芦塚メトードによるオーケストラ・室内楽とは

[前書き]

私が江古田に居を構えて、もはや35年ほどにもなります。(10年ほど前の文章です。)

大学生時代を追加すると、40年近くの私の人生の大半を、そんなに好きでもないこの江古田の街に住んでいたことになります。

今の江古田の事務所兼音楽教室を立ち上げてから数えても、既に25年以上の日々が経ってしまいました。(繰り返し言いますが、10年ほど前の論文です。)

その間、江古田や千葉教室なども、周りの楽器店直営の音楽教室や個人の音楽教室がどんどん潰れていく中で、私達の教室だけがこれまで存続できたのは、勿論、皆様方の暖かい支援は当然としても、教室の持つ独自性と指導されている先生方の技術levelや質の高さによるものだと思っております。

もしこれが、一般の音楽教室と同じような内容と趣旨を持った音楽教室だったとしたら、大手の教室と競合してしまって、資本力の差で、とうの昔に私達の音楽教室は存在しなかったでしょう。

しかし、江古田や千葉では、不思議な事に、世間一般では非常に強いと言われている大手の音楽教室でさえもつぶれてしまいました。

江古田の音楽教室の場合には、その最たる理由は、音楽大学のお膝元という特殊な事情があるからです。

ピアノを習うにしても、安く習いたければ、音大生のアルバイトを雇えばよいし、音楽大学を目指すといったように、ある程度専門的に音楽を勉強するのであれば、音楽大学の音楽教室に直接通ったり、音大の先生に師事するというのが普通だからです。 

 

私達の教室は一般の大手の教室だけではなく、音楽大学の特別な指導方針とは全く別のconceptで運営されてきました。

その事が、教室が生き残ってきた理由であると思いますので、これからもその独自性を貫く事が、教室の生き残りの重要な要素になると思います。

そう言った教室の独自性に対しての細やかな配慮は、普段の日常的なlessonのみではなく、年に一、二回の発表会などにも、しっかりとした教育上のconceptと運営企画がなされているのです。

通常の一般の発表会で行なわれているような、セレモニーとしての発表会ではなく、しっかりとした教育の一貫としての発表会やオケ室内楽の練習等の、そういった細かな一つ一つの配慮の積み重ねが、今日までの私達の教室が皆様に認められてきた大きな理由の一つのように思っております。

 

[私達の音楽教室とオケ室内楽について]

時々、私達の教室の独自性と言う事で、勘違いをなされる方がいます。

それは、「私達の教室が子供の室内楽とorchestraを持っている」という事自体が、教室の独自性であり、一般的には珍しい教室である、・・・と言う風に教室の独自性を把握されている方がいらっしゃる事です。

しかし、教室の独自性を、まあ(室内楽は兎も角としても、)「orchestraのある音楽教室」としてのみを、「私達の教室の独自性」として捉えられているのでしたら、残念ながら、それ自体はさほど珍しいものではありません。

つまり、「子供のorchestra」と言う事に限って言えば、個人の音楽教室でも、小学校でもorchestraを持っている所は結構あります。

だからそれをご存知の方達にとっては、私達の教室はそんなに珍しい教室ではないのではないのか?と思われるかもしれません。

確かに、室内楽に限っていえば、「子供のための室内楽」のカリキュラムは指導の面からも、教材の面からも、世界を見たとしてもその類を見ないかもしれません。

 

しかし、本当に私達の教室が自信を持って独自性を主張出来るのは、「室内楽やorchestraをもっている」 という外面上の事ではなくて、実はその弦楽orchestraやピアノを含む室内楽等の教材を使用して、作り上げられたカリキュラムや各gradeにおける指導法、教育法等の「ソフト」の面であるのです。

 

そういった意味に於いてのconceptが、一般にあるorchestraや室内楽とは大きく異なっているのです。

 

まず、私達の教室のorchestraのお話をするまえに、時々ある勘違いで私達の教室のorchestraが(管楽器を含んだ)フルorchestraだと勘違いをされる方が(極まれにですが)います。

それで、「なんで芦塚音楽研究所のオーケストラはフルorchestraじゃぁないんですか?」と質問された事もあります。

一般的に見ると、フルオーケストラに比べて、弦楽オーケストラは地味である事は否めない事実ですからね。

この質問に関しては、そんなに質問自体が多いわけではないし、取るに足らない事として、ホームページや論文などではお答えした事はありません。実際にジュニアオーケストラを主催している人達に対しての批判にもなってしまいますので、あえて、このお話を公開した事はなかったのです。

しかし、私達のオーケストラが何故弦楽オーケストラでなければならなかったのか、という事をこの機会に少しだけ述べておきます。

 

