時代に取り残された物 忘れ去られた物



時代に取り残された物、などというと大変大仰な感じがしますが、私が子供たちを指導するようになってわずか2、30年の間にも意識やモラル、文化などの著しい変化が見受けられます。二十年前の子供と現在の子供たちとでは、指導の仕方などを明確に変えていかなければなりません。なにがどういうふうに変わったのか?その意識の変わり様を語ることは大変難しいことです。しかし、私の中にある幼年時代や子供時代について、記憶を遡るとき、「何と遠くまで来てしまったのか?!」と感慨に耽ることがあります。

また、科学の発達も著しいものがあります。この二千年ぐらいの人類の科学の発達と、わずか五十年ぐらいの文明の発達では、むしろ後者の方がより著しいといえます。人類の六十万年の歴史(現在ではアフリカのイブの誕生から十五万年とされていますが)は、非常に緩やかななだらかなものでした。おじいさんやひいおじいさんたちがやってきたと同じ生活を自分もまた子供たちもすればよかったのです。洋服だっておばあさんが着た物をそのまま受け継いでいくのが一般的でした。しかし、今日ではどうでしょう?「こんな流行遅れのもの、誰も着ないわ!」
若者は皆、都会に出かけて、田舎は老人ばかりの村になってやがて廃村となってしまいます。日本の全人口が今よりも極めて少なかった昔、しかし、村々は二百年、三百年とで脈々と受け継がれてきました。人口が爆発的に増えた今日、多くの村が廃村となっていくのは、なんと皮肉なことでしょうか?

追記: 
人口の爆発的な増加は、私が20代の時の話です。その頃は国民年金は義務ではありませんでした。何しろ、年金の支払い対象者一人に対して、年金を収める人が20名以上いて、お金はザクザクで、それこそ「年金に入らない人は馬鹿じゃぁないの?」と思われている頃でした。だから、私の母親も年金は30万近く貰っています。私がドイツから帰ってきて、役所から「年金を払ってください。」と言う、お知らせが来たので、役所に行って年金課の人に「私達は年金は希望の場合なのですよね。年金は人口が増加する限り・・・という前提ですよね。この日本に既に1億人の人が住んでいるのですよ。後、何人人口が増えると思っているのですか?」と言ったら、年金課の人が呆れて、「今までにそんな風に年金の事を考えたのはあなたが初めてですよ!」と怒って言われてしまいました。現に、もうすぐ70歳になる私の兄貴の年金は10万です。それ以降の人達は年金を納めても貰えるかどうか分かったものではありません。
その話を弟子がお母さんにしたら、「日本のお国が、やっている事を、信じないって芦塚先生って何でしょうね。」と驚いていました。
でも、年金の無駄遣いが判明して、日本国中を巻き込んで大騒ぎになったのは、その話の後、結構、すぐの話なのですがね。世界で不思議な現象として知られている、動物の集団自殺の現象も、自然界の人口増加率の法則に従って起こります。
人間だけが、無限に増え続ける事が出来るというのは、それこそ妄想で、人間の驕りに過ぎません。
日本の国土面積を考えると1億二千万程度が限界だと思いますよ。
勿論、人類が宇宙開発でもして、宇宙空間にたくさんのコロニーを作ったら、ヨーロッパで、昔、アメリカの開拓をしたように、沢山の人達が夢を求めて旅立っていくのでしょうがね。今、幾ら人口が増加しているとは言っても、狭い日本の国土の中では、それ位が人口の限界でしょうよ。と幾ら言っても、分からない人は分からないのよね。



計算:
そろばん→電卓→コンピューター



私が教室を作って間もないころ、そろばん塾とピアノレッスンの時間が重なって、生徒の親がレッスン時間の変更を求めて、教室に相談に来たことがあった。
そろばんの級を持っていると、将来、就職のときに(特に公務員になるときに)、有利であるということで、もしもピアノがダメなときに、公務員という可能性も残しておきたい、という親の話であった。
電卓がどんどん安くなって、一般家庭にも普及しつつある頃であったので、「
10年後20年後にはそろばん自体が必要とされなくなって、もうそろばんの級というのは、公務員試験の役には立ちませんよ。」と話をしたのだが、信じてもらえなかった。
アメリカで面白い実験をしたことがある。
そろばんの得意な人と、スーパーでレジを打っている人が電卓を使って計算の競争をやった。
結果的には歴然とした差は見られなかったのである。

