にするために、並び順を変えて演奏していました。

Haydn先生の書いたその並び図(setting図)は、幾つかこんにち迄残っていて、見る事が出来ます。
つまり、「Haydn並び」と言われて、orchestraの配置の基本を作ったHaydnですが、Haydn自身は頑迷に自分の作った並び方を守った分けではなく、あくまでも、会場の響きの状態でorchestraの並び方を柔軟に変更していたのですよ。
中には、1stviolinや2ndviolinを分割して、アチラコチラに配列したorchestraのsetting図もありました。特殊なホールで、stageになる場所に巨大な柱があって、演奏を妨げているホールなので、Haydnの工夫の権化のようなsettingで、どういう音になるのか、チョッと思いつかないので、是非、そこのホールで、Haydnのsetting図通りの演奏を聴いて見たいものでした。
作曲だけではなく、音楽の指導や、orchestraの配置等々、そういった所もやはり、Haydnは凄い作曲家なのですよね。
5月24日 15:47


ベッドの中で携帯でHaydnのオケのお話の続きを書いていたら、薬指が画面に触れたらしく、書いていた文章が、全部ぶっ飛んでしまいました。Facebookにはsaveのキーはないようなので、困ってしまう!!
5月24日 5:04

.
古典派の時代考証と言う事で、Haydnのcelloconcertoのオケの編成を、当時のHaydnの王宮にいたmember(楽器)だけの人数で演奏しているのを見付けて、「それは、チョッと違うよな??」と、反論迄は行かないけれど、当時のorchestraの常識を書いていたのですがね??
文章が、ぶっ飛んでしまったので、もう一度書きます。とは、言っても、このお話は、随分昔々にhomepageの方に書いていたお話です。
だけど、自分でも何処に書いたのか忘れてしまったので、もう一度Facebookに書く事にしました。

当時、ヨーロッパの王宮は、どこでも台所は火の車で、オケのような不要なmemberを雇って置くほどの経済力はありませんでした。
・・と言う事で、基本的には、必要最低限の人数、(作曲をしたり、part譜を作ったり、楽器のメンテをしたり)・・という必要最低の事務方の人数だけ雇っていて、本番の時には、近郷近在の王宮からオケの助っ人を雇って演奏をしていたのです。
何処の王宮に努めていたとしても、所詮は薄給のオケのmemberにとっては、オケトラのバイトは、とても良い仕事だったので、皆喜んで出掛けていました。
王宮の方も、薄給の文句を言われないで済んだので、喜んで出張させていました。
それはエステルハージのような大王宮でも同じだったのですよ。
そう言った互助会のような組織が既に出来上がっていたのです。
普段の演奏と、eventでは、掛けるお金の規模も違って、王宮のプライドもあったのでしょうが、それでも、「無い袖は振れぬ」・・は当たり前の時代でした。貴族の時代はもう、末期の時代だったのですよ。 アハッ!
5月24日 5:29


ウィーンで勉強したのに、ハイドンの並び図があることや並び方を変えていたことを初めて聞いてショック!並び図はどこに行くと見られますか?
5月23日 23:59

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wienの国立音楽図書館にも、少しはあるとは思いますが、図書館員の人に聴くのが最良だと思います。このgenreは、未開拓の分野なので、参考資料はそんなには多くはありません。直ぐに、ネタが尽きるgenreなので‥・。
5月24日 2:58

.
「並び図」は、正しくは「Setting図」,若しくは 「Aufstellung」 と言うのでしょうが、orchestraの響きを研究していたストコフスキーが、1930年代に提唱した「ストコフスキー・シフト」と呼ばれているorchestraの並び方が現代のorchestraの並びの基本です。

それまでのtraditionalな並びは、ヴァイオリンの「両翼配置」と呼ばれていた、「1stviolin、viola、cello(Kontrabass)、2ndviolin」の並びが標準の並び方でした。(教室ではcanon並びとして、violaの代わりに3rdviolinが配置されていますが、「1stviolin、3rdviolin、cello、2ndviolin」として並んでいます。交唱するorchestraのpartに取っては、交唱するpartが遠くなるので、演奏は非常に難しくなるのですが、audienceからすると、stereo効果バツグンで逆に聴きやすくなります。)

また、教室が普段、並んでいる、所謂、「baroque並び」も「traditionalな両翼並び」の中のviolaとcelloの位置が変更された形なので、現代のorchestraの並び方としては、異端視されますが、100年前迄の、traditionalな並び方としては、極々一般的な並び方なのです。

但し、この「並び方」を私が使い始めたのは、このbaroque並びが、一般的に知られるようになるよりも、随分前の時代の話ですから、私が「traditionalな並び方だから」とか、baroqueや古典派の時代の、時代考証に從って、この並び方を使用した・・という事ではありません。

私が、この並び方を考えるに至ったのは、baroque時代のVivaldiや他の多くの作曲家達が、声部の交唱の手法を用いて作曲をしていたからであって、その交唱の演奏効果を最大限にするために、私が独自に考え出した並び方だったのです。

また、当時一番よく書かれていたgenreであるtrio-sonateの形式も、melodie楽器2本とbasso continuoのcello(viola da gamba)と、Cembaloという編成ですが、その2本のmelodie楽器は、和音を形作る事よりも、交唱で対立する演奏をする事の方が多かったのです。
それ迄のtriosonateの並び方は、1st、2nd、basso continuo-celloに、後ろにCembaloという並び方が一般的でした。勿論、こんにちでも、その並び方が主流です。
但し、私は、曲の立体性(stereo効果)を最大に活かすために、triosonateに関しても、1st、basso continuo-cello、2ndという左右対象の並び方を、最初からさせています。これは、教会の作り方もそのようになっていて、前方が祭壇で、神父の位置であり、後方がpipeorganとorchestraの演奏位置になります。
交唱をするchorusは、左右に配置される事が多いのです。

こういったbaroque型の並び方は、当時のopinion leaderであった「I Musici」でさえも、‥・と言うか今だに、この並び方をするbaroque-ensembleは非常に少なく、現代でも、この並び方をするbaroqueや古典のorchestraは、例外的な少数のorchestraです。

という事で、「baroque時代のtraditionalな並び方」というのは、後の時代(1990年代)になってからの、結果論であって、私がこの並び方を採用して演奏していた時代には、未だそう言った並び方をするbaroqueorchestraを見た事も、文献を読んだ事もありませんでした。
Haydn同様に、あくまでも、「ホール効果」を狙った並び方でしたよ。

Haydnのfullorchestraのsetting図は、Haydn自身が演奏するそのホールのために、memoをして残したものが数枚残っていると思います。
それ以外には、Haydnが演奏会で、実際に並べたsetting図を、その時代の人が書き残したものがあり、その資料も含めて、とても大切に保管されているので、私達が実物を見れる事はありません。(eventを除いたら・・)
つまり、未だ、研究としてはそういったgenreはないので、そういったmemoのたぐいは、未だ散乱した状態なのです。
Haydnのoriginalのsetting図をコピーして智ちゃんに添付して送ろうと思ったのですが、そのsetting図がどのscoreに掲載されていたのか、全く覚えていません。(そのうちまた、どこかで見つかると思います。score自体は無くなってはいないので・・)

scoreの参考資料として、Haydnの書いたmemoが掲載されていたりするのですが、あくまで、参考として、の掲載なので、資料として、本として、まとまったものはないようです。
(つまり、originalのsetting図は、図書館ではなく、オケやホールが保存しているcaseが多く、イギリスを含めて点在しているからです。)

但し、ヨーロッパでは、オケのsettingを専門に研究している人達が結構多くいるので、そういった専門的な論文は、pdffile等で読む事は出来ます。英語かドイツ語なので、智ちゃんも問題なく読めると思います。

また、日本版としては、私が日本の音楽大学時代に参考にしていた「17.8世紀のorchestra」という薄い本が、それぞれの時代に作曲家が勤めていた王宮の楽団員の人数等をとても詳しく調べていて、また、演奏会の時の人数も正確に調べていたので、分かり易くって、よく参考にしていたので、出版社等を調べて智ちゃんにお教えしようかな?と思ったのですが、本棚に見当たりません。(尤も、こういった本は売れないので、一度絶版になると、二度と見る事は出来ません。)
何処其処のホールのHaydnの並び方(setting図)は、有名な図は、score等に参考として掲載されているので、そういったものを参考にすると良いと思います。
このgenreは何冊かは、とても良い文献も出版されているようなのですが、日本版では、余り出版されてはいません。
いずれにしても、ヨーロッパや日本にかぎらず、このgenreは、これからの研究のthemaになるのでしょうね。但し、本を買う人がいれば??・・・・ですが‥・。
5月24日 19:04


baroqueや古典派の時代から近現代迄の、「両翼並び」なのですが、violaとcelloの位置が入れ替わる事はよくあったので、珍しくはないのですが、ストコフスキー等でも、驚くことに、1stviolinが上手に座る逆並びもそんなには珍しくは無かったのですよ。ストコフスキーのそう言った並びの写真すらあります。並びが決まって来たのは、この50年ぐらいの話なのですよ。baroque時代から、現代の並び方が脈々と続いて来たように思ってしまうのですが、事実は驚きです。
5月29日12:20


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くちなしの季節

5月25日 2:50 ·
くちなしの季節になって来ました。



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5月27日 20:05 ·
「Urtext-Ausgabe=原典版」

原典版の話を書く気になった切っ掛けは、斉藤先生から「原典版なのに、何故校訂者がいるのか?」という質問を受けた事でしたが、私の立場からすると頗る当たり前の事なのですが、説明するとなると、結構色々とあって、その質問は大変おもしろいので、Facebookで公開で回答する事にしました。

原典版ならば、誰しも、一冊あれば事は足りる、と思われる筈なのですが、実に沢山の出版社から、色々な曲の原典版が出版されています。
勿論、校訂者の名前入りで・・です。

そして、そのUrtext=原典版を見ると、本当に、色々なところが、実に違うのですよ‼
(音符だけではなく、rhythmやslurの有る無し、フォルテ、ピアノ等もネ?)
では、それはどうしてなのか?
原典版を作るための鉄則では、originalの譜面に書いてある事はそのままのfontで書き表し、校訂者が考えた(修整した)箇所はより小さなfontで書きます。slur等は点線を使って書き表します。#や♭が落ちている場合も、小さな音符で括弧の中に表示します。

そう言った明らかに校訂者のcheckが入ったものと、手書きの譜面を読むと、どうしても、どちらの音なのか?分からない場合や、slurがどの音符にまで掛かっているのか??とか、明らかに臨時記号の書き間違いの音があったりと、それなりに色々な事があるからです。
それに、前半部と後半部の整合性の問題もあります。
同じthemaであっても、前半部には臨時記号が付いていて、後半部には付いていなかったりします。それが単なる書き忘れなのか、作曲者の意図なのかは、校訂者の判断に委ねられたり、音楽理論の範疇であったり、様々です。
 
私の部屋には、色々な原典版を比較した小冊子があったのですが、昨年の夏に親の家を処分してから、ますます、部屋に長崎からの親の荷物が積み上げられて、散乱して来て、とうとう研究資料も出せないようになってしまいました。
本棚の前にも荷物の山なので・・・ね??
引っ越しが終わると少しは片付くのかな??それとも倉庫を借りた方が良かったりして・・・。

Mozartは、sonate等を書く時には、reprise反復(再現部=recapitulation)は同じだから・・、と言って「31小節」とか、小節数だけを書いて、音符を書くのは省略してしまう事がよくあります。作曲者と演奏家が同じであった古典派の時代迄は、そういった書き方の方が一般的なのでした。
Händelに至っては、orgel‐concertoのⅡ楽章は全て省略して、orchestraの繋の2小節の和音ぐらいしか書いていません。後は、Händel自身が演奏する時の気分で即興演奏をしていたのですよ。でもそれは、後世の我々としてはとても困ります。Mozartの用に、少しはkadenzの即興演奏のstyleを残してくれたら良かったのにね。当時はそういった慣習は無かったのですよ。

しかし、そのMozartのPiano‐sonateのfacsimileなのですが、省略された楽譜の主調に戻る箇所なのですが、困った事に、提示部(=exposition)は第二主題は基本的に属調になるのですが、recapitulationの場合には、そのままの主調のままになります。
という事で、提示部で属調への転調楽節は、主調のままなので、臨時記号が無くなるのですが、それがどういう風になるのかは、Mozartでないと分かりません。
という事で、ありとあらゆる版でそれぞれの解釈が成されてしまいます。
♭か♮かが理論で判断出来る場合は、それで良いのですが、判断出来兼ねる場合もままありますからね??

原典版ではarticulation等も書かれていない場合やforte・Pianoの強弱すら書かれていない楽譜が多いのですよ。
勿論、指使いを書いた楽譜等は皆無です。

指使いに関しては、Henle版の楽譜には、御親切に・・というか、余計なお世話と言うか、指使いが付けられているのですが、これが権威のある指使いと勘違いして、ひたすら神のお告げのように守っている先生が多くて辟易させられます。

Henle版の楽譜を使っている先生達が、本人がその指使いを守って演奏する場合には、なんの問題もないのですが、子供達にHenle版の指使いを守らせようとしているのはいただけません。

先ず、確認をしておきますが、その指使いは作曲者が書いたものではありませんし、子供達に演奏させる事を想定して書いたものでもないので、Henle版の指使いは子供達にとっては不自然で、致命的に無理がある場合が多いのです。

しかも、Henle版の指使いは150年も前の古い指使いなので、その指使いの原則論は必ずしもこんにちでは、「正しい」とされる指使いではありません。
Henle版の「指使い」を守る事はこんにちでは、何の根拠もないのですよ。
原典版に書かれているすべてのものが作曲者の意図ではないのですよ。
その多くは、校訂者の独断と偏見なのですからね⁉

実は楽譜で作曲者の意図を忠実に反映するために、原典版が作られるようになったのは、音楽史的に見ても、新しい事なのです。
Beethoven等は、自分の楽譜の細部に至るまで、校訂者に対して、実に厳格に忠実に守らせましたが、そう言った作曲家は、寧ろ稀で、Chopinの場合は、校訂者任せで実にいい加減でした。
Chopin自身が貴婦人の生徒達に指導する時にも、生徒の技術に合わせて、自分の譜面を簡単に改造して生徒に弾かせて居たりしていました。
そのお話しは、chopinの手紙の中に、Chopin自らの手で、詳しく書かれています。

こんにち、世界中のChopinの楽譜の底本になっているのは、何と、Peters版なのです。
その際、Petersの校訂者はChopinの和音の譜面に音を充填して書いて出版しているのですが、それが世界の楽譜の定番になっています。Peters版の底本という事です。勿論、日本のChopinの標準版もPeters版なのですよ。
或る有名な音楽大学の教授が生徒がChopinの日本版の楽譜を持って来たので、烈火の如く怒って「Peters版を買って来なさい!」と言ったという話があります。
音楽大学なのに、何故、Paderewski版ではないのか??と今の学生ならば不思議に思うかも知れませんが、これは私の音大生時代の頃の話なので、Paderewski版は、未だ日本には入って来ていませんでした。なにせ、共産圏の出版社だったので、輸入するのが難しかったのですよ。だからその頃の権威のある版はPeters版だったのですよ。でも、日本の楽譜の殆どはPeters版を底本にしているので、日本版からPeters版に買い換えてもね~ぇ??意味ないのよね~ぇ??

しかしながら、今現在、音大の先生達や学生達が最も信頼して使用している版の定番であるPaderewski版ですら、originalの譜面とは、違う所が随所に見受けられるのです。

私が未だ、音大生であった時代(つまり、50年以上も前の時代)に、ポーランド政府は、Chopinの正しい楽譜を世に知らしめるために、Chopinのfacsimile版を実に廉価で世界に販売しました。
当時、と言うか、今現在もfacsimile版は非常に高価であって、数万円どころではなく10万を越す楽譜も大量にあります。
それを国家がback・upする事で、非常に安くに世界売り出したのです。
世界中のChopinの楽譜に於ける誤りを訂正させるために‥・です。勿論、共産圏で物価がとても安かった・・という利点もあって・・の話なのですがね。

音楽大学時代に、偶然、本郷のアカデミアで、その楽譜を見付けて、当時の私の経済力で可能な限りのfacsimile版を購入しました。(まあ、それが、facsimile-maniaの切っ掛けとなったのかもしれませんがね。)

先ず、Urtext-Ausgabe=原典版と呼ばれるものなのですが、運良く作曲家のoriginalのHandschrift(手書き譜)があれば良いのですが、中々そうは行きません。
ですから、当時出版された楽譜がある場合と、Tommaso Vitaliの楽譜のように、何処の誰が書いたのかは分からないけれど、なんとか写本が残っている場合もあるし、その次には、それも無くって、BachやVivaldiの楽譜のように、演奏をした時の、part譜を集めてscoreを再編集したりと、信じられないような手間暇を掛けて、再編集して行くのですが、そのpartが全Page見つかる事は稀で、他の楽器のpartから、失われたpartを類推して復元したりします。
その復元が、明らかに間違いの場合や、非常に幼稚な技術力しかない人の手によって元復された場合には、諦めて、Ashizuka‐versionのように、出版された楽譜を捨てて、私が作り直したりもします。
こういったものの全てを、kritik-Ausgabe=批評版(校訂版)と言う言い方をします。

古典派やロマン派ぐらいの時代になると、作曲者立会の元で出版された楽譜が出ていると、その楽譜がUrtextになるのですが、これがSchumannのように、第二稿や第三稿迄出ていたりすると、ClaraとBrahmsの喧嘩のように、後世の争いの火種になってしまいます。
Claraは、当然、Schumannが最終稿にした楽譜をUrtextにしたかったのだけど、Brahmsは、若さと機知に溢れた初版を決定稿にしたかったのです。そういった見解の相違もあります。

それに作曲者自身のoriginalの楽譜が残っていたとしても、色々な版が出版されるには、その楽譜をどう読むか??という問題があるのです。

ここに譜例として掲載している「悪魔のトリル」の冒頭の3小節の楽譜があります。
悪魔のトリルと言えば、Kreislerのarrangeしたversionが人気があって、一般的なので、netで悪魔のトリルの事を調べた生徒が、「悪魔のトリルの楽譜はmemo程度しか存在せず、Kreislerが始めて楽譜にした。(Realizationをし た)」と書いてあって、それを鵜呑みにしていたようでしたが、netを書いている人達の殆どの人達は、音楽には素人の人達が多いので、思い込みのお話が多くて、困ってしまいます。

よく教室の生徒達が、発表会のcommentを書くために、netで調べてそれを鵜呑みにして、そのまま参考にして発表してしまうのですが、生徒の間違いなら、未だ可愛げがあって良いのですが、音楽の場合には、専門の参考書ですら、間違いが多いので、困ってしまいます。
私は面白半分に、音楽大学の受験の問題の間違いの問題を集めて、小冊子にしています。これが結構笑えるのよね??

私は、留学時代から、periodの研究のために、悪魔のトリルのoriginalの楽譜や、それに近いversionの楽譜を所有していました。
また、originalの楽譜は、Bärenreiter Urtextで出版されているので、誰でも、購入する事が出来ます。
私が所有しているそういった楽譜の全ては、勿論、Kreislerよりも、古い時代に出版された楽譜なので、中にはKreislerが底本にしたと思われる楽譜もあります。(まあ、Peters版の事ですがね??)

baroque時代の楽譜では、伴奏のCembaloのpartは、通奏低音のcelloのpartと同じpartをCembaloの左手で演奏して、右手はcelloのpartの上に書かれた数字を見て、即興で和音を弾きました。

こんにちでは、予め数字を音符に直してある譜面で演奏する事が多いのですが、その作業の事を、2枚目の写真(どういう分けか縦に表示されてしまっていますが)のように、「basso continuo realization」とか、「generalbassaussetzung」 という言い方をします。
校訂や校正とは全く別のgenreの演奏の技術です。この技術を習得した人達が始めてCembalistと呼ぶ事が出来ます。音楽大学のCembalo科の人達は、Pianoで学ぶbaroqueの曲を楽器を変えてCembaloで演奏しているのに過ぎません。baroque時代のCembalo奏者が出来なければならなかったornament奏法や即興、basso continuoの奏法等々を学ばなければ、Cembalistとは言えません。それにCembaloの演奏のためには、習得しなければならない、あまたのCembalo演奏のための技術が存在します。それが守って演奏出来ていないと、PianoのようにCembaloを弾かれても困ってしまいます。(そのCembalo奏法の導入を指導するために、Bachの12の少前奏曲集を使用して、手ほどきをした教則本を作り上げました。それぞれの曲に使用するCembaloのTechnikを学ぶ事が出来ます。)まあ、それにしても、真面目だよな??コツコツとよくやるよ!!ホント!!

それにしても、昨年、やったbaroque‐concertoでの、Tommaso Vitaliの写本の楽譜のbasso continuoの数字は、今までになく、チョッと酷かったネ??
写本を書いたのは、ずぶの素人さんだったのですよ。
basso continuoの数字の間違いだけではなく、音、そのものの間違いも多くて、kritikをするのが結構たいへんだったのですよ!!
先ず、音符を訂正して、正しい数字を作って‥・、それからのRealizationだったのですよ。原譜を訂正して、それから正しいoriginalの譜面を作り上げるのは、結構面倒くさい作業だったのですよ。それからのRealizationなのでね。

Ferdinand Davidさんのarrangeは流石に素晴らしいです。
数字の誤りは徹底的に無視をして、正しくarrangeをしています。流石です。
但し、その版はDavidさんの編曲の版であって、擬古典の作品であり、Tommaso Vitaliのoriginalとは関係ない作品です。
「悪魔のトリル」の参考の楽譜の説明は写真を開いて見てください。そちらへ書いて起きましたので。



辛そうな名前のeditorですが、一応Bärenreiter Urtextという権威のある版です。
勿論、originalの譜面から起こされたbasso continuoの譜面です。2小節目の2拍目のCembaloのcis,es,bの音はチョッと強烈です。
多分、数字記号#6でE♮が良いと思います。
5月28日 6:56





originalの楽譜のviolin‐partです。
冒頭から、重音で演奏しています。
Kreisler版のように「melodieだけの単音ににするのと、どちらが良いか??」ではなく、演奏のstyleの問題でしょうね。
baroqueの演奏では、Kreislerのように、冒頭からvibratoをfullに掛ける事はないし、寧ろ、non-vibratoのように弾いたと思われるのでネ??

5月28日 7:07




Titleに書いてある通りにKreisler版です。
結構、擬古典風に和音等を変えています。(というよりも、擬古典そのものの作品ですよネ。)
5月28日 6:51





この版はPeters版です。
かなりロマン派的な雰囲気で書かれています。
Kreisler版の雰囲気にも一番近いのかな??
5月28日 7:13






日本人の方のRealizationで、とても良いarrangeだと思うのですが、やはり2小節目の2拍目のDouble#はどういう意味かいな??
滑らかで良い分、やはり、近現代の雰囲気がします。
5月28日 7:00





CembaloのpartのgeneralbassAussetzung (右手の和音を作った人)は、校訂者とは別の人です。
Eike Wernhardという人らしいです。
それにしても、Facebookでは、何故、この絵だけ縦になってしまったのだ??
理解不能だ!!(その後、回転補正しています。)
5月28日 7:04








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5月29日 22:10 ·
「この半年間、延々と転居の手続きをしているのですよ!」

昨日(5月28日(日))は千葉でのオケ練習で、「昨日の今日」なので、疲れが取れていない事もあったのですが、今日は朝から、携帯もパソコンも出来ないぐらいにバテて意識朦朧としていたのですが、お昼からは頑張って、予定通りに、江古田教室からの私個人の住所の「お引っ越し」をする事にしました。(私個人と言うのは、教室の会社の所在地も江古田教室になっているからです。
こちらは区役所ではなくって、法務局の管轄なので、手続きに通うのはとても遠いし、手続きも一々面倒です。)

練馬の区役所に行って、マイナンバーの住所の変更や(マイナンバーの手続きは東館の7階なのだけど、渡り廊下は2階と3階にしかないのでエレベーターの乗り継ぎです。)江古田教室から江古田ハイツへの転居の手続きは本館の1階で、両方とも相談を受ける迄の「待ち時間」の長い事・・長い事! 
それから1階と7階をこちらのビル、あちらのビルに行って、まあ、面倒くさく、それぞれで「待ち時間」が掛ってしまいます。

やっと、3時間掛かりで、転居の手続きと、マイナンバーcardの住所の変更が終わったら、次は、原爆の被爆者の保険でこれが区役所ではなく、全く別の場所にあるビルの保険課に行かなければなりませんでした。
練馬の区役所からは、離れた練馬駅寄りの全然違うビルでの手続きなのですが、変更に必要な書類は、区役所の人からは、「マイナンバーcardで、身元確認は充分」と言われていたので、書類は持って行かなかったのですが、保険のcenterに行って見ると、「原爆の保険の手続きは、未だマイナンバーとの連携は出来ていないので、住民票が必要だ」と言う事で、近場のコンビニを探して、住民票を取って、また保健所に行って、最初からやり直しで、何とか手続きを終了しました。
さて、次は警察で免許証の住所変更です。
これ等は全て2月3月にやったばかりの事です。
しかしこれは、江古田教室の住所が既に業社に売り渡されて、架空の住所になってしまったので、急がないといけないので、面倒ですが、それは致し方ありません。

話が込み入っているので、そこまでの経緯を、かいつまんで説明すると、長崎の家の処分の問題で、住民票が必要になって、住民票を取るために、身元の確認用に使用した運転免許証のaddressが、区役所の住所と違ってしまっていたのです。

その理由は、運転免許証は、江古田教室を借りた時の40年以上も前の、昔の住所のままになっていたのですが、住所の表示を、いつの頃かは知りませんが、大家の郵便受けに店子のビルの住人の郵便物が入ってしまうので、大家がそれを嫌がって、独断で変えてしまっていたらしいのです。
(それ迄の住所は「**方」になっていました。)
勿論、その事についての説明は、事前にはありませんでした。
ビルを売った時の説明も無かったからね??

運転免許証の住所は元の住所のままで、住まいの住所が変更されてしまったので、運転免許証は身元の証明書の代わりには使え無くなっていて、一々その手続きをしなければならないので、非常に面倒くさいので、正しい住所に直す所から始めました。転居ではなく、住所の変更なのですが、それはこれまでの諸事情を説明したら、問題なく出来ました。

・・で、それ運転免許証は正しい表示になったのですが、ついでにマイナンバーcardも申請して、取りに行く段階で、区役所の7階が途轍もなく遠く思われたので(それは体調のせいなのですが・・)、取りに行くだけの状態で、一月、二月放ったらかしになっていたのですが、何と、大家が一言の相談や話も無く、4月に不動産屋にビルを売り渡してしまったので、マイナンバーの住所が無くなってしまったのです。
という事で教室の住所や、私の住んでいる住所が、なんと、架空の住所になってしまったのですよ。

東京の教室は江古田の教室としては、椎名町の教室で代講が出来るので、当面は、江古田の教室は、八千代に移転する事にして、先生達は教室を探しているようなのですが、私の現住所が八千代になってしまうのは、仕事上困ってしまうので、今の私の自宅の住所へ住所を移す事にしました。

何故、自宅の住所が私の住所ではないか??って??
それは、郵便物やその他電話等が全部教室関係の事務的なもので、privateなものは、一切来ないからです。
ですから、ハイツの住所はこれまでも公表はしていません。
私の現住所になると、自動的に公表されてしまうから、privateが無くなって、隠れ家ではなくなるからです。
とは言っても、椎名町の事務所に私の住所を移転しても、所詮は借家なので、また引っ越す事になっても、私はその手続きに奔走するのは、もう無理なので‥・・ネ。その点は、ハイツは自宅なので、私が引っ越さない限り、追い出される事はないのでね‥・?

明日は出来れば、card類のお引っ越しをする予定なのですが、そろそろ、精神的にも肉体的にも、バテて来ました。
card類と言っても、教室のcardは法人なので、法務局の管轄なので、教室の引っ越しが済んでからになるので、明日、予定のcard類の住所の変更をするのは、私の個人のcardだけですが、それでも、直接銀行等に出掛けて手続きをせにゃならんので、結構てえへんだよな!



次の日には、頑張って銀行と郵貯の住所変更をする予定だったのですが、朝起きても(30日)、気が乗らなかったので、昨夜、牧野先生に貰った、ち~ちゃんのvideoの申し込み表のvideoを編集し終えてしまいました。
朝の10時過ぎには事務所に届けたので、出掛ける前にjacket印刷とdisc の印刷をすれば、「今日中には渡せるよな?」と思ったのだけど、「今日中には無理!」と言う事で、後回しにされてしまいました。
という事で、午前中の銀行回りは無しになって、午後から出掛けようと思ったのですが、椎名町からハイツに戻った途端に、昨日の疲れがどっと出て、寝込んでしまいました。と言う事で、今日の銀行と郵貯の住所変更は無しになってしまいました。
明日は、午前中一番で病院がプラスされます。
何故、病院が一番か??・・と言うと、病院に行くまでは基本、何も食べれないからです。
血糖値を計るためにね!!
お腹がすいてしまうから、朝一の9時に病院に行きます。
大急ぎでハイツに戻って、何か食べます。ハイ!
それにしても、夕方になっても、夜遅くなっても疲れが取れなくって、相変わらず寝込んでいます。
今日は一日、寝込んで終わってしまったな??
まっ、いいか??
5月31日 15:09


今日(31日)は予定通りに、朝一で病院に行ったのですが、時間を間違えて、病院が開く30分も前に着いてしまったので、椎名町の事務所に弁当の空箱を届けに先に行きました。
本当ならば、薬を届けるついでに空箱も持って行こうと思っていたのですが・・ね??
時間をずらしたおかげで、丁度時間になって診察を受けたのだけど、相変わらず血糖値と腎機能が良くなくて、血糖値用の薬の変更をお願いしました。
そのまま、銀行の住所変更に行ったのですが、判子を持って行くのを忘れた・・というか、住所変更だけなので、要らないのかな??と思っていたので、ズッコケて、ハイツに戻って来ました。いや~あ、熱い❢❢
少し涼んでから、銀行1から住所変更に行き、駅を跨いで、交番で住民の連絡帳を提出して、郵貯に行って住所変更をして、珈琲館で、遅い朝食を食べました。
5月31日 15:19




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5月30日 22:08 ·

「5月18日の花園のlessonから」

前回、3年前迄の対外出演の八千代のコンサートの出演者は、中、高生が主流で、3年間のコンサートの間に、period奏法も少しづゝ、生徒達が出来る範囲、可能な範囲で取り入れて来たのですが、今回、新たに八千代市から出演依頼があったのは良いのですが、前回出演したmemberは、3年間の月日の経過と言う事で、もう既に高校から大学の受験生になって、対外出演に出演する事が不可能になってしまいました。
という事で、今回の依頼に応える事の出来る中、高生のorchestraに出演出来るmemberが、非常に少なくなってしまったので、今回は例外中の例外で、小学生達を主流に、programを組む事になってしまいました。




と言う事で、前回の八千代のcturelelessonは、生徒達の出来るところから指導して来たperiod奏法なのですが、今回はlectureを系統的に段階的に指導する事にしました。
そういう趣旨で、始めた美音ちゃんへのlesson‐oneという事で、ホワイトボードにcheck‐pointを書き出して見たのですが、驚いた事に、このlessonの内容は、(levelは兎も角としても、)小学生から大学生迄の八千代の出演者に対して、全員同じ内容を指導する事になってしまいます。
それなら、美音ちゃんから、大学生迄、八千代組を全員集めて、一羽一絡げで指導すれば、「時短」になって効率的に良いのだがね??


写真に書いてあるコメントの説明です。


左上は、弓の食いつきの説明です。
お話としては、時代考証と弓の食いつきの違いのお話をしました。

その下は、Blessing(息継ぎ)の説明です。
ブレスと言えば、普通のbreathとcheating‐breath(カンニングブレス)の二つなのでしょうが、その普通のbreathに加えて、phraseの間のfeintoと「溜め」の説明をしました。

右側はvibratoの種類の説明です。
曲のimageでそのvibratoの弾き分けをしなければならないのですが、その種類が分からなければ、弾き分けとして、演奏の違いを出来る事はないので、vibratoの種類をしっかりと覚える事が曲のimageとvibratoの弾き分けが出来るようになる第一歩なのです。


今回の八千代の課題の技術的な目標のpointはそれだけで良いのですが、考えて見れば、小学生から大学生迄、どうして、全員同じ課題なのかな??
それは、その技術にapproachした時期が全員、殆ど同じ時期になるので、そんな変な事になってしまいましたのでね。
しかし、目標の達成度となると、年齢ではなく、一人一人の意識の重さで決まります。
その点に関しては、小学生も大学生もありません。
音楽は技術の世界なので、年齢は関係ないのだからね??
5月31日 20:49


という事で、その3日後の日曜日(21日)のオケ練習の風景です。早速、lessonで勉強した演奏法の復習なのですが、やはり、period奏法はimageが難しいのかな?(baroqueのperiodと言う事で、演奏のimageをするのが難しい分けであって、演奏そのものは決して難しい事では、ありません。何度、教えても、現代の奏法の感覚に戻ってしまうのですよ。)

https://www.youtube.com/watch?v=GdAZt66b8NE&t=110s  

無駄話や、練習になっていない箇所を削除したのですが、「ここまで削除しました。」というコメントが「意味が無かった!」のかな??と思っています。
練習の内容やチョッとしたmessageを字幕で書き込みました。

各楽章にchapterで飛べるようにしました。
まだ暗譜の出来ていない状態なので、tempoの設定は、かなり遅めのtempoで練習しています。

ですから、本番のtempoはⅠ楽章を110、Ⅲ楽章を130を予定しています。
但し、soloの演奏者は小学生達なので、技術的に追いつかなければ、演奏可能なtempo・・という所迄にします。
5月31日 19:51



一昔前のdetacheとclipによる押さえつけの弾き留め奏法は、もう随分、廃れて来て、その影響は大分無くなって来たようで、音の立ち上がりも、昔から比べると、随分良くなって来ました。
それに、弓量配分による弓の移動迄は、かなり一般的になってきたのですが、そのあとの余韻の演奏法(technical‐Acoustic)は、まだ一般的ではありません。
その奏法自体は、wien奏法とかbaroque‐奏法とか言われて、昔から知られてはいるのですが、実際にその奏法が出来る演奏者は少ないようです。
教室でも、教室開設当初の昔から、baroqueの曲を演奏する時にも、延々と指導しているのですが、中々その音を出すのが難しいらしく、今だに出来ません。
私がlessonで、弾き方を説明すると、その場では、結構、直ぐに出来るようにはなるのですが、やっぱり、本番で、一人で演奏をさせて見ると、また元の木阿弥の、baroqueの奏法か近現代の奏法か、どっち付かずの演奏になってしまいます。

baroqueの音の出し方のimageが良く分かっていないだけの問題だと思うのだけど、ホンと、困ったもんです!
音楽に限らず、学校の勉強等でも、そのrootsを知れば、簡単にその内容を理解する事が出来るし、1を聞いて10を知る事すら出来るのですがね??
私がその事について説明をしようとすると、「聴きたい事は違うのに、なんで別の事を説明するの?」といつも、文句を言われてしまいます。今の生徒達はその事についてのみの説明しか聞こうとはしません。
お金に関する事は貝ヘンで、水が関係する文字は氵が付くのだよ!とか、X.Y.Zとはこれから求める数字で、a.b.cは任意の数字で・・、という風に日常を代数化出来るのだよ!と中、高生に説明しても、その意味を理解してくれません。学校で習っている筈の事が全く答えられないのですよ。困ったもんだ!!
てな事を言うと、私が学校教育を否定しているように捉えられてしまいますが、私が否定しているのは、学校教育で指導している内容であって、学校を否定している分けではありません。成績を上げる事だけを目的とするのではなく、勉強すべき事の内容をちゃんと理解させるのならば、学校教育は子供達にとっては必要欠くべからざるものになると思います。

5月31日 20:57






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6月1日 2:11 ·
ついに6月の1日になってしまいました。

「椎名町からハイツに戻って来て」
パソコンを点けたら、なんとBlu-outして開かない。
強制終了をして、開き直しても、今度はネットが繋がらない。
再起動をかけても、やはりダメだ!!
これじゃあ、仕事にはならないよな??

windows🔟や他のパソコンはnetにはつながっているのだから、ルーターのせいでもモデムのせいでもない。
どうも、Virus-securityが怪しい。
securityのupdateが出来ない!!
今日はパソコンで仕事をするのはやめよう!!
明日も、銀行回りで住所変更手続きをする。
カードが使えなくなっているのも、説明を聞かなければなるまい!


その明日まで、パソコンのデバッグを試みたのですが、netだけはどうしても改善されません。
このFacebookはwindows10で入力しているので、netはモデムとルーターは正常なので、パソコンの問題だと思います。
という事で、朝5時に起きて既に2時間を無駄にしました。
昨夜は牧野先生から、紗來ちゃんのvideoの注文の紙を貰って来ました。
パソコンが壊れてしまったので、出来るかどうかは分かりませんが、外回りの9時迄は、まだ時間があるので、probiere(試みて)みることにします。ハイ!
6月1日 7:11



・・・と思ったのだけど、Keyboardからの文字入力が出来ません。

仕事にならないな~あ??
6月2日 2:44


丸々1日、パソコンが使えなくってしまって、仕方がないので、とてもパソコンとは思えない・・というか、tabletにしか見えない「windows10」で仕事をしようと思ったのだが、10にはsoftが何一つ入っていないので、仕事が全く出来ないので、10での仕事をするのは諦めて、7に戻ったのだが、7では何一つsoftが立ち上がらないので、netが全く出来ない7を、騙し騙し、エクスプローラーを削除して、Googlechromeを開いて、取り敢えずは、mailが見れる所迄持って行って、それから、一日掛かりでKeyboardをパソコンに感知させる所まで持って行って、何とかコマンドプロンプトを立ち上げて、パソコンのスキャンと修復を試みて、出来る範囲で修復をして、netは、エクスプローラーは諦めて、Google Chromeでnetに繋いで、やっと、securityが開く様になったので、今は、パソコンのvirus検査をしている所です‥・!!
いや~あ、今日は、丸々一日、損をしてしまった。
でも、それでも、昨晩、牧野先生から貰った紗來ちゃんの「videoのorder」は、午前中に作り上げて、お昼迄には事務所に届けたよ!!
6月2日 2:50


それと、10時からは、銀行の住所変更とクレジットの住所変更も終わった。
なんだ・・?? パソコンが壊れても、結構、働いているじゃん??
6月2日 2:51


上記のコメントは、1日前の6月1日のコメントなのですが、今日は既に1日経って、2日の朝です。
もう次の日と言うのに、また、書類を朝っぱらから書いています。
今度は、郵便局に届けなければなりません。
書類なので、ポストには入れることが出来ないので‥・。
6月2日 7:46


DVD受け取りました☺出来上がりの早さに驚きです✨ありがとうございました(*^-^*)
6月5日 23:34

.
今回のビデオの作成は、教室での始めてのvideo編集と言う事で、教室として作業をする時の手順とその方法を探る意味で、私が作業をしました。
出来上がりの早さは私の性格的なものなのでしょうが、だからと言ってその仕上がりが雑になったり、誤りが多かったりするという事は論外になります。
教室で編集する最初のvideoと言う事で、「生徒さん達からのvideoの募集は無いだろう」と先生達が言っていたので、早々とvideoを編集してYou Tubeに公開してしまいましたが、その後、生徒さん達からの希望があったので、編集作業が逆さまになってしまって、Titleが曲毎に来たり・・とか、不手際が目立ってしまいました。
曲のorderがYou Tubeのuploadと噛まない場合には、既に終わっている編集の作業は無いので、そのまま、その生徒に合わせた編集になって、問題はないのですが、You Tubeにupされた生徒の曲が、orderの編集の中に入って来る場合には、videoを編集する前に、既にvideoの編集がなされているvideoになりますので、曲毎にTitleが表示されたり・・と不都合な事になります。
次回の発表会等の編集の作業では、作業行程をしっかりと出した上で編集をしたいと思いますので、今回はその作業が前後してしまったので、何卒、ご容赦ください。アハッ!
6月6日 5:12



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日延の口実

6月5日 8:14 ·
喩え、どのような環境下であろうと、或いは、状況下であろうと、それを仕事や勉強の「日延べの口実」にする事はProのする事ではありません。
それは本人の意識下のamateurismの表れに過ぎません。



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八千代のコンサートの日にちが決まりました。

6月5日 12:12 ·

11月は市の予定が結構あるそうで、3日と23日の予定日を貰いましたが、出演者の予定で一番riskの少ない日を聞いて、「八千代のコンサートの日にちが決まりました。」
11月の23日、勤労感謝の日です。
午前rehearsal 、午後本番の予定です。前日の夜は、希望があれば、会場のcheckや、簡単んなrehearsal にも使用可能だそうです。


よろしくお願いします🎵
6月5日 12:24

.
美音ちゃんの初デビューですよね??頑張ってください。
6月5日 12:25


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6月6日 15:05 ·

「videoの申し込みとCembaloの右手のpartの作成」

「先ずはvideoの編集のお話」
6月5日の昨夜の夜に、videoの申し込みを貰ったので、今朝(6月の6日)に、videoの注文は、1部の曲が殆どで、曲の長さは大した事はない・・と言う事なので、6日の朝一で編集を始めました。
videoの編集では、全体合奏の曲3曲は、その3曲とも、以前、既に編集をしていたのですが、その編集は、未だ納得の行くものではなかったので、今回は使用しないで、3曲とも、新しく編集をし直しました。
つまり、全部の曲を編集を新たにした・・という事なのです。
1曲1曲は、短いので、短い時間で済むと思っていたのですが、実際には、曲が短いので、編集は逆に(殊の外)、大変で、何と30分程度のvideoの編集を、5時間も掛かってしまいました。
なんじゃい、それは・・・??

「次はVivaldi Op.3Nr.3 G Dur Ⅲ楽章のCembaloのpart作成のお話」です。
 
という事で、朝食は、何も食べないで、昼になってしまったので、お腹も空いたし、租税をコンビニで払いに行かなければならなかったので、ついでに買い物がてら、椎名町の事務所に、出来上がったDVDを届けに行ったら、牧野先生から、次の仕事として、・・「G Durの3楽章のCembaloの右手のpartが難しいし、octaveがしょっちゅう出て来て、子供の手の大きさでは、とても弾けない・・という話だったので、大急ぎでハイツにscoreを持って、舞い戻って、まあ、それもついでにパソコンで作り上げておきました。




「finale入力の手順」
finaleの入力は、先ず、全体の小節数を合わせて、scoreのtemplateを作ります。
そして、基本になるCembaloの右手のpartだけを、小さな3octaveの鍵盤で入力してしまいます。
それから、右手のpartを作るのですが、同じthemaの部分(転調、移調はあったとしても・・)を「コピペ」で移して、移調転調させて、修整します。
・・・となるのですが、この3楽章に関しては、その方法は余り使えませんでした。譜ヅラはritornellolに見えたのですが、そうは単純では無かったようです。一応、完成したので、mailで花園に送っておいたので、プリンターがあれば、楽譜をプリント・アウト出来るのだけどね??
花園には、プリンターはあったっけ??
チョッと心配なので、このFacebookにuploadして、教室でprint outしなくても、Facebookが見れれば自宅でprint out出来るように、写真に添付しておきました。







「楽譜の版について」
Cembaloのpartの完成後の話ですが、出来上がったCembaloのpartをscoreに移して、scoreの入力の作業を始めたのですが、はてさて困った。
牧野先生から貰ったscoreも、私が持っているscoreも、古いMünchen時代に買って来た、Peters版しかありません。
scoreに書かれているpart譜の理屈が通らないのだよな?
まあ、仕方ないのだけど、仕事をやり残すのも、奥歯に何か引っ掛かったような気がして嫌なので、取り敢えず、納得は行かないままなのだけど、score通りに入力して、この作業を終わりにしておきました。
後は、この曲の取り寄せた新しい楽譜をハイツに持って帰って、checkのやり直しをしますが、それは次回の事ですよね。




「楽譜の版に付いてのお話の続き」です。

「原典版のcommentに追記しようかな?」と思ったのですが、Vivaldi Op.3Nr.3 G Dur Ⅲ楽章のお話の続きなので、「このPageの方に追記した方が良いのかな??」と思い変えて、このcommentに追記する事にします。

話の骨子は、前のcommentでも書いたように、「原典版」ですら、色々と校訂者によって、大きな違いがあるのですから、「校訂版」に至っては、本当に色々と出版社によっての違いがあって、困ってしまうのですよ。

VivaldiのOp.3Nr.3のscoreに関しては、未だ教室を開設していなかった、音楽の学習中の留学当時のMünchen時代に、演奏する事を想定しないで純粋にお勉強のために買ったPeters版の(指揮用の)scoreを、教室を開いた後で、orchestraの指導を始めて、その時にVivaldiのscoreが必要になったので、私の個人所有のscoreを、子供達のためにそのまま使用していたのですが、このPeters版のVivaldi Op.3Nr.3 G Durのscoreが、校訂者の色々な考えが入ってしまっている校訂版なので、現在の私のperiod的な演奏法上では、その校訂が色々と問題を引き起こしてしまって、私が、教室で指揮をしていると、smoothなlectureが出来なくって、癇癪の元になっているversion(所謂、校訂版)なのですよ。
Peters版の、間違いの多さは兎も角としても、いただけないのは、originalのpartを全部、入れ換えてしまっている事なのです。





「Peters版の校訂の意図」
なのですが、Peters版の校訂者は、多分、演奏をsoloとオケという概念ではなく、もっと古いbaroque‐orchestraで、soliとしての演奏を想定したのではないかな?と思われます。
それならば、私のperiodの演奏styleとも兼ね合って、私とのsymbthyも産み出されたはずなのですが、一つ、基本的に違っていたのは、「オケ並び」の事に付いて・・です。




Vivaldi‐orchestraでは、基本的には、1stviolinと2ndviolinが交唱をする、所謂、polyphony‐typeの曲と、soloに対して、orchestraが伴奏に回る歌曲typeの作曲技法に分かれます。
このOp.3Nr.3のG Durの曲は、orchestraがsoloの伴奏をするtypeの曲になっています。
・・という事で、敢えて「baroque並び」をする根拠は無く、教室でも、「順列並び」所謂、「1st、2nd、viola、cello」という並び方で演奏する場合が多いのです。

Peters版では、その並び方を更に変更して、solo1=1st、solo2=2nd、solo3=1st、solo4=2nd、のviolin4部と、(viola1,viola2)cello+Kontrabassという並びに書き換えています。
つまり、私が作曲家の立場で言う所の「絡め合わせ」の作曲技法なのです。
division(1st、2ndのpartをそれぞれに、分けて演奏する事)がdivisionとしてではなく、partそのものを分けて演奏するように書いているのは、どうしてもいただけません。divisiと言うのは、partのほんの一部分だけが、必要に迫られて分かれるのですから、完全に別のpartとして演奏するのであれば、もう少し、それぞれのpartが独立性がなければなりません。
そこの所は、partを分けると言う事は少し無理があります。
Ricordi版では、violinが3部で、solo=violino Principaleと1stviolin、2ndviolinの3人で、以下は同じなので、10人ではなく、a mollと同様の9名編成になっています。

曲の構成(音楽形式的に)は、orchestraとsoloの対比を狙った典型的なritornellol形式なので、ritornellolの部分では、soloとオケの1stのpartが、同じ音を演奏するので、逆に、2ndに1stのpartを演奏させたりして、orchestraの響きを融和させる効果を狙っているのですが、soloとorchestraという考え方ではなく、soloを4part、つまり、solo1.solo2、solo3、solo4のsoliとして、演奏する事を想定しています。勿論、当然、violaもviola1とviola2の演奏になります。
つまり、violin4,viola2,cello2,Kontrabass1、Cembalo1のsoloの1を欠いた10名のbaroque‐orchestraの編成になります。
同じ、Op.3のNr.6は、2ndviolinの2名を欠いた(soloが加わった)9名編成になるので、Op.3の曲集は、小編成を想定しているという事が言えると思われます。
(先程も書いたように、Ricordi版では、violinはsoloを含めて3人の編成なので、a mollと同様の9人編成になります。)

通常は、もっと大きなorchestraで演奏されるのが常なので、この「絡め合わせ」の「オケ並び」は、いただけません。
という事で、partの変更を伴って、1楽章はわざわざ、訂正譜を作ったのですが、今回の3楽章は、放ったらかしで、全く、手を付けていませんでした。
指揮をしながら、その都度、口頭で、生徒達に色々と注意をしていたのですが、その「都度」の「赤入れ」に対して、初歩組のmember達なので、誰もその「赤入れ」に着いて来れません。
折角、私が頑張って「赤入れ」を言っても、その訂正を譜面に書き込んで貰えないので、つい先日、とうとう、頭に来て別のscore、多分Ricordi版を発注しました。

しかし、わざわざ買ったその版は、未だに、袋に入ったままで、楽譜代の送金もされていない状態で、当然、勿論、コピーもされていなくって、未使用状態のままだったのですよ。

という事で、今回用に、新しくハイツ用に作って貰ったscoreは、(な!な!な!何と??、)相も変わらず、昔の古いPeters版をコピーしているしね??(何故って、古いPeters版のversionならば、昔の作ったscoreがハイツにはあるから、double-bookingなのですよ。

確かに、3楽章は私の作ったversionは、これまでは無かったので、だから新しいRicordi版を買ったのだけど、その新しいRicordi版は、ハイツには来ていないのですよ!!
今回も、古いPeters版のscoreを貰って、Cembaloのpartを作ったのですが、多分、そのPeters版の2,3箇所に関しては、「音も違っているのでは??」と思っています。
兎に角、Peters版は、指揮する方にとっては、間違いだらけで、困ってしまうのだけどね。

確かにbaroque音楽をやっていると、Peters版に限らず、Ricordi版にしても、古い時代の楽譜からの読み取りなので、ミスが多くて困ってしまいます。だから、訂正を延々としていると、その内に、楽譜が「赤」だらけになってしまうのだけど、まあ、それは仕方が無い事なのだけどね??
6月9日 2:18


普段は、全く気にならない事なのですが、極々稀に、血圧は正常なのに、精神的に苛苛する事があります。
こうした時には、普段は何気なく見過ごしているなんでもない言の葉が、思いもよらなく気になってしまう事があります。
多くの人達が、話す相手の心を思ん量る時には、相手の表情を読む事が殆どなのでしようが、私達の場合には、もう少し、客観的な手法を使います。
それは、人の感情(潜在意識)は、言葉の名詞ではなく、言の葉の助詞や形容詞、感嘆詞に表れるという心理学の原則なのです‼

小学生の子供達は、権威の象徴である事には、さほどは興味を示しません❗それよりも、より身近な存在に価値があるからなのです。

だけど、中、高生や、大学生ともなると、話は変わります。
私の校訂した楽譜のcheckを、既存の楽譜と比較させると、既存の楽譜ではなく、私の楽譜の方に赤を入れます‼
つまり、私の楽譜の方が間違いで、既存の楽譜の方が正しい・・という思い込みだからです。

同様に、私の論文のcheckを、netの文章に書いてある事で、比較批判する事がよくあるのですよ‼netに書かれている事は正しく、私の論文をnetで訂正するのですよ。困った!!

つまり、社会性の育って来た中、高生や大学生ともなると、出版された楽譜や、netの情報は、一般公開されたものなので、私よりも権威があって、正しいのだ…という思い込みなのです‼(でも、彼女達にとっては思い込みではなく、それが何よりも、真実なのかもね??Oou! ミゼラブル!!)

私が、音楽大学の教授ではなく、巷の音楽教室の先生に過ぎないのは事実なので、音大の教授よりも軽く見られるのは、至極、致し方ないのですが、だからと言っても、私の知識が音大の先生よりも、劣っているとは思えないのですが、教室の生徒や卒業生は勿論の事、一番身近な存在である近親縁者ですら、私の事は、道から外れた劣等生としか思っていないのだから、私の生徒や、回りの友人達が、私の事をそう思い込んでいるのは、致し方のない事かもね??

まあ、この話は昔々、私が日本に帰国してからの話なので、「何を今更??」という感じではあるのですが、教室から、音楽大学に行って、教授の話が信じられなくなった生徒達が、たまに私の元を尋ねて来て、私にadviceを求める事がよくありました。
そこで、事(音楽)の真実の話をすると、その大学の地位や教授の尊厳や権威が下がってしまうのですが、そこで、非常に面白い事は、音楽を学ぶ生徒達には、「音大>巷の音楽教室」という確固たる地位関係(図式)があるので、音大や教授の尊厳のlevelが下がると、教室や私の地位のlevelも一緒に下がってしまうのですよ。
これは笑えるよネ??
音大の教授の地位が下がって、私の位置がそのままならば、音大の教授よりも私の地位の方が上になるはずなのだけど、それだけは絶対にならないのよね!!アハッ!
そして、音楽大学を卒業してしまうと、二度と私にadviceを求めて来る生徒は居なくなってしまいます。音楽教室は音楽大学よりも遥かに低い存在だし、況してや、音楽界に属したら、音楽大学すら低い存在なのだからね??
という事で、日本の音楽界は、prideで成り立っているのですよ。
6月8日 10:24


Vivaldi Op.3Nr.3 G Dur は、Ⅰ楽章のCembaloのpartを書いた覚えがあるので、私のパソコンを調べたら、finaleに対しての入力は、soloと(soloに対しての)obbligatoのpartをpickupして書いたのみで、Cembaloのpartに至っては、finaleの入力ではなく、なんと手書き譜のみであった。
それでは、なんとも心許ないし、Ⅲ楽章と全く同じscoreの問題がそのままになっているので、私がまた、発作を起こして、完全なscoreを作ってしまった。
しかし、底本とすべき「Ricordi版のscore」はハイツには未だ来ていない(届いていない)ので、またまた、私の独断と偏見のinterpretationに基づいたscoreになってしまった。
本当に、二重手間、三重手間だよな?
腹立つよな!!
6月11日 8:19


左の楽譜は私の校訂のG Dur Ⅰ楽章の2Page目の部分です。もし、orchestraがpartが1人づゝならば、Ricordi版のままでも良いのですが、それぞれのpartが複数ならば、私のversionのように、soloが1,2のsoliで、後はorchestraの方が良いと思います。
つまり、violin2(soloをviolin1とした場合)は、soloで演奏した方が良いと思われるので、そういう風に演奏している演奏団体も、You Tube等では、数多く見受けられます。
6月11日 8:20






話はあちこちに飛んで、再びⅢ楽章のお話に戻るのですが、曲が3/8の軽快な4分音符と8分音符の浮き浮きするようなrhythmで演奏されるためには、Metronomのtempoで付点4分音符のtempoが、最低でも76のMetronom‐tempoが要求されます。



しかし、そうなると、この曲は初心者の演奏出来る水準では無くなるし、celloやKontrabassは、かなり速く指を動かさなければならないし、position移動も、超絶技巧的に速く移動しなければならない曲になってしまいます。
しかし、子供達が演奏可能な、slowなtempoでは、この曲の軽快なimageは表現出来ないのですよ。ホンと、困ってしまいます。どうしようかな~??
6月11日 8:24


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辛さに耐え忍んで

6月7日 9:13 ·

6月8日7:15 朝の5時から、推敲を重ねて、保存をしながらも、「中々、良い文章が書けた!!」‥・と、喜んでいたのですが、Facebookがfreezeしてしまって、結果、文章が全部ぶっ飛んでしまって、編集履歴も開けて見たのですが、履歴にも昨日の文章しか残っていなくって、途方に暮れてしまいました。
暫し茫然自失したのですが、・・そこで、メゲないでもう一度、最初からの挑戦です。(否、実際には、どうしようも無く、もうメゲ捲っているのですよ。単なる、やせ我慢です。ハイ!)
(Facebookはこれだから嫌いだ!!)

人生では、何かを勉強して行くという事は、「厳しく辛い努力が必要なのだ」という事が普通に言われています。
特に音楽の世界に於いては、厳しい辛い練習に耐えたものだけが、音楽大学等に入学出来るとされていて、多くの音楽を目指す子供達は、その厳しさに耐えてlessonを続けているのが現状でしょうか‥・??
一般的には、芸術は高みを目指せば目指す程、その努力は「辛く厳しい」ものと、思われがちなのですが、実はそうではありません。
「proを目指す人達にとっては、「厳しさ」や「辛さ」は愉しさの範囲内なのです‼」

人生はよく山登りに喩えられますが、山も低い山だと、山歩きという事で楽なのですが、有名な山でも高い山になると、それなりの覚悟が必要になります。つまり、野球でも、絵画でも、小学校のクラブ活動でさえ、コンクールを狙ったりとか、ある程度の水準になると、必ず「辛さ」「厳しさ」が付随して来ます。
でも、その「辛さ」「厳しさ」こそが、学習して行く上での「無上の愉しさ」でもあるのですよ。逆に言うと、楽しいだけの趣味は、続く事はありません。

趣味として・・でさえも、或る程度の難しさは必要なのだ・・という事なのですが、そこの所は、一般の人達には中々分かって貰えない事なのですが、実は日常の生活の中に、そういった事は普通に存在しているのだけど、気づかないだけの事なのですよ。

コンクールのように一番を目指すものでは無かったとしても、男の子の好きなプラモデルにしても、女の子の手芸にしても、じょうずに作るためには、もう一つのstepが必要になります。
でも、ただ日常の一コマでは、その厳しさも大した厳しさではないのだから、気にはならないのですが、proを目指す人達のstepは、趣味の水準のスロープとは著しく違って、そのカーブもキツいので、その一段階のstepの厳しさは、一般の人達からはかけ離れているので、際立って目立ってしまうのですよ。

proを目指す子供達が、熟さなければならない「厳しさ」ですが、但し、そこに至るには幾つかの条件があって、それを満たす事が出来れば、正しい「厳しさ」、「辛さ」が楽しい事である事を学ぶ事が出来ます。

一般の親達は、儒教で教えられているように、「辛さ」、「厳しさ」に耐え偲んで、それを克服する事が出来た時に、始めて「至福の一時」が来る、という風に考えて、子供達にもそれを要求する事がままあります。
しかし、そこには「大きな誤り」があるのですよ。
それは、その「辛さ」「厳しさ」が、子供達本人が望んだ事である…という条件にマッチするか否かなのですよ⁉

「おしん」のように過酷な労働を日常的にしている子供達は、今現在でも、世界に数多くいます。
毎日5㌔の山道を、その日一日の水を汲むために、エベレストの山を川まで往復をしている小学生にとっては、その日常から抜け出すための唯一の手段は学業なのです。
学校に通って勉強をする事さえ出来れば、より良い生活が出来るようになる事が叶うので、勉強をする事、学校に通う事が、その子達の夢なのですよ。
日本のチョッと前の時代の「おしん」もそういった極貧の生活から抜け出すための努力の姿だったのです。(おしんには、現実にmodelとなった人がいますのでね。)

確かに子供達が、「厳しさ」や「辛さ」、「幾多の困難」に耐えて、目的を達成する事の出来る「根性」や「辛抱する力」を持つ事は、親の子供が骨太で強くなった姿という事で憧れの子供なのかも知れませんよね?

しかしながら、こんにちの日常の生活に満たされて、何の過不足もない子供達に対して、「おしん」の極貧の生活の事を、幾ら説明しても致し方ありません。
私が戦後の昭和の食べ物さえ食べる事の出来なかった時代の話を、今の子供達にしても、それは物語の世界に過ぎないのですよ。
「パンが無かったら、ケーキを食べれば良いのでは?」と言った人達と余り変わらないのですからね??
そういった子供達が、物事の達成感を学ぶには、全く別のapproachが必要なのですよ。

昔のhomepageには、よく書いていた「芦塚メトードによる指導法について」の解説なのですが、これまでも何度も繰返し説明をしている事なのですが、教室を開設当時には、教室に(子供の教育に関して)親が求めていた「教育の仕方」についての話について・・ですが、当時よく親が言う事には、「子供には、目の前に立ち塞がる壁である「厳しさ」や「辛さ」に、努力して、打ち勝って、「達成出来たという感覚」を学んで欲しい」・・という希望を述べる親がいて困ってしまいました。
音楽をやらされているという感覚の子供達には、「厳しさ」や「辛さ」を要求される事は、或る意味、拷問にも等しい事なのですよ。
(話が横道にそれてしまうので、深くはお話を進めませんが、今よくマスコミでも問題になっているイジメの問題も、日本人は、肉体的な問題や、経済的な問題に反して、精神的な問題は軽く捉えてしまう傾向があるのです。イジメで自殺をしたとしても、本人の心の弱さのせいにされてしまう傾向が多いのです。‥・この話もhomepageにはかなり詳しく説明しています。)

確かに音楽等で、amateurからproへの移行をする時には、とても厳しい辛い練習を要求される事がよくあります。
しかし、私達の教育の基本は、その「厳しい辛い練習」は、親や教室(私)が要求したものではなく、生徒本人が「自分で望んだ厳しさ」なのであるべきなのです。
一般的な教育との大きな違いは、親の願望で、「音楽の厳しさ」に向かっている生徒は、教室にはいません。そういった、教室としては理想的な生徒達は、芸大の先生や桐朋の先生の所に行ってしまうからで、巷の音楽教室である私達の教室に来る生徒はいないからです。

それに、教室の生徒の場合には、もし、親が「音楽に対する厳しさ」を望んだとしても、生徒本人も、同じように、その「厳しさ」を望んでいる事だからです。
つまり、どのような分野の勉強だったとしても、本人が自ら望む「辛さ」や「厳しさ」の場合には、本当の意味での「辛さ」、「厳しさ」にはならないからなのです。
逆の言い方をすると、・・もしも、彼等の努力に、その「辛さ」「厳しさ」が無いとすれば、彼等は、その夢を追求する事はしなくなる・・と思いますよ??

芦塚メトードでは、その「厳しい練習」や「辛い」と思われる練習が出来るようになるまでには、幾つかのstepを踏むようにしています。
そこが、冒頭の親の願望とは一番違う所です。

芦塚メトードの先生達の課題の第一歩は、「子供達が先生を好きになる事」なのです。
一般的に言われている「音楽の勉強は厳しい指導に耐える事なのだ!」という事なのですが、私達が音楽教室の先生や、音大の先生の指導を見ていると、ただ単に、その指導する先生達の「言葉や態度」が怖いだけだ‥・という事に、気付かされます。自分の権威を表すために、やたらと威張る先生や、何気ない事に対して、怒り捲くる先生が多い事に驚かされます。
反対に、指導が優しい先生は、子供に迎合して、指導内容のlevelも低い先生である・・とされます。「あの先生の指導は優しいから駄目なのよ!」と、言われてしまいます。

しかし、先生の態度と、指導内容は、全く関係はありません。ヨーロッパの指導者のlectureは、丁寧な先生が非常に多いのですが、それは、大学の先生ともなると、生徒を一人前の大人として扱うからなのです。

私も、音楽を指導するにあたって、生徒が「演奏出来ない」という事は、先生の指導力の不足だと考えて、生徒の勉強不足・・とは、考えません。何故なら、もし、練習不足ならば、lessonの時に先生と一緒に練習すれば良いだけだし、練習の仕方がちゃんと理解出来て、一人でも練習出来るようになると、「練習しなさい!」と叱らなくても、自主的に練習が出来るようになるからです。教室の方針は、生徒を叱らない、怒らない事なのです。
私のlessonを受けた小学生の子供のlessonを母親が見ていて、「芦塚先生のlessonは、とても厳しいのだよネ?」と子供に話たら、子供が「芦塚先生、優しいよ??」と不思議そうな顔をしていたという事を、その母親が私に報告しました。「大人と子供では、厳しいという概念が違うのですよね??」と、しみじみと話ていた・・というお話です。

色々な音楽教室で、音楽をすっかり嫌いになった生徒達も、先生から叱らえないから、或いは、先生達とお話をするのが愉しいから、lessonに通って来るのが嫌でなくなって、生徒自ら教室のlesson時間を楽しみに待つようになるのです。

第一段階の第二歩目(step2)は、先生が好きになって、lessonを受ける事のpressureも薄れて来ると、先生と一緒に、楽しい練習をします。練習が楽しくって、しかも曲が弾けるようになると、段々と、自分で練習をする事も、出来るようになります。
但し、教室で、初めて音楽の勉強を始める生徒達は、最初のstepは必要は無いので、いきなり、第二stepからlessonが始まります。
第一段階、第二段階では、練習を毎日しなくても、練習がうまく出来なくっても、先生から怒られる事は、絶対にありません。
何故なら、「練習がうまく出来ない」或いは「練習を毎日して来ない」のは、生徒のせいではなく、先生の指導力のせいだからなのです。

第三段階の生徒は、毎日、決められた時間に練習が出来るようになった生徒です。
自分から時間になったら、練習が出来るようになるのは、理想なのですが、別に親に言われたから・・、でも構わないのです。
子供のrotationを壊して、練習のtimingを乱すのは、親の勝手な都合である場合の方が多いからです。
子供自身が自ら自分のrotationを乱す事はそんなにはありません。
子供のrotationは、学校や、回りの音楽を勉強していない子供達の遊びのrotationである事が多いからで、そのrotationが乱れるのは、一年を通した場合には、そんなに多くはないからです。

・・で、この段階を経ると、子供達は自分で夢に向かうか、それとも、音楽を趣味にするか?を決めて行きます。(但し、夢にするのは諦めて、amateurに徹すると決めても、proに向かう仲間には、jealousyは感じるのですよ。だからと言って、その努力をする分けでは無いのですがね。)

proの夢を見続ける事を決めた子供達は、この段階で、一般の生徒や父兄とは、隔絶した、proの世界に入って行くのですよ。
「だって、子供だし、そんなproを云々するlevelではないのでは??」と、思われるかも知れませんよね??
でも、それは違います。
一つ理解しておかなければならない事は、proの世界には、大人も子供もない・・という事なのです。
proの世界は、どんな初歩の段階でも、どんな幼くても、proとして始めなければならないのです。
そうしないと上手なamateurになってしまって、一生proの道には入れないのですよ。
proに成れる生徒は、proの厳しさに憧れて、proの勉強をするのですよ。
その厳しさに憧れるから、proの世界を望むのであって、楽しく、楽な道を憧れるのならば、amateurで充分だから・・なのですよ。
これは、技術のlevelのお話ではなく、意識のお話なのです。だから、年齢は関係ないのですよ。

この意識については、私がいつも言っている事があります。
それは、凄い技術力を持った(proのような技術を持った)amateurと、然程、技術力も無く、うまくもないproでは、あなたはどちらをproとして評価しますか??という質問です。

・・・私がここで聞いている事は、その人の持っている「音楽(芸術)に対しての価値観」なのですよ。
私は、私自身がその音楽家の仕事を「勉強し、学ぶ」上では、音楽の技術が幾らあっても、じょうずな演奏が出来ているとしても、片手間の音楽家は許せません。(それを、ヨーロッパでは日曜音楽家という言い方をします。)

その勉強に対する姿勢は、私の子供達への指導でも同じなのですよ。
子供達を教えていると、本当に音楽の申し子のような子供がいます。
全く、努力をしなくても、練習をしなくても、うまいのです。(学校でも、殆ど勉強しなくても、all100点の子供が必ず一人、二人はいるのですが、反対に、一生懸命頑張っても、成績を上げる事の出来ない生徒もいるのですよ。)

音楽教室は、学校ではないので(義務教育ではないので)、別に、先生が依怙贔屓をする事は構わないのですが、私は基本的には依怙贔屓は嫌いなのですよ。私自身が劣等生で教育の現場からは結構無視されて育って来たのでね??
塾の、生徒を成績でclass分けをする事は、典型的な依怙贔屓なのですが、それを批判する親はいませんよね。
それが嫌なら、別のclass分けのない塾に行けば良いだけだからです。(もし、そういった塾があったらの話ですが・・)

教室では、対外出演であろうと、私のlessonであろうと、成績で仕分けをしている分けではありません。
対外出演は、私のlecture練習(対外出演のオケ練習)に参加出来るか??
課題の練習をちゃんとやってくるか否かです。(やって来るか否か??であって、出来るようにして来たか?否か?ではありませんよ。)
私のlessonを受ける場合でも、基本的には、私のlessonの説明の内容が理解出来るか??・・だけです。
だって、理解出来れば、練習を続ければ、いつかは出来るようになるからです。それに、練習を続けても出来ない・・とすれば、それは先生の指導力の不足であって、生徒の資質のせいではないからなのです。
だから、私は、そんなにじょうずではないのだけど、一生懸命頑張って努力をしている生徒に対しては、依怙贔屓をして、その生徒の夢を叶える事が出来るように、手助けをしています。私は、私の指導力に対して、絶大なる自信を持っているからです。‥・・だって、それで金を取っているのだから、自信がない‥・という事は許されない事なのだからです。
それを謙虚に言うという事は、絶対に許されないからなのですからね。



上記の文章をかなり詳しく推敲したのですが、ものの見事にぶっ飛んで失くなってしまいました。書き直した文章も小出しに保存をしながら書いたのですが、その保存自体も失くなって、15時間も前の保存が最後の保存になってしまっていました。小1時間と言うか、ホンの5分前に保存した文章も消失してしまったのだけど、ホンとFacebookはどうなっているのかね??

半日、頑張って文章を書き直して見たのですが、流石に、元の文章のキレは戻って来ませんでした。二度目は気力が萎えてしまったのよね~ぇ??
6月8日 13:05






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ベネチアンマスク
6月9日 23:15 ·
前回のオケ練習で、「ベネチアンマスクの皆の写真を私のパソコンに送って!」って、頼んだのだけど、誰も送って来ないのだけど??どうなっているの??
6月4日のオケ練習だったのですが、こっそりと、ネコのベネチアンマスクを持っていったつもりだったのだけど、目ざとく見付けられてしまいました。
電話機の上に袋に入れたままで、置いていたのだけどね??
子供達は私がなにを持って来たのか、普段から興味津津です。
ベネチアンマスクは見つかってしまって、練習どころではなく大騒ぎになってしまっていました。
私的には、練習でmelodieの対話の演奏がうまく行かなかったら、その時に、ドラえもんのポケットのように、マスクを取り出して、体で表現させようと思っていたのだけどね。


Facebookやその他のnetにuploadをしている人達の掲載している写真を見ると、皆さん、自分の関係者でない生徒に対して、個人情報と言う事で、顔を見せないようにボカシを入れたり、・・と四苦八苦しているようだ。スマホには、そういったボカシをoneclickで入れられるような機能もあるようだが、パソコンではそれは簡単な事ではない。
昨年のクリスマス会の前に、他所の教室の発表会の時の写真を見て、自分の子供の友達の顔に全員ボカシが被せてあったのを見て、こりゃ大変だと言う事で、
冗談で、anonymousのマスクを取り寄せた。クリスマス会の全体写真の時に子供達に付けさせようと思ったのだが、「ボカシは良いけど、マスクはダメ‼」という事で、先生達から総スカンを食ってしまった。
という事で、Anonymousのマスクは諦めて、勿論、ボカシもしてはいない。
そんな、面倒ちぃ~事なんか出来るか?てな事だよ!!






このAnonymousのマスクは、子供達は怖がるのだそうです。
anonymousは実在の人物で、男の子を表す言葉であるGuyの名前の由来であるGuy Fawkesという人物だそうです。


個人情報と言えば、昔の教室では、日本のあちこちから生徒が発表会に参加していたので、その努力を評価するためにprogramには、学校名を入れていたのだが、学校の評価に繋がったり、個人情報の流失という社会的な問題が起きてから、面倒なので学校名は削除して学年だけにした。
音楽を勉強する人達にとっては、顔を覚えて貰ってナンボの世界なので、情報流出とは逆の立場なのだが、教室の生徒全員がそういう立場ではないので、初歩から中級迄の生徒達は、You Tube等では基本的にはuploadはしない事にしている。
小さな子供の場合でも音楽を専門に勉強している生徒に対しては、了解を取った上でのuploadにしている。


対外出演組は、対外出演自体が一般公開の行事なので、個人情報の流出という問題は成り立たない。
つまり、対外出演に参加するという事で、顔がYou Tube等でuploadされる条件は了解済なのだ。
勿論、教室の対外出演は、希望参加なので、希望しない人の場合は参加する必要はないのだから、情報公開の問題は派生しない。
6月10日 12:06


・・で、ベネチアンマスクの話なのだが、私がベネチアンマスクを買ったのは、顔を隠すためでも、個人情報に関するtroubleを避けるためでもない。

生徒達に、音楽の骨子である「質問と答」、「duxとcomes」、「シテとワキ」等々、一人で、「質問をして、答える」・・という、その音楽の基本中の基本である「phrase間での『対話』をする」、という事を教えるために、顔の半面の色が異なっているマスクを購入したのだが??
「何故、ニャンコのマスク?」・・という質問に対して、「よくオケ練習の時に、言っている一人二役の話だよ!」と言ったら、「ああ、なるほど!」とは、言っていたのだが、・・子供達は、本当には、分かってくれるかな~ぁ??
勿論、小学生とは言っても、もう上級生なので、言葉の意味は理解出来るのだけどね??その、役に成り切れるのかな?・・っていう意味なのだけど。




まあ、同じ事を大学生にも要求していて、難しいのだから、如何せん仕方ないのだろうが‥・、melodieのphraseを言葉と思えば簡単なのだがね??
「御機嫌如何??」 「いや~あ、鬱が酷くって‥・!!」・・・てな感じで・・、アハッ!
6月10日 14:48



で、本当は、探していたのは、白と黒の顔のクラウンだったのだが、見つからなかったので、ネコになってしまった・・・!
ニャンコの教室だから、まあ、良いか??
6月10日 12:39





質問と答えでは、tempoや強弱さえ違うのだよ!
活きた音楽を教えるのは難しい!!
室内楽の場合には、対話をする時には、基本楽器が変わるので、弾き手が相手を見れば、それで済むように思われがちなのだが、これも、そう簡単な事ではない。ちゃんと分析が終わって対話の相手を理解していたとしても、どうしてもそのphraseを弾き始めた後で、相手を見てしまうのだよ。「今から相手に向かってお話をするのだから、話し始める前に相手に姿勢を向けていなければならない。」・・と、注意はするのだけど、中々それが出来ないのだヨ!!
どうしても、体の動きが、1,2拍、遅れてしまうのだよ。
6月10日 13:55




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6月10日 19:12 ·

「指揮用のscoreとpart譜と、その校訂について」

音楽の世界は、一般的には有り得ない事が、普通に罷り通っている事がよくあります。
音楽教育界の話は当然の事なのですが、それが、有りそうもない楽譜の話、つまり、出版に関しても、そのありえへん事が存在するのですョ。
尤も、私達は余りにもgewohnt(普通で、慣れてしまった)で、不思議にも思わないのですが、一般的社会では、そんな事を許す事はない‥・という事があります。
それは、楽譜のお話なのですが、scoreとpart譜のお話です。

今は、多分もうそんないい加減な事はしないのでしょうが、昔々は、楽譜屋にorchestraの楽譜を注文すると、時々、scoreとpart譜が違う出版社で送られて来る事がありました。
今では、流通はとても速く、船便でも1月で届くのですが、当時は、速くても3ヶ月、遅い場合には半年も掛かって、忘れた頃に楽譜が届くのが通常だったので、有るものは、違う出版社であったとしても、使うのが、当たり前だったのですよ。
つまり、殆どの楽譜は、出版社が違ったとしても、せいぜい練習番号が違うぐらいで、音符に関しての違いは然程無かったので、大して気にはしないで、使用してきました。同じ出版社の楽譜でも、scoreとpart譜の音の違いは、結構あるのでね。(毎回練習のたびに、訂正をします。)
scoreとpart譜が、ちゃんと同じ出版社の楽譜でも、出版社が違ったとしても、基本的には大した違いはなかったからなのです。

part譜を出版した出版社と、同じ出版社が出版したscoreなのに、他の出版社の楽譜を使っても同じ・・という意味なのですが、その理由は、同じ出版社の楽譜だとしても、scoreとpart譜の内容が色々と違うと言う事なのですが、その原因は、scoreの校訂者とpart譜の校訂者が、殆どの出版社の楽譜のでは全く違うので、(scoreの校訂は基本音楽学者がして、part譜の校訂は演奏家がする事が多いからです。)forte・Pianoは当然の事、slur等、articulationに至る迄、それぞれの校訂者の見解によって、細かく違ってしまっているからなのです。
(練習番号については、校訂者ではなく、出版社の校訂をする人の管轄の場合が多いので、同じ会社のscoreならば、統一されています。もし、scoreの校訂者が練習番号を付けたとしても、part譜にも反映されるのです。ここだけは・・・!)

・・・このお話は、実際に演奏をしている人達ですら、知らない事が多いので、ここは敢えて、繰返して起きますが、同じ出版社のscoreとpart譜であったとしても、違うのですよ!!

という事で、昔々は、私達は楽譜屋にscoreとpart譜を一緒に注文して、別の出版社の楽譜のscoreとpart譜が送って来たとしても、そんなに気にする事でもなかったし、珍しい事でもなかったのですよ。

どっち道、指揮をする人は、細かいarticulation等は、練習の時に細かく指示するので、出版社の注意等を参考にする人は殆どいないからなのです。同じ出版社でなければ、とても困る事は練習番号なのですが、それも結構いい加減に付けてあるので、本当に練習番号の必要な所には付いていない場合の方が多いからです。
練習番号が付いていたとしても、orchestraが入り易いように新しく練習番号を付ける事になります。(出版社の諸注意は、あくまでも参考に過ぎないのですからね??)

という事で、教室で使用している譜面もscoreとpart譜が違っている場合は多いのですが、大した大きな違いではなかったので、今まで出版社の違いに対しては、気にはしていなかったのですが、今回のVivaldi Op.3Nr.3 G Dur のscoreの違いに関しては、とうとう頭に来てしまいました。
この曲の場合には、scoreとpartの譜面はちゃんと整合性があって、楽譜も正しいのですが、なにせ、scoreをsoliとして作ったとしても、1声部が多いし、partの呼び名も、絡め合わせで、『orchestraの並び』との整合性はないし、そのために、scoreと「オケの並び」が合っていなくって、何処に指示を出せば良いのか、一瞬迷ってしまうのですよ。


それに、教室の常設曲であるHaydnのscoreに関しては、冒頭のtuttiのpartが全くpart譜とscoreが違っていて、(scoreではviolaが担当しているBaßのpartが、part譜では、celloが担当していて、scoreとは全く違うので・・)毎回、Hysterieを起こしてしまいます。
なにせ、冒頭の28小節迄が全くscoreとpart譜が違うのですからね?? 

でも、「違うのは、最初のtuttiだけだから‥・!」という先生達のこれまでの話で、常設曲であるにも関わらず、今まで、そのままの状態で、指揮をしていたのですが、毎回、練習のたびに、scoreの譜面とオケの出す音が違って聴こえてしまうので、指揮をするたびにイライラしてしまい、ついに、鬱でHysterieが酷いきょうびのイライラついでに、昨夜は、Henle版のscoreを発注してしまいました。









Haydnのcello‐concerto D DurのHenle版のscoreです。
見てお分かりのように、まあ、色々と違うものですよね~え??



VivaldiのL,Estro Armonico「Op.3Nr.3 G Dur」のscoreの発注のついでです。
色々と、日常的に、鬱が酷いので、少しでも、鬱の解消に‥・という事です。ハイ!

それはそうと、今回のVivaldi Op.3Nr.3 G Dur のPeters版のように、partがRicordi版よりも一つ多いと言うのは、全くいただけません。
Ricordi版のsoloがPeters版の1stで、Ricordi版の2ndが、Peters版の2nd(本来は1stにならなければなりません。)なのですから、指導していても、混乱するだけなのですよ。
教室で使用しているscoreを全てrenewalしなくちゃね~ぇ??
出版されているpart譜には、先生達が手書きで正しいpartの番号を書いて、不必要な「violin4」は削除して、生徒達には配っていません。
もし、soliであったとして、各part一人づゝ演奏したとしても、「violin4」は余分なので、必要はないのでね。



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6月12日 5:30 ·
「Ashizuka‐Knaben‐kammer‐streich‐orchestraの『Knaben』の意味について」

Sah ein Knab' ein Röslein stehn,(童は見たり野中の薔薇)
上記の詩は、SchubertやWernerの曲で有名なGoetheの「野薔薇」の詩の冒頭の一節の原語の歌詞です。
ここに使われている「Knab'」所謂、「Knaben」(=わらべ、児童)という単語のお話です。

教室のニャンTのロゴになっている「Ashizuka‐Knaben‐kammer‐streich‐orchestra」(芦塚児童室内弦楽オーケストラ)なのですが、私が教室を千葉に初めて開設した時に、当時は未だ世界的にも非常に珍しかった「児童orchestraを作りたい!」という願望を込めて、Tシャツにこのロゴをプリントしました。
勿論、中、高生を主軸とした「junior‐orchestra」は日本の各地にあって、それなりの活動をしていたので、中、高生を含んだ少年少女のorchestra自体は、決して珍しくはなかったのですが、「Knaben‐kammer」と言うと、「Knaben」に意味があって、少し状況が違って来ます。

Goetheの有名な「野薔薇」と訳されている詩に書かれている「Knaben」の意味は、詩では「わらべ」と訳されていますが、日本語の定形では「児童」と訳されます。つまり、「児童」=Knabenで、小学生迄の子供達を指す事になります。

「Knaben‐orchestraのお話」
「小学生迄」の限定・・、これが中々難しい!
教室を開設した当初の小さな子供達のグループが、小学生になって「恐怖の4年生」という優れた技術力を持つ集団を形成出来たのですが、celloやKontrabassの生徒達が、同じ技術level迄に育たない。
つまり、orchestraとしてのbalanceで、全ての楽器の生徒が同じ水準に育たないのです。
やっと、celloやKontrabassの生徒達が優れた演奏技術を発揮出来るようになった時には、violinの生徒達は、もう既に中学生になっていました。
つまり、「Knaben」の定義からはもう外れてしまっていたのですよ。

私達の音楽教室は、他所のorchestraのように、年齢を限定して、orchestraの団員を募集するのではないので、年齢と技術を整合させるのが非常に難しく、中々Knabenkammerorchestraを、完全な形で作るのは困難な課題でした。

Vivaldiの時代の所謂、baroque‐orchestraと言うのは、こんにちから見ると、原則として演奏する人数が極端に少なく、Vivaldi のa moll Op.3Nr.6の曲は、2楽章から推察すると、9名の編成で演奏出来るようになっています。(violin‐solo、violin2名、viola2名、cello(basso continuo cello1と、オケcello1、Kontrabass1名とCembaloの合計9名です。
2楽章ではviolinのsoloと、violinの3名が必要なのですが、violaの2名の内の一人が楽器を持ち替えてviolinに行くので、そのままの人数で演奏可能なのです。(人数が少ないので、恰も室内楽のように見えますが、室内楽は各partがsoloのみになるので、9名編成として、人数が少なくてもorchestraになります。)1楽章と3楽章のみであれば、Kontrabassも省いて、6名で演奏する事が可能なのです。

Vivaldiの a moll Op.3Nr.6の場合には、violinのpartは一つしかないので、violinが1stと2ndに分かれる通常の編成の場合には、2ndのpartの人数を足して、11名編成にするか、4,3,2,2,1+Cembalo1の13名の編成になるか?です。
ほぼ、「I Musici」の編成と同じになります。
baroque‐orchestraの基本的な人数はこのような人数になります。
傍から見ると、豪華絢爛としている宮廷も、内情は、どこも家計は火の車だったのでね。



教室を開設した時に作ったTシャツのロゴには、Ashizuka‐Knaben‐kammer‐streich‐orchestra(芦塚児童室内弦楽オーケストラ)というロゴが入っています。上に書いたように、「Knaben」とは日本語で、「児童」を指し、小学生までの子供達の事だそうです。という事で、前回(11日)のオケ練習の時に、中、高生のお姉さん達には、降りて貰って、小学生だけで、Vivaldi a moll Op.3Nr.6のオケ練習のtestをしました。人数的にも、足りない事は足りないのですが、performance的にも、小学生だけで、演奏が可能かな??というtestです。
11月迄には、未だ時間があるので、具体的な課題を出して、先生や上級生達の指導で、何とか課題を熟す事が出来るかな? ちゃんと頑張れるのかな??と思いながら、testをしながら、「課題出し」もしました。牧野先生は「え~っ??」と心配いしていましたが、私の一方的な無茶ぶりで、Knaben‐kammer‐streich‐orchestraを復活する事にしました。以下、その練習風景です。
字幕に、その箇所の課題を書いて起きました。


https://www.youtube.com/watch?v=MwS0G9Owbu0

https://www.youtube.com/watch?v=MwS0G9Owbu0

  

VLCmediaplayerでは、snapshotの機能もあるのですよね~ぇ??
という事で、動画からの写真です。検見川教室のvideocameraは、定点なので、写真としては、後ろ姿だけで、何とも・・ですが、無いよりはまし・・ていうことでupしました。




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6月12日 11:14 ·
自宅のメインのパソコンが壊れた!
だいぶ前から、調子は悪かったのだが、どうも、softが多すぎて、どのsoftが悪さをしているのかが分からない。virus検査も幾つか試みているのだが、検査をするとblue‐outしてしまう。通常のsoftを開く分には、問題はないし、通常の状態で立ち上げると普通に立ち上がるのだが、チョッと無理をすると、パンクするのだよ‼
いよいよハードディスクの交換かな?困った!
取り敢えずは、パソコンが使用出来るように、recovery程度の修復はしているのだが、どうせ、また直ぐに壊れるのだろうな!! パソコンは、チョッと使い込んで来ると、直ぐに調子が悪くなって来るので、自分で修理をするために、Dellを買っているのだが、もう私も歳をとって、疲れてしまったので、今は、自分でパソコンをバラす気は起きないな~ぁ??
driveの可能性もあるので、Dellからdriveとアプリを取り寄せて頑張ってinstallしました。外付けのハード・ディスクの1台のUSBが壊れて、外付けのdisc driveが検知出来なくなってしたので、デバイスマネージャでinstallし直して修復をしました。一応soft関係の修復は全部終わったので、これで暫く様子を見て、やはり不具合が出るようなら、マジ、ハード・ディスクの故障なので、ハード・ディスクの交換をする事にします。出張費込で、4,5万は掛かるかな??



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6月14日 0:06 ·
「何時もの通りに、冷蔵庫には何も入っていないのだが、何とも食欲が起こらない!! 」

「そう言えば、出来たばかりのマルマンストアが11時迄だった」、「ギリギリ間に合うか??」‥・という事で、無理をして、弁当か、食材を買いに出かけようと、ドアを開けて、外の寒さ(16度に霧雨!)に震えながら、一歩、歩き始めた時に心に過ぎった事は、「生きるために食わなければならないのなら、無理をしてまで、食わなくてもよいのでは‥・??」という厭世的な気分であった。
腹が減ったら、寝れば空腹は感じないのだからね??
次の日に、空腹を感じて、もし少しでも元気があったら、その時に、買い物にでも行けばよいのだからね??

実際に、体調不良を押して、無理をして、スーパーに買い物に行ったのだが、弁当や食材の類いは、売り切れていて、全く何も無かったので、ハシゴしてセブンまで行かなければならなかったのだが、そうまでして買って来た弁当を、全く食べる気力が無くなってしまって、食べる事なく冷蔵庫に放り込んで寝てしまった。 
なんじゃい? それは・・??
つまり、食べる気力が全くなくなってしまったのだよ‼
そういう事なら、最初の言葉のように、その日はそのまま寝て、次の日の朝に買いに行けば、弁当も沢山あって、食べたくなるような弁当に巡り会ったのかも知れないよな??
体調不良のときには、殊更、無駄な事をするものなのだから・・。

今の人達には、理解出来ない事なのかもしれないけれど、昭和20年代には「食うために、生きるのか?生きるために食うのか?」という言葉があって、よく人々の会話のお題になったものだ。(ドイツ語では、食料品の事をlebensmittel=生きる糧という言い方をする。初めてドイツでスーパーマーに行った時には、あまりにも直線的な言い方で、驚いたものである。「確かにそれはそうなのだろうけども⁉」)
流石に、三十路を過ぎて、大学の講師をしたりして、或る程度の社会的な地位にいた頃には、流石にもう、そういった事は、口にはしなくなったのだが、私が未だ若くて、生意気盛の大学生の頃には、空腹を満たすために食事を食べに行く時には、「おい、餌を食いに行こう!」と言って、回りの学生達からの顰蹙をかっていたものだ。つまり、何かしら、美味しい食べ物を食べに行く時には、「食事に行こう❢」で、お腹が空いたから、なんでもよいから食べる時は「餌」と使い分けていたのだよ。
私が大学生になったばかりの頃は、未だ昭和30年代の終わりの頃だったからね。「生きるために、食べる」という感覚は未だ残っていたのだよ。

経済的に豊かになったこんにちの日本では、食は既に「生きるためのものではなく」、趣味や芸術の世界となってしまっている。

大戦の時代に、富国強兵で「産めよ!増やせよ!」と、4人の男の子と、1人の女の子を産んだ祖母(当時は、最低でも5人は産む事を女性は義務付けられていたのだよ!子供を産めない女性は家を追い出されるのが、当たり前の時代だったのだよ‼)(だから、日本の国の大臣が「女性は子供を産む機械である」なんて事を平気で曰うのだよ。)であったが、戦争は祖母の男の子達全員を奪ってしまった。
別に、祖母の家庭が特別なケースであった・・という事ではなく、何処の家庭もおしなべて同じ様だったのだよ。

戦争で、息子や夫という働き手を無くした祖母や母達は、孫達に食べ物を食べさせるために、必死に働いて来た。
その当時には、女性には働き場所等はなかった。女性が社会で働く事等はまだ認められてなく、あったとしても、女性の労働の賃金はたかが知れていた頃の話だよ。
つまり、昭和20代の「働く」と言う事の目標は、その日の食べ物を手に入れる事だったのだよ。
昭和20年代のALWAYSの時代は、今の人達が想像するのとは違って、その日を暮らして来た者達にとっては、決して楽で楽しいものでは無かったのだよ。

その時の祖母や母の苦労を慮る(おもんぱかる)につけて、歴史から何も学ぼうとしない今の日本社会を、憂える気持ちは、もうすっかりない!
私の世代の時代はもう終わったのだからね。
今の人達がしっかりと、子供達の世代を支えて行かないとね。
共謀罪の次は、徴兵令だよ!!



昨日(13日)はすっかり鬱ってしまったのだが、両肩から指先に掛けて血流が途絶えてしまって、腕全体が痺れて、心臓も不整脈も起こって、そろそろバイパスの血管が詰まり初めて、ステントをしなければならないのか?と思ったら、何か人生どうでもよくなって、厭世的な気分になってしまった。
腎臓が1個しかない上にもう規定回数以上の造影剤を使用した検査をしているので、これ以上造影剤を使用すると腎臓が止まってしまうので、透析になってしまう。だから、次回は造影剤を使用しない高性能のMRIでないと検査が出来ない。そのMRIは保険適用外なので、検査だけで16万も掛かるそうな??しかも、2,3ヶ月待ちだそうな?? 困ったもんだ!!
6月15日 9:10


一昨日(13日)には、頑張って、マルマンやセブンでほんの少しだけ食料品の買い出しをして来たのだけど、部屋に帰ってからは、もう食べる気力がなくなったので、お腹を空かせたまま、そのまま寝てしまった。それから次の日(14日)の朝と昼は、前の日に買った食料品が冷蔵庫にあったので、それを食べたのだよな。

でも、夕方になって小腹が空いたのだが、椎名町に食べに行くには、時間が早すぎるし、外に蕎麦でも食いに出掛けるのも億劫なので、部屋にある食べ物を探して、非常食のインスタント・ラーメンを探し出して来た。
「じゃあ、これで間に合わせるか??」という事で、作って食べたのだが、何と、麺の油が劣化していた。麺の油の臭いは、スープの強烈な臭いにかき消されて気にならないぐらいだったし、腹が空いていたので、少し無理をして食べたのだが、半分程で、「とても無理!」という事で捨ててしまったのだが、時既に遅く、それから、延々と腹の具合が悪い! 
パッケージに書かれている賞味期限を、よく見ないで作ってしまったのだが、多分、期限切れだったのだろうか??
今日は、期限切れの非常食を探して廃棄処分にしなければ・・・❢❢
またぞろ、同じ事を繰返してしまう。
6月15日 20:19





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6月15日 20:44 ·

折角、頑張って、冬物を仕舞って、夏物に替えたのに、どうして毎日毎夜、こうも寒いのだろうか⁉
寒くて、布団に潜り込んでも、夏の薄手の掛け布団では、超寒くって、熟睡が中々出来ない‼
・・・かといっても、折角、真空パックして仕舞い込んだ冬の布団を今更出す気にはなれない‼
困ったものだ



大阪もそうですよ。それに花粉症と同じような症状がでて・・・困ったものです。
6月15日 23:05

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今日は一転して29度のカンカン照り!その中を何と銀行回りで、ふう~ふう~汗をかいてしまった。夕方の4時5時頃から一転して、雨や雷雨、雹の予報なのだが、今にも降り出しそうな感じなのだが、遠くで雷が鳴っているだけなのだが、それにしてもとんでもない突風が2時間近くも吹き捲くって、温度は19度まで下がってしまった。東京でも雹が降った所もあるそうなのだが、練馬は雷と突風だけだったよ!それにしても、この温度差は酷い。バイクでは、19度は、さすがに寒いのだよ‼
夕方から、また鬱が再発し始めた。この所、毎日心臓の調子がよくない‼とは言っても、不整脈という程ではないのかな??微妙だな⁉
6月17日 0:47 · 編集済み

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銀行回りと言っても、私個人の銀行回りをする場合には仕方はないのだけど、教室の経理に関する事に対して、私の個人確認が必要なのは頂けない。幾ら教室の代表取締役だとしても、もう、すっかり老人なのだから、そうそう、銀行に行って手続きをする事は出来ないよ❢❢
何故、俺なのだ??
経理担当者個人認証で良いのでは‥・??
6月17日 6:15


6月の20日の火曜日です。な!な!な!何と・・今日も、またまた、銀行回りですよ!私の税金の引き落としの口座が、教室の口座と同じ通帳になっているので、そんな七面倒くさい事になってしまうのですよ。私名義の通帳で教室の経理をやっているので、それだけはやめて❢❢と何度も言っているのだけど、移してくれないのよね??
6月20日 10:46

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今現在の気温は、yahooでは22度なのですが、auスマホの気温では18度を切っている所です。兎に角、部屋の中にいても寒い。Googleの練馬の気温は最高が22度最低は19度なのですがね。今の気温は既に18度を切っているので、yahooもGoogleも当てにはならないと言う事なのか??
それはそうと、兎に角部屋の中にいても寒い❢❢
どうなっているのだ??
6月18日 10:07



あいも変わらず、この10日間ぐらい心臓のパクパクが続いていて、鬱も酷い。
心臓のパクパクや頻脈、不整脈は、この2年間、全く起こらなくって、すごく喜んでいたのだが、どうした事か、またまた、再発してしまった。
こんにちでは、MRIやCTの性能が上がって、造影剤や放射線を使用しなくても、検査が出来るようになったらしいが、保険適用は出来るようになったのかな?
本当に、今直ぐに、検査を受けなければならない程とは、思わないのだが、なにせ、心臓の調子が悪くなると、てきめん、鬱が酷くなるし、南淵先生からは、
「心臓は1回止まるとそれで終わりだから・・」と脅かされているしね。
6月20日 15:24



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6月17日 13:51 ·
「徘徊と認知症の疑似体験(夢とうつつと)」
「commentする」「返信する」に当たらに追記しています。(6月23日、24日)

毎日のroutine作業として、朝は5時には起きていて、体重と血圧の測定をして、そのまま仕事に入る。
仕事と言っても、何かしら定形の作業ではなく、教室から持って来た(委託された)作業や自分自身の仕事の事もある。
その日、その日をこなしているだけなのだから、仕事というのはおこがましいので、雑用と言った方がぴったりするのかも知れない。
しかし、それはそれで、それなりに、結構、忙しい。

通常は、9時頃までには、ひと仕事は、終わるので、それから、朝食をとったり、朝の薬を飲んだりするのだが、大概の場合、前の日の夜は早くても2時、3時のベッド・インなので、5時起きでは一時間、二時間の睡眠にしかならないので、とても睡眠時間が足りないので、そのままでは一日バテる事が多いので、朝のワンクールの一仕事が終わった後で、一度、お昼近くまで、仮眠を取る事が多い。仕事を一段落させて、食事や雑用の終えての睡眠なので、時間は短くても、結構、爆睡出来るのだよ。
今日も9時頃には仮眠をしたのだが、珍しく夢を見た。

(夢の中の話で…)
いつものように、事務所に向かってバイクを走らせていると、いつの間にか、来た事も、見たこともない山奥にいた。
どうやら、道に迷ったらしい。
※1)

知っている道に戻ろうと、どの道を走らせても、知った場所には出ないので、自分の居場所を確認するために高台への道を見付けてバイクを走らせると、遠くの方に都会のビル群が見えた。
「あそこに行けば、自分が何処にいるのか、分かるのでは?」と思ってその方向へバイクを走らせて、街の中心街とおぼしき所まで、走って来たのだが、やはり、見知らぬ街であった。

さて、これから、どうやって自分の知っている場所へ戻る事が出来るのか?・・と悩んでいる時に、ふと気がついた。
「これは現実ではなくって、徘徊の疑似体験ではないか??」と‥・。

徘徊をして、自分が何処にいるのか分からないという事なのだが、‥・それは、子供の頃の、道を見失って、迷子になった時の感情とは、全く違っている異次元の感情の世界であった。

分かり易く説明すると、迷子の子供の場合には、子供達は、現実の世界に存在していて、居る場所を見失っているのに過ぎないのだけど、徘徊の場合には、この世の世界である比岸とあの世の彼岸を徘徊しているのだよ。
つまり、今居る場所が現実の場所なのか、「うつつよ」の世界なのかどうかが分からない‥・という事なのだよ。

・・という事で、今見た夢の中の世界の、その得難い経験に基づいて、パソコンに書き込もうとしたら、Facebookの他にも、色々な似たような体験を綴った反故がアチラコチラに書き散らかしてあるのを見つけた。
それらの反故の文章を一つに統合して、一つの文章の中に纏めようと思ったのだが、中々その文章への移動が出来ない。

なぜ文章の統合が出来ないのだろうか?
なぜこんなにも文章を書くのが「難しい」のだろうか??・・と、よくよく熟考したのだが、ふと、気が付くと、何と、これも又、夢の中だったのだよな??

以前、ベッドの中で、思いついた事を、一生懸命にスマホに入力して、朝、起きてスマホを確認すると、何一つ入力されていない‥・・入力したと言うのは、夢の中の話であった‥・という事を書いた事があるのだが、当にその世界の話なのだよな??
必死になって、スマホに入力をする努力をしているのだが、その努力も夢の中なのだよな。

という事で、暫し、ベッドのヘリに座って、意識を戻して、今パソコンに向かっている・・のも夢だったりして‥・・。
しかし、そこまで行くと、現実と夢の区別は付かない。
はて?夢かうつつか、まぼろしか・・、現世と書いて、うつつよとも読むのだよ!!
という事は、私がこの世に産まれて来た事すら、夢の中に過ぎなかったりして・・・

でも、私の存在が夢だとしたら、あなたの存在も無なのだよ‥・??
「イヒ、ヒ、ヒ❢」

※1)八千代の近くに教室を探しているのだが、それが結構、潜在意識として、pressureになっているのだろう。事務所への行く道が分からない・・というのは、新しい教室に対しての不安の表れと思われる。




認知症の特徴は、私の経験によると、よく見馴れたものが、初めて見るものに…認識されることがその第一歩である。
よく、世間で、ジジババが、自分の子供を、初めて会った人と思ってしまう場合があるのだが、それがその典型的な症状だよ。
だから、毎日、歩いているはずの自宅の前の道で、初めて歩いている道と思って、迷子になってしまうのが、徘徊の始まる切っ掛けになってしまうのだよ‼

よく知られているように、記憶は自然界で、ものが堆積するように、古い記憶の上に、より新しい記憶が溜まって重なっていく。
健康な間は、古い脳の上に新しい細胞が形成されていくので、古い記憶を呼び覚ますのは中々容易ではないのだが、歳をとると、脳が溶け始めて、より新しい記憶から順に脳が溶けて失なわれて行くので、より古い記憶が露出して来る。
そのために、もう忘れてしまったような、とんでもない古い記憶が老人にとっては、昨日に起こったような鮮明な記憶になって行くのだよ。
老人が孫を子供と間違うのは、自分が子育てをしていた時代の古い記憶が脳の表面に露出するからなのだよ。そして、その子供さえも、判断が出来なくなると、失われた記憶を取り戻すのは、より困難になってしまう。

なにを今さら…そんな事は誰でも知っているよ‼…って・・⁉
いや、こんな話を蒸し返すのは、たった、それだけの知識で、自分のボケの進み具合の診断が出来るからなのだよ‼
「近頃、そんな経験はないのかな⁉」ってさ…‼

毎日、歩いている道で、迷子になりかかったり、昨日会った人の名前が、出てこなかったり、同じ食材を間違って買ってしまったり、……
そういった、経験はないのかな⁉
それが認知症の始まりなのだよね??
もし、心当たりがあるのなら、今からせっせと、準備と、その対処をしておかなければならないよな??
という事なのだよ‥・・❢❢
6月18日 8:12



徘徊には、大きく二種類のpatternがある。
自分が何処に向かって歩いているのかと、行き先や歩いている目的、目標を見失ったままに歩いている場合と、単に、自分の家への帰り道を見失っている場合である。
この二つはよく似た症状であっても、全く別の心の表れで、全く違った要因によるものである。

行き先を見失って歩いている場合の方が、より重篤で介護する側も困難である。
帰るべき家・・という概念、そのものを、見失ったままで歩いているからであって、その行動には終わりがないからである。
それに対して、帰る道を見失しなって、徘徊をしている人には、住んでいる家の概念があるから、家に連れ帰る事が出来れば、その徘徊の衝動は収まるからである。
その差は、非常に大きい‼

先程の私の夢の場合には、私がバイクを走らせている方向は事務所である。ちゃんと目標があって、走っているのだが、今居る位置を見失って、それが自分の存在に繋がってしまっているのだ。
つまり、自分の鬱という状態をsuggestし、表出しているのだよ。夢の中で、自分の心のrecoveryをしているのだよ❢
・・でも、recoveryが出来るのは、その夢の謎を解く事が出来ればの話なのだが‥・。
う~ん?? 人生は難しい❢❢
6月18日 8:18



硬貨が溜まってしまって、タンスの肥やしになってしまっていて、活きていないので、銀行の自分の口座に入金をしようと思ったのだが、ATMは月から金の6時までだという事で、5時半になったので、慌てて、通帳を持って銀行に行ったのだが、何と入金出来ない❢❢
netで調べ直しても、江古田の銀行は何処も6時迄はATMで入金が出来るはずだ❢❢
「折角、重たい思いをして、銀行まで行ったのに‥・??」と不平不満で、ふと気が付くと、テレビが7時のnewsをやっている。
「なんだと‥・??」
帰ってから、1時間も経ってないぞ??
確認して見ると、前の仕事が終わったのが、既に6時を過ぎていた・・という事だ。
つまり、「5時半だから間に合う」と思い込んでいたのは、「6時半」だったのだよ。

この歳になるまで、そういった思い込みは一度もした事がないので、超、shockであった。
時計を何度も見て確認をしたはずなのに、思い込んでしまったのだ❢❢
それは、怖い❢❢
これも、歳の性か??
色々と有り得ない事が起こって来る。
これが歳と言う事なのか??
6月24日 2:36

.

ありえへん思い込みと言えば、昨日の思い込みは、何と❢なんと?もう一つあったのだよ。
それは、朝のroutineの体重体組計の測定と血圧の測定を・・「計った」と思い込んでいた事だ。
体重体組成計は、朝の5時から11時59分(所謂、12時前)迄に測定しないと、その日の測定としてはパソコンにはdataが入らなくなってしまうのだが、「午前中5時には計った」と思い込んでしまったのだ。
だから、パソコンのdataを確認する・・なんて事は当然やらなかった。
お昼を過ぎてから、「今日の体重は‥・?」と、パソコンを開いて、計っていなかった事に初めて気がついた。
これも「計った」という思い込みだ。
自分としては「ありえへん」思い込みなのだが、1日に二回も「ありえへん思い込み」をするとは、「ありえへん」のよネ??
ありえへん事が起こったのだよ。
さて、どうすんべぇ~??
6月24日 8:13 · 編集済み


今日は月曜日なので、硬貨の袋をまた、銀行に持って行って、ATMで入金しようと思ったのだが、何と、1回に100枚迄しか、入らない!何度も、何度も、通帳を入れ直して入金を繰返してやっと、入れ終わった❢❢混んで無くって良かった❢❢
6月26日21:37


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6月19日 13:16 ·
yahooでは今の練馬区の気温は26度だそうだが、Googleや部屋の温度計では、もう既に27度を越えた所だ❢
3時頃には、28度迄は行くらしい。
でも、昨夜は18度弱で「寒い❢❢」と震えていたのだから、兎に角、体が付いて行かない。もう、無理❢❢

部屋中の窓という窓を全開にして風を通しているのだが、その風が生暖かい上に湿気を孕んでいて気分が悪くなってしまう。
しかし、だからと言って、クーラーに頼ってしまうと、より体調を崩してしまう。
私の記憶ではこんな事は無かったのだが、何時の頃から、日本はこうなったのだろう??これも、温暖化の影響かな??




