失敗と物忘れ Riskmanagement



Index


[職業としての音楽]
[仕事への意識]
[日本の音楽教育が抱える問題点]
[自分のためと人のために]
[危機管理riskmanagement]
[危機管理の実例]
[小うるさいとは異なる小うるささ]
[double-bookingと優先度(もう一つのミスの意識)]
[メモについて]
[レッスンをしても直らない]
[忘れるという事の意味]




[職業としての音楽]
実は、この論文の原文は、先生志望の人や初心者の先生達への実際のアドバイスとして、最初は往復書簡としてのmailの形で書き始められました。
留学やコンクール等と色々経験豊富な人でも、音楽を指導する音楽教室の先生としては、子供達を実際に指導した経験がない・・という事で、色々と失敗をします。

一般の社会人達と、音楽家達の社会人としてのギャップは、よく人の噂話にまで上がる事もあります。
日本の音楽社会の中では、音楽を学ぶ人達には「音楽の勉強だけを先生の言う通りに、忠実に、ひたむきに、一心不乱にやりさえすれば、音楽の社会でも、一般社会でも、認められる。」という迷信のような、或いは不文律のようなものがあります。

私自身は非常に運がよい事には、日本人の先生に師事した経験は、ほんの2,3年しかありませんでした。音楽大学受験のために、音楽の勉強を初めて2年後には、もう音楽大学でPringsheim先生の下で勉強していたし、Pringsheim先生の下で勉強をしたその4年後には、ミュンヘンでGenzmer先生に師事していたので、私は日本流の音楽教育を受けた事が、実質上殆どなく、そういった日本独特の音楽教育界の弊害に合う事は全く無かったからです。

それに私は、養父から勘当されて、(勘当の意味は経済的にという事だけです。医者にならないのなら、自分で勝手に勉強でも、何でもしろ!という事で、家の出入りを禁止された分けではありません。どっち道、中学生、高校生の時から母親、父親とは別居していたのですから。ましてや、大学で東京に行くのなら、勘当で家を追い出されるという事は、元々、有り得ないのでね。)大学一年生の時から、生活費を稼ぎ出さなければなりませんでした。

当時は、まだ戦後の名残があって、苦学生が多かった時代なので、先輩や同級生もバイトをしている人達は多かったの、そこに悲壮感はありませんでした。
しかし、私は友達や先輩達がしているバイトに対して、ある事にふと気が付きました。
それは殆どの友人先輩達が、或いは音楽を学ぶ立場の色々な音楽大学の学生達が、殆ど音楽以外の仕事をバイトの職種として働いていたという事です。
数少ない音楽に関係のあるバイトをしている人と言っても、サロン(所謂、飲み屋ですが)の「弾き語り」等のアルバイトをしていて、クラシックの音楽に関係している仕事をしている人は皆無でした。

私は、「お金を稼ぐためだけのバイトなら、自分の将来の役には立たない」という理由から、「自分の勉強にならないバイトは一切しない」と、固く決心して、バイトの職種を選びました。

これも私と他の先輩諸子との考え方の違いなのですが、他の先輩達は殆ど一つのバイトで、自分の日常の生活を立てようとしていました。
私は、出来る限りの色々な音楽関係のバイトをして、総合的に生活を立てようとしたのです。
という事で、先ず、私が最初に見つけた仕事、即、出来る仕事から始めました。
先ずは、学校の中で、教授達の論文を書くお手伝いや生徒の採点や(先生達にとっては非常にめんどくさい雑用なので)、教授達が抱えている諸々の学内の諸事のお手伝いをしました。これは生活面では、全くお金にはならないのですが、学校の授業では絶対に学べない非常に良い勉強になりました。
先生のお手伝いをする事で、食事や飲み代をおごって貰いながら、仕事の勉強をする事が出来ました。顎足になるのなら、それでも充分なバイトだと思いますが、意外と、顎脚はバイト収入ではないと思っている人達が多いのですよ。
食費が節約出来れば充分に生活費を節約出来るのですが、実際にお金を貰わないと、仕事とは思わない学生が殆どでした。だから、「自分の勉強の為に」・・・と、割り切ってしまうと、非常に良い勉強が出来たのに、誰もそれをしなかったからね。

後は、知り合いのプロダクションを経営する人から頼まれての、人集め(業界用語では呼び屋といいます。)をしました。
NHKの歌のお姉さんや、Beethovenの第9symphonyのchorusを集めたり、映画の吹き替えのピアニストの代役を探したり、そこで色々な音楽業界の表や裏のsystemを学びました。

音楽大学では、私のピアノの先生は、色々と問題があって、一番最初についた先生は、Wienから、帰国したばかりの若い女の先生で、最初の1,2ヶ月はちゃんとWien奏法を教えてくれたのですが、3ヶ月目からは神父さんに恋患いをしてしまって、レッスン中も心そぞろになってしまいました。という事で私がHandelの曲を「どうせ、聞いてないな??」と思ったので、イタズラで、即興演奏を混ぜながら演奏したのですが、やっぱり最後まで、気がつかなくって「とっても、上手だわよ!」と褒めてくれました。
こりゃ、もうダメだわ!と諦めて、ホームレッスンに行く事にしました。
その先生は、大学の夏休みの前に、多分、彼女の性でアメリカに移動させられた神父さんを追っかけて、ある日突然、大学からいなくなってしまいました。
その先生の門下の生徒が集まって、会議を開いて、「その先生に戻って来るように、大学に申し出たい!」と皆が言っていたので、私が「君達は恋患いで、レッスンをすっぽかして、恋人を追いかけて行くような先生にこれからも習いたいのかい??」と逆に質問をすると、皆「う〜ん!」と言ったまま黙り込んでしまいました。

という事で、後期からは急遽、私のホームレッスンの教授と同じ世代か、それより年上の教授になりました。
試験の課題曲が発表されて、私がその課題曲の中からBartokやKabalevskyの曲を選曲してレッスンに持って行くと、「私はこんな新しい曲は分からないのよ!私の学生の頃は、Beethovenの月光の曲とかしか、エリーゼの為に、といった曲しか、楽譜はなかったのだから」という事で、学校の試験の曲は全部自分で勉強しなければなりませんでした。

その話をホームレッスンの先生にすると、ホームレッスンの先生曰く、「確かに、私達の学生の頃は楽譜は何にも無かったわよ!でも、それから今までその先生は何をしていたのかしらね?!!」と呆れていました。

3年次になると、またまた、講師の先生に戻って、30代の新進気鋭の演奏家の先生に回されました。
先生自身が演奏活動で勉強中なので、「先生、この曲はどう演奏するのですか?」と質問すると、「それはね??」と言って、バリバリとピアノを弾きまくってくれました。
おかげで、ピアノの予習の練習は随分サボれたね。
アハッ、ハッ、ハッ!