大変な努力をして取得した技術の結果であるそろばんと、何の努力も必要としない電卓が同じ結果を生み出したということは、科学技術がもたらした1つの進歩であると言える。

確かに、そろばんも上級者になると暗算ができる。
そうなると、下手な電卓では、速度的には太刀打ちできないであろう。
しかし、会計などの厳密な正確さが要求される計算となると、暗算で出された回答などはあやふやで使用できないのも事実である。
また東大受験などの数学の問題などでは、計算上の正しい解答は要求されていない。
ある入試問題で正しい解答が仮に20として、受験生の答案に21という回答と28という回答があった。
判定会議で問題になったのは21という回答が正答に近いということではなく、ある数とある数をかけた答えが奇数になることはないので28の解答の方をより高得点を与えようという話になった。
受験判定会議の結果、両方とも同じ得点になった。
大学の数学では必ずしも正しい解答を要求している訳ではない。考え方(理論建て)が正しければ解答の数値は必ずしもあっている必要はないのである。
と言うことで、大学の入学試験には、電卓の持ち込み可の大学や辞書持ち込み可の所も多い。

今小学生の間で人気の塾がある。
音楽教室を開設するずっと以前のことであるが私の記憶法のことで塾の創設者とミーティングのお話があった。
私の開発した記憶法が創設者の目に止まったわけであるが、ソフトの買い取りにあたって、「お金はいくら出してもいいが、メトード名は○○メトードとして欲しい」という創設者と「芦塚メトードという名前は絶対に残して欲しい」という私の希望との条件の対立となって、この話はお流れになった。
その後、そのmethodeでは、記憶法に将棋の記憶法を取り入れることになったらしい。

小・中学校から高校に至るまで成績を左右するのは記憶でる。
しかし、本を書く上での、年代やその他の細かい事柄などは、決して記憶で書いてはならないという鉄則がある。

本を書く上では「記憶のような」所詮、あやふやなものに頼ることは許されない。
私達は、誰しもが、当然と思い込んでいるような、一般的な極、普通の知識であったとしても、本を書く上では必ずその事実を確認をする。
また学校や塾では、歴史などの勉強で、年代は正確に覚えさせるのだが、その時代背景や同じ時代に他の国では何が起こっていたかの、からみ合わせは全く勉強していない学生が大半である。

また、小学校や中学校では、記憶力と同等に、計算の能力が成績の軸になる。

しかしその計算は何を意味するか?あるいはどういう状況で、その計算をやらなければならないのか?その判断力が将来役に立つ、数学力であり、そういった分析力が体に身に付いているのかどうかが、その子の将来を決定していくこととなる。
そういった意味で、塾は目先の学校の成績を上げる事で、塾の価値付けを親達に対してやっているので、塾に通わせれば通わせるほど、子供達は自分で物事を考える力を失っていく事は、傍目に見るにつけ、残念至極である。
幾ら、中学、高校と計算力を高めても、現在では、大学受験のみならず、小学校ですら算数の試験の時に電卓持ち込み可という学校が現れているのだ。

先ほどの、そろばんと電卓の話に戻って、
計算力と暗算力は別のものだといえる。
計算力をupする事に対しては、むしろ掛け算の9,9を、2ケタまでできるようにすればよいと思う。
数学の楽しさは物事をいかに秩序建てて推論できるかということにある。
数学の楽しい本が無数に出版されているのだが、そういった数学に学校教育でお目にかかることは全くといっていいほどない。
そして忍耐力の訓練のような無味乾燥な計算ばかりやらされる。
飴と鞭という言葉はあくまで飴があっての鞭である。
鞭だけでは、ただのいじめになってしまう。
そろばんは江戸時代のコンピューターであったといえる。
大陸から初めてそろばんが日本に伝来した時、当時の日本人の驚きは想像するに難くない。
現代の電卓を初めてわれわれが見る時とは比べものにならない。
だから電卓が庶民のものになったらそろばんは必要なくなるし、コンピューターがコンパクトになって手軽になってくればもう電卓も必要なくなる。
そういった利便性における淘汰は歴史的に仕方のないことといえる。


