「えこひいきについての勘違い」の話は、何度となくHPの「芦塚先生のお部屋」のなかの論文に、触れられている。

それこそ、教室を創設した当初から繰り返されている話である。
しかし、その同じ話が何度も繰り返し語られるのは、教育上で最も大きな足枷となっている事案であるからである。

親の自分の子供に対しての溺愛は、子供の正常な発育のネックになって子供の健やかな成長を阻害するからである。

しかも、また多くの親はこの自分の溺愛を子供に対する正しい親の愛情と勘違いをしているからである。

自分の溺愛を、愛情と取り違えている親に対して、正論を話しても通じない。

信じる人には、信じる事が、全てなのだから・・。

つまり、この論文は、教室で子供を持つ親を対象にするには、意味のない無駄な空論的な論文に過ぎない。この論文の意図が伝わることはないのだから・・・。

・・・という、前提を置いた上でのお話である。

 

そういった親が引き合いに出す「えこひいき」の例はそれこそ無数にあるのだが、それを分かり易く説明するために、数多い多種多様な例の中で、曲決めに関するものと、芦塚先生のレッスンに関する例を、サンプルとして、一つ、二つあげる事にする。

その一つの例としては、教室の発表会のオーケストラのソロの話と芦塚先生のone lessonの話である。
「Aちゃんは、オケソロをさせてもらっている。私の子は、オケバックだけだ。」とか、「Bちゃんは、芦塚先生から、何回もレッスンを受けているのに、私の娘は1回しかレッスンを見てくれない。」というような話をよく小耳に挟むことがある。

その結果、「芦塚先生は、えこひいきだ。」とか、「教室の先生は、えこひいきをする。」とか、親の愚痴は限りなく、発展して行く。

 

しかし、この親の話は、とんでもない勘違いである。
一般的な発想で、「私の子供はオーケストラでソロをさせてもらえないので、めげている。」と、親は思っていて、子供も親に対して、そのように言ったりする事もあるのだが、子供はもっと醒めた目で現実を見ている。つまり、子供も目では、「オケ・ソロになると、練習もいっぱいしなければならないし、自分の遊ぶ時間も減らさなければならない。何よりも、皆との練習で時間を拘束されるし、皆とレベルを合わせるために、水準をキープしなければならない。」と現実的で冷ややかである。

親が子供のために、・・・と思っている事と、子供自身が感じている練習や勉強に対しての感覚は、親の願望による歪曲で、大幅にずれる。

親がえこひいきと思うことが、究極的には子供にとっての平等なのである。

芦塚先生が、オケ・ソロを子供にさせるのを決める時は、オケ・ソロが子供の憧れになっていて、その練習や皆との協調に耐え得ると、確信した時である。
そのために、オケ・バックやアンサンブルで、集団の協調性や皆で音楽を作り上げることの大切さを指導する。

親の中には、「オケ・ソロは発表会の本番さえ上手く弾ければよい。」と考える親もいる。
この話はオケ・室内楽のconceptについての論文に何度も繰り返し書いているのだが、実際には普段の練習は、熱心ではなく、サボリ気味で、本番直前に一機に一生懸命練習して、本番の演奏が幾ら上手に演奏出来たとしても、オーケストラや室内楽としての、出来上がりは最悪になる。オーケストラや室内楽はソリストが普段から一生懸命頑張っているオーケストラは、とても良い出来で仕上がるのだが、ソロの生徒が普段の練習を真面目にしないオーケストラや室内楽は、どんなに上級生と組んでも、上手く行く事はない。「上手い上級生に伴奏してもらえば、うちの子だって、きっとカッコ良くなるのでは?」というのは、親の単なる勘違いである。そういうことは有り得ない。

