Muzio Clementi sonatine Op.36Nr.6 D Dur


長年書き溜めていた「芦塚先生のお部屋」の論文を、魔の2018年の9月の29日にserver上の不要fileを削除したら、論文のlayoutだけでなく、文章の大半が失われてしまい、苦節、30年の長きに渡る研究論文が全て失われてしまいました。

2018年の後半期は、7月の心療内科から始まって、9月にhomepageのtroubleと、血尿から、膀胱癌と腹部大動脈瘤の手術等々、12月のクリスマス会まで、大変な作業を強いられてしまいました。

それに追い打ちを掛けるように、yahooのhomepageのserverを2019年の3月の31日迄で、serverを打ち切るという一方的な報告があり、Rental-serverを探すのにも、そのお引越しにも、膨大な時間を費やしてしまいました。

失われた原稿・・というかdataは、幾ら嘆いても、惜しんでも、如何ともし難いので、dataを探す事自体を、潔く諦めて、全く新しく、原稿を書き上げる事にしました。

以前に、この曲の解説のPageを作った時には、「Pianoの学習の初心者のためのsonatine album」・・としての、Clementiの曲を学ぶ上での、初心者へのlessonとして・・・だけではなく、実際に、音楽大学を受験する生徒の副科Pianoのlecture−lessonとしての、生徒へのlesson課題としての、lectureをそのままに掲載したので、指導の内容を事細かくlessonする事が出来たので、このsonatine Op.36Nr.6のD Dur、全楽章としての、解説の文章の作成はとても楽でしたが、「今回は」・・というか、「今、現在では」、periodのforte-pianoの奏法をlectureをするだけの上級の生徒がいないので、実際の生徒を指導する上でのlectureではなく、机上の理論(空論ではありませんよ?)としての、解説になってしまうのは残念な事ですが、それは、生徒が少なくなってしまったので、こればっかりは・・・致し方ありません。


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まえがきにかえて 

Clementiというと、Mozartとの競演の勝敗の事ばかりが取り沙汰されるようで、Clementiの正しい功績が評価される事は非常に少ないのです。そればかりか、子供の教育教材であるsonatineの作曲家である・・という事のみが認識されて、本来の優れた業績に対しての評価は全くないのです。
Clementiの名誉のためにも、この一文が何らかの手助けにならん事を・・・

Lebenslauf(生涯)


forte-pianoと古典派の奏法

演奏上のadvice 

forte-pianoのtouchについて

遠音の利く音

baroque時代から古典派の時代の楽器的な特性の作曲法

弦楽器の奏法(Alberti-Bas)

古典派の奏法(auftaktのarticulation)

弦楽器のWien奏法を表す前打音(acciaccatura)

時代考証の伴わない一般にまかり通った誤ったaccentの奏法


以降は追記の文章なのですが、back・up原稿が見つからないので、次ページのままです。
古典派の時代の演奏法の時代考証のお話






まえがきにかえて
ClementiとMozart

洋の東西を問わず、一般の人々は「多芸多才な芸術家」に対して、冷遇をする傾向があります。

音楽史を見ると、このMuzio Clementiiのように、作曲家・ピアニスト・教師・編集者・出版業者・楽器製造業者という色々な分野で、相応の成果を上げた「多芸多才な作曲家」は、結構見受ける事が出来ます。
HoffmeisterやWeberや・・・、と、枚挙に暇がありません。

・・・ちなみに、新古典派の画家であったJean-Auguste-Dominique Ingres(アングル)も、ヴァイオリンの名手として知られていました。
実際に Paganini(ニコロ・パガニーニ)と弦楽四重奏団を結成し、パガニーニのスケッチを残しています。(右の写真)

フランス語で「アングルのバイオリン」といえば、「趣味の域を超えた趣味」を表す言葉になっています



しかしながら、残念な事に、Muzio Clementiが、こんにち、人々から知られているのは、彼の正当な評価ではなく、子供用に編纂された「sonatine album」の1巻に掲載されている「6っのsonatineOp.36 」か、2巻に掲載されている「6っのSonate、Op.4」の作曲家として・・・か??  それとも、Pianoの練習曲であるGradus ad Parnassumの作曲家として知られているのか??・・・であろうか、と思われます。

Clementiは、作曲家としては結構多作家であり、約100曲のPiano・Sonateを残しており、とくに1780年代にWienとLondonで書かれたPianoSonateはsymphonicSonate(交響的ソナタ)として、Beethovenの先駆をなす曲でもある。
実際に、Beethovenは、Pianoの曲に関しては「Mozartの作品よりも、Clementiの方がpianisticで素晴らしい?」と評価している。
ほかにPianoの教則本である(Gradus ad Parnassum)や4つのSymphonie、小編成のorchestraの曲(作品18の第1番及び第2番)、Pianotrio等を残している。


本来的にClementiが受けるべき彼の多くの優れた業績・・・、virtuosoなPianoのSonateや、多くの曲・・・、或いは、forte-pianoを改良して、現代のPianoに近づけたPianoの制作改良者としての功績や、或いは、Pianoの優れた指導者として、多くの著名なpianistをその門下に輩出した事は、殆ど、知られていません。

