プロになるためには(補遺)

絶対に師事してはいけない先生

 

この話は、趣味で音楽を学んでいる生徒さん達には当て嵌らない。あくまでも、音楽を職業として、ライフワークとして追求していこうという学習者に対してのお話である。

つい先日、芦塚先生がリハーサルで子供達に質問をした。

「『暗譜が苦手だ!』と思っている人は手を上げてみて?」

数名の生徒が手を挙げたのだが、それを見て驚いたのは、その生徒の全てが、技術levelは兎も角として、教室の在籍年数が非常に少ない、つまりよその教室から替わって来た生徒であったからだ。「暗譜が苦手」という事は、同時に譜読みも遅いという事でもあるのだ。

多くの大手の音楽教室は、生徒に読譜を教える事はない。生徒は譜面が読めないのが普通である。という想定に立っている。

当時、全音の編集長出会った山口さんが「Beyerで挫折する子供の96%は譜読みで挫折するのです。」と言っていたのだが、当時、芦塚先生が指導していた生徒で、譜読みが出来ない生徒はいなかったし、暗譜が得意という生徒は、「初見の暗譜」 何ていう、曲芸のような事もざらにやっていた。(「初見の暗譜」という聞き慣れない言葉は、芦塚先生が、生徒がlesson場で待っている間に、新しい曲の譜面を渡して、前の生徒がlessonをしている間に、その場で3分位譜読みをさせて、後、そのまま暗譜でlessonをすることである。芦塚先生のlessonでは、原則として、生徒は譜面台は立てない。譜面に書き込むために、譜面台を寝かしたままにするからである。)

生徒が暗譜で演奏しているのに、芦塚先生は「何ページの何段目の何小節目から!」とか、いきなり曲の途中から、小節の途中からでも、左手のpassageを弾き始めたり・・する。曲の途中のphraseからではなく、小節の途中から弾き始めるのである。芦塚先生のlessonではそれが当たり前の風景である。

それで、2、3個の音(!)の後で、生徒が入って来れないと、「え〜っ!何で入れないの??」と驚ろかれてしまう。小学、6年生位の生徒になると、先生が弾き始めると殆ど同時に演奏を始める。ラグはない。最初の一個の音を聞いただけで何処か分かるらしい。

幾ら教室に長く居て、生徒を指導している立場の私達も、やはり、他の教室で初歩を学んで、途中で芦塚先生の教室に入会したのだから、最初からこの教室で学んでいる生徒のように、そこ迄の暗譜力は無理である。

とは言っても、それが出来るのは芦塚先生の生徒だけというわけではない。

私達弟子が指導している生徒達も、芦塚先生の生徒と同じように暗譜が強いのだよ。

同じような事が出来るのだよ。

超、腹立つね〜ぇ!

先生(私達)は出来ないのにさ!!

 

暗譜について、ちょっと脱線してしまったが、譜読みが苦手なことが、暗譜が苦手や、levelupの挫折につながっていくことが、殆どだから・・なのです。

初歩の初歩の生徒を指導している先生達で譜読みが出来ない生徒の事で悩んでいる先生の指導を観察すると、殆どの場合無意識に生徒に先生が音を教えてしまっている、事が原因のようだ。「私は生徒と一緒に譜面を歌って音を読ませています。」という先生が生徒と一緒に歌を歌っている所を見ると、生徒よりもほんの一瞬早く先生の声が出ている。生徒は先生の歌に反応して真似をしているだけなのに、先生は自分が先に子供にsuggestionをしている事に気がつかない。

で、lessonが発表会等に間に合わないから、ついつい、生徒に先生が演奏して教えてしまう。生徒は、音で覚えるので、最初に音を間違えて覚えても、二度と直せない。firstimpressionが全てなのだ。しかし、世間一般では、「曲を耳で聞いただけで、覚えて弾ける」という事は「凄い!」となる。だから、大手企業の音楽教室では、耳パクで教えることを、「害になる。」とは言わないで、寧ろ「推奨する。」 一般の先生にとって、最も難しい「読譜の指導」の手間が省けるからだ。

弾いて聞かせて指導するという、その程度の先生しかいないからだ。弾いて生徒に真似をさせるだけの先生なら、誰でも出来るからである。

でも、それが趣味としてなら、何の問題もないし、事を荒立てる気もない。

ここで、問題にしているのは、最初に言ったように、音楽を専門にしたい、音楽を職業としたい生徒だけなのだ。

そういった専門家を目指す生徒が、先生を選ぶ時のアドバイスなのだ。

 