そこの所を親は理解しない。

ある親が「自分の子供は『その曲を弾きたい。』と言った。」と、言っていた。
でもそれはその子供が、まだ小さな年齢だから、これからの練習の状況を理解できていない、というところから、夢を見ているのに過ぎない。
練習の過程では必ず、過剰負担になり、挫折するのは目に見えているのだ。
正しい夢の与え方は、「その曲を弾きたければ、今度の発表会では、この曲を弾いて、次の発表会では・・・」とカリキュラムを教えて、「それらの曲が弾けるようになったら、その曲が弾けるよ!」と、具体的に教えることである。
勿論、曲のlevelが上がって、技術的に難しくなってきたら、発表会直前だけで練習をこなす、という事は不可能になる。
そのために、毎日、3分でよいから、・・・5分でよいから、決められた時間に決められた宿題をこなすように、日常の躾をしなければならない。そうすると、確実の子供の未来が見えてくる。
しかし、幾ら親の愛情を注ごうとも、その教育がその場だけの感情的な願望によるものであれば、親にその子供の(仮に、半年後という近場の未来の事であったとしても)将来の事が分からない。
半年後という、目に見える将来の事すら分からないのに、ましてや何年も先の受験や大学を卒業した後の将来の生活設計の事が分かる分けがない。

まあ、そんな、将来の事は放ておいて、教室としての近場の話に戻ろう。

 

芦塚音楽研究所の教室としてのオケのcurriculumのconceptとしては、初級、や中級のlevelでは、始めにオケに入った生徒がオケ・ソロをして、その曲をオケ・ソロをした生徒はオケ・バックに回る。(あくまで、上手な生徒がバックに回る[1]という考え方である。)
生徒や父兄が、こういった教室の正規のカリキュラムに乗っている場合には、上記のような問題は起こらないし、起こり得ない。

しかし、オケは申し込み制なので、まだオケでsoloをさせるのが、無理な生徒も、申し込んでくることがままある。
その場合には、教室のカリキュラムである、一番の初心者がオケ・ソロをするという原則は当てはまらなくなる。

先生達が生徒にオケソロをさせるか、させないかは、その生徒の技術と練習量による。

当然の事ながら、子供がオケソロをするためには、そのオケの曲を弾きこなすだけの技術水準と相応の練習量が必要であるからである。それは、教室としての建前ではなく、オケ・ソロをする生徒に対しての配慮なのだよ。

親は、他の生徒と自分の子供を比較する時に、年齢や教室入会からの年数だけを比較し、自分の子供が他の生徒と同等に扱われていない事について、文句を言うのだが、もし、私達が、親の要求をそのまま聞いて、子供にオケ・ソロやより高度な曲を選曲したら、その時点で子供は潰れて、ヴァイオリンやピアノが嫌いになって、音楽の勉強を挫折してしまう事になる。

つまり、選曲というものは、単に子供の年齢や教室の在籍年数で決まるわけではない。
所が、問題をより複雑にしているのは、練習量の話でもないという事なのだ。
先程の例でも、「子供に練習をちゃんとさせている。」「でも、子供が**ちゃんよりも、上手くならない。」という事を言っている例があった。それは、教育の「質」の問題である。「質と言われたら、どうしようもないわよ。」
「質」と言っても、そんな大変な事ではないのだよ。ただ単に、親の子供に対しての、考え方の問題なのだよ。
つまり、日常は親の都合で決まる。子供の生活のローテーションは無視をする。
ある時にこういう話があった。子供のコンクールの日の1週間前に、親が家族で別荘に行くことになった。親が芦塚先生に「子供を一人で家に置いておくのは可哀想なので、別荘に連れて行っていいですか?」芦塚先生は、にべもなく「別にお子さんがコンクールに落ちてもよければ、私は一向に構いませんよ。」
そういう時の芦塚先生は結構厳しいのかな?
・・・いや、普通だと思うよ。
その生徒の限界は、親のそういった考え方にあるのだよ。勿論、限界とは音楽に対しての・・ではなく、日常の全てに対しての限界なのだけどね。

