ニートの話

人生の目的が見出せない若者達

(テレビを見ての感想)

 

テレビを見ていたら、色々な世代やジャンルの人達が集まって、有識者と一緒に、「若者のニートやホームレスの問題」を討論していた。

 

若者ホームレスやニートの経験者の主張は、「一旦、仕事をドロップアウトすると、二度と正業には就けなくなる。そこから、永続的なホームレスの生活が始まる。」と言う主張であった。

 

それに対して経営サイドの人達の反論は、⇒「ニートやホームレスの人達は仕事を選んで、嫌な仕事はしようとしない!仕事や仕事をするための技術を覚えようとしない。」ということを主張していた。

 

それに対しての、若者達の更なる反論は、⇒「生きていくことがぎりぎりの環境の中で何を勉強しろというのか?時間やお金さえあるわけでは無いのに・・・?」「正論を言う人がそういった人を追い詰める。」といったような骨子であった。

 

幸せという事について、北海道の朝日山動物園の園長さんの言葉を引用すると、「いまの若者はやりたい事が見つからない、・・・と言うより、やりたい事が無い。」のだそうな!

私自身も、常日頃、生徒達には「幸せとはやりたい事をやれる瞬間である。」と教えている。

自分の夢を持てない社会、やりたい事を見出せない社会は、不健全で不幸せな社会である。

しかし、日本社会の歴史的なバックグラウンドは、儒教的な上からの「お仕着せ」の教育にそのルーツを見い出せる事が多い。

儒教型の教育とは、封建社会の力による中央集権的なピラミッド型の構造を生むためのシステムである。

封建時代の社会にとっては、そういった教育が社会を維持していく上で最良の構造であったからなのだ。

「親の言う通りにしていれば、間違いないのだから!」

しかし、間違いないどころではなく、塾や受験の競争教育は必ずおちこぼれを作る。

なぜなら、儒教的な競争教育とは、「落ちこぼれる」わけではなく、最初から「落ちこぼして」勝ち残ったものだけを選び抜くためのシステムであるからだ。

 

[淘汰の教育]

私達は最上級の酒を作ったりする時には、米も磨きに磨きをかけて50%、40%と磨き抜いていく。

安酒のように80%、90%を残すわけでは無い。そうして出来上がった生酒から、更に上澄みだけを抽出するのである。選び抜き、より厳しく選抜すればするほど、高級な酒が生まれるからだ。

これは学校教育でも然りである。

競争教育とは所詮そういったものである。

時の為政者や企業にとって必要なのは、優秀な人材だけであって、落ちこぼれるような劣等的な人材は搾取される側で、牛馬と代わりないからである。

 

それなのに、不思議な事に親は「自分の子供だけは、絶対に落ちこぼれる事は無い」と信じている。

親が、そういう風に子供を信じれば信じるほど、子供は親のプレッシャーで悩み押し潰される。

それなのに、そういった点を指摘すると、必ず親達は「私の子供は絶対にプレッシャーなどには負けない。」と豪語するのだ。

そしてある日突然、前触れもなく、子供はSNBP(負の転換点)[1]を迎えてしまうのである。

成績がどんなに優秀であったとしても、必ず何時かは落ちこぼれる。ピラミッドの頂点は一人で良いから、その一人にならない限り必ず落ちこぼれるわけである。

 

私がまだ大学の学生であった頃、友人の東大生から「東大には五月病というのがある。」と言う事を聞いた。

小学生から高校まで、ずっと一番で通した優秀な生徒が、東大に入ったとたんに、五千番、とか六千番とか言う成績がついてしまう。東大は地方のそういった一番優秀な生徒達の集まりであるからだ。

今まで、自分ひとりが成績優秀で・・とか思っていたi dentityが根底から覆されてしまうのである。

しかも、東大を一番で卒業したとしても、世界での東大のランクは決して高いものではない。

世界ランクで考えるとハーバードやオックスフォードなどの超有名大学がひしめいている。

日本の東大が、世界ランクで100番以内に入ってくる事は無いのだから。

上を見れば、限がない。

その落ちこぼれ(淘汰)の結果が、挫折を生み、ニートを生みだす。

(ホームページ:教育論文集より 「間違い」の考え方 参照)

http://ashizuka-onken.jp/machigaiwo-iyagaruko.htm

 

