La Folia Corelli=David編  orchestra Bearbeitung bei Yoji Ashizuka


今回、Ferdinand David版のCorelliのLa FoliaのStreich‐Orchestraのversionを作るにあたっての、こもごもをLa FoliaのPageに掲載しようと思ったのですが、元々のLa FoliaのPageがかなり膨大な長文のPageになっていたので、新たにLa FoliaのDavid版のPageを作る事にしました。

この文字をclickすると、別サイトの『Corelli=GeminianiのLa FoliaのPage 』へlinkします。

             
            写真は、Marin Marais=Ashizuka版のLa Foliaの2022年の10月11日の千葉市文化センター・アートホールでのrehearsal 風景です。

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Arcangelo CorelliとFerdinand Davidの略歴

Corelli=DavidのLa Foliaについて

Corelli=DavidのLa Foliaのorchestra-versionへの改定にあたって

Variation形式について










Facebookよりの転送

2020年8月18日David版からのorchestration

2021年4月19日『corelliのla foliaのthemaの冒頭の演奏』

2021年7月20日『David版のLa Foliaの譜面作成』

2022年4月10日Corelli=David版のorchestraへのtransposeのお話













本文

Arcangelo CorelliとFerdinand Davidの略歴

Arcangelo Corelli
1653年2月17日 - 1713年1月8日
1653年に生まれたArcangelo Corelli(アルカンジェロ・コレッリ)はScarlatti(アレッサンドロ・スカルラッティ)より7年、Antonio Vivaldi(アントニオ・ヴィヴァルディより)25年、Georg Friedrich Händel(ジョージ・フレデリック・ヘンデル)より32年年長にあたる。
当然、HändelとBachは同年齢なので、同じ年齢差である。
Corelliの代表的な作品は、12のConcerti Grossi(合奏協奏曲集)の中のOp. 6, No. 8のChristmas Concertoが、非常に良く知られている曲である。
数多くの 、triosonate(トリオソナタ)や、Violin-Sonate(ヴァイオリンソナタ)で知られているのだが、Violin-Sonate集のOp.5の終曲であるNr.12のLa Foliaは、CorelliのLa Foliaとして非常に一般に知られているのだが、実際のCorelliのoriginalのfoliaは、baroque時代の様式で作曲されているので、こんにち私達が耳にするLa Foliaは全く別の様式で作曲されたものである。

鞘堂baroque Koncertより la folia corelli sonate Op.5Nr.12 d moll baroque‐violin Junko Saito
以前uploadしていた動画とは別cameraでの撮影された動画です。

こんにち、私達が耳にする一般的にCorelliのLa Foliaと言われている曲は、Ferdinand Davidが彼の弟子達の教育教材としてarrangeをした上下二巻からなるDie Hohe Schule des Violinspielsに掲載されている曲の中からの抜粋である。(鈴木教則本の第6巻に掲載されているLa Foliaは、Davidのarrangeをしたfoliaの楽譜から、簡単なVariationだけを抜き出して編集し直したものである。)
originalのDavid版によるCorelliのLa Foliaは、virtuositätな曲で演奏技術的に難曲である。

Corelliの弟子には、Violin-Sonate集の最後の曲である「La Folia」をorchestraにarrangeをした、Francesco Geminianiや、L'Arte del violinとして知られているLocatelli 等がいる。







Ferdinand David


1810年1月20日 ハンブルク - 1873年7月19日 クロスタース)は、ドイツ系ユダヤ人のヴァイオリニスト・作曲家。

その超絶技巧から、フェリックス・メンデルスゾーンが自作の《ヴァイオリン協奏曲ホ短調》の初演を委ねたことで歴史に名を残した。


David(ダヴィット)はMendelssohn(メンデルスゾーン)家と同じアパートで生まれ、まもなくメンデルスゾーン家は引っ越したが、家族ぐるみの付き合いは続いたといわれている。

1823年から1824年まで、ルイ・シュポーアとモーリッツ・ハウプトマンに師事し、1826年にベルリン王立劇場のヴァイオリン奏者に就任。
1829年にはドルパトで弦楽四重奏団の第1ヴァイオリンを担当し、リガやサンクトペテルブルク、モスクワで演奏旅行を行う。
1835年にはライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のコンサートマスターに就任し、1843年にはライプツィヒ音楽院のヴァイオリン科教授に就任した。
メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲を初演しただけでなく、公演準備の間、作曲者との緊密な協力関係を築き、技巧面で助言をした。
(以上Wikipedia)

Ferdinand Davidの功績と言えば、こんにち我々がbaroque時代のViolinの名曲として捉えている、有名なbaroque時代のViolinの名曲の殆どが、Davidが編纂した『Die Hohe Schule des Violinspiels』 という2巻の曲集からなる曲からの曲である・・という事であろう。