弟子としては、nocturneの創始者で、Chopinに多大の影響を与えたJohn Field(フィールド)や、Chopinが青年時代に作曲したPiano-concertoの元になった、当時の有名なpianistであり、Chopinが門下になる事を悩んでいた非常に優れた演奏家であったFriedrich Wilhelm Michael Kalkbrenner(カルクブレンナー)や、現代ではクラーマー・ビューローの教則本として知られている名pianistであるCramer(クラマー)、モシェレスの教則本としても知られているMoscheles(モシュレス)等の多くのpianist達を輩出している。
後世に影響を与えたこれ程多くの演奏家達を育て上げた指導者は、後にも先にもClementiを除いてはいないであろうよ。



nocturneでChopinに多大の影響を与えたJohn Field(フィールド)であるが、諸説の中には、「Clementiの製造したPianoを売り込むための、広告塔として、セールスマンとしての、或いはデモンストレーターとしての仕事をさせられた」・・と言う説もあり、「Clementiからはひどい指導を受けたと言っていた」・・という説すらある。

しかしながら、FieldはClementiの門を叩く11歳の時から、21歳になるまでの間の10年間をClementiと寝食を共にする程の、Clementiに密接に師事したので、そう言ったヤッカミまがいの説は、彼等の尊厳に対して、失礼という他はない。


・・・と言う事で、参考までに、Fieldの略伝を掲載すると、1793年の11歳のField(フィールド)は、家族と共にLondonに移住して、作曲家でピアノの製造も手掛けていたMuzio Clementi(ムツィオ・Clementi)のもとで学んだ。
17歳の頃には、彼の最初のピアノ協奏曲の初演が行われていたといわれており、1801年に彼の最初のピアノソナタ集が出版され、この頃から作曲家としての活動が盛んになった。

1802年の7月には、彼はClementi(Clementi)と共にヨーロッパの各諸国を回り、パリやウィーンなどで、名声を博した。
その後、Clementiに連れられて、ロシアのサンクトペテルブルクへ移り、彼は1803年6月にClementiがその地を去った後も、この地に留まり、演奏家として、また、ピアノの指導者としての活動を続けた。
この一文を読むだけで、John FieldがClementiの指導の元で、どれだけの影響を受けて来たか?大家として育って来たか??が、分かると思います。
人を誹謗中傷する評論家の多い事は、本当に困った事である。



まあ、それはそうと、一般の音楽愛好家は当然としても、現代の音楽家(pianist)達に取ってのClementiの位置は、精々、教育教材であるsonate albumの作曲家として、・・或いは、MozartとPianoの競演をして惨敗したpianistとして知られているぐらいでしょうかね??

この競演の逸話もまた、世の中では曲解して捉えられているお話になります。
そもそものこの逸話の切っ掛けは、1781年の12月24日に、時の皇帝Joseph II世は、王宮で25歳のMozartと29歳のClementiを引き合わせた事に始まります。

25歳になったばかりのMozartは、1781年3月にSalzburg大司教ヒエロニュムス・コロレドと大喧嘩をして、その職を解雇され、当時のヨーロッパの音楽や芸術の中心地であったWienに移住する事を決意します。
その翌年の1782年には、父の反対を押し切って、コンスタンツェ・ヴェーバーと結婚します。(悪妻伝説の始まりです。)
(コンスタンツェはかつてMozartが片思いの恋をしたアロイジア・ヴェーバーの妹で、『魔弾の射手』の作曲家カール・マリア・フォン・ヴェーバーの従姉でした。)

つまり、この王宮でのClementiとの競演は、Mozartにとっては、生活の掛かった、Wienでの音楽的な活躍の場を有利にするための、重要な就職活動の一貫だったのですよ。

後世の人達は、Clementiとの、競演での勝ち負けのお話にしか興味を示さなくて、それぞれの演奏家(この場合には、MozartはPianoの演奏家としてのappealをしている分けなのでね??)の立場の違いに、目を向ける人はいなかったようですよね??

Mozart自身の手紙から伺える当時のClementiとの競演については、詳細には、 先ず、Clementiが即興の前奏曲、自作のPianosonate Op.47-2、3度やその他の重音の連発するtoccataを演奏しました。
・・・続いて、Mozartがやはり即興で前奏曲を、続いてその前奏曲を下敷きに、変奏を重ねた、とされています。

そして今度は指定されたパイジェルロのPianosonateの第1楽章をMozartが、第2、3楽章をClementiがそれぞれ初見で演奏した。
次にそれらの中から主題を1つ選び、2台ピアノで展開するように指示がありました。

二人は期待に応え、ありとあらゆる旋律の断片が互いに入り組むうちに、2台ピアノの大音響となってこの勝負の幕は閉じる。

Clementiが、この時に弾いたsonate、 作品47の2は、Mozartは、折に触れてClementiの事を悪く言っていたのですが、不思議な事に、後の時代に、MozartはこのClementiの曲の作品47の2の第1楽章のthemaを拝借し、オペラ「魔笛」の序曲を作曲したのでした。

この引用については、『Mozartが、Clementiの事を嘲り、皮肉った・・のだ』という穿った見方もありますが、何れにせよ、Mozartに取っては、忘れられない曲であった事には、変わりはありません。


・・という事で、
「Clementiは、惨敗して、逃げ帰った」という風に一般的な伝記には書かれていて、それが今の社会通念になっているようですが、(勿論、これはMozart側の伝記としての話、なのですがね。)、しかし、この話は、かなり眉唾で、勿論、後世のMozart讃美をする人達の創作とも言えますが、それだけではなく、25歳になって、父親の元を離れて、遠くWienの地で一人立をしようとしているMozart自身のヤッカミもあって、Clementiに対しては、かなりの悪意のある評価をしています。
そのヤッカミが、実際のClementiの人柄とは違って、かなり歪曲されて、後世に伝えられているようです。