6月の18日の日曜日は大雨だったので、オケ練習を終えて事務所に戻って来て、事務所から深夜ハイツに戻る時には、バイク用のレインコートを着て帰らなければならなくなった。「・・ならなくなった。」の意味は、レインコートはnetで注文して買っているのだが、makerに寄って、同じsizeであるべき服のsizeが違うからだ。事務所に置いてあるレインコートは、お腹のsizeが小さくて、これまでは着る事が出来ないレインコートだったのだが、日曜日に着てみたら、何と❢❢・・着れたのだよ❢
バイク用のjacketは、事務所に置いたままで、レインコートでハイツに戻った。

さて、昨夜の月曜日なのだが、雨は降っていないので、レインコートは袋に仕舞って、さて、事務所にバイクを走らせようと思ったのだが、困った事にjacketがない❢ そう‥・、事務所に置いて来たからなのだ。他に長袖の服はもう押し入れの奥に仕舞い込んで一着も出ていない。
困ってしまったのだが、余りspeedを出さないように気を付けて、(speedを出すと風を切って、超寒いからなのだよ。)震えながら、なんとか事務所までバイクを走らせた。18度ならば、耐えられなかったかもしれないが、昨夜は20度弱なので、何とかバイクでも、堪えられる温度だったのだよ。
でも、もうすぐ、7月だよな??
6月20日 10:29



今は、またまた銀行回り中なのだが、熱中症でひっくり返りそうに熱い‼
喫茶店に逃げ込んでいる所だ‼
「鬱だ❗」「心臓だ❗」・・と同じように、「熱い‼」「寒い‼」・・を繰り返している‼
いつからそういう事を繰り返し言うようになったのだろうか⁉
6月20日 15:23







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6月20日 10:13 ·
テレビが壊れた!!

朝、起きて見ると、videoのdeck(Diga)が2台とも、テレビで再生が出来なくなっている。
on-offを何度、繰返しても全く作動しない。
しかし、パソコンの画面は問題ない。どーゆーこっちゃ??
テレビの主電源を切って、10分間放置して、一度静電気を飛ばして、それでも映らなければ、コードの問題なのだが、「2台とも」・・というのが、引っ掛かる。
いずれにしても、テレビの裏側の「配線のcheck」なのだが、テレビのラックは、車が付いているのだけど、videoのdeckだけでも、6台乗っかっているので、とても一人で動かす事は無理で、・・・音声の外付けのspeakerの音が出なくなった時にも、先生に「ラックを動かすのを手伝って・・❢❢」と言ったのだが、「腰痛で駄目!」と断られてしまったので、音声も外付けのspeakerで聴くのは無理だし・・、困ってしまった。
はてさて、Digaが動かないと教室の発表会のvideoの編集作業に支障を来たすのだが、今回の発表会の編集の作業分は、もう、打ち切りにしたので、まあ、暫くは、video‐deckが見れなくても、支障はないか‥・??

それはそうと、何故、videodeckが6台あるのか??って‥・??
先ず、高性能の機種であるDigaの一台は、発表会やオケ練習の動画を入れて編集やdvd、若しくはBlu-rayに焼く作業をしている。
もう一台の安い方のDigaは、テレビを録画して、仕事をしながら、見るのだよ。私は「ながら族」なのでね。
さて、それ以外のvideo‐deckなのだが、先ず、VHSの高性能機種1台と、VHS⇒DVDの編集用の機種、βが未だあるのだよ。βのtapeが未だ沢山残っているので、捨てる事が出来ないのだよ。後は、Boss のテレビ用のspeakerと、APS用の再生機器、APSのfilmがテレビ画面で見る事が出来る機器だ。
という事で、兎に角、重たいのだよ。 


 



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6月20日 17:33 ·

「LGテレビの故障のお話の続き」
commentと返信に、事後報告を付け加えました。(22日23日24日)

    





昨日の今日のvideoの話なのだが、まあ、巨大ラックだけど、誰も手伝ってくれないし、電気の事は私しか出来ないので、ラックの移動も一人でやるのは仕方ないか??
昨日は、ベランダに植木を置くためのテーベルを組み立てたのだが、これが超重くて、昨日は、腰が痛くて、作業が出来なかったので、斉藤先生が手伝った・・というか、殆どやってくれたのだが、このテレビのラックは流石に無理で、放置していたのだが、今日は、鬱とは無関係に体調(腰)は調子が良かったので、思い切って、ラックを動かして、テレビのcheckをした。アハッ!
重い物を持つのも動かすのも、演奏の仕方と全く同じで腰が入るか否かの違いなのだよ。だから、結構、100㌔を越すものでも、腰を入れれば動く事は動くのだよな。
花園の黒ピアノは450㌔もあるのだが、運送業者は2人で持ってしまうのでね。
一人225㌔だよな??それは凄い❢❢
さて、ラックを動かして、接点の確認と、テレビの初期化もしたのだが、全く無駄であった。
という事で、諦めてmakerにmailをした。
updateでなんとかなると良いのだが、HDMIの端子の不具合なので、多分、接点の交換になるのかな??パソコンはHDMI端子ではないので、問題はないのだが、videoだけが駄目なのだよな??




テレビラックを動かした事で、後ろにオッコっていた色々なものを回収出来た。
中でも数年前に無くした洗濯屋の会員カードが出て来て驚いた。
この会員カードは随分頑張って探したのだが出て来なかったカードなのだ。
駅下に洗濯屋が出来た時に、随分、自宅に近場なので、自分の洗濯物をわざわざ椎名町に持って行くのはやめて、自分で出すようにしたのだが、暫くして、会員カードを紛失してしまった。
洗濯屋に会員カードの再発行を頼んだのだが、「出来ない!」と無下に断られてしまった。
アクリルカードではなく、ただの紙に手書きで書き込んだものに過ぎないのに・・だよ??
洗濯屋のバイトのオバサンは、「その場で電話番号を言ったら、それで良いから・・」という事だったので、一、二度は洗濯物を持って行ったのだが、持って行く時も、持ち帰る時も一々電話番号を言うのは、結構、精神的なpressureが大きいので、洗濯物を持ち込む事をやめてしまって、また、椎名町に持って行く事にした。


jinxというのか、よく分からないのだが、私が行く事をやめた店は、大体、半年以内には潰れるようで、その店も、私が洗濯物を持ち込むのをやめてから、ふと、気が付いたら、いつの間にか、洗濯屋から、千円理容室になっていた。
つい先日、髪を切りに行ったお店なのだが、店の人に聴くと、オーナーは、洗濯屋と同じ人なのだそうだ。
「この理容室もいつまで持つのかな??」という感じではある。

そういった、取るに足らない思い出なのだが、突然、洗濯屋の会員カードが出て来て、江古田のお店の栄枯盛衰をおもんばかる事は面白い❢❢

ほんとうに、江古田では、色々な種類の新しいお店が出来るのだが、半年もしないで、直ぐに潰れてしまう。
江古田と言えば、ラーメン屋が密集していて有名なのだが、色々なラーメン屋が出来た分、潰れているので、有名店と言えども、安穏としてはいれない。超有名なお店も、半年を待たずして潰れているのだから‥・。
唯一生き残るのは、マッサージ屋と、介護の店か??

それにしても、テレビの修理を申し込むのに、何故電話なのだろうか??どうして今時mailでは駄目なのだ??
勿論、質問事項が多々に渡るからなのだろうけれど、templateを作れば良いだけなのでは‥・?(書ける人はいないか・・??)
6月22日 2:29



という事で、テレビは、LGのmakerに電話をして、修理に来て貰う事になったのだが、出張料と技術料、parts基盤代等々で、最低2万7千から4万ぐらいを見積もる事になったのだが、時間を決めるのに、電話がまた通じない。
とは言っても、昨日の内に折り返し、掛かって来ているのだが、私の方の携帯の電話の呼び出し音がしないので、対応が出来ないのだよ。
スマホの設定は弄ってはいないのだが、勝手に鳴らなくなったり鳴ったりして安定しない。
勿論、その携帯の不安定性は、私の携帯だけではなく、先生達の携帯もだ。同じauの同じ機種の電話ので、同じ不安定さが出るのは当然か???
電話はやっぱりガラケーに限るよな??基本的には、電話とmailさえ出来れば良いのだから、本当は何もガラケーでも、不自由はなかったのだけどね。
色々な調べ物に対しては、スマホは画面が小さ過ぎるので、tabletも考えたのだが、tabletまで行くと、持ち運びには大き過ぎるよな?
6月22日 16:22



LGのテレビは超薄型なので、音声のビビリ音が酷くて、買ったばかりの頃、修理を依頼した事がある。色々な箇所のネジの締め付けをして、「それ以上は構造上は出来ないので、気になるようならば、外付けのspeakerを付けるように!」と、adviceされたので、Bossのテレビ専用のspeakerを買ってそれで、音声を聞いていたのだが、HDMI端子が不具合を起こす1月、2月程前に、ひかりの音声が感知しなくなってしまった。今回、修理をorderする時に、ふと思いついて、ひかりの音声とHDMIの基盤が同じものではないか??と思って、修理から電話があった時にその話をしたら、全くその通りで、同じ基盤で外付けのハード・ディスクも含めて、一つの基盤が兼ねているそうで、基盤交換だそうな。
修理業者なので、流石に、話が早い。
早いと言えば、「何時、修理に来て貰えるか??」と質問したら、「早ければ明日、朝の6時、7時には来れる」という話だったよ。
勿論、「それでも良い!」と答えておいたけれどね。正確には、明日の朝電話が来るそうだが‥・?
6月22日 16:15



‥・という事で、朝一の9時に来て、蓋開けに5分、基盤交換に5分、蓋閉めに5分で、書類書きに5分で、終わった。音声も修理が帰った後で、ゆっくりと、pcm設定をテレビ側でして、問題はなく出るようになった。今度は、書留が12時から2時の間に着く。不動産に関する書留だ❢❢ 昨日も郵便の配達時間には、部屋の中に居たのだが、何度言っても、呼び鈴を鳴らして出なければ、不在として帰ってしまう。だから、再配達になるのだが、その時間に、玄関の音を耳をそばだたせて、聞いていなければならないのは、結構、pressureである。今日は、朝の仮眠が出来なかったので、書留を待って、12時過ぎに、起きているのが辛くて、吐き気がして来るのだが、誰も助けてくれないので仕方が無いのだが、困ったものだ!!
6月24日 1:49



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6月21日 5:38 ·
本当は書きたかった話は、洗濯屋の話ではなくって、飲みに行かなかった話なのですよ。
本当なら、今日はひさしぶりに行きつけの寿司屋にでも飲みに行こうと思っていたのですがね。
毎週の火曜日は、事務所には誰もいないので、普段は椎名町まで食事をしには行かないで、(食事当番の人がいないので)外食で済ませます。
普段は、行きつけの寿司屋に食事ついでに、飲みに行く予定なのですが、この所、体調不良が続いているので、随分、お久しぶり・・になっていて、近頃は飲みには出掛けていません。
体調が悪い時には、生物を食べるのは、結構辛いものがあるので、寿司屋での食事は無理なのでね。

江古田村では、夜の11時を過ぎると、寿司屋以外では、ラーメン屋しか開いていません。
でも、寿司が無理なのに、ラーメンが食べれると言う事は有り得ないので、結局の所、外食は無理になってしまいます。
駅前のワタミも開いている事は開いているようなのだけど、焼き鳥では、食事の代用にはならないしね。
また、老人が一人で行く場所でもないようだしな??
所詮は若者達が集う店だよな??
‥・という事で、体力的に、外食が可能な場合には、結果的には、いつもの寿司屋になってしまうのですよ。
くれぐれも、そのお店が「お気に入り」だから、行きつけ…ということではないのですがネ?
(選択権がないっていう事ですよ。)

私的に言うと、夜は、雑炊程度で良いので、2合の徳利と、小鉢程度の料理で充分なので、相棒の右京さんの隠れ家のような「花の里」のような、小料理屋が良いのですが、江古田は若者の町なので、そういった小洒落た小料理屋の一杯飲み屋はありません。
勿論、赤提灯のようなお店や、割烹のようなお店もあるにはあるのですが、どこも、11時には閉まってしまいます。
椎名町には、11時以降も開いている赤提灯はあるのだけど、そこで、飲んでしまうと、電車で帰らなければならなくなってしまうので、次の日がキツいので、滅多に椎名町で飲む事はありません。

少し早い時間(この場合の”早い時間”という意味は、お店の開いている時間という意味で、”早朝”とかいう意味ではありません❗)に、買い出しに出掛ける事が出来れば、近所のスーパーかセブンでお弁当を買って来て、部屋食べて済ませてしまいます。
しかし、で部屋チョッと一杯となると、部屋には、日本酒は置いていないし、ビールは一人で飲むよりも、皆でワイワイと飲む方が良いと思うので、部屋で飲む時には、どうしても、Wine専門になってしまいます。
‥・と言うか、「飲もう」と思った段階で、飲まないで、寝てしまう事の方が殆どなのよ。
「飲む」と言う事は、どうしても、体調が良い時に限られるので、体調不良が続いている近頃では、家の中・・だとしても、滅多に飲む事はありません。

チョッと以前まで(・・と言っても10年以上前の話だよな…??)は、毎日、何かしら、アルコールを飲んでいたのですが、めっきり弱くなって、体がアルコールを受け付けなくなってしまいました。

それでも、たまには、「日本酒でも飲みたいな?」という気分になる事もあるのですが、思いとは逆に体調が付いて行かないので、チョッと休憩をして、一休み、二休みして「体力を戻そう」としてしまうと、時間的に、ついつい、飲みに行くtimingを逃してしまいます。
深夜も、1時、2時ともなると、飲みに行くのも気が引けてしまうのでね。

今日は不思議な事に、冷蔵庫の中には、食べ物が買ってあるのに、夜食は何も食べないで寝てしまったのですよ。
夜は、結構、バテてしまうので、お腹が空かない‥・のですよ。



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6月22日 6:28

ドイツ人の国民性とでもいうのか、数字国民らしく、小学生の間からやたらと数字で物事を理解しようとする。

私が、若かりし頃のMünchenに留学中、ある有名人の集まるpartyで、ドイツ人の有名な建築家の人に、「東京について」の事を聞かれて「何と答えようか?」と悩んでいたら、矢継ぎ早に、東京の位置する緯度と経度や人口、面積等を質問されて、答えに窮した覚えがある。彼から「この程度の事は、ドイツでは小学生の3,4年生でも答える」と怒られてしまった。
私が大学生であったその当時では、「数字で日本の何が分かる??」と反感を持って、聞いていたのだが、その反面、情緒と感情で共感したとしても何が分かるのか?という事もある。
共感は、所詮は、井戸の中の世界の話にしかならなくって、その事がglobal‐standardな事になる事はない。
この質問自体が、理屈のヨーロッパ人と、fuzzyの日本人との大きな違いでもある。
日本人がドイツの事を質問する上で、まさか、国土面積や緯度と経度、その成り立ちについて、pianistのお披露目のpartyの話題として質問する事はないだろうし、その答えを期待する事もないだろう。
ただ、音楽の勉強をする時には、日本人は、情緒的、感情的に学び、且つ、指導して行くものだが、ドイツ人は、論理性を中心にして学んで行くようだ。

・・・てな事は、分かり切った事なので、ここで勿体ぶって、殊更、言う事でもないのだが、それにしても、München時代に受けた室内楽のlessonのやり方を思い出すに付け、ドイツの先生達の「明確さを表現する言葉の多様さ」に改めて驚かされる事がある。
思い付くままに、徒然にドイツの先生達の使う言葉の中から、一つの言葉の例として、音楽のlessonを受けた中で、最も先生達が多く使用していた言葉である、「明確さ」を表す言葉を列挙して見た。
全く同じように見える「明確さ」を表す言葉でも、微妙に用途が違うし、意味もその機微が異なるのだが、その違いを日本語で訳す事は出来ない。

Münchenに留学中に、室内楽のlessonを受けて、室内楽の教授の指導を受けていて、目から鱗で、一番驚いて、感服したのは、(Mozartであろうと、Haydnであろうと、)先ず、最初には、生徒達に、fortissimoで演奏させる事である。

つまり、お互いが、お互いの音を確認して理解して、それから、おもむろに教授が「では、お互いのpartをよく分かった所で、これからsauber machen(綺麗にする、掃除をする)!」と言って、pの所やmfの所の強弱や、articulation、tempoの揺らしを作って行くのだ。
つまり、fortissimoから、楽譜に書かれているforteやPianoを作って行くし、tempoも、初見の段階ではMetronomのように正確に、tempo giusto(正確なtempo)に演奏するのだが、音楽が理解出来て行く過程で、「揺らし」でrubatoや、溜めのような音楽表現を一つ一つ、丁寧に作って行く。
まるで、その過程は、恰も彫刻を作っているような感じだ。

日本の音楽大学の室内楽のlessonで、pianissimoの所をfortissimoで演奏する等と言う練習法を、まかり間違ってもやったとしたら、先生にとんでもなく怒られてしまうだろう。
日本の練習の方法論では、楽譜が完成形なので、最初から、その形になるように、練習をして行く。「forteはforteで」、「PianoはPianoで」・・と、最初から、楽譜に書かれた通りに、演奏しなければならないのだよ。一言半句それを変えて練習しては、いけないのだよ。それ以外の形は有り得ないのだよ。
ここにも国民性の違いを感じるネ。

ドイツの室内楽の練習では、お互いが相手のpartの音を確実に理解する迄、fortissimoで練習するのだが、その過程で、修整を必要とする箇所が見つかると、教授からの指示は「そこの所を少し、aufräumen(整理をする、片付ける)しよう!」という事になる。
生徒の間違えた演奏解釈を修整し、全員の音楽感の整合をさせて行く分けだよ。

演奏がもっと荒れてきて、生徒達が混乱して来ると、音楽表現が滅茶苦茶になって来ると、音楽が「Unordnung(無秩序)=整合性のない状態」となるので、Genzmer先生の口癖の「それでは、klar machen(明らかにする、明確にする)しよう!」という事になる。
という事で、一つ一つkompliziert(込み入った)partを、一人一人に対して、明確に理解させて行くのだが、その説明に、情緒的、感情的な表現はない。
「明確」にする・・という意味は、論理的に意味の解釈を整合させるという意味なのだからネ。

ドイツ人と、日本人との音楽の追求と表現の一番の違いは、音楽に求めるものが常に「明確さ」である、という事なのだ。

日本人の室内楽やorchestraの練習の中には、指導者からは、こう言った種類の指導する上での単語が出て来る事はない。
音楽大学の先生等は、常に、「ここはこう表現するのだ!」という演奏上の情緒表現で生徒に伝えるのだが、学生達は、その情緒表現に感激して、先生の演奏を真似ようとする。
所詮は、猿真似国民だからね。

私の場合には、生徒に猿真似をさせないように、なるべく、演奏ではなく、言葉で説明、解説をして伝達をしようとしているのだが、音楽界に限らず、現代日本の教育界では、論理的な理解よりも、指導者に言われた通りに猿真似をする事が優先され、「良し」とされる。
それなら、指導者としての「指導の技術」は要らないのだから、全く楽な話だけどね。
猿真似が好きなのは、日本人が、i dentityを重要視しないという国民性にもよる。

i dentityと言えば、日本人の高校生や大学生が、大学進学や就職に関して、学校の先生や親の意見に從って決める・・と言う事に、お隣の韓国の大学生が驚いていて、「自分の一生を他人に委ねるなんて‥・??」と絶句していたのが印象的だった。
結婚に付いても然り❢で、日本人女性は、結婚する相手を探すために交際するのだが、ヨーロッパの人達にとっては、愛するから結婚をする。
当然、条件等も大きく変わって来るのだよ❢❢
日本の人達の一般的な感覚としては、「一緒に暮らせば、愛情なんてものは自然に湧いて来るものだ❢」という事なのだよ。

私には、「それは馴れ合いであり、愛情とは呼べたものではない」と思うのだけどネ??
音楽でも、日常でも、馴れ合いや、人が言うから・・ではなく、本当の本物を追求しないと、真の優れた物には巡り会えないし、人を理解出来る事もないと思うけれども。
アハッ! そんな事は、それ自体、カッタるいのかな?? 

ここの部分は、ヨーロッパ人にはとても理解出来ないだろうな??
まあ、これは国民性の違いなのだろうから、仕方ないけれどね。

「音楽の練習法と国民性は関係ないだろう??」
そのように思われる人もいるかも知れないけれど、それは大きな間違いなのですよ。
音楽が人生の一部にしか過ぎない人‥・、つまり、一般の人達のように、日常生活があって、そのひとときに音楽の時間があるのなら、それは、趣味の延長の領域なのだよ。
人生の全てが音楽であり、音楽が人生の一番であるならば、馴れ合いの音楽は有り得ないのだ。
音楽の追求が人生の全てとなるのだよ。
そこまで来て、やっと、Brahmsやda Vinci、Goethe達の心境が理解出来るようになるのだよ。
だから、あたしゃ、Brahmsには成りたくないのだよな。
独居老人の孤独と、偉人達の孤独では、基本的に何か(something)が違う。
だから、Brahmsの孤独は、私には耐えられないのだよ。
とは言っても、もう、Brahmsの歳は越してしまったのだがね。



・・てな事を書いても、一番のkompliziertは、私自身の立場なのだろうよ。
もし私が、音楽教室の先生という立場を取るのならば、「趣味で音楽を楽しむ人達」に対して、音楽を提供する立場にある。
音楽は学校の勉強の妨げにならない程度で、子供達が、どんなに才能があろうと、音楽が好きであろうと、学校主体の方向性を妨げてはいけない。
時には、子供達が音楽への夢を捨て切らなくて、可愛そうで哀れである時ですら、その立場を守らないといけない。学校教育とは違い、音楽教室の場合には、いつでも教室をやめる事が出来るし、その権利は親にあるからなのだ。
巷の音楽教室の先生という哀れな立場である。

しかし、同じ、巷の音楽教室の先生という立場でも、生徒が「音楽の道に進みたい!」という事を口にして、それを親が了承した途端に、巷の音楽教室の先生ではなく、音楽家としての立場に変わらなければならない。
しかしながら、その「音楽に対する目表」が、単に音楽大学に進学するのが希望ならば、音楽を目標とした場合でも、学業との両立(学校との両立)の可能性もあるのかも知れない。
(ーしかし、これは進学を希望する音楽大学にもよる。某、国立音楽大学や、某、超有名私立音楽大学には、これは当てはまらない。)

音楽大学ですら、例外的なcaseを除いては当てはまらないのだから、況してや、その目標が「proの音楽家に成りたい」・・という事ならば、一般社会の一般的な学校教育との両立は有り得ない。

それは今をときめく、将棋の藤井さんでも同じである。
ミヤネさんが、「中学校を卒業出来るのかな?」と心配していたのだが、そりゃぁ、当たり前だよな?藤井さんは、proを目指しているのではなく、既にproなのだからね。
学業は、「仕事のついで・・」にしかならないのだよ!!
これは、どんな分野であろうと、proという言葉を口にした途端に、当たり前の世界なのだよ。
それが分からなければ、「子供をproにする夢を抱く事」はサッサとやめるコッた❢❢
学業とproの両立‥・そんな、夢のような話は有り得ないからなのだから‥・。
6月23日 2:53



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6月24日 9:22 ·
明日の日曜日のオケ練習に向けての、vivaldiのop.3のno.6の一楽章のtempoの設定の話です。

前々回のオケ練習で、発表会の目標tempoを92と決めたのですが、どうしても、そのtempoの設定が気に入らないので、94に変更する事にします‼
たった、2コマの変更と思われるかも知れませんが、子供たちにとっては、結構、大変な変更になります。
その2コマが、演奏出来るか否かの致命的な臨界tempoになる場合もあるからです。
色々な名曲には、絶対的なtempoの定まった曲(ほんのmetronome-tempo1個のズレさえも認められないような絶対的tempoを持っている曲)と、解釈で、全く別の曲のような異なったtempoで、演奏されてしまう曲があります。
特にbaroqueのperiodの演奏の場合には、このvivaldiの曲のように、eccentricなまでに、早いtempoで、演奏されてしまう可哀想な曲もあります。
ただ、ゆっくり過ぎるtempoでの演奏も、それだけ、audienceを引っ張って行くだけの力量があれば兎も角としても、子供達の演奏能力では、それだけの演奏表現の力量もないので、考えものなので、そこは悩んでしまいます。
(ゆっくりとしたtempoと言っても、子供達の初期指導の場合の、そのtempoでしか演奏する事の出来ない場合という例外的なcaseもありますが、それは、教育上のお話なので、ここでお話ししている内容とは、その意味が違います。教室の実際の演奏の場合でも、同じ曲を、同じmemberで演奏したとしても、発表会の演奏と、対外出演の演奏の場合には、その音楽上の演奏の目的が違うので、tempo等の技術的な問題は派生しないからです。)

音楽表現以外のtempoの設定のお話ですが、子供達の技術を考慮したとしても、そこには、自ずからの絶対的なtempoの範囲が存在します。
逆に、音大生や、proの演奏家達にさえ、よく見受けるtempoの設定・・ですが、音楽表現を捨てて、速度を上げる事によって、技術不足、音楽力の欠乏から逃れようとする演奏団体が多くて、困ってしまいます。
特に、periodの団体には、数多く見受けられます。
violin等の曲で技術をひけらかすための曲の場合は、当たり前の事かも知れませんが、少なくてもbaroqueでそれをやる事は邪道なのですが、proの有名演奏団体ですら、よくそれで逃げようとするので、困ってしまいます。

tempoが、必然的に、絶対(absolute)tempoを持っている曲ではない場合ですが、遅くはなく、しかも、速度に逃げる事のないtempoの設定‼ それは、中々難しい課題です。

この何でもないVivaldi a moll Op.3Nr.6の曲も、2楽章と3楽章は、absolute‐tempoを持っているのですが、1楽章に関しては、そのtempoがありません。
You Tube等で色々な演奏団体の演奏を聴いても、それぞれに色々なtempo設定があって、absoluteなtempoが見当たらないので、困ってしまいます。

ちなみに、You Tubeにupしている6月11日の小学生だけの演奏のtestでのMetronomのtempoは、大体、Metronom80前後でした。目標からは随分離れているけれど、未だ、期間もあるしね。




鈴木メトードで有名になったVivaldi a moll Op.3Nr.6なのですが、今回の演奏にあたって、色々とperiodの演奏を調べて見るにつけて、一つとして同じinterpretationがないのに、驚いてしまいます。その殆どの演奏が、eccentricに早い速度で、音楽のsimpleさを切り抜けています。
(特に、1楽章は酷い!)と言う事で、子供達がtempoを上げる事によって、無理な負担が掛からないように、tempoの設定を早くする事よりも、Motivの表現にメリハリを付けて、音楽的に演奏効果を上げるように努めました。
themaのarticulation(bow-slur)は未だ、生徒達には言っていませんが、2,3週間前からはkadenzをメリハリを付けるために、kadenzだけを全弓の早い弓(❢)で弾くように練習をしているのですが、普通の弓からの切り替えが、中々難しいようなので、kadenzのpassageを蛍光ペンで色塗りをして、カラマデをはっきりと自覚出来るように宿題にしました。


昨日の大学の室内楽の練習で、先生からkadenzの意味を聞かれて、Rさんが「終止句です。」と答えたら、先生が驚いて、「日本では、kadenzと言ったら、concertoの即興の部分としか言われていないのよ!よく終止句という言葉を知っていたわね??」と、とても褒められたそうです。実にtimelyな話で、子供達にも聞かせてあげたい、面白いtimingでのお話でした。(以下:譜例の青色の鉛筆の線で囲まれたpassageが、kadenz終止句になります。)
5時間前



昨夜、千葉からの帰りの車の中で思いついたので、未だ斉藤先生や牧野先生には話してはいませんが、Vivaldi Op.3Nr.11 d doppelの(特にⅤ楽章のarticulationのエグリbowがとても上手だったので、a mollの1楽章もエグリbowで演奏しようか?と考えています。



9時間前



次のようなarticulationになります。呼びかけるようなimageになりますよね??それと、kadenzの切れの全弓を入れると、結構、説得力のある音楽になると思います。これまでのa mollとはまた違ったimageになって、良いと思いますがね。



10時間前



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くちなしの花


6月25日

      

·
1枚目の写真は今現在ハイツにある八重の小さなクチナシです。
写真でupしてしまうと、他の写真との大きさの違いが分かり難いですよね。
3枚目は椎名町の事務所の玄関のクチナシです。これは八重ではありません。
2枚目は大輪の八重のクチナシですが、長崎から車で大きな鉢のままに持って来て、ベランダに3年程、この季節には大輪の花を咲かせていたのですが、毎年、夏は帰省するので、最初の2年ぐらいは、水やりを頼んでいたのですが、3年目になると、水やりをする人が居なくなってしまったので、夏の帰省で枯らしてしまいました。
今年からは帰省がなくなったので、また、大輪の八重のクチナシが欲しいのだけど、植木屋には売っていないよな??












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6月26日 ·

「ワイドコンバージョンレンズ」
videocameraの室内撮影でオケ練習を撮影するためのvideocameraを随分長い事探していました。
通常のvideocameraでは、zoomの機能はとても優れていて、超望遠の撮影も出来るvideocameraが販売されているのですが、検見川教室のような狭い場所でのオケ練習の撮影が出来るような広角の機能の優れたvideocameraを探していたのですが、全く販売されていません。(お遊び用の魚眼のvideocameraは安いものが1台だけ販売されていたのですが、実用には足りません。)色々と調べて見ても、広角の方が優れているvideocameraを探すのは無理なようでした。
(一番新しく購入した4kのsonyの機種も、広角優先という事で買ったのですが、広角とは言ってもたかが知れているようです。16:9をワイドに見立てているだけでほんの少しそれよりも広い・・という感じですかね?)

ある時に、ふとvideocameraも、機種によっては、レンズが取り付けられるように、cameraのレンズの縁の所にネジが切ってある機種があるという話しを聞いて、思いついて教室のvideocameraを調べて見ると、花園教室で使用しているcanonのvideocameraには、別売でワイドコンバージョンレンズが売られている事が分かりました。
それは良いのですが、値段を調べて見ると何と純正品のコンバージョンレンズは、2万6千円もします。
「そりゃぁ、とても、無理だわ~❢❢」と、諦めようと思ったのですが、「どうせ、オケ練習のmemo程度なので、maker品ではなくても良いか??」と思い直して、汎用品のコンバージョンレンズを調べて見たら、同じ46㍉径で3600円で売ってあったので、早速購入しました。0.6㍉のコンバージョンです。

早速撮影して見ると、(ただの錯覚ですが、)オケ練習の人数が増えたように見えて、とても喜ばしく思いました。
    


右側のCembaloの位置はほぼ同じ位置なのですが、grandPianoの位置が変わっていますよね。随分広くなって、1㍍以上は広くなったようです。

(以下:参考までにvideoの動画を写真にupしました。)

尤も、右手側に座っている1stviolinの斉藤先生以下の3,4人や、celloの牧野先生達は、これでも未だcameraには入り込んではいないのですが、camera側では、これ以上は撮影の位置を引けないので、致し方ありません。
それでも、だいぶ多くの人達がangleに収まる様になりました。
0.5㍉や0.4㍉のコンバージョンが売ってあれば良いのですが、それはないようなので、取り敢えずはこれで、まあ、良しとしますかね??
これより、sizeが小さくなると魚眼のように回りが歪出すので、それはそれで問題かもしれませんしね。

検見川教室で使用していた、JVCのvideocameraも、少し小さいレンズ径で、43㍉で、ワイドコンバージョンレンズが取り付けられるようです。
オケの練習では、一人でも多くの生徒達がカメラのangleの中に収まるように、このvideocamera用にも、(同じレンズなのですがアタッチメントを交換する事で花園のvideocameraにも取り付けられるので・・)発注して起きました。
花園でオケ練習を撮る事もあるので、二台ともワイドが撮影出来ると有利なのでね。
(同じangleからの通常のvideo撮影と、ワイドコンバージョンレンズを取り付けたvideoの撮影を、写真にupしたものです。)やっぱり、随分違うよね??


何かしら、余りにも普通の安直な解決手段で驚いてしまったのですが、実は、videocameraがHi-Visionのcameraになる前の機種でも、外に付けるワイドコンバージョンレンズを買って試した事がありました。しかし、その時には、レンズを取り付ける事によって、画像のピントが合わなくなって、全体がボケてしまうという状況になってしまって、結局、使えないままに断念しました。
そのために、外付けのワイドコンバージョンレンズを取り付ける事は、最終手段として、videocamera本体を、広角優先のvideocameraである事を一番に探していたのです。
だから、こう言った安直な手段は、考慮の対象にはなりませんでした。
だから、ダメ元で試してみた方法が上手く行ったのはとてもラッキーでした‼


6月28日 18:31


芦塚 陽二 ワイドコンバージョンレンズはとても気に入ったし、とても安いので、花園用のcamera(本当は検見川教室で使用していたcameraですが)用にも購入して早速lessonの時に使用しました。普段は、Pianoのlessonでは、Piano以外は何も映らないのですが、超、広い部屋に撮れて、ご満悦です。


6月30日 16:39


通常のレンズでの撮影です。随分違うのが分かりますよネ。


6月30日 16:49


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この所、不整脈と鬱が酷い

6月27日 ·
この所、2,3週間、不整脈が30%以上で、しかも、鬱が酷いのだが、この時期の湿度の所為なのか、日曜日のオケ練習の持ち越しの疲れの所為なのか、慢性の体調不良の所為なのか、理由が分からないので、対処のしようがない。不整脈は何とか救心で凌いでいるのだが‥・。体調不良で体が動かないので、体調管理も出来ない。汗も出ないし・・、兎に角、困ってしまう。
テレビを見ていたら、キャスターの女の子が、「湿度が高くて体がベタベタする」というような事を言っていたので、スマホで小竹町の湿度を調べたら、何と、89%だってよ❢❢ 湿度が一番苦手な私としては・・
そりゃぁ、ないよな??




3月の27日のcommentにも書いたように、突然、40年以上教室として使用して来た江古田教室を出るように言われて、そのtimelimitが7月一杯だ。あと、3日で7月なのに、何一つ、引っ越しの準備をしていないのだよ。江古田のハイツから、引っ越し先に持って行かなければならない物も沢山あるのだが、その仕分け作業も体調不良で出来ないのだよ。これも鬱の原因の一つかな??


6月28日 0:43





今日も起きて、何の仕事もしないで、只々、なんて事を鬱っている間に、気が付くと、一日の終わりの時間になってしまっていた。何にもしないで、1日が終わるのを自覚する時には、何とも、鬱になってしまう。それなのに、何も出来ない❢❢
何も出来ないのなら、せめて、寝てしまえば良いのに、その眠る事が出来ない❢❢
という事で、またぞろ、パソコンに向かって、鬱々と、詮ない事を書き綴ってしまう。


6月28日 0:46



鬱は慢性的に酷いので、それ自体を問題としても、仕方が無いのだが、今回の鬱は、不整脈を伴っているので、その分、発狂性ではなく、自滅的、自虐的な鬱になっているのだ。
普段から、火曜日は誰とも会わない日なのだが、何かしら、何時もとは違って、鬱が酷過ぎるので、
「何かが違うな??」
「何時もはどの様に、鬱の時期を過ごしていたのだろうか??」
と考えていて、ふと気が付いたのは、人と全く会わない火曜日だとしても、私の場合には、色々と、一人でやるべき仕事を抱えていて、その仕事や雑用に振り回されて、結構、忙しくて、鬱の中に完全にのめり込む時間がなかったのだよな??

つまり、この2週間の不整脈的鬱では、そのやらなければならない仕事を完全に見失ってしまっていて、自分の存在意義すら失くしてしまっているのだ。
それでは、鬱から抜け出せない・・と言うよりも、鬱に耐えられない・・のは当たり前だよな❢❢
とは言っても、だからと言って、今、やらなければならない仕事は、引っ越しの仕分けの作業なのだろうけれど、その気力は持ち合わせてはいないし、弟子達の指導にしても、こちとらが
「何を学ばなければならないのか?」という事を教え諭しても、相手がそれの価値を見いだせなければ、無駄に過ぎないのだよな?
私の元で音楽を学んで音楽の道に進んだ生徒達はpro、amaを問わず、非常に多いのだが、それはそれ・・。それも鬱の原因菌の一つなのだしね。
音楽以外の職業を選んだとしても、原因は私の性格にあるようなので、鬱からは逃れられないようなのでね。困った事だよな?


6月28日 0:41




鬱が余りにも酷いので、この2週間、無為に人生を過ごして、何の生産的な仕事もしていない・・とばかり思い込んでいたのだが、改めて、outlookの予定表を見てみたら、土曜日は江古田でlessonだったし、当然、日曜日はオケ練習で千葉の検見川教室だったし、月曜日には、Vivaldiのarticulationの変更をFacebookにuploadしていた。
ちょうど今から1週間前は、テレビが壊れて、業者を呼んだり、ラックを動かして、江古田の銀行回りをしていたよ‼ 
結構、忙しく動き回っていたようだよな??・・で、それから1週間後の火曜日なのだから、よくよく振り返って見ると、毎日ちゃんと、頑張って働いているではないか?? 
それに、今日は今日で、既に、銀行の振り込みにも行って来たしね‼ 
・・不思議だ!! 
何故、
「自分は、何もしていない」・・と、思い込んで、悩んでいたのだろうか。
それとも、そういった雑用は、その場凌ぎの、日常の仕事なのだから、悩むのかな⁉ 
それなら、土曜日のlessonでのlectureの内容を、論文に纏めてしまえば、仕事として「活動をした!」と、満足するのかな??
兎に角、「今、生きている」という実感がないのだよな⁉


6月28日 6:40


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6月28日 ·
「Träumerei」

この曲はPianoの曲としてだけではなく、encore‐programとして色々な楽器にarrangeされて演奏されているほどの、超、popularな曲でもある。
この曲は、Schumannの静かで内省的な一面(Eusebius的な一面)を表現している曲である。

Schumannの音楽は、よく「文学的である」と言われる事が多いのだが、逆に生徒から「音楽の文学性とは何か?」と質問される事がある。

確かに、音楽の形態が文学的であるか否かを論じる事は、Schumannに限らず、全ての作曲家達の音楽は、音楽的であり、且つ又、文学的でもあるので、その違いを述べる事は難しい。
音楽に於ける文学性とは、詩曲等のpoem等が付随するような安直な話ではないし、詩曲と言われる作品でも、より音楽性の勝った作品に巡り合う事はよくあるのだから・・

しかし、Schumannの音楽の言う所の文学性とはそういった事とは、全く違う次元の話でもある。
つまり、一般的に言われるSchumannの音楽の持つ文学性は、その作曲の方法論がより音楽の形式や音楽的な技法によるものではなく、言葉や情緒を持って表現する手法にある事による。

このSchumannの有名なTräumereiと名付けられた曲は、演奏するための技術は、頗る簡単で、そのために、音楽教室の発表会等の色々な場所でも、小さな子供達の演奏も含めて、多くの演奏家に演奏される機会も多いのだが、その反面、この曲の表現ともなると、実に、悲惨なもので、おおよそSchumannの意図にはそぐわないものが多い。

「楽曲分析=Analyse」
themaは、steigerungの前半部と、長く内省的な徐々に落ち込むような後半部に分かれ、それが大きな一つのまとまりとなっている。
前半部の盛り上がりの部分の微妙な和音の色の変化や、細かい音のnuanceの変化が、前半部の音楽表現のみならず、後半部の演奏表現をも決定する。

先ず、最初のStollenを見てみよう❢❢
①を頂点とするthemaでは、心の「揺れ」の少ない、穏やかな落ち着いたSchumannのEusebius的な半面を表す表現で、それが全てのthemaの変化の基本として位置する。
②では、①の最高音のFが、Aに上がって、より高揚感を表す。
その分、長めの下り坂が来る。
③回目では、最高音は逆にFの音よりも、低いEsの音になって、懐疑的なより内に込もった内省的な音楽表現となる。
④では、③の懐疑的な内に込もった表現を否定するように、思い切り高いB♭となって、力強く、高揚感を表現する。

17小節目に書かれている(⑤に入る前の、)auftaktのCは前打音で表現されているのだが、しかし、これは字余りの音であり、拍子を書き直した方が良いと思われるのだが、ここでSchumannが変拍子に書き直しをしなかったのは、左手との兼ね合いである。(つまり、左手のpassageには字余りの音はないからである。)

⑤は、①と同じでrepriseとなり、初回の落ち着きがまた戻って来る。
⑥の音は②と同じAの音なのだが、②がⅥ度に対するdominanteだったのに対して、⑥では、F DurのdominanteであるCに対してのdominante、つまり、doppel‐dominanteの和音となり、Aの音も属9の和音で、dominanteとしての、調の安定性を保っている。

tempoの設定や、微妙は強弱の変化は、この①から⑥迄の、音楽表現の違いから導き出されなければならない。
その違いは、演奏して貰うと、一目瞭然なのだが、それを自分で同じように表現するとなると、別の難しさが出て来る。
この曲の難しさは、こう言った音楽的な表現の違いを弾き表さなければならないからである。分かっているのに、その表現の違いが中々出てくれないのだよな??

それぞれのpassageの表現に関して、その演奏表現を音楽用語で表現するのは極めつけに、難しい。
丸付き数字で表されたthemaは、その都度、微妙にその表現を変えるのだが、当然、その答えになるpassageの表現も、問い掛けに対して、その答えが微妙に変化をする。
その変化を、音楽用語を用いて表現しても、その違いを表現するのは、非常に難しく、無駄な事に思われる。
指導する側とすれば、寧ろ、生徒の顔の表情の付け方や、問い掛けと答えの対話のあり方によって説明した方が説得力を持って説明出来る。

つまり、より文学的に、演劇的に・・その表現を表した方が、演奏の仕方を表現出来るのだ。
音楽を学習する人達は、forteをforteとして、PianoをPianoとしてしか学んでいない。nuanceを学ぶ事は殆どなく、それは自発的な音楽性と言う言葉で済まされてしまっている。
そういった、音楽を即物的(sachlich)に捉えている演奏家達に取っては、この曲を演奏する事は非常に難しい。
勿論、だからと言っても、音楽的な分析を必要としない・・という意味ではないので、それはもっと難しくなる。






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6月28日 ·

「今日は蕎麦の日である。」
とは言っても、10年以上も前からの通販の蕎麦が配達される日という意味である。‥・と、同時に病院に行って薬を貰って来る日でもある。
血液検査があるので、通常は朝一の9時にはinをするようにしているのだが、それは、採血が終わる迄は何も食べれないからである。(血糖値が上がるからね。)
ところが、定時の朝の体重測定が終わった後でも、体が動かないので、そのままベッドに戻ったら、午前中は、何も出来ないで終わってしまった。
ベッドから起き出して数分経つと、また体がダル重くなって、ベッドに戻ってしまうのだよ。
という事で、病院はお昼の4時からになったのだが、どっちみち、寝込んでいたので、何も食べていないので、血液検査には問題はない。病院に行って、薬局に寄って、途中で蕎麦屋に寄って、帰って来た。
それから頑張って仕事をしようとしたのだが、どうも上手く行かない❢❢
思うように、文章が続かないのだよな。途中で諦めて、またぞろ、ベッドに戻る事にした。
それはそうと、病院では、鬱の薬を出して貰えるのか、相談をしたのだが、取り敢えずの1っ回目は、心療内科に行ってそこで薬を出して貰うように言われた。そりゃぁそうだよな?? 
江古田の周辺には心療内科はないので、桜台迄行かなければならないそうだが、江古田駅の前の神社の横の、潰れた100円shopの後が、心療内科になる予定らしいので、開業するのを待つかな??7月1日からの開業予定らしいから直ぐだしネ?
そうすれば自宅からは、一番近い❢❢ 
でも、開業し立てのホヤホヤと言う事は、経験が不足なので、信頼性がいまいちかな??



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6月29日 ·

「思考のpattern」

私自身は文章を書くのはとても苦手な人種である。
Facebookに、長文の文章を書いているのも、自分が書きたいから書いて居る・・と言うよりも、生徒達への文章を書くための指導であるcaseが殆どである。
という事で、私は基本的には文章を書く事は余り好きではない。

思春期の少女の脆さ儚さを描いた漫画や、鬱で社会を逃げ出してしまった漫画家の自伝を見るに付けて、私の文章力というか、語彙力の不足、表現力の不足を感じてしまう。ああ、私に漫画を書く能力があったら、もっと多くの事が表現出来たのに・・と嘆いてしまうのだよ。残念ながら私の絵を描く能力はほぼ、0に等しいからね。

人間にはanalog型の思考をするtypeと、digital型の思考をするtypeに分類される。
所謂、文学型と数学型のtypeである。
それを理系型とか文系型と言う事も多い。
しかし、この分類には頗る不都合な箇所がある。
喩えて言うのならば、私は典型的なdigital型の人間であって、基本的には映像的な思考をするのだが、絵を描く事は極めて苦手で、私の描いた絵は、象形文字の基本と何等変わらない。丸書いてチョンの世界である。私の記憶に関しても、有名な女優の顔は直ぐに思い浮かぶのだが、名前となると、絶対的に出て来ない。一瞬前に、聞いた名前だとしても・・である。

反対に或る人の場合には、絵を描くのが得意であって、とても上手であったとしても、典型的な文章型の人間で、物事を説明する時には、文章的に理論付けて説明しないと通じないtypeの人もいる。
映像型ならば、映像のpatternを幾つか、suggestすれば、全体像が掴めそうなものなのだが、そうは行かない。筋道を立てて、それの成り立ちを説明しないと通じないのだから、初めての物を説明する事は不可能に近い。

現実には、今あるものを説明する時に、仮に、それが見慣れた物であったとしても、具体的にその物の名前が分かる事は稀で、その説明には、論理的に組み立てて説明をするcaseと、印象に残った映像を、randomに上げて行く方法がある。
gesture‐gameでも、具体的に説明をしようとして、時間切れになる人や、impressionで物事を説明しようとする人様々で、それが噛み合わないと、周りの人達が全員分かっているのに、本人だけが分からない‥・という、とんでもない事になってしまう。

文章を読むコツは、斜め読みである。
絶対に音読をしてはいけない。音読をしたからといって、丁寧に読んでいると思うのは単なる錯覚であって、音読している間は、その文章は頭で理解、共感出来る事はないのだよ。
また、音読の癖が一旦付いてしまうと、本をよむ速度が非常に遅くなって、結局本を読まなくなってしまう。早い人ならば、1秒間で、見開きぐらいは読み取れるようになるのだよ。
私が中学生の頃は、若きウェルテルの悩み(Die Leiden des jungen Werthers)程度なら、小1時間で読み終えた。全ての短編小説ならば、それぐらいの時間で読み熟せなければならない。

中、高生の頃は、同じGoetheの作品で、ウィルヘルム・マイスターの修行時代(Wilhelm Meisters Lehrjahre)やロマン・ロランのBeethovenをmodelとして書かれたとされるジャン・クリストフ(Jean Christophe)等の作品や、その他の多くの作品を中学時代と高校時代に読んだ。夏休みに1月ぐらい掛けて読破した事もある。これは膨大な小説で、計画的に読まないと、とても太刀打ち出来るものではなかったのでネ?

今時、こういう事を言うと、自慢げに捉えられるかも知れないが、当時は、videoはおろか、テレビも無かったし、ウォークマンも、カセットテープレコーダーすら無かった時代なのだよ。
ラジヲと映画が全盛の時代なのだよ。
その頃の最大の楽しみは、やはり読書なのだろうね。
後、少しだけだけど、LPのrecordも売られて来たのだよな。
本を読むのが大好きだとして、もしも、真面目に読んでいる本を全て音読でもしていたら、とうの昔に喉は潰れて声は出なくなってしまっているだろうよ。

音読なんてものは、学校教育的な物であって、おおよそ、現実的ではないのだよ。
本の好きな人で音読を好む人は、基本的にはいない。
基本的という言葉を使用したのは、日本文学の場合には、音読を前提としている本も多く存在するからである。
それは、多くの人達が、誰かがその本を読むのを聴きながら、時間を有共した、という社会的な事情による。
その最たるものが源氏物語であって、明治16年産まれの私の祖母も源氏物語の指導講師だったので、そらで音読が出来たのだけどね。
「いづれの御時にか、女御・更衣あまた さぶらひたまひけるなかに、いとやむごとなき 際にはあらぬが、すぐれてときめきたまふありけり。」手な具合に・・
但しこの古文の小説は、読み聞かせを前提とした小説なので、読んでいても、読みやすいのだよ。
ヨーロッパの小説で読み聞かせを前提としている小説は少ない。



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6月30日 ·

one patternではあるが、いつもの通りに、鬱が超酷い❢❢
昨夜は、千葉からのlessonの帰りの車中で、心臓のパクパクと、イライラを収めるのに必死だったのだが、携帯で調べて渋滞が無いのを確認して、コースを選んだのにも関わらず、錦糸町を過ぎた辺りから、事故と工事の大渋滞で、車が全く走らなくなってしまって、久方ぶりに、高速を降りて、一般道を走ってしまった。
超、鬱が酷くって、一瞬でも早く家に帰りたい時に限って、運命は意地悪をする。という事で、普段の倍の時間が掛かってしまった。

鬱の原因は色々と思い当たる事はあるのだが、心臓の体調不良を除けば、自分自身の問題で人生を悩む事は無い。言い換えれば、人の事に思いを馳せなければ、自分が悩む事はないのだよ。
では逆に、単純に、どうすれば、今の私が、「幸せ(happy❢❢)」と感じる事が出来るのか??・・・ふと、そう思って、改めて、考えて見て、驚いてしまった。・・・自分が幸せと感じる一瞬が全く見つからない‥・全く、思い付かないのだよ。

美味いものを食えば、肥満に繋がるし、遊ぶ事も、そんなには好きではないし、且つ又、外で遊ぶ程の体力も気力もないし、それに、身が持たない。
音楽会に行ったとしても、ろくな演奏はないし※、文学を読みふける歳はもう昔の話だ。
つまり、枯山水の枯れ木で、絞ってもなにも出ないのだよな??
※)誤解がないように、確認しておくけれど、良い演奏や優れた演奏がない・・という意味ではないのだよ。
美しい音楽を、美しく演奏してくれる演奏家は多いのだけど、私の鬱々な魂の琴線に触れるような、訴えかけて来るsymbthyのある演奏がない・・という意味なのだよ。
つまり、求めている音楽のgenreが一般の人達とは少し違うという意味だよ。

人生を謳歌し、堪能している人、つまり、最大級に幸せな人は、自分の好きな事をしている時が永遠に続く事を憧れている人達だ。
そういった人種は決して珍しくはないし、寧ろ、genreを外して考えて見ると、逆に多いのだよ!
pianist・・然り、作曲家も、絵描きも、一芸を追求する人達は多い。
それが、自己満足の世界であろうと、professionalな世界であろうと、幸せには変わりはない。professionalというgenreでも、Niveauの事を度外視して見ると、結構、楽に夢が叶うgenreなのだよね。
世界一の演奏家になる事は難しい❢ それは世界で唯一無二なので、致し方はない。一流の絵描きや、優れたballerinaになる事も然りであろう。
しかし、proと言っても、超一流のorchestraのproは、一つの楽団に100人処ではない人数が必要なのだよ。それは、それでprofessionalなのだよな。そういったorchestraも無数にある。そう思って見ると、演奏家と言うのは、必ずしも唯一無二ではないのだよな。
それに、period奏法等をやっていると、喩え、音楽の世界的なprofessionalであったとしても、その道のproという人種もあるのだ。
一般的に学者は、人のやらない事を研究するのが仕事なのだから、その道のproという人達は、競争相手は少ない。(しかし、その分、研究する資料や、情報も少ないのだから、研究のための独自の方法論が必要になってしまう。学校教育では絶対に学べないその方法論が学校教育の研究者に要求されるのだよな??)

中学生の今を時めく、将棋の藤井さんに、キャスターがとんでもない質問をしていたそうだ。これは斉藤先生に、聞いた話なので‥・。
「将棋以外で楽しい事は」「アイドルで、好きな人は」彼が答えて「一二三先生ではだめですか?」と聞いていたそうだが、この噛み合わない話は、笑える。一途な事が幸せである事を理解出来ない人達が多いのだ。
・・・、でも、それが、一般的であり、且つ、現実なのだよな。

練習をする事、研究、探求をする事、を人生の最大の喜びと感じている人達がいる。
神から、祝福された特別な幸せな人達である。

私も音楽大学に入る前までは、作曲をするのが、人生で楽しくて仕方が無かったはずなのだが、音楽大学で何かが変わってしまった。
目標、目的が何か、不純なものとすり代わってしまったのだよ。
作曲をする事、音楽をする事が純粋な喜びでは無くなってしまったのだよな。

目標を見失ったり、挫折する人達には、一定のpatternがある。
その人の生き様で、その人が一芸を全う出来るか否かが、判断出来るのだよ。
まあ、これは経験に基づくものかも知れないがネ。

「練習をする事、研究、探求をする事」を人生の最大の喜びと感じている人達は、挫折とは無縁の所にいる。
それが幸せなのだから、挫折する事は有り得ないのだよ。
音楽や芸術を一途に一生懸命、頑張って努力している人達がいる。・・・分かり難いので、主語を合わせると、次のようになるのかな??
「練習をする事、研究、探求をする事」を、一生懸命に頑張っている人達がいる。(という定義である。)
その人達は、その努力を続ける事が、辛くなった時には、挫折する。
「頑張って努力をする」‥・という事は、「本当に好き」という事とは、何かが違うのだよ。
だから、必死に勉強をしている人達は挫折をするのだよ。
そういった人達の勉強には、limitがあるし、且つ、limitを設けた方が挫折がなくて良い場合が多いのだよ。limitは受験であったり、concoursであったり、発表会であったり、‥・それこそ、色々あるのだがね??

音楽や芸術、将又(はたまた)、人生をすら、楽しんで趣味で遊んでいる人達がいる。
そういった人達は最初から苦労がないのだから、挫折する事はない。
人生の全てが、程々に幸せな人達である。
社会人の大半の人達がこの人種に属するのだろうね。
但し、のめり込む事は無いのだから、「一途さ」の意味も分からない。
全てが、程々なのだよ。
芸術を楽しむ事、享楽する事は出来ても、自ら芸術を作り出す事は出来ない。
今の日本社会そのものであるよ。

音楽や芸術を楽しむ事すらカッタルイ人達もいる。その人達にとっては、全てが刹那であり、何かに執着する事もない。物事に取っ組む事もないのだから、最初から挫折は存在しない。
挫折する程、何かに向かった事(対峙した事)は無いからである。

人が音楽や芸術、或いは人生そのものに向き合う時、その人の心の拠り所で、物事に対する人生感が変わってしまう。その人の位置する階層が決まってしまうのだ。
今、話た事で、その人数をgraphに当てはめて見ると、「分布図」とか「散布図」で表されるgraphと同じようになるのだが、一芸に秀でた人達は、やはりその頂点に属する。まさにPyramidの頂点である。
殆どの人達は、階層の中間に居る。
それが、一般という存在なのだ。

それにしても、コンビニ時代とでも言うのだろうか??
総てが平均化されたつまらない社会になってしまった。
昭和20年代を懐かしむ言葉である、「昔は良かった!」とでも言うと、老人の口癖の典型的な症状に見えてしまうのだろうが、実は、そうでもない。
昭和20年代にはあって、こんにちでは失われてしまった日本人の持つ大切な心というものは、確実に存在したのだよ。

今の日本は経済的にはとても豊かになって、物を買う事が経済活動になる・・美徳である・・という理解不能な社会になってしまっているのだよ。
この日本もほんのチョッと昔迄は、「おしん」のような、努力をして何かを得るのが当たり前の社会だったのだよ。

努力をする事の良し悪しは兎も角としても、努力をする事で得られる本物への意識というものもある。(本物を見分ける事がかったるくなって来ると、ブランドに走って、その価値を一般論にすり替えようとする。)その最たるものが学力社会なのだよ。今は、global-standardな時代なのだよ。日本の最高学府である東大ですら、世界では、一般大学のlevelに過ぎないのだ。ましてや、**では、たかがしれているのだが、その権威を信じて疑わない・・幸せな国民であるぞなもし。
日本のようなブランド志向の権威主義的な国は、世界では非常に珍しい国であって※)、ヨーロッパの先進国ですら、日本のようなコンビニな考え方の社会は少ないし、ましてや、日本のstandardは、世界の非常識なのだよ。
※)日本の民主主義は、与えられたものであって、(安倍さんの戦後の話とは無関係の話だよ!!)ヨーロッパ社会のように、個人を、力で勝ち取ったものではない。だから、日本人にとってはi dentityは、価値を持っていなくって、大衆に迎合する事の方が、評価されるのだよ。
大衆に迎合すると、i dentityよりも量産化された物の方が、より価値を持ち始める。かったるい芸術よりも、コンビニにものに、人々の興味は行ってしまう。

チョッと話が余談になってしまうのだが、以前にも、音楽大学で学んでいる学生に音楽と職業の話をした時に、「音楽が職業として学んで来た事は無い。」と答えて来たという話をした。多くの音大生達(音楽を学ぶもの達)が芸術家になろうとして、研鑽を積んでいるのだが、私に言わせて貰うと「芸術家であるか否か」その作品や演奏そのものが「芸術」であるか否かは、後の世の人達が決める事であり、時代が淘汰して評価をするものである。
つまり、芸術等と言うものは、マスコミの戯言であって、そのような物は現実には存在しないのだよ。

それはそうと、これも、話ついで・・、のついで・・だが、Vivaldiの時代の楽譜では、originalの作曲家自らの手書きの楽譜は、殆ど残ってはいない。
そのために、作品は校訂者が、残されていたpart譜や、残っていたPageから、後半部等を類推をして、完成稿を作り上げるのだが、それは校訂者の力量によるものが大である。と言う事なので、とても許せない力量不足の場合も、数多く見受けられる・・という話を以前にもした。

このVivaldi Op.3Nr.11 d doppelのⅣ楽章の有名なSicilianoだけど、melodieは美しいのだが、orchestraの伴奏が実にヘボい❢❢
melodieのnuanceとは、全く無関係に和音が薄っぺらになったりするのだよ。
You Tubeで幾つかのperiodの演奏を聴いて見たのだが、やはり、それぞれの団体が、独自にorchestraのpartを、arrangeをしていた。
じゃあ、諦めて俺もarrangeをするか‥・??
・・・てな具合で、今日(6月30日)は、朝、4時に起き出して、Ⅳ楽章の改訂版を作った。
通奏低音の数字譜もないのだから、和音を類推するのは難しいので、思ったよりも時間が掛かったのだが、まあ、良しとするか??
それにしても、・・ああ、鬱だ❢❢
今日もまた、鬱な一日が始まる。


という事で、Vivaldi Op.3Nr.11 d doppelのⅣ楽章は、soloのpartと、celloとKontrabassとCembaloのpartを除いては、(つまり、1st、2ndviolinと、violaのpartは)renewalしました。楽譜を差し替えしますので、よろしく❢❢

6月30日 7:57



という事で、2小節目の4拍目の16分音符と、19小節目の2拍目の16分音符のミ♭をミ♮に訂正します。これは、音楽理論的なミスの訂正です。

6月30日 18:38




1箇所だけ、どうしても和音進行が納得行かない箇所があって、たった一個の和音のために、結局、半日掛かったのだが、何とか解決出来た。ついでにornamentのsampleを作った。 これで本番は大丈夫かな? かな??  かな???   かな????
6月30日 19:34


たかが20小節のために12時間も掛かってしまったのは、てえへんなこった❢❢
まあ、おかげで、納得の行く出来であった。
まるで、proの音楽理論家のようだな??アハッ!
6月30日 19:51



ついでの勢いで、a moll Op.3Nr.6のⅡ楽章のornamentに挑戦したのだが、1個は簡単に出来たのだが、もう1個の方が、思ったような装飾音のキラキラ感が出なかった。
チョッと疲れてしまって、今日は投げる事にした。
これも、petit‐挫折かな??でも、私は天才ではないのだから、一回目はいつもそれぐらいの出来に過ぎない。たった、4分音符一個分のornamentをまた、1週間くらいは悩むのかな??
7月1日 0:59



ナナナンと❢❢頑張って書いた最終versionのornamentがfinaleに保存されていなかった。finaleがおかしくなってしまった。何度、入力しても、保存がされない。消えてしまうのだよ。1版と2版しか残っていない。5版迄進んだのに‥・❢❢ 今日は最悪❢❢
勿論、finaleの問題はあるのだろうけれども、それよりも、パソコンそのものがおかしくなっているのだよな。デフラグと、パソコンの修理をしなければならない。超、面倒な事になってしまった。
7月1日 14:45


とは思ったけれど、楽譜そのものが失われた分けではないのだよ。
頭の中には、最終版の楽譜は覚えているのだけどね??
余り、大した出来ではないので、書く気力が起き無いのだよな。
7月1日 14:38



なんて言っていても、詮ないので、諦めて、深夜に、もう一度、書き直しましたが、やはり、今見ても、良い出来ではないな~あ?? これは残せないな~ぁ??
7月1日 14:40


VariationⅠからⅤ迄のornamentのⅠを少しキラキラ感を付けて見ました。variationⅠの代わりに、こちらを練習してみてください。Srちゃんです。プリント・アウトをよろしく。書き換えた所は13小節目だけです。
7月3日 19:40






通常はornamentは、上記のように、ではなく、次のように書かれます。この書き方はfinaleでは、非常に入力するのが難しいし、また、パソコンの音源での再生は装飾音としては、全く再生出来ないので、finaleの場合には、装飾ではなく実際の音符で書かれます。

下の入力も見た目は装飾音として書かれているように見えますが、実際には実音で入力をしています。本当には、見た目だけを装飾音にしているのです。これを入力するのは非常に難しいのですよ。勿論、finaleの正規の入力では入力する事は出来ません❗

7月5日 7:34

Srちゃんに渡せるよう、コピーしてきました。
7月4日 18:52



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7月2日 ·
「人生のPyramid」

私のmainのパソコンが修理から帰って来たので、Facebookの入力も少しは問題がなくなっているのかもしれない・・と思って、mainのパソコンで、Facebookの入力の作業をしたら、すぐにfreezeしてしまって、折角書いた文章が、相変わらずブッ飛んでなくなってしまった。
windows7では、Facebookは無理だという事なのか??
諦めて、またシコシコとブッ飛んだ文章を打ち直している。(7月15日)
という事で、windows7を諦めて、windows10でFacebookの入力を開始したら、今度は、パソコンが勝手に再起動を促す画面になって、入力中の文章が全部ブッ飛んでしまった。何だろね~ぇ、ほんと腹立つな~ぁ!!
その機能をoffにして、作業を始めたのに、勝手にまたonになってしまって、危うく、文章を飛ばす所だった。パソコンが勝手に作業中にメンテを始めるのは、いくらパソコンの保護のためであったとしても、絶対的に許せない!!

今日のthemaは、人生の目標、目的という事である。
…という事なのだから、目標を持たない人達には、Pyramidという物は存在しない。
「人生は程よく」という人にも「人生のPyramid」というものは存在しないのだ。
人生に目標がない、という場合には、社会での競争と言うものも存在しなくなる。※)

※)こういう書き方をすると、私が目標を持たない生き方をする人の事を、完全否定しているように、思う人が出て来て、困ってしまう事がある。
「無為無策」、「好人好日」というのは、「禅method」では一つの理想の型でもあり、私の憧れる一つの理想的な生き方でもあるのだよ‼
例えば、「自分が鬱になる事で、自分自身の人生を実感出来るとしたら、それはなんと素晴らしい事ではないか⁉」なんて、思える分けはないだろうよ‼ 馬鹿馬鹿しい‼ アハッ‼

しかし、人間社会は競争社会である。
だから、人間がその競争社会の中で生きて行く限り、望むと望まないとに関わらず、Pyramid構造の社会の中で生きて行く事になる。

一概にPyramid構造とは言っても、山に喩えられるように、低い穏やかな山に登る場合には、pressureも少ないし、楽に登る事が出来るので、達成する事も簡単だ。
だが、簡単な分、その中で暮らして行くには、競争相手は必然的に多くなってしまう。誰でも、達成出来るのだから、それは当たり前の話だ。
競争を望まないように、一番、楽な道を選んだはずなのに、逆に一番競争の激しい社会に属してしまうのだから、笑えるよな⁉

音楽の道は、とても厳しいのだから、一般の生徒達、誰もが行く一般大学の受験ならば…、という話を、よく聞くのだが、毎日、12時間以上も勉強をする事が、普通の一般の学業の勉強では堪えられて、たかが、一日3時間、4時間の音楽の練習は堪えられない…、というのは、理屈に合わないし、私には理解出来ない‼

とどのつまり、回りの人達が、それをしているから、堪えられて、練習は誰もしていないから、堪えられないという話に過ぎないのだよ‼

アイデンティティーの欠片もないよな⁉
人がやっているから、という考え方は、global-standardな今日の社会では、もうすでに成り立たない‼一流の大学で、一流の企業に就職して…、というのは、既に何年も前に崩壊しているのだからネ?

こんにち、人材として、社会が必要としている若者は、一流大学の卒業者ではなく、個性に溢れた、独創性のある、いわゆるidentityに溢れた人材なのだよ。もっと酷いcaseでは、日本での就職試験でありながら、日本人を一人も採用しない企業も出て来た‼
所謂、受験戦争、勉強社会の末路は、結局の何処、引きこもりや、ニート、若者の自殺を産み出したに過ぎない。

エベレストのように、孤高な険しい山に登る場合には、競争相手は極端に、いなくなるとしても、自分自身に対して、それ相応の意志の力が必要となる。

Pyramidが高くなるに連れて、競争相手がいなくなるという事は、それだけ「相手に負ける」という意味よりも、「自分自身の意識として、脱落する」可能性も大きくなるという事なのだ。
それを、人は「自分自身に負けた」という。

Pyramid構造と言うのは、所詮、脱落ゲームなのだよ。
立場を代えて相手の立場で言うのならば、それを「淘汰」と呼ぶ事も出来るだろう。
今の若者達は、目標への真の意味での、愛情、こだわり、執着、一途さを持っていない。
目標はブランドのようなものであって、楽しくお気楽に得れるものである。しかし、子供や親達の甘えは、子供が社会に巣だった途端に打ち砕かれる‼社会には、甘えは入り込む余地はないからだ‼

とは言っても、私の人生には、脱落や、淘汰という事は存在しない。

目的や目標を見失わない限り、行き詰まったら、その場で休憩をして、解決法が向こうの方から、勝手にやって来るのを、ただ、待てば良いだけなのだからネ?

昔の人は、とても良い事を言っている‼
「果報は寝て待て‼」とか「待てば海路の日和あり」とか…だよ‼
楽な人生である。

行き詰まり(壁)を乗り越えられない原因は、その人の力量の何かが足りないだけなのだから、そのsomething※)が自分自身の身に付くのを、待てば良いだけなのだからだよ。
※)Risからの指摘を受けて、sameをsomeに変更しました。
足りない「何か」は、何でもないsome oneでも、特定のany oneでもない「何か」なのだろうけど、しかし、幾ら何でもsame oneでは、造語も流石に悪趣味で、酷すぎるからネ?
orthodoxにsome-thingの方が良いよね??
それはそうと、SFの傑作で、「The Thing」という映画がある。日本語の訳では「宇宙からの物体X」となっている。これは超、怖い映画で、ラーメンのお化けが出てくる。ちなみついでに、horror映画では、ありとあらゆるhorrorの映画で、真似をして使用される音楽で有名なSuspiriaがある。
https://www.youtube.com/watch?v=vzU3jnNWKbI
このいずれの映画も、2度、3度見返しても、それが怖いのは、timingのせいである。「出て来る」と分かっていても、そのtimingを外されてしまうのだ。これは、音楽的に言ってもかなり高等なfeintの技術になる。

つまり、その「何か」が、これから歩いて行く所の、直接の目標や目的でなかったとしても、人がその「何か」に対して、努力を続けている限り、その行き詰まり(壁)に対して、必ずその足りなかった特定の特別な「something」は、身に付ける事が出来るのだよ…‼

この文章は最悪なのかもしれない⁉
some-oneが成り立たないのは、壁を乗り越える事が出来たとしても、それで、夢を達成出来るという確約にはならないからなのだよ‼この次の文章にも、書くのだけど、それは、単に技術の修得であって、芸術の道とは無関係なのだからネ?

前のpageにも書いたように、練習を楽しむ人にも、挫折は存在しない。
努力をする事が楽しい人には、脱落する事は、その前提条件の中に、脱落という言葉自体すら存在しないのだよ‼

但し、この事は、私が「練習を楽しむ人は必ず夢が叶う」と確約している分けではないという事は、理解出来ていなければならない。つまり、幾ら練習が楽しくても、持続が出来たとしても、その練習の方向性や方法論が正しくないと、目標、目的に到達出来る事はないからなのだよ。

日本人は権威に頼るので、大学に依存する。日本の大学でも有名大学に生徒が集中するのは、そういう理由であって、その大学に入学してから、どういった先生に学ぶのか??…は、話題の対象にもならない。不思議な事でもある。

しかし、ヨーロッパ人や、所謂、外国人と呼ばれる学生達は、学校よりも自分が学ぶべき指導者を選ぶ。
また、ヨーロッパの大学に入学するための方法論は、日本の大学への入学の仕方とは根本的に違う❗
ヨーロッパの大学で先生に師事するには、その前に指導者からの「指導をしても良い」という許可が必要である。
世界中の学生達は、そのために、先ずは、先生にmailをして、自分の演奏をtapeに録音して聴いて貰う。それで、先生からの体験のlessonの了解を受ける事が出来る。
そして、その先生からの、「指導を受ける了解」が得られると、大学に入学するための、生徒の開きを待つ。その先生のclassでの人数には制限があるからである。勿論、受験は合格する事が前提である❗受験に失敗する事は、論外であるぞなもし…‼
という事で、優秀な指導者、有名な指導者に師事するためには、5年待ち、6年待ちは普通となる。
有名な優秀な指導者に師事するために、ひたすらその先生のclassの生徒の開きを待つ。
日本人にとっては、考えられない受験の世界かも知れないが、それが世界の受験に対するstandardなのだよ。
日本人の考える大学の有り様と、世界の大学のstandardでは、「大学への考え方」が根本的に違うからなのだよ。

「学ぶ」という事は、日本ではお嬢さん達の教養に過ぎないのだが、ヨーロッパでは、職業としての勉強なのだよ。
つまり、大学で勉強をする事は、生活に必要なlebensmittel(この場合はスーパーマーケットとは関係はない大本の意味としてだが)生きるための道具・item・武器・license・・・になるのだよ。日本語ではたつきの糧というのだよ‼
そういった意味で大学に行くのだから、日本の学生とは根本的に学業に向かう姿勢が違うのだよな!!

また、私のように、「押して駄目なら引いて見よ‼」という優柔不断なタイプにも、挫折は存在しないのだよ‼
ダメなら、その間、他の仕事をして、それは保留にして、待つだけなのだからネ?そこで、勉強のための無駄飯を食う時間はないからネ?

しかし、自分の人生をそこまで、controlする事が出来ない、まだ未熟な人(若い人)の場合には、そこで、脱落をしないで済むためにには、当人の努力だけではなく、周りの人達のサポートも必要となる場合も多い。
そのサポートは、親のサポートであり、指導者を含めた回りの人達のサポートなのだ‼

一芸に秀でるためには、自分ひとりだけの努力では難しい。
前の論旨とは、矛盾しているように見えるかも知れないが、人生の夢を叶えるためには、確かに、自分自身は意思の力は絶対かくべからざるものであるのだが、それと同じくらいに、大切な事は、経済的な事や、社会環境でもある。

私の場合には、自分自身が、どうしても、その夢を叶えたい…という願望の他に、親から自分の夢を否定される事は皆無であった。
親が「一切口出しをしない」・・というのは、ある意味、最大のサポートである‼そういった回りからの邪魔は全くなかったので、自分の思うままに、自由にのびのびと勉強が出来たし、私の勉強に対しての金銭の援助は、必要最低限の援助を、それ相応にして貰ったのだからね。
「口は出さずに金を出す」‥・そういうサポートは何時の時代にも、最高だよな?

今の時代は、親が、(子供の幸せを願って、)子供を脱落させるのだよな⁉
ピラミッドの脱落競争ではない、人並みの平凡な楽な人生を歩ませるために…ネ?
それが、一番の競争社会であるという事も、知らないでネ?
つまり、「牛後となるも、鶏頭となるなかれ」である。

しかし、運良く鶏頭となったとしても、そこには責務が付いて来るのだよ。
人から注目される・・という事は、その人の一挙手一投足を、自分のライバルのみならず、その親や、自分に好意を持ってくれるフアンの人達から常に見られる・・という事でもあるのだよ。だから、音楽の演奏だけではなく、音楽への態度考え方そのものや、人生観、日常のさりげない態度すら観察されてしまう。
人は自分の都合の良い事だけを見てくれる分けではないのだからね。
牛後の生活であろうと、鶏頭の生き方であろうと、人は自分にとって都合の良い事しか見ようとはしない。

私の祖母の口癖だった言葉なのだが、「見ようとしなければ見ても見えず、聞こうとしなければ、聞けど聞こえず」という言葉がある。
優れた芸術を、優れた音楽を聞こうとする事は簡単である。今ではYouTube等で、お手軽に超名演奏家の演奏を目に‼する事が出来るのだ。もしも、音楽を学ぶ立場の人が、見る目を持って見れば、超一流の人達の、共通した技術を学ぶ事は容易である事にも関わらず、それをそう言った眼で見る人はいない‼
不思議だ⁉見ようとしなければ、見ても見えず…、である。
牛後となる・・寄らば大樹・・・親方日の丸・・ブランド志向、これらは総て同じ思考に起因している。
それが、自分自身で、子供への人生の選択の判断をする事を、恐れている結果である……という事すら、理解しようともしないで……ね⁉
日本人の持つ甘えの構造は、正に、Suspiriaの世界だよな??😭



自分自身に足りない「何か」はsamethingではなくsomethingでは…?
7月4日 18:15



そりゃあ、そうだよね??
somethingだよね??
anything でもないし、same-thing でもないよな。「Anything is OK!」で、なんでも有りだし、some-thing も同じような意味になるよね。
確かにSame-oneじゃあ、なんにも始まらないよな??
7月5日 2:32





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7月2日 ·

山のあなた カール・ブッセ
     上田敏訳『海潮音』より
山のあなたの空遠く
幸(さいはひ)住むと人のいふ。
噫(ああ)、われひとと尋(と)めゆきて、
涙さしぐみ、かへりきぬ。
山のあなたになほ遠く
幸(さいはひ)住むと人のいふ。

Karl Hermann Busse

Über den Bergen, weit zu wandern,
Sagen die Leute, wohnt das Glück.
Ach, und ich ging im Schwarme der andern,
kam mit verweinten Augen zurück.
Über den Bergen, weit, weit drüben,
Sagen die Leute, wohnt das Glück.

英訳の詩が殆どで、原文のドイツ語の詩は珍しく、しかも、ウムラウトをeを使って、表しているので、読みにくいので、原文を探して出しておきました。祖国のドイツでは殆ど知られていない詩ですが、日本では上田敏氏の名訳で有名ですよね。
さしずめ、「隣の芝生は青い」・・という所でしょうかね??
Alban Maria Johannes Bergの作曲があります。
最後の纏めの部分で、「自分は、失意で帰って来たのだが、私自身は幸せが山の彼方にあると信じている」と纏めて解釈をしている人もいましたが、詩を読む限りではそんな文言は出て来ません。最後に使われているdrübenという単語には、彼岸(あの世)という意味もあります。裏を読むのなら、そこいらなのでしょうが、私は単に、symmetry構造式のrefrainだと思っています。

この詩は、私が小学生の時から、よく愛唱していた詩で、田舎の家の屋根の上から見える雲仙岳や多良岳が青く空に溶け込んでいるのを見て、この詩を思い出していました。雲仙岳の先は、天草の海だし、多良岳の先は佐賀平野なので、とても、「幸い」の住むような環境ではなかったのですがね。九州も諫早迄来てしまうと、東京なんて都会は、思いの端に登る事もないのですよ!余りにも、遠すぎてね??
Über den Bergen, weit zu wandern, と言っても、精々、博多ぐらい迄かな??
小学生では九州を跨ぐ事はないよな??



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7月2日 ·
「芦塚メトードについて」

というお話は、私の場合には、homepageや冊子等々で繰返しているお話なので、耳タコのお話なのですが、殆どの人達は、そのお話を聞いた事がない・・という事なので、またまた、少し書く事にします。耳タコの人達はこの文章は飛ばしてください。

芦塚メトードというと、violinやcelloやPianoの「指導のためのmethode」と、思われる事が多いようで、また、そういう風に言われる事が多く困ってしまいます。

私の教育法の根本原理では、(violinやPianoのように、)楽器の種類が違っても、(パソコンや絵画のように)芸術そのものの、genreが異なったとしても、それを学ぶためのmethode自体の原理そのものは、全く同じ原理である・・と解釈しています。

ですから、芦塚メトードのための教室を開設ようとし企画をした時には、そのgenreは、別に、「音楽教室でも」、「学習塾でも」、「会社の経営塾のような教室」でも、なんでも良かったのです。
どのような教室を開設するか?は、「誰が私のmethodeを学んでくれるか?」で、その塾のgenreが決まる事になっていたのですよ。

留学以前の音楽大学時代は、生活のために音大の受験生の指導をしていた程度で、子供を指導していた経験は全くなかった。日本に帰国して、或る音楽大学に就職したのだが、そこで指導するついでに、その大学の付属の音楽教室で、「問題の生徒達を10数名、先生達の代わりに指導して欲しい」というオファーがあったので、1年間の間だけなのだが、色々な問題を抱えた子供達の指導をする事になった。
また、当時、勤めていた教育関係の大学で発表した私の教育論文を読んだ文部省関係の人に、子供の指導者のlevelの問題点に関して延々と説得されて、「是非、芦塚メトードを実践して欲しいのだが、methodeとして確立するには、私以外の人が私のmethodeで指導をして、その成果が出ないとならない。」それにまた、の私論文を読んだ人達も、「それは机上の理想論であって、現実に出来るとはだれも認めないよ」という事で、の私methodeの実践の場として、花園教室を開設する事にしました。
それには、私が音楽大学時代に指導していた受験生で、留学時代には、既に演奏の仕事をしていた昔の弟子から、「methodeを学んで指導をしても良い」という申し出があったので、genreを音楽に絞り込んで、音楽教室を開設する事に決定したのです。

violinでも、Pianoでも、基本の技術を学ぶ事は非常に簡単です。
一般の音楽教育では、音楽大学に至る迄、音楽技術だけを学びますが、それは、音楽を原理として学ばないからなのです。
曲、毎に必要な技術を学んでいたら、そこに必要な技術は無限に存在するので、一生を技術を学ぶ事だけで終わってしう事になります。

基本の原理、所謂、音楽技術の基礎を学ぶ事は、大体小学生の間に、全ての技術を学ぶ事が出来ます。
でも、それは、日本で思われているように、「技術を学ぶ事が出来れば、proに成れる」というのは、妄想に過ぎません。日本の音楽大学に入学して、concoursに入賞して、更に留学をして、日本に帰国したとしても、1,2回、演奏会の真似事をして、結婚、子育てで、現場から離れて日常の合間に出来る範囲の演奏活動でお茶を濁すという事が一般的で、本当の意味での演奏家を育てるという事は日本では全くされていない・・というよりも、そういったcurriculum自体がないのですよ。
proとして、音楽活動を続けて行くためには、技術の他に学ぶべき事がたくさんあります。芦塚メトードでは、小学生時代に技術の殆どを学んで、中、高生になったら、その上の音楽表現の技術や、音そのものに対しての追求を勉強します。

音楽の技術表現や、音そのものを学ぶという事とには、小学生の時代や、大学生の年齢ではもう学ぶ事が難しい・・という事があります。
とても大切な事は、年齢(心の成長)と学ぶ事の内容は整合する事が多いので、中学生の時にしか学べない事や、高校生の時でしか学べない事があり、それを逃して、大学生になって、学ぼうと思っても、中々身に付かない事があるのです。それを、碎啄と言います。学ぶ生徒の技術のlevelと心の発達に対して、指導者の指導のtimingが合致しないと、学んで得る事の出来ない技術なのです。
芦塚メトードでは、一番最初に技術を学びます。
次のgradeでは、音楽表現を学びます。
そして最終的に音の出し方を学びます。
音楽の究極は音そのものだからです。

私の生徒で音の探求迄挑戦出来た生徒は非常に少ないのです。
これまで、数人の生徒しかいません。
芦塚メトードで技術を学んで、音楽大学に進学した生徒は非常に多くいるし、高校から海外に直接留学した生徒達も多いのですが、日本の音楽大学に受験する場合、芦塚メトードとは、真逆の事を学ばなければなりません。
真逆という意味は、情緒的感情的な意味ではなく、それこそ、弓の持ち方から、violinの音の出し方、Pianoの椅子の座り方に至る迄、基本的な考え方が違うのです。

また、芦塚メトードは、子供達が楽に無理なく自然に学べるmethodeなのですが、楽なのは、学ぶ方の子供達であって、その指導のmethodeを学ぶと言う事は、非常に難しく厳しいmethodeなのです。と言う事で、こんにちまで、ほんの数人(2,3人)の弟子しか、芦塚メトードを学んだ生徒はいないのです。

教室に来ている多くの人達が、「芦塚音楽教室で音楽を学ぶ」と言う事が、「芦塚メトードの指導法を学ぶ事だ」と思っているようですが、それは「芦塚メトードで音楽を学んだ」という事であり、「芦塚メトードの指導法を学んだ」という意味ではありません。

指導の技術の難しさは、学校教育のように、paper上(教科書上)で学べるものではありません。

それぞれの家庭の状況や、能力、音楽の目的等々の色々な要素を考えながら指導する分けなので、一つの定まった回答と言うものがある分けではないのです。生徒が10人いれば、指導法は10通りあるのですよ。
常に、ケース・バイ・ケースなのですよ。

「椎名町詣」には、それらの技術を学ぶ事に加えて、「職業としての意識」を学ぶという意味があるのですが、「芦塚メトードを学ぶ」という事は、「Gradus ad Parnassum」のように困難な道なのです。

私が留学から帰国して、最初に教えた生徒の内の一人なのですが、***という事で、演奏会の午前中に音楽家になる事をやめる・・という決断をして、その何時間か後の演奏会では、程々の演奏だったのですが、聴いていた人達が「**さんは、どうしたのですか?」という質問を受けてしまいました。一般のaudienceの批評力は、演奏をする立場の人達の思っているよりも、数倍敏感なのですよ。
ほんの少しの意識の差でも、一般には分かるものなのですよ。



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7月3日 ·
「心療内科の話」

朝っぱらからテレビで、「30℃を越えた!」「今年初めての猛暑日になる」と、警報が出たと言っていた。「へ~え~っ??」と部屋の温度計を見たら、既に、30℃を越えていた。体が、ちっとも暑いと感じない‼
これはチョッとまずい状態だぞ⁉ 
温度が感じられないのなら、熱中症が怖いので、仕方が無いので、諦めて、クーラーを入れる事にした。(クーラーは、嫌いなのだけどね??)
だから、体をなるべく冷やさないように、28度や29度に設定して、外との温度差を最小限にするようにした。
コンビニクーラーなら、室温は下がらないのだけどね⁉

(以降は7月7日の朝の話です。)
という事で、寝室のコンビニクーラーをつけて寝ていたのだけど、余りにも熱くなって来たので、室温計を見てみたら、なんと31.7度もあった‼
こりゃ、たまらん‼と諦めて、クーラーにする事にした‼




・・・という事で、今日は鬱は酷くはなかったのだけど、鬱が出た時にやっぱり薬がないと困ってしまうので、あまり行きたくはなかったのだけど、諦めて、12時前には、本当に、真面目に心療内科に行って来ました。
病院は出来立てのホヤホヤなので、とても綺麗で、若い女性の看護師さんが、二人も受付にはいたのだけど、診察室には入って来ませんでした。多分、個人の情報の保護のためだと思いました。
患者は私だけだったので、暇なせいなのか受付で二人のお喋りが止まらないのは、余り良い気分ではありませんでした。
受付で最初に番号札を貰ったのですが、病院を出る時迄は、その番号で患者さんの名前を呼ぶそうです。個人名を特定されないためだそうです。まあ、一般の病院とは少し違うから、個人の情報の保護は全く違うようです。
診察は、先生が、専門用語を連発するので、一般の人達には、ちょっと理解出来ないかもね?専門用語を使用する時には、ちゃんと平易は言葉で説明してからなのだと思うけれどね。※)
もう少し、平たく易しく説明しないとネ?
認知症の老人達は、受診には来なくなるよ??
心療内科は鬱と認知症が稼ぎの中心なのだからね。
7月5日 5:55



※)オケ練習で、子供達に指導をする時の、練習の半分以上は言葉の解説に使っています。
とは言っても、音楽用語の説明ではなくて、日常の生活用語です。今の子供達は、lineやmailで書く言葉が総てなので、会話と言えばこんな感じですよ??「??」「!!」
小学生ならまだしも、中、高生でも、一般常識的で日常的な言葉を知らないので、困ってしまいます。lessonなので、言葉の説明も、上級生の生徒に説明させるので…
7月5日 6:46







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7月4日 ·
6月12日からの続きではないのだが、「今日は朝からパソコンが壊れた」「Reboot and Select proper Boot device or …」というメッセージが出て、何をしても、 ループしてしまう。
要するにパソコンがOSを見つけられない状態のmessageで、何度、再起動を繰り返ししても、blue-outしてしまうので、とうとう諦めて、パソコンのmakerであるDellに修理依頼をしたのだが、そのmailのaddressは、main-パソコンなので、返事は立ち上がらない(起動しない)Dellのパソコンに、mailの返事が来るので、main-computerのパソコンの画面では、見ることが出来ないのだよ。(当たり前の話しだよな‼)

同じDellのサブパソコンはwindows10なので、outlookが入らないので(…余りにもoutlook(office)が高価なのでofficeは、買っていない)、back・upのhpのwindows7のパソコンには、officeが入っているので、outlookのmailをHPでcheckしてdellの指示に従って、Biosから、パソコンの診断をしました。

HPのパソコンは、ビックカメラのパソコン館のパソコン担当の女の人に、私の使用条件等を詳しく説明して、推奨機種を決めて貰ったのだけど、ビデオカードが小さくて、追加したり、まあ、ド素人のアドバイスという事で、最初から不満足だったのだけど、ついには、DVD driveが随分前から壊れたままで、修理が必要だし、しかも、displayがテレビと一緒になっているので、テレビ優先で見ているので、パソコンはめったに開かないので、こうした時だけの、buck-up用になっているのですよ‼

ちなみに、Facebookはスマホとwindows10で入力をしているので、(windows7と、Facebookは、相性が悪いのか、いつも、不具合が起きて、入力がなかなか出来ないので、むしろwindows10の方が使いやすくって楽です・・!)commentの入力は問題なく出来ます。そういう事で、outlookは1日に数回しか開かない事になったので、mailは携帯へお願いします。(長いmailや込み入った内容のmailは、今まで通りパソコンのmailにお願いします。

それはそうと、mainのパソコンでは、毎日の朝一の、体粗体重や血圧、その他の体調の管理をnetでやっているので、2、3週間も、無かったら、体調管理やダイエットにも困ってしまう❗
勿論、色々な仕事も、main-computer一台でやっているので、こうした時には、本当に困ってしまう……という事だけしか、言えなくなってしまうのだよ‼
後は、一日も早く……としか、いう事はない‼
まあ、取り敢えずは、外付けのハードディスクの一台をHPに繋いで、dataが一部は見れるようにした。(映像系のハードディスクも繋ぐと、4台、5台のハードディスクを繋ぐ事になってしまうからネ?)HPは、それだけの重さには、耐えられないからネ?ハードディスクは、一台でも、2T、3Tはあるからね⁉



昨日は動画の編集をしたのだが、困った事に修理から帰って来て、Blu-rayに焼く事が出来なくなっているのだ。DVDには書き込みが出来るので、Blu-rayのdriveの問題かも知れない。問題を確定する(softのせいか、パソコンのせいかをcheckするだけでも、2時間以上掛かった!)だけで、1日終わってしまった。
7月19日 7:03


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7月8日 ·

昨日は七夕でした。室温はいつもと変わらない28度前後なのですが、クーラーを使って上手に眠る事が出来なくって、次の日は、全く、うだうだしてしまい、仕事が出来ない一日になってしまいました。mainのパソコンがないままなので、仕事をしようにも、softがないので、始められないのですよ‼
という事で、うだうだとパソコンの前に座って雑用をしようと思ったのですが、クーラーは、ちゃんとよく効いていて、足は冷たくなっているのに、頭から汗が吹き出して止まらないのですよ‼
暑くて仕方がないのですよ‼これは、困った‼
部屋の温度を確かめても、27、8度と、とても熱中症になるような温度ではないのだけどね⁉
首を冷やすタオルは基本的には、運転用なので、車のある椎名町の冷凍庫にあるので、ハイツにはないし、それ以外には応急措置が思い付かない‼
おお汗で、髪の毛がびしょびしょに濡れてしまったので、ぬるま湯で頭を洗ったのですが、それが意外と効果があって、なんとか、汗は止まったようです。

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7月11日 13:38 ·

今日、11日のお昼に、やっとパソコンが修理から戻って来ました。とは言っても、一度日曜日に配達されたようなのですが、勿論、オケ練習で自宅にはいませんでした。今日は、一日、パソコンの復旧作業をします。なにせ、工場出荷の状態にリカバリーされて戻って来たのでね。

・・・・と、言うか、今日は、もう、12日です‼
な、な、なんと16時間もぶっ続けで、パソコンの修復をしていました‼

dataは、外付けのharddriveなので、問題はないのですが、outlookはdataが、ブッ飛んでしまっているので、mailは当然の事、address悵も、予定表もなくなって、まっさらの状態・・と言うか、back・upもブッ飛んでしまったので、他のパソコンのdataをインスツールし直しました。
取り敢えず、mailaddressは、先生達との連絡に必要な最小限の重要なaddressだけを、別のパソコンから引っ張って来ました‼

windowsを更新させる度に、パソコンが小一時間くらい止まってしまって、その間何の作業も出来なくなるので、時間ばかり掛かってしまって困ってしまいます。
DVDでsoftがある場合には、直ぐにinstall出来るので、良いのですが、download版は、再installするのはとても大変でした‼

肝心要のfinaleのsoftが、CDが見つからなくって、installが出来なくって困ってしまいました。
多分、ある場所は、何となく分かっているのですが、引っ越しで、物が散乱しているので、探す事が出来ないのですよ‼
いやはや、困った‼困った😖💦

それはそうと、今はまだ朝の10時半なのですが、TVで「練馬で今33度」と言っていました‼
部屋の中でも、熱中症になるので、気をつけるように、と気象予報士の人が、言っていました‼
なかなか、眠れなくって困っている所です‼薬は貰っているのだけどね⁉
やはり、あまり効かないようだなぁ⁉

眠れぬままに、ホームページの修復を始めたのだけど、設定のdataを保存していたつもりが、ブッ飛んでなくなっていた事に、改めて気がついた‼……これは全く、後の祭りだわさ‼プロバイダから渡された紙のdataを調べて見たのだが、必要なdataは載ってなかった‼
超、shockだなや‼
とうとう、1時だ‼もう24時間、パソコンの修復作業をやっている‼
いい加減、止めないと…‼

12日の深夜の話です。
パソコンは、椎名町からoutlookの予定表を送って貰って、finaleを持って帰って来たので、殆どの作業が終わりました。まるまる一日半も掛かって殆どの修復作業が終わりました。
勿論、全部のdataが戻った分けではないけれど、後は、仕事をしながら、徐々に元に戻せばよいという事です。
ただ、単語登録が、ハイツの他のパソコンの登録は、古すぎたので、あまりにも、使いづらいので、椎名町のパソコンからと、ノートパソコンからの単語登録を持って来ないといけません。

私の場合には、殆どの単語を英文字二個か三個で変換しているので、普通にローマ字で打つことはないからです‼
パソコンでは、単語登録を利用して、「whpcnonyrgaosoikrd。」と、入力します。このローマ字を訳すと、「私はパソコンの入力が遅いからです。」と変換されます。
私は指が回らないので、パソコンの入力の速度が極端に遅いので、私の独自のblindtouchと単語登録法で、文字数の入力数を極端に減らす事で、普通の人達よりも速い速度で入力する事が出来るようにしています‼




修理から戻って来たパソコンにpowerdirecter15を再インスツールして、昨日、初めてBlu-rayを焼こうと思ったのだが、Blu-rayが焼けない❢❢ひょっとして、powerdirecter15の性か?と思って、フリーメーカーをインスツールしてBlu-rayを焼いてみたのだが、やっぱり出来ない。ものは試しでDVDを焼いたら出来る。・・と言う事で、早速Dellにクレームを付けたら、「今回の修理箇所とは別の場所なので、今回と同じ費用が掛かる」と言って来た。そろそろ、腹が立って来た❢❢
7月19日 10:06




「修理に出すまでは異常はなかったのだけど?」とDellにクレームを言ったら、「OSを再インストールして治らなかったら、有償の修理になる」という事だった。OSを再インストールするということは、また総てのdataを再リカバリーしなければならないので、また、2日は掛かるのだよ。そんな体力も気力もない。それなら、高額な負担だけど、部品を交換の方がマシだよ❢❢
7月19日 17:27




折角、この所鬱が出なくて喜んでいたのだが、Dellの対応で久しぶりに鬱が再発して来た。今日は、シンクの掃除とCembaloの部屋から楽器を総て避難させて、ソファーが出せるかのcheckをする準備が終わった所なのに、mailを見る度に腹が立つ❢❢
パソコンが治ればそれで良いという分けではないのだよ。仕事を出来る所までやって、初めて修理が終わったというのだよ❢❢パソコンの業者はそこの所が分かっていない。だから腹が立つ❢❢
7月19日 17:43

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7月13日 10:51 ·

「日本と西洋の文化の違い」
日本の詩歌の表現は、情緒や感情を心象に表現してsympathyを持たせるような手法が多い。山水画のように、あるいは宮本武蔵の「枯木鳴鵙図」のように、その物を描く事で、心象を表現する事が見る者へのsympathyを伝える手段でもあるのだ。
仏教哲学に於いても、「瓢箪鯰」のように、論理を積み重ねるのではなく、論理性を飛び越えて、感覚的にsympathyを図る手法が多い。
「瓢箪鯰」のように、捕らえ処のない表現を指す意味と誤って言われている言葉もある。そう言った誤った解釈は、感性が論理性の限界を超えた結果でもある。

こういった日本人の持つ感性と、論理的に思考を積み上げて行くヨーロッパ人の表現法は、哲学や詩歌のみならず、私達が音楽を学ぶ上でも、致命的な感覚、感性の違いをもたらす事が多い。

有名なボッティチェリの三美神は、一人一人が意味を持っているだけでなく(左から「快楽」「愛」「美」)、その背景さえも、寓意を持っているのでえすが、私が中学や高校でその絵画をlectureされた時も、その画家のボッティチェリのRenaissanceという時代背景は習ったのだが、絵の寓意を学ぶ事はなかったのですよ。だから、中、高生の頃は、絵画は美しいものをただそのままに描くとしか思って居なかったのです。高校時代には、シュールレアリズムの絵画を古本屋で見つけて、超、ショックを受けて買い込んで、古い時代の粗末な印刷の画集ではあったのですが、それでも、キリコやエルンスト、ダリの影響を非常に受けました。大学に入学して、モローの展覧会に行ったり、ボスの絵に遭遇して、中、高生の時に習った絵画は一体何だったのだろうか??と思ってしまいました。
その後も、大学を卒業して、必要に迫られて、高価な美術の本を買って、自分でその意味を勉強したものです

西洋の音楽は、大きく分類して、キリスト教の影響を受けているものと、ギリシャの芸術を低本にしているものが多いのです。tragoidia(トラギョーテ)や、ギリシャ神話を題材にしている作品が、baroqueから近現代迄の作品には多く見受けられる。Stravinskyのギリシャ悲劇の舞台を再現したOedipus Tyrannus(エディプス王)は秀逸である。





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7月14日 14:28 ·

寝室のクーラーを30度に設定したのに、まだ寒い‼体が冷え過ぎて、頭の芯が痛い‼クーラーは、もうこれ以上高くは設定出来ないので、取り敢えず、冷房ではなく、ドライにした。窓の側に置いてある時計で確認すると、33度になっている。今日も練馬は大変な温度だ。

私はクーラーが苦手だ‼設定の温度を自動にして、温度差を最低にしても、一般のクーラーの設定では、2度、3度くらいのに差なので、寒くて頭が痛くなってしまう。
除湿にしても、体が冷えてしまうのだよ。高性能のクーラーの方は室温を冷やさないで除湿する機能もあるのだが、それは寒い時の機能なので、こんなに暑い時には作動しないのだよ。
という事で、手動でこまめに調整する他はない‼
先週は、引っ越し騒ぎや、オケ練習、無理をして江古田回りもしてしまったので、熱中症になったらしく、日、月と、目が回ってしまった‼

月曜日のユーカリが丘では、折角、お母さん達がお手伝いに来てくれたのに、椅子に座ったまま、動かなくってごめんなさい!椅子から立ち上がると目が回ってひっくり返りそうだったので、失礼をしてしまいました。

いゃ~あ、もう、すっかり歳だね~!!日曜日も椅子に座ったまま、指揮をしてしまったし・・ね??この1週間本当に酷いのだよ。

・・って、言っていたら、結構若い世代の人達も、同じように「目が回る!!」って、騒いでいたので、私だけじゃあなかったみたいで、少し安心しました。
私は、「脳梗塞かな??」と疑っていたので・・



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7月16日 8:52 ·

Googleでは、現地(練馬区小竹町)の気温は30度になっているのだが、窓の側に置いてある温度計では、なんと‼39.6度になっている‼窓とブラインドの間で、温室が出来たのだよな⁉
湿度はloで計れない‼
冷房は苦手なので、昨夜から、除湿を入れっぱなしだからかな⁉
でも、まだ今は、朝の8時半だよ⁉
今から、プリドルを連れて、千葉に移動しなければならないのだが、一番熱い時の移動になってしまう‼
熱中症が思いやられる‼



ありがとうございます。車に乗ってしまえば、クーラーが効いているので、平気なのですが、それまでが、兎に角、暑い・・事❢❢渋滞を考慮して、早めに出発するので、余分な時間を調整するために、スーパーの駐車場に駐めて、練習中や夜の食料の買い物をするのですが、今回はワンちゃんを乗せていたので、それが出来なかったので、教室の駐車場に駐めて、暑い中を教室まで歩いて行きました。(オケ練習をする教室とは別の教室です。)時間になって、また駐車場から車を出して、別の教室へ移動しました。一番暑い時間帯だったので、参ったね。兎に角、暑い・・・、というのをそろそろ禁句用語にしなければね??
7月17日 5:16



本当に昔の夏の記憶からかなりかけ離れた暑さになってきましたね。
砂利道が恋しい・・・泥んこになってもいいからアスファルト剥して欲しい(笑)
7月17日 6:47


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7月17日 5:41 ·
防音には、三つの方法があります。音源の音量を抑える方法と、遮音と、吸音です。吸音剤として、最も有効なものは、畳なので、ユーカリが丘教室のピアノのlesson室は、御近所に配慮して、一般の家のように、フローリングをピアノの部屋にするのではなく、和室をピアノの部屋にする事にしました。勿論、畳はそのままで、和室を洋室に見せるためと、より吸音の効果をあげるために、ピアノを搬入する前に、畳の上にカーペットを敷くのですが、カーペットを購入して採寸して部屋に敷くために、急遽、今日の月曜日に、ユーカリが丘に朝一で行く事になりました。ユーカリが丘は千葉教室の先なので、車の連チャンは、かなりhardで、キツいのですが、来週の日曜日が業者の引っ越しなので、それまでに準備をして置かなければならない事が多いので、そこはサボれないので、致し方はありません‼

今日は火曜日7月の18日」です。昨日は東京では、今年最高の5度の猛暑日だったそうです。八千代の大型ホームセンターで、絨毯※)や色々と必要なものを物色していたのですが、別に八千代という分けではなく、東京のデパートでも、疲れて座る場所が全くありません。江古田の駅にもホーム以外では、座る場所はないのです。ホームセンターは老人達には不必要な場所だとしても、スーパーやデパート、公園には椅子は必要なものだと思いますが、どうでしょうね??ちなみに、ホームセンターの近くにはコ-ヒー屋もありませんでした。先生達がお引っ越しに必要な物を、色々と物色をする数時間、私も立ちっぱなしだったのですよ。だって、車でクーラーをつけっぱなしにする事は出来ないのですよ。
※)絨毯を先に部屋の寸法に合わせて買って来て敷いて置くのは、業者がPianoを設置した後では、自分達でPianoを動かして絨毯を敷くのは無理だからです。引っ越しには、業者に任せる事と、その前に準備して置かなければならない事の違いがあるからです。

timelyな話なのですが、Facebookにこのcommentを書いていたら、突然、窓の外から「ぎゃ~!」と小さな子供の泣き叫ぶ声がしたので、ビックリして外の公園を見ると、激しい雨が降り出していました。突然の雨でビックリしたようですが、公園には雨宿りをする空間はありません。テレビをつけると、池袋の雹と激しい突風と雨の動画がupされていました。オッと、椎名町教室はモロだよな??ハイツにも何度か雷が落ちて、兎に角、凄い音と光と激しい雨です。でも、この手の雨は南洋ではスコールと言うし、ドイツではGewitterというのですよ。一瞬に通り過ぎてしまいます。でも、その一瞬ですら、前が見えなくなるような猛烈な雨が吹き付けていました。





これは、後日談ですが、椎名町の玄関を出ようとしたら、立ち木の枝が門扉をふさいでいたので、「これはどうした事か?」と聞いたら、激しい雹で、枝が折れてしまったのだそうで、トタンの屋根もあちこちに穴が開いたそうです。猛烈な雨と思っていたのは、雹だったのですよ。
椎名町の事務所も、結構被害があったのだよな⁉
7月22日 7:53





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7月19日 10:57 ·
「人は気づかない限り、自分を直す事は出来ない」
人から教えて貰って、何かを身に付けるという事はないのだ。

例えば、人間は産まれて来たのだから、必ず死ぬという事は誰でも知っている。
しかし、誰でも知っているはずの「死」を本当に知るのは、死を身近に見た時だけなのだ。
つまり、誰もが知っているはずの死を、身近に見て、「これが死と言うものか?」と気づく時、初めて死はその人の身近なものになるのだ。

私くらいの歳になると、誰しも身近な死を目の当たりにする。
死が死である事を気づいたとしても、そこから学ばなければ、自分を正す事は出来ない。
「学ぶ」という事は難しい。

人生の最大の命題である「死」からですら、人は学ぼうとはしないのだから、ましてや、言わんおや・・である。




本人がやる気になったときにそれをサポートする方法は溢れていますが、いかにして気付かせやる気にさせるか、は、いまだに教育における大きな難所です。
7月19日 11:57



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7月20日 8:58 ·

今日は34度まで上がる猛暑日の予定です。
さて、今は何度かな?と思って、窓に置いてある温度計を見てみると、な、な、な、なんと、朝の8時だと言うのに、39.9度もある。
これは、直射日光が温度計の機器を温めてしまったからの温度なのだよな??
・・・という事とは、アスファルトは既にその温度なのだよな??
という事で、温度計を部屋に入れて機器を冷ましながら、ついでに、部屋の窓を開放して、外気を入れて温度をcheckしてみた。netでの練馬区小竹町の温度は28度だそうな。部屋に置いた温度計は30度から下がらない。
諦めて、室温を外の温度と同じ28度に設定してクーラーをつけた。
南極の氷のような冷たい風が出てきた。
「え~っ?28度ってこんなに寒いの??」ビックリである。
湿度が30%台で、結構低めなので、体感は30度でも、体感温度は低く感じるからなのだよ。
前の公園では、散歩中なのだろうか、老人が木陰のベンチで休んでいる。
幾ら、木陰でもこの温度では、大丈夫だろうか??
確かに、歳と共に、温度の差が感じられなくなってきている。

教室のオケ練習でも、同じクーラーの風が当たる場所にいる子供達が、「熱い!」と言う子と「寒い」という両極端の子達がいて、困ってしまうのだよ。
これは免疫力・・、つまり、基礎体力の差なのだけどね。
免疫力と言っても、これは、医学的な見地の免疫力とはなんの関係もないのだが、好きな事を好きなだけやっている子供達は、潜在的に体力がある。
いやいやながら、人生をやらされて送っている子供達には、腺病質な傾向が見受けられるのだよ。
つまりは、病気に対する抵抗力もなく、潜在的な体力もない。
集中を維持するための、精神的な持続力、継続力もないのだよな。



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7月21日 10:59 ·

今気がついたら、爪が剥がれてなくなっていた。いつの間にか、取れてしまったらしい。爪のない指は、なんともはや、痛々しい❢
しかし、江古田教室の引っ越しの期日は、体調や、教室のrotationとは無関係にやって来る‼
ハイツ(自宅)の整理は自分で出来る所まではやったので、今日は残りを斉藤先生にやって貰った。江古田は今日も34度と、異常な温度なのだが、timelimit※)が明日なので、体力の限界もないのだよな⁉
※)引っ越し業者が搬入に日曜日に来るので、明日の土曜日迄に業者に運んで貰う荷物を整理しておかなければならないのですよ。

パソコンは修理から戻って来たのだが、修理に出す直前まで使っていたbluerayが再生も録画も出来なくなって、しまったのだが、dellは「今回修理した所ではないので、前回と同じ修理代が掛かる」と言っている‼driveを交換して、OSを再installした時に、ちゃんと、install出来なかったのだろうが‼それは、しっかりと、修理のミスだろうが⁉
超腹が立つ‼

長年、車の修理を依頼していた工場が、倒産したので、メーカーならば確実だろうと、車の修理を、メーカーに出したら、あっちこっち壊されて、挙げ句の果てに、「そこは触っていません‼」と弁解して、結局、修理代を請求されてしまう‼それから、色々な業者に頼んで見たのだが、全くだめで、ならば、近場の小さな工場に頼んだら、超丁寧で、安かった‼
パソコンも、結構、「そこは触っていません」と、全く車屋と同じ事を言うのだが、結局、水掛け論になってしまうのだよ‼
その都度、softを入れ直していたら、時間ばかりなくなってしまう‼
困ったもんだ‼昔は、最も責任を持って仕事していたのだよな‼
自分の仕事にprideってなもんはないのかね??
つまらない日本になってしまったよな



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7月22日 19:29 ·

今日は、心療内科の薬を飲み始めてから、ひさしぶりで、鬱が酷い‼
薬が全く効かない‼ 困った‼
当然、鬱になる切っ掛け(原因)は引っ越しのトラブルとか、色々とあったのだが、その問題はパソコンの不具合を除いては、もう解決済みなのだが…、問題が解決しても、鬱はそれとは無関係に、酷くなる一方だ‼
最初、まだ昼間だったのだが、鬱になりそうになったので、薬を飲んだのだが、その時には、気分的には、少し軽くなったような気はしたのだが、4、5時間過ぎて、夕方頃から、またぞろ、鬱が酷くなって来たのだよ‼
やはり、鬱になると、心臓にstoresがかかってパクパクする。
ぬる湯に入ったり、ベッドに横になったりして、なんとか精神の安定を試みたのだが、どうにも治まらない‼
今日の分の薬は飲んだしな⁉
追加で飲んでいいものやら、はてさて困った😖💧

右足頚からの筋が痛くって、一晩中低周波をしていたのだが、寝ようとしたら、今度は左足の筋が釣って硬直してしまった‼
という事で、左足の低周波と、両足の低周波と、とうとう一晩中一睡も出来ないままに、朝を迎えてしまった😵💧

今日のオケ練習はどうしよう😱💧
体調不良だけなら、気力で乗り切る事が出来るのだが、鬱の時には、その気力が出ないのだよ。
それにプラス徹夜❢❢❢
体力、気力ともに、最悪だよな??
今から頑張って寝ようにも、イライラが酷くって、眠れそうにもないし、鬱の体調不良は、そうそう、おいそれとは治らないのだよな⁉
今回は薬も効かないしな⁉
困った😖💧



殆ど寝ていないままに、普段通りにオケ練習をして、夜はそのままハイツの自宅と江古田教室に車でかけつけて、引っ越し業者に頼まなかった積み残しのユーカリ行きの荷物(貸出し用のヴァイオリン)等を積み込んだ‼それから椎名町に戻って、ドルプリっ歩なのだが、私は限界になったので、バイクでハイツに帰って、水浴びだけをして、寝た‼流石に、鬱とは無関係に熟睡してしまった‼良いのだか、悪いのだか、……⁉
7月25日 20:09





流石に、昨日の火曜日はバテてしまって、1日何も出来なかった。という事で、今日は病院をハシゴした。結構涼しかったしね。前回の血液検査の結果はあまり良くなく、薬を少し強くする事になった。心療内科はこの一月、薬がよく効いていたのか、鬱で酷い状態になったのは、たった1日だけだったのだが、心療内科の先生は薬を強くする事にされた。また、眠剤は効き目が悪く、殆ど無意味だったので、ちゃんとした睡眠導入剤に変える事になった。循環器の先生は薬を強くするのは、こっちが申し出ない限り、中々しないのだが、心療内科の先生は、先生の方から、薬をドンドン強くするタイプの先生らしい。
7月27日 9:21


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7月25日 12:38 ·
スマホの現在地の気温は31度になっているのだが、yahooの小竹町の気温は30度だ。この微妙な違いはなんだろうか?いずれにしても、湿度が80%から、夜には90%まで上がるらしい。今は、束の間の部屋の窓を全開にして、空気を通しているのだが、たしかに体がベタベタと気持ちが悪い。室内の温度計は31.6度を指している。空もどんよりと今にも雨が振りそうな気配になっている。やはり、自然の空気で乗り越えるのは無理なようだ。そろそろ、諦めてクーラーにするか??
2、3年前までは、30度を超えていても、窓さえ開けておけば、なんとか凌げたので、古い2、3十年前の壊れた窓枠に取り付けるタイプのクーラーで、本当に暑い2、3日を凌げばなんとかなっていたのだがね⁉
(調べて見たら15年の6月19日に新しいクーラーを入れていました。やっぱり2年前です。先生達は「5年以上前」とか言っていたので、「それは有り得ない!」と言っていたのですがネ。信じて貰えなかったのだが、ちゃんと、Facebookに、経緯が書いて有りました。)
余りにも、クーラーの音がうるさくって、近所迷惑だし、自分も堪えられなくなったので、二、三年前には、教室のクーラーを買ったついでに、新しい音の静かな省エネ型のクーラーを買ったのだが、その年は、殆どクーラーを使わなかったので、宝の持ち腐れと思って、怒っていたのだが、今年は、普通に使うようになってしまった‼

という事で、今年は、先月の電気代が、今までにない金額になってしまった‼まるまる、一日中、クーラーをつけっぱなししたからだな‼
昼間の外出を、極端に控えたし・・な


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7月25日 22:16 ·
リアルタイムの話なのだが、たけしさんの「名医に聞く…」という番組をTVで、やっていて、身につまされて…で、ついつい、見入ってしまった‼
特に、夏バテの下半身冷えの体質の話は、自分に振り返って、思い当たる事があった‼
つい先日、冷房で体は冷え切っているのに、頭から汗が吹き出して止まらない・・という話をFacebook上でしたのだが、その例も報告されていた。
下半身冷えで、熱が遮断されて、上半身に溜まると、その熱が頭に来て、脳が異常に熱を帯びるのだそうな??足の血流を良くすると良いのだそうな??
解決法が分かったので、これで対処出来るかな??

