楽しさと技術向上の両立



レッスンが楽しく、先生が優しい 生徒は楽しそうだ、というお話 

一般的には、先生が優しいのか、厳しくて怖いのかは、その先生の性格によるものと言われています。
そりゃあ、そうだわよね。

次に日本人の国民性による勘違いとでも言うのか、優しい=内容のlevel(水準)が低い、(初歩)、厳しい=levelが高い、内容が濃い、と思われているようです。
これは基本的に儒教的な権威主義的な発想なので、困難な物はlevelが高いという思い込みによるものです。

人生や勉強は、よく山登りに例えられますが、世界で一番登頂するのが難しい山は、エベレストと思われがちですが、それは、世界一高いという事から来る勘違いなのです。
エベレストは世界最高峰なのでそういう風に思われがちかもしれませんが、山登りの専門家達からすると、寧ろ、一般的にはヒマラヤ山脈2番目の高さのK2の方が、より登頂困難な山とされています。つまり、最高峰のエベレストは、最も登頂が困難な山ではないし、第二番目のK2ですら一番難しい山とは言えません。それよりももっと登頂困難で、未だに人跡未踏の山は無数にあるのです。
エベレスト(チベット語ではチョモランマ)が、最高峰で既に多くの人が登頂しているので、世界の山はもう、征服され尽くしたかのような勘違いがありますが、実は山の高さと登頂困難さは基本的に無関係です。
という事で、登った人の数と死者を%にして、山の難しさをdata化した一覧表もあるぐらいです。
難しさで言えば、魔の山との異名を持つナンガ・パルバットやキラー・マウンティンと呼ばれるアンナプルナも有名ですが、エベレストよりは遥かに少ない人数なのですが、登頂はなされています。しかし、未だに、未踏峰の山は無数にあるのですよ。
山のお話に長居をしてしまいましたが、このお話の寄り道は、最高峰のエベレストが地球の最高峰と言われるだけに、登頂も一番難しいと思い違いをされてしまうというお話なのです。

このお話は音楽にとっても同様に、やたらと厳しい先生が良い先生と勘違いされる風潮が日本人の潜在意識の中にはあるのです。
しかし、同業者、つまり同じプロの目から見ると、厳しさは、ただの厳しさであって、その先生の指導する音楽のlevelはまた別物、としか見えては来ません。
日本人は画一的に物を見る習性があります。
寄らば大樹の影や、ブランド志向等に良く表れています。

それが、そう言ったブランド志向ぐらいなら単なる趣味のお話で、問題はないのですが、子供の進学のお話となるとそうは行きません。日本では名門学校であれば、どの生徒にも、どこの学校でも良いという風潮もあります。
それが、子供の夢とは逆の結果を生み出すとしてもね。
有名なもの、権威のあるもの、が害になるとは、絶対に思わないのですよ。
しかも、日本人の面白い習性は、自分や子供の将来を相談するときに、自分の身の回りの(所謂、身近な)人に相談をする。
これは不思議だ!!その子供が進みたい方向の功なり名を遂げた人に相談するのではないのです。だから、画一的な答えしか返って来ない。
これも、お隣の韓国や中国の人達が日本人の七不思議に数えていました。
本当に、馬鹿馬鹿しいお話ですよね。

本題に戻って、プロの立場からすると、指導の方法論としては、「怒らないで、叱らないで、しかもより高いlevelを求めた優しく指導する」指導方もあるのですよ。
だから、その場合には、優しい先生とは、「優しい性格の先生」ではないのです。
厳しい先生でも、優しい先生でも、優しく楽しく、しかし高いlevelの内容で指導する事が出来るのですよ。
「子供達の音楽教育が上手な先生は子供好きの先生だ」と思われる事もよくありますが、子供好きの先生は、母親と同じ立場になってしまって、子供を正しく見れなくなってしまう事がよくあります。そこで本当に指導しなければならない事を、ついつい見逃してしまうのです。・・・というか、見たくないのかな??