まず、第一点は、通常ジュニアのフルorchestraを持っているところは、基本的には弦楽orchestraの演奏はしません。

企画で極稀に演奏曲目の一部で一曲、二曲ぐらいを演奏する事はあります。

Orchestraにとっては弦楽器も管楽器もパレットの絵の具の一部にしかすぎません。

それで、弦楽器特有の色々な奏法を学ぶ事は不可能です。

一般的 には指揮者の先生の指導の元に弦楽器の演奏法をorchestraのカリキュラムの中で学ぶ事はありません。

勿論、弦楽orchestraの独自のテクニックを学ぶ事はあったとしてもです。

それはあくまで単発の話で、その技術に対しての勉強にしかならないのです。

弦楽器を学ぶためのカリキュラムにはなり得ないのです。

私達の室内オーケストラは弦楽オーケストラであるからこそ、弦楽器を学ぶ上での特有な専門的な色々な技術を学ぶ事が出来るのです。

子供達にオーケストラの指導をしていく過程で、どうしてもフルオケの曲で勉強をさせたい曲があって、実は何回かは、管楽器の人達を雇って発表会でフルオーケストラの曲を演奏した事もあります。

しかし、そのときに管楽器を演奏していたのは音大生やプロのオケマン達です。

原則として、子供達は参加しません。(頼まれれば、断りづらいのは事実なのですが。)

何故、私達の教室に管楽器の科がないのか?

或いは、他所の管楽器を指導している先生の所からでも、管楽器の上手な子供をチャーターしてきてコラボレートして使わないのか?

それには教育上の大きな二つの理由があるのです。

その一つは勿論、orchestraの管パートは、とても難しくって、管楽器を習い始めの初心者の子供達や学校オケの子供達には無理だからです。

もう一つの理由は、変声期の前の子供達にとっては、管楽器や声楽などの息を大量に使う楽器は子供達の体を痛めてしまい、重大な欠陥を生み出す事にもなりかねないからです。

 

以前は少年野球でもカーブなどの変化球も認められていました。

優勝と言う目先の目標のために、沢山の野球の好きな子供達が変化球を勉強して、試合で多用していました。

しかし、成長途中の体のために手を壊してしまい、一生野球が出来なくなってしまう子供達が沢山出てしまったのです。

そのために体が出来上がる前の少年野球では変化球は禁止になりました。

小学校のorchestraでも、コーラスグループでも、先生方の適正な指導の下であれば、コンクールやよほど無理な練習を強いない限り、肺を壊す事はありません。

ですが、しかし小学校の間から受験生と同じような、音楽大学等を目指すような、過度な練習をしているとしたら、或いは小学校の中ででも、コンクール等で全国大会を目指して、過度な練習を毎日やってしまったら、肺を傷めてしまって、一生取り返しが付かない事になります。

また最初から学生を対象としたブラスアンサンブルと違って、フルオケの技術はプロの演奏家を想定しているかなり専門的なものですから、それを完全に弾きこなそうとしたら、小学生では相当過度な練習をしなければなりません。

つまり、小学生達が演奏しているrecorderの教材などは、作曲家やアレンジャーの人達が作曲したり編曲したりして、最初から小学生を対象にして書かれているものであり、子供の体に無理が行かないように最初から配慮されているものなのです。

日本ではおもちゃ(簡易楽器)の延長線上にあって、子供のための楽器であるように勘違いされているrecorderであっても、baroque時代の本当の本物の「recorderのために書かれた曲」を演奏するためには大変な技術力を要します。

とてもとても子供達や小、中学校の技術では、演奏出来る代物ではありません。

蛇足ですが、楽器自体もそんな安くはありません。20万、30万程度の楽器はざらなのです。

弦楽器は、子供の身長に対しての分数の楽器があることや、肺や不自然な筋肉を使用しないという子供の教育上にも優れた一面を持っています。

しかし、管楽器は成長期の子供の肺を傷めてしまうかもしれないというリスクを持っています。

(勿論、小学校の授業の中で行われるrecorder教室程度の肺の使用で子供の肺が壊れる事はありませんので、ご心配なく!)

ですから、教室の常設レパートリーであるMozartやBeethoven等のシンフォニックオーケストラで、弦楽器の生徒達と同等の技術の演奏をするには、変声期前の児童には体に相当な無理な負担がかかるので、教室では管楽器のクラスを作らないと言う事なのです。

 

[オーケストラに参加出来る一般の条件]
世間一般のジュニアオケ等では、まず「オケに参加出来るか、演奏出来るかという生徒の技術のlevelを見るオーディションがあります。

それに合格した人だけがオケに入る事が出来るのです。言い方を変えると、オケに入る技術を持った人だけがオケに参加出来ると言う事です。

至極、当たり前の事だとは思いませんか?