曲决めの話に戻って・・・、当然、子供の身に付けてきた技術で、子供の演奏出来る曲は決まっているのだ。

もう一つ、よく親が勘違いすることであるが、「少しのレベル差なので、子供のちょっと頑張らせれば、上手に弾けるようになるはずだ。」という事をよく言われる。

親から見た、ちょっとの技術差は、本人達にとってけっして「ちょっとした」落差ではない。

その「ちょっと・・」とは、致命的な落差でもある。

技術の落差は、富士山の登山を連想するとよい。

一合目から、二合目、三合目はその落差は大したものではないのだが、登れば登る程、見た目には差ほどに見える落差が本人達にとっては、大変な苦労を伴う落差になるのである。つまり、1合目、2合目では、無理なく歩く事が出来たのに、9合目ともなると、一歩、一歩の歩みが大変な苦労を要するのだ。

 

それまでに積み上げて来た技術(その技術とは、子供がそれまでに蓄積した勉強の質と量(日本では、量だけが云々されて、質の事[2]は疎かにされる傾向にあるのだが・・・) に整合するということが言えるのだが…)と、その曲を弾きこなすのに必要な集中力と練習量が、オケソロをする他の子供と同等に必要であり、そういったことを無視して、曲のレベルだけを強引に上げた場合には、その生徒に過剰負担を強いることになる。

ただでさえ練習を嫌がる子供が、なおさらに一層練習をしたがらない環境を作ってしまうことにもなる。

 

父兄の中には、この技術の落差を、曲の練習が間に合わなければ、芦塚先生にレッスンを見てもらえばよい、と安直に考えてレッスンを申し込む父兄もいるようなのだが、それも大きな勘違いの例である。

一般の音楽教室では、間に合わなければ、先生が追加のレッスンをやって、何とか発表会にまに合わせるようにする先生が多い。勿論、それは別料金なので、先生にとっては美味しい話である。

しかし、先生と一緒に練習する事で、その曲が発表会に間に合って、発表会で上手く弾けたとしても、それでそのlevelの技術が身についたわけではない。

あくまで、その場を取り繕ったに過ぎないのである。

 

また、教室のオーケストラでsoloの生徒が間違えたり、弾けなくなったりした時に、オケ・バックの上級生が助っ人をして、soloのpartをサポートをする事がよくある。サポートが入ったおかげで、オーケストラの曲が最後まで演奏出来たとしても、一般のお客様にとっては、サポートの上級生の技術を驚くことはあっても、soloをした生徒を評価することはない。教室としても、サポートの勉強は、簡単な初歩の曲をより完璧に学ぶためのmethodeであって、それが出来た所で、小さな生徒に対しての思いやりが育つわけではないし、そのサポートを持って思いやりとは言わない。

教室の先生が年長の生徒に伴奏を指導する時に、小さな生徒がどういう風に間違うかをlectureして、その対応の仕方をレッスンしていた時に、それを聴講していた外部の先生が、「先生は生徒が間違うという事を前提として指導しているのか?それは生徒に対して失礼ではないのか!?」と烈火の如く怒りまくっていた。

人間には間違うことは常にある。特に、音楽を学び始めた子供では当たり前の事である。しかし、間違いには、素人的なやってはいけない間違いと、間違えても、お客さんから見ると気にならないプロの「間違いの対処(対応)」がある。

一般の音楽教室では、子供が間違えて止まってしまうと、最初から弾き直さないと弾けない事が多い。しかし、プロは、忘れても間違えても、ちゃんと即興でつないで、rhythm通りに音楽を進行させる。

先程のオーケストラの助っ人の話も、弾けなかったり、忘れたりした時に、次のしっかりと演奏出来る所まで、tempo通りに音楽を進行させる為である。

伴奏はオーケストラなので、生徒がそのtempoで演奏出来なかったとしても、待ってはくれないし、弾き直しをしてくれる分けでもない。大人の伴奏と違ってそこの所は容赦はないのだよ。また、Pianoで伴奏をしていたとしても、お姉さんは年下の子供がどのような間違いを犯しても、ちゃんと対応出来なければならないのだ。子供が自分のmelodieを忘れた時には、伴奏をアレンジして、子供にmelodieをPianoでsuggestする。そういった練習が自分が本番でハプニングがあった時の対応力にもなる。