多くの人達が、・・と言うか、音楽家達をも含めて、baroque音楽に対しての、とんでもない勘違いがあるのだが、・・・そもそも、baroqueのViolinの音楽は、こんにち、私達が知っている音楽のgenreとは、全く様式の違う、異質の音楽なのだ。

それを、現代のPianoの伴奏で演奏出来るようにしたのが、Ferdinand Davidの最大の功績であって、その中には、Tomaso Antonio
VitaliのChaconne in gも含まれているし、また、Leclairや他の多くの作曲家達の作品も、Davidの「Die Hohe Schule des Violinspiels」の中に掲載されている、あくまでもFerdinand Davidが編曲をしたversionで、こんにち、一般に知られているのだ。
クドいようだが、トドのつまり、私達が、「baroque時代のViolinの名曲」をあげると、その曲の殆どの曲が『Ferdinand DavidのDie Hohe Schule des Violinspiels』の全2巻からの作品群からの曲になっているのだよ。

こんにちの多くのbaroqueの曲は、校訂者が誰であれ、、元々はFerdinand Davidの手掛けた作品に拠るのである。
例えば、VitaliのChaconneの所謂、Charlier版と呼ばれるarr. by Leopold Charlier なのですが、Variationの順番を入れ替えて、soloのpartのVariationの幾つかを、派手派手しくarrangeしただけで、基本のPianoの伴奏のpartは全く変わっていません。
continuoのpartを、Piano伴奏に書き換えたのだから、それでは、既に、Davidのoriginalのarrangeだ・・と言っても、過言ではありません。
ViolaのarrangeのHermann でも、変更したViolinのpartはほんの僅かで、私達から言うとarrangeと呼べるものではないのだけど、そこはViolinのpartをViolaにtransposeしただけなので、transposeであって、arrangementでは無いハズなのですがね~ぇ??ましてや、Pianoの伴奏のpartは、DavidのoriginalのViolinのための楽譜、そのままであって、Violaのpartであるべき譜面なのだが、それもViolinのままなのだよ。これはチョッと酷い❢❢

酷い❢❢と言えば、Hennry PurcellのChaconne in gの、Benjamin Britten版にしても然り・・なのですよ。
出版社からBenjamin Britten版として、Hennry PurcellのChaconneが出版されている・・という事で、私としては、青少年のための管弦楽入門のような近現代的な作品を期待して、取り寄せたのだが、楽譜を見て、超、Shockを受けてしまった。
baroque時代の演奏法には、慣習的な法則があって、教室での練習の時にも、その時代的な演奏法を説明はするのだけど、楽譜を演奏譜として、書き換えはしない。
書き換えてしまうと、次の曲を渡した時の、応用が効かなくなるからである。

Britten版のHennry Purcellのg mollのChaconneを見て、驚いたのは、baroque時代の演奏様式を、その演奏譜に音符を書き換えただけで、Britten版として、著作権を取っていたのだよ。

それは演奏譜なのだから、originalのHennry Purcellの譜面を、当時の慣習に従って演奏すれば、Brittenが書いた譜面と同じ演奏になるのだよ。
それを、Britten版と言うのは、同じ作曲家としては許せない暴挙です。

Corelliのla foliaは、Piano伴奏のDavid版は、Ferdinand Davidのoriginalの作品である・・と言う事が出来ると思います。
baroque様式のCorelliのLa Foliaとは、Variationのmelodieから、違っているのだから、Corelliの面影は全くないのだよ。
「Ferdinand David作曲 Corelliの主題によるLa Folia」という事です。










Corelli=DavidのLa Foliaについて

鈴木の教則本の中でも有名なCorelliのLa Foliaは、元来はFerdinand Davidが近現代の手法でvirtuositätにarrangeした作品で、殆どがoriginalと言っても過言では無い。
しかし、鈴木の教則本では、その中の約半分ぐらいの超絶に難しいpassageを省いて、簡単なVariationだけを抽出して編纂し直したものである。
Piano伴奏のCorelliのLa Foliaは、Ferdinand DavidがPiano用に自由にarrangeをした作品なので、Davidのoriginalの作品と言っても過言ではない。

La Folia Corelli=David für Viola und Piano(transpose für viola Hermann) 千野瑞希Viola-Solo
演奏しているversionは、Ferdinand DavidのLa Foliaを、Viola奏者のKarl Friedrich Hermann が、更に難しくしたViola-soloのversionです。 
Viola-soloは千野瑞希(中3)です。

コロナ(COVID-19)真っ只中で、開催した奇跡的な発表会での演奏風景です。
勿論、通常のlessonが出来なくて、不本意のTeleworkだけのlessonで、外出制限等々もあって、伴奏合わせ所ではなく、lessonさえも、まともに出来ない状態の中での発表会でした。
規制強化と規制緩和が朝令暮改のように、目まぐるしく変わって、発表会当日まで、演奏会が出来るのか否かが分からない状態のままの、演奏家となりました。