競演の時を振り返って見ると、『Clementi自身のMozartの演奏への感想』は、素直にMozartの才能を認めて、
「私は、あのときまであれほど魂のこもった優美な演奏を聴いたことがなかった」と、述べています。

それに対して、Mozartの感想は、父親への手紙に書かれていますが、
「Clementiは、素晴らしいチェンバロ弾きだが、単なるいかさま師で、趣味や感情のひとかけらも持っていません。要するに彼は単なる機械的演奏家なのです。」と手厳しく批判しています。
Mozarts Briefe  An den Vater  Wien、den 16.Januar 1782

Mozartは、この父親への手紙に対してだけではなく、生涯に渡ってClementiの事を意識していたようで、この競演は、一般的い言われているように、『Mozartの圧勝』・・という事ではなく、実際には、Mozartの心にTraumaとなって、その心を深く酷く傷つけてしまったようです。


また、「こんにち、多くの他の作曲家に対しても、同様の勘違いがなされているのですが」・・・客観的に時代背景を見ると、Clementiが生きていた時代には、BeethovenとHaydnを除けば、当時の音楽界に於いては、Clementiは、とても高い演奏家としての地位と評価を受けていて、その年にポッと出て来たばかりの、若い無名のMozartとは比較にはならない程の、知名度が合ったのですよ。

と言う事で、現実的には、Salzburgの小さな田舎の町で、天狗になっていたMozartに取っては、人生初めての挫折と言えるのかも知れません。
それまでのSalzburgでの生活は、全て父親が仕切って来たのだから、Mozartにとっては、初めての父親からの自立であり、自分自身への独立を意味したのだからね??

また、同様に、Beethovenも、PianoのSonate等の作品の様式に関しては、Mozartの作品よりも、Clementiの作品の方を高く評価していました。
実際に、Beethovenは、Clementiから多くの影響を受けて、その作曲の様式を、彼の作品に応用しています。

Beethovenの弟子で、優れたPianotrio等の作品を多数作曲したHummelも、その作曲の様式は、明らかにMozartの様式とは違って、表現の幅や多様性はClementiやBeethovenの様式の延長線上での作曲であります。

また、Clementiは、作曲以外の領域、例えば、Pianoの音楽の教育にも、とても勝れた業績を残していて、その最大の練習曲集であるGradus ad Parnassumは、 100曲にのぼる超絶な技術的技工的な練習曲集であり、現在でもその全曲がEdizioni Curiciから出版されています。

 Vladimir Samoilovich Horowitz(ホロヴィッツ)の名演で知られる『Piano・Sonateヘ短調 Op.13-6』という作品でも、Beethovenが評価する要素は、充分にあります。
しかし、演奏そのものは、現代的な演奏法であり、Clementiらしさが見えるものとしては、重すぎるように思われます。『Piano・Sonate f moll Op.13Nr.6』Cembalo-version

古い時代の演奏としては、Arturo Benedetti Michelangeli(ミケランジェリ)の演奏する Muzio Clementiの Sonata in B flat Op. 12 No. 1 ClementiのSonate(You Tubeへlinkします。)の方が、音楽的にもClementiの様式に近いと思います。
但し、未だperiod奏法とは言えないのですが・・・?


日本版では、後年のピアニストであるタウジッヒが技巧的な29曲を選曲・校訂をした、所謂、Tausig版が出版されていますが、
「一般的には、Tausig版は、original版の技巧的で有益な曲のみをselectした」・・と、言われているのですが、実際には、より複音楽的な高度な演奏技術を必要とする曲を意識的に省いて、melodie中心の、ロマン派の様式に合った曲だけをselectした・・と、思われるので、original版を研究して、勝れた作品を独自にpickupする事を、私はお薦めします。

ちなみに、「Gradus ad Parnassum」とは、パルナッソス山への階段という意味のラテン語です。
パルナッソス山は芸術や学問の聖地とされ、「グラドゥス・アド・パルナッスム」という題は芸術の教則本などのTitleによく用いられました。
また、教則本のみならず、多くの作曲家達が自分の曲にこのTitleを付けています。

ヨハン・ヨーゼフ・フックス対位法教本(1725)。
対位法教本の古典的な存在で、Beethoven達もこの教本で学んだ事でも知られています。(右側の本)








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Lebenslauf(生涯)

1752年1月23日にローマのダマ-ソのサン・ロレンツォ教区で生まれ、Mutius Philippus Vicentius Franciscus Xaverius Clementiと命名された。
銀細工師の父Nicolo(ニコロ)と彼の二番目の妻であるMagdalena(マグダレーナ)との間の7人兄弟姉妹の長男として生まれた。
Clementiの音楽教育は早くから始められた。

父ニコロは、息子に最善の音楽教育を受けさせようと努め、1758年( 6歳)(後の時代にサン・ピエトロ大聖堂の主席作曲家になる)ブローニに、ソルフェージュ、通奏低音などのレッスンに通わせている。
1759年( 7歳)になると、コルディっチェリというオルガニストの下で通奏低音を学んだ。
1761年( 9歳)の時には、ローマで試験に合格してオルガニストの地位を得た。
1764年(12歳)の時には、4声のミサ曲を作曲、演奏された。

