Chopin nocturne 遺作 嬰ハ短調

私が中学生あった頃に買った、全音版のChopinのnocturne集には、この曲は入っていませんでした。
というか、その後、音楽大学の学生になった頃も、春秋社版や音楽の友社版にも、或いはコルトー版やパデレフスキー版のnocturne集にも、この曲は入っていませんでした。
という事で、銀座のヤマハでインターナショナル音楽出版社のピース版を取り寄せて勉強しました。

インターネットの解説を読むと、「この曲の代表的な版として、パデレフスキー版、エキエル版、コルトー版、ミクリ版」となっているのですが、不思議な事に私の持っているパデレフスキー版やコルトー版には、全てこの曲は収められていません。
つまり、別冊に収納されているのだそうです。

今の全音版には20番、嬰ハ短調ではなく、21番 ハ短調迄、載っているいるようですが。
ちなみに、エキエル版は日本版ではウィーン原典版として出版されているそうです。

問題は、それぞれの版で、細かい音やarticulation等が違ったり、色々と困る事が沢山あります。

例えばですが、この曲の8小節目の左手の1拍目と3拍目の音はfisの音になっていますが、全音版やインターナショナル版はdisの音になっています。
そういった細かい違いが、色々な版を比較検討すると、いっぱい見つかります。

通常、人は一般的には、自分が最初に聞いた版と同じ音を好む傾向があります。
私の場合には、そういった傾向はありません。

私が「これは正しい。」とか、「この音でなければならない。」なんて事を言っている場合は、論理的な必然性がある場合のみです。

つまり、8小節目の音がfisであろうと、disであろうと、それは趣味の問題で、論理的な理由はありません。
なので、私の場合には生徒がどの版を使用しようと、どの音で演奏しようと、Das ist Geschmackssache!(それは、好みの問題だ。)です。

という事で、この細かい音の違いを「あ〜でもない!こ〜でもない!」と、追求しているホームページもありますので、そちらの方を探して研究してみてください。私は、あまり興味はないので・・・。



まず、一番大切な事と言うか、基本的に知っておかなければならない事は、Chopinはこの曲をnocturne(ノクターン夜想曲)とは書いていない、という事であります。
この曲の作曲は1830年、初版は1875年に出版さました。
つまり、Chopinの死後26年目に出版された分けです。
私が見た、ある人のホームページには、Chopinが姉のルドヴィカが
ChopinのPianoconcertoの2番を練習するために、この曲を作ったと書かれていましたが、その考え方には私は賛成は出来かねます。
virtuosityの非常に高いPianoconcertoに対しての予備練習曲としては、この曲はあまりにも、簡単過ぎて練習にはならないだろうし、スピンオフの曲としては、余りにも小規模過ぎるからです。

初版の表題は「adagio」、今の表題は姉のルドゥヴィカがChopinの未出版作品のカタログを作った時に「夜想曲風のレント」と記した為だそうです。
速度標語をそのままとって「Lento con gran espressione」と言うのもありますね。

いづれにしても、この曲は映画「戦場のピアニスト」で一躍有名になりました。

私がこの曲をホームページに掲載した理由は、そういった細かい音の違いについて、のお話ではなくって、中間部についての問題です。

一般的には、殆どのピアニストがこの中間部を省略して演奏しています。

それとも、最初から無かったものとして、演奏するためにか??、もの凄いスピードで、このpassageを弾きまくる人もいます。

実は、この中間部のoriginalのPageにはtempo a la Mazurkaという指定があるのです。

だから、そういう演奏に出会うと、ついつい 「それはMazurkaじゃ、ないよ。」と叫びたくなります。
「うわ〜お〜!」 Scream!








Chopinの中間部のoriginalの譜面です。
参考までに:


ChopinのPianoのversionでの演奏で、この画面通りに演奏している人は少ないようです。中間部としては、少し弱いからです。
10代のChopinの拙い作曲なので、中間部が弱いので・・という解釈が殆どなのです。

しかし、Chopinの伝記を垣間見ると、10代の頃のChopinは、友人達の家でよく即興演奏をしている事があって、10代の若者であったにも関わらず、即興演奏の名手としても、知られていたようです。
即興演奏の場合には、私達もよく覚書として、line(道筋)を残す事があります。そう思って、そのlineに従って、Mazurkaのpassageを弾くと、この中間部は、別のimageが出来上がります。
参考までに:
私の演奏した時の即興演奏になります。
Beethovenのように即興で帰り道が見つからなくならないように、Chopinの書いているlineに従って、右手のpartをMazurkaで即興したversionになります。
つまり、左手はChopinのそのまま、なのです。