音声の録音:
SP盤→LP盤→オープンリール
→カセットテープレコーダー
→CD→MD



録音に関してもこの100年間には著しい進歩がみられる。

1番古い録音の方法として、蝋管による録音の方法がある。
蝋管などというととてつもなく昔の録音方法のように思われがちだが、実は2次大戦の直前まで一般的に使用されていた方法でもある。
なぜならSP盤を削るような大掛かりなことでなく、手軽に持ち運んで録音ができたからである。
今日のカセットレコーダなどの感覚と同じであるために、蝋管の保存という非常に難しい問題を抱えていたのにかかわらず長期間の録音媒体となった。
小学校の教育教材である紙コップによる録音などは、蝋管録音の形態に非常に近いものであると言える。
戦前の録音形態として一般的なSP盤は電気的なものを通さないまだ自然な音としてフアンがいる。
1回だけしか使用できない鉄の針で78回転のレコードを聴くわけだが、マニアは竹の針を自分で作って使用した。とてもやわらかい音がする。
(SP盤を最初に作ったのはトーマス エジソンで最初に録音した曲は「メリーさんの羊」といわれている。しかし、これにもいろいろな諸説がある。)
LP盤になるとレコードの材質もかなり硬くなり、針もより強度の強い宝石針が用いられるようになった。
中でもダイヤモンドの針は高価ではあるが音もよく、長持ちしたので愛用された。
またレコード盤の溝の振動を電気的に増幅したのだが、鉱石になる前の真空管のタイプは音質がとてもやわらかで今でもフアンが多い。
但し、真空管が高熱を持つので切れやすく、真空管マニアの人たちは気にいった真空管を何十本もスペアに集めている。(言い換えれば真空管コレクターでもある。)
また通常スピーカーも市販のものはベニヤ合板であるが、楽器を作るのと同じローズウッドやマホガニーなどの木材を使用することによって独特の音響をもたらすことができる。
はっきり言うと、そんな高価な木材を使用しなくてもよく枯れた自然木を使用するだけでもその違いは明白である。
戦後はLPレコードのほかにもドーナツ盤と呼ばれるEP盤や変わったところではビニールシートのレコードなども出た。
しかしもっと大切なことは、モノラルからステレオ、そしてサラウンド(4トラック)などに変わっていったことである。
私が30になったころ、CDが発売されてレコードからCDへの移行が起こってきた。
私自身はレコードが販売されなくなるまでCDへの移行は基本的に行わなかった。
CDには高音域特性が高すぎるということと、熱によって曲のピッチが上がりやすいという欠点を持っている。
レコード派の人たちはこの欠点を主張することも多い。
蝋管からレコードへの発達とは別に、自分自身で録音できる媒体の発達がある。
オープンリールと呼ばれる録音機器である。オープンリールは無声映画からトーキーへの発達と密接に関係を持っている。
日本で一般家庭にオープンリールが入ってくるのは、昭和30年ころからである。
オープンリール自体は16トラックからさらに巨大になっていて、放送局やスタジオなどで現在でも使用されている。
一般家庭でのオープンリールは手軽さにかけるためにマニアを除いてはそれほど普及しなかった。
もっと手軽な録音機械を作ろうと30年代の後半にアカイというメーカーが小型のオープンリールのようなものを作った。
しかし、世界の統一規格が得られないまま消滅してしまった。
オープンリールの次に世界統一の規格を得たのは、カセットテープである。
ソニーなどをはじめとして世界中のメーカーが安価な録音機器として設計製作し、あっと言う間に世界中に普及していった。
その後の録音機器としてはβのテープを高速回転させて録音する方法ができた。
結婚式などの営業用によく使用された。
これはその後のDATと同じぐらいの優れた録音方法であるが、全く一般的にならないまま廃れてしまった。
次はDATの時代である。これはCDなどと同じデジタル録音であるから非常に音質的に優れている。
しかしDATが一般に普及する前にMDプレーヤーが発売されるに至った。
MD は録音のディスクの容量に問題があるために、音を圧縮して録音している。
そのために決して録音機器としては優れているとはいえないと思うのだが、利便性ということで(特に検索編集機能が優れているので)録音機器としてカセットに変わる主流の存在となっている。
私の個人的見解としては、MDプレーヤーはむしろマイクロカセットのような会議用としての利用の方が優れているように思う。