当然、合わせのlesson等も納得の行く状態ではないので、themaのtempo設定も、4分音符=66~80ぐらいまでの間をフラフラと安定しない演奏でした。

・・という事で、1年後の秋のコンクールで、この曲の再approachを試みる予定です。
コンクールversionという事なので、thema+groupA、groupB、groupC+repriseの単位での演奏styleを、Variation毎の表現の違いを演出する方法に変えて、interpretationします。
コンクールは、group単位で演奏するよりも、重箱の隅で演奏する方が、より高得点を得られるからです。

その場合には、groupとしての流れが途切れて仕舞がちになるので、演奏の対象を聴手(audience)ではなくて、審査員を対象とした演奏のstyleに変更して、interpretationをしていきます。


それにしても、近現代のviolinist達のthemaのtempoは、一般的に遅すぎるようです。













Corelli=DavidのLa Foliaのorchestra-versionへの改定にあたって

orchestra-versionのCorelliのfoliaは、彼の弟子であるFrancesco Geminianiの手によるorchestraへのtransposeが絶妙であり、秀逸である。
勿論、Corelliのoriginalの作品からのarrangeなので、当然の事ではあるのだが、今現在演奏されているDavid版によるarrangementではない。

CorelliのLa FoliaのGeminiani版は、編曲の技術的にも、非常に優れたarrangeなので、『CorelliのLa Foliaを、私がarrangeをする事は無い』・・と思っていたのだが、Ferdinand Davidに拠るLa Folia(所謂、David版によるLa Folia)は、baroque音楽としてのLa Foliaではなくて、ロマン派時代のvirtuositätな曲としての、La Foliaなので、通常、私達が言っている、baroque音楽としての、Corelliのfoliaとは別曲であると解釈をして、arrangeを始めた。

つまり、baroque音楽としてのLa Foliaではなくて、あくまでも、擬古典の様式による所の、David版のCorelliのLa Foliaに対しての、arrangementである。
当然、baroqueの作曲様式に捉われる必要は無いので、orchestraも、Geminiani版とは違って、その分、分厚くorchestrationが出来る分けである。

この3年で、教室の生徒数が激減したので、毎日曜日のオケ練習が、「orchestraとしての普段の練習が成り立たない人数のmember」・・しか、いなくて、やっとこ、さっとこ、Quartettが組めるか否か??だけの、教室開設以来、初めての最低人数になってしまったので、オケ練習が全く出来ないので、『教室で演奏出来る可能性は無い』・・という状況の元で(承知の上で・・・)、Ferdinand David版のorchestrationを始めた。

つまり、若し可能ならば、本番だけを・・・OB・OGの助っ人達を呼んで、なんとか間に合わせて、発表会での演奏が出来るかな~ぁ??という、希望もあっての、arrangementである。

それならば、いつも配慮している発表会に出演するorchestraの人数を、想定しないので、baroque編成としては、最大限の人数である、Concerto Grossoよりも、更に大きな、Quartett+orchestraという編成で作曲をする事にした。

(誤解を招かないように、確認をしておくと、solo+Quartettなので、soloとcontinuo-CelloとCembaloの他に、Quartettなので、soliの人数は、solo1+1st.solo+2nd.solo+Viola solo+continuo-Cello+Cellosolo にorchestraです。
orchestraのPultの最低人数を2人とすると、Violin(今回はViolaのsoloですが)、Violin1st. 3 Violin2nd. 3 Viola 3 Cello 3に、Kontrabass 3名とCembalo、Organ各1名の2名にsoloViola1名の18名の編成になってこれまでで最大人数になります。
これまでのorchestraでは、18名編成でのorchestraで演奏した事は無いのです。

各partが一人でも良いという、、必要最低人数では、各partが2名(1名がsoloの時には、オケは1名で代用する・・という事)では、12名とsoloの1人の13名が演奏可能な最低人数となります。


Corelli=David La Folia Viola-solo-version orchestra bearbeitung bei Yoji Ashizuka 2022年10月10日月曜日美浜文化ホール


Variation形式について

楽典的には、Variationには形式はありません。装飾的Variationと、性格的なVariationの種類がある・・という事ぐらいでしょうか??
楽典的に、或いは、音楽通論的にはVariationには形式は存在しない事になっています。

しかし、BachのVariationやBeethovenのVariationに関しても、一つの膨大な曲としてのVariationの場合には、時代を超越した作曲家同士の仲間内の暗黙の形式が存在します。
Corelli=GeminianiのLa Foliaにかんしても、必然的にそのVariation形式と呼ばれる構造式が存在するのです。

Variationを用いて、大きな曲を構成する時には、殆どの作曲家が、3部、ないし4部構成で作曲をします。
先ず、最初にVariationのthemaとなる曲が提示されます。
多くの場合には、foliaやpassacaglia、或いはchaconne等のcantus firmus(定旋律)を伴うthemaになります。
多くのVariationはⅠ部構成から、Ⅲ部構成、若しくはⅣ部構成で作曲されています。