私は若い頃、というか中年頃迄は、太っていても、足だけは細くて、足腰は強かった。足の血流もとても良かったので、布団に足を入れたままでは、熱くって眠れなかったので、布団から足を出して寝る癖があった。
だから、旅行をする時には、ホテルのベッドの毛布がベッドの下に捲き込んであるのを、引っ張り出して寝る癖があった。
心臓のバイパスの手術をしてからは、グラフトで左足の血管を1本取ったので、両足の足の先に血流が行かなくなって、足先の色が、糖尿病で壊死した指のような色になってしまったのだが (・・こりゃ、糖尿病の人しか、分からんよな⁉ 指が壊死すると、一本一本の指があずき色になって腐ってしまうのだよ‼)、今年は更に、膝から下が血流が止まってしまったように、冷たくなってしまった。
足湯とか、足のマッサージとかで、少しは改善はするのだが、たったそれだけの事が中々出来ない‼

インスタントの長崎のミルクセーキでも作るか⁉
それにしても、朝飯がまだだよな⁉

昨夜は、ユーカリの業者の引っ越しから椎名町の事務所に帰ってから気がついたのだが、江古田からの、レコードの積み込みを忘れていたので、慌てて車をもう一度出して江古田教室迄出掛けて、荷物の積み込みをした‼
ドルプリの散歩がまだだったのだが、11時を過ぎていたので、車に乗せて江古田迄連れて行って、椎名町に戻る途中で落っことして、車だけ先に戻って、私はバイクでハイツに戻ったので、昨夜の夜の食料から今日一日の食料もないままだったのだよ‼ (この文章の主語は「食料がない」・・という事らしい。)
食料の買い出しに行かなければならないのだが、夏バテ気味で、外に出掛ける気にならないのだよな⁉
でも、もう2,3日続けて1日一食になってしまっている。
勿論、その割には体重は減少はしない。
お相撲さんの食事だよな?
という事で、諦めて、セブンに食料品を仕入れに表に出た。
今日も、夜の11時を過ぎたので、もう、気温も大丈夫なのでは・・と思ったしね。
しかし、一歩、玄関の外に出て驚いた。温度は流石にそんなに高くはないのだが、なんとも湿度が凄い。体にベッタリと纏わり付くような感じだ。少し歩いただけでも、体に汗が滲んで来る。東京でも練馬はヒートアイランド現象で特に気温が高いのだよ。
頑張って、セブンに行ったのだが、お弁当類は全く無かった。仕方がないので、あるものから、なんとか食べれそうなものを選んで・・(と言うか、選ぶ程も商品がないのだがね。)買って帰った。


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7月26日 2:11 ·
対処(症)療法というと、歯が痛い時に痛み止めを飲んだり、頭痛の薬を飲んだりする事ですが、意外とその反対語は知られていません。病因療法とか原因療法と言うらしいですが、私には、どうもその言葉には馴染みがありません。
私は医学には門外漢なので、当たり前の事ですが、ここは医学のお話ではなく、音楽のお話です。

一般的には楽器のlessonでは、曲を如何に上手に弾くように指導するのですが、曲を上手に演奏する事は、その対処療法にしか過ぎないのです。
どのように演奏するのか?よりも根本的にどのように音を出すのか?・・を学ぶ事がとても大切なのです。
たとえば、violinを学ぶ場合には、一番最初に、楽器の持ち方、構え方、弓の持ち方やどう弓を弾くのか?を学びます。
ある程度、技術が上達すると、誰しもそこそこの演奏は出来るようになります。その段階では、最初に学んだ楽器の持ち方、構え方、弓の持ち方等々学び直す事は、殆どないと思います。
その段階よりも、更に上を目指そうとすると、もう対処療法では、どうにも出来ません。
それでは、音楽を更に向上させる事が出来ないのです。それこそ、根本的な治療が必要となります。
そこで、基本の基本に戻って楽器の持ち方から、もう一度、勉強出来る人が、Pro中のProという事が出来るのです。

生徒達を指導していても、やはり、曲を仕上げる事だけになってしまって、なかなか弓の持ち方や、楽器の構え方を直してはくれません。
pianoでも、手の型やtouchを指導するのに、2年、3年と掛けて注意をして行くのですが、それが身に付く生徒は非常に少ないのです。
例え、一生懸命に真面目に練習する生徒でも、その基本中の基本にapproachをする生徒は少ないのです。





上記の文章は、最初はスマホで入力したのですが、後で文章を書き直したはずなのですが、最初に入力した文章しか保存されていなくて、一番最初に入力した文章だけが保存されて、後で更に推敲した文章は、消えてなくなってしまいました。仕方がないので、編集履歴からコピペをして、最初の文章の上に上書きをして、後で推敲した文章は諦めてしまいました。本当にFacebookは私とは相性が悪いのです。困った事だ!!
7月26日 5:48




朝の8時になりました。なんと外は寒いのですよ。24度で湿度は71%なのだけど、雨まじりの風が強く吹いているので、体感の湿度は90%ぐらいの感じです。取り敢えずはクーラーをやめて、窓を全開にしたのだけど、部屋中湿って来るのよね??困ったもんだ!!
てな事を、徒然と書いている間に、まだ、40分しか経っていないのに、温度は23度で、湿度は85%迄になってしまいました‼流石に、体感90%越えともなると、自然の風は無理です‼窓を閉めきって、除湿に変えます‼
7月26日 8:59


27日の木曜日になったばかりの時間です。食事をする時間が全くないので、セブンに食料を買いに行って来た所なのですが、部屋は蒸し暑かったのですが、外は超寒いくらいの温度です。yahooの天気予報によると、現在の温度は24度で湿度は82%なのですが、スマホの温度は23度で20%です.(部屋に戻ったら、24度で、50%になりました。)
部屋の中の温度計は24.6度で60%なので、まあ、それくらいなのでしょうがね??

それにしても、セブンにはいつもの通り何もない。食料の選択権がないのですよ。困った。バイクで他のコンビニの弁当を探して回る程の熱意はないしね。(右側の棚は弁当ではなく、調理用の食材です。これは中々売れないので、いつもあります。)

7月27日 0:45





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7月27日 8:49 ·
今日(27日)は合宿の初日です。昨夜はとても涼しかったので、部屋中の窓という窓を全開にして寝たのですが、朝の8時、寒くて目が醒めてしまいました。7月の末に「寒い‼」とは、どうなっているのかいな⁉
私としては、もう少しねておきたかったのですがね。部屋の温度計は24.5度の湿度51%で、少しづつ上昇中です。昨夜は何もしないで寝てしまったので、今から千葉行きの準備をする所です。


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8月1日 20:58 ·
7月31日の夜にやっと江古田教室の引っ越し作業を終了して、8月1日に業者との最後の手続きを完了して江古田教室とはおさらばしました。
・・という事で、1973年から44年間借りていた江古田教室が閉鎖しました。
・・とは言っても、私はこの10年以上は、江古田教室の直ぐ側のハイツに住んでいたので、江古田には住んではいませんでした。つまり、教室として借りていたので、住まいとしての部屋の機能はなかったので・・差ほどの感慨はありませんでしたがね。
今日は東京も小雨が降っていて、バイクの移動もポンチョを着ての仕事になってしまいました。ドル・プリッ歩が始まると、いつものように雨がおさまってしまいます。ドルプリっ歩が終わって、食事をしてハイツにバイクで戻る深夜12時過ぎ頃には、22度で寒い事!寒い事!8月というのに、長袖が必要なくらいに寒いのですよ‼この温度差はとても付いて行けないのですよねぇ!!
でも、部屋に入ると、湿度が96%以上もあるので、蒸し蒸しして暑いくらいになるので、除湿をするのですが、そうすると、今度はまたまた寒くなってしまいます‼
困ったものだ

  


  



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8月3日 5:54 ·
昨日の8月の2日は8月というには超寒い22度でした。今日はもっと寒く、21度の予定です。昨日は昼間でもハイツから椎名町にバイクで移動するのが寒くって、昼間ですら寒いのなら、夜の移動が思いやられる…という事で、ついにユーカリのイーオンのサカゼンで、上に羽織る長袖のジャケットを買ってしまいました‼
私のサイズは特大だから、気に入ったジャケットがまったくなくって、選びようがなかったので、仕方なく、体のサイズに合ったものを、選択肢のないままに、取り敢えず、あるものを、買わなければなりませんでした。1万4千円も取られたよ‼大変な出費だったよ‼
でも、夏物の長袖だったので、バイクでは風を通してしまって、結局、寒くて、なんの役にも立たなかったのですよ‼
有れば、ウィンドブレーカーか、レインスーツの方が良かったので、一応、イーオンを探して見たのだけど、サカゼン以外の店には、合うサイズの服が全くなかったので、仕方がないのだよな⁉(勿論、イーオンなので、普通サイズのレインスーツやウィンドブレーカーは売っていたのだけどね⁉)
netならば、ウィンドブレーカーの特大サイズは、いくらでもあるのだけど、今注文しても、届く頃には、真夏に戻っているだろうからね⁉
それにしても、8月の3日にもなって、最低気温だとしても、21度というのはあり得ないよね⁉日本は、どうなっちゃっているのかな


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8月3日 21:15 ·

8月3日のお話です。
今日はお昼からJ-comが来て、テレビの回線のcheckをしました。回線のソケットの位置が、Cembaloの前のチョッと高価な壺や花瓶を置いてあるラックの横だったので、花瓶や壺を全部一個づつ出して避難させてからのラックの移動で、J-comの人が帰ったらまた、元に戻す・・という面倒くさい作業をしなければなりませんでした。事務所から斉藤先生を呼んで、作業を手伝って貰ったのですが、それだけでチョッと疲れてしまいました。私は何も重労働はしていないのだけど、昨日同様に、今日も朝から体調があまり良くなかったのでね。

マンションの管理組合とJ-comが契約をする事になったので、J-comの人から、色々と売り込みがあったので、ついつい騙されて、契約をする事にしました。
プロバイダー契約や電気やnet等の一括の契約です。本当はauの契約も一緒に出来たのですが、auの住所が椎名町の事務所になっていたので、それは後回しになりました。auの住所をハイツに移せるのか、先生に聞いてからの話になります。
という事で、8月の11日以降は、芦塚陽二の「闘病記」のaddressや、私個人のパソコンのmail-addressが変わります。

芦塚音楽研究所や芦塚先生のお部屋のhomepageのaddressはそのままですし、私自身のauの携帯のmailaddressも、今まで通りにそのままです。

ついつい騙されて…では、余りにも感じが悪いので、経緯の補足説明をします。
今までは、netやhomepageのプロバイダーは、U-com光だったのですが、イチキュッパ(19っ8)の時に契約をしたのですが、U-com側が「契約料が安過ぎるから」…と言って、一方的にサンキュッパ(39っ8)に値上げされてしまいました。それでも、取り敢えずは辛抱していたのですが、U-com光が、新規の契約者には、永年19っ8で契約をするというキャンペーンをしていたので、超頭に来て、「長年の契約者に対して、感謝をするのではなく、新規の加入者に対してのみのサービスとは何事だ‼」と、怒鳴り込んだのですが、今回のdell同様に、とりつくしまはありませんでした。だから、「19っ8にするには、一度解約すれば良いのだよね⁉」と、言うと、相手は、苦笑していましたよ‼
だから、こういう誠実さのないU-comやdell等の契約は、いずれは、契約を解除するつもりだったのです。
という事だったのですが、プロバイダーを探すのも面倒くさいので、そのまま、何と無くnetの引っ越し先を心に留めて、探していたのです。今の契約は398なので、それより安ければ、処でも、何何時でも、U-comの契約を解除するつもりだったのですよ‼
ですから、「ついつい騙されて…」は、単なるジョークです‼

それにしても、今日は更に冷えて21度だそうです。そのうち、雪でも降るのではないのかな??部屋の窓を開けているのですが、寒い❢これじゃあ、暑中お見舞い申し上げます・・ではなくて、寒中御見舞になってしまうのでは・・・??

椎名町にバイクで移動している時に、途中で雨になってしまいました。ドルプリっ歩の時には、霧雨だったのだけど、ハイツに帰る時には、本降りになってしまいました。ポンチョでは結構濡れるのよね??雨は冷たく、震えながら、ハイツに帰り着きました。部屋は開けっ放しだったので、ジメジメしているので、急いで、除湿にしました。21度は流石に寒いよね❢❢とても、真夏の8月の3日とは思えません



今日は11日でJcomが工事に来る日です。
3日にJcomと契約した時には、「すっかり騙されてしまった‼」と、冗談で言ったのですが、今日、Jcomが工事に来て、工事担当の人から「今はJcomでは、homepageのプロバイダーはやっていない‼」と言われてしまった。
え~ぇ⁉そりゃないよ~⁉
マジに「すっかり騙されてしまっているしゃあないの⁉」
全部がU-comと同じ条件で、金額もだいたい同じくらいだから、リスクがないという事だから、契約をOKしたんじゃあないか⁉
その話しは、契約の時に、何度も確認したじゃん‼
ホームページを他社で契約するとなると、それはリスク大ではないのか⁉それは許せない‼
例え、無料のプロバイダーだとしても、宣伝が表示されたりする。それは、おもしろくない‼
それに、色々なmailやホームページの設定も、U-comの連絡先も当日やってくれる約束のはずだったのだが、
今日の工事は契約した本人が来るはずだったのだが、別の工事担当専門の人が来て、約束の設定を自分が代わりにするのは、別料金だとのたまわったよ‼
怒り心頭に発したよな‼
最初からあってないようなものだったJcomに対する信頼は、地に堕ちたね⁉

椎名町のクーラーもおかしくなってしまったので、業者を呼ばなければならないし‼‼dellは相変わらずだし‼、車は修理すら出来ないし‼
まるで、踏んだり蹴ったりだよな⁉
何だろうねぇ⁉いったいこれは…⁉
トラブルがよってたかってやって来るのだよな‼
お祓いでもした方が良いのでは⁉🙏
8月12日 7:56




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8月4日 12:18 ·
8月3日の夜は、久しぶりに、何と無く寝付けなくって、とうとう朝まで、ウダウダと眠れないままに朝を迎えてしまいました。全く眠れなかったのは、実に心療内科の薬を飲み始めてからは、久しぶりです。
という事で、朝一で、懸案のDellのクレームを諦めて、パーツ(Blu-ray-drive)を発注しました。見積書は10日も前から出ていたのですが、納得が行かなかったので、保留になっていたので・・❢❢
ユーカリが丘教室のhomepageを立ち上げなければならないので、今日は、斉藤先生に付き合って、homepagebuilderのlectureをするかな??


ユーカリが丘教室!斉藤先生のお教室になるのですか?
8月4日 14:11

いえいえ、牧野先生も(芦塚先生もワンレッスン要望があれば)レッスンしますよ~ピアノ、ヴァイオリン、チェロの生徒さん募集中です。やる気のある生徒さんがいたらご紹介くださいね。
8月4日 14:13

44年間も住み慣れた江古田教室でしたが、大家がかつてに不動産屋に売ってしまって、連絡がつかないままに、引っ越しのタイムリミットが近づいていたので、練馬区で物件を探したのですが、広い音楽教室が出来る物件を探したのですが、音楽教室可の広い物件は全く見つからなくて、やむなく、八千代の周辺で探す事にしました。
8月5日 0:42

なるほどー!ユーカリが丘は教えていたので懐かしいです。あそこはゴーストタウン化しないように常に新しい若い世代を入れるよう計画しているそうなので、教室にも良さそうですね!
8月4日 17:16


ホームページといえば、ケータイサイト
どうしましょうね……
8月4日 17:29


暫らく放置したままになっている教室のhomepageを椎名町の事務所で開くように今日1日掛かりでしました。
操作は簡単なのですが、fileを読み込むのに1,2時間は掛かってしまうので、その作業を2,3回しなければならなかったので、1日掛かりなのですよ。パソコンで待っているだけなのですけれどね。
千野さんは9月頃まで忙しいようなので、今日、千野さんの言っていた無料のプロバイダで斉藤先生が携帯用のユーカリが丘の教室のhomepageを作成していました。まだ見てはいませんが・・。
明日はhomepagebuilderでyahooのhomepageで東京千葉教室用のスマホのサイトを作ろうかな??と思っているのですが、夏の合宿のPageも未だなので、どちらを先にやるか・・ですかね??
8月4日 23:55.


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8月5日 19:33 ·
昨日から斉藤先生がスマホ用のhomepageを作成中なので、今日は朝一で、夏の合宿とおさらい会のhomepageを作成しました。
度重なるパソコンの故障で、芦塚音楽研究所のhomepageのtop-Pageがおかしくなっているという事だったので、午後は、top-Pageの修正とrenewalをしました。パソコンの画面サイズによってhomepageのレイアウトが変わるので、これで総てのパソコンが思った通りに、ちゃんと表示されるかは定かではありませんが、取り敢えずは、文字のズレや重なりはこれで治ったかと思います。
夏の合宿とおさらい会


2日掛かりで、homepageのPageを新設したり、top-Pageを修正したりしました。しかし、直せば直すほど、linkがおかしくなってしまう
困ってしまった。エンドレスだ❢困ったものだ❢❢
8月7日 7:09



斉藤先生も、スマホ用のホームページをuplordしたはずなのですが、見つからなくなってしまいました。
どこを探してもいないのですよ。困った‼困った😖💧
8月8日 0:39




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8月7日 19:45 ·
8月7日の今日は、5時だと思っていたら、朝の11時にBlu-ray-driveが届きました。「夕方の5時じゃあなかったの??」「いや、朝の9時から5時迄という意味です。」
え~っ??そりゃあ、ないよな~ア??
「2日営業日以内に、旧パーツを返却しろ」となっている。そりゃあ、てえへんだ❢❢
という事で、斉藤先生に電話をして応援に来て貰って、Dellの解体を始めた。バラシ方が分からない。
識別番号から入った、netに書いてあるパソコンのマニュアルと全く構造が違うぞ❢❢
てな事でDellに電話をして聞こうと思ったのだが、パソコンは電源を落として半分解体中なので、別のDellのパソコンから入ろうとしたのだが、自動的にパソコンを検出するので、解体中のパソコンの識別番号を入れても、識別番号が入らないのだよ。
だからマニュアルが表示されないし、サポートの電話も表示されない。困ってしまった。
仕方がないので、dellの販売のPageで、電話番号を見つけて、そこからサポートへ回して貰って、やっと解体の仕方を教えて貰えた。
まあ、面倒くさい事❢❢❢ 
そこで、新しいBlu-ray-driveに交換したのだが、2度、3度と接続を試したのだが、全く同じ状態になって、作動しない。やっぱり、私が言っている通りに、Blu-ray-driveのせいではなく、Dellのリカバリーの不具合のせいだと思えてならない。その場合にはDellの保証の範囲内ではないのかな??何度、問い直しても、うちのせいではない❢❢の一点張りだがね??
修理に出す直前までは、なんの異常もなかったのだからね。driveの故障でないとしたら、少しは考え直す気にはならないのかね??Dellさんよ❢❢




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8月8日 2:11 ·
今日は明日のlessonに備えて、椎名町から早めに帰って、パソコンもTVもつけないで、早めに寝たにもかかわらず、相も変わらず、寝つけないままに、凄まじい風の吹き付ける音がするので、様子見にベランダの戸を開けたら、雨混じりの風が部屋に吹き込んで来ました‼
台風の影響なのかねぇ⁉
暑い‼兎に角暑いので、クーラーが全く効かないので、除湿から、急遽、冷房に切り替えました‼
夏休み中にもかかわらず、lessonで、突然、明日、明後日と、千葉に行く事になったので、相変わらずの、時間に起きれるか…というpressureで眠れないのです。
寝なくちゃ‼と思う気持ちが、そのままpressureになるのです‼
こんな事(facebookなんか、書いていないで…)してないで、早く寝なくちゃ‼…と思う気持ちが、そのままpressureになるのです‼
アハ⁉リフレインしてしまった‼
眠剤でも飲むか⁉
一番弱い眠剤は、ベッドに入る前に飲んだのだけどね⁉その薬は気休めで、効かない事は分かっているのでね⁉
それにしても、凄い風だ‼



という事で、強い方の眠剤を飲んで、横になっていたら、朝になってしまいました。
果たして、眠れたのやら、眠れなかったのやら、微妙な感じで、兎に角眠たいのですよ‼困ったものだ‼
8月8日 9:05


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8月9日 9:35 ·
かなり長い文章を打ち込んで、チョッと確認のために、outlookを開いて、日にちを確認してコピペして、Facebookに戻ったら、書いた文章がブッ飛んでしまっていました。超、ショックです。本当にFacebookは、機能不全が酷い❢❢
何度も、改善を申し込んでいるのに、一度も改善されたことはない。
腹立つよな❢❢
てな事を書いても、またブッ飛んでしまったのでは、間尺に合わないので、ここまでを、取り敢えず保存するか??
同じ文章を2度、3度と書く程、無駄な事はない。本当に時間の無駄だ❢❢
とは言っても、日頃のオケ練習でそれを言っては身も蓋もないのではあるのだがね。

「今日は8月の9日、長崎の原爆の日です。」
と書き始めたのですが、後は、昨夜の鬱の事をウダウダと書いて、ニャンコ号のヘッドランプの球切れの話を書いて、Dellの悪口を書いた所でブッ飛んでしまったのですよ。超、腹立つよな❢❢

という事をウダウダと書いている最中に、また、ブッ飛んっだ❢❢
何も書けない❢❢

・・・という事でwindows7で入力する事は諦めて、あまり好きくないwindows10を開いて、書き直しているところです。

昨夜(8日)は、千葉でのlessonだったのですが、lessonの終わり頃から、突然鬱が酷くなって、帰りの車では心臓がパクパクが久しぶりに起こってしまいました。
取るも取り敢えずハイツに戻って、ベッドに直行したのですが、やはり鬱が酷くて2時間半経っても眠れなかったので、眠剤や抗鬱の薬を処方の量に変更して飲みました。
それで、なんとか4時間程は眠れたのですが、トイレに起きる時に、思った通りに、腰砕けになって、物に摑まりながら行きました。
これじゃあ、仕事にはならん❢❢・・という事で、ベッドに戻って横になりました。
勿論、仮眠ではなく、横になっただけですが、小1時間も休んでいたら、なんとか腰に力が戻って来て起きる事が出来るようになりました。

車のヘッドライトが球切れだと思って、車屋に行ったのですが、在庫の球がない・・という事で、千葉の教室にlessonに行くついでに、オートバックスに寄って、球の交換をしました。
炎天下で、ライトのcheckをして確認をしたのですが、夜、実際にライトを点灯してみると、球切れの半分の明かりです。
夏休み中なので、中々、千葉に行けなくって、久しぶりのlessonという事で、早めに車を出して、千葉の教室に行く途中で、オートバックスに寄って見たのですが、ヘッドライトは最初から球切れではなく、中の配線の故障だと言う事だそうです。
つまり、暑いのでクーラーが効かなかったのではなく、クーラーが断線して作動していなかったのですよ。プリドルが暑がるはずだよな??

DellはBlu-ray-driveを送って来たのは良いけれど、パックを見たら、交換したら部品を2営業日以内に取りに来る・・と言う事だったので、大慌てで交換をした所まではFacebookに書きましたが、その後、なんの改善も見受けられないので、また、クレームを送ったら、「マイデルダウンロード」というPageからsoftをdown loadしろという返事が来て、down loadしたら、なんとかpowerdirecter15だけはBlu-rayが焼けるようにはなった。
しかし、Blu-rayの再生は出来ないし、相変わらず、エラーメッセージが表示される。一体これで良いのだろうか??長年のDellなのだが、信頼が根本から崩れて行くよ❢❢



今日(9日)は37度になる予定だという事で、千葉へのlessonの移動が大変だ・・という以上に大渋滞で、クーラー無しでは無理だと言う事で、近場の(このところ良く車を持って行く)車屋に修理に出そうと思って電話をしたら、何とお盆休みで、修理が出来ないと言われてしまったので、「電気の故障なら、ヒューズの可能性はないのか⁉」・・「ヒューズなら、パーツを交換するだけだよね??」と言う事で、150円程度なので、確認のために聞いたら、「ヘッドライトは可能性があるけれど、クーラーはあり得ない」という話しだったのだけど、取り敢えずは、工場に車を持って行って、ヒューズを見て貰ったら、クーラーのヒューズが切れていて、ヒューズを交換したら、クーラーは直った‼
ヘッドライトは、配電盤を弄らないと無理だったので、「まあ、取り敢えずは、クーラーさえ効いたら、工場が再開する盆あけまで何とかなるか⁉」という事で、千葉にlessonに出かけたのだが、高速は大渋滞で、高速の地下道にはいった途端に、ヒューズが切れてしまった。ヒューズは30分も持たなかったのだよ‼
仕方なく、窓を開けて、車を走らせたのだが、高速道路の上は熱風の風が入って来て、まるで温風のサウナに入っている様で、汗が吹き出して、目に入って大変だったのですよ‼
さて、お盆でも、休まない車の修理工場なんか、あるのかな⁉頑張ってねnetで探さなければ……‼
8月11日 0:57



9日の帰りは千葉も東京も大雨だったので、窓を開けて車を走らせて、まあ、結構快適だったのですよ。椎名町からバイクで帰る時にはいつものroutineで、長崎の郵便局のチョッと前の豊島区迄は晴れていたのだけど、プリの効果は豊島区迄なので、練馬区に入った途端に大雨ですっかりハイツに辿り着いた時にはびしょ濡れになってしまいました。いつもの事なのだけどね??
昼間はあれだけ暑かったのに、霧雨は寒い事❢❢寒い事❢❢
8月12日 0:02



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8月10日 12:41 ·
昨夜は鬱は差ほどではなかったのだが2日間の千葉への移動の疲労が溜まって来たのと、パソコンのdellのトラブルと車のトラブルで、イライラして、眠れなかったので、鬱の薬と眠剤を医者の処方した薬を定量どおりに飲んだ‼(定量通りというのは、鬱にしても眠剤にしても、今回は結構強めに処方されているので、普段は半分しか飲んでいないのですよ。)
定量の眠剤を飲んで、それでも、寝つきには手間取ったのだが、頭寒足熱で、一度眠りについてしまうと、8時間以上も熟睡してしまった‼
この10年来、一度の睡眠時間としては、経験した事のない長い睡眠時間である‼
当然、この手の薬の副作用として、案の定、お昼近く迄、寝たのに、体が虚脱状態になってしまって、全く動かないし、だから、トイレに行くのにも、必死で、物にしがみついて、体を支えながらの、死に物狂いである‼ (その事については薬局で注意を受けていたので、対応済みであるけれど…)
というか、それよりも、右足首の腓返りで、激痛で目が覚めてしまったのだよ‼普段は左足や左足の薬指なのだが、今回は右足のふくらはぎであった‼
まあ、それにしても、何度も起きて仕事をしよう‼と試みるのだが、足腰が立たない‼
それにしても、もうお昼の、1時半を過ぎたのだから、何とかベッドから離れなければならない‼という事で、無理やりベッドから立とうとしたら、股関節から砕けてしまった‼
つまり、ベッドの下に転げ落ちてしまったのだよ‼
いや~あ、危ない‼危ない‼
危うく、怪我をする所であった‼
という事で、直ぐに、仕事に入るのはやめて、先ず最初に水風呂に入って、体をリラックスさせて、和菓子を食べて体を馴らしている‼
仕事をしなければ、と何かと努力をしてはみたのだが、その結果は、結局、ウダウダと何もしないで、一日眠りこけてしまった‼実に無駄な努力であった‼

牧野先生も夏風邪でダウンして、今日は一日お休みだったし、斉藤先生もオーバーワークで、疲労困憊だし、元気なのはドルだけだよな‼
相変わらず我が儘一杯、青春を謳歌しているのだよな‼
ドルの悩みは、先生達が、デブらないように、満足の行くだけ、お肉を食べさせてくれない事‼
だけど、それにしても、近頃とみに重くなって来たという噂もあるぞ‼



この話は10日のお話だけど、その後の11日12日も全く起きれないままにベッドで寝込んでいました。都合、3日間も寝込んでいたのです。ハイ!
私の自宅であるハイツのフローリングの部屋を、夏休みを利用して、倉庫状態の部屋の片付けをする予定だったのだが、寝込んでしまって、何一つ片付けが出来ていないのですよ‼
困った😖💦困った😖💧
美伶ちゃんのcelloのlessonが、椎名町では、とても遠いので、江古田教室が近かったのだけど、ハイツのフローリングの部屋を、以前、violaのlesson室に使っていたので、その状態に、何とか戻そうとしているのですがね⁉体調不良でなかなか出来ない‼困った‼
8月14日 1:19



今日は13日なのですが、未だベッドから起きる気力が回復しません。夕方に掛けて鬱が酷くなりそうなので、慌てて鬱の薬を1錠飲んだのですが(25ミリ)小一時間程経っても改善しないので、2錠目を飲みました。これで、今日の分は終わりだと思ったのだけど・・・よくよく考えて見たら、なんと3錠目だった。
まあ、通常は鬱が酷い人には100㍉を処方するらしいので、未だ大丈夫なのだけど。鬱の時には、こういった凡ミスをよくするのだよ。心が苛ついているのでね⁉
まあ、それにしても、心の奥の方では、発狂して暴れ出したくなるようなざわざわした声が聴こえて来るようだ‼気分は高揚しなくても、そのイライラが何の努力もなしに抑えられているのは、素晴らしい‼願わくば、やる気が起きて、バリバリとかねてからの懸案事項を片っ端からこなせるようになるのが理想ではあるが
8月14日 2:09



まあ、それにしても、昨年の7月30日からの、東京、四日市、長崎迄のロングツーリングでは、四日市に着く直前からの突然の痛みと激しい下痢とで、死ぬ思いをしながら、何とかナビで宿を探しながら、休み休みしながら、少しずつ、行ける所迄走っては、休憩を繰り返して、予定よりも2日もオーバーして、何とか長崎まで、やっとこ辿り着いたのだが、それからも、家を処分するための細々とした仕事や手続きが、体力的な限界で、結局、何も出来なかったのだよな⁉
一日中、ウダウダと横になっているだけで、何も出来なかったのだよな⁉
奇しくも、今年も昨年と全く同じ時期なのだが、旅行中の激しい腰痛の痛みや急性の下痢はさておいても、その後のやる気のなさ、無気力なところ、ベッドに日がな一日しがみついている所は、まるで昨年と全く同じデェジァブのようだ‼
強いて言えば、昨年の方が、家を処分しなければならないというtimelimitがあって、何がなんでも頑張らねばらなければならない…という使命感がまだ残っていたような気がする‼
今年は、もう、やらなければ・・という使命感すらもないような感がするのだが、結局、燃え尽き症候群かいな⁉
それとも、一生懸命やるだけやったのだけど、ドンキホーテに過ぎなかった…無駄な人生であったという事なのか⁉
それにしても、眠剤を間違えて3錠も飲んだのに、またまた眠れなくなってしまった‼
諦めて、音楽でも聴くか?
眠れぬままに徒然に書いていたら、何と5時半にもなってしまっている‼
何とかせにゃあかんたい‼(それでも、6時か、7時頃には、どうにか眠れたようだ・・。)まずは安心。
8月16日5:02



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8月14日 21:27 ·
8月は、5日6日から7日8日9日と連チャンで練習やlessonがあって、その合間にユーカリが丘の整理等やホームページの作業等があったので、8月の10日から、延々と寝込んでしまいました‼
とは言っても、次の11日には、Jcomが作業に来たので、寝込んでいる事は出来ませんでした‼外には出なかったのだけどね⁉
ハイツの外に出るのは実に4日振りで、久しぶりに外を歩くので、普通にゆっくりと歩いても、足元がふらついてしまいました‼
それにしても、もう、8月も14日というのに、長袖でないと無理なくらいに寒い‼
寒いというのは、今日の話しではなく、この所の話しなのですがね。
今日は久しぶりで、椎名町の夜のドルっ歩に行きました。いつものドルの散歩コースを歩けるか、心配だったのだけど、私のせいという分けではなく、斉藤先生が、引っ越し作業がたたったのか、腰痛で歩けなくなったので、ドルは散歩が足りなくって、不満足で怒って頑張っていたのだけど、3/1くらいで、帰って来てしまいました😵💧
霧雨だったのだけど、結構強かったので、結構、濡れたね⁉
夜遅くなって、私が、食事を済ませて、帰る時も霧雨はいっこうに収まらなくって、寒い事、寒い事‼
半袖のTシャツにポンチョではとても無理な感じだったね‼
毎日、寒い‼寒い‼と、同じ事を書いているけど、まだ8月のお盆の中日だよね⁉
まるで11月の終わり頃の季節のようだ‼
もうすぐ雪が降りだすのでは……⁉


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8月15日 9:45 ·
今は朝の9時半です。今日の気温はGoogle+によると、26℃から24℃で湿度は50%の予測なのですが、同じGoogle+によると、今の現在地の気温は23℃です。つまり、今日の最低の気温よりも、現在地の気温は下回っている、という事で、試しに、部屋の温度計を窓辺に持って行ったら、気温は24℃で、湿度は76%にもなっていました。体感的には21℃くらいではないのかな⁉という感じで、一瞬で、部屋の絨毯が湿っぽくなってしまいました‼
慌てて窓を閉めた所です。雨は霧雨か小雨のようです。それにしても寒い‼
それはそうと、椎名町回りでは、雨は降ってはいなかったそうで、恙無くドルっ歩は出来たそうです。ほんの都心の二駅なのに、いつも天気が違います。不思議だ‼
明日で、夏休みも終わりなのですが、寝正月ならぬ寝盆になってしまいました‼とうとう、部屋の整理やホームページの更新も出来ないままになってしまいました‼
体力の限界…かな⁉



5時になっても、6時になっても、眠れぬままにベッドでのたうちまわっています‼仕方がないので、鬱と眠剤の薬を追加したのですが、全く効果がありません‼どうやら、夏休み中に、何も出来なかった事が、精神的なpressureになっているのかな⁉
私だけのさがなのか、それとも、団塊の世代のさがなのか…そこは良く分からないけれど、諦めて、ベッドから這い出して、暫しhomepageの単純作業の部分を疲れる迄、やりました‼多分、これで、熟睡出来るのではないのかな⁉…かな⁉…かな⁉
8月16日7:38


ついに、17日になってしまいました。斉藤先生のvideolessonは、16日から早々と開始しています❗今日こそは、rotationを元に戻そうと、鬱の薬も眠剤も、既定の量を守って飲んだのですが、全く効果が見受けられませんでした‼夜の1時には、ベッドに入ったのですが、既に、朝の8時半になってしまいました‼それでも、眠くならないのですよ‼困った‼困った‼
ただ単に体内時計が半日ズレているだけだと思うのだけど、それが結構困るのよね❢❢
一日成さざれば、一日食さず
あたしにゃあ、そんな気概はないけどね


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8月17日 20:54 ·
今日(17日)は、朝から鬱が酷いと思っていたら、なんと最悪の状態になってしまった。は~ぁ??
歳を取ると、嫌な事が身に滲みるねぇ~⁉😥
鬱や体調不良と嫌な事が被ると、ほんとに、やりきれなくなってしまう‼というか、身のおき何処が無くなってしまう‼
若い頃なら、酒を浴びる程飲んで、発散する事も出来たのかもしれないけど、歳を取るとそれも出来ない‼
老兵は消え逝くのみ…であるぞなもし

あらら?
8月17日 23:49


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8月18日 2:47 ·
それにしても寒いし、湿度の高さは尋常ではない‼部屋の絨毯やベッドのシーツがベトベトして気持ちが悪い‼クーラーを入れると30℃の最高温度にしても寒いので、困ってしまう❗
という事で、これまでは、コンセントの接続不良で、入らなかったので、使っていなかったコンビニクーラーの電源を、試しに入れてみたら、なんと電源が入った‼どうした分けだ⁉
しかし、今度は別の配線であるはずの扇風機が入らない‼
一度、ベッドをどかして、配線の総checkをしなければなるまい‼
とは言っても、ベッドを動かすのは一人ではとても無理だな⁉
という事は、また、いつの事になるかな⁉
コンビニクーラーは、部屋が寒くて湿度が高い時用に、パソコンの部屋にも欲しいなあ⁉
長崎のおっかさんのために、私が長崎で買ったコンビニクーラーが、椎名町のlesson室にあるのだよな⁉
楽器だらけなのだから、今更、「返してくれ‼」もないよな⁉
諦めて、新しいのを買うか⁉
2.30分だが、コンビニクーラーのおかげで、やっとベッドのシーツがサラサラしてきた‼
これで、なんとか眠れれば良いのだが⁉



と言いながら、全く眠れない‼またまた、3時半になってしまった‼普段ならば諦めて、仕事モードに入るのだろうが、今夜はやる気が全く起きない‼困った事だ‼
とか思っていたら心臓がバクバクし始めた。これはやばい❢と慌てて救心を飲んだ❢市販の薬だが、私にはよく効くのだよ。
折角の、コンビニクーラーを目一杯運転しても、部屋の温度が上がって来ない‼
まさか、8月に暖房でもないだろうし、困ってしまった‼
暫し、パソコンの椅子に座って、テレビのnewsを見るとはなく見ていたのだが、ふと気づいて、「そうだ‼衣類乾燥だ‼」「衣類乾燥があるではないか??」
急いで、コンビニクーラーの水を全部抜いて、衣類乾燥に設定した‼
しばらくすると、室内の温度は何とか適温になったのだけど、そのうち、熱くなるのかな⁉
やった事ないから分からんな⁉
それにしても、少しは汗を出した方が良いよなぁ⁉
8月18日 5:20



とか何とか、言いながら、定時の朝5時の測定時になったので、体組成計と血圧を測ったら、なんと、100を切るどころではなく、低血圧だったよ。下も50だ❢❢ 
鬱なのは当然だよな??
8月18日 5:27



もうすぐ8時だが、まだ眠れないで悩んでいるのだよ。心療内科の眠剤は、全く効かなかったので、マイスリーでも、飲むか?それとも、眠れないのなら、またまた、パソコンの椅子に座って、wineでも飲みながら、音楽でも聴くか⁉にしては、もうすっかりと朝なのだが⁉時間のコントロールが全く出来ていないよなぁ⁉
8月18日 7:58



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8月20日 4:44 ·
今日は、夏休み明けの最初のオケ練習があります。
10日から、まるまる寝込んでいたので、今日のオケ練習は、体力が最後まで持つか心配だったので、早めにベッドには入ったのですが、いつも通りに、寝はぐれてしまいました。
車のクーラーやヘッドランプの修理もお盆休みでまだなので、明日の移動も問題です。
この所、血圧が普段よりも低めで、体を動かしていない性なのかな⁉とも、思っていたのですが、昨日の朝は、上が84で、下が48と、下がり過ぎになったので、ちょっと驚いてしまって、計りなおしてしまいました。勿論、計測の結果は同じでした。
昔々、病院に入院していた時に、検査の薬で、上が70まで下がってしまって、意識をなくした事があります。それに対しての病院側の釈明はなかったのだけどね。
その時以来の下がり方なのだけど、脈は正常だし、相変わらず、鬱と入眠には悩まされていたのですが、とくに低血圧としての症状はなかったので、通常の薬の他には、抗うつ剤だけを飲んで、眠剤は飲むのをやめておきました。ここの所、仕事をしていないのは、低血圧の性なのかな⁉…なんて‼アハ‼



入眠には、高校時代から悩まされていました。眠れない辛さを回避するために、当時は、布団の中で、色々な物語を考えていました。…というか、ある程度のキャラクターが出来上がると、各自が勝手に動き始めて、自分の思い通りには動いてくれないので、ついつい逆に眠れなくなったりする事もままありました。
近頃は、妄想にふける事はやめて、寝ようと努力しているのですが、それがpressureになって、逆に眠れなくなってしまっているようにも、思えます。妄想をする事で、入眠のpressureを回避するのが良いのか、入眠に専念するのが良いのか、未だに、結論は出ていません‼
8月20日 6:23



それでも、やはり眠れないので、思い切って、足湯をしました。風呂の椅子は、介護用の膝までの高さの椅子なので、風呂桶の中に入れて、熱目のお湯をくるぶしの上の鬱血をしている所まで溜めて、足のマッサージをしました。体が温まって、汗が出てきたのは良いのだけど、部屋が暑いのか、体が熱いのかが、分からなくなってしまいました。温度計はあてにならないのでね⁉
いやいや、今度は汗が止まらなくなって来たぞ‼クーラーをぎんぎんに入れているのに、汗が吹き出してくる❗これは困った‼
ますます、眠れなくなってしまった😵💧
8月20日 7:43



あ、それでさっき、うちわで扇いでいらしたんですねー💦
8月20日 15:30



でも、結構涼しかったので、助かりました❗夜も気温は低かったのだけど、湿度が高くて髪の毛が気持ち悪くて、窓を開けて走っても汗が吹き出して止まりませんでした。梨紗ちゃんが、成田からの直行で、検見川教室に来たので、荷物や楽器が多いので、家まで車で送ったのだけど、高速の北池袋周辺から大渋滞に捕まってしまって、30分近く待たされて、大変でした。事務所への帰りは、一般道だったので、20分くらいで、到着しました。で、夕食を食べて、ハイツにたどり着いたのは1時を過ぎていて、それから、髪を洗いました。という事で、何時に寝たのかな⁉アハ‼
8月21日 8:48
.


夜送ってくださり、本当にありがとうございました!助かりました。寝ぼけ半分でちゃんと直接お礼伝えられていなかったらすみません…。
8月22日 12:18


東池袋辺りからの渋滞は大変でしたが、護国寺から一般道を使えば、渋滞とは無関係に、高速を使うよりも随分早く着くように思いますがね。事前にルートをよく検索しておいてから走ると良かったデス。少なくとも、20分以上前には着いたと思うけれど。私の感ですが・・・・??
8月22日 13:33



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フクロウの思い出

8月22日 8:44 ·
豊島区の要町の近くに大きな公園があります。要町の駅の側には木がたくさんあって、ベンチの傍の木には、小さなウロがあります。

深夜のドルプリっ歩(ドルとプリの散歩)で、ベンチに腰をかけて、そのウロをなんとなく見ていたら、田舎で暮らしていた幼い頃に、大きな楠の木のウロにいたフクロウの事を思い出しました。

昔々、まだ幼かった頃には、私は田舎の本家の祖母の元で暮らしていました。父親が原爆で死んだので、母が祖母に私を預けて働きに出かけたからです。

江戸時代から、何百年と続いたその本家の客間に面した中庭の奥には、崖に面して大きな枯れかかった楠の木があって、高い両手を拡げたような枝の中心には、大きな深いウロがあって、深夜になると、夜毎、フクロウの鳴き声が聞こえてきて、幼い私を怖がらせていました。
そして、時おり、遠くから聞こえて来る夜汽車の汽笛の音※)は、小さな子供の寂しさを引き出して、泣き出したくなるような痛い心持ちにさせていました。
そういう私を見かねてか、それとも、末っ子の末っ子だったからか、祖母は仕事が終わったら、手枕で、添い寝をしてくれました。

中学生になって、長崎の学校に転校してからは、田舎で暮らす事はなくなったので、フクロウの鳴き声を聞いた事はもうありませんでした。
勿論、小さな子供の頃から、フクロウの姿を見た事は一度もありません。ウロが高かったので、鳴き声だけで、ウロを覗く事は出来なかったからです。

私がフクロウと言っているのは、記憶をしている鳴き声がフクロウの声だからです。
ちなみにフクロウとミミズクの鳴き声は同じだそうです。
フクロウはたまに見る事はありますが、ミミズクは、普段は見たことはありません。

フクロウのお話しはそこまでです。
お話しを纏めると、フクロウの鳴き声が怖かった事や、夜汽車の汽笛が、痛い程に寂しかったのは、その当時の夜が、今は目にする事の出来ない暗闇の世界だったからです。

今の子供たちは、本当の暗闇を知りません。
都会では、夜でも明るいのは、当然ですが、今では、相当の田舎に行っても、漆黒の暗闇にはなりません。
外灯の明かりだけではなく、家々の明かりそのものが、明るくなったからです。
四畳半や、六畳の明かりが40ワットや60ワットの裸電球一つ・・では、今の若い人たちでは、堪えられないでしようね⁉
ましてや、人工的な明かりが全くなく、星明かりの下で、道を歩くという経験は、「そんなに危ない事は…」と言って、もう誰も経験した事はないでしようね⁉

若い人達の感覚で、「懐中電灯を持って行けば?」と言うかも知れませんよね⁉
でも、私達の幼い頃は、戦後すぐの時代だったので、乾電池はとても贅沢品だったので一般の家庭ではとても買えなかったのですよ⁉それに、今の乾電池と違って、極めつけに持ちが悪かったしね⁉せいぜい、ローソクを探すくらいの間くらいしか持たなかったしね⁉

電信柱に裸電球が取り付けられるようになったの、都会でも昭和20年代も後半から、地方では、それからだいぶ後の30年代に入ってからの時代ですからね⁉
復興は日本全土だったのですが、首都である東京は、復興はとても早かったようで、昭和24年、25年には、朝鮮特需の影響もあって、急速に景気も回復してきました。
次には東京以外の大都市圏。
大阪や名古屋等の都市。
しかし、私達が幼年期を過ごした田舎は、そういった景気や復興の波には取り残されて、昭和20年代では、全く江戸時代の風習をそのままに継承していたのです。

もぐら叩きの風習から、青年達の若衆小屋での共同生活、・・といった江戸時代そのままの習慣や風習だけでなく、山歩きの最中に道を間違えて、漢人部落のど真ん中に出てしまった時には、始めて目にした異文化を、お互いに奇異の目で見つめ合ってしまいました。居る筈のない人間が部落の中心に突然出現したのですから・・。
完全に隔離された部落です。
高校生、大学生になって、穢多非人とか、漢人部落のそういった差別の言葉の意味を大人になって学ぶ事になりますが、子供時代の当時はよく分からない集落を垣間見ただけでした。

本家の家は一番奥まった小高い丘の手前にありました。
その丘を越した所から、山の中を突っ切ると、古いお寺があって、その脇をすり抜ける所から藩の山城の裏手に直接出る事が出来ます。
つまり、ちゃんとしたお城への道を歩かなくても、獣道を通って、城に駆け付ける事が出来たのです。或いは、逆にお城から抜け出すための、間道だったのかも知れません。

その城山への入口の一つである沢の一つが、本家の家と、小山を一つ隔てた家老の家になっていて、もう一つの沢である隣の山への入口が、不思議な事に漢人部落だったのです。
私が幼い子供の頃は、漢人部落も江戸時代のそのままで、部落への入り口には高い格子戸が行手を遮っていました。私が部落を通り抜けする時には、入り口の扉は閉ざされてはいなくて、開いていましたよ。

でも30年代からは、いつの間にか、その部落そのものもなくなってしまっていて、更地になっていましたよ。
2,3年前に墓参りに郷里に訪れた時には、その辺りは美しい整備された公園になっていました。
勿論、部落の片鱗も見受けられませんでしたよ。

それはそうと、フクロウさんのお話しに戻って、私の記憶のメトードの基本(骨子)は、しっかりと覚えている事と、ウロ覚え(ウル覚え)を正確に区別を付けられるようにする事です。
その違いを分かるようになると、記憶力はずば抜けて、正確になります。
記憶は単なる癖に過ぎないので、ウロ覚えさえ無くせば、記憶が不正確になったり、間違えて覚えたりする事はありません‼
殆どの人達は、自分の記憶が正確なものであるのか、ウル覚えなのかの違いが分かりません。
「正しい」と思い込んでいる人達の記憶の間違いを指摘すると、驚いて黙り込んでしまいます。
「正しい」と言っている言葉自体が、思い込みであり、思い込みの癖のある人達の記憶の間違いは治りません。
何故なら、正しいと信じているものを治す事が出来る分けはないからです。
そして、それが間違いだと指摘されたとしても、心の底からは、それが間違いであったと信じようとはしないのです。
自分が間違えた❢と確信出来ない・・、信じられない事が治せる分けはないのですからね。

後、もう一つの記憶に関する大切なtheoryは、人間は基本的に、興味のない事は、例え一度は無理矢理に覚えても、すぐに忘れてしまいます。
しかし、反面、自分に興味のあることは、いつまでもしっかりと覚えておく事が出来ます。
これもウロのフクロウさんが教えてくれる事です。

※)なんと、この機関車は島原鉄道に払い下げられた、なんと、弁慶号だったのですよ⁉子供の頃は、その勇姿をいつも見て感激していました‼
D51のような精悍な凄い機関車ではなく、もっと優しく人間的な機関車であったからです。








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8月22日 14:35 ·
Vivaldi a moll Op.3Nr.6の2楽章のbowslur
昨日斉藤先生にarticulation(bowslur)を作って見せる予定だったのだけど、時間がなくて、(と言うか昼間は寝込んでしまったので、)斉藤先生の今日の出発までに楽譜のcheckが間に合わなかったので、Facebookで公開しますので、見て置いてください。。srちゃんも移して練習してみてください。後で斉藤先生に確認をしてもらいましょう。先生と生徒のみに見て貰うという、こういう場合には、何のsoftを使ったら良いのかな??Facebookでは不特定多数の人にappealする形になってしまうので、無駄なのだけどね。※)
outlookではmailが送れない人が多いし、outlookにとってはjpegを添付するのは重すぎて苦手だし。lineはその都度グループを作らないと一斉送信は出来ないのかな??
多分メッセンジャーも個人だよね??複数の人達に同時に送信する事は出来ないよね??
※)concertoでは当然soloのpartに技術的な難しさが集中します。という事で、一般的には、soloの生徒だけを別のlessonで特訓するのが普通です。
勿論、教室の練習でも、soloの生徒だけが技術的に付いて行かない場合には、担当の先生に個人lessonをお願いしますが、オケ全体の生徒達にも良い技術練習になるので、soloのpartを弾かせて、技術練習をさせる事が頻繁にあります。つまり、オケの総ての生徒達がsoloのpartをその場で、演奏出来るのです。violaやcelloが、violin-soloのpartを弾いたりして…‼
これは日本のオケではない事ですよね~??アハッ!




第一versionの楽譜にbowslurを付けたけれど、第一versionの楽譜で演奏しよう・・という意味ではないですよ。versionは今までのversionで練習しておいてください。
8月23日 1:49



あれ?紗來ちゃんは第2ヴァージョンを練習してます。第1と同じところは先生のスラーをうつして、違うところはそれに準じてスラーをつければいいですか?
8月23日 19:34



そうですよね⁉
8月23日 19:37



by紗來🎵
かきうつして練習してます。違うところも、自分でつけました。合ってるか見てください。
8月23日 21:08



facebookのメッセンジャーも、LINEも、グループチャットをすぐに作れます!
8月23日 7:26




楽譜も見れるように出来るのよね??
8月23日 7:33
管理する



Facebookのメッセンジャーでmailを送ろうと思ったら、今まで、普通にmailでやり取りをしていたはずのmessengerが、電話かvideochatにしかならなくって、どうしてもmailの文章の入力が出来なかったので、諦めて、facebookに書いたのですよ‼
という分けで、今回も楽譜とメールを、Facebookにupしたのですよ。
京子ちゃんからのメールもメッセンジャーで来ていて、どうしても電話かvideochatになってしまって、文章でのメールに入れなくって、返事を書くのが分からなくって、斉藤先生に文章の入力の場所を見つけて貰ったのだけどね。分かっていれば簡単なのだろうけれど、どうも、netのmailは嫌いだな??私の年代では、質問しても分かる人は少ないのでね。
たぶん、windows10ならば、問題はないのかも知れないけど、windows10はパソコンとは呼べないからね‼7が終わるまで、私は7で行きます‼netなんてどうでもよいのだからね‼
8月23日 18:44


元々は、ハイツにある反故になったプリントアウトされた譜面に書き込んたのですが、斉藤先生と紗來ちゃんに言われたので、1versionと2versionの違う所のcheckをするために、楽譜を確認して、よく見てみたら、なんと、1versionも、2versionも同じ楽譜でした‼原譜はどうなっているのだろう⁉紗來ちゃんの2versionは、どの楽譜なのだろうかな⁉反故の楽譜は、処分しないとね⁉
8月24日 1:14



原譜は1versionではなく、2versionで練習してたのですが、先生言う通り、1versionと2versionは原譜は同じです。
違うのは最後のカデンツです。今は3種類のうちの1番目を弾いています❗
カデンツだけ書かれているので、原譜と違います。
私が弾いている楽譜を写真で送ります❗
8月24日 11:17




元の楽譜は3連音の所を除いては、いじつていないので、最後のphraseに入る前のornament(装飾)が、色々と変わっているだけです。その装飾に番号を振っておけばよかったですよね⁉
8月24日 11:26




斉藤先生に番号を書いてもらいました❗
8月24日 11:34

いいね!
8月24日 11:34




Ⅳは短くって、簡単ですが、キラキラ感はあると思います。
8月24日 11:42



少し簡単めのornamentⅣです。キラキラ感はあるかな??
8月24日 11:14





いいね!
8月24日 11:20



3は長すぎるし、2は短すぎるので、1を弾いています🍀
8月24日 11:27


練習で、checkしましょう。色々なversionで、弾けるようになる事が大切です。大切な事は、完成形を求め続ける事なのです。色々なversionを弾けるようにする事は、一つのversionを弾けるようにする事よりも、上達の早道です。つまり、違いが分かるようになるからです。
8月24日 11:39




全部練習します✨
8月24日 12:05




全部のversionを練習するのは、長いスパンの話しです。焦らないで、丁寧に、無理をしないで、自分のペースを守って練習してくださいね。
8月24日 13:35




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8月23日 6:19 ·
右に掲載した写真は、高校時代の学生証の写真と、大学生時代に住んでいた日芸の裏の旭ヶ丘のアパートの近くで撮った写真です。
若い頃の写真は、(特に幼年期や小学生の頃、或いは田舎の時代の写真は、)度重なる引っ越しで、手元には、殆ど、残ってはいません。

私達の時代では、まだフィルムカメラの時代で、特に小学生の頃は、親達、大人達も含めて、カメラを持っている人は少なかったのです。
まして当時は、女性がカメラを持って写真を撮るという事は殆どなかったし、幼年期を一緒に過ごした祖母がカメラを持つ事は、絶対にあり得なかったし、そういう事で、父親がいない子供の場合には、子供時代の写真を撮ってくれる人も当然、居なかったので、高校時代になって、自分で写真を撮るようになる時までは、家にはカメラすら、なかったのですよ。

それに、当時は現像してプリントするのは、大変な金額が掛かったので、写真を撮ったとしても、おいそれとプリントをする所までは出来ませんでした‼
だから、私の幼年時代、子供の時代の写真が見つかる事は、もう、これ以上は、ないのでしょうね⁉
(幼年期の写真は、奇跡的にたった一枚、小学生の頃の写真も、祖母や伯母と一緒に撮った写真が一枚だけ残っているだけです。後にも先にも、私の幼年時代から小学生の頃までの写真は、その2枚だけでした。)


高校生くらいになって、安いジャバラのカメラを、おふくろから貰いました。(下の写真のcameraです。)…とはいっても、写真を撮るのは、私自身なので、私の写真は、その後も、殆どないのですよ‼
当時は、自撮り棒、何て物はなかったしね⁉
せいぜい、三脚を立てて、セルフタイマーで撮影するくらいかね⁉
それに、私が母に貰った、その安いジャバラのカメラは、セルフタイマーのような高級な機能は付いてなかったしね⁉
なんと、その安いカメラはまだハイツで、保存されているのですよ‼
何せ、私は、物持ちが良いのでね⁉
(下の写真ですよ😃)


大学生になってからは、ハーフサイズのカメラを買いました。それぐらいのお金は既に稼いでいたのでね。


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8月23日 18:31 ·
今は、夕方の6時半だというのに、外の気温はまだまだ33度だそうです。
今日は、頑張って、朝一で、車を修理に出したり、病院回りをしたりしたので、バテてしまいました‼
目下、部屋を真っ暗にして、へばっている所です。
冷蔵庫の中は、空なのですが、今日は買い出しまでは、体力的に、とても無理だったので何も買ってはいません。
超、疲れたので、甘い物が食べたいのだけど、何か買い置きは、あったのかな⁉
たぶん、ないだろうな⁉😥




バテて、爆睡していたので、夜の食事の呼び出しで、目が覚めました。バテが取れてなかったので、食事に行くのは、チョット無理という事で断って、そのまま、横になっていたのですが、朝というか、昼というか…に、蕎麦を食べただけなので、流石に、深夜の1時半を過ぎると、腹が減ってかないません。しかし、コンビニに行く元気もない‼
…という状態が、よくあるのですが、それが私としては、一番困るのですよ😖
…という事で、いつも結局、何もしないのだよな⁉
つまり、それが鬱の状態なのです。
8月27日 7:00



今日は、心療内科で、新しい眠剤の薬を出すための問診の時に、「眠れない分けではなく、時間が半日ずれているのですが…」と先生に言ったら、「それを正常に戻すための眠剤ですよ‼」と言われて、すこし安心しました。
安心した、という意味は、半日ずれているのは、生活習慣のためで、自制力の不足という自責の念があったからです。
高校生の時代から、延々と続いている入眠障害ですが、これを機会に、すこしだけ頑張って、治療していきたいと思います。
「何を今更…」と思われるかも知れないけど、歳をとるにつれて、鬱だけではなく、入眠障害も、確実に酷くなっているのでね⁉
8月26日 3:35




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8月24日 13:53 ·

今日は珍しく、お昼を食べに、椎名町の事務所に行きました。通常ならば、今日は蕎麦の日で、生蕎麦が着く日だったのですが、昨日、蕎麦の配達を受け取れなかったので、蕎麦の日は延期になって、買い置きの島原の素麺の日になってしまいました。ということで、炎天下にお昼を食べに、椎名町までバイクで出掛けました。
それにしても、なんと、練馬区の温度は今現在、36度です‼
バイクでハイツに戻る時には、ドライヤーの熱風のような風が、吹き付けて来ました‼
よりによって、一番暑い時に、バイクに乗ったのだよね⁉😨
夕方からならば、少しは涼しくなったかも知れませんが、1時半くらいまでには、先生達はlessonで、千葉に出掛けてしまうので、お昼の食事の時間には、timelimitがあるので、致し方はありません。




昼間は練馬区は37度まで上がったそうです‼
暑い🔥☀
という事で、夜は完全にバテてしまって、ドルプリっ歩も食事もパスして、寝込んでしまいました。
今年の夏は全く仕事にならないので、困ってしまいます。
イヤ、サボりの口実ではないですよ‼ホント😂
8月25日 4:09



夕方、車屋さんから電話があって、ヘッドライトは、ランプが24ボルトのが取り付けてあったそうです。取り付けが終わってからの確認が、炎天下でやったので、夜になって半灯に気づいて、私が「ランプが違っているのではないのか?」と、オートバックスに確認しに行ったのですが、「絶対に間違えてはいない。内部の配線のショートです‼」という事で、工場修理になったのですがね⁉
それと、肝心のクーラーなのですが、もう一度、ヒューズを交換したら、故障が再現出来ないので、故障箇所が分からないそうで、実際に走って様子を見る事になりました。「う~ん😖」スッキリしないけれど、仕方がないですよね⁉
8月26日 3:30



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Vivaldi d moll doppel Op.3Nr.11のsicilienneのRicordi版

8月26日 7:41 ·
Vivaldi d moll doppel Op.3Nr.11のRicordi版ですが、色々とミスが多いのはいつもの通りなのですが、sicilienneは、間違えた和音が多くて、響きの悪い箇所が多過ぎるので、諦めて、和声法的な間違いを、書き直しをしました。そのversionで練習を開始して、暫らく経ちましたが、昨日は、参考までに、You Tubeの演奏でupされているVivaldiのdoppelから、period奏法の演奏を1つ、2つ聴いて見たのですが、その時に、曲のTitleにBach=Vivaldiと書かれている演奏があるのを見て、「そうか??この曲もBachがorgelにtransposeした曲だったのか?」と、思い出して、ハイツにあるOrganの楽譜をcheckしてみました。
Bach先生は前回の春待ちコンサートで演奏したVivaldiのa mollのdoppel concertoもOrganにtransposeしています。今回、d mollのdoppel concertoを聴いて、私が驚いたのは、orchestra=versionでの演奏が、BachがOrganにtransposeした曲を、更にorchestraに戻してあったからです。つまり、Vivaldiが書いたとは思えないsicilienneの和音進行をのBach訂正した和音から、orchestraにtransposeしてあったのですよ。(勿論、楽譜は出版されていませんから、同じtransposeをしなければならないので、今回の八千代での演奏では、私のversionのままで演奏する事にします。
しかし、それにしても、Bach先生・・・・、私が長い事、悩んでいた箇所ですが、なんとオケの和音のpartではなく、melodieを変えていたよ❢❢
いくらなんでも、それはないんじゃない??😨

Vivaldiのoriginalでは、2小節目の伴奏の頭の音Faは、非和声音の繫留音になり、melodieのMiは導音なので、和声上の禁則になってしまい、非常に鋭い音がしてしまいます。Vivaldiの意図的には、×印1拍目と3拍目に長7度の鋭い響きが出て来るので、Sequenz的に、繫留による7度と導音のぶつかりは回避出来る・・という考えによります。
しかし、実際の演奏ではその音のぶつかりはbaroque的には少し強烈です。
という事で、Bachは繫留音をⅡ度の和音の第7音に変えて、melodieを和音上の音にする事でその禁則を避けています。・・という事で、melodieを変えてしまっているのです。
私の場合には、Vivaldiのmelodieの変更は変更したくはないので、見せかけのⅦ度の7の和音で、実際にはⅡ度の和音に聞こえるようにして、繫留のFaの音を省く事で、導音のぶつかりを回避しています。Miの導音が、飛んで入っても、柔らかく聴こえるようにしました。ちなみに、3拍目の長7の和音のFaとMiの7度のぶつかりを無くして3和音に訂正したのは、1拍目の長7度のぶつかりがなくなったので、長7度のSequenzが成立しないからです。




ちなみに、問題のMiの音をソに変えて弾いている団体も多いようです。導音ではなくなるので、Faとのぶつかりも幾分解消出来るからです。
8月27日 9:06




Vivaldiの音型をなるべく忠実に活かすには、1stのFaの繫留音とsoloの導音が短2度でぶつかるのを防げば、ある程度は回避出来ます。つまり、1stのFaをoctave下げて2ndかviolaに回せば、短2度のぶつかりが長7度になるので、幾分はマシになります。でも、この逃げ方をしている演奏団体はいないようです。
8月29日 18:48



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8月28日 0:06 ·
8月27日の日曜日、今日は夏休み最後のオケ練習でした。今、ハイツに戻って来た所なのですが、バイクの寒い事❢❢寒い事❢❢凍え死ぬかと思ったぞ❢❢今日の気温は最高が30度最低は25度の予定なのですが、現在の気温は24度を下回っています。どういうこっちゃ??




お疲れ様です。
今日はエアコンなしで過ごせました。窓開けっ放しで寝てると朝方寒りますね。金曜は最高気温が25度予報になってます。体調崩されませんように。
8月28日 0:34




最高が25度ですか⁉それは、凄い⛄
8月28日 2:53



一夜明けて、今日は22度の予定だそうです😨
8月28日 11:22




8月27日の夏休み最後のオケ練習ですが、Vivaldi a moll のⅡ楽章のmelodieのtempoの揺らしの勉強を全員でやりました。指揮をしてその指揮に合わせて揺らしをしたのですが、中々の出来でした。
その時の動画を復習のためにuploadしようと思ったのですが、SDcardが見当たりません。斉藤先生曰く、「videocamera、本体に録画したのではないか?」昨日は花園でlessonだったので、帰りに検見川教室に寄って、videocameraを椎名町に持って帰るつもりだったのですが、バテて検見川教室教室に寄るのが無理になってしまったので、feedbackが出来ません。困った事です。確認はしたのだけどね??
9月1日 17:59




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homepage「芦塚陽二の闘病記」閉鎖のご連絡です。

8月28日 11:52 ·
8月3日のJcomの勧誘に騙された‼という事で、「芦塚陽二の闘病記」或いは「芦塚陽二の病床記」のhomepageが、U-comとの契約が切れる9月20日から見る事が出来なくなります。病床記のhomepage上で、その連絡の文章を掲載したのですが、Jcomの工事の人が、U-comの配線を抜いていったので、連絡のhomepageをuplordする事が出来なくなってしまっていました。
という事で、仕方なくfacebook上でご報告いたします。
レンタルサーバーか、yahooに相乗りでも、すれば良いのでしょうが、今、その気力と時間がないので、後日、もしかしてその気力が快復する事が、万が一にでもあったら、復活させるかも知れませんが、万が一、なので、閉鎖という事にしておいてください。
一読でもなされた方には、心より感謝いたします。



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8月29日 13:45 ·
練馬区小竹町の現在の温度、34度だって❢❢湿度も70%からこれから80%を越すらしい。つまり、残暑ざんしょう~??
今は、夜の8時なのですが、それでも31度越えだそうです。Googleでは、最低気温は26度なのだそうですが、気温が29度から下がる気配はないようです。いや~あ、暑いね❢❢





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8月30日 9:53 ·
昨日からの続きです。今日は朝から暑くてクーラーを入れているのに、あまり効きません。でも、netで見ると、小竹町の気温は29.9度で30度はありません。それなのに、昨日よりも暑くて困っています。不思議だ❢❢湿度も60%から70%ぐらいで大した事はないのですがね??それにしても暑い❢❢





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8月31日 9:58 ·
今日は8月31日、子供達にとっては、夏休み最後の日になります。
外は雨で超、寒いのですが、部屋の中は湿度が籠もって暑苦しく、クーラーの設定が上手くいきません。
今日は、千葉教室でlessonをする事になっていて、その準備をしているのですが、突然、発作が起こったように、鬱がやって来て、手が震えてしまい、気分が落ち込んで鬱の薬を飲んでも、薬が効きません。理由もなく襲ってくる鬱には、本当に困ったものです。
いつもの事なのですが、鬱の時には、精神面だけではなく、体の動き等の凡ての行動が遅くなってしまって、lessonの準備が中々出来ません。体が思ったように動かないからだけではなく、体調も直ぐに悪くなって、疲れてしまうのですよ😥
お昼の12時頃になりましたが、マジに超寒くなってきました。lessonには、長袖を準備しないと無理なようです。薄手の長袖の入っている引き出しを引き出して見たのですが、よそ行きの薄手の半袖がたくさん入っていて、長袖は厚手でタートルが一着しかありませんでした。今年、夏が超暑かったので、よそ行きとかlessonのための半袖を探してなかったので、サカゼンで、まとめ買いをしたばかりなのですがね⁉入れ場所を変えたのなら、引き出しのテプラも変えて欲しかったな⁉
それにしても、今日は未だ8月なのだよね。明日の9時頃は18度の予定だそうです。どうなっているの??完全に地球はおかしくなっているようですね。




千葉市は29日から学校が始まってます。
今日は10月頃の気温と言ってました。風も強いです。お気を付けていらしてください。本日もよろしくお願いします。
8月31日 13:26





幕張の近くを走っていたら、下校中の子供たちを見て、びっくりしてしまいました。八千代の子供たちは、9月の1日からだそうですよ⁉寒冷地の子供たちは夏休みが短いそうだけど、千葉市は、雪国だったっけ⁉
9月1日 5:06




去年から3日ほど早く夏休みが終わるようになりました(二学期制だから⁉︎)やっと夏休みが終わったと思ったのに再来週、成績付けのため短縮日課が1週間続きます…
9月1日 5:32




lessonが終わって、椎名町で、ドルプリっ歩をして、もう先生達が半分寝かかっていたので、夜食は無しにして、ジャケットを着て、寒さに震えながら、バイクでハイツ迄走って行きました。ハイツの部屋に入ると、部屋はパソコンや電器製品のせいで、生暖かい。外は寒いので、窓を全開にしたら、震えるほど、部屋が寒くなってしまいました。「クーラーよりもましか?」という事で、そのまま、タオルケットをかぶって、寒さに震えながら寝ました‼
でも、8月31日の夜の話しだよね⁉20度だよ⁉あり得へんわな⁉⛄😖
9月1日 5:26



寝室の窓が開いてて部屋が冷えていたので同じく久々にタオルケットをかけて寝ました…
9月1日 5:33




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9月2日 ·
9月に入って寒い日が続いていますが如何お過ごしでしょうか??
私は、今日もあまりに部屋が寒いので、昨日から2日続けて、暖房を入れてしまいました。
厚着をすれば良いだけかもしれませんが、冬物を未だ出していないので、薄手のTシャツしかないのですよ。幾ら、部屋の中でも、下着姿ではやっぱり寒いのです。ハイ!
「部屋の中でも、下着姿…」というと、顰蹙をかいそうですが、部屋に訪ねて来る人もない独居老人なので、実際には、顰蹙をかう事はありません。
その話しはさておき、昨日は、夕方から鬱の薬の効き目が切れてしまって、鬱が酷くなって、頑張って、横になって体を休めたのですが、とうとうドルプリっ歩もなしで、夕食も食べないで寝込んでしまいました。
先生が弁当にして玄関に出しておいてくれたのですが、取りには行けませんでした。雨も酷かったしね。

鬱が酷くなってきたのは、この1,2年の話なのですが、薬を飲み始めたのは、7月からなので、それまでは、鬱の時には、wineを飲みながら、私の鬱々programをYou Tubeで聴いて、鬱に浸っていました。

流石に、今年の4月以降は、肝臓の調子も悪くなって、お酒が美味しくなくなってしまったので、「もう、アルコールで誤魔化すのは、無理か?」という事で、心療内科に行き、薬を処方して貰ったのです。

しかし、自分に合った薬を探すのは難しい。
昨日は夕方から、薬の効き目が全く効かなくなってしまって、もう1カプセル飲んでも良いか、という事を病院か薬局に電話して聞くか・・と悩んでしまいました。
結局は、電話はしないで、薬は飲まないで、しんぼうしたのですがね。

・・・という事で今日も椎名町でHindemithのviolinsoloの曲のlessonがあるのですが、鬱が酷いので、ちゃんとlesson出来るのか・・・心配です。  
前回の薬、同様に、今回の薬も、相も変わらず、効き目が悪いのよね??
それはそうと、今日のlessonのHindemithの無伴奏の曲も、結構鬱っぽいのよね?鬱の時に鬱の曲を演奏(指導)するのは結構難しいのです。鬱の演奏には体力がいるのでネ。
Hindemithの無伴奏の曲は、無調の曲なのだけど・・ね。
それにしても、私はオケ練習では、baroqueと古典派の音楽しか専門的には教えていないのに、生徒達、皆、近現代の曲がうまいのだろうね??
現代の曲は、音がキツイので、子供達の発表会には向かないので、あまり曲数的には、教えてはいないのだが、子供達は不協和音の音には強くて、譜読みの間違いも殆どない。そこは中々凄いと思うよ??


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9月4日 ·
昨日(9月3日)のオケ練習は、私的には、やはり鬱が酷く、子供たちの演奏が夏休みモードで、雑になってしまっている所を、丁寧に直させる所の指導が、どうしても、上手く行きませんでした。
鬱が酷いと、どうも、指導の切れが悪くて、子供たちを引っ張るのが難しいのですよ。子供たちを引っ張るのは、結構体力がいるのよね⁉
それに、オケ練習が楽しくてしょうがない子供たちを、対外出演の厳しさで、水をかけるのも、体罰容認のトランペット奏者の日野さんじゃあないので、しのびないのでね⁉
一喝をすれば、子供たちは、それだけで、一瞬で集中出来るのだけど、それはしたくなかったのでね⁉
まあ、それはそれ・・・、仕方ないか…⁉
いずれにしても、鬱が酷いと、定形のオケ練習でも青息吐息で疲れ切ってしまう。

それでも、なんとか頑張って、椎名町に戻って、ドルプリっ歩をしたのだけど、プリが途中で帰ってしまったので、不満顔のドルをなだめながら、散歩を中止して帰って、弁当を食べ始めたのですが、疲れ切っていたので、少し箸をつけただけで、ハイツに持ち帰って来ました。勿論、持ち帰ったそのままに寝てしまったので、結局、何も食べないままです‼
それなのに、朝の体重測定では、しっかりと、1㌔増えているのよね⁉
どうもよう分からん😔

今日は月曜日なのですが、もう2時になったのに、何度起きても、体がいう事を聞かないで、寝込んだままです。
車のクーラーの修理が何度持って行っても、まだ直らないので、今日別の車屋に持って行こうと思っていたのですが、動けそうもありません‼
国保の再配達の電話すら、超めんどくさくて出来そうにもありません‼
こりゃ、鬱の典型的症状だよな⁉
早く朝の薬を飲まないと…‼
つまり、朝の食事もまだなのですよ‼
鬱なのだから、当たり前か




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9月19日 ·
台風一過というには、東京は日にちが経ちすぎているのかも知れないけれど、部屋の窓という窓を全開にして、外の風を取り込んでいます。暑くもなく、寒くもなく、湿度もない、なんという爽やかな日だろうか⁉
それなのに、私は不眠で悩んでいます。困った事だ‼そのための心療内科だったはずなのだが、どうも相性がよくないようです。相談して、薬を処方して貰うほど、鬱も不眠症も、酷くなっていく。私は薬は、相性だろうと思うのだけど、先生は効き目が悪いと、やたらと強い薬をだす。最初に、相談した時に、「マイスリーは、目が覚めた時に、ふらついたり、ひっくり返ったりするので、それよりも弱い薬で、お願いします。」と言っていたのに、今の薬は飲むと一日、朦朧として動けなくなってしまう。何も考えられなくなって、ぼんやりとして、仕事にならない‼新しい処方薬を4日、5日飲んでみたけれど、一日中、起きれなくなって、プリドルっ歩も出来ず、仕事も全く出来なかった。だから、薬を飲むのをやめたら、そのまま、50時間で2時間睡眠だもんね⁉その状態で、リハーサルをして、台風の大雨で視界が全くない状態で車を走らせて、バイクでどしゃ降りの中をハイツまで走って、リハのおお汗と台風の大雨でビショビショになった体を深夜の3時過ぎに、シャワーで洗って、次の日は、冬眠を決め込んで、心療内科の処方薬を飲んで、そのまま、17時間も寝た‼勿論、仕事はしないで…。
今日もまた、「どうやら、薬を飲まなければ、また50時間は寝れそうにないな⁉」という事で、冬眠する事にします


純子斉藤 やった‼再生回数6000回越えた‼1万目指せ~しかし、何故この曲が他を差し置いて人気なのかな?you tube はよくわかりませんね?
9月19日 19:09


うつの話なのに、斉藤先生のコメントが面白すぎです笑
再生回数増やしておきました‼️
自律神経を整えるのにカイロは有効と習いました
私では力不足でしょうから、お近くのカイロに再び通われてはいかがでしょうか?
9月19日 21:54



https://www.youtube.com/watch?v=GMJIfTyfCnY
同じ、雲仙のホテルでのロビーコンサートです。2011年のこの年は、私にとっては人生最大の鬼門の年となりました。よく、体力と精神力が持ったなぁ~と、今更に思い返して見てつくづく思います。

Après un rêve/Fauré(夢のあとに) Junko Saito…

長崎雲仙の旅行中のホテルでのロビ…
9月20日 2:06



https://www.youtube.com/watch?v=tDWKHBn2Ksc
11年の長崎からの帰京の途中でのホテルでのロビーコンサートです。斉藤先生が息抜きにコンサートをやりたいと言ったので、急遽、数曲演奏した中から、私の気分にあった鬱々な曲を選び、You Tubeにupしました。この3曲だけで、既に1万回を超えているのですが、最初の2,3年は100回も越さなかったのですがね。今年に入って突然爆発したようですネ。
何が起こったのだ??


Liebesleid(愛の悲しみ)Kreisler soloviolin Junko…

長崎雲仙の旅行中のホテルでのロビ…

9月20日 2:56


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9月20日 ·
実はトイレに行くために起き出したのですが、相変わらず、かなり長い時間ベッドに座っていたのにも関わらず、手すりに捕まって、立ち上がろうとしたら、ふらついて危うくベッドの下に挟まる所でした。
もう24時間以上何も食べていません。流石に腹減って来たな??
昔、江古田にいた頃は、歩いて3分以内の所に先生達がいたので、直ぐに駆けつけて来てくれたのですが、今は事務所からは電車と歩きで、30分は掛かります。
「腹減ったから、何か買って来てくれ!」って言えないのですよ。
江古田の傍に誰か知り合いでもいれば良いのですがね。
コンビニにでも、食料品を買いに行かなければならないのだけど、こんなにフラフラしていて大丈夫なのかな??
自信がない❢❢・・・と言って、いつも寝ちゃうのだよな??
それも、困った事だよな?
6月24日の八千代の演奏とは別のmemberによるHennry purcellのchaconne gです。所謂、鬱々コンサートです。八千代のpurcellのchaconneはaccessがもうすぐ1000になりますけれど、どういう訳かこちらはaccess数が伸びないのだけど、この演奏も若くて、私的には好きなのですがね・・・??


いま、冷凍食品もいろいろな種類があるのでパスタやピラフなどレンジでチン出来る非常食があるといいですね。
9月20日 3:14


実は、パスタをレンジでチンするお皿と、レトルトの具材も2つ,3つ買ってあるのです。多分、もう化石化していると思いますが・・。その他にも、乾麺を100個近く買って有ります。レンジでチンするだけのお米も・・、非常食は万端に準備してあるのです。でも、それを作るだけの元気がないのが、鬱の症状なのですよ。後、2,3㌢だけでも元気ならば、サッサカ作ると思いますが、歩くにもフラフラっして、腰砕けになってしまうので、火物を持つ事が出来ないのです。お袋は90過ぎても腰も足もしっかりしていたので、少なくとも私よりは、元気でした。認知症を除けばね???ですから、お鍋を持つ事が危険な事・・というのは、私にとっては、初めての経験と知識なのですよ。
9月20日 4:12

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9月20日 ·
9月に入る直前辺りから、心療内科の薬が新しくなって、眠剤、鬱剤とも、少し強めになってしまいました。勿論、その先生の判断です。眠剤を飲み始めたのですが、眠れるようになったのですが、一日全く動けません。トイレに行くのもままならないのです。4日間程寝込んでしまいました。朝に飲む鬱の薬も強くなったはずなのに、眠剤が強過ぎて、鬱の薬が全く効かないのですよ。パソコンも楽譜も全く開かないままに、4日、5日日にちだけが過ぎてしまいました。
「これはもう無理だ❢❢」という事で、眠剤を飲むのをやめたら、今度は50時間経っても眠れません。という事で、薬を半分に割って飲んだのだけど、効果無しです。(ちなみに、錠剤を半分に割って・・というのは、薬剤師さんからの指示です。)


ビデオのアングル、ピアノカルテットのままでしたごめんなさい…!
9月20日 16:29


後半部は そうだったけど 前半も 同じ様に 一部しか撮れていなかったのですよ‼
cameraを移動する時に注意したのだけど、意味が分からなかったのかも知れないね??
9月20日 20:55


その注意の時は居ませんでしたが次から気をつけます!
9月20日 21:27


よろ市区❢
9月20日 21:38



体を無理し無いで指示どおり薬を飲んで体に気を付けて下さい、頑張って下さい。
9月20日 20:27



ありがとう御座います。今日も処方の薬を飲んで、1日寝込んでしまいました。次回に心療内科に行った時に薬の事は改めて相談するつもりです。明日は朝から仕事なので、眠剤の薬は飲めないかな??
9月20日 20:53

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9月20日 ·
17年9月17日(日)のリハーサルは、台風の真っただ中で、しかも、酷い鬱と50時間以上の不眠症で眠れないままでのrehearsal です。
薬を飲めば、眠れる事は眠れるのだけど、1日中、体が動かなくなっていう事をきかなくなるし、飲まなければ眠れなくなってしまいます。そして、その結果が、この50時間の不眠という事です。
心療内科の診察で、そういった状況を数回説明してみたけれど、全くダメだね??
私としては、薬は量や強さではなくって、相性だと思うのだけど、心療内科の先生は、「効かない」という所にしか留意してくれない‼
私にとっては、薬の強さではなく、相性が悪くて、体に合わないだけなのだと、思うのだがね❢❢...

今回のリハーサルでは、ビデオの担当を決めなかったのかな⁉動画のインデックス付けは出来ていたようだけど、ビデオのモニター画面を閉じたままで、撮影の位置も、checkされていなかったので、動画としては使えない‼
発表会でも、これからは業者は雇わないで、撮影をするのだから、最低でもvideocameraを3台は使うのだから、全員が、アングルにも、注意しなければならない‼自治会館を横に目いっぱいに使用する時には、cameraの位置は両端からしか撮れない。柔軟性を持って判断をするように
9月20日 13:35


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9月24日 ·
昨日の土曜日はお久しぶりに千夏と梨紗が椎名町に来るというのに、またまた、前日から延々と不眠で苦しんでいました。それに今日の日曜日は発表会直前の総合練習で、先週のrehearsal の出来が、かなり酷い有様だったので、これを私が寝込んでしまっては、立て直しが出来ないままに発表会に臨む事になってしまいます。という事で、昨日は体に鞭を打って、完徹のままに、椎名町にlessonに行って、duo2曲と Paganiniの魔女のlessonをして、(2曲とは言っても、全楽章なので、2時間半はは掛かったかな⁉) 8時には、ドルプリの散歩と、夕食を無しにして、大急ぎでハイツに戻って、9時過ぎには眠剤を飲んで、メンテの終わったパソコン2台のcheckをしながら鬱々の曲を聴いていたら、直ぐに眠気がやって来たのでこれ幸いに寝てしまいました。朝の6時前にはトイレに目が覚めたのですが、何時もの通りに、あっちに摑まり、こっちにぶつかりしながら、何とかトイレまで歩いて行きました。5時、6時は朝の体重測定と血圧の測定の時間なので、それを済ませて、このフラフラ感を取るために、もう一度仮眠を取る予定です。12時前までにはハイツを出発するので、それまでには体のモヤモヤ感を取って置かないと、今は秋の全国一斉の真っ最中なのでね。バイクの運転と、後部座席のベルト遵守のcheckをしっかりするように・・との警察からのお達しです。


芦塚先生お気をつけていらして下さい!
9月24日 10:00



仕事に出掛ける時には、体の切れがすっかり悪くなったので、時間に遅れないように、秒殺で、準備をします。いつもそれで癇癪を起こしているのだけど、何故、ニャンTの引き出しによそ行きの半袖が入っていて、引き出しのindexと中身が違うのだよ❢❢このtimingで引き出しを全部引っ張り出してcheckする気はないぞ❢❢
それが仕事の遅れに反映しているのだろうが❢❢
プンプン❢❢プリプリ❢❢❢❢❢❢❢❢
9月24日 11:43


チャリンコは、直していないじゃん‼
俺が直すのか⁉ 無理‼ 無理‼ 無理‼ 無理‼
飲み物の準備が出来なかったら、代わりに、午後ティーでも置いとけよ‼
先日買ってたじゃん‼
先週大雨で車のタオルが無くなって板野の補充もしてない。
指揮をすると大汗をかくので、タオルは必須だと何度も注意しているだろう。
毎回の同じ注意事項だぞ❢

videocameraの調子が悪いので、使えなくなっているので、ホワイトバランスの調整等は何処でするんかのcheckを調べて置くように言っていたはずだが、昨日のvideoは画像が変で使い物にならないぞ❢

まだまだあったのだが、今日は意識朦朧でキーボードを打つ事が難しいので、今日はそこまでにする。
9月25日 8:59


いままでも、そうだったので、何度も注意をしたのだが、毎週火曜日は花園泊なので、火曜日の朝から事務の連絡をしても、privateの連絡をしても、何の返事も来ない。水曜日の深夜にまとめて返事をされても、timingが遅いのだよ。それが、今度はユーカリが丘が出来たので、月火と2日続けて連絡が出来ない事になってしまっているので、うちあわせをしようと思っても無駄になっている。土曜日から日曜日は、オケ練習等々で連絡は出来ないので、そうなると4日間連絡が出来ない事になる。そのために、色々と私が連絡をしているのだが、返事がないといういう事は、私に取っては無駄の時間なので、以前も何度も注意したのだけど、改善が見受けられないので、月曜日から火曜日、水曜日の深夜迄の3日間は一切連絡を経つ事にします。これまでは、何度も同じ話を注意していたのだけど、これまでもなんの改善点が見受けられないので・・・❢❢❢❢❢❢❢
9月25日 9:22

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9月24日 ·
確かに、不眠症は私の高校生の時代からのトラウマになっていました。
ふと、昨日の深夜は、眠れないままに、「この長い人生の間、私はこの不眠と、どう付き合って、どのように乗り越えて来たのだろう⁉」と、何を今更ながら、改めて考えて見ました。
つまり、事の他、鬱が酷くなって、毎日が眠れなくなって来たのは、この2、3ヶ月の話しですからね⁉
それまでは、どのようだったか、その後は、いったい何が変わってしまったのか⁉という事を、寝眠れぬままに悩んで見ました。
高校生の時代、大学生の時代、それぞれに、対処が違っていたのですよね⁉留学中は、なんと全く不眠症はなかったのですよ‼睡眠時間を削ってまで、頑張って勉強していたのでね⁉意識朦朧とベッドに倒れ込む毎日だったのでね⁉
不眠症の、一番大きなターニングポイントは、心臓のバイパス手術です。それまでの日常とそれからの日常が一変したからです。
犬との散歩以外には、部屋を一歩も出る事のない安静とリハビリの日々は、鬱と不眠を起こさせるには、十分過ぎる物がありました。でも「グラフトが持つのは、5年から7年です」「まあ、そうですよね⁉」「頑張って、痩せなさい‼」と散々、恐かされて、「グラフトはもう出来ないので、次回、もし手術が出来るチャンスがあるのならステントの手術ですかね~ぇ⁉」「えっ⁉ステントの寿命も、5年ではなかったのではないですか⁉よ」「そうですよね⁉」
これは、もう単なるドクハラですよ‼
それからは、大学病院に通うのはやめて、近所の循環器科の個人の病院に行く事にしました。少なくとも、脅かされる事はなくなったからね⁉

さて、では、この2、3ヶ月は私にとっては、何が変わったのか⁉
そこですよ、そこの所‼
眠れぬままに、徒然と内観をしていると、なんとなく、その原因が薄らぼんやりと、分かる気がするよね⁉

成る程‼ なあ~る程‼ 
な~る…ほど‼



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9月26日 ·
8月の17日にオケと室内楽のrehearsal をしましたが、夏休みのおふざけモードで練習にはなっていないし、私の体調不良と、videocameraの撮影位置等色々と不具合が見受けられたので、折角、You Tubeにupしたのですが、今回は24日の練習と差替えさせて貰います。
未だに子供達は、おふざけモードなのですが、少しづつ元に戻している最中です。
いきなり厳しくすると、子供達は付いて来ないし、回りからは、スパルタ教育の教室と勘違いされてしまうのでね・・・・
木曜日から金曜日にかけては、またまた摂眠障害で、完徹になってしまったので、そのままのrotationで行くと、日曜日はまたまた完徹になってしまうので、土曜日のlessonは7時半迄に切り上げて、9時半にはハイツに戻りました。
それから髪を洗って、10時には眠剤を飲んで寝ました。
そのまま、9時までトイレにも起きないで、熟睡してしまいました。
11時間ですよ❢❢11時間・・・❢❢(この後書いた文章がまるまるぶっ飛んだので、やる気がなくなってしまいましたので、気が向いたらまた書きます。
腹立つ!!Facebookは・・・)
土曜日は眠剤で熟睡出来た(?・・一応そういう事にしておこう❢)ので、少し早めにオケ練習に出かけたのだけど、時間の関係で無駄に駐車場で、時間を潰してしまいました。
まあ、全体合奏は無駄に練習よりも子供達が自分の位置に立つまでに、時間が掛かり過ぎるのと、2回オケも同様で、準備に手間暇が掛かり過ぎるようです。

流石に、3回オケともなると・・、と言いたかったのだけど、夏休みボケで、おしゃべりが多すぎて練習に入るまでに悪戯に時間が掛かり過ぎるのは、小さな初心者の子供達とあまり変わっていないなあ~??
先生達が、忙しい上に梨紗さん達も学校との兼ね合いで、指導やお手伝いに来るのが大変で、次の世代の中学生達がいないので、上手く指導が出来ていないのだと思うのだけど、私はこれは今までにない、その次の小学生の世代の子供達にとっては、大きなchanceだと思うのよね??
つまり、本当ならば、申し送りで、高校生や大学生になったら、次の中学生達が企画の勉強をするので、小学生が企画の勉強をした事はこれまでは一度もないのだよ。

しかし、中学生の上級生がいないのだから、初めてのcaseとして、自分達が指導係になれるじゃない??
企画と言うのは、音楽を勉強する上で、これほど重要な事はないのだが、残念ながら、世界の音楽大学で、企画の勉強が出来る事はないのだから、超chanceなのだけどね??

余りにも、悲惨だったYou Tubeのrehearsal の動画は削除して、24日の総合練習1をYou Tubeに差し替えました。


(以下は、代筆です。)
子供達は良くなった分けではなく、まだ、「夏休みボケ」は残っては、いるのだけど、rehearsal に比べたら、少しはマシになって来たのだけど、昔ならば芦塚先生が大癇癪を起こした言葉を、子供達が言っているのを、聴きました。
芦塚先生は、黙って聞き流していたのだけど、私達は、一瞬、先生が怒鳴りだすのではないか・・と、震え上がったのだけどね??  芦塚先生は「まだ、その事が理解出来る時期ではない」と、思ったのかな??


またぶっとんだ❢❢
9月26日 6:25



企画の勉強が何故音楽大学では出来ないのか分かるかな??
それは企画は、コンサートの企画であったとしても、音楽とは無関係なのだからだよ。
9月27日 13:21


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9月27日 ·
今日はとても良い天気だ❢
あれ?木下順二の戯曲の書き出しのセリフかな?
風は涼しいのだが、やはり湿度は高いので、また汗が止まらない。
昨夜はチョッと疲れ気味だったので、眠れるかな??という事で、市販のドリエルを規定通り飲んだのだが、これが失敗❢❢
全く眠れぬままに朝を迎えてしまった。勿論、椎名町には行っていないので、食べる物もない。朝の散歩がてらの買い物と洒落込んで見たのだが、風が冷たいのに、汗が吹き出して止まらなくなってしまった。
今日は血圧の薬を貰いに行く日なのだが、またまた、血圧が下がってしまった。94の46である。前回、それで、血圧の薬を半分に減らしたのだが、それでも、またぞろ、下がりすぎている。血圧が下がると、心拍が上がるので、体には、良くはないのだよ。
明日は木曜日で循環器の病院はお休みなので、今日は遅くなっても、行かなきゃなるめ~ぇ??

と、思っていたのだが、もう50時間近くも眠れない。
ドリエルを2錠飲んでからでも、12時間以上は経過している。
そろそろ、諦めて病院の眠剤を飲まなければなるまい。
そうすると、今日は病院に薬を貰いに行くのも、椎名町に夕食とドルっ歩に行くのも無理になるだろうな??
引き籠もりの寝たっ切りになってしまうだろうな??
それも知っ方なかんべサな~ぁ??


この1週間ほど, 携帯での facebookが開かなくなっていて、「 接続できません。」と言うmessageが出ていて、繋がらなかったのだが、携帯でuploadする事もないので、別に困ることもないので放ったらかしていたのだが 、ふと今、何気なく思いついて 、設定画面を開いて、メールアドレスやパスワードを再設定したら 、なんと、またまた開く様になった 。
それならそれと言ってくれよ なー❢❢
Facebookっていつも不親切だよな??
9月28日 3:55


眠剤を飲んで、いよいよ、もう寝ようとその準備をはじめたらと思ったら、突然、仕事のmailがたくさん来て眠れれなくなってしまった。

眠剤で体が動かなくなっているのに、色々と説明の文章を書くのは結構辛い物がある。
9月27日 20:36


深夜に突然寒くて目が覚めて、パソコンが付けっ放しになっていたので、来ていたmailに指示を返信をしていて、一通りの伝達を終わったら、突然次の仕事が思いつかなくなった。
まるで認知症になったように、今何をなすべきかが理解出来ない。
溜まりに溜まっているvideoでも見るか??
そうしたら、今が朝か夜か、今日は何曜日か、ここは何処か??・・地球か、エイリアンの星かが、分かるかも知れない。
それとも・・彼岸、or比岸??
明日はU20の日だよ❢❢ 
テレビで見ているU20は超、可愛いけれど、現実の世界のU20はalienだよ❢❢
ヒロインも、シガニー・ウィーヴァーじゃあなくなったのだよな??

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· 返信 · 9月28日 3:57




なんと、windows10のKeyboardが動かなくなってしまって、マジにバラして修理をしようかとも思ったのだが、先にYou Tubeに古い生徒の動画をuploadしながら、10の解決法をあの手この手と探した。意外と簡単に治ったのだけど、結局またぞろ、昨夜の仮眠をしてから、全く眠れていないのだよ。
尾籠な話なのだが便秘も医者の薬では下痢を繰り返してしまい、市販の薬は全く効かないし、という事とで中々、体調管理が上手く行かず四苦八苦している。
この前の2,3日間は結構お通じの調子は良かったのだが、この4,5日はまた分詰まりになってしまった。
という事で強制的に、終了させて明日に備えたりして、マジ四苦八苦なのだよ。
9月28日 8:21



という事で、ドリエルを昨夜に引き続き、今日の明け方にも2錠飲んだのだが、全く効かないままに、完徹になってしまった。50時間の完徹後に、2、3時間の仮眠でまた、50時間の完徹は、流石にこれまでにもなくキツい❢❢
今日のlessonは10時までの行程だが私の精神力と体力が保てるかな?
色々と下準備をしなければならないので、今丁度のお昼の12時には、もうハイツを出発するので、再びハイツに帰えって来るのは、深夜の12時の、12時間コースになる。通算、4日、5日も眠れていないのだから、普通の健康な人達でも、辛い行程だろうな??それを後期高齢者がやるのだから、てえへんだ❢❢
いずれにしても、今日の夜、仕事が終わったら、椎名町での食事もプリっ歩も当然無しでハイツに帰って、シャワーだけ浴びて、髪の毛を洗ったら、病院の超強力眠剤を飲んで、明日1日中冬眠する事にします。(秋眠かな?)
明日は誰も起こさないでね??
9月28日 12:05



,昨夜はなんと色々と遅くなってしまって、椎名町に辿り着いたのは、12時を過ぎていた。
軽く雑炊を食べて、冬ごもりの食料をまとめたら、もう2時半を過ぎていた。
という事で、ハイツ着は3時・・・・❢❢
シャワーも髪を洗うのも無しで、なんとか食料品を冷蔵庫に入れる所まではして、あとは、体はベタベタしたままでベッドに潜り込んだのだよ。
当然疲れのせいと、薬のせいで直ぐに眠れたのだが、朝、(4時間後)にトイレに起きたのだが、今度はぎっくり腰で痛くて立てない。
探せば大和中央の尿瓶があるとは思うのだがね。腹は減っていないので、また寝るか??
今日は冬眠の日だもんね。
9月29日 10:26



冬眠の日だと思ったのだが、何と朝の6時には起きてしまった。
勿論、トイレタイムに起きたのだが、その後、再び寝れたのやら、眠れないのやら・・・。
それにしても、腰砕けで真直にあるけないのは困ったことだよな❢❢❢
あれ??牧野先生が買って来たハニーディップとオールドファッションがない。
1個づつハイツに持って来たはずなのに??
小腹はこの程度で良いのだが・・・??
美紀先生❢今度、かすていら(江古田時代はそう呼んでいたそうですよ。)頑張って、作って来てね??

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· 返信 · 9月29日 10:03





冬眠中のはずなのだけど、2時だけどトイレに起きただけです。
相変わらず、あっちに摑まりこっちにぶつかりトイレまで行って、ギックリ腰が起こっているので、ソファーで腰を休めている最中です。
勿論、体調(体のふらつき)が少し収まったら、もういちど入眠に挑戦します。

その和束の間のFacebookです。
9月29日 14:02




lessonやオケ練習で思いついたのだけど、私を中心にしてcameraを撮影しているけれど、今度はワイドコンバージョンレンズを取り付けたのだから、逆から、全員の演奏している所が見えるような位置にcameraをセットすると良いと思うのだがね。
私のlectureはリモコンのwirelessでvideoに取り込めばよく聞こえるとおもうよ❢
angleを変えて見ようよ❢❢❢❢
9月29日 14:08

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9月29日 ·
今日は冬眠の日ですが、これだけ、不眠が続いているのにも関わらず、相も変わらず寝眠れぬままに、普段できない雑用をしています。 本当に何もしないと言うことができない性格なのだなとつくづく思います。
超、強い心療内科の薬を飲みながらまるで、普段の薬のようにトイレに頻繁に起きるのです。そして、中々寝付けないのだけど、体が硬直してロボットのようにカクカクにしか動かないのだから、結局はまたぞろ寝てしまいます。それの無限の繰り返しです。こういう寝方もあるのだな・・と感心している所ですが、結局疲れは全く取れません。一回も起きないで、まるまる1日寝込んだ時とは偉い違いだよな??



