Vivaldi celloconcerto d  楽譜の誤りと考察

2013年6月30日の八千代市生涯学習プラザ主催のコンサート風景
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baroque時代の楽譜は、どうして間違いが多いのか? その間違いは、どのように修正されなければならないのか?

日本人の場合には、出版された著作物に関しては、絶大の信頼を持つ。
特に日本人の音楽家の場合、・・・それも音楽大学の教授達ともなると、外国の権威のある楽譜に対しての、絶大なる信頼は、もう宗教的な信仰にも勝るとも劣らない。
私の場合には、Bachの平均律の楽譜等も、勿論、facsimileから始まって、Henle版や、今は絶滅危惧種に比較されるBusoni版や、果てはBartok版に至る迄、10冊以上の楽譜を所持している。勿論、演奏のCDやレコードも数多くの全集を所有している。
その理由は、色々な版のconceptを比較検討する事が、その曲の理解をより確実なものにするからであり、如何に天上天下唯我独尊の釈迦牟尼であろうと、独り善がりの独断と偏見に陥る事は避けなければならないからである。

VivaldiやBach等のbaroque音楽に限らず、ロマン派の作品や近現代の作品に至るまで、楽譜には結構間違いが多い。

一般的には楽譜上に記載されている間違いを、人が指摘する場合には、その人が昔「自分の師匠からそう習った!」という単なる自分の師匠からの教えを信じて、自分が過去に師匠から習った事を鵜呑みに頼ったり、過去に自分が聞いて感動した演奏による感覚的なimageによって、支配される事が多いのだが、それは全くの論理性の無い単なる感情論に過ぎない。
そのために、演奏家同士の、記載されている楽譜についての論議や、その拠り所は、演奏者達の単なる感情論であり、「これが正しい!」「いや、間違えている!」というお互いの水掛け論で終わってしまう。
その時に必ず出て来る言葉が、「私の先生はこう言った!」「否、私の師匠は・・・!!」という、「師宣わく、・・・」という、伝承の原理である。
アハッ!

我々が楽譜上の間違いを修正する場合には、楽譜を訂正する時には、幾つかの原則論がある。
先ず、その第一としては、その内容が情緒的であり、感情的な問題に過ぎない場合には、演奏家の思惑よりも、先ず作曲者の原譜を最優先とする。

しかし、BeethovenやSchumann等の、多くの作曲家の場合でも見受けられるように、作曲家自ら改訂をして第二稿、第三稿を出版していることもある。
楽譜を出版する時に、どの版を最終稿とするか、という事で、出版社とBrahmsやクララが、底本として推奨する版が違ったために、それで険悪になってしまった事もあるくらいである。

私が、楽譜を訂正する場合には、基本的に「校訂者の明らかな誤り」と思われる場合には躊躇なく楽譜を訂正して演奏している。
勿論、楽譜の訂正は明らかに誤りと認められる時にかぎっているのであるが、何故、その楽譜が間違えていて、どういう風に訂正をしなければならないのか、というその理由を生徒達に説明する事は、難しかった。
何故ならば、日本の音楽界では、楽譜の訂正は、上記に述べたように、指導者が昔、師匠からどう習ったのか?・・という事や、単なる指導者自身の感覚で訂正される事が多かったからである。
しかし、本当の日本の音楽界の問題点は、寧ろ、出版された著作物である楽譜に対しての、至上主義な考え方や感情論にあって、「明らかに間違いであるという事が、分かっていても、印刷されたものは、絶対であり、習性はしない」という方が、一般的なのだからである。


生徒達が対外出演を経験し、音楽に対してのモチベーションが上がることによって、また、教室の楽典のカリキュラムも少し上がってきたので、楽譜上の誤りを論理的に説明しても、理解出来るような水準になって来たと思われる。

今までの教室の楽典のカリキュラムも、通常の音楽の勉強の延長線上で、学校教育や音楽大学の受験を対象にしたオーソドックスなカリキュラムであったのだが、今回、私が小、中学生の楽典を半期に渡って、(体力が許せば全期)面倒を見る事になったので、楽典の本来的な意味である、実際の曲に対しての、interpretationや音楽表現の為の楽典というconceptで、指導を始める事にした。

という事で、今までは、指導者が一方的に、楽譜の誤りを訂正して、生徒に提供していたのだが、これからは「何故、この出版されている楽譜は誤りなのか?」、という意味を、理論的に理解させる目的もあって、ここに訂正をした理由をupする事にする。


baroque時代や古典派の時代以前の楽譜の間違いの原因と、それ以降の時代では、間違いの原因となる状況や理由が全く違う。
ロマン派以降の時代の譜面上の間違いは、作曲者の楽譜が汚くって読み取れなかった、とか、作曲者の単なる凡ミスや、Mozartのように、繰り返しの時には、その譜面を省略して書かなかった事による校訂上の解釈の違い等による場合が多いのだ。
そういった作曲者の楽譜がしっかりと残っているロマン派以降の時代と違って、古典派の初期やbaroque時代の作品は、楽譜が紛失している事に起因する譜面上の誤りが多いのである。
原譜が存在しないのだから、幾ら権威のあるリコルディー版やペーター版、或いはヘンレ版でも、音を楽譜上に記す場合でも、版による音の違いや、誤りが当然数多く見受けられるのだ。