好きな先生のタイプというものは、先生に師事する生徒側の好みもあるのだから、生徒の先生に対しての好き嫌いは、善し悪しともに遺憾ともしがたいものがある。

それは人の感情の問題であって、私達が出来るアドバイスの領域ではない。

しかし、敢えて、師事したい先生を選ぶ上でアドバイスをするとすれば、先生の指導者としての資質には、歴然と(その先生に師事しても)絶対に上達しない、生徒が上手くならない・・駄目なタイプの先生がいる。

その先生が、どんな有名大学の教授であろうと、権威的に一般的に認められていようとである。

プロになろうと志す人は、人の「噂」に惑わされて、師の選択を誤るようでは、所詮プロにはなれない。

それも、一つの淘汰と言える。

 

しかし、一般社会の中から、自分をプロに導いてくれる先生を探すのは用意ではない。

また、生徒が上手くなるにしたがって、周りの「善意の無責任さ」に悩まされる事がよくある。

「音楽に進むのなら、やっぱり音大の先生につかないと駄目よ。」とか、「あそこの先生は**音大の先生なのよ。一度見てもらったら??」「私は**のオケマンを知っているから、紹介しましょうか?」とか、である。

こういうものは、**詐欺とよく似ている。

一度、聴講に行ったら、師事するつもりはなかったとしても、二度とは戻って来れないのよね。

それで、自分の行くべき道を誤った生徒は無数にいる。

 

というわけで、ここでは、世間では一流と言われている、二流、三流の演奏家タイプ[1]の、絶対に師事してはいけないという、先生の特徴を一つ、紹介したい。

 

それは、一般の音楽大学の先生に最も多く見受けられる、先生が生徒へレッスンする時に、

パラパラと弾きまくる先生である。それが、生徒に対して、模範演奏として演奏するのならば、いざ知らず、生徒と一緒に合わせて弾きまくるのならば、それはlessonとしては始末に負えない。末期症状である。もう、どうしようもない。

これは、その先生が、生半可に自分の演奏技術に自信があるからであり、本当に自分の技術に自信のある一流の優れた演奏家になればなるほど、弾いて教えようということはしない。

 

こういう事を言うと、「え〜っ??!」と、びっくりされるかもしれないが、その理由は、ちょっと考えれば分かる事である。

まずは、その先生が音楽とどれだけ真摯に向き合っているか?という事である。

もし、その先生が一流の演奏家であれば、演奏をするという事は、常に心を込めて演奏する、ということである。それを日常の普段のlessonでホイホイと簡単に弾けるものではなかろう。

 

だからといって、勘違いをしないで欲しい事は、曲の極限られた一部分を生徒に演奏して聞かせるという事は、全ての指導者が普通にやる事で、それは当たり前のlessonの中のひとつである。

ここで述べている「弾きまくる」の意味は、lessonの間中オシャベリもなく、ただただ、弾きまくる先生の話なのです。

生徒と一緒に曲を弾きまくるのでは、音楽に集中出来る分けはないし、そういった雑な演奏を普段するピアニストが、自分の演奏会ででも、優れた演奏が出来る分けはあるまい。

 

では、何故、生徒に弾いて指導する先生が多いのか?それは簡単な理由である。

その先生がその先生の先生に習った通りに教えているだけで、その音楽を理解して演奏しているわけではないからである。

つまり、経験則で指導しているだけで、本当に音楽の解釈が分かっていないから、言葉で説明出来ないからである。

 

プロになるために、先生を求めて、ありとあらゆる先生のもとを訪れた事のある芦塚先生の弟子が、後輩に話ていた。

殆どの音楽大学の先生は生徒に対して、言葉ではなく、弾いて指導するのを常とするのだが、その先生の弾いている通りに真似をして弾くと、「そうじゃあ、ないでしょう?!こう弾くのよ!!」と、その間違えた通りに弾く。つまり、先生の頭の中で考えている音楽と、先生がPianoで演奏している音楽が全く違うからである。

弟子曰く、頭の中の音楽と弾いている音楽が同じ先生につくことが出来れば、それはすごく稀な、ラッキーな事だそうな。

言っている事はメチャメチャで、弾いているのも全然でたらめなら、もう、lesson自体が成り立たない。

生徒は4年間先生に叱られながら、惨めに学校に通わなければならない。

 

