Tomaso Antonio VitaliのChaconneのお話

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まえがきに代えて 
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 Chaconne onparede
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                        まえがきに変えて

  普段なにげなく聴いているbaroqueのviolinと、baroque時代のviolinの音楽のお話
   
私達が何気なく、聴いているbaroqueの音楽なのですが、実はpianoの伴奏で演奏をしている音楽は、baroque時代の本当の音楽の演奏形態(style)ではありません。
勿論、当たり前のお話しなのですが、当時は未だpianoが無かったのでね??

ですから、この有名なVitaliのChaconneを含めても、多くのbaroqueの作曲家の音楽なのですが、pianoの伴奏で演奏された次点で、その音楽はbaroqueの音楽とは原則としては呼べないのです。
baroqueの時代の、 bezifferten Baßの(basso continuoの)様式から逸脱して、全く別の次元の音楽になってしまうからです。
勿論、baroque時代にはPianoという楽器はありませんから、pianoの伴奏でbaroqueの音楽を表現すると、当時の演奏形態の音楽とは演奏の様式が全く違っていて、別の音楽になってしまうからです。

しかし、こんにちでは、proの音楽家達でさえも、Pianoで伴奏されたbaroque時代の曲を、「これはbaroqueの音楽だ❢」となんの疑いも無く、信じているのです。
関ヶ原の戦いに、機関銃を持った少女が戦車に乗って現れても、それが戦国時代である・・と信じているようなものです。
lächerlichなのだけどね~ぇ??

こんにちの一般的な演奏会で、baroque音楽を演奏する場合では、古式豊かに、Cembaloやcontinuoの低弦楽器で演奏する事は、殆どありません。
また、そう言ったPiano用にarrangeをされたbaroque音楽を否定している分けでもありません。

ただ、今聴いているのは、本当のbaroque時代の音楽では無い・・という理解が必要なのだと、思うだけなのです。

そういったbaroqueの音楽を近現代の演奏様式で演奏するgenreを、基本的には「擬古典」の音楽と言います。


但し、この『擬古典』という言葉による、分類は、baroque時代の音楽だけの言い方であって、古典派の時代からは、(厳密には違うのですが、)近現代とほぼ、同じ種類の楽器が使用されるようになったので、Mozartのviolinsonateを現代のpianoとviolinで演奏しても、「擬古典」と言う事はありません。

また、baroque時代よりも古いRenaissanceの音楽やそれ以前の時代の音楽は、作曲様式や使用されている楽器が、近現代の楽器とは全く違う異次元の音楽になるので、そこから擬古典的な音楽を作る事は不可能なので、擬古典の音楽は今の所はありません。

古典派の時代のHaydnの初期から中期までの、PianoSonateは、厳密にはCembaloのために書かれていますが、後期になると、Piano(当時は未だ、single actionのforte-pianoではありましたが・・)Pianoのために書かれるようになりました。と言う事なので、音楽の表現はこんにちの様式とはあまり違いがないので、この時代の作品も擬古典と呼ばれるような作品は存在しません。
つまり、擬古典というgenreの音楽はbaroqueの時代に限られた表現型なのです。

baroque時代のsoloの作曲法に関してのお話ですが、baroque時代のsoloの楽器では、特に伴奏の楽器を指定する事はありませんでした。
baroque時代では、violinのsonateは、古い時代のviolinとCembaloと通奏低音のcello(若しくはviola da gamba》のensembleで演奏されるのが一般的でした。

勿論、庶民的にはviolinとCembaloの代わりにguitar(Laute=リュート)がよく用いられました。
つまり、例えviolinのsoloの曲であったとしても、violinと通奏低音楽器の二重奏による複音楽(多声部の音楽=polyphony)であったのです。

soloの曲という事で、紛らわしい言い方をしてしまいましたが、完全な伴奏を伴わないsolo楽器の場合には、わざわざと『Ohne Begleitung=伴奏無しの』という脚注が入るのが原則です。
continuoのpartは、和音を意味する分けなので、solo楽器とcontinuoの場合には、gambaやCello等の人との二重奏の場合と、 bezifferten BaßによるCembaloやguitar等の和音楽器が入って3人で弾く場合や、低音楽器を省いて、guitarやCembaloだけで伴奏する場合もあります。

つまり、「そこに居る人がなんの楽器を弾けるか??」で演奏形態が決まったのですよ。
soloの楽器、自体も別になんの楽器でも良かったので、Violin(recorder)と指定されている場合すらあります。
Violinの和音で弾く箇所も、recorderの場合には、装飾音で弾けば良いのですからね??


pianoの編曲の場合には、soloのviolinに対して、完全に脇役に徹するので、soloと伴奏の音楽であって、そう言った様式の音楽を、Monophonyの音楽と言います。
つまり、音楽の様式がpianoの伴奏の場合には演奏様式さえ、変わってしまうのです。
ですから、『まるでbaroqueのような音楽』と言う事で、擬態の擬で、擬古典というgenreになるのです。


『蛇足ではありませんが・・・』

これは半ば冗談のお話になるのですが、一般的に擬古典と言われている曲の中には、擬古典の音楽を装っているgenreの音楽があります。

それは、恰もbaroque時代の作曲家が書いたように、書かれている贋作です。
そういったgenreの曲を、私の場合には、擬古典の擬を、擬態の擬では無くて、偽物の僞と書いて、僞古典と呼んでいます。
擬古典の作品は、このhomepageのthemaであるFerdinand Davidによる版でも、或いは、orchestraようにarrangeをしたVitali=Guerrini版でも、擬古典の音楽である事には変わりはありません。
Arcangelo CorelliのViolinSonateであるLa Foliaも、orchestraにarrangeされて、Corelli=Geminiani版として、教室での常設曲になっています。
こういったgenreの曲も数多く存在します。
よく知られた曲では、Albinoni=Giazottoのadagio等もあります。

また、原曲はTelemannのcantataの中の曲で、大変速いtempoの曲なのですが、倍近く遅いtempoで、全く違ったimageの曲に作り変えたKurt Redelのarrangeで有名になった『TelemannのAria』等があります。
Kurt Redelは、PachelbelのCanonを、世界的に有名にした人で、Classicの音楽を恰もeasy listeningの音楽のように心地よい曲にarrangeして、baroque音楽を一般の人達にClassicの音楽を身近なものにした指揮者であり、arrangerでもあります。勿論、楽譜は一般的には手に入らないので、この『TelemannのAria』の演奏の注文があった時には、一度、You Tubeで演奏を聴いて、fullorchestraの演奏だったので、教室のStreich‐Orchestra用に耳パクでジブリ風にarrangeしました。『TelemannのAria』


それに対して、全くの根拠のないbaroque様式の作品もあります。
例えばCacciniのAve Mariaのように、現代に作られた、名前だけをbaroqueの作曲家から拝借した贋作です。



このgenreではKreislerの右に出る人はいません。『pugnaniの主題に拠る』とか色々と数え上げると限がありません。

例えば、baroque時代の作品を、pianoの伴奏にtranspose(arrange)した作品で、最も有名なものは、Ferdinand Davidの「Die Hohe Schule des Violinspiels」の一連の作品です。
このVitaliのChaconneや、corelliのla foliaも、Leclairのviolinsonateや、Locatelli のviolinsonate等もpianoの伴奏にFerdinand Davidの手に寄って、通奏低音の書法から近現代のPianoの伴奏のstyleにarrangeされているのです。

これ等の作品は、baroqueの作品に対して、伴奏や演奏法の解釈を近現代風にしたものなので、擬古典の作品で良いと思われるのですが、お話はこれでは終わりません。
もっと、もっと、込み入って来ます。

G線上のAriaと呼ばれる、昔の曲を現代の手法で演奏した作品もあります。

勿論、原曲はJ.S.Bachの組曲ニ長調のAriaなのですが、ViolinのG線1本だけで演奏出来るように編曲しました。
このgenreはどういう風に言い表したら良いのでしょうかね??
Chopinのnocturneを、Violinで演奏したりする事も多いのですが、殆どの曲はarrangeとなっているようですよね??

Henry Ecclesのviolinのsonateのように、本来の和音をほんの少しだけ近現代風にarrangeして演奏している曲もあります。
ほぼ、baroqueなのですが、和音がbaroque時代の時代考証をはみ出しているのです。
まあ、厳密にはやはり、擬古典の作品に分類されるのでしょうがね??

originalと後世の偽作との判断が付き兼ねる作品を疑古典としている場合もあります。
VitaliのChaconneは、作曲家の作品であるという原本が残っていないので、疑作とされる事もあるようなのですが、写本は残っているので、真作と言って良いと思います。
その写本にも『Vitaliの作品』 と明記されているので、疑いはありません。

つまり、結論とすれば、私達がbaroqueの音楽と呼んでいる作品の大半は、多分後世の人達の手に拠る擬古典の作品なのです。

BeethovenやMozartの作品のように、当時の楽器とは全く違った楽器で演奏されても、pianoがforte-pianoになったからといっても、音を聴いて理解出来る人は相当の古典通うです。
古典派の時代は、既に近現代の楽器に相当近くなっているので、演奏を聴いても大差はないのですが、baroque時代の楽器では、古楽器というgenreになるので、そう簡単には行きません。

・・・と言う事なので、You Tube等でも、period・・・所謂、当時の時代の楽器と演奏styleを再現した、所謂、period instrumentsの拠る演奏は、必ず、明記されます。
「baroque-violinによる演奏」・・という風に・・・です。


『蛇足』ですが・・・・

『この所、繰り返されている超、ドジなお話し』

VitaliのChaconneのhomepageの超、ドジなお話です。


「提示部」
今回、2020年の5月に入って、You Tubeで
Chaconne on paradeという再生リストを作りました。

・・という事で、
『Ferdinand David版のChaconneの説明と、Chaconneのroots』に関しての解説のPageを、homepage上に書き加えようと思って、「芦塚先生のお部屋」のhomepageから『Tomaso Antonio VitaliのChaconneのお話』について書いているPageを探したのですが、驚くべき事に、『Johann PachelbelのChaconneのお話』『Hennry purcellのChaconneについて』のPageは、あったのですが、な、な、な、なんと! 「VitaliのChaconneのPage」が見つかりませんでした。

勿論、他の作曲家の『Chaconneのお話』の中には、『VitaliのChaconne』についても触れてはいるのですが、肝心要の
『VitaliのChaconneのPage』が無かったのですよ。

チョッと、
「Shock!」だったよな??

てっきり「もう既に、書いているものだ!!」・・と思い込んでいたのでね??


「展開部」

・・・という事で、折角の新型コロナ自粛宣言で、全く部屋の中から外に出れないので、一日中部屋の中にいる・・というchanceを最大に活かして、急遽、『Tomaso Antonio VitaliのChaconneのrootsとFerdinand David版について』の解説のPageを書き上げる事にしました。


通常ならば、私が論文を書く場合の手順としては、或程度迄は、反故の状態で「memo書き」を書き溜めて、それから糸口と全体の構成(所謂、bauplan=設計図)を作ってから、論文を書き始めるのですが・・・(と言うか、これは作曲をする時の手順と同じなのですよね??)今回は、そう言った材料が全く無い状態のままで書き始めるので、先ず、FacebookからVitaliのChaconne関する記事をhomepageに、
コピー&ペーストで、お引越しさせる所から始めました。
・・なにか、文章を書き始める前の、切っ掛けとなる糸口がないと書けないのでネ??

「まとめ」

私がFacebookを使用する目的には、通常は、「一般の人達への楽しいお喋りの延長で・・」※) という事で書いていますが、それとは他に、「教室の生徒達にオケ練習の伝達や練習のpoint等を確認する」・・という教室の生徒達への教育的な説明を目的とした文章の、異なったapproachがあるります。
※)
『芦塚先生の鬱々日記』とかいう愚痴をthemaにしたPageもありますが、音楽には関係の無い、日常的なよもやま話なので、『楽しいお喋り』の分類に、含ませておきます。

困った事には、文章が、その異なった対象に股がって書かれている文章があったりするし、且つ又、『折に触れて、徒然なるままに』・・思いついたら書き留めておく・・という恰も忘備録のようなstyleで書かれている文章もあるので、同じ内容への説明のPageや、解説のPageが、ダブって書いてある所が随所にあるのですが、当面は、そのまま掲載しておきます。

同じ内容のお話が随所に出て来るのは、そう言った一つの一貫した論文として書かれているのではなく、折に触れての、書いている時の状況によりますので、Alzheimerという分けでも無いので、当面はご辛抱ください。

Facebookの大きな欠点としては、昔書いた文章を探し出せない事なのです。

だから、Facebookをhomepageにコピペする時に、年月毎に分けて、更にその日に書いた文章に、後で探せるように、indexを付けておきました。

ここまでやると、Facebookが資料として使えるからです。


「VitaliのChaconneのPageの作成に付いての覚書」
2020年5月26日火曜日江古田ハイツの寓居にて・・    一静庵寂鬱 拝


「Coda」(追記)

・・・と思っていたら、なんと
VitaliのChaconneのPageがあったのだよ。
homepageのfileのindexのPageから、linkが外れていただけの事でした。
homepageのaddressをcheckしてみたらあったのよね???
超、ドジはドジなのだけど、それもまた、超、Shock!!です。

・・・という事で、同じVitaliのChaconneのPageを、Doubleで作ってしまった。
一つをFacebook用にして、もう一つを論文用にする事にします。

・・・と思ったけれど、面倒くさいので、新しく作った稿から、ダブった部分を探し出して、ダブった文章を削除して、ダブっていない別文章は古いPageにお引越しをさせて、古い稿の一本で纏める事にして、残った新しく書いたPageは削除してしまいました。

即断即決です。
(日伸ばしは、時の盗人=上田敏)

ここまでが『蛇足』のPageです。




これまで書き上げて来た、VitaliのChaconneのfile-boxです。

一冊はDavidーversionの作成用
もう一冊は、periodーstyle用のChaconneの作成用のfile-boxです。

後は、orchestraのversionでの校訂用と、芦塚versionのorchestrationの作成用のfileです。

それぞれ結構な量の楽譜や資料が入っています。

それはそうと、David版のoriginal版からのorchestrationのscoreを作ったので、finaleの音源で音出しが可能になりました。

また、Vitali=David=Charlier=Ashizukaーversionのorchestrationも完成しているので、てっきりYou Tubeへuploadをしていたものだと思っていたら、uploadしていなかったのよね??

多分、音源だと、音や音のbalanceが余りにも酷いので、uploadするのを躊躇してしまったのですよね??

生の音で演奏する予定は今の所は、全く無いので、computer音源でも致し方は無いと思っているのだけど、articulationを書き込んでから、uploadする事にします。
未だ、素っぴんの状態なのでね??

・・・という事で、『この所、繰り返されている超、ドジなお話し』に戻ります。

つまり、You Tubeのパソコン音源のChaconneの動画も、単にlinkが外れていただけで、既にuploadしていたのだよね??
・・・・という事で、古い資料となる「David版をそのままarrangeしただけの第一version」は削除してしまいました。

第二versionは、実際に発表会等で使用したCharlier版のpassage等を含む版なのですが、articulationやtempoの揺らし等を書き加えた第三versionを最終稿にする予定なので、ゆくゆくは、第二versionは削除する予定ですが、文章の中にlinkが張られているので、それを探すのが面倒くさいので、暫くは、後回しにしてuploadしたままにしておきます。

私は今はFacebookを使用して、論文等を書いていますが、Facebookの場合には、その時のPageしか、見る事はないので、本来は論文等の積み上げを求められる文章には適しません。

Facebookで或る程度の文章を書いてしまうのですが、Facebookを読む読者は、そのPageを読むのが初めてなので、『初めて読む人』と言う想定で文章を書かなければなりません。
同じthemaの文章をまた、違った日にちに書いた場合には、前に書いた文章の上に積み重ねて行く分けではなくて、最初の『初めて読む人』までの文章は、同じ内容の文章を繰り返えさなければなりません。

つまり、掲載された時期や書かれた文章の場所が違うので、その都度、同じ事を説明を繰り返さなければなりません。

ですから、こういった大きな一つの論文の中の文章では、同じ内容を繰り返さないように編集をし直すのが一般的なのですが、あまりにも長文なので、全体を一気に読む人が意外に少ないので、説明不足にならないように、割愛するのはやめておきます。

同じお話を、あちこちで繰り返しお喋りしたとしても、別にAlzheimerになってしまった・・という分けではないので、あしからず・・・




以下、indexのPageです。

                            indexへ

まえがきにかえて

VitaliのChaconneのroots

写本のfacsimile版を底本にしたperiod版のお話
Ferdinand DavidのPiano伴奏への改訂版のお話
更に、Charlier版へのお話


写真は八千代市の主催の芦塚音楽研究所のKoncertの風景で、曲はVitaliのChaconne g のGuerrini版での演奏です。
下の写真をclickすると、You Tubeにlinkします。You Tubeの中の「Chaconne on parade」の再生リストへのlinkになります。
   


通奏低音についての説明
baroque時代は通奏低音の時代とも言われているのですが、『通奏低音』と言われてもなんの事だか、分からないよね?? 
[通奏低音]とは、Italia語のbasso continuo(常時演奏される低音)という事で、和音を決定するための、soloの低音楽器で演奏するpartの事です。

鞘堂baroque-KoncertでのVitaliのChaconneのお話
facsimile版による写本からのoriginal版の作成
originalのVitaliのChaconneは、baroque時代の書法として、soloと通奏低音で書かれています。
鞘堂という変わった名前の建物で演奏されたbaroqueコンサートです。

CembaloとOrganのarrangeの違いについて
CembaloとOrganでは、音の響きが全く違うので、同じように演奏する事は出来ません。
それぞれの楽器で、作曲様式が全く違うので、書かれた楽譜が全く違います。
Cembalo用に書かれた楽譜でOrganの演奏は出来ません。ですが、逆にOrganのために書かれた楽譜をCembaloで演奏する事はよくあります。
Pianoの伴奏の楽譜は、baroque様式で書かれた曲ではなく、擬古典というgenreに属します。

写本のfacsimile版からFerdinand David版へ
よくVitaliのChaconneは、作者不詳と言われる事がありますが、baroque時代の作品ぐらいになると、作曲者の原譜が失われて、写本しか残っていない事は、決して珍しい事ではありません。
写本でも作曲者の名前が明記されていれば、充分なのです。
part譜の一部しか残っていなくて、後は後世の人達の手に拠る補筆である作品も珍しくはないからです。困った事に、UrtextAusgabe(原典版)と呼ばれる楽譜でも、補筆である箇所が明記されていない楽譜がよくあって、校正をする時に困ってしまう事があります。

Charlier版について
こんにちでは、VitaliのChaconneと言えば、Charlier版の楽譜を意味します。You Tubeでも、その演奏の90%以上の演奏が・・・、Charlier版で演奏しています。
しかし、本当はCharlier版は、Ferdinand Davidの作曲したChaconneの版を底本にして、編集し直した版なのだから、底本は、David版の校訂編集版なのです。

Ferdinand Davidの「Die Hohe Schule des Violinspiels」について
現代のbaroque音楽の基礎を作ったFerdinand Davidの教則本(曲集)のお話
これほど、優れた、今日のViolinのbaroque音楽の基礎を作った1冊の本なのに、今は絶版になっていて、その曲集が一般的に出版される事はありません。
こんにち、一般的に演奏されるbaroque時代の作曲家の作品の大半は、、この曲集からの抜粋になっています。


Facebookより

折に触れて、書いたFacebookからのPageです。
Facebookに直接directにlinkするのではなく、FacebookのPageをhomepage上にコピペしてあります。

You Tubeでは、文章の下に纏めて写真が掲載されているので、文章と写真の関係性が分かり難いから、homepageでは文章の中に写真を取り込んでいます。その分、読み易くなっているのでは・・・と思っています。

petit解説へのindex

2016年10月20日David版のTommaso Vitaliのchaconneと、baroque‐versionの楽譜のお話


2016年11月8日 Tommaso Vitaliのbaroque‐versionのornamentとRealisationの作成が終わった。


2018年6月25日紗來ちゃんの希望による[18番]の前の小節のDavid版への変更に伴うorchestraのrhythmの変更


2018年9月21日VitaliのChaconneの練習風景です演奏風景
(You Tubeへlinkします。)

2020年8月15日突然、VitaliのChaconneのorchestra用のAshizuka-versionを作り始めた

2020年8月18日David版からのorchestration

Chaconne on parede
Chaconne on paredeのTitleが二つあって、紛らわしいのですが、このon paredeのPageは、Pianoの伴奏のversionのPageです。
もう一つのChaconne on paredeのPageは、orchestraの伴奏の曲になります。

Chaconne originalfassung David版


Chaconne David版originalーfassung萩元美音演奏風景
(You Tubeへlinkします。)


Chaconne on parade
(You Tubeへのlink集です。)
同じChaconne on paredeでも、こちらはorchestra-versionになります。
VitaliのChaconneを演奏した生徒全員を列挙すると、結構膨大な数になりますので、Chaconneを演奏した生徒達、全員ではありませんが、一応、You Tubeにuploadしている生徒達の『VitaliのChaconneのYou Tubeへのlink集』になります。

2022年の編集からは、orchestra-programの中で演奏しているChaconneもomnibusとしてYou Tubeにuploadしました。
それでも、教室の生徒達、全員とは行きませんが、或る程度の人数は、網羅出来たと思います。

You Tubeへの外部linkをします。

上のlinkは個別の演奏に対してのlinkですが、下の絵では、再生リストの中のYou Tubeの再生リストから『VitaliのChaconne on parade』へlinkします。
         

説明が紛らわしので、補足説明をします。
上の文字をclickすると、このhomepageのChaconneの説明とlinkのPageに飛びます。

この絵をclickすると、外部linkのYou Tubeの再生リストのChaconne on Paredeに飛びます。
外部linkのPageなので注意をしてください。















indexのPageは、ここまで・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

超、長いindexでしたが、本文は以下のPageになります。アハッ!







                                本文

VitaliのChaconneのroots

写本によるbaroque-versionからFerdinand Davidの手によるPiano伴奏のversionへ、
それから更にCharlierの改訂版へ



     VitaliのChaconneの写本によるfacsimile版についてのお話


『VitaliのChaconneは誰の作品か??』


 実は、baroque音楽の名曲として一般的に聴かれているTomaso Antonio Vitali(1663年3月7日Bologna?~1745年5月9日Modena) のChaconneは、baroque時代の作品ではありません。

つまり、
VitaliのChaconneの原曲の楽譜 (original-Ausgabe)は存在しません。

originalのVitaliの直筆譜が存在しない・・・と言うお話が、災いして、VitaliのChaconneは別人が作曲をした・・というデマが錯綜して困ってしまいます。
存在しないのは、直筆譜であり、日本文学でも世界の文学でも直筆が存在しないのは、極々普通のお話で、写本がちゃんとした形で残っていれば、充分なのですよ。(右側の写真はVitaliの写本で、こんにちのVitaliのChaconneの原曲になった譜面になります。

但し、その写本のままの作品は、今までお話して来たように、時代考証的にPianoの伴奏では無く、continuoの楽器の伴奏による楽譜として残っているからのお話です。(つまり、originalの写本による楽譜は、facsimile版だけではなく、通常のUrtextAusgabeとしても、一般的に出版されているのです。勿論、period instruments用としてのお話ですがね??)