またそれだけの技術を持った生徒達が、次の演奏会の曲目を渡されると、まづ一人一人が、自分自身で、(或いは自分の先生の厳しい指導の元に、)練習日までにしっかりと演奏が出来るようにしておかなければなりません。

(これも、至極当たり前の事だと思われるでしょう?)

ですから、合わせの時に上手く弾けない生徒がいると、その指導をする先生が指揮者から厳しいお叱りを受ける事になり、最悪の場合には、orchestraのメンバーを降ろされることになります。

つまり、普通はorchestraの練習で、弾けるようになるところまでの技術的な練習を、他の生徒達と一緒に練習をする、と言う事はあり得ないのです。

それは個人の練習の問題ですからね。

Orchestraは同等の技術を持った人達が集まるところなので、上記の事は、極々あたりまえの普通な事でしょうね。

 

[プロの条件]

当然の事ですが、お金を貰って演奏するプロのorchestraでは、それはもっと厳しいです。

プロの練習のカリキュラムは、練習1回にリハーサルと本番、というのが普通であって、その練習の時間ですら、30分ぐらいしかありません。通しで演奏するだけで2時間近くかかる曲の練習であっても、なのです。

そのたった30分練習ですら、練習を2回以上するという事は、めったにありません。

つまりプロという前提は「弾けて当たり前」なのですから、練習と言っても、約束事の伝達と確認だけなのです。(約束事は曲によってではなく、指揮者によって変わるからです。)

練習の回数を多く取るのは、よっぽどの難曲である場合だけなのです。

ちなみに、プロのorchestraに入団するには、orchestraの常設曲、勿論、シンフォニー1曲を1曲と数えて、約100曲以上のレパートリーを弾きこなす能力が必要です。

常設曲は、弾けて当然の曲ですから、例えプログラムに乗っていたとしても、オケの練習では練習する事はありません。先程お話したように、指揮者の個性による違いの伝達が1回ある程度です。

それはプロというのは「いつでも演奏出来るからプロだ」と言う事が条件だからです。

今はどうか知りませんが、昔のソビエットなどの共産圏のオケはもっと厳しく、私がチェコフィルのお手伝いをしていたときに、オケが演奏しているときに、下手や上手に二群オケの人達が待機していて、舞台で演奏している人が一箇所でも間違えると、次のステージからは待機していた人と交代になるのです。(勿論、そうすると、当日泊まっていた部屋が大部屋からデラックスな一人部屋に変わって、楽器も政府からの貸し出しの名器に変わるのだそうです。)

チェコフィルの演奏会のときに、私も舞台裏で楽器を持って「誰か間違わないかな?」と待機している人達と一緒に、演奏を聞いていたのですよ。緊張したね!!

 

[音楽大学の中の室内楽やオーケストラ]
また、音楽大学等に於いても、orchestraや特に室内楽を勉強出来る生徒は音楽大学の中でも特に優秀な生徒に限られています。

例え音大生であったとしても、成績が普通の一般の生徒では、orchestraに選抜される学生は殆んどいないのです。ましてや少人数の室内楽を体験できる生徒はトップの2,3名にしかすぎません。

orchestraでも然りで、武蔵野でも国立でも、大学のオケに参加するには、選抜のための厳しいオーディションに合格しなければならないのです。

つまり、一般のオケや音楽大学のオケは上手な子を集めてやっているだけで、オケの中で教育をするという発想自体がありません。オーケストラ自体には思いやりもへったくれもないのです。

 

また、一般の学校オケの場合には、早朝とか放課後に集まって、合わせの練習を毎日積み重ねていきます。一人がオルガンの音をピーと鳴らして、皆で一個一個の音を、それこそ気長に時間をかけて合わせていく。そういった練習の積み重ねです。ですから、一人では練習が出来ないのです。自宅練習は皆とあわせることが出来なければ無意味になってしまいます。

 

そういった、子供の情熱だけで何かにチャレンジする事、それを部活動といいます。そういった部活動の練習では、本当の基礎は身に付きませんので、部活から音楽が好きになって、音大を目指す生徒達は、全く一から、(それこそ、楽器の持ち方、構え方から)始めなければなりません。

 

またこの話とは別に、「子供達は皆でやる事が好きだから、オケや室内楽のような集団に放り込んでさえいれば、上手くなって行く」と勘違いされている人もいると云う話を聞きました。

確かに、子供達はお友達と練習するのは好きです。塾の勉強でもそうでしょう。一人でコツコツ無味乾燥な勉強を強いられるのなら、集団の中で同じ苦労をする方が良いのに決まっていますからね。しかしそれで、幾ら努力を積み重ねたとしても、それが本人の実力になって反映される事はないのです。