Clementiは、弱冠13歳(14歳の誕生日の前に)で、サン・ロレンツォ聖堂のオルガニストの地位を得た。

1766年暮から1767年初頃、London市長を務めたイギリスの貴族であるピーター・ベックフォード(1740〜1811)の目に留まり、 Beckfordの甥に引き取られイギリスの田舎ドーセット(Dorset)に渡るが、彼は特別な教師の指導を受ける機会を与えられず、やむなく楽器の練習や勉強に自分で計画を立てて、厳しく自分にその実行を課していたようである。「Clementiを購入した!」と言われる話があるのですが、それは、日本的に言うと、年季奉公のようなもので、それこそ、貴族の家の広告塔として、雇われたのでしょう??お金は父親に入ったと思われますがね??そのころのLondon(London)では、J.C.Bach(ヨハン・クリスティアン・バッハ)が活躍していたため、Clementiはさほど注目されていなかったと考えられているが、1779年(27歳)の春には、(Clavier-SonateOp. 2)が人気を博し、その後の演奏会の出演回数も増加している。また、同年には、王立劇場で指揮者に就任して、春に出版した作品2のソナタは大変大きな反響を呼んだ。と言う事で、次第にharpsichord奏者として名を博していった。

1780年(28歳) - 春、パリへ旅行。宮廷にてマリー・アントワネットの御前で演奏。
1781年(29歳)12月24日、Wienにて神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世に招かれ、ロシアのパーヴェル大公(後のロシア皇帝パーヴェル1世)らをもてなす席で、当時25歳のWolfgang Amadeus Mozartと競演する。
(その後、Mozartは、父への手紙においてClementiを酷評している。)


1782年(30歳)以後は、20年間、殆どLondonに留まり、pianist・指導者・作曲家として名を挙げ、またピアノ製作と出版(傾きかけた出版会社の社長を務め、Beethovenと直接会い、一部の楽譜の出版もこなした。)にも携わった。

1785年(33歳) 2月、母がローマで死亡。
この頃は交響曲も作曲したが、1790年代にはHaydnの登場によって影が薄くなった。


Clementiは、1783年秋にLondonへと戻り、再び、鍵盤楽器奏者として登場している。
しかし、その7年後の1790年5月31日の演奏会への出演が最後となり、soloのpianistとしての活動に終止符をうった。

その理由は不明なままである。

solisteとしての活動は終わったのだが、Clementiは、指揮者として・・や、音楽出版、楽器製造会社の経営者、教育者として活動して、音楽界での活躍の場を広げていった。

楽譜出版事業では、特にBeethoven作品のイギリス版権獲得のために、Clementi自らBeethovenを訪ね、ピアノ協奏曲第5番やピアノ・ソナタOp. 78、Op. 79などの作品を出版している。

1798年(46歳) - この頃から1830年頃までピアノ製作会社(ロングマン&Clementi。後のコラード&コラード)を仲間と共同で設立運営した。
1802年(50歳)から1810年にかけての8年間は、弟子達を連れてのヨーロッパ遍歴をしている。
しかし、本来の目的はピアノの販路拡張であったとされている。

1810年(58歳) この年以後はLondonに定住する。
弟子達からは、多くの著名なpianistを送り出して、Clementiは指導者としての地位も確立し、全欧で名声を高めていった。

1813年1月には、Londonを中心に活躍する音楽家たちと共に「フィルハーモニック協会」を設立し、自作の交響曲ばかりではなく、様々な作品の指揮も務めていた。

1813年(61歳) Londonに在住する音楽家30名がフィルハーモニック協会を設立。
1816年までClementiは常任指揮者を務める(Clementiが指揮者を辞めた1年後、Beethovenの交響曲第9番ニ短調「合唱付き」の契機となる交響曲の委嘱をする)。

しかし、彼の教育者としての名声は、彼が(ピアノ演奏の手引き)Op. 42(1801)や(Gradus ad Parnassum)Op. 44(1817、1819、1826)などいくつかのピアノ教育作品を出版したことで、さらに高まった。

Clementiの教育作品は、Czerny、Chopin、Lisztなどが個人lessonで、パリ音楽院のPiano科でも教材として用いていたことから、彼の作品が、pianist養成の重要な教材となっていたことは明らかである。

1814年(62歳) - スウェーデン王立音楽アカデミーの会員に選出される。
1817年(65歳) - Piano教則本(Gradus ad Parnassum)の第1巻を、以後1819年には第2巻、1826年に第3巻を出版し、今日に残る作品となった。

1832年3月10日(80歳)に、この世を去ったClementiは、同年3月29日にLondonのウェストミンスター寺院に埋葬された。



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forte-pianoと古典派の奏法

紛失したClementiのsonatine Op.36Nr.6のD Durなのですが、初心者向けの練習の仕方やその奏法上の諸注意に関してのlectureも詳しく書いていました。
しかし、よくよく考えて見ると、初心者の向けのsonate albumの練習の仕方や演奏上のpointについての解説書は、無数に出版されているようなので、私が下手なadviceをしなくても、「その必要性はないよな?」と考えるに至りました。

と言う事で、以下の文章は、forte-pianoについて・・と、古典派の奏法、所謂、period奏法についてのお話に変更する事にしました。

netという利点を活かして考えると、音楽の論文なので、解説の箇所にパソコンの音源や、実際の演奏でのcheck-pointの説明をする事が理想的なので、以前は、曲のMotivの解説に1,2分の音源を付けて、clickすると音源が聴けるという解説のPageを作っていたのですが、そうすると、Pageが重くなってnetに送れなくなってしまいました。