今私達が耳にしているVitaliのChaconneはMendelssohnのViolin-concertoの初演をした事でも知られている名violinistsである
Ferdinand Davidという人のarrangeと言うか、殆ど創作と言って良い作品なのです。

「殆ど創作」と言い切ると、誤解を招いてしまうので、正確に言うと、現存しているVitaliのChaconneの写本から、piano伴奏のversionを作ったのですが、pianoのpartの基本的な和音進行と、殆どのviolinのmelodieは変えていません。

221小節目でVariationがclimaxになるのですが、David版では、そのまま高揚感を持続させて、最初のthemaを6度で、弾きながら、fortissimoのままで8小節で華やかに終わります。

参考までにCharlier版では、6度がoctaveになって、更に、最後の和音の前に、kadenzを入れて、艶やかに終わります。

それに対して原本の写本のfacsimile版では、4小節のthemaが、4回繰り返されて(つまり、、17小節cantus firmusが繰り返されて)が、傷たましく悲惨な死に逝くようなimageで終わります。
全く、反対のimageで終わるのです。


現在、私達が聴いているVitaliのChaconneという曲は、Vitali作曲のChaconneではない・・・こういう事を言うと驚かれる方が多いと思いますが、VitaliがChaconneを書いた時期や、何処の誰かは知らないけれど、写本が書かれた時期は、未だpianoという楽器は無かったのですよ。
だから、pianoの伴奏で書かれたVitaliのChaconneは原曲では有り得ないのです。
つまり、arrangementという事なのです。

ライプチヒの図書館にある、所謂、原譜と称される譜面(右側に掲載しているfacsimile譜なのですが・・)は、Vitali自身の手に寄る楽譜ではありません。

Vitaliの原譜ではなく、素人の誰とは分からぬ人
(ジェイコブ・リンドナーという18世紀前半にドレスデン活動していた写譜家が書いたとされています。)の手に拠る写本に過ぎません。

それにしては、もしも、『この譜面を浄書したのが、proの写譜屋だ』とすると、この楽譜に多く存在している、実に超!素人っぽい間違いは許せません。

また、この写本のChaconneと、現在私達が耳にしているChaconneは、前半部は何とかmelodie-lineの進行とcantus firmusのcontinuoのpassageは、途中までは、David版やCharlier版とも、同じ音型進行なのですが、途中からはVariationの順番や進行が変わって来て、全く似ても似つかぬ別の作品になってしまいます。

このrootsと思われるfacsimile版のChaconneは、Tomaso Antonio VitaliのChaconneのoriginalの原譜と思われていた時期もあったのですが、この譜面がVitaliのChaconneの原本に成り得ないのは、その楽譜上に書かれている『間違いの多さ』 所以なのです。

その間違いの最たるものは、basso continuoに記されている bezifferten Baßと呼ばれる数字なのです。
(但し、baroque時代の作曲家では、 bezifferten Baßを書かない作曲家も多かったので、他の人が参考のために数字の無い楽譜に数字を書き加えたのかも知れません。それならば、楽譜はoriginalの可能性もあるのでは??とも思われますが、それにしては、単純な音符のmistakeが多過ぎるのです。)

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『通奏低音に付いての説明』

baroque時代のViolinのsoloの曲の当時の楽譜は、soloのpartとcontinuo(常に演奏される低音楽器)のbezifferten Baß(数字付き低音=通常はCello、若しくはviola da gambaで演奏されます。)・・で書かれていて、Cembaloの奏者は、左手は通奏低音の楽器・・・一般的な場合には、gambaかCelloのpartの譜を見ながら・・右手は、音符の上に書いてある和音を表す数字・・を見て、その場で即興で演奏していました。

てな事を書いても、音大生でも何が何だか意味不明のお話になってしまいますよね??
先ずは、通奏低音の意味を説明する所から始めましょう。
①通奏低音とは、『常に奏される低音楽器の事である。』と言う事なのですが、本来は、職業作曲家の速記法だったのです。

基本的には即興演奏が主体なのですが、melodieには本来和音が含まれているのです。
sampleとして、簡単な譜例で説明します。


上の段はホ短調の主音のミに対しての bezifferten Baß(数字付き低音)の例です。
2小節目では3 5という数字が書かれていますが、通常の場合には和音が基本形の場合には、数字は書きません。

3小節目では6という数字が書かれていますが、(3)6の略で、3が省略された形です。

4小節目は46の和音です。

下の段の譜例のせつめい。

実際の譜例では低音の譜面だけしか書かれていません。Cembalo奏者はBaßのpartとその下に書かれた数字を見ながら、即興で伴奏を付けて行きます。

下の段の譜面は、実際に演奏された例です。


実際に中学1年生が書いた例です。曲はVivaldiのrecorderConcerto in FのⅢ楽章のいち部分です。


上の段は、continuoの例で、Celloのpartなのですが、この曲の場合には、元々scoreには数字が書かれていません。
多くの作曲家は、 bezifferten Baßを書く事を面倒くさがって、数字を書かない場合が多いので、その場合にはscoreから和音を割り出さなければなりません。
しかし、困った事に、scoreを見ても、正確な和音が分からない場合もよくあります。
この曲の場合も、3小節目の和音進行は、Ⅶ度の6⇒基本形Ⅰ度の基本形⇒Ⅱ度の56⇒Ⅴ度の和音と進みます。
1拍目の裏の和音が3和音ではなくて、2和音になっているのは、根音はF Durの導音だし、第5音は減の和音なので、重複させる事が出来ないからです。(上のソの音を重ねるか、下にoctaveで取るという方法もありますが、それよりも、音を省いた方が自然な動きになります。
殆どの人達の場合には、最初の右手の♭シミソの和音を次にも弾いてしまうcaseを多く見受けるのですが、それは間違いです。導音の音を重複させてはいけません。

まあ、こういった進行は慣れなのですがね??

私達の場合には、右手の和音を実際に書く事はありません。
Baßのpartのみで、演奏します。
わざわざと、finaleで書くのは、未だbasso continuoが出来ない子供達のためだけなのですよ。







今回《2021年の秋の発表会に向けてのVivaldiのBlockflöteのConcertoなのですが、修正不可能の和音のミス等があって、とてもVivaldiの真作だとは思えません。弟子の教育のための習作だとしても初歩的なミスがあって、オケ練習で困ってしまいます。

melodieには本来的に和音があるのですが、それはBaßの音が決まると自動的に和音も決まるのです。
通奏低音による書法は、baroque時代の音楽が複音楽、所謂、多声部書法で作曲されているという事が重要なのです。

つまり、当時の曲はsoloと通奏低音の二つの楽器のために書かれていて、実はそれ自体で、完成した曲になっているのです。
つまり、corelliのla foliaは、通奏低音のcelloと2台の楽器で演奏しても問題はない・・という事なのです。
だから、曰く、二重奏の曲として書かれているのが、当時のsoloの曲で、Ohne Begleitung(所謂、無伴奏》というgenreもあったのです。


当然、通奏低音の声部は、単なる伴奏のpartとしてではなく、独立した声部として書かれていました。
完全な、和音に対するBaßの部分と、声部としてmelodieと対話する部分の奏き分けが、continuoのpartを演奏する重要な演奏法になります。
日本人のcelloの奏者では、baroqueの音楽を突き詰めて研究した人達はいないので、全てを同じように伴奏のpartとして、演奏してしまいます。
教室では、小学生の段階から、Baßのpartとしての奏法と、soloに対しての対旋律としての奏法との奏き分けをlectureしています。
それがbaroque音楽を弾く上での絶対条件なのでね??
   




基本的なensembleの場合には、soloの楽器に対して、continuo(通奏低音)としてのcelloやviola da gambaのような低音楽器と、CembaloやguitarやLauteのような和音を加える事が出来る楽器のensembleで演奏される事が常だったのですが、逆にCembaloやcello等の楽器が無い場合には、Lauteやguitarの伴奏で演奏する事も出来ました。

つまり、その場にある楽器でensembleが出来るというとても便利な書法でもあったのですよ。

Baßの音の上に書かれた数字は、現代のjazz-cordのように、和音を表しています。

と言う事で、Cembalo奏者に限らず、Laute奏者やguitar奏者もBaßの音とその上に書かれた数字を見て、即興で和音を付けて演奏をしたのです。

つまり、Cembaloのpartでも、現代の譜面のように、右手と左手のpart(大譜表)が、予め、書かれている分けではありませんでした。低音の対旋律やBaßの音が書かれていて、その上に書かれていた数字を見ながら、右手のpartを即興で演奏したのです。

・・・という事で、当時の伴奏のpartの譜面には、右手が書いてありません。

右の譜例は、上記のfacsimileの譜面を、finaleで印刷した譜面です。

この譜面は、Cembaloで弾く場合には、scoreになるので、演奏譜にはなりません。でも、celloやviola da gambaの人達に取っては、そのままのpart譜になります。


通奏低音のcellist、或いはgamba奏者はBaßのpartだけを・・・Cembalistはcontinuoの奏者のpart譜を見て、左手はcontinuoのpartをなぞって、右手は音符の上に書かれている数字を頼りに、即興で右手を演奏をしていました。

・・という事で、「この曲がどのような和音進行で作られているか??」という事は、Baßの音符の上に書かれている数字で表されているのですが、その、肝心要のcontinuoの譜面上に書かれている和音を表す数字が、間違いだらけ・・であったとしたら、この曲を演奏するのは、不可能になってしまいます。

VivaldiのBlockflöteのConcertoの場合には、Baßの和音とsoloのmelodieの音が間違えているので、正しい和音進行をさせる場合には、melodieの音を変更しなければなりません。それはVivaldiとしては有り得ないmistakeなのでね??


baroque時代は一般的に通奏低音の時代とも称されるのですが、当時は作曲者が演奏者も兼ねていたので、facsimileの楽譜を見ても、和音を示す数字が誤って記されている事は、まずありません。

しかし、時折、怠け者の作曲家で、全く数字( bezifferten Baß)を書いていない人も居たりして、facsimileの楽譜を見ながら時折、困ってしまう事もあります。「えっ、数字が書いてないぞ!!」ってね??

この数字を付ける作業は、作曲家本人の仕事なので、基本的には間違いは、絶対に無いハズなのですが、このChaconneに限っては、素人が数字を付けたとしか思えないような、間違いだらけの楽譜なのです。
そこで、冒頭の写譜屋のお話になります。
ジェイコブ・リンドナーという18世紀前半にドレスデン活動していた写譜家が書いたとされています。真偽の程は、私は確かめた分けではないので、なんとも言えません。

勿論、数字譜は全く信用が置けないのですが、それだけではなく、音符も怪しげに微妙に外れていたりしていて、信用が置けないのです。そこが、Vitaliの真筆では無い・・という根拠になります。
私が考える事は、proの写譜屋が音符を書いて、(音符はかなり書きなれた人の書き方なので・・・)数字は、その後、誰かが後で、自分の演奏のために、書き込んだのだ・・・と思っています。

私達はこのままのfacsimileの楽譜でbasso continuoのpartを演奏をする事が出来ますが、こんにちではそう言った技術を持ったCembalistやorganistが非常に珍しく、且つ少なくなって来たので、通奏低音譜を書き加えた譜面(Realization譜)・・としての版が出版されています。

Diethard Hellmann氏の手によるBärenreiter版やMichelangelo Abbado氏の手による所謂、original版のRicordi版があります。


(あくまでも写本のfacsimile版にornamentや右手のpartを書き加えただけの楽譜なのですが・・・、元々の譜面が間違いだらけ・・なので、解釈が微妙に違っていて、比較対照させて見ると非常に面白いのですよ。解釈の違いが思わぬ違いを生み出しているのでね。)


話はチョッと、本題を外れてしまいますが、・・・・
日本人の音楽家のblogを見ていた時に、このbaroque時代の音楽に対して、
「baroqueの音楽は演奏していても、simple過ぎてつまらない!」と言う人が多くて驚いてしまいました。

私は40年も50年も昔から、その事について色々な機会を通じて、書いているのですが、「この時代の音楽の音符は、(所謂、即興の時代なので)、書かれている音符は『骨』・・・、所謂、『骨格』だけに過ぎないのですよ。
つまり、どう言う風に肉付けをするのかは、演奏家の自由な裁量に任されているのですよ。
それを持って、simpleでつまらない・・と言われても、ね~ぇ??
困ってしまうよな??

勿論、上記のRicordi版もBarenreiter版も、Cembaloのpartだけではなく、Violinのmelodieに対しても、自由な即興(この場合には即興ではなくornament・・と言います。) が加えられています。
ただ、Urtextの悲しさ・・ornamentや即興は、必要最低限に抑えられているのは、致し方の無い事ですがね??
本来的にはViolin奏者やCembalistが即興で演奏をしなければならないので・・ね??

それに日本人の音楽家が弾く(演奏する)所のornamentや即興のつまらなさ・・は、ornamentを書かれた楽譜通り・・rhythm通りに杓子定規に弾く人達が大半なので、辟易してしまいます。

ornamentは自由な即興が建前なので、折角のornamentを「正確な書かれた音符のように、ガチガチのtempo(rhythm)で弾いてしまっては、聴いている人達が、面白くないのは当たり前です。

その点、即興演奏に慣れているEuropaの演奏家達は、rhythmのcontrolがとても上手なので、音楽が活き活きとして来るのです。

しかし、それは国民性でも、慣れの問題でもなく、即興演奏に対しての方向性の問題だと思います。
日本人の音楽家の場合には、即興演奏という概念自体が無いのですよ。
だから音符を自由に歌うという事が出来ないのです。

私達の音楽教室では、小学生ぐらいの早い時期から、ornamentの演奏法を指導します。
Violinの初心者が学ぶVivaldiのconcertoでも、或いはPianoの生徒が学ぶinventionでも、たくさんのornamentが登場するので、その時期に正しいornament奏法の技術を身に付ける必要があります。

VivaldiのconcertoのⅡ楽章は、ornament奏法がmainです。
小学校の高学年、或いは中学生ぐらいになって、vibratoでmelodieを歌い込む事が出来るようになったら、baroqueの作曲家達のconcertoのⅡ楽章で、ornamentの基本と基礎を学びます。
それを学ぶ事はbaroque音楽のrootsを知る上でも、とても大切な事です。


 鞘堂baroque-Koncertでの VitaliのChaconneのお話

originalの写本に拠るkritik-Ausgabe(間違いを訂正した)版は、2016年11月23日(水)千葉市美術館さや堂ホールoriginal-baroque-concertoで、私のornamentとbasso continuoとCembaloのRealization(Realization of the continuo by Ashizuka)という事で演奏をしました。

Vitali Chaconne period-version von handschrift (baroque-Violin 斉藤純子)Bearbeitung bei Yoji Ashizuka

さや堂Hallは、石造りのとても素晴らしい建物なのですが、元々Hallとして作られた分けでは無いので、音響的には響き過ぎて音楽の演奏には、良い音響とは言えません。

「baroque音楽ならば何とかなるのかな?」と思い立って、「baroque-concerto」として企画・開催してみたのですが、残響で音が濁る上に、音が籠ってしまい、録音状態もmelodieが籠って聴こえなくなる・・という最悪の状態でした。


せめて、melodieがはっきりと聴こえるように、改めて、検見川教室の私の製作した positiv organを伴奏の楽器にして、再録に挑戦したいと思っています。

しかし、そのためには、2016年の11月23日のさや堂baroque-concertoで演奏したVitaliのChaconneのversionのcontinuoのpartはCembalo用に書かれているので、 positiv organ用にarrangeをし直さなければならない・・・と言う事だったので、・・・ついに、今日(2010年5月26日火曜日)、私の旧versionの楽譜をbaseにして、 positiv organ用の譜面に作り直しました。

・・・どうせなので、Violinのpartのornamentも少し書き加えました。

    

さや堂Hallでの演奏風景です。





『CembaloとOrganへのarrangeの違いについて』


2021年の9月の6日の月曜日です。(Facebookはこう書き始めます。)
やっと、 positiv organ-versionのChaconneが出来上がって、print outされたのですが、どうせならば、鞘堂Hallでのversionのviolinのpartも少し手直しをしよう・・・と思いついて、Cembaloのversionを探したのですが、なんと、finaleのfileの中に見当たりません。
勿論、print outした楽譜はちゃんと保存されているのですが、dataが見当たらなくなってしまっているのです。

慌てて、椎名町の事務所にdataが残っていないのかを、問合わせたのですが、送り返されて来たdataは全て今回のOrgan-versionのChaconneを作るための、反故のdataでした。超、Shockですが、こういう風に一つの曲を作り上げる時に、どれが最終稿か分からなくなる時や、最終稿を削除する事がよくあるので、ハイツでDoubleで保存をしているのですが、ちょうど作業中にハイツのパソコンが何度かぶっ飛んだ事があったので、そこが怪しいと言えば怪しいのかな??



Cembalo用に復刻したversionです。

鞘堂Hallには、Hallという名前ですが、一切の音楽の設備もPAの設備もありません。
演奏者達の持ち込みなのです。

と言う事で、教室の演奏会でも、Cembaloを持ち込んでの演奏でした。

当時、作ったCembalo譜なのですが、finaleのdataが紛失してしまったのですが、print outした楽譜はあったので、period-pitchのversion※》からfinale-dataを復活させました。

period-versionで、Organのpartをfis mollにしたversionがあったので、それをviolinのpartとcontinuoのpartをg mollに変更して、Cembalo用のbaroque-violinのversionを復活させる事にしました。
finaleの移調楽器の設定で半音下げる設定が無いので、コピペをするのに四苦八苦している所です。


※)今の人達では、baroque-pitchが、標準pitch(440cycy)の半音したのpitch(415cycle)である・・・と、勘違いしてしまっている人達が多くて困ってしまいます。

つまり、Aの音をGisの音にtransposeすればよいという勘違いです。

これは、baroque-pitchにCembaloをその都度、調律し直すと、Cembaloが傷んでしまうので、tuningに於ける被害を最小限にするために、Cembaloの鍵盤を半音下にズラす事で、tuningをし直さなくても良いように、便宜上Cembaloにそういった機能を加えたものなのです。

しかし、半音も下げてしまっては、弦楽器的には、弦が緩みすぎて、音が上手く響きません。

baroque-pitchでは、Europaのrecorderのpitchのように、435cycleぐらいが限度なのですが、教室でも利便上、已む無く、slide鍵盤を使用してbaroque-pitchを使っています。
あくまでも、便宜上であって、本当のbaroque-pitchではありません。


Cembalo-versionの復刻改訂版を作りました。
2021年9月6日のversionになります。
baroque-pitchのfis moll版は、暫く、checkをしてから、renewalで作成します。

Organのpartをfis  mollで、basso continuoとviolinーsoloのpartをg mollで表記する事は出来たのですが、音源として移調楽器として聴くことは出来ないようなので、音源はupしません。
前回の鞘堂HallのbaroqueーKoncertの譜面は少しだけ改訂しています。

Cembaloも未だ、弱い部分が幾つか見受けられるので、そのうち、改訂する予定です。

上記でCembalo用のversionのarrangeの冒頭の楽譜を掲載しておきました。
Cembaloは弦が極めて細いので、音も細く鋭い金属製の音がします。弦の音の伸びも減数が速いので、持続する音の場合には、同じ音を弾き直しをしなければなりません。

Organの場合は、真逆で音は強く太く、いつまでも同じ音量で持続する事が可能なのですが、和音の重なりが多い場合には、音が混乱してしまいます。
ですから、特にviolin等の伴奏をする場合には、声部を極端に削ぎ落とさなければなりません。最小限の声部で伴奏をする事が大切になります。
だから、CembaloとOrganのarrangeは真逆に方法になってしまいます。

私の書いた冒頭のpassageの譜面を見て頂くと、その違いがよく分かると思います。





positiv organ-version用の bezifferten Baß(数字付き低音)です。







低音はcantus firmus(定旋律)なので、基本弄る事は出来ません。
右手のpartは、当面は2声部の書法を守って書いています。

勿論、音楽表現(Dynamic)で和音は、増減します。

この譜面をCembaloやpianoで弾くと、何とも物足りないのですが、Organだと充分な響きがあります。

楽器の特性とでもいうのでしょうかね??

    






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写本のfacsimile版からFerdinand David版へ


つまり、Tomaso Antonio VitaliのChaconneとおぼしき作品は、この間違いだらけの写本であるfacsimile版から、後半を自由に発展させて、Ferdinand David(1810年~1873年)の擬古典の手法によって、Cembaloと通奏低音の伴奏から、pianisticな伴奏へと、renewalされて作り上げられました。

近現代では、このFerdinand Davidのoriginalのarrangeを元にして、Charlierが更に華やかにarrangeした曲が主流になっていて、一般的には、「よく知られている方のCharlier版の方が、原本である。」と、勘違いされている場合もあるようです。

しかし、rootsであるDavid版は、『地味で華やかさに欠ける』・・という評価が一般的になってしまいましたが、Vitaliのoriginalの原曲のimageを或る意味では、忠実に私達に伝えた曲である・・という事で、baroqueの音楽を知る意味では、意味のあるarrangementであると思っています。

Charlier版のapproachは、寧ろ「violinistとしてのapproachであって、David版から近現代のVirtuositatのfigurationと、華やかな伴奏の箇所だけを抜粋して、小さく纏めて、演奏会での演奏を想定したarrangeになっていると思われて、Vitaliの書いた、本来の曲の良さが見えなくなっているのでは??」と私は思っています。
まあ、それなりに、名arrangeである事には変わりはないと思いますがね??