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9月30日 ·
9月30日の深夜のお話なのだが、これは超酷い❢❢
前々日は、花園教室でlessonもあったので、市販の薬ドリエルの薬を2日間、飲み続けだが全く寝れない❢
・・・と事で、金曜日の前日からは、ついに諦めて、診療内科の薬を飲む事にして冬眠をする事にした。
前日からの2日続けての心療内科の薬で心配ではあったけれど、これ以上眠れないと本当に病院に入院することになってしまう。それだけは避けたいので、少々薬が強くなるかもしれないのだが、だいぶ悩んだのだけど意を決して飲んだ。
それで、ベッドに入って安静を続けたのだが、所定の1時間を過ぎても、2時間を過ぎても、全く入眠導入剤の効果はない。3時間も過ぎた頃からは、腹も減って来て、イライラもしてきた。気候は最高で超涼しい。
そうだ、弁当を買いがてらゆっくりと江古田の回りを一回り散歩をして、このイライラをおさめようではないか?
この文章を打つのも容易ではない。
自分ではちゃんとKeyboardを打っているつもりなのだが、微妙に打つ位置が外れて全然打てないのだ!
そういうこともあって、どうせねむれないのならイライラを収めるために・・・と散歩と洒落込んだ。
勿論、真っ直ぐに歩くのは難しいので、折り畳みの杖を初使いするのだが、(・・・・という事でまたぞろ後の文章がブッ飛んでしまった❢❢
その内に書く気が起こったら書きます。)
杖を付きながらではあるのだが、あっちへフラフラと行ったと思ったらこっちにぶつかって、中々前には進まないのだよ。
これは一体どうしたことだろう??こんな経験は始めての事だ。

なんとか頑張ってハイツに戻って来たのは良いけれど、片っ端から物を落としてしまう。パソコンへのKeyboardの入力さえままならないのだよ。
blind・touchが何処へ行ってしまったのだ??
頑張って2時間程横になってみたのだが、イライラはどうやら頂点に達したらしい。



この1週間以上殆ど眠れない日々が続いている。21.22、23と眠れなくて、23日のlessonが終わって次の総合練習のギリギリ迄、眠剤を飲んでも寝る事が出来なかったのだが、オケ練習の次の月曜日は流石に何とか熟睡出来たのだが、またまた、その後の26日からは眠れなくなってしまって、28日にはsolo組のlessonがあったのだが、それも眠れないままに、lessonを強行してしまった。それで29日は熟睡出来るか・・と思ったのだが、なんと、全くねむれないままである。ドリエルを立て続けに飲んだのだが、全く効かないので、29日は冬眠を決め込んで、28日の深夜に心療内科の薬を飲んだのだが、全く一睡も出来ないかったので、12時間しか開いていないのだが、もう一回、心療内科の薬を飲んだのだがそれでも無駄であった。つまり、今日迄の4日間は、殆ど仮眠ぐらいしか出来ていない。2日で、2・・3時間が関の山だ。明日は最後の総合練習なのだが、今日も梨紗と斉藤先生が美紀先生との合わせでlecturelessonをしたので、未だに寝ていないのだよ。もうそろそろ夜の7時なのだが、プリっ歩と食事をサボって何時ものように、眠剤を飲んで寝る予定なのだが、その眠剤がこの2日間全く効かなくなってしまっているのだよ。
さて、困った❢❢・・・・というか実に困った❢❢
鬱どころの騒ぎではないわさ❢❢ 眠れなければ、仕事にならんぞなもし❢❢
9月30日 19:20



心療内科の先生が マイスリーよりも強い 眠剤を出したために、 生まれて初めて ちょい漏れを 起こしてしまいました‼💀 超ショック‼
慌てて テレビで宣伝をしている ちょい漏れ用の 紳士用の紙おむつを 買ってきました ‼
腹たったね‼😠😡
そんな 心療内科など 、二度と行くか‼
もちろん、 眠剤を飲まなければ、 ちょい漏れを起こすことはありません ‼
だから、 それなら、 マイスリーで十分です‼
10月3日 10:45




これは内緒話ですが、薬局に通うのも長いので薬剤師のおばさんと友達みたいになって、良く薬の説明やセカンド・オピニオンの話をしてくれます。
勿論、薬剤師としての立場では言ってはいけない事もあるので、つまり、内緒のお話として・・です。
心療内科の薬の話をしたのですが、最初の抗鬱薬は私にはとても合っていたのですが、「1月の中で1日、2日だけ、鬱が酷くなった」という話と、「眠剤が全く効かなかった」という話から、突然、急激に薬が強くなったのですが、先生に何度も相談はしたのですが、マイスリーよりも強い薬になってしまいました。
その急な段階に薬剤師の人が驚いていたのですが、今回処方された薬には、筋弛緩剤が含まれていて、尿もれや、1日中動けなくなるのは、薬の副作用としては、当たり前で、私のように、1日働いている人には基本的には処方しないのだそうです。
しかも腎臓には良くないので、私が腎臓が1個しかない事や、腎機能が良くない・・という説明をしたのですが、腎機能の検査の値を見て、「これくらいなら大丈夫だよ」とその薬になってしまいました。
「寝たきり老人なら、その薬でも問題はないけど、芦塚さんは働いているから、この薬で動けなくなるのは、困るよね?」という話だったのですが、練馬区の桜台の心療内科は、老人専門で人気があって、新しい患者さんは受け入れていないのだそうで、近場には他には心療内科はないのだそうです。
難しい専門用語を多様するのも、「芦塚さんが詳しいから、と思っているのではないのかな?」と言っていたので、「難しい専門用語はなるべく尋ねるようにしているので、それはないと思うけど・・」と言う話で、どうもやはり、相性も悪いような感じです。

いずれにしても、思った通りに、ちょい漏れは薬の副作用という事が分かったので、少し安心しました。
今日は、パソコンの仕事が終わらなくて,3時半ぐらいにやっと寝たのですが、実に嫌な夢を見てしまって、1時間ぐらいで目が覚めてしまいました。
折角、薬を飲まなくても眠れたのに、極めつけに残念です❢❢
10月4日 6:05



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10月

10月1日 ·
今日は総合練習の2日目、つまり、発表会の1周間前の最後の練習です。
当初の総合練習の目的では、発表会までに間に合っていていない曲やひと暗譜等を蛍光ペンでcheckして、間に合っていない人達だけの特訓のはずなのでしたが、いつの間にか、ただの最後の通し練習になってしまいました。
困った事にそれでは、遅れてしまって、間に合わない曲を丁寧に練習する事は出来ません。
それでは発表会のNiveauが落ちてしまいます。
いつの間にかあれもこれもというい事で無意味に時間だけのロスになってしまいました。
またまた愚痴になってしまったのだけど、そうそう、眠剤の話でしたネ。
昨日の夕方には、ドル歩も夕食も食べないで、眠剤を飲んで寝たのにも関わらず、夜の2時の3時間後には、もうトイレタイムに起き出してしまって、眠れなくなってしまっています。
それなのに、あっちへフラフラ、こっちへぶつかってしまって、薬の程をなしません。
たったトイレまで短い距離ですらぶつかりながらしか歩けないのが本当に困りものです。
今日はといえば、深夜の3時なのですが、なんと寒くて寒くて、ガスとエアコンの暖房をつけています。
それにしても明日は私は半袖のTシャツでどうするのだろう。
斉藤先生がハイツに来てくれたのは、もう一月近く前の事でした。
つまり、超、暑い時期だったのですよ。
もう、毎日、毎日が寒くなっても私は夏の薄いTシャツのままです。
引き出しを片っ端から開けても何処に閉まっているのか分からないのですよ。
もう、小さくなって着られなくなったものは、惜しいけれど捨てるに越した事はないよね❢
それが昔の人間である私には中々出来ないのよね??
「眠れない時には、頭が上がって楽だから捨てないで❢」と頼んだカウチベッドも、「邪魔だから❢❢」って強引に捨てられたけれど、今回の発表会や、普段眠れない時に、背を半分起こすだけで随分楽になって寝れるのだけどね??



昨日の最後の総合練習は、流石に超バテてしまって、指導は大変でした。
オケ練習は、超急いで、1時間は短縮出来たのですが、後の年長の組の練習がその分、長引いて、時間ギリギリまで練習していたので、後片付けも、私自信で椅子や机をしまう作業をしました。
曲が遅くなったので、お迎えに来た太田さん親子が最後まで手伝ってくれたので、なんとかギリギリ、時間迄に、切り抜けました。
梨紗さんを途中まで送って行く時には流石に辛かったね。
椎名町には大体定形の時間に着いたのだけど、夜食を食べて、それからハイツに、戻ったら、もう、すっかり、定刻の2時を過ぎていました。
「もう、どうでもいいや❢❢」という事で、風呂にも入らないで髪の毛も洗わないで大急ぎで、ベッドに入ったのですが、愛ちゃんの「効かない薬を飲んでいると、死んじゃうよ❢」という言葉が中々厳しく時を得て、愛らしくてビックリしてしまった事を思い出してしまいました。

「そいりゃ、そうだよ!心療内科は本当に相性だよな??」と実感しているところです。
はてさて、困った事に、またぞろ5時に目が醒めて眠れなくなってしまいました。
定形の体重体礎型を図る時間なので、良いことはよいのですが、う~~ん、睡眠の量が・・・、それに、いつものように、体が硬直してロボットのようにしか動かないし、このblind・touchすら出来なくなっているのよね~ぇ??
困ったものです。
それにしても、八千代効果で全員の生徒達が非常に上手になってきました。
お姉さん達のEine kleine NachtmusikやSweelinckはprofessionalな域に近づいてきました。
この水準で曲をKeep出来れば、proとして活動するのは問題ないと思いますよ。
10月2日 12:43



あさの7時ですが、昨日食べれなかった朝食と夕食を今から食べる事にします。
でも、不思議な事にそれでも体重は増えているのよね。全然分からん。
食べれば痩せるし、食べなければ太るし・・どうなっているの???
10月2日 6:58



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10月3日 ·
何時に寝たとしても 定刻の 5時には どうしても目が覚めてしまう‼
体重測定や 血圧などを、その時間に計るので体が体内リズムとして覚えてしまっているようだ‼ こういう風に不眠状態が続いて、体が疲労困憊の時には、その習性は全く困ってしまう事になる‼
眠剤を飲んで、入眠を計ったのに、2時間以上も、眠れなかったあげくが、定時に起きてしまうという困った習性なのだ‼
日曜日は、最後の総合練習だったので、長い間、眠れなかったままに、無理をして練習に臨んだ‼
私としては、pointlessonをして、早めに切り上げるつもりだが、結局は上級生達は気の済むまで練習を詰めてやっていたので、自治会館を借りるギリギリの時間まで練習していたので、それでは、後片付けに間に合わないので、私が、椅子や机の片付けを、彼女達の練習の脇で、やる羽目になってしまった‼
なんと、優しいのだろう❢❢私は・・・・

なんとか時間ギリギリまでに終わって、梨紗や千夏や千夏ママに手伝って貰って、自治会館のおば様には、怒られないで済んだ‼
まあ、Proの演奏家ではないのだから、練習のrotationといっても、限界があるのだから、致し方がないので、「俺は、何日も眠れていないのだから…」と、癇癪を起こす分けにも行くまい‼

好きな言葉ではないのだが、彼女等は「出来る範囲では、一生懸命頑張っている」のだから…ね⁉

但し、私的に言わせて貰うならば、何時もオケ練習で、子供達に言い続けているように、「曲を渡された時に、可能な限り、必死に集中して、出来る限りにnivouを上げておくと良い」・・・のだがね⁉

私の座右の銘は、「仕事を追いかけるのは、proとしては、最悪の仕事のやり方であって、仕事を始める前に、予めの下準備と、partsを完成させておく事が本当の意味での、professionalの仕事のやり方なのだ」と弟子達には、言い続けているのだがね⁉
いつまで経っても、その事は直らんわな‼

またぞろ、何時もの愚痴を書いてしまった‼

本当に書きたかった事は、昨日、つまり月曜日の話しなのだよ‼
月曜日は、冬眠の日と決め込んでいて、「一日中ベッドから起きないで、お茶を飲む以外は、食事一つも取らないぞ❢❢」…と、決めていたはずなのだが・・、ちゃんと、定型の5時に起きて、一月以上、というか二、三ヶ月も掃除機すらかけないで、放ったらかしにしたままになってしまっていたので、取り敢えずは、台所を掃除機をかけて、溜まりに溜まっていた洗濯物を、2回、3回と洗濯をして、干して取り込む所まではやった‼

そして、誰もやろうとしてくれなかったlineのgroupを、連絡網に合わせて、3つも、4つも作った‼
これで定型の連絡が、数倍もサクサクと出来るようになって、薄利多売の連絡時の時間短縮が見違えるように出来るようになった‼
善哉善哉

つまり、書きたかったのは、「冬眠を宣言しながら、冬眠が出来た試しはない❢❢」・・という悲惨な事実を書きたかっただけなのだよ。
愛ちゃんが総合練習の時に「薬の飲み過ぎは死んじゃうよ!」と怒っていたけれど、飲んでも飲まなくても眠剤は全く効かない・・という事が分かったので、愛ちゃんの意見に従うかな??
それならば、マイスリーでも良いので、どこでも処方して貰えるし、マイスリーはもう普通薬になったのではないのかな??
ハイツの自宅にも、冠動脈の手術の時に飲まなかった薬が大量に残って居るしね。
眠剤がもう効かないのならば、それよりもCDラジカセのCDを2枚、3枚重ねられるタイプの機種を買って来て、かったるいBachのfugaの技法のCDでも掛けっ放しにした方が良く眠れるかも知れない。




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10月4日 ·
眠剤は飲んでいないのだけど、深夜3時半ぐらいになって「やっと眠れた❢」と思ったら、非常に嫌な夢を見て、僅か1時間ぐらいで目が覚めてしまって、またぞろ眠れなくなってしまいました。
それに、ここの所、眠剤は飲んでいないのに、体がその状態を覚えていて、あたかも眠剤を服用しているかのように、歩くとふらついて真っ直ぐと歩けないないし、意識も朦朧としているのに、頑張って、急いでベッドに入ると、目が冴えてしまうのです。
薬局の薬剤師の人に相談して、adviceを貰ったのだが、私の体に色々と悪影響のある方の眠剤は、早々と捨ててしまいました。勿論、入眠剤は体にはそんなに悪くはないので、眠れなくって、どうしようもない時には、入眠剤は飲んで入眠を試みるのですが、でも、眠れない時には、本当になにをしても、眠れないのですよ❢❢ 困った事です❢❢


実は、今も、自然に眠る事を諦めて、マイスリーと同じような入眠剤を飲んで寝ようとしたら、実にjust-timingで、飲んだ途端に、先生達からlineでprogramを選曲するように依頼が来ました。
「たった今、入眠導入剤を飲んだ所で、その薬は30分ぐらいしか効かないのだから❢」と言ったのですが、「午前中に八千代にFaxしなければならない、というtimingなので・・」と言われて、仕方なく、ベッドから起き出して、2台の大型パソコンを立ち上げました。
私の仕事のやり方は、資料を優先して、その資料に合わせて、選曲やprogramを作って行くのですが、その一番大切な資料がtime表です。
それが、何週間も前から送るように言っているのに、未だ、ハイツのパソコンに届かない❢ 
それでは八千代の「曲決め」も、「programming」も、当てずっぽうになってしまうだろうが❢❢

私的には、そんな無駄な作業はしたくないのだよ❢❢
半徹夜(というよりも、完徹にほぼ近い状態)で、もう疲労困憊なのだよ❢❢
   
もう後期高齢者なのだけど、好機好例者とでも思っているのかね??

・・・てな事をブツブツと書いていたら、やっとExcel が届きました。
programの1部、2部の曲目の選曲は兎も角として、それぞれの部の演奏時間は、感だけで作った割には、5分10分のズレない程、正確なものでした。
流石、ベテラン❢❢
・・・私の事だけど❢❢ ケッケッケ❢❢(自我自賛)
10月5日 17:24



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10月4日 ·
今日は、とても美しい中秋の名月を見ることができました 。
しかしながら 北風がとても 冷たい です。
10月の 1日の日曜日に 千葉にオケ練習に行った時に、イトーヨーカドーに、先生達の弁当を買いに寄ったのですが 、ついでに 柔らかい暖かい毛布を買っておきました。
今日は タオルケットを 毛布に変えて 寝ています。
「 明日は長袖が絶対に必要だ!」と、テレビで気象予報士のお姉さんが、言っていますが 、ちょっと、その準備までは できそうにもありません 。
真夏のままの超薄着の、そのままの格好で明日も過ごす予定です。
ハイツのベランダから、デジカメの手持ちで、撮影したのですが、手が震えて、お月さまを上手く捉える事が上手く出来ませんでした。
緊張で手が震えたのではなく、普段から少し震えているのですからね。なにせ、リューマチなのでね。
美しいお月さまなのですが、恥ずかしがり屋で、雲に直ぐに隠れてしまうので、シャッターチャンスも中々ありませんでした。
という事で、何とか撮れた1枚を、upします。



しまった❗忙しすぎて名月を見るのを忘れてました❗
10月5日 17:40


テレビの天気予報では東京は見れない予定だったのだけどね??
10月5日 18:20


キレイですね~❗
昨日は鎌倉アルプスを歩いてきたのですが、くもりで富士山は全く見えず…
月も見えるわけないと思い込んでました‼
残念~‼
10月5日 21:27



地震予報は膨大な国家予算をかけて「出来ない!」と結論づけられました。だから、メインの道路はナマズの絵なのかな??天気予報も、下駄の方がマシかもよ??
10月8日 9:47



Yahoo!のポジティブ天気予報を頼りにしてるのですが....下駄の方がましかもしれませんね~。傘が溜まっていくので...。
10月8日 14:38



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10月5日 ·
折角なので、もう1枚追加します。Titleは「UFOと中秋の名月」です。アハッ!
それとも、「高速で移動する中秋の名月」・・とか??


この棒状の雲のようなものは、よく見るとお月さまの裏側に達しているようですよ??やっぱりUFO??
10月5日 6:36


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10月5日 ·
てえへんだ❢❢
この一月で体重が一番高くなっている。
また、dietしなければ・・・❢❢
痩せるのは大変なのに、太るのは簡単なのだよな??
どうしてかな??
不思議なのは、食べれなくても、体重は太るし、食べて「太ったかな??」と思っても、次の日に計ると、体重が減っていたりする。理解不能だわサ??



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10月5日 ·
眠れないという事が、こんなにも苦しい事だとは、今まで思った事もなかった。
7月の心療内科に行って、薬を処方して貰う迄は、Facebookやhomepageを読み返して見ると、入眠障害というよりも、体内時計が全く狂っていて、就寝時間がズレているだけのように思えて来た。勿論、その事は、心療内科の先生には相談したのだが、「それを治すための眠剤ですよ❢」と言われて、納得して、安心して、薬を飲み始めたのだよ。
・・それが、薬を飲み始めてからは、体内時計が壊れてしまって、眠たくならない・・どころか、眠たくても眠れない・・という、分けの分からない状態になってしまった。
入眠障害ではなくて、マジ、不眠症になってしまったのだよ❢
勿論、朝の光を浴びて起きる・・とか、部屋を薄暗くして寝る・・とか、眠れないのなら、眠くなるまで寝ないとか・・ありとあらゆる一般的な方法は試して見たのだが、それ等は、全くの無駄な努力に過ぎなかった。
入眠障害の基本的な原因は、私の1周間のrotationの問題である。
プリっ歩で先生達が千葉から帰って来るのを、ドルとプリと一緒にお迎えに行って、皆で食事をして、ハイツに戻ると、どうしても、ハイツ着は深夜2時にはなる。遅い時間では3時になることもよくある。でも、2時間、1時間後の、朝の5時には、定期の体重測定、血圧等の管理をする。そのまま、午前中は仕事をする事が多い。基本は朝方なので、早い時には4時頃から仕事に掛かる事も多い。11時、12時頃から仮眠を取るcaseが殆どであった。
それならば、そういうrotationにすれば良いだけなのだが、ただ、私には、このrotationでは、非常にまずい困る事がある。
それが毎日曜日のオケ練習と、木曜日か、金曜日のone lessonである。
近頃は、先生達が色々と配慮してくれて、3回オケから練習の指導に参加すれば良いようにして貰っているのだが、それでも、12時半とか、1時に花園教室にたどり着く場合には、車の運転の所要時間(渋滞考慮)で1時間半を見ている。
(またぶっ飛んでしまった。同じ文章を書くのは嫌なのだけど、履歴にも残って居ないのだから、しゃ~あないか??)
ハイツの自宅から、車が置いてある椎名町迄は、バイクで荷物の降ろしも含めて30分を見ている。でも、楽器やその他、車に置けない物は、先生達は入れられないので、私が早めに行って車に積み込む。時には、プリドルも乗せなければならない場合もある。それこそ、大騒動である。
練習に行く途中で、夜用のお弁当と、練習の最中の小腹用に、イトーヨーカ堂で、お弁当やパン、チョッとつまめる海苔巻き等を買いに寄るとなると、そこで1時間は費やす。全部、合計すると、約3時間は掛かる。つまり、12時半に花園着ならば、9時半には、ハイツを出発しなければならない。でも、まだ千葉に行く楽譜(score)や着替えは考慮していない。それに1時間掛かったとして、8時半には起きて、準備を開始しなければならない。でも、土曜日にハイツに戻って来るのは深夜の2時過ぎだよ。それから、髪を洗ったりしたら、寝るのは時過ぎだよ。そして、5時には定形の身体検査です。まあ、何れにせよ、日曜日はハイツに戻り着くのは、3時過ぎなのだよ。
つまり、rotationはそこで壊れてしまって、次の日は1日寝込んでしまう事になる。
結局の所、眠剤を飲んで、体内時計を正常に戻すなんて事自体、無理な話なのだよな??
だから、体の体内時計が壊れてしまって、全くの不眠症になってしまったのだよ❢❢
結論から言うと、眠剤なんかに頼るのは無理なので、放っとくのが一番良いという事だよな??



結局、また、更に、途中でぶっ飛んでしまって、今度は編集履歴に残って居たので、履歴からもう一度、立ち上げ直した。何だろね??このFacebookは・・・??
10月5日 10:41



もう、1週間近く眠れない日々が続いているのだが、人間本当に1週間近くも、一睡も出来なかったとしたら普通の人間は死んでしまうだろう。48時間近く眠れない時間を過ごしていたとしても、実際には意識が混濁をしたり、眠っている事を気づかないだけだったりするのだ。(ほんの一瞬・・1秒の居眠り運転であったとしても、高速道路の場合には、80メーターも移動してしまうのだ。)より、時間を正確に期するために、最後にmailをした時間と意識が戻った時間で計算すると、私が無意識に寝ている時間は1日の間の小1時間から、1時間半程になる。この僅かな時間で、なんとか体が維持出来ているのだ。それにっしても、二日で1時間半はないよな??昨日、一昨日と、それこそ二日間の完徹が続いて、更に深夜3時半のmailが最後で、仮眠状態になったのだが(善哉善哉)5時過ぎになって、胃酸をベッドに吐き出しそうになって、飛び起きてしまった。喉が焼けてウガイをして、慌てて梅干しをマグカップに2個も入れてお湯を足して、飲んでいる。だいぶ、胸焼けは収まって来たのだが、もう、寝るどころではなく、勿論、眠気も吹っ飛んでしまった
10月7日 7:05


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10月8日 ·
明日は発表会ですね。頑張ってください。
初めてのホールなので、色々と心配ですよね。でも、色々なホールで演奏出来るのも楽しいですよね??



美穂さんと久々に伺う予定です。楽しみにしております!美浜文化ホール??地元ですが初めてです...。新鮮ですね。
10月8日 14:33



舞台が真っ黒というのも、ロックの会場ではないので、初めての経験です。
生徒達には、「黒い衣装を着ると、舞台上から、消えて透明になってしまうよ」と、言っているのですが、指揮者は黒広しかないので、orchestraの時には私は多分居なくなるでしょう??
10月8日 21:28



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10月9日 ·
明日は・・・ではなくって、もう既に今日は発表会です。
土曜日は梨紗のlessonをするように斉藤先生から言われて、「眠れない日々が続いている中で、発表会の前前日にlessonをしても仕方がないのでは⁉・・・」と愚痴ってしまったのですが、結局の所、梨紗のオケsoloの部分とduoの曲、その他無伴奏の曲とかを、全部見る事になって、前々、眠れてなくって意識も混濁している状態で、5時半から8時半過ぎ迄、ちゃんと真面目にlessonをしてしまったのですが、梨紗を前にして、ついつい愚痴ってしまいました。
勿論、梨紗本人への愚痴ではなく、一般的な日本の音大の教育という事に対しての批判よりも、教育界そのもの、或いは人間の心の拠り所の話というとんでもない事を、ついつい、愚痴ってしまいました。夜の夢の中では、ママの智恵ちゃんが、心配して、お迎えに来てる夢を見て、私自身驚いてしまいました‼💀
大丈夫! 真面目に話しただけで、苛めた分けではないのでね‼
梨紗本人が引っかかっている色々な箇所・・・というよりも、音楽への考え方の本質の部分を直せば、全ての技術的な問題は解決出来る・・というお話をしました。確かに、ちょっぴり、話しがきつかったのかもね⁉ ※1)
音楽大学では、ヨーロッパの人達と日本人の音楽に対しての考え方の究極の違いを話していました。日本人の音楽を学ぶ人達・・・というか、日本人の若者達が、自分の人生に対して向き合う時の態度が、私の時代の考え方とは違い過ぎて、(私が音楽の教育にたずさわったのは、35歳を過ぎてからの…なのですが、)・・・自分の人生の選択を誤った・・・という事で、悩み抜いてしまって、ついつい、もう一度、自分の人生をやり直してみるか??…という欲望に駆られてしまいます。※2)
よく、オケ練習の時に、子供達に、「自分のための音楽と、人の為の音楽の違い」というthemaを、よく話をするのですが、結局の所、今の世代の親や子供達には、この話は・・・異文化のエイリアンのように、違い過ぎて、理解不能な話である・・と、思って、自分の努力そのものが、自分の人生を如何に無駄にして来てしまったのか??
・・あれ??同じ話をしているぞ??
メモ書きの文章をコピペしただけなので、後で何時ものように、文章を推敲するつもりです。

よく誤解され易い事は、「人のために尽くす」ということが、「その相手からの感謝や理解が、自分に返ってくるわけではない」と言うことを、しっかりと、心に留めておかないと、挫折をまねいてしまいます。
自分自身の心の奥底を、ちゃんと見極めていなければ、 その人自身の「人のために尽くす」という理想や行動は、逆に自分自身に、不幸 を招いてしまう・・という結果を産みだしてしまう事になる・・という事になってしまうのです。

日本流の「自分自身のために努力をする」と言う事は、自分自身が行き詰まったとしても、心の逃げ場がないために、努力を積み重ねる上で、非常に辛さが伴う、所謂、「おしん」の世界になりやすいのです。

それに対して、「 他人のために 努力をする」と言う事は 自分がいくら辛くても その辛さが自分自身の辛さではないので、基本的には、楽であります。
しかしそれが、その人自身の努力と奉仕に対しての、それに相応な対価として帰ってこない場合、「人のために努力をする」ということは、自分の努力を認めて貰えないという事で、非常に精神的な辛さを伴うのです。・・・てな、論文を書いたりしていました。


今夜は発表会の当日なのに、また、1時間半で目が覚めて、仕方がないので、髪を洗ったり、洗濯物を干したりしています。
※1)梨紗さんの色々な曲を聴いてlessonをして行くのですが、本当はたった一つの事を直せば総てが治るのですがね。つまり、心の置き場所・・人生の考え方、そう言ったものを直せば、なんの苦労もなく弾けない場所はなくなるのですがね。
Vivaldiの秋の、4弦のflying-staccatoが出来ないと悩んでいたようなので、渦巻きの位置と、弓の接弦の位置を直したら(つまり、violinの構え方を…直したら…と、いう意味です。)、顎からviolinを離しても、(胸の位置でflying-staccatoを弾いても、出来る用になりました。(つまり、violinの構え方を、崩したとしても…)「あら、簡単❢❢」なのですよ‼
音楽の勉強なんてそんなものなのですよ。技術を上げる事程簡単な事はないのです。音楽を勉強する人達はその技術の追求だけで、終わってしまうようだけど・・それは生き方なので、仕方がないですよね??)

私はpurcellのchaconne gと、Pachelbelのchaconneの終わり方を未だに、pressureに負けてしまった・・と悩んでいるのですからね??
この歳でお客様からの、pressureも無かろうに・・・❢ 
だから、子供達の演奏に不平不満はありません。
proの演奏だって、不満だらけなのですから、一々子供の演奏に付いて、あれこれ悩んでもしょうがないのです。
私が視ている所は子供達が真摯に音楽に向かっているか?どうか・・であって、その音楽の出来ではないのですから。
昔は・・、と言うか、若かりし頃(Mein junges Leben) は、proのオケマン達とよく喧嘩をしていたものです。
「そんなタクシーのような、演奏をするのなら、客に金を返せよ❢❢」てね❢
そう言った意味でも、子供達の演奏は私は好きで、素晴らしいと思います。

※2)今夜はとてもhappyな事がありました。
それはとても素晴らしい無伴奏のla foliaを聴いた事です。でも、残念なことは、その曲を皆さんにお聴かせする事は出来ません。何故なら、それは夢の中の音楽だからです。 Tartiniの悪魔のtrillのように・・・❢
4弦とoctaveのla foliaのthemaが重厚で、何とも、格好良いのです。
楽譜に書き起こしても良いのですが、そうすると、作曲家⇒としての私がまたぞろ這い出して来るのですよ。困ったもんだ❢❢(何が困るのか??って?? それは同じ話の蒸し返しです。・・作曲家を維持するには、教育家を捨てなければならないからですよ。つまり、奉仕と自分の世界の話です。私が音楽教室を開設した時に、教育者としての私を褒めてくれた親に対して、「私は教育者ではない!」と、断固として否定した記憶があります。作曲家や芸術家であり続けるのならば、自己虫の人間であらなければならないからです。)
それはそうと、蒸し返すといえば、部屋の中が蒸し蒸しするので、窓を開けて空気を入れ替えながら寝ていたら、あちこち、噛まれていました。1時間半で12時に目が覚めてしまいました。
起きた理由は、噛まれた事と、トイレtimeだったからです。多分、⇒家(蚊)なのでしょうが、痒いこと❢❢蚊ゆい事❢❢ムヒを塗っても、全然、痒さが止まらないのですよ。(この話はムヒしてください。)部屋中に蚊取り線香の煙で燻蒸している所です。美味しいのが出来るかな?
とうとう、眠れないままに、起きる時間になってしまいました‼さて、いつもの、血圧測定と体祖体重計の測定から始めるか⁉
10月9日 4:53



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10月10日 ·
発表会は昨日(月曜日・祝日)、千葉市美浜区美浜文化ホールにて、恙なく終了しました。お手伝い頂いた保護者の方々に先生生徒ともに心より感謝いたします。
・・と、建前の口上です。
発表会の進行は、(time表の中に、1曲の計算式が落ちていて、その曲のtimeがcountされないままに、その1曲分の15分押しのままで、time表通りに、実に正確に進行して行く事が出来ました。) という事と、最後の搬出も保護者の方々や、OBの春暉君や、受験勉強中どさくさの男子生徒諸君も、何時ものように発表会会場に駆けつけて来れて、速やかに搬出の作業を終わらせる事が出来ました。
椎名町で待ち兼ねていたプリドルちゃん達を散歩させて、(・・とは言っても、流石に24時間の完徹になったので、ドルちゃん期待の散歩は、私の体力の限界で半分で切り上げて、お弁当は持ち帰りにして椎名町の事務所を12時には出発する事が出来ました。)
体が汗で気持ちが悪いので、ハイツに到着後、何もしないままに、シャワーだけ浴びて、髪の毛を洗って、ベッドに直行しました。
流石に、トイレtimeも無しに、4時間は爆睡出来たのですよ。でも、定形の5時には、しっかりと目が覚めて通常の体調管理の測定をしていましたがね。



あぁ、けっこう客席の傾斜がきついのですね~
それにしても、反射板、、、この角度じゃ、演奏家と前にいる人向けの設定? 後ろはスカスカの音じゃないかな~
10月11日 10:40


確か反射板も 自分たちで勝手にやれとか言ってたかなア⁉
10月11日 10:43



この手の新兵器、使ったことないのですよ。効くのかな~
効くんでしょうね~
10月11日 10:46



音響的には、比較的に最悪でした。ヴァイオリンの音はキンキンしているし、Pianoの音はモゴモゴしています。上の席ではPianoの音ばかりが強すぎて、violinの音は届かないそうです。という事で、音響の一番良い正中にmainのcameraをセットしたので、videoに録画された分では、balanceは悪くはなかったです。後は、上手と下手のvideoからも音声を貰うので、音響は動画上は問題はありません。反響板の事なら、ただのオモチャです。あってもなくても、音響は変わりません。確かに、全くとっぱらうと、スカスカになるのでしょうがね。
10月11日 12:34



貴方はバアイオリンで音色で人を癒す腕を持っていますよ、頑張って下さい。一度もコンサートに行った事が有りません、余計な事を言って済みません!
10月11日 14:51

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10月10日 ·
流石に、昨日の発表会の前日は、殆ど完徹状態だったので、夕方の6時過ぎぐらいから、椅子に座っていると起こる尾骨の痛みと、ここの所は再発はしていなかった腰痛も起こり始めて、少し歩くのも難儀になってしまいました。

発表会から帰って来た夜は、久方ぶりに4時間程は爆睡出来たのですが、朝の5時に通常通りに起きて、トイレに行こうと思ったのですが、・・う~ん!!  腰が立たないのだよな?? こりゃあ、困った!!
暫し、ベッドに腰を掛けたまま呆然としていました。
まあ、しかし、これは所謂、「寝腰」と言われるものなので、暫く動いていると、自然にほぐれて来ます。
尾骨の痛みは椅子に座る時に尾骨を圧迫するから、引き起こされるものなので、穴開き座布団のハードタイプのを椅子に敷いて、それで作業をしています。尾骨の圧迫を休ませる事が痛みの対策の要です。

発表会は、videoの撮影をお願い出来る人が見当たらなかったので、3台のvideocamera回しっ放しで撮影しました。保護者の方達に、「出来る所はcameraの操作をしてください。」とはお願いしたのですが、勿論、出来る所は・・という事で、役割としてお願いした分けではありません。

舞台袖のvideocameraについては、業者への委託から、クレームが余りにも多かったので、教室で先生達が撮影するようになって、リモートのvideocamera1台、1台に付いて作業をする人がいない・・・という事と、これまでのvideo撮影では、アングル的に、「後ろ姿だけで、顔が映らない」・・という難しい問題があり、その事を改善したい・・と思っていたので、通常ならばそういった手法は、禁じ手なのですが、videocameraを対角線で狙う・・という方法を採用しました。
つまり、上手のcameraが下手のsoloの子を狙い、下手のcameraは上手のsoloの生徒を狙うという寸法です。これで、カメラアングルの調整をする人がいない場合でも、少しはましに撮影出来ると思います。
これが、何故禁じ手なのか?というと、プロの人達の場合は、髪の毛一本の解像度を要求する程の、精度を上げる為には、ギリギリまで寄るのが原則だからです。

4Kのvideo-cameraも遠くから回しっ放しなので、色々と編集が必要なのですが、それぞれのvideocameraが10時間超の撮影時間なので、3台分で30~5、6時間の長さになってしまい、大変な作業になります。
マジに編集の作業したら、それこそ1週間以上掛かると思われるので、作業に取り掛かる前に、まず、作業の手順を熟考して、作業の効率化を計ります。
1台目のDigaに4Kcameraのdubbingをして、2台目のDigaに白cameraのdubbingを同時進行させる、所謂、並行作業等々です。

2台のDigaが同時進行作業をしている間に、昨日、発表会場で、汗でビショビショになった、下着やTシャツなどを洗濯機で回しながら、お持ち帰りのお弁当を朝食代わりに食べます。
一つ一つのvideoのSDcardが10時間超の時間なので、1部、2部、部と、group別に分割したのですが、4部だけは、更に、
その部だけを2つに分けなければなりませんでした。
分割の作業をしながら、作業の終了したdataから、直ぐに、Blu-rayのdiscに保存をしたのですが、発表会全体では、Blu-rayのdiscに5枚分になりました。
白カメはSDcardには、5部までしか撮れてなくて、残りの第6部は本体のハード・ディスクに保存されてしまったのですが、昨夜は体調が限界に至っしたので、その作業は斉藤先生に任せて、自宅に帰ってしまったので、今日の作業の中には、入っていません。
上手の赤カメは、Digaでは再生が出来ませんでした。
2台目のDigaの方が、上級の機種なので、そのdeckの作業が終わったら、もう一度、機種を変えて、SDcardをcheckしてみようと思っています。

2台目の作業が終わったので、SDcardを入れて見たのですが、2台目のDigaではSDcard自体がハジカれてしまいました。(「この機種では対応出来ないカードです。」と表示されてしまいます。)
仕方がないので、パソコンに直接取り込む事にします。
パソコンが重くなるので、本当はしたくはないのですが。

取り込んで見て、何故、私が動画をパソコンに取り込むのを嫌がっているのかを思い出しました。
健忘症ではなく、認知症かな???

発表会の前日、前々日にも、Dellのサポートと大喧嘩を何ヶ月越しでやっていますが、ハード・ディスクがブルーアウトして、Dellの工場に修理に出した所、ハード・ディスクを交換してリカバリーをして帰って来たパソコンは、Blu-rayが再生録画が出来なくなってしまっていました。DVDは問題ないのですが、Blu-rayが再録が出来ません。という事で、Dellのsupportに相談したら、Blu-raydriveの故障だから、driveを交換(出張修理で幾ら、工場修理で幾ら、自分で修理するのならば幾らと、言われたので、自分でBlu-raydriveを交換する事を選びました。Blu-raydriveが着いて、メモを読んで驚いたね❢❢そこには、「荷物が到着したら、2営業日に古い方のdriveを回収に来るので渡すように❢」と、書かれていたのですよ❢❢私の体調の事や、仕事のrotationの事等、一切考慮されていない・・流石に驚いたネ。

SDcardから、パソコンに、directに動画を取り込むと、video-cameraに動画が保存された状態の何分起きかに、自動的に分断されて保存されます。videoーcameraは、何分かおきに、dataを分けて保存しているのですが、softを使用しないで、そのまま素の状態で保存すると、その分割された画面が直接保存されて、曲の途中でも、そういう状態で再生されます。ですから、動画を編集する時には、前の動画のfileとその曲の動画とを編集softに取り込んで、fileを切断、結合させながら、一つの曲の編集をするのですが、その作業もカメなので、当然、3倍になります。ハイツには30枚ぐらいの使用中のBlu-raydisc が全部無くなってしまいました。発表会は6部構成になっていますが、1部と2部、3部は1枚のBlu-ray-disc に収まりましたが、4部は1枚には収まらなかったので、4部の前半と後半に分けて、2枚のBlu-rayに収めました。よって、基本的には、発表会の全体をBlu-rayで残すには、5枚のBlu-ray-disc が必要でした。
発表会の全体は、3台のvideo-cameraで撮影したので、5枚のdisc が、その3倍として、既に15枚です。
それとは別に作業用や、transpose用のdisc も必要で、それが既に、今現在、4,5枚は使用しています。
これが作業に使用する、調理用のmasterのBlu-ray-disc になります。

編集の作業迄は、まだまだなのですが、この手順を踏む事で仕事は数倍早くなります。
中々、認めて貰えないのですが、1月近く掛かる作業を2,3日で終わらせる事が出来ます。大変な作業なのですが、同時に楽屋では、あまり一人一人の演奏を聞く事が出来ないので、編集をしながらじっくりと聴く事が出来て、次の課題を考えたりして、そのまま先生達にも意思の疎通を図っています。
You Tubeのuploadは、基本的には世界中の人達が見るので、一応、心苦しいのですが、今回も、少しselectする事にしますが、基本的には、大きなミスが見受けられる場合にはuploadはしません。本人達が嫌がるからですし、upしたければ、その家庭でupすれば良いのですから・・ね。


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10月11日 ·
下のコメントに、掲載した写真は、今回の発表会の会場の写真です。
黒い舞台と客席のイラストのイメージは星空の海をイメージしたのだそうです。
新しいhallなのだそうで、色々と変わった所があって、感想を集めてみました。
先ず、最初に、驚いたのは、階段状の客席の勾配が、今までに、使用して来たhallの中で、一番キツくて、東京大泉学園のユメリアhallよりも、更に勾配がキツかったので、梨紗さん達も、舞台に立っていると、気分が悪くなると言っていました。

ビデオカメラの位置を決める為に、最初は、客席の一番後ろに、行ったのですが、天井桟敷から、奈落を見ているように、頭のうえからら覗き込むような感じだったので、なるべく演奏をする子供達の目線が揃うように、客席の中央にマスターのビデオカメラを配置しました。
このhallは、imageとしては、多目的hallなので、フルコンやセミコンよりも、もう一つ小さい(検見川教室のピアノと同じ大きさの)ピアノなので、音量等のbalanceは丁度良いはずなのですが、会場の音飛びの状態が悪く、私が置いたビデオの位置(舞台正面の、真ん中の席)以外では、ピアノの音がうるさかったそうですし、ピアノの人達にとっては、音がこもって弾きにくかったそうです。

私は実際には、行った事も見た事もないので、分からないのですが、検見川浜の音楽の専用のhallの方には、steinwayのフルコンが置いてあるそうなのですが、ホールの大きさや席数は、発表会で演奏したホールとはあまり変わらないそうなので、hallが狭すぎるので、音割れを起こしてしまい、演奏の音が聴くに堪えれない状態だそうです。

日本の音楽家や、hallの設計を企画する人達は、ピアノの最高品質の楽器はフルコンと勘違いをしているようですね⁉
(日本人では、家や車は大きい方がステータスのように思い込まれていますが、アメリカなどでも、殆どの人は家族構成に合わせて、家の大きさを決めて、極めつけは、老後は家を手離して、キャンピングカーでアメリカ全土を旅しながら、・・・というのが、究極のフロンティアシップという事が出来るのかな??
少なくとも、日本人のように、高価であれば良い物・・というチープな発想はないようですがね。少なくても、wineではないのだから、steinwayともなると、等級による善し悪しはないのですよ。
確かに楽器は共鳴箱は大きい方が楽器のゆとりを持って響きます。でも、それは音量であって、音色ではないのですがね??)

高価な弓の方が良い弓だと思い込んでしまって、三点支持の持ち方なのに、Frenchbow を目一杯張って、「弓が折れるのではないか??」とビックリするように力で弓を押さえつけて演奏している人を見かける事もよくあります。Frenchbow は高価なので、学生よりもプロのお話です。それで弓を実際の演奏会の最中に折った人もいたようですがね。
ミュージックプラザの社長が、「弓は折ろうと思っても折れるものではないのだけどな~ぁ??」と、感心していました。
演奏会で弾いていて、弓を折った人は極めて珍しいのですよ??

本来的には、hallの大きさ、容積率と、ピアノの大きさは、必ず整合させなければならないのです。hallの容積率が狭い場合には、フルコンのpianoは、音量的にもとても無理だし、pianoで、伴奏をするにしてもソロの楽器との整合性は取れません‼

次は、一般的な場合には、演奏会で使用する音の高さ、所謂、pitchは、442サイクルとされていて、そのpitchの事を演奏会pitchと言います。

学校で学ぶ、440サイクルのpitchは、教育会館のような、公的な機関に属する団体でしか採用されていません。
同じ、公的な機関に、属したとしても、音楽大学は専門家集団なので、440のpitchを使用する事はありません。
基本的には、どこの音楽大学でも、一般的な演奏会高度である442サイクルが標準です。

ここまでは、一般的に知られている通常のお話です。
しかし、日本の殆どのconcert-hallでは、殆どの演奏会場のPianoは、圧倒的に443サイクルで調律さあれたホールが多いようです。442cycleで調律された会場は殆ど経験はありません。(調律が狂って、pitchが442になっている場合がよくありましたが、その場合には、全ての音のpitchが微妙に外れているので、問題外の話になります。
・・・で、なんで、その様なお話をしたのか??・・というと、今回の美浜ホールでは、なんとPianoが444cycleで調律されていたからです。
ヨーロッパでは444cycleは別に珍しい事ではなく、orchestraなどではもっと高いpitchを取るorchestraもありますが、日本のホールでは、444cycleは、極めて珍しい事です。


企画した演奏会では、ほとんどが楽屋裏にいて、ガサガサ、バサバサのなかでかすかに聞こえる音しか聞いてなかったり、たまに聞くときにはホールの一番後ろか、天井桟敷。あの辺の音はスカスカだったりパサパサだったり、籠りすぎていたり、中音だけ、高音だけが聞こえたり、、
それに、日本じゃあまりないけどヨーロッパの天井桟敷、あそこは落っこちるって恐怖心が先に立って音を聞く環境じゃない。でも、演奏が終わって一番気になるのはあの辺にいる、若い連中の言っている批評。結構辛辣だったりして。
だいたい、そこを選ぶときにステージで聞いている音は、人がいないときだから、響きすぎていて、演奏会場の音をイメージするのが難しいし、、、、でも、今回のホールはダメだったな~なんて思っていると、演奏している当人や、聞いている人からは好評だったりして、、、分からんのですよ。
残響、響き方はよく言われるけど、ホールピッチはね~ 建築家はなんだかんだって言うけど、演奏家が441だからどうだとか、442じゃなきゃなんてのをこぼしているのを聞いたことない。周りは気にしているんだけどね~ 演奏家は聴衆の立ち位置で自分の音を聞いていないからかな~
それよか、中小都市に行っても、中小ホールをいくつか持っているところがあるので、なら、一つくらいバロック用の小ホールを作ってってずっと言い続けてきたけど、こんなことも実現しない方が悲しいな~
10月11日 10:31




東京大泉学園のゆめりあホールの客席を舞台から見た写真です。

10月11日 13:28



だいぶ昔の写真ですよね!祖母が右下に元気に写っていて驚きました。何年くらい前のものでしょう…?
10月11日 15:02



Vivaldiのla foliaの時だから、2006年の9月の23日だそうです。
10月11日 19:25



多目的ホールにすると結局何に使うにしても中途半端になってしまう例ですかね・・・
音楽ホールは150席なのが私のようなのがコンサートするにはちょうどいいところなのですが、ピアノはやはり大きすぎなのと、お風呂場のように響きます。
オーストリアでの先生(元ウィーン響)が444だったので懐かしいです。
10月11日 21:49





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10月11日 ·
「発表会の後の動画の編集の躓きのお話です。」
2日掛かりで、動画の編集をしました。私ともあろう人間が何故に編集に2日も掛かってしまったのか??という話です。

video-cameraはbackgroundでは、camera本体に保存するためには、*分おきに(メーカーや機種によって違いますが、10分ぐらいの間隔です。)短く分割して保存します。それはcamera本体の動画保存に、器械的に無理な負担がかからないようにするためです。
パソコンで・・でも、videoに関するsoftが最初から入っているので、パソコン本体に保存しようとすると、自動的にそのsoftが立ち上がって、パソコンに保存出来るようになります。(私はBlu-ray用のパソコンを購入したので・・)

「windows7のパソコンをDellの工場に修理に出した後の不具合で動画編集が出来なくなってしまった事」
Dellのパソコンが、blue-outをするようになって、慌ててDellに工場修理に出したのですが、工場の修理から帰ってきたら、何と、Blu-rayデッキが壊されていて、Blu-rayのdataを見ることも焼くことも出来なくなってしまったのですよ。
それから、延々とDellと大喧嘩中なのですが、大手企業は、自分のミスを絶対に認めようとはしません。言うに事欠いて、「video-driveは修理する前からおかしかったのだ」とか言い出して、自分の非を認めようとはしません。(その話は長くなるので、ここまでにして・・・)

パソコンで、ブツブツに切れて保存されているdataを、ちゃんとある程度の長さまで・・か、それとも、撮影時に付けたchapterで、分割をして保存するには、壊れてしまったパソコンのBlu-ray-デッキでは無理な作業なので、PanasonicのDigaという編集に強い、videoデッキで編集をしているのですが、時々、SDcardの読み取り不良が起こってしまいます。

今回の発表会のvideoも、上手袖の赤いvideocameraで撮影したSDcardがDigaに入らなくて、(DigaがSDcardを認識出来なくって・・)そのために、何度もvideoのdataをパソコンに取り込んでしまいました。
赤のvideocameraのdataを、色々な方式で、パソコンに移動させるだけで、free-makeというsoftでの取り込みは、「な、な、な、なんと!」11時間半も掛かってしまいました。

そういった編集のsoftを一切使用しないで、SDcardからパソコンへ直接、手作業で、移動させると、50分もあれば、dataの移動は出来るのですが、そうすると、1曲、1曲を編集する度に、総てのdataを結合、分割を繰り返す・・という、とんでもない時間のrossの伴う作業になってしまうので、「どの方法がbest-selectか??」と、何度も悩んで、それだけで、丸々一日を費やしてしまいました。
丸々、1日掛かりで、3台のvideo-cameraのdataをやっとパソコンに移しました。

次の日は、四日市でのlessonなので、(真面目に働いている事を証明するために、取り敢えずは、1曲だけをYou Tubeにuploadしました。
明日は、朝早くから、四日市に車で出発するので、今日の仕事はここまでかな??
さて、急いで寝ないと、居眠り運転になってしまうので寝???



Vivaldiいいですね!
出来れば発表会通しで聞きたかったのですが、終日は無理でした…。
10月11日 23:10


動画の編集の時の弁解のお話だけになっていたので、演奏についてのキツ~い一言❢❢です。
回りくどい言い方でなく、結論から先に言うとすれば、今回のVivaldi d moll doppel Op.3Nr.11の演奏の出来は結構酷いもので、子供達の演奏としての、発表会としてなら、お客様は基本、保護者の人達とその縁者なので、それは、兎も角としても、八千代のような対外出演(外部のお客様と対象にしたコンサート)の場合には、問題外の出来で、演奏をするだけの水準には達していません。
八千代迄は後、一月なのですが、それまでに立て直せるのか??が問題です。
一昨日は、発表会1週間後の反省会の日でしたが、当然、八千代迄は日にちが全くないので、反省会の前に時間の許す限りに八千代の曲目の練習をしましたが、発表会が終わった・・という安堵感からか、抜け切って、今まで出来ていた所迄も出来なくなってしまっていて、それはそれは、私を失望させてしまいました。「え~っ??また、0から教えなければならないの???」
芦塚メトードでの考え方は、演奏の技術は練習の量ではなくって、音楽に対する自分自身の意識が総てである。と思っています。意識さえ戻れば、その日のうちにでも、水準(Niveau)を元に戻す事は不可能ではありません。
音楽の練習に楽器を使用するのは、愚の骨頂です。殆どの音楽の勉強には、楽器を必要としないのです。
例えば、暗譜・・・❢❢
暗譜は芦塚メトードの骨子です。暗譜が苦手な人は、「ウル覚え」についての理解がない人なのです。だから、練習をしても上手になる事がとても困難なのです。私がいつも無意味無駄だと言っている「闇雲練習」なのだから・・ね??
私が「今回の八千代はこれまでになく怖い❢」と言っていたら、牧野先生が「自治会館側から、春待ちの後の演奏会をやってくれないのか??」という、コンサートを聴きに来てくださった方達からofferが来ているので、1週間前の練習を、八千代のsimulationを兼ねて・・、のコンサートを開くのはどうか??」というお話をしてくれました。
う~ん??子供達を絞めるには、それでも良いか??と思っているのですが、いずれにしても、今回の日曜日に何処まで、ちゃんと出来るようになっているか??
心が引き締まっているのか??をcheckした後の話ですよねぇ??
10月17日 8:04



何時も教室の発表会等を聴いてくださっている方達には、耳タコなのですが、教室でbaroqueを演奏する時には、orchestraの並び方は、baroque並びという特殊な並び方をしています。baroque時代の複音楽を活かす(交唱を最大に活かす為に、左右にviolinを置くという)並び方です。左側から、1stviolin、cello、viola、2ndviolinという並びになります。
とは言っても、この並び方は、Haydn並びとも言って、他にも色々な言い方があって、実は、戦前迄はこの並び方の方が主流だったのですよ。
戦後は、ストコフスキーの提唱した、近現代の並び方1stviolin、2ndviolin、viola、celloの並び方。violaが弱いのを補強する1st、2nd、cello、violaのMünchen型の並び方、等々ありますが、右端に2ndviolinが来る並び方は一般的ではありません。。
· 11月30日 5:24


Vivaldi d moll doppel Op.3Nr.11の校訂に関してのhomepageです。

http://music.geocities.jp/ashizuka.../vivaldi-doppel-d.html



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10月12日 ·
 太男、総身に血がまわりカネ⁉

感動脈流(冠動脈瘤)

いや~ぁ?

3㌔リバウンドだ‼💀

参ったな~ぁ?

摂眠障害を克服するには、心をcontrolする必要がありますが、摂眠障害は私が高校生の時から(何とか、記憶にある時から)、延々と悩まされた事です。その頃は、なすべき事も見当たらなかったのですが、ドイツへの留学中に、ドイツの大学の教授の主宰するSelf-medicationの研究室に、通った事があります。
その先生のmethodeの基本は、ヨガと東洋の座禅から応用されたものです。

座禅の方法は、大きくざっくりと分けると、臨済宗系的な、一つの命題に集中していく方法と、私の檀家である曹洞宗系の頭の雑念を開放する方法があります。
ドイツの研究所では、Self-medicationとして、ヨガで死者のポーズと言われる自己暗示の方法を学びました。

しかし、訓練の目的がもしも「集中する」という事のみに特化するのならば、それこそ、私が厳しく禁止している音楽を無意識の世界で演奏する…例えば生徒が、スケールの練習やエチュードの練習の時に、特にそういうふうに成りやすいのですが…無意識に指だけを動かしてしまう事(所謂、絶対にやってはいけない、頭を使わない指だけの運動・・・私のmethodeでのtabooな練習を、すれば良いのです。
自宅でPianoを練習をしている時に、言い出しっぺの私でも、チョッと油断していると、無意識によくそんな無意味な練習をやってしまいます‼

それに、よく似て非なのですが、無意識下でcontrolされた、演奏です。
塚原卜傳が刀の素振りを毎日1万回繰り返していた時に、動いて素振りをしている自分の姿が、他人になってしまったように、他人目線で見えてしまった。というお話です。
私の「演奏の究極てきな一つの理想な姿」として、「自分自身がCD等を集中して聴くとき等の状態」と全く同じように、「自分の演奏の音が、CDを聴いているように聞こえて来るような演奏」というような演奏のstyleは、無意識下でcontrolされた演奏であって、無意識上の演奏ではありません。その音楽は客観的にcontrolされた、無意識の演奏であって、私がまだリューマチが発症する以前で、外での演奏もたまにはやっていた頃の若い時代に、練習をしている時に、2、3度、体験した事がありますが、それは・・・、もし、そういった演奏が叶うのならば、それは、演奏家にとっての、演奏の究極的な理想のstyleだと思います‼

私が留学から日本に帰国してきて、先ず座禅の教室に通って、夏は琵琶湖の山奥のお寺に座禅の修行に出掛けました。

日本で座禅の勉強をしていた時に、あの座禅の座り方は、痛くて脂汗を流しながらで、3拝9拝のtimingが足が痺れて立ったり、座ったり出来ないので、どうも疑問に感じていたのですが、お坊さんに質問をすると、「その痛みが感じられないぐらいに、座禅に集中出来ると良いのです。」との答えだったのですが、どうも納得が行かないので、自分なりに調べて見たら、何とインドでは、座禅座りが一番楽な座り方だったのですよ。(勿論、その時代にはネットなんて、便利なものは無かったので、そう言った事を調べるのは、至難の技だったのですよ❢❢)つまり、よくよく調べて見たら、インド人にとっての座禅は、日本人の「あぐらをかく」と同じ事だったのです。
インド人のように、子供の時からその座り方に慣れていれば、座禅の座り方は、苦痛に耐える姿勢ではなく、一番楽に長時間座れる安定した座り方だったのです。
という事で、日本でも江戸時代の文献等を調べると、病気ガチだった白隠禅師の仰臥禅というのが出てくるのですよ。

でも、最初から、その事を知っていたとすれば、私ならば、(お釈迦様のように、キリスト様のように、20年、30年苦行に耐えるのではなく、《それこそ私は、3日で挫折してしまいました。》が、音楽家ならば、禅を組むよりもPianoの前に座って、hanonでも弾いていた方が、手っ取り早く禅定に入れるからネ。)
それこそ、音楽家だもんね❢❢
アハッ!


またまた、ブッ飛んで履歴にも残らないと思っていたら、本文には入らなかったけれど、返事にはコピペが入ったのだよ❢❢分からんネ??
10月12日 8:10




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10月13日 ·
四日市の千種さん家に、長い間、置きっ放しのKontrabassやlessonの道具を取りに四日市迄、車を飛ばして行ったのですが、東名の全線の工事に伴う大渋滞を避けて、東名から新東名に逃げたのは良いとして、往路は、大渋滞の箇所を避けて、新東名の道なき道を何処までも(2台目のカーナビの地図のversionupの期間が過ぎて、有料でのversionupも終了してしまったので、3,4年前からの道路はナビに入っていないのです。だから道なき道の何もない空の上を車が走っているのです。)真っ直ぐに走って、なんとか、10分遅れぐらいで千種さんの家に辿り着いたのですが、体力勝負になってしまった問題のお話は、帰り道の話です。
東名の古い方は大渋滞で、とても走れたものではないので、途中から、バイパスを使用して、新東名に逃げたのは良かったのですが、渋滞の代わりに、何と、何と、雨と霧・・・❢❢❢
至る所、集中豪雨状態で、雨がニャンコ号のフロントガラスに雹のようにバチバチと打ち付けて来て、雨漏りのするニャンコの天井が抜けるのではないか??とも思うぐらいの強い大粒の雨なのです。
結構、山奥・・と言うか深山を走るので、峰々に沿って、前も後ろもガスで、全く前方も後方も見えなくなってしまって、疲れている上に、目が疲れてよく見えづらいので、運転に神経を使って、とても大変でした‼
車を走らせていても、超寒いので、体が冷えてしまい、ひっきりなしのトイレタイムを繰り返しながら、・・と言うか、精神的に集中力が持続出来なくなってきたので、もう時間の制約はなくなったので、安全第一の、超頻繁の休憩しながらの運転を繰り返して、なんとか、最後の給油地である足柄SA迄辿り着きましたが、そこで緊張の糸が切れてしまったのか、突然、バテが吹き出して来てしまいました。(バテは吹き出すものなのですよ❢❢)
あと1時間半ほど頑張らないと、東京にたどり着けないぞ‼と自身に鼓舞をしていたのですが、何とか、この13日の金曜日、最後の頑張りを😅、、と思ったら、横浜方面は大渋滞の電光掲示板に寄るお知らせです‼

急遽、方向を変えて、八王子方面に、圏央道を通って行こうとしたら、ナビがまたまたオカシクなってしまいました。
「またまた」というのは、先程も書いたように、カーナビのサポート期間が終わっているので、四日市への行き掛けの時にも、大渋滞を避ける為に、新東名を豊田方面に向かっていたら、ナビの案内画面が空を飛び始めたからです‼ 

という事で、「道なき道を、空を飛びながら、(地図の情報を無視して)車を中央道を走らせる」のですが、ナビが何とか知っている道に戻らせようと、煩い事・・・❢❢❢何が何でも渋滞している元のルートに戻そうとするのですよ。
それを断固として無視し続けて、走っていると・・、今度は、圏央道⇒中央道から初台方面の道が、渋滞の表示になってしまいました‼
仕方がないから、永福町辺りで高速を降りて、一般道を走ろうかと思ったら、その前の高井戸から、渋滞が既に始まっていました。

諦めて、高井戸から降りたら、直ぐに環8なのですが、環8は高速を降りた所で既に、もう渋滞をしています。
ナビの案内が脇道のコースになったので、ナビの指示通りに脇道コースで、環6迄何とか抜けて、やっと椎名町の事務所に辿り着きました。事故の日でもあったのですよね??
椎名町に到着後、そのまま、頑張って、荷降ろしをして、ハイツに霧雨の中をバイクで帰って来ました。

ハイツでは、兎に角、パソコンやテレビを立ち上げないようにして、そのまま後片付けだけをして、寝ました。
比較的に簡単に寝付けたので、熟睡が出来たのかな?・・と思ったら、何と、未だ3時チョッと過ぎです。こりゃ~困った❢❢中途半端だよな??という事なのですが、「仕方がないかな??」という事でやり残した後片付けをしながら、mailのcheckとFacebookを読んだりしています。

帰る途中で、トルコ人のおじさんに危うく80万の空飛ぶ絨毯を売りつけられそうになったので、代わりに、ベネチアングラスのチャイグラスとこの鶏さんを買って、斉藤先生と牧野先生にはトルコブルーの携帯入れをプレゼントに買いました。
「紅茶のグラスはないの??」と聞いたら、「このチャイグラスがそうだよ!」と言われてしまいました。
トルコのではないけれど、フィリピンあたりのベネチアン・ガラスの紅茶グラス(??)は持っているので、まあ、いいか??
牧野先生のトルコblueの携帯入れは、生徒達にとても評判でしたよ。



雨はまだそんなひどくないですか?お気を付けて。
10月13日 18:02



いやいや、雨はとんでもない集中豪雨のような降りようで、車に雨に当たると、屋根に穴が開くのではないか??、・・或いは、体にあたると、痛くて堪らなくなってしまう・・ような感じでした。
という事で、何とかかんとか渋滞を避けながら、中央道迄辿り着いて、高井戸で、高速を降りて、一般道を走ったのですが、その頼みの綱である一般道も後ろにナビが何も頼りにならなくなって、しまいました。
チャイグラスです。
10月14日 21:54






またまた入力出来なくなって来た。
10月14日 13:11


木の切り株のぬいぐるみなのですが、これは足柄で昔々買ったもので、「ウル覚え」の説明に使っているものです。
でも、木のウロに住んでいるのは、フクロウさんの予定なのですが、お土産に買って来たものには、ムササビさんが住み着いているので、今回四日市までone lessonに行ったついでに、買って来ました。ムササビさんは木の切り株に紐で固定されていたので、紐が見えないように切ってしまおうかな?と思って紐を引っ張って見たら、何と、何と、・・オルゴールの紐だったのです。切り株さんはオルゴールだったのですよ。余りにも、昔々に買ったものだったので、すっかりと忘れてしまっていました。という事でムササビさんは、切り離せなくなって、しまいました。フクロウさん、ムササビさん、仲良くしてね??
10月17日 7:38




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10月14日 ·
人生というものは、流れる川のように・・と言うと、なんともはや詩的で良いが、言いたい事は実につまらない事で、二つ、三つのお話が絡み合いもせず、発表会や、四日市のlesson等と交差して進んで行くという話です。
私の場合には、中、高生の頃から並行作業が得意で、話を他人に説明する時に、話の説明を時間軸でやるのか、それとも思考patternでやるのか??が難しいのですよ。
「質問と無関係のお話をよくする事についての弁明」
昔々、と言うか今現在もそうなのだけど、「芦塚先生に質問すると無関係な回答が帰って来る❢❢ので困る❢❢❢」とよく言われるのだけど、Aという回答を説明する時に、そのAに対する説明のBと、そのBに絡むCやDの話をしないと、完全には意味を理解して貰えないのですよ。だから、分かり安いように話を順序立てて、D、Cから、順番に説明をしようとすると、先程のような事を言われてしまうのです。ハイ!

「余命と喫煙のお話をする事になった切っ掛け」
発表会の時に、姫野さん達としていた私の余命の話は、元々、久しぶりに、夜の外の空気が涼やかで良いので、窓や戸を全開にして寝て居たら、蚊に喰われて痒くって仕方がなかったという話から、タバコのお話になって、病院で冠動脈の手術を受ける時に、医者から、禁煙を強制的に要求されて、兄貴は、動脈解離なのに禁煙はしていないのですが、私は真面目なので、医者の言う通りに、禁煙をしたのだけど、私が望んで、禁煙したのではないので、もし余命が後半年という事になったのな禁煙は止める、・・・という事のお話で、ツラツラと秋の夜長のお話が、余命の話まで行く・・というとんでもない話の進行なのですが、元々のお話は、10月9日の深夜に蚊に喰われて、痒くて眠れなくなったので、折角外は涼しかったのに、部屋を締め切って蚊取り線香を2本、3本と焚いて寝た!
・・という話から、次の日に先生達と何ヶ月振りかで、行きつけの寿司屋に食事に行った時に牧野先生から「ハイツでこっそりとタバコを吸っているの??」聞かれて、「何の話??」という事になって、「タバコ臭い!」「違う!」で「蚊取り線香を部屋を締め切って・・」のお話になったのですが、その時に、ついでに、「もし私が医者から余命半年の宣告を受けたら、その時にはタバコを再開する❢」という話をいつも人にはよくしているのですが、楽屋で、姫野さんと大野さんとおしゃべりをしている時に、その話が出た時に、大野さん(今は何さんだっけ?? 絶対に覚えられないので悪しからず・・です。)が、「でも、余命宣告は10年以上前に出てましたよね?」と言われて、改めて「えっ??ああ、そうか??」と驚いてしまいました。

「余命宣告と病院のお話です」
つまり、余命のお話は、グラフトの寿命のお話になるのでが、手術前のインフォームド・コンセントでは、最初の**大学病院ではグラフトの寿命が5年と宣告されて、5年経ったら血管が詰まり始めるので、グラフトはもう出来ないので、ステントで逃げる他はないのだけど、今度は、そのステントの寿命が3年程度で・・・・という話になったのですよ。つまり、そこで、余命の話になるのです。
術後、定期的に通った***大学病院では「長く持って7年」と言われて、それで主治医から「痩せろ❢痩せろ❢❢」と急かされて、「だって余命7年なら、もう限界じゃぁん❢❢」「限界なら、痩せる必要も、禁煙する必要も無かろうに??」と、その先生が何をおっしゃりたいのかが、分からなくなって、病院に診察に出掛けると、その後の3,4日、イヤさ、1週間丸々は、すっかりと鬱になってしまいました。

「これって、やっぱ、ドクハラだよな??」と、思って色々な先生に相談したら、「大学病院という所はそういう所なのだから、近所の、箸にも棒にも掛からない病院に行って、普段の薬は貰っといて、病気が再発したら、大学病院に戻るのが良いのでは・・・??」という病院の先生達(❢❢)からのadviceを頂いたので、近所のハイツに一番近場の個人病院にしました。

色々と問題点はあるのだけど、少なくとも、大学病院のドクハラ先生よりもマシだわサな??
大野さんに言われる迄は、余命は5年、7年で、もう余命の年齢は、トックに過ぎている事を思い付きもしなかったネ??

ちなみに、そのドクハラ病院の先生に、「長く持って7年なら、もうすぐに対応年数が来るのだけど、その場合にはどうすれば良いのですか??」と聞いたら、「グラフトはもう出来ないのだから、後はステントで、3年か、5年かの寿命を伸ばすしかない❢❢」
「その次も3年、5年したら??」と、返したら、「2回、3回のステントは、もう出来ないので・・」と言って、黙り込んでしまいました。

手術を受ける前の、**大学病院の若い医者達も、手術後に行っていた**大学の若い医者と同じで、「70過ぎても、そんなに生きていたいの・・・??」という態度が見え見えでした。

冠動脈の手術を受けたのは、59歳8ヶ月ぐらいの時で、それまで通っていた病院には、「冠動脈が~❢」とか、「血圧が・・」とか、その5年ぐらい前の、55歳の時から、若い*大の先生達に訴えていたのだけど、若い先生達は心電図をみたり、MRIにも表れないし、(毎回、診てくれる先生が違うので・・、よしゃいいのに、若い女の先生の時に「EDが・・」と言ったら、セクハラ患者のような目で見られてしまって、困ってしまいましたよ。
ほんと・・・??若い女性でも、医者は医者だろう??
医者に患者がEDの話をする事は当たり前だろうが??
と思うのだがね???

今は、男性でも、平均寿命がaround80歳なので、この後に及んでも、「ステントが何回出来るのか??」とかいう質問は、私としては、そんな無理難題の話を聞いている分けではない・・と思うのですがね~ぇ??





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10月14日 ·
発表会からハイツに帰って来て、次の日には、Vivaldiのd mollのdoppelを編集した後で、直ぐに真雅ちゃんのcello-concertoの動画の編集に取り掛かったのですが、その日のうちに、四日市にone lessonをしに行ったので、今日の朝、四日市から帰って来て、改めてそのままになっていた動画の編集をしてYou Tubeにuploadしました。
今日は何ヶ月振りかで池袋迄出掛けて来ました。
windows10に使用していたweb-cameraが超古い時代のcameraだったので、softがwindows10に対応していなかったので、色々とパソコンに不具合が派生してしまったので、チョッと急いでいたのです。
買い物を済ませてハイツに戻って来て、パソコンのデスクを動かして、配線をし直して、また、パソコンのデスクを元に戻したら、疲れてしまって、プリドルっ歩には行けそうもなくなってしまいました。食べて寝るか??もう何もしないで寝るか??ですが、当然、もう、何も出来ないよね??アハッ!
webcameraをパソコンの台に取り付ける時に、近くにあったトトロのマグカップを落っことして取っ手が壊れてしまいました。昔、それぞれの教室に置いてあったマグカップなのですが、洗った後でそのまま洗いカゴに放り込むので、同じ箇所の、ちょうど飲む時に、口に当たる部分が欠てしまって、それぞれの教室のトトロ3,4個がダメになってしまいました。そのまま捨てるには詮無いので、欠損が酷くて、マグカップとして使用に耐えれないものは、底の部分に穴を開けて、花瓶兼植木鉢にしたり、傷が比較的に軽いものは、欠落した場所に金継ぎをしたりして、騙し騙し使用して来たのですが、持ち手が半分に減ってしまったので、さてどうしたものか??


左側のトトロの取っ手です❢❢ 可哀想なトトロ君ですな??

10月17日 17:39
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10月15日 ·
今日は反省会???と言うか発表会の後の打ち上げの日の朝5時です。
何時ものように、朝5時は体重血圧を計ってそのまま、動画の編集をしました。
今日はSweelinckの私のarrangeの曲をuploadしました。おっとりとした、かったるいような曲ですが、演奏はとても難しいので、お姉さん達しか演奏は出来ません。超難度の技術力が必要なのですが、この曲の難しさは、一般的には聴いていても、分からないのかな??



とてもイイですね〜♪❗️
10月16日 9:12



お久しぶりです。コメントありがとうございました。
10月17日 7:05



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10月17日 ·
You TubeのURLを削除したら、そのURLの前に書いて置いたFacebookのコメントも一緒に消えてしまいました。え~っ??そりゃあないよ❢❢
You TubeとはFacebook別のものでは・・・???
Facebookは、しょっちゅう飛ぶけれど、いつも言っているように、同じ文章を2度、3度書き直すのは嫌いなんだってサ❢❢
とは言っても、仕方がないので、諦めて、またまた全く同じ文章を書くことにします。

「復刻された文章」
動画の撮影は、以前は業者の方にお任せしていたので、そういった問題は無かったのですが、教室が自主制作で、video-cameraを複数台用いて撮影する時には、カメラに付いて操作する人が、出演スタッフの人数の関係で、全くいないので、特に中央のmaster-cameraは、生徒達が常駐している会場からは、遠く離れているので、誰も操作出来ないので、遠景からの定点撮影になってしまいます。
勿論、編集の時にsoftの中で、ある程度映像はupが出来るのですが、そうすると、画質が荒れてしまうし、ある程度以上はsoftの限界で、ズームする事が出来ません。
という事で、今回は、保護者の方から、動画をお借りして、正面のupのcameraとして編集に臨んだのですが、1カメから3カメ迄使用して編集する場合には然程問題は感じなかったのですが、保護者のvideo-cameraという事で、4カメ目を作った途端に、1コマ1コマ編集する毎に、パソコンがfreezeしてしまいました。普段なら、1時間、2時間あれば、1曲は軽く編集し終えるのに、台数が台4で、1カメから4カメ迄の編集になった途端に、freezeの時間が長くなって、朝は4時からstartしたのにも関わらず、午前中丸々一杯掛かってしまいました。待っている間に出来る仕事が、総て終わってしまい、時間待ちでする作業が無くなってしまいました。
良いんだか、悪いんだか・・・❢❢❢
仕事が捗っているのやら、滞っているのやら・・・❢❢❢




後の、uplordしようかな⁉と、思っていた曲を3、4曲、動画の編集をしながら、checkをしていたら、全滅だったのだよな‼💀😭
リハーサルでは、とても上手に弾けていた曲も、ガタガタに崩れていたのだよね⁉意識の問題なのだけどね⁉
10月18日 0:29



芦塚メトードで学んでいた、昔の生徒達が絶対に犯さなかった間違いを、今の生徒達は、普通に一般の音楽をやる生徒達のように、間違えるようになってしまいました。
それに、オケ練習に臨む時も、何時も譜面台が立っていて、何度、注意しても暗譜して来ません。暗譜は芦塚メトードの基本です。
昔の生徒達は、lessonの2,3回目には、譜面台を立てなかったのだよね。
後、弓の持ち方が悪いので、弓を体の後ろ側に引いてしまうのも、昔の生徒達にはありませんでした。
よく昔の生徒達と検見川教室で練習していたのは、数息観という呼吸法と、生徒達が後ろ向きに座って、他の生徒が「**ちゃん❢❢と名前を呼ばないで、オイ❢とか、もしもし、とか呼びかけて、自分が呼ばれたと思ったら手を上げる。」というゲームでしたが、これが上級クラスでなくても、初級、中級クラスでも、100点満点でした。気を感じる練習なのだけど、不思議な練習だったので、超能力を育てる練習かいな???
近頃、Canon体操はmelodieの追いかけっこ・・だけではなく、体の揺らしも追いかけっこ・・になっているのだよ。・・とお話をしたら、皆、絶句していましたが、体の動きの追いかけっこ・・というのが、分からないようですね。
NHKのピタゴラスイッチという番組の中で、アルゴリズム体操・・というのがあって、ちょうどそれが体操の追っかけっ子なので、体操のCanonなのだよ❢❢と言っているのですが、体操がCanon??になるというのが、分からないようですね??
10月18日 10:10


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10月17日 ·
このところ、発表会を始めとして、色々なイベントがてんこ盛りだったので、先生達のrotationが分からないというlineを送ったのだが、何の連絡もなかったので、通常のrotationのままなら、外食をする日なので、何時もの寿司屋に行く事にしました‼
外は寒いという事らしいので、長袖の服を探したのですが、どうも分類の仕方が全く違うようなので、絶対的に、探し出す事が出来ません‼
真夏の超薄手の半袖を着て、上にバイク用のwindブレーカーを着て出かけました‼
寿司屋の中は相変わらず混んでいて、暑かったので、真夏の格好でも問題はなかったのだけどね




以前、uploadした映画「カストラート」の中の1シーンで、HändelのLascia ch'io piangaの歌です。

https://www.youtube.com/watch?v=u7rsigVubUI

カストラート 私を泣かせてください by Handel
10月18日 6:34



https://www.youtube.com/watch?v=g21hYxQvgMs

Caccini: Amarilli mia bella; Phoebe Jevtovic Rosquist, soprano;…
10月18日 6:51



上記2曲は、(所謂、vocalの)periodの歌い方になります。他の古典イタリア歌曲も、baroqueの歌い方をしている曲を探して見たのですが、残念ながら中々探し出すのは難しいようです。
10月18日 10:01



ペリオードのbaroque時代の発声法は、50年以上も前に、私が大学でカンタータを指揮をする時に先輩諸氏に要求していた歌唱法です‼
その発声法が、極、稀ではありますが、やっと、歌のペリオード奏法として、YouTube等では、聴く事が出来るようになりました。
10月21日 8:41



音大の学生に、古典イタリアの歌曲を歌わないか⁉と話しを、持ち掛けると、必ず、「え~っ、プッチーニか、ヴェルディではないの⁉」 と、がっかりされてしまいます‼古典イタリアの歌曲を、ペリオードの歌い方で…、というと、そのままに、逃げてしまわれます。歌の人達にとっては、古典イタリアの歌曲は、ピアノのバイエルのようなものなのでしょうね⁉私にとっては、仮にバイエルでも、演奏会で演奏する事が、許されるのならば、演奏したいのですがね⁉
10月21日 8:51




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10月18日 ·
このところ、携帯でのfacebookの調子が悪くて、携帯からfacebookにコメントをアップロード する事が出来なかったり、他の人達のblogが上手く入らなくて、「再タップをしろ ‼とmessageが出たりして、再タップをしても、画面はなにも変わらなくて、困っていました。
パソコン側では、windows7からも、windows10からも、問題なくアップロードできるのだけどね⁉
メールアドレスを 入れ直してみたり、 携帯の電源を切ってみたり と、いろいろとやってみたのだが これまでも全く治りませんでした。
先程、ふと思い付いて、logoutをして見たら、何と直ったのよね⁉
なんだ、そんな事・・???
ガッカリ🙍
でも、そんな簡単な事への説明がないのよね??





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10月18日 ·
この間の発表会で、楽屋で現役芸大生の暉君達をつまみにして、日頃の積み重なった鬱憤を晴らしていました。
・・とは言っても、何かしら大変な話を愚痴愚痴とした分けではなく、proという定義に付いて、(四日市のシオンさんも含めて、音大生が増えて来たので、)お話をしていました。

proの定義と言えば、簡単には、「音楽を演奏してお金を稼ぐ」という事に尽きるのでしょうが、それをなりわいにすると、教室のように、「Classicの音楽のみ」という事を言ってしまうと、注文は来ない事になってしまいます。

しかも、教室のように、「periodでの演奏を・・云々」等々、言い出すと、period奏法やperiod instrumentsの演奏団体は、世界的に見ても、超、super、ultra、maniacな演奏団体に、なってしまうので、そんな演奏団体に、そんなmaniacな曲の演奏を注文してくる所は、皆無となってしまうので、教室の方針としては、基本的に、「顎足抜き」でも、そのようなmaniacな演奏団体のために、お客様を集めて来れて、会場費がただなら、喜んで演奏をする・・という、ある意味では、volunteer・・ギリギリの、演奏活動になってしまいます。

逆にvolunteerの場合には、会場を切り盛りしている人が建前では、お金は出せないので、ポケット・マネーを出してくれるし、会場に行けば、お弁当や飲み物は主催者の誰かが出して来れているので、建前上は、無料の公演でも、教室としては、今の所は、完全な顎足抜きのコンサートはやった事がありません。
勿論、今回の八千代市のように、広的な所からの演奏依頼の場合には、Pocket・moneyは期待すべくもありませんがね。

一般的に若い演奏家達の場合は、演奏会と銘打った演奏をする場合には、多くの諸費用が必要となります。

ホールの使用料やPiano、その他舞台の付帯設備は、その都度、要求されます。つまり、暖房や楽屋代も、諸費用になります。
会場とは別に、ポスター・program代は総て、別会計となりますので、それ等を自腹で払って、チケットの売上で、幾ら、その費用が回収出来るか??なのですが、lessonを見てくれた先生や、聴きに来る事をお願いした、評論家の人に一筆書いて貰うには、それ相応のお礼も必要となります。

その結果、結構チケットが売れたと仮定しても、「今回は20万の自腹で済んだ!」とかなるので、演奏活動を数年単位で、或いはもっともっと続けるためには、そんなお金の掛かる演奏活動をしていたら、とても、演奏活動を継続する事自体が成り立ちません。

ですから、私達にとっては、「何処のホールで演奏したか??」という、name value的な事は、全くのstatusにはなり得ないのです。
それをもって(つまり、自腹での)演奏活動は、proの演奏活動とは・・私達は言わないからです。

そう言った信念に基いて演奏活動を行っているので、超maniacなので、演奏依頼は来そうにもないのですが、一度演奏した所では、不思議な事に、必ずrepeatが掛かるので、演奏の場所に困った事はないのです。
演奏者がいないとか、Niveauが取れない❢❢ とか、ナンタラカンタラ、全部私達の都合上の問題であって、演奏場所がない・・とかいう悩みは全くないのでね。

そういう話はいつもしている事なので、話を飛ばすとして、音大生の演奏活動なのですが、驚くべき事に、「基本的には、音大生の演奏活動を認めている音楽大学はありません。」

という事で、一般的には演奏活動(その殆どがオケトラですが)をしている学生達は学校には内緒で演奏活動(この場合には所謂、バイトという事なのですがね。)をしています。
唯一の例外が桐朋なのですがね。
(桐朋も大学設立当時は、井口先生や斉藤先生が、全国を行脚して、優秀な生徒達を探し出して演奏家に育てるというconceptで学校を設立しました。桐朋の高校の傍の掘っ立て小屋に、先生が股火鉢で、隙間風の吹き込む校舎の中で、生徒達を指導した時代もあって、その時代に先生達に親しく学んだ生徒達が世界に踊りだす事が出来た今の音楽家達なのです。

そう言った幸せな、特別な、例外を除いたら、音楽大学の学生に寄る演奏活動は学校には内緒の活動なのですが、それが理由で、結構、音大生の演奏活動の需要はあるのですよ。

そのために音大生達は結構お鼻が高くなってしまうのですが、それは私が未だ学生であった50年も前の頃からのお話で、学生を雇うと学生料金で安く雇えるからなのですよ。
だから、学校に隠れてバイトをしている生徒に注文が殺到する・・、音大生が皆、学校に隠れてバイトをしてくれる分けではないからね・・・??

・・・でも、この話には、落とし穴があるのですよ。

バイトが殺到すると、学生は自分の実力が認められたような錯覚に陥って、お鼻が高くなるのなら、未だ良い方で、演奏活動に熱中してお勉強もしなくなってしまいます。
音楽大学が一番恐れている所はそこなのですがね???

そして、大学を卒業した途端に、バイトの話は全く注文が来なくなってしまいます。
それは、当たり前の話で、大学を卒業してしまうと、バイト料ではなく、正規の金額を払わなければならないからで、その時には、業者は、新しい学生にオーダーをするだけの事なのですよ。業者に取っては、演奏の上手下手よりも、ランニングコストが一番の問題点なのですからね。

大学の時にあった演奏活動が、大学を卒業しても、そのまま継続出来ると信じて、将来の設計をしていた音大生達は、初めて、そこで現実の社会の厳しさを眼にする事になって、瞬時に、音楽活動する事を止めて、将来、音楽活動をする事、その夢を捨ててしまいます。不思議なぐらいに、切りが良いのです。
つまり、「音楽」そのものに対しての思い入れは、音大生は持ち合わせていないのですよね。

でも、このお話は、私が音楽大学の学生であった頃から、のお話なのですよ。
つまり、音大生達の意識は、50年以上経っても、何一つ変わっていないのです。
という話を春暉君達にしていたのですが、芸大の現状の話も、色々と聴く事が出来て、また面白かったです。温故知新でやんすかね??




Tchaikovskyのこの曲集は、紗來ちゃんのようなPianoを習い始めたばかりの生徒には、技術的にも超難しい曲で、しかも、チャイコ先生は、手が大きくて、octaveを多用するので、小さな手の子供達には、(・・と言うか、女性のpianistも含めてなのですが、)間違えないで演奏するのがとても難しいのです。(そう言った意味でも、紗來ちゃんの演奏にも、misstouchが少しあるのですが、先輩諸氏が同様に軒並みに、ミスったので、繰り上げ合格・・という意味ではなく、曲のimageの表現がとても良かったので、ちゃんとした、れっきとしたサービス合格なのです。ハイ!
10月19日 19:59



それはそうと、預かったSDcardの紗來ちゃんのPianoの演奏を4カメとして、取り込もうとしたのですが、何度やっても、取り込めなくって諦めて、教室で撮った3カメ分迄を先に編集して、一度mp4に起こして、それから、改めて、もう一度取り込み直そうと、mp4を作ってsoftに取り込んで、改めて、SDcardを確認したら、サラちゃんのPianoの演奏は前回の発表会の時のChopinのValseだったのですね。そりゃあ、今回のTchaikovskyとは、音声同期はしないわさね??アハッ!
10月18日 13:29


・・それは勘違いで、よく探して見たら、見つかったので、新たに編集し直しました。uploadもし直します。
こういった大切な動画を保存する方法は、基本的にはありません。
紗來ちゃんが大人になるまで、動画を劣化させないで、保存する方法は今の所ないのです。ハード・ディスクもSDcardもdataが消失し易いし、壊れ易いので、今は色々な媒体に幾つも同じdataを保存する方法しかないようです。
You Tubeもその一つの方法ではあるのですがね。
10月18日 14:42



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10月19日 ·
オケ練習は、練習の回数で、2回オケと3回オケがあります。2回オケとは月に2回のオケ練習があるという言う意味です。それに希望参加の自主練習がありますが、何時の間にか、自主練習も先生達が付きっ切りになっているので、毎回creamを言っているのですが、その都度、何かしらの理由があって、自主練習も、先生が参加する事になります。
勿論、オケの参加は、3回オケと言えども、生徒保護者の方達からの希望による参加で、教室側からの選抜によるものではありません。
昔とは違って、希望参加者のみでも、オケの人数が足りないので、何処まで、オケ練習が継続出来るか??・・・それが今現在の最大の問題です。

全体合奏や2回オケ迄は、斉藤先生が指導をして、3回オケから、私が指導をする・・という勘違いがあるようですが、実は、以前は、2回オケも、全体合奏も、出来る限り、私が指導をしていましたが、体調不良が段々に酷くなってしまって、体力の限界になって来たので、3回オケからの練習だけにしてもらいました。それで、体調的には、随分楽になりました。
3回オケは、事実上は、日曜日の休みが全く無くなるので、その分、当然指導は厳しくなるので、オケで練習について行くには、練習の量もちゃんと増やして、密度を上げて練習しないと・・・、大変・・・、、 ン~???
あれ??
・・でも、教室に弓や、楽譜を、・・・酷い時には、楽器自体を、忘れてしまって、次回の練習迄、全く、気がつかない生徒がいる・・という事は・・???  それは、家で一度もヴァイオリンのcaseを開けなかったという事なのかな⁉
あれれのれ~~??
今日(22日)もお姉さん、新しく貰った新曲の譜面を検見川教室に置き忘れて帰ったのだけど、どうせ、次の練習迄は、楽器を出す事もないのだろうからね???



今日は、動画の編集で1日終わってしまって、疲れて仮眠を取っていたら、何時の間にか、lineで連絡があったようなのだが、全く気が付かなかった。
調べてみると、携帯の着信音を切るのではなく、最小のボリュームにしてあったので、連絡が来ていたのに着信音に全く気づかなかった。
・・という事で、今日のドルプリっ歩もパスになってしまったのだが、何とか夜の食事にだけは駆けつける事にしたのだが、外は、小雨・・・部屋の中でさえ、暖房を切ると18度になってしまった。
相も変わらず、合いから冬に掛けての長袖のシャツが見つからないので、超、薄手の真夏のTシャツbad-boyのママの着たきり雀である。
外は余りにも寒くて、低体温症になって凍死するのか??と思ってしまった。
帰りは、随分前から、長袖のシャツを椎名町に置きっパしていたので、それに着替えてから、ハイツに帰ったのだが、それにしても、室内で18度はないよな??
帰りがてらに、バイクの化石燃料がすっからかんだったので、遠回りをして、スタンドで給油をして帰って来たのだが、まあ、それにしても寒い事❢ ・・寒い事❢ この寒空の小雨の中をバイクで走るのは、幾らなんでも、チョッと耐え難いのだよな⁉
いずれにしても、兎に角、忙し過ぎて、怒涛の1週間であったぞなもし❢❢ 
…否、1週間ではないな??その後も、色々と続いたから、もう、・・・怒涛の2週間だゾな❢❢
10月19日 21:25



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10月19日 ·
昨日から、今度は、何度もFacebookのコメントを訂正しようと思っても、コメントが開かないので、訂正が出来ません。
前回のように、logoutして、loginし直しても、状況は変わりません。
他のコメントも変更する必要があったので、他のコメントを開いたら、何事も無く開くのよね❢❢ 
つまり、FacebookのPage全体のtroubleではなく、そのPageのtroubleだったのだよね??
それが分かったら、後は簡単❢❢ 
編集履歴を開いて、最終稿をコピーしたら、開かなくなっているPageを削除すると、空の新しいPageが出来るので、そのPageにペーストします。
コメントを書いた日にちと時間は新しくなってしまうのだけど、それでPageの異常はなくなります。
でも、何処にもそんな不具合については書いていないし、サポート(?)に問い合わせても、「後日、連絡します。」としか回答はないのだよな??





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10月20日 ·
「ハイツのrenewal工事で・・」
夜は帰宅が遅いし、朝は逆に早く起床して、朝の4時、5時から仕事をして、お昼近く迄頑張ったて、疲れたらお昼頃に仮眠をする事の多い毎日なのですが、何と1週間程前から、斜め上の階の部屋のrenewal工事で、朝の9時前から夕方の5時過ぎ迄、しっかりとコンクリートドリル(振動ドリル)の音が耳の直ぐ後ろから聞こえて来て、テレビのお喋りも、発表会のvideoのcheckもままならないし、それ以上に、仕事に疲れて、さあ、仮眠をしよう❢とする時に、頭に穴を開けられるような騒音には、参ってしまいます。
私の方がneurosisになってしまいそうです。
椎名町に逃げるにしても、腰痛ベッドもないし、パソコンの作業をするにも、動画の編集のsoftも入っていないので、ハイツのパソコンでなければ何も出来ないのですよ。
これで、12月の中旬まで、辛抱しろ❢❢と言うのは、そりゃあ、聞こえませぬ、伝兵衛さん・・・ですよ。困った❢❢



今日は、どうも震動と騒音で、夕方辺りから、心臓の調子が悪かったのですが、少し無理をして、ドリプリっ歩から、付き合いました‼
小雨の中を斉藤先生のお迎えっ歩に歩いていたら、やはり、少し気分が悪くなって吐き気がしてしまいました。軽く食事をし終えて、ハイツに戻って、パソコンのcheckをするために、パソコンの前に座っていたら、何時しか夢を見ていました。
尾骨の痛みで、目を覚ましてしまいましたが、‼
慌てて、パソコン周りの後片付けもそこそこにベッドに潜り込みましたが、何と、夢の続きを見たのですよ。極めて印象深い夢だったのですが、どんな夢かは覚えていません。(というか、文章にするのが難しいのです。)
信長の時には「人生僅か50年」だそうですが、当時に長生きをした人も多くいて、90歳超の人もそんなには珍しくはありませんでしたね。

私昨夜見た夢のthemaなのですが、私が自分のために人生を生きていた頃の夢です。「Mein junges Leben hat ein End」そのものの・・・。

私の人生を計算し易いように6の倍数として、約72年として・・・、2分割すると、36歳という節目が見えます。

つまり、36歳以降は、ご存知のように、音楽教室の先生として、子供を指導して生活しているのですが、36歳迄の人生は、私が生活していた場所で、6歳の倍数で人生を判断する事が出来ます。

最初の産まれたばかりの6年間は、今は亡き故郷の本家で祖母の元で生活をしていました。父が原爆で爆死してから、母が働きに出たからです。

次の小学生の6年間は、母が部屋を間借りしていた長崎と故郷の諫早を転々としていました。
中学生の時からは、祖母も伯母の家に引き取られて、ふる里の家には住む人もなくなったので、一応、長崎のアパートに定住して中学生、高校生と6年間を暮らしました。(但し、高校生の時には、腎臓結核で1年間の休学をしますので、time-lineは当然、1年のズレが生じます。)

次のintervalは東京とMünchenでの音楽の修行時代になります。音大入学の18歳から24歳なのですが、音大卒業は本来ならば、22歳になるのでしょうが、1年、予定よりも遅れて23歳、München留学がプラスされて、26歳(27歳)で、実に正確にintervalが続きます。

実際上は、27歳から29歳迄は、長崎でPianoの講師達へ音楽理論や教育理論生徒指導の方法論等々の指導をしながら、東京へ戻る準備をしていました。
次の29歳からは所謂、大学講師をしていました。数字上は、5×6の30歳から5×7の36歳迄ですが、大学講師は、35歳迄には辞めるので、37歳迄の3年間は、モラトリアムの時代になります。

・・等々、色々と書きましたが、ここまでの6年単位の生活の色々が、人生の半分・・、残りが現在迄の、しがない巷の音楽教室講師としての、半分の人生になるのですよ。

その後、周りの人達に説得されて、「人を教える」という、自分の性格に最も合わない職業を選択させられて、音楽教室の経営という、一番似合わないと思われる職業に従事しています。
つまり、教室の先生になって、子供達を指導するようになって、自分の人生の半分を既に使用しているのです。
ああ、無駄の積み重ねかな~、人生❢❢
10月20日 10:58



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10月20日 ·
ギャー‼ヨーグルトが爆発した‼
下着から髪の毛迄、グショグショだ‼シンクの上の収納も💀



大急ぎで洗濯機に放り込んで回してる最中です
10月20日 10:08

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10月20日 ·
ChaussonのPianoQuartettは大変な難曲で、You Tubeでもその演奏は余りヒットはしません。という事で、参考に値する曲も見当たらず、解釈も教室独自のものになりました。・・とは言っても何時もそうなのだから、何を今更・・という感じなのだけどね。





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10月20日 ·
この無伴奏のviolaは、芦塚先生の当初の予定では、YouTube等には、uploadはしない予定でしたが、会場で演奏をお聴きくださったお客さま方多くの人からご好評を頂いて、急遽uploadする事にしました。

芦塚先生が、最初、発表会の後で、この演奏を公開しない予定であった、理由なのですが、それを少し詳しくご説明したいと思います。

人間、誰しも、よく陥る事なのですが、普通の人達にとっては普通の事でも、「普通」という言葉尻に、一旦、引っ掛かってしまうと、それまで「何でもなかった事」が、「非常に難しい事」になってしまいます。

Hindemithのこの無伴奏のviolaの曲は、勿論、無調の曲になります。
日本の音楽大学では、弦楽器を学ぶ時には、平均率でしか、音楽を学ばないので、私達の弦オケのように、常に「pureSound」の響きを要求される事はないのですよ‼
(フル・オケは、平均率しか演奏出来ないので、通常は、平均率しか使用しません‼
という事で、通常に音楽を勉強する時や、演奏する時の問題は全くないのですがね⁉)

ですから、baroqueのVivaldiや、古典派のStamitzのようなperiodの演奏で、純正の響きを求められると、日本でのtraditionalと、西洋のstandardとぶつかってしまって、非常に音程を取る事が、難しく感じられてしまい、最悪の場合には、今回の梨紗のように、簡単なmelodieのpitchが取れなくなってしまい、Vivaldiの秋のsoloの部分の音程のように、通奏低音のcelloの取るFの上の、B♭とDの何でもない4度上の3和音の響きと、ユークリッドコンマのmelodieのpitchの土坪に嵌まってしまう事になります‼

現役の小学生達にとっては、単なる経験上の音の話なので、疑問に感じる事や、悩む事すらないのですが、そこの所が、抜けている場合には、論理的にそこを解釈しようとすると、とても、難しく困難な壁になります。

orchestraでsoloの演奏をする上では、音楽大学では学ばない多くの演奏の技術が必要になってきます。
Vitaliのchaconneの冒頭の1拍目の裏のF#の音は、g mollの導音の音になるので、soloの人は高めに演奏しなければなりません。しかし、orchestraではそのF#は、純性の響きを要求されるので、驚く程、F#を低く取らなければならないのです。

それに加えて、orchestraでsoloを演奏するためには、konsonanzの2octave上から、かなり高めにpitchを取る事が要求されます。それをsolo-pitchと呼び、Perlman先生等は、orchestraに対して、高音域では半音近く高く音を取る事もザラなのですよ。ザラね❢❢❢

それに対して、現代の曲では、調性がないので、導音処理の問題はなく、その純正の響きでの問題が少なく、solo-pitchの事だけが、演奏上の技術としては残って行きますので、絶対音感で演奏出来るHindemithは、梨紗に取っては、調のある古典の曲や、ロマン派の曲に比べても、とても正確な演奏をしていたのです。

いつも「私の教室の生徒達は近現代の曲が、どうして、こんなに上手なのだろうか⁉」と、芦塚先生を含めて、驚き、且つ、誉めていたのですが、今回はの発表会では、その絶対的音程が、結構、狂ってしまっていたので、梨紗の演奏が、芦塚先生に取っては、合格圏内には到達しなかったという事で、芦塚先生はこの曲をuploadはしない予定だったという事なのでした‼

しかし、今回の梨紗の課題は、現代の音楽を、別のapproachを、勉強させていて、一般的には、Hindemith等の曲は、その独特の演奏の仕方が、あまりよく知られてません。
という事で、発表会のギリギリ直前迄、梨紗のHindemithのlessonの課題としては、Schönbergの「月に憑かれたピエロ(Pierrot lunaire)」のようなmono-dramaの、monologueと、所謂、対話であるdialogueという表現の違いを、Hindemithの演奏を通じてlessonしていました‼

「分かりやすい」…という事は、その課題がある程度、表現できるようになったからだ・・という事で、急遽、音程等の評価から、音楽表現の評価に切り替えて、YouTubeにuploadをする事を合格にしました




演奏を聞きにいらした方から後日感想を聞きました。「ヴィオラっていうのはあんなに素晴らしい音色なんですね?私は現代曲はどうも好きになれなくて、今まで全然聞いたりしたことがなかったのだけど、初めて現代曲がこんなに素敵な物だと思いました。ヴィオラでしかも無伴奏というのもなかなか聞ける機会がないので、とても良い体験をさせていただきました‼」と、かなり感心していましたよ。梨紗さん、良かったね‼
10月21日 0:05



現代曲は嫌いだと言っている人から、お褒めの言葉を頂いたのは、とても素晴らしい事で、音楽家冥利に尽きますね‼🙌👦
10月21日 10:14


この演奏はなかなか恥ずかしい部分ばかりで恐縮な限りですが、これからも頑張ります…!
10月22日 3:59

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10月21日 ·
今日は、不思議な事に、斜め隣上のリニューアル工事は、部屋の解体作業が終わったらしく、ノイローゼになりそうな音は、そんなにしなかったので、発狂しなくて済みました‼
でも、お昼頃からは、20分起き、30分起きの頻尿に悩まされる事になりました。自分の体調の事なので、誰にも、文句の一言も言えませんが、一日中、ベッドに入ってからも…頻尿が続いてしまいました‼
そうは言っても、何とか眠ろうとしたのですが、またぞろ、午前中の4時前なのですが、寒くて目が覚めてしまいました‼どうも、温かな毛布一枚では無理なのかな⁉かと言っても、押し入れから、冬の布団を引っ張り出す気力はないし…、う~ん、どうすんべエ⁉
という事で、暖房を付けたままで、再度寝る事に、挑戦する事にしました‼ 
それにしても、心臓が圧迫された感じで、キリキリと痛い・・・って、心筋梗塞の症状では???





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10月22日 ·
以前から不思議に思っていたのではあるのだが、改めてコメントの不具合が携帯スマホでは直らないので、パソコンを開いてその同じコメントを見ていて、スマホに表示されているコメントとパソコン上のコメントが全く違っているのに気づいた。
自分が今現在、訂正しようと思ったスマホのコメント自体が、パソコン上では表示されて来ないのだよな!!

それは驚いてしまった。
どうすりゃあ、良いんだ??
勿論、その逆もあって、パソコンで表示されているコメントの多くが、スマホの画面では、表示されないのだが・・・??
表示されるまでの、timingの問題なのかな⁉とも、思って、一日放置してみたりもしてみたのだが、どうやら、そういった単純な原因ではなさそうだ‼

パソコンとスマホは同機しているのでは、なかったのかな??
パソコンとスマホは、クローンなのではないのかな??

ならば、どちらかに、どちらかが、表示されない・・って、そんな事って、ありえ~るの??
ありえ~ないでしょう!!




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10月22日 ·
今日…というか、今は深夜の3時半を過ぎた所なのだが、久しぶりに、入眠が出来ない‼
別に、この2週間と、生活が変わった分けでもないし、ドリプリの散歩をサボって、運動不足に陥った分けでもないのだが、何となく寝逸れてしまった😵💧

私的には、その原因は、単に室内の暖房の性ではないかと思っているのだが、そこは定かではない‼
オケ練習のための、朝の9時起床も、結構、pressureの一つかも知れないしネ?
明日は、発表会での出来具合を参考にして、八千代の演奏会への生徒達の「立て直し」なので、集中力と体力が要求される勝負なので、睡眠不足での、体力不足のオケの指導はしたくないのだがネ?

何時も、言っている事なのだが、こう言う時には、カウチベッドで、頭の位置を少し高くして、体をrelaxさせて、(無理をして眠るのではなく、体を休めていれば、自然に眠りにつけるのだけど、カウチがまだ車の中に積んだままで、ハイツには辿り着いていないのだよな⁉

実は、今、普段に座っているパソコン用の事務用の椅子は、何と、オットマン内蔵のカウチにもなる高性能のパソコン椅子なのだが、チョッと小振り過ぎて、私の体型とは合わないので、殆ど使った事はない‼お尻の位置が微妙に合わないのだよ‼ それに加えて、椅子の座り心地が、少し硬すぎるので、長時間、作業をしていると、尾骨が痛くなってしまのだよ。

昔々、コストコで、実際に、展示品に座って買ったエクゼチェアーは、座り心地がとても良く、気に入って、2、3年以上、使っていたのだが、足が折れてしまい、もう一度、同じ椅子を買い直したのだが、半年を待たずして、足が折れてしまった‼ まあ、対荷重overの話なのだろうけがね⁉

その次に買った椅子は、微妙に軸の中心がずれていて、仕事でパソコンの作業のような長時間座っていると、腰痛を引き起こしてしまうので、ユーカリヶ丘教室に持って行った‼
ユーカリには、パソコン作業のように長時間、座ってしなければならない作業はないからね⁉

その次が、今座っているエクゼチェアなのだが、椅子の座り心地というか、クッションが良くないので、長時間の作業になると、尾骨が痛くなってしまうので、仕方がないので、ドーナツ型のクッションを買って来て、敷いているのだが、何ともはや、不安定で、よろしくない⁉💀

環動脈の手術から退院した時には、折り畳み式のガッチリしたカウチを買ったのだが、リハビリの期間が、終わったと思われた後には、事務所の作業の邪魔という事で、大ごみに出されてしまった‼ 超、ショックなのだがね??