追記:
録音の媒体に関しては、ハードディスクに直接録音する方法を除いては、生の音を録音するという事は、MD以降ははつばいされていない。MP3とか、デジタル・ヴォイス・レコーダーとか、それに近いものは発売されているのであるが、音楽を録音するような機種は今のところ発売されていない。
つまり、音楽をプレイする人達がクラシックの世界ではなく、popularの人達なので、Midiやパソコンとの接続で、生の音を再生しないままに録音するからである。
われわれクラシックの人間にとっては迷惑な話である。
ソニーが唯一生撮り用のMDプレイヤーを発売したのだが、後継機種を作る気はもうとうないそうである。そうなると、本当に、生撮りをする事は出来なくなってしまう。
困った事である。

一般的に「どういった物が普及していくか?」ということは、必ずしも優秀な良いconceptと持つ機器であるという、事になるわけではない。経営的な手腕で、他を押しのけて普及した物が社会を席巻する事の方が、多いのだ。
売れるものと言うのは、一般の人が勘違いをしているように、売れるからと言う事で、それ自体が優れたものであるということを意味する(証明する)訳ではない。
そこに企業戦略などが働いてしまう。
時代というものは必ずしも優れたものだけを求めているというものではないのである。
社会の評判とその物の価値というものは必ずしも一致しない。
一昔前の、ビデオ・テープのβとVHSの戦争のように、製品の価格と販売価格が著しく違っている場合、ヤマハのように、完全な独占企業である場合と、電器メーカーのように、各社が凌ぎを削っている場合には、戦略的に価格戦争になるのは良い事ではない。
今回の、auとdocomoのように、クライアントを全く違った対象にしている場合も、競合はしない。
auは電話の感覚で何所でも通じればよい!と言うconcept出し、それに対してdocomoは色々なアクセサリーで勝負している。私達の場合には、仕事で使用しているので、通じない場所があると困る。auのように、太平洋の真ん中でも、アルプスの上でも、電話が通じてメールが出来れば、それでよいのである。幾ら、優れた機能を持っていても、通じないのでは、話にならないからである。


映像の録画:8ミリ→ビデオ→DVD

動く映像というと、ともすればカメラの発達と同じように考えがちであるが、かなり古い時代から人々は動く絵というものを知っていた。走馬灯のようにろうそくの明かりで絵が動くことは何百年も前から知られていたことである。
すでにバロック時代には、覗き眼鏡の中で絵を動かす装置が一般的に知られていた。ですから写真が初めて発明されたときに、必然的に映画の発達が促されていったわけです。最初の映画はまだ動きのない幻灯機に解説をつけたようなものとだったとされています。今日、チャップリンの映画でおなじみの無声映画時代からトーキーに変わるまでの時間はほんのわずかなものでした。
無声映画からトーキーに変わるころ、庶民の手には8ミリカメラや16ミリカメラなどが手に入るようになってきました。
8ミリや16ミリのカメラの時代は結構長く続きます。
ビデオの開発にはかなりの時間がかかったわけです。

私が30歳を超したころ初めて市場にβやVHSのビデオが売り出されてきました。
しかし本当はその直前に、Uーマチックという方式のビデオが発売されていて、ブライダルなどの営業用として使用されていました。
しかしこの方式ではテープの幅がオープンリールと同じように非常に太いので、一般的には向きませんでした。
そこでβやVHSのビデオが開発されてきたわけです。
ソニーのベータ方式とそれ以外の会社のVHSの企業戦争は、βとVHSはどちらが優れているかという一般論争にもよくなりました。
初期のVHSは生録した映像を別のデッキで再生すると、画像が立ち上がらないという問題がありました。
また、録画ボタンを押して画像が録画されるまでにラグが3秒ほどかかってしまい、編集には向きませんでした。
βのデッキに関してはそういった問題は最初から起こりませんでした。
またテープ自体もVHSに比べて小型で映像もしっかりしていました。対抗策としてVHSは、S−VHSのテープを開発しました。
当然、βもハイグレード化していったわけです。
今日、ビデオ戦争にβが負けた原因は、βがVHSに比べて機能的に劣っていると思われているようです。
しかし現実は違います。
一般の販売競争に負けたβは、ごく限られた映像マニアの人たちの専門機種として、高価な機種だけを作り続けました。
そのために、専門店ではβのテープを売り続けてきたわけです。
ですから、βのデッキが販売を終了して、βのテープが作られなくなった時には、実はVHSのデッキも事実上は終わったのです。