私が旧態然としたDavid版を擁護する・・その必然的な理由は、Guido Guerrini(1890年~1965年)のbasso continuoの楽譜からStreich‐Orchestraへのarrangeによる演奏を聞いた人で、『地味で華やかさに欠ける』という評価をする人達は1人もいなかったからです。

つまり、Guido Guerriniのarrangeをしたorchestraの版は、Ferdinand DavidがLeipzigの国立図書館からのfacsimile版のoriginalをviolinとpianoの伴奏の版に編曲した時も、GuerriniがStreich‐Orchestraへtransposeした時も、originalの無駄な変更は一切なされていないからなのです。



『Ferdinand DavidのDie Hohe Schule des Violinspielsのお話』
この曲はFerdinand Davidが、大学で彼の門下生達を指導する目的で作られた非常に優れた教育教材である
「Die Hohe Schule des 17.u.18Jahrhundrts fur Violne und Panoforte 」という曲集の第2巻に掲載されている曲なのですが、その殆どがFerdinand Davidの自由なarrangeによる擬古典の作品なのです。
つまり、Albinoniのadagioや、CacciniのAve Maria、Kreislerのpugnaniの主題によるetc.etc.のように、全くのFerdinand Davidのoriginalの作品と言っても言い過ぎではない作品なのです。

特にChaconneの後半部には、Mendelssohnの時代の高度な(Virtuositatな)Violinのtechnicalなpassageが網羅されています。
勿論、baroque時代のViolin奏法には無かった演奏表現の技術です。
Ferdinand DavidのVirtuositatがよく理解出来る、面目躍如たる所以です。


・・という事で、VitaliのChaconneは、Guido Guerrini版のorchestraの編曲も含んで、Charlier版やそ他の数多くの版が、実は写本版を除く全ての版が、Ferdinand Davidの作った版を底本にしているのです。

手書き写本版⇒Ferdinand Davidの自由な改訂版(Bearbeitet von Ferdinand David)が基本なのですが、David版はHenri Petriという人の手によって更に改訂されます。
所謂、kritik-Ausgabeなのですが、kritikという言葉ではなく、revidierte Ausgabeという言葉になっています。
意味は殆ど同じです。

その後には、Emil Krossという人が校訂した版もあります。

この
「Die Hohe Schule des 17.u.18Jahrhundrts fur Violin und Piano 」に収蔵されているChaconneの楽譜は、所謂、David版として世に流布している版とは、全く違います。
「Die Hohe Schule des 17.u.18Jahrhundrts 」に収蔵されている版は、Guido Guerrini ※)によってstrings-orchestraにarrangeされた版とほぼ同じ版なのですが、そのPiano伴奏譜は目下絶版で手に入れる事は出来ません。(勿論、私はどういう分けか、所蔵していますが・・)
その後、当てずっぽうで手に入れたAmericaの出版社の版が、David版である事を発見しました。楽譜に明記してくれれば良いのですが、明記されているので、困ってしまいます。


Guido Guerrini版での演奏です。
Chaconne g Vitali orchestra-version指揮芦塚陽二
11年10月30日八千代市生涯学習プラザ主催コンサートにて

orchestrationをしたのが、Guido Guerriniなので、教室でのorchestra伴奏での演奏は基本的に、Guido Guerrini版になります。

完全な芦塚versionの譜面での演奏は、未だやっていないので・・・

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Charlier版について

しかし、Leopold Charlier(1867~1936)が、近現代のVirtuositatなfigurationを多用したarrangeで、David版から更に改訂版を作った時には、世界の音楽界では、Charlier版が一般的な定版になってしまいました。
Piano伴奏のpartも後半部はかなり派手派手しく、変更されました。

Charlier版のbowingやfingeringを更に改訂したのが、Leopold Auerで一般的にはAuer版と呼ばれていますが、基本的にはCharlier版です。

Charlier版は、基本的には、David版の丸写しで、violinのpassage少し改訂しているだけなので、本当はCharlier版という事は出来ません。。
著作権がうるさい現代ならば、CharlierはDavid版を使用する事は出来なかったからです。

Charlier版と言っても殆どがDavid版と同じで、Variationの順番が違っていたり、Variationが削除されて少しcompactになっているだけで、数箇所にCharlierのepisodeが書かれているのに過ぎません。
比較の一覧表を作ろうかとも思ったのですが、面倒くさいのでやめておきます。
最後のclimaxの所だけをupしておきます。

Vitaliの写本によるoriginalの原稿です。
   

同じ部分のDavid版なのですが、全くCharlier版とも同じです。勿論、Charlierがパクったのですがね??

ちなみに、orchestra-versionのGuerrini版もDavid版からのarrangeになっています。


facsimileの部分のarpeggioのDavid版での演奏なのですが、これはCharlier版でも全く同じで、CharlierはDavidのarpeggioをそのままパクっています。

Davidはこのarpeggioのpassageでclimaxを作り上げますが、その次からは、それぞれのarrangerの個性が出ています。

次の譜例を参考にしてください。



climaxが終わってからの、Chaconneの最後の9小節は、David版とCharlier版ではかなり違いますが、original版とは、根本的にconceptが全く違っています。

下の譜例は、original版の最後のPage・・と言いたい所なのですが、実は・まだ途中まで、この終止の小節は、themaが4回繰り返されます。
終止句は、4小節のcantus firmusのthemaが4回繰り返されて終わります。
だから4小節の4回で16小節と最後の和音がプラスされて、これから、未だ17小節でfade-outして行きます。

   

DavidやCharlierは基本的に華やかなままで終わらせたかったので、themaを2回繰り返して終わりにします。
Charlier版では、octaveで主旋律が華やかに繰り返されて、最後のkadenzに入って終わりますが、David版では6度の和音で主旋律のmelodieを演奏して、kadenzと言えるものはありません。そこはCharlier版のkadenzに慣れていると、物足りないのかな??

  
次のCharlier版は、皆さんよくご存知の終わり方です。

fortissimoに入ってからが彼のoriginalになります。それまではDavid版のままです。

     
まあ、このversionは普段よく聴くversionなので、違和感はないでしょうが、まあ、派手派手しい所が人気の出る所でしょうかね??

この終わり方とfacsimile版のoriginalの写本の終わり方は全くconceptが違っています。
baroque時代の終わり方の常として、静かに、消え入るように終わります。

fade-outで終わる場合には、DavidやCharlierのように、華やかに盛り上げ過ぎると、fade-outで静かに、消え入るように終わらせる事は出来なくなります。



また、華やかに終わるのが好きな現代人とは違って、baroque時代の人達は、こういう風に寂しく終わる方が一般的には好まれたようです。

行き過ぎた感情表現を忌み嫌う貴族社会の嗜好とでもいうのでしょうかね??
均整の取れた表現をこの時代では好みますからね??

本来的には、写本版とDavid版とCharlier版の各版を参考に掲載して比較対照すると分かり易いのですが、著作権の関係でほんの一部しか掲載する事が出来ません。
私としてはすこぶる残念なのですがね??

参考までに、私のarrangeした、periodのversionの同じ部分を掲載しておきます。
一番上のviolinpartが私のornament譜です。

表現はDavid版と同じような分散和音による演奏なので、結構、派手目なのですが、David版やCharlier版のように、そのまま派手派手しいままに終わるのではなく、原譜通りに、寂しくfade-outをして終わる事にしています。

2番目のviolinのpartはoriginalの楽譜です。
Vitaliのoriginalの音符がどのようにarrangeされたのかを、正確に伝達するための楽譜になります。

ちなみに、伴奏のpartはDavid版、Charlier版のように、pianoのための伴奏ではなく、originalのperiod版のように、basso continuoの楽譜を活かした伴奏にしてあって、continuoが分かり易いように、 positiv organ用の譜面にしています。

再三の繰り返しになってしまいますが、教会の大型のpipeorganでは、現代に使用されているviolin、所謂、modernーviolinを使用したとしても、音量的にbalanceが取れないので、こういったensembleの場合には、baroque時代のperiodの楽器としては、基本的には、 positiv organを使用するのです。
それが常識 ヨ❢❢

4小節毎に、tempoを一段階ずつ落として、消え入るように寂しげに終わります。
David版やCharlier版とは真逆の終わり方なので、非常に面白いと思います。

また、baroque時代・・・所謂、periodでの演奏の場合には、こういった終わり方が原則論通りなので、一般的なのです。

芦塚versionによる終わりのPage
   
・・・と、次のPageに進みますが、後はkadenzを経て、終止の和音です。
  
芦塚versionの終止のStollenです。


鞘堂のbaroqueーKoncertでは、continuoは、Cembalo用に書かれた譜面で演奏していますから、同じ芦塚versionでも、また、全く違ったCembalo用のversionになります。


Vitali chaconne g Charlier版 朋子(小2)1982年4月南大塚ホール 
小学1年生女の子の演奏です。


私が芦塚音楽教室を開設して初めての発表会です。
私がaround30の頃の初めての生徒の演奏です。


CharlierはDavid版から改訂版を作ったので※)、混同してCharlier版なのに、David版と言われる事がよくありますが、CharlierがChaconneを校訂する以前に出版されたPiano伴奏の版も、Pianoのpartに関しては、全く同じようにarrangeされているので、通常は全ての版がDavid版として流通しています。
《また、その逆もあって、Charlierが底本としているのはDavid版なのに、Charlier版と言われているのも、おかしいのですがね??)

では本当ならば、どういう風に言えば良いのでしょうか??
それは、簡単で、David版の校訂版と言えば良いのです。Ferdinand Davidの底本によるCharlierの校訂版という言い方が正しいのでしょうが、一般的にはその校訂版をそのままCharlier版と呼んでしまうのです。


特に、指使いやbowingを弄っただけの版を**版として出版しているのでは、いただけません。

これが私達がVitaliのChaconneの出典の混乱をする最大の理由なのですが、19世紀では現代のように著作権がそんなにうるさく無かったので、こういった結果になってしまったようです。
※)現代の著作権法に順守するのならば、殆ど90%以上がDavid版で、そのpassageの幾つかを改訂しただけならば、Charlier版とは呼ばないのですが、Variationの順番を変えて、また幾つかのVariationをcutして、renewalしているので、Charlier版になってしまったのですよね??

でも、底本は、Davidの手に拠るarrangementの版なので、これでは著作権に抵触してしまいます。
19世紀だったので、それでも良かったのでしょうがね??

一般に出回っている多くの版は、Pianoの伴奏のpartの変更は全く無く、Violinのpartのbowingや指使い等の変更なので、曲としての変更は殆どなくて、多くの版の殆どがoriginalのDavid版をそのままに使用しています。


・・・という事で、VitaliのChaconneの楽譜は、Charlier版以降に出版された版も、混同されて、版の定義が混乱してしまっています。

つまり、David版をcopyしたCharlier版を底本にして、新しい版を作っている人達が殆どなので・・・ね??

・・・と言うか、現代ではFerdinand David版の楽譜は出版社で絶版になっていますので、購入する事が出来ないので、目にする事は出来ないと思いますので、一般的に手に入るChaconneは全てCharlier版を底本にした楽譜だと思われます。

現在一般的にFerdinand DavidのarrangeとされるChaconneは、事実上はCharlier版からのarrangeのみなのです。

1986年6月22日 芦塚音楽教室 夏のコンサート omnibus 浦安文化会館
1986年の6月22日の夏のコンサートの第一部37番で小学2年生の恵麻ちゃんがCharlier版のchaconneを弾いています。


originalのDavid版のChaconneは、演奏される機会が全く無いどころか楽譜を手に入れる事が出来ないので、私達が聴く事が出来るDavid版のVitaliのChaconneは、Guido Guerriniのorchestra-versionでのみなのです。

Ferdinand DavidのVitaliのChaconneを演奏する事は、Chaconneのrootsを知るためには、とても良いので、originalのFerdinand David版の演奏を、次回の発表会で企画したいと思っています。

これは非常に珍しい歴史的な演奏になります。
さて、誰が演奏するのかな??

・・・と言う事で、新中学生になったばかりの萩元美音ちゃんに弾いて貰う事にしました。


originalのDavid版によるVitaliのChaconne g の演奏です。

2020年10月11日の秋の発表会の演奏風景です。

曲はVitaliのChaconneの大変珍しいoriginal-fassung(原典版)のDavid版による演奏です。 コロナ下の発表会だったので、lessonが1,2回程しか出来ませんでしたので、lectureとしては甚だ不本意だったのですが、それにもまして、頑張ってくれました。伴奏の智子さんもCharlier版を弾き慣れているので、紛らわしかったと思います。     David版やCharlier版ではC♭やA♭になっている所が、♮のままになっていますが、それは原譜なので、変更はしていません。 Charlier版を聴き慣れていると、美音ちゃんが間違えて弾いているように聴こえてしまうのですが、David版や原譜は♮のままなのです。 例えば、上記の譜例では丸で囲んだ音です。 Charlier版ではNapoliの6度として使用されているのですが、David版やoriginalのfacsimileでは、通常の和音になっているので・・・



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Ferdinand Davidの「Die Hohe Schule des 17.u.18Jahrhundrts fur Violin und Piano」について

Ferdinand Davidの 全2巻の「Die Hohe Schule des Violinspiele」の曲集には、VitaliのChaconneの他にも、17世紀18世紀の有名、無名な作品が多数、網羅されていて、
今私達が普通に演奏しているbaroqueの作品の多くの名曲は、Davidの「Die Hohe Schule des 17.u.18Jahrhundrts 」の中に収められている曲なのです。

上記でもお話したように、baroqueのViolinの曲の基本の構成はViolinのsoloに対して、Cembaloと通奏低音のCello(gamba)で演奏されました。そのCembaloのpartは左手をcontinuoの低音楽器と重ねて演奏して、右手は左手の楽譜の上に書かれている和音を表す数字譜を見ながら即興で演奏しました。

そのCembaloのpartをこんにちのPianoの伴奏に置き換えて、pianisticにarrangeをしたのがFerdinand Davidなのです。
Ferdinand Davidのおかげで、完全に忘れ去られてしまった数多くのbaroque時代から古典派の時代までの名作が世に知られる事になったのです。

Ferdinand DavidはMendelssohnの彼の有名なViolin-concertoを初演した人としても知られている程のViolinの名手ですが、多くの優れた演奏家達を育てた事でも名violinistとでもあるのです。
つまり、非常に優れた教育者でもあった・・・・と、いう事が出来ます。。 



それはそうと、netでVitaliのChaconneの論文を探していたら、Münchenの大学に入学したばかりの時に、Genzmer先生が脳梗塞で入院された半年間、代わりに作曲の指導して頂いた学長先生のHermann Keller先生の論文を偶然見つけました。

Hermann Keller先生は日本版でも訳されている通奏低音の教則本の著者でもあり、baroque音楽の権威でもあります。

まあ、Hermann Keller先生の論文自体としては、1964年当時としては、そんなものかもしれませんが、periodが研究されるようになった今では、もう古色蒼然とした論文なのですがね。

1964年頃というと、私がちょうど音楽大学に入学した頃で、私自身も大学入学と同時にBachのcantataを始めとして、baroque音楽の研究を開始した頃なのですが、当時はCembaloが日本に2台しか入っていない時代で、そのCembaloも、『Cembaloが廃れたのは、音量が足りなかったから』という思い込みで作られたmodern-Cembalo、所謂、機械式Cembaloしかありませんでした。また、crescendoやdecrescendoまで出来るmonster-CembaloのWanda Landowska-CembaloというとてつもないCembaloも作られていました。

historische-Cembaloは世界的にも未だ非常に希な存在で、baroque-Violinとは??baroqueーbowとは・・と、こんにちでは珍妙な考え方が世界でも主流の時代だったのですよ。
baroque音楽の正しい楽器や奏法が研究されるようになったのは1990年からで、1965年代では、historische-Cembaloを作るのには、当時の貨幣価値で500万円ぐらいかかったのですよ。
1965年代から1990年代に掛けて、baroque楽器が復刻されるようになってきます。

しかし、残念な事に古典派の基本であるforte-pianoは未だ後30年ぐらいは掛かるそうです。

Hermann Keller先生がFerdinand DavidのVitaliのChaconneについて取り上げたのは、時代を先行して素晴らしいのですが、内容的には、未だ資料が発掘される前の時代の話で、今ではこの論文は意味をなしません。

その中でも、致命的な欠点は、VitaliのChaconneと思われるHandschrift(手稿)この場合には写本になりますが、その存在を知らなかった・・という点です。

こんにちでは、ライプチヒの図書館に所蔵されているHandschriftをDavidが参考にして、Chaconneを書き上げた・・という事の方が定説になっているので、BachのChaconneを参考にした・・という仮説には無理がありますし、それ以外の箇所でも随所に誤りが認められます。
まあ、半世紀以上も前に書かれた論文なので、それ相応に啓蒙には貢献出来たのでは・・とは思いますがね??


面倒くさいので、Hermann Keller先生の論文は、原文のまま掲載します。※)
翻訳はGoogleのcomputerによる翻訳です。意味が分かればそれで良いので・・という事です。
※)Hermann Keller先生は、日本では、basso continuoの教則本で有名ですが、私がMünchenの在学中に、Genzmer先生が病気で半年以上の長期入院された時に、作曲の代講lessonをしていただいた人が、München国立音楽大学の学長先生でもあるHermann Keller先生です。

しかし、残念ながらHermann Keller先生の論文には、Ferdinand Davidが、Leipzigの国立図書館に所蔵されているVitaliのChaconneの写本を見て、制作したという事は書かれていません。
つまり、今から50年前には、netもcomputerも無かった時代なので、それを知る由は無かったのですよ。
今は、その写本のfacsimile版が売られているし、netで簡単にdown loadする事も出来ます。
当然、その写本を底本にしたperiodの楽譜が発売されています。
当然、私もperiod-versionのbaroque-violinとbasso continuoの楽譜を作りましたが・・


参考文献:

Neue Zeitschrift für Musik


Guido Guerrini(1890年~1965年)


     










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Facebookより抜粋


2016年10月20日 ·

「David版のTommaso Vitaliのchaconneと、baroque‐versionの楽譜のお話」

この文章は2,30年も前に書かれた文章をそのまま転載したものです。


baroque-concertのprogramの中の「Vitaliのchaconne」のお話です。
 皆さんが知っている「Vitaliのchaconne」は、実は、Ferdinand Davidという人のarrangeによる作品なので、実は「Tommaso Vitaliの作品」というよりは、「Davidの擬古典の作品」である・・という方が合っていると思います。

 You Tube等々で、探してみても、総ての演奏がFerdinand Davidの版による演奏で、originalの古楽器によるbaroqueの演奏は一つもありませんでした。
(その後、時代が下って、periodのbaroque-Violinによる演奏がほんの二つ三つ、You Tubeでも見かける事が出来るようになりましたが、kritik-Ausgabeは未だのようです。)

 また、2,3冊のDavid以外の人(Charier版等)の校訂の版も出版されているのですが、総てDavid版を底本にしているので、擬古典としての楽譜になっているので、You Tube同様に、periodとして演奏する楽譜には、なっていないので、period奏法用の楽譜は、全く出版されていませんでした。※)
 
 Tommaso Vitaliの直筆譜と思われる(・・というのは、Attributed to(真偽不詳)と書かれているので・・ネ??)楽譜が、Leipzigの図書館にあって、昔々、そのfacsimile版が発売されたので、早速、購入しました。
10年20年、以上も前の事です。

(私は「作曲家の直筆楽譜」を集めるのが趣味なので、ハイツの自宅には、Bachの直筆譜や、多くの作曲家達の直筆譜、或いは「Stravinskyの春の祭典」のsketch等の貴重な楽譜が大量にあります。)

(唯一、Leipzigの図書館のoriginalのfacsimileを音符に直した譜面が出ていたのですが、それはviolinとbasso continuoのcelloの楽譜のみのCembalo譜が書かれていない2段譜で、その楽譜で直接演奏をするのは無理な話でした。

 ・・という事で、今回のbaroque‐concertの演奏のためには、「楽譜起こし」から始めなければならなかったのですが、直接、facsimile譜から、楽譜を起こすのは、判読不能な箇所が多く、既に校訂者が判読して、印刷の楽譜にしてあるoriginalの譜面(勿論、2段譜のままなのですが・・)を手に入れて、今日(10月の19日の水曜日に・・)斉藤先生のbaroque‐violinと牧野先生のbaroque‐celloと私のCembaloの初見で、初練習(初合わせ)をしました。勿論、そのviolinのpartとcelloのpartだけが書かれた二段の bezifferten Baßの譜面でCembaloのpartを弾いて・・、という事です。

ところが、Cembaloの右手のpartは bezifferten Baß(数字付き低音)の数字に從って、Cembaloの演奏を始めたのですが、楽譜上に書かれている色々な間違いの多さ!!に・・、特に bezifferten Baß(数字付き低音)の和音を表す数字の間違いが多くて、殆ど、小節毎に和音の訂正をしながら演奏しなければならなくって、全く、練習にならなくって、弾き通す事が出来ませんでした。

 ・・・という事で、急遽、Vitaliの練習は中止にして、その場で、斉藤先生にmelodieのpartを弾いて貰いながら、小一時間掛かって、楽譜に間違いの箇所に赤入れをしました。

(下に赤入れ途中の楽譜を掲載して起きました。総てのPageがこのように、赤入れされてしまいました。)

   

 ・・ここまで来ると、もう校訂の領域やkritik、ましてやrevidierte・・の段階ではないよな?? 
 
私もこの歳になるまで、色々な楽譜を見てきましたが、ここまで間違いだらけの譜面は見た事がありません。
 この楽譜を底本にして、Cembalo譜を作り上げscoreを作り上げるのは不可能な事です。
当然、scoreとして、楽譜を出版するのは不可能なことです。

それが理由で、これまで楽譜が出版されていなかったり、periodの演奏が一つも無かった一番の理由ですよね??


 という事で、
「無いものは作ろう!」という私の人生哲学の通りに、今、作業途中の「Händelのsarabandeのperiod‐version」をハイツの自宅に戻ってから、大急ぎで仕上げて、その作業の勢いのままに、朝まで掛かって、半徹夜でchaconneのoriginal-versionの楽譜の作成に取り掛かった所です。

 思いの外、finaleに音符を入力する作業に手間取って、2日掛かりの作業となってしまいました。

 私が余りにも大変そうにしているので、斉藤先生が「finaleの入力だけなら、手伝ってあげる」と言ってくれたのですが、・・・でも、私のfinaleの入力の作業は、楽譜上に書かれている bezifferten Baß(数字付き低音の)数字の間違いを探して、正しい音符(数字)に直す所からなので、そこの所は専門的な知識を要するので、誰にも手伝っては貰えません。

  bezifferten Baß(数字付き低音)の数字が、もしも正しい数字で書かれていたとすれば、その数字を実際の音符に直す作業、所謂、「楽譜起こし」の作業は、単純作業になるので、私にとっては、Cembaloをcello譜を見ながら即興で演奏した方が数倍早いのですが、その手順の前に音符の間違いや、数字の間違いを探して、正しい回答を考えながらの作業なので、超、退屈で面倒くさい作業になるのですよ。

  bezifferten Baßの数字が、正しく書かれていた場合には、右手のpartを音符に書き起こす作業は、上級生の生徒達に数字譜をCembalo用に、Realisation(楽譜起こし)を、させた方が勉強になって良いのですが、今回はbaroque‐concertの日にちが迫っていて、timelimitが直ぐそこなので、生徒達に書かせるだけの時間のゆとりがありません。
11月の23日がtimelimitの、baroque‐concertの本番の日までに作りあげるのではなく、・・それまでにensembleの練習をしなければならないので、楽譜を作る作業に時間的な余裕は全く無いからです。

 という事で、speedこそ命・・という事で、音符起こしの単純作業ですら、私自身の手でしなければなりませんでした。

 折角、私が労力を費やさなければならないのならば、楽譜に訂正する理由や、何故、そう訂正するのか?という方法論のlectureを、しっかりと書いておけば、演奏する人達の参考にもなるし、・・という事で、kritikを楽譜上に書き込んで起きました。
 
このkritikの文章の入った楽譜は、実際の演奏に使用するには、向きませんが、finaleというソフトでは、「書き込まれた文章を削除する」のは一瞬なのですから、その書き込みのあるscoreと無いscoreの2冊のscoreを作って保存しておけば、良いだけなのだからね。

 前にもお話をしましたが、日本の音楽大学でもCembalo科のclassがある学校は、随分多くなって来たように見受けられます。 

でも、Cembalo科のlessonの内容としては、baroque音楽の勉強としては、Pianoでやっていたlessonの延長線上のままに、Pianoで楽譜を練習して行き、それをCembaloでlessonして貰う・・というだけのありきたりのlessonなのです。

 でも、「Cembaloを弾く」・・という事と、「Cembalo奏者である」という事は、全く別の次元のお話になります。

 Cembalo奏者である条件では、Cembalo譜のmelodieにornament(装飾)を入れて演奏したり、即興でepisodeを弾いたりしなければなりません。 

 もっと、専門的に要求するのならば、 bezifferten Baßのcello譜を見て、即興で右手のpartを演奏出来なければならないのです。

 つまり、Cembaloを演奏するだけならば、Pianoが弾ければ、基本的には(Cembaloのtouchの事などを厳密に言わなければ・・)誰でも演奏する事が出来ますが、私達が普段period奏法として演奏している曲の楽譜は、専門の人達が弾く楽譜として出版されているので、 bezifferten Baßの右手のpartは、参考までに・・という意味でしか、書かれていないのです。

つまり、殆どのproのCembalist達は、右手のpartが書かれている譜面であったとしても、その右手のpartは参考程度にして、即興でその右手を演奏していくのです。

 つまり、その楽譜を見ながら、和音や音符を補填、補充して演奏しなければならないのです。

しかし、日本の音楽大学のCembaloのclassで、そういった指導がなされる事はありません。
では日本では、何故そういったCembalo奏法の技術を指導しないのでしょうか??