私が学校のピアノのレッスンがどうでも良かったのは、受験の時に師事していた先生に、大学に入学後も、ホームレッスンで習っていたからです。
「学校の先生から見て貰っている曲以外をレッスンするのなら、教えてもよい。」という事で、ホームレッスンの許可をもらいました。
その先生には、受験の時から師事していて、私が親に勘当されて苦学をしている事を知っていたので、ある時に「ホームレッスンをタダにしてあげようか?」と言ってくれました。
私は「タダだと、レッスンに来づらくなるので、受験生を紹介してください。」とお願いしました。
教授は直ぐに、今回の入試に落ちた二人の生徒を回してくれました。

その時に教授に説明された事は、音楽大学の教授室の中でも、教授間の熾烈な争いがあって、「生徒を何人合格させたか?」というのは、それで何らかのペナルティーがあるわけではありませんが、教授室での、その教授のステータスになるのだそうで、そのために教授達は「確実に大学に合格する生徒を自分に残して、ちゃんと指導して努力させれば、合格するかも知れないという生徒を助教授に回して、「相当危ないな」という生徒は(このlevelの生徒が殆どなのですが・・)講師の先生達に回すそうです。

つまり、何人の生徒を合格させたか?・・ではなく、何パーセントの生徒を合格させたか?という競争なのだそうです。
だから、受験の直前に100人の生徒がその教授の所を訪れたとしても、教授が指導するのは、その内の10人以内の生徒で、後はその教授の身内の先生に回してしまいます。
そして、最後に残ったどうしようもない、(何をしても合格出来ない)生徒は通常な引導を渡すのでしょうが、その生徒達を私に回してくれました。
「この生徒達は、どうあがいても音大はとても無理なのだから、どう教えてもいいわよ。落ちて当然なのだから、お金だけ稼ぎなさい。」と言ってまわしてくれました。

そりゃあ、そうかもしれないけれど、私が教える上で、やっぱり責任もあるしね、・・・という事で、色々と、考え画策しました。
彼女達の強みは、実力も基礎的な積み上げも全くないのだけど、もう、後がないので、必死さだけは、ヒシヒシと伝わってきました。
私に見捨てられると、もう、後を教えてくれる先生はいない・・という意味です。

私が思い付いた事は、「音楽大学の試験で合否を決めるのは最終的には総合点である」という事です。
主科のピアノが不合格でも、つまり、合格の某ダーラインに達していなかったとしても、残りの全ての科目が100点なら、(間違いのないように言っておきますが、全ての教科には配点の比率があります。例えば、主科が120点なら、solfegeや聴音がそれぞれ60点、一般教科が40点とか、・・・です。主科の配点が高いのは当たり前ですが、それでも、別の教科で落ちる事があります。

私と同期のピアノ科トップの女の子は、実は入試では、ピアノの実技の成績は2位だったそうです。
その時の実技1位の生徒は先生も高校も同じの物心付いた時からの知り合いでライバルなのだそうですが、実は彼女は英語の成績が致命的で音楽大学の四年制には入学出来ず、二年制の短期に合格したのです。
普通短期の生徒は2年次が終わると、四年制の学部の3年次に編入するのですが、彼女は、そのトラウマのせいか、編入はしなくて音楽をやめてしまったのです。

私が、教授から回されて来た可哀想な受験生のために考えた方策は、その逆のpatternです。
つまり、主科の点数が少しボーダーラインに足りなくても、残りの全ての教科が100点満点を取る事が出来るのなら、総合的には、音楽大学の合格のボーダーラインに到達する事が出来るという事です。

という事で、音楽大学の受験のための勉強を3ヶ月で完璧に終了させて、残りの1年の4分の3を、大学の4年間の全ての教科の勉強を終了するように指導しました。
大学卒業と同等の実力があるのならば、音楽大学の入学試験は超簡単になってしまうからです。
無事、二人共大学に合格し、一人は、何と総代で合格して、入学式の代表のスピーチと留学の権利まで貰いました。
私の教授も、入学試験の後に、私が指導した生徒達の点数を調べて、「あなたが指導した教科は全て100点だったわよ!」と、とても喜んでくれて、次の年からも、新しい生徒をどんどん回してくれました。

それまでの音大時代のバイトは、呼び屋や先生達のお手伝い等々の仕事も、不定期であって、その収入だけでは、かなり月によって収入にバラツキがあって、自分自身の生活設計も、中々安定させるのが難しく、他の生徒達に比べてかなり不安定な収入でした。

そういった意味では、「受験生を教える」という事は、自分自身の音楽理論の勉強にもなるし、非常に高額の安定した収入にもつながって行くので、大学生活を安定して送って行く事が出来ました。

だから、日本人の一般の音楽家達が言っている、「音楽で生活を立てていくのは不可能ですよね。」という言葉は、私には理解出来ません。
だって、私は、音楽大学に在学している時から、音楽だけで、…しかもclassicのジャンルだけの職種を、頑固に頑迷に守って、働いて来ましたが、「生活するお金に困った!」という事を感じた事はいまだにありません。
だから、日本人の音楽家達の言っている「音楽では・・・・、特にclassicでは、生きていけない」という話は私には、経験上、理解出来ないのです。

私は音楽教室を作る前の30代の後半までは、結構、お金を稼いでいました。
毎月、寿司屋に50万と飲み屋に30万払って、その他に生活をインジョイしていたのですよ。
逆に音楽教室を作ってからは、音楽教室経営のための色々な必要経費を自分の蓄えから捻出しています。
音楽教室で自分がやりたいような理想的な教育をしようとするには、子供達への音楽教育は金食い虫でもあります。
教室を作る時に法務局に行った時に、法務局の人に「会社は利潤を追求する場所で、社会に奉仕したければ、会社に利潤が出た時に、その余剰金で、社会に還元すれば良いのだよ。」と、怒られてしまいました。
「なる程、会社は社会の奉仕活動をしてはいけないのか??」と、感心したものです。

昔々、私がまだ大学生出会った頃、従兄弟が音楽教室を経営したいと言っていたので、「音楽教室は儲からないよ」と音楽教室の見積もり計算を彼にしてやりました。
彼は驚いて「じゃあ、何で音楽教室がこんなにあるんだよ?!」と聞いていたので、「楽器店等は、音楽教室で儲けるよりも、音楽教室の生徒や先生がそのまま、お店の顧客になるから、付帯的な儲けが出るのだよ。」「それに、主婦の場合には、自宅で、自分の楽器を使用して、教室をやるので、設備費や備品費等の付帯的なお金がかからないので、主婦のバイトとしては最高に良い仕事になるのだよ。」「つまり、音楽教室自体で、先生達を雇うだけの収入は出ないのだよ。」と説明すると、「ふ〜ん、なる程」と感心していました。

音楽大学を卒業した男性の音楽家が、何処かの教室に就職したとしても、それで生活を維持する事は、確かに難しいかもしれませんね。
しかし、それは、それとしても、立場を変えて考えると、全く、逆の考え方も出来るのです。
つまり、実働時間と収入の割合です。
所謂、時給に換算すると、音楽教室の仕事であったとしても、結構な、収入にはなるのですよ。
ただ、教えることだけで、一般の人達が働いている労働時間をクリヤーする事は難しい。
子供達は、普通の労働者が働いている時間は学校にいるので、放課後からが、子供達が教室にお稽古事に来る時間になるからです。
つまり、どんなに早く教室に来たくても、学校の終わる3時以降にしか、修学年次の子供達が教室にやって来る事はないからです。

だから、午前中や、午後の3時頃までの、時間をどういう風に活かして行くのか?
そこの所が、分かっていないと音楽教室で指導する事は、そんなに効率が良い職業ではありません。
あまり、仕事慣れしていない人なら、単純に収入総合で、音楽教室の仕事を考えて、その仕事があまり収入にはならないと文句を言っているのかもしりませんよね。
しかし、それではあまりにも、仕事の事を知らなさ過ぎます。
つまり、難しい事は言わないで、仕事を単純に時給に換算するだけでも、やはり、技術職である音楽の収入は、他の一般職とは、比べ物にならない事に直ぐに気が付くでしょう。

一度、実質的な労働時間から、収入を割り出して計算をするのなら、「音楽で生活して行く事は出来ない」とか「音楽教室では生きて行けない」という風評が、全くの誤解から来ている事に直ぐに気づくでしょう。