兎に角、videoや動画を、homepageに直接、持って来るのは、重たくて、不可能に近いので、You Tubeに一度upしておいてそのPageにlinkを貼るという手段も講じて見たのですが、逆に、いちいち他のPageに出てしまう・・・という事が、とても面倒くさくなってしまい、現実的ではありませんでした。
(homepageには、ではなく、You Tubeに直接、「period奏法による、古典派のViolin奏法」という解説のPageをupしていたのですが、いつの間にか、消滅してしまっていました。)

と言う理由で、折角のnetのPageなのですが、音源も無しになっています。




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ほんぶん


forte-pianoのtouchについて

baroque時代からのCembalo奏法から、古典派の時代のforte-pianoの奏法に掛けても、基本的には、鍵盤楽器のarticulationは、弦楽器の奏法と全く同じでした。
CembaloやOrganは弦楽器と違って、強弱もvibratoも出来ませんでした。それをornamentやbowslur等のarticulationで表現しました。
現代では、装飾音の本来の意味が失われて、見せかけの感性の装飾音が使われているようなのですが、本来のarticulationを表現するornamentだけでも、充分なのですよ。

single actionのforte-pianoは、端境期の楽器なので、完成形という楽器がありません。
ですから、非常に困った事に、マンハイム楽派やHaydn等のforte-pianoと、BeethovenやChopin等が使用したforte-pianoでは、同じsingle actionであっても、音や表現力が全く違います。
教室でforte-pianoの制作をorderしようと思った時に、一番困った事は、「forte-pianoの音を、どの時代のforte-pianoの音にするか?」という事でした。Beethovenに近い時代のforte-pianoの音は現代のPianoの音に近く、古い初期時代のforte-pianoは寧ろCembaloの音に近いようです。勿論、それは、Hammerに被せられた布の材質やHammerの形状によるので、時代のforte-pianoを決めると、他のforte-pianoに対しての代用が出来ないのです。

また、forte-pianoのtouchは非常に鍵盤の沈みが浅く、鍵盤に軽く触れただけで、撥弦してしまいます。
私がPianoを弾いていて、チョッと横を向いただけで、音が変わってしまうのだから、くしゃみ等をしたら、大変です。
本当に繊細なtouchを要求されてしまいます。

多くのforte-pianoが復刻されるようになってきて、自称、forte-piano奏者という人達が数多く見受けられるようになって来ました。
それはとても喜ぶべき事なのですが、多くのforte-pianoの演奏者が、MozartやClementi等の曲を演奏してCD等に録音しているのは良いとしてもの、困った事に、一様に、forte-piano独自のsingle actionのtouchではなくて、double actionの底の深い力強いtouchで弾いているので、forte-pianoの音が割れて歪んでしまって、キンキンとしたhystericな音になってしまっていて、聞くに堪えない音で演奏しているのですよ。

・・・と言う事で、本当のforte-pianoの音で演奏をしている人のCDが欲しい・・という事で、日本でforte-pianoの研究をしている若い女の先生の所に行って、「割れない音で弾いているforte-pianoのCDはないのか?」と質問したら、即答で「一人もいません?」という答えが返って来てしまいました。

その後も、時折、懲りないで、You Tube等で、forte-pianoの奏者の演奏を聴いているのですが、interpretationは、随分良くなって来たので、それは良しとしての、その演奏でのforte-pianoの音は堪えられないものがあり、未だに一人として、forte-pianoの音を出せる演奏家に巡り合う事はありません。

single actionにはsingle actionのためのtouchが必要なので、子供の時から、double actionで練習を積んで来たproの人達がforte-pianoのtouchが出来ないのは、或る意味、当たり前なのかも知れませんよね??

でも、自称でもforte-pianoの奏者を名乗るのならば、double actionのtouchは忘れ去って欲しいものです。
forte-pianoでHaydnを弾くtouchで、その後、すぐに、RakhmaninovのPiano-concertoを弾くのは無理な話ですよ。 

ChopinはPleyelのforte-pianoを生涯弾いていましたが、そのforte-pianoを見学に訪れた人達が自由に弾く事が出来て、You Tubeでその演奏がupされています。
殆どの人達(pro、amateurを問わず)の演奏がforte-pianoの音を引き出せないままに、歪んだ音でキンキンとした音で演奏しているのですが、極稀に、・・・・というか10人に一人ぐらいの割合で、とても美しい音で演奏するamateurの人達がいるのは驚きです。
Chopin好きのamateurなので、演奏が音から入って来るのですよ。
そうすると、PleyelのPianoがちゃんと答えてChopinが好んだ・・と思われる音を出すのだから、驚きです。


音楽のimageからすると、古典派の最後の作曲家であるBeethovenは、double actionのmodernなPianoで演奏したように思えるのですが、それはBeethoven自身が手紙の中で、全否定をしています。
それはBeethovenの元に持ち込まれたPianoの、未だ未完成のdouble actionの性能が非常に悪く、演奏が難しかったからです。(つまり、Beethovenが生きていた頃迄は、未だ、modernーactionのPianoは完成していなかったからなのです。)