 それは、装飾や即興の技術に関して、日本の音楽家達には間違えた理解があるからです。



その顕著な言葉をnetで見つけました。
それは
「即興やornamentの技術は、神から与えられた能力であり才能なのだ!」という誤った一文です。

 つまり、日本の音楽家達は
「即興やornamentをinspirationや、感覚的、情緒的に付ける・・ものである」・・と、思い込んでいて、「即興の技術は、学習し、学び取る事が出来るものである」・・とは考えないからなのです。

 話をチョッと元に戻して、・・・・
また、日本人の指導者達は装飾音が出て来たら、非常に素早く鋭く演奏させる傾向があります。

この勘違いも、多くのPianoの指導者達が、普通に信じて疑わなく指導しているのですが、その間違いの演奏法がどこから来たのか、理解不能な事で・・

・・これも、考えられない日本独自の、勘違いです。
 実際には、trill一つ取っても、非常に多くの奏法があり、楽譜を解釈する時に、その曲の演奏に合わせて、ornamentの種類や速度等を選ばなければなりません。

 私が子供達にlessonをする場合には、一番最初のbaroqueの音楽である、「Bachのinvention(!)」※)を子供達に教える段階で、書かれているtrillに、accentを表すtrillや、弱拍を表すtrill等を蛍光ペンで色分けさせ、そのように、trillの奏き分けをさせます。

※)Bachのinventionは、殆どのPianoの指導者達は、一般の教育教材であるかのように錯覚して、Pianoの指導教則本としての指導をしています。
そのinventionが、Bachの手により、baroque時代に書かれた作品である‥・という事は、何処かに置き忘れたままで・・ネ??
 
確かに、即興でepisodeを入れたり、eingangを演奏するのは、ある程度の、才能、能力は必用なのかも知れませんが、普通にbaroqueやrococoを演奏する時には、装飾音の一覧に書かれている記号を譜面のその表現に必用な部分に貼り付けるだけで、充分なbaroqueやrococoの演奏表現が出来るようになります。

 その一例として、ひとつの教科書(template)として、その当時に課題として勉強をさせていた、baroqueの室内楽であるHennry purcellのtriosonateのg molには、一切の即興やepisodeの類は入れないで、必用な場所に必用なarticulationを、ornamentを書き加えるだけで、表現させて演奏させています。

たったそれだけの事で、立派なbaroque音楽の演奏になからですよ。
不思議な事に・・ね??




You Tubeにuploadしているこの
Hennry purcellのtriosonate g mollの曲は、勉強している弟子達のために、一切、情緒的感情的な装飾やepisode等々を入れないで、articulationとしての演奏表現が必用な所に、そのarticulationが表現する所のornamentの記号だけを付け加えて、arrangeしたものなのです。

のっぺら坊の裸の(骨だけの)simpleな旋律が、なんの情緒的な表現を加えなくても、古式豊かなbaroqueの演奏に聴こえて来るので、不思議なものです。
つまり、ornamentの技術力は、それだけの知識を持つだけで・・演奏には充分なのですよ。

それはそうと、改めて、1年半ぶりに、You TubeにupしてあるHennry purcellの動画を見たのだが、パソコンの画面上の動画を、パソコンの操作だけで画面をつなぎ合わせて動画の編集ソフトで作ったのだが、編集ソフトが余りにもヘボくて、画面上の楽譜のPageが切り替わる毎に、動画の画面が「ブチッ!」と切れて、間に緑のnoise画面が入って来て、非常に目障りで公開するには、余りにも良くない。

パソコンに入っているソフトを使用して、画面上だけで編集をしようとしたのが、良くなくて、結局、パソコンのソフト間のendlessの作業の「どつぼ」にはまってしまった‼

それだけなら、まだ良いとしても、finaleでtempoを設定する時に、何を焦り捲っていたのか、ゆっくりしたtempoの設定は良いのだが、早い部分のtempoの設定が焦りまくっていて、苛ついた情緒が丸出しだ❗

やはり、uploadされた動画を削除して、新たに同じ動画を作り直さなければならないのかも知れないが、simple is Best‼で、変なパソコンのソフトを使用しないで、単純にパソコンで再生しているfinaleの画面をそのままvideocameraで録画すれば、何も起こらなかったのだよ??

(気を取り直して、次の日の早朝、22日の朝早くにfinaleのtempoの設定の変更をしました。
これで、パソコンの苛ついた演奏はなくなると思います。でも、この演奏を動画に反映させるには、元のURLが死んでしまうのよね。動画の差し替えは、基本的に出来ないのよネ。)

 You Tubeにuploadされている、このパソコンによる動画の映像は15年の5月27日と31日に二つuploadしました。

但し、5月の27日の分の動画はYou Tubeの方は削除したので、Facebookだけで見る事が出来ます。

その他に実は10月の発表会でも、このHennry purcellのchaconneを「baroqueの室内楽の部」として演奏しています、がその方が生の音なのですが、その演奏はuploadしていません。


上記の文章なのですが・・・・何を思ったのか、パソコンの音源での演奏は全て削除しました。
初めてのperiod奏法でperiod instrumentsでの演奏である発表会の動画だけを残す事にしました。
芦塚先生のやる事は、よく分からんよな??


 芦塚先生のご意見によると、
この発表会でのこのHennry purcellのtriosonateの課題は、生徒達の「period奏法への初めての試み」であり、私のperiod奏法の生徒達への指導、lectureなので、生徒達が慣れた状態で演奏出来ていないので、uploadに値しない・・と判断したのが理由なのだが、後日思い直して、それでもパソコンの音源よりはマシであるという風に考えなおしたからなのだそうです。

 勿論、斉藤先生、牧野先生の先生達は、これまで何度もperiod instrumentsでの公開演奏をした経験が豊富なので、演奏上の点では、何の問題も無いのだが、生徒達にとっては、period奏法でbaroqueの楽器で演奏するのは、始めての経験なので、やはり相当難しい事なので、発表会での演奏に関しては、period奏法の技術が未だに未熟なので、公開するだけのNiveauに達していない‥・という事で、動画のuploadはしなかったのだが、改めて聴いて見ると、音が汚いのは寧ろ、反省会用の圧縮された音源のせいだと思われるので、正しい録音をこれから聴いて見て、音的に問題がなければ、パソコンの音源よりも、マシなので、動画を差し替えようかな?・・・と思っている所です。
(ここのコメントは16年の10月の22日のお話です。)

 日本の自称Cembalo奏者の人達には、自分の演奏する曲にornamentを付けたり、episodeを加えたりするための技術は持っていません。 
つまり、日本の音楽大学では、そういったbaroque時代の演奏の高度な技術指導して貰ったり、学んだりする事は無いからです。

何故日本の音楽大学では、そういったbaroqueの奏法の指導が行われていないのか??
それは日本の音楽を指導する先生達がその技術を持ち合わせていないからです。

(美紀先生は、教室の演奏活動をしている時に、必然的にその技術を、私からうるさくlectureされているので、「ここの所は32分音符のepisodeを入れて・・!」とか言うだけで、そのように即興で演奏出来ますがね。)

つまり、ornamentを付けたり、即興をする事は、一般で言われているように、天与の才能は、必用ありません。

ornamentの意味を知り、楽譜上で、その必用なornamentの種類や場所を理解出来れば良いだけなので、教室の中学生でも、その程度は出来るようになります。
(勿論、ちゃんと、Cembaloのlessonを受ければ‥・という事が、最低の条件ではありますが・・。)
 

  ※)「以下の文章は10月29日に差し込みをした芦塚先生の新しい文章です。」
 《・・・・「全く出版されていない!」・と思ったのは、私の勘違いでした。

10月20日のFacebookにuploadした後で、
「Vitaliのoriginal‐versionが出版されていない・・というのは絶対におかしい!」と思い直して、私が探している検索条件を変更して、探し直す事にして見ました。

つまり、以前、私が書いたように、「Vitaliのchaconneの手書き譜」は直筆とは思えないという私の仮定を正しい・・・とした前提で、考え直して見ると、
もし、図書館にあるVitaliの原譜が、「写本」だったら、UrtextというTitleは使用出来ないし、originalというTitleも使用する事が出来ません。
 
それなら、
「出版社はどのように、楽譜を出版するのか?」・・という事に留意して、「どのように探したら、periodの譜面を探す事が出来るのか??」という事を考えました。 

 「伴奏のpart」を「伴奏」として書いてあるのは、間違いなくDavid版なので最初から省いて、Piano伴奏と書いてあるのも、勿論、David版から以降の版になります。

それならば、
「violin e basso continuo」とか、「Realisation・・云々」と書いてある楽譜に限定して探して見ると良い‥・という事で、改めて探し直したら、あったのよね!!これが・・・!!
 
それでhitしたのが、
Ricordi版と、Bärenreiterのarchive版です。

 早速、その楽譜を取り寄せて、昨日(28日に)手に入った所です。
 ・・今日中には、checkを開始します。

 その版を、先に手に入れる事が出来たら、「Ashizuka‐version」は、作る必用がなかったのでは??・・と、斉藤先生に言われてしまったのですが、実は、そうでもないのよね??
 
 未だ、昨日の深夜に、ホンの一、二分だけ、楽譜をチョイ見せして貰ったばかりの段階なのですが、それでも、既に、Ricordi版もBärenreiter版も、帯襷なのよね!!

 伴奏譜やviolinのmelodieも含めて、まだ水準(Niveau)には達してはいないのですよ。
そこに、Ashizuka-versionを作った意味があります。 》

二分の三拍子!
初めて見ました!
10月20日 6:37


キリスト教の世界観では、三位一体の三の数字が完全な調和を表す数なので、完全を表す円は、3拍子を意味します。
・・・ですから、ヨーロッパの人達にとっては、3拍子の方が身近な拍子になります。

二拍子は、「不完全な・・」とか、「欠けた」拍子である・と言って、円を欠かしてCのカタチにして4分の4拍子を表しました。

更に、欠けたCに更に縦線を入れて、2分の2拍子を表したのですよ。 

Beethovenの英雄Symphonieとか、Mozartの魔笛の最初では、Es Dur(♭が3つ付く調性で、Cの音からから数えて3番目の音であるEsの和音)を、しかも3回鳴らして、天上世界や神の世界を表現します。
(所謂、3:3:3です。)

3の3倍は9なので、omenの映画のthemaが9:9:9なのは分かりますよね??

ですから、baroqueや古典の作曲家達に取っては(というよりもヨーロッパの民族に取っては)、基本の拍子は3拍子なのですよ。
勿論、宗教的な意味だけではなく、舞曲のstepは3拍子になるからです。Europaの子供達は男女の礼儀作法をdanceで学ぶのです。
パパからお誕生日祝いにdance-schoolの会員証を貰った男の子が「自分が大人になった・・と認めて貰えた!」と嬉しそうな表情が忘れられません。

日本の民族音楽の歴史の中では、輪舞が存在しないので、3拍子は一つも登場しません。盆踊りも円を描いて踊りますが、基本直線運動なのですからね??

日本民族が3拍子を感じるのが弱い所の由縁です。
芦塚メトードで子供達を指導する時には、拍子感を身に付けるために、基本のdanceのstepを教えます。

(danceのstepであって、danceを教える分けでは無いのですよ。私はdanceは出来ないのでね?)

基本的に、2拍子のdanceは、マーチのように行進する運動は、右足と左足が等倍の直線運動で、所謂、3拍子の舞曲は軸足のある回旋運動になります。

それはstepから来る原則なのです。
1で軸足を取って、2,3と回転するのですよ。

チョッと長々とお喋りをしてしまいましたが、実は、Chaconneも2拍目に軸足来るdanceの曲なのです。
Chaconneには、扇情的な早いChaconneと、優美な遅いChaconneがあるのですが、拍頭は前からの最後の収めの音になるので、弱拍になるのです。

だから、ウィンナー・ワルツのように、stepが端折って聞こえるのです。
PolonaiseやMazurkaのような、舞曲のrhythmを覚えると、とても楽しいですよ!!
Pianoを演奏しているのに、自分が踊っているような気分にさえ、なれますからね??  

以前、智子ちゃんにPolonaiseのrhythmを教えるのに、自治会館で、バレーダンサーがPolonaiseを踊る時にする「ジャンプをして空中で足を3,4回交差させる」のをやって見せたら、「え~ッ、踊れるんだ??」と、ビックリしていました。

でも、1回のstepだけで、もう青息吐息なのですがね??
balletで見ているので、stepだけは覚えているので、再現は出来ます。
1回だけならばね??

10月28日 21:09


楽器はモダンになってしまいますがオリジナル版弾いてみたいです。
10月20日 9:06


今私が作業しているCembalo譜のRealisationは、美紀さんがCembaloの即興で演奏が出来るので、私の「譜面お越し」は、一番単純な形の面白くも可笑しくも、何もない数学的で単純なRealisation譜で、和音が聞き取り易いようにorgelのpartで書いています。※)
baroque音楽では、皆と合わせる過程で、
「ああでもない!こうでもない!!」と、面白可笑しく作り上げて行くのですが、そのaboutさがなんとも、楽しいのですよ!!

そこの所はjazzのセッションと似ているかな??
 同じ演奏は二度と出来ない!!

そんな感じの譜面で良かったら、出来上がったら譜面を差し上げますのでよ、是非、どこかで演奏してください。You Tubeには皆無なので、面白いですよ!!

勿論、楽器はmodernでも、CembaloではなくPianoでも良いと思いますよ。

10月21日 15:45
※)・・・と思っていたのですが、ついついornamentやfigurationのepisode迄もかいてしまいました。
ついついの悪い癖ですよね。


『Ricordi版やBärenreiter版のperiodの譜面についてのお話』

折角、Tommaso VitaliのchaconneのAshizuka-versionを作り終わった後の事なのですが、Vitaliのchaconneの出版カタログの楽譜を片っ端から調べて見たら、violin&basso continuoの譜面がRicordi版とBärenreiter のarchiveの部門で出版されているのが分かったので、早速手に入れました。

この楽譜が出版されているのなら、私がkritik‐Ausgabeを作る事も無かったのに、・・と思ったのだけど、やっぱり、色々と解釈の違いや、Realisationの違い等々、色々と微妙で、やはり、面倒くさかったけれど、結果としては、自分で改訂していて良かったと思いました。 

でも、一般的には、通常のchaconneのbaroque‐versionとして、演奏する時には、二つの校訂を見比べて,良いとこ取りをすれば、それで充分なのではないか??・・と思いました。

この2冊を探し出せなかった理由は、2冊とも、「original‐Ausgabe」とか、「Urtext‐Ausgabe」という文言が入っていません。
つまり、originalの底本にされている楽譜が、Vitaliの直筆である・・というよりも、写本の可能性の方が高いので、Urtextという肩書が入らなかったので、私が探せなかったのですよ。  

でも、絶対に、Realisationされた楽譜があるはずだと思って、楽譜のTitleに「violin&basso continuo」という言葉が入っているのならば、所謂、数字付き低音のRealisation譜なので、原典に近い版である・・と推論して、改めて、楽譜を探してみたら、この2冊をピックアップする事が出来ました。 

私のversionは、kritikだけで、basso continuoの数字のRealisationの譜面はなるべく単純に、数学的に書いていますが、他の2冊は、売るための演奏譜として、音の動きを留意して書かれているので、2冊を比べて見ると、passageによって、どちらの方が良いのかは、それぞれで、判断に苦しむ所です。 

それに伴奏がCembaloでなく、orgelの場合でしたら、私のsimple is bestのversionの方がより良いかも知れませんが、反対にCembaloで伴奏する場合には、勿論、Organ-versionでは、物足りないと思いますよ。※)

10月29日 1:31

※)さや堂のbaroque‐concertでの演奏を想定して書いているので、「simple is the best」のorgel-versionは諦めて(却下して)、Cembalo-versionにrenewalしてしまいました。


今日は10月30日(日曜日)の早朝の3時半です。
昨夜の土曜日の夜は、すっかり、気分が悪くなって、食事もしないで、ハイツに帰って来て、総てそのままにして、布団に潜り込んで、今起き出して、荷物の整理を始めた所です。

ついでに、手に入れたTommaso VitaliのchaconneのRealisationの譜面を見ている所なのですが、これがまた、超、酷い!

Ricordi版の方は、有名な指揮者であり、昨年亡くなったClaudio Abbadoのお父さんであり、高名なviolinistでもあるMichelangelo Abbadoの校訂した版なのですが、これがやはり、一昔前の、Realisationで、和声法の原理を良く知っていないズブの素人のarrangeなのだよね??

BachやHändelなら絶対にしない和音進行を平気でしているのよね?
こりゃ~、問題外だよな・・・?? 

Bärenreiter版は、Archivだけあって、妙な演奏効果を求めないで、和声進行は未だマシなのだが、 bezifferten Baßを、勝手に書き換えているのよね??

ホンと帯襷なのよね??
困ったものだ!!

Ricordi版が間違いだらけなのは昔から、誰もが周知の事実だが、Bärenreiter版 ですら、勝手な解釈をするのは、幾ら底本が写本であったとして、その数字が信用が於けないとしても、許せない。

10月30日 4:06


今日は10月21日(20日の夜という事)の深夜3時半です。間違いだらけのVitaliのchaconneの楽譜の訂正と bezifferten BaßのRealisationが終わって、kritik‐Ausgabeの出来上がりですぞよ!!

さて、今から、orgelの音源で聴きながらwineでも飲んで「独り祝杯」でも上げるか???

蛇足ですが、勿論この動画はYou Tubeには公開していません。

このFacebookだけで閲覧出来る閲覧限定です。

10月21日 15:00

Tomaso Antonio Vitaliのchaconneは、こんにちではFerdinand Davidの作品である事を疑う人はいません。

Davidは、かの有名なviolinistで、作曲家でもあるシュポア‐とハウプトマンに師事して、頭角を表した演奏家であり、Leipzigに在住し、Leipzigの音楽院で教鞭を取っていて、Mendelssohnのviolinconcerto e mollの初演をした人でもあり、e mollのconcertoの作曲に関しても、Mendelssohnへ多くの助言をした人でもありました。

・・と、言うことでLeipzigの図書館で、Vitaliのoriginalの楽譜を発見して、Pianoの伴奏を付けて、この曲を世に広めた人です。
・・ですから、今回のfacsimile版はDavidが曲を作る時に、底本にした楽譜であると思われます。  

しかし、このfacsimileの楽譜が、Tommaso Vitaliの直筆のoriginalの楽譜であると言う事は、にわかには信じ難いものがあります。 その主な理由は、曲の和音を示している bezifferten Baßの数字が、余りにも間違いだらけであるだけではなく、melodieのpartも、、間違えて書かれている場所が多過ぎるからです。

つまり、作曲家自身が書いた譜面ならば、そんな間違いは絶対にしないのよね!!  

書き間違いの意味ですが、別にチョッとしたmelodieの書き損じ・・と言う意味ではなく、明らかに素人の書いたような、音符の読めない人が一生懸命に書いたような、有り得ない必然性のない音符の間違い・・それは、調性のなかではmelodieの体を成さないと言った明らかな間違いの箇所・・が数多く見受けられるからです。 

それはそうとしても、音符はとても書き慣れている人の手によるようです。
あたかも、Bachの筆跡よりも、更に美しく繊細な筆跡であり、Bachと寸分違わない筆跡の、Bachの奥さんであるAnna Magdalenaの写本を思い起こさせます。 

当時は、コピー機も写真も無かったし、印刷するにも、作曲家自身の手で、銅板を削って音符を書き込んだ大変な作業だったからです。
一般的には、殆どの楽譜が広がって行く場合には、曲はその曲を欲しい人自らが、手で書き写して広がって行ったのです。

だから、当時に書かれた楽譜であったとしても、作曲家自らの手で書かれたものである、可能性は低いのです。

・・・とう言う前提の元で、Leipzigの図書館に書き添えられている「Attributed to・・」の文字が意味を持って来るのです。 
originalではないにしても、Vitaliの家族が書いたのか、弟子を含めた親しい人が書いたのか?・・・それともフアンの人が、一生懸命に書いた写本であるのかも知れない・・という、可能性の方が大きい・・と私は、思っています。 
尤も、こんな事を言ってしまうと、学者先生達に怒られてしまいそうですがね。

・・・でもこれは、作曲家としての、冷静な立場での見解です。
10月23日 1:50

枕草子なども、広く写本されたようですものね。
手書きで楽譜・・・す、すごいですね!!!
10月21日 22:01


先程のHennry purcellのtriosonateのg mollの装飾音の有る無しの違いを、動画にしました。
finaleでは、装飾音は、その速度まではcontrol出来ません。

ですから、装飾音は演奏譜として、実音で書き込まなければなりません。

今回はそこまでの作業はしていません。
あくまで、装飾音の有る場合と無い場合の違いだけです。

10月22日 18:36

上記に書いたbaroqueの音楽に、装飾を入れる方法論のlectureを実際の演奏にしたものです。
つまり、課題はbaroqueの装飾法の勉強です。

trill一つでも、accentを表す早いtrill、弱拍や抜きを表す遅いtrill、音を持続させるための長いtrillや、vibratoを表すtrill、crescendoを表す速度の変化するtrillや、decrescendoを表すtrillの速度を遅くしていくtrill等、数えれば限がありません。
そう言った基本の装飾記号の勉強でもあります。 

下のURLは、2015年10月の11日の千葉の秋の発表会でのbaroqueの演奏の光景で、梨紗さん、智子さんがperiod奏法に初挑戦している所です。

「何が難しいか?」と言うと、絶対音感を持っている二人に取っての、418cycleのbaroque‐pitchでしょうかね??だって、書かれている音符よりも半音低い音が出て来るのですからね。

昔、I Musiciの演奏を聞いた私の弟子が、Vivaldiの春が半音低いと言って、顔を歪めていました。
慣れる迄には、それ相応に大変らしいですよ。 

それに古典調律のmeantoneの調律では、A♭の音がWolf-ton になるので、その音を純正調でハモらせるためには、微妙に音のpitchをずらしながら取らなければなりません。

violinにフレットが付いていないのはそれが理由なのです。
正しい純正のpitchを和音毎に取って行くのは、とても難しい技術なのですよ。 

 https://www.youtube.com/watch?v=ki0_xW2WRjU



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11月8日 13:30 ·

 「Tommaso Vitaliのbaroque‐versionのornamentとRealisationの作成が終わった。」

 今日は16年11月8日の火曜日です。この所、一週間程の間、VitaliのchaconneのRealisationを書いていました。
 
しかし、11分47秒で、兎に角、曲が長くて、書けども、書けども・・終わらない・・という感じで、endlessの作業でありました。

 私的には、折角、Barenreiter版とRicordi版の楽譜を手に入れたので、その両方の楽譜の「良いとこ取り」をして、剽窃でもして、当座は、でっち上げようかと思ったのですが、楽譜をマジマジと見て驚いたネ??うちの教室の生徒達の方が、数字譜はもう少しマシに書くよ!!
 
