芦塚先生の料理教室

                           まえがき

第二次世界大戦後には、日本の伝統の味というか、それぞれの家の所謂、『家庭の味』というものが失われてしまいました。
つまり、おばあちゃんから娘に伝える昔からの料理が、戦争という非常事態で伝わらなくなってしまったのです。
だから、私は結構おばあちゃん子だったので、私の味覚はおばあちゃんの味なのですが、私の母の味・・所謂、お袋の味とは全く違っているのです。
親が料理を教えなくなって来たので、女性達は結婚をする時には、料理教室で料理を学びます。それはもう既に家庭の味とは呼べないもので、「私の家の味」とは言えなくなってしまいました。
こういった憂慮しなければならないお話は、私は「日本だけのお話」だと思っていたのですが、Europaに留学をして世界中の友達に話を聞くと、Europaの全ての国でも同じ状態で、若い親達が家庭の味を知らないので、家庭で子供達が料理をして貰う事がなく、子供達の健康が心配される状況になって来て、国が教育の一貫として料理を子供達に提供したり、料理の仕方を指導しなければならなくなったのだそうです。
そこでItalia等を中心として、「食育教育」が起きてきます。
それは日本も、同じで、戦後の食料難から子供達を守るための学校給食や、学校で子供達に料理の仕方を指導する家庭科と呼ばれる料理教室が普通になって来て、それに誰も疑問を持たない時代になってしまいました。

(ここからは元の文章です。)
「食育」と言う言葉が、一般の社会の中で普通に使われるようになって久しい。
私が、初めて「食育」と言う言葉を聴いたとき、それはヨーロッパ留学から帰国して、教育関係の大学で教鞭を取るようになった時の事ですから、もう既に40年近くも前の話になります。

初めて「食育」という言葉を聞いた時には、私は「何と嫌な言葉なのだろうか。」と思いました。

「食」は「育」されるものではなく、「親から子へと伝統的に引き継がれていくものだ」と考えていたからです。

「嘆かわしい日本の国の現状だ」と思っていたら、なんとイタリアやヨーロッパ諸国でも同様の問題が起こっていて、世界的に子供の味覚異常が、社会現象として問題になっていると言う末期症状であるという事をニュースで知りました。

その味覚障害の原因の大半は、一般的には、コンビニの食事が原因であると言われています。
(家族が食事を一緒にしなくなって、家庭で食事を作らなくなって、食事をコンビニで買う事が、子供達にとって、ご馳走になって・・・、等々とテレビ等で延々とそんな話が流れています
つまり、食育を憂る得ているのは、私が・・・ではありません。テレビで教育関係者や有名人達がその話をしているのですよ。)
教室でも、朝食をコンビニの甘食にしている子供達がいます。コンビニのお弁当も今日では随分美味しくなって来ました。だから、「今日は美味しいものを食べたいので、コンビニに行こう」という家庭もあります。
その子供達の共通の病気は、鼻炎のアレルギーです。花粉症が原因という場合もあるようですが、コンビニ食の子供達は、100%鼻炎のアレルギーがあります。(鼻炎のアレルギーの子供達がコンビニ食である分けではありませんが、コンビニ食の子供達は100%アレルギーがある・・という意味です。)
多分、防腐剤が原因だと思います。家庭で作った料理は、冷蔵庫の中でも、2,3日でカビたり腐ったりするのですが、コンビニの食材は腐らないのですよ。
コンビニのお弁当は、日本全国の人達の味に合わせて作られています。だから、味が誰にでも理解出来るように強い味になっています。強い味の食事ばかりしていると、人間の一番大切なセンサーである味来が壊れてしまいます。小学生の子供達を調査した結果があります。3000個あるべき味来のセンサーが2000個しかなくなって、その失った味来は、二度と再生する事はないそうです。


振り返って見ると、私の幼少期の場合には、未だコンビニなんてものはありませんでした。
そもそも、コンビニとは、1960年代の始め頃から、70年代の初め頃に出来たものだからです。
(netで調べて見ると、コンビニの1号店は、セブン・イレブンの豊洲店が1974年に出来たのが最初と、されています。それ以前にも幾つかのコンビニのようなお店が出来たのですが、それは、未だコンビニの様相を呈していなかったからです。)

だから、私の大学時代にも、全国的にもコンビニは未だ珍しく、私達の学生生活の中には、未だコンビニの話が出て来る事はないのですよ。
・・・という事で、食事は、(もし、一人暮らしであったとしても、)自分自身で作ったり、ましてや、子供に対しては、親が作ったりするのが、一般的(当たり前)だったのですよ。
外食の出来るレストランのような食堂も、当時は珍しかったし、今ほどは多く無かったからね。