つまり、医者が身内の診断をしないという事と同じ理由で、どうしても無意識に、診断を都合の良い方向に診てしまうのです。
お医者さんである芦塚先生の養父の人も、自分の身内のレントゲン写真で、重大な疾患を見過ごしてしまい、友人に指摘されて、「どうしてこれを見逃したのだろう?!」と、改めて我ながら、首を傾げていました。

音楽に限らず、優れた指導者は、その子供の今現在を見ているわけではなく、その教育の結果、その子にどういう将来が訪れるのか?・・・という事を、常に見て、今、現在の指導をしているのです。
今の結果しか見れないと、本当に子供達が望む将来が来るのか、危ぶまれてしまいます。
日本の学校教育で当たり前の事ですが、世界の不思議があります。
子供が、どの大学に進学するかを、学校の先生がその生徒の学力で決める事です。その子が将来何をやりたいか?ではなく、どれくらいの学力で、どの有名校に進学出来るか?という事だけが配慮されているのです。
学校のステータスで、子供の将来を決められたら、たまったものではありませんよね。でも、それが、当然の如くまかり通っている。不思議な国です。日本は・・・???

またまた、本文に戻って・・・
レッスンが楽しく、先生が優しい、というのは、音楽指導上の技術に過ぎないのです。
先ずはその前提でお話を進めて行きます。

よその教室で習っていた子供とその親御さんが初めて私達の教室に訪れると、必ず驚かれる事があります。
それは何かというと、子供たちの演奏レベルの高さというのももちろんありますが、同時に、子供たちが生き生きと楽しそうにレッスンを受けている、自分の方から積極的に教室に通って来ているということです。

それが、どうして「驚き」かと言うと、通常の音楽のレッスンの場合には、生徒の音楽の演奏のレベルが高いという事は、当然、レッスンも厳しく、先生も生徒も、ピリピリとして、近づくのも怖いような敷居の高い教室が普通(というか、音楽教室では、一般的にはそのレベルの教室はない)というのが一般の考え方で、本当に音楽を専門に勉強したければ、音楽大学の先生に直接習うのが普通だと考えられているからです。

だから、一般の音楽教室で、このレベルの高さというのは、考えられない事だと驚かれるのです。


他の教室でピアノを習っていた小学4年生の女の子が、同級生のお友達の女の子が私達の教室で習っていて、ピアノの演奏がとても上手だったので、自分も上手になりたいと言って、私達の教室を訪れて来ました。
初めて芦塚先生のレッスンを体験レッスンで受けたときの事です。
レッスンが終わって、帰り道で、お母様がその子供に、「芦塚先生のレッスン、やっぱり厳しかったね?!」と、聞きました。
ところが子供はきょとんとして、「え〜?何処が〜?芦塚先生はとても優しかったよ。」と答えました。

後日、お母様は、教室の先生に、「芦塚先生のレッスンは、とても厳しいと感じたのに、子供の感覚と、大人の感じ方は違うんですね・・。」と、述懐していました。

子供は、どんなにレッスンの内容が厳しくても、子供に対して、優しく接していれば、「優しい」・・・、或いは「易しい」と感じます。
見る人が見れば、どれだけ厳しい内容を教わっているのは分かりますが、習っている子供達にとっては、芦塚先生のレッスンは、とても優しい、或いは楽しいレッスンなのです。
レッスンの内容のレベルの高さや教わっている内容の凄さが理解出来ない人達にとっては、芦塚先生のレッスンは、楽しく優しいレッスンにしか見えないのです。

ですから芦塚先生は、後日、その母親にこう言っていました。
「お母さん!僕のレッスンを見て、その厳しさがわかるとはたいしたものですよ。普通の親や先生は、それが見えないのだから。」
 
 実際、教室では「趣味で、楽しく勉強しているだけなのに、コンクールの全国大会で入選する人達が多く居る」という事態がしばしば起こります。
これは、「スパルタ式の厳しいレッスンに耐えられた人のみが、コンクールに出場することが出来る」(・・・出場であって、入賞ではないのですよ。)という間違った常識が広まっている日本の音楽界では、ありえないことだと思われてしまうでしょう。
それは芦塚先生の考え方では、レベルは内容であって、厳しさ云々ではないからです。