 剽窃と言うと穏やかではありませんが、それは冗談です。

何故ならば、演奏をする場合には、通常は市販の楽譜を使って演奏するので、「演奏のために・・」という事で、市販の楽譜を使用することは、剽窃には当たらないのですよ。

但し、市販の楽譜を、自分の楽譜として出版するとすれば、その剽窃の部分がホンの一部であったとしても、立派な剽窃になりますよね。※)

 楽譜は、当然、演奏するために売ってあるので、市販の楽譜を演奏に使用するのは問題はありません。

しかし、Ashizuka-versionとして、演奏する場合には、ホンの一部でも、市販の楽譜と同じpassageがあると問題です。
勿論、chaconneのthemaは、変更は出来ません。
それを変更すると、もう、Vitaliのchaconneではなくなるからです。

 普段ならば、曲が出来上がってから練習に入るのですが、今回のように練習のlimitが近づいている場合には、曲が出来るのを待っていては、練習が間に合いません。

そのために、最初は、既成の楽譜をtemplateにして、練習を開始して、曲が出来る度に、差し替えて行くと、自然に、元の既成の楽譜の部分は消えて行きます。

 しかし、今回の購入した楽譜は、「練習のためのtemplate」にもならない・・というぐらい「ヘボい楽譜」だったので、既成の楽譜から、取り敢えずは、良いとこ取りをする・・・というのは諦めて、真面目にコツコツと、しかし、大急ぎで、Realisationをしなければならなくなりました。

 scoreで26Page、violinのpart譜で8Pageという、非常に長い曲です。

 concertの日にちが決まっているので、締め切りに追い立てられる売れっ子漫画家の心境で、兎に角、一日も早く・・という感じで、体調を無視しての、大急ぎの作業だったのです。

 一日遅れると一日練習時間が減ってしまうからね。
 だって、もう本番まで、後二週間を切ったのだからね。

 「Vitaliのchaconne」と言えば、David版の印象が一般的なので、その印象が強すぎて、曲を「baroque仕様」にするのは、結構大変な作業だったのです。

 細部までよく知り抜いた曲を、全く知らない曲として、Realisationする事は、結構、難しいのですよ。

 それに、作る側ではなく、Vitaliのchaconneを聴く人達も、Vitaliのchaconneと言えば、David版のimageで聴いてしまいます。

 だから、全く別の曲として、作らないと、少しでも、元のDavid版のimageが残っていては、誰も聴いてくれなくなるのですよ。
 
 Realisationの作成にあたって、period‐versionにする上で一番最初に留意した事は、chaconneの独特のrhythmを用いてarrange(Realisation)をする事でした。

 David版では、擬古典風にromanticに演奏するために、chaconneのdanceのrhythmは、全く使用されていないので、単純なmelodieで、変えようのないpassageでも、Cembaloの伴奏にchaconneのrhythmが入って来るだけでも、斬新に聴こえるのかな・・???

 少し、熱が上がって来て、咳も酷くなって来たので、どこからともなく、「Facebookなんか、書いていないで、はよ、寝んしゃい??」てな声が聴こえて来るような気がします。

ウツツで朦朧としていると、彼岸からの声が聴こえて来るのかな??
意識がtripして、比岸と繋がってしまっているのかな??

(写真は、Vitaliのchaconneの冒頭の1Pageと、Greensleeves to a ground in C Dorischの検見川教室でのlessonの風景です。どちらの曲も今回のbaroque‐concertのprogramです。)

※)楽譜には、演奏するための演奏料が含まれている場合と、演奏の度に払う場合と、楽譜が出版されていなくて、演奏目的でレンタルされる場合があります。オペラの場合等は、scoreは売られていなくて、演奏会が決まったらscoreをレンタルして貰って、演奏する場合があるのですが、その場合には、その都度レンタル料と演奏料のコミコミの金額を払います。

教室で演奏している曲も、一般の発表会用の曲とは違ってprofessionalな曲が多いので、発表会の度に著作権料が請求されます。

発表会の度に、その都度、jasracに著作権料を支払っているのですよ。
これはproのpianist、violinistでも同じです。
勿論、一般の発表会用の曲は、楽譜料に込になっているので、著作権料は派生しません。

多くの演奏家達が誤解しているのは、著作権は作曲者の死後50年で消滅すると言われていますが、それは著作権料であって、scoreや楽譜は、その出版社の著作物なので、楽譜の使用料は、作曲者とは無関係に請求されます。

だからbaroqueの曲を演奏していたとしても、その楽譜を使用する限り、楽譜の使用料は発生します。

ですから、baroque音楽を演奏していたとしても、その楽譜が出版社に帰属する限り著作権料は払わなければなりません。
発表会のように、無料の演奏会であったとしても、使用料は請求されます。




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2018年6月25日
「紗來ちゃんの希望による[18番]の前の小節のDavid版への変更に伴うorchestraのrhythmの変更」

「18番の前の小節のDavid版への変更に伴うorchestraのrhythmの変更」

Charlier版で何時も問題になるarrangeの箇所があります。教室のscoreでは練習番号の18番の前の小節(原曲の小節数では78小節目になります。


    

originalの手写本のfacsimile版では余りにも分り難いので、同じ箇所をfinaleにnotationをした楽譜を参考までに掲載しておきます。


問題の箇所は四角く囲んだ部分のrhythmなのです。
この楽譜はfacsimileをそのままにfinaleにnotationした譜面なので、原曲のrhythm通りです。





 

この小節の前の小節では、近現代風に結構、deformerされていますが、問題の78ssmは、原曲のfacsimile版のままです。

今回のorchestraとの演奏では、紗來ちゃんの希望で・・・、と言うか、歴代の先輩諸氏も、紗來ちゃん同様に、Charlier版のpassageを、orchestraに取り入れています。

orchestraのGuido Guerrini版は、基本的には、David版をそのまま使用しているのですが、幾つかのpassageでは、、歴代の先輩達もCharlier版に変更して演奏しています。

orchestraへの変更箇所の伝達は、今までは、練習の時に口頭で伝達するだけでしたが、しかし、今回は、中々その伝達が伝わらないので、楽譜に書き表す事にしました。
譜面を見れば一瞬で済む事を、口でしゃべるから何度も練習をし直さなければならないので、時間の無駄だと言う事なのだよ!!

練習に参加する先輩諸氏が、本番の直前の空いている時間にしか、来ないので、同じ変更箇所の伝達を何度も繰り返して説明しなければならないので、ついにブチ切れてしまったのでね。アハッ!




このpassageはCharlier版の楽譜では次のようになっています。


左側の楽譜は、「18」の前の78小節目のCharlier版です。

Vitaliのchaconneといえば、David版かCharlier版が一般的なので、このpassageは左側の楽譜のように演奏されるのですが、勢いを付けて入って来て、kadenzのようになった所までは良いのですが、2拍目でrhythmが急ブレーキが掛かってしまうので、殆どの演奏家達はそれをpiu allargandoでpiacereで弾きます。

実際の演奏では、私が採譜した下に掲載している楽譜のように演奏する人達が多いようです。

piu allargandoなので、tempoが倍近くまでに遅くなっているようなのですが、
実際の演奏ではDavid版もCharlier版も、allargandoの小節から突然、倍に遅く演奏するので、実際のtempoは、私の採譜した楽譜のように演奏されます。


...

と言う事で、不自然に突っ込まないで、以下の楽譜のように倍速で演奏してください。左側の楽譜になります。
violinのsoloがしっかりと歌い込んで行けば、倍速になったことを気付かれる事はありません。







大元のGuerrini版は検見川教室にニャンコbackを忘れて来たので、楽譜がハイツにありません。
finaleに入力途中の楽譜を参考までに掲載しておきます。このpassageは自然な感じで、問題はない良いように思います。

水曜日に斉藤先生が検見川教室に行って持って帰って来てくれる予定なので、それまでお待ちください。

(水曜日になったけれど、楽譜を取りに行くのを忘れたそうなので、今回、説明は省く事にします。次回のオケ練習で忘れていなかったら、します。・・もう必要ないか??)



これも紗來ちゃんの希望なのですが、前奏のOrganの8小節ですが、後半の4小節にorchestraを入れる事にしたので、楽譜の訂正があります。

Geminiani版は、soloとorchestraが同時に弾き始めますが、色々とあるDavid版の中のある種類では、定旋律(cantus firmus)の4小節が2回繰り返されて、soloに入ります。

orchestra-versionでは、多くの演奏団体がDavid版の中のある種類のように、前奏の8小節を付けて演奏しているので、今回は教室もそのように前奏の8小節を付けて演奏する事にします。

ある種類の楽譜には・・と、くどくどしく言っているのは、originalのDavid版には、前奏の8小節のcantus firmusのpassageはないからです。

日本版のDavid版には前奏があるようですがね??

scoreを付けておきますので、訂正書き込みをお願いします。



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2018年9月21日の練習風景のvideoがみつかりませんでしたので、1週間前のオケ練習のvideoになります。

18年9月16日Vitali=Guerrini版Chaconne in g芦塚音楽千葉教室練習風景

VitaliのChaconneの練習風景です
2018年11月11日の芦塚音楽研究所千葉教室の「秋の発表会」(千葉市文化センター・アートホール)での演奏に向けてのオケ練習の風景です。(入場無料・チケット等はありません。) violinのsoloは古川紗來小6(12歳)です。指揮指導は芦塚陽二先生です。 練習風景のvideoは、何の手も加えないままに、そのままuploadしても、lessonの内容が分からないし、しかし、lesson内容をテロップで入れて行くのは、大変な手間の掛かる作業であるために、芦塚先生は、「練習風景のvideoをYou Tube等にupする事はもうしない!」と以前に、宣言されていたのですが、曲がとても難しいVitaliのchaconneと、芦塚先生の改定が上手く伝達されていないHoffmeisterのconcertoに関しては、練習回数が後1回しかないために、・・しかも、今週の日曜日のオケ練習はお休みで、期間が開いてしまうので、仕方なく、芦塚先生に、前回の練習のvideoの編集をしていただきました。 しかし、chaconneの編集とHoffmeisterを同時に始めたのですが、芦塚先生の体調不良とchaconneの編集に手間取って、練習が終わってからchaconne1曲に、3日も掛かってしまいました。 Hoffmeisterまではcheckが出来ませんでしたが、時間が優先なので、取り敢えず、chaconneからupする事にします。 lineにもlinkを張るので、videoをcheckして、曲のimageをよく理解してください。・・・との仰せです。

18年11月11日の芦塚音楽研究所千葉教室の秋の発表会に向けてのVitaliのChaconneの練習風景です。
発表会の場所は千葉市文化センター・アートホールです。
入場無料なので、ぜひお誘い合わせの上、お立ち寄りください。
詳しいprogram(時間)は、time表が出来次第、homepageの方に掲載する予定です。

11月の11日・・という事で、まだ、一月以上あるように思われるかも知れませんが、練習の回数はいよいよ後1回を残すだけになってしまいました。 (と言うと、生徒達は驚いていました。) 

今週の明後日の日曜日はオケ練習はお休みなので、オケ練習の代わりに、教室の先生達の希望者への個人lessonの日になりました。(勿論、私も何人かの生徒をlessonする事になりましたが・・・。)
という事で、9月23日の日曜日はオケ練習はありませんので、9月30日がオケ練習の最終の練習日です。

「未だ、日にちがあるのでは?」と、思われるかも知れませんが、30日の次の日曜日は、もうオケリハで、その次の日曜日はソロリハの日になります。
・・という事で、その後は、定型の総合練習が2回あって、発表会になります。

・・・という事なので、練習の立ち遅れを何とかするためには、練習をfeedbackする事に限るのですが、その「練習風景のvideo」をfeedbackのcheck用に編集する事は、私の仕事の効率をしても・・「3日掛かり」でとても大変な作業、大変な負担なので、以前も、「指導した内容を、ちゃんと復習して勉強して欲しい」・・という事で、練習のvideoをYou Tubeに公開していたのですが、その大変な思いをして作成した動画を見てくれない生徒が多かったので、「もうこんな大変な思いをしてまで、練習のvideoを公開する事はしない!」と宣言していたのですが、Vitali=Guerrini版の曲はStreich‐Orchestraの中でも、大変な難曲だし、Hoffmeisterに至っては、私の校正をした楽譜が、に生徒達伝達されていないという凡ミスを積み重ねていたので、ついに諦めて、生徒達の練習の効率とfeedbackのために、私自身としては、体調不良で、編集作業は遅々として進まなかったのですが、何とか無理をして練習風景のvideoをYou Tubeにuploadする事が出来ました。

いや~あ、それにしても、過保護だよな~あ??

「Vitali=Guerrini版のChaconneが何故に、そんなに難しいのか??」という事は、・・・
擬古典の作品は、baroqueの音楽とは根本的に違って、弦楽器の演奏上のTechnikも、baroqueのtechnikではなく、現代のTechnikになります。

baroque時代の奏法にはない、現代的な演奏法が随所に出て来ます。

和音進行や転調等も、(一見するとbaroqueそのままのgrand(定旋律)に見えるのですが、実は近現代的な手法に拠るので、演奏技術は非常に高度なTechnikを要する事になります。

このVitaliのchaconneをarrangeしたGuerrini(Guido Guerrini 1890-1965=ジェッリーニ)さんは、曲のMotiv(material)として非常に独自の発想をして、そのMotivが曲の全編を支配していて、中々美しいMotivなのですが、それが、弦楽器の演奏表現の技術的として、非常に難しい表現な上に、曲全体に出て来るので、練習に四苦八苦している所です。Guerrini版の色々な演奏をpro、アマ問わず聞いて見たのですが、その奏法の再現を全部やっている団体はありませんでした。

という事で、曲の中に使用されているMotivのmaterialの中でも、特に重要なmaterialを抜き出し練習用に、楽譜に起こしました。
(これは、以前に、曲の難しい部分を「抜き出し」して、finaleで作成して、演奏の難しい箇所を、譜面に抜粋して練習用に配った2,3Pageの楽譜とは、全く別の楽譜になりますが・・)

「以下、図の説明です。」
図の1段目はchaconneのthemaです。
Organのように、抑揚を付けないで、legatissimoで淡々と弾きます。

図2は下のcello、Kb.がchaconneのthemaを弾きます。
3拍目が次の小節の頭へ導くように、しっかりと弾きます。
上のpartは対立的にpで、消えていくように保持して弾きます。
とても、印象的なMotivなのですが、3段目、4段目のようにflageoletで、このMotivが再現されます。当然、pから消えて行く感じは同じように弾かれなければなりません。

5段目と6段目は、Dynamic(強弱)の2つのbogen formの例になります。
a+a+Bと、a+a+CのDynamicのpatternです。
5段目のBのpatternは、2小節間の大きなcrescendoですが、Cのpatternでは、2小節間が大きな「膨らまし」になります。

このMotivが、material(音楽的な表現の要素)として、曲の全編に使用されているので、同じMotivならば同じように表現すれば良いのですが、オケ練習では、その都度、同じ事の説明をしなければならないので、困ってしまいます。

どうしても、そのpassage、passageで、nuanceが違って来るように思い込んでいるのですよね??
学校教育や塾では、問題の解き方は習いますが、「何故、その問題をそのように解かなければならないのか??」という事を学ぶ事はありません。

「それは、どうしてか??」と言うと、「何故、そういう風に解かなければならないのか?」という問題に踏み込むと、回答が複数出てしまうからなのです。

つまり、文部省的には、指導者のためには、回答は一つでなければならないからです。

音楽大学で、lessonを受ける時に絶対にやってはいけない事が一つあるとすれば、それは「先生に質問をする事」です。

音楽大学の音楽教育は、基本的に、家元制度なので、先生はその先生にそのように習ったし、その先生は、更に先生にそのように習ったので、「何故か??」という質問が出る事は、絶対に有り得ないのですよ。

つまり、「何故、そうでなければならないのか??」という事を考えて、勉強した人はいないのですよ。アハッ!

教室では、どの曲を学習する時も、「themaやMotivが、一箇所変更されると、その変更は全体に及ぶ!」と説明しているのですが、どうしても、その部分、部分でしか、変更出来ないのですよ。

これがanalog思考の大欠点なのですかね??
教室のmethodeに早く慣れて欲しいものです。

「えっ??」 譜例の図を挿入したら、動画のlinkが消えてしまいました。
そんな事、聞いてないよ!!
仕方ない・・・、元に戻して、やり直すか??

動画のcheckをしていて、冒頭のthemaを追加して、5小節目からオケが入って来るpassageが、突然、「ズコ!!」と入って来て、messa di voceが全く、上手く行かないので、orchestrationで、自然に入って来れるように、楽譜の方を変更しました。

これで、少しは、何時入って来たかが分からないように、pianissimoから自然に入って来れると思います。
楽譜をしっかりとcheckして、「入り」を確認しておいてください。

https://www.youtube.com/watch?v=f_NOaMdM7dc&t=646s




音声をuploadしたかったのですが、動画でないとupload出来ないので、譜面を付けました。アハッ!



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2020年8月15日
突然、VitaliのChaconneのAshizuka-versionを作り始めた。 ·
プライバシー設定: 公開
『8月15日の深夜から、突然、VitaliのChaconneのAshizuka-versionを作り始めた。』
今回の秋の発表会で美音ちゃんが再挑戦予定の「Vivaldiの『Il favorito』のAshizuka-version」の校訂・改訂をした画面をfinaleに入力し終わったので、椎名町の事務所に戻して、印刷の行程になったので、次の作業として、YouTubeで発表会のVideoのcheckをしていたら、パソコンが勝手に次の曲をselectして・・、VitaliのChaconneの、私のversionでは無い、知らない人のarrangementの曲を演奏していたので、ついついい、興味深く聴いてしまった。
普段、教室で使用しているVitaliのChaconneの楽譜は、Guido Guerriniという人のarrangeなのだけど、私としては、彼のarrangeは、そんなに悪くはないarrangementだと思っていたので、私が新規にAshizuka-versionのorchestrationをする事はない・・と思っていました。

但し、そうは言っても、Guido Guerrini版のarrangeを、全面的に満足している分けではないし、・・また、子供達の練習のためにも、色々と楽譜を練習用に書き直したりと、前回のオケの練習の時にも、色々と練習の仕方等々を子供達のためにfinaleで「楽譜起こし」をして、作っていた譜面を、finaleの中では、『Ashizuka-versionのscore』として、難しい箇所だけをpickupした練習用の『虫食いの譜面』として、scoreを作っていたのだが、結構、今回、なにげなく聴いたYouTubeの無名の人のarrangeが、思いの外、上手だったので、ついつい、色気を出して、私もarrangeをしたくなってしまいました。
これはもう、殆ど、病気だよな??
市販の曲で満足しておけば良いのにね??

・・という事で、前々回に作り掛けていた虫食いのscoreをfinaleのfolderの中から引っ張り出して来て、8月の15日の夜遅くから、早速、arrangeを始めてしまいました。
前回、Chaconneを弾いた紗來ちゃんの希望・要求で変更した箇所は、今回は、没にして、あくまでもoriginalのDavidの楽譜を優先して作成しました。

一般的にはVitaliのChaconneのorchestraへのarrangeは、私達が使っている版以外には、Ottorino Respighi版が有名なのですが、私としてはそのarrangeはあまり好きではないので、Respighi版では演奏した事はありません。
Chaconneをorchestraにarrangeをする人達は、基本的にはCharlier版ではなく、Ferdinand David版を定本にして、arrangeをするようです。

私がこれまでにも演奏をして来たGuido Guerrini版も、それ以外の版も底本はDavid版を使用しているのですが、Seitzの時にも説明をしたように、Piano伴奏として作曲をする場合には、Pianoの伴奏が野暮ったくならないように、音を薄くarrangeするのが作曲上の定石なのです。
しかし、Pianoのために書かれた譜面を、それをそのままorchestraにtransposeすると、orchestraではどうしようもなく薄っぺらになってしまいます。

Lupi版のPassacaglia然り、Mueller-HartmannのPachelbelのChaconne然り・・です。

そのために、音を補強して分厚くするのがarrangerの腕の見せどころなのですが、このDavid版のChaconneも基本的にはsoloを含めた3声部書法で書かれているので、徐々に音を加えて厚くしていかなければならないのです。
・・・という事で腕の良いarrangerになればなる程、原曲のimageから遠くなってしまうのですよ。

私も通常は、色々なarrangerがarrangeをした譜面を、『音痩せ』を修正する作業ばかりしているのですが、・・という事で、今回の私のarrangeは、これまでの私のarrangerとは一線を画して、DavidのPianoの伴奏の原曲のimageを最大に生かして、arrangeを進める事にします。

それは、よく聴くVitaliのChaconneのorchestra-versionがDavidの原曲のimageが失われているarrangeが多いからなのです。
DavidのPianoのoriginalのpassageを、そのまま活かしてarrangeをするとなると、その分、音痩せをしないように細心の配慮が必要となって、arrangeする事自体が難しくなってしまうのですが、その分、腕の見せ所なのかな?

いずれにせよ、曲が長いので、arrangeが終わるまでには、どれくらいの時間が掛かるのか予測が出来ません。
Violin-soloのpartを入力するだけでも2日掛りで、今の所半分ぐらいまでしか進まないので、後、音符を入力するだけでも、2日3日はどうしても掛かるので、それからarrangeをするとなると、どうなるのかな??
考えない事にしよう??



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2020年8月18日
David版からのorchestration ·
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8月18日の火曜日の14時20分ですが、VitaliのChaconneのarrangeが終わりました。
15日の深夜から書き始めたので、都合、3日も掛かったぞィ!!