だからカウチ自体も2台目なのだよ‼
今回は病気のリハビリというよりも、体調不良や入眠障害という事での、急遽の購入になったのですがね。




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10月22日 ·
学校などの試験では「間違えた場合」にはどのような間違いであったとしても「 間違いは、間違い」として 処理されてしまいます。

でも、芦塚音楽教室の「芦塚メトード」では、「間違い」は、その内容に伴って、幾つものpatternに分類され、絶対にやってはいけない間違いと、差ほど深刻ではない、(無視しても良い・・)間違い、更に、その「間違い」をした事で、多くの事が学べる「間違い」・・に細かく分類されて行きます。

日本の学校教育に於いては、高校、それ以上に、大学ですら、教室の「扱い」とは真逆で、判断力や理解力の比重は、然程ではなく、単なる記憶力による評価が殆どになります。私の場合には、記憶力が高校生の時から既に低下しているので、人生を記憶に頼る事は絶対にしません。だって、パソコンがあって、スマホがあるのなら、記憶なんて、そんな、あやふやなものは、必要はないでしょう??記憶が必要なのは楽譜を覚える時だけです。楽譜は覚える必要はありません。自然に目から入って来るからね??だって、顕微鏡下の世界迄、しっかりとはっきりと理解をするという事は、覚えるという事以前の話なのでね。

これは、学校教育の問題として、捉えられがちなので、教室の直接の問題として、音楽という立場に還元してお話をする事にします。
つまり、学校で言う所の記憶力は、(音楽の世界では)暗譜力という事になります‼

暗譜力の話となると、当然、ここでは、教室の骨頂である「うる覚え」の話しになるはずなのですが、今日は、そうは問屋が卸しません‼

今回の発表会への、rehearsal の後のオケ練習の日ですが、芦塚先生の指示では、子供達だけで(・・先生が指摘をする事は無しにして・・)rehearsal のvideoを子供達が全員で見て、先ずは「自分の暗譜の間違い」をcheckする・・という事を、生徒達全員でやりました。

教室のsystem(=芦塚メトード)に、乗って暗譜や、練習そのものをやっている生徒達と、まだ教室のsystemに乗れなくって、暗譜が苦手なままの子供達は、暗譜の間違いでは、一人ひとりが独自の間違いを犯す分けではなく、楽譜に対して全く同じように、暗譜で引っ掛かってしまいます。その状況の最たるものは、暗譜したと思い込んでいる後の状態が、どういう風か・・という事なのです。

つまり、暗譜が苦手で、弱い生徒は、(楽譜を見ながら自分のpartをcheckしているのに、)自分の間違いを見つける事が、出来ません。
つまり、自分が誤った音を弾いているのに、それに、気がつかないのです。
他の生徒から、誤り箇所を指摘されても、分からないのです。

これは、大変な問題であり、「自分の誤りを気付く事が出来なければ、誤りを直す事」は出来ないのです。
暗譜の強い子供達は、自分のpartだけではなく、他の人達のmissも同時に探してしまいます。

この違いは、何処から来るのでしょうか⁉
答は極めて簡単です。
誤りの音符(score)を見ていても、音が聴こえていないからです。勿論、絶対音感は持っていても・・です。それがうまく機能していないのです。

では、どのようにすれば、音符の音が聴こえて来るようになるのでしょうか
それをクソ真面目に勉強させると、大変辛い、所謂、お勉強をしなければなりません。ますます、覚える事が苦手になってしまいます。苦手意識のある生徒達はこの段階で、間違えた指導を受けた生徒達なのです。

私達の教室では、そういった厳しい、辛い勉強は生徒にはさせる事はありません。
生徒が、自分の劣っている所を、楽しく、feedbackして、そのcomplexをclear出来るように、暗譜の勉強を始めたばかりの、年下の生徒の指導係をさせて、指導する事によって、暗譜のTechnikの方法を学ぶ事にしています。私達の教室の「指導する事は学ぶ事である」という原則からの方法論になります。

つまり、ここで、先程の、顕微鏡下の世界のお話になります。
暗譜のために暗譜をするのなら、それは無駄なので、譜面を見て演奏すれば良いのです。とは言っても芦塚先生は、「譜面を見て演奏する事」を否定している分けではありません。
今度の秋の発表会のorchestraの部の時の話なのですが、Vivaldi d moll doppel Op.3Nr.11の指揮では、芦塚先生はメガネを掛けて舞台に出るのを忘れて、scoreが全く見えなかったので、scoreの譜めくりは只のperformanceだそうです。つまり、めくった先も見えていない。

次の事故は、Haydnのcello-concertoの時です。今度は、芦塚先生はちゃんとメガネを掛けて舞台に出たのですが、譜面台上のscoreを見て見ると、生徒達が演奏しているpart譜の楽譜を違う出版社のscoreです。練習の時にも、何度も注意はしていたのですが、楽譜を回収していなかったので、本番の時にやってしまいました。斉藤先生が楽譜を探しに行こうとしたのですが、舞台の進行が止まってしまうので、芦塚先生は楽譜を探しに行く事を差し止めました。

芦塚先生は、どっちみち、楽譜は暗譜しているので、見る必要はないからです。
では、なんで楽譜を譜面台に置いているの??・・・それは、生徒達にどう、einsatzを出すか??どのように指揮をするか??そう言った練習の時に約束をした事が細かく書かれているからです。
そう言ったeinsatzは、毎回group毎に違うので、その都度の約束毎になるからです。でも、基本的にはその約束毎は覚えているので、問題はないのです。

このお話はうる覚え等のお話でも同じです。
よく訓練された生徒は、自分の暗譜で「何処がうる覚えであるか」が理解出来ています。
しかし、実際には、音楽を弾けてはいても、指が覚えていたり、何となく弾けているのも、指導する側にとっては、困りものですが、その曖昧さのcheckは、いとも簡単です‼
曖昧に覚えている場合には、(演奏するtempoで、)頭の中で写真で楽譜を撮影したように、影像として、思い出す事は出来ないからです‼

学校教育等の場合には、一般的に、覚える場合には、声に出したり、書いたりして覚えるのが普通なのですが、この方法が暗譜には、一番、効率が悪いのです。
(音楽の場合には、それはドレミで歌って覚えたり、五線紙に音符を書いて覚える・・という事になります。)他所の音楽教室の発表会等で、子供が演奏中にド忘れをすると、何度も同じ所を弾き直して、とどのつまり、最初から弾き直すのが常です。

私達の教室では、弾き直しは、絶対的に、許されません。
一般的にも、proの音楽の世界の場合には、弾き直す事は、絶対的に認められていないのですが、音楽教室では、そこの指導の仕方が難しく、先生達にとっても、苦手意識のある部分なので、色々な発表会に行くと、そう言った弾き直しの例を普通に頻繁に見る事が出来ます。

正しくは、覚えていない箇所を飛ばして、ちゃんと覚えている、その次の小節から弾き始めなければならないのですが、残念ながら日本の音楽教育では、そういった方法論は、学ぶ事は出来ません。

どういう風に、教育をすれば、そういう事が出来る用になるのかは、一般的には知られてはいなし、音楽教育の基本的な考え方が違うので、私達の教室のmethodeを真似しようと思っても、中々、上手く行かないのが常なのだからです。

教室では、orchestraや室内楽等、複数の人達とensembleを勉強しているので、間違えた場合には、orchestraや室内楽は止まらないので、自分の弾ける所迄、飛んで合わせるのが常識なのです。
でも、この暗譜の仕方は、ensembleでしか学べない・・と思っている人も多いのですが、ensembleを一生懸命にやったとしても、そう言った暗譜が出来る分けではありません。
(つまり、教室の常識は、日本の音楽教育の非常識になります。もっとも、日本の音楽教育の常識は世界の音楽教育の非常識になるのですがね・・??)

芦塚メトードは、35年前には、色々な会社が入っていたので、極秘のmethodeだったのですが、もう、芦塚先生も歳を取ってしまったので、別に極秘のmethodeにするつもりはないそうです。

芦塚先生が、Pianoやorchestraを指導している時に、研修というか、聴講に来た先生達も、芦塚先生の指導のpointを、誰も気が付かないのです。
しかし、芦塚先生のlessonでは、Pianoやviolinの指導と一緒に、普通に暗譜の訓練がなされているのですよ。

Pianoのlessonの時には、他所の教室と違って、先生と生徒が同じ楽譜で学習します。春秋社版の楽譜を使用して、lessonをしていたら、年度に寄って、版が改定されていて、楽譜の段の位置や、Pageを捲る位置、slurやstaccato等の違いが、あって、lessonが上手く行かなくって、結局、一番綺麗な生徒の楽譜を先生用にコピーさせて、lessonをした事がありました。
その点、Henle版やPeters版は100年前から変わらないので、まあ、楽ですがね。
生徒にlessonをする時には、勿論、途中でstopさせて、lessonをしますが、「では、**から弾いて❢」という時の「**」が、芦塚メトードの秘術なのですよ。
「**」には、幾つの可能性があるのでしょうか??
私のlessonやオケの練習では、「時短」が「命」なので、いきなり、私の場合には、violaのpartを(Pianoでは、Baßのmelodieを)単旋律で弾き初めます。
慣れて来ると、1拍、2拍後には、全員入って来ますよ。
Pianoのlessonでは、楽譜が同じなので、「2段目の2小節目から・・❢」と言って、弾き始める事もよくあります。同様にオケの場合も、練習番号を細かく付けます。一般の楽譜では、練習番号は、校訂者の情緒でつけるので、実際の練習では全く役に立ちません。私達の教室では、練習番号は、ツリーの構造として付けます。先ず、一番大きな分類、1部と2部と再現部の3部構造ですが、Beethoven等の場合には、Codaが非常に大きく、4部構成になっている場合も多いのです。この部分の探し方は意図も簡単で、kadenz(所謂、終止句を探せば良いだけです。)更に、1部で、終止句を探して行きます。殆どの曲の場合は、ここまでで、良いのですが、大曲になると、更に、・・・と、同様な作業が続きます。

この練習番号付けの良い所は、オケ練習で生徒達全員に宿題にしても、回答が同じになる・・という事です。
しかも、これは音楽の形式学の構造分析の課題と同じなので、曲の構造が理解出来るようになる・・と言う事なのです。芦塚メトードは、無駄な事は一切やらない・・・一石二鳥ではなく、一石、三鳥も、四鳥にもする・・という効率優先の世界なのです。repeatも単に同じrepeatするのではなく、構造的にどのように変化しているかも、同時に理解する事が出来るのですよ。

教室の発表会の時に、soloの生徒が誤って他の場所に飛んでしまった時に、orchestra全体が、soloの子供が間違えたその瞬間(瞬時)に子供に合わせて、飛んで演奏した・・という事がありましたが、それをsoloを演奏する生徒への思いやりと勘違いをしていた人もいましたが、実はそれは、soloの生徒に対しての思いやりではないのです。
それは、単に教室の暗譜のTechnikのperformanceに過ぎないのです。
orchestraとしては、超、格好は良いのだけど、そのsoloを演奏する生徒には、何の教育上の効果も残らないのです。

一般へのperformanceは兎も角として、教室のorchestraでは、soloの生徒が間違えた場合には、先ずは、コンマスの生徒が、soloのpartを演奏して、正しい譜面をsoloの生徒にsuggestします。子供が自分の間違いに気づいて、戻った瞬間に、concertmasterは、自分の本来のpartに戻ります。
Pianoの伴奏の場合も、左手のpartはそのままに、右手でsoloのpartを奏く事で、soloの生徒が正しい演奏へ戻れるようにsuggestをします。
それが、教室としての、通常の対応です。

覚えるという事には、色々な方法があります。所謂、五感による記憶法なのです。
芦塚メトードでは、年齢が未だ低い場合は、音符を覚えさせるための勉強では、形や色で覚える事から始めます。
色は一番記憶に留まり易いので、楽譜を色分けして覚えるのは、とても効率が良い簡単で、子供の脳を活性化させる覚え方になります。
覚えるという事をより確実にして行くためには、覚える事は、覚え方の方法論を増やすと、より確実になります。
仏教的な解釈では、五味五感を使用していきます。
つまり、目(=所謂、楽譜を目で覚える、という事なのですが、単純にモノクロの楽譜と蛍光ペン等で、色の付いた楽譜では、覚える基準が事なります。)、耳(音を聴いて覚える)、鼻(匂いなのですが、音楽での匂いとはどういう事なのかな? 歌の場合には、音を体に響かせるために、先ずは鼻腔の中で響かせて、暫時、頭骨や、段々に体全体に響かせて行きます。ですから、歌の人達が音楽を感じるのは、触感ではなく、寧ろ鼻なのですがね??これは超、こじつけかな??)、触感(これは所謂、Pianoや弦楽器の「指で覚える」という事ですよね)、味覚(これは音楽にはないので口で歌って・・という事にします。)・・これで五感となります。匂いもあったはずなのですが、今は思い出せません。
そのうちに思い出したら、追記して起きます。




学校でお勉強中の子供達は、間違う事を忌み嫌います。
しかし、エジソンのお話で、色々な方法を試みていて、また、失敗をした時に、所員が「先生、また失敗ですよね?」と言ったら、エジソンが「このやり方では、出来ない、という事が分かったわけなのだから、この失敗は失敗ではなく、出来ないという事が分かったという事なのだ!」とお説教をした・・という話です。
でも、本当は、色々な研究はその失敗の中から産まれる事が殆どなのです。何故??って・・・??正攻法で、新しい革命的、革新的な思考法は出来ないからなのですよ。
私は生徒達には、「発表会は次の演奏会のrehearsal だ!」と指導しています。
発表会が終わって、その演奏をcheckしながら、何処がミスったのか??何処が上手く行かなかったのか??・・・という事を、動画の画面上でcheckして行きます。本番では上手く行ったと思った所でも、改めて、お客様の目線で見て見ると、「え~つ??」と思える事がよくあります。
私の場合には、上手に弾けていたとしても、演奏のstyleが美しくないと、それは、単に偶然に上手く弾けたに過ぎないと解釈します。
逆の場合もあって、上手く弾けてなかったとしても、formationが美しければ、高評価を出す事が多いのです。
10月24日 15:35



お誕生日おめでとうございます。🙌
10月24日 15:44



またまた、本文の文章が入力出来なくなってしまいました。ハテサテ如何したものか??
Facebookにでも、問い合わせるか???
まあ、無駄だろうけれど・・・
10月24日 18:44

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10月23日 ·
日本の封建制、所謂、世襲制度は、徳川家康が作ったもので、徳川幕府を維持していくためのものでした。(このお話はhomepageにかなり詳しく書いて居ます。)このお話を蒸し返すのは、今現代の日本の音楽社会の発展を妨げている音楽社会の封建制度、親方日の丸等々のお話を蒸し返すためです。

そもそも、日本には江戸時代に入る迄には封建制度はありませんでした。(「無かった❢」とは確かに言い難いものがありますが、それはこんにちのようなカッコとした封建制度ではなく、もっと曖昧なものだからです。

封建制度が確立するのは、戦国時代が終わってからのお話になります。
群雄割拠の戦国時代を生き残って行くため、勝ち残って行くため・・には、家来達が優れた脳力を持っている事が要なので、優れた人材の育成と登用が、勝ち残り戦の生命線でした。

世に埋もれている優れた人材を探し出し、見つけ出して、その人材を自分のために、如何に活用出来るか・・否かが、乱世を勝ち残って行くための唯一の方法でした。

しかし、戦国乱世を勝ち進んで、日本という国の中で頂点を極めると、その頂点の地位を、自分の孫子の代まで、存続させるためには、今度は、その優れた人材は、自分の子孫の立場を脅かすかも知れない・・という意味で、とても邪魔な事になってしまいます。
という事で、優れた為政者であるほど、自分の周りに居た人材を自分の近くから、遠ざける事になります。

最後迄、自分に歯向かい戦って来た大大名は、なるべく自分の城から遠い地に領土替えをさせます。そして、その周りを、自分の腹心の部下であった、優れた武将達に守らせる事にします。トドのつまりは、自分に歯向かった大大名と、有能な自分の腹心のある部下を遠ざけて、家名の安泰を図ります。
勿論、腹心の部下であれば、主君のそう言った意図は、暗黙の了解で、自分が不要の者として、滅ぼされないためにも、忠義を尽くす事になります。

権力を引続ぐ中央政府である江戸城の周りには、近親縁者を布陣して、守りを固めます。
そして、世襲のための、思考方法として、儒教の思想を、武家社会だけではなく、民百姓に至る迄、或いは、総てのジャンルに、徳川幕府が採用した世襲のためのシステムや考え方を、徹底的に、その遺伝子の中に組み込まれる迄、教え込んで行きます。

まかり間違って、自分の子供や孫が、大した実力も身に付かず、平々凡々な人間として、生まれ育ったとしても、そう言った中でも、確実に、自分の子供達に、その権力を引き継がさせるための、世襲制度を徹底したものにして行く事と、その自分の子供や孫に仕える人材も、なるべく、程々の人間である事が、世襲の為の、必須の条件となります。

自分の子々孫々の子供達が全く為政に対して、無能な存在であったとしても、国を経営していくための、予め敷き詰めたレールの上だけを、歩いて、定められたルールを逸脱しないで、やるならば、殆どの破綻は起きないように、システムを立ち上げて、また、もう一つの外部からのapproachによって、世襲の制度が壊される事のないように、新しい事、有能な人材は、絶対に認めないようにして、定められた範例だけを良しとする、全く、今日の日本社会そのもののような、江戸幕府の社会を、家康の遺伝子である子々孫々を守り抜くために、system化して、作り上げました。

つまり、今日、我々が常に生活をしている社会環境は、400年前に徳川家康が自分の遺伝子を後世に残すために、作り上げた世襲制度に寄るものなのです。
現代日本の根底を成す、日本人の考え方、感性、そのものが、400年も昔に、たったひとりの人間である徳川家康に寄って作り上げられた社会の考え方なのです。

その日本人特有の封建時代の制度に寄る、思考patternは、大政奉還の時に、地方の貧しい藩の、経済を受け継ぐ事の許されない次男、三男の手によって、破られた事がありますが、それは、歴史的には、唯一無二の出来事になります。

音楽に於いても、然り・・であって、明治時代に日本に西洋の音楽が明治政府に寄って導入されたのは、富国強兵のスローガンの元に、強い軍隊を作る目的で、「音楽事始め」として、西洋の軍隊の音楽が日本に導入されたのです。つまり、軍楽隊を作る事、それが「音楽事始め」で、西洋の音楽を日本に取り入れた条件の総てになります。

軍隊の将校の育成と同じ理念で、強い軍隊を作るためのprogramとして、その時の理念も同じで、トップを育成するのではなく、全体を育成するためのprogramとして、音楽のmethodeが導入されたのです。
封建性そのものが、家元性そのものでもあったのです。

日本の家元制度では、血の繋がり(血縁)と言う事が要求される場合が多いのです。
歌舞伎やお華の世界のように、血縁を通して家元が成り立っている場合と、弟子に受け継がれて行く家元制度の場合があります。

日本の音楽教育の根幹をなす門下生としての制度も、学校という家元、教授による家元制度、という風に解釈しても良いと思われます。

何故、そういう話をするのか??・・というとヨーロッパの場合の門下の制度は、masterの制度という歴史的な背景(ギルドの制度)から、日本の世襲を前提とした家元制度とは大きくその形が異るからです。

ヨーロッパの場合には、masterという資格(❢)を取るためには、日本同様にmasterの元に弟子入りをして、修行し、masterという地位をえます。
日本で言う所の暖簾分けですが、masterというのは謂わばlicenseなので、日本で言う所の暖簾分けとは、考え方が根本的に違います。

しかも、ヨーロッパの場合には、色々なmasterの元を、遍歴を重ねるという事で、修行者は複数のmasterの元に修行を積み重ねる事になります。

つまり、日本の場合には、一人のmasterで修行をして、そのmasterの弟子という地位に甘んじるのですが、ヨーロッパの場合には、複数のmasterに師事をする事になるので、誰の弟子とは、言い難いものがあります。
そこが日本とヨーロッパの大きな違いになるのです。

つまり、日本で言う所の家元制度はヨーロッパのmasterの制度では成り立たないのですよ❢❢
日本人の音楽家達は、ヨーロッパに留学したり、コンクールを受けた後で、それ等を自分の履歴に残す時に、誰それ門下とか、何処の大学出身とかをstatusにしますが、誰それの門下生という事が、その人本人のstatusになり得るというのは、ヨーロッパの人達には、理解出来ない事なのです。
何故ならば、i dentityを自らの血を流しながら得て来たヨーロッパ人に取っては、親方日の丸(為政者から与えられた地位)の発想自体がないのですよ。

・・だから、日本で活躍している人達が自分の後ろ盾を云々する度に、自分自身のi dentityを信じている大人の人間であるヨーロッパの人達の演奏家の違いを見て、lächerlichに感じてしまいます。



lächerlichと言えば、日本人には、基本的に親方日の丸の発想があります。巷の音楽教室で頭角を現すと、芸大の教授や某国立orchestraの演奏家に師事して、留学をしてコンクールに通って演奏家になるという私が音楽の道に進んだ頃の50年以上前から延々と脈々と続いている迷信です。
教室でも最初は、音大を目指す人達はその音大へ進学をさせる事にしていたのですが、教室で頭角を現わした生徒達への、他からの引き抜きが酷くて、優秀な生徒達は全員、そう言った教授達の元に引っこ抜きを掛けられてしまいました。可哀想なのは、親は、役職で先生を評価するので、日本で一番と言われる先生に師事する事が出来て、頗る満足なのですが、生徒は、何を指導して貰えるか??で、相手の先生の判断をします。ですから、lessonを見学に行っただけで、その先生の実力を見抜く事が出来るのです。でも、親には、紹介してくれた人への柵があるので、一度見学に行ったら、「その先生には師事しません。」とは言えないのですよね。

という事で、余りにも可哀想なので、日本の音楽大学をやめて、直接、高校から留学させる事にしました。でも、残念ながら、ヨーロッパにも、今は良い先生は残って居ないのですよ。
ついでに、教室の子供達をコンクールに出して、巷の音楽教室との教室の水準の違いをappealしようと思ったのですが、これが困った事に、コンクールに合格するのは、超有名な指導者の先生と、私だけなのですが、問題は、音楽の追求の要の所を間違えて把握してしまうのですよ。
それでは、お鼻が高くなるだけで、音楽家(演奏家)になる道はもっと遠くなってしまいます。
結局の所は、揺り籠から墓場迄・・しか、ないのかね~え??
10月24日 7:16




発表会の延長上でコンクールを受けるのだよ❢❢ 
コンクールなんて、最初から当落する人が決まっているのだから・・
・・と何度も忠告していたのですが、それでも、コンクールの上位入賞を繰り返している間に、音楽へのapproachがおかしくなってしまったのですよ。
本当の演奏家を育てたいという欲望にかられて、早35年、日本のドン・キホーテは、もう、そろそろ、挫折してしまいました。
やりたい事があるのなら、その夢を叶えてあげる事ぐらいは、未だ力は残って居るようですがね。
でも、鬱々が演奏出来るような、日本人の演奏家を育てる事は、やはり、ドン・キホーテなのでしょうかね??
梨紗さんはちょうど、芸大とN響と私個人との板挟みになっている分けだから、どう思っているのかね??生徒の立場から聞いてみたいもんだ❢❢
10月23日 17:19



コンクールでは全国大会と地方予選があり、勿論、勝ち抜きになります。これで非常に問題なのは、全国levelのconcoursの審査員の判断基準と地方のconcoursの審査員の判断基準が著しく異なる事です。
ですから、以前、concoursに出していた生徒達には、地方予選の曲と、approachのpointと、全国大会でのapproachのpoint、つまり、指導の仕方をまるっきり変えて、concoursに出場させていました。言い換えると、地方の予選では審査する審査員のlevelに合わせて曲を作って行かないといけないのです。
昔々の事なのですが、千葉の新聞社主催のPianoのコンクールが開催された事がありました。根っからコンクールの審査なんか信じていないので、当時、小学校4年生の女の子に、concoursなんていうものは、受ける前から合否、当落が決まっているのだから、そういった事を気にしないで、発表会の延長として受けるのならば、良いけれど・・という事で、評価はお母様が当日、会場で隠撮をするという事で受けたのですが、本人は満足の行く演奏だったのに、関わらず、落ちてしまいました。・・という事で、お母様の録音したカセットのtapeを聴いて、流石に驚いてしまいました。約20名の出演者の中で、ノンミスで完璧に弾けた生徒は僅か4名(その内の一人が教室からの出演者でした。)驚いたのは、その4名が全て不合格だったのです。次のlevelは、ミスタッチが、3,4箇所もある生徒達で、その中の生徒から殆どの合格者が出ていました。次は、何と!!!concoursであるにも関わらず、途中で止まったり、弾き直しをした生徒、驚く事に、約半数の生徒達がこれに該当し、しかも、その中から、2,3名の合格者が出ていた事です。
余りにも、バカバカしいので、私は放ったらかしていたのですが、流石に2,3日後の千葉の新聞にそのconcoursの批判の文章が載っていて、千葉の大御所のPianoの先生の生徒さんだけが、合格していたのだそうです。流石に、次の年には、concoursに受験をする生徒が殆どいなくて、その次の年には、審査員をワザワザ東京から連れて来るという事をしていたようですが、もう、時既に遅く、3,4年後には、そのconcoursはなくなってしまいました。勿論、concoursなんて、なくなっても、どうでも良いのですが、問題は、そういったconcoursで正しい評価を受ける事が出来なかったその生徒は、音楽への興味を失ってしまい、勿論、音楽は大学生で、教室を離れる迄は続けたのですが、音楽への道は諦めてしまったのですよ。つまり、大人の社会が子供の音楽への夢を潰したひつつの例なのです。音楽はOlympicではありません。競技でもないのです。concoursは審査員の力量で決まるのですが、Tchaikovskyconcoursであっても、その優勝者の大半は、音楽の演奏家の世界にはいないのですよ。そういうのをconcours-pianistとか、concours-violinistという呼び方をするのです。Technikだけあって、心が無い・・という意味ですよ。これは辞書にも載っている単語なのですよ!!ハイ!
10月23日 17:54


いずれにしても、音大の先生の所の生徒はconcoursに入賞すると、留学と将来に続きいて行くようですが、教室の生徒はconcoursに入賞すると、仮に留学したとしても、音楽の道には入らないで、趣味になってしまうようです。
「どうして??」と言われても、おりゃあ、分からんよ❢❢ その時点では、もう既に、私とは無関係の話しなのでね??
ひょっとしたら、私に相談してくれれば、何かadvice出来たかも知れないけれどね??
自分の方から、私の元を去ったのに、何時の間にか私に見捨てられたような気になってしまって、もう、相談に来る事はないのだよな???
10月23日 19:54


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10月23日 ·
昨夜は、台風の中を、車で湾岸を走って事務所迄帰って来ました。とは言っても、台風はチョッと強めのそよ風ぐらいでしたがね⁉
バスや新幹線が欠航になったので、シオンちゃんが椎名町にお泊まりになったので、ドルちゃん、プリちゃんは、超ご機嫌でした‼
朝はドルっ歩にも、一緒に行ったらしいので、良かったネ?
写真は撮ったのかな⁉
私の方は、昨夜から、定形で寝て、定形で朝早く起きて、寝たり起きたりを繰り返しながら、仕事をドンドコ済ませているのですが、それにしては、疲れが抜けなくって、どうも仕事モードにはならないので、仕事が捗らなくて、困っている所です。
それならそれで、ちゃんと一度ぐっすりと眠れると良いのですが、それも出来ないので困っているのです。所謂、入眠障害なのでね???
夕方に掛けて、段々疲れが酷くなって来て、ベッドに横になっても、疲れが取れなくって、イライラしてしまいます。
だから、そのイライラに従って、起きていても、疲れが酷くて、起きていられません‼
どうすりゃぁ、良いのかね??
起きても無理で、眠ることも出来ない・・それこそ、有漏路(うろじ)より 無漏路(むろじ)へ帰る一休み(ひとやすみ)・・かいな??




またまた、自家製ヨーグルトが爆発した‼
ペットボトルの瓶がパンパンに膨れ上がっていたので、多分そういうこともあるのかな??・・と思って、シンクの上で蓋を開けたのは、良いのだけどね??
10月24日 6:28



折角、シンクの上で蓋を開けたのだが、前回同様に、1、2メーターも飛んでいる💀‼手前の白い点もヨーグルトの飛んだ痕です。瓶にヨーグルトを入れる時には、5㌢程、ゆとりを作って開けていたのですがね??一瞬(2,3時間)で満タンになってしまいました。
10月24日 6:28



ありがとうございました。
無事帰れそうです。
久々のオケも楽しかったです。
10月23日 16:25



ところで、先生は明日誕生日ですよねえ?facebookのお誕生日お知らせはしない設定になってるのですよね?誰も気付いてくれませんよ~?
10月23日 19:30



有り難う御座います❢・・といちいち書くのが、とても面倒くさいのでネ??
10月24日 6:29



お誕生日おめでとうございます🎂
 皆さんと楽しいお誕生日を、そしてこれからの1年が佳き年でありますように
10月24日 0:24


有り難う御座います❢❢ アハッ!
10月24日 6:30



今日は、夜は椎名町の事務所には行かない事になっているのだけど、(routineでね)一人で寿司屋でも行くのか、夜弁当で済ますのか・・だが、いずれにしても、誕生日・・という事で美味しい食べ物がある分けではないし、まあ・・通常の火曜日の夜だよな??
食い物は買いに行っていないので、またまた、魚河岸かいな??チョッと、今月は魚河岸には、通い過ぎだよな?? ひょっとして、一週間に3回も・・??
10月24日 18:29




そりゃ、そうと、誕生日と言えば、そろそろ誰かの誕生日で、クリスマス会だよな??
てえへんだ❢❢ 八千代と平行で曲決めと車の車種を決めなければ・・・❢❢
横幅188は車庫から出せるのかいな??おお、怖わ・・❢❢

https://www.youtube.com/watch?v=oL_vXaeiP8Y



Bach - Cantate BWV 142 - Uns ist ein Kind geboren

Jean-Sébastien Bach - Johann Sebastian…


10月24日 18:31


this cantata is not from Bach, it was probably composed by Johann Kuhnau.
10月24日 18:26



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10月24日
お誕生日おめでとうございます


有り難う御座います❢❢
でも、寿司もWineもない誕生日で、パソコンにしがみついて腰痛が起こりそうなのに、辛抱して仕事をしている誕生日です。
10月24日 22:35



さて、madonnaでも飲むか??と思ったら、もう、最後の1本を、半分程飲んでしまっている❢❢O~❢❢ミゼラブル・・・❢❢❢
10月24日 23:26



じゃあ、madonna飲むのやめて、もう、飽きたけれど、魚河岸でも今から行くか??
10月24日 23:38



いまもあの江古田駅南口のお寿司やさんはあるんですね。外はかなり冷え込むのでは…お気を付けて🍣
10月25日 0:21



発表会直前の連休の時には、カウンターの一席も空いていない程の盛況ですよ‼一人で飲みに行く時には、入り口の一番近くの、カウンターのいじけ席にひっそりと座って、黙々と、二合の熱燗とつまりをパクついています‼
10月27日 4:07


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10月24日 ·
「このお話は前のお話からの続きになります。」
日本の音楽教育に限らず、教育そのものは、富国強兵を目的としたものです。
将校教育の基本は、優れた技能と同様に、上からの命令を忠実に実行する事にあります。だから、orchestraのような集団行動を伴うものは、一部の乱れも許されない、軍隊か?orchestraか?という事になります。
格子縞軍団の軍団は当然、軍隊の事なのですから、芦塚児童室内合奏団の団も軍隊の意味で、ドイツ語ではArmeeと訳します。
つまり、学校の制服も、女の子のセーラー服は海軍の服だし、男の子の服は陸軍の服って、知っていた??ドイツ留学中に、日本の子供達の登校風景を見ていたドイツ人が、日本は子供の内から、軍隊に属しているのか??と質問して来たので、一体何の事かいな??と思って、説明を聞いて驚いてしまいました。世界の目では日本の小、中学校の制服は、軍隊の幼年学校に見えるのですよ。(何時も、言っている「音楽事始め」はそういう目的で作られたのです。)ですから、日本の教育の骨子は、先生の意見を忠実に守る事で、自分の意見を持たない、ロボットのような生徒が理想的な学生という事になります。
だから、学校が決めた事以外をしようとすると、軋轢が起こるのですよ。
それは、教育の方針から当然の事なのです。

おかしいな~ぁ??以前(昔々)、homepageか、Facebookに、社会のピラミッド型の構造式のお話をした・・と思ったのだが、探しても見つからないのだよな~ぁ??
一体、何処に書いたのだろうか??
まあ、気長に探して見るので、期待しないで、お待ちください。

趣味で楽しく野球をやっている人と、甲子園を目指して学校に行く人、甲子園というよりも、proの野球選手を目指して、agentの目に留まる事を期待して、甲子園に出場する人、そう言った人達は、野球に対する目的で、その人の技術のlevelも、野球に対しての、ものの考え方も全く違う。

学校でのお勉強は、何かしらのproを目指すものではなく、教養の範囲を越すと、「学校の授業を優先しろ❢❢」と、突然に、ジャマー( jamming)が入る。

またまた、中、高生ぐらいになって、教室のリーダー的な存在になって来ると、あっちこっちからの、余計なお世話の、引っこ抜きが入って来る。
「proの音楽家になりたければ、巷の音楽教室にいたらダメよ❢❢私が芸大の先生(N響の演奏家)を紹介するから、一緒に行きましょうヨ!」
これは、遣りて婆アの本人は、親切心だと思っているのだから、余計始末に負えない❢❢
「芸大の先生やプロの演奏家」と言われて、私が「私の方が・・、そういった先生達よりも・・」って、中々言えないものなのでね。親方日の丸を信じるか、私の指導を信じるかの話なので、私にその権限はないからね???

これは女の子の、お見合いのお話と同じで、「先生のlessonを、見学に行って、先生に一度聴いて貰って、その時に、気に要らなければ、断って、帰って来れば良いのよね❢❢」と言っても、一旦、先生の元を訪れて、lessonの見てもらって、そこで弟子になる事を断れる分けはないし、「半年、取り敢えず、一緒に暮らしたら、愛情なんて次第に芽生えて来るものなのよ❢❢」なんて事がある分けないじゃん❢❢
それは愛情とは言わないで、単なる、「馴れ合い」というもんだよ❢❢
でも、その程度の「馴れ合い」でも、充分に幸せな人もいるのだから、はそれそれで、良いんだわさ❢❢
要は、あんたがどう思うか??・・で、やんしょう??

大学の先生になって、「proに成れた」「夢は果たせた」と思い込んでも良いし、何処かのオケに入って、「あたしゃ、proだ❢❢」と、豪語しても構わない。
それは、その人が何処を、自分の目的地(居場所)にするか??・・の違いなのだから・・・ネ??

浅田真央ちゃんは引退したので、次世代の本田真凜ちゃん辺りを引っ張り出して、お話をしようか?・・それともスキーの高梨の沙羅ちゃんで、お話を・・とも思ったのだけど、要は、頂点を目指して、その山に登り切ると、alpsでも、周りには誰もいなくなってしまって、360度を見渡せるのだよ。
それをピラミッド構造という。
教室で音楽の勉強をしている生徒達は、音楽が急遽の目的ではないのだから、高校生にもなると、同じ年頃の友人が欲しくなる・・。つまり、音楽のNiveauはどうでも良い事で、Niveauが揃っていても、年齢が歳下ならば、話相手にはならないのだから、面白くないのだよ。
そこで、教室で音楽を学ぶ事が、自分に取って、趣味の領域なのか、人生として・・、或いは、職業として、勉強するのか??が分かれて来るのだ。
それが、音楽を学ぶ上での致命的な意識差になる。

360度、周りに何も無ければ、それは頂点に立った・・という事なのだが、私が35年間生徒達を指導して来て、未だ卒業証明書を書いた生徒は一人もいない。
困った事だ❢❢

もう、俺も歳なのだから、いい加減、一人ぐらいは、卒業証明を書きたいものだよ❢❢

勿論、私の総ての分野で、私を凌駕する事は無理だろうから、Pianoや、violinだけの1分野だけでも良いのだけどね????????????

でも、だからと言っても、「芦塚先生の料理教室」や「芦塚先生のパソコン教室」でクリヤー出来たとしても、卒業証明は書かないよ!!
あくまでも、音楽の世界のなかでなければ・・ネ??

社会の構造式は、総ての分野に於いて、ピラミッド型になっているので、音楽の世界だけで物を見てしまうと、一生懸命に努力(正しい・・と付け加えるか??)を続けると、そのうちには、周りには、段々お友達も競争相手もいなくなってしまう。
唯一、ライバルだけが、自分のお友達になってしまうので、それこそ、concoursがなければ、会うこともない。

私が日本に帰国して、最初に悩んだ事は、「ああ、これで私を叱咤激励してくれる私の先生は一人もいなくなってしまった❢」という嘆きだったのだが、その懸念は、日本に帰って来て、3日も立たない内に無くなってしまったよな??

つまり、という音楽狭い分野での、音楽家というrivalがいなくなっただけで、proという人種は、日本に無数にいて、凄いlevelと技術で仕事をしているのだよ。
それに気が付いたら、孤独は無くなって、余りにも多いライバルの存在に嬉しい悲鳴が出てしまったよ!!

それに、音楽でも、洋の東西を問わず、また、歴史上の人物に学ぼうとすると、これまた、無限の世界が広がって来る。
日本の一般的な音楽界のような、Double-standardな世界(井の中の蛙)に甘んじているような、人にだけはなりたくないと思う。

日本の音楽家達(演奏家)は自分のlevelを音楽上の技術で判断しようとするのだけど、私は、その人がのめり込んでいる音楽の解釈の深さ(所謂、これが人生よ❢❢)で、その人のlevelを判断しているのだよ。

そうすると、マジに音楽家だとして、有名であるか否かは、本当に大した事はないのだよな?

つまり、こんにちの日本の音楽家の中で、音楽に対する愛情があって、音楽を奏でている演奏家は皆無だよな~ぁ??
それだけは、私は誰にも負けんぞ・・というこった❢❢
これは、音楽に対しての心意気のお話ですよ。
でも、音楽を語り掛ける相手である音楽のLibhaber(音楽愛好家)の人達は、音楽を演奏する事は出来ない・・・という事で、一般の日本の音楽家達は、その人達に音楽の良さを教えようとか、啓蒙仕様とか、しているのだけど、Libhaberという人達は、演奏に関しては、素人なのかもしれないが、音楽を愛し、理解する・・という気持ちは、proの音楽家よりも、あるように、見えるのだよね???
だから、音楽のLibhaberに音楽を説得出来る演奏家になりたければ、・・・演奏のproと呼ばれたければ、そのLibhaberの人達よりも、音楽を好きになって、音楽の世界にめり込まないとね・・・・??
それが恐ければ、proにはなれないよネ???
頑張ろう❢❢



あれ~え??もう、入力出来ないやんね??仕事にならんわね??
10月24日 22:42



あれれのれ~??昨日のコメントとほぼおなじapproachだよな??concoursのお話と、ピラミッドのお話・・何時も、同じ話になってしまうのだよな???
10月24日 23:35



つまり、引っ掛かっている所は何時も同じ・・という事なのだよ❢❢
10月25日 15:18




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10月25日 ·
前回のlineに、HändelのLascia ch'io piangaの譜面で、takt34から40迄の通奏低音のmelodieが、理論的に納得行かないので・・という事で、私なりに訂正をして、皆に連絡したのですが、今ベッドで寝ていて、ふと、それって私の楽譜が50年以上の前の日本版の楽譜で、今はもう訂正されているのではないだろうか??と思いついて、ネットで楽譜の状況を調べました。そうしたら、やはり、修正された楽譜(stringsorchestraの譜面)を見つけました。修正箇所は、ほぼ私の修正と同じなのですが、こちらの方が、もっと簡単明瞭に修正されていたので、それからCembaloの譜面を作り直しました。orchestraはそのままで良いのですが、歌と、basso continuoのCembaloとcelloは、譜面を交換してください。(参考までに:4Page目の楽譜を掲載しておきます。)


勿論、Cembaloのpartは私のoriginalですよ。
元々の問題は、37小節目の通奏低音のmelodieが、シ、レ、ソとなっていて、歌のドレレーのドと大変な和音と音のぶつかりをして、如何にも不自然で、rehearsal を聴いても、やはり、そのミスは目立ってしまって、訂正をせざるを得ませんでした。という事で、論理的に一応納得の行くように、Baßの動きを訂正したのですが、やはり、より正確な資料が欲しかったので、世界の図書館を訪ねる事にしました。
結果、やはり35小節目から42小節目迄は、かなりのcheckが必要になりました。
10月25日 5:59



いやあ、くだらない事に引っ掛かってしまった。da capo al fineが中々出来なかくって苦労した。後、3連音を全部、8分音符と16分音符の2個に訂正した。これは、参考にした、原譜がそうなっていたので・・という事です。
https://www.youtube.com/watch?v=UP7_jAwE5qQ


この楽譜は一般公開ではなく、限定公開のみです。このFacebookのみからaccess出来ます。
・・と思ったのですが、色々と不都合があったので、やはり一般公開にします。
10月26日 10:49



orchestraは、period奏法なのですが、歌は現代の歌唱法です。でも、しっとりとして、良いかも??
https://www.youtube.com/watch?v=EKo_EmfEPWs
10月27日 5:40


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10月25日 ·
そろそろ、夕方の5時ですから、もう12時間働いている事になります。
そろそろ、疲れて来たな~あ??
という事で、さっそく、横になってみたのだが、5分と持たない。
寝ようとしても、眠れない‼
兎に角疲れた‼
仕方ない、お茶でもするか??と、座って見るのだが、5分として座れない‼困った‼

今日は にゃんこ号の 新車購入で、決まった車種をorderに行く日だったのだが、すっかり、その タイミングを 落っことしてしまった‼
「忘れていた😻」と言うか「 裁量権🙌」と言うか⁉困った事だ‼ 10月いっぱいまでの発注に 間に合うだろうか😭⁉
さて、それはそうと、椎名町 から要町に、斉藤先生のお迎えのドル・プリっ歩に行って来たのだが、その間だんだん、 鼻水が止まらなくなってきた ‼
食事を済ませて、ハイツに戻って、 布団に潜り込んだのだが 、それでも 鼻水が止まらないので 、諦めて、 エアコンの暖房をつけた‼
やっと、何とか、鼻水は、止まったのかな⁉

もう、すっかり以前の話しになってしまったのだが、認知症がすっかり酷くなってホームに入ったきりになった母親の見舞いに行った時に、母親が 「自分が生きているという事が、重荷になっているのではないかい⁉」と 聞いて来たので 、「親が生きている…ということだけでも、充分に子供にとっては、心の支えになるんだよ‼」と言ったら、安心した顔をしていた。
でも、実際には、 体調不良が酷くって、 長崎まで車で行って、実家の保全をしたり、介護の真似事をすることは、「もう、体力の限界‼」と 思っていたので 、その言葉は、親を安心させるための方便の一言だったのだけどね⁉
深夜の電話やmailは、母親に何かがあったのでは…⁉と、恐怖を抱かせて、神経を逆なでしていたのだよ‼
親が死んだとの連絡がホームからあった時に、不遜にも、深夜の電話への恐怖感からの解放感を感じてしまったのだよ‼

親が子供の事を愛するのは、自然の摂理であり、至極当然な事だ‼という事は、一般的には、揺るぎない人間界の真実として、信じられているのだろうが、実際には、こうして35年もの長きにつけて、子供たちを指導して、親たちと子供達の軋轢を見て来るにつけて、親と子供が理解しあい、愛しあうということ、それが、極めて稀な夢物語の出来事であるという事を実感してしまう❗

子供が親に対して、(外国の子供ではなく、日本の子供が)「大好き💕」と自然に心から言っているのを見る事が出来るのは、何と素晴らしく、感動的なのだろうか⁉💕
※外国の子供達…と言わなかったのは、外国の子供達の場合には、かなり小さな子供の場合であったとしても、親に「大好き💕」と言うのは、既に大人の世界の形式的な儀礼的なcommunicationに過ぎないからで、不思議な事に、大の分別のある大人が、その契約上の儀礼的なcommunicationにすがり、且つ頼るのが、西洋人のChrist教的な心の結び付きなのだから…、う~ん、困ったものだ‼






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10月26日 ·
今まで1時間近くも書いていた文章が、ものの見事に総てブッ飛んでしまった。この1時間は一体何だったのだろう。全く人生の無駄を感じてしまう。
なんで、Facebookはこう不安定なのだろうか??
なんで、何時も何時も、同じ事を書かなければならないのだろうか??

要は、一度、全く未完成の状態でも、保存してしまえば、保存した所迄は、何とか助かるのは、勿論、他のsoftも同じなのだが、それにしても、Facebookの場合には、余りにも予期せぬ時に、意図も簡単に、ブッ飛んでしまうから、問題なのだよ。
facebookには、何度も、creamを言ったのだが、解決策を提示して貰った事は一度もない‼

まあ、それはそれとして、話しを本題に戻すと、
お袋の介護のお話の続きで、長崎に家の営繕とか、銀行の手続き等で、ホームと家を飛び回っている時に、しかし、極めて稀ではあるのだが、時折、この写真のフルーツ・パーラを訪れた事が何度かある。
また、お袋もどうしても、銀行で手続き上、本人の確認が必要な時に、このフルーツ・パーラの前の銀行で、手続きをして、そのまま、directにhomeに帰すのは、忍びないので、久しぶりに、このフルーツ・パーラに寄って、たまさかに、外の空気を吸って貰って、外界の世界をほんの少しだけインジョイして貰った。

とても、小洒落たお店なのだが、私が高校生の時には、このお店は、極普通の果物屋だった。
そして、何と❗、私と同学年の同校生の女の子がいて、歌を学びに佐世保の街迄、lessonに通っていたそうな??

高校の文化祭の時に、私は飲ん兵衛の先生達に引っ張り出されて、数曲の管楽器のバンドのpianoの伴奏をさせられてしまった。
その時に、偶然の事だけど、同じ学年のその丸ポチャの可愛い女の子の生徒が同じ舞台で、歌を歌っていたのだよ。(勿論、その頃には、JK、何て言葉はまだない‼)

彼女が歌った歌は、古典イタリアの歌曲、Lascia d'amartiとか、後、数曲である。

彼女の歌を聴いた時に、私は、Theodor Stormの「静かなる音楽家=ein stiller Musikant」のone-sceneを思い浮かべて、彼女の華美な歌声にすっかりと酔いしれてしまった。

私は音楽の勉強を始める前の、その高校に入学した頃から、イタリアの張りのあるBel Cantoな発声は嫌いだったのだ。
だから、periodなbaroqueの(古典イタリアの)発声法は、とても好きなのだが、日本ではそういった優しい華美な発声は、通常は忌み嫌われていて、お目に掛かれる事が非常に少ない。
力みのない、余韻だけの広がりのある発声法は、とても美しいと思うのだが、トンと巡り合う事は稀である。(ちなみに、私が過ごした高校時代は、まだ、i'musiciが、vivaldiの四季を引っ提げて、世界中を回った第一次のbaroqueブームはまだまだ、の時代で、アイネクと四季だけが広められて、パッヘルベルのカノン等は、まだその存在を知られる前の時代であった‼)

まさに、この歌姫の歌は、StormのEin stiller Musikantの世界なのだよ。
むくつけきほぼ生徒全員が男子である薄暗い高校の体育館である事を除いけば、素晴らしい華美なStormの世界だなや??

ちなみに、残念ながら、私はこの可愛い女の子とは、一度もお喋りをした事はない。
何故??って・・??
男子たる者、婦女子と目を合わせる事も許されなかった時代のお話だよ❢❢

男の子と女の子が放課後にこっそりと、教室で居残って、お喋りをするのは、私の次の世代からなのよね??
う~ん、残念❢❢

女の子とお喋りをするのが解禁になったのは、音大に入学してからの事で、身体検査の時に、女の子達が並んでいたので、部屋に入れないで、たむろしていたら、医者の先生から、「お前達、何をやっているのだ‼音大は93%以上が女子だと言う事は自覚しているのか⁉お前達は、女子大に居候しているのだぞ」と言われて、カルチャー・ショックを起こしてしまいました‼
日本の音大の校舎に初めて入った時に、女子の匂いにムンムンして、困った事を覚えています。
それも、一月ぐらいで慣れたしねぇ⁉
ちなみついでに、この可愛い女の子も、私と同じに、歳を経てしまったと仮定すると、既に齢70を過ぎてしまっているのだよね⁉さて、それは…困った‼

取り敢えず、ざっと打っといたので、これで、ブッ飛んでも何とかなるわさな?? 



斉藤先生は、violinをしょっていますが、雲仙のロビー・コンサートの練習のために、このお店の近くにある音楽のスタジオを借りたので、そこに練習に行った帰りです。
https://www.youtube.com/watch?v=cw03DhL9Xa8
10月26日 7:48



あれ?この写真はフルーツパーラーではなくて、家の裏のケーキ屋さんですよ?フレーバーという名前だったと思います。
10月27日 1:03



あれ、そう??うちの前の何時もお土産を買うお店だったのね??
10月27日 3:37




では、気を取り直して、浦上天主堂の前のフルーツパーラです。本文の写真です。


10月27日 3:38



お店の中から、天主堂のスロープを臨む光景です。

10月27日 3:41

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10月27日 6:00 ·
昨日は発表会明けからの、初めてのone-lessonでした。
という事で、その前の日は案の定、全く一睡も出来ませんでした。※※の時間に起きるためには、何が何でも、**の時間迄には、眠らなければならない‼……というのが、結構なpressureを惹き起こして、入眠障害になってしまうのだがね


携帯とかnotePCとかで、元の文章の手直しで、打ち込んでいたFacebookのPageが、打ち直したはずの文章が何処かに行って、探せなくなっているようなのだが、元の文章の何処が、どう変更されたのかが分からなければ、次の手直しのしょうがない・・・や。困った事だ❢❢
10月27日 14:52


何度入力しても、上書きされないで、訂正の原稿は何処かへ消えてしまっている。
10月27日 7:36



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10月27日 ·
私の昔々からのcomplexは、兎に角、仕事が遅い事です。
小、中学生の頃から、先生の黒板に書く文章をnoteに書き写す絵鉛筆の速度が間に合わないために、半分も書かない内に、どんどん消されてしまって、授業にも付いていけませんでした。
悲惨なのは図工の時間で、授業時間内に、写生をしなければならないのに、半分も絵を描くことが出来ませんでした。
高校生になった頃から、自分のぶきっちょの克服のための努力を少しづつ始めました。
とは言っても、体質改善や、鉛筆を書く速度をあげる・・なんて事は出来る分けはありません。
私の唯一の人よりも優れている点は、本を読む速度です。
乱読、速読の中から、何かの本の中に、「1つの項目やthemaの中で使用される単語は、1000単語もない❢」という事を思い出ました。
それで、memoを取る時にその単語の頭文字だけを書くようにしました。たった、それだけの事なのに、memoを取る速度は激的に解決しました。

しかし、当時は憧れだった音楽大学に入学して、図書館で、そこにいた学生達に声を掛けて、楽譜の簡単な分類作業をしました。大きなテーブルを真ん中に集めて、その周りをぐるぐる回りながら、楽譜と伝票を一つに纏めるという作業で、今日ならば、パソコンがあるので、そう言った作業はもう無いのでしょうが、周りの先輩諸氏を含めて、作業開始して、一周り、二周りする時には、もう、私は周回遅れになってしまいました。まあ、作業の遅い事❢❢改めて、その遅さにshockを受けてしまいました。
人よりも、作業が遅い事は、日常では、人よりも先に仕事を始めるという事で解消しました。人よりも、早く仕事を初めて先に終わらせておけば、修正が入ったとしても、充分に間に合わす事が出来ます。

人よりも仕事の遅い事に対しての、解決法は、平行作業です。私の高校生、大学生の頃には、未だワープロもパソコンも当然無かったので、一番私の苦手な浄書の作業は友人達に丸投げしました。
どうせ、大学の論文なんてものは、3人ぐらいの生徒しか書きません。その3人のnoteを他の生徒達は丸写しするだけなのです。
私の論文を丸写しした生徒が全員評価「A」と高得点を貰っているのに、私だけが「C」という低評価だったので、先生の所に文句を言いに行って、「私の論文を写した生徒が全員Aで、私だけがCとはどういう事ですか?」と言ったら、先生曰く「芦塚君、字の綺麗さ❢というのもあるのだよ!」と言っていたので、納得して、帰りました。
でも、本当は、私の論文は字の綺麗な同級生の女の子が浄書していたので、それは、嘘です。先生の言っている本当の意味は、一般の音大生がその論文を書いたとすれば、評価はAになるのだけど、作曲科の私が同じ論文を書いたら、Cで、辛うじて合格という意味だったのです。その程度の事は理解出来ます。ので、評価は気にしないで、帰って来たという意味なのですよ。
大学の評価等は、一般社会で通用する分けは無いのだから、一々その評価で一喜一憂する事もありません。大体評価をした先生も評価を受けた私もなんとも思って居ないのですから・・・❢❢

留学する前と帰国してからのお話ですが、



話が極端に長くなりそうなので、結論の方から攻めて行くとして、要は、例えばproの演奏家を目指したとしても、演奏会の10日ぐらい前からは、Piano(楽器)に触る事も出来ない日々が続くぐらいに雑用が忙しくなってしまいます。勿論、agentに契約してお願いする事も出来ますが、それでは、本当にやりたい演奏は出来なくなってしまいます。ある程度は、agentの言い成りになるのは仕方の無いことになってしまいますし、お金の余力がないと契約をする事は出来ませんので、中々外注する事は難しいのですよ。ticketの手配から、招待状program作成、ホールとの交渉とか、演奏家を続けるという事は多くの雑用を熟すという事でも、あり、そのpressureに耐える事が出来た人だけが演奏家として自立出来るのです。
そう言った雑用は日本の音楽大学では教えませんが、それは教える人がいないし、音楽社会では、それを教えてしまっては、仕事になりません。

日本の音楽大学の勉強では、自分の演奏する曲の分析や、資料の研究をする事はありません。
ひたすらに、演奏の技術的なapproachをするだけです。そこがヨーロッパの演奏家達との致命的な落差になります。※

近頃では、音楽の勉強もClassicというよりも、popular音楽が主導を取る事が多くなって来たので、finale等のnotationのsoftの使い方の授業も増えて来ました。しかし、幾ら、音楽大学でfinaleの指導をcurriculumとして勉強させたとしても、小学校や中学校でワードやExcel の勉強をする程度の、ほんのKeyboardの基本も指導市内・・単にお茶を濁す程度のcurriculumなのですよ。
女子社員が必要に駆られて、パソコン教室に通う時には、毎日会社が終わったら、教室に駆けつけて、就寝ギリギリ迄学んで、しかも半年で、60万ぐらいの金額を請求されます。
巷のパソコン教室とは、水準が違うのですよ。何事もちゃんと実用出来るようになるには・・・???
10月29日 5:49




※:上の文章に追記する事が出来ないので、新しく書きます。
日本の音楽の勉強の仕方は、只、ひたすらに、技術を磨く事なのですが、ヨーロッパの人達は、自分達の文化を勉強する事なので、非常に総合的に音楽に対してapproachをします。
日本の文化
Facebookの不具合で、これ以上書き込む事が出来ません。
10月29日 5:51



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10月27日 ·
「そんなに良い教室ならば、どうしてどんどん有名になって大きくなって行かないのですか??」と、不思議そうに質問されて、先生がなんて返したら良いのか、分からなくって、苦笑していた…という事なので、ほんのチョッとだけ、私から説明を・・・

「良い教室」と仰っしゃられているのが、どういう「教室の事」を言っているのか??…がよく分かりませんが、「良い教室」の前提が「巷の音楽教室」という前提ならば、この方の仰っしゃられてる仮説はある意味では正しいと思います。
「巷の音楽教室」とは、綺麗な教室で若い先生達がいて、子供達の喜びそうなテレビで流れている曲や、はやりの曲を弾けるように指導してくれる・・・
巷で音楽教室を探している・・という事ならそんな教室のimageなのでしょうかね??

もし、そういう教室を持って、「良い教室」と言うのならば、それは私達の教室とは、全く別の教室なので、教室にいらしたのは、間違えた選択になります。

私達が求めている理想の音楽教室の場合・・とするならば、良い音楽教室なら、有名になって、大きくなって行くはず・・という、前提は成り立ちません。

私達の教室では、先ず、子供達の喜びそうな発表会のrepertoryや、テレビのアニメソングやコマーシャル・ソング等を指導する事はありません。
教室のチラシにも書いているように、私達の音楽教室は、世にも珍しい・・Classic専門の音楽教室なのです。(ここで、既に、世に出て大きくなろうという前提が崩れてしまいます。アハッ!)

また、私達の音楽教室と一般の音楽教室の大きな違いですが、私達の教室のように、巷の音楽教室が、生徒達を、全国規模の大きなconcoursに入賞させたり、高校から直接、海外に留学させたり、色々な音楽大学に生徒を受験させて、合格させる・・・なんて、事は、絶対に有り得ないからです。

しかも、その教室の中には、orchestraや子供のための室内楽があって、子供用の簡易versionではなく、ちゃんとした本格的な音楽を勉強出来るという事は、日本の音楽大学ですら、有り得ない事なのです。

つまり、日本国内はおろか、世界にあるはずのない音楽教室がそこにあるのですから、その説明を理解するのは、一般の人はおろか、専門家の人達にとっても、不可能な事なのです。

つまり、「良い教室=優れた生徒を排出する教室」・・という前提自体が、日本の音楽教育上は成り立たないし、あり得もしない教室が、どんどん大きくなって、フランチャイズのように、広がって行くと言う事は絶対に有り得ない事なのです‼

難しい事では、教室で優秀な生徒ですら、「巷の音楽教室」で学んでいるのだから、音楽大学を目指す友達とは、必然的に劣っている・・と、認識しています。同じ曲を比べたら、どちらが上手か・・という事は一目瞭然なのに、自分が練習しているのにも関わらず、それが認められないのです。
それは、「何故なのか??」「どうしてなのか???」というと、日本の教育では、生徒が、専門的に勉強をするには、それ相応の、ひたむきな学習の態度が必要だと思われているからです。
つまり、「『巷の音楽教室』で、楽しく音楽を学んでいるのだから、その学習がprofessionalであるはずはない。」という日本流の前提です。

日本の根性主義の教育の理念では、「10回練習して出来なかったら、100回」「100回練習して出来なかったら、1000回」「1000回練習して出来なかったら、1万回練習すれば良いのだよ❢❢」という考え方が主流です。

しかし、私は頭からその考え方を否定します。
つまり、間違えた練習を1万回して、正しい練習を1万回したとしたら、その生徒は、差し引き0回の練習をした事になるのです。つまり、全く練習していない事になるのです。
芦塚メトードでは、丁寧に間違えないように、注意深く練習をすれば、最低の練習回数でも、簡単に上手くなる事が出来ると指導します。
雑な練習をするぐらいなら、練習はしない方がましなのですよ。
ある程度、練習を嫌がらないでするようになったら、丁寧な正しい練習法の勉強を始めますが、この練習が身に付くと、楽器の演奏が上手になるだけではなく、無関係の学校の成績も同時に上がって来ます。勿論、勉強はしないにも関わらず・・です。

生徒がそれ相応に優秀であるためには、生徒自身のそれ相応の意識が必要になるからです。
音楽教室で、幾ら良い生徒をたくさん排出したとしても、それはamateurの水準の中でのお話です。
音楽を専門的に勉強したければ、巷の音楽教室はさっさとやめて、音楽大学の先生の所か、有名な演奏家の所に行って、音楽の勉強をするのが、至極、一般的なのでしょうね。

これから先は、先程書いた事なので、面倒くさいので、コピペします。
「つまり、巷の音楽教室が、concoursに生徒を入賞させたり、高校から直接、海外に留学させたり、色々な音楽大学に生徒を受験させて、合格させる・・・なんて、事は、絶対に有り得ないからです。
しかも、その教室でorchestraや子供のための室内楽があって、proとしての演奏活動をしていたり、period奏法のような、日本のproの音楽界でも、未だ演奏はしていないgenreの音楽を演奏している・・・しかも、その演奏を小学生の子供達が演奏している・・という事は、世界のlevelで見ても、有り得ない事なのです。つまり、有り得ない事を、理解させるのは不可能という事です。」

私達の音楽教室のように、生徒達の水準が、一般のlevelを遥かに越して、音楽大学の先生達の指導する生徒達のlevelよりも高度な事を勉強している場合には、一般の音楽大学の指導者のように、専門的な生徒のみに対しての指導になるので、生徒数は、増えません。ましてや、教室が、色々な場所に支店となるb教室をたくさん作って(所謂、フランチャイズ契約のように)広がって行く事はありません。

つまり、このお話の前提では、「良い教室」という前提で、非常に優秀な生徒がいたとしても、その水準はあくまでも、「amateurとしてのlevelの中の話」としてであって、音楽家を目指す生徒を対象としたお話ではありません。

だから当然、「そんなに良い教室ならば・・」のお話が、amateurの生徒を育成してる教室・・・としてのお話ならば、その前提は成り立ちます。
でも、その程度のlevelで子供達が上手になったとしても、私達は子供が本当に、上手になったとは思わないので、そこは一般の音楽教室と私達の音楽教室では、歴然としたNiveauの差が、教室の前提として存在するのです。
このお話は毎回お話している「目標と意識の齎すピラミッド構造」のお話と同じ話なのです。

超有名音楽大学の教授達がlessonをしていても、音楽を目標とする生徒の数はたかが知れていて、20名程度が関の山です。(多くの有名教授は、30名、40名の生徒を教えているかもしれません。しかし、それは受験を目的として、毎年、その教授の元に送られて来る生徒なので、その教授が指導するのは、受験迄の、1,2回・・・に過ぎない生徒なので、私達はそう言った生徒をその教授の弟子としては認めないし、もし、その生徒が大学に入学出来なかったとすると、その教授も名前さえ覚えている事はないでしょうね。

ましてや、proオケの団員が指導する生徒数には限りがあるからです。
何故なら、オケの団員はオーケストラのscheduleに追われて、生徒に対しては、満足な定期的なlesson等は出来ないからです。

多くのフランチャイズの教室をたくさん作るには、そのmethodeが精々、1月かまあ、長くても、2ヶ月程度で習得出来るmethodeでなければならないのですよ。
もっと言うのなら、たまに、夏休みや冬休みの間に、一週間程度の講習で、習得出来るぐらいのmethodeでなければ、先生が学びに来る事はないのです。だって、一般的な人達の場合には、「何かを学ぶ」という意味は、「学び」の意味・・そのものを学ぶ事ではなく、指導するための「簡単なhow-to」をチョッと、手に入れられれば、満足なのですから、それで、生徒が刮目する程の成長をする事は有り得ないのですよ。

巷の音楽教室である私達の教室には、音楽に対する意識のある生徒は集まって来ません。
あくまでも、学業が優先で、少し、Pianoやviolinが弾けたら良い・・という程度の望み、希望の生徒達しか来ないのです。
意識がある生徒、・・つまり、音楽の世界を目指す生徒達は、最初から、その音楽大学の先生やproオケの団員の先生に師事するからです。

私達は、巷の音楽教室に過ぎませんが、そういった有名音楽大学の先生や、proのオケの人達に対抗して、音楽大学やconcoursに入れたり、教室から直接留学をさせたり、proとしての演奏活動をさせるようにしたのですが、そうなると、「あの教室はとんでもない教室だ❢❢」という噂がたって、教室に入会するためには、先ず、とても厳しい面接を受けなければならなくって、殆どの人が音楽に対する意識で、入会を跳ねられて(断られて)しまうし、何とか、lessonを受けられるようになったとしても、オケの練習に入ると、厳しいlessonで、生徒も親も泣き泣き通わなければならないのよ❢!」という話が教室の一般的な話として、流布してしまって、「とても良い音楽教室」とはならず、教室としては、生徒集めに全く困ってしまいました。

それで、なるべく、波風を立てないように、巷の音楽教室の体を成すようにしているのですが、そうすると指導していても、面白くもないので、ついつい生徒を伸ばしてしまいます。
生徒は、何の苦労もなく、ホイホイと上手くなるのですが、そこの所は、音楽の指導のproを目指す講師希望の先生達が、何度、見学や聴講に来ていても、そこの所のtrickは、分からない(理解出来ない)ようです。

さて、本題に戻って、今現在、教室に在籍している生徒達や親にその話(良い教室ならば・・・)の話をすると、「え~っ??どうして???」という事になるのです。

つまり、日本の教育の世界の中では、その一般的には、「教室のlevelが高い」・・という事は、=「厳しく指導する」という意味になって、私達が「先生は一度も怒った事はないし、生徒に練習をしろ❢❢と命令した事もない❢❢」・・と何度言っても、誰も信じてくれないのですよ。

小学生ぐらいの子供達が、私に対して、タメ口をするので、親が怒って「芦塚先生、内の子にちゃんと怒ってください❢」というので、「中、高生になると、自然に直るので、放っておいてください。」というのですが、今の子供達は中々礼儀正しいので困ってしまいます。昔々、芸大の教授に付いていた小学生の女の子がlessonに来て、lessonの初めと終わりに定形の挨拶をするのですが、「先生、有り難う御座いました。」という言葉のnuanceが、背筋が凍る程、気持ちが悪かったのですよ。勿論、その間のlessonの最中の言葉は、楽しそうで、お気楽なタメ口だったのですが、最初と最後だけは、芸大流に型通りになってしまうようでした。つまり、心の籠もっていない、定形の挨拶程、悲しい気持ちにさせるものはありません。

行列の出来るお店に行って、そのお店の料理が「美味しい❢」と思った事は、これまでは一度もありませんが、本当に「美味しい店」には、中々一見では行けないし、金額も高価なので、会社の招待ぐらいでしか行けません。
大阪の一等地のど真ん中にある日本庭園の蓮懐石や、山口の河豚のフルコースは、どちらも招待で行って来ましたが、幾ら払った事でしょうかね??
勿論、云拾万の領域であって、個人で行ける代物ではありません。
でも、それは本当に美味しいのですよ。
バックでも宝石でも、brand品はメーカーが保証をするから、brandであり、音楽で言うのなら、楽器の鑑定書のラベルも同様の意味です。
でも、私達は、「楽器は音が出れば良い楽器である」と思うので、Stradivariでも、音の出ないStradivariは50万でも買いません。鑑定書が付いていようと、所有者の履歴がしっかりしてようと、鳴らない楽器にお金を出す事は、私達はしません。
その反対に、正真正銘の偽物であったとしても、ちゃんと音の出る、良い楽器であるならば、即、買います。
(以前、実際にそういう話があって、大手デパートが楽器フェアーをした時に、数台の銘器の中から、1台売れ残ってしまった楽器を、楽器商に「500万ぐらいに安くしておくから、引き取らないか??」と交渉に来ていた所に遭遇しました。社長に、「芦塚先生なら、幾らで買う??」と、聞かれたので、「思い切り、無理をしたとして俺なら50万!」と言ったら、「俺ん所でも、その値段なら引き取って良い!」と言ったので、売り込みに来た人は、泣く泣く楽器を持って帰って行きました。トサ❢❢
鑑定書は、楽器の良し悪しが分からないからの鑑定書であって、自分が使用する楽器ならば、鑑定書なんてものは、必要はないのは当たり前ですよ。
どこの大学を卒業してようと、女の子は、学校ではないでしょう???
私は自分の卒業した大学をひけらかした事は一度もないし、音楽界で仕事をする時に、出身音大を聞かれた事は、この歳迄、50年間一度もありません。
出身大学を聞いて来る所は、その人を判断出来ないから、大学で判断するのでしょうが??
そんな所に就職しても、自分が認められる事はないでしょう??
人を見れないから、大学を聞くのだから、就職して、色々な努力をしたとしても、それを見ている人はいないのですよ。
音楽界では、出身大学は必要はない・・と言うか、殆どの人達は音大なんか出ていないのでは??
本当に優れた先生が指導している場合には、生徒が(但し、この場合は愛弟子の場合だけですが)音大に行って、levelの低い教育を受ける事は、良しとはしないでしょうからね??生徒も長年連れ添った、愛先生以外のlessonは受けたくないだろうしね??
だから、林りりこは慶応だし、桐朋の前々学長の三善晃先生は東大なのよね??後は高校中退で現場の先生が殆どなのですよ。
鑑定書や履歴書なんてそんなもんよ❢❢
私の履歴だって、私が私のために、使った事は一度もないのよね~ぇ??
そんな日本では一人も居ないような履歴を持った先生に教えて貰うよりも、親方日の丸で・・芸大の先生が良いのなら、早めに言ってくれれば、いつでも紹介してあげるよ❢❢
second-OPINION 大歓迎よ❢❢ ❢❢ ❢❢ ❢❢




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10月28日 ·
・・・てな事をFacebookに書きながら、今日は13年振りぐらいで肉体労働をしてしまいました。
まあ、そうは言っても、violinやviolaや空の楽器caseを入れるラックを組み立てたぐらいの簡単な作業なのですが、実はその昔は、普通に、ベランダに洗濯物を干していたのですが、バイパス手術をしてからは、干した洗濯物を、自分で取り込むだけの体力が無くなってしまったので、その時に、使用していなかった、ラックのポールを、応急に、繋ぎ合わせて、寝室の中に、instantの物干し竿を作って、体調の良い時に、何時でも、適当に洗濯物を取り込めるようにしたのです。酷い時には、着替える下着が無くなって、干している洗濯物から直接、着替える時もあります。アハッ!

2,3年前には、長崎のお袋の家の整理をするために、大量に、ルミノスのラックを買って部屋の整理をしたのですが、お袋の家を処分する時に、その大量のラックは、教室としても利用頻度が高いので、東京に持って帰って来たのですが、大型のラックは、新しい教室のユーカリ教室に持って行って江古田の事務所の大量の資料の分類をするのに使用しました。
少しcompactなラックは、教室としてよりも、ハイツに持って帰って来て、violinの楽器の整理に使う事にしました‼

私の自宅の部屋に、江古田の事務所からの荷物や、長崎からの荷物を置かなければならなくなってしまって、教室のCembaloのlesson室でもあるハイツのCembaloの部屋から、ハイツの玄関を入って直ぐにあるフローリングの部屋に、長崎からの荷物や、3、4年前に、江古田事務所を出るように大家に言われて、その時の引っ越し荷物をハイツに運び込んだので、もうこれ以上、荷物が入り切れない満タン状態の、人の入る余地さえないゴミ屋敷状態になってしまいました。人間が入る事さえ出来ないのですから、整理がしようがない❢❢
という事で、この2,3年間、全く、手を付けられない放置されたままだったのです❢❢❢
・・・が、今日は、何をどうしたのか・・・、突然、午後から、意を決して、ラックの組み立てと、寝室のラック用のポールをアルミの物干し竿に交換して、それから、ポールをばらして・・・と、一気にこの10年分の作業をやってしまいました‼

普通ならば、ラックを組み立てるのは、何でもない作業のように思われるかも知れませんが、結構、その組み立て作業に至る迄の工程が、大変だったのですよ‼つまり、ラックのポールは、物干し竿になって、長く、結び付けられたままの状態で、それに、大量の洗濯物が、ポールの物干し竿に吊るされたままだったしネ⁉ 横に物干し竿を置いて、その竿に、洗濯物を移し替えながら、ポールを開けました。洗濯物を何処かに一時避難させるのは、大変だし、ポール毎では、ポールが重すぎてびくともしないのでね??

久しぶりの肉体労働だったので、頭がグショグショになる程、汗をかいたのは勿論の事ですが、それよりも、久しぶりに体を酷使したので、overworkになって、体がガクガクになって、意識も飛んでしまいました。

という事で、本来ならば、今日のドルプリっ歩は、チョッと体力的に限界で、とても無理な状態でしたが、夕食の食料の買い出しもしなければならなかったので、体調的にはoverworkという事なので、無理を承知の上で、ドル・プリッ歩に出掛けました。
流石に、ドル・プリッ歩が終わって、食事をする時には、意識混濁になって来たので、食べるのをそうそうに切り上げて、大急ぎでバイクを飛ばして、ハイツに戻って来たのは、良いのだけど・・・、一生懸命に、寝る準備をしている最中に、パソコンの椅子の上で、後片付けをしながら寝てしまって・・・いました‼
ありゃあ、まあ、なんだろね~え⁉
まあ、そんな事もあるわさな??



ルミノスのラックの段は、長崎からのありあわせをそのまま使っているので、少し段が足りないのかな??それは、また、改めてbebeに買いに行く事にします。
10月29日 4:51




お疲れ様でした💕
10月30日 7:35



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10月30日 ·
いや~あ、昨日の日曜日は新しいオーケストラの顔合わせと、曲目紹介と初見練習の予定と、私の誕生日のお祝いもして貰ったのですが、台風の中で、ハイツからの出発に、どうしたことか、超❗手間取って、アルツハイマーが、突然発症したのではないかな⁉と、思ってしまう程でした‼

前日からほとんど一睡もできないままに 、台風の影響の大雨の中を、バイクで走るために、レインスーツを準備して、楽譜や寒くなった時の、予備の長袖、等々を雨に濡れないように、厳重に保護して、小一時間程のゆとりを持って、椎名町の事務所に向かいました‼

「雨が酷いので、車で持って来て欲しい❗」というviolinを、車に積み込んだり、ハイツに持って行く予定のカウチベッドを車に積み込んで、「さぁ、出掛けよう‼」と、駐車場から、車を出そうと思った瞬間、免許証を入れた黒カバンを、ハイツに置き忘れている事に、気がつきました‼
大雨の中を、びしょ濡れのレインスーツを、また、着込んで、台風の中をハイツ迄大急ぎで、戻りました‼
ハイツの玄関に着いて、鍵を開けようと思ったら、何と鍵がない‼
超、ショックです‼
暫し、呆然として、もう一度、椎名町迄戻ろうか、と思ったのですが、ハイツに戻す小さな手提げの袋の中に、鍵を入れている事を、思い出しました‼
何とか、ハイツの玄関と部屋の入り口の往復だけで事なきを得ました‼
でも、しかし、そのトラブルで、ゆとりの小一時間は、全く無くなって、逆に、予定に遅れる事になってしまいました‼

何かと忙して私の日は誕生それどころではなかったので、牧野先生が顔合わせのオケ練習の時に、私の誕生パーティーを企画してくれました。

という事とで、急遽、花園教室で、誕生パーティーがあって、ケーキと柿とブドウを食べて、専科組は、八千代の練習があるので、急いで、検見川教室に移動して、練習を始めたのは良いのだけど、・・・夕方ぐらいから、喉が痛くなって来て、喉飴でお茶を濁しながら、なんとかlessonを乗り切りました。

牧野先生は経理があるので、先に戻って、私はハイツにユーカリが丘行きの荷物を積み込むのと、カウチベッドをハイツに降ろす作業をして、それから、椎名町で食べる弁当を途中で買って、プリドル達と一緒に晩を食べて、やっと、ハイツに戻って来て、取るものも取り敢えず、寝ました。

深夜、いつものように、トイレtimeで、目が覚めると、喉が痛くて息も出来ない状態でした‼💀
寝る前には、充分にノドヌールスプレイで喉を消毒して寝たのですが、何の役にもたたなかったようです‼
どうせ、トイレが済んでも、このままベッドでは眠れないのだから、・・・という事で、パソコンの部屋のガスとエアコンを同時につけて、部屋を急速暖房して、有り合わせの服を全部着て、(ブランケットが欲しかったのだけど、無かったので、)タオルケットを体にまいて、ヴィックスヴェポラップを鼻の下や口の下にしっかりと塗ってパソコンの椅子で、暫し休息しました‼
ベッドよりも楽だつたからです‼

・・・でも、そのために、カウチベッドを運んだのでは⁉
そりゃ、そうなのだけど、玄関から部屋の中に運び込む気力は、昨夜はもう、何処にも残っていなかったからね⁉😭
おかげで、朝もう一度目を覚まし直した時には、喉の痛みは大分収まっていました。善哉❢❢ 善哉❢❢



文章を推敲しようと思ったら、入力が出来ない。また、Facebookがおかしくなっている。暫く放置しておこう。
10月30日 9:50


10月30日 9:56
バースデーソング演奏隊のお隣部屋でテーブルを準備してくれた子たちの写真です!

10月30日 9:57



Alzheimerのtroubleで、しかも、大雨で車が走れない状態の高速を、大急ぎで、花園に駆けつけて、デジカメも出すtimingがないままに、子供たちがケーキを目の前にして待っているので、ケーキ入刀を最優先にして、対応していました‼
写真を撮るどころではなかったので、梨紗ちゃんが写真をupしてくれて、助かっています。
ありがとう❤

10月31日 7:41


素敵なお誕生日会🎂
参加できず残念でした
写真いただきまーす
10月30日 14:18


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10月30日 ·
オケ室内楽の顔合わせから、一夜明けて、次の月曜日です。喉の痛みは、何とか引いて、大分楽にはなったのですが、疲れが抜けなくて、1日、意識朦朧状態です。
今日、ユーカリが丘に荷物を運ぶのは、飛んでもハップンでした❢❢ 

寝室のベッドで寝て、パソコンの椅子で寝て・・、その繰り返しで、とうとう1日が終わってしまいそうです。(未だ夜の9時半なので・・・、1日は残っているのですが、何か、変わらないと思うので・・)
カウチ・ベッドを部屋の中に入れて、寝心地を試してみたいのですが、体力が戻らないのと置き場所が見つからないので、保留になってしまっています。
以前も同じ事を書いたのですが、ベッドに横になると、鼻が詰まって、眠れなくなるので、上体を少し起こしたカウチの上体が寝やすい姿勢のようです。






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10月31日 ·
批評家には、良い批評家と悪い批評家がいるそうです。勿論、悪い批評家は、人をこき下ろすだけで、自分がひとかどの人間であるように、自分を錯覚している批評家であり、良い批評家はどうすれば、その演奏家の悪い所を直す事が出来るか??をsuggestする事の出来る批評家なのです。
日本では批評というと、兎角、悪い事のように言われてしまい中々、忌憚のない批評を受けられる事は少ないのですが、本当に勉強をしようとする人間に取っては、正しい批評は、優れた指導以上に成長を即してくれる事もあります。

このお話はhomepageに何時も書いている昔話なのですが、私が、家の病院を引き継ぐならば、学費や生活費も出して貰えたのですが、「音楽に進むのならば、一切の援助はしない」という条件だったので、仕送りはないという事を承知の上で音楽大学に進学しました。
・・でも、この当時(所謂、昔々)は、お金がなくっても、大学で勉強をしている人は私に限らず珍しくはありませんでした。

Pianoの先生からは、音楽大学を受験する生徒を毎年、2人ぐらい回して貰いました。(100%合格する生徒は教授が指導して、80%の合格率ならば、配下の助教授にまわして、60%ぐらいならば、講師の先生達にまわして、絶対に合格しない・・という生徒を、私に回して貰いました。つまり、責任がないからです。どうせ、落ちるという事が確定している生徒達なので・・・)
でも、「どうせ、私が指導するのならば、その生徒達を100%の確率で合格させたい」と思って、色々とcheckをしました。音楽大学の入学試験は総合試験なので、Pianoででも、不合格ラインのギリギリかチョッと下ならば、他の総ての科目を100点を取れば、合格出来るはずです。Pianoの試験や歌の試験(solfegeや新曲視唱等は、その評価を人間がするので、100点満点は期待出来ないのですが、でも、限りなく100点に近い得点を取る事は出来ます。それに、聴音や音楽理論の試験は、回答があるので、100点を取る事は可能です。という事で、最初の3ヶ月で、受験に関する総ての点を、その後の9ヶ月で、音楽大学に入学してからの、総ての勉強を終わらせてしまいました。私の所から受験した生徒は勿論、100%合格で、そのうちの一人は総代で合格しました。受験が終わって、その生徒達を回してくれた先生が生徒の受験の得点の表を見て「芦塚さん、あなたの教えた科目は総て100点だったわよ」と驚いていました。勿論、それからも生徒を回してくれたので、音楽大学時代に生活に窮した事はありませんでした。
(なんと、ここまでは前振りです。)

次は、本題の批評の話です。
評論家の先生とお友達になるのは、中々、色々と難しかったのです。
最初は、500名ぐらいのクラスの授業の時に(勿論、公開の場で)、先生が持って来たレコードを聞かされて、その場でその演奏の評論をさせられたり、音楽用語でも、一般には使われていないような、専門用語について、厳しい質問を受けて、半年近く、音楽大学唯一の作曲科の生徒だと言う事で徹底的に虐められて、何とか及第点を貰って、その後は、演奏会の先生の招待状を貰って、演奏会を聴きに行く事が出来るようになりました。
勿論、その演奏会の評価を細かく文章にして、次の日には提出しなければなりませんでした。
その私の感想文が、先生の手によって更に推敲されて、音楽の友等の雑誌に**先生の名前で掲載されていたのは、楽しみでした。
同じ日の同じ時間にあるコンサートにその先生は出席して批評を書いていたのですよ❢❢アハッ!

音楽大学時代には、音楽大学のカリキュラムの中で、何かを学ぶ事はありませんでしたが、先生達と身近にタダ酒を貰って、飲み食いをして・・・そこで、仕事のお手伝いをする事で、音楽のありとあらゆる仕事の仕方を学ぶ事が出来ました。
「音楽は学校で学ぶものではない」、と言うのは、その頃からの私の持論です。
仕事は手伝うから仕事を覚えられる分けで、カリキュラム的に勉強しても、それは通り一遍の事しか学べないのですよ。寧ろ、学校の先生が学校以外の現場で仕事をしたかどうかが、問題なのですよ。
音楽大学の先生は、大学を卒業したり、留学から帰って来て、そのまま音楽大学に就職している先生が殆どなのです。ですから、社会での実際の活動の経験がありません。だから、音楽大学を卒業した生徒が、solisteにならない限り、proとして生活は出来ないという事なのですよ。しかし、社会でsolisteとして、生活している人は、世界中の演奏家達を見てもいないはずです。
まあ、音楽だけで、飯を食っているのは、音楽教室の先生か、音楽大学の先生か??オケマンだけなのですかね???
勿論、popularの分野を加えるのならば、幾人でも、音楽の演奏だけで、大豪邸に住んでいる人はいますよ。

(でも、まあ、このお話はhomepageに何度も書いたので、なにを今更??の耳タコの話ではありますがね・・・???)




またまた、Facebookに投稿が出来なくなってしまいました。という事で、コメントの欄に続きを書く事にします。
勿論、この音楽会のticketを頂いて、論表を書いて提出した先生は、この一人の先生だけではなく、多くの音楽大学の先生達が私を手助けして来れました。当時は、苦学している大学生は珍しくは無かったからです。
私自身も音楽を学ぶ者の立場から、批判をするための批判ではなく、何をどう学ぶ姿勢を変えて行けば、より良い演奏家を目指せるか・・という事を常に意識して論文を書いたので、先生達からは、高評価を受けました。
10月31日 1:41




梨紗さんの演奏会のお話は、何処で、どのような団体の演奏会なのか・・、或いはどういう経緯で、リさんが参加しているのか・・という事は、私は、よく把握していないのですが、ここの所、演奏会が立て込んで、あったようで、教室の生徒さん達(大人の人達も含めて・・)が聴きに行ったのだそうです。忌憚のない評価を聴きたかったようですが、中々それは難しいようですね。私もほんの少ししか聴いていませんがね??
10月31日 7:26



昔々、ドイツにいた頃から、(日本に帰ってからも延々と)、concertoの第二Piano(orchestraのpartです。)を弾いて、オケ合わせの時の、技術上の諸注意をpianistに指導していました。
N響のトップmemberの人達とMozartの連続演奏会をやっていりしていたのですが、やはり、日本に帰国して演奏活動を3,4年も続けていると、周りの人達の評価、評判が総てになって、段々、私の批評も聞かなくなってしまいました。
だから、演奏会の後で、色々と酷評をしたら、彼女「でも、楽屋に来てくれた人で、そんな批評をした人はいない!」と言ったので、「もはや、彼女の指導は、これまで・・だな??」と思って、それから、第二Pianoを弾いて、合わせのlessonやlectureをする事・・・というか、親しくお会いする事自体も、止めてしまいました。
それから、もう40年以上にもなりますが、その後は、一度も会ってはいません。彼女なりには活躍はしているようですが・・・、もうお互い、会って話す事もないしね。

忌憚のない・・なんてモンは、そんなモンですよ。一期一会の心がないと、忌憚のない・・は、無理です。
11月8日 11:14


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10月31日 ·
今は昔、市の主催のイベントに演奏に出掛けた時、そのイベント会場の別の人の企画で、お盆の上に布を敷いて、その上に、落ち葉、枯れ葉を無造作に置いてあったのがとても素敵で、私も、早速、真似をして、ハイツの玄関に枯れ葉を拾って来て、飾って見たりしたのですが、ふと、思い出して見ると、「えっ、今年は秋はあったのかな⁉」
それこそ、「晩秋のコンサート」 何処ではなく、もう、いつの間にか、木枯らし1号が吹いてしまった…と言っていたようだがね⁉
美しい実りの秋や、落ち葉の晩秋は、いったい何処に行ってしまったのやら⁉
兎に角、寒いぞなもし






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10月31日 ·
ここの所、2回程、血圧が150以上になる事があって、おや??と思ってしまいました。しかし、ふと考え直して、朝の計測の時の少し前に、部屋の温度を上げて、ズボンを履いて、ちゃんちゃんこを着て、血圧を測り直したら、何と正常値でした。寧ろ、低いぐらいの・・・❢❢
要するに、寒かったので、血圧が高くなっただけのようでした。ハイ!



11月



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11月1日 ·
日曜日の夕方のオケ練習の最中から、段々 喉が痛くなって 来て、 のど飴を 舐めてお茶を濁しながら オケ練習の 指導をしていたのだけど、 次の日(月曜日)は本格的に丸々1日ずっと、 寝込んでしまいました‼
火曜日も そのまま、継続して寝込んでいたのだけど、 日曜日の オケ練習の 動画のデータ(SDcard)が 椎名町の事務所に置きっ放しなので 、仕方なく、寒空の中を バイクを飛ばして事務所迄SDcardを 取りに行きました‼

何と、 牧野先生も日曜日から 喉の痛みと 咳 が続いてるそうです‼
と、 言うことで、 (今日は水曜日なのだけど) 、昨夜の火曜日の夜からは、 夢の中で動画の 編集 をシコシコと、 やっていました‼

実は、月曜日も、全く同じ状態で、全く同じように、 夢の中で動画の編集をやっていたのだけど、布団から 起き出してみると sd カードは、 まだバイクで持って来たままの、 ケースの中に入ったままでした💀
残念‼

そうは上手くは行かないよな❔
という事で、咳と熱はそのままなのだけど、何とか、頑張って、ベッドから起き出して、PanasonicのvideoデッキのDigaに取り込んで、取り込みのために、デッキを回しっぱなしの所は、もう一台のデッキで、他のvideoを、曲毎に分割をする作業から、始めて、videoの編集作業だけではなく、videoのlessonとして、ついでに演奏のcheckもやりました。
・・・と、繋がります。
イヤさ、現実と夢の狭間がおぼろげになって来ている・・というだけの事ですよ。ハイ!
それで、ベッドに入って起きだしたら、また何もやっていなかった・・だと、Alzheimerに繋がるので、今日は無しですよ❢❢






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11月1日 ·
今回の八千代での初演予定の私の「sarabande」は、技術的は、そんなには難しくは無かったのですが、意外と、音楽表現のapproachが難しいようで、結構、四苦八苦しているみたいなので、ふと、梨紗さんのhomegroundであるorchestra-backに書き直そうかなと思い立って、オーケストラで書き直しを始めました。
しかし、途中までarrangeしていて、ふと、このままでは、violaのsoloのpartは全く、聞こえないよな❔と気づきました❗
近現代の擬古典のarrangeの曲は得てして、arrangeが薄っぺらで、納得が行かないので、Marin Marais=Bazelaire版や、その他諸々の楽譜を片っ端から手直しをして来たのだけど、まるで、室内楽伴奏のsoloのようなarrangeでも、ソリストに取ってはその方が良かったのかな??・・と反省(??)している所です。
・・かね?? 
イヤ、していないな❢❢❢
やっぱ、薄っぺらなarrangeは、嫌だよなぁ




オケバージョンになってしまうんですか?ウィニアフスキーの伴奏もそうですがあのチェンバロでは頼りないですよね…しっかり練習しておきます‼︎‼︎
11月2日 2:23




オケversionの話は梨紗ちゃんの練習の出来も、八千代の演奏会も全く関係のない話です。次回に、どうしたら良いか??という私の問題です。演奏の課題は、Variation形式の曲がどうも数学的でEtudeのように聴こえてしまう所が一つと、violaという特性状、solo-pitchに慣れていない事で、音楽表現が今一つ前に出て来ない事にあります。violinのように常にsoloを演奏する楽器ならば、同じ表現でも、難しくはないのかも知れません。
11月2日 1:54




頼りない演奏と書いたのは私のチェンバロのことです…
ウィニアフスキーもそれで交代になったのかなぁとも思ったので…
11月2日 2:21



まあ、Wieniawskiは、今回の八千代の演奏会では、本当に中、高生の子供のPiano-soloが、一人もいなかったので、soloを今から誰かにさせるのは、とても無理なので、発表会で伴奏をしたひかりちゃんにPianoのsoloの代わりに伴奏で、出て貰おうかな??と思っただけです。あまり、悲観的に裏の裏を考えないように❢❢ 裏の裏は表で、その裏は・・というのはポーカーの話ですよ。 
先ほど、オケversionについてのコメントを書いて、書きかけのオケversionのscoreを削除して、削除をしたついでに、violaとCembaloのversionから、violinへのtranspose-versionを作り上げました。(作り上げた・・という事は完成させた。・・という事です。相変わらず仕事早いね❢❢❢  とは言っても、チェンバロのpartはそのままだし、violaからviolinへtransposeする時に、無い音を探して、手直しすれば良いだけなのでネ⁉)
これも、今回の八千代や、次回の発表会とは関係なく、将来、美音ちゃんか、誰かチビちゃん達がこの曲を弾いてくれたら・・という話なのですがネ??
どんどん先へ先へと仕事をしないと、余命いくばくもない私としては、心のこりのないように、今を急がないといけないのです。ハイ!
11月2日 4:48


violin-versionのsarabandeは、2時間程で書き上げたのですが、その後、checkを朝の7時頃までやって、眠気が出たので、さっそく、寝ようとしたら、車屋さんからの電話で、売れ残りの車が2台出たので、押さえないか??という話で、直ぐに来て欲しいという事で、早速出掛けました。
・・・という事で、10月の29日以来のAlzheimerの2回戦です。
超、shock❢❢ 
Alzheimerみたい❢❢  ではなく、Alzheimerそのものです。※
11月2日 15:28




昨日は11月の1日ですが、風邪の中を、バイクを飛ばして、椎名町に日曜日のオケ練習のvideoを取りに行きました。
10月の29日のオケ練習のvideoは、風邪で寝込んでいて、checkをしていなかったからです。
最初の方は、曲毎に分割されていなかったので、先ず、videoをDiga(Panasonicのvideoデッキです)に取り込んで、曲毎に分割をしながら、見ていたのですが、やっぱりsarabandeは「approachが、遠過ぎるかな?」と思いました。
という事で、発作的にviolin-versionを書き上げました。
どういうコッチャ??
それで、・・寝ようと思ったら、車屋から電話があって・・・の話とAlzheimerの話に続きます。
よう分からんがね??
11月2日 21:11


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11月2日 ·
八千代の予約の状況は、111席を満席とするようで、1部は後少しで満席で、2部は既に満席で、予約は断っているそうです。
席は、位置の関係で、少しゆとりがあるようなので、教室の関係者の分が幾分、取りまとめて申し込みできるかも知れませんが、一般の予約は締め切ったそうです。

前回のコンサートの時には、会場のセッティングをギチギチに取って、190席くらいを作ったのだ・・と思ったのだけど、立ち見が出来たりと色々とあったので、ゆとりをみているのかな・・と思います。

演奏時間も、私達に来たorderでは、1部が1時間、2部は1時間半という事だったので、私は、正味の演奏時間と思っていて、1部が1時間半、2部は2時間のコンサートの予定だと思ったのですが、八千代の企画では、アナウンスや、コメント込みの演奏時間だったようでした。
時間が多い分には、カットすれば良いだけなので、私としては、問題はないのですが、折角、色々と演奏する気になっていた子供達には、可哀想な事をしました。
企画の総合の時間は私達には分かり兼ねるので、致し方はありませんが、確認をしなかったのは私のミスなので、申し訳ありません。





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11月2日 ·
牧野先生が、八千代と確認をとってくれました。
「八千代に客席数のこと確認しました。やはり舞台部分を除くと、基本100だそうです。それ以上だと通路を無くすなどになると出入が自由に出来なくなる、あと、空調の直撃になるすぺーすになるので、お客様の環境が悪くなるということでした。
1部も今日100になったので、打ち止めだそうです。」
だそうです。以前、八千代のコンサートをやってくれた人達とは全く違って、新しい人達なので、基本は同じなのでしょうが、色々と細かい所は、renewalです。
まあ、それも楽しくって良いですね。




今日、明日明後日は八千代はお休みなので、hall側とのお話は出来ないので、暫く持ち越しです‼
11月3日 11:09




回答を頂いたそうです。double-stageはないそうです。残念でした❢❢
11月8日 2:30


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11月3日 ·
ドルプリっ歩が終わったら、突然雨が降り出したぞ~❢❢
あ~れ~??ひょっとして、奏太君の運動会が、また、また、また、また、延期に・・・・・???




奏太『さすがに明日は運動会やりたい!』と寝ました…
ドルちゃん、お願い❗️
晴れさせて〜〜
11月3日 2:50


いやいや、晴れ晴れ星人は、ドルではなく、プリです‼
でも、自分の歩が終わると、私がハイツに帰るのも、全くお構い無くどしゃ降りになります‼
プリが雨の中の散歩を嫌がっているだけなのてす‼
自分に関係なくなると、全く無関心です‼
晴れ晴れ星人のプリのお散歩の時の晴れる確率は1日2回の年中無休の散歩で、90%超の確率で、これは自然界には存在しない、もう妖怪の領域です。
11月3日 5:43


プリは「散歩はもういい❗」「疲れた❢❢」とドルを置いて帰る事がありますが、プリが部屋に戻った途端に、ドルが散歩中でも、突然、大雨になったりします。
「俺、散歩終わったもんね?」「お天気、もう知らないもんね?」と言う事です‼ 
私も何度も、「せめてハイツに着く時まで、雨は降らせないで・・??」と頼んでいるのですが、機嫌が良い時には、東長崎まで・・、つまり、豊島区の間だけで、練馬区に入った途端に、(さくら小学校辺りから、ポツポツと降り始め、ハイツに着く前にはずぶ濡れになってしまっています。
11月3日 5:44



校庭の状態が悪く、運動会、明日に延期になりました…😭
11月3日 7:07




おやおや、まあまあ⁉
11月3日 7:23



お弁当、あと詰めるだけの状態だったのに💦💦
11月3日 7:29




で、今日は通常の学校なのかな⁉
11月3日 7:44




奏太、幼稚園生です。
(園庭は狭いので近隣の小学校を借りてます)
元々延期になっても幼稚園があるってことはなき今日も普通の祝日になります…
11月3日 7:56



おやすみならば、折角のお弁当を何処かお出かけして食べると良いよな~??海の岩場なんてどう??パパさん釣りをしたりして・・
11月3日 9:40



その発想は全くなく娘はこれ食べていいの〜と朝ごはんとお昼ごはんに食べてました…
後回しにしていたハロウィンの飾りを片付けてクッキー作って夕方、ツリーを出します🎄お昼を食べたらオケ教室で練習してきます。
11月3日 12:45




近場の海岸無かったら近所の公園のベンチで食べるのも気分が変わって楽しいかもよ❢❢
11月3日 13:03



Happeningはそれなりに楽しまなくっちゃネ??
11月3日 13:04



そうですね😊
11月3日 13:11



結構降りましたよね
そうたくん残念。
美紀さんも残念
明日は晴れそうですね‼️
11月3日 12:08



今日は出来ると思っていただけにショックが…11月に運動会をやると思わなかったけど幼稚園最後の運動会、楽しんできます🎵
11月3日 12:47


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11月3日 ·
sarabandeへのone point-adviceです。

こういった比較的に抑揚の少ない曲の表現や解釈が、難しいのは当然なのですが、梨紗さんは演奏の方は、教室のorchestraで何度も経験済みだと思います。
大学の学生オケや、一般のオケとは違って、教室では鬱々コンサートがメインなので、こういった曲を好きな生徒達は多いですよね??

私がapproachして、interpretationが、一番難しかったのは、Hennry purcellのchaconne g mollです。
先ず、一番失望したのは、イギリスの誇る大作曲家であるBenjamin Brittenの作曲とされたHennry purcellのchaconneの楽譜が、単なるRealisation(演奏譜)に過ぎなかった事で、折角取り寄せたのにも関わらず、なんの参考にもならず、それは超shockでした。
演奏譜を持って、作曲や編曲とは言わないからね??
何を考えているのかな、出版社は・・・???

・・という事で、Hennry purcellのchaconne g mollは、発表会では、originalの譜面を使用して、古式豊かにおとなしい静かな演奏-解釈(interpretation)にしました。

2ヶ月後には、八千代で同じ曲を演奏したのですが、演奏はmemberも代わって、年齢層も少し上がったので、interpretationも刷新して、劇的に激しい表現に変えて、baroque音楽独特の悲劇性(pathetic)というimageを強調する事にしました。
という事で、勿論、Britten版は使用していません。
そんなので、著作権料を払うのは、アホらしいからね??

発表会と八千代での、一番大きな演奏表現上の違いは、chaconneの2拍目の強勢(syncopation)をどれくらいで表現するか・・という事でした。
発表会ではchaconneの2拍目のsyncopationを抑え気味に演奏していますが、八千代では2拍目を魂を引き千切るように強めに表現しています。
それで、patheticな音楽の表情が出ている・・のでは、と思います。

梨紗ちゃんの場合には、同じsarabandeでも、Halvorsenのsarabandeは、最初のthemaがduoで入って来るので、音楽表現が活きて演奏出来ています。
ちゃんとsarabandeの独特の演奏表現になっています。

(だけど、後半部になった時には、技術的なアプローチが、ついて行かないのでエチュードのように技術的に弾くだけになっているようでしたよね⁉)
こういったVariation形式で、一見淡々と演奏をしながら、気持ちや技術が段々と盛り上がって行くというtypeの曲は、日本人は苦手ですよね~ぇ??
それは、演奏者が、曲の形式であるapproachが苦手だからで、それにもましてVariation形式というのは、基本の型はあるのですが、それが型と呼べるか否かが分からないような(その都度の・・曲ごとの・・)形式であるからです。
Genzmer先生は、作曲家の描く形式の事を、建築家の描く設計図に喩えて、bauplanと呼んでいました。私達が作曲をする時に使用する設計図なのですが、それはそのまま演奏譜としても使えます。
(勿論、音符よりも大きな、全体の構造式を見るための絵なので、単位は練習番号付けの時の、一番大きな単位
であるABCが基本になります。)

sarabandeのviola-soloの場合のthemaの入りは、今回の練習では、梨紗さんは「3度の純性を如何に取るか??」という事にだけ、意識が行ってしまって、ハルボルセンの冒頭で感じられた梨紗さん達の音楽表現へのapproachが感じられませんでした。
そのthemaを聴いただけで、お客さんが泣くようでないと、proとしての、sarabandeの表現は難しいのですよ。

私の作曲のsarabandeの音楽は、後半部分に向かって、(何時も言っているように、)tempoは全く変わらないのに、音の刻みが小さくなっていて、高揚感が出るようになっています。

その音楽のrhythm(所謂、beat)に乗って、音楽を演奏すれば、自然に音楽が流れて、迫力が出るように作曲されているのですがね??