その楽譜が残っていないという、根本的な理由は、baroque時代や古典派の時代では、時代的が古くて、資料自体がもう既に紛失して残っていないという理由が最も多いのは当然だが、それ以上に、作曲が教会の毎週の行事(Gottesdienst礼拝、祭式、ミサ)のためや、貴族の食事のBGMやイベントの為に、書かれたものが大半なので、楽譜を出版しようとかいう意識自体が当時の社会にはなく、音楽はその場のBGMとしての意味でしかなく、「使い捨て」として作曲されたからである。また、当時はまだ、紙は非常に高価なもので、作曲者が使用していた楽譜も、裏に次の曲のpartを書いたり・・・と、使い回しをされて、そのまま、紛失したものも多かったのだ。
指揮用のスコアーでも、Peters版やRicordi版の幾つかは、作曲者、或いは古い原典による音符ではなく、校訂者の手による補筆の場所は小さな音符で書き表している譜面もあるのだが、それは出版社のmoralによるものではなく、あくまで、校訂者の親切心から来るものであり、Peters版だから、或いはRicordi版だから、「そういう出版上のルールや原則の下に校訂する」・・・・という決まり決まった約束事によったものではないのだ。(実音〈ちゃんとした大きな音符〉で書かれていているからと言っても、それが作曲者の確実な手稿によるものである、という保証はないのだよ。
「それは何故か??」って??

古い時代の楽譜は、幾らVivaldiやBach等ような著名な作曲家であったとしても、数多くの曲がスコアーさえもない状態から、教会等に偶然、残されていたpart譜や、オケ譜の中から、それらを収集し、解読し、そこから新たに譜面を起こし直し、補筆訂正して、やっとの事で出版にこぎつけたものが殆どなのだからである。
まるまる1ページ紛失していたり、すっかり汚れてしまっていて、殆ど読み取れなくなっていたり、はたまた破れていたり、ちぎれて、断片的にしか残っていなかったりする膨大な反古の紙から「楽譜を読み取っていく」・・・という超難関な作業を経て、それこそ血の滲むような努力の末に、楽譜起こしの作業や楽譜の校訂がされてきたのである。
校訂者は、明らかに誤りだと分かる譜面であっても、自分の判断や感情的な解釈を優先せずに、なるべく原譜に忠実に譜面を再現して出版しようと試みるのである。
だから、楽譜の誤りが、単なる校訂者による凡missではなく、逆に、校訂者の意図したものである場合も多々あるのだからややこしい。

楽譜の誤りが起こる理由はそれだけではない。
むしろ、原譜が誤っている場合の方が多分多いだろう。
作曲家が無意識に起こすミスは、実際上はあまり見受けられないので、論外として考えるとしても、baroque時代には、毎週催されるミサや舞踏会等の為に、作曲家本人だけではなく、家族総出で、毎日毎日を弟子達も含めてpart譜作りに追われていたのだよ。そこで、単純な凡missが起こったとしても、何の不思議もない。毎日をパート譜作成に追われていれば、それこそ本番のための演奏の練習どころではなかっただろうよ。練習する時間をひねり出すために、一分、一秒も惜しんで譜面(パート譜)作りに追われる毎日が作曲家の仕事だったのだよ。
この時代の作曲家達は、普通一週間に一曲・・ではなく、一コンサート、(所謂、一イベント)のペースで曲を作っていたのですよ。そういった日常の仕事をこなしながら、大きなイベント、(つまり大きなミサやフスト)のための曲を並行して作曲しなければ、ならない。演奏の企画や出演者の人選から、町や教会との交渉、演奏者の練習、それらの膨大な仕事をこなしながら、しかも、お弟子さんや子供達の音楽教育までこなす。BachやWagnerがこなしていた日常作業を調べた研究書があって読んだのだが、とても、人間技とはとは思えない仕事量で、同じ人間が数人いて分担して、仕事をしていたのではと、思ったよ。
いゃあ、ちょっとしたスーパーマンだね。
勿論、だんだん仕事の分業化が進んでくる古典派の時代からは、作曲者はもう少し、日常を取り戻す事が出来たのだがね。

そういった諸事情からも、今現在我々が手にして、見ている楽譜は、当然、作曲者自身の手で書かれたものではなかったり、作曲者が書いた譜面であったとしても、非常に雑に書かれていて、判読不能であったり、或いは、当然、単純なケアレス・ミスも多かったのだ。

