暗譜について

暗譜とは、記憶法である。

と言う事で、譜面の記憶法を説明する前に、記憶に関しての、メカニズムを説明しておく。

 

詰め込み型の記憶法

日本の学校や塾などの記憶法は、よく言われるように基本的には、詰め込み型の記憶法である。良く言えば、経験主義とでも言おうか・・。
日本を中心とした東洋の勉強法は基本的に反復練習を中心として先生の真似をします。
音楽教育を例にとって言えば、世界的に著名なヴァイオリンの指導者の先生が繰り返して言われている言葉は「100回練習して、出来なければ、1000回練習しなさい。1000回練習して出来なければ、1万回練習すればよいのです。」という言葉でした。しかし、その考え方はその先生独自の考え方ではなく、日本の教育社会そのものの考え方なのです。

と言う事で、日本語の「学ぶ」という言葉は「まねぶ」と言う万葉の言葉を語源に派生しているのです。つまり、日本の勉強法は師匠の作風を徹底的に真似て、それが無意識に出るようにする事で完成するのです。
しかし、そこには発展と言うものはありません。当然、「出藍の誉れ」と言う言葉も無いのです。あくまで、流儀を守り抜き、家元を崇拝し、その風に近づく・・それが全てになります。
その考え方で日本の教育社会は成り立っています。ですから、子供の勉強でも内容や集中よりも、時間と反復で子供の勉強の成果を判断します。より有名な家元、・・・つまり有名な学習塾に放り込む事が親の責務であるような勘違いをし、子供がその勉強にどの程度興味を持つのかは無視されてしまいます。

しかし、300年前の儒教型教育法が、今だにまかり通っているということは奇跡に近い。

それを我々は勉強型の記憶法と呼んでいる。

記憶することは、脳のメカニズム(機能)なのだから、観念的な教育的な、経験上の話としてではなく、あくまで脳内科学としての心理学を応用して記憶すれば、簡単に、楽に覚えられるはずである。

一般の記憶法について

現代の記憶のメカニズムは、byte型記憶法である。この手の記憶法は日本古来の儒教型の記憶法に最も近く、日本の教育systemとも何等矛盾するものではない。そのために、一番一般に受け入れやすいはずである。

この記憶法は、私の独自のメトードである「右脳型の記憶法」と真っ向から対立する記憶法として、教科書等にも書かれている、周知の記憶法である。

この種の記憶法の欠点(デメリット)は、随分以前から何度となく論文に書いてきたのだが、最終的に論文を纏めたのは、それでも10年以上前のワープロ時代の話なので、それが入っているフロッピーを探す事自体が一手間で、論文を探すのがめんどくさいので、簡単に説明しておく。

 

Byte型記憶法

まず、一般的に知られている、byte型記憶法のメカニズムを説明しておく。

A : 脳の記憶のメカニズムとして、一般で知られている記憶のメカニズムは、長期記憶と短期記憶に分かれる。

B : 1回に記憶出来る情報量は、7bitと言われている。

C : 記憶には、忘れる量を表したエビングハウスの忘却曲線と呼ばれるグラフがある。

(50個記憶した、無意味な単語の羅列は、最初の20分間で27個まで忘れてしまう。それからは放物線の原理に従うと言うわけだ。あと面白いのは睡眠と忘却の関係である。記憶した後に、すぐに眠ってしまうと、最初の2時間で約5割程度、忘れてしまうのだが、その後はほとんど忘れなくなる。それに対して、条件を日中に変更して、眠らないで、同様の統計を採ったのだが眠らない場合2時間後には7割、8時間後には9割を忘れてしまうという結果になった。驚くべき結果であるが、しかし、これは心理学的な定説である。もう一つ、意外と忘れさられる忘却のメカニズムがある。それは記憶をしている最中に、別の似たような記憶をすると、前の記憶か或いは後の記憶かが消去されるということである。大学などで、英語とドイツ語の試験がある場合に、英語とドイツ語を続けて勉強するのではなく、英語を勉強した後に一度睡眠をして、それから新しくドイツ語の勉強をする方が効率がよい。)

 

以上のような条件を考慮して、子どもの学習時間を上手に配列させてあげることが、不必要な負担を子供に強いる必要がないことになる。

参考までに、パソコンの情報量の単位を書いておく。(1byteは8ビットbit,1bitは0か1の2進法の単位である。)

byte型の記憶法は、教育界ではそんな珍しいことではない。I am a boy.は単語のままでは4bitになるが、I amとa boy.と言うシラブルに分けて覚えると、2bitになる。それこそ、I am a boy.