先生の演奏に合わせて弾くということは、音楽に対する理解や解釈、表現法、技術を学ぶのではなく、ただ単に口移しで猿真似をしているにすぎない。

ましてや、真似をするlessonでは、生徒が先生の良い部分を真似られればよいのだが、えてして先生の悪い癖のみが移って行くものである。

勿論、先程も同じ事を書いたように、曲の表現などを教えるときに、その曲の1・2小節を生徒と一緒に繰り返し合わせて弾いたり、imageをつかめるよう、先生が部分的に手本を示すことは指導上の極一般的な方法であり、格別悪いことでは無い。

ところが、全てのlessonがまったく、猿真似だけのlessonになってしまえば、いくら上手に真似たからといって先生の技術以上に上達することは、当然無いのだ。

つまり、日本の伝統的な教育法では、「出藍の誉れ」という事は存在しないのだよ。

 

コピーをするだけでは、何年その先生に師事しても、「なぜそう弾かなければならないのか」といったような理由も解釈のlevelも身に付いていかないし、それ以上に寧ろ、技術や表現に対する疑問も湧かない。

したがって、ある程度技術をもっている生徒がそういう先生につくと、逆にへたになっていくのである。

 

しかし、現実的には、弾いて教える先生の方が、一般の生徒からの評判は良い。

実際に理屈で説明して指導する先生と、よく生徒と一緒に弾きまくる先生がいたのだが、見ていると、明らかに理論的に説明する先生の生徒の方が着実に伸びて行って、弾きまくる先生の生徒とは2,3年後には、誰が見ても分かる程、レベル差がついた。

ところが、不思議なことに生徒たちはその理論的な先生のところから、弾きまくる先生の方へ逃げていくのである。

そういった現実を見て、「どうしてなのか?」と、考え悩んで見たのだが、いずれにしても先生方の人間的な要因や、ネームバリュー等の他の要因は考えられないので、そういったレッスンの形態自体にその理由があるようだ。

 

勿論、一番の理由は、弾きまくる方が、素人目にも圧倒されるわけで、理論ではどんなに優れた理論であったとしても、見た目には地味だし、素人には先生が何を言っているのか、すら分からないであろう。

結局はパフォーマンス型の方が、素人目には効果的という事である。

また、ある程度の技術を持った生徒で、先生の指導するNiveauを分かる生徒であったとしても、そういった理論的なlessonでは、自分の練習に対しての逃げようがなくなる。

 

「芦塚先生のlessonは分かりやすくて、練習のpointや子供がどう練習しなければならないのか、よく分かるのよね。でも、その分、子供は逃げ場がないのよ。」「lessonでは、その練習をやったかどうかだけなのよね。それじゃ、子供が可哀想だわ!」

・・・・というのは、芦塚先生の直弟子で、音大を卒業した親が自分の子供を芦塚先生に見てもらって、そのlessonに対しての批判である。

 

結局理論的に説明をしていく先生のレッスンの場合、問題点が常に裸になって指摘されるわけなので、親にとっても子供にとっても、常に悪い所の意識を100%感じさせられてしまう。

そうすると、何時まで経っても上手くなっていないような、成長していないような錯覚に陥る分けなのだ。

 

ところが、弾きまくる先生の場合には、先生も弾きまくり、生徒も弾きまくるわけだから、その練習箇所の問題点が出来るようになっていても、全く演奏出来ていなくても、何か、弾けている・・・というような錯覚にとらゎれてしまう。

それで親も生徒自身もうまくなったような気に陥ってしまうのである。

そして、なんとなく「この先生につくとうまくなる」というそういう気持ちになってしまう。

しかしながら、一回毎のlessonでは、先生の演奏を真似するわけなので、素人目にはlesson毎に上手くなったように見える。でも、実際には生徒がどう直さなければならないのかを分かって、直しが出来た分けではないので、次のlessonではまた元の黙阿弥である。

ただ感覚的にそれを理解しているに過ぎないので、その子の上達は遅々として進まない。

毎回レッスンの度の自己満足的な成果というのは見られるかもしれないが、結果的に言えば、実際それはその場の成果であって、実際上の上達ではないのである。

つまり、その上達と思い込んでいる、演奏はその一回のlessonの中での話であって、半年後、1年後と、長い目で見てみると、その成長の落差は一目瞭然である。

つまり、論理的に理解出来た生徒との伸びの差は歴然としてしまう。

しかし、親も生徒も、理論的に指導する先生の元で、生徒が上手くなったとしても、その生徒の資質と考えて、先生の指導力の差とは思わないのである。

その大きな理由は、1回毎のlessonでは、目に見えるような進歩が得られる訳ではないからである。

しかし、本当にlessonを見える人が見れば、確実に1つ1つの問題点というものを消化していくわけであるから、半年,1年というふうに、ある程度期間を置いた長いスパンスで見ていくと、着実に上達していくことが分かる。