紗來ちゃんはViolin専攻の生徒です。
You Tubeより
2018年8月31日、芦塚音楽研究所千葉音楽教室、夏合宿の最終日のおさらい会での風景です。
場所は、千葉市花見川区花園自治会館、曲はChopinのnocturne遺作 嬰ハ短調、演奏は古川紗來(小6)12歳です。

以前、八千代の演奏会でもこの曲nocturneのepisodeを入れた演奏で公開演奏した事がありますが、Chopinのoriginalの作品に手を加えた・・という事で、結構な酷評を頂いた事があり、その後は、公開の演奏はされていませんでした。
しかし、このepisodeの変更は、Chopinの書いた作曲に対しての変更ではなく、Chopinならば、どう演奏したのか・・・というhommageなのです。
以前も同じ説明をしたのですが、今回も同じく解説をします。

ヨーロッパの一流の演奏家達は即興の名手である事が多いのです。
勿論、作曲家は当然の事です。
特にChopinも、学生時代から即興の演奏では知られていました。
・・という事で、特に民族系の音楽では、当日の演奏するsalonの雰囲気で即興で演奏する事が多かったのですが、そういった技術は日本やamericaには入って来ませんでした。(ヨーロッパのClassicの演奏家は、現代でも即興演奏に秀でた人達をよく見かけます。但し、即興演奏は演奏会場でしか耳に出来る事はありませんので、recording等やYou Tube等で、実際に目にする機会は稀です。)
即興演奏は、「soloの場合にしか無い」と思われがちなのですが、実際の即興演奏の場合には、ensembleで即興をする事も良くあります。
特に人と合わせる場合には、Classicの場合でも、丁度、現代のmodern‐jazzのように、chordを書いて、即興でも誤った和音を演奏しないように、suggestを書く事がありました。
Chopinのこのnocturneの曲の中間部には、単調なpassageが延々と続くpassageがあり、とても不自然に思えるのですが、一般的にはそのpassageを、作曲家の若さの故の未熟さとして、楽譜のままに演奏しているのですが、そのsuggestはChopinが会場での即興演奏のためのsuggestとして書いたものだ・・と思われます。
こういった即興の技術は、特に日本の音楽界では、Classicを専門的に勉強をする人達は、音楽の演奏で即興を学ぶ事はないし、そのチャンスもありません。
しかし、baroqueや古典派の音楽を演奏するとしたら、即興をしなければならないpassageは数多く見受けられるのですが、日本人の場合には、予め誰かの手で書かれていて出版されている楽譜を使用して演奏をする事しかありませんので、全く即興・・という概念すらありません。それは、Cembalo等の即興が主な演奏技術を必要とする楽器を学ぶ上でのneckとなっているのです。日本ではCembaloを学んでも、即興は勿論、episodeの奏法やornamentを付ける技術すら学ぶ事はありません。
そういった歴史的な史実を無視して、Chopinの即興に対してのsuggestとして書かれたpassageを、若さ、未成熟さの現れとして、作品の不完全な曲として、片付けてしまっているのです。
しかし、Chopinが実際にsalonで演奏する時には、彼自身がsuggestとして書いた、そのobbligatoを手掛かりに華やかな即興演奏を繰り広げたはずです。
しかし、校訂者が、Chopinに成り代わって、そこまでarrangeしてしまうと、Chopinの作品では無くなってしまうので、当時のsalonの雰囲気を醸し出す程度に、必要最低限の即興だけをChopin自身のsuggestに従って、芦塚先生が付け加えました。
また、演奏と音楽には直接的には、関係がないので、詳しくは説明しませんが、動画にも幾つかの手を加えています。演奏の紗來ちゃんの左手のrhythmが、不規則なのは、こういった歌を自由に歌うための、独特のtechnikです。rhythm通りに弾く事は簡単なのですが、不規則なbeatで伴奏するのは結構難しいtechnikなのです。




一般的には、Piano以外の楽器で演奏する場合には、伴奏のpart等も、アレンジされるので、特にMazurkaの部分は、soloの楽器の楽器的な特性を活かして、kadenzとして、扱われることの方が多いようです。
その方が、譜面通りに演奏するよりも、より音楽的で良い場合が多いようです。

曲的に言えば、「その方が様になる。」とでも言ったら、多分、怒り出す人がいるのかな??

Schirmer出版のNathan Milstein版の中間部を見てみましょう。
この場合にはViolinのpartのkadenzとして作曲されているので、既にChopinの意図であるMazurkaは、ありません。
Chopinの制作意図を離れて自由な創作になります。
結構、Violinでは有名なversionなのですがね〜? 
但し、Chopinはどう思うのかな??

譜例:






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