一般的に音楽家が、「音楽で生活は出来ない」と考えているのには、音楽を教えたり、演奏活動をしたりする時の、音楽家の意識が、生活感を全く持たない、音大生の時の意識のままに、実生活をしようとするからなのです。
もし、音楽で生活をしていと願う音楽家が、自分が生徒を教える事や対外出演等の音楽活動を、バイト的な発想ではなく、自分の天職として認識するのならば、生活が出来ないという現実はないはずです。

音楽を学ぶ人達の職業としての音楽への意識には、余りにも生活感がありません。
音大生が講師募集のチラシを見て、教室に見学に来ました。
パソコンの教室でバイトで指導しているというので、教室のホームページをちょっと弄らせて見ました。
弄って見てくれたのは良いけれど、やっぱり学生の仕事です。
ちょっと使い物にならない、というか、ホームページ上の色々な所が変に壊れてしまいました。
そこからリンクしているページも全ておかしくなってしまって、しかも、彼女が大元のページをback・upを取らないままに、弄ってしまったので、back・upのないホームページを元の状態までに戻すのに、私が1週間かかって手直しをしなければなりませんでした。

次に、歌科の生徒なので、教室で歌う合唱の模範テープを作って貰いました。
結構、一生懸命に作ってくれたのは良いのだけど、何とも、教科書的でつまらないのですよ。格好良く作ってくれたのかもしれませんが、味気がない、心が通っていないのです。
次に驚いたのは、その彼女達が、時給でお金を要求して来た事です。
彼女らの意識で驚いたのは、彼女達が教室に居た時間の全てを、お金に換算した事です。

我々の感覚では、仕事はそれが私達の仕事上の役に立って、初めてお金になります。
彼女達がやってくれた、ホームページの制作のために、私は1週間以上の時間を失くしました。
彼女達は自分達がやったホームページでホームページが変になった事を知っているはずなのですが、それを認めようとはしないのです。
自分達は、自分が出来る事をちゃんとやった。
自分なりに、精一杯出来る仕事をした、と主張します。
そして、掛かった時間に対しての対価を要求します。
しかし、費用対効果とは、そんなものではありませんよ。
そこには、バイトという仕事と、技術職の仕事の価値の違いがあります。

バイトの場合には、技術は必要はありません。誰でも出来る仕事なのです。だから、仕事のlectureは、1日か、2日先輩達が一緒に仕事をして、それを見て覚えて、後は一人で仕事をします。
だから、その先輩のlectureの時間も含めて、時給を払う事が出来ます。
しかし、技術職というのは、「出来てなんぼ」・・・なのですよ。
出来てもいない仕事に、お金を払う会社はないと思いますよ??
しかし、そこの所が彼女達には分からない。分からない人達に、一生懸命説明するのも、時間と労力の無駄です。
という事で、彼女達には、彼女達が提出してくれた、表に従って、彼女達の言いなりにお金を払って、サッサと帰って貰いました。勿論、その後は、教室には呼んではいませんがね。
若さという事でしょうか、目先の収入の事ばかり考えていて、そこで学んで、ちゃんとした仕事を覚えて将来に活かして行こうという発想がないのですよ。
まあ、結婚までのツナギ(の短いspan)で仕事の事を考えているのなら、それでも良いのですがね。

音楽大学で勉強した事が音楽社会の全てで、自分達が今現在持っている技術と知識で社会人として、やって行ける・・という錯覚をしている。
音大生のお嬢さま意識丸出しですよね。
何を持って、仕事と言うのか?という事が分かっていない、仕事に対しての意識を持っていない。
自分が、そのままで、社会の役に立つと思っている。
それじゃあ、ニートの若者達よりも、社会人としての意識がない酷い状態ですよ。

[仕事への意識]
人間は人の役に立つ事で、初めて、認められます。

「私は何のために産まれて来たのか?」と悩むのが青春でしょう。
「人から認められたい。人に評価されたい。」と悩み、挫折します。
それは、考え方が基本的に間違えているからです。
人のために生きている人は、自分の事で悩む事はありません。
人のために生きている人は、人から必要とされます。
だから、自分の価値に悩む事はありません。
人に必要にされているという事が、その人の価値を生み出すからなのです。
学生さんの仕事の仕方は、自分のための仕事です。
自分がお金を稼ぐためであり、決して、相手の役に立つように仕事をしたのではないのです。
言われた事を自分なりに理解して、それなりにちゃんと仕事をしたのです。
でも、自分がやった仕事が相手にとって、相手の人が望んだ仕事になっていなくとも、その仕事がちゃんと出来ていないという事で、多くの迷惑をかけようと、「自分はそのために時間と労力を使った!」という事で、・・・それが、対価として評価されないと、納得出来ないのです。
でも、対価というのは、相手にとっての対価なので、自分がそれぐらいと思っても無理な事なのですよ。
相手に損をさせて、お金をよこせと言うのでは、仕事としての考え方ではないですよね。
でも、今の若者達はそういった考え方をする人達が非常に多いのですよ。
というか、殆どの人が、自分本位の考え方をします。
そういった人ばかりが社会人になっていくのでは、これからの日本はお先真っ暗ですよね。
今のテレビ等を見ていると、それが本当の現実と感じてしまいます。
相手ばかり攻めて、自分では何もしようとはしない社会が此処に在るからですよ。


日本の音楽教育が抱える問題点]
日本の音楽教育では、人のために演奏をするという考え方はありません。
自分が如何に上達出来るか、それが全てです。
音楽は芸術です。
人に感動を伝達する事が音楽の表現であるべきなのです。
心への表現、それが音楽を学ぶ人達が勉強すべき事なのであるべきです。
音楽を学ぶ事で、自分の支えとなるという事は、それが人を幸せにするからなのです。自分が常に人の役にたっている、或いはそのために勉強をしている、それなら、自分が挫折し、悩む事はありません。
それが、本当の意味での、価値付なのです。
オケ練習や室内楽の練習の時に子供達にも、人生の価値付けというthemaで、全く同じような話を「上手な勉強の仕方」の合間に話をしましたが、これと同様の事(或いはそういった考え方)は、日常生活の中で大人、子供に関わらず、知っておかなければならない、或いは身に付けておかなければならない人生の生きて行く上での重要なルールです。

[自分のためと人のために]
失敗を重ねる人は、常に失敗をします。
そういった人達は、そういった失敗を重ねる人に見受けられる同一の欠点(性格)を持っています。
それは、失敗に対しての価値観です。

人がミスを犯したときには、絶対に相手の事を許せないくせに、常に自分が犯した失敗は、「大した事ではない。」とか「自分のせいではない。」という風に「自己弁護をする」、或いは「他人のせいにする」 という性格です。

つまり、自己反省をして、失敗の原因を理解、究明して、治そうとしないのならば、・・・それどころか「自分は悪くない」と自己弁護をするのなら、その人が何度失敗を繰り返しても、それは仕方がないのです。
直ることはないのです。
そしてその人達は必ずこう言います。
「だって、**さんも同じミスをしたもん!」 と。
しかし、ほかの人が同じミスをしたからといって、「あなたがミスを犯しても良い」という言い分けにはならないのですがね。
失敗に価値観を持たない人は、無意識に他人が犯すミスは自分も犯しても構わないと自己弁護をするのですよ。
言い方を変えると、失敗に価値観のない人が、ミスを犯さなくなる事はないのです。

[危機管理riskmanagement]
人間は必ず失敗をします。
「自分は失敗を犯す事は有り得ない。」 と思っている人がいるとすれば、それは単なる自惚れです。
自分が失敗しても気付かないのか、それとも自分の失敗を常に他人の性にしているのか、という事でしょう。
そういう風に思い込んでいる人には、近付かない方が無難ですよね。