 芦塚先生が教育大学や音楽大学の大勢の学生を教えた経験上、次のようなことを言っています。

 音楽大学に入学してくる大半の音大生は「将来、音楽のプロになりたい。」という希望をもって大学に入ります。
この場合の「プロ」という定義は、「演奏家」を意味します。
まかり間違えても、音楽教室の先生等の指導のプロではありません。

しかし、音楽大学を卒業して、実際にプロの演奏家として演奏活動を続ける事が出来る人は、極めてほんの一握りです。
天下の芸大と言えども、5年、10年に一人の割合に過ぎません。

確かに、芸大を卒業して、留学して、帰国してきて、年に1回、くらいに、演奏会を格好良く開きます。
でも、それでpayが回収出来る分けもでもないし、ましてや、その収入で生活が出来る分けでもないからです。
まず、収入何て無いのが普通です。寧ろ、100万単位の赤字になりますよ。
自腹で何百万も掛けて演奏会を開けるのは一生に、其れこそ2、3回に過ぎません。
それでは、発表会の延長とたいして変わりませんよね。
発表会よりも、有料になったりして、少し格好良くなっただけだからね。でも、その分会場費も倍掛けになるのだけれどね。
だから、当然、私達はそういう演奏活動を持って、その人の事をプロとは呼びません。所謂、、プロモドキという事ですな。

現実は、音楽大学を卒業して、音楽で生活をする人の殆どが、学校の先生になったり、嫌がっていて馬鹿にしていた音楽教室で、ピアノを教えたりするのが現実です。
しかも、先程言った、モドキの演奏活動すら続けられる人達はホンの小人数の人達なのですよね。
これは、一般には超有名大学と呼ばれている名門音楽大学とされているところでも、状況は同じなのです。
 つらい練習に耐え抜いて音大に入ったにも関わらず、殆んどの卒業生は「音楽のプロになりたい」という夢を叶えられません。


 ヨーロッパでは、生徒を一人前の大人として、自分と対等に扱うので、生徒を叱ったり、怒鳴ったりする事は基本的にありません。
生徒を、一人の大人、一人の人間として、対等に尊重するのです。
そのかわり、こちらから疑問をぶつけて行かないと、・・質問をどんどんして行かないと、先生は何も教えてくれません。
先生に言われた事をやって来なかったとしても、叱られる事はない代わりに、教えてくれる事もありません。
余りにも、サボりが酷いと、叱られる事も、怒られる事もなく、突然に破門になります。
「やりたくなければ、やらなければよい。」
お金を払って、勉強しているのは、本人だからです。
習いたくなければ、そんな無駄金を使う必要はないのです。
それが、基本的な考え方なのです。
だから、何が何でも、高校に進学しなければならないという日本の教育社会の事は、中々理解してもらえません。
何故、嫌なのに、学校に行くの??
昔から、そういう人はいます。そういう人は、個人で弟子入りするか、専門学校に行けば良いのです。その方が、より専門的な事を学べるのです。
何故、人は高校に行くの??
それは芦塚先生も理解不能だ、と言っていました。
日本の常識は、世界の非常識という事でしょうね。

世界的に有名な、優秀な、良い先生には、本当に優秀な生徒が訪れて来ます。
だから、やりたくない、勉強したくない生徒は、最初から、来ないのですよ。
だから、怒る必要も、叱る必要もないのです。
叱られない、怒られない、という事は、自分で自分を律するという事になります。だから、叱られるという事よりも数倍厳しい事なのですよ。
だから、そういったセルフコントロールが出来る人達だけが、そういった世界にやって来るのです。
当然、ヨーロッパの超レベルの高い音楽大学ではそうなるのですよ。当たり前のお話でしょう??
芦塚先生も、Genzmer先生の授業の時に、ついつい次のレッスンに必要な宿題が、rotationのミスで、出来なかった事がありました。
その時に、芦塚先生がGenzmer先生に、「先生、実は私は・・」と弁解をしようとした時に、Genzmer先生が、芦塚先生の言葉を遮って、「いや、やって来たのか、来なかったのか、それだけでいい。」と、弁解をさせませんでした。勿論、だからと言って、Genzmer先生に叱られた分けではありません。
でも、「いや〜!弁解出来ない・・と言うのはキツいよね!!」との、芦塚先生のコメントです。
勿論、芦塚先生は、その後、二度とrotationのmissをする事は無かった、そうです。