部活オケから入ってきた人は、まずそのアマチュア的な部活の癖を取るところから始めなければなりません。指導者にとってはそれはかなり大変な作業なのです。

 

長々と、くどくどと、こんなお話をしたのは、オケや室内楽で皆と一緒に音楽が出来れば、子供達はヴァイオリンやチェロの技術が身についてくるのか? と言うと、決してそうではないのだ、と云う事を理解して欲しかったからです。

 

私達の教室のオケや室内楽では、普段のヴァイオリンやチェロのlessonではとても難しくて身に付けることが出来ない弦楽器特有の演奏上の難しい技術を、オケ室内楽の練習の中にカリキュラムとしてlessonの中に組み込んでいます。

一人で練習すると、とても辛くしかも難しい技術を皆と一緒に練習することによって、無理なくマスターする事が出来るのです。(勿論、そういった技術はプロのオケマンにとっても、簡単な技術ではないのです。ですから、プロオケの人達が教室に来られると驚いてしまうのです。)

 

しかし、オケ室内楽を完全に遊びの延長線上に捕らえてしまうと、同じように、休まないでオケ練習や室内楽の練習に来ていたとしても、やがて皆と歩調をそろえていくことが出来なくなります。やはり、そこには、歴然と家庭での勉強の差が出てきてしまうのです。

オケや室内楽には休まないで参加するけれど、家庭では一回もオケ、室内楽の曲は練習しない。そうすると、確実に、1年後、2年後とlevelの差が付いてきます。

そこは子供の意識と同時に家庭の意識(音楽に対しての価値観)でもあります。これは将来的には確実に、歴然と表れます。

それは私達としても、いたし方のないところです。

 

以前、そこの所を教室にいた父兄が「音楽を目指す生徒は1人、2人しかいないのだから、そういった人を対象にするのではなくって、大多数の生徒達は一般大学進学のための受験がメインで、音楽は趣味に過ぎないのだから、教室としても大多数の生徒に合わせてカリキュラムを作ってくれないと困る。」と言ってきました。

それまでに、教室のカリキュラムは初級、中級、上級と1本しかありませんでした。

私はその父兄に対して「教室の方針としては、1人しか居ないからとか、2人しか・・・、とかいう(少人数だからという)理由で、その音楽をメインに考えている人達の勉強と将来の夢を犠牲にする事は出来ません。」「でも、大多数の生徒さんが音楽に進まないし、受験がメインであるのは事実なので、その申し出も受けて、教室のカリキュラムを変更しましょう。」という事で「Aオケと,Bオケを作って、Aオケは、今まで通りの専科オケにして、Bオケはご希望の通りに、趣味組みのオケにして、塾や受験の邪魔にならないように配慮して、練習の日にちや曲のlevelなども考えましょう。」と言う折衷案を出しました。

そして、そういった教室の方針の変更をパンフレットにして配ってから、オケ室内楽の申し込みを受けました。その結果は、結局全員Aオケを申し込んだのですよ。

それを要求した父兄の子供もね!

 

私が音楽教室を開いた時に、まずピアノのカリキュラムとヴァイオリン、チェロのカリキュラムを同時進行的に作り上げました。教材をカリキュラムとして組上げていく過程で、ある段階で教材に使用できる曲数が著しく少なくなる事に気づきました。ヴァイオリンやチェロを学ぶ生徒達が行き詰って楽器を学ぶ事をやめてしまうレベル、それは楽器の技術を学ぶ上で一番大切なレベルの、初級の最後から中級、上級にかけての段階でした。ヴァイオリンやチェロを学ぶ生徒達がそのレベルの教材がなくスムーズな成長が出来なくなって、挫折してしまう一番「要」のレベルに二通りの解決策を工夫しました。それが、弦楽器のカリキュラムとしての、studentconcertプログラムとオーケストラプログラムです。

そのために、世界中の出版社からstudentconcertの楽譜を買い集めました。

これだけのstudentconcertの楽譜を持っている音楽大学はないでしょう。

勿論、楽譜自体の資料的には音楽図書館や音楽大学の図書館にはかないません。

しかし、studentconcertというgenreの曲は、教育教材的な音楽であり、実用的な教材なのです。

ですから子供達の教育教材を資料とはしない日本の音楽図書館には、studentconcertは参考としての程度しか置いていないのです。

Studentconcertの楽譜を集めながら、それを教室のカリキュラムとして、レベル順、或いは指導する技術がしやすいように、グレード化をしなおしました。

又、ちょうどstudentconcertと同じレベルからのお話ですが、同様の作業を弦楽オーケストラのカリキュラムとして、色々な弦楽オーケストラのコンチェルトを揃えて、それを技術別に配列するという作業を10年間に渉ってしました。