失敗の対処には、大きく二つの対処の仕方があります。
そのひとつ目は、注意されたこと、失敗した事について、同じmissを二度としない性格を作るという事です。
同じ注意を受けた時に、それを「自分に対しての恥だ」と感じる性格を作る事です。
失敗した事を「恥だ!」とかんじるのなら、それで、その人は、二度と同じmissはしなくなります。

[危機管理の実例]
一番身近な危機管理の専門家は、車の保険の人でしょう。
車の事故に対しての保険は、究極の危機管理ですよね。
だから、車の保険の人に色々と質問をしてみました。

彼によると、車の事故を起こす人は、繰り返し事故を起こし、事故を起こさない人は全く事故を起こさないのだそうです。
私が車の保険の契約する時に、私が対人対物に対して最高金額で保険をかけていたら、車の保険会社の人が、「あなたのように、最高金額で保険をかける人は基本的に事故は起こさないのです。」「事故を起こす人の大半は保険をかけていない人なのですよ。」と言っていました。
「えっ?!車に保険をかけない人がいるのですか?」と驚いて聞くと、「自賠責だけで、『自分は絶対に事故を起こさないから!』と言って保険に入らない人が意外と多いのですよ。」「でも、そういう人が一番事故を起こしているのですがね。高額の保険に入る人は、事故に対しての意識が高いので、事故は起こさないのですよ。」という話でした。

その通り、免許を取って40年以上になりますが、私が自分で事故を起こした事はまだ一度もありません。
コンビニでお店の中で買い物中に大型トラックがぶつかってきたとか、駐車場で次の日に行ったら、隣の車にぶつけられて、シカトされたとかです。
駐車場の事故には保険は適用されません。駐車場は道路ではないからです。
だから、駐車場で車をぶつけられた時には、警察も来てくれないし、車の修理代も保険が降りないので、自腹でした。事故にはならないので、シカトされたら、手の打ちようがないのですよ。警察も来ないのでね。

ですから、保険は使う事がないままに、延々とこれ以上は下がらないという最低金額を30年以上も続けています。(事故を起こさなければ、保険の料金は下がるのですが、10年以上になると、これ以上はもう保険料金は下がらないので。)

でも、だからと言っても、運転が非常に上手い分けでも、違反をしないわけでもありません。
事故を起こさないだけなので、交通違反はない分けではありません。
まあ、殆ど何時もゴールド免許ではありますが、それでも、たまには、路線変更違反とか、分けの分からない違反で罰金を払わされる事はあります。
スピード違反も、全体の流れに乗って走っているので、捕まらないだけで、しないという分けではありません。
でも、事故はありません。
大きな事故を起こさない秘訣は簡単です。
自分がヒヤッとする運転を絶対にしないということです。
後は、「君子、危うきに近寄らず」で、貰い事故を防ぐために、危ない車の後ろに付かないようにすればよいでしょう。
危ない車とは、・・・眠くってふらふらしている車、お客を探している空のタクシー、ゴミ収集車など色々あります。
高速を走る時には、一定走行をしている長距離トラックの後ろに付きます。
疲れないで走れるからです。
高級車やトラックには、一定走行をするための、オート・ドライブ(オート・クルージング)という装置がついている場合もあります。
私の2代目のマイカーであるセリカには、最初からオート・ドライブがついていました。
だから、初代ニャンコ号も外付けでオート・ドライブを取り付けていました。
長距離ドライブでは、一定走行をする事は、疲れ難いとても楽な運転になるからです。

高速を走っていると、スポーツ・カーが凄いスピードで、カッコよく、よく私を抜いていきます。
しかし、のんびりと一定走行をしていると、その内に、私を追い抜いていったそのスポーツ・カーを抜いてしまうのです。
スポーツ、カーは速く走るので、長距離では直ぐに疲れてしまうのです。
だから、スポーツカーは速い速度と、遅い速度で走ることを、交互に繰り返しているのです。
結局は、一定の安定走行をしている車の方が速く目的地に着くことが出来るのです。
勿論、近距離なら、速い車の方が先に着くのでしょうがね。

でも、近距離でも、長距離でも、運転の疲れは比べ物になりません。
私達は車をかっこよく走らせることが目的ではなく、仕事をするために目的地に疲れないで辿り着く事が目的なのですから。
目的地での仕事が目的なのですからね。
運転で疲れていては仕事にはならないのですよ。

無理やりに速い速度で車を走らせると、結構、ヒヤリとする事があります。
このヒヤリが、そのうちに事故を呼ぶのです。
勿論、速い速度の話だけではなく、十字路では、左折のときに左側の車のサイドを確認するとか・・・です。これで右左折の巻き込み事故を防げます。
路地のような細い混み入った狭い道では、子供や自転車の飛び出しに注意をして、よくミラーを活用することです。

私が教えていた大学の生徒の弟さんが、狭い道で子供が自転車で飛び出して来て、事故を起こしてしまって、相手側の飛び出しにも関わらず、病院の費用等を支払わなければならなくなって、弟さんのためにお姉さんである彼女が、学校が終わった後で、ホステスをやって賠償金を払っていた、という事を聞きました。
勿論、事故の原因はあくまで子供の自転車での飛び出しで、弟さんには、過失責任は無かったのですが、同義上、病院の支払いはしなければならなかったのですよ。
子供は、その「まさか?!」の行動をするのですよ。

うぬぼれ運転が一番事故を起こす究極の原因です。
自惚れ運転をする人は、自分では、絶対に事故は起こさないと信じています。
しかし、いくら自分の運転技術に自信があったとしても、人が引き起こす事故に巻き込まれては、何の意味もありません。
事故とは、自分が引き起こすだけのものではないからです。
現実的には貰い事故の方が多いのですよ。
だから、転ばぬ先の・・なのですよ。

という事で、プロのドライバーは、巻き込み事故や貰い事故に合わないように、常に周りに気を配って運転します。
プロのドライバーは、後ろの車から追突されないように急ブレーキをかけるときにはポンピング・ブレーキといって、ブレーキ・ランプを点滅させてくれます。
今は高級車には急ブレーキをかけると自動的にポンピングするものがほとんどになっているそうです。
ポンピング・ブレーキは、後ろの車に急ブレーキを知らせて追突を防ぐ、という意味以上に、その方が急ブレーキによって、タイヤが空滑りする事を防いで、ブレーキのかかりも良いそうなのです。
「・・・そうです。」というのは、免許を取っ手から40年以上になりますが、急ブレーキをかけた事はその40数年間の間で数回しかありません。
何故?って??