今回のarrangementは普段のarrangeとは変わって、originalityを出すために、Ferdinand DavidのoriginalのPiano伴奏譜を忠実に再現するようにarrangeをしました。

一見すると、Pianoの伴奏譜を、そのまま忠実にtransposeをする事の方が、簡単だと思われるのですが、実は逆で、実際にはPianoの譜面ではpedal効果があって、ある程度の音が残響として聴こえて来るので、それを書かれた音符をそのまま忠実にtransposeすると、『音痩せ』という現象が起こってしまって、実につまらない薄っぺらなarrangementになってしまいます。

arrangeをする時に、Pianoの譜面をそのままにtransposeする事は危険なので、優れたarrangerになると、『音痩せ』を防いで、ちゃんとしたorchestraの作品に聴こえるように・・という事と、arranger自身のoriginalityのために、編曲をする時には、曲をorchestraの作品に聴こえるように、完全に編曲をしてしまいます。

その結果は、当然、原曲の持つoriginalityが失われて、編曲者のimageが強く反映されてしまいます。
Guido Guerriniの手になるFerdinand Davidのversionも、Organとstrings-orchestraへのarrangeの過程で、Davidの書いたPianoの伴奏とは、全く異なったarrangeがなされていて、原曲のPiano伴奏譜のimageは薄くなっています。

VitaliのChaconneは、とても名曲で、演奏効果も優れていて、長大な大曲なので、多くのarrangerの人達がarrangeを試みていますが、どのarrangementも、演奏の技術的には、proのorchestraの演奏家達を対象にした、technicalな結構難しい難曲になっているようです。

orchestraの曲らしく、上手にarrangeされている反面、当然、DavidのPianoの伴奏譜のimageは失われて、You Tubeなどでも、Ferdinand Davidの作曲した曲ではなく、別の独立したorchestra伴奏の曲として、一般的には把握されているようです。

また、Tomaso Antonio VitaliのChaconneは、originalの曲はperiod-versionとしての曲なので、一般的に聴かれている譜面はFerdinand Davidによる編曲版なのですが、その版は演奏される事は少なく、流布している(よく演奏されている・・)Pianoの伴奏の譜面は、David版から更に新しく編曲されたCharlier版で演奏される事の法が一般的になっています。


Charlier版はDavid版から、幾つかのVariationがcutされて、短くなっていたり、またVariationの順番も意図的に変えられているので、Ferdinand DavidのoriginalのChaconneとは一線を画しています。


Charlier版をorchestrationをしたarrangeも、Zino Francescattiという名演奏家の演奏があって、You Tubeでも視聴する事が出来ます。

Charlier版のPianoの伴奏譜からのarrangementと明記されているのですが、Francescattiの名演奏を持って、なんとか『音痩せ』しないで演奏出来ているようで、一般的なproの人が同じCharlierのversionで、演奏したら、やはりオケ・バックは薄くて演奏上では問題なのかな??と思っています。

Zino Francescattiならば、無伴奏でも説得力があるので、聴くに耐えられるのですよね??

Charlier版以降の編集や校訂の譜面は、総てCharlier版が底本にされているようです。
originalのDavid版は現在、出版されていないようなのですが、唯一、「Schimer's Library」という出版社からは出版されているようです。

元々はFerdinand Davidの教則本として編曲・編集した曲集なのですが、今は絶版になっているBreitkopf&Härtelから出版されていた『Die Hohe Schule des Violinspiels』という全2巻の教則本の中の2巻の中の1曲が、所謂、Davidのarrangeしたoriginalの楽譜なのですが、Hennri Petriという人の校訂版なのです。


つまり、originalの譜面は、不思議な事に、一応は「Schimer's Library」から出版されているVitaliのChaconneの方が、Ferdinand Davidのoriginalの版なのです。

しかし、まあ、Hennri Petriという人は、一応、Davidとは面識のある人のようなので、David公認の校訂版とは言えるかも・・??・・ですかね??

という事で、orchestraのarrangeを手掛けた人達は、殆どの人達が、よりpianisticなCharlier版ではなく、originalのDavid版からarrangementをしているようなのですが、一般的には「長い!」とか「地味だ!」とか、何かと評判はよくないようです。
それは、短くcutされた派手派手しいCharlier版を聴き慣れている所為ではないか??・・と思っています。

まあいずれにせよ、originalのDavid版を使用してarrangementをしたとしても、そのままコピペでtransposeされるのはsoloのpartだけで、Pianoの伴奏譜に関しては、編曲者のoriginalityでorchestra風にarrangeされるのが常です。
Piano用に書かれている伴奏譜を、なるべく原曲のimageを損なわないように留意して、しかも『音痩せ』をしないように気をつけてtransposeする・・という事は、結構、編曲の技術的にも、至難の業になるので、『音痩せ』する部分のarrangerは、自分のoriginalityのorchestrationのimageのままにarrangeをする方が、arrangerに取っては、より・・楽だからなのです。

arrangementのVitaliのChaconne以外の例も、同様な課題を含んでいます。
幾つかの名曲では、pipeorganの曲をarrangeした譜例を見受ける事が出来ます。

その例は、PachelbelのOrganのためのChaconneをそのままarrangeをした「Mueller-Hartmann」版では、originalの3声部のimageをそのままに弦楽orchestra(Streich‐Orchestra)にtransposeをしたので、弦楽orchestraなのに、3声部で書かれているという『音痩せ』が起こっています。

または逆に、VeraciniのViolinのsoloの曲(soloとbasso continuoの曲ですが・・)PassacagliaをOrganとstrings-orchestraにarrangeのLupiは、近現代風にarrangeをしようとしたのか、曲のarrangementがeccentricになってしまって、所謂、単なるmiss・printか、それともarrangerの意図なのか・・の判断が付き兼ねるpassageが多くて、また原曲とのimageとも掛け離れてしまったので、結局、発表会では使用する事が出来ず、やむ無く私がoriginalのOrganのpartからarrangeを試みて、発表会や八千代のKoncertに臨みました。

その点、VitaliのChaconneのGuido Guerrini版や、Corelli=Geminianiの版は、結構まともなarrangeだったので、私が手を入れる必要は、全く無かったのですが、David版のimageとはimageが掛け離れてしまっていたので、ついつい、「David版ならば、こうなる」・・、という事で、今回は敢えてDavidのPianoの伴奏譜の骨格を基本的に、残すように努めて、それに『音痩せ』をしないように、他のpartで補填補充する・・というarrangeをして見ました。

「何故に、そんな面倒くさい事を・・??」と思われるかも知れませんが、Charlier版を学習した後で、Guido Guerrini版のorchestra-versionの版を演奏する事は、Variationの順が違ったり、shortcutされていたり・・と、暗譜が混乱してしまい、何かと演奏上・指導上、問題が多くて、不便なのですよ。

でも、それも含めての暗譜のmethodeなので、今までの生徒達で、暗譜に付いて文句を言った生徒は一人もいませんがね??それは、教室での演奏では、色々な版や、違ったinterpretationで演奏をさせているので、慣れているからですが、そういった教育は一般的ではありません。pro仕様のversionだからです。


という事で、折角、originalのDavid版の曲をそのままにarrangeをしたので、是非、演奏して見たいのだけど、そういったchanceは、オケが出来るだけの人数がいないので、子供達がまた入会して来るまでは、暫らくは無いのかな??
美音ちゃんが今回初めてDavid版のChaconneに挑戦します。
それで上手に演奏出来たとしても、orchestraでChaconneを演奏出来る大学生の人達が、来年度からは、そろそろ大学を卒業してしまうので、オケに来れなくなってしまうので、memberが足りないのですよ。

今の小学生達には未だChaconneは無理だしね・・??

・・・・という事で、finaleに楽譜を入力して、finaleに付随しているserviceの音源で再生して見たのだけど、勿論、実際の弦楽orchestraで演奏をすると、パソコンの音源とは全くの別のimageに変わってしまいます。
「実際の弦の音がどのように響くのか?」は生オケで演奏してみないと分かりません。
音符を見ながらその音のimageを想像するだけなのですよ。



取り敢えずのFacebookからのTomaso Antonio VitaliのChaconne関係の文章のコピペはこれまでです。


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VitaliのChaconne Piano-Begleitung version



Chaconne on parade




Vitali chaconne g moll Charlier版version 小1芦塚音楽教室
千葉で教室を開設したばかりの頃に、私が最初に指導した女の子達の演奏です。
初めて教室としての発表会で、1982年4月に南大塚ホールでの演奏になります。
という事なので、もう40年近くも昔々のvideoになります。
伴奏は埼玉県で指導している中学一年生の生徒です。
時折の音飛びはβからのdubbingによるものです。

私が日本に帰国して間もなく、千葉で音楽教室を開設したばかりの頃の、私が最初に指導したviolinの女の子の演奏です。
勿論、Pianoの女の子も私の最初の生徒です。

初めて開設した教室としての第1回目の発表会で、1982年4月に南大塚ホールでの演奏になります。

という事なので、もう40年近くも昔々のvideoになります。 
伴奏は大学から帰る途中の埼玉県の弟子の教室で私が指導している中学一年生の生徒です。

若かりし頃なので、東京、千葉、埼玉と三県にまたがって車で移動しながら活動しています。
(本当は、それと群馬県の大学にも通っていましたから、都合4県なのだけど・・・ネ??)

以前からYou Tubeにupしていたvideoだったのですが、今は無きβのtapeからuploadした動画なので、tapeが古くて音声が殆ど聞き取れなかったので、音声を増幅をしてuploadし直しました。


2008年4月20日 芦塚音楽教室 春のコンサート 第二部 第三部 千葉市文化センター・アートホール
春の発表会の第二部からのomnibusなので、indexからChaconneの曲へ飛んでください。




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Chaconne Onparede


VitaliのChaconne baroque-Violin solo-version

Vitali Chaconne period-version von handschrift (baroque-Violin 斉藤純子)Bearbeitung bei Yoji Ashizuka
2016年11月23日(水)千葉市美術館さや堂ホールoriginal-baroque-concertoです。

千葉市美術館の1階部分にある鞘堂(さや堂)ホールは、旧川崎銀行千葉支店を鞘堂方式(刀の鞘のように、古い重要な建物をそのまま被せるように建物を建てて・・・)で保存、再生した建物(昭和初期建設)で、千葉市では現存する数少ない歴史的建造物の一つであり、ネオ・ルネッサンス様式を持つ唯一の建物です。
全国的にも鞘堂は色々な所にありますが、特に中尊寺の金色堂が有名です。

珍しく、芦塚音楽研究所ー主催!!※)のbaroque‐concert での演奏です。 ※)一般の人達には何のことなのか意味が不明だと思われますので、蛇足の説明をすると、芦塚音楽研究所の対外出演では、持ち出しコンサート(自主的な演奏会)は基本的にしないので・・、という意味です。
今回は、baroque-concertoと言う事で、先生達や専科生達の研究発表を兼ねて、自主コンサートをしました。

日本の音楽界では、演奏会の企画や主催は、基本的に演奏家や演奏する団体が主催する場合が非常に多いのです。
つまり、演奏活動をしても、その演奏会で収支が釣り合う事は稀で、殆どのKoncertの場合には主催者(演奏家)の持ち出しで、売れたticketでどれくらいの赤字が補填出来たか??という事なのです。

大学の教授達は、半ば強制的に生徒達にticketを割り当てて、生徒達も同じ相手にしか売れないので、結局の所、席を埋めるためにただでプレゼントをする・・というのが一般的なのです。
知り合いの超名門有名音楽大学のPiano科の主任の先生が「40過ぎて、やっと(±)が0になったわ!」と私に述懐していました。
音楽のproductionでも、Classicでは日本人の演奏家達の演奏ではHallが埋まらないので、日本人の演奏家達のpromotionをするのはやめた・・というproductionが大半です。

外タレでも今はペイが取れないのが現状だそうです。

私達の芦塚音楽研究所でも、対外のKoncertや子供達を出演させる時でも、基本的には持ち出しコンサート(自主的な演奏会)はしません。


それは持ち出しをした場合には、一時的にはそれで良くても、基本的には長続きはしないので・・、経済的には確立をさせた上で・・の演奏活動という意味なのです。

今回は、そういった営業的な、或いは啓蒙活動的な演奏ではなく、baroque-concertoと言う事で、先生達や専科生達の研究発表を兼ねて、自主的コンサートをしました。

Tommaso VitaliのChaconneは、Ferdinand Davidの編曲版がoriginal-Ausgabeのように思われていますが、一般に知られているVitaliのChaconneはあくまでもDavidの作品であり、時代考証によらないロマン派時代のFerdinand DavidによるViolinの教育を目的とした練習用のシリーズの中の1曲で、Davidがlessonを目的に編曲をした擬古典の作品です。

Davidは、Leipzigの図書館にあるHandschrift(手書き譜)から、この擬古典の曲を創作したのですが、Leipzigに残されているHandschriftは、一般的にはoriginalの現存するTomaso Antonio Vitaliの原本と思われていますが、それは下手な音楽に関しての素人の写本で、そのbasso continuoに書かれている数字は殆どが全く bezifferten Baßを知らない人の書き表した誤りに過ぎません。

という事で、今回の演奏では、新たに芦塚陽二(Ashizuka Yoji)がbezifferten Baß Realisation(数字付き低音の演奏譜作成) とornament(装飾譜作成) をkritik(批評訂正を)して、全く新しく作成し直して、baroque‐violinのornamentと実際の演奏を 斉藤純子( Junko Saito) 、baroque-celloを牧野由起子( Yukiko Makino)、 Cembaloを萩元美紀( Miki Hagimoto)がperiod-versionとして演奏しました。

Ferdinand Davidがchaconneの底本に使用した、Leipzigの図書館のfacsimile‐Ausgabeなのですが、原譜には譜面上の誤りが非常に多いので、私が原譜の間違いを訂正しながら、kritik‐Ausgabeとして、楽譜起こしをしたので、今回の演奏はAshizuka-versionとしての、originalのversionになります。
訂正譜はいつものように、baroque‐concertの直前に完成しました。

ちなみに、Ferdinand Davidはロマン派の擬古典として自由にarrangeをしていますが、色々なversionの底本にはDavid版のarrangeが基本となっています。
まあ、それはそれで良いのですがね??

David版をTomaso Antonio Vitaliの底本と勘違いしている演奏家も多くいて、困ってしまいます。

Davidさんは、あくまでも、Leipzigの国立図書館に残っていたTomaso Antonio VitaliのChaconneの写本を、piano伴奏の擬古典の作品に作り上げた人なのでね??
時代考証が全く違うのですがね??

勿論、Davidさんがこの曲を作り上げなかったら、Charlier版のVitaliのChaconneもこの世には存在しなかっただろうから、素晴らしい仕事をしたのですよね??
それ以外の多くの曲もDavid先生のおかげで今日私達が目にする(耳にする)事が出来るのですがね??


VitaliのChaconne g Charlier版2001年4月15日芦塚音楽千葉教室浦安大ホール佐伯佳菜子(中1)



Chaconne Vitali David-original・fassung 萩元美音(小6)芦塚音楽教室秋の発表会

芦塚音楽研究所千葉音楽教室2020年10月11日の秋の発表会の演奏風景です。
曲はVitaliのChaconneの大変珍しいoriginal-fassung(原典版)のDavid版による演奏です。
演奏は萩元美音(小6)、伴奏は岡村智子(大)です。

Tomaso Antonio VitaliのChaconne in gについては、これまでも色々と機会を捉えてお話ししてきましたが、先ず第一に理解しておかなければならない事は、Vitali自身のoriginalの譜面(原譜)が存在しない・・という事です。
Vitaliの楽譜のoriginal版と称される写本版があるのですが、その写本版は誰が写譜をしたのかさえ確定していない諸説紛々なのです。
その理由は記されている数字譜( bezifferten Baß)の和音を表している数字が、メチャメチャで、とてもproの写譜屋の手になるものでは無いからなのです。

19世紀のEuropaで最高の演奏家であり、優れた教育者でもあったFerdinand Davidは、自分が指導する生徒達のために、17、18世紀のbaroqueの音楽を中心にした曲をselectして、近代風(所謂、擬古典風に)arrangeをして、高度なtechnikを学ぶ事の出来る教則本(曲集)を作り上げました。
その本のTitleは「Die Hohe Schule des Violinspiels」という全2冊の曲集であります。
鈴木の教則本に入っているLeclairのViolin-sonateや、こんにち私達がよく耳にする数多くのbaroqueの名曲はこのDie Hohe Schule des Violinspielsの曲集の中から抜粋された曲なのです。
言い方を変えると、Ferdinand Davidがbaroqueの曲をPianoの伴奏用に近代風に書き換えた作品が、こんにちのbaroqueの名曲として知られているのです。

話をVitaliのChaconneに戻して、ライプチヒの図書館にあるchanceの楽譜からFerdinand Davidが「擬古典の作品!」の一つとしてTomaso Antonio VitaliのChaconneと言われている曲を近代風にarrangeして編作曲しましたが、それがこんにち、VitaliのChaconneの底本とされる曲なのです。
それを後世にCharlierが更に改訂をしたversionが、一般的なDavid版のChaconneとして流通してしまいました。
Charlier版はDavid版のVariationの順番を入れ替えたりVariation自体を削除して、少し短めにまとめています。
Violinのsolo-partが技術的に華やかにarrangeされているので、比較的に地味でoriginalの楽譜により近いDavid版は演奏される事は殆ど無くなってしまいました。
まあ、いずれにせよ、David版にせよ、Charlier版にせよ、originalのbasso continuoの譜面からではなく、Davidの自由なarrangeをした作品から作られた分けなのですから、あくまでもbaroque風の音楽であって、baroqueの音楽ではありません。(当然、baroqueの音楽ならば、Pianoの伴奏という事は有り得ないからです。)

You Tube等でこのoriginalのDavid版の演奏を探したのですが見つからなかったので、今回急遽、発表会で萩元美音ちゃん(小学6年生)に演奏して貰う事にしました。
コロナの所為で美音ちゃんにDavid版の譜面を渡してから発表会までのintervalが2ヶ月とチョッとしかなかったので、練習期間は当然なのですが、それ以上に曲をlessonする事が全く出来なかったので、Teleworkでのlectureを1,2回しただけで、細かい注意点までのlectureが全く出来なかったのですが、まあ、それなりに頑張って、何とか発表会には間に合わせてくれました。但し、全体的には、練習不足の所為か、自信がない所為か、収めがない事と、tempoが少し速すぎてもう少し落ち着きが欲しかったかな??
まあ、またいつか、コロナが落ち着いた折には、この曲の挽回戦をしたいよね??

コロナの所為と言う事なのですが、そう言ってしまえば、このChaconneの曲だけではなく、他の人達もオケ合わせや伴奏合わせが殆ど出来なかったので、納得の行く演奏が出来る事はなかったのですが、こればっかしは、世界中共通のお話なので、文句を言っても仕方がありませんよね??

VitaliのChaconneは、多くの作曲家の手によるorchestra-versionにarrangeをした曲がありますが、基本的には、orchestra-versionの場合には、どのarrangeもDavid版からのarrangeになっているので、Piano伴奏でなくorchestraの伴奏だとしたらCharlier版ではなく、David版によるarrangeの演奏は決して珍しい事ではありません。
教室でいつも生徒達が演奏しているorchestraのGuido Guerrini版も底本はDavid版になっています。
しかし、Ferdinand DavidはあくまでもPianoの伴奏譜のみを書いているので、私が曲をarrangeする時に、いつも繰り返し書いている事なのですが、Pianoの譜面をそのままorchestraにtransposeすると、音楽の厚みが無くなってしまうという問題が生じてしまいます。
arrangeをするarrangerのよく陥る問題点なのですが、このGuido Guerriniのorchestraへのarrangeでも、幾つかの箇所では、音痩せの問題が起こっています。
そこは問題なので、楽譜を訂正する欲望に駆られますが、そこを弄ってしまうとGuido Guerrini版では無く、別の版になってしまうので、なるべく辛抱して弄らないようにしています。
このVitaliのChaconneは、私もoriginalの写本版のfacsimile譜をkritikして、basso continuoとbaroque-Violinのためのperiod-versionを作っていますし(You Tubeに公開済み)、David版を底本としたorchestra-fassungの曲と、またそれとは別に、伴奏のorchestraのpartはDavid版のままで、soloのpartだけをCharlier版を使用したversionも作っています。
こちらは未だ未公開で、誰も演奏はしていませんが・・・。
これから先、VitaliのChaconneをorchestraのversionで演奏する機会があったら、Ashizukaversionのみにして、Guido Guerrini版は廃棄する予定です。



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VitaliのChaconneのorchestra-version、

Guido Guerrini-versionとAshizuka-version

VitaliのChaconne Guerrini版 倫子(小4)芦塚音楽教室1985年3月21日両国公会堂
βからのdubbingです。殆ど音声が聞こえなくなっていたので、音声を増幅させて、画面sizeを4:3から16:9に変更してuploadしています。

Vitali=Guerrini Chaconne g1988年7月24日芦塚音楽千葉教室 中川美和(高2)斎藤純子(高3)浦安市
βからのdubbingです。34年前の演奏です。
演奏時間の都合でdoublecastになっています。

Vitali chaconne Tomo Hirokawa(11Jahre alt)1992年2月16日浦安市文化会館小ホール
芦塚音楽研究所 千葉教室の1992年2月16日の発表会です。
千葉県浦安市文化会館小ホールにて、廣川智(小5)指揮は芦塚陽二先生です。 
orchestraは教室の皆さんです。




Vitali=Guerrini版 Chaconne g 武藤朋弥(小6)芦塚音楽千葉教室 1995年9月10日 千葉市教育会館
長い間、行方不明になっていたβのvideo-tapeが偶然見つかりました。
一時期には、保護者の方から頂いたvideo-tapeをYou Tubeにuploadしていたのですが、soloのViolinだけのupの動画で、全体の雰囲気が分からないので、教室のmaster-tapeが
見つかった事は大変な喜びで、直ぐにupしました。27年も前のvideotapeなので、音声や映像も状態は良くないのですが、当時のvideoの技術なので致し方はありません。


Chaconne g Vitali指揮芦塚陽二Violin-solo風戸星那13歳1998年2月15日
1998年2月15日浦安市文化会館にて芦塚音楽研究所千葉教室の発表会の光景です。
曲やVitaliのChaconne g 風戸星那(中1)13歳 orchestraは教室の生徒の皆さん、指揮は芦塚陽二先生です。


1998年2月15日芦塚音楽教室冬のコンサート第一部22番から第二部2番までのomnibus
1998年の冬のコンサートの第24番の最後から第二部の最初までのomnibusです。星那ちゃんのChaconneの冒頭の音声が欠落しているので、videoを探して見たのですが、やはり、master-videoも欠落していたので、補正をし直して、補修をしておきました。上のvideoと同じvideoなのですが、少し改善されていると思います。



Vitali=Guerrini Chaconne g 芦塚音楽教室春の発表会2011年4月3日千葉市文化センター・アートホール


Vitali=Guerrini版 Chaconne in g 芦塚音楽教室秋の発表会2011年10月9日Rie(中3)

2011年10月9日芦塚音楽教室秋の発表会でのVitali=Guerrini版の演奏です。(中3)

Chaconne g Vitali orchestra-version指揮芦塚陽二2011年10月30日八千代
2011年10月30日の八千代市生涯学習プラザ主催の芦塚音楽教室の対外出演のコンサートです。
演奏は、芦塚音楽研究所千葉教室の小、中、高校生の生徒達とOBOGの先輩諸氏と先生達の合同の弱冠14名の超、少人数の室内orchestraの演奏です。 
指揮は座長の芦塚陽二先生です。

芦塚室内弦楽合奏団は、orchestraの音の響きが独特で、人数も少ないのに、大音量の演奏が出来るのは、全員が芦塚先生の門下生で、同じ奏法をしている・・事によります。
古いbaroqueから古典にかけての、1点支持という弓の持ち方をしているので、音が非常に柔らかい響きがします。
また、古式ゆかしいbaroque時代や、古典派の時代の演奏法を随所に使用して演奏しています。

pro、アマ混合・・というstyleはよくありますが、1/3がproで、1/3がamateurで、1/3が中、高生という寄せ集めのorchestraです。

曲はVitaliのDavid版をarrangeした現代の作曲家のGuerriniの版を、更に演奏上の都合で、若干の変更を加えて演奏しています。
また、現代にarrangeされた擬古典の作品ではありますが、特別な弓の持ち方なので、敢えて、baroque独特のperiodの奏法も随所に使用して演奏しています。
という事で、色々な弦楽器の演奏法が寄せ集まった他の演奏団体の音とは違って、pureな非常に柔らかい古式豊かな音で、また全く新しいinterpretationになっていると思います。

参考までに、You Tubeに書き込まれているcommentを掲載しておきます。





2018年11月11日芦塚音楽研究所千葉教室の秋の発表会古川紗來12歳(小6)

Chaconne g Vitali orchestra-Bearbeitung und dirigierte bei 芦塚陽二Violin-solo古川紗來(小6)12歳 - YouTube

2018年11月11日芦塚音楽研究所千葉教室の秋の発表会の演奏風景です。
violinのsoloは古川紗來12歳(小6)です。 

曲はTomaso Antonio VitaliのChaconne g Guido GuerriniによるStreich‐Orchestra-versionを更に改訂したものです。
Guido Guerriniによるorchestraへのtransposeへの定本はFerdinand Davidのoriginal版なので、今日では一般的には演奏される事がありませんが、soloのpartはsoloを演奏する紗來ちゃん本人の希望で随所にCharlier版のsoloのpartを使用しています。

orchestraの冒頭のcantus firmusの旋律はCharlier版のPiano譜を芦塚先生がorchestraにarrangeしたものを付け加えました。
勿論、紗來ちゃん本人の希望で・・・ですが??
(その後の話ですが、Guido Guerrini版のorchestrationを破棄して、David版から直接、私が芦塚陽二版として全く新しくorchestrationをしました。勿論、soloはDavid版のsoloのままなのですが。その次にDavid版のsoloをCharlier版のsoloに変更したversionも作りました。残念ながらこの二つの新しいarrange版は未だ演奏はしていません。未公開のままです。)

指揮は芦塚陽二先生でorchestraの編成は、solo+3+3+2+2+3+Organの15人編成のbaroque並びです。
勿論、15人はPultという意味ではなく人数ですが・・。
こんにちのorchestraの編成から見ると、balance的に低弦が強過ぎるように思われるかもしれませんが、cantus firmus(=定旋律)がCelloとKontrabassの低弦にあるので、それぐらいの強さは必要なのです。

「以下、芦塚陽二の病床記より」
今回の発表会(2018年の11月11日)は、私が、3日前の11月8日に川崎の病院で、腹部大動脈瘤の緊急手術をして直ぐの指揮で、現実的には、指揮は不可能な状態だったのですが、私が病院の主治医の先生に無理を言って、緊急に退院させて貰っての指揮なのです。
体力的に、無理があったので、他のオケの曲の指揮は椅子に座ったまま指揮をしたのですが、流石に『VitaliのChaconne』を椅子に座ったままで指揮をするのは不可能だったので、椅子を外して、立ち上がったままで指揮をしています。

「何とか頑張って指揮をする!」・・とは言っても、腹部大動脈の血管から大量出血した場合には、救急車で救急搬送しても、流石に間に合わないので、「出血させないように細心の注意をしながらの指揮をする事」・・という医師との約束です。  
マジに、命懸けの指揮ですよね??アハッ!