当然、Munchen国立音楽大学クラスになると、退学になる生徒も毎年数多くいます。
芦塚先生の作曲のクラスでも、1年生の時に、6人居た生徒の内、2年時の進級の時に、4人は放校になりました。
つまり、Genzmer先生クラスは、突然、二人になってしまったのです。その後、その一人も、次の年には首になってしまいました。
アメリカの大使のお嬢さんだったけど、大使がGenzmer先生の元に呼び出されて、その時には大使がお説教されていました。男性の場合には、それはないですがね。
日本の時もそうですが、マンツーマンのレッスンは、それはそれは厳しいですよ。
勿論、日本で言う所の、叱られる、とか、怒られるとかいう事はないのですが、授業に着いて行くのが厳しいのですよ。

芦塚先生が大学に入学して、1年後の授業の時に、(ドイツの大学では、学年はありません。3年次で卒業の人もいますし、10年間クラスに在籍して居る人もいます。ですから、)そのクラスメート達は、芦塚先生の以前から居る先輩で、3年次生ぐらいの人達の話ですが、Genzmer先生が、芦塚先生の事を引き合いに出して、「彼が一生懸命、自分探しの勉強をしている時に、君達は彼のversuch(試み)を笑うだけで、何を勉強していたのだ?」と言うのが、Genzmer先生の、芦塚先生のクラスの他の生徒達に対する最初で最後の通告でした。
そして、その場で、全員放校処分になりましたよ。
つまり、そこでも、一切の弁解は無しです。
この1年間、チャンと誠実に努力をして来たか、否かだけの世界なのですよ。プロの世界には、肉親縁者も何もないのですよ。
あるのは、出来るか、出来ないかだけなのです。
皆、真っ青になっていたそうですよ。
その生徒達は、大半が音楽を、(つまりプロへの道を)止めてしまったそうです。
厳しいよね。プロは・・・・!!!

次のお話も、芦塚先生のミュンヘン留学中のお話です。
芸大のピアノ科を卒業して、有名音楽大学の講師に収まっていたのですが、「どうしても演奏家になりたい。」と、音楽大学の講師の職業を辞して、Munchenに留学して来ました。

めでたく大学に入学出来て、憧れの先生に師事する事が出来たのですが、「レッスンが上手く行かない!」と言う事で、芦塚先生の所に、彼女がある日、相談にやって来たのです。

彼女が言うには、Munchenの音楽大学に入学して、もう半年にもなるのに、レッスンでは何も教わっていない。
毎回、レッスンで一通り弾き終わると、先生は「とても上手ですね」とひと言。
「それで、10分で、レッスンが終わってしまうのだ。」という悩みの相談でした。

 そこで芦塚先生は、彼女に対して、日本型の音楽の勉強の仕方と、ヨーロッパ型のレッスンの受け方の違いを説明して、Munchenでの音楽のレッスンの受け方のlectureをしました。

彼女の勉強している曲の分析の仕方から、その曲の疑問点や問題点の導きだし方や、それらの質問をどういう風に先生にぶつけて行けば良いのか、「こういう音を出したいけれど、どうしたらいいか」など、レッスンでの質問の仕方を、それから毎週、芦塚先生が日本に帰国する時までの、約半年間に渡って彼女に、lectureしてあげました。
それから、やっと、彼女のレッスンはスムーズに進むようになったそうです。

 彼女のレッスンの話の根本的な意味は、何かと言うと、日本人は「教わる」という発想しかなく、「自分から進んで学ぶ」という姿勢がない!・・・ということです。

日本の教育では、先生の指導した事に対して、疑問を持つ事も、質問をする事も、絶対に許されません。

先生の教えが全てなのです。
例え、それが、甚だ時代錯誤のお話であったとしても、・・・です。
そして先生から要求されることであればどのように辛くとも「泣いて耐えなければならない」ということになります。
「辛いのが練習なのだ。」という間違った風説のもたらす障壁なのです。