でも、実際にはそれからいきなりハードディスクやDVDに移行して行ったわけではありません。
その間には、困った事に、レザーディスクや分けの分からない箱型のテープに移行したのですが、8mmビデオ同様に当初の形は録音やダビングが出来なかったので、自然に廃れて行きました。
という事で、私も演奏家の演奏をレザーディスクで結構、買い揃えたのですが、そのために、この昔買ったレザーディスクは処分できないで、未だにビジュアル用のラックにテレビに配線されたままで鎮座しています。
困った事です。このデッキが壊れてしまったら、レザーディスクも再生出来なくなってしまいます。

ハードディスクやDVDのソフトが一般的に売られるようになって、昨年ついにβのプレーヤを作るのが終わりました。
それほど優れた実力を持ちながらなぜβのビデオはVHSに負けてしまったのでしょうか?
その敗因は、販売戦略にあります。
大手企業意識の強いソニーは(同じ独占企業であるヤマハのように)卸しを8×にしたのです。
それに対してVHS側は4割5割で卸しました。
小売店としてはβの機種をを1割引きして売っても、さほどお客さんは喜んでくれないし、2割引き以上すると儲けが全く出ません。
その点、VHSの機種の場合には、3割引きしてお客様に売っても、まだ儲けがあります。
お客さんに喜ばれて儲けがあるのなら、当然、小売店は、βの機種の商品を売りたがらなくなってしまいます。
ヤマハのような1社独占の企業でしたら、そういった商法も成り立つのでしょうが、同じような巨大企業がひしめき合う電機業界ではちょっと無理な感じがします。
βとVHSの戦争で負けを認めたソニーは、次の戦略をコンパクトビデオに向けました。
8ミリビデオとVHSCとの戦いです。
この戦争は結局のところ8ミリ側に軍配が上がってVHS― Cのテープを店で買うのは大変難しい状況になっております。
ご存じのように、すでにデジタルビデオもピークを過ぎて、DVCやDVDなどが時期の主流になろうとしています。
しかし、このDVDも今年はブルーレイという方式のDVDが発売され次期の主流に変わろうとしています。
また録音録画でなく、映画用にはレコード型のレーザーディスクと箱型のタイプもありました。
しかしいずれも現在ではほとんどお目にかかることはありません。ほんのわずかの15年か20年の間のAVの進歩は著しいものがあります。
しかし我々のように、その情報を保存しなければいけない者にとっては「どうすりゃいいいいの?!」という感じです。
5年前に保存したデータがもう再生できない。
プレーヤを買うことや、テープを買うことすらできないのですから。

 

 

日本語の入力:和文タイプ→ワープロから
コンピューターまで

私の高校時代には、高校の文芸部の冊子や同人誌などの文集に、詩や短篇などを出稿していた。高校時代部活などにはまったく参加していなかったので、文芸部などには属していなかったのだが、各学校とも原稿の集まりが悪かったので、自分の方からあえて投稿しなくとも、先方の方から集めに来た。
音楽学校に行くようになってからはそういった投稿の機会を全く失ってしまったのだが、同級生である高塚和子女史が彼女の詩集を自費出版したことに触発され、私も「ある少年のメルヘン」というタイトルの雑文集を自費出版した。
このころは自分の書いた文章が同人誌などで印刷されると、全く別の人が書いたような文章に見えた。
フレッシュでとても感激であった。
外国の映画などを当時よく見ていたが、指1本でしかもすごい速さでタイプライターを打つシーンなどがあって、「日本語のタイプライターがあるといいなあ!」とよく思っていた。
タイプライターのあだ花としてカタカナのタイプライターやひらがなのタイプライターが作られたこともある。しかし文章としてはひらがなやカタカナだけでは、読みにくくて全く実用性がありませんでした。
私にとって和文タイプライターへのあこがれというものは、特別なものがありました。それは私自身が文字を書くのが非常に遅く、また癖字で非常に汚いというコンプレックスがあったからです。
大学を卒業と同時にドイツに留学しました。


私が、ドイツに到着すると同時に、小さなかわいらしい携帯用のタイプライターを買いました。
スイス製のヘルメス・ベビー(今はフランス風にエルメスと言うらしいが・・・)という赤の印字と黒の印字が切り替えられる、しかも筆記体であるという大変特徴的(ユニーク)なタイプライターです。

タイプライターには英語圏でよく使用されるユニバーサルタイプのキー配列と、ヨーロッパ圏で使用される欧州文字が組み込まれているキー配列のもがあります。
(日本で使用されているタイプライターは、ほとんどがユニバーサルタイプのキー配列のものです。)