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遠音の利く音
私が日本に帰国して間もない頃の事ですが、小さな子供を育てる機会がありました。と言う事で、当時は日本では、未だ誰も弾いていなかった、Mozart弾きとして、所謂、Mozart-touchに近い音として、leggieroのfinger-staccatoを、私の元で、初めてPianoを学ぶ子供に、最初からfinger-staccatoの奏法を、徹底的に指導した事があります。
勿論、「Mozart弾き」として育てるためです。

leggiero-touchなので、非常に早いeinschlag(打鍵の速度)で、手首を柔軟にして柔らかく弾く指先のstaccatoです。
指先や手首に力が入る事は絶対にありません。速度だけのtouchなのです。

2,3年経つと、その生徒はとても美しいキラキラとした輝くような音で、色々な曲を弾けるようになったので、多くのフアンの人達を持った半面、一般の評価は芳しくありませんでした。
「音は綺麗なのだけど、音量が弱い!」というのが、一般的な音楽のproの人達の意見でした。

或る時に、仕事として、日比谷の公会堂で、proのpianistと音大生と、私の生徒の音量のcheckを、音響の機材を持ち込んで測りました。
その結果のお話なのですが、proのpianistと音大生の弾く音は、会場の丁度、真ん中の辺りで、急激に音量が落ちていったのですが、小学生である彼女の演奏する音は、舞台の傍から、Hallの一番後ろの席まで、全く音量の変化がなかったのですよ。

また、別の会場でのお話ですが、彼女がPiano-soloでオケと合わせた時にも、彼女の弾くpianissimoの音のpassageでも、orchestraの響きから浮き上がって明瞭に聴こえて来ました。

一見すると、美しいキラキラとした輝くような、その半面、かぼそく聴こえてしまう彼女のPianoの音なのですが、実際にはproのpianistが弾く音よりも、orchestraの音よりも、遥かに強い音だったのですよ。
こういう音の事を私達は『遠音の利く音』と呼んでいます。

キラキラとしたMozart-touchの音は『か細い音』ではなく、しっかりとした芯のある強い『遠音の利く音』だったのですよ。

長々とこのお話をしたのは、つまり、forte-pianoのtouchは、こういう完全に脱力をした、指先の速度だけで弾くtouchなのです。
彼女が学んでいたMozart-touchは、つまり、forte-pianoのtouchでもあったのですよ。

本当ならば、世界で初めての『forte-piano弾き』になれたのかも知れませんが、彼女が中学生になる時に、頑強な父親の反対にあって、「Pianoのために、両親が離婚をするのならば、私はPianoをやめる?」と宣言して、彼女はPianoをやめてしまいました。

それ以降は、私は、誰一人として、Mozart-touchの生徒は育ててはいません。きっと、Traumaになってしまったのかな??
唯一、無二の『Mozart弾きの女の子』のお話でした。


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baroque時代から古典派の時代の楽器的な特性と作曲法
baroque時代や古典派の時代では、楽器、特にCembaloやforte-piano等の楽器は、極々限られた貴族階級の人達の所有物でした。Mozartが好んでいたWalterのforte-pianoが余りにも高価過ぎるので、生涯買う事が出来なかった・・という事は有名なお話です。
時代が下って、Schubert等も自分のPianoを手に入れる事が出来たのは、随分後の事です。
Beethovenは、楽器の試演者として、楽器の批評を聴くためと、あわよくば、その楽器をBeethovenが弾いて作曲をしてくれれば、それで、宣伝になると言う事から、楽器製作者の方から、最先端のforte-pianoが、Beethovenが望むと望まざるとに関わらず、届けられて来たのです。今のathlete達のように、無名の間は、シューズ一つ買うのに、お金をアルバイト等で工面をするのだけど、一旦、金メダルを取ると、スポンサーになりたい??と言う業者が殺到する・・・という感じ・・かな??
(つまり、Mozartは生涯、貧しかった・・という事は、差程は、有名ではなかった・・という事なのですよ??こんにちの評価で考えてはいけないのですよ??)
baroque時代の、一番orthodoxなtrio・Sonateの形式でも、楽器は任意の楽器と指定されているのです。
つまり、Violinでも良いし、traversoでも良いし、それこそ、弾ければrecorderでも良かったのです。通奏低音のCelloも、当然gambaでも良かったし、無しでGuitarやLauteでも良かったのです。

HaydnのPiano-Sonateは、そのままorchestraにtransposeする事が出来たし、Piano・trioと言えども、古典派の中期ぐらいまでは、Pianoのpartを弦楽器がなぞって弾くだけでしたからね??

つまり、結論的に言うと、Piano(Cembalo)のarticulation、slurやaccent等は、弦楽器のarticulationと共通だったのです。


譜例は、全音版の標準版のslurやarticulationなのですが、下のoriginal版の譜面のslurやarticulationとは、全く違っていますよね??

つまり、後世の校訂者が、当時のPianoの演奏様式に合わせて、slurをbowslurから、melodieのslurに直し、細かいarticulationを書き加えたのです。

ですから、これを底本にしても、古典派の時代の奏法にはなりません。

非常に喜ばしい事に、近頃は、同じ
全音版なのですが、今井顕先生の手によって、初版および初期楽譜に基づく校訂版という版がsonatine albumとsonate albumが出版されていますので、originalの楽譜ではどのようなarticulationになっていたのかを如実に知る事が出来て、音楽を専科とする生徒達には、その版を推奨しています。

まあ、初心者に対しては、今でも、標準版を買わせていますがね。
それはやむを得ない事ですよね??