社会でも、リスク管理のない現実はない。

昔、原発を作る時に、学者先生が「絶対にトラブルが起こることは有り得ないという設計になっている。」と言って、反対派に対して、「何と馬鹿なのだろう!」という態度をあからさまにして話をしていた。芦塚先生は「完璧という事は有り得ないし、もしもトラブルが起こった時には、取り返しがつかないリスクを抱えている。」と言っていたのだが、そういった意見にも、学者先生達は「有り得ないことは有り得ないのだ!」と、言っていた。私も「何と不遜な事をいうのだろう!」と思ったものだ。それが今は有り得ないことが、ちゃんと有り得ている。それが、現実なのだよ。

演奏会であっても、間違わないという前提の演奏会は有り得ないのだよ。全てのプロは間違いを最小限に抑えるように訓練をするのだよ。間違いには素人的な間違い方と、素人には分かりにくい、プロの間違い方があるのだよ。

それが分からなければ、プロにはなれない。

 

一般の音楽教室の場合には、生徒がlevel不足の場合には、兎に角、発表会に間に合わせるために、口移し、所謂、教え込みをするが、それで何とか発表会で上手く演奏出来たとしても、次に同じlevelの曲を演奏するとすれば、再び、同じ苦労をしなければならない。

つまり、また0からスタートしなければならないという事なのだ。

その曲を練習した事で、その曲を演奏するための技術が身についた分けではないからである。

その場合の演奏は、表面だけのハリボテで演奏したに過ぎない。

口移しの演奏は、お客さんから見ると、やはりハリボテの人形にしか見えないのだ。

 

また、その曲を弾くため練習についても、普段からの日常を積み上げる生徒と、発表会直前だけ練習する生徒では、具体的な絶対時間の落差ですら比べるべくもない。

 

その例を子供に説明するのに、1週間毎日30分練習する生徒と日曜日にまとめて4時間練習する生徒では、日曜日の4時間の方が時間数が30分多いから、日曜日にまとめた方が有利だと思われるかもしれないが、これは決定的に毎日30分の方が上手くなるのは自明の理で、至極、当然である。

 

同様に、教室の発表会を例にとって、発表会が半年おきという仮定の場合、半年間30分毎日練習してきた生徒は91時間練習した事になるわけだから、発表会直前のひと月だけ頑張ったとすると、毎日3時間ずつ練習してやっとイーブンになるのだが、半年間毎日30分の生徒とひと月だけ3時間ずつの生徒ではその技術の落差は比べようがない。

まして、1年間、練習が抜けるとなると、比較対照する専科生が毎日3時間練習したとして、1年では1095時間になる。

抜けた時間を取り戻すためには、単純に考えても、毎日6時間練習したとして、次の1年目で出発点に並んだに過ぎない。

次の年で、更に人の倍の努力を重ねても、兎と亀の法則で、永遠に取り戻すことはないのだ。この単純な算数の計算が大人には分からない。理解出来ないのだ。

繰り返す事の強みを言い表した格言、所謂、「継続は力なり」という言葉は誰でも知っている格言であろう。

大人の場合には、勿論、自分の仕事としての事なら上司にいつも怒られている事だから、分かるのだろうが、子供の事となると分からなくなるのだよね。不思議だ! 子供は社会では生活していないのかな?

(この3時間練習とは音楽大学を目指す(教室とは無関係の)一般の生徒の平均的練習時間(3時間〜4時間の数字である)

 

芦塚先生のレッスンのconceptは、子供に練習の仕方や演奏の仕方を指導するという事である。

芦塚先生のlessonは、子供に対して、曲を演奏するための技術獲得のsuggestionが目的なのだから、「こういう練習をすればよいのだよ。」というレッスンはするのだが、子供と一緒になって、その練習をする等の、サービス的なレッスンはしていない。

それは自分で練習する生徒の場合には「練習をしよう」という自主性を損なうからである。

全くの初心者で、練習の方法やhow-toを指導しなければならない、curriculum上に必要なlectureの場合には、芦塚先生もレッスン上の必然として、そういったサービス・レッスンをする事はあるのだが、中級者や上級者に対しては、絶対にそういったレッスンはしない。

