Matthias Georg Monn  celloconcerto g moll


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音楽史年表についてのお話

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2015年4月29日芦塚音楽研究所千葉教室の春の発表会の風景です。cellosoloは中島緋依中学1年です。

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Matthias Georg Monnのcelloconcerto g mollは、教室の常設曲で、celloを勉強する生徒達の必須教材です。

勿論、この曲は、有名私立音楽大学の受験の課題曲よりも、少し高い水準の曲になります。

Matthias Georg Monnの作風は、Boccheriniと同様に、時代錯誤(時代を超越した・・)と言えるような、不思議な作曲家です。

Monnは1717年生まれで、1750年に33歳の若さで夭折した作曲家なのですが、1750年という年は、J.S.Bachが死んだ年でもあり、その5年前の45年にはVivaldiが死んでいるので、殆どbaroqueの大作曲家と同じ世代の作曲家でもあるのです。

celloconcertoのT、V楽章も、Vivaldiやcorelli等のbaroqueの作曲家達が得意とした交唱に依る作曲法や通奏低音の書法は全くそのままなのだが、そのmelodieや、転調法は、時代を先取りして、まるであたかも古典派のそれである。

Monnと同じ年に産まれたStamitzパパや、15年後に生まれるJohann MichaelやFranz Josefh の兄弟のHaydnは偉大な古典派を完成させた作曲家なので、Monnがbaroqueの様式と、古典派の技法を併せ持っている事は、当たり前かもしれないのではあるのだが・・・。

参考までに、私の作曲家の年表を一部だけ載せておきます。
資料が膨大なので、baroque時代の中期だけでも、掲載するのは、不可能なので・・。


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1692年のTartiniからMonnの誕生の1717年まで、上記の作曲家達の死亡の日時が続きますが、目新しい作曲家の誕生はないので、割愛して、次はMonnの1717年からです。Monnを除いたら、もう古典派の作曲家達の名前が列挙されます。


次は1745年のCarl StamitzからMozart迄の年譜です。この上の段ではTomaso Vitaliを始めとして、多くのbaroqueの作曲家達の晩年の創作期になるのですが、残念ながら、homepageには、Excel は巨大過ぎて持って来る事が出来ません。



正しい作曲家達の時代認識には音楽史の年表は欠かせないのですが、学校教材の10人、20人ぐらいをピックアップした、音楽の教科書に載っているような年表はあっても、詳しい音楽史年表は出版されていません。
ニーズが少ないという事と、Pianoやviolin等、それぞれのgenreで、登場する作曲家が変わってしまうからです。
violinの人達にとっては、神様のような、WieniawskiやKreislerですら、Pianoの人達では、全く知らない存在なのですからね。勿論、その逆の立場や、管楽器の場合は、その一つ一つで作曲家も変わってしまうからです。
という事で、教室でも、violinやcello、弦楽orchestraに限っての年表作成です。



同じ時代にbaroqueと古典派の作曲家達が混在するのは、音楽史としての必然なのですが、そういった作曲家の解説書や音楽史の本の類いは、そこに触れないで、逃げてしまうのが、一般的です。
という事で、歴代の音楽を学ぶ皆さん達は、それぞれの時代で、音楽史年表を作りました。

夏休みの間の作品として、発表会場に掲示しました。
製作当時は、中学生と、小学生が一人ですが、今は、もう皆さん、お母さん達です。

昨日のオケ練習で、「参考までに・・?」と、この年表を見せられた、小さな生徒さんが、
「この人、この前のオバさん??」とか言っていました。
まぁ、実際、お母さん達だから、しかたないのかな??

ん???、未だ、大学生の人も居たりして・・・・??

