縦笛の思い出



私が小学生の時代には
(なんと、昭和30年代ですよ!地方の町だったので、夕陽ケ丘の漫画にあるような洗練された町ではなく、江戸時代とは大して変わらない時代のお話です。)リコーダーなんてハイカラなものは無くて、スペリオパイプという(多分そういう名前だったと思いますが、何せ、遠い昔の事なんで、間違えていたら御免なさい。)何とも怪しげな縦笛を学校で買わされました。

リコーダーとは似ても似つかない、おもちゃの笛で、強制的に学校から買わされたのは良いのですが、親指のoctaveを出すための、後ろ側のトーン・ホールも無くって、半音は、押さえている指をずらして弾くしかなかったので、ほんの1,2曲しか弾ける曲がなくって、そういった理由からか、いったい何の曲を弾いたのかさえ記憶にありません。

そのまま、おもちゃ箱の中に放り込まれて忘れ去られてしまいました。
注1.(当時は、勉強机や勉強部屋等を持っている子供は、都会の、しかも、極々限られた生徒だったからです。

国民的な漫画で当時の一般庶民の風俗を再現していると言われているサザエさんも、実際の経済状態や生活水準を考えると、中流(プチブル)とは言いがたく、かなり高い水準に属していました。

寧ろ、新しい世代の漫画家であるはずの「夕陽ガ丘」の作者の人の方が、当時の我々の生活を忠実に伝えるには、時代の考証的には正しいように思われます。

勿論、それは戦後の超売れっ子のスーパー漫画家の長谷川町子さんだから、長谷川さん自身は、本当の庶民ではなかったからです。 
(その話は私以外にも、昔から触れている本があって、もしサザエさんの経済状態と、収入の割合で、その生活ランクを比較すると・・・といった本も出ていたようです。興味があまりなかったので、立ち読み程度しかしていませんが。)
(でも、いずれにしても、西岸良平さんがプチブルの生まれだったかどうかは私は知りませんし、そんな失礼な事は、私は言いませんよ。)




話を本題に戻して、・・・

小学校も4,5年生になった、あるときに、偶然、忘れ去られていた、スペリオパイプ
(当時は笛、又は縦笛と呼んでいました。今のような、ハイカラなブロック・フルーテなんて言葉は当然知りもしなかったしね。)を見つけ出して、真っ黒い歌口の部分と、乳白色の本体の2つの部分に分かれていたスペリオパイプの歌口の部分だけで吹くと、思いのほか強い音が出るのに気がつきました。
と言う事で、犬笛
(勿論、当時は人の耳に聞こえない本当の犬笛が有ることすら知らない頃でした。)として、使う事を思いつきました。
話は前後しますが、子供の頃の思い出です。



注1.本来はスペリオパイプと言うのは、ヤマハの商品名で、NIKKAN(日本管楽器)という、後のヤマハ製のプラスチックのドイツ式のリコーダーの事だそうです。
勿論、ドイツ式のrecorderなので、octaveのホールもちゃんとあるようです。

では、私達が使っていた、スペリオパイプと言うのは、どこのメーカーの楽器だったのでしょうかね。
学校の先生達はスペリオパイプと呼んでいたのですが、私の記憶ではそんな名前は楽器の何所にも書いていなかった様に記憶しています。
それにケースも入れ物の袋もなく、直接、手渡されたのでね。
いや、そういう時代だったのですよ。
何事も貧しい時代で、貧しい事が当たり前の時代だったのです。



今はすっかり町となってしまった私の生まれ故郷も、当時は小さな丘の頂上に掘り込んだようにして、防風林で囲まれていた私のふるさとの藁葺き屋根の家から、金色の麦畑が重なりあって、その向こうにこんもりとした小さな山並みが連なっていました。


私の幼年時代、その当時はまだ登校拒否という言葉もありませんでしたが、何事も時代に先駆ける私らしく、登校拒否の元祖でもあった私は、祖母の家を学校に行くような振りをして出かけるのですが、そのまま家の裏にランドセルを放り投げて、一目散に山の方へ走って行きました。

結構険しい山道を尾根伝いに頂上までたどり着くと、眼下には大きな湖のように金色の波が押し寄せていました。
山の上からは、ちょうど風を受けて、大きくうねって波をうっている金色の麦の海が延々と続いていました。 

幼稚園以前の極めて珍しい写真です。

尾根越えに、遠く遠くに小さく見える我が家の裏手にある防風林の木々に向かって、薄汚れたズボンのポケットから大切にしまって置いたリコーダーの歌口だけを出して、思いっきり「ピィ〜!」と吹くと、やがて、家の方からこちらへ向かって、銀色の波をかきわけて,二本の筋が近づいてきます。

しばらくして、二本の筋は私が立っている崖の真下にたどりつくと、一気に険しい崖を真っ直ぐに駆け登ってくるのです。
千切れんばかりに尻尾を振っている二匹の犬が!