そこで、Vivaldiメトードというオーケストラで子供達がヴァイオリンやチェロの技術を学んでいくというカリキュラムが出来上がったのです。

何故、ヴィヴァルディというbaroque時代の作曲家を取り上げたのかというと、そこにも大きく二つの理由があります。その一つはBaroque時代にはヴァイオリンなどの弦楽器が改良され発達してきた弦楽器の時代でもあります。

ですから、今日の弦楽器を指導する弦楽器奏者達が忘れてしまってきた、楽器の音を出すための原点がそこにあるからなのです。

原点を知る事は本当の音出しのコツを身に付ける事ができます。

先生が弾いて「こうだから~!」って言って押し付けるのではなく、生徒自身が「何故?どうして?」を考える事が、音楽を学ぶ上では最も大切な事だからなのです。

もう一つのヴィヴァルディを中心にして教材を選んできたもっとも大きな理由は、ヴィヴァルディ自身が、長年子供達の音楽教育に携わってきて、その教材として多くの曲を作っていたからなのです。

ですから技術レベルを考え抜いた(演奏する生徒のレベルに合わせた)曲として作曲されていますので、初歩の終わりのレベルから中級、上級までの指導には非常に優れた教材になるのです。

また、ちょうどそのlevelの技術のロマン派や近現代のソロの曲は、なかなか数が少なくて発表会の選曲に困るところでもあります。

ですから、日本で出版されている鈴木のヴァイオリン教則本や篠崎の教則本でも、その技術段階はbaroqueの作品を並べています。

フィヨッコやエックレス、マルチェロなどの作曲家達です。

しかし、その時代はヴァイオリンやチェロの演奏技術はまだ、発達の途中でもあります。

ですから作曲家が変わればその技術や演奏スタイルも変わってしまうという独自性があって、そういった意味でもカリキュラムを作る上での難しさがありました。

ですから、私はbaroqueの一人の作曲家に(ヴィヴァルディに)拘る事はなく、ヴィヴァルディ以外の作曲家達の作品も積極的に取り入れて、指導が滑らかに行くように配慮しました。

但し、Vivaldiの作品では中級の最後のレベルから上級の非常に難しいレベルの曲である「四季」などのレベルの教材が失われてしまっていて現存していません。

そこで、Locatelli等のあまり今日では知られていない、(しかし、曲の水準は非常に高いものです。)作曲家を取り上げる事や近現代の作曲家の手による作品や(私の師匠のGenzmer先生の作品や、師匠の先生であるHindemith教授の作品、或いはbaroqueの音楽を近現代の手法でアレンジした、偽古典の曲等)によって、そのレベルの段階の曲を網羅する事が出来、無理のない滑らかなカリキュラムを作る事が出来ました。

 

しかし、此処まではオーケストラのお話です。

室内楽の選曲はそうはいきませんでした。

室内楽に関しては、世界中何処を探しても、子供の内から室内楽を勉強させている所はありません。それはどうしてでしょうか?

答えは簡単です。

子供でも演奏可能な室内楽の曲が全くないからです。

こればっかりは、私の持っている膨大な資料をしても、如何に世界の出版物を調べても、最初から作曲されていないものは、幾ら探してもあるわけがありません。

最初から無いと言う事、・・・・それは最初から、そのニーズがなかった分野です。

それが子供の室内楽なのです。

教室でのもう一つの問題点。

それはピアノという楽器です。

ピアノは一人で、オーケストラを演奏する事ができます。(事実、Haydnの時代、Mozartの時代ではピアノの曲はピアノで弾いたオーケストラという把握でした。)

ですから、どうしても独りよがりになりがちなピアノという楽器を正しい音楽技術を身に付けさせたい。と思うと、どうしてもアンサンブルの教育が必要となります。

弦楽器の生徒だけではなく、ピアノの生徒も室内楽を早くから学ばせたい。

その一番早道のアンサンブルがピアノトリオやピアノカルテットでした。

そういった考えから、私も最初は世界中で出版されているピアノトリオやピアノカルテット等のピアノを含む室内楽を探してみました。

勿論、ピアノトリオは世界の出版社でいやというほど、出版されています。

しかし、幾ら室内楽の曲があったとしても、子供のlevelで演奏が可能な曲は一曲もありませんでした。子供が室内楽を勉強すると言う事は、世界中・・・・というか、音楽の歴史的に見てもありえなかったからです。