 

日本人の場合は特に、指を回すことのみに心を奪われる学生が多いので、自分の音を正しく聞き取ることが出来ず、自分が技術的にどんどんへたになっていっていることに、全く気がつかない生徒も数多く見受けられる。(というか、殆んどそういった人達なんじゃない??)

 

芦塚先生のお弟子さんで、コンクールにも出るような水準の生徒であったが、その当時、マスコミに受けている有名な演奏家に師事する事になったのだが、その先生も、演奏家の常で、弾いてlessonする先生であったために、たった一月で、一個一個の音のpitchが不安定になって、コンクールのために築き上げたテクニックが崩れていって、勿論、pitchだけではなくrhythmもふらふらとなって、表現力もすっかりなくなってしまった。しかし、本人は、練習の時も考える事を要求されない、指まわしだけの、頭を使わない練習法なので、逆に芦塚先生の元で、練習していた時よりも、練習時間は増えて、練習そのものも楽になったので、練習時間が増えたのも、その先生のおかげで練習が出来るようになったと思い込んでいた。

その生徒の友達で伴奏に呼ばれていった生徒が、たった一月で、その生徒がそれだけ下手になるのかと驚いていたのだが、本人は全く分かっていないかった。

そんなもんよ。

To know oneself is difficult よ!

 

このtypeの人達は、自己批判能力が乏しいわけだから、所詮、どんなに努力してもプロにはなれない。自己批判能力を身に付けない限り、技術をマスター出来る事はない。当たり前の事だがね。

でも、このタイプの人達は意外と多い。音楽家は自己満足と自惚れと虚栄の世界だからね。

私が会った事のある、謙虚な音楽家と呼べる人達は、残念ながら全員、超有名な演奏家達だった。残念ながらという意味は、本当に努力が必要な人達に限って、自惚れと自己満足が強くて、周りの人達に対しても尊大である。

 

 

優れた作曲家で、偉大などアノ奏者でもあったリストは、同時に非常に優れたピアノの指導者でもあった。そして数多くの歴史的な名ピアニスト達、所謂、ピアノのヴィルティオーゾ達を育てた。おもしろいことにリストの門下生であるヴィルティオーゾ達の演奏は、それが師の作品を弾くときですら、一人一人が個性にあふれ、どの演奏家が師であるリストの演奏に一番近いかすら、判断することは出来ない。

これは、リストが門下生達に自分の演奏の物真似をさせて指導した分けではなく、理論的な奏法を師から学んだという事で、一人一人の弟子の個性を最大限に生かすような指導をしたという事を証明しているのだ。

 

日本の常識は世界の非常識ではなく、日本で行われている教育の在り方は別に音楽教室に限ったものではない。

別に塾の教育を引き合いに出さなくとも、口移しの指導方法は日本本来の伝統的な教育法であるからである。

それは日本の伝統芸能から培われた指導形態ということが出来るであろう。

日本音楽の世界、或いは、歌舞伎などの芸能の世界も、口移しで日本の芸能はでんしょうされるからである。

音楽や芸能を伝承するには、口移し、(所謂、コピー)の方法が優れている。

とりわけ、世界の人達が注目し驚嘆するのは、雅楽である。

お家元の、中国や韓国ですっかり滅び去ってしまった千年も前の音楽が、異国の日本で、昔の姿のままで保存されているということは、奇跡といわざるをえない。

口移しとは、いかに正確にコピーをするかという技術であり、個性を重んじる西洋音楽とは、基本的に相容れない。

塾の教育に於いても、何故、そういう計算式で解くのか?等と解説を始めたら、curriculum等こなせるものではない。だから、解き方だけを指導し、何故その計算式が必要かという事は、説明しない。(・・というか、時間的に出来ない。)

音楽の教育も同じである。先生に「そこの所は、何故そう弾くのですか?」なんて、質問したら、先生は烈火の如く怒り出して、「私がそう弾け!と、いうのだから、そう弾けばよいのよ。私の言うとおりに黙って従っていればよいのよ。」とお叱りが返ってくる。