と一気に覚えると、1bitで済む、というわけだ。それで今からもう40年以上前の、高校生の時に、英語の先生に、重要センテンス(赤尾の豆単の500語の単語ではない、重要300文章の薄い本を配って、「絶対にこれを覚えて置くように!」とやられたものだ。

 

平常心

今まで教えた中で、学業の成績が非常に優れた生徒たちは、入学試験があろうと、バイオリンのレッスンなどに全く支障なく通っていた。東大を受験した男の子であるが、試験日近くなっても普段通りにレッスンに通って来る。先生が「もうすぐ受験じゃないの?」と聞くと「あぁ!もう終わりました。」という返事だった。これは趣味組で、学業がメインの生徒たちに共通している。要するに、「試験があるから、徹夜する。」や、「入学試験が近づいたので、レッスンをお休みします。」といたような、付け焼き刃な勉強法では、所詮能率は上がらないということである。学業の非常に優れた生徒たちは、先生たちの、「入学試験が近づいたでしょう?勉強に専念しなくて大丈夫なの?」という質問に対して、同じ答えをする。「ペースを乱すことが1番よくないのです。バイオリンをやめて、勉強に専念しても、それだけ集中が持続出来るわけではないでしょう?その分が、ストレスになって、より集中出来ないという悪循環をもたらします。」

いやー、さすがは違うね!とても高校生の言っている言葉とは思えないよ!でも、そういった考え方だから、勉強が出来るんだよね!

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老人の記憶力の衰えについて

一般的には歳を取ったら、記憶力が衰えると言われているが、しかし記憶力そのものは年齢には関係ない。老人が記憶力が衰える実際の原因は、(勿論、アルツハイマーなどの病的な原因を除けば)歳を取るにしたがって、色々な物事に対しての興味が失われるからなのだ。

それはしかし、老人だけの話ではなくって、年の若い、子供達でも同じである。

記憶をつかさどる脳細胞は、二十歳ぐらいを頂点にして、それから毎日、10万個ずつが死滅して行くのである。人間の脳細胞の約4分の1は記憶によって使用されるが、残りの4分の3は全く使用されないままになるということが言われている。人間の記憶は脳細胞が死滅する時に、新しい脳細胞に移し替えればよいのである。つまり色々な事の興味を失わないで、すでに一度覚えたことを反復して思い出すように努めれば、年をとっても物忘れに苦しめられることはない。ちょっとしたことが、思い出せなくて苦しんでいても、一度思い出してしまえば、新しい細胞に記憶が保存されるのである。記憶は雪が降り積もって重なって行くように、古い記憶の上に新しい記憶が降り積もって行く。アルツハイマー症や老人性痴呆などの脳は、より新しい細胞から(降り積もった上の方から)どんどん溶けて行くので、老人の赤ちゃんがえりなどが起こる。

私の祖母が、90歳を越したあたりから、私と私の父親の区別がつかなくなって、何度注意をしても、私を父親の名前で呼ぶようになってしまった。多分に願望もあるのであろうが、それ以上にやはり脳の表面が死滅したことによって、引き起こされる症状である。しかし、社会で責任を持って働かなければならない立場の人たちは、老人性痴ほうに悩まされることは少ない。

アルツハイマー症や老人性痴呆の問題は、完全に病気の場合の領域と、生活慣習上の領域に原因がある場合とに分かれるので、判断が難しい。ほんのちょっとした骨折で、寝たきり老人なるようなケースもある。骨折が治った段階で、積極的なリハビリテーションを施すことによって、実生活に立ち戻れたケースもあるのだ。痴呆の問題も、これから先の問題である。