譜例はoriginal版


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弦楽器の奏法(Alberti-bass)
Alberti-Basとは、Italiaの作曲家であるAlbertiが、弦楽器の奏法を鍵盤楽器でも弾き易いように、簡略化した奏法の事です。
Alberti以降は、世界中の作曲家達がその手法を応用する事になりました。

以下、Alberti-Basの説明です。
譜例は、Clementiのsonatine albumのOp.36Nr.4のF Durです。
もし、この曲が弦楽器のために書かれていたとすれば、左手のoctaveの動きは、同音の繰り返しの音になります。
これが弦楽器としては一番簡単な動きだからです。





しかし、この楽譜を、そのままCembaloやPiano等の鍵盤楽器で弾こうとすると、単音の導音連打を演奏するのは、鍵盤楽器では、結構、難しいですよね。

と言う事で、Albertiさんはこのpassageを次のように、鍵盤楽器ように、翻訳したのです。



それがsonatine albumに書かれているような譜面になるのですよ。

これで、単音の導音連打がoctaveに振り分けられて、とても簡単に演奏する事が出来るようになりましたよね?


Alberti先生の変更は、この導音連打に限った話しではありません。実は、今一番多く使用されているド⇒ソ⇒ミ⇒ソと言う左手の進行(この6番の左手の和音では、レ⇒ラ⇒ファ#⇒ラになっていますが、初歩の初歩であるBeyer教則本から出て来る音符の動き(pattern)ですよね??

冒頭のauftaktのarticulationの違いを説明するために、finaleに新しく入力をして、それを保存するために、finaleのfolderを開いて、sonatine albumから第6番のPageを開いたら、昔、作っていた譜例が保存されていたのだよ??
超、Shockだ??
また、無駄な努力をしていたのだよ?  ひぇ〜〜ぇ??

今日の作業はもうやめた??
(2019年8月8日)





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古典派の奏法(auftaktのarticulation)

さて、今日は9日(長崎の原爆投下の日)です。

気を取り直して、作業を進める事にします。

古典派のPiano Sonateでは16分音符4個のauftaktから始まる曲が多いのですが、私が音楽の勉強を始めたばかりの高校生の頃には、MozartのK.333のB♭のT楽章のauftaktの入りのarticulationが、版によって色々とある事に気がついて、 『何故だろう?』と疑問に感じていました。
音楽大学の時代にも、それは単なる校訂者のGeschmacksache(好み)としか思っていませんでした。
勿論、未だperiodなんて言葉もなかったしね??
このMozartのPiano Sonateの冒頭のauftaktのarticulationは、次のようなslurが考えられるのだが、今現在は、pianisticと言う観点から、譜例:@のslurのように弾かれる事の方が一番多いようですよね?




この曲の冒頭の音は、トルコ行進曲の冒頭と同じように、頭の音が倚音になるので、appoggiaturaで書かれています。

その倚音を意識してarticulationを付けた例が、A以降の例になって、冒頭の音に倚音を表すためのslurが付きます。

但し、その場合、CとDとEは、弦楽器とした場合には、弓順が逆になってしまうので、それを修正して弓順を合わせたのが、譜例:AとBの譜例になります。
古典派の時代的には、音の立ち上がり、音の粒粒をとても大切にしたので、(forte-pianoという楽器の構造上、粒粒を正確に出すと言う事はとても難しかったので、)leggiero奏法、所謂、Mozart奏法とも呼ばれる、fingerstaccatoの奏法が中心だったので、period奏法的には、Bの奏法が歴史的には一番Mozart時代の奏法に近いと思われます。
また、多くの出版されている楽譜がそのようにarticulationを付けています。

MozartのTurkish MarchやClementiの6番のsonatineの冒頭のauftaktは、本来的には4分音符のturn(∽)です。
ですから、左の譜面のように書き表す事も出来ます。


しかし、そうなると、シ⇒ラ⇒ソ#⇒ラはturnになってしまいますので、冒頭の倚音説は成り立たなくなってしまいます。
そうすると、音楽理論的には、@の方が正解になってしまうのですよ。
いや〜あ、困った事です。
interpretationというのは、解釈次第で、チョコチョコ変わって、それぞれを「自分の主張が正しい!」という人が出て来るのですからね??

・・で、私は「どう思うか?」って・・・??
私はどっちでも良いのですよ。
themaのMotivのarticulationを設定したら、それ以降はcomputerのように正確に統一して、演奏してくれれば問題はないのですよ。アハッ!




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弦楽器のWien奏法を表す前打音(acciaccatura)

次のpassageは2小節目のacciaccaturaとsforzando、pの奏法についてです。

弦楽器ではこの奏法はもっとも誤解されて演奏されている奏法で、多くのperiod奏者達でさえ、この奏法を正しく表現出来ていません。

その理由の最たるものは、baroque-bowへの正しい認識です。
そもそも、Violinの奏法が根本的に変わってしまうのは、Francois Xavier Tourte がGiovanni Battista Viottiの依頼を受けて、丁度、音楽が貴族階級のものから、petitブルの大衆の音楽に変わろうとする時に、広い会場に対応出来るように、音量が小さいbaroque-Violinやbaroqueのbowから、強い音を出すbowの制作を依頼された事にあります。