[学ぶ事の価値観]

学ぶと言う事の価値観は、勝手の日本がそうであったように、貧困の国、発展途上の国では、生きていく上での原点である。

人々の学ぼうと言う姿勢は、人間の本能の原点である「食べる事、生活をする事、生きて行くこと」から生み出されていく。

それが人間の究極の目的となって、勉強をすること、学ぶことになっていくのである。

私達がまだ若かった昭和30年代、40年代には、人々にとって、まだ「学ぶ」と言う事が、純粋に「生活をする」と言う事に結び付いていたのである。

音楽の勉強ですら、親が子供に、「手に職(技術)を付ける」と言う意味で学ばせることが強かったのだ。

しかし、高度に発展した文明社会では、人間の人生の目的はすでに「食べる事、生活をする事」ではない。

儒教の考え方の基本である、より強い物に従って、自己を保存させる(生存させる)必要さえ、もう既に失われているのである。

そう言った文明社会の中では、「人より上に立とう」或いは、「人を押しのけてでも自分が・・・・」という考え方は、(自分がより楽に生きていこうとすれば、)必要(価値観)が全くないのである。

しかし、逆に貧困の国や発展途上の国では、そういった生存のための競争の本能を失うという事、それはすなわち自分自身の死や家族の死を意味するのだ。

 

今の現代の日本の社会では、そういった新、旧の世代が同居すると言う極めて珍しい時代である。

私達のような、旧世代に属する世代、学ぶ事や働く事が生活をする事であり、生き抜くことであり、家族を養う事でもあった古い世代を今も生きる私達と同じ年齢の団塊の世代の人々と、新世代の若者たち・・・・飽食の時代などによって新しく生み出された・・・学ぶ事、働く事に何の意味も見い出せない若い世代との、・・・人生に対しての意識の致命的なギャップが出来てしまっているのだ。

こういった無気力とも言える若い世代の意識は・・・生きるということ、生存をするということが、何の努力もともなわなくとも可能になった、高度な文明社会に於いてのみ、初めて起こり得た新しいモラルの誕生である。

 

この事は肥満についても同じような現象が見受けられる。

肥満は人類の15万年の歴史の中で、現代社会で、しかも先進国でのみ、初めて起こり得た。(支配階級、特権階級のみと言うのであったとしたら、ギリシャ時代やもっと古い時代からあったのだが。)

(人類誕生からの15万年を1年に例えるならば、それが先進国だけに過ぎないとしても、飽食の時代と言うのは12月31日の夕方の6時ごろからになるそうだ。)

人類の長い進化の歴史の中で、飽食と言う事はありえなかったのである。

そのために、人類のDNAの中には、肥満の間逆である、「飢餓」に対してのありとあらゆる対処方法は書かれているのであるが、肥満に対しての対応はDNAの中には全く書かれていないのである。

一見、「ニートのお話」とは無関係と思われる「肥満の話」を、何故ここで持ち出したのか?

それは人類が誕生してから、延々と持ち続けられている人類の夢(目標)の一つは、「死の克服」の夢と同時に、働かなくとも生きて(食べて)行ける社会の実現と言う事であったからなのだ。

少なくとも先進国においては、そう言った夢はある程度は現実の物となった。

それが所謂、飽食の時代の到来である。

しかし、飽食の時代と言うのは、永年の人類の夢であったはずであるが、そこには若者達が生きる意味(目的)を見失うという重大な落とし穴があった。

 

共産主義の崩壊を見てもわかるように、人間が他人のために生きるということは難しい。

人が「家族のために生きる」ということは、「性の本能」と同様に、自己保存の本能によるものである。

しかし、それが、郷土愛、国家愛、果ては人類愛と発展して行くとなると、その本能的な価値観は反比例して薄められて、失われていく。

郷土愛や人類愛を語るには、人類はまだ幼すぎるのだ。

個人のエゴに支配され過ぎているのである。

現代の社会に於いても、貧困の国や、発展途上の国、或いは(宗教戦争のように)生存をかけた戦争をしている国では「ニート」と言う人種は存在しないのである。

自分がその日の糧を得る。家族を養う。

そういった人間本来の目的を見失った若者達にとって何が人生の夢になりえるのであろうか?

・・・・・・黙!黙!黙!黙!黙!黙!・・・・・!