 私どもの教室では、音楽が大好きになり、夢中になって楽しく学んでいる生徒さんが、やがて優秀なレベルに上達し、趣味であるのにも関わらず、コンクールなどでも賞をとるようになります。
ところが、一般の方はそれを見、聞きして「きっとあの教室はものすごく厳しくて先生が怒鳴りながらレッスンをしているに違いない。」と勘違いしてしまいます。
それこそ、入会するのも教室を訪れるのも、敷居が高くなって、遠のいてしまいます。

「こちらの教室に入会したいのですが。」といって、決心して、やっと折角、見学にいらっしゃた方が、「こんなに高いレベルには、やっぱり、ついて行けない。」と恐れをなして、入会を諦めてしまうこともあります。

どなたでも、ご入会出来る教室なのに、「あの教室には、入会するのに、難しい試験と厳しい面接があって、それに合格しないと入れない。」などという風評が流れてしまい、大変困ったこともあります。

教室のご父兄の方が「芦塚音楽研究所の教室に行っている。」と友達に言うと、「えっ!!あんな厳しい教室に通っているの?大変ね。」と言われてしまった、というお話を聞いた事もあります。

このように、「音楽の演奏の水準を高く上げて行くという事と、生徒が、日常的に無理なく、音楽と付き合って行ける、なんて言う事は有り得ないし、レベルが高いのに楽しい教室なんて有り得ない!」 というのが、いまだに一般に根強く浸透している日本のお稽古事の定説なのです。

 「音楽が好きになって、楽しく先生がレッスンをして、しかも生徒はどんどん上達する」。
 こんな、有り得ない事が、有り得るのは、どうしてなのでしょうか?

芦塚音楽研究所も、所詮は「巷の音楽教室」に過ぎません。
教室に入会して来る生徒の大半(殆ど)が、音楽は趣味で、勉強がメインの生徒達です。
そこの所は、音楽大学の先生達が指導されている生徒さん達とは大きな違いです。
音楽大学の先生に師事する生徒さんは、まず最初からプロ狙いの生徒さんで、どんなに厳しいレッスンでも、無理難題の課題でもこなそうとする気概や気迫に溢れた生徒や親御さんの集まりなのですから。

私達の教室の生徒の大半は、勉強がメインで、音楽は単なる楽しみに過ぎないのですから、そこで一般の音楽教室の先生のように幾ら音楽を厳しく、一生懸命、教えようと思っても、一生懸命になり過ぎて、厳しく教えれば、教える程、子供達が音楽嫌いになってしまっては、それこそ、主客転倒も甚だしい結果になりますよね。



芦塚先生が、教室を設立した当初は、芦塚先生も結構、methodeの宣伝を積極的にしたので、あちこちの音楽教室から、音楽が嫌いになってしまった子供や、練習を全くしないで、教室に行く事を嫌がっている生徒達が沢山やって来ました。
つまり、芦塚先生の、所謂、芦塚メトードのcurriculumの基本理念は、家で全く練習しなくても、教室に来て、先生と一緒に練習するだけで上手になるという、夢のような話でした。
だから、すっかり音楽嫌いになった生徒のお母様達にとっては、この教室は、渡りに船の、有難い音楽教室でした。

最初の間は、教える側の先生達も、芦塚先生の言う事を半信半疑だったのですが、実際に先生の指導の下で、教えてみると、不思議に、本当に上手くなるから、これは、不思議だ!!


・・・で、子供達も、最初は嫌がって、お母様が強引に引っ張って教室に連れて来ていたのに、喜んで来るようになって、次には、何と、家でも、自分から練習するようになって来るのです。
そこまで行くと、次はどんどん一人でに上達して行きます。
親は寧ろ着いて行くのが、必死なぐらいです。
ここまでは、叱らない、怒らない教育のお話です。

本当は、ここでお話をする内容では無いのですが、教室を設立した時からの、保護者の方からの相談があります。教室開設当初からの相談なので、芦塚先生のホームページのあちらこちらにそのお話が掲載されています。
・・という事で、またぞろ同じ話の繰り返しになりますので、他のページで既にお読みの方は、飛ばし読みをしてください。
子供が言うには 「教室で、先生と一緒に練習をしたり、レッスンを受けるのは、とても楽しいけれど、家で練習する時には、お母さんがすぐに怒るから嫌だ!」 といっている。・・・というか、そういった事を言う子供が多過ぎる。
親に訊ねると、「子供と楽しく練習する事は出来ない。」「怒らないで、叱らないで練習させるなんて事は、とても無理!」と口を揃えて言うのです。