私にとっては、音楽年表は論文を書く上での必需品であるのですが、この資料が膨大なものになってしまうのは、致し方のない事なので、基本的にorchestraを中心とした作曲家の年表と、Cembalo⇒forte-piano⇒Pianoに至るPiano音楽史年表、violinとcello、Kontrabass等の弦楽器を中心とした年表の3つを同時進行的に作成しています。
こういう作業を私はendless作業と呼んでいます。
学校の勉強とは違うので、timelimitはありません。
オケ練習で、新しい作曲家が出て来る度に、その年表に書き加えます。
ただ、残念な事に、この資料はprint outが出来ません。縦横に膨大なPage数が必要だからです。
homepageにも、そのPageの極一部しかup出来ないのです。




https://www.youtube.com/watch?v=1gTIXTJ7uLg


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Lebenslauf(生涯)

(古典派とWien古典派)
マティアス・ゲオルク・モン(Matthias Georg Monn) 1717年4月9日 Wien - 1750年10月3日Wien)は、オーストリアの作曲家、オルガニスト、音楽教師。

先程も述べたように、Monnは、baroque時代から古典派時代の様式への推移期の、折中した作風の特徴を持っている。

一般の論文には、通常、そのように書かれているのだが、事はそれ程単純ではない。

上記のbaroqueの中期の作曲家達の殆どが、baroque後期にもそのまま活躍を続けているし、古典派の巨匠であるMatthias Georg Monnは、Wien古典派の前期の作曲家として、ヴァーゲンザイルやレオポルト・モーツァルト(Mozartのお父さん)といった同時代人とともに、樂派の中心的な作曲家として活動をしていたからである。
極端に話をもっと複雑にするのなら、rococoの作曲家達のgalanterie様式ととも、時代を同じにするのであるよ。

また、これ以上、話を複雑にして行くならば、「Wien古典派」としての音楽史的な区分は、本来私達が知っている「古典派」の区分とは、かなり違って来る。

baroqueの後期という時代区分は、そういった曖昧模糊とした、それぞれの学者の主義主張によって、異なった見方の出来る込み入った時代であった・・ということなのだ。

baroque様式の時代区分はかなりハッキリとしているのに対して、「Wien古典派」の分類や「古典派」の分類は、全く曖昧模糊として、不確実なのだ。

それぞれの時代区分は、開始時期も、終わりの時期も、主張する人によって、その年代や作曲家達が、全く違うのですよ。

或る本によると、古典派の時代は1730年から1810年となっている。
古典派の時代がもっとも盛んであった盛期古典派として1775年から1825年とする人もいる。

最盛期ということだから、1825年は有り得るのかもしれないが、それでは1775年とはどういう意味なのだろうか?

1775年には、古典派の大作曲家達の動きはあまり何も特筆すべき事はないのだが・・・??

偉大なbaroqueの作曲家J.S.Bachの死の1750年から古典派が始まってBeethovenの死(1827年)を持って、古典派の終わりとする説があるのだが、古典派の時代区分としては、私もこの説を支持する。

しかし、問題の「Wien古典派」に関しては、作曲家の分類が全く違うのだよ。
そこが問題なのだよ。

先ず、baroque時代の後期である、1700年から1750年は確かにbaroque時代の巨匠達、所謂、BachやHandelやVivaldiやcorelliは当然であるのだが、中期の巨匠であるbiber等も未だ、、存命であって、活躍をしていた時代でもあるのだ。

音楽史に限らず、歴史を区分するのは難しい。

しかし、確かに、その時代には、次の世代の作曲家達、1717年生まれのMatthias Georg Monnや、Johann Wenzel Stamitzや、1732年には、偉大なFranz Josefh Haydnも産まれている。
1743年にはBoccherini、1745年には、我らが前期古典派の巨匠であるCarl Stamitzも産まれている。(古典派を代表する最大の巨匠であるFranz Josefh Haydnは、Carl Stamitzよりも、前に生まれているのだよ。)