 

[ニートと引き篭もりの違い]

ニートには、一般的に言われている社会的なドロップアウト(社会性の欠落等)によるニートの他に、病的な原因によるニートも存在する。

また、いじめなどから不登校、ニートを通して、更に欝や自律神経失調症や分裂症などの精神障害などに発展するするケースも往々にしてある。そうなると、教育上の問題ではなく、医学上の問題である。

それらのケースは一般で言われる種類の「ニート」とは、区別して考えていかなければならない。

そういった病的なニートは、素人が手を出すべき事ではない。専門家の手助けがいる。

 

欝は直接的にはニートとは関係がないと思われるかもしれない。

しかし、ニートによって引き起こされる欝と欝によって引き起こされるニートがある

欝は一般的には精神的弱さによって引き起こされるとされる。

しかし、心臓病等の肉体的な病気によって惹き起こされる欝もある。

私も冠動脈に血栓が出来始めた頃から、鬱とEDが起こり始めた。

自分では積極的に仕事をしようと思っても、体や心がついてこないのだ。

体が空回りをするそのジレンマは結構辛いものがあった。

病気で死ぬ事がなかったとしても、自殺に追い込まれる人の気持ちがよく分かったね。

その欝の原因が心臓病によるものであると言う事が分かったのは、バイパス手術を受けた後での、医者の説明によってであった。しかし、バイパス手術を受けて余命を延長してもらった後でも、(そこの話は私のホームページでしています。)相変わらず、欝やEDは治ってはいないし、見かけ上は手術前よりも病人らしくなったのかな??

 

話を元に戻して、・・・・・

通常は、私たちが一般にニートと呼んでいるのは、社会からはみ出してしまった若者のことを言っている。

しかし、それでは話が前に進まないので、ここで、ニートと言う言葉を定義しておこう。

ニートという言葉の本来的な定義は、15歳ぐらいから35歳ぐらいまでの仕事につかない若者、もしくは仕事を覚えようとしない若者という意味である。(not in employment, education or trainingの略でNEETである。)

だから、本来は「ニート」という言葉の中には、「引き篭もり」という意味は含まれない。あくまで仕事をしようとしない若者と言う意味なのだから。

しかし、現代では「ニート」と「引き篭もり」という言葉は多分に混同されて使用されている。

しかし一般には、「ニート」である人であっても、自分の持つ全ての社会性を否定して日常の行動をしている人ばかりではないのだ。

自分の最低限の交友関係は保持している場合や、趣味などの自分の好きなことに関しては社会的な行動さえしている場合が間々あるからである。

それに対して「引き篭もり」は、自分の生活している家庭内での最低限の対人関係(母親や兄弟、妻や子供などの家族と)さえ、接触する事を拒んでいる事が多い。

 

[しかし、ニートの定義は既に崩れて・・・]

私はそういった事柄が、今の若い人たちの特徴という風に捉えていたのだが、何気なくテレビを見ていたとき、そういった「引き篭もり」や「ニート」の人達は、もう既に40代、50代ですら当たり前に数多く見られて、「今や(団塊の世代であるはずの)60歳代の世代の人ですら珍しくない」 という話に驚かされ、がく然としてしまった。

テレビで放映していた最長齢の「引き篭もり」の男性はなんと、60代後半でいまだ「引き篭もり」を続けているのである。

それに対して、世間からの救いの手(行政からの救いの手)をひたすら拒んでいるその60代後半のニートの父親は、すでに年老いて80歳を越しているのにも関わらず、まだ自分の子供が引き篭もりなったのは、自分のせいであり、その責任を自分自身で果たさなければならないと主張して、せっせと子供(?)の面倒を見ている。

「自分が育て間違えたのだから、自分が死ぬまでその子供の面倒を見る」・・というその父親の主張は、一見正しいように見える(?)が、どこかが(何かが)・・・おかしい。

 

しかし、社会ではそういう風に、「じぶんが育て間違えたのだから・・」という事を、言うケースも少ない。殆どの親達は、「子供がそういう風に育ったのを、自分達の教育のせいであることを分かろうともしないで、それこそ「子供の資質(素質)が悪いから!」と、子供自身のせいにしている。

そういった新しい社会によって惹き起こされた問題に対して、教育界も政府も、果ては子供の一番の理解者でなければならない親でさえ、その原因が自分達にあることを分かろうともしないで、旧態全とした、儒教的な解決法で対応しようとしている。