 

大仰な老人問題まで持ち出したのは、先ほども書いたように「物事を、興味を持って覚える」ということに対して、塾などの詰め込み主義的な教育の結果、「物事に興味を持つこと」や「色々なことを覚える」ということに対して、恐怖を感じたり、トラウマを持つ若者が増えているということである。

言い方を変えると、子供の疑問や興味を大切にして、自分の力で考え判断し、理解し、その結果、記憶するという、本来行なわなければならない教育を全く無視し、点数だけを重視するだけでなく、あまつさえ人格そのものをすら、点数によって評価をしようという事のあまり、点数を取ることだけが教育の全てになってしまい、無理やりに詰め込んで記憶させようとする教育は、そのものが人格の否定に繋がることになる。

 

その教育の結果として、現代の社会では、一般の若者達が、人を思いやり、人生を考え、社会に対して何か貢献をしようという考えを、あほらしく、かったるく、ばかげているとして、忌み嫌い、反発するようになっている。恋をするのでも、人を好きになるのではなく、自分という存在から抜け出すことが出来ないのだ。

その結果、自己中心的な物の考え方の極みがニートであり、引き篭もりとなって現れる。

 

興味があれば覚えようとしなくとも覚えられる

以前、幾ら宿題を出しても全く覚えてこない生徒が居た。

その生徒は、私に「頭が悪いから、全く覚えられない。」と言った。

よっぽど学校や塾などで、先生たちや友達にいじめ抜かれているのだろう。何の会話も出来ない。

しかし、彼女にテレビに登場するアイドルの話をしてみると、アイドル達の人間関係などを、実に細かく緻密に覚えていて、立て板に水を流すようにすらすらと話が出来る。

私はその生徒に「僕はアイドルの名前すら良く知らないんだよ!」と言うと、その生徒は、私のことを不思議そうな顔をして見ていた。

当然、そこで私の骨頂(愚の骨頂ではありませんよ!)であるお説教が始まる。

「君はとても記憶力のいい人だね!」生徒は不思議そうな顔をする。

「だって、君は僕に全然覚えられないことを、そんなにいっぱい覚えてるじゃないか?」「つまり、誰でもそうだけど、人間は興味のあることしか覚えられないんだよ!」「なぜなら、人間の脳には覚える事に限りがあるから、1日の出来事をすべて覚えてしまうと、幾ら頭が良くても、すぐに頭の中は記憶で満杯になって、パンクしてしまうでしょう!?」

「だから、人間は寝ている間に、自分にとって興味のない話は、すぐに忘れてしまうのだよ。そして新しい記憶を収めるスペースを作るんだよね!」「君が学校の勉強を覚えられないのは、誰でもいい成績は取りたいけれども、それ以上に『勉強をしたくない』という気持ちが、『覚えなくちゃ』という気持ちより優先するだけなんだよ。」

「学校の成績を上げたければ、『勉強したくない』という気持ちよりも、『成績を上げたい』という気持ちが、より強くないとだめなんだ。」

その生徒は、私に言いました。「アイドルの話は面白いから、何もしなくても、勝手に覚えられるけど、勉強は幾ら努力してもねぇ・・・!?」

この話の答えはありません。これは小説ではないからです。

日本人には、儒教的な不思議な性格があります。皆が同じ意見で、同じ事をしなければならない、という話です。テレビのコメンテーターの話を聞いていると「何で??」と思われる事が良くあります。ドイツでは小学校4年生の時に、職業学校へ進学する人と、ギムナジウムを経て大学へ進学する人がはっきりと分かれます。勿論職業学校は靴屋の学校だったり、肉屋の学校だったり、それこそパン屋の学校だったり多種多様です。そこでその道のありとあらゆる専門的な知識を勉強します。ですから、ドイツの職人さんは、とても自分の仕事に対してプライドがあるのですよ。

日本は日本の子供達は、何が何でも学校の成績がよくなければなりません。これはとてもかわいそうなことだと私は思っています。

だって、考えてみると、女子大生の大半は学校を卒業して、自分が勉強してきた専門的な知識を生かす事もなく、1年もたたないうちに結婚して、子育てに専念してしまうのに、それまで、料理、洗濯、裁縫等々、或いは子育ての知識など、何一つ勉強していないのですから。大変だよね!