区分を「Wien古典派」と分類すると、ロマン派の前期の巨匠とされるCarl Maria Friedrich Ernst von Weberや、Franz Peter Schubertも入ってくるのだが、それでも、Weberは1826年、Schubertは、Beethovenの死んだ翌年の1828年に死んでいるので、古典派の区切りが、Beethovenの1827年の区切りだとしても、Wien古典派の区切りも、Schubertの死んだ年の1828年で良いのではないのだろうか??・・と思うのだが、・・・・学者の考えている事は、よく分からん!???


baroque時代から、古典派への推移は、そんなに単純なものではない。
つまり、前期古典派の他に、rococo様式の時代区分もあるからなのだ。

そうするとCembalo音楽のgalanterie様式の作曲家達、1668年生まれのCouperinや1683年生まれのRameau、厳格なbaroque様式の作曲家である1685年生まれのJ.S.BachやHandelと同じ年の生まれのDomenico Scarlatti(Alessandro ScarlattiはDomenicoの父親でbaroque中期の作曲家)等がいて、同じbaroqueの中期から後期への時代としても、その様式と作曲様式が甚だしく異なってしまうので、[一把一絡げ(蛇足)]で、baroque時代同時代の作曲家として取り扱うのは非常に困るのだよ。

蛇足:「
一把一絡げ」という言葉は、近年、「十把一絡げでなければ、意味が通らない!」と、訂正される事が多いようなのだが、それは屁理屈であるぞよ!!
「一把」とは、ひと束という意味ではなく、ひと抱えほどの薪や草を束ねたものを意味し、(どいつもこいつも、さして役に立たない。みんなまとめて担げるほど軽い)という意味なので、一把一絡げでも文法の間違いではないのですよ。
「一把」の薪や草が「十把」もあったら、それこそ「一絡げ」は出来ないと思うよ!! アハッ!(青い文字の所は、豊後林を参考にしました。)


この楽派の作曲家たちに多大の影響を与えたのは、Fux(Johann Joseph Fux, 1660年 - 1741年2月14日)です。
1725年(65歳) おそらく最もよく知られた著書『パルナッソス(芸術の山)への階梯(階段)』(Gradus ad Parnassum, 「古典対位法」とも呼ばれる)を発表しました。
ラテン語で書かれたこの対位法の教科書はJ.S.バッハの蔵書にもあり、ベートーヴェンもこれで勉強したと伝えられます。

J.S.BachのOp.1とされる 最愛の兄の旅立ちに寄せるカプリッチョ 変 ロ長調 BWV992は、このFuxのbaroque中期の様式の作風の影響を、最も色濃く受けた作品です。

BachやBeethovenだけではなく、Monnも、御多分に漏れずFuxの教科書で、古典対位法の原理を学んだが、同時に前古典派の様式であるsimpleではあるが優雅で軽妙で官能的な雰囲気でもあるrococoの様式でもあるgalanterie様式への挑戦もしていた。

寄り道:
galanterie様式の事を、C.P.E.Bachは、感情表出主義とか呼んでいたが、このgalanterieという言葉は、甚だ、意味深長な言葉であって、当時の貴族社会のImmoralisticな社会的な状況を指し示す言葉であって、中世からの騎士道の精神の歪みが、そのまま貴族社会に受け継がれて、頽廃的なimmoralな貴族社会の風習を引き起こして来るのだが、勿論、音楽の場合には、galanterie様式としての、音楽の表現様式を説明する定義の言葉なので、社会的な意味であるimmoralというnuanceはなく(もし、あったとしたら、どうなるのだろう??・・・艶歌とでも、なるのかな??そこはそこで、面白い!)、寧ろ、言葉とは裏腹に、優美であり、繊細で軽妙な、人間的なrococo風の音楽表現を意味するようだ。

しかし、baroqueとrococoは、同じ時代を生きた様式であり、それぞれの趣味を表す言葉に過ぎない。
つまり、その違いを過剰に探す事は、無意味といえよう。

壮大なもの、或いは男性的なものをbaroqueと定義し、こじんまりとして、優美繊細で、女性的であるものをrococoとした、・・・というぐらいの、大雑把な違いしかないのだから。