「貴方は頑張りさえすれば、ちゃんとできる人なのだから・・・・。」

・・・・その言葉だけは、言っちゃだめなんだがね。

新しい社会の仕組みによって惹き起こされた新しい社会問題、教育問題なので、解決法もそれに対応した新しい方法でなければならないのに、・・・である。

 

本来真摯にそういった問題を取り払わなければならないはずの、テレビ番組を見ていると、教育問題の評論家と紹介された人達が、それら全ての問題を混同して、ごちゃ混ぜにして、討論していた。

テレビ番組だから、「ニート」の本来の意味すら分かっていない教育に関する「ずぶの素人」の、ただマスコミに名前が売れているだけの有名な評論家達を集めて、「ニート」の若者達と討論させて、面白がっているのにしかすぎないのである。

テレビの「売らんかな!」の発想だよね。

 

[ニートと言う言葉の勘違い]

テレビのアナウンサーが「オリンピックで金メダルをとった人」に対して、「あなたの3年間のニートの生活は・・・。」とか言ってインタビューしていた。

本人が自分の事を言うのならばいざ知らず、他人が(アナウンサーが)相手の人(アスリート)に話かけるのに、これだけ失礼な言葉はあるまい。

テレビを見ていたら、その後、別のテレビでもヒマラヤに登った若いアルピニストに対して、やはり「(その訓練中の)ニートの生活は・・」とか言っていた。実に無礼極まる発言である。

 

オリンピックでメダルを目指すために、日夜、努力している人の事を「ニート」とは言わない。

ちゃんとした人生の目的があり、且つ誰かに依存しなくとも生活が成り立っているからである。

ヒマラヤの登頂であっても同様である。会社に就職しないから「ニート」と言うのでは無い。

無目的に人生を送る人の事を「ニート」と言うのである。

もしも、会社に就職しない、生活の安定しない人達の事を「ニート」と呼ぶのならば、職人や画家や陶芸家などやそれこそ音楽家などの芸術家も全員「ニート」になってしまう。

そう言う意味では、修行途中の若者が幾ら生活に窮したとしても、それを「ニート呼ばわり」するのは、失礼な事なのである。

テレビの知識とは、それぐらいの知識であり、あくまでも傍観者(バイスタンダー)としての意識しか持っていない。

 

[引き篭もり]

引き篭もりをする人たちの多くは、引き篭もりをする以前は、一般的には優等生タイプで自信に満ちていた人たちに見うけられる。

そういった人たちが引き篭もった原因は、「当然、自分の考えや仕事が社会で認められ、評価される。」と、思っていたのに、現実とのギャップでその結果引き篭もりになる。社会からすると、「出来ていたとしても、独りよがり的で社会的には認めがたい。」、という評価であるのに対して、本人は「社会が自分を認めるだけの水準に達していなくて、また自分を認めるだけの度量(大きさ)がない。」と感じるのである。自分は認められて当たり前、社会がその実力が無いと感じる若者とのギャップは越える事の難しい大きな溝である。

今の若者達はmissをする事に慣れていない。Missから学ぶ事を知らないのである。また、答えは常に一つであり、現実の社会では色々な複数の回答があることさえ分かろうとはしない。

つまり親が全てに成功する事ばかりを追求して、社会から、或いは他人から「打たれ慣れて」いないのである。

私が提唱する、「失敗の進め」では、人は成功することよりも、失敗することに、より多くのことを学ぶことが出来るのだが、教育熱心な世の親たちは、子供達が失敗し、挫折することを極端におそれる。

「もし失敗して自信をなくしたら・・?」「挫折の癖がついてしまったら・・・?」と、よく相談を受ける。

私がいつも世の親に言っている言葉で、「(そこで失敗したとしても、)努力する事をやめなければ、挫折は無いのです。」というと、それは至極当たり前の言葉であるはずなのに、いつも親たちの驚きを引き起こしてしまう。「あ〜っ!そうか??」

「でもそこで、子供が『どうしても、やめたい!』といったらどうしましょう?」 「だって、あなた達は塾や進学については、今まで散々子供の気持ちを無視して、強引にやってきたのではないですか?何をいまさら、子供が『云々!』といったら、なんて事を言っているのですか?」と反論すると、それこそ、黙り込んでしまいます。