勿論、それはTourteがなし得たbowへの改良だけではなく、synchronicity気味に色々な楽器の分野であるViolin本体の改良等、弦楽器の改良に伴わず、forte-pianoからmodernのPianoへの改良! 等々・・・つまり、弱い繊細な音を出すforte-pianoのsingle actionから、より強い音量を出す事の出来るdouble actionへのactionへの変更、色々な楽器に対しての音量の変更だけではなく、その音量の変化に伴う演奏をするための奏法自体も、変わって行きました。

TourteがVottiと自ら制作した弓を広めるためにヨーロッパ各地を行脚した、1790年代から1800年の時代に掛けては、そのようなbaroqueから古典派の時代の音楽様式からの全く様式の変わる、次のロマン派の時代への、大きな芸術の変革改変がなされた時代でもあります。

つまり、古典派迄の、演奏様式は、それ以降のロマン派時代からの演奏様式とは、根本的に音楽の表現やstyleそのものが違っていたのです。

つまり、このsforzandoの演奏法を理解するには、baroque-bow(勿論、古典派時代も古典派bowとは言わないでbaroque-bowと言っています。つまり、Tourteのbowが普及するまでの時代のbowは常にbaroque-bowなのですよ。)特有のbowの使い方や、bow自体の表現力の限界を知った上での演奏法の解釈をしなければならないのです。

このacciaccatura(前打音)は、次の付点4分音符のaccentを表現するための装飾音なのですが、現代の多くの演奏家達がBeethovenやその他の古典派時代の作曲家達の曲のsforzandoで弾いているような、所謂、clip-accentは、Tourteのbowでしか出来ないmodernな奏法なのです。
Beethovenのc mollのQuartett等でも、歴史的に有名なQuartettがclip-accentを多用して演奏していますし、periodの演奏団体として人気のある現代のperiodの演奏団体も、強いeccentricなclip-accentを常用しているのですが、それは当時のgut stringやbowの耐久性から考えると不可能な事にしか見えません。あるはずがないのですよ。

clip-accentはTourteの時代以降からの音楽表現に於いては可能ですが、古典派迄の音楽表現には無理があります。

つまり、よくWien奏法として知られている奏法は、clipの代わりに、弓速のみでaccentを表現するbaroque-古典の奏法が、現代に伝わったものなのです。
clipを伴わないで、瞬間的に弓速を上げる事によって、accentを表現します。
しかし、現代の人達は、その演奏に、どうしても、clipや弓を押し込む・・というmodernな弾き方を混成させてしまいます。
柔らかな上品なaccentというのが、理解出来なくなってしまっているのですよ。困ったものだ??

Pianoでその奏法を表現する時には、指先だけの軽い素早いaccentで表現します。 
『際立たせのaccent』という言い方をする時もあります。

右側の譜例は、Czerny30番のEtudeの第22番の一節です。
この速い速度でのstaccatoは、fingerstaccatoで、軽く音を際立たせる・・という意味で、figurationの中で、音が軽く立ち上がって演奏されます。弦楽器の場合には、叩き、引っ掻きというleggieroの奏法になります。

曲のtempoが少しゆっくり目で、pedalを使用出来る可能性があって、手首を抜くだけの「時間的なゆとり」が有る時には、accentの素早い力を更に、腕と手首からの『抜き』で和らげて、『Chopin時代のportato奏法』をさせる事もあります。

優しく美しく際立てば、このsforzandoの意味は成します。
forte-pianoで表現されたWien奏法と言う事が出来ます。




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時代考証の伴わない一般にまかり通った誤ったaccent

BeethovenのQuartett等では兎も角としても、Mozartの優美な曲にまで使用されるTourte−bow特有のclip-accentは、非常に衝撃的な音で、古典派の音楽を聴く時に、私達の耳を困らせてしまいます。

Beethovenの時代区分迄は、未だaccentはWien奏法のaccentを用いるべきなのですが、それ以降の時代のclip-accentを普通に使用して古典派の曲を演奏する事は、時代考証的に間違えています。
確かに、同じbaroque-bowであったとしても、Tartini-bow(と、呼ばれる弓)であったとしたら、clip-accentは可能かも知れませんが、未だ、Beethovenの時代迄は、Tartini-bowですら、一般的ではなかったので、それ(clip-accent)をBeethovenが期待していたとは思い難いのです。
つまり、古典派の時代様式としては、sforzandoは、軽やかなWien-accentで演奏すべきなのです。
と言う事で、先程の譜例のお話に戻るのですが、このaccentは、強いsforzandoで演奏するのではなく、軽い強拍を意味するだけの、強さで充分なのです。




当然の事ですが、前打音の音は拍頭に合わせて弾きます。

前打音の音を拍の前に出して弾くのは、Beethoven以降の演奏法です。
それは、強勢が前打音に来るからなのですが、殆どの演奏者の場合には、古典派と言う事で、前打音を拍頭に合わせて弾いた・・としても、accentの位置は、長いsyncopationの音に付けてしまいます。
それでは、古典派の前打音の奏法にはなりません。
丸を付けた前打音の音を強めに弾いて、上の音は抜き気味に優しく演奏します。

日本人の場合には、全ての音楽家達が、古典派の前打音の演奏が出来ないのですが、不思議な事に、MozartのDivertimentoのD Durの冒頭の丸の部分の前打音だけは、古式豊かに正しく演奏しています。
(とは言っても、この曲だけなのですよ?? この曲だけ何故出来るのか、不思議だ???)

日本人の七不思議なのかな??


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弦楽器のaccentを






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