こういった淡々として、徐々に音楽が抑揚していくような音楽は、逆に、演奏が難しいとされています。
そこには音楽に対するsymbthyが必要だからなのです。
baroqueではなく、古典派の例ですが、有名なBeethovenのPianoの作品「pathetic」の2楽章As Durの曲もそれぞれのStollenが、tempoは変わらないのに、beatを細かくする事で、高揚感を出しています。




violinにtransposeしたversionのsarabandeです。
とは言っても、violaの場合には、和音に4弦を使用する事が出来るので、viola da gambaのような和音の音を模倣する事が出来ますが、violinでは、下に弦がないので、それが出来ないので、音楽が変わってしまいます。
「じゃあ、4度上げれば良いのでは??」と思われる方もいるかも知れませんが、la foliaは、d moll、chaconneはg mollと相場が決まっているので、それは出来ません。
「何??それも知らなかった??」って??
そりゃあ、ないよ❢❢

https://www.youtube.com/watch?v=NtSvUdowxHc
最後の故郷への旅行のthemaです。風景は呼子の海岸と、大村湾、雲仙岳からの長崎半島への眺望です。
ändel=Ashizuka sarabande violin und harpsichord version

11月8日 7:32


今まで、書いていた文章が何処にも表示されない。消えてしまった。腹立つな~??
11月7日 19:27



毎度、毎度の話しなのだが、どうやったら、消えた文章を戻せるのかが、分からない‼困った事だ…では済ませられないと思うのだが⁉
11月7日 20:07



音楽家は公人であって、音楽の勉強に関してのprivateはない・・という話と、私の鬱々の話が音楽教室の先生という立場としては良く無い・・という事に対しての弁解を書いて、私の立場は、音楽教室の先生という私人としての立場と、作曲家や音楽理論家、エッセイストという公人としての立場がある。
という話を延々としていたのですがね。
https://www.youtube.com/watch?v=m1WnARpM7Kc

梨紗さんの5日のlesson風景の動画を梨紗さん用に字幕のlecture入りの動画を送ったのですが、ここにuploadしている動画は解説と字幕を省いた動画です。・・・という話です。
lecture-lessonのお話がとても長くなるので、それを先ず第一に省きました。何故そう弾かなければならないのか??という事をrootsから説明をしてperiodの意味を確認するという作業はとても大変なlectureです。また、一つ一つ注意されたpointを字幕で注意確認をして、その意味をcheckされる事は、prideを無しにlessonを受けなければなりません。音大生がlessonに来ても、lessonが成り立たないのは、そこの所です。謙虚に学ぶという姿勢がなければ、どの先生に付いても無駄でしょう??
「高名な先生ならば・・」という生徒もいるのかもね??そういう事を言っている時点で、名前に師事をしているだけでしょう??芸大生のように・・・芸大という名前にしがみ付いているだけなのですよ。音楽は学校ではないのだ❢❢という事が本当に分かっていない・・・❢❢困ったもんだ❢❢❢


17/11/05Händel-Ashizuka sarabande viola-version Risa…

11月8日 7:42



「その人が対社会的にどの位置に属しているのか??という事は、その人の意識で決まる」・・という話は、私の口癖のようになっていて、耳タコでしょうが、人は自分の立場でしか、周りを見ようとしないので、考え方の対立を産んでしまいます。

音楽家として生活をする事を望むのならば、privateとしての立場は、非常に少なくなって、意識を常に音楽家という立場に置かなければなりません。
当然、自分が音楽の勉強をする時についても、「勉強なのでprivateだ❢」という事はありません。練習の時でも、音楽家を求めるのならば、公人としての立場をKeepしなければならないのだよ❢❢

・・・というお話を書いていた最中なので、このserialな文章がぶっ飛んだのは、結構、痛いものがあります。

公人、私人という立場のお話はちょくちょく新聞やテレビ等で、聞く事がありますが、「分かっているようで、分からない」という事は、それを聞いている人がどの立場で聞いているのか??を自覚していないからです。
つまり、社会との関わりの度合いで、一般の私人から、社会に対しての責任の度合いで、公人に移行するのです。政治家ともなると、自分の稼ぎや、家族構成迄、公開しなければならないし、医者は自分が今何処にいるのかを常に、病院に報告しなければならないのです。もし、患者の様体が悪くなった時には、何処に居ても駆けつけなければならないからです。
同様に、小学校の先生達も、24時間、居場所が分かっていなければなりません。子供は何時何処で、何をやらかすか分からないからです。深夜に、呼び出されて、東武沿線の各駅を先生達や保護者の代表の人達で探し回るという事も結構、日常なのですよ。

つまり、日常の生活をしている極々近しい人々の中にも、責任上では、公人の立場の人達は多いのです。医者看護師然り、学校の先生然り、なのですよ。

確かに、音楽教室の経営者という立場をとるのならば、基本的には、公人という立場よりも、私人である要素が強いのです。
だから、「鬱々日記」の類は、生徒を集める上では、「相応しい」とは言えないかも知れませんが、先程も書いたように、私には、作曲家や音楽理論家、エッセイストとしての公人としての立場もあって、そう言った立場では、自分を世に知らしめる(appealする)ための方法論でもあり、そのappealの中には「鬱日記」の類も含まれるのです。

「男の更年期」という本で、世に一石を投じた漫画家のはらたいらさんや、「鬱日記」で赤裸々な自伝の漫画を書いた吾妻ひでおさん達の本を読みましたが、非常に素晴らしいもので、音楽家や、小説家等が、自分の弱みをひけらかす事は、決して、恥ずべき事ではありません。「鬱日記」のような類のものを、恥ずべき(内緒にしておくべき)ものだ・・と考えるのならば、それは指導者にはなれたとしても、proを養成する事は出来ません。

音楽を「とても美しいだけ世界」で、Mozartの曲を、「天使の音楽」とでも思っているとすれば、それは音楽のLibhaber(愛好家)であり、演奏し、人にMozartの心を伝える事は出来ないと思います。
音楽は、絵空事ではありません。
演奏者は、作曲家の心の悩みを楽器の表現を通じて、人々に伝える役割を持っています。
ですから、作曲家の心を、symbthyを持って受け止めて、人々にappealする事がその演奏家としての、役割であり、それは、人間の心を伝える伝導者として、とても大切な役割であると思います。

だから、当然、舞台女優でも、「恥ずかしい」という概念があるのならば、女優業は止めるべきで、同様に、自分自身の内面をappealする事が、恥ずかしく思うのならば、音楽家としての、演奏活動(公人としての演奏活動)は、止めるべきであると思います。勿論、趣味で演奏活動をするのは、何等やぶさかではありません。

綺麗な音楽を綺麗に演奏するのならば、それは単なる趣味の世界であって、芸術としての音楽ではない絵空事の世界なのですヨ。美しいだけで、中身のない・・何てものは、指の回るだけの音楽と何等変わるものはないのだよ。

私は子供達には、下手でも良いから、聴いている人達が涙を流して来れる演奏を・・と、言い続けています。
本当の演奏でしか、人は泣いてはくれないのですよ・・・???
Lascia ch'io pianga???
技術を幾ら磨いても、自分の心を見つめて、その心を伝達しようとする気持ちが無ければ、演奏を聴いて、涙を流してくれる聴衆はいません。
音楽は技術ではないのですからね。
11月9日 21:48



昔々、花園に教室を開設した当初は、全国から生徒達が教室に集まって、発表会に参加していました。
音楽教室としてではなく、私の教育理論の実践の場としての教室で、それが教室に入会する条件だったからです。(あくまでも、実験教室としての・・です。)
私の教育理念に賛同して、教室で指導を受けるために、子供達が如何に頑張って、遠くから発表会に参加しているのか??をappealするために、programには、学校名と学年を列挙していました。

しかし、小、中学校で、生徒名を含む情報の公開が社会的に叫ばれるようになって、保護者の人達からのcreamが出るようになったので、学年を除いては、個人情報になるものは削除しました。
また、「You Tube等やhomepage等で子供の顔を出したくない」という意見も出て来て、大変難しい状況に陥る事になりました。

つまり、「音楽を学ぶ」という事は、一人でも多くの人に自分をappealするという事なので、個人情報のお話は全くそれに逆行する事になるのです。
もし、将来的に、音楽の道に進むのであるとするのならば、少しでも子供の内から、名前を覚えて貰う事が大切で、小さな子供の内からフアンを作っておく事は、その子供達の将来にとても役に立つ事になります。
また、それ以上に大切な事は、多くのお客様の前で、臆する事もなく、自分をappealする事を学ぶ事です。
教室は年に2回、発表会をやっていますし、それ以上に、外での演奏活動をして、1回でも多く、人の前に立って演奏が出来るように工夫をしています。

こういった音楽教室としての立場は、個人情報は全く逆行する事なので、音楽教室に入会する時に、単なるお稽古事として学ぶ事を希望される人達には、情報の公開は望まないという希望を事前に聞いています。

勿論、対外出演をされるお子さん達は、対外出演自体が、公開の行事なので、情報の公開は、承諾して頂いたものとしています。

当たり前のお話なのですが、対外出演は、教室の行事とは違いますので、教室の規約の制約は受けません。その都度、主催者の規約に従います。
教室の対外活動というのは存在はしないので・・
(以前はそれを勘違いした生徒も居たので・・、一応、確認をしておきます。)
11月8日 4:31



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11月3日
昨夜、教室の重要な書類を探すのに、椎名町の私のwriting-bureauの中をひっくり返していたのですが、その中からClementiやDussekやKuhlauのsonatineの楽譜が出てきました。
私は、椎名町の教室では、Pianoのlessonはしていないので、これは 梨紗さんの音楽大学を受験する時のPianoの副科の課題曲の楽譜だったのですよ。

当時、梨紗さんの音大受験のための、課題曲を選んでいる時に、その課題を見るにつけて、「音楽大学の受験では、主科の楽器では非常に難しい曲を演奏するのに、副科のPianoはなんでこんな簡単なのだろうか??」と余りにも主科偏重の日本の音楽教育に対して、疑問を感じてしまいました。
今更、このような課題曲を梨紗さんに、勉強させたとしても、全く梨紗さんの勉強にはならないので、課題のlevelupを計るために、梨紗さんには、(折角、baroque-violinの研究をさせているのだから、period instrumentsの勉強という事で、)sonatineをperiod奏法で演奏させるように指導しました。

所謂、古典派の時代の、forte-pianoの奏法なのですが、何もforte-pianoという楽器を使用して・・ではなく、現代のdouble actionのmodern-Pianoでも、そう言ったperiod奏法で演奏すると、まるで・・音までが・・forte-pianoのような音になって、古式豊かな響きで、指導していても、中々良かった・・と思っています。
勿論、音楽大学の審査員の先生達が、梨紗の演奏するperiod奏法を理解出来るとは思いませんが、まあ、変わった弾き方だなあ~??と、でも思ってくれれば良いというぐらいの感覚でしょうかね⁉
それに、forte-pianoは、未だ復刻中の楽器であり、完全にその復刻の技術がforte-pianoの製作者達にmasterされて、当時の楽器が再現されるのは、後、30年は必要なのだそうで、今は、本当のforte-pianoの音は未だ聞けないのですよ。

何時も思っている事なのだけど、CD等で聴くproの演奏家達のforte-pianoの演奏では、彼らが弾くforte-pianoが、数百万もするoriginalの復刻楽器であるにも関わらず、キンキン、キャンキャンした感に触る、ひび割れをした音で演奏者達が、forte-pianoを演奏しているのは、とてもたまらない・・事です。

偶然、或る時に、楽器博物館に行く用事があって、そこで、若いforte-pianoを研究しているという講師の先生と知り合いになりました。
「ちゃんと、forte-pianoの音で演奏しているCDかDVDはないのかな??」と質問をすると、きっぱりと一言「ありません!」という答えでした。

幾ら、forte-pianoの奏者と言えども、子供の頃から、forte-pianoという楽器に勤しんで来た分けではありません。彼らが、子供の頃にPianoを勉強する時に弾いて来た楽器は、現代のactionであるmodernのdouble actionのPianoであったのです。だから、forte-pianoを研究し、forte-pianoの音を追求するのならば、そのdouble actionのtouchを捨てなければならないはずなのです。
しかも、最後のforte-pianoはchopinが愛用していたPleyelのsingle actionのPianoであり、chopinが死んだのは、1849年10月17日・・、僅か170年程前なのですがね??それで、single actionの歴史が閉じてしまうのかね??

forte-pianoの奏者達が、forte-piano特有のsingle actionのtouchをしないで、子供の頃から身近に接して来て学習して来たmodern-Pianoのactionであるdouble actionのtouchのままの奏法で演奏するので、楽器自体はちゃんと復刻された本物のperiod instrumentsであるforte-pianoで演奏したとしても、ギャンギャンとPianoの音が割れて、それをforte-piano奏者達が、「楽器が完成に至っていない、未成熟な楽器なので・・」と言って楽器のせいにして憚らない演奏者が多い事は、許しがたい事です。

baroque-violinで演奏するのならば、3点支持の弓の持ち方は有り得ないように、single actionのforte-pianoとdouble actionのmodern-Pianoでは、奏法やtouchが基本的に違うのです。
まあ、しかし、それは、梨紗の受験とは無関係の、もう一段上のお話・・・と言いたいのですが、・・ここでお話をしているのは、proの演奏家の演奏のお話なので、私的には、そうも言ってはおれないのですよね。

ヨーロッパの大学の日本の大学との根本的な違いは、日本の音楽大学が4年で卒業となるのに対して、ヨーロッパの大学は、少なく見ても10年は在籍を続ける事です。
私の学生証をお見せしようと思ったのですが、探しだせないので簡単に説明しますが、小さなA7サイズぐらいの折り畳み式のカードなのですが、4つ折りぐらいで表裏に上限に前期と後期の判子が押せるようになっていて、1枚の学生証で10年以上そのままに使えます。

ですから、副科という概念は教職を取る人達が、副科として第二楽器や第三楽器を選択する時だけで、私達の場合には、主科が、二つ、三つとなります。
つまり、一つの主科が終わる前に、次の主科を受けて、その主科が終わる前に、その次の主科を受けるのです。
だから、Pianoを主科の人が、第二主科でviolinを主科とする場合や、celloの主科の人が、fagottoを次の主科にselectするのです。
私の友人がドイツのオケでcelloを弾いていたのですが、スイスロマンドにfagottoの席が空いたので、fagottoで入団しました。
その人の主科の楽器を変更する事、そんなのはヨーロッパでは、ザラなのですよ。
ザラ・・・❢❢

教室では、副科のPianoのlevelは、「自分の演奏する曲の伴奏が出来るぐらいまでには、演奏出来ないとね❢❢」と常日頃から、言っています。
Mendelssohnのviolin-concertoを演奏するのなら、そのorchestraのPiano伴奏は自分で演奏出来ないといけない・・という事です。それが、教室の副科のlevelの目安かな??



随分以前に見たNHKのdocumentによると、人類の文化は、弛まないmaintenanceの努力によって、引き継がれているのだそうです。人間がそのmaintenanceの努力をしなくなると、経った100年で、人間の文化文明は、自然の中に飲み込まれて、跡形も無く消滅してしまうのだそうです。
人間の叡智の集合であるdataも、DVDやBlu-rayのdisc は10年も持たないそうで、2年おき、3年おきにdataを新しいdisc に保存し直す事とtape等の媒体に保存すると、少しはましなそうです。今、現代に歴史的に保存出来る媒体は、石に書く事なのだそうです。
そんじゃあ、5000年前と何も変わっていないじゃん???
11月9日 6:18


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11月3日 ·
そう言えば、「今日の認知症」
今日は、すっかり薬がなくなったので、薬を貰いに行こう!と、バイクの鍵を探したのだが無い‼昨夜は大雨で、荷物等々が大変なので、バイクに差したままなのかな⁉と、一応、合い鍵の準備をして、バイク置き場に行ったら、案の定、鍵はバイクに刺さったままだった‼
次‼👹
バイクを病院に走らせると、何と病院は休みだ‼どうやら、世間は休日らしい‼明日は、どうなのかな⁉連休⁉それとも、半ドン⁉⁉
頑張って、病院に薬を貰いに行って、無駄な努力であった‼
この話しは、もう1つ落ちがあって、実は、薬は水曜日で終わるのだが、木曜日は病院はお休みなので、金曜日までは、一日薬の無い日が出来てしまう事になるのだ‼勿論、金曜日が、休日だと言う事を別にしたとしてもなのだが。
しかし、その一日が、どうしても見当たらないのだよ‼木曜日がぽっかりと消えてしまっているのだ‼
その一日は、何処に消えたのだろうか⁉不思議だ‼
「今日の認知症」という事ならば、こっちの方が、よっぽど事態は深刻なのではないのかな




このコメントは時差が酷過ぎるので、確認をしますが、前の文章を書いた3日からは、一週間後のお話になります。

金曜日は久しぶりに、摂眠障害で、眠れなくなったので、次の日の朝は、徹夜のままで、頑張って、病院に行って来ました。
徹夜の時には、体調不良を伴って、極端に体の動きが遅くなってしまうので、時間にゆとりを持って、8時半にハイツを出発したのですが、なんと、35分には、病院に着いてしまいました。たった5分で病院に着いてしまったのですよ。
ぷらぷらと、うだっ歩しながら、時間を潰して、一番目で、診察を受けたのですが、糖尿の具合(※)で、「薬を少し強めにしよう❢」という事になって、利尿剤をダブルにしました。

それで、血糖を下げようという意味なのですが、それから、一夜明けて、オケ練習の日なのですが、なんと、頻尿になってしまい、トイレから離れられない状態です。

幾ら何でも、突然、利尿剤をダブルに増やすのは、体の負担が、少々キツかったのかな??
11月14日 18:30


という事で、利尿剤を朝、doubleの2錠になっているのを、朝と昼の1錠ずつに分けて飲む事にしました。
その後は、不具合は出ていないので、取り敢えずはこれで良いことにします。
11月9日 11:17




(※)糖尿病のdataですが、血糖はあまり良く無かったのですが、HbA1cはかなり下がって来て、もうすぐに平常値になります。
だから、薬の処方の匙加減も難しい所ですが、病院の先生から、「血糖が何故悪かったのか??」という事について、質問されたのですが、何せ、1月も前の話しなので、どういう体調の状態だったのかは覚えていませんが、いずれにしても、発表会の前後の時期で、6日から17日、18日に至る迄、非常に忙しい時期だったので、少し、体に負担が行っていた時期で、糖尿についての養生が後回しになってしまったのではないのかな??・・と思っています。
11月9日 21:02


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11月5日 ·
ここのところ、というか❔結構、昔からの事なのだが…、よくビデオのSDcardの事や、或いは、車の事等…つまり、教室の雑用の事等で、…業者や先生達と大喧嘩をしている…夢を見る事があります‼

単なる夢に過ぎないのだが、あまりにもrealで、現実的なので、マジにメールや電話で喧嘩の続きをしそうになる‼
「チョッと待てよ⁉」と、現実を見つめ直すのに、時間が掛かってしまう程のrealさなのですよ❗

喧嘩の後の生々しさに、気分が滅入ってしまって、そのまま眠れなくなってしまうこともよくあります❗ それが夢だという事が分かって板としてもです。

そう言った夢を見る事は、「日頃のstressが溜まっているからだ❢❢」と言ってしまえばそれまでなのですが⁉
夢が深い時には、現実を認識するのには、結構時間が掛かってしまいます。

つまり、そう言った時には、夢の方が現実で、現実の方が夢の世界なのです。
夢が本当の現実の世界だ❢と思ってしまった時、・・・それが死というものなのかな??



実は、一昨日の夜も、同じような・・超realな夢を見てしまって、一日不愉快な気分になってしまいました‼
結論的に言えば、人が私の事を信じて来れない・・という事なのですが、・・自分のやること、なすことに自信がないからこそ、そういった夢を見るのですが、起きても、暫くの間は、それが現実で起こっている事のように思えてしまい、立ち直れなく、哀れな自分に対して、嘆げき悲しんでしまうのです。「Lascia d'amarti 」てな具合にね??
11月9日 20:51



また、コメントが全部ブッ飛んでしまった❢❢
どうなっているの??
Facebookは❢❢
腹立つ❢❢❢❢
11月9日 20:51



https://www.youtube.com/watch?v=0Bd7Lda5Bgw
参考までに、載せたperiodに近い演奏です。発声法は、残念ながらperiodではありませんが、曲の雰囲気やapproachはperiodポイものがあります。


Anna Caterina Antonacci - "Lasciar d'amarti" (Roma,…
11月9日 10:01



イタリアのベルカントの発声法で、よく間違えられる音楽用語の言葉があります。
「messa di voce」と「mezza voce」という言葉です。

mezza voceはmezza(半分の)声と言う意味なので、音量の事になります。

messa di voceは音を頂点迄膨らまして、またdiminuendoするという声楽のperiodの発声法の事なのですが、この「膨らます」というのが、体に響きを与えて膨らまして、響きを最大にして、その芯の声の部分を次に徐々に抜いて行って、残響だけの(余韻だけの)声にする・・という技術です。

歌の発声法に限らず、gambaや弦楽器に共通した技術なのですが、Bel Cantoでは、声の張りで響きを出すので、それから、張りを抜く・・という事はしません。

また、通常は声の張りを強くして、最後にvibratoを大きく掛ける事で、messa di voceの感じを表しているのですが、それは、弦楽器の3点支持の人達の演奏と同じで、所詮は、imitationに過ぎません。

私が未だMünchenの音楽大学の留学生であった頃、「messa di voce」を研究している時に、イタリア人の友人でスカラのボイトレをしているデメッツさんにその「messa di voce」を、実際に、やって貰いましたが、この難しいperiodの奏法を、いとも簡単にやってくれました。
ホイホイとね❢❢❢ 
流石に、本場のmilanoのOperaの歌手は、凄い❢❢
11月9日 20:56



3回もupしているのに、どうしても、up出来ないのはどうしてなのか???
11月9日 10:37



https://www.youtube.com/watch?v=OdeOyrLHdSg
ついでに、これも中々良いね~???

Ombra Mai Fu Cécilia Bartoli

Cécilia Bartoli interprète Ombra Mai…

11月9日 10:39



私がご紹介しておきたかったのは、こちらの演奏です。
Andreas Schollさんの歌です。

https://www.youtube.com/watch?v=N7XH-58eB8c

Andreas Scholl: Largo di Handel : Ombra mai fu :…

11月9日 10:41



これは一体なんと言ったら良いのだろう??baroque-Operaではないし、かと言って、modern-Operaとも呼べないし。
https://www.youtube.com/watch?v=iHvNTba3uZI
曲はHändelのOmbra mai fuですがね???
勿論、periodではありません。

Handel - Xerxes - Overture and Ombra mai fu - Ann Murray
11月9日 11:14

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11月5日 ·
70歳というのは、古希だそうですが、私は、もう既に・・いつの頃か、古希も過ぎて、無駄に齢いを重ねています。

私のFacebookは「音楽について」の事と「教育について」と、「鬱々の事」をthemaに書き進めているのですが、教室が生徒不足で先生達が、生徒集めに必死になっている時に、その教室の代表である先生が「鬱々のお話」では・・??というご批判もあるようなのですが、これについてのご説明は新たにしたいと思っていますので、今暫くお待ちください。
実は、この三つの課題は、後で、一つの課題に統合される予定なのですヨ。
人生なんて、とても単純なものなのですから、やっている事は結局は一つに過ぎないのです。でも、・・それを証明する事は難しい❢❢

古希迄の70年間ですが、教室を開設したのは、37歳の時からなので、教室で生徒や弟子の育成を始めてから最早35年になります。
それ迄の35年間は、大学の講師時代を含めても、基本的に自分の為の生活であり、他人との関わりは余りありませんでした。自分自身の内面に閉じ籠もっていれば良かったのですよ❢❢ ある意味では、楽な人生のように見えるのですが、自分が自分を批判してくるので、それから逃げようがありません。
多くの作家が自殺する所以です。

自分の求める「究極の音楽の姿」と言うものを追求して、子供達を指導し始めて、多くの音楽家達を育成して来たのだけど、その人達が私の求める音楽の理想に近づく事は、ありませんでした。何故なら、皆が私に求めているものは、音楽ではなく、技術に過ぎないのですから❢❢
concoursにしても、受験にしても、1位にするのは、極めて楽な事です。何故なら、重箱の隅をつつけば良いだけなのですからね。
concoursの審査員がcheckするだろうpointを全部、書き出して、それを一つ一つclearすれば、そのKandidatは100%合格出来ます。全国、何位になるかは、その生徒の出来た%で分かるので、concoursを受けた生徒が発表を見に行く事はありません。合格か不合格か、1位か2位かは、本人が良く分かっているのでね。

つまり、技術を指導するのだけならば、何も私が指導する必要は全くなく、誰でも良かった分けなので、ただ単に、徒(いたずら)に人生を、時間を無駄に費やして来ただけだったという事です。

こういう事を書くと、私が何か大仰な話をしているように思われるのかもしれないけれど、日本の音楽界の音楽へのapproachの有り様に、疑問を呈して、そのAntitheseとして教室を開設して、生徒達を育てる事で、日本の音楽界に一石を投じて来たと思い込んでいた私が、これまでの努力が、全く、たった1つも実らないままに、それを主張して実践しているのが、私、たった一人のように思えて・・・人生の孤独を感じてしまった昨今だったからです。
だからと言っても、病気とも戦っている私なので、「自殺願望」のようなものは全くありません。「千年も、万年も生き続けたいわ❢❢」って、誰が言ったのだっけ??金色夜叉??

35年間の私が教育に掛けて来た人生が全くの無駄ならば、これから先、どんなに一生懸命に余命を使い果たして頑張っても、それは傍目から見ると、只のドン・キホーテに過ぎないのだからね。

「残された3分割目の人生は、自分の為だけに費かっても良いのではないだろうかね??」と考える今日です。(3分割目の人生=95歳迄になるのかな??)
教育という「世のため、人の為に」・・ではなく、「自分という個人の為だけに・・・❢❢」
その方が、世の人々は、多分私の教育や音楽の事を認めてくれると思いますよ。
人は、一般的には親方日の丸のbrand嗜好に過ぎないのだからね。
Ashizukaや、芦塚メトードがbrandに成れば良いだけの話なのだから・・。

それにしても、私が八千代で重ねて来た鬱々コンサートのprogramは、一般の日本のコンサートのprogramと重ね合わせて見ても、殆ど被る事のない、独自なprogramですよね。
つまり、「鬱々program」は、私の独自のgenreであって、それと同じprogramを企画する人はいないのだよね??

勿論、それは企画しても、聴きに来る人達がいないから・・と言うのが正しい理由なのでしょうがね。

いつも言っている、人のやらない事をやれば、独自性は引き出せるのだよ。
集客力があるかないかは、別として・・・
(つまり、ここの所の考え方が一般的ではなく、人に分かって貰えないのだよな~??)

また、canonのように、毎回、同じ曲を演奏して、毎回、解釈を変えて演奏する・・というのも、結構、珍しいのだよな?
音楽を演奏する時には、「この演奏解釈が最終アンサー(=final-answer)だ❢❢」とする演奏家が一般的なのだから、まだまだ色々な解釈がある・・というのは、final-answerではない分けなのだから、当然、一般的ではないのだよ。
そこの所も、中々、一般からは、理解して貰えないのだよ。
一言で言うのなら、芸術には完成はないのだよ❢❢ 別に北斎先生で無くてもね??




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11月5日 ·
自治会館コンサートと八千代のコンサート迄に、等々今日と来週の2回の練習だけになってしまいました‼
さて、練習は間に合ったかな⁉🙌
今日は最後の練習のpointを確認して見よう‼
練習は何を練習するか??という事を確認出来ているかで、練習の成果を上げる事が出来ます。

とは、言っても、私は皆さんの練習のpointは全部覚えているのだけどね??
誰ちゃんは、**の曲の何小節目の何の音をしっかりと覚える事と、++小節のpassageを分解練習をする事、*ちゃんはオセロ練習を5回を目標にやるんだよ。後は、何をどう演奏すれば良かったのかを、頭の中で、ちゃんと確認をする事・・・等々、云々、etc・・・。

練習の目標とpointをしっかりと捉えて、その課題を冷静にclear出来るようになれば、どんな人生の課題でもclearする事が出来る用になります。ハイ!
勿論、学校の勉強もネ??




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11月7日 ·
人生の夢を叶える・・・「もう一つの選択肢」
一般的には、人生の選択肢は「一生懸命に頑張れば、夢は叶う」と言われています。
しかし、逆の言い方をすれば、「頑張らなかったから夢が叶わなかった」という事になって、「夢を叶えられなかったのは、努力が足りなかったからだ」・・・という結論になってしまいます。
「努力が足りなかった」の一言で片付けられては、我々凡人は堪ったものではありません‼
しかし、まあ、私なんかにとっては、それは時代のやむを得ない現実であって、私の少年時代には、勉強をするという事よりも、その日に、お腹を満たす食べ物を食べる事が出来るかどうか??・・という事の方が、子供の心に取っては大切な、そういった時代だったので、子供が家事の手伝いをしないで「勉強をする」・・或いは、「勉強が出来る」という事は、ごく限られた裕福な人たちの特権であり、普通の子供が、学校に行くのに、宿題すらやる暇はなかったのは、致し方のない戦後の日本の教育界の社会的な現実の事なので、私達の時代の人間にとっては、「努力が足りなかった」と言われても、勉強に対しての価値が、今の飽食の時代とは根本的に違うので、そういう風に言われても、致し方の無い事なのですがネ⁉
とどのつまり、私達の時代の人間の多くは、勉強にさして興味はなかったのだよ。
それが、高校生ぐらいになると、突然、「勉強だ❢❢」「就職だ❢❢」と、世間はうるさく、変わって来るのだけど、それはもう知らんよな??
突然、「金の卵」と言われてもネ??

それで、納得が行かない人達にとっては、「人一倍、努力はしたけれど、才能が無かった(向いていなかった)」という結論で、納得をしようとします。

通常では、この「二つの選択肢」で終わってしまうのでしょうが、実は、ここには、「もう一つの選択肢」があります。
でも、その「もう一つの選択肢」は、人々の口にのぼる事も、人達にその存在が認められる事もありません。

その、「もう一つの人生の選択肢」に必要な要素は、努力でも才能でもなく、単に、「意識と、正しい方法論」だけなのです。

余りにも、簡単で、普通なので、それを認める人達はいません。
「人生の選択肢」は、努力をする事は辛い事かも知れませんが、余りにも、楽に手に入ったとしても、その価値・・・つまり、「有り難み」が無くなってしまうからなのです。
brandは誰でも、買う事が出来ますが、その分、ある程度のお金を出費しなければなりません。それが、価値付け、つまり、「有難味」になるのです。

正しい方法論では、意識は、芦塚メトードで言う所の「その人が望んだだけ・・」・・「得る事が出来る」のです。

望んだら得る事が出来る・・と言ったら、誰でも、簡単に得る事が出来るように見えてしまいますが、実はそれは少し違うのです。
「望む」という意味は、「本当に、望んでいるのか?」それとも、「『ちょっと、望んだ』・・に過ぎないのか??」に別れるからなのです。
例を上げて説明すると、高校生に取っては、「有名大学に入学をしたい」という学生は(もし、それが可能ならば・・)殆どの学生なのでしょうが、「本当にその大学に入学したいのか??」・・という事になると、少し学生達はselectされてしまいます。つまり、誰しもが、本当に望んでいる分けではありません。
そこの所は、全く違うのです。本当の所は、友達と遊びたいし、部活もちゃんとしたい・・、つまり、高校生活や大学生活、所謂、学生生活をインジョイしたい・・・、その条件の上での有名大学なのです。
でも、本当にその大学に入学をしたがっている受験生と、でもしか受験生とを比較すると、その願望を、ペットボトルにでも入れて、可視化状態にして、その願望の量を比較すると、歴然とした差が見えて来ます。その願望の量が公平化に繋がって来るのですよ。

本人が幾らその願望の量を否定して、「自分だけは例外にして❢❢❢」と言っても、それは叶いません。
運命は結局の所、平等なのですよ。
望んだだけしか、与えられない。
そこで、ヨージーの法則:格言の言葉は「望めよ❢さらば与えられん!」ではなく、「渇望せよ❢さらば与えられん❢❢」なのですよ❢❢
渇望とは、砂漠の中で、一滴の水を求めるような意識なのです。
但し、これは意識の話であって、決して、努力の話ではないのです。
そこの所が一般の人達には、中々見えて来ないのかな??






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11月9日 ·
牧野先生が事務仕事で超、忙しく、食事の準備をするのが難しいのと、私も風邪の薬と血圧糖尿の薬で、薬の量が半端ではなく、胃の具合が良く無いので、椎名町で夜食を食べるのは無しにして、自分で雑炊でも作る事にしました。
しかし、雑炊一つ作るのは、super等で、一人用の食材を買って来る事は非常に難しいのですよ❢❢

そこで何時も悩んでしまって、結局は、お弁当になってしまうのですが、胃の調子が悪くて、梅湯を飲んでいる状態では、お弁当を買って食べるのはとてもとても無理なのです。

そこで、ふと思いついたのが、アルミの鍋に入った一人用のお鍋のセットです。このお鍋の材料が、一人用の雑炊を作るのには、ちょうど良い量です。

・・と言う事で、まん丸のsuperで、一人用の鍋のセット(何の鍋なのか分かりませんが、そこは適当に・・・)と、ミックス野菜セットを買って来て野菜鍋を作りました。

・・で、終わりです。
・・・つまり、作る所迄は、作ったのだけど、とてもとても、食べる所迄は、行かなかった❢❢・・・と言うか、その元気も無くなって、梅湯だけを飲んで、寝てしまいました。

でも、何時もそんな感じです。ハイ!



「まん丸のsuper」って、わざわざsuperの名前を伏せ字にしたのに、斉藤先生が「まん丸のsuperって、**のsuperの事だっけ?」とバラしていたよ❢❢
11月9日 20:08




梅湯の梅です。
お湯を足して、梅干しを崩すと出来上がりです。これで、お湯を足すだけで、3杯ぐらいは飲めます。
11月9日 15:31



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11月9日 16:11 ·
20年ぐらい前に、手軽にお粥を作るために、お釜の型をした熱湯だけで作るお釜型の魔法瓶を引っ張り出して来て、久しぶりにお粥を作って見ました。
作って見て、なんと、20年間使わなかった理由が改めて分かったかな??
電気釜でお粥炊きにするか、萬古焼の釜で、お粥を作る方がよっぽど美味しかったよな??
米から雑炊を作ろうと思ったのだけど、ハイツのお米はもう超古い古代米だから、二度炊きしないと無理だと思ったのだけど、まるでクズ米だなや???





それとも、新米だったら、魔法瓶型のお粥作成器でも、少しは、美味しくなるのかな⁉
11月9日 16:52



椎名町から、新米を50cc貰って来るか⁉ (丁度、一回分の量です。)
11月9日 20:42

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11月9日 23:26 ·
「芦塚メトードの成り立ち」

**methodeと言うのが、世の中に知られて広がって行くためには、「そのmethodeが、どういうmethodeなのか?」という事が、分かり易い必要があります。
つまり、「このmethodeは計算能力が上がる」とか、「学校の成績が上がる」とか、そのmethodeの学習内容とその目的、目標が非常に簡明である事が絶対必要条件になります。

それに対して、芦塚メトードというのは、最初からmethodeとして作られたものではなく、私個人の性格上の「不器用さ」を克服する目的で、不器用さを自覚した中学生の頃から、その日その時に、その不器用さを、自分自身で工夫する事によって、何とか克服をしようと日々努力をした時の方法論をまとめたものが、所謂、「芦塚メトード」の発端・・なので、その中身は、labyrinthのように、複雑怪奇で、研究すればする程、迷宮に落ち込んでしまいます。

私のmethodeは、日常のさり気ない、一コマから、自然発生的に出来上がってきました。
私のmethodeがどういう状態で、出来上がったのか?という一コマをお話しましょう。

少年時代、本を読む事が好きだった私は、中学生になって、古い田舎町である産まれ故郷から、お袋さんが働いている、地方の都会である長崎の町に引っ越してから、読書の好きな中学生として、お昼の食事代を貯めて、本を買い揃えて行った。
母親は朝早くから仕事に出掛けて、昼食を作る暇は無かったし、冷蔵庫のようなものは、当時は未だ無かったので、中学校でも昼食用の売店があったのだよ。
だから、お昼の弁当代を持って学校に出掛ける子供は、珍しくは無かったのだよ。
校内に売店があるのが普通だったのだからね。
そのお昼のお弁当代を、(お昼を食べないで・・)お小遣いとして貯めて、それを本代やレコード代にしていたのですよ。
お袋さんが、その事を知っていたのか、知らなかったのかは、分かりませんが、いずれにせよ、余分にお小遣いを貰った覚えはないし、ましてや、お誕生日に何かを買って貰った覚えもありません。キツキツの時代だったのだから、もし、知っていたとしても、何も出来なかったと思いますよ。

ちりも積もれば何とやら、で、高校生の頃には、既に、有に7000冊を超える蔵書を持っていた。(「なんで、図書館から本を借りて、読まないのか??」って??  ・・それは、当時は、図書館のようなものは、長崎のような地方の大都市である町にさえ、一箇所しかかったし、それも、住んでいるアパートからは、バスに乗って、30分掛けて、行かないといけない場所だったし、学校にもある図書館と言っても、とても図書館と呼べる代物ではなく、教室の一つを潰して本を何冊か置いているに過ぎないものだったのだよ。

だから、私は、中学生の時に、学校に図書館というものがあったのかどうかさえ、記憶が定かではない・・そういった時代だったのだよ❢❢)

その頃の、私の特技は、(特技と言えるかどうかは分からないけれど、)自分の必要とする本を、目を閉じてでも、真っ暗な中からでも、探し出す事が出来る・・という脳力であった。

それに要する条件は、たった一つである。
つまり、元の場所に戻すという事だけなのだ。

でも、中学生の時代から高校生迄の、この膨大な蔵書は、高3になって、知り合いのチョッと年上の女子短大生に(今では名前も顔も思い出せないのだが)、小学校の先生に就職出来たお祝いに全てpresentしてしまった。
「音楽大学を受験する事を決めたので、音楽に関係する蔵書しか、もう必要はない」と思ったのだが、豈図らんや、東京で暮らし始めて1,2年もしない内に、同じ量の蔵書が、住んでいるアパートに、出来てしまった。

「音楽をやる限り、一般の蔵書は必要はない」というのは、とんでもない勘違いで、音楽の勉強をすればする程、一般の文献も必要になるし、日本や世界の年表や、色々な時代のヨーロッパの地図ですら、必要になるのだよ。

私達、物書きに取っては、「読んだら捨てる」という断捨離や、「借りて読む」というrentalの考え方は成り立たない。

それでも、私は原本を大切にする方なので、原本に直接、書き込んだり、蛍光ペンでlineを引いたりする事は、滅多にないのだが、それでも、rentalで本を借りれる程、綺麗に読む分けではない。

それ以上に、その本が資料として必要なのは、全く予期せぬ状況の緊急事態の時なので、その時に図書館に駆けつける事は不可能である。(今では24時間、netで調べる事が出来るようになったのだが・・、当時はAnalogの時代なのでね❢❢)
という事で、一般の作家さん達同様に、本の山の中に埋もれる事になる。

今は、ドーバーの60巻の本とorchestraや室内楽の楽譜、score類、Pianoやviolinのsoloの楽譜等々は椎名町の事務所に置いているのだが、それよりも多くの一般の書籍と楽譜、facsimileや貴重な文献等はハイツに保存している。
そう言った貴重な資料は、相当の知識が必要なので、先生達には探せないからだ。
それこそ、目を閉じたままで、暗闇の中で、本を探し出す脳力が必要となるのだよ。

私も30歳の壁を越す迄は、memoを取るという事もなく、物忘れをする事も無かった。(但し、ここには「それが必要な場合には」・・、という条件が入る。)
どうでも良い事については、人よりも、覚える事は苦手だった。(どうでも良いと言う意味は、あくまでも私に取って・・という注釈が入るので、一般の人達に取っては重要な事である、勉強の事とか・・も、私に取っては、どうでも良い事になるのだよ??困った事に・・・)

高校生になって、Pianoを習い始めた時には、一度「譜読み」のために「通し弾き」をすると、2回目からは、暗譜で練習する事が出来た。
これは、音楽の世界に足を踏み入れるためには、得難い能力の一つなのですがね。

しかし、音楽大学受験のために先生を代わって、その先生の信条は、「常に譜面を立てて、譜面でcheckをする事」を要求したので、私の暗譜の脳力は一瞬で、無くなってしまって、暗譜は逆に苦手な事になってしまった。
脳力と言うものは、身に作り上げるのは、とても大変な努力が必要なのだが、失うのはホンの一瞬である。

1点支持から、3点支持に持ち変えるのはとても簡単なのだが、又再び、1点支持に戻すのは、殆ど不可能であるのだよ。

世界的に一流の演奏家はそれをやった人達は多いのだが、普通の人には出来ない。失うのはホンの一瞬なのだが、どうしてその恐怖を感じないのかね??
それは、当たり前の話で、失う人には、失っている瞬間が分からないからなのだよ。

だって、今は、テレビで、「なんで15歳の女の子が、変な男に引っかかって、しまうのだろうか??」・・という話を毎日のようにしている。
でも、その15歳の女の子は、その男の子が変な人間だとは決して思わないだろうし、周りの人達が幾ら意見を言っても、逆に、「私だけは信じてあげる」と言って憚らないのだよ。

ましてや、日本人の好きな親方日の丸ともなると、一般大衆ですら、疑う事すらしないだろうにね。
こういう所では、理屈や正論は通らないのだよ❢❢

私が年金の話で区役所に行った時に、区役所の人に「年金と言うのは、一人の老人に対して、年金を払う若者が何人居るかで払える金額が決まるのですよ。でも、日本の人口は、日本の国土面積のために、1億3000万は越せないので、もうすぐに、人口の減少が起こるのですよ。その時にどうやって、お国は、私達に年金を払うのですか??」と聞いたら、「国が決めた事を疑うなんて・・」と言われてしまいました。

今から40年も前の、どんどん人口が増えて、年金や郵政のお金を湯水の如く使っていた頃の話なので、私の言っている意味が誰にも理解して貰えなかった頃の話ですがね。

仕事の進め方の話に戻って、・・・
私は、直前には、仕事が派生して、その仕事の作業に入る前には、下拵えを終わらせる・・という事も、私の中学生からの癖であったのだが、それは「時短」であり、且つ、無駄を省く事ではあるのだが、そう行った作業の仕方は、誰かに教えて貰った分けでも無く、産まれ付いてのものなので、そういった仕事の仕方は、全部、極々普通の一般的な作業の仕方である・・と思っていた。

それは、私が高校生の頃には、私の周りの友人達も、同様な作業、勉強の仕方をしていたからである。

それが、「余り、一般的なやり方ではない」・・寧ろ、「特別な仕事のやり方だ❢」・・と気づかされたのは、当然、大学に入学してからの話なのだが、その事が、「多くの人達が仕事をして行く上で、その人の仕事の進行を阻害している致命的な行動パターンである」 と言う事に気付くのは、音楽教室を開設して、多くの生徒を指導するようになってからです。

音楽教室という場所で、多くの一般の人達と接する機会を得て、改めて、普通の人達の仕事をする時の、行動の無駄の多さ・・というものに、改めて驚かされてしまう事になる。

買い物のリストにしても、私の場合には、先ず、買う物が出来た時に、買う場所で、分類する。自宅の江古田周りで済むものと、池袋迄買い出しに行かなければならないもの・・、その二つである。

曰く、歩きで買える物と電車に乗らなければ買えないものに、先ず、分類されるのだが、池袋よりも更に遠くなると、更に、買い出しのintervalは長くなって、半年に一度か、1年に一度くらいのintervalになってしまう。

もし、自分が若ければ、・・体力があるのなら、・・・買い物は、自分に対しての価値で決まるのであろうが、齢いを経て、体力が無くなると、物の価値では無くなって、買いに出掛ける場所で決まってしまう。

買う場所で分類をすると、買い物をする日時が自動的に決まる。

それに「日時を決める」という事よりも、「体調」によって日時も決まってしまう。
買い物を纏める事は、つまり、「日常の行動を如何に「時短」するか??」という事に繋がって行く。

しかし、ここにはもう一つの条件がある。
それは、「買い物のmemo」を取るという事と、買い物に行く時に、そのmemoを携帯するという事なのだ。
私の場合には、「memoを取る」という事は、問題無く出来るのだが、その書いた「memoを持ち歩く」と言う事が中々出来ない。
という事で、近年は、通常、持ち歩かなければならないもの・・として携帯電話のmailに自分で自分に買い物memoをmailする事にした。勿論、買い物memoだけではなく、チョッとしたidea等や予定等も・・である。
買い物等も、わざわざ池袋迄、電車で出掛けるともなると、それ相応の準備が必要になる。だから、買い物memoもある程度貯らないと出掛けるという七面倒臭い事はしない。

大量の買い物memoを、池袋に着いてからも、「どういう行程で店を周ると、最小のエネルギーで済むか??」・・を意識的にも無意識にも判断をして動きを決定する。

今では、体力や体調の問題が付加するので、この必要最低のエネルギーで行動を決める事は、非常に重要なpointになって来ている。

若くて体力があればあるほど、目先の仕事をその場で熟す事の方が、「時短」に見えてしまう。「時短」は、魔法のようなものでは無くて、薄利多売のように、1分、1秒をsparen(貯蓄)するものであるからだ。だから、ついつい、目先の事を片っ端からこなした方が早いように勘違いをしてしまうのだ。

「時短」で一番の効率的な事は、色々な作業の時の、同じ行程を一元化して、一つの作業で済ませてしまう事でもある。

つまり、池袋という括り、電気量販店という括りで、「時短」と一元化がなされているのだよ。一元化をしなければ、何度も池袋に行くとか、同じ行程を何度も繰り返すという時間とお金の無駄を出してしまう。そこが理解出来ない人には、「時短」は務まらない。

世の中には、本当に仕事を遅くする事(つまり、丁寧に仕事をする事)で、仕事のNiveauを上げている人達もいるのだが、それは必要な時間であり、「時短」とは別の次元のお話である。

でも、Niveauとは無関係に、本当に無駄な動きばかりする人達が多いのだよ❢

というよりも、「その動きが無駄だ❢」とさえ気づかないのだ❢❢

未知を求める研究は、失敗から多くを学ぶ❢❢
しかし、日常の仕事の失敗からは、学べる事は何もないのだよ。
だって、その失敗は、最初から分かっていた事なのだからね。
年金のように、「日本の人口は増え続ける」・・という、論理的にも、物理的にも、有り得ないものを信じて疑わない人達がいると言う事は、・・・私には理解出来ない。

音楽教室で生徒を指導していて、一番、難しく、且つ又、大切な案件は「曲決め」である。
発表会が終わったら、次の「曲決め」に入るのが一般的なようだが、私の場合には全く違う。

私は、生徒を指導をしている時に、その生徒の指導内容や曲への完成度によって、次に「その生徒に取ってどういう課題が必要か??」というdataを出して、それに従って、次の曲を決める。
つまり、発表会の出来不出来とは無関係に、発表会の前には、曲は決まっているのだよ。

芦塚メトードは、高校生時代、音楽大学時代、留学時代を通じて、日常の生活の無駄を省く事や、作曲技法の改善(bauplanや、rough layoutによる作曲法)、飽きっぽい自分の性格を最大に効率良く利用するための、仕事の凍結法 等々、自分の身の回りをsystem化する事から、自然発生的に始めたsystemである。
つまり、最初からgenreを切って、methodeとして作り上げた分けではない。

私が日常の生活をして行く上で、自分の「不器用さ」「トロさ」を克服して、他の人達との歩調を揃えるのが目的なので、genreを切る事は、私に取っては、逆に、不利になってしまうからだ。

一般の人達に取っては、自分の性格を直す事は至難の業らしい。
しかし、私に取っては、そんなに難しい事ではない。
大きな気にいらない性格を直すには、日常のさり気ない一つ一つを直せば、何でも無く治せるからだ。それは、事故の起こる確率であるハインリッヒの法則と同じであり、日常の何でもない、事故を気を付ければ良いだけなのだから。

高校生から始めた、自分の「不器用さ」の克服の方法論を、日本に帰国して、教育関係の大学で講師をする事になった時に、一般の生徒達の教育指導で、そのまま、使える事に気が付いたのだが、そこからmethodeを、目的に応じて、selectする事で作りあげて行った。

教育の大学で、生徒達に教育に関する指導法の一部を指導して、・・、(音楽とは無関係の、)その教育法をあちこちの小、中学校曲での実践で、多大の効果を上げたのだが、その結果、生徒達が受けた評価は、私のmethodeが、同時に日本の教育のsystemとは、真っ向から対立する方法である事を、改めて知る事にもなった。

その昔、ある音楽大学の子供のための音楽教室で、他の先生達の指導出来ない小、中学生の問題児達12名の指導を頼まれた。変な癖があって演奏が出来ない生徒や、家庭環境の問題等々、多種多様な生徒達である。

日本に帰国して間もない頃ではあったのだが、私の教育理論を試す良い機会だとそのお話を引き受けて、半年後には、その劣等生のホボ全員をそれぞれの学年のトップのプレーヤーにした。
それで、1年後の学長からの評価は???
「学校としては、芦塚先生の生徒だけが抜きん出るのは、問題なので、他の先生達と同じように指導して欲しい❢❢」という事だったのだよ❢❢❢

よく、若者の小説で、勉強の出来る美しく可愛い少女が、劣等生の男の子と一緒に勉強をして、目的の大学に入学するというlove-storyがある。でも、それはあくまでも、小説の世界であった、現実は、少女がlevelを落とした方が、簡単なのだよ。

その幾つかの指導の実例は、homepageに掲載している。勿論、methodeなので、実際に子供達を指導しているのは、教育大学の私の生徒達である教員達であり、それぞれの学校で著しい成果は上げたのだが、それが教育の改革に繋がる事(評価される事)は無かった。

日本では、未だに、産声さえ上げたとは言えないのだが、アメリカやヨーロッパではいち早く莫大な国家予算を投じて、英才教育が実践されている。
また、英才児を教育するsystemも、真摯に研究されている。
日本の教育の基本は封建制度の儒教の思想である。
明治になってからは世界最強の軍隊を育てるために、学校教育に日本独自の儒教の教育法が取り入れられた。
基本は、徳川家康が自分の孫子(まごこ)のために、優れた人材を育成する事を、極端に忌み嫌った儒教の考え方と全く同じ思想で、命令に忠実で従順、常にtop downに従う。下からの、報告は一切上には届かないで、盲目的に決められたパターンを踏襲する事を守る・・という、現代の役所仕事に見受けられる姿が、その500年前からのそのままの日本の経営スタイルである。

音楽の世界でも同じで、家元という大学の教授の派閥に盲順する事を総てとして、自分が今、演奏している作品の作曲家よりも、自分が習って来た師匠の方が尊敬をし、神格化する対象である。
そこからは何も育たないのにね。

まあ、人を尊敬し、神格化する事は、それが家元制度であろうと、brand嗜好であろうと、本当の音楽愛好家からは、そっぽを向かれても、本人達には、関係はないのだろうから、こちらも言う事は持ち合わせてはいない。

その当時の論文を纏めたものが、最初の公開された「芦塚メトードによる教育法」であり、それを見た当時の文部省関係の人が、「この論文を認めるか、否かは、この論文が机上の空論であるか、芦塚先生本人が指導していたとしても、それは当たり前の事なのだから・・それでは、methodeとしては証明されないので、実際にその指導を芦塚先生の弟子、生徒が指導をしている場所を提供して欲しい」という希望で、花園教室を開設した。

音楽教室として、教室を作った分けではないので、当初は、5年ぐらいで教室を閉鎖をするか、誰かに譲るかという積りで、生徒を募集したのだが、教室で学んだ生徒達の希望で、(揺り籠から墓場迄)のように、会社にして、存続をさせる事になった。

音楽教室を、継続させる事について、然程熱心でなかったのには、確固とした理由がある。
それは、音楽を学ぶ者達が音楽に対して抱くNiveauの問題である。

音楽には、amateurとprofessionalがいるように思われているのだが、実際には、もっと細かく分類され、のそ分類は、それ程は簡単ではない。

amateurには、アマアマとアマプロとプロアマがいるし、proにも、アマプロとプロアマとproとsolisteがいる。

(amateurのアマプロとproのアマプロは全く別のNiveauの話になる。)

教室で生徒達によく投げかけるのは、「下手なproと上手なamateurならば一般の人達はどちらを認めるだろうか??」という質問である。
答えは意図も簡単で、上手なamateurでも、音楽のNiveauは下手なproの方が上なのだよ。
それを教室では「意識」と言う言葉で呼んでいる。

儒教的な教育法で培われた日本の哀れな生徒達は、カリスマ指導者からこういう教育を受ける。

「10回練習して、弾けるようにならなければ、100回練習しなさい。」

「100回練習して、弾けるようにならなければ、1000回練習しなさい。」

「1000回練習して、弾けるようにならなければ、1万回練習すれば良いのだよ❢❢」・・・と❢❢

まさに、頭を使う事のない、儒教教育そのものの論理である。

埼玉県のある小学校で、3年生のクラスを対象にして、漢字の記憶のテストをクラス対抗で催っていた。

5クラスある中で、流石に、学年主任の先生の教室の成績は抜群である。
産休で代わった教育大学の卒業生で、産休の代用教員の先生のクラスは、その先生が代わる前から、ず~と、5クラスの中で、最低の成績である。

相談を受けた私は、「あくまで、芦塚メトードの開発研究の一貫なので、他の先生達には絶対に指導内容を教えない事」という条件を付ける事で、その相談を引き受ける事にした。

毎週、先生に提出される生徒のノートを見せて貰った。
漢字を覚えるクラス対抗の課題は、毎週、5個、6個の漢字を覚えて、教室全体の成果を評価するのだ。

どういう風に、漢字を覚えているのか??というと、出題された漢字を、漢字ノートに、一漢字を、漢字ノートに20回書く。そして、毎週の土曜日に記憶のテストをする。
日曜日は、先生達は生徒の漢字のテストのcheckをして、次の月曜日には、答案を返却して、次の漢字の課題を出す・・の繰り返しである。

生徒達のノートを見せて貰って、先ず、第一に、気が付いた事は、最初の2,3文字迄はとても丁寧に書いているのだが、5,6個を過ぎた辺りからは、文字は雑で、汚く、酷い書用である。

一般の教育社会では、記憶に関するmethodeは色々と出ているのだが、不思議な事に「忘れるためのmethode」は存在しない。

私は、その点に着目し、芦塚メトードを作り上げる上で、記憶のmechanismを、逆に忘却のmechanismとして捉えて、嫌な事を簡単に忘れる方法を編み出す事にした。「忘れる」という事が出来るのならば、「記憶をする」という事は意図も簡単である。

儒教的な記憶法では、兎に角、書いて覚える事なのだが、芦塚メトードは真逆である。それは、「書く」と言う事と、「記憶をする」という事は全く別の事なのだから・・である。

要は、「覚えれば良い」だけなのだから、「ちゃんと覚えられるだけノートに書く事」という風に、宿題の方法を変えた。

子供達は、最初はおっかなびっくりで、4個、5個を丁寧に書いて来るのだったが、1月も経たない間に、確認の1個だけしか、書かなくなってしまった。
勿論、成績はクラス全員100点の満点である。

びっくりした学年主任の先生は、生徒の宿題を20個から、40個に引き上げて、それでも、クラス対抗の成績を挽回出来ないので、最終的には100個書くようにした。

その宿題は現実的には、不可能な宿題なので、各家庭の両親が手伝って何とか100個の課題を果たしていたのだが、それも無理と言う事で、漢字のクラス対抗自体が自然消滅してしまった。

つまり、芦塚メトードによる学習法は、日本の勉強の仕方とは真逆の方法であり、オセロ練習法として、生徒の練習のNiveauを引き上げるための方法として指導している。
但し、この方法は、芦塚メトードを学習し始めの初心者には向かない。
ある程度の勉強の訓練が出来た生徒のみの練習の方法論ではある。

芦塚メトードでは、教室に入会したばかりの生徒に「練習をしなさい」とは絶対に言わない。
練習は本人が練習をしたくなったら、その時に練習すれば良いのだからだ❢❢

例え、週に1回、lessonの時にしか練習しなかったとしても、先生の指導の下に練習をする時には、無駄が一切ないのだから、間違えた練習を毎日されるよりも上達は早いのだよ。

教室に趣味で楽器を習いに来ていて、家では一度も楽器を弾いた事がない生徒が、中学生、高校生ぐらいになると、それなりの曲を弾きこなすようになるのは、その無駄がないので、週1に過ぎなかったとしても、それなりには上達するという事なのだよ。
unbelievable❢❢❢
もう、20年近くも前の話になるのだろうか??
指導上の問題点をYes & nowで2択して、指導のpointに繋がるdataを作るprojectを始めた事があるのだが、そのままになっているなあ??





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11月11日 12:09 ·
仕事で使っているwindows7のパソコンのhard diskが壊れてblueoutするようになったので、Dellの工場修理に出して、hard diskの交換をして貰った。

そこまでは良いのだが、次の日にBlu-rayを焼こうとしたら焼けない。
色々と、discを焼く時に不具合が出てしまった。
という事でDellのsupportに電話をしたら、videoのdriveを交換するように・・という事になって、交換してみたのだが、何一つ改善が無い。
「修理に出す直前迄異常はなかったのだから、保証をしろ❢❢」と言ったのだが、「工場ではBlu-rayのdriveは触っていないのだから、そちらのせいだ!!」と言って来て、水掛け論になってしまった。
挙句の果てには、recoveryを勝手にするか、工場でする場合には、recovery代金が派生すると言う。
なんの意味もなかった、videodriveの返金もしないという事だよ❢❢
「recoveryのsoftがなければ買え❢❢」と言って来る。
それでいて、「誠意を持って対応します。」と言って来る❢❢
「誠意」という意味は相手の立場になって、応対するという意味なのだけど、会社のmanual通りにしか対応しないのに、誠意もへったくれも無かろう。
Dellには、この10年以上絶大な信頼を持っていたのだが、一瞬でその信頼は消えて消滅してしまった。

Blu-rayもDVDも焼けなくなって、発表会の編集迄は出来るのに、その後のdisc を焼く事が出来なければ、それこそ商売にならない。
諦めて、パソコンをぶっ飛ばしてrecoveryしなければならないのだが、soft類やdriveをhard diskに保存しなければならない。
recoveryの後で、soft類をパソコンに戻さなければならない。
それに2,3日は掛かってしまうので、中々recoveryが出来ないのだよ。
でも、videoの注文が来たので、やっぱり、windows7の修理は必要だよな??


ハイツから4k用のHDDを持って来て、7のback・upをして、recoveryをしようとしたら、なんと出来ない。recovery画面に移動出来ないのだ。
まあ、back-up-disc の不具合いならば、パソコンが古くなって来るに従って、しょっちゅう不具合が起こって来るので、recoveryをする事も、度々、しなければならないので、「recovery-disc をDellに注文しても良いか??」と思って、Dellのサイトに行ったのだが、その場所が開かない。
なんで、こう、不親切なのだろうか??

でも、recoveryをすると、パソコンが2,3日は使えなくなるので、「今、受けている発表会のvideoの編集が出来なくなるので、それも困るよな❢❢」と、いう事で、video-cardを片っ端からinstallしてみた。
バタ狂って見てみるもんだ❢❢
なんと、Blu-rayのdisc が焼けるようになったよ❢❢
壊れていたvideo-cardが上書きされたようだ❢❢
いや~あ、不思議だ???
でも、これでBlu-rayの発注を片付ける事が出来るよな❢❢
11月14日 8:15



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11月12日 7:59 ·
「行き詰まりについて」
将来の職業に関しての「行き詰まり」は、基本的には、男の子の場合には、滅多にありません。男の子の場合には、「将来の夢」を職業として捉えるので、「行き詰まり」にあうと、直ぐにバイパスを探してしまうからです。(「夢」自体を変更する事はないからです。

それに対して、女性の場合には、(特に、コンビニ世代の若い女性達に取っては・・)「行き詰まり」や「挫折」は日常的なのです。
それだけ、人生がコンビニなのでしょうからね。

小学生の高学年から中学生に掛けての大切な時期に、学校(中学受験や高校受験)に専念したり、或いは、教室に途中から入会した生徒達で、音楽の道に進もうとすると、行き詰まってしまう事があって、別の道を模索する生徒がよくいます。

小、中学校の時に、学校よりも音楽の勉強に専念していた生徒達には、この問題は起こらないのですが、その理由は、(特に中学生の時期は、)音楽と自分の心が、一体化して、音楽を表現する事に魂が繋がるという・・とても大切な時期になるからで、この時期に一生懸命に何か一芸に専念していた子供達は、その後、(仮に、slumpに陥ったとしても、)人生そのものを悩む事はありません。「その道で、一生を歩む」という事を決心しているので、根本的な事で悩む事はないのです。

この小学高学年から中学生の時期を逃してしまうと、「音楽と自分が一体化する」・・という音楽表現の本質的な事をmasterする事は、とても、難しくなってしまい、それを再び得る事は、無理とは言わないまでも、涙ぐましい大変な努力を必要とする事になってしまいます。

「何故、小学生高学年からか??」・・というと、小学生の低学年、中学年迄は、所謂、コピー世代と言って、コピーをする事で学んで行く時期だからです。

この時期はコピーが上手なので、指導者が指導した通りにするので、とても素晴らしい演奏が出来たりします。
しかし、その同じ子が、年齢が上がって、所謂、ギャング・エイジになって、自己主張を始めると、驚く程、演奏等が下手になる事があります。

学生concours等を見ていて、小学生部門で完璧に弾けていた生徒達が中学生部門になると、メロメロになってしまい、高校生部門になると見る影も無くなってしまう・・という現象が起こります。

指導者が、自分の演奏をコピーさせる教育を施していた結果です。
中学生から高校生に掛けて、自我が育つに連れて、子供達がsymbthyを感じた部分だけを、自分の演奏として表現するので、そう言った(年齢が上がるに連れて下手になって行く)現象が起こります。

自分の「夢」を叶える・・というお話の例で、私のadviceではなく、漫画家の人が、斉藤先生に、斉藤先生が高校生の時にadviceをした・・話があります。

・・・私が、このお話を引っ張り出すと、結構、斉藤先生が嫌がるので、滅多にする事はないのですが、とても分かり易いので、お話する事にします。

斉藤先生も、高校1年生の時から「教室の先生になりたい」と宣言して、一生懸命、頑張って、勉強していたのですが、1,2年後に、勉強に行き詰まってしまって、もう一つの好きな道であった「漫画家になろうかな?」と思い直して、漫画家の人にその相談をしたそうです。

その漫画家の人は、高校生の斉藤先生にadviceをして、「どの道を進んでも、同じ所(Niveau)で行き詰まるのだよ❢」と言われたそうです。

それで、斉藤先生は、漫画家になる事は、諦めたそうなのですが、(ここからは私の付け足しですが)先ず第一に、例え漫画家になったとしても、同じ行き詰まりの所に辿り着くには、同じ時間が掛かると言う事です。

例えば、音楽の道を歩んでいて、「行き詰まり」に辿り着いたのが、10年後ならば、漫画家になったとして、更にその10年後に、「行き詰まり」に辿り着く事になります。

仮に、高校生の時、(17歳の時)に「行き詰まり」に辿り着いて、漫画家を目指したのなら、次の「行き詰まり」は27歳の時になります。

27歳という年齢は、やっと、社会で自分が一人前である事を認められるようになって来た歳です。職人の世界では、やっと、仕事を覚えて、一人で仕事が出来るようになって来た時を意味します。

その時期に「行き詰まり」は、とても辛い❢❢

その漫画家の人も、「失う時間を考えるのならば、今の行き詰まりを、抜け出すように努力をする事をお勧めします。」とadviceをしてくれて、それで、音楽の道を邁進する事を、改めて選んだそうです。(このお話は、寧ろ、斉藤先生が書くべきですが、・・斉藤先生は、今超忙しいから私の代筆と言う事で、ご了承ください。)

世間一般では、「行き詰まり」の事を「slump」と呼ぶ人もいるようですが、敢えて、私達がこの「slump」という言葉を使わないのは、「slump」はその「行き詰まり」から抜け出した人達が言う言葉であり、そこから「抜け出せなかった」人達に取っては、「行き詰まり」は、単なる「挫折」という言葉になるからです。

教室では、その「行き詰まり」を打開するために、二つのadviceをします。

その一つは、「slump」になるか、「挫折」になるか??は、そこで「諦めるか、否か」で決まる・・と言う事なのです。

私のadviceは、その「行き詰まり」に遭遇した場合には、「それを打開するのが、とても無理ならば、凍結保存して、1年後、2年後に、再challengeをしたくなったら、その時にすると良い」・・と、adviceをしています。

私は、怠け者で、努力家ではないので、「根性で乗り切る」のが結構、苦手で、厳しい努力と、辛抱をするのが大嫌いなので、「行き詰まり」を感じたら、悩まないで、あっさりと、その仕事を凍結保存用の箱の中に、片付けてしまいます。(昔、東京に帰って来たばかりの頃、近所にあるオーダーメイドの背広を作るお店で、背広を入れるしっかりとした紙箱を大量に買って来ました。これが半間の押入れに仕舞い込むのに、非常に良いサイズです。「行き詰ま」った、仕事を資料や鉛筆、定規に至る迄、その箱の中に放り込んで、凍結保存します。)

そして、別の作業をどんどんと、こなしていると、何時の間にか、その「行き詰まり」を乗り切るだけの実力が付いて来て、(つまり、2,3年後には、slumpだった事を、思い出す事もなく、)簡単に手早く仕事を終わらせる事が出来ます。

仕事は生涯の積み重ねなので、何も無理をして、その時にやる必要はないのです。出来るようになったら、やれば良いのですよ。

子供達に、憧れの曲が出来て、「先生、この曲を弾きたい❢」と言って来たとして、もし、その曲が未だ無理なlevelの曲だったら、「この曲と、この曲を勉強して、弾けるようになったら、この曲が弾けるよ❢❢」と言って、その曲迄の課題を生徒に与えます。このcurriculumの与え方も基本は凍結保存の方法と同じなのです。その生徒の技術levelが、その曲のlevelに到達するまで、時間を見るという方法論なのです。

逆に、生徒の憧れの曲が、易し過ぎる曲だった場合には、自主練習を主体とした、クリスマス会や夏休みのお楽しみ会での演奏にします。余力があるので、自分で自主的に演奏出来るようになるからです。

私がlessonをする時に、生徒が、或るpassageを演奏出来なくって、その演奏するための、技術を中々、master出来ない場合には、その箇所の練習を無視して、同じ技術の用いられている他の場所をapproachするとか、して指導します。

同じ方法論なので、何処で練習しても良いからなのです。

同じthemaがABCと繰り返される場合、Aで引っかかると、BかCで、練習をして、弾けるようにすると、その内にAも弾けるようになる・・という手法です。

全く同じthemaであったとしても、調が違ったりすると、指使いも変わって来るので、難易度は当然変わるからなのです。

第二のadviceは、「slump」に立ち向かうその人の「心構え」であり、「心の持ち様」のお話ですが、教室では「slump」は、マイナーには捉えないで、次のstage(step)への足掛かりであり、「slumpに陥る」と言う事は、「喜ぶべき事」・・と捉えます。

slumpが長ければ長い程、その後の、step-up(飛躍)も大きくなります。

短い期間にclear出来る「slump」では、次のstageへのjumpも大したものではなく、人に自分の大きな成長を見せる事は出来ません。

しかし、大きな長い期間の「slump」では、それをclear出来た時には、人がびっくりするような著しい成長を見せる事が出来ます。

つまり、心の持ち様では、「slump(行き詰まり)」は喜ぶべき事であり、次のstageへの入り口にやって来たという事の証であり、自分の発展、成長に繋がるという事です。

山登りの人達が、「やっと、8合目迄、辿り着けた。」と喜ぶように、やっと、この曲で、「立ち塞がる壁」迄辿り着けたのですよ。

8合目に辿り着いた人が「後、2合もある❢❢」と思うのならば、その人は山登りには向いていない人なのです。

その人は、「沢登り」や、「ワンデル」の方が向いていると思いますよ。

つまり、自然と向かい合った時に、「自分は、自然に対して、何を望んでいるのか??」をちゃんと判断をする事が、自然との上手な付き合い方になるのですよ。

音楽を上手に弾き熟す事と、音楽家になる事は全く別の次元のお話なのだからです。

(ここからも、私の付け足しですが) 第一の「夢」は、マジな「夢」なので、当然、「行き詰まり」のNiveauも高いのですが、第二の「夢」からは、あくまで、subの「夢」に過ぎないので、行き詰まるpoint(Niveau)は、もっともっと低い位置(stage)と、勉強を始めて、極めて短時間の間に、行き詰まってしまいます。

受験でも、第一志望校よりも第二志望校を高く設定する人は極めて稀ですよねぇ??

つまり、ウンと第二志望の夢のNiveau(水準)を下げないと、その夢が達成出来る事はないのですよ。大学受験生にとっては、第二志望は、挫折という意味なので、夢と言う事よりも、入学出来る・・という事が優先されるのですよ。

つまり、そのためには、本人が自覚をしているよりも、ウンと水準を落としているのですが、それに気付く事はありません。だって、合格する・・という事が夢よりも優先されているから・・なのですから。

そういう現実を、昔はよく説明をしたのですが、中々、分かって貰える事はありませんでした。

だから、今現在では、このお話をする事は基本的にはありません。

「来る者は拒まず」だけど、「去る者も追わず」なのだから・・ね。

それに、説明をしても、誰も分からないし(分かろうとしないし、或いは、分かりたくないし・・)、そのadviceを必要としない(聞く気もない)・・という事ならば、それを啓蒙する事自体が無意味だからですよ。

でも、私は無意味を承知で生きている人間だから、時々には、こういう無駄もよくする事があります。

今現在は、今日のオケ練習の楽譜や、出掛ける準備で、結構、時間に追い立てられて、必死に準備をしているはずなのにね??
何処にそんな悠長な時間があるのだ・・・???


上記の文章を少し補筆修正をしたのですが、どうしても、またuploadが出来なくなってしまったので、windows10にネットワークで文章を移動させて、uploadしました。windows7の方は、もう修正も出来なくなってしまっています。パソコン自体の作業は問題はなく出来ているので、net接続の問題かね??
11月15日 5:18



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11月15日 4:45 ·
自治会館コンサートや八千代のコンサートが近づいて、練習が未だ中々間に合っていないので、12日のVivaldiの夏の練習に字幕解説を付けて、動画を編集して、You Tubeにupしようと思ったのですが、1日掛かりupしようとしても、netの調子が悪いらしく、3回も4回もupするのに、uploadが出来ません。Facebookも前の文章の訂正が出来なくなっているので、net全部の調子が悪いようです。mailやlineは問題なく出来ているので、大容量のdataの時だけ調子が悪くなるようです。
また、これがcreamを付けたとしても、問題が特定出来ないのだよね??日にちがないので、You Tubeにuploadしようと思ったのに、これじゃあ、なんの役にも立たないよな❢❢



これもwindows10からYou Tubeにupしたら、出来るのだろうか??しかし、動画を移動させるだけでも一手間だよな??
11月15日 5:20



やっと、You Tubeのbugの箇所を見つけて修正した。これで、多分、見れると思いますよ❢❢❢
あ~あ、てえへんだった❢❢❢❢❢
何時になったら、uploadされるのだ??
と、思ったけれど、やっぱりYou Tubeにuploadをキャンセルされてしまった。どうしても、You Tubeにupload出来ない❢❢
11月15日 20:14


またまた、書いた文章がuploadされない❢❢ なんだろうね??Facebookは・・
11月16日 10:02


windows10で、動画をuploadしようとしたのだけど、やっぱり、7と同じ不具合が起こってしまって、パソコンのせいではないと言う事が確定されたので、次のstageで、netへの配線のcheckとrouterの電源を落として、再installしてみた。
少しは、マシになったので、大急ぎでYou Tubeにuploadした。出来た事は出来たのだが、良い状態とは言えない❢❢
ここからは、jcomのせいだな??

https://www.youtube.com/watch?v=GnipCu7lykM&t=120s

芦塚音楽研究所千葉音楽教室11月12日の練習Vivald…
11月16日 10:06


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11月16日 4:19 ·
「子供の記憶力や集中力を著しく損なうもの」
子供の能力の成長を担う最も重要で大切な要素である「記憶力」や「集中力」は、日がな努力、勉強を続けている子供達にとっては、子供達自身のconditionが、常に100%の状態である事は、非常に大切な事なのですが、何らかの外的な要因に依って、その100%であるべきconditionが崩されてしまう事があります。

何か一芸を目指し、直向きに頑張っている子供達にとっては、記憶力や集中力が下がって来ると、それまで何でもなく、出来ていた事が、出来なくなってしまう・・という事に、驚き、何とかしようと焦って、最悪の場合には、それが挫折を引き起こしてしまう・・と言う事すら、あるのです。

しかし、そういったお話が、あまり一般に知られていない原因は、この例が、あくまでも、何かに対して、ひた向きに努力、邁進している子供達だけに起こる現象であるので、多くの一般的な子供達の場合、(普通に生活をし、普通に勉強をしている子供達には)、自分の能力が、100%が50%になっても、それに気付く事もないし、気付いたとしても、それが日常の妨げになる事すら、ないからなのです。
ましてや、そういう子供の成長を傍目から見ている、親達にとっては、「能力や記憶力の低下が起こり得る」・・という事すら、理解出来ない事でしょう。
今、自分の子供の「集中力、記憶力がおかしいな??」と思っている親は、子供と二人三脚で、「夢」に向かって、ひた走っている親だけなのですから・・❢❢

「記憶力や能力を損なう原因について」

記憶力や能力を損なう原因は、実に沢山の原因、要因があります。
一つ一つが異なった原因で、それが、子供達の成長に伴った生理に依って引き起こされるもの、人為的な要因で起こるもの・・と、数々の原因を上げる事が出来ます。

先ず、最初のgroupは、体の成長に伴って、引き起こされる生理的な要因に依って、引き起こされる状態を述べます。

①教室を立ち上げた時に、先ず最初に私が公開講座のthemaとして、保護者の方たちにお話をしたthemaが「思春期症候群」です。
勿論、女の子の体の成長に伴って、小学生の高学年から中学に掛けて起こる症状で、男の子の場合には、単純に子供の体から大人の体へと成長するだけなのですが、女の子の場合には、体が大人の体として成長したら、次に女性として、子供を産むための体作りが必要になります。女性として、完全な体になるために、他のenergyをsparenして、体を作って行くのです。
そのために、他のenergyは極端に、制限されてしまいます。
しかし、これは、普通の女の子が普通に生活をするだけならば、何の変化も分からない程度の微妙な変化なのですが、人生を100%に生きている子供達にとっては、その100%が50%迄、落ちてしまうので、大問題になって、悩みます。
今まで、同じ努力をしていたのに、突然、それが成果をあげなくなってしまうからです。「怠けている分けでもないのに、どうしたのだろう??」そして、体の能力が落ちているのにも関わらず、150%の努力をしよう・・として、over-workに陥ってしまいます。
私はこの時期の女の子達には、over-workにならないように、体力に無理のないように、勉強のpaceをslow-downさせる事にします。それで、この時期を乗り越えさせます。
この時期を乗り越えるのには、もう一つの重要な事があります。
体が、成長を終えた時に、結構、突然な感じで、体力、体調が戻って来ます。そうすると、子供は、自分が以前の100%ではなく、150%も、何でも出来てしまうような気がしてきます。「あれもやりたい❢」「これもやりたい❢❢」という風になって、結局、挫折してしまいます。50%から、元の100%に戻っただけであって、150%の能力が身に付いた分けではないからです。

私にある時に母親が、自分の子供が「思春期症候群なので・・」と言って来た事がありましたが、程々に、音楽を勉強している子供には、思春期症候群は起こらないのですよ。普段の日常が50%の子供が、成長期で能力が下がったとしても、それは微々たるものであり、とても、思春期症候群と呼べるものではないからです。
「幾ら成長期であったとしても、それは、単なる怠け病であって、思春期症候群は一途に「夢」を求めている生徒にだけ起こる症状なのですよ。」と、厳しくadviceをしました。この時期の親の甘えは子供には、最大の毒なのですからね。

この思春期症候群の事例は、医者に取っては、教育の分野に寄り過ぎであり、教育者に取っては医学の分野に寄り過ぎになってしまい、・・という事で、丁度狭間になってしまっているので、当時は、専門家の対応が非常に遅れていた分野でありました。

②近視、遠視等の目の障害による原因
生徒が比較的に突然、記憶力が低下したり、集中力が衰えたりした場合に、生徒を観察していると、楽譜がよく見えない・・という状況を見る事が出来ます。人間は情報の70%を、映像=つまり、目に依存しているのです。目から入る情報が不足すると、即、集中力や記憶力が衰えて来ます。勿論、対処は、メガネを掛ける事が最優先なのでしょうが、1年、2年と放っておかれる子供が多いのは、メガネを掛けると視力の減退が早くなるという迷信があるからでしょう。

③脳内酸素度の低下によって引き起こされる例
脳内酸素度というのは、血中の酸素濃度が低下する事によって、引き起こされます。
このお話をいきなり大前提から、お話始めたのは、その要因は幾つかあったとしても、それを引き起こす原因が、脳内酸素度になるからです。
先ずは、「鼻詰まり」やアレルギーが原因の「花粉症」等の場合もあります。
私は酷い「鼻詰まり」で、中学生の頃から、病院で点鼻薬を投与してもらったのですが、未だに解決には至っていません。鼻の中の厚くなった肉を焼く方法もあって、一時的には改善するようなのですが、1,2年もしないうちにまた、戻ってしまうようで、根本的な解決法ではないようです。
という事で私の場合には、自分にあった市販の(病院で調合して貰った薬は効き目が合わない場合が多いので・・敢えて市販の・・です。)点鼻薬と、鼻の洗浄でアルガードを使用して、何とか乗り切っています。
私は、回虫世代なので、花粉症等のアレルギーはありません。60歳を過ぎた頃からは、多分、エビ・蟹と**のアレルギーに反応があったそうなのですが、エビ・カニは大好きなので、一切お構いなしに食しています。
 
花粉症では、以前は、一晩でティッシュを一箱も使ってしまう生徒さん(このの場合には弟子というべきでしょうが)、が、数名いたので、私は、昔、この生徒さん達のために、アルカリイオン水の作成器を買って、イオン水を作って、数名の生徒さんの症状を改善させた事があります。
完全に、体が覚える迄、その水を飲み続けると、その後は、イオン水を飲まなくても、花粉症やアレルギー等の再発は見られませんでした。
今はその機械の必要性を無くしてしまったので、機械を紛失してしまったので、イオン水を作る事はもう、出来ません。

次は「喉の詰まりによる、イビキ」ですが、これは、若い人達よりも、私達の世代や、肥満による、場合が多いようです。
このケースも、深刻になると、認知症や、睡眠時無呼吸症によって、死に至るケースもあって、事は深刻です。
心臓の方を下にして、横向きに寝ると、空気の通り道が出来るので、改善出来ます。

④歯列矯正器やインプラントによる要因
私達の時代には、基本的に歯列矯正器はありませんでした。また、医者も歯列矯正は美容の範囲と把握していたので、殆どそう言った事による問題は起こりませんでした。
小学生の時期に歯列矯正をすると、その間は、やはり、50%くらいは、記憶力や集中力が低下します。勿論、歯列矯正が終わると、能力や集中力は戻って来るので、何時、歯列矯正をするか・・という時期の問題のようにも、思えますが、体に色々と支障を引き起こす成長期と違って、大人になってからの歯列矯正は、かなりそのマイナス要因の%が下がるので、大人になってから、歯列矯正をする人達も多いのですが、その分、歯列矯正器を付けていなければならない期間が長くなるし、社会人としての立場もあるので、どちらを優先するかは、あくまで、個人の問題です。
昔、ある愛の詩」という映画で、そのヒロインに抜擢された素人の女の子が、ヒロインになるための条件で、歯列矯正を要求されて、それを断固として拒否して、八重歯が出たまま、映画撮影に臨んで、それが可愛い・・と、世界的なヒットになった事は有名です。
昔、私達の時代の女の子達は、今の子供達のように、歯並びは綺麗ではなかったのでね。








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11月19日 0:23 ·
「椎名町のspinet」

baroque-concertoで演奏するspinetの置き場所が、椎名町がhome-positionになっているので、そのspinetをユーカリが丘行きにする予定で、その移動を兼ねて、日曜日の自治会館コンサートの時に使用する予定で、金曜日の夜に調律をしたのですが、何と、以前使用した時には、baroque-concertoだったので、・・、baroque-pitchで調律されていた。
baroque-pitchは、現代のpitchに比べて、半音近く低いので、tuningは、最低でも3回、4回、1週間ぐらいは掛けて、tuningしなければならなかったのだが、もう、日にちが無く、後の祭りである。

意を決して、tuningを始めて、octaveぐらいの音を調律して見たのだが、音がどうしても合わないので、不思議に思って、tunerのpitchを確認してみたら、何と440cycleになっていた。
tunerを取り出した時に、batteryが死んでいたので、斉藤先生が、調律の直前に、batteryを交換したので、tunerの全てのdataがresetされたせいなのだ。

仕方なしに、440で調律してしまった音から、そのoctaveを、もう一度、最初から調律し直した。
最初から「おかしいな?」と思いながら、調律したのだが、器械なので、信じて疑わなかったのだから、「もう少し早く気付けよ❢❢」・・てな、感じかな??

土曜日は、色々と雑用が多くて、調律をするのが遅くなってしまったので、spinetを車に運び込むのに、helpが誰もいないので、やむなく、斉藤先生と私の二人でCembaloを車に運び込んだのだが、その日一日、朝から、私の体調が不良で、Cembaloを車に入れ終わったら、すっかりと、腰に来てしまった。
流石に、この歳での大道具の搬出は、キツイ❢❢
体調的に・・?? 否、精神的にも・・だよな❢❢❢

車にCembaloを運び込んだら、大急ぎでドルプリっ歩をして、そのついでに、弁当を買ったのは良いのだが、散歩の途中で、立ち眩み状態で、歩けなく(立っていられなく)なってしまって、目に付いた階段の手すりに捕まって事なきを得た。

脳梗塞・・??それとも、低血糖症・・??
空っ風で、超、おお寒状態の中で、椎名町の駅のベンチで、頭が正常に戻る迄、震えながら座っていた。
斉藤先生が、弁当を買い終わって、戻って来る頃には、何とか歩けるようにはなっていたのだがね。
Cembaloを二人で運んだせいで、脳の血管が切れたかな?? アハッ!

それでも、何とか12時のシンデレラ・タイム迄には、ハイツに辿り着いたのだが、部屋の中でも、真冬の風が、凄い唸りとモガリ笛の音が聴こえて来ている。
音だけ聴いても、寒くて震え上がりそうだ。

こういう時には、暖かいコタツに入って、超熱燗を飲むと良いのだろうが、私の場合には、体調不良では、お酒類は飲めないのだよ。
困った❢❢  困った❢❢❢ 



お疲れ様です。椎名町からの積み込みは階段がないのがいいですね。花園からスピネット出すのもなかなか大変でした…今日はよろしくお願いします。
11月19日 1:48



ベッドから起き出して、パソコンの前に座って、今日の準備を開始した所なのだが、チョッと、油断していると、あちらの世界に行ってしまいそうです。早めに、色々と済ませてしまわないと、・・時間が経つ毎に、動きが鈍くなるような感じなのです。
11月19日 3:28



やっぱ、チョッと無理❢❢
もう少し寝ます❢❢❢
11月19日 3:37


出来れば、5時ギリギリ迄・・・❢❢
11月19日 3:37


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11月20日 13:10 ·
「深まる秋のコンサート」

自治会館コンサートが無事終了いたしました。お手伝い頂いた皆様方、会場に聴きにいらして頂いた皆様にはどうも有難う御座いました。深くお礼を申し上げます。


・・てな事は、芦塚音楽研究所のFacebookに書くべきだよね??
先生達が忙しくて書いてくれないので、取り敢えず、私のFacebookのPageでお礼を先にして起きます。
・・と言うか、自治会館コンサートは、「八千代組が小学生中心で、殆どの生徒達が始めての経験なので、演奏の出来がとても怖い❢❢」と、牧野先生にブツブツ言っていたら、牧野先生からの提案で、「rehearsal を4日前の日曜日にしよう❢」という事になったのですが、前回の春待ちコンサートを聴きにいらした人達が、「その後、演奏会はやらないのか??」というお尋ねが多かったという事を聞いて、急遽、「公開のrehearsal 、所謂、Probeコンサートという事にしよう❢」という事になりました。

八千代のコンサートの出来が、余りにも・・という事で、急遽、rehearsal をする事を決めたので、更に、その後、公開にしようという事になってしまって、ポスターを作ったり、チラシを作ったりという事が、全く、間に合わないままのコンサートになってしまいました。
という事で、宣伝が全く間に合わないままで、さすがに一部は身内の人達だけだったので、「まあ、今回は、日にちもなかったので、仕方がないのかな?」と思っていたのですが、2部には、結構、沢山の人達が聴きに来て頂いて、深く感謝しています。

いずれにしても、午前中は完全な八千代のコンサートのためのrehearsalで、午後はsimulationとしての本番だったのですが、コンサートの後でやる予定だったsimulationの反省の練習が、時間が全く無くて、出来ないので、SweelinckのMein junges Leben hat ein Endと紗來ちゃんのWieniawskiだけを練習して、後は、千夏ちゃんから、「撮影したrehearsal の動画を見せて欲しい」と頼まれたのですが、私達はCembaloをユーカリが丘に運ばなければならないので、動画を一緒に見ることは出来ないので、急遽、「(今回に限って)動画を、分割の作業だけをして、ギガ便で送ってあげよう」と思いついたのですが、この作業が、遅い事❢❢❢ 遅い事❢❢❢  
パソコンのギガ便に取り込むだけで、1回一人分の動画を4時間、5時間掛かって取り込んでしまいました。
朝の5時、6時から午前中一杯掛かって、やっと、千夏の分だけを送りました。美紀さんや梨紗さんの分はとても無理です・・と言いたいのだけど、まあ、仕方ないからな。
ギガ便は、こりゃあ、ダメだな??
ギガ便を取り込む作業がもう少し、早いと良いのだけどね??
送るのは、秒殺なのだけどね????

それに、video-cameraは、3台とも、回しっ放しだったので、先ず、1曲毎に、chapterを付けて、曲毎に、分割をしなければなりませんでした。
それがまた時間の掛かる作業なのだよ。
映像関係の作業は、兎に角、時間が掛かって、大変なのだよ。
パソコンや、video-deckに任せているのだから、実質の時間は掛からないと思われるかも知れないけれど、その間やパソコンやvideo-deckは、busyなのだから、結局は、仕事が滞ってしまうのだよな??




violinを学ぶ人達の憧れの曲である、Vivaldi a moll Op.3Nr.6ですが、日本の大手の音楽教室の常設曲にもなっていて、その演奏styleが世界(❢❢)のstandardになっていて、困ってしまいます。
教室の生徒達は、そう言った日本特有の演奏は聴いた事はない・・ハズだ❢❢と思うのですが、それでも、そう言ったtraditionalな演奏になるので、それを正しく修正するのが大変なのですよ。そのために、中々、periodの奏法が出来ないのですよ。

https://www.youtube.com/watch?v=U5r-UjUR7EM

17年11月19日自治会館コンサート Vivaldi a moll Op 3Nr 6

八千代のコンサートのProbeを兼ねて、花見川区花園自…
11月21日 17:04



このVivaldiのa mollのviolin-concertoは大手音楽教室の初歩の教育教材として、その弾き方が定着してしまって、教室でも指導するのに、困ってしまいます。
また、一般の人には、「簡単な初歩の曲だ」と思われていますが、この曲の演奏には、とても難しい演奏技術の問題が幾つも含まれています。その最たるものがⅡ楽章です。淡々と演奏するだけではprimitiveになってしまうので、実に微妙なtempoの揺らしが入っているのですが、これが難しい。それ以上に難しいのは、backのsenza-vibratoによる音の伸ばしなのですが、これは純性のharmonyなので、ホンの少しのpitchのズレも許されません。チョッとでも、pitchがズレると、和音が崩れてしまうからです。これを小学生が演奏するのは素晴らしい事です。純性の和音を小学生が弾けると言う事は通常は有り得ない事なのですからね。勿論、音大生もです。Ⅲ楽章にも、現代では余り使用しない演奏法が使用されているのですが、それは兎も角として、最後のripieno-soloの部分では、Vivaldiが途中迄しか、dominante連鎖をしなかったのを拡大して最後の小節迄Sequenzをしています。チョッと行き過ぎかな??と、思ったのですが、Vivaldiの意図はそこまで意識はしていたので、拡大解釈をワザとしています。period奏法についてはここでは触れませんが、芸大弾きの「押し」の奏法に似た演奏法は、baroqueのmessa di voceの奏法になります。
messa di voceと言うのは、元来は歌の奏法なのですが、Renaissance時代からviola da gambaや多くの弦楽器にも使用されてきました。それが日本では民謡や演歌の拳によく似ているので、間違われて使用されて現代に至っています。lächerlichな事なのですがね。
12月8日 12:01



参考までに、homepageのVivaldi a moll Op.3Nr.6の解説のPageをlinkしておきます。
http://music.geocities.jp/ashizuka.../vvd-a-1-analyse.html

Vivaldi a moll ⅠAnalyse

12月8日 12:19



見ていても全く気づかない事だとは思いますが、Ⅰ楽章でsoloとcontinuoのcelloが演奏をしている時に、violinとviolaがunisonで全弓で伴奏を弾いていますが、これは上半弓と下半弓で演奏して、空中bowで弓の位置を移動させている高度な奏法なのですよ。
12月9日 6:28


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11月21日 4:18 ·
「深まる秋のコンサートNr.2」

HändelのLascia ch'io pianga(泣かせ給えや)は、八千代では、葛巻しおんちゃんが歌う予定なので、自治会館コンサートでは、rehearsal はしない予定だったのですが、美紀さんの紹介で細川千賀子先生が、急遽、駆けつけて歌ってくださる事になりました。
突然の話だったので、1週間前の最後の練習は、「予定が入っている」との事で、当日のrehearsal 後の1回だけの合わせで、歌って戴きました。
無理難題は、教室では、何時もの事なので、私達は何の問題もないのですが、一般の方には、こういう場当たりの演奏は、驚きだったのでは・・と申し訳なく思っています。
という事で、・・・・コンサートの風景です。

https://www.youtube.com/watch?v=AYPKAdF77M0


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11月21日 16:53 ·
山の音楽家のオケversionを載せて起きます。
担当の人はコピーするか、暗譜してするかください。






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11月21日 17:29 ·
チョイmemoを、その場でプリント・アウト出来るようにしたいのだが、昔のpolaroidは今は印刷の紙が売っていないので、死んだままである。polaroidproという機種で、結構、仕事で皆さん使用していた機種なのだが、印刷出来ないければ致し方無い。今流行りのチェキをビック・カメラに見に行ったのだが、おもちゃ仕様で、仕事memoとしては役に立たない。ビック・カメラの店員に尋ねたら、生産打ち切りの製品なのだが、スマホと連動して感熱紙にmemo書きが出来るRoltoという商品なのだ。喜んで早速購入して、予備の感熱紙も買って来たのだが、driveのアイコンが全くスマホにinstall出来ない。一日、努力しても無駄だった。それに予備の感熱紙も着かない❢❢
取り敢えず、キングジムにmailをしたら、なんと、auのandroidには、install出来ない(使用出来ない)そうなのだ。「ビック・カメラと相談しろ」と言う事で、メーカーとしては何の対応も出来ない・・と言われてしまった。。まるで、Dellの対応と同じだわな??
つまり、iPhoneなら使えると言う事なのだけど、それで2万円の出費はキツイわな???
チェキの大人用のを見て見たのだが、でっかくてかさ張って実用的ではないな??


元メーカーの人間です笑
キングさん、、製造中止多いから( ; ; )
芦塚先生に需要があったんですね!
申し訳ありません(TT)
11月21日 19:36


あらま~あ???
11月21日 20:05




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11月21日 18:16 ·
「深まる秋のコンサートNr.3」
17年11月19日、花見川区花園自治会館のコンサートです。
曲はVivaldiの四季より「夏」Op.8
です。


17年11月19日深まる秋のコンサート花園自治会館Vivaldi四季より夏

芦塚音楽研究所千葉音楽教室の花見川区花園自治会館のコンサー…




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11月21日 23:16 ·
「深まる秋のコンサートNr.4」
17年11月19日、花見川区花園自治会館のコンサートです。
曲はMatthias Georg Monnのcello-concerto g mollより1楽章、
cello-soloは森真雅(小5)です。


17年11月19日花園自治会館コンサート Monn cello-concertoⅠ楽章g moll

2017年11月19日千葉市花見川区花園自治会館での、深まる秋の…



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11月22日 2:48 ·
「深まる秋のコンサートNr.5」
17年11月19日、花見川区花園自治会館のコンサートです。
曲はVivaldi d moll doppel-violin-concerto Op.3Nr.11です。



17年11月19日自治会館コンサートVivaldi d moll doppel-violin-concerto Op.3 Nr.11

2017年11月19日、八千代市生涯学習プラザのコンサートのProb…



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11月24日 4:55 ·
「八千代のコンサート オータム クラシック コンサート 秋を纏う弦の調べ」
八千代の細かいdataを先生達に聞いて、Pageを作り始めようと思ったのですが、先生達は未だ白河夜船らしく、何の返事も返って来ません。
未だ、4時になったばかりなので、当たり前のお話なのですがね・・・。

という事で、ご来場頂いたお客様方々、或いは、八千代のコンサートでお手伝い頂いた保護者の方達に、取り敢えず、お礼を紙上を持ってお伝えしたいと思います。(windows上で・・と言うべきなのかな?)
ホールの方々にも大変心遣い頂いて、出演者一同、感謝いたしています。
cameraの担当の方にchapterを付けて頂いたので、丸々1日掛かる分割の作業が、4時間程度で済ました。4時間と言うと、大変時間が掛かっているように思えるかも知れませんが、3台のcameraの分割作業なので、1台辺りでは、1時間程しか掛かっていません。とても、助かりました。
これで、編集作業の下準備が出来て、実際の編集作業に入る事が出来ます。
これから、3台のcameraを適当に編集しながら、ついでに、演奏のcheckをします。
今週の反省会迄に、ある程度は、出来ると良いのですが、それは、体力と体調の問題なので、You Tubeにuploadする迄には、もう暫く、時間が掛かりますので、楽しみにお待ちください。
重ね重ね、お手伝い有り難う御座いました。
それはそうと、私のダウンジャケットは何処に行ったのだろう??



Vivaldi d moll doppel Op.3Nr.11です。
美浜の発表会から、自治会館コンサートと3回目の演奏です。
https://www.youtube.com/watch?v=gncXuieGk3I






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11月25日 0:38 ·
Vivaldi a moll Op.3Nr.6の編集をやっていたのだけど、白カメのdataがa mollだけ、おかしくなっていて、編集が出来なくって、頓挫してしまいました。同じ白カメの他の映像はちゃんと映っているし、a mollもdeckでは再生が出来るのだけど、編集機器では出来ません。困った❢❢困った❢❢❢ 今日は一日比較的に元気だったのだけど、今は鬱の頂点に達して、自分の状況を呪っています。う~ん❢❢
You Tubeではなく、Facebookの動画です。SDcardが戻って来たらもう一度編集にchallengeしてみます。それ迄の暫定です。



皆生き生きとしていますねー
11月25日 8:00

楽しそうに弾いてますね🎵
11月26日 1:23


うちの母が、「5年前よりレベルが上がってるわね」と言ってました。おかしいな?そんな訳無いのだけど、芦塚マジックと、生き生きと乗りよく弾いたのとで、まるでレベルアップしたかのように勘違いしてくれたようですよ😄
11月26日 7:34


乗りと体感の迫力だけは、確かに前回よりは遥かにパワーアップしていますよね。前回は年齢が高い分、良い表現では、「落ち着いている・・」悪い表現では「乗りが悪い」ようですね。
でも、その分雑になっている分けではなく、これが一生懸命努力した結果の、今回のNiveauなのでしょうね。
でも、前回よりも、年齢も技術も劣っているのに、「levelupした」と聞こえるのは、「音楽は技術や年齢ではない」という私の主張が認めて貰えたようで、とても嬉しい❢❢
美音ちゃん達、良かったね❢??
11月26日 12:42


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11月25日 2:26 ·
「八千代のコンサート オータム クラシック コンサート 秋を纏う弦の調べ」
Vivaldiのa mollのviolin-concertoと夏をuploadしようと編集を始めたのですが、白カメのdataが壊れていて、2カメだけしか編集出来ませんでした。という事で、先にMonnの白カメのdataは正常だったので、そちらを取り敢えず先に編集してuploadしました。

https://www.youtube.com/watch?v=mjzGOXCkfOk



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11月25日 4:23 ·
「八千代のコンサート オータム クラシック コンサート 秋を纏う弦の調べ」

HändelのCembalo-suiteの中のsarabandeのthemaによる私の擬古典の作曲ですが、擬古典というgenreでは、Tommaso VitaliのchaconneのPiano-versionでFerdinand Davidが有名ですが、celloではMarin MaraisのMarin Bazelaile版や、今回のVeraciniのような版が有名です。

それに対して、今は同じ擬古典として分類されているのですが、Kreislerの「pugnaniの主題に寄る・・・」とか、私がarrangeをした「CacciniのAve Maria」とかは、完全な創作なので、私は冗談で偽古典と呼んでいます。

擬古典とは、全くgenreの違うoriginalの作品なので、同じ括りでは、言って欲しくはありません。
CacciniのAve Mariaとして有名な曲ですが、それは全くの創作で、baroque時代には、そう言った和声法は存在しません。
実際のCacciniと言う作曲家の作品は、古典イタリア歌曲集に、「Amarilli, mia bella」という有名な歌曲が掲載されています。
とても素晴らしい作曲家です。

Händel=Ashizuka sarabande(la folia)
本田梨紗 viola-solo
萩元美紀 Cembalo-Begleitung

https://www.youtube.com/watch?v=YcSLiSfIIJg


CacciniのAmarilli, mia bellaは、以前にも参考にYou Tubeを掲載しておきましたが、今度は、別の人の演奏を、目を瞑って、お聴きください。
https://www.youtube.com/watch?v=roJSYFu3pYk


Amarilli mia bella

Giulio Caccini (1551-1618): Amarilli mia bella Philippe Jaroussky, countertenor Björn Colell, theorbo *******…
11月25日 10:26

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昨夜は編集作業が白カメのdataの不具合で

11月25日 10:52 ·
昨夜は編集作業が白カメのdataの不具合で中断してしまいましたが、朝からcheckをし直して見たのですが、殆どの曲のdataが壊れていて、白カメは使い物にならないと言う事が分かりました。SDcardからdeckを介さないで、直接パソコンに取り込んで、不具合が起こるかを、確認して、それで、ダメなら、一度、camera本体にdataを戻して、camera上でdataの書き直しをしてみなければなりませんが、cameraは検見川教室に戻してしまったので、日曜日にならないと、cameraを持って来れません。
ん・・・?? 今日はヒョッとして土曜日か??
じゃあ、明日、持って帰れるじゃん❢❢
Leclairのduoの白カメは、大丈夫だったので、取り敢えず、そちらを先に編集しました。

https://www.youtube.com/watch?v=KS564yYgVl8

鬱で引き篭もっていたのですが、色々と書類の手続き等の雑用で外に出ないといけなかったので、ついでに椎名町に寄って、資料とSDcardを持って帰って来て、早速、directにパソコンに取り込んで、編集作業をやってみました。なんと、問題無く編集出来るのですよ。Digaで編集してパソコンに持って来たのは、「時短」にはならなかったようです。
梨紗が演奏を依頼されて、encore-programを見て欲しいと言う事だったのですが、鬱が酷いので、断る予定だったのだけど、連絡が間に合わなくって、結局、椎名町ではなく、自宅でlessonをしました。3歳からの強み、部屋が整理出来ていなくても、梨紗には、関係ないもんね❢❢アハッ!
それから、大急ぎで、モミの木の訂正と聞き取り易いように、弦の音をPianoの音にして欲しい・・という事なのだけど、Pianoの音にすると、自動的に音部記号が変更されるので、別名で保存してから・・です。ギガ便で音源を先生達のパソコンと教室のパソコンに送って音符を変更して・・、夏の編集を終わらせました。

https://www.youtube.com/watch?v=0555N0k7vtc

17年11月23日八千代コンサートVivaldiの夏

八千代市生涯学習プラザ主催オータムクラシックコンサー…

11月25日 23:19


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八千代市の生涯学習プラザが、広告をしてくれました。

11月25日 22:05 ·
八千代市の生涯学習プラザが、広告をしてくれました。新聞の半面全部です。凄い❢❢







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今日は反省会兼打ち上げ兼初見練習をしました。

11月27日 1:14 ·
今日は反省会兼打ち上げ兼初見練習をしました。
projectorのセットでコードの端子が合わず、ドタバタしたけれど、諦めてuploadしたYou Tubeを映写しました。八千代のアンケートも好意的で良かったのですが、帰りは、すっかり鬱になってしまい、それ以上に、疲れもあって、首都高で3回もタイヤ鳴りをさせてしまいました。反省❢❢



  


Wieniawskiの紗來ちゃんの歳が小学2年生になっていたので、急遽、作り直しました。
https://www.youtube.com/watch?v=b5vvjvwSCCY


17年11月23日八千代コンサートWieniawski Polonaise-brillante A Dur Sara…
11月27日 15:11



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な、な、な、何と❢❢❢不具合は白カメだけだと思ったら

11月27日 9:40 ·
な、な、な、何と❢❢❢不具合は白カメだけだと思ったら、mainの4Kのcameraも、楽器紹介のdataだけが、おかしくなっていて、パソコンに取り込む事が出来ない❢❢再生すると普通に出来るのだけど、編集が出来ないのだよな??困った❢❢困った❢❢❢  
蛙trioや、山の音楽家trioがupload出来ない・・❢❢
SDcardはもう、消したかな~?



シオンちゃんのHändelです。お待たせ❢❢
https://www.youtube.com/watch?v=AqvfS2gkI5w



17年11月23日八千代コンサートHändel 泣かせ給え Sop.葛巻しおん

八千代市生涯学習プラザ主催オータムクラシックコンサー…
11月27日 15:12



お待たせいたしました。かえるの歌トリオです。
https://www.youtube.com/watch?v=onXSPnFFz0A


17年八千代コンサートかえるの歌の輪唱とPianotrio 芦塚陽二作曲

2017年11月23日八千代市生涯学習プラザ主催…
11月28日 8:49





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山の音楽家と蛙のtrioのuploadは、もう暫くお待ちください。

11月27日 16:58 ·
椎名町にSDcardは取りに行っていないので、山の音楽家と蛙のtrioのuploadは、もう暫くお待ちください。Eine kleine Nachtmusikの1楽章を先にuploadします。今年はアイネクは、4月22日の習志野市民文化ホールから始まって、延々と弾き捲りでしたね??

https://www.youtube.com/watch?v=AuI2wEK6da4

恒例のPachelbelのCanonです。10分の1のKontrabassが可愛い❢❢

https://www.youtube.com/watch?v=Z0ylOHJ341Q
2017年11月23日八千代市生涯学習プラザ主催オータムク…
11月29日 21:40




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自治会館と八千代市生涯学習プラザは両方とも多目的ホールです。

11月27日 18:42 ·
自治会館と八千代市の生涯学習プラザは両方とも多目的ホールです。

多目的ホールと、コンサート・ホールとの大きな違いは、音の響きと音飛びの問題です。
自治会館は、多目的ホールとは言っても、ホール自体が狭いので、音の残響は少ないのですが、音飛びには問題はありません。
教室の練習場よりも、少しホールが広いので、コンサート・ホールの舞台上で演奏を聴く感覚で良く、周りのお友達の弾く音もよく聞こえます。

しかし、八千代市の多目的ホールの場合にはホールが広く天井も極めて高いし、舞台から正面と下手側は、暗幕で覆われているので、客席の下手側と正面側は、音が吸音されて、響きがなくなります。
客席から右側、つまり上手側は、木の壁なので、反響は良いので、右側と左側では、orchestraの音のバランスが崩れて聴こえます。
つまり、客席の下手側ではCembaloの音が強く聴こえて、右側では、舞台の演奏の音の方が強く聴こえます。

それ以上に、多目的ホールの場合には、音の残響が弱いので、弦楽器の音はプチプチと余韻がなく、切れて聴こえてしまいます。暗幕は端に寄せる事が出来るので、ガラス戸にしても良いのですがその場合には音はガラスで歪んでしまいます。ですから、寧ろ吸音された方が良いのです。

ヨーロッパの優れた演奏者の場合には、それをtechnical-acousticと言って、(これは正式名称ではありません。
そう言った奏法が確立されている分けではなく、演奏者が独自に弾いている奏法に過ぎないので、名前はないのですが)恰も、余韻がホールに響いているように弾く奏法で演奏しますが、教室のorchestraや生徒達もその奏法で演奏するので、八千代の多目的ホールがコンサート・ホールのような響きで聞こえてきますが、これはあくまでも教室独自の演奏法なのです。
という事なので、日本の音楽家達にそれを言っても通じないのだけどね??

私は、高校生の時には、医学部進学クラスに居て、周りの同級生達も全員医学部進学希望の生徒だったのだが、私は音楽への道に進みたかったので、再三その希望を家族に言っていたのだが、認められる事は無かった。兄貴の方が成績は良いのだから、医者は兄貴が継ぐべきだと思っていたのだが、周りの人達は私が継ぐものだと思い込んでいたようだ。特に、母親の旦那は、「私が医者になるのならば、マンションも買ってやるし、裏口の入学金も出してやるけれど、音楽に進むのならば、一切の援助はしない」と言っていた。音楽大学に入学してしまえば、何とか・・は、Stiefvaterの場合には、成り立たないのだよ。実際の親なら、情にほだされる事も在るのかも知れないけれど、所詮は他人なのだからね。

私の音楽家への夢を、「河原乞食になりたいのかい??」と言って、一番反対していた祖母が、当時は、天文学的に高価だったピアノを畑を一つ手放して、買ってくれた。祖母は、自分の頭の中の河原乞食を、学者先生と思い替えて、私の音楽へ進む事を最初に許してくれた。感謝である。祖母が死ぬ前には、ドイツから帰国して大学に就職していたのだから、一応、祖母の望は果たした事にはなる。祖母が死んだら、さっさか、大学の先生は辞めたけれどね。

私の若い頃を知っている多くの人達が、一同に言う事がある。
それは、私が生徒を指導している事が信じられない・・という事だ。
昔、私が指導していた生徒達が音楽大学を受験する時の面接の時に、「芦塚先生に師事」と書いていたら、試験官が驚いて、根掘り葉掘り質問されたという事で、それ以来、私の名前は指導者の欄には書かないようにして、斉藤先生や牧野先生の名前で受験をしています。

(舞台から正面の写真です。)






Vivaldi a moll Op.3Nr.6ですが、白カメのdataを直接パソコンに取り込んだので、編集が出来ました。
白カメ抜きのFacebookの直接の動画よりは映像も音声も良いのでは??と思いますが。
https://www.youtube.com/watch?v=L0w6o5jBLIQ


17年11月23日八千代コンサート Vivaldi a moll Op.3Nr.6
11月28日 18:26


今回の子供達だけのVivaldi a moll Op.3Nr.6の演奏者の人数は、baroque時代の当時の人数を再現したものです。baroque時代のorchestraの人数は、宮廷の経済的な理由から、必要最低人数で決まっていました。大きなヨーロッパ最大の宮廷でもそうでした。一つは、音楽がpolyphonyの音楽なので、人数の多い編成よりも、少ない方が旋律がよく聞こえたからです。大きな曲を演奏する時には、近郊の宮廷から、団員を借りて演奏していました。大きな曲を演奏する機会は滅多にないので、必要な時だけ近在の宮廷から音楽師をチャーターするのが、経済的に効率が良かったからです。

さて、このVivaldi のa mollの曲ですが、最低何名の演奏者で演奏出来るか?・・は、2楽章で決まります。
2楽章はsoloとviolinが3名とviolaが1名になっていますが、そのままの編成ではviolinが強過ぎて、とてもbalanceが良いとは言えません。
Ⅰ楽章とⅢ楽章はviolin2とviola2にすると、solo1なので、とても良い編成になります。
つまり、Ⅱ楽章はviolaの人が、violinに持ち替えて演奏すれば良いのです。
という事で、solo1、violin2,viola2,continuo-cello1、cello1、Kontrabass1とCembaloで、9名の編成になります。

今回の演奏では、Cembalo担当の七星ひかりちゃんがviolinⅢに持ち替えて演奏しています。(他の曲で、弦を演奏する時には、violaを担当していたので、この1曲のために楽器を二つ持って来るのはしんどいので、violinⅢをviolaで演奏しています。violin2本とviola2本なので、balance的にも問題はありません。)
ですから、solo1violin2viola1continuo-cello1、cello1、Kontrabass1とCembaloの編成で、8人の編成になります。
いずれにしても、この人数が必要最低限の人数になります。

http://music.geocities.jp/ashizuka.../vvd-a-1-analyse.html


Vivaldi a moll ⅠAnalyse

11月30日 3:05






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「仕事は出来るときに終わらせておかないと・・」

11月28日 11:47 ·
仕事というのは、出来る時に総てを終わらせておかないと、その仕事をする事が必要な時にやろうとすると、overworkになって絶対に出来なくなるか、「やっつけ仕事」になってしまう。
「やっつけ仕事」は自分の信用を無くしてしまう。
それだけはやってはいけない。
人は、時間が無いのではなく、時間を作れないのだよ。
時間は在る時に使うのだよ❢❢
そうすれば何かに追い立てられて、忙しいという事はなくなる。
そうしないと、演奏会の企画や、仕事は出来ないのだよな。
特に私のように歳を取ってくると、急ぎの仕事は無理になってしまう。
だから、少しでも時間が在れば、その時に仕事をドンドン済ませて、貯めておくのだよ。
仕事に追いかけられる人生が良いのか、仕事を追いかける人生が良いのか??生き方の違いだなや??

私が未だ若い頃の、留学から帰って来たばかりの頃に、それこそ日本で一番忙しいと思われる人と一緒に仕事をした事がある。mainの仕事だけではなく、日本中の色々なサークルの会長さんでもある人で、毎日、日本中を飛び回っているのだよ。次のMeetingの予約を取ろうと、「**さん、次は何時が開いてますか?」と尋ねたら、「芦塚先生の都合でいつでも良いですよ。」と返って来た。「えっ??お忙しいでしょうから、合わせますよ❢」と言ったら、「いつでも良いですよ❢❢」と手帳を見せてくれた。何と、真っ更なのだよ。
不思議に思って尋ねると、「忙しいので、仕事はその場で片付けないと、溜まってしまって、動けなくなるのですよ❢」という返事だった。
そうか?? 本当に忙しい人は、仕事を入った時点で消化しないと、仕事を熟す事が出来なくなるのだよな??と納得してしまった。
時折、仕事をしているという事を自慢している人に会うのだが、見せて貰うと、その人達の手帳のscheduleは真っ赤っ赤だ❢❢ その癖、私程の量の仕事はしていないのだよ。
つくづく思ったネ?? 時間はあるものではなく、作るものだと・・・❢❢

オケ練習の時も、曲決めで新しい譜面を貰った時に、その次の練習の時までに或る程度、練習を仕上げておくと、毎回の練習も楽しいし、練習も上手く行くのだが、発表会が近づかないと練習しない人は毎回のオケ練習が上手く行かなくって当然本番も失敗する。
全く、同じ量の努力をするのだが、その努力を、「初めにする」か、「本番直前で追い立てられてするか」の違いなのだよ❢❢
それで、「練習の量」が変わる分けではないのだが、その練習の結果は全く違って来るのだよな?
これは仕事も同じ、人生も同じなのだよ。
幾ら、説明をしても、仕事のやり方と同じ事だ❢❢・・勉強の仕方と同じなのだ❢❢と言う事が理解出来ないのだよな?