 

つまり、塾や進学のような、学校教育に関するものであれば、子供には選択権はないので、大人である親の考えが全て子供の教育の指針となる。

しかし、幾ら成績を上げても、よい塾に通っても、よい学校に進学したとしても、そこによりよい生活が待っているわけではないのだ。「名門大学を卒業したら、大手の会社に就職できる。」・・・なんて妄想は、もう10年、20年も前に終わってしまっているのだ。今の時代に求められる人材は、もっと自由な発想の出来る人間なのだから。

そういった社会的な現実を大人はちゃんと知っている。テレビを見て、或いは自分が身を持って体験して・・・それをちゃんと知っているはずなのだ。

それなのに自分の子供に対しては・・・・???

そういった親や大人達の無知蒙昧な態度が「ニート」を引き起こす原因ともなっている。

しかも、自分の態度が「ニート」を引き起こす原因である事を絶対に認めようとはしない。

つまり、自分の子供以外には冷静な評価が出来るからである。

しかし、自分の子供の話になったとたんに、180度反対の事を言い出す。

他人に対しての評価は正しく、自分の子供に対してだけ、古い思想にとらわれている。

その原因も同じ、私が先ほど述べた儒教教育の歪みの表れである。

学校や、政府や、親たちまでも、子供達に成績を上げることを要求する。

しかし、成績が上がるということは、必ずしも子供達の知識欲や理解力、判断力、或いは想像力さえも育み、伸ばして行くことには繋がらない。

また親が点数だけで子供を評価しようとするあまりに、子供が出来てもいないのに「親に叱られるから合格にしてくれ。」と頼み込んで土下座して来るに至っては、笑いを通り越して、かわいそうでもある。

競争することでしか、他人と接する事のない子供達は、人の事を思いやる事を学ぶ事もなく、学力や成績でしか、周りの人を評価、判断できなくなる。他人の心を傷つけても、それを知ろうとする事さえない。

感情の育つ事のない、ロボットのような若者たちが、今の日本ではごく当たり前に育って来ている。全く見ず知らずの少女を、「自分を愛してくれないから」と言って、いとも簡単に少女の部屋に押しいって、少女を刺殺してしまう、と言った様な事件が相次いで起こっている。

なんと恐ろしい社会だろうか?

つまり、競争教育のけっかの子供達の思いやりの欠如(思いやり教育の欠如)は、社会にとっての問題云々・・というよりも、むしろ、一般家庭の夫婦間の思いやりの問題(や、ドメスティック・バイオレンスの問題)にも直結しているのだ。日本人の離婚率の高さの問題も、その学校の競争教育の結果といったら、驚かれるであろうか?それとも、「なるほど!」とうなづかれるのかな?一般の人の幸せの概念にも直結しているのですよ。

(ホームページ:教育論文集へ)

 

[ニート 引き篭もり ホームレス 乞食]

繰り返し述べているように、「引き篭もり」と「ニート」は、厳密な意味で違う。

また、仕事をしたくても仕事にありつけない「ホームレス」ともよく混同される。(日本の一般社会では「ホームレス」と「乞食」は混同して理解されている)

 

[ホームレスの話] 

ホームレスと言う言葉は、アメリカの厳しい社会情勢の中から新しく生まれた言葉であり、終身雇用をとっている日本の社会では、存在しえなかった言葉である。

そのために、「ホームレス」と言う定義を知らない一般の日本人は、「乞食」と「ホームレス」を混同して把握している。

「ホームレス」が大きく「ニート」と違うのは、「ホームレス」はそれまでに働いた経験があるし、また働くための技術も持っているということである。「ホームレス」は働きたくとも、働く場所が見つからず、或いは今問題視されている(ワーキング・プワーのように)働いても家に住むだけの経済力を得る事の出来ない人達の事を言う。

それに対して「乞食」は、(仮に働くための技術を身に付けていたとしても、自ら)最初から働こうとしないで、施し(物乞い、現代的にはゴミ捨て場やコンビニなどでゴミを漁るなど)によって生活している人の事を言う。だから今は混同されて使用されている「ホームレス」と言う言葉も、働く意志があれば「ホームレス」と言い、働く意思がなければ、「乞食」と言い換えなければならない。