日本の学校教育が、成績を上げることのみに始終しないで、専門的な色々な職業の分野を子供の内から選んで、学べるとすれば、今現在の子供達の落ちこぼれの問題や、ニートや引き篭もりの問題も、なくなって行くのではないか?と私は考えるのですが、いかがでしょうか?

 

楽しく覚えると言う事の重要性について(別ページ)

楽譜を覚えるということは、練習が楽しければ、無理をして詰め込まなくとも、自然に覚えられる物なのです。まさに「好きこそ物の上手なれ」です。

ところが、勉強型の学習法が見についてしまっている人は、暗譜をするのに非常に苦労しても、なかなか覚えられません。

これがホームページの「練習は何故楽しくなければならないのか?」のconceptになります。

これから先は『記憶のメカニズム』の話になりますので、詳しく勉強したい奇特な人は、私の論文のページ(別のサイト)を参照してください。

 

本当に覚えられないの?・・・・思い出せないのではないの?

あとは一般に人が良く間違えていることですが、人が言う「覚えられない」ということの大半は「覚えられない」わけではなく、ただ単に、思い出せないだけなのです。

その事を、もう一つ、良く知っておかなければなりません。本当に覚えられないのか?それとも忘れてしまって、思い出せないだけなのか?

 

特徴のないものを覚える

記憶する時には記憶する内容に合わせて、色々な記憶法を使い分けなければなりません。

単純で無性格(ランダム)な数字(電話番号や歴史の年号)などは、ゴロ合わせによる記憶法が効果的です。

その語呂合わせを、作る時間は、私にとってはもったいない時間です。市販のものが出ているときには市販のもので間に合わせます。それが「時短」と言うものです。

(時短と手抜きを勘違いしている人がいるけれど、時短とはより良い仕事をするために、時間を最大に作り出す事を言います。時短によって作り出されたものは、こつこつやったものよりも、もっと質の良いものが出来るはずです。一番大切な場所に、より多くの時間を投入する事が出来るのですから。)

 

 

もう一つ

この問題で、よく言われることは、「出来なくとも、努力することが大切なのだ。」という精神論です。私たちは、竹ヤリでB29と戦ったから、敗戦の憂き目にあったのです。それによって私は父親をなくしました。私だけでなく、私の親族も総て男手を戦争によって失ったのです。

まだコンピューターが、電算機の枠を出なかったころ、フォークランド紛争という戦争がありました。友人のスナックで、クラスの友人とおしゃべりをしていましたが、彼はフォークランド紛争が何日間続いて、どういう決着をするかということを、ウイスキーグラスを傾けながら、電卓で計算をしていました。笑えるのは、彼が予測した通りにフォークランド紛争が終結したのです。(というよりも、空母1隻をフォークランドに送って、何日間戦争が現実的に可能か、ということをイギリスの総国家予算から割り出したのです。

つまり今日、戦争は経済にすぎないということなのです。

でもイギリスは飲み屋に持ってきたポケットの電算機ででも結果の判る戦争で、一隻の空母と7000人の若い青年たちの命を犠牲にしたのです。

 

(無駄を省くと言う事について)

そういった政治的な大上段の話ではなくて、実にプチブル的な身の回りの話ですが、精神論を口にする人たちは「自分の子供は出来ないのだが、一生懸命努力しているので、その努力だけは認めて欲しい。」という言い方をよくします。それは、その子供が学校や、塾などの点教育的な社会の中にいる場合には、成り立つ可能性があります。しかし、音楽でも、いったんコンクールなどになったら、一人一人の子供たちは、自分の将来をかけて臨んで来ます。そこに精神論も入る余地はありません。まして大人の社会では、出来るか出来ないかだけが、その人を判断する基準になるわけです。