ですから、唯一の例外が、近代(ひょっとして現代??)の名チェリストでフォイヤーマンやピアテゴルフスキー等の沢山の名チェリストを育てた(日本では小澤征爾の師匠である斎藤先生の師匠でもある)クレンゲルの、本当に子供を対象にしたキンダートリオの数曲と、それよりも高度なBeethovenのソナタを弾きこなすぐらいの技術が必要な(ほぼ、HaydnやMozartと同等の技術レベルの)フンメルのPianotrioと、クレンゲルを真似て作曲された数少ないPianotrioの数曲(全部を合わせたとしても、5,6曲ぐらいでしょうか。)なのです。

しかし、ピアノを学ぶ生徒達が、音楽の喜び(真髄)を味あう事が出来るのは、室内楽の分野です。

ドイツ語ではmusizieren(音楽をする)と言う単語があります。

また、英語のplay,(ドイツ語ではspielen)と言う単語も、本来は「遊ぶ」と言う意味です。

学問をして向上したり、仕事に努力する事も、spielと言う言葉で表されます。

 

先ほどと同じ言葉の繰り返しになってしまいますが、室内楽を演奏する事、或いは体験出来るという数少ない恵まれた人は、自らが室内楽を演奏出来るレベルの優れた演奏技術を持っていて、しかもピアノ以外の楽器を弾きこなす事の出来るという友人を持っている、本当に奇跡に近い恵まれた大人達だけなのです。

 

そういった恵まれた環境の元にある奇跡的な大人達の話ではなくて、音楽を学び始めて間もない子供の内から室内楽の喜びを体験させたいと言う、私個人の願望から、最初から無いものは作ってしまおう、というとんでもない考えから、私は本格的なHaydnやMozartのPianotrioに入る前の、クレンゲルやフンメル等のKindertrioのレベルの段階の曲の前のlevelの作品である、「子供の歌変奏曲」の子供のピアノトリオ集を作りました。

ちゃんと基本を学んできた生徒ならば、Beyerの終了間近でも演奏可能なレベルの曲から、Burgmüller終了程度までの技術で書かれています。

弦楽器はピアノの生徒達をリードするために、それよりも多少難しいlevelで書かれていますが、勿論、歳の近い子供同士で演奏出来る事が前提として作曲されています。

これは、あくまで、室内楽に入るための予備教材という意味がありますので、譜面を見る限りでは、全く簡単に見えますが、見掛け程簡単な教材ではないのです。

私なりの考えによるアンサンブルのためのトリックがいたるところに隠されていて、室内楽を経験した事のない人が指導しようとすると、大変難しい落とし穴に落ち込む事になります。

教室の先生は、ピアノの先生であっても、ヴァイオリンやコントラバスを勉強させられます。

ですから、ピアノのパートの事だけではなく、弦のpartも分かるので、私が作曲した子供のためのピアノ・トリオ等は、「ヴァイオリンもチェロもピアノもそれぞれはとても簡単なのに、どうして合わせると弾けなくなるのかしら?」と不思議がっていました。

凄く簡単な初歩的な技術だけで、室内楽の合わせの難しさを教える・・・、それが、私の作曲した「子供のためのピアノトリオ」の本来の目的であるからです。

 

そういった「音楽をともに学ぶ」 「ともに勉強をする」と言う音楽本来の姿を学ばせるために、芦塚メトードではオケ練習を半年のクールにして、子供同士で音楽を学びあい、一緒に努力する・・というところから、音楽の教育のみならず、子供同士の協調性や、年下の生徒達に対しての思いやりの教育を心がけています。

そういった、音楽を通じて、音楽だけではなく、本来のあるべき姿の真の教育で皆と協調し学んでいく事が出来るのですから、そういった教育を受ける事が出来る教室の生徒達は奇跡的な絶対の幸せを感じているはずです。

 

そういったorchestraや室内楽のカリキュラム作成の次には(とは言っても、私の仕事の進め方で、私は同時進行を旨としますので、全ての教材作成の時期は同じ時期なのですが)、一般のヴァイオリンの曲やチェロの曲なども10年間掛かって、技術別にstepとgradeを作り上げました。

これも芦塚メトードによるカリキュラムです。

つまり芦塚メトードとは、各教材のlevel順の配列だけではなく、そのレッスンのmanual(これは技術の事ですが)、或いは指導のための方法論等を、ソロカリキュラム、室内楽のカリキュラム、オケのカリキュラムなどのカリキュラムを内容、目的別に組上げて行ったのです。

 

芦塚メトードは何を持って芦塚メトードというのか?