当たり前のことではあるが、「乞食」は日本の社会でも昔からいた。

しかし、終身雇用の日本の社会では、(アメリカ社会で言う所の、)「ホームレス」はいなかった。

日本社会でも江戸時代や明治時代では「乞食」は比較的に管理のゆるい地方では飢え死にをしていたのかもしれない。江戸の町でも、町は小さなブロックに別れて人々は厳重に政府に管理されていて、いかなる脱落も許さないと言う末梢に至るまでの連帯責任に於ける管理ということが厳しく徹底していた。そこでも、はみだした人達は最終的に罪人として役人の管理下に置かれて、厳しく労働力として牛馬の如く扱われた。

 

本来、「ホームレス」と言うのは、アメリカの厳しい淘汰の社会で、失職をする事によって住まいを失うことを言う。

と言うわけで、昨日まではブルー・カラーで高級マンションに住んでいた家族が、次の日に突然「ホームレス」になってしまう、ということがアメリカ社会では頻繁に起こる。

 

アメリカの極端な競争社会と違って、日本では、職業の好き嫌いや働く場所さえ選り好みしなければ、基本的に「職業にありつけない」ということはあり得ない。

地方都市の中小企業では、雇用する人たちが集まらず、倒産する会社も相次いでいる。今日、日本では、その対策として政府は、外国人の若者たちの受け入れを、余儀なくされている。求人難はそれほど深刻なのである。

それなのに「自分を雇ってくれる会社がない。」という若者の主張は、我々の世代の人間にとっては不思議な話である。[2]

現実的な話で、雇用する側にとっては、若者が集まらないということがそれほど切実なのに、逆に若者たちは、なぜ働く場所が見つからないのだろうか?

雇用する側と雇用される側の何がおかしくなっているのだろうか?

それは雇用する側と、仕事を探している若者達の価値観の違いである。

 

「ホームレス」と言うのは、働かなくても、(住はともかくとして、)衣食に関しては何とかなるという飽食の現代にこそ起こり得る話である。

30歳を越した世代でも、同様に言えることだが、「嫌な事をしてまで働かなくとも、最終的には親に面倒を見てもらえばよい。」という若者の潜在意識が、意識下のどこかにあり、自分が「自らの生活の為に仕事をする。」という意識が希薄になってしまっている事は、今の日本社会の若者達にとっての否めない事実である。(若い女性にとっては、結婚は永久就職と言うイメージなので、最初から論外である。)

 

[人間、幸せすぎても・・]

現代社会においても、世界の80%の国々は、いまだに食糧不足や貧困にあえいでいる。わずか20%の国が豊かな生活を享楽しているのである。そしてその20%の国が世界のエネルギーの80%を消費している。その世界中でも20%に過ぎない幸せな国に、当然、日本が入っているのだ。[3]

今の日本の社会の殆んどの子供達は、その日の生活の糧を得るために働くということはしなくてもよい。親の夢をかなえるために、塾に行き、たとえ学校での勉強にドロップアウトして、「引き篭もり」や「ニート」を始めたとしても、それで生活に窮する事は無い。

人生、しあわせすぎても不幸せなことだ。

人間、満たされすぎると、人生の本来の目的を見失ってしまう。

それは若者にとって最大の不幸せな出来事である。

成績を上げることが人生の目的ではない。人生の目的を得るための手段にしかすぎない。

就職をすること、会社に入ること、それも人生の目的とはなりえない。それは、安定した日常を得るための手段にしかすぎない。では、安定した日常では、何を目的とするのか?そこのところがなければ、真の意味での目的にはなりえない。

 

受験や塾教育によって身に付いてしまった競争意識や、パソコンの発達に伴って起こってきた社会現象とも言えるパソコン依存症に拠るcommunicationの欠如は、友達関係を築けない、社会性の欠如した、人の為に何かをすると言う事ができない、自分勝手な利己主義的な人格を産んできた。

つまり、「仕事をする」と言う価値観が、もし「生活をする」「家族を養う」と言う価値観に繋がらないとしたら・・・、

若者達の価値観が「何もしない方が、楽だ。」という事であって、しかも、飢え死にすることがないとしたら・・・、そこに何のi dentityも持たない若者達が増え続けたとしたら・・・、

日本はいったいどういった社会になるのであろうか?