醗酵が必要で時間が必要な作業であったとしても、その仕込みは直ぐにやるのだよ。仕込みが終わったら、熟成する迄、気長に待つ事は大切なのだけど、仕込みもしないで、放って置くと、その仕事は派生しないのだよ。当たり前の話だけどね???


弦楽五重奏用に私がarrangeをしたSweelinckのOrgan曲のMein junges Leben hat ein Endです。冒頭に元のmelodieにoriginalの歌詞が付いているのですが、本当は歌で歌ったならば、それから演奏が始まっても、格好良いのですが、唄の代わりに、violin1本で演奏したら、様(さま)になりませんでした。
と言う事で、Renaissance風の和声法を使って、violin2本とviolaだけで、前奏の部分を付け足しました。
八千代の演奏の動画を、uploadしたのですが、Titleの演奏者氏名に、Kontrabassの牧野先生が落ちていたので、動画を編集、renewalしました。
こういった失敗を、・・・よくやるのよね???
これが・・・❢❢❢

https://www.youtube.com/watch?v=2BvC-GQFagI


17年11月23日八千代コンサートSweelinck Mein junges Leben hat ein End

2017年11月23日(木)八千代市生涯学習プラザ主催オー…
11月30日 9:36


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11月28日 17:17 ·
「日本人の持つ甘えの構造」
ヨーロッパやアメリカでは、自由な生活は自らの力でRevolutionで勝ち取って行ったのに対して、日本では、今の自由主義の生活でも、アメリカから与えられたものであり、江戸時代からの、常に寄らば大樹の陰、親方日の丸、ブランド志向で、自分の将来に対しての決断をする事すら出来ない。

同じ、儒教の国であって、日本よりも、封建制度が厳しいと思われる韓国の女性ですら、高校から大学への進学や、就職は親に相談する事はない。
日本人の女性が親や学校の先生に進学や就職を相談しているのを見て、ルームシェアをしている韓国の女の子が不思議に思って尋ねると、「親や先生は、人生経験が豊富だから・・」と答えた・・と言う。
(これもテレビの受け売りなのだが・・)韓国の女子大生は、日本女性が「社会人になるという事、大人になると言う事は、自分で人生の決断をする」と言う事なのだ・・、と言う事を知らず、大学生になっても、何時迄も、子供のままでいる・・と、呆れていたのだよ。そういう、私も大学生の頃に、「親が入学式や卒業式に付いて来る」と言う事を呆れて見ていた事がある。大学生とは社会人になるための訓練所ではないのか??と思っていたからだ。

それは一般の大学生の話なのだが、女性の話となると更に悲惨であるよ。
日本のGDPはアメリカ、中国に次いで、世界で3位なのだが、女性の地位を見ると、世界では144位、144カ国の中では、111位とドンドン下がっている。
不思議な話だ。
女性の地位の向上はその国の社会のlevelを示すのにね??

この女性の地位の問題は、しかし 、その問題を男性の側だけに押し付ける事は出来ない。
日本人の女性の側にも、その 原因があるのだよ 。
親に自分の総てを委ねる女子大生と同様に、夫唱婦随で生きていく事は 、自立をする必要はないし、決断を迫られる事もない。

しかし、それは女性に限った話ではない。
男性にも、女性達と同様のtroubleが起きているのだよ。
親方日の丸の日本国民は、自分で決断をする事を極端に忌み嫌う。
それは、自分が責任を背負う事はないし、ある意味、自分で責任を負わないと言う事は、極めて、楽であるからである。
大人になり、自立をする事は、同時に社会的責任と決断を背負う事でもあるからだから…。
それが日本人の引き籠もりの大きな原因にもなっている。
良い子供として、総てを親が決断して来て、大人になっても、何一つ自分自身では決断をする事が出来ない、社会的な責任を背負う事の出来ない大人-子供として育って来たからである。

日本では、女性の地位と同様に、芸術家の地位も低い。
ヨーロッパでは、音楽家の地位は、市長さんの次で、お医者さんとその地位を二分している。
尊敬される存在なのだが、日本の場合には、大道芸人と同じであり、未だに河原乞食的な地位として把握している人達が多い。
naz何故日本の社会では、芸術家や職人は高い評価を受けないのか??というと、それは、そう言った人種に必要とされるものは、i dentity(独自性、個性)であるからだ。

日本社会では、価値は、地位やブランドや金銭で評価されるものであり、社会は、人間に対してではなく、金を儲ける会社に対して、配慮されている。
当然、に会社努める人間は、上司の言う事を守って、言う通りに行動する人間であって、それはi dentityとは真逆の人種である。
儒教の発想は、君子に仕えて、行動をする軍隊のような存在である。ドングリである事が大切な条件である。
会社さえ良ければ良い、という発想が日本人にはある。
何の事はない、江戸時代の封建制度の時代から、何一つ変わっていないのだよ。

i dentityの否定、・・これも社会の水準を意味する。
人間に対して・・というのは、人間の文化に対しての意識と同様なのだけどね。

アルカイダは、他の国の文化を認めようとはしないし、女性の地位さえも否定する。一夫多妻は兎も角としてもね??
女子供の話を聞く事はなく、男性が総ての決定権を有する。
女性と子供はその夫に従属するものなのだ、という考え方によるのだよ。
それって、今時の、どっかの国とたいして変わらんよね??

日本の小学生に、「女性は結婚して家庭に入って子育てに専念するのが理想である。」 とアンケートを取ると、多分、95%ぐらいの子供達がそれは正しいと認めると思う。
勿論、このアンケートは、大人の社会でやっても、同じ%になるのだろうがね??

しかし、この設問は、同じ設問をアメリカやヨーロッパですると、セクハラになる・・という事を知っているのだろうか??

日本と外国では、物の考え方が余りにも違い過ぎる。
これが女性の地位の世界でのランクが144位の理由でもある。
globalstandardの外国では、女性が専業主婦であろうと、無かろうと、家事や子育ては平等にやるものだ・・という考え方が普通なのだよ。
寧ろ、子育てに至っては、男性の権利である、と思っている男性達が多いのだ。

日本社会はドングリの横並びの社会なので、教育界でも、一芸に秀でる人達を認める事はない。
軍事国家に取って、独自の考えを持つ事は極めて危険な事だからだ。
「出る釘は打たれる」の喩え通りに、学校教育でも、学校で教える教科以外は絶対に認めようとはしない。
音楽でも部活の域を越してはならないのだよ。
でも、それでは、一芸にはならないのだよな??
最も、学校で教える社会というもの、所謂、社会勉強は、子供には、大人の社会は絶対に理解出来ない・・という前提の元に指導される。
つまり、簡易楽器のような、おもちゃのような、社会を作って、体験をさせる事をして、大人の勉強とする。

学校教育による、ボランティア活動で、興味を持って福祉の世界に入った学生達が、現実の現場で、3k,4Kの現実に直面して、実習の途中で挫折する生徒が多いのは、その副作用である。
学校での社会学習、所謂、職業としての勉強をする場合には、教育用に作られた、簡易な技術や社会構造を学ぶ。

でも、職人の社会では、技術習得を学ぶ時には、実際の社会の活動の中の簡単な作業を取り敢えずは、勉強する。
決して簡易な「仕事にならない仕事」「勉強のための仕事」を学ぶ分けではない。
どんなに簡単な作業であっても、仕事の範疇の中に入る作業であり、金を得れる作業なのだよ。

日本の女性の地位の問題は、そのまま、子供の教育にも当て嵌って来る。
日本の家庭の場合には、男性は、子供の教育の100%を母親に任せる。
しかし、子供の将来の事になると、それを決定するのは、常に父親であって、或いは、男性の親族であり、女性が子供の将来に口出しが出来る事は先ずない。

当然、子供は常に母親と二人三脚で勉強をしているのだから、父親が子供の現実や将来の夢を本当の意味で知る事はないのだが、それでも、日本社会では、子供の将来の決定権は父親にある。アルカイダと変わらないのだよ。

この問題は、私が音楽教室を開設して、これまでの35年間、悩んで来た問題なのだから、同仕様もない。
日本社会の構造的な癌なのだから、何とも致し方ない。

ヨーロッパ型の家庭では、父親も母親と同じだけ分担して、子供の教育をする。
「子供は夫婦で共に守るべきものだ」・・という考え方が徹底しているからだ。
だから、子供の将来で、親子や夫婦が対立する事はないし、父親が子供に見捨てられる事もない。
それは、共稼ぎであるから、と言う理由ではない。
ヨーロッパの場合には、母親が専業主婦であったとしても、同じなのだよ。
ヨーロッパや、アメリカの子供達が幸せかどうかは、日本人には理解出来ない。
何故ならば、殆どの子供達は自分で将来を決めて、大学への学費もバイト等で自分で稼ぎ出すからなのだ。

親が学費を出す・・という甘えは、ヨーロッパやアメリカの子供達にはないのだ。だから、「行きたい」「勉強したい」という学生だけが、大学に行くのだよ。
猫も杓子も大学に行くという日本とは根本的に違うのだよ。
テレビの番組で、受験勉強で必死になっている受験生に対しての質問で、「どうしてそんなに頑張れるのか?」という問に対して、「大学に入学したら、目一杯遊べるから・・」と答えていたのに驚いてしまった。
ヨーロッパの大学では、入学出来たら、1年間2年間のお試し期間があって、そこで、認められないと、退学させられてしまうのだけどね。
それに、自分で稼いで大学に来ているのだから、遊ぶという感覚が全く日本人とは違うのだがね。あくまでも技術の習得が目的なのだからね??

殆どの子供が箸にも棒にもかからない普通の平均的能力しか、示さないのに対して、極めて稀にではあるのだが、幸せな事に、子供の能力の一つだけが突出して能力を示す場合が、まま在る。

それが学業でなく、芸術であった場合には、その能力が幾ら優れていたとしても、一般の人達はそれを趣味の能力としてしか捉えない。
つまり、学業だけで、社会人になった、大人に取っては、学業以外は趣味の世界であって、社会的に無意味な趣味の世界に過ぎない・・という意味なのだよ。

そして不思議な事に、一般の親達はそこで、「趣味の世界で、それだけの能力を示すのならば、学業に専念して必死に勉強したならば、マジに頭角を示すに違いない」と考えるのだ。

しかし、能力は基本的に、その子供のたった一つの能力が突出しているのに過ぎないので、後の能力は、どんなに頑張っても、只の凡人の域にしか過ぎないのだよ。
芦塚マジックで、他の教科の成績が上がるのは、大きく二つの要因がある。
その一つの要因は、高い山は裾野も高いからであり、低い山よりも高い山の裾野の方が高いという事だよ。
エベレストぐらいの山の裾野は、5000メーターを有に越すのだよ。

もう一つは、芦塚マジックの方法論(methode)は、別に音楽に限った話ではなく、勉強にも応用が利くからなのだよ。
何時も言っている事なのだが、芦塚メトードは、別に音楽に対してのmethodeではないのだからね。

ただ、困った事に、音楽を指導する時には、先生が芦塚メトードで指導するので、非常に大きな成果を上げる事が出来るのだが、そのmethodeを自分で応用する子供は極めて少ない。
でも、歴代の生徒では、塾にも行かないで、音楽に専念しながら、高校や大学迄、topを通した生徒は多い。
一言、二言のadviceで、学校の成績がtopになるのだよ。

昔々、教室を開設したばかりの江古田教室には、東大やハーバード(❢)をdirectに受験する生徒達がいた。
受験のシーズンになって、「そろそろ入学試験じゃあないの??」と質問をしたら、「ああ、もう終わりました。」という返事があった。
受験直前でも、全然一度も、lessonを休まなかったので、その理由を尋ねたら、「一番怖いのは、自分のrotationを崩す事です。平常に生活をする事で勉強を乱さないのが一番です。」という答えだった。「流石だ❢❢」と思ったね。

教室を開設して、暫らくすると、一般の大学を受験する生徒が多く出始めた。子供達の年齢が上がったからなのだが、そこで、オケやlessonを休学する生徒達は入試に落ちる確率が異常に高いのに気が付いた。
逆に、全くオケやlessonを休まない生徒の方が合格率は遥かに高い。

或る男の子が親の希望で、1年間lessonを休んだのだが、見事に浪人をした。それで、その生徒は、「俺が一浪をしたのは、父親に言われてlessonを休んだ性だ❢」と言って、父親には内緒でlessonに通って来た。
父親にその理由を説明するのが面倒くさいからだという理由である。
勿論、次の年、目的の大学に、無事に合格したのだよ。

受験のために、オケ練習を休んでいる生徒が、家で暇なので、ゲームをしている。
そうすると、折角、オケ練習で築き上げたその生徒のNiveau(水準)がKeep出来ない・・という事よりも、その子の意識の水準が下がってしまうのだよ。
だから当然、成績も下がる。
でも、塾では教えた事しか問題に出ないのだから、塾の成績は上がる分けなので、本人も親も、その子供の水準が下がってしまった事が分からない。
一生懸命勉強をしたのだから、成績が上がった・・と思い込んでいる。

塾に行って、自分は必死に勉強をしているつもりになったとしても、結局の所は、周りの生徒達も、同じ様に勉強を必死にやっているのだよ。
だから、所詮は、ドングリの域を出ないのだよ。
自分がラストスパートを掛ければ当然、周りもラストスパートを掛ける分けなので、その差は縮まらないのだよ。
そんな事も分からないのかね??

本当に勉強の出来る生徒達は、それを外から見ている。
有象無象が群れる様を傍から見ているのだよ。
だから勉強をしなくても、成績がずば抜けてしまうのだよ。
兵隊は何万人いたとしても、軍師は一人で良いのだよ。

音楽でも、学校の勉強でも、勉強そのものを直す事よりも、勉強に向かう姿勢を直した方が、成績は上がるのだよ。
音楽で一番に成れれば、学校の勉強なんてたかが知れているのだよ。
そこが理解出来ない人達には、どんなに頑張ったとしても、そこそこの成績しか取れる事はないのだよ。

つまり、教室で何時も、生徒達に酸っぱく注意をしている言葉に、「同じ注意は二度と受けない」と言うのがある。
しかし、concoursを受ける生徒に、同じ注意を半年間、言い続けた事がある。lessonで、演奏の仕方を注意して、ちゃんと弾けるようにして、家に帰ると、次のlessonでは、真っ更になってlessonに来る。そして、同じ注意をして、弾けるようにして・・・、また次の週のlessonでは、真っ更なのだよ。
そんなlessonを半年間続けた。
根性と忍耐力の賜物だよな??

そんなlessonを受けたいのなら、それは、俺が教える必要はないだろう??
私が教えるのは、只の安心感であり、自分の精神的な保険ではないのだよ。
同じ注意を二度と受けない・・というコツは、何処まで分かっているのか??何処が分からないのか??を理解する事なのだよ。
暗譜のコツも同じで、暗譜の曖昧な所(ウル覚え)の所を理解する事だよ。
じゃあ、どうすれば、そういう事が出来るようになるのか??
簡単だよ❢❢ そういう性格になれば良いのだよ。

勉強で一番大切な事は、昔々から、homepageにも書いているように、頭痛で、痛み止めを飲む事よりも、根本原因の治療をする事なのだよ。
所謂、対処療法と根本的な根源治療なのだよ。

弓が横に流れるのを、幾ら注意しても、注意をしている時しか治らない。
一旦、無意識になると、また弓が流れてしまう。
弓を流れないようにするには、弓の持ち方と、楽器の構え方を直さないと根本的な勉強にはならないのだよ。
vibratoにしても然り❢❢
音色の作り方にしても、基本は、楽器の構え方と、弓の持ち方に還元するのだよ。
学校の勉強も同じなのだ。
考え方を直さないと成績が上がる事はないし、考え方を直せば勉強なんかする必要はないのだよ。 

折角、 人よりも優れた能力を持ちながら その 人よりも突出した能力を捨てて、 人と同じフラットな横並びの場所で、一般的な所で勝負をするのは、余りにも、 無駄な努力であり、無駄な 労力であり、馬鹿げた事だ・・と思うのだが 、殆どの人達が、それを選択する。

何故、そんな馬鹿げた選択を・・、と思うのだが、それは「他の人と同じ事をする」と言う事が、他の人達と同じ・・という、安心感を導き出すに過ぎないからである。
所謂、どんぐりの心理なのだよ‼

ドングリの中で勉強をして、その中で 頭角を現すためには、一番 競争が激しい所で勝負をしなければならない ‼
学校教育の勉強の中で、人よりも一つも二つも上に立つためには、 どんなに勉強をしても、 人の上に立てることはない ‼

100人の中で 頭角を示すのと、10万人の中から、頭角を示すのでは その 水準は全く違う ‼

10万人の中で 頭角を示すためには 、勉強をして成績を上げるぐらいでは、とても無理なのだよ。
勉強しなくても、学校で一番の成績を取るような能力を持っていなければならないのだよ??

ノーベル賞を取った人達で、勉強をしてその秀でた能力を示した人はいないのだけど、それを誰も認めようとはしない。
ノーベル賞を取るような人種は、勉強をして、何とかなる・・というlevel、 水準 ではないのだよ。
勉強という所では追いつかないlevelの所で、学べなければならないのだ。

一般的な人の言う所の、「趣味の音楽」で、そこまでの水準を高く取る事が出来る子供でも、 それは突出したその子供の 能力に過ぎないのだから 、その子供が突出していない一般的な自分の能力で、他の人達と勝負したとすれば、 それは、どんなに努力しても、人よりも高成績を取る事は有り得ないし、幾ら苦労をして、勉強をしたとしても、人よりも上の 成績を取ることは 有り得ない。

そんな分かり切った事さえ、 一般の人達は認めようとしない‼
それは 芸術 などの 異能の分野を「 自分達には理解出来ないもの」として最初から 認めようと しないからである‼
「全ての人が、自分と同じ土俵に居ないと安心できない」からである‼
それがドングリの心理である。

勿論、地域の小学校の中の、それまた一つのclassで一番になったとしても、たかがしれているのだよ。
市には小学校が幾つあって、県には、そして、日本には、幾つの小学校が在ると思っているのかな??

東大病と言うのがある。
小学校から高校を卒業するまで、1番で通して来た学生が、東大に入った途端に、5000番とかいう成績になって、プライドが粉微塵に打ち砕かれるのだよ。
東大迄くると、幾ら勉強しても、もう絶対に一番になれないのだよ。
それで、5月になると、子供の時から、神童として社会に認められて来た自分自身に対する自惚れが粉微塵に砕かれて、結果として、鬱になるか、最悪の場合には、自殺をする。
しかし、その日本の誇る東大ですら、世界のランクで見ると、たかが知れているのだがね??




先生の投稿を拝読して・・ウチの音楽教室で、厳しいレッスンにもめげず良い演奏をする生徒さんほど、「音楽では食べて行かれないので趣味で・・」と言い、
音符を読めない状態の人ほど、「音大受けたいんです〜」と、飛び込みレッスンに来る確率が高い理由が、何となく分かった気がしております。😔ー3

12月1日 20:05


私としては、自分の人よりも勝れた能力を捨てて、普通になるために、一生懸命努力をすると言う事は、全く理解出来ませんがね⁉
それこそ、人生の無駄にしか思えないのですがネ⁉
12月2日 16:28


私もそう思うのですが・・得てして、そうした生徒さんは学力的にも優れていたりするので、「一般的感覚」としては、勉学に励む方を選択してしまうようです・・😢
12月2日 20:56



音楽教室の経営では食べてはいけない・・というのは、一般的な音楽教室では、必要経費は殆どないので、時給に換算すると、非常に効率の良い仕事ではあります。ましてや、自宅で指導している場合には、地代家賃すら必要はないので、ボロ儲けかも知れませんよね。しかし、私達のように、教室を借りて、そこで、室内楽やorchestra等をやってしまっては、儲かる事は無く、殆どが持ち出しになります。音楽教室の経営では生きて行けないというのは、私達に限っては、そうかも知れません。
しかしながら、「Classicでは生きていけない」というのは、指導する音楽の先生達も、生徒達も、「音楽は職業である。」「音楽家は職人である」という事実に背を向けて音楽を学んできて、そのまま、学んだままに、指導している事がその最大の理由です。
私自身はClassic-onlyで活動をして来て、生活をする事に困った事は一度もありません。
寧ろ、音楽教室を開いて、子供達に本当の音楽を教えるという、馬鹿げた妄想に囚われてからは、お金が掛かってしまい、そのオケや室内楽の指導は先生達のボランティアで、対外出演は教室からの持ち出しで・・と、それから、私の音楽教室への私財の持ち出しで、何とかこういった夢の教育を存続しています。
この私達のorchestraや室内楽、或いは対外出演は、私達指導者のたつきの糧では絶対になくって、単なる趣味なのですよ。
(法務局のお達しで、稼ぎのない音楽活動は、仕事ではなく、単なる趣味の世界なのだそうです。会社としては、収入のある活動をせよ❢❢とのお達しです。)
でも、市や区がお金を来れる分けはないのだからね。
12月3日 1:45


日本では、「女性は結婚して子供を育てるのが幸せである」・・という発想があって、年頃になると結婚を焦ってしまいます。所謂、結婚願望というのでしょうか??
その事自体は、私はなんの異論もないのですが、その時に選ぶ相手に対しては、お金や地位、学歴・・、果ては、それすら要らない、結婚して来れるのならば、誰でも良い・・という日本女性の姿勢は、全く理解が出来ません。
少なくとも、その言葉には、蕁麻疹が出そうだけど、「愛しているから・・」とか「尊敬出来るから・・」と言う心を伴うのが本当の姿ではないでしょうかね??

何を言いたいか??・・と言うと、一事が万事で、音楽は恋人のようなものなので、「お金が無くても、愛しているから、この人と一緒に努力しよう」という気持ちがあったなら、音楽の道から、学校の勉強に進路を変える事はないのですよ。
トドのつまり、一生懸命に頑張って努力をしているように見えても、所詮は、音楽は趣味としての意識に過ぎなかったのですよ。その子に取ってはね???
もっとも、学業も、どんなに努力したとしても、その趣味の域を超すことはないのでしようがね⁉
12月3日 1:34


私の場合には、子供達を指導すると言う前に、音楽の勉強を始めた時からのtraumaがあって、私は引き籠もりの先駆者で、既に、小学生の時には登校拒否で1年間を過ごし、中、高生の時からは、所謂、対人恐怖症で、一人の友人もいないという事で悩んでいました。
高校生の時に病気で長期入院をした時に、1年2年と入院が長引いた時でも、同級生の友人(?)達が入院の最初から退院の最後迄、入れ替わり立ち替わり見守ってくれたので、病院の人達は、私が凄い人気者で、多くの親友達に守られている子供だ、と思い込まれていました。
実は私も驚いていたのですが、それは高校の校風で団結力だったのですよ。
音楽大学に入ると一人も友人がいなくなって、留学するとまた多くの友人達に支えられて・・と、不思議な繰り返しを経験してきました。

自分の事について、何を話したいのか分かりませんよね。
つまり、私は、人付き合いが苦手なので、作曲家という道に進んだのですが、私の師匠のGenzmer先生に、作曲家は音楽家を統率する役割を持っているのだ・・と言われて驚いてしまいました。

私が、音楽大学の学生の時には、私は指導者だけにはならない・・或いは、なれない・・という事で、教職の時間を一回だけ受けて、後は、二度と顔は出しませんでした。
だから、音楽大学時代の私の事をよく知っている同級生達は、私が音楽教室を作って生徒を教えている・・という事を知ると、「信じられない!」と口を揃えて驚いています。
勿論、私もですが・・・??
まあ、それにしても、私が子供達を指導し始めた時は既に37歳になっていました。35年も前の話ですよ。
それから、毎年同じ話の繰り返しをしています。
その都度、新しい子供と新しい親なのですが、私が言っている事は毎年同じ事の繰り返しです。
やはり、私は教育者には向かないと、実感しています。
教育者は、人間を好きな、全人格の持ち主である事が望ましいのですよ。
作曲家や芸人は真逆の位置に居るのだからね。
12月2日 5:13


「 音楽大学を受験したい」という生徒さんを指導するには、「入学をさせ無ければならない。」という責任があります。periodのような、世界的にも、稀な奏法を教えても、それでは音楽大学には入学は出来ないので、責任が果たせないので、困ってしまいますし、音楽大学に入学してからperiod奏法を学んだとしても、卒業した後では、日本ではperiodの団体は極めて少ないし、仮に世界に飛び出したとしても、periodで演奏している演奏団体は極めて少ないので、その世界で生きて行く事は非常に難しいかも知れませんよね??
という事で、「音楽は趣味として、s,それなりに極めたい❢」と言う人がいたら、私は大歓迎です。中学生であろうと、小学生であろうと、period奏法の極意を伝授したい・・と思います。
是非一緒にbaroqueや古典派で、私達と一緒に、対外出演をしてください。
音楽は演奏する人のNiveauなので、年齢は必要ないので、小学生でも、proとしての技術さえあれば、色々な場所での出演は可能ですよ。
12月3日 1:56


その生徒がどれだけ音楽に対して、価値を持っているのか?は、double-bookingの質問で、簡単にその生徒の潜在意識を知る事が出来ます。

趣味で音楽を勉強している小学校の4年生、5年生の子供達にこの質問をするのは酷であって、間違えた回答をしたとしても、「まあ、しょうがない」と思うのですが、小学生でも一途な子供は、この質問には引っかかりません。ちゃんと私の望む正しい回答をして来ます。

同じ質問を音大生にブツケて、小学生と同じ回答をしたり、悩んでしまったりするのは、情けない話であって、私に取っては、問題外のlächerlichな話です。

その質問とは、二者択一の質問で、・・質問1,「彼氏とのおデートと先生のlessonが重なったらどっちを選ぶか?」
・・質問2,「結婚式と演奏会がダブったらどちらを選ぶか?」という質問です。
つまり、このdouble-bookingの質問は、その人の音楽に対しての価値観を表します。

この質問に音大生が悩んでしまうのが、笑える・・のですよ。
悩めば悩む程、その生徒の音楽の対しての価値観の低さを表しているのですからね。

音大生は大人なので、質問の意味は分かっています。しかし、それが分かっていても、そこで音楽をselectする事が出来ないのですよ。
自分の眼前にブツケられた質問に迷って判断に窮してしまう。
それが音大生です。アハッ!
12月8日 9:02


「音大生」と言う言い方をしているのは、ヨーロッパの音大生は、皆、職業としての音楽を学んでいるからであって、このdouble-bookingの質問は成り立たないからです。
つまり、女子大生亡国論のbrandとして音楽を学んでいる日本人の学生にしか成り立たない質問だからなのですよ。それは大学の在り方そのものにも、当然、原因はあります。
12月7日 13:12


またまた、Facebookが飛んでしまいました。もうやる気ないな~??教室を作る時のconceptのお話を書いていたのですがね。全くブッ飛んでしまいました❢❢
12月8日 3:17


教室を大きくする事だけが望みならば、一番ニーズのある所にpointを絞れば良いのです。つまり、歌の場合には、カラオケ教室をすれば良いし、Pianoの場合には、Keyboardを主体にして教室をやれば良いのです。
或る程度の水準の音楽教室の場合には、教室の生徒を集めるには、芸大や桐朋の卒業生等を雇って教えさせれば、それなりに生徒は集まるし、また、綺麗な教室を作る手もあります。

しかし、芸大の教授や桐朋の教授が指導している生徒の数は決して多くはありません。
個人で指導している人数は20名を越す事はないでしょう。
一般の音楽教室の先生に比べても非常に少ない人数になります。

それは、当たり前の話で、行列の出来る料理店よりも、名店と言われる老舗のお店に行列が出来る事は絶対にありませんからね。
私達の教室の場合には、Classic-onlyと銘打った時点で、既に生徒を淘汰しているのですから。

教室を開設した時には、未だ、少子化の時代ではなく、先生7,8名で目一杯の生徒を指導していたのですが、その時に私は、一般の音楽教室の生徒と、音楽の方に進みたいという特別な生徒達を、選科生として、そういった生徒達を対象とした教室として検見川教室を、coordinateしました。

しかし、その私の意図が先生達には理解される事はなく、一度も、特別lesson室としての機能をしないままに、花園教室のsub教室として現在に至って居るのです。
私としては、江古田教室や花園教室が一般の生徒を指導する音楽教室として、機能させて、検見川教室は、音楽を専科として捉える生徒達だけを指導するための教室として存続させたかったのですよ。
そうすれば、「あの教室は特別な教室なので、先生の指導に付いて行くのが大変だ!」何て間違えた噂が流れる事もなかったのですがね。
それは、八千代の対外出演等で教室の名前が上がれば上がる程、生徒は来なくなってしまうというジレンマを呼んでしまうのですよ。
12月8日 8:59


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「でも、まあ、そこら辺の話は、大学の先生がお話する事であって・・」


11月28日 22:58 ·
「・・・・でも、まあ、そこら辺の話は、大学の先生がお話をする事であって、巷の音楽教室の講師ふぜいが喋る事ではないのだからね???」・・・・っと、話は結びます。

私が音楽の勉強を始めたのは、高校の1年生の時からです。
随分、遅く音楽を始めた分けなのですが、これはあながち音楽の勉強を反対されていたから、・・という理由だけではなく、戦後の混乱という時代背景もあっての話です。

でも、音楽の道に進む子供達は、早期教育で、2歳、3歳から音楽の勉強を始めているのだから、その時点で既に、10年以上の開きがあります。
その10年の差は、絶対に、埋まる事はないのだから、私が、不器用な私身自をそのまま認め許容していては、音楽の社会で生きて行く事は出来ないであろうという事は若造の高校生であったとしても、自明の理であります。

しかし、私が「不器用である」・・という事は、「器用ではない」という意味なので、幾ら私が一生懸命に勉強して頑張っても、その差が埋まる事はないという事も、分かり切った事実です。

別に、開き直っている分けではありませんが、一般的な場所に於いても、・・(つまり、学校の勉強等でも、)そうなのですが、所詮は、私はブキッチョな人間なのだから、努力し、頑張って勉強しても、成績を上げる事は中々出来ません。
曰く、私にとっては、「勉強するだけ無駄」・・・なのですよ。
日本の多くの人達は、「それは努力が足りないだけなのだ❢❢」と言うかもしれませんが、出来ないものは、出来ないのですよ。
それが、自明の理です。
日本の学校教育は殆どが記憶によるものです。
世の中には、記憶力が優れた人がいます。
私の知り合いには、電話番号や、車の番号等、数字に関する事は一瞬で覚えてしまう人がいました。何の意味もない数字の羅列を何でもなく覚えてしまうのです。しかし、学校の成績は悪かったよな??記憶が数字だけでは、何の意味もないからなのですよ。
計算能力を高める塾があって、高い月謝を払って、頑張って通っている生徒達がいます。しかし、もしその生徒が東大を受験するようになったら、数学の試験は計算機持ち込み可だし、英語は辞書持ち込み可なのですよ。
学問の府である大学には、計算能力は必要ないし、私達が作曲家の生まれた年を、論文に書く時には、必ず、書物で確認を取るのですよ。記憶に頼る事は絶対にありません。
勉強の意味が違うのだよな?

中学生の頃から、「もし幾ら勉強しても、成績が上がらない」のならば、ブキッチョでも、能率だけは上げるように、工夫をする事にしました。

先ずは、先生から注意された事を、二度と同じ注意はされないようにする事を工夫しました。
「同じ注意を受ける」という事は、その一つは、その「注意を忘れてしまう」という事です。つまり、同じ状況で、その注意を思い出せるか否かです。
それは、言われた「注意に対する価値観が低い」という事なのです。
驚く程、成績が悪くて、日常生活でも物忘れや、最初から覚えようとしない子供が、アイドルの事となると、滅茶苦茶、詳しくて驚かされる事がよく、あります。とどのつまり、idolの事は興味があるのに、学校の勉強や、日常の事には、興味がない・・というだけです。
私は逆で、テレビのコマーシャル等で登場する美しい女優さんの顔は覚える事が出来るのですが、名前は絶対に覚えられません。
何度聞いても、次には忘れてしまっています。

物忘れは、人がそれを「恥」と感じて、悔恨の意識に囚われると、二度と物忘れをする事はしなくなります。

でもその失敗や物忘れを日常的に何回も繰り返す癖のある人達がいます。
その人達に取っては、「物忘れ」は日常的に繰り返される事に過ぎないので、「物忘れ」は日常的な事であり、大した事ではない・・という価値観(意識)になってしまっているのです。
つまり、そういった人達の場合には、幾ら「注意」しても、何度声を酸っぱくして「注意」しても、その人の「物忘れ」に対しての価値観が低く、日常的な事に過ぎないので、その「物忘れ」に対しては、その人は対処療法的な事しかしないので、また、同じ間違いを犯してしまうのです。
要するに、その人達に「物忘れ」をしないようにさせるには、その「価値観」を変えさせる事しかないのです。

この「物忘れ」を車の事故に喩えて見ましょう。
車の運転をする人には、事故を繰り返す人と、事故を起こさない人がいます。
でも、事故を起こす人は、事故は、起こしたくて起こす分けではない・・と言います。つまり、運が悪いからだ・・という事なのです。
曰く、自分の性ではなく、運の性なのですよ。

ハインリッヒの法則と言うのがあります。
ハインリッヒは保険の契約を取り付ける外交員でしたが、事故を起こす人の確率を発見しました。
1:29:300と言う比率です。
1とは重大事故ですが、その前には29の軽微な事故があり、更にその前には300の異常がある・・という法則です。

私の車の運転の心得では、先ず第一に「ヒヤリとする運転はしない。」という事に気を付けます。
それでも、運転中は不可抗力で、「ヒヤリ」とする事があったとすると、その日一日は、その同じ「ヒヤリ」を二度としないように、気を付けます。
車を運転し始めた時に、自転車の脇道からの飛び出しがあったら、1日、脇道からの自転車の飛び出しに気を付ける・・という事です。
つまり、運転は、毎日、自分の意識が少しずつ変わるので、その「ヒヤリ」の状態も変わリマス。だから、最初の「ヒヤリ」を注意すれば、その日の「ヒヤリ」は、二度と起こる事はないのですよ。

でも、「ヒヤリ」という運転を日常にする人は、「ヒヤリ」が大事故に繋がる・・という事を信じてはいません。日常だから、その「ヒヤリ」に対して、危機意識がないのです。
音楽の演奏でも同じなのですよ。
ミスタッチを犯す演奏家は、普段の練習の時からミスタッチに対して、無頓着です。演奏会の時だけミスを犯さなければ良いと思っています。
演奏会は普段の練習のそのままである・・という事を認めようとはしません。

『(またまた、Facebookの入力がおかしくなって、入力が出来なくなってきました。)困ったもんだ❢❢これは同じ文章を二度打った分けではありません。勝手に2度表示されてしまうのですよ。
今度はenterが出来なくなってしまいました。これ以上の入力は今日は無理だな???』

そう言った意識的な問題とは異なって、同じ「注意」を受けたとしても、その「注意」の把握(理解)の仕方に・・問題がある場合があります。
それは、自分が受けた「注意」を自分の語彙に変換してしまうtypeの人の場合によく起こる失敗なのです。

自分が相手の人に「何かの」を説明すると、「ああ、それは、ああでこうで、良いのですよね??」と自分の語彙に変換をして来て、その確認を求める人なのです。
しかし、そのtypeの人には、その仕事で求められている仕事の微妙な違いは分からないのですよ。
日常のさり気ない事案では、その語彙の変換をしたとしても、大差がない場合が多いので、それでも、何とか支障無くやっていけます。

しかし、その人が、新しい事を学ぶ時には、その人の語彙の中には、これから学ば無ければならない新しい事の情報はありません。

だから、幾ら頑張って努力しても、結果は、微妙に違っていて、先生から、その些細なミスを叱られてしまい、「これだけ、努力したのに・・」と自分が認められない事を、恨んだり、そこで挫折をしたり、するのです。

新しい事を学ぶ時には、自分の予断を入れないで、そのまま受け入れれば良いだけなのですが、そういう勉強法をしている人には、「そのまま受け入れる」という事が、困難で出来ないのですよ。

だから、100回同じ事を教えて、その場では出来るようにしても、1週間後には、元の木阿弥に戻っている。
無駄な努力という事なのです。

「始めての事で分からないけれど、先ずは、言われた通りにやってみよう❢❢」というtypeの人と、分かった事しかやらない・・というtypeの人とは、もう一つ違った損なtypeの人がいます。

それは自己主張の強いtypeの人達で、「あの人の言う通りにしたら、あの人のコピーになるから嫌だ」と言って、自分の気に入った所だけ吸収するtypeの人達です。本当は、幾ら上司や先生のコピーをしたとしても、その人達と同じになる事はないのですが、日本の独自の家元制度の勉強法では、コピーでクローンになる事もあるのかもしれませんね。

Ravelは、先人を徹底的に真似をして、それで自分のoriginalityが出せなかったら、それは作曲家を止めるべきだ❢❢と厳しい事を言っています。BrahmsやLiszt、或いは、Saint-SaënsやRavelは著名なbaroque、rococoの作曲家の校訂者である・・て知っていますか??音楽史に名を連ねる偉人達は、古典にも大変造詣が深いのですよ。

日本の教育社会では、結果ではなく、その努力を評価する傾向にあります。
でも、実社会では、努力が評価される事はなく、ただ、その仕事の結果だけで、認められるか否かが決まるのです。
どんなに、優れた学生であったとしても、自分がやって来たその努力を、社会に認めさせようとするのは、社会人という立場ではなく、未だ学生の域を出ていない・・という事なのですがね。
言い方を換えるのならば、結果が満点ならば、努力は要らない・・不要である・・という事です。
これがsachlich(即物的)な考え方だとして、日本の教育界では中々認めて貰えない。
結果オーライは、実社会では当たり前の事なのに・・教育界では、努力がないと認めては貰えません。そこら辺は、実社会と教育界では、意識的な開きがあるのですよ。
その理由は頗る明白です。何故なら、学校教育に於いての主役は生徒であって、生徒を指導する所から、総てが始まるからです。
でも、現場は基本的に違います。現場では出来上がった仕事の内容が総てであって、それが目標の水準に達していなければ、その努力が認められる事はありえないのです。そこの所が一般の人達には分からない。自分が物を買う立場なら、同じ事を商品に要求しているのに、自分の子供が作る側になったら認められないのですよ。アハッ!困ったものだ❢❢






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今日は久しぶりで工事の音がうるさい❢❢

11月30日 10:12 ·
今日は久しぶりで工事の音がうるさい ‼
壁にでも穴を開けているのだろうか⁉
延々と電ドリの音がする‼
昨夜と言うか、今日と言うか 、朝の7時頃まで、仕事をしていたので、小一時間しか寝てないのに、工事の音がうるさくて目が覚めてしまった‼
仕方がないので仕事をしようと思ったのだが、やはり電ドリの音が うるさくて イライラして集中出来ない‼
珈琲館に行って仕事をしようか??とも思ったのだが、行くだけの元気もないので、諦めて、イライラしながら寝た。






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《シオンさんからのmailです。》

11月30日 14:10 ·
11月30日 13:37 ·
23日の八千代のコンサート終わってから、眠かったり風邪ひいたりで、コンサートの日記書けなかったから今ここで書きます。初めての経験をたくさんしたので。

名古屋を出発したのは22日のお昼でした。
出発間際に急いでたら、知らないおじさんが、「どこどこの地図を出してもらえませんか⁈」「僕、神奈川から来たの!」って言って、断っても大声出して若干追いかけてきました。その時は慌ててたから「急いでるの一点張りで断って申し訳ないなぁ」とかおもったけど、あれ割とやばい人だったよなと、あとで気づきました(笑)

バスには乗れたものの、渋滞してて、到着が大きく遅れてしまいました。打ち合わせも練習もできませんでした。
その日はユーカリが丘の新しいお教室に泊めていただきました。

本番当日、うたのおねえさんの打ち合わせは衝撃でした。何喋るかざっくりしか知らないのに、まさかのメモ見ちゃダメ。一番ナメてかかったやつにカウンターパンチを食らいました。
直前に流れだけ確認して本番喋るという、即興苦手人間には酷なことをやりました。周りの方々のサポートがなかったら崩壊してたと思います。ありがとうございます。

1つのステージで、ヴァイオリンも歌も、うたのおねえさん(笑)もやるのは初めてでした。切り替えって大事だなと思いました。いろいろとやらかしたけど、なんとか全部終えられました。対外演奏は、ヴァイオリンでは3度目、歌では初めてでした。

本番終了後、荷物運び終わってもまだバスまで時間があったので、プリちゃんドルちゃんのお散歩にご一緒し、先生方と一緒に夜ごはんをいただきました。ゆっくりできて幸せでした。遅い時間の夜行バスにしてよかったなと思いました。

先生方に駅まで送っていただいて、電車に乗りました。東京に着いても、23:20のバスにはまだ余裕があったのでのんびりしてました。でも、チケットをふと見てみると、バスの時刻23:10って書いてある…ん?…え、うそどうしよ!やばいあと3分!嘘であってほしいー!
トイレを慌てて飛び出して走ったはいいけど、カバンをひとつトイレに忘れてとりに戻り、また走ったけど道に迷い、結局バスは行ってしまいました。
きっぷ売り場のお兄さんにその旨を伝えて、他のバスのきっぷを買えないかきいてみたら、次のバスの当日券を買わせてくれた上に、一部払い戻しもしてくれました。東京やさしい…。

無事、翌朝名古屋へ帰り、そのまま大学へ。
音楽史の時間に、頬杖ついてうとうとしてて、プリントをたくさん床に落としました。




地方の家出娘と間違えられたのかな??
牧野先生の無茶振りは有名ですが、私が未だ若かった頃留学から帰ったばかりの頃に学研の高校生向けのvideoを撮るので、生徒を貸して欲しいという話があり、中学生の女の子を連れて、横浜のスタジオに録音録画に行きました。言われた通りの模範演奏の曲を準備して・・です。
先ず、準備した曲が気に入らなかったらしく、(本人が決めたのですがね)ホールの楽譜売り場に行って来て、「この曲を弾いて!」と言われて初見の暗譜で演奏する事になりました。
当時は、未だvideoが無かったので、撮影用のcameraと録音は別の場所でやるのですが、先ず映像だけを撮って、それから、別の部屋で、録音だけをしました。3回、録音をして、音声担当の人が、ストップウォッチを手にしながら、「流石は芦塚先生の生徒ですね~??3回とも、100分の1秒迄、揺れていません。」学研の人達は、大変満足して帰りましたが、高校生でないと、ダメなので、彼女はチョッと表情が幼かったのかな??
社会人になると、現場での無茶振りは当たり前の事なので、生徒達は当然として熟していますが、一般的には通じないのかもネ??でも、学校等に勤めるとしても、それは普通の事なのだよ❢❢
11月30日 16:14


そうですよねぇ。
高校の時、あの先生の授業わかりにくい!とか散々言ってましたが、授業をやる側って大変なんですね…。
現場の無茶ぶりは初めてでびっくりしましたが、いい経験でした。
まだ楽譜じゃなかっただけマシですね(笑)
11月30日 18:13


以前は楽譜の当日や、1週間前のオケ練習の変更は、牧野先生(❢)に厳しく止められていましたが、八千代の旧memberから、小学生中心の新しいmemberになってからは、今は、現場中心の考え方という事で、当日の楽譜変更も有り・・という事で、本番当日ですら、楽譜の変更、bowの変更、指揮の変更等々、平気でやっています。という事で、今回の八千代のコンサートも幾つかの当日変更をしています。Vivaldiの夏の冒頭のtempoの変更もmailで当日に全員に伝えてそのように演奏しています。でも教室の生徒達は「また、芦塚先生の当日変更だ❢❢」と言って、屁でもないのよね❢❢ そういう所はproだよね~??
11月30日 23:10


クリスマス会も練習が2回しかありません。だから、殆ど、無茶振りなのですが、それでもなんとかこなせるのが現場主義なのですよ。
11月30日 18:25


proの世界では、練習2回、ゲネプロ本番というrotationが一般的なのですが、ゲネプロは、演奏会当日の朝、会場でrehearsal をします。とういう事で、1回目の練習は初見練習になりますし、当然、本番直前のrehearsalで、会場の響きのcheck等もおこなわれるので、その場での変更は当たり前のお話なのですよ。でも、それを無茶振りというproはいません。それが常識なのですからね。練習1回もお金が掛かります。それが時間とお金を掛ける学校教育との大きな違いになります。
12月2日 20:52



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『12月23日の花園自治会館のクリスマス会での、Saint-Saënsの・・』

11月30日 15:45 ·
『12月23日(土)花園自治会館のクリスマス会での、Saint-Saënsの「動物の謝肉祭」のmemberに付いて』

受験で高校生がお休みする事になったので、今回の恒例のクリスマス会の曲がmember不足で、演奏出来なくなってしまいました。
しかし、牧野先生が、「楽器紹介の後のfinaleの曲は、どうしても派手派手しい曲が良い❢」と言う事で、「Saint-Saënsの動物の謝肉祭をやりたい」と言う希望でした。
「動物の謝肉祭」は、以前にも、何度かやった事はありますが、フル・オケなので、人数がとても足りないし、力不足という事で、今回は、私としては、謝肉祭は却下したのですが、牧野先生の「タッて❢❢」の希望と言う事で、改めて、scoreのcheckをしたのですが、演奏を力強いものにするためには、Kontrabassの音量が重要で、牧野先生がKontrabassに回ったとして、clarinetは、斉藤先生が持ち替えをするとして、そうすると、violinのtopがいなくなります。

それ以上にfluteを演奏出来る人が全くいないので、募集を外に求めなければなりません。
勿論、無料奉仕なので、学生は来ないので、音大生以外の人達に頼む事になります。
千葉在住の人で、fluteを弾いてくれる人はいないのかな??

練習の可能な日は、12月の3日と10日の2日しかありません。(17日を忘れていたので、都合3回ですが、それでも練習回数は少な過ぎます。
それで、練習を終わらせなければなりません。
勿論、クリスマス会で演奏する別の曲と、「曲決め」が終了したorchestraの曲の練習も入ります。
いやあ~、師走だよな~ぁ❢❢ 誰かが飛び回っているぞ❢❢







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11月30日 17:36 ·
テレビで、千葉県は明日から12月だと言っていたけれど、東京はどうなのかな??



どうなんですかね笑
11月30日 17:52


12月になるのは、2,3日は遅れて欲しいのですがね??今日の夜、様子を見てみます。
11月30日 18:30


wao❢12月迄、後55分だって❢❢
11月30日 23:05


何て言っていたら、もう2日だって❢❢ 1日は何処行った??
12月2日 16:10


あらま😅
私も日々追われていて師走を実感しています💦
12月2日 22:07



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12月


Hoffmeisterのviola-concertoですが、



2017年12月1日 ·
Hoffmeisterのviola-concertoですが、前回の演奏からもう既に4年も前の演奏になってしまいましたよね。まさに光陰矢の如し・・です。
orchestraの演奏は、当時の演奏とはしても、一応、半分位迄は、periodなのですが、中々上手に弾けていると思うのですが、それにしても、Keyboardの音が安っぽくって嫌な音ですよね~❢❢
折角頑張って演奏しているダヒョン君が可哀想ですよね。
生音でないとしても、harmony-trainer程度の音は欲しいよネ。

昔、モンブランの万年筆の修理のお店が浜松町にあったので、写譜ペン用に先ッポを改造していたペン先をもう一度、自分に合うようにして貰おうと持って行ったら、お店の人に「素人さんは、音符の書き方が間違えているから」と言われてしまいました。『私はproなのだよ❢❢』と言っても信じて貰えなかったのですが、酷く傷ついてしまって、その高いモンブランの写譜ペンはお蔵入りになってしまいました。

似たような話なのですが、池袋にある、Keyboardの専門店に行って、生の管楽器と同じ音のするKeyboardを教室用に購入しようと思ったのですが、似ても似つかない音を、「この音は実際の管楽器の音ですよ。」と言われて、挙げ句の果てに、「素人だから、管楽器の音が分からないのですよ。』と言われてしまいました。
電気の人達(Keyboard売り場の人達)は、波形が同じだと、管楽器と同じ音だと思っているのですよね。
本人達は「生音でも、何度も演奏しているので、この音は正しい」と主張している。私から見ると、似ても似つかわしくない音なのですが、その違いが分からない。
こういう人達には、言っても分からないのですよ。
頑迷な(ド素人の)pro意識とでも言うのかな??
説明するだけ無理なのですよ。

昔々から、NHKの特番でよくやられている番組で、StradivariとStradivariのコピーと言うか、それに似せて作り上げたviolinを、同時にblindテストをして、著名人や有名な演奏家達を呼んで、「どちらが本物のStradivariか?」という比較テストをして、呼ばれた人達が間違えると、「その判断が間違えている」と言う事で、「Stradivariに負けない楽器が出来た❢」とか、いう番組を何度も繰り返しやっている。
しかし、computerで作り上げた楽器が、Stradivariの値段になる事はないし、それをprofessionalな演奏家が自分の楽器として演奏しているのを聴いた事はない。それはあくまでも、一つの提言であり試作品にしか過ぎないのだよ。

「prideを持つ」という事自体はとても良い事だと思うのですが、proを前にして、「自分が正しい」と思い込むのは、単なる頑迷固陋(がんめいころう)という事で、恥じるべき事なのですがね。
自分の力量を知らない分だけ始末に負えない。
本当の本物とimitationの違いが分からない人には困ったものなのだよ。




製造・販売する側も、もう少し使い手のニーズについて、お勉強して頂きたい所ですよね・・。
メーカーによって多少の優劣はあるものの、残念ながら、「擦弦楽器・金管楽器」の音については、「電子楽器の限界」があるように思えます。
4週間前.

昔々、初期型のパソコンの時に、カワイのnotationのsoftを買って、そのsoftに付随する88鍵のPianoサイズの鍵盤とそのKeyboard用の音源を買った事があります。
その音源は、パソコンに接続してパソコン用の音源としても使用したのですが、流石はPianoのmakerらしく、管楽器の音色は本当の楽器にそっくりで中々の音色でした。だから、そのカワイのKeyboardを自治会館のコンサートに持って行った事は何度かあるのですが、その楽器や音源、speakerと、準備がとても大変で、88鍵の鍵盤は、超重たいので、準備が大変で、そのうちに外で使う事を却下されるようになってしまいました。
Keyboardの良い所は、鍵盤だけを持っていけば良い・・という、手軽な所だったのですが、それにしても、余りにも重たかったのでね。
と言う分けで、カワイのKeyboardのセットは、今はもう仕舞い込まれています。

notationの音楽softも、やはりfinaleには叶わないし、基本的には、学校用の問題を作成用に作られているので、牧野先生が楽典の問題を作成する時にはtemplateが沢山あって便利なので、その後もチョッと使っていましたが、やはり、出来る事が限られているので、何時の間にか、finaleのsoftに変わってしまいました。
4週間前


この曲の管パート演奏しているのはダヒョンくんです。
4週間前.

そう??それは失礼しました。
遠くて見えなかった。本文を訂正しておきました。
4週間前



またまた、せっせか書いた文章がいなくなってしまった。頭に来るな~??結構長い文章だったのに??なんでこう不安定なのだよ❢❢❢
3週間前


相も変わらぬ2度めの書き直しの文章になります。超、頭さ来るよな❢❢
3週間前.


MozartのPiano-concertoや今回のHoffmeisterのviola-concertoのようにfullorchestraの曲を演奏する時には、以前は何回かは、音大生を雇って管楽器の演奏をさせた事があります。しかし、orchestraで管楽器の人達がscore通りに入って来るのは難しく、その2,3回のorchestraでも散々な演奏で、それ以降は演奏代や技術の関係で、教室の生徒がKeyboardで演奏するようになっています。今回のHoffmeisterの曲も、oboe2本とhorn2本が入りますが、hornは移調楽器でorchestraで演奏するには、移調して演奏しなければなりません。極、稀にはその為にKeyboard用に、transposeされた譜面を作る場合もありますが、殆どの場合には、譜面の記号を読み替えてそのまま演奏します。今回のhornのpartはin Fなので、alto譜表に読み替えてひかりちゃんが演奏していますが、それは教室の常識なのですが、一般的には、それは極めて難しい技術になります。
3週間前



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「40肩、50肩」

2017年12月1日 ·
「40肩、50肩」

ハイツの玄関の入り口を入った直ぐの横の所にはフローリングの部屋があって、そこにも楽譜棚があります。
等身大と言うか、私の背丈よりも少し高めの本棚の上にカラーボックスを乗っけて、そこにオケや室内楽の楽譜、伴奏譜等を置いているのですが、40肩、50肩で、何とか、手は届くには届くのですが、肩が痛くて、楽譜が取れません。

利用頻度は他の蔵書(Pianoの楽譜等)よりも、遥かに高いレベルの頻度なので、目線の位置に持って来たいのですが、目線の位置はPianoの楽譜になっているので、その位置に置く事が出来ないのですよ。
同じPianoの楽譜でも、baroqueの楽譜、Cembaloの楽譜は、Cembaloの部屋に置いてあるので、そちらとの兼ね合いもあります。

寝室のベッドの周りには、一般の本と音楽理論や伝記等の本が巨大本棚があって、所狭しと置いてあるので、楽譜の置き場所が無くて、本当に困ってしまいます。
一部屋を書庫として潰せれば良いのですが、それにはものが多すぎます。

今日も、寝た時間に関係なく、定形の時間の6時には起きて、血圧や体重測定をしましたが、今日は月一の病院に薬を貰いに行く日なのですが、病院の開く時間は9時なので、それまでの時間が長く余ってしまいました。

お腹は空いているのですが、血液検査があるので、採血迄は、その間何も口にする事が出来ないので、少々、辛いです。
寝起きなので、お腹は然程には、空いてはいないのですが、それにしても、口が寂しい。
二度寝するか、仕事をするには、時間が少な過ぎるし・・ね。
一年を通して、時間を持て余す事は私は滅多にないので変な気分です。
ハイ!





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それにしても、windows10がもう1時間以上も更新をしていて

2017年12月1日 ·
それにしても、windows10がもう1時間以上更新をしていて、立ち上がらない。困った❢❢





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楽譜のコピーはいけません❢❢

2017年12月1日 ·
楽譜は基本的にコピーをしてはいけません。著作権に触れるからです。
という事で、orchestraのpart譜も総てコピーしてはいけません。
という事で、出版社からpart譜を買う時には、Pultで購入します。

orchestraの規模は、幾Pultの編成か??という弦楽器の人数で決まります。
その弦楽器のpart譜の、楽譜が何部必要か??・・という事は、予め出版社によって、最低数が決まっていて、set2という事なら、2Pult編成なので、「2,2,1,1,1に管楽器や打楽器」なのですが、実際には1Pultは2名で演奏するので、「弦が1st、4名、2nd4名、viola2名、cello2名Kontrabass2名の編成のorchestra」という意味です。管楽器は、基本、そのorchestraが管何編成か??でその楽譜の必要数が決まるので、管や打楽器は、数は予め決まっています。
管楽器や打楽器は、必要部数以上は発注はないからです。

しかし、弦楽器の場合には、orchestraによって、人数が代わります。
baroqueや古典派の2管編成の場合、最低人数だとすると、先程の「set2」の編成になります。
何Pult編成で売るのか??は、基本的には出版社が決めるので、「set2」か「set4」かで注文をするのですが、コピーはしてはいけないので、part譜が足りない場合には、追加で、注文する事は出来ますが、各楽譜1部ずつ・・という注文は出来ません。
最低限の楽譜の部数は決まっているからです。

今回BeethovenのPianoconcertoを注文しましたが、part込みで3万ぐらいの
値段になります。(これは非常に安いのですよ。常設曲でしょっちゅう演奏される曲なので・・です。)
但し、最低限の部数なので、orchestraの規模で追加で買い足さなければなりません。勿論、教室のオケなら楽譜が余ってしまうけれどね??





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「Harald Genzmer Piano-concertino 第二番 Ⅰ Ⅳ楽章」

2017年12月2日 ·
「Harald Genzmer Piano-concertino第二番ⅠⅣ楽章」

ひかりちゃんの、orchestra-soloのMozartのPianoconcertoの次の課題としてオケsoloの曲と言う事で、大学生の時によく弾いていたBeethovenのconcerto第3番c mollの1楽章をselectしたのですが、full scoreを発注していざ手に取って見て、考え込んでしまいました。
古典派の大巨匠なので、Technik的には頗る基本的なのですが、曲が大曲なだけ、それが基本的な分・・難しいのですよ。

暫らく、考え込んで、ふと突然、私の師匠のHarald Genzmer先生のconcertino第2番のⅠⅣ楽章では、どうだろう??・・と思い付きました。
これまでも、教室の多くの生徒達がその曲を演奏して来たので、なんで思いつかなかったのかな??と、不思議です。
早速、牧野先生にその旨、伝えました。
牧野先生も、「良い選曲かも??」と言う事で、ひかりちゃん達がimageを掴むためにYou Tubeでその曲を探したのですが、その曲がYou Tubeには、見つからないのですよ。Genzmer先生の曲は沢山upされているのですがね??
困った❢❢  
私はMünchenで買ったレコードを持っているのですが、レコードを一度、dataに直さないと、皆は聞く事が出来ません。

という事で、教室の生徒で、これまでの発表会で演奏した生徒の動画を探して、パソコンに取り込もうと言う事で、2013年の4月の美帆ちゃんの演奏を見つけたのですが、業者が作成した動画なので、拡張子がまた、変わっていて、パソコンに取り込む事が出来ません。そのsoftは持っていないな~あ??
さて、またまた、困った❢❢

・・と言う事で、困ってばかりもいられないので、一度、videodeckのPanasonicのDigaのHddに取り込んで、保存して、それから、Blu-rayに焼きなおして、Blu-ray-discを介して、パソコンに取り込むという、超、七面倒臭い作業をしました。

という事で、何とか、今日中にYou Tubeにupする事は出来ました。
13年の4月28日の春の発表会の時の演奏です。
Pianoのsoloは、遠藤美帆ちゃん(中2)の時です。

13年4月28日H Genzmer concertino Nr,2 Ⅰ、Ⅳ楽章Miho Endo(13jahre)

芦塚音楽研究所千葉音楽教室の2013年4月28日の春のコンサート…



梨紗さんがGenzmer先生のconcertinoのCDを見つけたそうです。CDで売られているようなので、欲しい人は購入してください。CDのnumber upしといてくださいネ。




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「発表会の「曲決め」についてのコモゴモ」


2017年12月3日 ·
「発表会の「曲決め」についてのコモゴモ」

今回、久しぶりに現代の曲を演奏する事になりました。(なったのかな?? ・・いや、未だ保留だったりして・・)

「発表会でGenzmer先生のconcertinoを演奏する事になった経緯」
発表会の「曲決め」は、memberの技術力と人数で、殆どが決まります。
solisteの技術力は勿論ですが、orchestra全員の出演者数と、曲のlevelと・・と、色々な事を考えなければなりません。
今回のようにorchestra参加者の人数が極端に少なくなると、それ自体でも、曲目が制限されてしまいます。

今回のcapacityならば、ひかりちゃんが前回演奏をしたMozartのconcertoの続きの曲を演奏するのが正当なのでしょうが、余りにも定石のroutineで、芸がないので、思い切ってBeethovenのPiano-concertoの3番にする事を考えました。
しかし、曲を決めた後で、Beethovenの3番は、曲が巨大で、大きなorchestraと弾きこなす体力も必要で、少し無理な選曲なのではないだろうか??と悩んでしまいました。

暫らく、何日か、悩んで考えていたのですが、ふと、恩師Genzmer先生のconcertinoという選択肢もあるのではないか??という事に思いついて、早速、先生達に、その可能性を伺いました。
多分、「現代曲は難しい」という事で、「ダメ出しが出る❢❢」のか??と思っていたのですが、すんなりと曲が認められたので、早速、生徒達に連絡をしました。

但し、今日のオケ練習には、クリスマス会迄の練習の回数がないので、クリスマス会用の曲の練習が間に合わないので、Genzmer先生のconcertino第二番の練習はしない事になりました。(Genzmer先生の曲迄入れると、生徒の年齢が低いので、練習時間の時間切れ・・time-overになってしまうので・・。

⇒次回の2月110日のオケ練習からは、(八千代が終わってから、2回目のオケ練習ですが、)牧野先生から、発表会迄の通算の練習時間がないので、クリスマス会の練習と平行してGenzmerのconcertinoも、同時に、練習に入る事になったそうです。

「baroqueや古典派の音楽と近現代の曲の難しさについてのこもごも」
Facebookに、「baroqueや古典派の音楽に対して、近現代の曲は演奏が簡単だ!」と書いていたので、音大で近現代の曲を中心に演奏している梨紗さんが「え~っ??」と驚いていたよ・・と、斉藤先生から報告を受けました。
また、他の人から「なんで、音楽大学では現代曲を中心に演奏するのか??」という質問を受けました。
その人には、冗談で「少々間違えても、分からないから・・」と言っておきましたが・・。

まあ、ただ単に弾くだけなら、演奏上の技術だけで、近現代の曲に比べると、古典派の曲やbaroqueの曲は極めて簡単なので、理解出来ないかも知れませんよね??
少なくとも、音楽大学でperiod奏法を勉強する事はないので、時代考証はないので、periodの演奏上の難しさは理解して貰えないのでね。
音楽大学で、forte-pianoの奏法やornamentの演奏法を学ぶ事はないのですよ。(たとえ、Cembaloを専科として、学んだとしてもね)

私がよく言う言葉に、「period instrumentsによるbaroqueや古典派の演奏会」と、「period奏法によるmodern-楽器によるbaroqueや古典派の演奏会」という話をします。
今の日本の音楽界では、「period instrumentsによる演奏会」は大分数多く見受けるようになりましたが、残念ながら、periodの時代考証によるperiodの演奏会は未だお見受けする事はありません。

ヨーロッパの場合には、1990年代にperiodの演奏団体が始めて出来た時には、それは、periodの演奏法を意味したのですがね。
そこは、お国の歴史なので、伝統が違います。
日本には、未だに、ヨーロッパのtraditionalな演奏法の歴史は入っていないのですよ。
homepage等で拝見すると、コツコツとperiodについての研究をしている人達はいるのかも知れないのですが、その人達はあくまでも研究者であって、その人達が、公開の場で演奏をする事はないので・・ね??

以前、護国寺近くを歩いていたら、baroqueの演奏会を教会でやっているというポスターを見つけて、そのまま聴きに行きました。
驚いた事に、出演者の人数の方が、聴衆よりも多くて、その聴衆さえも、その出演者の生徒と父兄だったのですよ。
大型の復刻Cembaloや、素晴らしいviola da gambaを使用しているのにも関わらず、pitchがスライドpitchを使用しているのには、幻滅してしまいました。
少なくとも、baroque専門と唱うのならば、きちんとしたbaroque-pitchを採用して欲しかったな??

当時、もう一つ、斉藤先生が、音大の先生がbaroque楽器に拠るbaroqueの演奏会を開催する・・というチラシを見つけて、電車に乗って、ticketを買って、聴きに行きました。
会場は小さかったのらしいのですが、それでも、大学の生徒さん達で満席だったのですが、とても、その演奏の仕方や解釈が、baroqueの演奏と呼べるものとは程遠く、「音楽大学の先生でもそのlevelかい??」と、驚いてカルチャーショックを受けて帰って来ました。否、その程度なのですよ。その人達にはperiod奏法と呼ばれるものがある事すら、ご存知ないと思いますのでね。

traditionalと言う事を説明する時には、私は西洋の音楽を云々するよりも、日本の古典文学を取り上げます。

私は中、高生の頃から、本を読むのが大好きで・・(とは言っても、当時はウォークマンもcassette-tapeも勿論、スマホさえも無かった時代なので、娯楽と言えば、音楽ではなく読書しか無かったのですよ。)江戸小噺程度の古文は、原文そのままに、読んでいました。学校の教科書の古文は、面白く無かったので、徒然草や方丈記等を原文で読み始めたのは、留学後なのですが、江戸小噺や醒睡笑等は、単なる「エロ本」に過ぎなかったのでね。

今でも、私は、中々、歌舞伎や能の古典芸能を観覧しに行く機会を持つ事はないのですが、本では、そういった素養はなるべく付けるように心掛けて、そう言った教養の本は読むように心掛けています。
古典芸能とは言っても、その内容は、今のテレビのドラマとたいして変わらない色恋、不倫の刃傷沙汰の話が殆どなのですがね。

ヨーロッパの古典音楽がperiodで聴けるようになったのは、この20年、30年ぐらいの事なので、そう言ったperiodによる演奏が、一般的に知られていないのは当たり前の事です。一般の人達は現代風にarrangeされた古典の音楽を聴いて居るのですからね。
それはそれで、現代なので、構わないと思っています。一般の人達にperiodを押し付ける気は毛頭ありませんから。
いやいや、そういう事を書くつもりで、Facebookを立ち上げたのではなく、現代曲のinventioについて書くつもりだったのですよ。
また、脱線してしまった。




第2番ってことは第一番があるよですよね?弦オケ伴奏のコンチェルティーノですよね?


音楽に限らず、芸術の表現というものは、より強く自分の持つimageを伝える・・という方向性で発達しています。音楽は一人でも多くの人々に音楽を伝達する・・という事が命題になっているようです。
和音もsimpleな3和音だけのRenaissance時代から、より強烈な響きを出す和音へと発展して来たのですが、Wagnerの回遊する調を経て、調を飛び出して、無調という概念すら出て来ました。
現代を代表するfranceのMessiaenの「La Turangalîla-Symphonie」や、Stravinskyの「春の祭典」は、一見すると無調に聴こえるかも知れませんが、非常にtraditionalな作品で、作曲学的に、基本に忠実に作曲されている作品です。
私が未だ高校に入学したばかりの頃、友人の家で看護婦さんの接待付きの猪鍋を相伴した時に、友人が掛けてくれたレコードが春の祭典でした。始めて聞く現代曲に(その当時はStravinskyは未だ存命だったのですよ)大きなcultureshockを受けました。でも、今、改めて「春の祭典」を聴くと、そのtraditionalさに驚かされてしまいます。

Genzmer先生は、現代音楽を、長短両調ではないけれど、主軸となる調を持っている曲と、全く音をFarbe(色)として、Objet(おぶじぇ)として捉える作品と・・という事で、分類をしていました。

現代のabstractな音楽では、この手の音楽を芸術と呼んで良いのかを、日本での勉学中には、私はその理解と位置づけに窮していたのですが、Genzmer先生のその一事で、その悩みは一瞬で解決して、現代音楽に対しても、理解共感する事が出来るようになりました。

私の「三好達治の詩による4つの歌曲」より、第三曲目の「甃のうへ」という曲には、結構長い前奏が付いていますが、それは、Objetとして春の光景を音で描いたものです。
所謂、長短両調にも、基音となる音にも拠らない、音をfarbe(色)として捉えて、の描写音楽としての位置づけなのですが、ドイツの初演の時には、その部分は、短くcutされて演奏されています。
日本での初演は未だおこなわれていません。
三曲目の曲に微分音が使用されていて、歌うのがとても難しいのでね。今の所、歌える人がいません。

参考までにこの歌曲のMünchenでの練習風景を練習風景を、You Tubeにuploadしておきます。
公開の演奏会の会場録音はオープンリールなので、再生出来ません。
業者に頼んでdataに直して貰いたいと思うのですが、中々それだけの事すら出来ません。

https://www.youtube.com/edit?o=U&video_id=cU7eTqOaF80

そう言えばこの音源はcassette-tapeだったのだよね??どうやって、uploadしたのかな??思い出せないのだが。




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「事故の日です。」

2017年12月3日 ·
今日は 急な割り込みや突然の車線変更 また自転車の飛び出しなど 非常に運転が不安定で荒っぽいです‼
たぶん 低気圧が近づいていて事故の日なのでしょう😻お気を付けください


天気予報では、暖かい晴れの日日が続くと言われていましたが、今江古田では雨が降っていますよね。
やっぱり、事故の日だったのですよ。フン


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「芦塚メトードによる指導法」


2017年12月3日 ·
「芦塚メトードによる指導法」
以前芦塚メトードによる指導法の話をした時に その話を聞いていた音大生から 「芦塚メトードというのは 音楽技術ではなく 指導法 というのもあるのですか⁉」と、 逆に尋ねられたことがあります。
指導法と言うのは、あくまでもhow-to-lectureという事で、どのように指導すれば良いのか??という事に始終するようです。

実際に 「教室で 指導をしたい」と 訪れた 音大生や 実際に他の教室を指導している先生達に 、 私たちの 教室の先生の レッスンの聴講をさせて、 聴講後に 、 レッスンの感想を尋ねると、「 普通の レッスンを 楽しそうにやっている ふうにしか見えない」と言う 感想が、 ほとんどで 、そのレッスンの 中に 隠された 指導法に気づく 人はほとんどいませんでした。

「音楽のレッスンとは、 曲を演奏するための 技術の手ほどきを すれば良い」と考える人たちが ほとんどなのです。
てな事を言うと 、「それ以外に何があるのですか」と聞き返されて、 ほとほと困ってしまいます‼

勿論、 そういうことは教室の 生徒達でも 同じで 、先生の指導を初歩の時から いつも見ている わけなのですが、 その レッスンの 中に隠された 色々な 指導法や その内容までは 、理解できるわけではありません‼

生徒が、教室の先生を目指すようになると、lessonが終わってから、lessonの内容について先生がlectureをする事があります。それで、「ああ、そうか?」とその場は、理解出来たとしても、自分が指導する立場になった時に、そういった対応が出来る分けではないのですよ‼

所謂、人生の目標,つまり、学業であろうと、オリンピックであろうと、芸術であろうと、それを達成出来るか否かは、心の拠り所、心の置き場所によります。その心の置き場所を与える事が出来るかが指導者の力量であり、使命でもあると思ったのですがね。


上記の続きです。
子供や父兄が最初から音楽でproになる事を目標として勉強しようとするのならば、その子供や父兄は最初から音楽大学の教授の所に入門します。
つまり、巷の音楽教室を訪れて来る生徒で、最初から音楽への道を目指す生徒は基本的にはいません。
趣味として、音楽を教養の一貫として学びに来て居るだけなのですよ。
勉強をしている過程で音楽に興味を持ち、音楽への道を憧れるだけなのです。

音楽大学の先生達は基本的に、子供達に対して、音楽の技術の事を指導します。
意識のlevelは、音大の先生に師事している子供達は、一般の音楽を学ぶ生徒よりも遥かに高いし、お金の掛け方も最初から全く違うので、そこは確かに技術の違いとして現れます。

「音楽に進むのならば、巷の先生ではなく、最初から音楽大学の先生につくべきよ!」という一般常識は歴然と現れています。

しかし、そう言った生徒は、目標に対して、疑問の余地はないので、本当の意味(潜在意識的)での音楽に対しての意識は、巷で音楽を学ぶ生徒とは対しては変わらないのですよ。
つまり、音楽の本当の良さを学ぶ事もなく、徒に演奏の技術のみを学んで、「自分が音楽が好きだから勉強をしている」、「lessonを受けている」・・というamateurの人達ならば、誰でも持っているその発想自体がないのですよ。
「では、なんで音楽を学んで居るの??」それは決まっていますよ。「親がそれを望むから・・」なのですよ。だから、親の願望よりも、自分の辛さが増した時には、いとも簡単に音楽を捨ててしまうのですよ。それは、只の比重に過ぎないからです。
だから、「音楽の道は険しいので、音楽には進みません。」という結論が出てしまいます。
まあ、教えていると逆の例もあります。
高校生になった時から、ボーイフレンドに熱中していた女生徒に「後、半年なのだからソロソロtimelimitだと思うけれど❢❢」と説教した、「分かりました。」と、その日のうちに彼氏と別れた生徒がいて驚いてしまいました。
「え~っ??」そんなものなの??

では、もし、本当に音楽の道へ進ませたいと思ったら、指導者はどうしたら良いのでしょうか??

先ず、一番にはそう言った馬鹿げた事はしない事がbestです。
今、日本で行われている音楽教育では、「Classicの演奏活動では、生活が出来ない」のが通常なのですからね。一般の大学に行って、一般の会社に就職して結婚して子育てをするのが女性の理想なのですよ。何よりも、それが一番です。 アハッ!

音楽を好きで、音楽を趣味として付き合って行きたいのなら、それが一番お勧めです。
一般人は職人や芸術家になっては、とても辛くって、生きては行けません。

どうしても、職人や芸術家になりたい、そのためには、どんなに辛い事でも平気だ、私のように河原乞食になってもよいし、(今風に言うと・・ホームレス-でしょうか??)そういった音楽への夢を持っている人だけに、それなりのproになる音楽の指導をして、音楽でたつきの糧を得る術を教えるべきなのですよ。(勿論、たつきの糧は、音楽大学では学べません。音楽の先生達は大学を離れては生きては行けない人達なのでね。まあ、オケマンは別としても・・)

それでも、「どうしてもこの子には音楽への道を歩んで欲しい」と思う生徒が現れたら・・??

それは、簡単です。
その生徒にとって、「音楽が自分の身の回りの総てよりも価値がある」と思えるように音楽の価値を教えれば良いだけなのですからね。

音楽の素晴らしさを教えて、それを人に伝える事❢❢

何時も言っているように、それは「上手な演奏をする事」ではなくって、「人を泣かせるような演奏をする」ように心掛ける事です。
あんまり、下手で泣いていたcaseもあったけれどね??
そのうち、付いて来る人もいるかもよ???
それを期待して、未だこの歳、この齢になっても、老骨に鞭打って、小さな子供達を指導しているのですよ。
アハッ!

・・てな事で、早、35年の歳月が過ぎてしまいました。
私の啓蒙活動の一石は、日本の音楽界に、波風を立てる事も、さざ波で水面を揺らす事もありませんでした。
風車に立ち向かうドン・キホーテのように、愛馬ロシナンテと伴にスゴスゴと自分の古巣に帰るのですよ。
自分の古巣・・は芦塚音楽教室ではありません。ハイツの事なのですよ。引き籠もりの籠もり部屋なのですよ。
梟の虚なのですよ。
ハイ! 虚路、無路地の一休み・・・

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「きよしこの夜の五重奏」

2017年12月3日 ·
クリスマス会で何度か演奏した事のある私の作品である「浄しこの夜」の弦楽五重奏なのですが、今日の初見大会で、今のmemberには、チョッと難し過ぎるようなので、急遽、書き直す事にしました。オケ練習からハイツに戻って来て、今はもう11時を過ぎた所ですが、明日朝一番で生徒達に渡せるように手直しする予定だったのだけど、今日はもう、人生に疲れた・・・❢❢
取り敢えず、もう、寝る事にします。
明日、起きれなくって、楽譜、渡せなかったらごめんね??


時間を掛けて練習をすれば、そのままのversionでも、ちゃんと演奏出来るのでしょうが、何せクリスマス会迄に練習の時間がないので、難しくって合わせられない複リズムの箇所をsimpleな拍子に手直しして約束通りに、朝の7時半迄に、scoreのlayoutと、part譜の手直しとlayoutを済ませて、事務所に送っておきました。
私の仕事は終わったので、今日中に楽譜が手に入るかは、コピーの都合です。後の練習は、各自、頑張ってください。後は練習1回とrehearsal です。

ああ、ちゃう、ちゃう❢❢
言う事を忘れてしもうた。
皆さんに取って、曲が分かり難いようなので、finaleのヘボい音源なので、参考になるかどうかは分からないけれど、一応音源も作っておきました。image作りの手助けになるか、邪魔になるか、分からんけれど・・・一応は和音程度は聴こえます。しかし、Kontrabassの音が再現出来ないのよね??どういう理由かは分からんけれど、出ないKontrabassの音は想像して聴いてください。



子供達が引っ掛かった所は、polyrhythm(複リズム)の箇所なのだけど、簡単に拍子の中のrhythmに訂正しようと思って、元の譜面を別名で保存し直したら、そのpolyrhythmの箇所から全部壊れてしまいました。つまり、finaleにはpolyrhythmのコピペは出来ないのですよ。だから、勝手に音符を増やしたり、拍をずらしたり、とんでもない好き勝手をやっていて、最初から入力した方が早いのか、手直しをした方が早いのか??後、勝手に2分音符をtieで書き直したり、音符を増やしてtieにしたり、まあ、七面倒くさい事になってしまいました。
そうなると、もう、根性論です。忍耐力テストなのだよ。私の一番苦手とする、持久戦なのだよな???馬鹿finaleは困ったものだ。音楽家が作ったsoftではないからな??そういう楽典的な所が全く出来ていないのだよ。最も、音楽家にはfinaleのsoftは作れないだろうしね。困ったもんだ❢❢


相変わらず、Facebookの調子が悪く、動画が途中で停止するようなので、You Tubeにもuploadしておきました。




その後 最後の四小節の音を 少し変更しました それも含めたスコアを渡します 大した変更ではないので youtube の音源の方は変更しません。それはscoreを見て・・で良いと思うのでね。


合わせ行けず申し訳ないのですがYouTube音源upしていただき有り難いです。
クリスマスの画像がとっても綺麗です!


相変わらず、finaleが付点2分音符を付点4分音符2個にtieに書き換えて、「こちらの方が楽典的に正しい」と言ってfileを開く度に勝手に、修正をしてくる。
そんなの、分かっているけれど、付点2分音符の方が良いんだって❢❢って言って一個一個手直ししているのに、fileを閉じるとまた、付点4分音符とtieになっているのだよ。一括でやろうと、何度設定しても、出来ないのだよな??


16小節と17小節のviolaとcello、Kontrabassのpartが少し変更になりました。2時現在です。


日本の・・だとアニメのイラストだけになるので、ドイツのイラストを探しました。


この曲はpolyrhythmと、弦楽五重奏の分厚い響きがneckとなって、相当技術の高い生徒でも、「お互いの音が聴こえない」・・という事でensembleの練習に四苦八苦していて、今までの演奏でも、どうも曲のimageが掴めないようなので、今回の連中は小学生がmainなので、練習の回数を増やしたり、する事が日にち的に無理なので、曲を練習して煮詰めて行くよりも、曲のimageを先に付けてあげようとかな??・・という事で、最初から音源を作って見たのですが、以外とそれが良かったようで、未だ、1日しか経っていないのに、accessが30件を越しています。
但し、Kontrabassの音が色々な音源を使用しても、再生されないので、Kontrabassだけは一部だけしか、音が出ていません。それはfinaleがnotationのsoftであって、あくまでも、notationのための音源なので、演奏のためのsoftではないので、悪しからず・・という事です。

演奏する生徒達が見てくれたのかな??とか思ったり、しています。
でも、演奏者は5人だよな??
後は誰が聴いてくれたのかな??と、多くの人達がが聴いてくれたので、思いもよらぬ感激です。


クリスマス会迄の練習はrehearsal も兼ねて後1回飲みなので、その1回の練習は、どうしても、人形劇が中心になってしまいます。
つまり、練習は本当は、もう出来ないはずなのですが、私の作曲の「清しこの夜」弦楽五重奏版の楽譜が、最終稿ではなく、part譜ともscoreとも、違っていて、なんと最終稿が検見川教室に無かったのですよ。勿論、私も貰っていません。
そのドタバタだけで、練習時間が終わってしまった。
超、不愉快になってしまいました。

昔のversionの楽譜が曲の一部で、polyrhythmの複拍子で書かれて居るので、近現代に慣れていない今の子供達では、演奏が難しくて出来ません。
それで、複rhythmを無しにした新versionの楽譜を作ったのですが、楽譜をrenewalする段階で、finaleのsoftが、polyrhythmを認識出来ずに、勝手に音符を書き換えて作曲してしまうのです。
それを手入力で、元の記譜に書き直すのですが、今度は、finaleが慣用的なnotationに音符を書き換えるので、それを更に手直ししなければなりません。
(小節を跨ぐ付点2分音符を、慣習的に付点4分音符のtieに書き直してしまうのです。)音符が増えて極附に見にくくなってしまいます。
それから、更に、折角手直ししたPageのlayoutがrenewalされて、無駄になってしまうので、更に、それを手直し修正しなければならなかったので、その過程で、どんどん新しいversionが増えてしまい、間違えないように、兎に角、送って来たfinaleを、既存の、前のfinaleに上書きするように言っているのですが、そのtimingを逃すと、どれが最終稿なのか・・分からなくなってしまうのですよ。
これまでも、そう言った、全く同じ失敗を繰り返して、私が、何度も、怒った事がありましたが、今日は、クリスマス会への最後の練習だったので、超、頭に来て、練習中にも関わらず、怒鳴ってしまったのですよ。ハイ!


またまた、書いた文章がブットンで居るのですがね。困ったもんだ❢❢


教室での整理はどういう風になっているのかは知らないけれど、ハイツでは、「清しこの夜」は、大元の古いmainのversionは、part譜等、もう必要ないものを削除して、一つだけ残して、part譜やscoreは別名にして、「清しこの夜」複rhythmの修正版という名前で、fileを作ってpart譜も一緒に保存しています。
つまり、上書きするのは、mainのdataではなく、renewalのversionのみなのです。これで、資料としてのdataと今回のdataが幾ら修正されても、問題なく保存されていきます。
只それだけのroutine作業をすれば良いのですが、mailが着いた段階で、その作業を怠ってしまうと、同じ名前のfile(data)が溜まってしまうので、どれが最終稿か分からなくなってしまうのです。
音楽だけではなく、実社会でも、よくあるミスなのですが、そこの作業の仕方を分かっていないとミスるのですよ。
事務所が江古田にあった頃は、私も未だ元気だったし、江古田で生活していたので、パソコンの整理は、私が管理していたのですが、椎名町に事務所を引っ越してからは、二階迄、階段を上がるのが億劫になってしまい、今はパソコンの整理は全くやっていないので、資料の置き場所や、パソコンの整理等々の要の所がcontrol出来ていません。今回もoutlookの整理の問題だと思うのだけど、忙しさにかまけて、パソコンを開く時間がない・・とか、言うので困ってしまうのだよ。仕事は先ずパソコンを開く事から始めるのがroutineだろうが。
昨夜も「何時の版が最終稿か??」と言って、「何日の何時の版」「何日の・・」と言い始めていたけれど、常に最後に送った版が最終稿に決まっているはずだろうが??なんでそんな事を聞くのか分からん??


事務所が江古田にあった頃は、私も未だ元気だったし、江古田で生活していたので、パソコンの整理は、私が基本的に管理していたのですが、椎名町に事務所を移転してからは、二階迄、階段を上がるのが辛くなってしまい、パソコンの部屋に行く事が億劫になってしまい、今は事務所のパソコンの整理は全くやっていません。
パソコンの整理だけではなく、資料の置き場所や、整理等々の、事務所として最も要の所が、control出来ていないのです。

今回の楽譜の問題も、outlookの整理をちゃんとやっていれば、起こり得なかった問題だ・・と思うのだけど、先生達は、以前のように人数がいないので、指導の方で目一杯なので、その忙しさにかまけて、「パソコンを開く時間がない」・・とか、言う話になってしまうのだよ。

私としては、「仕事は先ずパソコンを開く事から始めるのがroutineだろうが。」と言いたいのだけど、先生の人数が足りないので、今、目先の最優先の所から仕事を始めてしまうのです。
昨夜も先生が「何時の版が最終稿か??」と言い始めて、「何日の何時の版」「何日の・・」と言い出した。

けれど、私は、常に前のdataに上書きをするので、幾つfinaleのdataを送ったとしても、最後に送った版が最終稿に決まっているはずだ・・と、私は思っていたのだけど、なんでそんな事を聞くのか分からん??

今は事務所の整理はどういう風になっているのかは分からないけれど、ハイツのパソコンでは、総ての楽譜は、大元の古いmainのversionは、part譜等、もう必要ないものを削除して、一つだけ残して、part譜やscoreは別名にして保存します。

「清しこの夜」も、『「清しこの夜」複rhythmの修正版』という名前で、fileを作ってpart譜も一緒に保存しています。
つまり、上書きするのは、mainのdataではなく、renewalのversionのみ❢❢・・なのです。
これで、資料としてのdataと今回のdataが幾ら修正されても、資料が膨大になる事はなく、常に、最終稿が問題なく保存されていきます。

只それだけのroutine作業をすれば良いのですが、mailにfinaleの楽譜が添付されて、事務所に着いた時点で、その作業を怠ってしまうと、同じ名前のfile(data)が溜まってしまうので、どれが最終稿か分からなくなってしまうのです。
音楽だけではなく、実社会でも、よくあるミスなのですが、そこの作業の仕方を分かっていないとミスるのですよ。
でも、基本的には、上書きで仕事をしてる場合には、最終稿が、必要な原稿になります。


事務所の資料を纏める時にはそれだけで良いのですが、ハイツの場合には、それ程簡単ではありません。finaleの原稿であっても、相手次第で色々なversionが必要になるからです。

今回の「清しこの夜」の場合も、複rhythmや複拍子が子供達に取って難しかったので、複rhythmや複拍子を通常のrhythmになるように編曲し直しました。その場合には、元の原稿を保存します。つまり、renewalされたdataを別名で保存します。「清しこの夜」でも、別名の分が一杯出来て行くのです。この別名の付け方にもコツがあります。日にちやlevelで、仕分けすると、時間が経つと分からなくなってしまいますので、**ちゃん用の**の曲と分類します。その当時何を悩んで指導していたのかは、その特徴や変更箇所の事を何時迄も覚えているので、その方が具体的で良いからです。

https://www.youtube.com/watch?v=ACtMG1ZPLe0
分類のTitle名はrealityがある方が良いからです。

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「八千代の最後の動画を編集しました。」

2017年12月5日 ·
「八千代の最後の動画を編集しました。」

八千代のDVDとBlu-rayの注文が来たので、編集をしないままに、未だに放ったらかしになっていた、Vivaldiの「秋」と、「山の音楽家の楽器紹介」を朝一で頑張って編集を終わらせました。

編集を済ませる迄には、そんなに時間は掛からなくって、更々と出来たのですが、いざ、You Tubeにuploadしようと思ったら中々出来ないのです。
今年の8月から、プロバイダーをjcomにしてからの、netの回線の調子が悪くて、しょっちゅう止まったり、You Tubeにuploadしようと思っても、やたらと時間が掛かってしまい、その間、他のパソコンで、平行の仕事をしようと思っても、その他のパソコンのnetが全く繋がらなくなってしまうので、並行作業が出来ないのですよ。

諦めて、You Tubeに動画をuploadしている間は、ハイツのmainのパソコンを回したままで、パソコン以外の仕事・・主に外回りの仕事をする事にしました。

という事で、億劫な外回りという事で、銀行に行ってお金を引き出して、車屋に車の代金を支払いをしてきました。
でも、銀行でお金を引き落とすだけで、2時間ぐらいの時間が掛かったよな❢❢ 

何故にそんなに時間が掛かったのか??と言うと、本人確認や、オレオレ詐欺に会わないように、利用目的や、その他、色々と根掘り葉掘り質問を受けて、れでそ時間が掛かったのだが、その次いでに、お金の運用が本来の銀行のお話の目的なのだけどね。
お金を運用する程の、預金がある分けではないので、私のメリットとして、相続の相談をして来たので・・・。
(否、私が相続を受けるのではなく、私の家や銀行や、楽器類、本類の相続の話なのだけど・・・??) 

よくよく考えて見ると、これって、「自分が死んだ事」を想定して、銀行の担当の人と死後のお金の行き先について、さり気ない話をしているのだけど、これって、結構、不思議な光景だよね~??
未だ、生きている俺を前にして・・サ??俺が死んだ後のお金や財産の話をするなんて・・サ???
「私が死んだ後の話」って、結構、本当は、残酷な話なのだと思うのだけどね??

何故、シラッとして、他人事の話として話が出来るんだ??
目の前にいる俺の事の死後の話をしているのだけどな???



山の音楽家の楽器紹介です。

https://www.youtube.com/watch?v=sBuIOvnznEI
17年11月23日八千代コンサート「山の音楽家」で楽器紹介


銀行と車屋から戻って来て、固定資産税の領収書を探していたら、今年のインフルの申し込み用紙が出て来て驚いてしまいました。
インフルの領収書を見ると、なんと、なんと、昨年度の申し込み用紙でした。
え~っ?? 
昨年はインフルの予防注射はしなかったのかな??
大急ぎで用紙を届けると間に合うかな??
領収書の書かれているdataをそのまま写して、銀行に電話をして、銀行経由で、固定資産税の用紙を見せて、それから病院迄行きました。病院の人達は誰も気づいていなかったので、驚いていました。何とか病院の書類の提出に間に合ったよな❢❢ 
う~~ん、忙しい❢❢
流石は師走だ❢❢


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「Ⅰ 今日は5ヶ月ぶりに超、鬱が酷い❢❢」


2017年12月7日 ·

「Ⅰ 今日は5ヶ月ぶりに超、鬱が酷い!!」

「cassette-tapeのパソコンへの移動も出来なかった。」
朝は何時ものように定時に起きて、お昼からは、cassette-tapeのdataをパソコンに取り込むために、機材を使ったり、softを使ったり格闘しました。機材はimpedanceが合わなかったり、音量が足りなかったり、で挫折して、softの方に至っては、取り込む事すら出来ませんでした。
以前、proの人にお願いして、analog録音からdataを起こして、CDに焼いて貰ったのですが、noiseが酷くて、一般的なCDのdataとしては使用出来ませんでした。全く無駄に終わりました。

という事で、cassette-tapeからmp3への移動なのですが、お昼から夕方の5時過ぎ迄、格闘したのですが、遂に挫折してしまいました。
仕事として、成り立たなかった事もあって、超、疲れてしまったので、仮眠をしたのは良いのですが、ベッドから起き出すと、何と、5ヶ月振りの大不調、超鬱になっていました。

「超久しぶりに、鬱が始まった」
そう言えば、朝から何も食べていなかったので、(お昼に、dubbingをしている間に、珈琲館でも行って、朝食でも食べて、帰りに丸々スーパーに寄って、濃厚豆乳やオレンジジュースでも買って帰ろうと思っていたのですが、機材やsoftが思い通りに行かないので、結局、食べ逸れてしまったのですよ。

お腹が空いたからの低血糖か、それとも血圧の不具合か??体調の具合を調べる暇もなく、時間切れで、椎名町にドルプリっ歩に駆けつけて、食事をして、一日一食の食事をして、大急ぎでハイツに戻って来ました。
鬱が酷いと、人とお喋りをするのは苦痛になってしまうので、ハイツで引き篭もった方が、楽だからですし、後は寝るだけなので、ゆっくりと原因探しをするのですが、これが理由が見つからないのだよね。

今は、わざわざ人と会わなくても、仕事はmail(line)で済ませられるので、近現代は「引き籠もり人」に取っては楽な時代です。

取り敢えずは、今の「鬱の原因」を探さないと行けないのだけど、体調の不具合による事が多以外にも、精神的な問題とか、心臓の不整脈とか、原因は多種多様に渡っている場合が多いので、理由は結局の所、分からない事の方が、殆どなのですがね。
つまり、原因とは言っても、それは鬱の始まる切っ掛けに過ぎない場合が殆どなのだからです。





食事を終わってハイツに帰って来ました。勿論、1時過ぎなのですがね。早速、血圧を計ったのだけど、まあ、低いと言えば低いのかな??血糖値は計る道具は買っていません。血を抜くのが嫌なので・・。まあ、針で刺すだけなのだけどね。鬱と血圧は因果関係はあるのかな??

すっかりとどっぷりと鬱になってしまったので、全く眠れなくなってしまったのだけど、困った事に仕事モードにもならないのですよ。
こういう時には、You Tubeで、自分の鬱々コンサートの演奏を聴いてWineでも飲むのですが、久しぶりに、wineと鬱々の曲の演奏に浸るつもりです。
1週間前ぐらいに開けたwineなのですが、浅くて防腐剤の匂いがきつくて、瓶の中でぐるぐると回して臭気抜きをしてデキャントをして冷蔵庫で冷やしていたのですが、何と、素晴らしい味に成長熟成していました。これなら、後、2,3本デキャントしても良いかな??
「え~っ、白wineをデキャントするの?」なんて言わないでね。
私が勝手にやっている方法なのだけど、市販のausleseでも、結構美味しくなるのだよ。

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「Ⅱ 5ヶ月振りの鬱が1日経っても未だ続いています。」

2017年12月7日 ·

「Ⅱ 5ヶ月振りの鬱が1日経っても未だ続いています。」
昨日よりは、少しは楽なのですが、それでも、鬱は鬱で続いています。
昨夜は全く眠れなくなってしまったので、久しぶりにwineを飲んで、鬱々に浸っていたのですが、お昼過ぎにやっと少し眠って、夕方目が覚めたのですが、やはり鬱は解消していませんでした。
困ったものだ❢❢


先生のお迎えッ歩に行って、食事を終えた頃から、どうも体調がおかしいな??と言う事で、急いで自宅に帰って、熱を計ったら、何とやっぱり7度5分の熱があった。鬱ではなくって、なんと、風邪のようだ❢❢ インフルの注射はしたばかりなので、インフルではないと思うのだが、咳痰喉はないのだが、鼻水だけは寒いからしょうがないか??
という事で、今日はもう何もしないで、寝る事にします。おやすみなさい❢❢

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「きよしこの夜」の以前のscoreにfinaleで練習番号を入力

2017年12月12日 ·
「清しこの夜」の以前のscoreにfinaleで練習番号を入力しようと思ったのですが、何と以前の練習番号は「あいうえお」表記だったので、finaleの自動表記にはなりません。仕方がないので、「あいうえお」を「ABC」表記に直しました。
という事で、以下・・・
1小節目あ-3を(以下略)A-3に訂正、4小節目をあ-2からA-2へ。6小節目にdoublebarを付けてA-1に訂正, 8小節目もdoublebarでA1.に訂正。12小節目のあ2をA2へ。16小節をあ3からA3へ、20小節目はB1。24B2.28B3、30小節B4。34小節C。38小節C2,  42小節目のう3を43小節目に移動してC3に訂正。 46小節目のうの4は47小節目のC7へ訂正変更  うの5は削除、51小節目doublebarはD 53小節目はD2 57小節目D3. 61小節目D4 65小節目D5  69小節目D6です。etc.
以下、前回の練習番号を上書き訂正します。以上伝達でした。
最終的に訂正した音源を参考までにuploadしておきます。

https://www.youtube.com/watch?v=ACtMG1ZPLe0


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「よく見た夢を書く事があります。」

2017年12月12日 ·

よく見た夢を書く事があります。
Facebookにも幾つか書きましたが、いつも不可思議な夢です。

今日の明け方の夢は、今の古い車で、雪道の農道のような所を走っている夢を見ました。
道が狭くて雪で路肩が見えず、脱輪しそうな感じを、必死にやっと舗装してある道路に出たのですが、自動車道の入り口で、右に行けば良いのか、左に行けば良いのかを悩んでいる所で、目が覚めてしまいました。
この自動車道への入り口の道は、何度も夢で見た事のある場所なのだけど、実際には知らない光景です。
何処にでもありそうな場所なのだけど、実際には見た事はありません。
夢の総てが薄暗い闇の中の光景です。

私にとっての旅は、いつも暗く悲しい旅だったからでしょうか?
私の人生の旅も、孤独な雲水の一人旅のように、行く方も知らず流れて逝きます。




あれれ??この文章もブットンで履歴もない❢❢一体Facebookはどうなっているのだ??全く役に立たないぞ❢❢

この文章も大元の文章がぶっ飛んだままそのままになってしまっている


という事で、いつものように記憶による復元です。一言半句覚えていると言うのでは当然ありませんので、内容を新たに書き直すだけの復元です。


brhmsからBrahmsと文字だけを訂正したのに、up出来なくなってしまいました。元の文章にも戻らなくなったので、仕方がないので、コピペをしました。


旅に病んで夢は枯野をかけ廻る
Brahms Capriccio Op.76Nr.1 fis moll 
https://www.youtube.com/watch?v=83sNTVSwojM

Facebookの不具合で、中々大元の文章に辿り着けないのだけど、・・仕方がないので、根性です。ハイ!


芭蕉のこの句は辞世の句として知られているのだけど、人間何時何処で死ぬかを知っている分けではないので、当然芭蕉もこの句を辞世の句として書いた分けではありません。旅行中に病気をした・・という事を書いたに過ぎないのです。でも、寂寥感がよく出ている名句ですよね。
BrahmsのこのCapriccioは、音楽大学の学生時代から大好きな曲で、よく弾いていた曲です。今は全く弾く事が出来なくなってしまいましたがね。
自分で弾くのは諦めて、You Tubeで気に入った演奏を探してみたのですが、Rubinsteinの演奏はこの1番はヒットしませんでした。GouldやGiesekingの演奏は気に入らないし、ましてや、若手(今はもう若手とは言わないのだろうけれど)の演奏は乱暴で音も現代風でBrahmsの寂寥感にはそぐわない。
という事で、名前も知らない演奏家なのですが、とても良い演奏を見つけました。後は、鶴の一声の頂点の音を、fingerstaccatoで手首の抜きを使った余韻の音を出せれば、申し分はなかったのですが、頂点の音の出し方が今ひとつでしたね。それ以外は中々の秀逸の演奏です。


と言うような事(礼賛)を書いたのですがね。それを書き戻すまでに、2日も掛かっているぞなもし


昨日・・あれ??もう深夜の1時を過ぎたのか??
では、一昨日のPianoのlessonで、紗來ちゃんがクリスマス会で演奏するDebussyのarabesqueの1番の曲で、手首を一生懸命にあげて弾いていたので、その手首の抜きの奏法の意味や、portato奏法の演奏法を実際に音を出して、教えました。Pianoというのも、弾き方次第で、fullorchestraのように色々な音(音色)が出せるのだよ・・という事が分かってくれたかな??


勿論、それは電子Pianoでは出来ません。不可能です。


花園の黒Pianoは、grand仕様なので、音色の変化は出せるのだけど、通常はuprightのPianoでも出来ません。grandpianoでないと、音色迄のapproachは無理です。

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「明日は新車と、車を交換に行かなければならないので、」

2017年12月13日 ·
明日は新車と、車を交換に行かなければならないので、古い車から荷物や総てを降ろさなければならないのですが、私の今日の体調的には、とても出来そうにはありません。(このお話は火曜日のお話です。)

いつもの通りに、timelineがアチコチめちゃめちゃなので、timelineの説明をすると、日曜日の10日がクリスマス会の練習、11日の月曜日が冷蔵荷物が配送される日、11日と12日の火曜日に本来ならば、車の中を全部出す日で、水曜日には車を交換に行く預定だったのですが・・・・???というお話です。

今日(所謂、火曜日なのですが)は、と言うか・・もう既に昨日は・・ですが、何も食べ物が冷蔵庫にも無かったので、食料品の買い出しに行くか、食べに行くかをしなければならなかったのですが、とうとうどちらも出来ませんで、朝から何も食べないままでした。

(ここからは、一日前の月曜日のお話になります。)
通常のrotationならば、オケ練習開けの月曜日は、結構、overworkなので、一日安静にして、体力体調の回復を心掛けているのですが、荷物が着くのに、椎名町の事務所には、午後は、荷物の受取をする人が誰もいない、と言う事で、私が1時半を目指して出掛けて、ちゃんと、2時から3時の間に荷物が届いたのは良いのですが、一緒に、冷凍の荷物も着いたので、それを冷凍庫に入れようとしたら、冷凍庫が満タンになっていて、肉類(これは多分ドルプリの食料だと思うのだけど)が入っていて、とてもとても届いた荷物を入れるスペースはありませんでした。

椎名町の冷凍庫は一番下の段で、しかも、全く荷物が入らないので、全部を一度出してもう一度入れ直したのですが、その過程で、冷凍庫の引き出しの中の小引き出しが入らなくなって、その修理をするのにも、小一時間程掛かってしまいまって、変な体勢で作業をしたので、完全に腰が砕けておかしくなってしまいました。斉藤先生が、どうしても、庭いじりの作業用に欲しいと、私がハイツのトイレ掃除用に買っていた椅子の車があれば、低い位置の作業も腰に負担を掛けないで出来たのだけど、探しても見つからなかったのよネ??

私の冷蔵の荷物(ポーズ)は全部ハイツに持って帰りました。
そして、ハイツでも、入れ場所を確保するために、同じように、冷蔵庫を整理する作業をもう一度しなければなりませんでした。
それって、超、疲れたのよね。
本来ならば安静にしている日なのに、3時間も時間が掛かってしまったのでネ??

それは、でも、月曜日の事です。
夜は、ちゃんとドルプリっ歩に行って、シャブシャブで野菜を中心に食べて、ご飯と、おつゆをお弁当に持って帰りました。
次の日の朝(火曜日)の食事用にです。
(ここまでは月曜日の話です。)

(ここからは再び、火曜日のお話です。)
・・と言う事で、火曜日の朝は、雑炊を作って食べたのですが、火曜日の夜の椎名町での食事はありません。牧野先生は帰りが遅いし、斉藤先生は千葉泊りの日なのでね。各自、個別に食べる日になっています。

という事で、火曜日の夕方頃になって、お腹が空いて来たので、冷蔵庫を開いて、checkをして見たのですが、何も入っていないし、外に買い物にも、食べに行く元気もなかったので、以前、風邪で寝込んで食べ物が全く無くなった時に、斉藤先生が食料に、レトルトのスパゲッティのルー(ボンゴレ)を買って来てくれたのですが、風邪で寝込んで作る元気が全く無かったので、そのままになっていたのを思い出して、取り敢えず、スパゲッティを茹でて、レトルトのルーを掛けて、食べました。

食べながら、改めて思い出した事なのだけど、私が、レトルトの食品をハイツに置かない(常備しない)のは、どのレトルトの食品も余りにも不味いので、食べる気がしないのが理由だったのです。

でも、何か食べないと、益々、鬱が酷くなってしまうので、不味い味を色々と補修しながら、何とか食べました。

それで夕方は何とか凌いだのですが、夜は、流石にもう、今更、レトルトでもないし、「どうしようかな??」と思っていたら、Pianoの変奏曲である山の音楽家を、八千代用にorchestra-versionに、中途半端にarrangeしたままになっているので、そのままorchestraとPianoにarrangeしようかな??と思ったのですが、それは編成的に無理なので、Piano-Quartettのversionとして完成させました。

(ここからは更に水曜日のお話になります。)
深夜はそれで何とか凌いで、気づいたらもう次の日の朝、今日(水曜日)の朝になっていました。
まあ、無理を承知で、セブン迄、買い物に行きました。
という事で、何とか朝食は食べれたのですが、その反対に、夜の睡眠は無しになりました。
なんだろね??

午前中には、絶対に、車の中を片付けなければならなかったのですが、午前中に椎名町に行くのは、とても無理になってしまいました。

理想的には、椎名町にドルプリっ歩に行く時に、ついでに、食料品を買えれば良いのですが、椎名町に行くのは、夜の11時を過ぎているので、途中のスーパーは全部お店が閉まって居るのです。
唯一、椎名町駅の前のサミットだけは夜の1時迄開いているのですが、残念ながら、江古田から椎名町への導線からははみ出しているので、立ち寄る事が出来ません。
夜食を食べた残りをお弁当にして持ち帰るのですが、時々それが時間切れで、出来ない事があります。
そうなるとチョッと、悲惨な事になります。
帰り道でセブンに寄るのは結構辛いものがあるのでね。
それに1時2時過ぎでは、流石のセブンにも食料は残っていないのでね。
という事で、今日もセブンの余り物を買って来ました。
とは言っても、セブンも昨日からの残り物だけなので、結局の所、食べれそうなものは、何もないのだけどね??