先人がやったとおりの事を、疑問を抱かないで、伝承する。そういった、事は、日本人だから、出来た事で、日本人の個性を否定し、伝統を尊重する気質があったからこそ、千年前の音楽が、タイムスリップしたように、保存されているという、そういった奇跡がおこりえたのである。

その伝統を重んじる体制を、日本人は「家元制(流派)」という中央集権的なsystemとして組織化して作り上げた。

明治政府が、ヨーロッパの音楽を「音楽事始め」で取り入れた時にも、そういった音楽界の体制自体は、ヨーロッパのそれではなく、日本の伝統的な家元制を踏襲した。

「何故?」って??軍国主義を貫くには、個性を伸ばす教育はそぐわないからだよ。

上官の指揮系統が末端まで一瞬に伝わる、それが必要な教育なのだよ。

それが、現代の音楽大学の教育にそのまま踏襲されているのだよ。

絶対的な教授に従う事が、音楽の世界で成功する秘訣だとね。

しかし、現実的には音楽界と音楽の教育界は全く関係ないのだがね。少なくとも音楽の世界で働くには何処の音楽学校を卒業しているかは関係ない。寧ろ、一般大学の出身者の方が多いぐらいなのにね。

 

例えばバロック音楽の演奏の例であるが、音楽大学にもCembalo科があって、Cembaloの演奏を学んでいる学生がいる。Lessonを見せてもらったが、Pianoのlessonと同じように通り一遍にlessonするだけである。Cembaloのtouchを教える分けでもなく、装飾音の色々な奏法を指導する分けでもない。ましてや、baroqueでとても大切なbasso continuoの奏法や、即興演奏の仕方を学ぶわけでもない。

それで、何でCembalo科なのだ??不思議だ?!

 

一般に音楽家は、言葉で音楽を表現することが下手である。

しかし、言葉でそれを表現できないとすれば、その人は、正しく音楽を認識しているとは、いいがたい。そのために私は小さな子供にでも、情緒表現の言葉を常にlectureしている。子供用の簡略化された言葉は使わない。「色っぽい!」のなら、「色っぽい」という内容を教えるのである。その時には、理解出来なかったとしても、その情緒を実体験した時に、「あぁ、これが色っぽい!という事なのか!」と、理解出来る分けだ。

 

言葉で音楽を表現出来なければ、その人が演奏して表現するものが、その人の意図した音楽と一致しているか否かは、もう誰にも分からない。

特に、その人から音楽を学ぶ側にとっては、感性だけで学ぶという事は、学ぶ上では絶望的である。

先生が常に「そこはこう弾くのよ!」と言って、弾いて聞かせる。その通りに真似をして弾くと、「私は、そんな弾き方はしてないでしょう。よく聞きなさい!」と、来る。しかし、何度聞いても先生はそうしか弾いていないのだよね。先生がどう弾かせたいのか、全く分からない!!

これも音大の生徒から良く聞く苦情である。

言葉で音楽を表現するためには、その先生自身が、その音楽を技術やその様式、表現法、演奏法などをインタープリテーションしていなければならないわけで、いかにその先生が音楽を理解しているかを如実に証明している。1曲について、1時間以上はオシャベリが出来ないと、曲を分かっているとは言い難い。

演奏して表現する先生は、音楽に対しては、単に感覚的理解に過ぎず、それが普遍的なものであることを示すものはどこにもない。それでは、単なる素人の域を出ない。

よりよい先生か否かを判断するのは簡単である。「なんでそう弾かなければいけないのですか?」と質問することである。

その質問を喜んで答えてくれる先生は、非常に優れた教えるものを持っている先生であり、生徒が自分に質問をしてきたという事で怒り出す先生は、だめな先生の見本と言える。
幾らその先生が有名であろうと、権威のある先生であっても、自分の将来を考えるのなら、そういった先生には絶対に師事してはいけない。
勿論、音楽の勉強をステータスでやっていて、音大を卒業したら直ぐに結婚をして・・・とか、考えている女性はこの限りではないがね。というか、90%以上の音楽を学ぶ女性はそれに該当するのだろうがね。
また、そのままステータスで音楽大学の先生になってしまうのだから、だから、親方日の丸の権威主義的な教育が未だに治らない。


補足:

よく、音大の先生がそんなに問題なら何故音大の先生になれるのか?という質問を受ける事がある。「音大の先生は優秀だから音大の先生になるのだ」という勘違いから来ている。演奏活動をしたい先生は、音大の先生にはならない。何故なら、音大の先生等をやっていては、演奏活動の為の勉強が出来ないからだ。だから、多くの優秀な人が音大の先生をやめてプロ活動に専念する。
或いは、30歳くらいまでプロとして、頑張っていたのだが、「もう疲れた!」と言って、音大の先生になった有名な演奏家がいる。
名前は出さないけれどね!