私の手術なのですが、腹部大動脈瘤の手術は、それで終わりではなく、更に12月の11日に泌尿器科に外来で検査をして、そのまま12日に最入院をして、13日に膀胱癌の摘出手術をします。

つまり、入院と入院、手術と手術の間の一時帰宅中なのですよ!!(まさに、有漏路 無漏路の一休みです。)
私が重篤な病気で緊急手術をするという事は、second opinionが決まった時に、既に日時は決まっていたのですが、生徒達が動揺するといけないので、内緒にしていたのですが、病院の先生からのお話で、術後の状況では「発表会本番までに、退院出来るかどうか・・が分からない」という事になってしまって、「発表会当日は、指揮無しの演奏になるかも知れない」という可能性も出て来たので、急遽、生徒達に先生達から、「発表会の当日は芦塚先生が手術のために、指揮が出来るかどうか分からない!」という事を伝達して貰いました。

私自身では、今回の練習は、普段よりも上手く行っていたので、「指揮無しの演奏でもOKかな?」とも思っていたのですが、病院の先生に無理を言って、それで死んでも『自己責任』と言う事で退院して、発表会の指揮に間に合わせたのですが、私が子供達を直接、指揮をしているのにも関わらず、生徒達の心の動揺は私が思っていたのよりも大きくて、普段の練習の半分の力も出せない状態での演奏でした。

普段の練習では、私に頼っている様子は全く持って無いのですが、本番ともなると、無意識的にでも、未だに私に依存をしていると言う事が改めて分かりました。

それにしても、練習の時に私が決めた演奏上の約束事を、gestureでeinsatzを出しても、一週間前のオケ練習まで出来ていたorchestra表現の約束に対しての反応が全く出来なくなってしまい、普段の練習で使用してる色々なgestureのありとあらゆるeinsatzを出して、決めた通りの演奏を促しているのにも関わらず、そのどれにも半分も反応してくれないので、私が、時折、ブチギレる寸前の表情をしていて、私の感情の起伏が見受けられて、とても面白い動画になっています。 

基本的に私は指揮をする時には、感情を表情には出さないので、怒り捲っている情景は超面白いですよね・・・??
勿論、「einsatzに反応しない」・・というのは、このChaconneの曲だけではなく、私が指揮をした他の曲全てなのですが、生徒達は「私の指揮を見て・・」ではなく、「私の体幹に反応して」演奏していたのですよね?? 
驚きです。 

臍下・・所謂、丹田と言いますが、丹田に力を込める事が全く出来ないので、曲のpointが決まらないのですよ。困ったもんだ! 
そこいらは、空虚な指揮をしていても、ちゃんと演奏出来るproのorchestraとは、やはり基本が違うのよね??

「指揮棒を見て・・ではなく、私の体幹に反応して演奏する」・・・という方がよっぽど難しいと思うのだけど、体幹でなければ反応しないと言う事は、私の緊急手術がよっぽどshockだったのだよね??

「ちなみ」-ついでに、1stの女の子が右手に手袋をしているように見えますが、実は彼女も病院から駆けつけてくれた生徒で、点滴の針をカバーするための包帯です。

左手のバンダナに見えるのは、病院の個人識別のタグです。
アハッ!先生と生徒が病院からの直行直帰とはね??
「・・以上、芦塚先生のcommentです。」

「曲の解説」
冒頭は、このGuerrini版ではViolinのsoloとorchestraが一緒にいきなり入ってくるのですが、David版に付加されているChaconneのthema(cantus firmusが2回繰り返される)を、紗來ちゃんの希望で、Pianoのpartからorchestrationをして、orchestra-versionで付け加えて演奏しています。

ちなみに、80小節目ですが、紗來ちゃんが「kadenzの入った別のversion(David-version)で演奏したい」という希望だったので、orchestraのtempoを2分の4拍子に変更、追加して演奏しています。(ほとんどの演奏がrubatoで、それに近い拍子で演奏しているのですが、Piano伴奏ならば、いざ知らず、orchestraはrubatoが出来ないので、実際にrubatoを拍子の変更で音符に書き表して演奏しています。)

Chaconneは常設のrepertoryなので、今までも数回、歴代の先輩諸氏が演奏をしていますが、今回のChaconneでは、今までのinterpretationとは、全く解釈を新たにして、『室内楽的な奏法』・・つまり、orchestraの各partが独立して歌い込むようにinterpretationを変更して、演奏しています。

・・という事なので、当然、揺らしの幅も広くなって、orchestraも室内楽風に、それぞれのpartが、独立をしたDynamicで演奏をしているので、演奏表現もとても難しくなっています。

子供達には可愛そうなのですが、私もそろそろ歳で後がないので、自分自身の独自の解釈の演奏を残したい・・と言う願望で、思い切って無理をしてinterpretationを変更しました。
つまり、生徒が弾けようと弾けまいと関係なく、interpretationは芦塚versionで演奏するという意味です。

VitaliのChaconneは、originalの譜面が無く、写本のfacsimileしか残っていません。
その写本も、音楽家とは思えない実に素人っぽい間違いが多く、基本的には名violinistであり、MendelssohnのViolin-concertoを初演したFerdinand Davidがarrangeした楽譜が、全ての楽譜の底本になっています。
所謂、有名なCharlier版も、それ以外の版も、PianoのpartはDavid版をそのままに使用しています。

このorchestraのGuerrini版も、基本的にはDavid版とoriginalの写本を合わせてarrangeしたものです。
という事で、David版のarrangeでは、Piano伴奏を想定しているので、或る程度の速度(tempo)でviolinの演奏をするので、violinの演奏表現はそれに相応した、violin-Technikが要求されています。

飛ばし(flying-staccato)等の自然な弓の反動を利用する奏法の場合には、弓のバネとしての性質上、ある程度の音楽の速度(tempo)が必要なのですが、今回は室内楽的な表現という事で、それを無視をして非常に遅いtempoで、演奏をしているので、violinの演奏Technikとしては非常に難しい技術が必要とされます。

tempoが遅くなった分だけ、flying-staccatoの演奏技術が難しくなっている・・・と言う意味です。
violinを弾かない一般の人達には関係のない事なのですが、この曲を演奏した事のある人達の場合には、この遅いtempoでのflying-staccatoは、「えっつ??」とびっくりする演奏technikなのですよ。

「聴いている人達には関係のない」・・と言えば、もう一つ、紗來ちゃんが弾いているChanot型のViolinは芦塚先生の愛用の古いold-Violinです。(勿論、Chanotさんよりも数百年古い時代のviolinです。)

今回の発表会で紗來ちゃんが、Violinを新しく3/4からfullsizeに変更したのですが、楽器を弾き込む前に、楽器の不具合で工房の修理になってしまったので、代わりに芦塚先生のViolinを借りて演奏しています。
自分の楽器ではないので、弾き難くかったかな?

ちなみに、オーケストラは1st3,2nd3,viola2、Cello2、Kb.3にOrganの14名の編成にsoloの総勢15名です。(但し、1st3とはPultではなく、人数なので、Pultの半分の人数になります。)実際にはオーケストラの1Pult(最前列)の1列だけの人数になります。舞台に一列で、離れて座っているので、結構人数がいるように見えますが、それは芦塚先生の意図した視覚効果を狙ったsettingのtrickなのです。1stの1の位置と2ndの位置を決めて、そこから均等に配置するというsettingなのですが、お互いの音を聴く事が難しいので、日本ではそのように座る事は原則的にありません。

人数の割に音量が大きいので、本当に人数がいるように錯覚して聞かれているようですが、それは弦楽器の1点支持のperiod奏法に拠る古式豊かな弦楽器の奏法によります。
昔の弦楽器の奏法は楽器が鳴る様に演奏したのですよ。では、今の奏法は??
楽器を鳴らすように演奏するのですよ。

その落差は大きいのです。
人間に例えるならば、自分の良い所を活かして来れる先生と、先生のimageに生徒を作り上げる先生の違いかな??
もし、恋人ならばどちらが良いかな??



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参考までに:

Chaconne in g Tomaso Antonio Vitali David=Charlier=Ashizuka version

Chaconne in g Tomaso Antonio Vitali David=Charlier=Ashizuka version - YouTube

2020年8月の15日の深夜に突然、なにを思ったのか、Tomaso Antonio VitaliのChaconne David版のPiano伴奏譜からorchestrationをしました。

8月の18日の朝に脱稿しましたが、当面は演奏をする予定が無いので、実際のorchestraで演奏が出来るまでの暫定的にパソコン音源をYou Tubeにuploadしておきます。

この音源のsoftはfinaleというnotationのsoftなので、音源はあくまでも付録なので、超ヘボいのですが、私は音声用のsoftは持っていないので、楽譜を音声として聴く場合には、finaleの付随したsoftでも致し方ありません。

この曲の他にも、HändelのPassacagliaや、その他の曲も「出番待ち」の曲が数曲あるのですが、教室で演奏をするには、少子高齢化の煽りで、orchestraに参加する人数が少ないので、当面の教室での演奏の可能性はないので、取り敢えず、パソコン音源をuploadしておきます。

勿論、暫定的なuploadなので、実際の演奏の動画が出来たらこの音源は削除します。
芦塚陽二記
2020年8月18日深夜




つまり、Guido Guerrini版のPianoversionはないし※)、改訂される前のDavid版も見当たらない。

Tomaso Antonio VitaliのChaconneは元曲は不完全なbasso continuoの譜面しかありません。
そのoriginalと称される写本版は、Bärenreiter出版社からと、Ricordi出版社から、originalのfacsimile版からのContinuo-Aussetzung版として出版されています。

Guerrini版のpianoーversionは、同じZanibon出版社から出版されていました。取り寄せる気はありませんがね??

ですから、こんにち私達がTomaso Antonio VitaliのChaconneとして知っている楽譜は、全くのFerdinand Davidの創作によるものです。

しかし、originalのFerdinand Davidの楽譜は、こんにちでは非常に手に入れる事が難しく、Ferdinand Davidが自分の生徒達のためにbaroque音楽を中心として、近代風にarrangeをして、Violinの練習曲として作成した2巻による曲集『Die Hohe Schule des Violinspiels』という楽譜は、こんにちでは絶版、廃版の憂き目にあっていて、一般の人達の目に触れる事はありません。(勿論、私が所蔵している版もコピー版です。)

また、こんにち、一般的に演奏されているVitaliのChaconneと呼ばれるPiano伴奏の曲は、Charlierという人が、Ferdinand DavidのChaconneを更にarrangeしたversionで、技巧的に華やかにarrangeされ、且つ又、compactに纏め直されています。その過程でVariationの順番も演奏効果を目的として変更されています。

こんにち、私達が使用している色々な人達の版もこのCharlier版を底本にしています。
Auer版(Fischer版)も同じであります。

勿論、私達の教室でも、発表会等で、VitaliのChaconneのPianoの伴奏版を演奏する時には、この一般的なCharlier版を使用しています。

話をより複雑にしているのは、一般的にoriginalのFerdinand Davidの手による『Die Hohe Schule des Violinspiels』の中に掲載されているChaconneの曲は、なんとHennri Petriという人の手による版になるのです。

originalのDavidの版を探し求めてやっと、Schirmer版という出版社が出版している事が分かり手に入れる事が出来ました。


私が、originalのDavid版に拘る理由なのですが、orchestraにarrangeされた多くのversionでは、その殆どの作曲家の人達が、arrangeをするに当たって、作曲者への尊敬の意味を含めて、元曲であるDavid版を使用している事が多いからで、教室でもよく演奏するGuido Guerriniのarrangeによるorchestraのversionの曲も、Ferdinand Davidのoriginal版を底本にしてarrangeがなされているからです。

David版とCharlier版の一番の違いは、先程も述べたようにCharlier版は14分も掛かるChaconneをcompactに、また、技巧的に纏めたので、演奏が楽である・・という事です。

教室でもorchestraのversionで演奏する時に、曲の構成はそのままに、Variationを演奏する子供達の希望で、Charlier版のphraseで演奏する事がよくあります。

VitaliのChaconneは教室では常設の課題曲なので、これまでも多くの生徒達が演奏をして来ましたが、今回も、美音ちゃんがChaconneを演奏する事になったので、本来ならば、音楽技術的な勉強のために、Charlier版で演奏するのですが、私の一存で、教室では、未だ一人もoriginalのDavid版で演奏をした事が無いので、David版での演奏をする事にしました。

技術的には、David版の方が少し簡単なのですが、曲が長い分、演奏力表現力(歌い込む力・・)を要求されます。
David版と言われている版は、先程もお話したように、不思議な事に、originalのFerdinand Davidの手によるDavid版と、Davidと同時代のDavidが了解をして校訂をしたHennri Petri版があり、いずれもDavid版と称されます。(多分、Davidの了解の元のversionなので・・) 今回は、大元のFerdinand Davidのoriginal版で演奏をする事にしたのですが、通常、orchestraのversionで演奏する場合には、逆に、楽曲の構成は元曲のままなのですが、子供達の希望でVariationに、Charlier版を随所に取り入れて演奏をしているので、「それならば、最初からDavid版にCharlier版を取り入れて演奏するのは??」と思い経って、arrangeをし直しました。

今の所、このChaconneの演奏の予定は全く無いので、パソコンの音源ですがそのままuploadしておきます。
あくまでも参考程度・・なので、実際の生の演奏が出来た段階で、このパソコン音源は削除します。
2020年9月8日upload


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2021年8月21日23:55 ·


昨晩は、とても寝苦しくって、深夜の3時に目が覚めてしまって、寝逸れてしまったので、VitaliのChaconneのhomepageの統合とFinaleでのアーティキュレーションの入力を朝の6時半までやってしまいました!
今から寝る所です。

『Tomaso Antonio VitaliのChaconneのhomepageのお話』
このお話をする時に、非常に混乱を招いてしまうのは、pianoのversionと、orchestraのversionの話が混在してしまう事なのです。

基本的には、生徒は先ずpianoの伴奏でChaconneを演奏して、合格をしたら、orchestraの伴奏で演奏する・・というcurriculumなのでしたが、近頃では、いきなりorchestraのversionで演奏する・・というのが、一般化してしまいました。

VitaliのChaconneは、基本的にはFerdinand Davidの手に寄ってpianoの伴奏とsoloのviolinのためにarrangeされたものなのですが、violinistのCharlierが曲の順番を入れ替えて短くして、曲の演奏技術も派手派手しくして、所謂、Charlier版というのを作ってから、一般的には殆どのviolinistがCharlier版で演奏するようになりました。

また、originalのDavid版は、現在絶版状態で、手に入り難いようです。(他の出版社から、originalのDavid版が出版されてはいるようではありますがね??)

ところが殆どのorchestra伴奏の版では、紛らわしい事に、originalのDavid版からarrangeをしているのです。

つまり、教室でpiano伴奏のCharlier版で演奏して、orchestraのversionで演奏すると、全く違ったVariationの順番で、違ったpassageを演奏する事になって、結構混乱するのですよ。(とは言っても、orchestra・backで演奏する生徒達は、そういったkleinigkeitは、全く問題は無いのですがね??)

前回の発表会では美音ちゃんには、一般的なCharlier版ではなく、originalのDavid版で、演奏をして貰いました。

勿論、途中まではCharlier版で演奏の予定で練習をして来たので、本番直前の、突然の変更なのですが、教室ではそんなのは当たり前の事なので、覚え直しも問題はありませんでした。

そこでウダウダと引っかかるようだったら、orchestraのversionでの演奏は出来ませんからね??
orchestra-versionのVitaliのChaconneは教室の常設曲としてこれまでの歴代の勇者達が演奏してきましたが、Guerriniのarrangeには、幾分、音痩せの問題等があって、この後に、演奏する予定は無いのですが、David版を底本にしてarrangeがなされているのですが、orchestration的に色々と問題があるので、先ずはorchestra版のorchestrationの手直しをしました。

つまり、Guido Guerrini版からの訂正ではなくて、originalのpianoーversionのDavid版から、直接、arrangeをしました。
これまでの、Guido Guerrini版の演奏の時にも、歴代の生徒達が、派手派手しい箇所を、地味なDavid版ではなく、Charlier版のpassageで演奏していたので、どうせならば・・と、次には、派手派手しい所だけをCharlier版から剽窃して、Vitali=David=Charlier=Ashizuka=versionを作りました。

このarrangeは、Ferdinand Davidのoriginal版のorchestrationと、殆ど同時に、Charlier版を挿入した二つのfassungを作ったのですが、それはどうせ作るのならば、一つ作るよりも、同じ労力なので、二つ作った方が、同じ手間で、効率が良いからです。

美音ちゃんがCharlier版ではなく、originalのDavid版を底本にしたversionで発表会で演奏をしたので、homepageに、その説明を・・と、思ったのですが、「VitaliのChaconneのhomepageが無い」・・とばかりに思い込んでしまって、急遽、VitaliのChaconneのhomepageを作ってしまったのですが、linkが外れてしまっていただけで見つからなかったVitaliのChaconneのhomepageが見つかったので、新しく作ったhomepageは紛らわしいので削除してしまいました。

それはそうと、You Tubeの芦塚先生のオケ室内楽練習のsiteにVitaliのChaconneのfinale音源をuploadしていた・・と思ったら、何もuploadしていなかったのだよね??

多分、音源の音のbalanceが余りにも酷いので、uploadするのに、二の足を踏んでしまったのだよな??

Chaconneは今は素っぴんの状態※)なので、forte・pianoのdynamikと、表情記号を書き込んでからfinale音源でuploadする予定なので、今暫くお待ちください。
※)『素っぴんの状態』・・とは、私の場合には、finaleで音符を入力しても、articulationに関しては、基本的には、面倒くさいので、入力しません。
articulationは、一旦書き始めるとendlessになってしまうからなのです。
だから、実際のオケ練習の時に、細かい演奏上のarticulationを伝達します。

今回の、David⇒Guerrini⇒Charlier⇒Ashizukaのversionの曲は、生音で演奏する予定は全く無いので、已む無く、computer音源でuploadして起きます。


・・・と思っていたら、Facebookからcomputer音源のChaconneのYou Tubeにlinkが張ってあって、ちゃんと活きていたのだよな??
音符だけを入力した状態のfinale音源をuploadしていたのだよな??

402a42kaでも、芦塚先生のオケ室内楽のPageでも、もう一つのPageにも見かけなかったのだけどな~ぁ??

homepageもYou Tubeも少し、量が多く成り過ぎて、ミスを誘発するようになっているよな??
何とかせにゃぁ、あかんわな~ぁ??

という事で、この二日間で、VitaliのChaconneの二つのPageから、古いPageにDoubleで掲載されている文章を、新設したPageから削除をして、新しいPageを削除する所までやりました。その前はrecorderのPageが同じTitleで二つあったのを、別の内容のPageにしました。

昨晩から今日一日では、finaleのVitaliのChaconneのdataにarticulationを加えて、Guido Guerrini版の音符の間違いを訂正して、それから古いYou Tubeのパソコン音源の方を削除して、昨晩から取り掛かった新しい音源をuploadしました。

下に掲載したYou TubeのPageです。
先程のDavid⇒Guerriniなのですが、これはGuido GuerriniがFerdinand DavidのVitaliのChaconneのpiano-versionをorchestrationをした・・という意味です。

次のCharlierの意味は、子供達がCharlierの結構派手派手しいarrangeの好きなpassageがあるので、そのpassageを生徒のserviceのために、Guerrini版のviolinのsoloのpartとchangeしました。

Guerrini版はpiano伴奏からtransposeをする時に、私が良くお話をしているarrangerの犯す誤ちで、pianoの伴奏を丸写しする・・という失敗をしているので、そこは弦楽orchestra用に改編しました。基本的にGuerrini版は使わないで、David版から、そのままarrangeをしました。

という事なので⇒Ashizuka-versionという事になります。


VitaliのChaconne David=Guerrini=Charlier=Ashizukaーversion
computer音源



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『VitaliのChaconneのお話の続き』
取り敢えずは、David版のarticulationを入力したversionを作ってuploadしたのだが、一日聴いていて、どうも納得が行かないarticulationの箇所が多過ぎるので、昨夜から一晩掛かって、私なりに不自然と思われるarticulationやtempoの設定等々を訂正してuploadをしました。
私的には聴きやすくなったとは思っているのですがね??