私の場合、欧州留学なので、もちろんスイス製(ドイツ語圏)ということで、欧州式のタイプライターでした。
但しユニバーサルタイプと欧州式のタイプライターのキー配列の違いは欧州文字に関するキーだけなので、日本に帰ってから、普通の英文タイプを打つときや、後日、ワープロを手にしたときもキー操作に関して、ローマ字で打つときなどにも困ることは全くありませんでした。
(あえてローマ字で打つときなどと言いましたのは、私たちはワープロの日本語の入力に関しては、親指配列のキーボードを使用しますので、ローマ字入力は、音楽用語を打ち込むときか、コンピューターのワープロを使用するときにしか使用しません。)

しかし、もちろんヘルメスベイビーはドイツ語を打つためのタイプライターですし、ローマ字で書かれた日本語の手紙は大変読みにくいので、ローマ字で日本語の文章を打つということは、もちろんありませんでした。

日本に帰国して大学に勤めるようになりました。
ある日何気なく池袋の西武デパートを歩いていましたら小型の和文タイプライターを見つけました。
「使用方法が難しいので、なかなか売れないのです。」と店員がぼやいていましたので、安く値切って買ってきました。
大学で使用する試験問題やパンフレットなどは、大学に大型の和文タイプがあって、原稿を渡すと専門の人がそれを打ってくれてました。
買ってきた小型の和文タイプの前に座って、私のちょっとした論文や原稿などを自分自身でタイプしたかったのですが、これが大変な作業でした。
まず、すべての漢字は漢読みしなければならない。
例えば、谷口さんという人は、コクコウさん、井口さんだったらセキコウさんです。
1つ1つの文字を小さな4角のガイドの中に入れて「がしゃん!」です。
B 4版の原稿を1枚打ち上げるのに徹夜で一晩掛ります。
しかも1文字もミスができないのです。
今日のように修正液などがあったたわけではありません。
カミソリの刃でガリガリと削って後は丸いガラスの棒で必死になめします。
むかしむかしバッハなどは銅板を刻んで楽譜を作っていました。
ひょっとしたらこんな感じだったのかもしれません。

35歳を過ぎたあたりで、初めて家庭用のワープロが発売されました。ワープロはその5年ぐらい前から会社の中では使用されるようになったのですが、当時は天文学的に高価なもので、1台が五百万円もしたのです。

教室で初めて買ったワープロは、ビックカメラで安くなったとは言っても、本体が50万円、それにドットプリンターがやはり50万円掛りました。
しかも今のように3.5インチではなく5インチフロッピーでした。ぺらぺらのビニールの下敷きのようなフロッピーでしたよ。
売る方も初めて買う方も初めてで、買ってみたけれども画面に何も現れません。
ビック・カメラに持って行って、店員によく調べてもらうと、なんとシステムフロッピーが別の機種のフロッピーだったのです。
それで、システムのフロッピーを取り寄せたり、なんだかんだで一月ほどかかって、やっと画面に表示が出たのだが、今度は解説書の言葉の意味が分からない。
もちろん市販ではワープロの解説書などまだ1冊も出ていません。
四苦八苦して3カ月ぐらいしてやっと普通に入力したり、印刷したりができるようになりました。
解説を読んでも分からない操作があったので、とうとう、富士通に電話しました。
「解説を読んでもわからないのだけど。」
電話に出た、富士通の人がびっくりして「ひょっとして解説書だけでワープロの操作を覚えたのですか?」
私:「えっ!普通はそうじゃないんですか!」
富士通の人:「都内に3カ所ぐらいワープロの操作を教えるサービスステーションがあります。買った人はそこで基本操作を覚えていただくわけです。解説書だけでワープロが打てるようになった人は、日本中で数名しかいません。」私:「ちょっとそこまでは、遠いけど私も講座を受けた方が良いですか?」
富士通の人:「いやもう必要ありません。」
あきれられたり、驚かれたりで大変でしたが、そういった情報すら全く入ってこない時代でした。

また会社を経営しているある社長さんから悲惨な話を聞いたことがあります。
会社のオートメーション化のために、一千万円ぐらいかけてワープロを数台導入しました。
ところが1、2年もたたないうちに、全く同じ性能を持った家庭用のワープロが二十万、三十万円で買えるようになってしまったのです。
「私の会社への投資は、一体なんだったんだろう?」と、社長さんは嘆いていました。
そういう過渡期の時代だったんだよね。
 