一匹は弟分の真っ黒なポインターの雑種、
(・・・勿論、当時人々に飼われていた犬は皆、雑種で、よっぽどの人でもない限り、純粋種の犬は飼っていませんでした。)私が飼った始めての犬で、ポインターを略してポンと名づけました。 

それと年上の従兄が飼っていた、兄貴分の黒白の長毛犬、多分、洋犬からの雑種でしょう。
ホルスタインのようなぶちで、ジョンと言う名前でしたが、とても長生きで、私が小学生の低学年の時から家にいて、中学生になって故郷を離れて、祖母も歳を取って叔母の元にお世話になったときも、留守を預かる他人の下で、私が高校生の2,3年の時に寿命で死んだそうです。

黒のポインターの雑種は、犬種の性格の為せることなのでしょうか、近所の鶏を襲う癖があって、とうとう近所の百姓の人に鎌で背中を切られてしまいました。
何とか一命は取り留めたのですが、可哀想に思った祖母が、ポインターを欲しがっていた猟師の人に譲りました。
自分を活かせる環境を手に入れたポンは、元気に生涯を全うしたそうです。

それは、私が諫早の本家を離れてからの話ですが、私がまだ4年生、5年生、6年生の頃には、学校のカバンを縁側の下に放り投げて、その二匹の忠実な犬をつれて、山の中の探検が始まるのです。

山はとても奥深く、一日遊んでいても、人一人と会うこともありませんでした。
もしも山の中で道に迷ったとしても、「おい、帰ろう!」というと、今まで私の後に忠実に従っていた二匹の犬は、ぱっと先頭を切って歩き出します。

殆んど、学校に行かなかった私ですが、祖母は決して怒ることも、叱ることもしませんでした。
だから小学校の5年、6年の2年近く学校に行かなかったかな?  写真は小学生低学年の頃

実は、私は幼稚園から、小学校の3,4年生までは、透き通るように白い雪のようなピンク色の肌の子供で、学校の子供達からは、「や〜ぃ!西洋人〜!!」と、いつもからかわれていました。
結構、いじめられっこ、だったのかな? 

しかし、ひ弱そうな見た目とは裏腹に、私は我慢は出来ない子供だったから、売られた喧嘩は100%買うという性格だったから、どんなに強い相手でも、どんなに人数が多くても、怪我をも顧みずに、報復をして、一矢報いました。
という私の性格なので、一度、私をからかった子も、二度と私をからかう事はなく、当然、あまりいじめられた、・・と言う記憶はありませんでした。
大人から見ると、結構、お坊ちゃんtypeで、ひ弱に見えていたのですが、子供同士の間では、見かけとは違って、結構、怖がられていたのですよ。
独り狼の付和雷同の悪ガキとして・・・

医者は私が「腺病質である。」と言って、幼少の頃からかなり心配していたのですが、でも、この小学校の4年生から、5年生、6年生の3年間の「山学校」
(山学校と言うのは、私の造語ではなく、心理学的・教育学的に本当に山学校と言います。)は、私を実に健康的な子供に変えて行きました。


氷穴に残っていた巨大氷柱です。後ろは氷穴です。

高校生の時には、従兄達と山登りをしていて、小学6年生の従兄が「足が痛くて歩けない。」と言うので、1300mある雲仙の山を、麓のゴルフ場から、背負ったままで往復、山登りをした覚えがあります。

高校一年生のときの大病も、医者からは余命が「30歳までは大丈夫だから・・!」とか、言われていたのですが、もう、その倍の年数を生きてきました。

それも、生まれ付いて腺病質の子供が、しかるべくして、今風に言うと、登校拒否の小学生で、学校に行く代わりに、山学校に行って、健康を得る事が出来たので、色々な病気に負けなくって、生きて行けるようになった・・・と、いう神からの贈り物と解釈しています。
勿論、こんにちの親達とは違って、登校拒否の私を叱りもしないし、怒りもしなかった祖母や母親には感謝しています。
気長に、自分から学校に行くようになる事を待っていてくれたので・・・
(祖母は16歳ぐらいの時から、女学校で、年上の女学生を教えていた国文学の先生でした。当然、優れた教育者でもあったのです。)



今日の私の人格を築いてくれたのは、学校ではなくて、山と犬達だったからです。1メーターもあろうかというとんでもない長さの山ビルや巨大な30センチ以上の大きさの蛙や、4メーター近くの青大将等とであったり、深い山底のジメジメした谷間では、巨大なアシナガグモや、ヒルがいたり、「何処が、誰が、自然は美しい!と言ったの??」
結構、ドキドキの恐怖もいっぱいあったのだよ。

今の不登校の子供達は、部屋に引き篭もって、ゲームに明け暮れて、それこそ体や、心を病んでいきます。

同じ不登校でも、子供の時代の私の「不登校の山歩きの時代」は、私にとって、私を健康的に育ててくれて、或いは自然との対話を教えてくれた、私にとっての素晴らしいかけがえのない思い出です。
それこそ、私だけに与えられて、今の私を育ててくれた、ということだと思っています。

自然は母であり、慈しみだと思っております。

本当だったら、道を踏み外して、悪い道に歩んで行ったかもしれない境遇の私が、健康と心を学ぶ事が出来たのは、人からではなく自然からであったという、不思議な体験は本当に塞翁が馬のような、今の子供達にはとても得る事の出来ない・・・私だけの、得難い体験であったのだ、と思います。


それから、60有余年を経たこんにちでも、目を瞑れば、奥深い山の薄暗い不気味な風景や、忠実な犬達の事を直ぐそこに想い浮かべる事が出来ます。