VitaliのChaconne Ashizukaーorchestration und kritik fassung - YouTube




実際の演奏は結構あるので、linkを張る事にします。
You TubeでVitaliのChaconneのon paradeもあります。








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補遺:

参考までに:外部資料

Neue Zeitschrift für Musik

Zu den berühmtesten und großartigsten Violinwerken des 18. Jahrhunderts gehört die Chaconne in g-Moll von Tommaso Vitali, die Ferdinand David in seiner Hohen Schule des Violinspiels mitgeteilt hat, ein Werk, das in der Größe der Konzeption und der Ausnutzung aller Mittel der Violintechnik nur noch mit der Chaconne für Violine allein von Bach verglichen werden kann. Es ist oft nachgedruckt worden, Respighi hat die Klavierbegleitung Davids sogar für Orchester übertragen, aber die Frage nach dem Original ist bis heute unbeantwortet geblieben. Die Stimmen mehrten sich, die annahmen, David habe das Werk doch wohl recht frei bearbeitet, eine Frage, die nur beantwortet werden könnte, wenn man Davids "Bearbeitung" mit dem Original vorfinden könnte. Alle derartigen Bemühungen sind aber erfolglos geblieben. Wer war denn Tommaso Vitali, der dieses außerordentliche Werk geschrieben haben soll? Als Sohn des Komponisten Giovanni Battista Vitali gegen 1665 geboren, wurde er "der kleine Vitali" (il Vitalino) genannt; man kennt einige Kammermusikwerke von ihm, die um 1700 komponiert wurden. Er war also einer der vielen kleinen Sterne am Musikhimmel Italiens - und er sollte der Komponist eines Werkes sein, das, wenn es wirklich von ihm sein sollte, die ganze übrige Literatur der Zeit in den Schatten stellen würde? Als meine eigenen Nachforschungen keinen Erfolg hatten, wandte ich mich an Dr. John G. Suess, Professor an der Ohio University in USA, der als Bearbeiter des Artikels "Vitali" in MGG auch vergeblich nach einem Original gesucht hatte und der mir schrieb: "Perhaps it was a product of Ferdinand David's imagination?" Diese Bemerkung gab mir blitzartig die Lösung: die Chaconne ist gar kein Werk von T. Vitali, sie ist im 19. Jahrhundert wahrscheinlich von David selbst nach dem Vorbild der Chaconne von Bach komponiert worden. 

Es gibt eine mathematische Methode, ein hypothetisches Resultat zunächst als gesichert anzusehen und auf Grund dessen die ganze Rechnung durchzurechnen, wenn sie dann aufgeht, war die Annahme richtig. So möchte ich auch hier verfahren und zunächst darlegen, daß die Chaconne unmöglich in der ersten Hälfte des 18. Jahrhunderts entstanden sein kann. Zwar benützt sie wie Bach das von den Komponisten der Generalbaßzeit am häufigsten gebrauchte Thema, das absteigende Tetrachord in Moll (g - f - es - d); auch daß sie ein Kopfthema über diesem Baß bildet, das am Schluß und in der Mitte des Satzes wiederkehrt, hat sie mit Bach und anderen Chaconnen der Zeit gemeinsam - sonst aber nichts. Auch in ihrer Anlage ist sie der Chaconne von Bach nachgebildet (die der "kleine Vitali" unmöglich gekannt haben kann); Bachs Chaconne besteht aus 64 Variationen des Modells, die meist (aber nicht immer) zu Doppelvariationen zusammengefaßt werden, die g-Moll-Chaconne des angeblichen Vitali hat 56 Variationen. Während aber Bach in der Tonart bleibt und nur von Moll nach Dur wechselt, haben wir bei "Vitali" folgenden Tonartenplan: Var. 1 - 8 steht in g-Moll mit Modulation nach b-Moll (!), nach 5 Variationen ist man in f-Moll, dann wieder in g-Moll, worauf 7 Variationen in a-Moll (!) folgen, wieder 5 in g-Moll, dann Es-Dur und es-Moll mit 5 Variationen bedacht werden, worauf die letzten 18 Variationen wieder in g-Moll stehen. Welcher Komponist des 18. Jahrhunderts hätte gewagt, einen solchen Tonartenplan einer Chaconne zugrunde zu legen? Noch weiter entfernt sich die Harmonik des Stücks von der Generalbaßharmonik. Da ist Var. 33 (T. 133 - 138 - einige der Variationen sind nicht vier-, sondern fünftaktig). In ihr gibt es eine Rückung von g-Moll nach A-Dur, weiter nach H-Dur, nach cis-Moll und von da nach Es-Dur! Das sind Kühnheiten, die sich im 18. Jahrhundert nirgends, auch noch nicht bei Beethoven finden; oder in Var. 50 (T. 202 - 205) eine Harmonienfolge g-Moll - b-Moll - es-Moll - Ces-Dur - g-Moll, von der man annehmen möchte, daß sie ohne Berlioz und Liszt kaum geschrieben worden wäre. Und die Violinstimme? Sie ist so im modernen Sinne konzertant, daß sie nur ein Komponist schreiben konnte, der Bachs Solosonaten genau kannte, selbst ein hervorragender Geiger war und romantische Stilelemente in ein pseudobarockes Gewand kleiden konnte. Es ist ein einzigartiges Stilgemisch, diese Chaconne, sie hat einen Farbenreichtum, den kein Werk der Barockzeit aufweist, auch Bachs Solosonaten nicht. Wer sie unbefangen hört, ist von ihr hingerissen, wer kritisch hört "das soll das Werk eines italienischen Komponisten um 1700 sein?!", der empfindet neben der Bewunderung für den hinreißenden Schwung des Werks ein Mißbehagen, das nur allzu berechtigt ist. Noch etwas kommt dazu: die Klavierbegleitung. Daß sie nicht generalbaßmäßig ist, sieht man auf den ersten Blick, aber David hat ja in seiner Hohen Schule die alte Musik sehr großzügig in romantischem Sinne umstilisiert, warum nicht auch hier? Vielleicht, wenn man eine stilechtere zurückhaltendere Begleitung schaffen würde, würde der Eindruck eines Stilgemengsels gemildert? Léopold Charlier (Brüssel) hat versucht, die Klavierstimme zu verbessern (Ed. Breitkopf Nr. 5403), in Wirklichkeit hat er sie noch mehr romantisiert, indem er z.B. den Chaconnenbaß vom Klavier einstimmig pp vorausspielen ließ; die Notiz in Mosers Musiklexikon, Charlier habe die Chaconne "originalgetreu bearbeitet" (!), ist also irreführend. Nein, die Klavierstimme Davids ist keine noch so freie Aussetzung eines Generalbasses, sondern ein Teil der Komposition und von der Violinstimme nicht zu trennen; das merkt man sofort, wenn man den aussichtslosen Versuch macht, eine dem Stil des Barock gemäße Aussetzung des vermeintlichen Generalbasses zu entwerfen. Sobald man die Klavierstimme nicht mehr als eine Generalbaß-Aussetzung ansieht, kann man sie freimütig bewundern. Wieviel Phantasie, wieviel rhythmische, motivische und klangliche Abwechslung ist in ihr enthalten! 

So lösen sich also alle Fragen und Zweifel, die man diesem weltberühmten Werk gegenüber aufbringt mit einem Schlag, wenn man die eingangs aufgestellte Hypothese zur Wahrscheinlichkeit erhebt: daß die Chaconne etwa um die Mitte des 19. Jahrhunderts und wahrscheinlich von Ferdinand David selbst komponiert worden ist. Aber warum dann diese Mystifikation? Warum gab David diese Komposition nicht unter seinem eigenen Namen heraus? Auch darauf läßt sich eine Antwort finden. Der Komponist David war recht unbedeutend, aber er besaß eine große Kenntnis der Violinmusik des 18. Jahrhunderts. Ein im alten Stil geschriebenes Werk hätte ihm niemand geglaubt, wenn er es unter seinem Namen herausgegeben hätte. Er wählte als Decknamen den eines verhältnismäßig wenig bekannten italienischen Komponisten, der auf diese Weise den unverdienten Ruhm erlangte, ein Werk geschrieben zu haben, das, wenn echt, die Stilmittel der Zeit so weit überschreiten und in die Zukunft weisen würde, daß man um dieses einen Werks willen T. Vitali zu den ganz Großen zählen müßte. Daß diese Annahme unmöglich ist, glaube ich, in den vorstehenden Ausführungen gezeigt zu haben. Wir haben also, wenn die Vermutung zutrifft, in David einen Vorläufer von Siegfried Ochs und Fritz Kreisler vor uns. Bekanntlich hat Siegfried Ochs das Arioso "Dank sei dir, Herr" in dem Oratorium "Israel in Ägypten" so täuschend im Stil dem "Largo" von Händel nachkomponiert, daß niemand an der Echtheit dieses nachträglich eingeschobenen Arioso zweifeln konnte, und noch näher steht David dem großen Geiger Kreisler, der das "Präludium und Allegro" in e-Moll von Gaetano Pugnani ja auch nicht herausgegeben und bearbeitet, sondern selbst komponiert hat, und dazu wie David den Decknamen eines wenig bekannten Komponisten des 18. Jahrhunderts gewählt hat. In beiden Fällen haben die Pseudoherausgeber nicht den Stil des vorgeschützten Komponisten, sondern den eines Größeren nachgeahmt, nämlich Johann Sebastian Bach. Kreislers Präludium ist dem ersten Satz der Sonate e-Moll für Violine und bezifferten Baß von Bach nachkomponiert, Davids Chaconne der Chaconne in d-Moll. Daß Kreisler sich enger an den Stil der Generalbaßzeit hält, liegt daran, daß er seine Komposition fünfzig Jahre später als David geschaffen hat, zu einer Zeit, in der man vom Stil der Bachzeit genauere Vorstellungen hatte als um die Mitte des 19. Jahrhunderts. Soll man nun darum Kreisler weniger spielen und bewundern, weil das Wort "Pugnani" mit Bindestrich wegfällt, soll man Davids Chaconne weniger hoch schätzen, wenn der Name Vitali wegfällt? Ich meine nicht. Beide Werke sind mehr als nur Stilkopien; der Komponist bedient sich solch alter Formen und Ausdrucksweisen, etwa so, wie Thomas Mann im Dr. Faustus seine Hauptpersonen in altertümlicher Sprache reden läßt, darüber steht aber die schöpferische Phantasie des Komponisten, der in dieser Verbindung Werke schaffen konnte, die ihm ohne diese nicht gelungen wäre.

Quelle:
Neue Zeitschrift für Musik, April 1964

新しい音楽雑誌
18世紀の最も有名で素晴らしいヴァイオリン作品の1つ、Tommaso Vitaliによるマイナーのシャコンヌです。
フェルディナンドダビデは彼の高校のヴァイオリン演奏で伝えました。この作品は、バイオリン技術のあらゆる概念とサイズの大きさしかない作品です。バッハだけでもヴァイオリンのシャコンヌと比較できます。それは何度も再版されました;レスピーギはオーケストラのためにダビデのピアノ伴奏を移しましたが、オリジナルの問題は今日まで答えられていません。声の数は増加し、Davidが非常に自由に作品を編集したと仮定すると、Davidの元の「編集」が見つかる場合にのみ答えることができる質問です。このような取り組みはすべて失敗に終わっています。
この並外れた作品を書いたと言われるTommaso Vitaliは誰でしたか? 1665年頃、作曲家のジョヴァンニバティスタヴィタリの息子として生まれた彼は、「リトルヴィタリ」(il Vitalino)と呼ばれていました。

彼の室内楽作品のいくつかは知られており、1700年頃に作曲されました。それで、彼はイタリアの音楽の空にある多くの小さな星の1人でした-そして、それが本当に彼でなければならない場合、当時の残りの文学を凌ぐ作品の作曲家になるべきでしょうか?
私自身の研究がうまくいかなかったとき、私はDr.アメリカのオハイオ大学のジョンG.スース教授は、MGGの「Vitali」という記事の編集者として、オリジナルを探して無駄に検索し、「おそらく、フェルディナンドデビッドの想像力の産物だったのではないか」と書いています。この発言は私に一瞬で解決策を与えてくれました。シャコンヌはT.ヴィタリによる作品ではありません。
19世紀には、バッハのシャコンヌのモデルに倣ってデイビッド自身が作曲したものと思われます。

仮説的な結果を最初は確実であると見なし、これに基づいて計算全体を計算する数学的な方法があり、それがうまくいく場合、仮定は正しいものでした。シャコンヌはおそらく18世紀前半に建てられなかった可能性があるということを、まずここで同じことをしたいと思います。

バッハと同様に、彼女は一般的な低音時代の作曲家によって最も頻繁に使用されるテーマ、マイナー(g-f-es-d)の下降四弦を使用します。彼女はまた、バッハや他のチャコネンと共通して、このベースの上にヘッドテーマを形成し、それはムーブメントの最後と中央に戻りますが、それ以外には何もありません。
彼女のレイアウトでも、彼女はバッハシャコンヌ(「小さなヴィタリ」が知ることができなかったであろう)をモデルにしています。バッハのシャコンは64のモデルのバリエーションで構成され、通常(常にではない)の2つのバリエーションに結合されます。申し立てのあるビタリのGマイナーシャコンには56のバリエーションがあります。しかし、バッハはキーにとどまり、マイナーからメジャーにのみ変更しますが、「ヴィタリ」では次のキープランがあります。 1-8はGマイナーであり、Bマイナー(!)で変調されています。5つのバリエーションの後、Fマイナーになり、次に再びGマイナーになり、続いて7つのバリエーションがAマイナー(!) Gマイナー、次に5バリエーションのEフラットメジャーとEフラットマイナー。最後の18バリエーションは再びGマイナーになります。このような重要な計画をシャコンヌに基づ​​かせた18世紀の作曲家は誰でしょうか。ピースのハーモニーは、一般的なベースハーモニックからさらに取り除かれています。 Varがあります。 33(棒133-138-一部のバリエーションは4つではなく5つの棒)。その中で、GマイナーからAメジャー、さらにBメジャー、Cシャープマイナー、そしてそこからEフラットメジャーにシフトしています!これらは、ベートーヴェンでさえも18世紀のどこにも見つからない大胆さです。またはvar。 50(T. 202-205)Gマイナー-Bマイナー-Eフラットマイナー-Cメジャー-Gマイナーの調和のとれたシーケンス。これは、ベルリオーズとリストなしではほとんど書かれていないと思われます。そしてバイオリンパート?それは現代の意味でのコンサートのようで、バッハのソロソナタをよく知っていて、ヴァイオリニストとしても優れており、ロマンチックなスタイルの要素を疑似バロックのローブで着飾ることができた作曲家だけが書くことができました。それは独特のスタイルの混合であり、このシャコンヌはバロック時代の作品にはない、バッハのソロソナタすらもない豊かな色彩を持っています。彼女を公平に聞く人は誰でも彼女に夢中になり、批評的に「これは1700年頃のイタリアの作曲家の作品だと思われますか?!」と聞こえ、魅惑的な作品の勢いに感心する人は、あまりにも正当化されている不安を感じます。ピアノ伴奏もあります。一見、それは一般的なベースではないことが一目でわかりますが、ダビデは彼のロマンチックな高校で非常に寛大に古い音楽のスタイルを再設定しました。おそらく、より抑制されたエスコートを作成した場合、混合スタイルの印象が作成されます


ですから、この世界的に有名な仕事について一挙に提起するすべての質問と疑問は、確率について最初に述べた仮説を提起すれば、シャコンヌは19世紀半ば頃におそらく恐らくフェルディナンドデビッド自身によって構成されたということです。 。しかし、なぜこの神秘化なのか?どうしてデイビッドはこの作文を自分の名前で出版しなかったのですか?これに対する答えも見つけることができます。作曲家のダビデはささいなことでしたが、18世紀のバイオリン音楽については非常に知識がありました。彼の名前でそれを発表していたら、誰もが古いスタイルで書かれた作品を信じていなかっただろう。彼はカバーネームとして、あまり知られていないイタリアの作曲家の名前をこの方法で選択しました。この作曲家は、本物なら、これまでの文体の枠を超えて、周りにある未来を示す作品を書いたという、当然のことではありません。仕事酒T. Vitaliは本当に大きなものの中に数えなければならないでしょう。私は、この仮定が不可能であることを前に示したと思います。仮定が正しければ、DavidにSiegfried OchsとFritz Kreislerの先駆者がいます。知られているように、ジークフリートオクスはオラトリオ「エジプトのイスラエル」でアリオソ「ありがとう、主」を作曲したので、ハンデルの「ラルゴ」のスタイルで一見したところ、後に挿入されたこのアリオソの信憑性を疑うことはできず、デビッドはさらに近いガエターノプニャーニの「前奏曲とアレグロ」をマイナーに出版、編集せず、作曲した偉大なヴァイオリニストのクライスラーと、ダビデが18世紀のあまり知られていない作曲家のエイリアスを選んだ方法。どちらの場合も、疑似編集者は保護された作曲家のスタイルを真似せず、より大きなもの、つまりヨハンセバスチャンバッハのスタイルを真似しました。クライスラーの前奏曲は、ヴァイオリンのためのソナタEマイナーの最初の楽章とバッハのフィギュアベース、デヴィッドシャコンDマイナーのシャコンヌに基づ​​いています。クライスラーが一般的な低音期のスタイルをより忠実に守っているのは、バッハのスタイルが19世紀半ば頃よりも正確だった当時、彼がデビッドより50年遅れて作曲したためです。したがって、「プグナーニ」という単語がハイフンで省略されているため、クライスラーをあまりプレイしたり賞賛したりすべきではありません。そういうことじゃなかったの。どちらの作品も、単なるスタイルのコピーではありません。作曲家は、博士のトーマス・マンのような古い形式や表現形式を使用します。ファウストゥスは彼の主人公を古代の言語で話すことを許しているが、その上に作曲家の創造的な想像力があり、彼はこれに関連して彼なしでは成し得なかったであろう作品を作成することができた。

ソース:
音楽のための新しい雑誌、1964年4月(Google翻訳)

僅か、57年前の知識ですら、periodに対しての理解はこの程度だったのです。
というか、本当のperiodの研究がなされるのは1990年代に入ってからなので、それでも20年30年は先行しているのですよね??



Guido Guerrini(1890年~1965年)
Figlio di Pietro e di Antonietta Santucci, si avvicinò alla musica grazie agli insegnamenti del padre.

Studiò dapprima al ginnasio e successivamente al Liceo Musicale bolognese sotto la guida di Busoni e di Torchi per la composizione.

Esordì come violinista e maestro nei teatri bolognesi. Nel primo dopoguerra intraprese l'insegnamento, dal 1920 al 1924 a Bologna al liceo musicale, dal 1925 al Conservatorio di Parma per la composizione, invece dal 1929 si trasferì a Firenze per lo stesso incarico al Conservatorio e dal 1948 a Bologna condusse nuovamente il Liceo Musicale; dal 1950, invece si spostò a Roma sempre nel ruolo di direttore del Conservatorio.[1]

Nel 1922 si sposò con Emilia Putti, e dalla loro unione nacque Vittoria Guerrini (1923-1977), poetessa, traduttrice e saggista, nota con lo pseudonimo di Cristina Campo.

Dal 1931 al 1933 organizzò il Maggio Musicale Fiorentino e nel 1942 ricevette il premio dell'Accademia d'Italia per la Missa pro defunctis composta in memoria di Guglielmo Marconi.[2]

Negli anni successivi fu arrestato e recluso nel campo di concentramento in provincia di Terni, dove proseguì la sua attività compositiva.

Nel 1951 fondò il Collegio di musica al Foro italico, promosse l'Associazione giovanile musicale (AGIMUS) e dall'anno seguente diresse l'Orchestra da camera di Roma.

Nel 1955 fu premiato con la medaglia d'argento al merito dell'arte e della scuola. Fu membro di numerose accademie e del Consiglio superiore delle belle arti (1952-1958).[2]

Come compositore si caratterizzò per una brillante vena melodica e per un'orchestrazione raffinata che evidenziò in tutti i generi musicali, dalla musica da camera alle colonne sonore cinematografiche, dalle sinfonie alla musica sacra.[2]

Ha composto opere teatrali (Zalebi del 1913, L'Arcangelo del 1949 al Teatro Comunale di Bologna diretta da Oliviero De Fabritiis con Gino Penno, Piero Guelfi e Tancredi Pasero), musiche orchestrali e da camera (Visioni dell'antico Egitto), poemi sinfonici, Suite, danze, sonate, Messa a due voci, Trio, Quartetti e Quintetti.[1]

Collaborò, nel ruolo di critico, con importanti riviste musicali, tra le quali menzioniamo la Rassegna musicale e si distinse come saggista. Tra le sue pubblicazioni, annoveriamo: Trattato di armonia, Appunti di Strumentazione, Storia degli strumenti musicali.


バイオグラフィーウィキテキストを編集]
ピエトロとアントニエッタサントゥッチの息子で、彼は父親の教えのおかげで音楽に取り組みました。
彼は最初に体育館で学び、次にブゾニとトルキの指導の下でリセオミュージカルボロネーゼで作曲を学びました。
彼はボロネーゼの劇場でバイオリニストと教師としてデビューしました。戦後の最初の期間、1920年から1924年までボローニャで音楽高校で、1925年からパルマ音楽院で作曲を学び、1929年から同じ音楽院でフィレンツェに移り、1948年に再びボローニャでライセウムを指揮しました。ミュージカル;しかし1950年以来、彼は常に音楽院の所長としてローマに移った[1]。
1922年にエミリアプッティと結婚し、その組合からヴィットーリアゲリーニ(1923-1977)は、クリスティーナカンポの偽名で知られる詩人、翻訳者、エッセイストとして生まれました。
1931年から1933年までは、マッジョミュージカルフィオレンティーノを組織し、1942年には、グリエルモマルコーニを記念して作曲されたミッサプロDefunctisのアカデミアディタリア賞を受賞しました[2]。
その後数年間、彼はテルニ県の強制収容所で逮捕され、投獄されました。そこで、彼は作曲活動を続けました。
1951年に彼はイタリックフォーラムで音楽大学を設立し、ユースミュージカルアソシエーション(AGIMUS)を宣伝し、翌年からローマ室内管弦楽団を指揮しました。
1955年に彼は芸術と学校の功績により銀メダルを授与されました。彼は数多くのアカデミーや高等美術評議会(1952-1958)のメンバーでした[2]。
彼は作曲家として、華麗な旋律の脈と、室内楽から映画のサウンドトラック、交響曲から神聖な音楽まで、あらゆる音楽ジャンルで強調された洗練されたオーケストレーションを特徴としていました[2]。
彼は演劇作品(1913年のザレビ、1949年の大天使でボローニャのテアトロコムナーレでジノペンノ、ピエロゲルフィ、タンクレディパセロと指揮したオーリビエロデファブリチス)、オーケストラ、室内楽(古代エジプトのビジョン)、交響詩を作曲しました、組曲、ダンス、ソナタ、トリオ、カルテット、クインテットの2つの声のミサ[1]
彼は批評家の役割で重要な音楽雑誌と協力し、その中で私たちはミュージックレビューに言及し、エッセイストとしての地位を確立しました。彼の出版物は次のとおりです。調和に関する論文、計装に関するメモ、楽器の歴史

(Google翻訳)


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