私の場合には、一人で運転する事は、まず殆どなくって、常に人を乗せて走っているからです。つまり、人を乗せて走っているので、急ブレーキや急加速や、急ハンドル等の「急」がつく運転はタブーだからです。
常に安全第一の運転なのです。

「でも」・・・、というか、人を乗せるから特に、急ブレーキの練習は、結構します。
車が変わった時には、必ずその車のブレーキの効き具合のcheckや、加速のタイミングのcheckをします。
その車での、アイスバーンの時や、砂地、砂利の上等で道路ではない場所や、サーキット等でブレーキの効き具合のcheckをします。Slow in quick outやout in outの練習も砂利道や雪道では非常に難しくなります。幾ら技術があっても、一般道では事故の元ですよね。

車の運転は、そういったマナーを忠実に守って運転していたとしても、ヒヤリとする事があります。
こういったヒヤリとするハプニングと、実際の事故の因果関係を統計的にまとめたものが、ハインリッヒのカタストローフェの法則といいます。

重大な事件が1回起こる前に、軽度の事件が29件起こる。
その前にひやりとしたハッとした事件にならない事件が300件起こると言う「1:29:300」の法則です。
大事故、所謂、catastropheを起こさないコツは、300のヒヤリの状態の時に、対処対応をする事なのです。
でも、危機意識の希薄な人は29のケースになってもまだ、危機感を持ちません。
29回目の次にカタストロフィが起こると勘違いをしているのです。
ハインリッヒのカタストロフィの法則と言うのは、ただの確率なので、29のケースというのは、29回の次に、大事故が起こる、という意味ではないのです。確率は、1回目に大当たりする場合だってあるのですよ。
初めて原発を作る時に、「もし、事故が起こったらどうするのか?」という質問に対して、答えている学者の人が、「有り得ない事を想定して話をされても困る」というような答弁をしていました。
被爆者である私は、「でも、有り得ない事があった場合にはどうするのかねぇ〜!二度とその国には住めなくなるのにね〜ぇ!」と、言っていたのですが、自分が生きている内に、私が危惧していた話が現実の事件になるとは、想像もしなかったですよね〜ぇ??!!
それもriskcontrolという意識を最初から持っていないという日本人の親方日の丸的な意識の問題だよね。

ちなみに、私の安全運転のコツは、「運転中に少しでもヒヤリと感じたら、その原因となる運転をその日一日は確実に避ける」という事です。
そのヒヤリが、その日一日の私のウイークポイントになるからです。

[小うるさいとは異なる小うるささ]
私が先生達を育て始めた頃、まだ若い中学生、高校生ぐらいだった先生達から、私が「どうでも良い、何でもない小さい事を、殊更、うるさく言う!」と文句を言われた事がありました。
私の考え方は、それぐらいのどうでも良い事の段階で、ミスをしなくなると、大きなミスはしなくなるという考え方なのですよ。
君子危うきに近寄らずとか、李下に冠を正さずとかも、自分の身を守るための危機管理の諺なのだよ。

まだ、指導や父兄の扱いに未熟な先生が、生徒や父兄に対して何らかの不都合、所謂、失敗やトラブルをした時には、教室の先生達がそれをサポートして、何とか「問題(トラブル)が起こらないように」します。
相手側には当然ですが、教室としても、問題が起こらないように、対処するのです。

一見すると、どうでも良い箇所は、それを修正する事も簡単です。
そこをちゃんと修正しておけば、問題が深刻化する事はありません。
トンネルの崩落事故も、日常的なメンテナンスを怠って、新しい事業にばかりお金をかけたからなのですよ。

メンテナンスには、公共事業のお金の流れはないので、旨みがないのですよ。
儲けがないのだな。
儲けがないという事は、反対に考えると、お金を使わなくても良いという事なのだけどね。
そこは、利権の問題で、そこに国民の生活はないのだな。

という事で、未熟な先生のフォローを教室のベテラン先生達がして、何とかトラブルを防ぎます。しかし、困ったことに、その時に未熟な先生は、教室のフォローを認めないばかりか「何も問題が起きなかったので、私の指導上では、何も問題はなかった。」と自分に都合よく解釈してしまいます。
何も起こらなかった事で、自分のミスを認めようとはしなくなって、自分が起こした問題を、気にもしませんし、問題意識も持ちません。
郵便ポストが赤いのも、電信柱が長いのも、みんなあんたが悪いのよ!・・で、済ませてしまいます。

しかし、その先生が、もし本当に大きなトラブルを起こしてしまったら、私達はその先生も、或いはトラブった生徒達や保護者の方達も、助けてあげる事は出来なくなってしまうのですよ。
つまり、私達は何とか、何でもない所で、或いはヒヤリとした所で、サポートしてあげられなければ、結果として、その先生自身や生徒父兄達を見捨てしまう事になるのです。
その思いやりが、小うるささの理由なのですが、それを、ミスを気にしない人達には分からない。
それが、ハインリッヒの法則であり、危機管理なのですよ。

[音楽のレッスン上での危機管理「間違いの練習」]
教室ではヴァイオリンの伴奏を、基本的には年上の上級生の生徒にさせます。
でも、それはピアノが上手だから伴奏をさせる、・・という意味ではありません。
それなら、子供達に、指導が大変で、面倒くさい伴奏のレッスンなんかしないで、一般のヴァイオリンの教室のように、伴奏は、教室のピアノの先生が担当すれば良いだけだからです。

あくまで、教室で生徒に伴奏をさせるのは、その生徒のための伴奏法のレッスンであり、思いやり教育の一環としての教育だからです。
当然、初歩の生徒でなくても、子供の演奏会なのでハプニングはあります。
一般の発表会では、途中で曲を忘れて、何度も曲の最初から弾き直したりして、途方に暮れてしまう子供達をよく見かけます。
教室では、そういったハプニングを見かける事は殆どありません。
教室では間違えても、最初から弾き直すのは、タブーです。
忘れた小節を、即興で弾いて、次の覚えている小節に進みます。
それは、ensembleの基本です。
音楽の演奏の基本と言っても過言ではありません。
ピアノの生徒がヴァイオリンやチェロの伴奏をしている時に、伴奏を弾いていてある部分が弾けなかったとしても、忘れたとしても、伴奏を止める事は出来ません。もし、伴奏をやめてしまっては、soloをしている生徒までも、弾けなくなってしまうからです。合わせは、一人で弾いている分けではないからです。

その反対に、伴奏をされる生徒はピアノの生徒よりも後輩の生徒です。
だから、まだ伴奏する生徒さんと同等の技術は持っていません。
だから、演奏中に迷走する事がよくあります。
でも、伴奏をしている子供が迷走を始めたとしても、伴奏はやめる事は出来ません。
だから、即興で、その迷走に合わせて伴奏を付けます。
それはそれは、上手に伴奏を続けますよ。
お客様からは、子供が迷走しているのは分からない。
演奏している子供が途中で、melodieを忘れてしまう事がよくあります。
伴奏者はすかさず、伴奏の手は休めないで、melodieを演奏します。
子供が思い出して弾き始めると、伴奏のpartに戻ります。それを当たり前のように、普通にやっていますが、これも、私達の教室の生徒達だけが持っている特別な技術なのです。

そういった事を生徒達が出来るようになるには、先生達が小さな生徒の犯すかも知れないミスを予め予測して、事前にちゃんと伴奏者に練習させるからです。
勿論、子供が失敗をする所は、pointを絞り込んで、伴奏のレッスンで練習をするのは当たり前ですが、それでも、子供が予測と違う所を間違う事はよくあります。
でも、予測と違う所で間違えても、間違いに対応する為のレッスンを受けている生徒達は、そこで驚いたり、パニクったりする事はありません。
それは、当然のようにその場で対応して伴奏をして行きます。
それが間違いの為のレッスンだからです。
しかし、ベテランの先生になると、子供が舞台でパニックを起こして、ミスってしまう場所の予測は、中々外さないのだよね。
という事で、上級生の生徒達は、小さな初心者の後輩達が演奏中に、間違えた時に、その失敗を最小限に抑えるために、対処の仕方の練習するのですよ。

しかし、教室に見学に来た先生が、その間違いに対応するためのレッスンを見て、烈火の如く怒り出して、「生徒の失敗を予測して練習するなんて、生徒に対して失礼じゃないですか?! 」と言い出しました。
「発表会で生徒が失敗しないように、子供が発表会を嫌にならないように、riskの対応の仕方の勉強をしているのですよ。」と、説明したのですが、納得しては貰えませんでした。
その先生の意見は「失敗させないように指導するのが先生の役目で、失敗した場合にどうするのか?というのを考えるのは論外だ!」 そうです。
でも、それでも、子供は間違うのよね。(勿論、大人でも、プロでも、間違う時には間違うのよ!!それが人間よ!!Oh,Gott!!)
教えた経験がないと、そこの所が分からないのでしょうね。
初心者だけではなく、神様と言われている歴史に名を残す演奏家達ですら、本番で間違う事は多いのにね!!