そういったレッスンをやることで、やっと育った子供の「やる気」を阻害して壊して、しまうからである。

芦塚先生のレッスンは、あくまでその生徒のcurriculum上のsuggestに対してのレッスンであり、担当の先生との、協議に基づく基本のlessonに対しての、追加のレッスンである。

芦塚先生からレッスンを受けたことに拠って、子供自身がその曲で達成しなければならない目標と曲想の解釈、練習の仕方、等を芦塚先生から学ぶのであるから、その反復練習は生徒自身がしなければならないのだ。

その一つ一つの課題を、練習を積み重ねて、クリアして行くのは、本人の自宅での練習と、担当の先生との二人三脚である。

その練習がクリア出来て、更に追加の課題が必要になったり、練習課題上で問題点が発生したりしたときに、その曲の追加のレッスンを受けることが出来る。

上級の生徒になると、自分が練習していて練習に行き詰まっていると、「そろそろ芦塚先生にアドバイスをもらいたい。」と、担当の先生に報告をして、担当の先生から芦塚先生にレッスンの申し込みが入る。

初級、中級の生徒の場合、芦塚先生のlectureの後で、担当の先生が生徒とのlessonに行き詰まった場合、基本的には、芦塚先生と担当の先生の指導の会議で、問題点を解決する。

先生の指導のために、生徒をlessonすることは、double teachers systemのlessonの場合を除いては、基本的にはない。

基本的には、生徒自身が、芦塚先生から練習の目標や到達する水準(Niveau)、練習の仕方などを指導してもらっているわけなので、練習をするのはあくまで本人であり、その練習の質ややり方のチェックをするのは担当の先生が、レッスン時間内に指導する事になる。

先程も言ったように、初歩のlessonのように、先生が生徒といっしょに練習をするということは、中級、上級のレッスンでは、原則としてない。勿論、練習の仕方が、微妙に違っていて、それを補正する時には、間違えた練習法を正すために、芦塚先生が一緒に練習を試みることはある。しかし、それは、あくまで生徒が正しい練習法に立ち戻るまでの、one point練習にしか過ぎない。

また、初級のlessonに関して、子供と一緒に芦塚先生が練習をしてあげる、ということがあるのは、あくまで担当の先生に対してのlectureであり、担当の先生がそういうレッスンをしなければいけないというサゼスションのためである。

つまり、初級であれ、中級、上級であれ、芦塚先生が子供と一緒に、練習をするということは、やっていない。

 

先程の父兄の「Bちゃんは、芦塚先生から、何回もレッスンを受けているのに、私の娘は1回しかレッスンを見てくれない。」というような勘違いの話は、生徒がレッスンに持ってくる曲の曲数による勘違いである。

特定の生徒が、芦塚先生から多くレッスンを受けているのは、一つの曲を何回もレッスンして貰っている分けではなく、複数の曲を一回づつ見てもらうためにである。

つまり、それぞれの曲に関しては、1回しかlessonはしていないし、芦塚先生の出した課題がクリア出来ない限り、芦塚先生がその曲のlessonを、もう一度見ることはない。

 

芦塚先生も、比較的に若かった昔は、one lesson形式ではなく、他の先生と同様に、月謝制の月4回の通常のレッスンをしていました。

その時に、コンクールを受ける生徒が、あるパセージを芦塚先生のlessonで、ちゃんと演奏出来るようにしてもらって、「そのように練習をしなさい。」と、宿題をもらって帰った。

その次の週のlessonでは、全く元の黙阿弥の状態でやってきた。芦塚先生は、先週のlessonと全く同じレッスンをして、生徒がそのパセージをちゃんとしてるようにして、「そういうふうに表現出来るようにしてらっしゃい。」と言った。

で、その次の週もその生徒は全く元の黙阿弥であった。

芦塚先生は、全く前と同じレッスンをした。

それが、半年間続いた。

それに対して、芦塚先生は、怒るわけではなく、感情的になるわけでもなく、全く平静なままであった。

なぜならば、芦塚先生は「あの子は、俺の言っている通りに練習しているつもりなのだよね!