つまり、こういった(今の日本のような)社会になるのだよ。[4]

 

そういった社会的な問題を、私は30年以上前に指摘して、それが芦塚音楽研究所という音楽教室を作る源点になったのであるが、教室を作ってからも、折に触れて啓発しているにもかかわらず、成績優先、点数主義、競争社会、いやはや何ひとつ変わってはいないのだ。

 

[欝や引き篭もりは伝染する]

一般の社会の中では病気になると基本的には自己責任で病院にいったりリハビリをしたりして、自分の力でなんとか生活を立て直さなければならない。

しかし、家庭内、家族内においては、「引き篭もり」は家族が面倒を見る。

家族が、引き篭もりに対して、自立を要求することは難しいからである。

そういった場合に、面倒を見る側が、対世間的に1番楽な逃げ方は、相手と同じ病気にかかることである。

そうすれば面倒を見るのは自分以外の人間に代わってしまう。お酒を飲むのに、先に酔った方が勝ちという考え方だ。私はそういった例を多く見てきた。殆どの場合には、「引き篭もり」は子供で面倒を見る側が親の場合が多いのだが、その逆の例もある。親が、潜在的な引き篭もりで、社会の活動が苦手なので、子供に自分の代りをさせる。子供は社会的に自立するよりも自宅に引き篭もる方が、気楽なので、学校に通ったり、会社に勤めたり、責任のある仕事から逃げて、(それでも、生活が出来るからなのだが、)子供自身も引き篭もりになってしまう。そして、体調不良や欝を口実に病院通いを始める。病院通いの理由は、「自分は病気だから、引き篭もっても許される。」 という社会に対しての弁解(口実)である。心療内科を除く病院では、対処療法が基本なので、抗欝剤等を処方して終わりである。引き篭もりそのものの原因を取り除くわけではない。そして、最初から親も子供も「治す」という気はないので、その病院通いは5年、10年と子供が社会で働く年齢を過ぎ去るまで続いていく。

その負担(経済的、精神的)は働き手(通常は父親か・・・?)一人に掛かってしまう。

注意深く周りを見ていると、こういった相互依存が引き篭もりに迄 繋がってしまう家庭は決して珍しいものではない。父親と息子、妹と兄・・色々なケースがあるのだが一つ一つ取り上げても無意味であろう。ケース(形態)としては千差万別だからである。しかし、その構造式はすこぶる単純でもある。

しかし、「引き篭もり」や「欝」は、人生の目的を持たない飽食の時代では、働かなくとも生活ができると言う事で、「働き手に負ぶさる」という型で家族(周りの人達)に伝染する。

しかし、一旦飽食の時代が崩壊して、就職の氷河期が来るとそういった図式は成り立たないのであるが、大衆はそれを気づかない。否、気づきたくないのである。つまり、(働かなくても生きて行けるような)楽な人生が続く事は、それ自体がその人達の願望であるからである。

「その人達」と、敢えて言うのは、真逆に私達にとっては、働かない事は、人生を生きていくことを否定される事に繋がるから、願望には成り得ないからである。

 

追記:

家庭教育の過保護であろうと、過干渉の厳しすぎた教育であろうと、いずれにしても引きこもりは親の過保護が生み出すものである。

多くの引きこもりの子供達(30代、40代の人間を含めてそう呼ぶことが出来るのならば)は、親の過保護、過干渉のために、自ら何かをしようという気力に欠ける。所謂、怠け者である。