しかも、親が怒鳴って指導しているのが、正しければまだ良いのですが、子供の方が合っていたりして!・・・本当に困る事があります。

芦塚先生の厳し〜い一言では、「親が子供に怒鳴っているのは、「教育をしている」という自己満足なのだよね。」 だそうですよ。
だから、怒鳴っている親の話を聞いていると、大人の立場ででも、理解不能な時が良くあります。つまり、親自身が指導する内容に自信がないから、怒鳴る事で親の権威を維持しようとする。
しかし、芦塚先生のお話では、子供が中学生ぐらいになった時には、もう親に反抗して何も言う事を聞かなくなる。
その時には、親は何でも子供の言う事を聞くどうしようもないダメ親になっているのですよ。
力ずくで教育や指導する場合には、その力関係がチャンと親の側にある時にだけ、有効なのですよ。力関係が崩れた時には、子供は自分の枠を守れなくなってしまうのです。
それが、最悪の状態で出た時の事を、SNBP(負の転換点)と言って、「あんなに親の言う事を聞いて、塾の成績も良くて挨拶もチャンと出来る子供が、どうして・・・」という、バットで親を叩き殺したり、秋葉原で無差別に人を殺したりする子供が出来あがるのですよ。
まあ、そこまでは行かなくても、親の言う事は聞かなくなるのは確実よね。当たり前でしょう???

芦塚先生は、「親の役割を、親は時計になりなさい。」「木の上に立って、子供を遠くから見守ってあげるのが、親の役割なのですよ。」と言っています。ソク啄の話
親は、子供が自立するように育てるのです。自然界の全ての動物はそれが出来るのに、人間だけが、それが出来ない。
子供に依存して頼ってしまうのですよ。
それが「子供の為に・・・」という一言です。子供はそんな事は望んでいないのに、「大人になったら、絶対に感謝するのだから」「あの時、親の言う事を聞いていて良かった、と思う時が必ず来るのだから・・!!」
そんなの、絶対ない!!・・ってば!!
芦塚先生の70年近い人生の経験では、「今、役に立たない物が将来役に立つようになるわけはない。」という事だそうですよ。
教育の本質は、勉強が楽しいものなら、勉強をする事が好きになるのですよ。勉強が辛いものなら、その辛いものは絶対に身につくワケはないのですよ。嫌な物を人間は無意識に排除しようという性質を持っているからなのです。好きな事は何時までも覚えていられるけれど、嫌いな事は次の日には忘れているでしょう??
本当に興味の有る事なら、無理をしなくても、どんどん覚えていくのが人間なのですよ。
だから、興味を持たせるようにすれば良いだけで、ガミガミと子供に接する必要はないのですよ。
子供の頃、ネグレクトの経験のある子供は、自分が親になった時にネグレクトになる確率が高いのも事実です。
楽しく勉強をしてきた親の子供は、母親になった時に、自分の子供の頃母親から受けた教育に感謝するでしょうね。
一生恨まれる親と、どっちがいいのかな??

「そんな事は分かっているけれど、子供に接した時に、楽しく出来ない。」
それなら、かんたんですよ。
親であるあなた自身が、「勉強とは辛いもので、その苦痛に耐えて勉強しないと勉強にならない。」と思い込んでいるのを直せば良いだけなのです。
芦塚先生の言う、人生は一度っきりなのですが、その人生は、今の積み重ねなのですよ。もし、明日、あなたや子供が死んでしまうとしたら、今何をしたいですか?
遠い将来の為に勉強をさせますか?
勉強をして、将来何になるのですか?
何になるかどうか、分からないのに、勉強をするのですか?
中学3年生でも、死ぬ子供は死にます。
そういった、体験を数多くして、人は歳を取っていくのです。
とても大切な事は、今どれだけ充実した日を送っているか??・・なのです。



で、次は・・・・
だからと言って、芦塚先生のlectureは、決して優しいだけではないのです。

芦塚先生のconceptは、(丁度、学校の教育とは正反対で、)出来ない生徒に対しては、叱らないし、怒りもしません。
優しく、易しく丁寧に、それに気長に指導します。
全く、同じレッスンを、生徒が出来るようにならないと、半年間に渡って、した事もあります。
その間、一度も、イライラするとか、感情的に感情を露にするとかしないで、優しく、易しくです。
これも、凄い忍耐力だ、というか、それはもう、不思議だ!!