自分では、分かっているつもりで、言われた通りに練習しているつもりなのだよね。

だから、自分が弾けないということに、悪気がないのだよ。」と、おっしゃっていました。

つまり、人間には自分の目を通してしか、物事を理解出来ない、他人の言っている言葉を、自分の言葉に翻訳しないと、理解出来ない人種がいるということなのです。

 

今日では、芦塚先生が、毎週レッスンをやっていた若いときのように、芦塚先生自身が子供の練習を、子供といっしょにするという事は、芦塚先生の体力的にも年齢的にももう無理な話です。

いっしょに練習をしてあげると言う事ならば、何も芦塚先生なくても、或いは、担当の先生なくても、上級のお姉さん達でも充分です。(高校生のお姉さんにバイトとして、練習につき合せる事もよくあります。父兄にとっては、先生に頼むよりも、経済的にも気分的にも楽だし、お姉さんにとっては、それ自体が勉強になるからです。また変なバイトをさせないですむしね。)

 

話をもとに戻して、つまり、「自分の子供は1回しかレッスンを見てもらっていないのに、Bちゃんは何回も芦塚先生のレッスンを受けている。」と、いうことは全くの誤解であって、Bちゃんは何回も芦塚先生から、レッスンは受けたかもしれないが、それぞれの曲に関しては、1回しか見てもらえてないのだから、それを持って、芦塚先生から、えこひいきされた、とは言えないのですよ。

 

通常のオケ練習や室内楽の練習でも、お兄さん、お姉さん達が後輩の練習の面倒を見ていますが、それは勿論、教室のレッスンの一貫なので、お金を貰うことはありません。

その考え方もよく一般的には誤解されていて、指導している側の生徒が、後輩の練習をボランティアでやっている・・・と、勘違いをしている場合があります。

これも芦塚メトードの中の際立った方法論の一つで、そのconceptは初心に帰るということなのです。世界的なプロの音楽家達が必ず口にする言葉があります。

それは、「行き詰まったら初歩に戻る」という事です。

それが、生半可に上手くなった人達にとっては難しい。

自称プロの連中の練習を見ていると、「私はちゃんと初歩の練習をし直しているわ。」と言いながら、今行き詰まっているpointの一つ前を一生懸命練習している。

そうじゃないんだな。本当に初歩の初歩を勉強し直すのだよ。

何時でも、初歩に戻れる、それは上手になればなるほど、難しいのだな!これが・・・!

それで、考えついたのが、後進の指導をする事で、自分が初歩に立ち返る事を学ぶという事です。それが、芦塚メトードの初歩の指導のconceptなのだよ。

どんなヘボ先生でも、音楽教室で指導する限り、初歩の指導をする。

「誰でも出来る初歩の指導・・・??」と、勘違いしている初歩の指導なのだよ。

言い方を代えると、「初歩の指導なんて誰でも出来るでしょう!?」なんて、ほざいている先生は、ろくでもない先生だよね。

初歩の指導の勉強を疎かにする先生の生徒で優秀な生徒はいない。当たり前の事なのに、それが分からない。Beyerの教則本は勉強する内容がない・・とか、Diabelliの連弾は・・とか、初歩の教材すら馬鹿にしている。だから生徒は伸びない。

しかし、プロになるための、初歩の初歩を指導する事は超難しい。その初歩の指導の難しさが分からない人に初歩の指導は出来ない。

芦塚先生が古典楽器センターの佐藤さんから聞いた話で、佐藤さんがオランダのチェンバリスト、グスタフ レオンハルトが芸大で公開レッスンをした時に、通訳をしていたのだが、10回のレッスンを椅子の座り方だけで終わってしまって、一回もチェンバロを弾かせることがなく、レッスンを受けた芸大生が憮然としていた、という話を聞いた。佐藤さんが椅子の座り方が悪くって、正しい音が出せる訳がない、と言っていた事に芦塚先生も賛同していた。