また、baroqueという言葉にしても、rococoという意味にしても、それぞれの言葉の定義が、お互いへの蔑称として使われていた・・という事を忘れてはいけない。
決して、今日、我々が使っているように、その様式を称える言葉として、当時の人達が使っていたわけではないのだから・・・。


Monnの話に戻って、 
Wikipediaの記述によると、Monnの最大の功績は、それまでの単一主題、所謂、ritornello形式からsonate形式への移行を果たして、Johann Michael やFranz Josefhの Haydn兄弟によって、sonate形式の完成を促した・・・と、なっているのだが、この曲に関して言えば、第二主題の出現とか言うのは、無理であって、sonate形式に移行する推移期の片鱗は見えては来ない。
教室としては、生徒の教材としての曲を探して、そのついでに作曲家のLebenslaufや作品の研究をしているので、目下、Monnの他の作品にまで、研究の幅を広げる事は出来ない。
新曲が増える度に、作曲家も増えて、調べる事も大きくなっていくのだからね。
それに、音楽史で詳しく調べられている作曲家は、極限られた大の付く作曲家に過ぎない。
Monnぐらいの作曲家になると、Lebenslaufも資料としては殆どないのだよ。
70万円のグローブの音楽辞典をしても、その程度の記述しかないのだから・・・・。


さらに、彼らは第二主題や展開部などの拡大によって、ソナタ形式を一新したのである。
後に、ミヒャエルとヨーゼフのハイドン兄弟が、これらの概念を頂点へ到達させることとなる。
モンはウィーン前古典派に属していて、彼が交響曲に第二主題を導入するのに成功したことは、50年後に興るウィーン古典派において重要な条件となった。

この話の前半は、問題はないのだが、後半の「50年後に興るウィーン古典派云々」はすこぶる問題である。
つまり、年表に当て嵌めて考察すると、年代、時代が噛み合わないのだよ。

これは、歴史の年表と、比較対照しながらの作業で、めんどくさいので、時間が出来たらやる事にして、保留にしておく。

次のLebenslaufは、Wikipediaそのままである。


彼のオルガニストとしての地位のみが知られており、最初はウィーン近郊のクロスターノイブルクでオルガニストを務めていた。
その後、ニーダーエスターライヒ州のメルクや、ウィーン市4区にあるカールス教会などでも同様の地位に任命されていた。
モンは33歳の若さで他界している。
マティアス・ゲオルク・モンの弟のヨハン・クリストフ・モン(1726年 - 1782年)も作曲家であり、彼の作品がマティアス・ゲオルクの作品と混同されることがある。

Matthias Monns の全作品には主に 16 の交響曲、四重奏曲、ソナタ、ヴァイオリンとピアノのための作品が含まれます。彼はウィーン古典派以前の最高の有名な代表者です。

マティアス・ゲオルク・モンの作品としては、16曲の交響曲、四重奏曲、ソナタ、ミサ曲およびヴァイオリンや鍵盤楽器のための音楽などがある。

チェロ協奏曲ト短調は、ジャクリーヌ・デュ・プレなどにより録音されている。
(デュ・プレフアンなら、興味はあるのかもしれないが、baroqueと古典派の端境期の作曲家の作品として、真摯に、その演奏を聞きたいのなら、デュ・プレは常に違う!!
一昔前の、音楽を情緒的感情的に真摯に表現する事が、音楽演奏の全てであった時代と、時代様式を守って、忠実に端正に、その当時の音楽を再現しながら演奏する事、(所謂、period奏法としてではなく、現代の楽器を使用して、現代の奏法で演奏したとしても・・であるが)は基本的に、水準が違うのだよ。)