Ⅰ部構成の場合には、themaが提示されると、比較的にゆっくりとしたtempoから、徐々に速い曲になって行くという、単純構成になります。
有名な曲の例としては、Händelの所謂、『調子の良い鍛冶屋』正式名称は『Händelのclavecin組曲第5番より、Ariaと五つの変奏』です。

しかし、多くのVariationは、Ⅲ部から構成される事が多いのです。Ⅲ部とは言っても、themaは独立しますので、Variationに入ってからが、3部構造になるのです。
一番小さな3部構成の曲で有名な曲は、今は思いつかないのですが、sampleとしてはBeethovenの『Nel cor piu nin mi sento』の、六つのVariationでしょうかね??
themaが提示されて、比較的にゆっくりとした速度のVariationⅠからⅢまでが、同じ速度か、少しづつ速い速度で演奏されます。それに対してVar..Ⅳは突然遅い、対照的なMinoreになります。
Var..ⅤとⅥはMaggioreに戻って速いtempoで演奏されます。本来ならばこれで『終わり』なのですが、Beethovenの場合には、更に比較的に長いCodaを追記しています。(恰も、4部構成の曲のように)
この3部構成+Codaの形式は、規範となる形式なので、私の『子供のためのPiano三重奏曲集』の殆ども、これと同じ形式で作曲しています。

これらの説明は曲が比較的に短い曲の場合のお話ですが、同じBeethovenでも、32のVariationとかの大曲になっても、この構成の規範は維持されます。

CorelliのLa FoliaのthemaによるFrancesco GeminianiのarrangementのLa Foliaも、その形式を踏襲します。

第一部である、VariationⅠからは、比較的ゆっくりとしたtempoから、Variationを重ねる毎に、速くなっていきます。
比較的・・というのは『遅い』tempoでは無い・・という事です。このtempo設定は重要な意味を持ちます。つまり、第二部の遅い部分の曲のtempoよりも、速くなければならないからです。
第二部は、雅楽で言う所の『破』に相当します。
単純な曲の場合には、非常に遅い曲が入って来て、第三部に突入するのですが、第二部を引き伸ばして、二部の中で、遅い曲と速い曲を繰り返して展開させる場合もあります。第二部が大きくなった場合の例になります。
第三部は、またゆっくりしたVariationから始まって、ちょうど、Hungarian Rhapsodyの第三部のように、徐々に終わりのVariationに向けてtempoをupさせていきます。
そして多くの曲の場合には、themaをreprise(再現)させて、壮大に曲を終わります。

この形式の場合には、大きく三つのgroupに分けて、各部を演奏する事になります。
La FoliaやChaconneを指揮する場合にも、それぞれのgroupで、groupの頂点を作るように演奏をして行くのです。

但し、こういった演奏会的な演奏構成では、よく陥りがちなinterpretationがあります。
つまり、Variationの流れを優先する余りに、Variation毎の表現を見失って、勢いで演奏してしまう事です。
演奏には小さな事に拘り過ぎて、俯瞰的な大極を見失う場合と、大きな事ばかり見て、細部の表情(所謂、nuance)を見失う演奏です。
Variationを演奏する上での、難しさは、その部分にあります。

特に、このFerdinand DavidによるCorelliのLa Foliaの場合には、演奏技法が非常に難しいので、曲の流れと技術的な一面に囚われてしまって、Variation毎の細部の表現を見失っている人達が多いのは否めない事実でしょうかね??














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2020年8月18日David版からのorchestration ·

8月18日の火曜日の14時20分ですが、VitaliのChaconneのarrangeが終わりました。
15日の深夜から書き始めたので、都合、3日も掛かったぞィ!!
今回のarrangementは普段のarrangeとは変わって、originalityを出すために、Ferdinand DavidのoriginalのPiano伴奏譜を忠実に再現するようにarrangeをしました。
一見すると、Pianoの伴奏譜を、そのまま忠実にtransposeをする事の方が、簡単だと思われるのですが、実は逆で、実際にはPianoの譜面ではpedal効果があって、ある程度の音が残響として聴こえて来るので、それを書かれた音符をそのまま忠実にtransposeすると、『音痩せ』という現象が起こってしまって、実につまらない薄っぺらなarrangementになってしまいます。

arrangeをする時に、Pianoの譜面をそのままにtransposeする事は危険なので、優れたarrangerになると、『音痩せ』を防いで、ちゃんとしたorchestraの作品に聴こえるように・・という事と、arranger自身のoriginalityのために、編曲をする時には、曲をorchestraの作品に聴こえるように、完全に編曲をしてしまいます。
その結果は、当然、原曲の持つoriginalityが失われて、編曲者のimageが強く反映されてしまいます。

Guido Guerriniの手になるFerdinand Davidのversionも、Organとstrings-orchestraへのarrangeの過程で、Davidの書いたPianoの伴奏とは、全く異なったarrangeがなされていて、原曲のPiano伴奏譜のimageは薄くなっています。