しかも、その50年、60年代の当時は、一般の家庭には、未だに、冷蔵庫がない。

冷蔵庫を持っている家だとしても、氷屋さんがリヤカーに氷を乗せて配達に来て、大きな氷を、家の前でノコギリで切って、売っていた、そういった「夕陽ヶ丘の時代」なのですよ。

という事で、当時の冷蔵庫の写真を探してみました。
左側の写真は何と冷蔵庫なのですよ。

一番上の開きに氷屋さんに切って貰った氷を入れて、下に食材を入れるのだが、所詮は、氷で冷やす分けなので、今の冷蔵庫のように、そんなに長期間、保存が出来る分けではない。
勿論、冷凍庫なんてものは、当時の冷蔵庫にある分けはない。

勿論、我々、学生にとっては、その冷蔵庫さえ、高嶺の花で、それに、氷を毎日、買える分けでもないのですよ。

だから、超、お金持ちの音大生と言えども、当然、冷蔵庫を持っている学生なんていなかったしね。
当時は、日本に3台しかない、ポルシェを持っていて、学校に颯爽と乗り付けて来る女の子はいたけれどね。

余談と言うか、ヒガミと言うかはさておいて、・・・しかも、困った事に、その頃はキャベツでも、大根でも切り売りは無かったのですよ。
魚の切り売りもなくって、エラも当然抜いてあるわけではない。
そのまま1匹単位でしか売ってはくれないのです。

もっとも、チョッと高めの専門店に行けば、その場で調理(エラを抜いて、3枚におろす)ぐらいはやってくれたかもしれないが、そういった手間暇を掛けて売ってくれるお店は、おいそれと我々学生達が行けるお店ではなかったしね!!

私は、大学の傍のスーパーで(今でもあるけれど注1)キャベツを一個買って来て、クラスの女の子に半分とか、3分の1とかを売りつけて、何とか腐らせないようにしたりしていました。
そうしないと、一人では、食材が多すぎて余らせて腐らせてしまうからね。

だから、不精者の私でも、毎日、学校帰りには、スーパーに寄って、その日の食材を買って帰っていたのですよ。

今の子供達のように、何をするにも、面倒くさがっていたら、生きては行けなかった時代だな???
家には電話も無かった時代だからね。(赤電話と赤の郵便ポストの時代だよ!)
当時、住んでいたアパートの1号室に住んでいた日芸のPiano科の女の子が、アパートのオーナーが、親戚とかで、管理人役をバイトでしていたのですが、電話が欲しくて、管理費から、赤電話を買って、呼び出しの電話が出来ました。勿論、殆ど掛かって来る事はなかったのだけど、それでも電話付きのアパートという事で珍しかったのですよ。当時は・・。

このページは、「芦塚先生の料理教室」とは言っても、学校の教科書のように、教育(食育)をする事が目的ではないので、兎に角、誰でも、つまり、包丁を持った事のない子供達でも、簡単に自分で作れる(所謂、手抜き)料理をテーマとしています。

今流行りの料理教室なのですが、どれを見ても、やたらと本格的な料理が主流で、3分間クッキングのような時短の料理であったとしても、料理の基本が分かっていないと作れない料理なので、私の、ここに掲載している、全く料理を知らなくても作れる料理というconceptは、珍しいのですよ。

特に、今時の「男の料理」と銘打つと、料理を極めようとでもしようとしているのか、一切の手抜きもなく、高価な包丁や、調理用品を買い揃えてのマニアックな料理です。

私の場合には、徹底的に手抜きをして、しかも美味しいというレシピを目指しています。
お手軽料理、手抜き料理の勧め、とでもいうのかな??
そこの所が、私の料理教室と一般の料理教室との違いです。

実際に、音楽教室を経営していて、小学生は勿論の事ですが、中学生、高校生の女の子に料理を手伝わせても、包丁を使った事がない、お茶一つ入れた事がない子供達が殆どなのです。

今の子供達は、料理で
「お母さんのお手伝いをする暇があったら、学校の勉強をしなさい。」という風に躾けられているからなのです。

そのクセ、妙にお菓子の作り方が上手かったりします。
それは、お菓子作りが、日常の生活ではなく、全くの趣味の世界だからです。

今の親は、親自身が、塾世代なので、親が料理の基本を知らない。
合宿で、先生達が、「豚肉の塊を切って、叩いて、卵を溶いて、パン粉をマブして、」・・とか、子供達とやっていたら、
「そんな面倒くさい事を・・」と、すっかり驚かれて、呆れられてしまいました。