教室でも、正しい椅子の高さで、正しい姿勢で椅子に座るという事に、莫大な時間を使っている。

本当に椅子に座れるようになるには、初級、中級では無理で、上級になって初めて椅子の座り方の重要さが理解出来るのだ。

ヴァイオリンでも、弓を正しく持つことと、ヴァイオリンを正しく構えることが出来れば、その生徒はprofessionalになっているはずである。

それほど難しい初歩のlevelに戻るという、事を、子供を指導する・・という事を通じて、初歩のレベルをフィードバックして、後輩の指導する事に拠って、自分自身が、初心に戻る、初歩に戻って、本当の一番最初の基礎に戻るという、1番難しい基礎の確立ということを勉強しているのです。

 

オケでは、春の発表会、秋の発表会、対外出演の全てに、Pachelbelのcanonからスタートさせます。それだけ、繰り返し、同じ曲を勉強することが、本当に勉強をするという意味を学ぶということでは、とても大切なことなのです。

勿論、繰り返し練習する事で、新しい事が発見出来ないようなら、繰り返し練習する意味はありません。それなら、サッサか音楽なんかやめるべきです。但し、音楽の中で、直すべき物が見い出せないとすれば、人生で見直すことなど、出来ないとは思いますがね。まさか、人間やめなさいとはアドバイス出来ないからね。

Canonも年二回演奏するという事は、言い換えると一年中練習しているということだし、それを生徒達は10年以上も続けている。それなのに未だに芦塚先生に怒られている。10年練習し続けていても、合格にならないのだよね。音楽なんてそんなもんだよ。

今の話は、canonの基本的な演奏法の話、それにプラスして、芦塚先生の解釈(interpretation)は子供達向けの楽しいcanon、アダルトな落ち着いたしっとりとしたcanon、それから売り用のbaroqueversionのcanonと三種類の演奏の奏き分けをする、これはちょっと驚異だよねっ!飽きる暇はないよね。

 

基礎練習をしっかりとするという事は、とても大切な考え方で、「初歩の曲なので、もうやりたくない。」或いは、「もっと難しい曲をやりたい。」というような穿った考え方では、中級や上級に育って行くことは不可能です。

家を作るのと同じで、より高い高層の家を建てたければ、その分、下の方に、土台をしっかりと作らなければなりません。

基礎を貧弱にいい加減に指導してしまうと、必ず、ある程度のlevelの水準迄行くと、それ以上上達しなくなります。それなのに無理をして、より以上を求めてしまうと、土台の貧弱な高層マンションのように、いっぺんに崩壊してしまいます。

無理をして、安く、急いで、作り上げた中国の高層マンションが今現在片っ端から崩れ崩壊してしまっているように、・・です。

 

[編集後記]

この話も芦塚先生の意図を伝えようと、頑張って書いていたのですが、段々内容が、込み入ってきて、複雑怪奇で難しくなってしまいました。対象も子供達や保護者の話のはずが、いつの間にか、対象者が忘れ去られてしまって、指導する先生達をも含めての専門的な難しい話になってしまいました。

所謂、正しい、読み易い、話の書き方というのは(論文というのは)話す対象を限定して話を進めていかなければなりません。

この話は最初は、子供達へのお話として書かれたものだったのですが、芦塚先生が「この話も・・」「あの話も・・」と、内容を追加して行って、その話を克明に書き留めようとすると、逆に段々雑文になってしまいました。

しかも、話の内容は寧ろ、保護者の方や指導者の大人に対してのlectureの要素の方が多いように思われます。

という事で、話が特定の対象者を意識しない込み入った悪文になってしまいました。

取り敢えずは、論文を書く前の、草稿、反故と理解しておいてください。

 

 

 

 

 

 

 



[1] 当然、上級のオーケストラや室内楽では、soloは教室のトップの生徒がする。上級オケの場合には、conceptは、教育的ということよりも、模範演奏という意味合いが優先されるからである。

[2] 私達の教室では、練習の量、所謂、時間よりも、練習の質をより重要視する。練習の内容が芦塚メトードである場合が多いからである。親が先生とは全く別の練習をさせたり、子供がガチャ弾きをやっても、時間さえその時間が費やされれば、練習をしたとする親が、「私の子供はちゃんと練習したのに、先生は・・」と、文句を言って来るのには辟易させられる。