4マスゲームのように、①努力をする、出来ない、②努力をする、出来る、③努力をしない、出来ない、④努力をしない、出来る、というパターンがあります。

努力をするということを時間がかかるということに置き換えて考えてみると、就職で採用する条件は、④の時間がかからないで出来るということがベストです。次は②の時間がかかっても、出来るということは、採用人数が足りない場合には、採用される可能性があります。しかし後の①の努力をしても出来ないということであれば、それは審査の対象にはなりません。当たり前の話です。③は所詮論外です。

精神論が成り立つのは、親やその子供の先生、つまり関係者であるから成り立つのです。社会は(他人は)自分に損をしてまで、人のことを認めるわけではありません。

 

 

 

色で覚える(パターンで覚える)

教室では子供達の指導に12色位のマーカーを使用します。小学校の低学年ぐらいでは、記憶に関して色彩感覚が非常に優れているからです。色とパターンの組み合わせで、パターン式記憶法というのが、バイエルの段階で作られています。その段階でターニングポイントなどパターンとその違いを区別して記憶することができれば、記憶はより正確になります。記憶を五感によって記憶する方法と言うのは、心理学的には珍しい方法ではありません。その方法論をもっと展開して行くと、記憶の糸口を作っておくこと、状況状態を同時に記憶すること、などなどの多様な記憶が出来るようになります。これを「芋づる式記憶法」と呼んでいます。この方法はアルツハイマー症の効果的なリハビリテーションとして医学の世界では実証されています。

 

内容的に覚える

本質的には、数学の定理などもそのやり方で覚えることが出来ます。数学には無数の数字が出てきますが、その数字を導き出す理屈が分かっていれば、その数式を引っ張り出すのに5分かかることはありません。私も高校のときにはそれで数学の試験を全部クリアしました。

一言半句を正確に違えないで覚えるということは、古文や漢詩の朗読ぐらいしか、現実的にはないでしょう。意味が分かっていれば、本質的には細かい所まで覚える必要は無いのです。

 

記憶のNiveau

ピアノの初心者の暗譜は、まず如何に譜面に忠実に演奏するか、という段階です。

しかし、同じ初歩のレベルであったとしても、Burgmullerくらいのレベルに達すると、音符やrhythmに表現が伴ってきます。また、書かれているrit.やクレッシェンドなどのほかに、膨らましや揺らしなども表現出来るようにならなければなりません。

 

さらに表現の違いを覚える

前述の、「意味が分かっていれば、本質的には細かい所まで覚える必要は無いのです。」などということを、作曲家である私が言うと、音楽家達は多かれ少なかれ驚かれることでしょう。

楽譜を正確に読み、正確に演奏するということが、演奏家の本分であるからです。

しかし、私たち作曲家から言わせれば、楽譜は自分の音楽を伝えるための、非常に不正確な記号にしかすぎないのです。まず私たちは、バロック時代の書かれた音符のrhythmと実際に演奏されるrhythmの違いを数多く学びます。

別にわざわざ大昔のbaroque音楽を引き合いに出さなくとも、古典派、近、現代の作曲家を問わず、付点音符のrhythmにしても、書かれたスキップのrhythmには、柔らかいrhythmと、複付点音符に近い鋭いrhythmの違いがあります。楽譜を読み取るということは、そういった楽譜上で書きあらわすことが出来ない表現上のことも読み取れなければいけません。

そういった細かい作曲家の意図を読み取ることが出来るようになったときに、その人の個性豊かな演奏が出来るようになります。

 

音楽の表現は、芝居の役者さん達の表現に似ています。Bさんが、*の所をそのように表現したければ、Aさんはその前のところを、以下の様に表現しなければなりません。しかし、反対にAさんが**の所を、どうしてもそういうふうに表現したければ、当然Bさんのその前の演技も、そう表現しなければなりません。音楽でもそういった問題はしょっちゅう出てきます。また生徒があるpassageをどうしてもそう弾きたい場合もあります。そうすれば、その前のpassageはこう弾かなければなりません。