アルノルト・シェーンベルクがこの曲の校訂(通奏低音のリアライゼーション
注:)を行い、伴奏オーケストラをピアノに置き換えた編曲版を残している。
教室で使用している楽譜は、別の版(Eelenburg版)なので、basso continuoaussetzung von (校訂と通奏低音のRealisation)は Oliver Nagyによっている。という事で、CembaloのpartのRealisationは、Schonbergではない。 それに、今現在はSchonbergの版は絶版扱いで、出版社が未だ不明であるので、閲覧出来ない。

モンのチェンバロ協奏曲ニ長調も、シェーンベルクによってチェロ協奏曲に編曲され、パブロ・カザルスへ献呈された[2](ただしカザルスは演奏しなかった)。
前述したト短調のチェロ協奏曲の場合と異なり、シェーンベルクは、こちらのニ長調の協奏曲には自由な編曲を施している。
モン/シェーンベルクのチェロ協奏曲ニ長調は、ヨーヨー・マやハインリヒ・シフなどにより録音されている。
(Wikipediaでは、色々な人が同じ作品の解説をするので、同じ事の繰り返しが書いてある事が多いので、この文章も、二つの記述を一つに纏めたものであります。)

作品一覧[編集]
交響曲ト長調 Symphony in G major
交響曲変ロ長調 Symphony in B major
交響曲ヘ長調 Symphony in F major
四重奏曲変ロ長調 Quartet in B major
チェロ協奏曲ト短調 Cello concerto in G minor (シェーンベルクによるピアノ伴奏編曲版がある)
チェンバロ協奏曲ニ長調 Harpsichord concerto in D major (シェーンベルクによってチェロ協奏曲ニ長調へと編曲された)
チェンバロ協奏曲ト短調 Harpsichord concerto in G minor(チェロ協奏曲ト短調と同曲)
ソナタ ト短調 Sonata in G minor

 「Wikipediaより抜粋
加筆訂正中

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T楽章

この曲は、様式的には、baroqueのtriosonateのような、1stviolinと2ndviolinが交唱をする所謂、Vivaldiやcorelliのconcertoの様式をそのまま踏襲しています。

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U楽章
不思議な事に、このU楽章に関しては、教室では、未だ誰も演奏していません。
その理由は、そのまま演奏するとしては、余りにも単調な曲だからです。
芦塚先生も、その話を聞いて、直ぐにYou Tubeで色々な演奏家達の演奏を聞いたのですが、納得の行く演奏はなかった・・・というよりも、演奏もT楽章に比べて、V楽章は極めて少ないし、U楽章に至っては、殆ど演奏している人が皆無に近い状態で比較検討の出来る範囲ではなかったからです。
このつまらないmelodieを如何に料理しようか??と、暗中模索がなされている状態で、お話にならない・・と、呆れていました。
芦塚先生によると、このconcerto自体、未だbaroqueを引きずっている曲なので、U楽章は、ornament奏法の課題であるのに、Improvisation(即興)を入れて、演奏している演奏家は、皆無であって、それどころか、ornament(装飾)を入れて、galantestyleで演奏している人すらいなかったので、呆れ果てていました。
「この曲はbaroqueの曲だという事を忘れているのでは???」と、怒っていました。

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V楽章

この曲は、あたかもfugaのように、soprano(1stviolin)主調(dux)g moll から始まり、2ndviolinが応答(comes)の属調のd mollで答え、更に、「violaとcelloとKontrabassがunison」で(1声部として)(dux)で、入り部を形成します。

しかし、このfugaのような「入り部」は、最初の一回で、提示されると、そのfugaのthemaが、melodieのthema(旋律)としては使用されるのですが、fugaの「入り」としては、99小節目でもう一回繰り返されるだけで、「入」の断片は見せるのですが、fugaの入りとしては、その2回以外にはfugaの入りとして使用される事はありません。

そこでは、Bach等の、厳格な迄にtheoryに従った作曲法ではなく、古典派の自由な作曲法が見受けられるのです。
そういった所に、Monnの折中的な、推移期のstyleが見受けられます。


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