また、別の見学に来た人のお話ですが、上級生の伴奏者が小さなバイオリンの生徒を初めて伴奏をするというケースで、バイオリンの上級生が、その小さな生徒の代わりに、その子が間違うように、上手に真似をさせて練習をしていたら、 「伴奏合わせの練習は、本人同士じゃないと意味がないのではないですか? 」と言ってきました。
それも、誤った考え方です。
伴奏が上手くなる秘訣は、同じ曲であったとしても、色々な人の伴奏をすると、その都度、タイミングが違うのです。
その違いを理解する事が、どういうケースが起こっても、ちゃんとタイミングを合わせる事が出来るようになる秘訣なのですよ。

伴奏のレッスンでは、決して、突然のハプニングに対しての、場当たり的な対応を指導している分けではありません。(そんな事は、やろうと思っても出来ないでしょうしね!)

ヴァイオリンの上級生は、小さな初心者の後輩の生徒が、「何故」、「何処の所を」、「どういう理由で」 間違うのかを、知っておかなければなりません。
それは、同時に、「初心に還る」という事を学習する意味もあります。

初心に戻る事、それはより高度な技術を習得するためには、欠かせない勉強です。
本当の音楽を極めるためには、本当の初歩が理解出来ないといけないからです。
どのようなproの人達も必ず口にします。
「行き詰まったら、初心に戻る事だ」と・・・。
そのお話は、音楽技術の勉強のadviceで、何度もお話しています。
しかし、音楽を学ぶ者にとって、中々出来ない、一番、難しい事でもあります。

一流の演奏家が、10回の公開レッスンで、椅子の座り方だけをlectureしたお話とか、弓の持ち方だけで、10回のレッスンが終わってしまった、という話はザラです。

小さな生徒にとっては、発表会は晴れ舞台です。
そこで、失敗をしてしまうと、二度と「発表会には出ない。」と言い出すか、最悪の場合には音楽をやめてしまいます。
一般の教室では発表会の度に、2、3人の生徒がやめてしまうそうです。
勿論、「発表会を区切りに・・」 という生徒もいるでしょうが、それよりも「発表会の失敗がトラウマになって・・」という生徒が意外に多いのですよ。

車の事故のお話の時に、同じ話をしましたが、どんなに完璧に練習をしていても、ミスは起こり得るのです。
「それはアマチュアだから、初心者だから、犯すミスだ! 」と言われるかもしれません。
しかし私は、この歳になるまで、神様と言われるほどの超一流の演奏家達のコンサートを何度も聴きに行きました。
そういった演奏の神様と言われる人でも、突然、度忘れをしてしまったり、ケアレスミスをするという事は、日常茶飯事と言っていい程、演奏会の度によく見受けました。

しかし、プロは、やはりプロで、そのミスはアマチュア音楽家のミスや、野狐演奏家のミスとは根本的にミスの種類が違うのですよ。
先ず、彼らが犯すミスは、一般の人たちには殆ど分からないのです。
分からないように、上手にミスをする術を身に着けているのです。

普通は、演奏家の大半の人達が演奏会でミスをすることを怖がっています。
しかし私達が聴衆の立場で演奏家の音楽を聴くとすれば、聴衆が求めているものは、「何をもって自分たちを感動させてくれるか…」ということであり、それが一般の人達が「音楽を聴く」という事の意味であり、演奏家のミスも、大したミスでなければ、それは取るに足らないことなのです。
日本の音楽大学を中心とした、アカデミズムの音楽を勉強をしている人たち、(所謂、音楽を完璧に演奏するということだけを、目的として勉強している人達)にとっては、ミスはその演奏会での致命的な失敗を意味します。
でもそれは、私達にとっては、実にくだらない事に思えます。

ちなみに、私達の教室の生徒達は、弦楽器の生徒でも、ピアノの生徒でも、実にミスを犯すことが少ないです。
それは何故かというと、常にミスに対して真摯に向き合って、その対応や処理の仕方を研究しているからです。

車の保険の話に戻ると、高額の保険を掛けている人は事故に対する意識が高いので、事故を起こす確率は非常に低いのです。でも、「俺は運転が上手いし、事故を起こす事はないから」と、保険に入らない人こそ事故を起こす確率を上げている人なのですよ。

危機管理がちゃんと出来ていれば、危機に陥る事は根本的にありません。
危機管理がちゃんと出来ていないから、ミスを普段からするのです。
危機に対しての意識がしっかりしていれば、ミスを犯す事はありません。また、仮にミスをしたとしても、そのミスは殆ど気付かれないミスです。それは「ミスの犯し方の対応」がキチンと出来ているからです。
ミスを犯さない性格とは、ミスに対しての危機意識とその対応がしっかりした性格のことなのです。
ミスを犯した事を人の性にしたり、気にもしなかったりする不遜な人は、所詮、ミスから逃れられる事はありません。

[double-bookingと優先度(もう一つのミスの意識)]
ある業者の方に、10年以上仕事をお願いしていました。
しかし、その人が10年を過ぎて、始めてdouble-bookingしてしまい、私達の仕事ではなく、別の仕事に行ってしまいました。
私は、例え、そのmissがその時の、たった一回のミスだったとしても、それまでの10年間のお付き合いがあったとしても、それからは、一度も仕事をお願いしていません。
二度とお仕事をお願いする事はないのです。

うっかりしてdouble-bookingをしてしまったという失敗は誰でもあるかもしれません。
しかし、私は半年前に仕事の日にちを予約していたわけだし、2週間前、1週間前の通常の連絡は、あくまで確認に過ぎないので、そこで仕事を発注している分けではないからなのです。
今回の業者の方の場合、何故、二度と仕事の発注をしないという厳しい選択をしたのかというと、double-bookingをした時に、その業者の意識として「約束をした日にちを(先約を)優先する」のではなく、「自分にとって価値のある仕事を優先させた」と言う事が許せないのです。
もし、プロが罷り間違えて、double-bookingをしたという場合には、それがどういった仕事であろうと、「先にアポイントが入っている方が優先する」というのが、プロとしてのルールであり、それが社会人のルールである事を疑う人はいないでしょう。それは当たり前の事なのです。
しかし、本当に当たり前の事でしょうか??