だから、努力を伴わない、自分のアイディアや仕事が、即、その場で認められないと拗ねてしまう。

また、自分の発案の仕事であったとしても、それを持続し、継続して行く事は出来ない。

本来は仕事とは、無駄な努力の積み重ねである。

それを、有意義な努力として、自分に積み上げて、未来に生かして行くか、単なる無駄な努力として、ゴミにするのかは、その人の考え方の如何でもあるのだ。

無駄な努力というものを、最初から否定するならば、その人は社会人として仕事をして行く事は出来ない。

社会人の場合、100の努力の中で認められるのは、僅かに一つか二つにすぎないからである。

無駄な努力を有益なものにする力はマーケット力、若しくはファイリングの技術である。

そう考えるならば、人生に無駄な努力はない。

引きこもりのもう一つの際立った特徴は、周りに対する不信である。

周りが自分を認めてくれなかったから、引きこもりになったと信じているわけなので、周りに対する不信は至極当然といえる。

しかし、引きこもりは人に依存する事によって成り立つものである。

つまり、貧困の社会や戦争の国では、引きこもりは成り立たない。

引きこもりをする人間は、人に養われていることを感謝しようとはしない。

自分は得難い存在なので、人が自分の面倒を見るのは当然だと思っている。

だから、そこに、自分を養ってくれる人間に対しての感謝の念は最初からない。

しかし、引きこもりを作った人間も同様に、自分が作り上げたもの、自分の分身として捉えているわけなので、最初から感謝の念などは求めていない。

そこで、不可解なgive and takeが成立する。

所謂、負の連鎖である。

負の連鎖からは、負の結論(結果)しか生み出さない。果てしない、負の連鎖が待っているだけである。

 

[不登校の少女]

不登校の中学生で勉強や仕事に興味を持てない女の子が教室に居候をしていたので、1週間で完成出来る仕事をさせた。

教室のオケ練習や室内楽の練習で使用する特別な音楽用語を100単語選択し、それを数冊の辞書で単語の読みや意味等をパソコンで入力させて、print outして、表紙を作って冊子にするまでの一貫した作業である。

一般的な、現代の教育社会や家庭教育では、こういった簡単な自己完結型の作業を体験させる意味は、子供へ「達成感を与える」 というように考えるのであろうが、私のconceptは少し違う。

私の教育的な目的は、「仕事の発生から完結までの流れ」を体験させるという事にある。

そこに、子供の感情の「達成感」等と言う、叙情的な教育に対しての発想はない。

あくまで、仕事を流れとして把握するための訓練の一環である。

結果としては、その少女は無意味な無目的な生活から、何かを自分で作り上げると言う事が、そんなに難しい事ではないという事を学んだ。そして、資格を取る事や、何かの目的を自分に持つ事を探し始めた。

それは、その少女が本を読むと言う事が好きだったから、彼女の嗜好から導き出した方法論である。

つまり、その方法は本を読む事が嫌いな子供には宛ては勿論、当て嵌まらない。

つまり、色々な子供にはその子供に対応する解決法を模索しなければならないのだ。

しかし、残念ながら、1週間程度で、子供が自ら完結するまでの流れを勉強出来るような仕事はそんなに多くはない。

そういった仕事を見つける事自体が、非常に難しい。

それは指導者の力量に掛かっているのだ。

 


[1] 心理学用語なので、辞書で調べても、出てこないので、簡単に説明をしておく。
親の言うことを良く聞くとても良い子が、そのプレッシャーからある日突然豹変をする事をいう。
親や学校の先生、周りの人達が「あんなよい子が、何で・・・??」という子供の例である。
SNBP(負の転換点)は殺人などの暴力のような反社会的行為に走る場合と、反対に引き篭もりや心身症のように自分自身に振り返ってくる場合がある。
 

[2] 一般の企業や会社等では、現実的には地方もだんだん就職が難しく困難になっている。しかし日本古来の手に職の職人の世界では、技術を継ぐ若者がいなくて、伝統芸術がどんどん滅びているのも事実である。若者にほんの少し根性があったら、そういった技術を覚えるのも良い。弟子のなり手が無いのだから。農村も漁業も後継者問題は深刻である。それなのに若者は「就職口が無いから・・」と言う。

[3] 2008年現在の話であるが、世界を震撼させているサブプライム問題は、日本にも深刻な影響を与え始めた。そういった状況は一番弱い世代、就職年次の若者や未だに就職出来ないでいる派遣社員達に深刻なダメージを与え、就職難民によるホームレスの問題などが危惧される現実となった。それなのにやはりニートや引き篭もりは断固として、存在するのだ。摩訶不思議な事ではあるが・・・。

[4] 子供が大学を出て結婚をし、子供を産むのに必要な年数を25年周期と仮定すると、その子供が子供を生む年齢に達するのが更に25歳として、団塊の世代で競争教育に育った子供が親になって競争教育偏重主義の子供が育ち働き始めるのが50年後であり、その世代によって育てられた子供達が社会を形成し確立するのが75年後である。今年は63年目であるので、日本社会の崩壊は、後12年程度である。私自身は27年周期説を採るが、それでも年数的には大して変わるものではない。