メロディは必ず質問(疑問形)のaと答えのbから出来ているからです。

(但し、ヨーロッパの古い形式であるbogen form《弧の形式》だけは,1の質問、1の質問と2の答えになります。)

Bogen formの例

一部形式、とか2部形式とか呼ばれる所謂,歌唱形式は、bogen formから発展した形式であると言えます。ですから、ヨーロッパの作曲家達はむしろ潜在的にはbogen formの方が体に染み付いているのです。繰り返されたaとa+aと同じ長さの分割されない(切れない) bです。Beyerの教則本の中には、完全な形のbogen formの曲はありませんが、結構初歩の教材にも使用されている場合があります。

ついでに、melodie aは2,3拍目が2分音符になるので、シンコペーションと言う事で、あたかも小節がずれた様(或いはAuftaktの様)に弾かせる先生がいますが、それは間違いです。これはドイツ高地の特有の民族音楽から来るrhythmで、g,h,dとデクレッシェンドするような弾き方になります。こういった曲のrhythmをlandlerといいます。(landlerという言い方も本当は間違えています。landlerのようなrhythmと言ったほうが正しいのです。)

landlerには、landler形式と言えるものがあって、ヴァイオリンの初歩の教材を書いたザイツの作品には、3楽章をかなり大規模なlandlerで作曲している曲が多いようです。

近代では、シトラウス親子などが、ウインナワルツとして洗練された型に発展させました。

しかし、今だにドイツの田舎に行くと、やっぱりどうしてもlandlerです。一年中踊っている盆踊りのようなものかいな?

ドイツの子供達にとっては、分かりやすい、楽しい、踊り出したくなるような音楽であるのだと思いますよ。

大規模なlandlerの形式を説明するために、皆さんが持っている「ピアノのソナチネアルバムにはlandlerは入っていないのかな?」と思って、1,2巻を探して見たのですが、landlerどころか、大体3楽章が3拍子になっている曲自体が、少なくって、ソナチネアルバムで説明できる可能性は無いようでしたね。

でもBeyerの方は結構思い入れがあるみたいで、landlerと言えるかどうかは定かではありませんが、同様のrhythmの曲は63番、97番などもあります。

rhythm的には、よく似てはいますが、Auftakt課題やsyncopation課題とは別の課題です。

 

再び暗譜の話に戻って・・・・

苦言を呈する(生徒に対して)

暗譜のできない人は、抜き出し練習の1小節の半分や1小節ぐらいの部分練習ですら、暗譜して練習しようとはしない。それは私達に言わせると、ただの怠け(怠惰)である。

暗譜は習慣である。たった1小節の抜き出し練習をするときですら、暗譜で練習しようとしないのなら、暗譜が出来るようになることはありえないではないか。

そんな当たり前のことですら、やろうとしなければ、それは上手くなる事は無い。

 

ついでにもう一言、苦言を呈すると(先生に対して)

「だから、幾ら一生懸命指導しても、上手くならないんですよ。」という声が聞こえてきたので、もう一言注意すると、生徒(子供)の音楽に対する意識を育てるのも、先生の仕事である。意識を育てると言う事は、幾ら口で音楽の事を云々しても駄目で、先生自らが、音楽が自分にとってかけがえのない素晴らしいものだとかんがえているのなら、子供達はいずれ100%上手くなるだろう。

しかし、先生にとって、教室で音楽を指導する事が、自分が素敵な男性を見つけるまでの繋ぎだとすれば、子供達は先生の事を馬鹿にしてくるか、逃げ腰でlessonに来る事になる。

私の教室で、いつも面接をするときに、アドバイスするのは、「恋人がいて、2,3年後には結婚したいので、それまで、子供の指導をしてたいです。」・・・などと、平気で言ってくる人には、「それなら、音楽教室で子供を教えるよりも、料理教室に通ったり、掃除、洗濯の勉強を親に習ったりすることのほうが、100倍も貴女と彼の将来のためになりますよ!」と説得をすることにしています。