芦塚メトードとは指導教材のカリキュラムやその曲に必要とされる技術manual、指導者の子供を指導する上での方法論、教育法、そういった子供達が人生で学ばなければならない全ての勉強を含めて芦塚メトードと言うのです。

 

音楽を学ぶ側の子供に対しての音楽教育に望むものは、今日では多種多様に渡ります。

私達が音楽を勉強していた時代では、音楽を学ぶ条件というものはもっとシンプルでした。

つまり「手に職を」という考え方が主流であったのです。

しかし、今日では音楽を学んでいる人達の大半は、音楽に対して「職」と言う考え方はしていません。むしろ、音楽に限らず、大学を卒業したとしても、「職」=生活をする、自立をする、という考え方を持っていない若者が大半ではないのでしょうか?目的を持たない今日の教育はあまりにも、不幸せな若者達を育てる結果を生み出しています。

音楽を学ぶための第一の条件である、躾としての教育は今の時代にはあまりにもゆがめられた姿になっています。

子供を育てるためには、親や子供達がまず意識の改革をまず最初に学ばなければならない

のかもしれません。

教室には独自の(しつけの領域である)心理学的な、或いは教育学的な子供の指導法があります。

しかし、そういった教室独自の指導案は、別に各家庭に要求しているわけではありません。

家庭や子供の将来の夢(別に親の夢であろうと、子供の夢であろうとかまいませんが)その家庭の方針や、夢のlevel、によって教室が指導する内容は千差万別です。

それぞれの多様な夢や希望がかなえられるように、教室はアシストをするだけなのです。

 

教室が父兄の方に直接ご意見をする事があります。それは、あくまで抱いている夢と実際の現実が違いすぎる場合だけなのです。親の夢が子供がスーパーマンであるように勘違いをして、音楽も成績も運動も全て一番でなければならないとしたら、その子供は確実に精神が崩壊します。

負の転換点に陥ってしまうのです。

一芸に専念している生徒と、二芸、三芸をこなしている生徒に、だんだん差がついてくるのは当たり前です。小学生の間はまだ出発点だったから見えなかっただけなのです。

これが、マラソンの折り返し地点にでもなるとはっきりとその落差は付いてきます。

でも、二芸、三芸を望んで勉強と音楽の両立を望んだのは親自身なのですから、例え、音楽を専門に勉強している生徒とレベル差がついたとしても、それを子供のせいにして、叱る事はできないはずです。

先ほど例に出した父兄の話のように、オケや室内楽での子供の成長は、親の教育に対しての考え方の延長線上にあるのを忘れてはいけません。

 

勿論、一般のセレモニーのように、練習を子供達同士で積み上げていくのではなく、ただ単に発表会で、ソロの曲同様に、かっこよく室内楽の曲を演奏させたいという父兄もいます。

そういった父兄のご希望は、子供の思いやりを育てたいと願う本来の芦塚メトードの趣旨とは、考え方が違いますので、そういった考え方のまま子供達同士でアンサンブルをさせると、他の子供達に弊害が発生してしまいます。

ですからご父兄の方がそういったスター性を自分のお子様に期待するということであれば、基本的には子供のオーケストラや室内楽には参加できません。

勿論、そういうスタ-性を教室に求めたとしても、室内楽に出演出来ない、参加出来ないとい事ではありません。

しかし、子供達への弊害も配慮して、そのときに室内楽を組むのは勉強途中の子供達ではなく、そういった考えでも、何の問題もない先生達であり、或いは先生になるための勉強をしているアシスタントの先生、さらには弊害があっても幾らでも修正可能な音楽を目指している教室からそれを認められた上級生の生徒です。

 

当然、一緒に練習をするというconceptは無くなりますので、曲の勉強は本人のレッスンの中で受講します。練習回数は曲が仕上がった後の、本番直前に数回(二,三回 )程度です。

 

しかし、これはあくまで教室の父兄に対するサービスであり、そのカリキュラムで発表会に参加したとしても、教室の生徒達がオケや室内楽で学んでいるような飛躍的な教育上や目覚しい技術的な向上は望めるわけではありません。

それは一般社会でも良く見受けられる、生徒を募集するためのセレモニーとしての発表会のプログラムであり、私達の教育を旨とする室内楽やオーケストラとはconceptが基本的に全く違うからです。幾ら外形の形を真似したとしても、本来あるべき内なるものを真似しなければ、そこに成果はありえないからなのです。

 

オーケストラの練習では、同じパートを複数の生徒が弾きます。練習という事だけを考えて言えば、一人が休んでも、全体の練習には影響は少ないはずです。

しかし、ここでも集団の勉強(オケ練習)に対しての、意識の問題が起こってきます。つまり、意識のある生徒は最初から休まないのです。意識のない生徒、レベルの低い生徒、初めて参加する生徒、つまり、一番練習が必要で、休んで欲しくない生徒だけがオケ練習を休むのです。