VitaliのChaconneは、とても名曲で、演奏効果も優れていて、長大な大曲なので、多くのarrangerの人達がarrangeを試みていますが、どのarrangementも、演奏の技術的には、proのorchestraの演奏家達を対象にした、technicalな結構難しい難曲になっているようです。

orchestraの曲らしく、上手にarrangeされている反面、当然、DavidのPianoの伴奏譜のimageは失われて、You Tubeなどでも、Ferdinand Davidの作曲した曲ではなく、別の独立したorchestra伴奏の曲として、一般的には把握されているようです。

また、Tomaso Antonio VitaliのChaconneは、originalの曲はperiod-versionとしての曲なので、一般的に聴かれている譜面はFerdinand Davidによる編曲版なのですが、その版は演奏される事は少なく、流布している(よく演奏されている・・)Pianoの伴奏の譜面は、David版から更に新しく編曲されたCharlier版で演奏される事の法が一般的になっています。
Charlier版はDavid版から、幾つかのVariationがcutされて、短くなっていたり、またVariationの順番も意図的に変えられているので、Ferdinand DavidのoriginalのChaconneとは一線を画しています。
Charlier版をorchestrationをしたarrangeも、Zino Francescattiという名演奏家の演奏があって、You Tubeでも視聴する事が出来ます。
Charlier版のPianoの伴奏譜からのarrangementと明記されているのですが、Francescattiの名演奏を持って、なんとか『音痩せ』しないで演奏出来ているようで、一般的なproの人が同じCharlierのversionで、演奏したら、やはりオケ・バックは薄くて演奏上では問題なのかな??と思っています。
Zino Francescattiならば、無伴奏でも説得力があるので、聴くに耐えられるのですよね??
Charlier版以降の編集や校訂の譜面は、総てCharlier版が底本にされているようです。
originalのDavid版は現在、出版されていないようなのですが、唯一、「Schimer's Library」という出版社からは出版されているようです。
元々はFerdinand Davidの教則本として編曲・編集した曲集なのですが、今は絶版になっているBreitkopf&Härtelから出版されていた『Die Hohe Schule des Violinspiels』という全2巻の教則本の中の2巻の中の1曲が、所謂、Davidのarrangeしたoriginalの楽譜なのですが、Hennri Petriという人の校訂版なのです。
つまり、originalの譜面は、不思議な事に、一応は「Schimer's Library」から出版されているVitaliのChaconneの方が、Ferdinand Davidのoriginalの版なのです。
しかし、まあ、Hennri Petriという人は、一応、Davidとは面識のある人のようなので、David公認の校訂版とは言えるかも・・??・・ですかね??
という事で、orchestraのarrangeを手掛けた人達は、殆どの人達が、よりpianisticなCharlier版ではなく、originalのDavid版からarrangementをしているようなのですが、一般的には「長い!」とか「地味だ!」とか、何かと評判はよくないようです。
それは、短くcutされた派手派手しいCharlier版を聴き慣れている所為ではないか??・・と思っています。
まあいずれにせよ、originalのDavid版を使用してarrangementをしたとしても、そのままコピペでtransposeされるのはsoloのpartだけで、Pianoの伴奏譜に関しては、編曲者のoriginalityでorchestra風にarrangeされるのが常です。
Piano用に書かれている伴奏譜を、なるべく原曲のimageを損なわないように留意して、しかも『音痩せ』をしないように気をつけてtransposeする・・という事は、結構、編曲の技術的にも、至難の業になるので、『音痩せ』する部分のarrangerは、自分のoriginalityのorchestrationのimageのままにarrangeをする方が、arrangerに取っては、より・・楽だからなのです。
arrangementのVitaliのChaconne以外の例も、同様な課題を含んでいます。
幾つかの名曲では、pipeorganの曲をarrangeした譜例を見受ける事が出来ます。
その例は、PachelbelのOrganのためのChaconneをそのままarrangeをした「Mueller-Hartmann」版では、originalの3声部のimageをそのままに弦楽orchestra(Streich‐Orchestra)にtransposeをしたので、弦楽orchestraなのに、3声部で書かれているという『音痩せ』が起こっています。
または逆に、VeraciniのViolinのsoloの曲(soloとbasso continuoの曲ですが・・)PassacagliaをOrganとstrings-orchestraにarrangeのLupiは、近現代風にarrangeをしようとしたのか、曲のarrangementがeccentricになってしまって、所謂、単なるmiss・printか、それともarrangerの意図なのか・・の判断が付き兼ねるpassageが多くて、また原曲とのimageとも掛け離れてしまったので、結局、発表会では使用する事が出来ず、やむ無く私がoriginalのOrganのpartからarrangeを試みて、発表会や八千代のKoncertに臨みました。
その点、VitaliのChaconneのGuido Guerrini版や、Corelli=Geminianiの版は、結構まともなarrangeだったので、私が手を入れる必要は、全く無かったのですが、David版のimageとはimageが掛け離れてしまっていたので、ついつい、「David版ならば、こうなる」・・、という事で、今回は敢えてDavidのPianoの伴奏譜の骨格を基本的に、残すように努めて、それに『音痩せ』をしないように、他のpartで補填補充する・・というarrangeをして見ました。
「何故に、そんな面倒くさい事を・・??」と思われるかも知れませんが、Charlier版を学習した後で、Guido Guerrini版のorchestra-versionの版を演奏する事は、Variationの順が違ったり、shortcutされていたり・・と、暗譜が混乱してしまい、何かと演奏上・指導上、問題が多くて、不便なのですよ。でも、それも含めての暗譜のmethodeなので、今までの生徒達で、暗譜に付いて文句を言った生徒は一人もいませんがね??それは、教室での演奏では、色々な版や、違ったinterpretationで演奏をさせているので、慣れているからですが、そういった教育は一般的ではありません。pro仕様のversionだからです。
という事で、折角、originalのDavid版の曲をそのままにarrangeをしたので、是非、演奏して見たいのだけど、そういったchanceは、オケが出来るだけの人数がいないので、子供達がまた入会して来るまでは、暫らくは無いのかな??
美音ちゃんが今回初めてDavid版のChaconneに挑戦します。それで上手に演奏出来たとしても、orchestraでChaconneを演奏出来る大学生の人達が、来年度からは、そろそろ大学を卒業してしまうので、オケに来れなくなってしまうので、memberが足りないのですよ。
今の小学生達には未だChaconneは無理だしね・・??
という事で、finaleに楽譜を入力して、finaleに付随しているserviceの音源で再生して見たのだけど、勿論、実際の弦楽orchestraで演奏をすると、パソコンの音源とは全くの別のimageに変わってしまいます。
「実際の弦の音がどのように響くのか?」は生オケで演奏してみないと分かりません。
音符を見ながらその音のimageを想像するだけなのですよ。