私が教室の外の仕事で、結構社会的に重鎮な人との重要な仕事のアポイントが入って来た時に、私が子供のlessonが入っているので、そのアポを断っているのを聞いた人が、「どうして、重要な価値のある大切な仕事よりも、普段の子供のlessonを優先するのか分からない!」と驚いていました。

しかし、これは本当に社会的に尊敬されて、仕事が出来る人から、私が直接教えて貰った事で、「仕事に優劣を付けたら、社会人としての信頼をなくしてしまう。」と言うことなのです。
「子供だから、後回しにする」とかいう身勝手なルールを優先する人は、仕事をする人達には分かります。そして、そういう事をやっているのを見ると、決して信頼はされなくなってしまいます。
何時、自分がその立場になるか分からないからです。
或る会社が潰れかかった事があります。
殆どのクライントが逃げ出して、取り引きを止めた中で、私が「何か手伝ってあげようか?」と話を持ちかけた時に、何千人というクライアントの中で、私同様に救いの手を差し伸べた人達が数人(一桁ですよ!)いたそうです。
その会社は、ちゃんと持ち直して、それ以降は、私の我が儘を何時でも優先的に聞いてくれます。
信用と信頼を得る事に勝る価値はありません。
もし、何かミスを犯したとしても、社会人としてのルールを守るという事、約束を守るという事、それが社会人としての信用と信頼を得る事なのです。

[メモについて]
ホームページにも書いているように、私は30歳頃までは、ノートやメモをとらないことで知られていました。
日常の予定や仕事の内容や、伝達事項等々、ノートやメモに書くという習性は全くありませんでした。
という事で、私にはその時代迄のノートや手帳は全くありません。(住所録を除いては・・)  
しかし、30代の真ん中ぐらいから、物忘れをするようになってしまいました。
そこで、ノートやメモ帳を持ち歩かない私が、仕方なく、ノートやメモを取るようになったのです。
しかしながら、普段から、メモを取るという習性がないので、折角書いたメモを見る癖もないのです。
そういったメモを見るという事をしなれていないので、最初は仕事に落としがあったり、ダブルブッキング(double-booking和製英語??)をしたりする事もありました。
だからそういった失敗がないように少しずつ、色々と工夫を重ねて、今日に至っています。
相変わらず、memo帳や鉛筆などを持ち歩かない私は、ちょっとした事をmemoすることが中々難しいのです。

私がまだ若い頃は、大学の先生をしていました。
遠方の大学に通っていた時には、車の運転をしながら、車にカセットテープレコーダーを持ち込んで、大学や仕事の行き返りを利用して仕事のメモを録音していました。
今は車を使う事はあまりないので、携帯のmailで自宅のパソコンにmemoを送って、outlookの中で自動仕分けの機能を使用して、論文memoや買い物memo、教室関係など自動的に仕事のfileに分類されるようにしています。

ですから、先生達のlessonなどで気が付いたcheckpointなども、携帯で自宅にmailをしているのです。
私の仕事の予定は、私自身で決める時と、教室が勝手に決めてくる時があります。
勿論、その時にdouble-bookingしないように、事務所のパソコンの予定表の予定を、ハイツのパソコンに転送してもらっています。

[レッスンをしても直らない]

子供のレッスンで、先生から「毎回同じ事を指導し、注意をしているのに、家に戻るとその注意を忘れてしまって何度、同じ注意をしても、直らない、直して来ない。」と怒っている(悩んでいる)という相談を受けました。

この話を聞いて、私が未だ若かりし頃の昔、生徒にレッスンをした時に、或るpassageをちゃんと弾けるようになるまでlectureして、ちゃんと弾けるようになった生徒に、「家でもそのように練習して来るのだよ。」と宿題にして帰しました。次の週には、何と、元の木阿弥で、すっかり元に戻っていました。また、先週と全く同じレッスンをして、ちゃんと演奏出来るようにして、「家でもそのように練習して来なさい。」と言って帰しました。でも、次の週も全く同じように、元の木阿弥に戻っていたのですよ。それから、半年間、私は全く同じレッスンをしたのですが、その生徒は半年間経っても、同じように間違えたまま練習して来たのです。その時に「半年間、同じレッスンをする私も私だが、それを始めて聞いたように半年間レッスンを受ける生徒も生徒だな!?」と、感心したものです。その生徒は本当にその都度、始めて私のアドバイスを受けていたのですよ。毎週同じ注意をしているとは、おクビにも思ってはいなかったのですよ。

しかし、こんなお話ではなくて、この先生の質問と生徒の感じ方は、全くそんな不思議なものではありませんでした。
生徒によく話を聞いてみると、その先生が注意した意味や、どう言う風にすれば直す事が出来るのか??という事が、全く分かっていなくって、それが生徒の言う所の「忘れた!」という原因になっているようです。
私が代わりにレッスンをして、その生徒が、担当の先生が話をしている内容をどの程度理解出来ているのか、を説明しながら、分かっている所を確認して、分からない所を分かるように確認しながら説明して行くと、レッスンの途中から生徒が目を輝かして来て、レッスンの中で、もうちゃんと弾けるようになってしまいました。
でも、それで、合格ではないのですよ。
先程の例のように、そこからが宿題なのですよ。
生徒が自分自身で弾けるようになったから、出来るようになったから、始めて宿題にする事が出来る分けで、「生徒が出来ないから宿題にする」のでは、生徒は宿題をやって来ないのですよ。
弾けないpassageの原因と、そこの所をどう練習すれば、弾けるようになるのか??、生徒がそこの所が分からない限り、幾ら先生が練習をするように、言っても、生徒がその曲を宿題でやって来るようになる、・・・という事はないのですよ。

つまり、生徒自身が、いくら 「この次は、宿題を絶対に忘れないように練習しよう!」と思っても、その原因が分からない間は、人は必ずまた練習自体を忘れたり、練習したとしても、間違いを直せるものではないのです。
だから、レッスンの問題点が分かったから・・・、出来るようになったから・・、といって、合格にしてしまっていては、生徒は宿題をやって来るようにはならないのですよ。

その話は、その先生には、何度もアドバイスをした事があります。でも、その先生が「子供の指導を上手く出来ない」という事なら、本当の原因は何でしょうか?
その究極の原因は何処にあるのでしょうか??

先生が生徒をレッスンしている時に、子供がmisstouchをしたとしたら、その原因を探して教えてやる事が先生の役目で、惹いてはそれが先生の指導力のupにもつながっていくのですが、殆どの先生がmisstouchをした事を指摘出来たとしても、その正確なpointを指摘し、どのように練習すれば上手になれるのかを指導出来れば、レッスンは上手く行くのでしょうが、生徒が中々ちゃんと曲が弾けるようにならないのは、先生自身が物忘れの原因を探せない事と同じ理由のように思われます。

ちょうど、今回も、このmailを書いていた昨日の深夜に、担当の先生から「あなたが伴奏の楽譜を忘れた事で、子供との伴奏合わせが出来なかった。」との報告を受けた時に、「もう少し、前にこのmailがあなたに届いていたら、よかったのに・・」 と思いました。


もし、自分のミスの原因とその対応が分かるのなら、誰でも簡単にそういった日頃のちょっとしたミスを直すことで、自分自身の性格を直していくことが出来るのです。
でもミスを繰り返す人は、傍の人が外からその人を見ているようには、自分の事が見えないのが人の常です。
悩んでいるからといっても、それに対しての対応処置を教えても、それを忠実に守って行く人は殆どいません。
何故ならば、そのmissを犯すのは、そのmissに対して問題意識がないからmissを犯すからなのです。
自分がmissに対しての価値観がないから、ミスを繰り返す人は自分の改善が出来ないのです。

自分が犯すmissに対して、どうして価値観がないのか??っていう事ですか??
何故ならば、人間は無意識に、自分の身の回りの事に対して「価値付け」をしています。
ですから、もし本当に、その人がミスを犯すという事を、大切に思うのならば、自分にとって大切な事に対しては、「忘れる」という事はしないのです。

しかし、世の中には、その人が「本当に大切だ!」と思う事でも、それでも、ミスしたり、忘れたりする人がいます。
それは、その人の失敗が、余りにも日常化してしまっていて、失敗を犯す事自体がマンネリ化していて、その人にとっての、ミスの価値観そのものが失われてしまっているから、価値のある事でも失敗をしてしまうのです。
つまり、「物忘れ」をする事が、余りにも当たり前になってしまって、「物忘れ」によって失うもの自体を見る事が出来なくなってしまうのです。