スーパーで、パン粉をマブしてある肉を買って来るのは、まだ良い方で、揚げてあるトンカツを買って来て、レンジでチンして食べるのが、普通の感覚なのです。

日常の全てが手抜きのコンビニの感覚なのです。
それで、幾ら学校の成績が上がったとしても、良い有名高校や大学に入学出来たとしても、実際の人生には、何の役にも立たないのではないか??・・・と、懸念しています。

中学生、高校生の頃から、長い間、自炊生活を続けて来た私ならでの、勉強の合間、仕事のチョッとした合間の3分間で作る、インスタントのレシピの「3分間、簡単子供バージョン」なのだよ。
それを料理だとは、思わないでくださいネ。

その理由は、一つには、正式のレシピが手間暇がかかって面倒だからであるが、本当の理由は私が一度も親から料理を習った事がない、正式な料理の作り方を学んだ事がない・・・というのが、その理由のもう一つの理由でもあります。

私達の時代の親達の考え方は、
「男子厨房に入るべからず」・・というのが、当たり前の時代だったので、男の子である私が、厨房に入って、お皿を洗う事すら許されなかったのですよ。
料理はママが作るけれど、お皿洗いは、子供達とパパがやる・・という、今の時代とは雲泥の差ですよね。
(男子、厨房に入るべからず、とは言うのだが、その代わり、包丁を磨ぐのは男の仕事で、幼稚園の頃から井戸端で、包丁研ぎをやらされたね。
包丁を研ぐのは男の役目だったそうな。よう意味が分からんが??)


当時は、小学生や中学生が、外で外食をするという事は、全くありませんでした。
やっと、高校生になった頃には、長時間、学校に居るので、学校の傍の学生相手の食堂があって、そこで、うどんやお稲荷さんを食べるぐらいしか、経験はなかったのです。

学生同士で、長崎では未だ珍しかったお好み焼きを食べに行った事も、一度ぐらいはあったかな??
まあ、当時の中、高生にとっては、外食と言ったら、何処でも、せいぜいその程度だったでしょうね。

大学生になって東京で生活をするようになってからは、やむにやまれず自炊をしなければなりませんでしたが、それが面倒くさかったので、毎夜、行きつけの寿司屋で、トックリを16本も並べたりする、贅沢三昧の日々を送っていました。(留学から帰国しても、似たような生活をしていましたが、今のお金に換算すると、月50万ぐらい飲み食いに使っていたよね。家が買えたよね!何故、買わなかったの??って??・・・だって、親が保証人になってくれなかったからなのだよ。
「長男が家を買って、それの保証人になるから、その支払いが終わったらお前の番だ!」ってさ!!そりゃあ、年齢的に、もう、無理だわさ!!)
という事で、家を買えるギリギリ限界の年齢になって、慌てて、保証人になってくれる人を探してこのマンションを買ったのですよ。

私の母親の旦那は、医者でしたが、私が医者を継がなかったので、勘当されて(本当の実子ではないので)、生活費の類は一切出して貰えなかったから、自活を余儀なくされていました。

でも、ありがたい事に、音楽大学の入学金は伯母に頼み込んで、伯母が快く出してくれたのですが、学費までは伯母に甘える事は出来なかったのですが、そこは、有難い事に、養父がちゃんと、月、1万の生活費を払ってくれました。
しかし、江古田の街で、Piano持ち込み可の物件は、6畳一間であったとしても、ボラれ捲って、家賃が1万2000円もしたので、折角の仕送りでも、家賃分にもならなかったので、入学と同時にアルバイトをして、生活をせざるを得ませんでした。
(勿論、風呂のある賃貸物件は、江古田周辺の借家では、当時は全くありませんでした。風呂付きのマンションが、一般的になる時代は、もっと後の時代なのですよ。当時は、銭湯の時代だったのです。・・・だから、神田川なのですよ。)

音楽家とは全く無関係の所に育って来た私が考えたのは、
「音楽は職業なので、音楽で稼ぐ事が出来るはずだ。」と言う事と、周りに学生達が、お金のために働くのを見て、「そうではなくて、バイトそのものが、音楽の勉強になるような仕事を選んで働こう。」と決心しました。

そして、アルバイトを始めたのですが、当時の私の友人達(東大卒の連中の)が会社に就職をして、その初任給が2万円ぐらいの時に、私は大学のバイトで7万以上稼いでいたからね。

今は、東大卒の初任給の平均は20万ぐらいだそうなので、今(平成25年)のレートに換算すると、月給換算で、20万×3.5で70万ぐらいの稼ぎになります。
年収にすると840万ぐらいになるようですね。