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2021年4月19日『corelliのla foliaのthemaの冒頭の演奏』
corelliのfoliaの小節の冒頭の弾き方は色々な演奏家に寄って異なった弾き方をしている。
往年の名violinist達は非常にゆっくりとしたtempoで、荘重にベタで4分音符として演奏している。
しかし、近現代のperiod奏法(所謂、baroque-violin)の演奏家達は少し早めで、しかも小節の冒頭をskipさせて演奏する人達も多い。
実際の楽譜なのだが、originalの楽譜(facsimile版)では4分音符になっているのだが、一般的な底本となっているDavid版では8分音符になっている。
日本版の鈴木教則本や篠崎の教則本では、不思議な事に4分音符の楽譜になっているのだよな。(「何故に不思議か??」というと、David版からの難しいVariationを省いた簡単versionが日本版のDavid版のハズなのだから、もし、そうならば、冒頭のthemaは8分音符のskipで書かれているハズなのだから・・だ。)

originalのfacsimileの楽譜が4分音符になっているのだが、originalの楽譜を見て演奏しているであろう、periodの演奏家達は少し早めのtempoで、1拍目をあたかも8分音符のようにskip気味に演奏するのだが、一般の演奏家達は、David版の底本を使用しているのにも関わらず、themaは、ゆっくり目に荘重なtempoで、冒頭の音符は4歩音符で、たっぷりと演奏する。


こういった矛盾点になんの疑問も感じていないのが一般的な演奏家達なのだろうか??
periodの奏者が4分音符を8分音符のskipとして弾いて、現代のviolinの演奏家達がFerdinand Davidが8分音符のskipで書いたthemaを4分音符のsostenutoで演奏するという、この矛盾に満ちた演奏の問題は、舞曲を演奏する時に、常に引き起こされる問題で、舞曲(例えばChopinのMazurkaやPolonaiseのような独特のrhythmを持った舞曲を演奏する場合にも良く問題視される楽譜上の書かれたrhythmと演奏上の舞曲としてのrhythmの差である。
つまり、近現代の名演奏家達の演奏では、themaは8分音符のskipで書かれていたとしても、滔々と朗々とmelodicに演奏するのが常であり、periodの演奏家達はfoliaを舞曲として演奏するからである。Chaconneやfoliaやsarabande等の舞曲は、2拍目に軸を持つstepの舞曲であるので、1拍目は動きのskipになるからである。
foliaにしても、Chaconneにしても、soloの舞曲である技巧的な早いstepと貴族達が男女の群舞で踊るゆっくりとした社交的なdanceの2種類がある。こういった舞曲はChoreographieが残っているし、baroque-danceとしてEuropaの社会ではtraditionalなので、そのrhythmやtempoもれっきとして現存している。
唯、舞曲としてのfoliaとして捉えるか、曲のthemaとしてfoliaのtempoやrhythmを無視して演奏するかの違いである。


Davidは、その舞曲としてのfoliaの演奏法を楽譜に書き込んだに過ぎないのだよ。(originalは4分音符で書かれていたとしても、当然、foliaならば、8分音符のskipとして演奏されるからなのだよ。)
David版にしても、original版にしても、foliaを舞曲として演奏する場合には、8分音符のskipが時代考証的には正しい。
4分音符でたっぷりと朗々と歌い上げるのは、時代考証とは無関係なロマン派的な演奏のstyleである。
音楽の奏法には、「どちらが正しい」という事はないのだけど、時代考証的には・・正統はあるのだよな??どちらを弾こうと構わないのだけどね??