という事で、日常化してしまった自分の欠点を本当に直したいのなら、普段なら見過ごしているような、ウンと些細な「物忘れ」を許さない事です。


[忘れるという事の意味]
私はレッスンは当然の事ですが、伴奏や指揮を頼まれた時にも、必ず自宅で楽譜を取り出して下見をします。
そこで、ある程度の指導上のpointや、lectureの手順を立てます。
指導上のpointと言っても、生徒のlevelによって、指導出来る範囲が自ずから限定されていきます。生徒のレッスンが無理難題にならないように、生徒の勉強の進度によって、指導する内容も限定されていくからです。
そういった事も含めての楽譜のcheckなのです。
しかし、教室の先生達は、私が自宅用の楽譜を準備するように言っても、なかなか自分の仕事が忙しいために、楽譜を準備してくれない事が多いので、私が練習日の当日や前日に、「もう、指揮をしない!」とか「伴奏しない!」と怒り出したりする事もあります。勿論、自分で準備すれば良いだけの話なのですが、中々そこまでの下準備が私も体力的にも時間的にも出来ないからです。

今回も、月一の私のレッスンの時に、Mozartのconcertoの2nd Piano(オーケストラ・パート)の伴奏を、いきなり生徒のlesson当日に「弾いてください。」と言われて、困ってしまいました。

「初見で演奏する事が、出来る、出来ない」・・という話ではなく、その場で楽譜を見せられても、老眼が酷いので、メガネをかけていたとしても、大体、楽譜自体がよく見える分けではないので、頭に覚えているウル覚えの音を、そのままの感じでイメージして弾かなければなりません。

「それが私にとっては苦痛なのだよ!」 と言うのが、先生達には、なかなか分かってもらえないのです。

特に、教室でレッスンに使っている曲(楽譜)の多くは、CDも出ていない日本初演の曲が多いので、You Tubeで探しても曲を聞く事が出来ず、楽譜を読んで楽譜上で曲想を作らなければならないことが多いのです。
そのときにレッスンの時にいきなり楽譜を見せられて、初見視奏で伴奏や曲想までのレッスン、と言うのは矢張り、相当にきついよね。

ですから、今回のお話のように、当日まであなたが「楽譜がないという事に、気づかなかった。」 と言う事は、逆の見方からすれば、あなたは、潜在的には、子供との合わせを「初見で伴奏をしようとした。」と言う意味になりますよね。
「当然、所見で弾ける曲だ」と思ったから、その曲を準備出来たか否かのcheckが、そこまでも行かなかったのですよ。

指導者として、生徒と接する時に、先生という立場として、「絶対にやってはいけない事」と、「心に思ってはいけない事」があります。

それは、「子供の曲で弾くのは簡単だから、予め練習しておかなくても、初見でも充分演奏出来る」と舐めてかかることなのです。

この事は、私がBeyerやDiabelliの教則本の解説のPageでも、何度も先生達に繰り返し言ったり、書いたりして、注意を喚起している事なのですから、今更、蒸し返さなくても良い事だとは思いますが。

Beyerの段階でも、ちゃんと楽譜を下見して、完全に記憶しておかなければ、指使いや手の型、touchの仕方等に充分な注意が行き届かないのは当たり前です。

伴奏も全く同じ事が言えて、譜面上はどんな簡単に見える伴奏であったとしても、子供と合わせるには、子供の目を見て、演奏を聞いて、合わせて行かなければならないので、タイミングを取る事は、大人との合わせと違って、非常に難しいのですよ。

特に、初心者の子供が演奏する場合には、思いもよらないハプニングが起こったりします。
その時に伴奏の先生が、うろたえたり、下手な対応をしたりした場合には、子供自身だけでなく、保護者の人達からも、先生自身が信用されなくなってしまいます。

そういった事がないように、ちゃんとriskに対応出来るように先生もよく子供の状態を把握しておかなければなりません。
そういった事も踏まえたて伴奏をするとなると、事前にcheckしておかなければならない事が結構多いのですがね。

そこまでの意識を持って、伴奏の譜面を練習するのならば、伴奏の譜面を忘れる事はないと思いますし、最悪、教室の生徒達のように、突然「伴奏してちょうだい!」と言われた時にも、暗譜で伴奏をする事が出来るので、伴奏で「譜面がないから・・」と基本トラブル事はありません。

あなたが最悪伴奏譜を忘れたとしても、「暗譜出来ているから、大丈夫!じゃぁ、合わせようか?!」という一言が言えたなら出、生徒からの信頼を失う事は無かったと思いますよ。

今回のオケ練習の時にも、Genzmer先生のPianoconcertoの練習の時に、私が「G3からね!!」と言うと、生徒が「何処ですか?」と質問しなおしてきた事があります。楽譜を忘れてきたのですよ。でも、オケ練習は元々、暗譜なので、譜面を置いていない事がよくあるので、気がつかなかったけれど、その生徒が私に怒られたのは、楽譜を忘れた事ではなく、練習番号を一緒に覚えていなかったという事です。
私自身、生徒に注意したpointは、4、5年間は全て覚えています。だから、オケ練習で生徒が練習をやってこなかった時など、前回や前々回のレッスンを全て復唱する事があります。勿論、オケ練習はスコアーを使用しますから、書き込みは基本的にはしません。全部、記憶です。
という事で、Pianoの生徒は、楽譜に注意を余り書きません。その場で覚えて直してしまいます。
だから、楽譜を忘れても、構わないのですよ。・・・・それが出来るのならばね!!
出来なければ、ちゃんとメモをしっかりと取らないとね。それは、そのどっちかなのだよ!!

さて、子供との合わせの話にもどって、・・・・
私は、事前に楽譜をcheckする時には、簡単な曲でも口でヴァイオリンやチェロのpartを歌いながら、どう合わせればよいのかcheckします。

私の場合には、violinやcelloの音の動きは、指使い的にも、理解出来るので、子供がどういう所で躓くか、を予測する事が出来ます。
また、作曲家としての立場から、事前に子供達がどういう所で記憶違いや演奏の間違いを引き起こすかも予測する事が出来ます。

だから、子供の伴奏のレッスンをする時に、そのcheckpointを抜き出して、子供と一緒に練習します。
そういった曲に対する、というか、伴奏に対しての、真摯な態度の一つ一つが、子供から信頼を勝ち得る手段になるのですよ。

という事で、これまで教室の先生になった人達には、子供達と一緒に伴奏の勉強をして貰って、ヴァイオリンの伴奏譜の殆どの曲を暗譜して貰っています。
「何時、何処でも、伴奏が出来るように!」という理由です。
伴奏の譜面を完全に暗譜をして、soloを弾く人の様子を観察しながら伴奏すると、伴奏の本当の難しさが分かって来ます。

こういった勉強方法には、色々とメリットがあります。
単に技術的な向上だけではなく、実質面のメリットも沢山あります。
その一例をあげると、
先生達がその先生の音楽大学時代のviolinの友人から「伴奏者がいないので伴奏してほしい。」という依頼を受けて、伴奏をしに行ったら、相手の先生から「子供の合わせが慣れているのですね〜。」とか、「ヴァイオリンの伴奏をしたことがあるのですね〜。」と、伴奏のベテラン奏者として扱われたと喜んでいましたよ。
勿論、褒められた・・という事だけではなく、勿論、子供の発表会の伴奏のオファーだけでなく、歌の伴奏や、合唱団の伴奏等と、いろいろな演奏会の伴奏のオファーも沢山来るようになるのですが、それは生徒との伴奏合わせで、伴奏のタイミングをよく勉強出来ているからなのだと思いますよ。
伴奏は相手からの注文で演奏に行くので、結構な収入になりますよね。