芦塚先生の生徒がクラスのお友達と一緒にensembleを学校で演奏する事になった。そのお友達のヴァイオリン先生は、ヴァイオリンのvibratoは指先でかけるvibratoだけが正しいvibratoで、手首や腕を使ってvibratoするのは、邪道だそうな??!
その先生は、世界の一流の演奏家達の演奏を見た事がないのかね??

ヴァイオリンのvibratoを知らない人に敢えて説明しておくと、vibratoには、その先生の主張する指先のvibratoと、手首のvibrato、それに、ヴァイオリンではG線上やD線上で演奏される特殊な腕のvibratoがある。(ヴァイオリンでは、特殊な腕のvibratoだが、violaやcelloでは、そちらのvibratoの方が普通のvibratoである。ヴァイオリンは楽器が小さいので低い弦の歌い込みの特殊なmelodieの時に演奏効果の一環として用いる)

指先のvibratoは、20世紀の初頭の無声映画からトーキーに替わる時代にハリウッドでよく演奏された映画音楽用のvibratoである。チャップリンやその他の映画の黎明期の作品でそのvibratoを見聞きする事が出来るが、今日の演奏家でそのvibratoを使用する人は殆どいない。

今は、超有名な演奏家達の演奏しているムービーを何時でも見ることも出来るし、買うことも出来る。その先生は一度もそういった一流の演奏家の演奏を見たことがないのかね??
今日、指先のvibratoをかけている演奏家がいたら、見てみたいものだよ。(勿論、往年のトーキー時代のハリウッドの演奏は除いてだけどね。)

自分の誤った信念や、誤って伝承されてきたmethodeを妄信して、それを無批判に生徒に指導するのも、音大の先生達がよくやる事なのだ。

その一例をあげるとすると、日本人の女性は、慎ましやかで、また骨格的にも西洋人に比べて小さいので、大きく口を開ける(喉の奥を開く)のが苦手だ!
そのためにイタリアのボイストレーナーの先生は「喉の奥を開いて!」 と、注意をする事が多い。
しかし、今日日の子供達は、ヨーロッパ人並みに、体格も大きく、骨格もヨーロッパ的になってきている。

その事を知っていれば、不自然に顔を引き攣らせてまで、喉の奥を強引に開くことはない。自然な脱力の中で行われなければならないのだよ。
それなのに日本人の歌の先生は、独特の日本流の発声をさせる。昔の日本人の体型に合わせたlessonをした、昔の可哀想なボイトレの先生の教えを、ひたむきに、と言えば聞こえは良いけれど、頑迷に踏襲して教えているのだよ。「私の先生の先生が、そのように教えたから。」と言ってね。何故、そう教えたのか?という意味も考えないで、ただ闇雲にね。
イタリアのミラノのスカラの先生をしている私の友人が、日本人の不自然な思い込みの発声の癖を取るのに困りきっていた。
確かに、日本の伝統的な発声は喉の奥を締めて、搾り出すように声を出す。所謂、演歌の発声なのだよ。

でも、同様な誤った日本流の演奏法が、西洋音楽を学ぶ我々の、ありとあらゆるジャンルにある。
一つ一つ述べていけば枚挙に暇がない。
正しい演奏法を知りたければ、心を開いてムービーでも見れば全てがそこにあるのにね〜!

それとも、学び方を知らないのかな??
学習塾じゃあるまいし、先生の言った事しか、信じれないのでは、霊能者に取り付かれている、可哀想な人間と変わりあるまいで・・・!!

 

 

芦塚先生のワープロ原稿から、再校訂



[1] とは言っても、日本には演奏技術も音楽上の理論も作曲家への音楽史的な知識と何よりも人と音楽を愛する魂を併せ持つ一流のピアニストは一人もいない。だから、日本のピアニストは極々例外的な少数のピアニストを除くと2流からのピアニストしかいない事になる。