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2021年7月20日『David版のLa Foliaの譜面作成』 ·


瑞希ちゃんの曲であるDavid版のcorelliのLa FoliaのKarl Friedrich Hermann のviola-versionの楽譜なのだが、出版されているHermann の楽譜のPiano伴奏版は、なんと、originalのviolinのpart用のPiano-scoreのままなのだ。
つまり、Hermann のviola-versionの楽譜は「part譜」だけなのだ。
私がlessonをする場合には、lessonでは基本的にPianoの伴奏者と一緒にlessonをする事が多い。
伴奏者が旣に決まっている場合には伴奏者と一緒にlessonをするし、・・いない場合には、私が伴奏をしながらlessonをするのだが、この1,2年はコロナのせいで、対面lessonが出来ないので、已むなく、Teleworkのlessonになってしまったのだが、Teleworkのlessonでは、netのせいで、非常に効率が悪く、lessonにならないので、早く対面lessonが出来る日を待っている現状である。
まあ、それは兎も角として、私がlessonをする場合には、常に、Pianoの伴奏譜を見ながら、lessonをしているので、今回のDavid版のla foliaのviola-versionのように、瑞希ちゃんの演奏しているviolaの譜面と、伴奏譜に書かれているviolinの譜面が色々な所で食い違っていて、lessonにならなくって、困ってしまった。
何故、viola用の譜面なのに、violaのpartがviolinのままで、書かれている版が出版されているのか・・・??
何故、そういった譜面を出版社が出版しているのか??・・という理由は難しい話では無い。
それは、出版社と楽譜を売るためには、自明の理であって、violaの先生は生徒に指導をする時には、part譜しか見ないでlessonをするし、Pianoで伴奏をする人達はviolin譜は読めても、viola譜は読めないからなのだ。
だから、viola用に編曲された楽譜でも、soloのpartはviolin用の譜面で書かれているのだよ。(この曲の場合には、原曲のDavid版のviolinの譜面のままで、violaのpartだけが追加されているのだよ?)
それは、viola譜が読めて、しかも、Pianoの伴奏が出来る人達が皆無だからなのだよ。
つまり、私が頑張って、Pianoの伴奏譜にviolaのpartが書かれている伴奏譜を作っても、それで伴奏出来る人はいないのだよな??
それは何もPianoの人達に限った話では無いのだ。
一般的な音大生達で、violin専科の人達の中で、violaの譜面が、普通に読める人達は、結構少ない。
楽器自体はviolinが巨大になっただけなので、violinの人達はviolaも弾けそうなものだが、先ず致命的なのはviola記号の譜読みなのだ。
教室ではオケに参加しているviolinの子供達は全員持ち替えのviolaを弾かせているのだがね??
大学のorchestra等でviolaを半ば強制的にさせられても、violaの譜面が読めないので、positionを変える事で、そのまま、violin譜として読む・・という器用な事をしている人達をよく見受ける。
そちらの方が私達に取ってはよっぽど難しいと思うのだけどね??
一般的な社会通念では、viola奏者は、violinの技術力が足りないので、已むなくviolaを選んだ・・とされるのが日本の社会通念なのだよ。だから、violaの奏者は指が回らない・・とされていて、violinの演奏家でviola譜が読める人達は現場では特別に重宝される。持ち替えが出来る人は貴重だからなのだよ。
日本人のviola奏者は、violinも弾けてviolaも弾ける人達なので、最初から「violaの音が好きだから・・」という人は基本的にいない。
「何故、いないのか??」という理由は、日本人のviola奏者で、violaの特有の音を出せる人はいないのだよ。
あくまでも、5弦のviolaのように、violinの低い音が出せる楽器として捉えているのだよな??アハッ!
それはそうと、瑞希ちゃんのlevelupのために、Niveauを上げる目的で、伴奏譜を日曜日から月曜日に掛けて、2日掛りで書き上げた。
それは大変な時間の掛かる面倒くさい作業で、大変な努力を伴うものなのだが、作り上げる過程で、瑞希ちゃんにlessonで変更した箇所を確認したのだが、チョッと・・、というか大きなShockを受けてしまった。
まあ、確認をしなくても、自分で指導した事なので、覚えてはいるのだけどね??
今の所は、一度言った事は、子供達よりも覚えているのだからね??
そういった意味では、未だ老人性痴呆は大丈夫らしいのだけどね??
いつまでも、鬱っていても仕方がないので、諦めて、取り敢えず、Ferdinand David版のviola用のfinaleの入力を終わらせて、月曜日のお昼からは、Vivaldiのviolin-concertoのcetraのⅡ楽章のornament譜のtemplateを作った。
同時に模範演奏のvideoもdown loadして、編集をした。
欝でも、結構頑張っているよな??
我ながら・・??