先ほどもお話ししましたように、私たちの教室では富士通の親指シフトという特別なキー配列のワープロ使用していました。

なぜ富士通かというと、これにはいろいろな理由があります。当時はワープロの黎明期で、どんどんよりよい製品が発売されてきました。しかし困ったことに、他のメーカーでは同じメーカーの改良された製品であったとしても、フロッピーの互換性が全くないということでした。その点富士通では最初に出た製品から最後のワープロまで、あるいは100 Sというプロ用の機種に至るまで互換性を持っているということでした。互換性という問題は映像や音声などを記録として残していくうえで大変重要なポイントになります。家庭で保存するVTRなどのように本数が少なければ次の映像メディアなどにダビングしていくことができます。しかし、会社として使用するフロッピーの量は膨大なものですし、発表会のVTRだけでも優に100本を超える量があります。互換性をいかにとるかということが、会社にとっては重要な要素となるのです。
ワープロを打つということは私の頭の中では子供のころ見た映画のあの1本指で猛烈な速度で打つイメージがあります。もちろん1本指では映画でなければそんな速度は出せないでしょう。つまりブラインドタッチに対するあこがれがありました。目をつぶっても勝手に指が動いていくーなんとすてきなことでしょう。そこで親指シフトの考え方に賛同したわけです。研究室で研鑚をする弟子たちには、皆ブラインドタッチを要求しました。両手の薬指のポジションのキーに、ペンキで印をしました。中指と薬指だけはポジションキーは動かないわけです。小指や人さし指は2列のキー配列をカバーしなければなりません。ですから、薬指のホームポジションを覚えるだけでブラインドタッチが身につくわけです。ピアノの練習と同じで、最初から忠実に約束事を守ることによって研修生たちは大変早い速度でワープロを打つことが可能になりました。現実的にはワープロの変換速度よりも速いペースでキーボードを打つことができるようになりました。ということで口述筆記のときに私が話している話の速度よりも速いペースでワープロに打ち込んでいる人もいました。

商業学校ではワープロのコンクールが毎年行われています。しかしこのコンクールで毎回1位を取っている商業学校で使用しているワープロは富士通の100 Sという親指シフトのワープロです。入力の速度については親指シフトにかなうキーボードはありません。

現在はMac用の親指シフトのキーボードは販売されていますが、PC用のはありません。また富士通では一時コンピューターを親指シフトに切り替えるためのソフトを売っていますが、今では親指シフトは全く使用しなくなってしまいました。
教室で使用しているワープロも10台近くありましたが困ったことにすべての機種が生産打ち切りになってしまい、また修理の保証期間も終わってしまいました。また使用年数も10年以上になってまいりましたので、ワープロ自身の耐用年数をオーバーしてしまい、昨年は(2,002年)45台のワープロが一気に故障してしまうという事態なってしまいました。コンピューターはやはりコンピューターなので、どうしてもワープロにはかなわないところがあります。しかし故障箇所の部品も手に入れることができず、修理も儘にならないとすれば如何せんコンピューターに移行せざるをえません。

富士通の常務の人と懇談する機会がありました。私が「親指シフトに対して大変画期的なメトードだと思うんだけど、どうしてコンピューターでも親指シフトのコンピューターを作らないのか?」と尋ねました。「それはねえ。芦塚さん。あなたたちが親指シフトがよいというのは、あなたたちがピアノを弾くからだよ。通常ワープロやコンピューターのキー操作をする人たちは、ほとんどの人がタイプライターから変わってきているわけです。タイプライターでは同時にキーを押すという操作はないので、タイプライターから変わってきた人たちにとっては親指シフトは至難の業なのです。」確かに右手と左手が同時に和音を弾くようにキーを押すことは一般の人たちにとっては難しいのかもしれません。ローマ字変換はユニバーサルタイプのタイプライターの配列と全く同じですから私たちが親指シフトからローマ字変換に変わることは何ら困難もありません。しかしなんと変換速度の遅いこと!ということで私自身はもうローマ字変換もあまり使用しておりません。実はこの文章はViaVoiceという音声入力ソフトによる記述です。ViaVoiceもバージョンがだいぶ上がってきていて音声認識度もかなり改善されています。普通の文章であればほとんどノンミスで入力することができます。