そういった事も配慮して、やっと校訂され、完成した譜面が、今日の出版の拠り所となっているのである。
しかし、その出典の譜面が明らかに誤っていると判断される場合に於いては、校訂者も原譜を忠実に尊重すべきか、それともその作曲者が基本としている、作曲上の論理性を重要視するかは判断に悩む事であろう。
それが、baroqueや古典派の音楽を、演奏する上での必然的な、楽譜との接し方になっているのだよ。
時代が、もっと降って、古典派も後期になってくると、楽譜を専門に出版する業者も登場し、楽譜も徐々に作曲者の意図を正確に把握したものとして、そういった出版がなされるようになってきた。

しかし、それはそれで、ロマン派の時代になっても、しかしある意味、別の次元で、作曲者の意図ではない校訂者の都合による楽譜の変更がよくなされた。

chopinの楽譜の版権を持っているペータース版でも、Chopinの譜面は初版の出版の時に、出版者の手によって色々と書き加えられている。
世界中の出版社はchopinの作曲した楽譜(所謂、原譜)を持つ、Peters版を底本にして出版している。
つまり、chopinの楽譜はPetersの校訂者が勝手に改編した版を基準にして、楽譜を出版しているのだ。
勝手に・・という事は「chopinのおよび知らない所で・・」という意味ではない。勿論、Petersはchopinの了解の下にその改訂をしているのだ。
chopinは、ストイックな迄に楽譜に忠実な演奏を要求するBachやBeethovenとは全く違って、自作を演奏する上では、全く寛大であった。自分の弟子が、技術的に弾けなかったら、音符を減らしたり、変えたりして、簡単に弾けるようにして指導したり、逆に、自分が演奏する場合でも、色々と装飾を付け加えて、飾りたくって演奏したりして、楽譜にはそれ程、拘ってはいなかったのだよ。そういったchopinの性格もあって、世界中でPetersの改訂された版がchopinの原譜として(今日でも)まかり通っているのだよ。
ポーランド政府は、そういったchopinの原譜とは違った楽譜が、chopinの楽譜とされている事に辟易して、政府でChopinのfacsimile版を廉価で出版した。
私もまだ音楽大学の学生時代にそのfacsimileを可能な限り手に入れる事が出来た。
私が手に入れた最初のfacsimile・・という事でもある。

でも、今でも、そのChopinのfacsimileの直筆譜を使用して演奏したら、誰もその楽譜を認めないだろうし、音楽大学の受験等でも、その楽譜を使用する事は認められてはいない。
印象が今日の我々のChopinの楽譜とはあまりにも違いすぎるからである。
だから、未だに、Chopinの曲はChopinが書いた(作曲した)ようには演奏はされていない。
作曲者の意図と反しても、出版社が楽譜に対しての強い影響力を持っているのは、今日でも変わりはしないが、それでも、baroque時代の楽譜の正確さは、近現代の作曲家の楽譜の正確さとは、比べ物にならないだろう。
というか、もうそれは、所詮、比較の対象にはならない。
という事で、baroque時代の曲を演奏する場合には、指揮者の楽譜を読み取る正しい力量が要求される事は否めない事実である。

その誤りを訂正する上での最も大切な基本は、Vivaldi時代でも、ロマン派の作曲家達でも基本的に正しい和声の法則に従って作曲をしているという事実である。
その作曲技法の中でも、一番多用されている作曲技法はquintZirkus、所謂、五度圏と呼ばれる作曲の手法である。Vivaldiやcorelli、Locatelli 等のbaroque時代の作曲家達は五度圏(quintzirkel)を多用する。その理由は即興演奏に於ける演奏のpattern化である。

baroque時代の演奏、特にbasso continuoにおけるviolinやCembaloのpartは、即興演奏をするために、一定のfigurationで曲の進行をpattern化して、即興演奏をより手軽にした。
所謂、5度圏の多用等のSequenzの手法による即興演奏の手法(Sequenz奏法)である。

当時の慣習から、逆の言い方をすると、そのSequenzの和音進行のpatternに乗って来ないpassageは、何らかのミスプリが考えられるのである。
Vivaldiのこのcelloconcertoは、色々な箇所に、その不具合を見つける事が出来る。
それは、校訂者の技術不足によるものである。
以下にその実例を上げて、考証をする。

Vivaldiのcelloconcertoの楽譜上の 間違いとその修正の仕方について


             Vivaldi celloconcerto d T楽章 18小節目から23小節目までの問題点



              original  

次のpassageは17小節目からのVivaldiのoriginalの出版されている楽譜です。
この譜面での6小節目(22小節目)では、とんでもない響きがします。
パソコンの音源ですが、参考までに掲載しておきます。



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