真面目にオケ練習取り組んでいる生徒は、そういった自分の、都合で、休む生徒の事は許せません。先生達に「何とかして欲しい。」と再三訴えかけてきます。そこで、オケ練習を開始した、今から25年以上前に、オケ練習の規約を当時の小、中学生の生徒達が自主的に作り上げました。それが現在のオケ練習の規約として皆様に配っているものです。

そこには、オケ練習に関して、「何回以上は休んではいけない。」という規約と同時に、オケ練習で1日休んだら、その休んだために遅れた分を、教室の2,3回の代講で先生か(有料)、先輩に見てもらうという約束があります。現実的には、有料であったとしても先生は忙しくてオケの代講は出来ませんので、上級生の代講を2,3回受けて遅れたレベルを取り戻さなければならない。というルールがあります。

これは、あくまでオケ練習の場合です。

 

室内楽の場合には、それぞれのパートが一人ずつですから、一人でも休んでしまっては、全員がその曲を練習する事が出来なくなってしまいます。

幾ら、親の都合や学校の都合で練習に参加できないとしても、それは一人の問題ではなく、その室内楽の曲に参加する他の生徒達も練習出来なくなって、一生懸命勉強している他の生徒に非常に迷惑をかけることになります。

そのために練習が間に合わなくなってしまって、発表会のプログラムからその曲が落ちてしまう事もママあります。その生徒にとってはいたし方のないことでしょうが、一生懸命やってきた他の生徒にとってははなはだ不本意な事になります。二度とそのお友達とは組みたがらなくなるでしょう。

そういった事は同じ集団でも学校ではないので、世間一般から見ると非常に厳しく見えるかもしれません。しかし、それもそのルールを作った子供達のルールであり、私としてはそのルールは大人になっても社会人として一番大切な事ではないかと思っています。

 

教室で皆様にお配りしている、オケ、室内楽の規約は、25年以上も前の生徒達が小学生、中学生の頃、「練習に来ない、よく休む生徒」 のために練習がろくすっぽ出来なくて、子供達だけではなく、生徒の親達まで怒り出して、子供達が自主的に作った規約です。

つまりオケ室内楽の規約は私達教室の指導者が作ったものではなく、オケ室内楽に参加している子供達自らが作ったものなのです。

 

しかしながら、今回も、二グル-プほど、先生達が「何が何でもオケや室内楽に参加したいので・・」 と、お母様達に泣きつかれて、(私は、先生に「何故・・・??」と聞きなおしましたが) 断りきれなかったという事で、そういったオケのグループが出来たようです。

私は、オケ練習や室内楽の練習に休まないで、参加している生徒で、checkされた事を自宅でもちゃんと練習していて、それでもオケや室内楽についていけない生徒に関しては、何の問題も感じていません。

次回、或いは次々回には必ず、皆と同調できる程度にレベルが上がっているはずだからです。今回もそういった生徒がいます。一生懸命勉強しているのですが、勉強の仕方が間違えているために能率が上がらない。もし、本人が努力をしている事が子供達に通じれば、子供達は寛大です。子供達だって待つ事は出来るのです。正しい思考方法はオケ練習の中で徐々に学んでいけばよいのですから。

問題にしているのは、一生懸命やっていても出来ないという生徒の話ではなくって、学校行事や家庭の行事等で勝手にオケ練習や室内楽を平気で休んで、補講にも参加しようとしない生徒の話なのです。

そういったソロ型の生徒は、幾ら上手でも(技術があったとしても)子供達の集団の勉強には参加すべきではありません。

そういった条件ならば、子供達の代わりに先生達が組むのが正しい話なのです。

 

このお話は、教室がオケや室内楽に対して、とても厳しいルールを課しているように思われるかもしれません。しかし、何度もお話しているように、これは歴代のオケ室内楽に参加してきた生徒達が自主的に決めてきたルールを説明したに過ぎません。

今の一般の親達は子供の社会を認めようとはしません。子供の社会のルールは学校が、或いは教室が作ったものだという勘違いです。それが、子供の中の虐めやシカトを生み出すのです。

子供の社会にも歴然としたルールがあります。それは大人社会とまったく同じです。

昔の子供達は子供同士の遊びの中で、大人社会の縮図であるルールを学んでいったのです。そこで、思いやりやいたわりの心を育み育てていったのです。

それを大人のわがままで、子供の社会に干渉する、と言う事が子供の心を壊して行ったのを忘れてはいけません。

子供が壊れるのは決して、子供のせいではないのです。

 

第 三 版

江古田ハイツ にて

一 静 庵 寂 鬱

芦 塚 陽 二 拝