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2022年4月10日Corelli=David版のorchestraへのtransposeのお話 ·

発表会が終わってから、暫しの、安静の日々で、videoの編集作業と、CorelliのLa FoliaのArrangeを、パソコンのFinaleで始めました。
CorelliのLa Foliaは、教室での演奏では、通常のPiano伴奏のversionの他に、orchestraの伴奏のversionでも演奏します。
そのorchestraへのarrangementは、GeminianiがConcerto Grosso風にarrangementをしたversionで、演奏をしています。
このPiano伴奏の一般的なversionや、Corelli=Geminianiのversionも、色々と問題があって、詳しい説明が必要なのです。
先ず、第一に、CorelliのPiano伴奏のversionなのですが、一般的に流布している(鈴木の教則本にも載っているversionなのですが)Ferdinand Davidのarrangeによるfassungとされているのですが、実際には、Davidの編曲から、簡単なpassageだけを抜粋した簡易versionに過ぎません。originalのDavidの編曲は、長大で、技巧的にも(同じDavidの手によるarrangeのVitaliのChaconneと勝るとも劣らない技術的にも)難易度の高い曲なのです。
ですが、You Tube等では、このoriginalのDavid版で演奏をしている演奏家は非常に数少ないのです。
次にorchestraのversionなのですが、Corelliとほぼ同時代のGeminianiがConcerto Grossoのstyleにarrangeしたものが一般的に知られています。
同時代の作曲家の手による編曲なので、擬古典の作品ではなくて、唯のtransposeです。
baroque様式、そのままで編曲されています。
この版がGuido Guerrini版として出版されている場合もあるのですが、(Guido Guerrini版のscoreを使用した時に、そのまま、Guido Guerrini版としてYou Tube等では掲載していますが)Corelli=Geminiani版との違いが、何処を見ても、見受けられないので、今現在では、Guido Guerrini版の表示を外すようにしています。
今回は、新たに、瑞希ちゃんのViola-soloのために、Violaのsoloのための、La Foliaを作成する事にしました。
一番、簡単なarrangementとしては、Corelli=Geminianiのorchestraに対して、soloのpartだけをViolaにtransposeすれば良いのですが、瑞希ちゃんが今回学習しているのは、Ferdinand Davidのoriginalのfoliaなので、baroque様式ではなく、ロマン派の様式なので、それは出来ません。
CorelliのLa Foliaのorchestra-versionは、Corelliと殆ど同世代のGeminianiが、Concerto Grossoのstyleでarrangeをしているbaroque様式のarrangementなのですが、今回の私のarrangeでは、Davidが自分の高弟達の技術習得のための、virtuositätの練習のために、作曲された完全なロマン派のstyleに依るarrangementなので、baroqueの様式というよりは、ロマン派の作品としての擬古典の作品となってしまいます。(特に、orchestrationをすると、baroque様式からは逸脱してしまうようです。)
と言う事なので、La Foliaのviolaのversionを、新たに作成するに応って、全く新しく、Ferdinand Davidのoriginalのversion(つまり、Piano伴奏の楽譜)からの、arrangementを始めました。
まあ、頑張って、来週のオケ練習の開始迄には、arrangeを終わらせる予定です。曲が15分近く掛かる長い曲なので、やっても、やっても、中々、終わらないのですよ。
今日は土曜日ですが、古典楽器センターに車で、Cembaloを取りに行きました。
時間が余ったので、一度ハイツに戻ってから、仮眠をしようと思ったのですが、疲れてしまって、椅子で眠ってしまいました。
一瞬の仮眠で、食事の時間になってしまったので、椎名町にまた、bikeで出掛けたのですが、その次いでに、月曜日の光が丘病院行きに備えて、bikeのガソリンを入れて椎名町に移動しました。
明日の日曜日には、車で千葉の新教室に行って、Cembaloを運ぶ次いでに、反省会に参加をする予定です。
USBの無線adapterを子供の悪戯で取られてしまって、使用不能になってしまった新品のMicrosoftの Ergonomic Keyboard をハイツに持ち帰る予定もあります。
Keyboard自体はUSB-adapterが無いと、Keyboardとしては使用不能なので、今、ハイツで使っている Ergonomic Keyboard の部分品のpartsとして使います。
月曜日は、光が丘病院の糖尿病外来に行って、薬を貰って来ます。
1日飛んで、水曜日は歯医者で歯のメンテです。(治療ではありませんよ❢メンテですよ。)


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