勿論、物価は均等に上がっていったのではないし、卵やバナナのように当時から、殆ど値段が上がっていないものも、多くあります。

その一つがlesson代です。
当時は、音楽をやる人達は、お金持ちの特殊な階級の人達で、lesson代は非常に高かったのですよ。
Pianoを持っている・・という事でも、お金持ちのstatusだったのでね。
今の時代のように、猫も杓子も・・という分けではありません。

勿論、私の、そのバイトは、音楽に限った、(しかもポピュラーや演歌以外の)Classicに限ったバイトに限定しただけの稼ぎで、ですよ。

今でもそうなのですが、音大生は、女の子ならデパートの食堂の給仕所謂、ウエイトレスで、男の子なら、配送係のバイトが多かったようですね。

少し真面目な学生のバイトなら、小、中学生の勉強の家庭教師なのかな?
勿論、近所の子供を集めて、ピアノ教室の真似事をしている学生もいたけれど、それは寧ろ、稀な存在だったよね。

Pianoの講師として、ホームレッスンで、一人、二人を教えている音大生は結構いたけれど、それは、生活のためのバイトではなく、「自分が働いている」というstatusのためであって、その学生の、一日の小遣いにもならないだろうね。


私は、
「もしバイトをするのなら、音楽の勉強になるもの、自分の将来の役に立つ仕事」と、決めてバイトをしていましたが、そういった仕事は結構特殊なので、とても良い凌ぎにはなったのよね。
どうように、管の学生達は、オケトラをしていたので、彼らも結構稼ぎが良かったよ!!
音楽は特殊技能なので、それを生かしたバイトをすれば、よい稼ぎが出来るはずなのだが、皆、
「自分に自信がないから・・」と、言ってやろうとはしない。
どんな仕事でも、やってみなければ、自信につながる事はない・・と、思うのだがね。
そこが周りの学生達とは、少し生き方が違ったのかな???

料理の好きな歌の男性の友人と一緒に、釣って来た鯉を洗いと鯉こく(私達は濁って鯉ごくって言うけれど)を作ったり、ニワトリを潰して、鶏のコース料理を作ったり・・・と、結構、食べる事では楽しんだのですよ。
食道楽の友人が多かったのでね。

その後、私がドイツに留学をすると、当時はMunchenには日本レストランはなかったし、Munchenの郊外に住んでいたので、外食が難しく、仮に外で食べようと思っても、経済的に無理だったし、また下宿には台所すらないので、本格的な料理は作れないので、あくまで勉強の合間に手早く作れるように考えたレシピが色々あって、それが今は、忙しい江古田事務所の先生達の作業の合間に手早く作る昼食のメニューになっている。

例えば、1970年代のドイツ、Munchenにはぬか漬けは売っていない。
米糠(こめぬか)自体が売っていないからだよ。
当たり前か??

しかし、ドイツのビールは、1516年に、時のバイエルン侯ヴィルヘルム4世によって公布された法律を、何と、今でも順守しているので、日本のようにビールの酵母が殺菌されていなくって、飲んでいる時でも、ちゃんと酵母が生きているのですよ。

だから、巨大なキュウリ(ドイツでは巨大なキュウリしか売っていない。)で、皮が厚いので、ピーラーで筋を入れて、塩を塗し(まぶし)て、飲み残しのビールを食べ残しのパンに浸して、キュウリに塗して一晩置くと、美味しいキュウリの一夜漬けが出来上がり!!

勿論、一味唐辛子を入れても美味しいし、普通の漬物なら、昆布と一味に、食べ終わったミカンの皮を入れて、石で重しをかけると美味しいサッパリ漬物が出来る。
ドイツのミカンは、ワックスで皮を磨くのは法律で禁止されているから、皮でジャムを作ったりと、色々出来るのだよ。

日本では殆どのミカンがワックスがけされているから料理に使うのは無理だけどね。


その内に、この料理教室のページに、私のオリジナルメニュー(創作料理)を折に触れて、載せて行くつもりです。




大田千夏ちゃん(中1)のオケ練習の時の手作りのお昼のお弁当です。とっても、きゃわいい!!ですよね??

蝶ネクタイをケチャップで上手に書けているけれど、味付け海苔をハサミで切って作った方が、より簡単だよ! (芦塚先生からのadviceです。)



















注1.残念ながら、江古田の市場とそのスーパーは、今年(2015年)の春に全く無くなってしまいました。江古田駅北口からのスーパーは昨年と今年に、全部なくなってしまいました。
な、な、何と、50年以上も前からあった江古田のスーパーが・・・  Facebookへのlinkです。Providerが変わってしまったので、linkが出来ません。yahooのhomepageも年内には別のProviderに移行しなければならないので、面倒臭いので、お引越しが終了するまでこのままにしておきます。