いや~あ、超、鬱が酷くなってしまった❢❢❢
wineでも飲みたいのだが、車を取りに行けなくなってしまうのだよ❢❢❢
これは困った❢❢❢
どうしよう???(老婆心に、timelineを書き足しました。)




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「新車を駐車場に入れた❢❢」

2017年12月13日 ·
「新車を駐車場に入れた❢❢」

天井は10センチ、幅は17センチ、長さは30センチもでっかくなってしまった。車庫入れが前の車ですら、中々入らなかったのに、今度の車はとても無理難題だ。
車庫入れの前に、車庫の前に車を持って来るのに、路肩に駐輪しているチャリを避けながら、サイドミラーを閉じて、チャリに車がぶつからないように注意して駐車場に持って来なければならないし、一回で駐車場のスペースに入れるのはとても無理なようだ。
ひえ~っ❢❢ 困った❢❢
・・でも、車を出すのは もっと 難しいようだ ‼
電信柱が 邪魔をする😭
サイドミラーを閉じても ギリギリだろう‼
それでいて、8人乗りから5人乗りになって、3000から2700になった❢❢ 
ひえ~っ❢❢ 
困った❢❢❢



取り敢えず、何とか駐車場に車を入れる所までは、やって、ハイツに戻ろうと思ったのだが、新車なので、塗装のcoatingが全くされていないので、もう一度、車屋に行って、業者に頼むとcoatingは幾らになるのかを聞いた。車の引き渡しの時に、聞いた事は聞いて、自分達でcoatingをする方が良いという話しは聞いたのだが、何せ、車の背が高い。これは自分達でcoatingをするのは無理かな??と思ったからだ。でも、車屋は、「coatingは業者に頼むとかなり高価になるので、最初は、脚立を持っているのならば、自分達でやって、2,3年過ぎてから、傷等が目立つようになったら、車検の時についでにcoatingを業者に頼むと良い」というadviceであった。だから、そのまま、オートバックスにバイクで行って、sprayのcoating剤と、セーム皮を買って来た。それは良いのだが、道が総て大渋滞でオートバックス迄と、帰り道も結構時間が掛かって、辿り着いたのは、4時過ぎであった。大急ぎで雑用を片付けて、何とか、ベッドに入ったのは、多分6時は過ぎていた・・と思われる。しかし、まあ、なんとか、仮眠は出来たので、鬱も少しは軽くはなったのかな??
それとも、相変わらずなのかな??
暫らく、様子を見ないと、分からないのだよな??


また、文章が消えて無くなってしまった。
どうなっているのだ??
ほんと、Facebookは頭に来る❢❢❢


明日は千葉教室でlessonなので、初めての車庫出しなのだが、ガソリンがスッカラカンなので、いきなり事務所から首都高のC2の西池袋入り口ではなく、ガソリン・スタンドを経由するので、護国寺周りになる・・という話をetc、etc・・したのだがね。
その話が全くブッ飛んでいるのだよな?


右横に編集または削除という…が出て来るとupload出来ていて、×が出て来るとuploadは出来ていないらしい・・という所迄は理解出来たのだが、それでも、upload出来ないcaseがあるので、困るのだ。


×が出て来た時には、Facebookがウンともスンとも動かないので、画面をコピペして、削除で文章を消して、新しいマスにペーストし直すと、大概の場合には、upload出来る。推敲で書き足す時にも、よくfreezeする事があるので、同様の方法で逃げている。


書き込んだ文章をそのまま、Enterを押して、Facebook上にupする時に、そのまま消えてしまう事がある。これは予測もしていない事なので、コピーすらしていない。
その文章迄、コピーをしなければならないとしたら、それは、もうFacebookという機能ではない。
その場合には、記憶で書き戻すしか方法はないのだよ。
これまでも何度、それをやった事だろう??


あそこは本当に狭いですよね😅前の自転車?バイク?停めないでいただきたい😭
私もミラー折らないと通れもしません😅
あの駐車場に入れるなんて‼️
車体が黒だと夜見えづらそうですしね。。


椎名町の車庫には、車のプロの人が納車の時にも、入れてくれません‼
擦ると自分の弁償なのでネ?


椎名町の教室の回りは100円駐車場が多いので、利用してください。擦るよりも安いのでネ

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昨日は超鬱が酷く、夜は眠れなかったので、朝、無性に

2017年12月14日 ·
昨日は超鬱が酷く、夜は眠れなかったので、朝、無性に鬱々の曲が弾きたくなって、(鬱々の時にも、そうでない元気な時にも、普段は、Pianoを演奏する体力がないので、音を確かめるぐらいの、ポロン、ポロンぐらいしか、Pianoを弾く事はありません。

Pianoを弾きたくなった・・という事自体、奇跡的な事です。)Keyboardの周りに置かれているダンボールや布巾の類を片付けて、何とか場所を作って、Pianoを弾いたのだが、何と、Keyboardの低音の音が伸びないのだよ?

チョッと困ってしまって、音のriversを調整したり、sustainを掛けたり・・と、色々とやって見たのだが、どうしても、低弦の音が伸びない。

acousticのgrandpianoの音は、弦長に対して、音の響く伸びの長さ(減衰する時間)が決まるので、低弦になればなる程、音の伸びが良くなるのだが、Keyboardではそれを人為的に設定しているので、高音域と低音域の音の伸びのbalanceが非常に悪い。(popularの演奏の音を想定しているから・・だろう)

昔々、steinwayのconcerto-grandをHallに入れた事がある。音がキラキラしていて、pedalのbalanceが悪いので、makerの人に文句を言ったら、今は世界的に嗜好がpopularになっていて、steinwayのような超大手のmakerですら、若者仕様になっているので、「Classic用のPianoを購入したければ、Hamburg迄、買いに行け❢❢」と言われてしまった。
私のgrandならそうするけれど、神戸の小さなconcerto-HallのPianoじゃあ、そこまではしたくないよな??と思ったのだけど、その旨を伝達すると、ownerの人は、「一緒にPianoを買いに行きましょうよ??」と誘って来れたのだけど、先方は新婚旅行を兼ねて・・なので、一人でお二人さんに随行しても面白くも何ともないので、断ってしまったけれどね。旅行ガイド兼通訳じゃあね~??

昔、大手のPianoの指導講師の先生が音楽教室の先生達を前にして、模範演奏をしているのを聴いて、私が癇癪を起こした事があるのだが、それは、chopinとかのPianoの曲を模範演奏をするのに、pedalを踏みっぱなしで演奏していたからだ。
この先生は、自分が弾いた音の立ち上がりの音は、聴いていたとしても、残響の音のreleaseの音を、全く聴いていない・・という日本人特有の誤りの奏法をしていたからだ。

しかし、改めて、Keyboardを聴くと、音の減衰が激しいので、pedalを踏みっぱなしにしても、音の濁りは、releaseが早いために、結構、抑えられてしまう。
noiseで全く音が分からなくなってしまう、本物のgrandpianoの音とは、えらい違いだ❢❢ 

Keyboardではなくって、自分のgrandで練習したくなって、ふと、気が付いた。
俺のgrandpianoは何と、ユーカリが丘にあるのだ❢❢
そうだ❢❢ もう、江古田の教室はないのだった❢❢ 

改めて、今更、shockだった❢❢ 
何年か振りで、Pianoを弾く気になったのに、Pianoがないとは・・・??

置き場所さえあれば、新しくgrandpianoを買って、ハイツにgrandpianoを置いても良いのだが・・、そう言えば、ハイツは、音出し禁止だったっけ?? 
そんな話は、聞いていなのだが・・??




今はなき江古田教室でのlesson風景です。

何時の頃かいな?? 10年も前の写真だよな?? これは、若いネ??とは言わないよな??アハッ!





















同じ日のもう一枚のsnap写真、こんな可愛い頃も・・・なんて、言わないからね??
今でも充分・・・アハッ!
(また、文章がブッ飛んで書き直しています。)

来年、成人式なら、7年前という事で、中一頃かいな??


という事を書いていたら、lessonでひかりちゃんがGnossienne No. 1を持って来た。クリスマス会で弾く予定なのだそうです。この曲のpointは、Baßの音がdroneのように、持続して続いて響いていかなければならない。それが基本中の基本です。
しかし、左手の和音で指が届かない箇所が何箇所かある。
流石にYou Tubeにupしているproの演奏で、Baßが切れてしまう演奏をしている人はいない。

それがproの演奏としては、最低条件だろうな??pedalをchangeする時にfinger pedalを使用するのがコツなのだけど、そのfinger pedalの演奏方を知っているpianistは少ないのだろうな??
殆どの人はpedalをhalfで踏み変えているのだけど、それは所詮、誤魔化しpedalに過ぎないのだよ。
本当のpedal操作ではなのだよ。


その前に紗來ちゃんがクリスマス会用にDebussyのarabesqueの1番A Durを持って来た。これも、最初の低音と最高音で踏み変えてしまうので、音の響きが最低音と頂点の音で痩せてしまう。
finger pedalによる演奏の仕方を教えたら、驚いていたよ。
「え~っ??そんな事が出来るの??」てな感じかな??
紗來ちゃんに感想を書いて貰うか??
特殊なpedalの使い方に付いて・・




という事で、昨日のPianoのlessonは、全員pedal操作の仕方のlessonでした。ハイ!
全くの、偶然だけどね。

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「昨日は車を購入した次の日で、千葉のlessonだったので・・」

2017年12月15日 ·
昨日は車を購入した次の日で、千葉のlessonだったので、椎名町から千葉迄、初cruisingしました。その感想です。
車を購入して車屋で始めて車に乗ったのですが、その時に、先ず驚いたのは、accelとbrakeの位置です。
ニャンコの絵の描いてある古い車は15年以上も前の日産の旧型なのですが、昔の車はaccelに対してbrakeが少し高めの位置に付いています。つまり、足先を真横にスライドさせても、足が引っ掛かって、そのままbrakeを踏む事は出来ません。膝を少しあげて、打ち下ろすようにbrakeを踏みます。つまり、昔の車はaccelとbrakeを同時に踏むと言う事は出来ませんでした。という事で、踏み間違いは基本的には有り得なかったのですよ。
だから、左足でbrakeを操作しながら、右足でaccelを吹かす・・というラリーのTechnikが必要になる。



新車では、brakeとaccelの位置が全く平行な位置に付いているので、最初は、brakeの位置が分からず、混乱してしまいました。「accelとbrakeの踏み間違いは、こんな所に原因があったのか?どうして??」と、車屋に聞いたら、咄嗟にbrakeを踏む時のtimingを早くするために新車は全部そうなっているのだそうで、驚いてしまいました。咄嗟もいいけど、踏み間違いはもっと、怖いよな??
先程の、左足でbrakeを踏めないように、真ん中に仕切り板があるので、驚いてしまった。「この板は何のために付いているの??」と車屋に聞いても答えて貰えなかった。
駐車場でホンの2,3㌢の段差を車が四苦八苦している時に、ついつい吹かし過ぎて急brakeを踏む事があるのだが、どうしてもその段差が通常では越えられない時には、昔のサバンナやセリカの時のように、左足をbrakeに乗せた状態でaccelを吹かす事もよくあったのだけど、これからはそれも出来ない・・という事なのだよな??高齢者教習では、「backで車庫入れする時には、accelを吹かさないで、そのまま車が動くのに任せてbackするように・・」と習ったのだが、backでは、段差が1㌢あっても、そのままでは引っ掛かってしまって、back出来ないのだよ。教習所と違って一般の駐車場は必ず段差があるので、吹かし過ぎにならないように、左足でbrake-pedalに足を置いて置くと、accelを吹かしながら、brakeを掛けるという操作が出来るのだけどね。


まあ、そう言った、椎名町の駐車場に入れる時の四苦八苦の与太話は後回しにして、次の日は、新車なので、ガソリンが入れて無かったので、迂回してガソリンスタンドに寄りました。
バイクで何時もガソリンを入れているスタンドなので、前日に5000円分をチャージしておいたのですが、満タンにしたら、何と請求が7425円・・❢❢ びっくりして明細を見ると、55Lも入っていました。
航続距離が300㌔以上となりました。

護国寺周りだと渋滞しているので、渋滞を避けて、何時もの西池袋まで戻って高速に乗ったのですが、トンネルに入った途端にautoでライトが点くのには、驚いてしまいました。まるで、過保護ママが同伴しているようです。
途中のイトーヨーカ堂で、車を降りて買い物をしようとしたら、鍵のリモコンが全く効かない・・❢ 何度やっても鍵がロックされないそうで、急遽私が車に戻って斉藤先生から、※)




何をやっても、変更の保存が出来ません。諦めて、暫らく保留にして起きます。そのうち出来るようになると思うので・・・


nann何度やり直しても、出来なかったので、諦めて、こちらに追記した分を挿入する事にしました。

※) 途中の幕張のイトーヨーカ堂で、車を降りて買い物をしようとしたら、斉藤先生から、「鍵のリモコンが全く効かない・・❢」とのcall・・❢❢ 何度やっても鍵がロックされないそうで、急遽私が車に戻って、車の番をする事になりました。これで15分以上のrossです。斉藤先生がお弁当を買っている間に調べてみたら、運転席のドアに付いているロックですが、それを解除していると、リモコン・スイッチが全く効かなくなる事が判明しました。doorのrockは常にrock状態でないと、リモコンが作動しないようです。

夜、荷物の積み込みで、車のエンジンを切ったのですが、ヘッドライトは点いたままです。自動では切れないので、仕方なく、manualで解除しました。
車の電源を落とした状態でヘッドライトが切れない・・という事は有り得ないので、また取説を読まなければなりません。
(どうやら、運転手が車の外に出ないと、ライトは切れないようで、車の中で待っていると、ライトは点いたままのようです。manualで切るのは正解だったようです。ホントかね??)

簡単なstart-upの取説が欲しいのだけど、まるでパソコンの取説のように分厚いのですよな??
また、細かい事ばっか、書いてあって、本当、分からない。やっている間に慣れて覚えろ❢❢てな事ですかね??
先ずは、不便に感じた所から、取説に付箋を張って、蛍光ペンで印を付けて行きます。
先生達が後で確認をするためにです。
私は読んだら、覚えてしまうので、蛍光ペンは、必要はないのですがね。

またまた、文章が、保存が出来ない状態になってしまいました。uploadも出来ません。この状態で移動させると、dataが全部消えてしまいます。
さて、どうやって、このdataを保存するか??
取り敢えずはmemo帳には保存したのですがね。


古い車から新車に買い換えて、改めて老人のpedalの踏み間違いの原因が分かりました。

今、丁度、タイムリーにproの若いドライバーが同じaccelとbrakeの踏み間違いで事故を起こしていたのだけど、老人が事故を起こす確率は、統計上の操作ですよ。

だって、若者とは言っても免許の年齢なのだから、その年令で免許を持っている年齢と事故の比率をあげなければならない。

それに、過疎地の問題もある。
田舎の道は、若者にも難しいのだよ。
路肩が狭くて、舗装されていないので、雨でも降ると滑り落ちる。
それを都会の舗装道路と同じに扱われても条件が違い過ぎるだろう??

田舎の老人は、80を過ぎて、90を過ぎて・・もう、運転はしたくないジジババも多いのだよ。
だけど、そうすると、病院にも、買い物にも行けない。
都会のドーナツ化なら、電動車椅子もあるのだがね??田舎ではそうも行かない。

後は、accelとbrakeの位置を変えた辺りから、事故の統計を見直したら良いのにね??

何が何でも、老人問題と認知症の性にしたいのだよね??

認知症の検査では、最初にその日の元号と月日を聞かれるそうだけど、私は、高校生の時から日にちや年月日が覚えられない・・というか覚える気がないので、運転更新の検査では一番に引っ掛かってしまうのだけど、審査する先生よりも記憶は良いと思うのだけどね。
興味がないだけなのだよ。
それを認知症とは言わない。

これは昔々の私の論文にも書いてあるのだよ。
私が60歳を過ぎた頃に「歳を取ると記憶力が衰えますよね?」と聞かれて、私が「衰えるのは記憶力ではなく、人生に対しての興味です。」と答えが記憶があるのだがね。

つまり、病気としてのalzheimerを除くと、人が記憶力を失うのは、物事への興味がなくなるからで、人生を目的を持って生きている人達は、認知症にはならない。記憶を保全する事によって、脳の血流が活性化して、血流が滞らなくなるのだよ。
だから歳を取っても、海馬も若々しいままで認知症にはならないのだよ。


認知症では、物事に興味を持っていたとしても、それが同じ事の繰り返しであれば早い時期に認知症を発症する事例を沢山見て来ました。
同じ事を繰り返しても、そこに工夫三昧や、常に新しい事を発見する・・という努力が伴えば、認知症にはなりません。
・・・くれぐれも、病的な原因の場合とは区別してください。
alzheimerは、脳の病気が原因なので、どんなに活動的な仕事をしている人でも認知を引き起こしてしまいます。
それとは違う話なのですよ。


テレビのコマーシャルで、一郎は同じ事を繰り返して・・・云々という話があったけれど、同じ動作をしているように見えても、本当に色々と考え抜いて工夫をしているのだよ。決して同じ事を繰り返しているのではない。フィギュアスケートの**さんも同じなのだよ。同じように滑っていても、ものすごい工夫があるのだよ。それが分からない・・という事は、大したコマーシャルではないよな??


音楽の勉強でも、間違えないように練習するのでは、proを目指すのは、遠いのだよな~ぁ??proの人は、たった、一個の音をどう表現するか?で、毎日骨身を削っているのだけどね??だから、子供達に何時も言っている事は、「間違えても構わないのだから、ちゃんと泣かせる演奏をしなさい❢」という事なのだよ。ちゃんと演奏が出来るようになると、間違えたりはしないのだよ。何故??それはNiveauが違うからなのだけどね??


シ♮をシ♭に弾くのは、音楽の意味(調性)が分かっていないからだよ❢❢ 純性のド#と導音のド#の違いどころではないよな?? その程度のNiveauなら、教室で勉強するよりも、塾に行った方が成績は上がるわな??


私が「塾に行く必要はない」・・と言っているのは、私の言っている事を1度で覚えて、理解出来ているのか?いないのか??を自分で判断出来て、虚覚え(なんとなく覚えている事と、しっかりと覚えている)の区別がつくようになった生徒を対象にして言っているのだよ。その場合には、塾の方が数倍levelが低いので、塾に行くと、その内に成績が下がります。(最初は、塾で効率を習うので、一時的には成績が上がるのだけど、先生が教えて来れるし、教えた以上の事を勉強しなくなるので、自分から理解するという事が出来なくなるから・・です。.

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「今日は15日の金曜日になります。」

2017年12月15日 ·
今日は15日の金曜日になります。・・・13日の金曜日ではありません。
つまり、昨日の斉藤先生クラスのone lessonの次の日でもあり、新車の初cruisingの次の日でもあり、本来ならば、前日は、色々な車関係の雑用で、lessonを開始するまでの時間が大変だったので、overworkという事で、今日は一日、安静dayとしていたのですが、2時間起き、3時間起きに目が覚めて、トイレとパソコンとベッドを回遊していました。

・・という事で、眠りが浅かったせいなのか、超、珍しく夢の中に生徒が登場したのだよね。
私は基本的に家族や生徒の夢は疎か、人の夢さえ見ないのだけどね??
前日のlessonで、色々と生徒の表情等で、気になる事があったからなのかな?? 
・・先ず、生徒の夢を見たと言う事・・、それ自体が面白かったのですよ。

どんな夢って?? 
・・夢自体は、なんの変哲もない、つまらない日常の事で、私の言っている事を生徒がちっとも、分かってくれない・・とか、言う事を聴いてくれているのか・・いないのかが・・よく分からない・・ような、もどかしげな実に日常的な夢なのですがね??

ただ、夢の舞台は、何時もの花園のlesson室ではなく、かと言って、検見川教室や、ハイツや椎名町の事務所でもない・・何処なのだろう?? う~ん、印象的には、ユーカリ教室が一番近いかな??

しかし、そう言ってしまうと、現実そのまま、じゃん❢❢
面白くも、なんともない・・か??
夢にまで見て、何かを悩んでいる・・という所が面白いのだよな??


私は子供のlessonをする時には、基本的には、子供の目を見て話をします。
子供が私の話を理解出来ているのか否か、音楽に対して、やる気があるのか否かは、その子供の目に現れるのでね??
子供の顔は笑っていても、目は座っている時が良くあります。
子供も大人同様に、先生に対して気を使っているのですから、表情だけでは、勘違いをしてしまう事もあります。
また、子供なので、子供自身が自分の心の本音を気付かない場合すらあるのです。だから、子供以上に、先生が生徒の心をしっかりと、知っておく必要があるのです。頑張っているのに、出来ないのか??頑張ってはいないのに、出来てしまうのか??そこいらもちゃんと把握しておく必要があるのです。

昔の生徒達と今の生徒達は、私に対してのアタリが随分違うようで、lessonをしていても、その距離感に、困ってしまう事があります。
私の指導力は昔に比べて、格段に上手くなったような気がするように思えるのだけど、子供達の食いつきは昔の方が良かったので、子供達の伸びは(±)思う程には伸びてはいません。
その理由も私は、よく分かっているのだけどね??
私としては、如何ともし難いものがあります。

大人の場合に音楽を習いに来る場合には、音楽を学ぶ事よりも、音楽界での音楽の方法論がmainになってしまうので、私のmethodeを学びに来る事はありません。
だから、本人の心を気に病む必要もないので、顔を見て、本人の心の表情を慮る事はありません。私からの指導を受ける目的が違うので、心の持ち様や置き所に心を配る事はありません。
もっと、sachlichに音楽の技術のlessonを受けに来るので・・ね
そこが子供達の指導と大人の指導の大きな落差になります。

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「loss-timeとlost‐timeのお話」

2017年12月16日 ·
「loss-timeとlost‐timeのお話」

昔、二十、七、八の頃から三十路の終わりを迎える頃迄、人に音楽を指導する(所謂、生徒や子供達に音楽を教える)事はありませんでした。

その頃は、作曲も含めて、外の音楽関係の人達と一緒に仕事をしていた頃なのですが、作曲家という職業柄、「日本で本当に忙しい人達」と言われている人達とご一緒に仕事をする機会を何度も得る事がありましたが、若僧の私とのmeetingの時間を決めるのに、何時も相手の方から『この時間にしましょう❢」、ではなく、「いつでも、良いですよ??」と時間を私に決めさせられて、ビックリして恐縮をしてしまいました。
不思議に思って、手帳を見せて貰ったのですが、驚く事にその人達の手帳の予定表を見ると(当時はnotePCも、携帯すらも無かったmanualの時代です。連絡は総て電話だった頃のお話ですが・・??)全員、超忙しい人達に共通なのは、その人達の予定表は、何ヶ月先までも、真っ白だったのですよ。

「あなたのように忙しい人が、何故・・??」と質問をすると、「少しでも、仕事を溜めると、仕事がもうこなせなくなってしまうので、出来る事はその場で片付けるようにしているのです。」という同じ回答だったのですよ。
その場では終わらない仕事でも、『仕込み』だけはしておくと、仕事への意識は出来ているので、進行が早くなるのです。この仕込みを先にやっておく事は、その仕事の内容や、掛かる時間、必要な資料等々を把握するのに、とても有意義で、効率・・それこそ「時短」の要にもなるのですが、『仕込み』を先にやろうとしても、その作業を『何処に』、『どのように』保存すれば良いのか??が分からなくって、それが出来ない人達が多いのです。つまり、整理の方法が分かっていないのですよ。

なる程、『日本で一番忙しい』・・と言われている人達の仕事法は、『仕事を追いかける事だったのですよね??』と言う事が、当時の若輩の私にもよく分かりました。ちなみに、余談ですが、私はmemoを取る習慣を持っていません。私が携帯にmailで、仕事memoを送るようになったのは、60を過ぎてからの事です。60を過ぎると、流石に、物忘れが酷くなってしまったのでね。

でも、反対に『仕事に追いかけられる人達』を見ていると、一生懸命に仕事を熟しているにも関わらず、ドンドンと仕事が溜まって行くのですよ。
その人達は、仕事を真面目に一生懸命にやっているのにも関わらず、仕事がこなせなくなって行くので、超、腫れ物になってしまいます。少しでも仕事の進め方が楽になるように・・と、adviceをしようとしても、過敏に反応して、怒られてしまうのですよ。 
怖い❢❢ 怖い❢❢

学校で、先生達や生徒達の模範になるような・・「勤勉なtypeの生徒」にそういった仕事を溜めてしまうtypeの人達が多いようです。
勤勉であればある程、「一生懸命に仕事をすれば、仕事がどんどん片付いて、自分の時間を作れる・・という妄想があるようです。
芦塚メトードの仕事法は、その考え方とは真逆で、基本の考え方は、私のように、怠け者が仕事をこなすための方法論なので、勤勉になればなる程私の方法論は理解出来なくなってしまうようです。勤勉なコツコツの仕事のやり方は私は推奨しませんので、勤勉な努力が私に認めて貰えなくって、cultureshockが起こってしまうのですよ。

芦塚メトードの解説のhomepageに、「時短」のやり方には詳しく書いてあるので、ここで説明をするのは、無駄なのですが、幾つかの原則論を守れば、自分の時間を作り出す事は出来るのですが、それがね~~ぇ??
**ちゃんのように、全く勉強しなくても、学校のテストで、一番の成績を取れるようになった事は素晴らしい事なのですが、それは未だ、芦塚メトードの入り口に差し掛かったに過ぎません。
theory1に過ぎないのですが、それは、先生の言う事を一度で覚える・・、虚(うろ)覚えを無くす。という二つのmethodeに過ぎないのです。
昨日は、練習のpointをlecture受けましたね??
何が問題なのか??何でそれが起こるのか?を正しく把握する事、どういう練習をすれば、合格に持って行く事が出来るのか?それが2番目のpointです。それを分からないままに練習する事は、芦塚メトードでは『闇雲練習』と言って忌み嫌います。所謂、無駄な練習になるからです。これも「時短」の業です。

時間に追いかけられるのではなく、時間を追いかけるには、「時短」の技術と同様に、loss-timeを極力防ぐと言う事が重要です。
『loss-timeは和製英語なので、正式にはloss of timeというのだそうです。』
でも、企業の用語としては、『loss-time』よりも、『lost‐time』という表現を重要視するのだそうです。
つまり、「失われた時間」ではなく、「時間的な損失」という意味です。

『loss-time』の使用方法は、上記のような、「練習はしているのだけど、無駄が多い」というcaseの場合に使用すると良いと思います。
それに対して、「物を探す」と言うような、何のmeritも見当たらない人生の無駄のような時間のlost‐timeという言葉で表すとその違いが理解出来ます。

この違いを知り、その意味をちゃんと把握する事は、とても大切な事です。
企業の場合には、このlost‐time、所謂、『時間的な損失』を、具体的に金額として算出します。
それは非常に分かり易く、有意義な事だからです。

loss-time(time-loss)は、人によって、違うので、adviceはその人の行動patternを見てから判断しなければなりません。
また、その直し方も、ハインリッヒの法則のように、日常些細な事で、自分自身の性格を直さないといけないので、「今、その行動が・・❢❢」と注意しても、理解して貰えない事の方が多いのです。

具体例をあげないと、分かり難いのですが、教室の例では、元の場所に楽譜や道具が戻らない・・という事が一番のloss-timeの原因になっているのです。
先生達も同じ場所に戻すようには心掛けているのですが、それが、点ではなくって、辺(ここら辺)になっていて、その場所が、出した所と、微妙に違うのですよ。

物を取ったら、確実にその場所に戻せば良いのですが、それが常に『そこら辺』なのです。
つまり、行動に、確実性が無い・・❢❢ 
フクロウさんなのですよ。
その無意識の行動を、意識下に出来るようにすれば、物を探す・・という事は無くなります。
私が真っ暗闇の中で、1冊の本を探し出す事が出来るのは、記憶ではなく、分類なのです。
だから、『そこら辺』までは自動的に行きます。
あとは、本の色や大きさ等の形状を覚えていれば良いのです。
表紙が厚紙で、**㌢ぐらいの本・・、たったこれだけの識別で真っ暗闇の中で確実に一冊の本を探し出す事が出来るのです。

それでも、探し出せない・・という事は、分類の基本が理解出来ていないのかな??

コクヨが社員一人が書類を探すのに3分掛かった場合の企業の損失の金額を試算していました。コクヨから送ってくるカタログの冒頭にfilingの重要性として書いてありました。
勿論、会社の規模によるので、コクヨが自社のfilingを売り込んだ大手企業の具体的な金額なのですが、年間の売上が分かれば、社員一人辺りの稼働時間に対する金額が出ます。試算はとても簡単です。単に電卓でも出来ます。

そう言った事は、直すのはとても簡単なのですが、余りにも簡単な事過ぎて、誰もやろうとしない。・・と言うか、やる必要性を何度言っても、感じないのですよ。
車の事故と同じで、誰も事故を起こそうとして運転する分けではないのです。
だから、「注意はしていたのだけど・・??」という弁解になってしまうのです。ハインリッヒの法則は、その痛い部分を突いています。日常の何でもない、さり気ない部分で、ヒヤッとする、ハッとする事があったら、その同じ「ハッ❢と」や、「ヒヤッ❢と」を繰り返さないように避ければ良いのです。
たった、それだけの事で事故を回避する事が出来るのですよ。

オケ練習でも、準備に要する時間が練習時間の半分以上になる事があります。子供達にとっては、オケのmemberとの雑談が、楽しくて仕方のない時間なので、今の子供達には余り注意はませんがし、これでは、もう・・オケ練習が仕事や勉強の予備練習としては、全く役にたっていないし、成り立っていませんよね?

オケ練習の時間を半分以上lossするって言う事は、勉強や練習等、その練習時間内に出来る事が半分しか出来ない・・という意味なのですからね。
何時も口を酸っぱくして注意をしているのだけど、小学生では遊びが優先しているので、未だに集中と遊びの違いの自覚がないよね??
まあ、先生達も、練習に入ろうとすると、「楽譜を忘れた❢」とか、しょっちゅうで、その『忘れる』と言う事への「価値付け」と「自分自身への自覚」は必要だとは思うけれどネ。
それを(先生達が楽譜を忘れる・・という事を)最初から想定して、危機管理として自分の楽譜を準備している私も悪いのだけどね。生徒や先生達に依存心が育ってしまうので・・・。
昔は、オケ練習の準備時間は決めていませんでした。それは楽器の種類で準備が殆ど時間が掛からない楽器や、ベテラン組になると、オケの準備迄に殆ど時間が掛からないからです。
・・つまり、そう言った意識の育っていない初心者になればなる程、準備に時間が掛かるので、自分の準備の時間を把握する事が、練習を開始するpointだったからです。もし、準備に20分も掛かるのならば、教室に20分前には来て、前の生徒の練習の時間に準備を終わらせなければならない・・という事です。
保護者の人達もそこの勘違いをする人が多くて、1時練習開始なのに、1時に車の送り迎えをする人達が多くて困ります。時間はあくまで練習の時間なので、もし、1時から2時が練習時間だとすると、その生徒が準備や後片付けに20分の時間を要するのならば、送り時間のlimitは12時40分であり、お迎えの時間は2時20分以降でないとならないのです。あるパパさんから「何故、もっと正確に時間を書けないのか?」と質問を受けた(creamかな??)のだけど、それは、その生徒の力量であって、同じ練習時間でも、ベテランの生徒達は準備や片付けに、5分も掛からないのですよ。だから、その時間を教室として決める事は出来ないので、あくまでも、実働時間を提示しているに過ぎないのです。
6時の練習終了で、子供が6時半に教室を出て来たとしても、それは子供と親の話であって、教室の関知する事ではありません。生徒一人ひとりで、違うのだから、それを一律にする事は出来ないからなのですよ。

危機回避の例には、私はよく車の事故のお話をします。
それが、一番危機回避、危機管理に付いて、分かり易いと思われるので・・。
私は車の事故を起こした事はないのだけど、それは、私の車の運転が上手だから・・ではなく、周りの人達の運転を信用していないからなのですよ。

私の想定は、絶対に、やるはずの無い事をしてしまうから、事故が起こるのです。
事故を起こす人達の一般的な論理は、「事故を起こす事を絶対に望んでいる分けではないので、事故は起きない。」という論理です。
でも、それは定義が間違えているのですよ。
絶対に起こらない事が、起こる事を事故というのですよ。
そこは、私と一般的な人達では、基本的に意識が違います。

「やらなければならない事」をちゃんとやれば、事故は起こりません。
それでも、事故が起こるのは、その「やるべき事」が出来なかったから、起こったのです。
だから、「それは有り得ない❢」という弁解は「有り得ない❢❢」のです。
「有り得ない」事に対して、きちんと準備をするのが危機管理なのです。

昔々、始めてを原発作る時に、原発が「もし、壊れたらどうするのか?」という我々の問いかけに、東大のお偉い先生が「起こり得ない仮定に対しての、回答は有り得ない❢❢」とほざいたのだけど、チェルノブイリの時も、スリーマイル島の時にも、日本の原発は事故は起こらない❢❢という不思議な信仰が日本の原発にはあったようで、それでも、日本の原発には事故はない❢❢と政府も、学者の人達も言い続けていました。(信仰と言っても、仏教には、「起こり得ない❢」という想定は有り得ないのですよ。ありとあらゆる事が起こり得る可能性を持っている・・というのが、仏教哲学の理念なのですからね。

福島の大事故(catastrophe)が起こった時には、とうとう一度もマスコミの前には、それを言った先生は登場しなかったよね❢❢
どういう弁解をするのか、聴いて見たかったのだけど??(ついつい、もうお亡くなりになったのか、調べてしまいましたがね??)

発表会のPianoの伴奏の時には、先生も生徒も伴奏の譜面を良く忘れる人達がいます。教室外の先生が伴奏する場合に対しては、教室で、譜面を準備しておく事があります。
でも、教室の先生や生徒の場合には、楽譜を準備する事はありません。
「楽譜を忘れた」としても、完璧に暗譜しているのなら、楽譜は必要ないからです。
「楽譜を忘れた」と言う油断は、「楽譜を完全に覚えている」と言う自信から来るものでなければならないからです。
暗譜が不完全であったり、自信が無かったりする場合には、「楽譜を忘れる」・・という事は許されません。
スマホで見ても、それは、絶対にダメなのよ❢❢
それは、「お茶を濁す❢」という事で、proとしては、絶対に許されない事なのよ❢❢❢ 
proを目指す人ならば、スマホで楽譜を見ると言う事は有り得ない事だと自覚してくださいね❢❢


そろそろ、手直しが出来なくなってきたので、Facebookはこれまでにします。時間の無駄なので・・・

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「昨日は12月17日クリスマス会の前の最後の練習でした。」

2017年12月18日 ·
昨日は12月17日クリスマス会の前の最後の練習でした。
「清しこの夜」の練習の時に、小学生の子供達に、この曲のimageを説明しようとして、「クリスマスって、どういう意味か知っているのかい?」と質問をしたら、「presentを貰う日」とか、「ケーキを食べてご馳走を食べに行く日」とかで、本来のNoëlの意味を知っている生徒は一人もいませんでした。日本では、America同様に、完全に企業のイベントになってしまっているからね??
勿論、今回のクリスマス会のthema曲のSaint-Saënsの「動物の謝肉祭」の「謝肉祭」の意味なんて知る由もありませんよね??
ヨーロッパのクリスマス・・と言っても、ドイツのクリスマスは、もう少し落ち着いた、宗教的な行事なのですがね。日本のChristmasはアメリカナイズ化された企業が中心の行事なので、本来の意味すら無くなってしまっています。

ヘルマン・プライのドイツのクリスマスのvideoはとても素敵で、よく子供達へ参考にさせているのですが、何せ、video-tapeの時代なので、映像が酷過ぎるので、今は、中々見せられません。
日本の子供達は、キリストの意味も知らないようなので、説明するのに困ってしまいました。
勿論、私もキリスト教の信者ではないのですが、音楽を勉強する場合には、cantataや missa(英mass)の勉強をするためにも、或る程度の知識は必要なのですよ。
ちなみに、英語のmass、所謂、Christmasはキリストのミサ(秘跡)の意味になるのかな??
いずれにしても、キリストが誕生したお祝いのmissaなのですが、それが全く伝えられていないのですよ。
清し=聖なる・・という意味も分かっていない。
何故、「清し」なのかを説明するのに一苦労・・でした。
これは学校か、家庭の問題よ??



Hermann PreyのChristmas-songの中でも私が特に好きな曲です。この高揚感が素晴らしい。
https://www.youtube.com/watch?v=sRiI6ONPiuk

確かに、小学生辺りの子供さんに説明するのは難しいですね・・この時期、とても難儀します。

声楽・合唱にはミサ・宗教的モテットも多い為、自ずと旧約・新訳聖書の内容にも詳しくなってしまう私(同じくクリスチャンに非ず)ですが、
生徒さんの親御さんに「いやー・・ウチではそういうの教えてなくて・・」
と言われると、ご家庭の教育方針に水を差すようで、それ以上は踏み込めないものがあります。(もう少し年齢が上がってからでも良いか、など)

とはいえ、西洋音楽とキリスト教は切っても切れないものですし、「あくまで教養」として知っておいても損はないと思うのですが・・。
(昨今多い、新興宗教勧誘にも騙されずに済むかも知れません)


ただ単純にイエス様が厩戸で生まれた・・という事だけを知っておいて欲しいのですがね。厩戸の御子ですよ。




まさに!

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「挨拶と会釈」

2017年12月19日 ·
「挨拶と会釈」

「練習(lesson・lecture)時間についての把握」
オケ練習や室内楽の練習を子供達に指導していて、とても困る事があります。指導者の人ならば、皆さん経験済みだと思いますが、指導する内容が時間内に収まらない・・という事です。(勿論、その逆もあって、時間が余って、何を教えて良いのか困る事もあります。)
昔の私のlessonでは、lessonの時間はaboutなもの・・として規約等に書いていました。lessonの時間は、あくまで、生徒の勉強の度合いによって、受けられるlesson時間を決めていたのです。
だから、aboutなlesson時間という事で、lessonの金額は、指導の水準で、初級、中級、上級、超上級(所謂、pro-version)として、設定していました。
だから、lesson時間は、初初級が20分、初級30分、中級45分、上級1時間と、いう設定ではなく、生徒が勉強して来なければ、指導する内容が前回のlessonと全く同じというのならば、lessonは、ただ一度聴くだけの10分ぐらいで終わる場合もありますし、指導する事が多ければ、1時間よりも長くlessonをする場合もあった、という事でした。
しかし、こういった時間に拠らないlessonの仕方は、世界中のproの人達を育てる有名な先生達は、皆、一様に、時間時間が合って、無いようなlesson時間を取る先生達が殆どなのですよ。

一番良く聞く話なのですが、日本から留学して、憧れの先生に師事する事が出来た学生が、lessonを受けて、Pianoを弾き終わると、先生がニコニコして、「とても、良かったよ❢」と褒めてくれて、お互いに顔を見合わせて、笑いあってそのlessonは終わりです。・・ホンの10分でlessonは終わってしまいます。
・・で、その生徒のlessonは、10分間で終わって、次の生徒のlessonが始まるのです。そして、多くの勤勉で真面目な日本の生徒達は、先生が何も指導をしてくれない事に悩む事になるのです。日本人の音楽の学生達は、先生が総て指導をしてくれる・・所謂、塾型の教育を受けて来たから、ヨーロッパ型の指導は受けた事がないからなのです。

日本の音楽大学では、その生徒のlesson時間にならないと、lessonの教室には、入れて貰えない事が普通なのですが、逆に外国の場合には、そのlesson時間の次の時間の生徒は、前の生徒のlessonを聴講するのが普通です。
聴講生という資格の生徒もいるぐらいなので、lessonを聴講するという事はヨーロッパの授業では当たり前の事なのだからです。
ただ、聴講し、見学して勉強する事は当然として、lessonを受ける場合は、前の生徒がちゃんと勉強してくれば、自分の時間が前の生徒に取られてしまって、見て貰えないcaseもあるし、その逆の場合で、前の生徒が余り勉強して来なかった場合には、前の生徒の時間を貰える事もあるのです。それがproとしての、lesson時間の感覚なのです。

私がドイツに留学中にも、Pianoの女の子(私よりも年上ですが)が、同様の被害にあって、(褒められて10分でlessonが終わってしまう・・という事が続いて・・)私の所に泣き付いて来た事があります。(その話も詳しくhomepageに書いてあるので、繰り返しになるのですが)ですから、私が日本に帰国する迄の半年間の間、その人の曲を下見して、先生への問題の提起の仕方や、解釈の質問等々を説明して、lessonに行かせた事があります。私の下見で普通にlessonが受けられるようになったのですが、日本のlessonではそういったlessonはないので、やはり、日本人には無理なlessonの形態なのでしょうね。

その話は、留学をする予定の私の生徒達にも、何時も、何度となく説明していたので、そういったヨーロッパ型のlessonの受け方には、問題はありませんでした。
自分の前の生徒が、褒められて、10分でlessonが終わった時に、その生徒の時間を貰って、自分の時間が、2倍、3倍になって、予習が大変だ・・という手紙を貰った事もあります。

こういった事はlessonではなく、室内楽やorchestraの練習の見学も同じなのです。日本で私のcelloの恩師の室内楽のlessonを聴講したいと思って、師匠に申し出たのですが、にべもなく断られてしまいました。理由は聞いていませんが、「大学の授業なので・・」というのがその理由だそうです。よく理解出来ないが・・??チェコフィルとノイマンさんが日本に来て、そのrehearsal を見学させて貰った事があります。(1stviolinの人が知り合いだったので、)日本のagentが、「聴きたいのなら、お金を払ってコンサートに来い❢」と追い出されそうになったのですが、ノイマンさんが「私が招待するから」とagentに言って、客席の真ん中で練習を聴かせて貰った事があります。
友人がコルペチをやっているmilanoのオペラが日本に来た時に、友人はプレスの招待の日に私を呼んで来れました。(私は、演奏会を聴く事よりも練習を聴く事の方が好きだからです。色々と楽屋内が見れて、面白いのです。一般の人達が見れる事は絶対にないので、・・)
(昔は、教室の生徒達、小学生の子供達を引き連れて、proのorchestraの練習を見学に言った事があります。同級生がorchestraのownerだったからです。)

学校教育のように、きちんと時間を決めてlessonをする・・というのは、how-toの授業であり、amateurのlessonです。
決まり決まったノウハウを提供するだけの授業になります。
学校教育と同様に、先生は、生徒に対して、情報を提供して、生徒が、それを勉強して、自分の物にするか否かは、本人の努力次第という、所謂、塾的な考え方になります。

それに対して、職業としてのlessonでは、その曲を引き熟すための、normaがあって、何が何でもその曲を演奏するためには、その技術を習得しなければなりません。
職人としてのお金を稼ぐための、proとしての勉強なのですから、当然、勉強とは、本人が出来るか否かが総てであって、その指導に「時間」と言うものは存在しないのです。
勉強しなければどうなるの??とか、勉強しても出来なければどうするの??という仮定は存在しません。出来ない物は売れないからです。
出来るようにしない弟子の場合には、所詮proには成れないので、その世界には居れなくなるだけなのですよ。

出来なければ、教えても無駄なのですから、出来るか否かだけが、lessonのpointになって、指導の総てになるのですよ。

教室を作ったばかりの頃、生徒が「concoursに出たい!」と言って来たのですが、そのconcoursの予選を通過する水準に到達していないので、練習が間に合わないので、私が好意的に、lessonの時間を延長してlessonをしていたら、その子のお母さんが、家に電話を掛けて「lesson、ま~だ、終わんないのよね?」と、これ見よがしに言っていました。
lessonの時間が伸びたのは、私の好意だったのですが、(延長料金も取らないで、)その親に取っては、その好意は、有難迷惑だったようです。
勿論、そういう意識で、concoursに通る事はありません。

concoursは、将来音楽の道に進んで、proになる事を夢見ている人達の集まる所だからです。
だから、まかり間違えても、それぐらいの意識でconcoursに通る事はないのです。
concoursで演奏する音楽の、水準、所謂、Niveauが総てなのです。「concoursを受けて見たい」と思ったら、そのconcoursの予選と本選を先ず、見学してそれから、受けるか否かを決めるべきなのです。
近頃は、大学の入試でも、学校を見学に行って綺麗だったから・・と、進学を決める人がいて、困ってしまいます。
芸大なんかでも、その年の卒業生がどういう所に就職したから、留学したか、一般の企業に入ったのか・・という事を、細かく分析して公表しています。それを見て、芸大と音楽界との関係を判断すべきなのですが、芸大生でも、将来を具体的に見てはいないようですよね。
発表会でお喋りをしていた時に、芸大生である春暉君は、その現実をあからさまに批判していたようですがね。

普通ならば、『この出来では、concoursには、合格しないよね??練習が間に合わないよね❢❢』と先生が言ったら、生徒や父兄の方から「すみません❢❢追加lessonをしてください。」というのが一般の常識なのでがね。
ましてや、concoursを受ける人で、lesson時間の事や、追加lessonの料金の事を気にする人はいません。
concoursはその人の履歴なのだから、幾ら時間が掛かって、費用が掛かってもその生徒の一生に必要な必要経費になるからです。
勿論、音楽に進まない人には無駄な経費だから、それを「高い❢❢」と感じるのは当たり前で、将来に音楽を目指さない人は、concoursを受けるべきではないのですよ。concoursというのは「proになりたい」という人達の居場所なのでね。
(但し、concoursと言っても、ここで言っているconcoursのお話は、全国大会迄の勝ち抜きの日本で、2つ、3つしかない特別なconcoursのお話ですよ。
小さな地方のconcoursや、企業のconcoursとは、全く、別の種類のconcoursの話なのですよ。同じconcoursという名前でも、全く別の世界なのですから、お間違いのないように❢❢)

lesson時間のお話に戻って、私が日本に帰国して、音楽大学で生徒達を指導していた頃は、最初は、そう言ったlessonの方法をしていたのですが、大学からも「時間を守るように」・・と、文句を言われたので、それ以降は、事務的に時間を守って、事務的に指導するようになりました。
でも、学校のlesson時間が足りないので、連弾の練習や2台のPianoの勉強をするのに、前の生徒の5分の時間(歳下の生徒)と次の生徒(上級の生徒)の時間をダブらせる事で、20分のensemble教育と20分の個人lessonという時間を捻出しました。(苦肉の策ですがね。)
「時間を守る」と言う事は、私も「定時に帰れる」と言う事なので、本当は「吝か・・ではない」のですがね。

教室を開いてからも、オケ練習や室内楽の練習では、子供達のお迎え等があるので、終わりの時間が決まっているので、同じmemberの曲を一絡げにして、その時間の中で、配分するようにしています。本来的には、その時間しか指導するchanceはないのだから、本当に子供達が自分一人で勉強出来る所迄は、指導したい・・とは思うのですがね。そこは音楽に対する価値の問題になるので・・如何ともし難いものがあります。

出来ない技術は常に同じなので、4,5曲を纏めてlessonしても大丈夫なのです。一つの技術が出来るようになると、総ての曲が弾けるようになるからです。
その逆は、その技術がmaster出来ないと、総ての曲は弾けない・・という事になります。だから、1曲、1曲を時間通りに練習をして、総ての曲が舌足らずのlesson、練習になると、何時まで経っても、水準に達しない事になるからです。それぞれの曲を時間で練習するのではなく、それぞれの曲の技術を纏めてlessonをする・・という方法、それが、生徒をより上手くするためのone-point-lessonの極意なのですよ。
ここまでが「前振り」です。

「挨拶と会釈」
普段のオケ練習ではなく、rehearsalには、rehearsal としての課題があります。
演奏だけではなく、舞台での演奏する場所の「位置決め」や、「出入り」の練習が等々、普段の練習では出来ない事がrehearsal の練習のmainなので、普段のlecture-lessonの延長線上としての、「通し弾き」・・ではなくて、もっと別の「演奏会の舞台マナー」等の、普段出来ない事をmainに指導をしたいのですが、子供達の場合には、どうしても、イタズラに曲を通すだけのrehearsal で、時間を追われてしまって、stage-mannersの指導すらの基本的な事が出来なくなっていて、自治会館コンサートや八千代のコンサートで、指導不足を実感してしまいました。
音楽大学等では、そう言った舞台マナーは教えません。
・・というか、定形の舞台マナーがある分けではなく、色々なgenreのそれぞれのマナーがあるだけなので、先生達は教えられないのですよ。

私的には、rehearsal では、一回通しの練習をしなくても、マナーの勉強を優先して指導すべきと考えるのですがね。

教室では、lessonの時も、オケ練習の時も、礼に始まって礼に終わる・・という風に指導していますが、音楽大学でlessonの時に教室で先生に挨拶をしたら、厳しく怒られた生徒が何人もいました。

また、生徒が挨拶をしても、殆どの先生はその挨拶を返す事はありません。
何故なら先生は偉いから、挨拶を受けるのは当たり前でも、返す必要はないからなのだそうです。
私達の教室のように、先生が率先して挨拶をして、生徒が挨拶を返す事は音楽教室であっても、ない事なのです。
これは私達の教室の独自のマナーなのですよ。

他所の教室では発表会の時に挨拶を忘れてしまう生徒が非常に多いのですが、それは「挨拶に始まって・・」という普段の躾が出来ていないからなのです。
普段のlessonから、ちゃんと挨拶をしていれば、舞台で挨拶を忘れる事は決してありません。

子供のorchestraを指導している先生が、教室の発表会を見学に来て、「幾つかの驚いた事」を上げて、コツを私に尋ねて、質問をして帰りましたが、その中で、「orchestraの挨拶がどうして揃うのか??」という質問もありました。
あんまり意識はしていないのだけど、それも不思議な事だそうなのですよ。
普段のオケ練習や室内楽の練習の時に挨拶をしていれば、挨拶のtimingが合わない事はないのだけど、それが合わない・・という事は、普段の挨拶が多分、お座成りでいい加減なのでしょうね。勿論、普段のオケ練習の時にも、よく舞台を想定して、指揮者がorchestraに対して後ろを向いて、挨拶をする練習をよくします。指揮者の後ろ姿のeinsatzで、挨拶をする練習なのです。

また、もう一つの注意は、「舞台の挨拶」と「舞台上の会釈」は意味が違います。
曲の途中(例えばⅠ楽章とⅡ楽章の間)で、拍手が来た時に、挨拶をすると、音楽を寸断してしまいます。
だけど、だからと言って・・挨拶もしないのでは、お客様から見ると、感じが悪いのですよ。
・・で、そこは、挨拶ではなくって、「会釈を返す」・・というマナーが必要なのです。

「会釈」はorchestra全員でする事はありません。
オケ全員ならば、挨拶になるからです。
所謂、カーテン・コールです。
「会釈」は、周りの人達が次の楽章を準備している時に、solisteだけが一人だけ返します。
他の人達は動いていて構わないのです。

勿論、基本的には、「会釈」の指示も指揮者が出しますが、指揮者が忙しい時には、solisteが単独に会釈を返す事もあります。
それはorchestraの進行が優先するので、これはあくまでも、ケース・バイ・ケースなのです。
そこは舞台に慣れている事が必要で、solisteが、舞台上でも客席が見えているかどうかなのです。

オケ練習で、「曲と曲の途中で拍手が来た時には、会釈をするように❢❢」と、子供達に言うのは、簡単だとしても、実際の舞台で、それが出来るか否か・・は難しいのですよ。
それがrehearsalでの舞台mannersの課題なのですよ。

今回も、自治会館コンサートや八千代のコンサートでは、対外出演なので、一般公開と言う事なので、そこの所の指導をしようとしたのですが、rehearsal の「時間がない」・・という理由で、ハネられてしまいました。
当然、自治会館コンサートでも、八千代のコンサートでも、その「会釈」は、口頭では、本番中にも説明したのですが、ちゃんとは出来ていないので、今回の反省の一番のpointにして、次回には必ず「会釈の練習」の時間を設ける事にします。
どうも、Facebookの調子が悪いので、後日、書く事にします。




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「バナナのお菓子
2017年12月21日 ·
朝から食欲が無くって、昨夜は雑炊をお弁当にして持って帰って来たのですが、その雑炊すら食べる元気がないので、「お菓子ならば食べれるのかな??」と思って、丁度買い置きのバナナを、(本当はブランデーなのですが、ブランデーが見当たらなかったので、)オールドパーをたっぷりとかけて、電子レンジでチンをして食べました。
ちゃんとお菓子になったぞな??






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「12月23日Christmas会」

2017年12月23日 ·
今日はクリスマス会です。
昨夜・・と言うか、一昨夜になりますが、その夜は全く眠れなかったので、千葉への車の移動は、朝が早い ので、早く起きるために、そのまま徹夜をして、前日の夜になったのだが、またまた、眠れなくなってしまったのですよ。

クリスマス会を進行させるのは、私が指示、進行をさせるわけではないので 、当日は殆ど、私はobserver的に、クリスマス会の進行を見ていれば良いだけなので、pressureは殆どないはずなのだが、 それでも 「6時前には 起きなければならない」と言う何時もの入眠のpressureで眠れないのだと思う。
・・という事でwineを飲んで見たり、音楽を聴いて見たりして、心を修めたのだが、やはり、どうしても 眠れない ‼
困った😻
いつもの通りに、起きる時間の40分前には、しっかりと、ベッドから起きて準備を開始しているのだけど、結局の所、2日続けての完徹になってしまった。
help❢❢


17年12月23日千葉市花園自治会館クリスマス会コンサートSaint-Saëns動物の謝肉祭よりfinale
https://www.youtube.com/watch?v=GP6odr38pHI&t=3s




お昼になって、赤シャツに着替える段になって、1年に一度のクリスマス会のための、ネクタイを絞める段になって、突然、ネクタイの締め方が分からなくなってしまった。おい❢❢こりゃあ、認知症かいな??慌てたのだが、何度やっても、裏返しになってしまう。勿論、singleの結び型は出来るのだが、Doubleのネクタイなので、それは長過ぎて出来ない。左右を逆にしたら、何と出来たのだよ❢❢どういうこっちゃ??音人の会の時にも多分結べないと思う。普段は超ネクなのでね。いずれにしても、1年に1回か2回しかネクタイは絞めないのでね❢❢
人間は普段無意識にでも、出来る事が出来なくなると、老いを感じてしまう。
高校生の時に読んだ、川端康成の「山の音」の中にも、息子の嫁に淡い恋心を感じる老人が、ネクタイがしめられなくなる・・と言うシーンが出て来る。高校生の時には、何の感慨もなかったのだが、今では深刻だ❢❢川端康成も同じ事を体験したのだろうか??

川端康成の「山の音」という小説に、老いらくの恋で、ネクタイの結び方が分からなくなった主人公の老人が息子の嫁に、ネクタイを結んで貰うシーンが出てくる‼
嫁が自分に淡い恋をしている・・という想定なのだが、そんな分けはなかろうに・・??そりゃあ、儚い願望だよ❢❢ 老いらくの恋は、高校生の私には、老醜としか見えなかったのだが、今は何故か、私自身がその主人公と同じ歳になっている‼
信じられない事で、甚だ、不本意な事なのだが・・‼ 
刻の女神は、理不尽なものであるぞよ。
まるで、Carmina Buranaだなや??
(ドイツでシェアハウスを探していた時に、Carmina Buranaが発見された修道院のある小さな町迄行った事があるのだが、Münchenからは、高速で小旅行だったよな??)

え~っ??なんか、time-lineがめちゃめちゃになっているぞ❢❢
文章がupload出来なかった所から、time-lineが変になってしまっている。


今日は1月の12日です。
いつものように、眠れないので※)、homepageや楽譜の修正をしています。
※)昨日の11日から13日の土曜日にかけて、排水管の清掃のメンテがあって、部屋に強制的に居なければならないのですが、ハイツの部屋の呼び鈴が音が小さく、何時も聞き漏らしてしまうので、強くdoorをノックするようにと、書いているのですが、それでも聞こえなくて、それがpressureになってしまっているのです。doorをノックしても出ない時には、携帯に電話をするように❢❢と張り紙をしているのですが、それでも精神的にpressureになってしまっているのですよ。

pressureで、眠れない時には、無理をして寝ようとしないで、軽作業をするようにしているのですが、homepageで「Vivaldi Op.4Nr.2 e moll Stravaganza」の曲の校訂をしていたので、次いでに、昔の生徒達の演奏をcheckして、聴きながら更新した文章を、homepageにuploadしていたのですが、ふと、「wineでも飲もうか?」という気になって、新しいMadonnaのコルクを開けようとして、木のコルクのopenerで栓を抜いたのは良いのだけど、「え~っ??」コルクが空回りして抜けないぞ❢❢
どうした事だ??
木の栓抜きだから、壊れてしまったのか??とも思ったのだが、何度かやっている間に、何でもなくコルクが抜けた❢❢
よく意味が分からないままに・・だよ??
 
「あれ~ぇ??」「クリスマス会の時のAlzheimerのぶり返しか??」
「胸の骨や、爪のボロボロ具合も良くないし・・、これは老化だよな??」

これは、困った❢❢
なんとかせにゃあかんぞなもし・・❢❢

Gluckのmelodieの動画の紗來ちゃんのコメント・・、(お喋り)が途切れていたので、これまで、upしていなかったのですが、編集用の動画が来ないので、取り敢えずYou Tubeにuploadしておきました。
動画は結構、生物なので、時期を逃すと、意味・・というか価値が半減するからです。
年齢に対して、随分adultな曲を演奏しているけれど、曲の選曲は、Christmas会なので、本人達の希望なので、当日の演奏迄、私は知りませんでした。
(え~っ??俺、一度ぐらいはlessonしたの??その記憶はないな~ァ??)

https://www.youtube.com/watch?v=NQ9n0w-C7-w

17年12月23日千葉花園自治会館クリスマス会Gluck=Kreisler…



Gluck=Kreislerのmelodieを聞いていて、突然に、漫画本を除いて、20年振り、30年振りぐらいで真面目な本を3冊程注文しました。青木繁という28歳で客死した無頼の画家の伝記です。Gluckのmelodieで、黄泉平坂という絵を思い出したからです。Orfeo ed Euridice のstoryは世界共通の神話だからネ。


クリスマス会でお手伝い頂いたお母様達です。あれ??パパさん達は何処に行ったのかな?
ささやかなChristmas-presentのニャンコのエプロンです。





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「クリスマス会は恙なく終了しました。」

2017年12月24日 ·
クリスマス会は昨日、大変楽しく、恙なく終了しました。皆様のご協力を感謝します。



クリスマス会では、チョッとした個人的な体調の事故で、車の乗り降りや歩く事にも痛くて、支障が出る様になってしまったので、ドルプリっ歩は斉藤先生に任せて、(牧野先生は花園での後片付けに残っていたので、)私は大急ぎでハイツに寝るために、戻って来ました。・・とは言っても、もう12のシンデレラ・タイム、ギリギリだったのですが。
寝る準備をしながら、時間の掛かるパソコンへの動画の取り込みをパソコンにさせて、2日連続の徹夜から、開放されて、朝、定時の体重血圧測定に5時に起きて、dataにTitle付をしている所です。
videocameraは、クリスマス会の間、回しっ放しだったので、自動的に20個以上分割されています。
それにchapterを付けてTitleを付ける所までやっておくと、今後の編集の作業が楽になり時短になります。

今日はクリスマス会の後片付けの日と、合宿の準備の日なのですが、昨日のクリスマス会が私の頭の中では「土曜日」と認識されなくって、今日は日曜日なのですが、頭では今日は一日飛ばしの「月曜日」と勘違いの認識をしていて、思い換えをしなければならないので困っています。
「今日は日曜日だぞ❢❢」ってね。

11年の八千代のコンサートでのcorelliのChristmas-concertoの演奏です。これは本当の「Concerto Grosso」です。終曲がpastoraleのNoëlです。

https://www.youtube.com/watch?v=l4S3D_8uisw&t=347s

11年八千代市クリスマス会 corelli Christmasconcerto g.wmv


Concerto Grossoで有名な曲と言えばHändelのg mollのConcerto Grossoが非常に壮大な曲で、とても有名で、教室でも演奏をした事がありますが、どうしても何時の発表会の時だったのか・・思い出せません。当然、You Tubeの時代よりも遥かに昔々の演奏なので、You Tubeにもuploadしていないので、探し出すのに四苦八苦しています。動画が見つかるかどうかなのですがね。

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「クリスマス会と合宿について」

2017年12月24日 ·
「クリスマス会と合宿について」

クリスマス会の最後に、うっかりと、「冬休みが終わったら合いましょう!」と挨拶をしてしまいましたが、何と、明日からは冬の合宿です。
(実は、私の気分の中では、もう、合宿は終わってクリスマス会も終わって、教室の休みに入る感覚になっていました。)
その理由は、昔々は、合宿が先にあって、その纏めに、クリスマス会のおさらい会があったので、「クリスマス会=冬の合宿の纏め」で、本当に、クリスマス会が終わったら、「冬休みが終わったら、来年また、逢いましょう❢❢」という挨拶は正しかったのです。

でも、近年は意識の差で、「Christmasやイブは家族と祝いたい」という事を希望される家族が増えて来ました。
しかし、学校が休みに入る日にちは、動かせないので、合宿とクリスマス会のrotationを変更して、Christmasやイブを避けて、家庭でChristmasを出来るように、日程を組むと、クリスマス会と合宿は、今回のように、クリスマス会が先になって、合宿が後になる・・という変速的なrotationになってしまいます。

以前は、クリスマス会のおさらい会に向けての最後の追い込みの練習を、合宿で先輩達が見てくれていたのですが、新しいrotationでは、いきなり、クリスマス会になってしまうので、以前に比べて、クリスマス会の演奏の出来はどうしても、落ちてしまいます。

そもそも、合宿を夏休みと冬休みにするようになった経緯には、大きく二つの経緯が有りました。
昔は遠方の地方の生徒が結構居て、videolesson等で教室のlessonを受けていたので、先生達や生徒達と身近に触れ合う機会がなく、その生徒達のために、3月末から4月に掛けての学期休みや、ゴールデンウイーク等を利用して、千葉にお泊りをさせて、先生達が直接、lessonをしていました。
勿論、折角、遠くから教室に来る分けなので、lessonだけでは、つまらないし、どうしても「video-lesson」だけでは、音楽を共に学ぶお友達も出来ないので、先輩達を教室に泊まらせて、地方の生徒の勉強を手伝わせる等々の面倒を見させていました。
それを見ていた他の生徒達も、普段、普通にlessonを受けられているのにも関わらず、「良いなあ??私もお泊りして勉強したいな??」という申し出が多くでて、先生達も、遂に生徒の願望に負けて、生徒達合同の合宿を始めました。

それは合宿を始める事になった経緯なのですが、合宿には、芦塚メトードに取って重要な、もう一つ、別の意味があります。

それは、生徒一人ひとりの家庭での勉強の仕方や、勉強に対する姿勢等々、普段の練習の仕方等々、普段のlessonでは見る事の出来ない、そういった生徒達の日常を具体的に知る事が出来ると言う事なのです。

私の場合には、生徒指導は慣れているし、経験も豊富なので、そう言った生徒の日常の行動を、敢えて、見る事がなくても、一人ひとりのpointは分かるので、合宿をする必要はないのですが、生徒の思いも掛けぬ行動を見る事もあって、驚く指導者達も多いし、子供達が話てくれる、家庭での考え方や問題点の確認も出来て、指導には有意義です。

そういった事をより詳しく知る事は、生徒を正しく導く上でcurriculumの作成に大変、助けになります。
今、現実に何が欠けているのか、将来何を習得しなければならないのかが、よく分かります。

殆どの教育では、与えられたcurriculumだけを指導するのが、先生の勤めであり、生徒の情緒や心の指導は、「余計なお世話」とされる近現代の世相です。
しかし、本当に、「子供の勉強を伸ばそう」と思うのならば、子供達が伸びる、成長する・・ような、ものの考え方をしなければなりません。
今の世は、超、現実主義的な子供達が多く、その即物的なものの考え方が毎日のように、テレビ等を賑わしています。

戦後総てを失った日本は、世界の頂点を目指して頑張って来ました。その頂点が所謂、バブル期なのです。自然現象は総て、同じ数式に当て嵌まります。人口の増加率も、経済も、音楽のpitchや音量に関しても総てなのです。

長い長い努力の結果、頂点を迎えると、非常に早い緩慢期を迎えます。それは、振り出しに戻るのですが、多くの人達はバブルが永遠に続くという妄想に囚われています。日本の繁栄は疾うの昔に終わってしまったのに、未だに、日本は国際的に優れた国だと思い込んでいます。来年の総予算は良いのだけど、その借金は誰が払うのかね??その頃は私はいないだろうから、それでも良いけれどね???





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「きよしこの夜」のAshizukaversion

2017年12月24日 ·
クリスマス会で、子供達が「きよしこの夜」を演奏しましたが、何と❢❢、今日、昔々、八千代で演奏した「きよしこ」を、偶然、You Tubeで見つけました。今回、子供達が今回演奏出来なかった方の難しいversionを演奏しています。それにしても、八千代で演奏した事自体、すっかり忘れていたよな・・??先生達にも、「You Tubeにきよしこの夜はupしていないのだっけ??」と尋ねたのですが、「出来が悪いから、upしていないんじゃあないの??」という返事だったので、今まで探さなかったのですがね・・・??
そうか?? 八千代の演奏をupしていたのだよね??

11年12月18日八千代市主催クリスマス会 聖しこの夜 stringsquintetto芦塚陽二編作曲.wmv
https://www.youtube.com/watch?v=tAglVLVUXB8




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「おさらい会」のvideo-cameraの不具合について

2017年12月24日 ·
videoの編集を始めたのですが、今回はvideoの音声の調子が悪くて、音が途切れているvideoがあり、困りました。コメントでホンのチョッと途切れてしまうのは、辛抱して貰うとしても、演奏の音が切れるのは戴けない。どなたか、真雅ちゃんの Paganiniのdataをお持ちの方は、私にギガ便かBlu-rayのdiscかで、ください。ホンの1秒程度なのですが、コメントではなくって、演奏なので、その1秒もダメなので・・❢❢
内蔵マイクでは音質が悪いので外付けのマイクを使用して録画したのですが、そのマイクの接触不良だったようです。



取り敢えずupしておいて、動画が手に入って、音声の修正が出来たら、動画の差替えでいいのかな??・・と言う事で、取り敢えずのupをしておきます。
https://www.youtube.com/watch?v=KpNA822RzJ4




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日本人の弦楽器奏者の和音の弾き方

2017年12月25日 ·
日本人が弦楽器で和音を弾く時に、アマ、プロを問わず、どうしても、力で弦を押さえ込んで弾く癖があって、教室でも和音の正しい弾き方を何年にも渡って指導しているのだが、こればっかしは中々治らない。日本人のtraumaのようなものかな??
「弦を押して擦って音を出す」という日本流の音のimageが定着しているのだよな。

以前、5,6年前迄に、StamitzやHoffmeisterの古典派の曲を指導していた時には、古典派の音の出し方に対して、かなり厳しく指導していたので、古典派の曲に関しては、正しく美しく和音を弾けていたgroupもいたのだが、八千代での私のarrangeのMarin Maraisのla foriaの曲の中で、和音を演奏する場所では、練習の時に再三、和音の弾き方をcheckして、和音の弾き方の練習を積み上げたのだが、やはり本番ではとうとう上手に演奏する事は出来なかった。
クリスマス会のSaint-Saënsのライオンの時にも、2箇所和音が出て来るのだが、全く揃っていなくてダメだった。
Beyer-concertoのときも、和音が汚いので、年齢の低い生徒達の演奏かな??と、思って、memberをよく見たのだが、あれ??小さい子は一人だけで、後は八千代組じゃん??
ビックリ❢❢
合宿で和音の弾き方の猛特訓だよな??

violinの場合なのだが、弦楽器の場合には4弦を同時に弾く・・という事は有り得ない。
3弦迄なら、力で押さえ込んで、何とか3弦を同時に音を出す事は可能なのだが、それで得た音は、音が潰れた衝撃的な汚い音にしかならない。
Saint-Saënsのviolinの曲には、時々、そう言った3弦の和音が出て来るのだが、一流のproの演奏家達は、巧妙に和音が汚く響かないように工夫をして演奏している。
日本人の場合には弦楽器を打楽器族とでも思っているようだ。
まあ、近現代の曲ならば、それぐらいの響きでも、演奏上の許容範囲と言う事で許されるのかも知れないが、古典派やbaroqueの曲でもそういった演奏の仕方を持ち込むのは許せない。
Bachの無伴奏等でも平気でそういった衝撃的な爆発的な和音の弾き方をする演奏家が多くいて、困りものである。(今から合宿に行くので、後は、今日深夜、続きを書きます。)



昨日は合宿の中日、二日目だったのだけど、とうとう、三和音の演奏の練習迄は、行かなかったのだよな??
色々な練習の課題が多過ぎて、そこまで辿り着けないのだよな❢❢
今日は合宿最後の日なので、一回だけでも、3弦、4弦の和音の弾き方の説明と指導をしないと、課題が持ち越されて、年を越してしまう。


昨日の合宿なか日の練習は、生徒の人数が少ないので、開いている楽器を取って、生徒と一緒に演奏しながらlessonをしたのですが、ハイツに戻って来て驚いた。
爪が弦の太さに欠ていたのだよ。
弦を押さえた後の爪が圧力に耐えられなくって、ボロボロと欠けた・・という事なのだよなぁ?? 
爪がボロボロってもろくなっていた、という事なのだよな~ぁ??
当然、体の骨も、自覚の無いままに、脆くなってしまっているという事なのだよな~ぁ??
チョッとした、さり気ない動作の中ででも、骨にヒビが入ってしまう・・という事なのだよな~ぁ??
いやあ~??
これは、超、shockであるぞよ❢❢
老いは、気がつかない間に、そこまで来ているのだよな??


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2017年12月25日
今日は冬の合宿の初日でした。
超朝早く準備をして出かけたにも関わらず、着いた時間は何と定刻の1時半でした。
ハイツを出発して、千葉に到着する迄に、2時間以上の時間が掛かってしまいました。まあ、Christmasなのだから仕方がないと言えば、しょうのない事なのですがね??

それにしても、相変わらずのオケ練習の「段取りの悪さ」には辟易させられるのだよな。
子供達のお喋りの時間の方が、練習時間よりも長くって、それで、どんどん時間が押してしまって、「後片付け」の躾は、小学生達には、未だに出来ていないので、子供達に後片付けを、任せる事が出来ず、私も胸の痛み(心の痛みではないよ❢❢本当に胸の骨が痛いのだよ❢)を堪えながら「後片付け」を手伝っていたら、完全にぶり返してしまったのか、帰りの車の運転では、脂汗が出る程、胸が痛んでしまって、運転するのに、飛び上がるほど痛くって、大変だったのだよ。

「段取りの悪さ」の究極の原因は、自分達が失った「loss-time」の時間を、自覚出来ていないのが、一番、根本的な理由なので、折角の合宿なのだから、実際に、生徒達や先生の手順について、明日からの練習で、練習と練習の間のintervalの間に、どれだけの「loss-time」が出るか??を、正確に時間を計って、一日の合計の時間の中で、どれだけのloss-timeの時間が出来るか??「時間のlossをするか?」を、身を持って、実感すると良い・・という宿題にしました。

オケの指導そのものに関するpointは、指導の内容を如何に、詳しく正確に、把握するかによります。
教室のオケ練習のinterpretationは、material(要素)に拠る指導法を使用しています。
だから、その曲に対して、materialが幾つあるか?…を知る事で、演奏の技術を幾つ習得しなければならないのか??…が自動的に決まります。
と言う事で、練習のpoint出しは、materialの把握に尽きます。
もっと、具体的に言うと、scoreを見て、楽譜上で、分析が出来るか否かに、練習の上手下手が委ねられているのです。
scoreを分析する能力次第で、練習の上手下手が決まるのです。

今回の発表会の課題曲のBoccheriniのconcerto・・なのですが、Haydnや他の作曲家に比べてorchestraの演奏技術が非常に難しいとされるBoccheriniなのですが、その最たる理由は、この曲が、orchestraの書法ではなく、室内楽の書法で書かれているからなのです。

今日は、そのBoccheriniのconcertoの室内楽的な部分を、練習の仕方を具体的にpickupして、説明をする事で、明日の練習課題と、しました。
明日は、その部分を正確に室内楽のように演奏出来るように、pickup部分の抜き出し練習をすれば良いのです。

日本では「もし、proを目指すのならば、教授classの先生に師事しないといけない」という考え方が一般的です。
私としても、その考え方自体は、吝かではありません。
昔々、教室を開設して間もない頃のお話なのですが、生徒を教え始めた時に、私が指導している生徒の中の一番弟子の生徒が、とても上手になったので、引っこ抜きにあって、芸大の教授の所に弟子入りに行ってしまいました。
誘ってくれた人の建前では、「2,3度lessonを受けて見て、気に入らなければ、元の先生の所に戻れば良いのよ!!」という事だったのですが、実際にはそう簡単な事ではありません。
「取り敢えず、結婚して、気に入らなければ、別れれば良いのよ!」というadviceをよく聞いた事があるのだけど、それで別れても、傷つくのは本人なのだけどね??私は男性なので、そうまでして、結婚したい気持ちは分からないのでネ⁉

「先ず、1,2度、lessonを見て貰う」・・というお試し期間のようなlessonは、少なくとも音大の教授classになると、無いのですよ。
一度、lessonを見て貰ってしまうと、その次点で、100%、師弟関係が成立してしまうのです。
その先生が、気に入らないから、弟子入りするのを止める…というのは、音楽の社会的には、許されないのが現実なのです。
それで、私の生徒であったその生徒は、憧れの芸大の教授に、初めて指導を受ける事が出来るので、喜んでいたのですが、実際に指導を受けて、余りの事にcultureshockを受けて、1年間は辛抱したのですが、直ぐに音楽自体を止めてしまいました。
だって、芸大の主任教授なのだから、それ以上、上の先生はもう日本には、いないからなのですよ。
そういった事が、その後も、立て続けに2人,3人と続いたので、すっかり音楽教室を続ける事が嫌になってしまいました。

・・と言う事で、優秀な生徒達に逃げられてしまう・・という現実の社会に少なからず、shockを受けて、教室を存続させるか否かを悩んでいたら、何時も楽器を買いに行く楽器店の社長のお姉さんが、「芦塚先生❢ 律儀に子供を教えないで、或る程度上手くなったら、芸大の先生にドンドン回せば良いのよ❢❢ そうしたら、あの教室で教わって上手くなると、芸大の先生を紹介して貰えるよ❢・・と言う事で、生徒が集まるわよ!」というadviceをして来れました。

「芦塚先生が何でそこまで、子供に執着して生真面目に指導するのか分からない??」とも、言っていました。

例え、芸大の教授であったとしても、子供を指導する限り、生徒がその先生の元を去って行くのは、仕方のない事なのでね??
だから、子供を指導する先生で、生徒に執着する先生はいないのですよ。
そんな事しても、自分には何も返って来ないので、そういった努力をしても、仕方がないのでね。

まあ、そりゃあ、そうかも知れないけれど、真摯に指導するためには、或る程度は、のめり込まないと生徒は上手くならないのでね??
のめり込んで、生徒に逃げられて、苦い思いをしてもしょうがないのだけど、まあ、ほんと、痛し痒しの所なのかな??

そういう事で、当時の生徒達には、取り敢えずは、日本の有名音楽大学に進学させるのは止めて、高校生から直接、海外に留学させる道を選らんだのですが、その子供達の、その後をみると、それも、まあ、良し悪しよねえ??
結果論的に言えば、やっぱり、私が、自分で指導した方が一番結果は、良かったのですよ。

まあ、「proになりたければ、芸大の教授に・・」は、許せるとしても、そういった「親方日の丸・・か、寄らば権威・・」で、「proの道が約束された」・・と思い込むのは、余りにも安易で、浅はかな話ですよね。
そんな都合の良い話がある分けはないのに、それを信じている人がいる。
現実的にどの社会で、親方日の丸で、現実的に、その生徒の将来が約束される事はあったのかな??
私はそれを、一度も見ていないのですよ。
本当に・・??
だから、「proになりたければ・・」というのは、幻想に過ぎないのです。

音楽のお話なので、現実の生活を伴わないので、そういった妄想が起こりやすい事は事実なのです。
だから、私の冠動脈のお話をすると、10年前の、当時は手術の技術levelが低かったので、(この10年間で医療は目覚ましい進歩を遂げています。10年前の医療の技術は、今に比べると、殆ど原始時代に近いものがあります。)
私が50歳を過ぎた辺りから、心臓の異変に気づいて、江古田教室の近場の民間の大きな総合病院に通っていました。「冠動脈が・・」とか何時も言っていたので、一応、循環器内科に通っていたのですが、若い先生達は「素人が何を言う」と取り合ってくれませんでした。通い始めてから、5年以上経った頃、やっと心電図に引っ掛かって、大学病院に日帰りの検査とダメならその場でドリルで治療という予定で出掛けたのですが、治療が不可能で、ダイヤモンド・ドリルを準備しての再検査になったのだけど、それも無理の手遅れと言う事で、パイパス手術と言う事になってしまいました。
そこの大学病院では、人工心臓を付けての手術で、3本の内の1本だけを生かすのが精一杯という事でした。その場合には、生命を司る頭に行く血管だけを助けるので、寝たきりになる予定だったのですがね。
先生達が必死に色々と病院の名医を探してくれて、当時は未だ非常に珍しい(今では当たり前の手術になってしまいましたが)心臓を動かしたまま、手術をする先生を探してくれました。
緊急入院をした大学病院のCatalogには、セカンド・オピニオンを推奨する・・と書いてあるのですが、現実は全く違って、「もし、何かあってもこの病院には戻らないでください。」と喧嘩を売られてしまいました。
勿論、戻る気もないけれどね。

今では超有名な先生であるその先生も、当時は日本のacademismと真っ向からの喧嘩をしている先生で、その先生の手術の技術のお陰で、今もこうして働いている事が出来ます。感謝感激です。
当時の周りの人達からは、「何で大学病院を逃げたの??」と不思議がられて、ブーイングをされてしまいましたが、自分の生死が掛かっているのだから、親方日の丸では無い…大学の教授が良い、なんて言ってられないのですよ。
本当に治せるか否かが問題なので…ネ?

でも、音楽の事、教育の事となると、そこまで真剣に、真摯に取り組む人は少なく、周りの無責任な意見に惑わされる人達が多いのは事実です。
その話をしていたら、岩城さんに「それもその人の才能の内なのだよ❢」と言われてしまいました。
岩城さんも芸大を中途でやめた人なのでね。
徳さんも高校で勉強の途中でN響のコンマスになったしね??

何時も言っているように、音楽に学歴は必要はないのですよ。
職業なので当たり前なのだけどね。どうしても、日本人にはそこの所は理解出来ないのだよ。
一般の人達は、常に「寄らば・・」なのでね。

実際に、その現実を見たければ、芸大のOBの団体のhomepageがあって、毎年の卒業生の就職先をupしているのですが、それを見ると、音楽の最高学府である芸大ですらその現実なので、ましてや一般の音楽大学のいやんやがなの現実が見えて来ます。

それを実際に目にした人達は、その現実に、愕然として、その人自身が、余りにも思っていた現実とのgapに、驚いてしまう人達が多いのですが、私達のように、実際にその現場で生活を長くして来た人間としては、一般の人達のそのような思い込みは、realityがなくって、妄想に過ぎないので、結構、見ていて笑えるのですよ。もし、「proになるには、・・」という人が、そのhomepageを見て、自分の意見を更に周りに言えるとすれば、それは頑迷の世界ですよね。

だから、音大生の多くの人達は、日本で音楽を学ぶ事を諦めて、海外に留学をします。
山のあなたの空遠く・・か、隣の芝生は青い・・かどうかなのでしょうね。
しかし、憧れの留学を終えて、日本に帰って来たとしても、日本の音楽界の現実は厳しいものがあります。
と言う事で、日本の音楽の世界には、Classicをやっていては生きては行けない。という通説(定説)があります。
私に言わせれば、音楽の世界では、音楽を教える人も、学ぶ人達も、お嬢様、お坊ちゃまの集団であり、生活のための音楽を学ぶ事も教える事もないのですよ。
だから、「音楽は職業なのでは??」と私が言うと皆、ズッコケルのですよ。アハッ!

はっきり言って、proの道は、そういったacademismの延長線上にはないのです。

学校のacademicな勉強を何百年続けたとしても、それが職業になる事はないのだよ❢❢
当たり前でしょう??
proを続けている人なら、皆分かる事なのだけど、親方日の丸どっぷりの人達には分からないだろうな~あ??

斉藤先生達が未だ高校生の頃に、私の高校の時の同級生でproのorchestraのownerをやっている人に「オケに入団するかい??」と誘われたのだけど、先生達(当時は高校生ですよ❢)は、「教室の先生が良い❢」と言って、その申し出を断ってしまいました。

梨紗さんが高校生になった頃のお話なのですが、その私の同級生のownerの人も歳を取って、スポンサーになって、ownerを続ける事が辛くなって来たので、最後の機会と言う事で、私が、「高校を中退してproオケに入団するのなら、最後の機会なのだから入団させてあげるけれど・・」と、梨紗さんを誘ったのだけど、「高校生活も音楽大学の生活も全うしたい❢」という事で、梨紗さんに、断られてしまいました。
もう、それから5年近く過ぎているので、私も、・・私の友人も、もう歳なので、そういった音楽の現場には力が及ばなくなってしまうので、当時は、「最後のchanceなのだよ❢」と言う事は、しっかりと確認した上でのお話だったのですがね。
もし、彼女が将来「proのorchestraに入りたい」と考える事があるとすれば、勿体無い話ですよね。

・・っていう話をしていたら、「何故、proオケに入団するのに、高校を止めなければならないの??」と質問して来た人がいるので、それに答えるのは、バカバカしいのだけど、敢えて書いて起きます。
オケに入団をする・・という事は、「就職をする」と言う事なのだからですよ。
「就職をした人間が、同時に高校に通う」という事は有り得ないじゃあないの??
そこの勘違いも、音楽を趣味としてしか、見ていない証拠なのですよ。その水準に答えなければならない・・という事は、私に取っては、とても悲惨な現実です。

音大生に向かって質問してみてください。
「どうやればproになれる・・と思うのか??」って・・。
多分、その答えは、「技術を磨く事」と回答するはずです。

確かに、完璧に技術を磨いて、concoursには通るかも知れません。
しかし、concoursに入賞したから・・と言って、proになれる分けではないのですが、その現実を見ようとはしないのですよ。
つまり、音楽を勉強する学生の皆さん達は、夢を見ているのよね??
「見ている夢」を壊すような事を言っては、大人気ないよね~ぇ??
ここら辺迄にしましょうかね??
今日の愚痴は・・・アハッ!



今日は合宿中日の26日でした。
練習が終わって練習に入る迄の間のinterval(所謂、loss-time)を上級生が計って、time表に書き込んでいましたが、流石に、前の日のお説教が効いたのか、loss-timeは、昨日の30分ぐらいとは打って変わって、全部のintervalが、10分以内の、5分から3分ぐらいに収まっていました。
最初、自治会館に着いたばかりの時には、昨日、見ていなかった曲を3曲程練習していたので、pointが、やはりズレていて、そのcheckをしたのだけど、初心者には難しかったかも知れないネ??
八千代組+㌁の㌁にとってはね??

次の曲に入って、前日に練習のpointの説明をしていた曲だったので、ワリと練習は上手く行きました。
つまり、「練習をする」と言う事よりも、「練習の仕方を勉強する」という芦塚メトードに始終したのですよ。
この方法は、1曲毎には、とても時間が掛かるのですが、一度、理解出来ると、上達が早いので、結果的には、時短になります。ハイ!

でも、子供達への指導で、体を労って、安静にしていなかったので、毎日少しづつ、段々、痛みが酷くなって来ているようで、最悪、このまま冬休みは寝込んでしまうのかな??
そんな気がして来たぞな・・・??


今の子供達が苦戦しているBoccheriniのcelloconcertoの珠加ちゃんのvideoがあったぞよ❢❢
3年前の、2014年10月12日日曜日の千葉文化センター・アートホールでの演奏だぞよ❢❢❢
https://www.youtube.com/watch?v=3URLPCSpZ0I


Boccherini celloconcerto B 1Satz Schuka Yamamoto14Jahre

「集中力と3分という時間の単位」
昔々、テレビのカップラーメンかの宣伝で「3分間待つのだよ❢」とかいうコマーシャルがあった。コマーシャルは、15秒とか30秒、1分、3分とあって、私が子供達に時間の単位を教えるのに、利用させて貰った。
教室を開設した時に、子供達の集中力が45分ぐらいしか持たない事に気がついて、不思議に思ったのだが、それは、小学校が、子供達のトイレ・タイムのために、50分の授業をしていたからだ・・という説明を学校の先生からして貰った。
ちなみに、大学の時間の単位は100分である。
1時限は100分単位である。
しかし、音楽大学は基本、1単位60分である。
lesson時間が60分だからである。
この違いは時間という単位を身に付けるのに、結構、問題となる。100分という時間を集中するのは、極めて難しいからである。
ちなみついでに、演奏会の演奏時間は、short-concertoとlong-concertoとの時間に分かれる。short-concertoは基本1時間半にencore-programの15分を追加して、1時間45分、long-programでは、2時間に15分程度のencoreをプラスして、2時間15分の演奏時間になる。(以下は、演奏会のprogramの作り方⇒「芦塚先生の部屋」参照)

子供に「集中」という事を教えるのに、「時間」を体で体感し、把握出来るようにしなければならないのだが、それは、先ず、基本となる時間の概念を子供に作ってやらなければならない。
その目標が「3分間」だったのだよ。
オケ練習の時に子供達を後ろ向きに座らせて、目を瞑らせて、よ~い、ドン❢❢で3分経ったら、手を上げさせる。目を瞑っているので、周りの生徒達が手を上げたかどうかが分からない。早い子供では、1分半で手を上げる子供すら出てくる。
3分間というのは、殊の外、長いので、3分間の集中は、おいそれとは出来るものではない。

先ずは、短い時間の単位である、「15秒間」の集中から訓練を始める事にするのだ。

15秒が出来るようになったら、当然次は30秒という単位を習得するのだが、しかし、30秒の次は1分ではない。
あくまでも、段階的に、45秒なのだよ。
そこを飛ばしてはいけない。
と言う事で、徐々に頑張って、何とか子供達に3分間の集中を出来るようにさせるのだ。

オケ練習でも、私の指導下での集中が持続するのでは、子供の学習能力としての集中力としては弱い❢
子供自身が自分の力で、集中出来ているのか?のcheckも必ず必要である。子供が自分でその集中力を発揮出来るようになった時に、その集中力は子供の絶大な能力となる。
だから、集中力の特訓は、オケ練習の最も、需要な要素となるのだよ。



子供達に「集中しろ❢❢」と言って子供達が集中出来ると思っている指導者は、指導をやめた方が良い❢❢





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「今日は12月27日、合宿の最終日」

2017年12月27日 ·
いやあ~??今日は12月27日、合宿の最終日❢❢
お昼の12時です。
今から車で千葉に移動する時間なのに、胸の骨の痛みに加えて、左足の薬指が攣って足を動かす事が出来なくって、どうにも、ベッドから起きれなくなっているのだよな~ぁ?
これは超、困ってしまった❢❢
時間に遅れるのは致し方ないとしても、ベッドから出れない・・、体が動けないのは、それは問題なのだよ。
本当に、満身創痍なのだよなぁ??

私の自宅である「江古田ハイツ」から車を走らせていて※)、丁度、椎名町の上空に差し掛かった時に、トヨタから電話があって、「車のspareのkeyが出来た❢」と言う事で、千葉行きのついでに、寄ったのは良いのだが、ただkeyを貰ってお金を払うだけなのに、時間の掛かる事、掛かる事❢❢ 
小1時間近く待たされてしまったよ❢❢
まあ、作業の手順がなってないのだよな~あ??
※)新しい車は横幅が17㌢、長さが30㌢も大きくなっているので、車を車庫から出すのは問題ないのですが、車庫に入れるのは、助手席の手伝いが必要なのです。だから、一人では、椎名町の車庫に車を入庫出来ないので、ハイツの管理人さんに頼んで、特別にハイツの駐車場を2日だけ借りました。という事で、江古田ハイツから車を走らせて・・と、なります。

トンネルに入って、「Christmas-seasonなのだから、渋滞はいた仕方がない」と思って、忍耐をして車を走らせたのだが、やっと湾岸習志野の高速の出口から一般道に出て、「やれやれ」・・と思ったら、幕張メッセの交差点で、車3台の玉突き事故渋滞で30分以上待たされてしまった。
信号で停車中の車に初心者の車が追突して、その車に更に後続車が追突をした車3台の事故だ。
遅れに遅れたけれど、それでも、定形の曲のcheckは、何とか出来たと思う。

子供達は、何時もは、学校の勉強の方式で勉強しているので、それぞれの単元をそれぞれ「独立した時間」で、lectureを受ける癖が付いている。
普段のオケ練習の時には、子供達のお迎えの時間があるので、そういった時間優先の練習法を取る事も多いのだが、そうすると、どうしても、曲に出来、不出来が出来てしまう。
時間優先は必ずしも、効率の良い練習法とは言えないのだ。

私の場合には、曲が何曲あったとしても、それぞれを別の曲としは、捉えないで、その一つ一つの曲に必要なTechnik(技術)を抜き出して、技術としての指導をするので、曲が違っていても、指導の内容は同じになるのだが、年齢の低い子供達の場合には、そういったlectureの受け方には慣れていない。

「fingerbowの練習」というpointを上げるのならば、どの曲のどのpassageの「fingerbow」であったとしても、lectureの仕方も練習の方法も一つである。
その曲で出来るようになると、他の曲でも出来るのだよ。

しかし、困った事に日本社会の子供達はそう言った練習法(勉強法)には、慣れていない。
だから、曲が自分の曲にならないと、自分がlessonを受けたという意識にはならないのだよな??
曲のMotivやthemaが違ってしまうと、別のlectureとして認識してしまうのだよな~ぁ??
困った事だ・・❢❢

通常のオケ練習の場合には、演奏するmemberの事もあって、曲を優先する事がどうしても、多くなってしまうのだが、合宿では、「一事が万事」・・という芦塚メトードの根本的な練習法(勉強の仕方)を習って欲しいのだよ。
baroqueで勉強するfinger pedalの演奏法は、それを弾けるようになると、Debussyの演奏にも応用が利く・・という事を説明すると、皆驚いてしまう。
古典やbaroqueの奏法が近現代の奏法に応用されている・・という事は、音楽大学では学ばない。baroqueの奏法はbaroqueの奏法であって、ロマン派の奏法はロマン派として独立した奏法になってしまう。
しかし、文化は流れなのだよ。脈々と滔々と続いて行くものなのだ。

温故知新と迄は言わないけれども、その音楽の流れを知れば芦塚メトードの考え方も分かって来るのだがね。




合宿が終わって、やっとプリドルを連れて東京に戻ろうとして、「ストーブは消した??電気は??」と確認して、次いでに「エアコンは消した??」と確認をしたら、案の定、エアコンは消し忘れで、そのままだ❢❢
車から、寒空の中を、もう一度、二階まで階段を登って、スイッチを消しに行くのも大変なのだが、イタズラに無意味に待たされる側は溜まったものではない。
これをlost‐timeというのだよ。
合宿では、そういった時間の無駄を無くす事を課題に勉強をして、大分上手く行ったと思ったのだが、最後の最後で、それをやるかね~~ぇ??
合宿の2日目、3日目指導と言う事で「何とか出来た」に過ぎなくって、本当に「身に付いた」分けではない・・という意味なのだよな❢❢

こういう事を書くと、また、個人攻撃と思われるのかも知れないのだが、これはとても大切なroutine作業なのだよ❢❢
そういったドジをしないようにするために、或いは、忘れないようにするためのroutine作業がちゃんとあるのだ。
 
つまり、私の場合には、ズボンの右のポッケにはハンカチとちり紙、左のポッケにはお金、上の右は家の鍵、左のポッケは・・と、決まっている。
ハイツの玄関には、ど忘れ防止のmemoが磁石で貼ってある。
「携帯持った?」「車の鍵持った??」等々だ。

これは、チョイ忘れ防止でとても大切なroutineなのだけど、数を数えるだけでも良いのだよ❢❢
つまり、①明かり消した②ストーブ消した③エアコン消した④鍵は確認した⑤忘れ物のcheckは・・、となると、全部で5項目になる。つまり、5つつのcheckをすれば良いのだよ。

まあ、これぐらいを、忘れずに、出来れば良いのだろうよ❢❢

子供達に、オケ練習の終わりの帰る時のcheckを、数字で数えさせているはずなのだが、慣れて来ると、もう忘れてしまって、子供達に数えさせるのを忘れてしまう。
子供達も、自分の物忘れのcheckがお座成りになってしまうのだよ。
そうすると、先生も、ど忘れを始める・・と、いう最悪のpatternなのだよな❢❢
数字で忘れ物checkをする・・という意味の重要性を何時も指摘しているのだが、その意味をもう忘れているのだろうな??何故、物を直接でなく、数字でなければならないのか??  と言う意味は何度も説明しているはずなのだが??


よく一般の音大生達は、ボランティアと対外演奏さんを同じに感じてしまって、困ってしまいます。
対外出演は、ボランティアとは全く違って、通常の演奏会と同等になります。(有料であろうと無料であろうと、意味は同じになるのです。)
ボランティアではなく、対外演奏をするconceptは、外での演奏は、真摯なapproachを演奏や練習に求められるからです。
「子供だから、ここまで出来れば良いだろう??」と思ったら、その子供の将来の道を剪んでしまう事になってしまいます。
子供達がその道で将来生きて行ける事はなくなります。
でも、音楽を目指す多くの音大生達が、その事に引っ掛かっています。
「ここまで出来れば良いだろう??」と、曲の出来よりも、演奏活動そのものに価値を置いたりします。
私達に取っては内容の無い演奏活動は、無かったも同じなのですがね??

2011年5月29日の八千代市生涯学習プラザ主催のスプリング・コンサートの風景です。
曲は、Corelli=Geminianiのla foliaです。
modernの演奏の中に、periodの演奏を挿入した当時としては非常に珍しい演奏です。

https://www.youtube.com/watch?v=3rWBx5TekfI


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Vivaldiのa mollのcelloconcertoなのですが


2017年12月29日 ·
Vivaldiのa moll celloconcertoなのですが、part譜が手に入らなかったので、これ迄は、Ricordi版のscoreから、教室でfinaleで、part譜を作って、生徒に渡して演奏して来ました。
しかし、これ迄のRicordi版のarticulationに納得が行かないので、今回のオケ練習ではRicordi版には拠らないで「芦塚version」という事で、articulationを全面変更して、演奏する事にしました。全面改訂とは言っても、articulation自体は、今までに出来上がっているので、scoreに書き下ろせば良いだけの単純作業なのですが、そのscoreが見当たらなくって往生しました。

celloconcertoの全面改訂を目指したのは良いのだけど、昔何度も指揮をしたにも関わらず、ハイツには私用のscoreが無くって、以前、指揮をした時の教室用のscoreを探したのだけど、椎名町にあるRicordi版のscoreを貰う・・という事だけに、日にちが途方も無く掛かってしまいました。それに合宿で椎名町に先生達が戻らなかった事もあるし・・ね??

Ricordi版の楽譜ではなくって、finaleのdataという事で、ハイツにはⅢ楽章のfinaleのdataはあったのですが、不思議な事に、Ⅰ楽章のfinaleのscoreのdataは、ハイツではみつからなかったので、椎名町の事務所を探して貰っていたら、何と古い古い、Macのfinaleのdataが見つかりました。

超古いdataなので、一度Macから「finale2013」に落として、それからwindows7用に、更に、versionを上げて、やっとハイツのパソコンに貰った迄は良いのだけど、何せdataが古い旧versionのfinaleからなので、(早速、送って貰ったdataで、今日の午後から作業を始めたのですが、「再生が出来無い」、「途中からの記号の書き換えが出来ない」、「あれが出来ない❢これが出来ない!!」で、色々と「出来ない事」だらけで、作業にならなくって、仕方がないので、新しいversionのfinaleでcelloconcertoのtemplate(白紙状態の)を作って、それにdataを、コピペしてみたのだけど、それでも上手く行かないので、遂に、一個一個を入力し直しをするという「根性の戦い」(または、忍耐力テスト)になってしまいました。

それに、以前作ったscoreには、soloのpartやCembaloのpartは、全くpart自体も入っていなかったので、新しく、scoreに、soloとCembaloのpartを増やして書き込む事になりました。

しかし、そう言った事も含めて、それでも、何とか一日掛かりでa mollのⅠ楽章のscoreを作り上げました。何時もの通りに、超、早いよね??

今日も、少しでも体を動かすと、胸の骨が痛んで、飛び上がりそうになるので、なるべく、体を動かさないように、息や咳もしないように、極力、安静に努めて、一日中、パソコンの作業だけをしました。

明日は、病院で、今年最後の薬の日です。
明日を逃すと、来年に向けて、薬が無くなってしまうので、大変だ~ぁ??
絶対に安めないのだよ❢❢



と言う事で、またまた、朝一番で、年内最後の病院なので、牧野先生が、「今日も眠れなくなるんじゃぁ無い?」と冗談で言っていたのですが、冗談ではなく、また精神的なpressureからではなく、単純に、痛くて横になれないって理由で、眠れなくなってしまいました。
横になると、体が重力を感じて痛いのだけど、椅子に座っていると、一番、楽なので、椅子に座ったまま、仮眠を取って朝一で病院に行きました。
通常の検査が終わって、胸の骨の話をすると、病院の先生が、痛み止めの薬を出してくれました。
余りにも、痛いので、朝食を食べる前に、朝の薬を飲む前に、早々と飲んだのだけど、・・・これは怖い❢❢ 
・・脂汗が出る程痛かったのに、鈍痛ぐらいに収まってしまっている。

痛みと言うのは、体を保護するための理由もあるのだが、そこまで、痛みを押さえて良いのだろうか??
骨に無理な付加が掛かっても、これじゃぁ、分からんよな??
でも、痛いのは嫌だしな??
その分、少し治りが遅くなったとしても、痛いのは避けられるので、まあ、それでも、良いか・・??
と言う事で、納得する事にした。


痛み止めが効いて、やっと眠れた。中途半端な時間だけど、眠れた事は眠れた❢❢
という事で、夕方の5時に朝の薬を飲む❢❢
今日は変速的なのだが、早朝は病院なので、病院が終わる迄は、薬は飲めないので、これは、致し方がない。


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今回の「曲決め」

2017年12月29日 ·
今回は、オケの出演予定のmemberが余りにも、少な過ぎるので、「曲決め」が思うように行かなくなって、超、悩んでしまいました。
余りにも、曲が決まらなかったので、牧野先生がVivaldiのc mollをselectして来ました。
桃迦ちゃんのVivaldiも最初は1step飛ばしのc mollにしたのですが、オケもsoloも難しくて、悩んでしまいました。
私としては、本当は生徒達には、無理のないように、curriculum通りに勉強をさせたかったのですが、memberの関係で、選曲が出来ない・・という事で、暫定的に、一度c mollに曲を決めたのですが、やはりcurriculumは大切なので、memberのlevelの事をさておいても、基本的な、curriculumのa mollの曲に戻してしまうというドタバタをやってしまいました。

・・とは言っても、このa mollのconcertoが、易しい曲である・・という意味ではありません。
歴代の先輩諸氏が、このa mollのcelloconcertoに挑戦したのですが、どうも、Ricordi版のinterpretationからして、何かと問題が多くて、先輩諸氏の演奏も上手くは行っていなかったので、とうとう、何時もの通りに、全面改訂をする事にしました。

歴代のgroupへの指導の過程で、或る程度の私のarticulationは出来ているので、後はfinaleでscoreに入力するだけなので、それ自体は一瞬で終わるはずなのですが、その肝心要のscoreが見つからなくって、探すのに、徒に、時間が掛かってしまいました。(その経緯は、前のFacebookに書いています。)

Vivaldiの四季の「秋」でも、今回のcelloconcertoの「a moll」にも、非常に早い弓でup-downを繰り返す・・という極附に難しいbowTechnikが出てきます。


今回は桃迦ちゃんがcelloのsoloなので、Metronomのtempoは118に設定しました。
演奏会tempoからすると、少し遅めのtempoなのですが、それでもこのbowを演奏するには、充分に早いので、このpassageを滑らかに演奏する事は、通常の3点支持の弓の持ち方では、不可能で、ドタンバタンとギクシャク・バタバタしてしまいます。

初見の初練習の時に、案の定、そのpassageを、子供達がギクシャクとして、ドタンバタンと演奏てししまったので、「そこのpassageは「刳り」を入れたfingerbowだよ❢」と言うと、瞬間的に、そのpassageが上手に演奏出来るようになりました。
流石は、八千代組は、秋でこのbowslurを、練習していたから、注意されるだけで出来るようになったのですよね??

通常は、日本の弓の持ち方は、3点支持の持ち方なので、この早いpassageを滑らかに演奏する事は不可能なのだよ。

これが一言注意されただけで、出来るのは教室が1点支持の持ち方を採用しているからなのだよな??

Vivaldiの時代は、未だ、1点支持のperiodの持ち方なのだから、こういった現代の弓の持ち方では演奏不能な、bowTechnikが出て来るのだよな??
当時のperiodの弓の持ち方をすれば、何の問題もなく、一瞬で演奏出来るのだけどな??


fingerbowの弾き方は当たりを出すために、刳りbowに近い奏法で弓を真下に落とすように弾きますが、この曲の2音を移弦で演奏する場合には、楕円を描くように奏しますが、上の場合と下の場合では回転が逆になります。

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Bachの組曲ロ短調のAria

2017年12月31日 ·
教室にはPachelbelのcanonのような常設曲が何曲かあります。

暮の合宿の時に、Vivaldiの新曲の説明をする時に「では、この曲を弾いて見よう❢」と、Bachの組曲ロ短調のAria(所謂、G線上のAriaの原曲)を、Keyboardで弾き始めたのですが、何と、誰一人入って来なかったのですよ。

つまり、この超有名な曲で教室の常設曲でもあるこの曲を弾いた事のある生徒は、一人もいなくなっていたのですよ。
超、shockです❢❢ 

教室の常設曲であって、余りにも演奏し過ぎたので、暫くお休みしていたら、何と、誰も弾いた人がいなくなってしまっていたとは??
時の過ぎ逝くのは、矢の如くに速い。

という事で、教室のscoreを出して見たのですが、scoreはPeters版の出版された楽譜のままで、bowslurも難しいbowslurが付いたままでした。
この曲を常設曲にした理由は、勿論、超、有名な曲で絶対に知っておかなければならない曲で、何時でも演奏出来るようにしておかなければならない曲である事は当然なのですが、それ以上に、orchestraのpart譜を通じて、総てのpartに、私が、細かいbowslurを付けて、slurを演奏する上での、bow-technikを学ばさせるための課題曲にしていたのですがね??
finale時代よりももっと前の時代に、「手書き」で書き込んだbowslurの楽譜だったのですが、何時もの通りに、楽譜を紛失してしまって、見当たらなくなってしまっていたのですよ。
私としては、超、shock❢❢ なのです。
私のmethodeが、理解されていなくて、尊敬されていない・・、逆の言い方からすると、ぞんざいに扱われている・・と、いう意味なので・・ね❢❢

このbowslurは、単に「弓のup、downを教える」という意味ではなく、細かく、D.WからO.HやU.H、或いは、spitze⅓とか、frosch⅔とかの弓の細かい接弦位置の指定をして、bowの正しい弾き方を指導する内容になっていたものです。
このbowslurの楽譜を作成した時代は、未だ、パソコンの時代ではなかったので、finaleのdataとしては、楽譜を作っていなかったので、それで、Peters版のscoreが元譜になってしまっていたのですよ。


shockを悩んでいても、何も始まらないので、お昼に、椎名町から手書きのpart譜をハイツに持って来て、part譜から、score起こしをしました。

さて、入力した楽譜に、bowslurを付ける段になったのですが、私の、昔、付けたprimitiveなbowslurが何処にも見当たらないので、bowslurを付けるのは一度、保留にしたのですが、但し、phraseで、その箇所では、必ずbowが決まる箇所だけは、先にbowを付けておきました。
曲の入りのbowと、melodieの最後のbowが決まれば、間のbowは、或る程度は自動的に決まるからです。

・・と言う事で1Page目は自動的にbowslurが決まってしまったのですが、弓は、現代、普通に演奏されるPeters版のscoreの弓使いとは真逆の弓使いになっています。

多分、昔々作った私のbowslurの練習用のとも、また違った特別なbowslurになっている・・と思います。
それは、period奏法独特の、messa di voceのkonsonanzのcrescendoと、vibratoのcrescendoを活かすためのbaroque時代独特の弓使いを、今回中心に使用したからです。
細かい弓の弓量配分は、未だ書いていません。それは実際の演奏で、生徒達の力量にもよるからです。幾ら良いbowslurを書いたからと言っても、生徒の力量が足りなければ、それは猫に小判だからです。




古い昔の私が付けたbowslurの楽譜を探す前に、もうbowslurを付けるのは終わった❢ 
layoutも、もう終わった❢❢ 
print outも終わった❢❢❢


originalのperiodの演奏です。
https://www.youtube.com/watch?v=pzlw6fUux4o

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