追記

高校時代によくやらされたガリ版には、あえて触れませんでした。

写譜→コンピューター

音楽にとっては、楽譜を清書するということは、大変高度な浄書の技術が必要でした。
ルネサンス時代やバロック時代には、楽譜を出版するという作業は一生に1度の大変な作業でした。銅板を一つ一つ削って音符を描いていくという作業をしなければなりませんでした。通常それはまた作曲家自身の作業でした。
古典派時代に入って出版される楽譜を浄書するのは専門家の手に依るようになってきました。基本的に作曲家はどの作曲家も大変美しい楽譜を書きます。唯一の例外がベートーベンだといえます。音楽家であるならば美しいとは言わなくとも、少なくとも見やすい楽譜は書けなければなりません。しかし、不思議なことに音楽大学では楽譜の書き方は指導しません。そのために、教室での例ですが、20人を超す講師希望の音楽大学の卒業生たち(芸大生や桐朋音大卒の人たち)にト音記号の書き方や四分音符や全音符などの書き方をテストしたのですが、1人として正しく書ける人はいませんでした。これは美しく書くという以前の話です。
音大時代の私の譜面は確かに書き慣れてはいるので見た目にはきれいなのですが、音符が小さすぎて読みづらいという評価を受けていました。ドイツ留学中、ゲンツマー教授の門下生は皆大変譜面が美しかったのを覚えています。そのまま印刷に回せそうなぐらいの浄書でした。その影響もあって、フリーハンド(定規などを使用しない)ではありますが、演奏譜としてもかなり読みやすい譜面であると自負しております。しかしいかに努力をしてもプロの浄書家さん にはかないませんし、作曲が仕事なのですから浄書にだけ莫大な時間をかけるわけにはいきません。ということでタイプライターのように譜面が打てればいいなと常日頃思っていたのですが、音大時代(四十年近くも前)に何と楽譜タイプなるものが発売されました。早速購入しようかと友人に相談したところ、メロディーだけの単旋律しかタイプできないしまたそんなに美しくもないとのことで購入を断念しました。日本に帰ってからはインスタント・レタリング(通常インレタといいますが)で写譜に挑戦しました。ただレタリング用紙はイギリス製で大変高く、また複雑な表記には適していませんでした。結局このレタリングの技術はだれにも伝えないままに終わってしまいました。

つまるところ、やはり正しい浄書の技術を学ぶことが音楽修行の第一歩であるということで、以前は、かなり厳しく私の生徒たちに「楽譜の清書の技術」をレクチャーしていました。
「楽譜の清書の技術」としては、楽譜を書く速度に応じて大きく三つの方法を教えました。
1番目には、写譜ペンの使い方を指導しました。
写譜ペンは慣れるととても早く音符が書けますが、半面、癖になれるのは難しいと思います。
鉛筆なども、2Bや4B等の心の太い鉛筆を写譜ペンの先のように削って使用したりします。
写譜ペンはとても早くかける半面、楽譜を読む人も写譜ペンになれないと、少し(その写譜ペンの特性上)読みづらい感じがします。
2番目にはフリーハンドの浄書の仕方を教えます。
丁寧に書かれているので大変読みやすくはあります。しかし音符の棒などや小節線など、微妙に曲がって書かれています。清書のための時間も大変掛ります。
3番目には定規などを使って丁寧に清書していく方法です。
印刷と見間違うばかりの美しい譜面ですが、大変な時間と精神力(集中力)を必要とします。
牧野先生はともかくとして、斎藤先生や中川先生などにも浄書の仕方をレクチャーしてきました。しかし、その次の世代である川島先生や大場先生たちが写譜を勉強するころになると、コンピューターの発達で写譜に関しての大変良いソフトが出来上がってきました。その冠たるものは、フィナーレというソフトです。
世界中のほとんどの音楽出版社がフィナーレというソフトを使っているといっても過言ではないでしょう。ですから、大場先生の世代ではむしろ浄書のテクニックのウエートを落として、コンピューターの使い方に慣れるように、教育の方針を変更しています。
音楽を勉強するうえで、浄書というのは大変重要な位置を占めていると思われます。
しかし、それはあくまで記譜上の勉強という意味であって、実用性という意味ではもう無意味に近いものになってしまいました。それは、和文タイプがワープロにとってかわられ、ワープロがコンピューターにとって代わられたように、また、そろばんが、電卓に取って代わられたように、時代という流れの中で致し方のないことだと言わざるを得ません。