学校の先生の場合には、生徒が出来なければ、叱って怒って指導しますが、芦塚先生の場合には、出来ない生徒に対しては、何処までも、優しく指導しますが、反対に出来る生徒に対して、結構、厳しい指導をします。

その分かり易い一例は、芦塚先生が生徒に呼びかける時には、原則として、「さん付け」や「ちゃん付け」で呼びかけて、敬称を略する事は絶対にないのですが、でもこれが、上級生に対しては、「名前の呼び捨て」にするのですよ。

教室の先生に対しても、よく「名前の呼び捨て」をしている時がありますが、それは、芦塚先生にとっては、その先生も昔は芦塚先生の小学生や中学生の生徒で、音楽を専攻すると決まった時から、呼び捨てだったからなのですよ。

しかし、名前が、「呼び捨て」になったからといっても、即、芦塚先生のレッスンが厳しくなる分けではありません。
そこには、「呼び捨て」のgradeの中で、チャンとした段階があります。

これが、プロversionになると、芦塚先生の生徒であろうと、教室外の先生であろうと、かなり手厳しいレッスンになります。(勿論、外の部外の先生に対しては、芦塚先生も「さん」付けや「先生」と呼びます。それは当たり前の話ですがね。)
しかし、その指導に関しては容赦は、ありません。何故なら、それは、そのレベルに到達すると、そういった厳しいレッスンに耐えられる能力や意識が出来て、そう言った指導が当たり前になるからなのです。

だから、幾ら音楽の演奏の技術が高くなったからと言っても、意識がそこまでのレベルに到達出来ていなければ、厳しいレッスンには付いて行けませんから、当然、幾ら上手でも芦塚先生のレッスンはそんなに厳しくはなりません。

たかが、日本の私立の有名音楽大学に進学するぐらいなら、ポニョポニョの厳しくない、楽しいレッスンでも、充分なのですよ。
何も音楽大学の先生に付いて、泣きながら、必死になってレッスンを受ける必要は全くないのです。
日本の音楽大学の水準はそんなに大変なものではないからね。

但し、この一文は子供の頃から、教室で音楽の勉強を始めて来た人達への話です。
他所の音楽教室で学んでいる教室外の人達が、この文章を読んでも、そう言った魔法のような保証は全くしませんので、悪しからず!!
あくまでも、芦塚メトードで学んで来た人達に対してのみのお話なのですからね。

 ここで、芦塚メトードの生い立ちについてふれておきたいと思います。
 芦塚先生は、色々な大学で音楽を教えていたので、約500人以上のピアノの生徒を教える、という得がたい機会を得る事が出来ました。

また芦塚先生自身の調査だけではなく、その他にも、いろいろな音楽教室を経営している友人たちや、芦塚先生のお弟子さんで、既に音楽教室を経営している人達の協力を得て、彼らの生徒たちの問題点等を、詳しく調査する機会を得ました。

そうして、小さな(修学年次前の)子供から、教育大学の学生に至るまでの生徒達が、いったいどういう所で、ピアノの練習に行き詰まったのかを、データをとって、細かく分析する事が出来ました。

またその頃、先生と懇意にしていた出版社の編集長さんが、「ピアノを習う人の約90%がバイエルの70番代から90番代の段階(必ずしもバイエル教則本でという意味ではありませんが)で行き詰まる」と、たいへん興味深いお話をなさっています。



 では、なぜそんなにも多くの人がバイエルの70番ぐらいの初歩の段階で行きづまってしまうのでしょうか?
このお話をする前に、少しバイエルについてお話しておきましょう。
 バイエルというと、教則本のタイトルと思われている方も多いのではないでしょうか。バイエルもツェルニーもブルグミュラーも、その教則本を作曲した人(作曲家)の名前です。
但し、メトード・ローズだけは、バラのメトードという意味で、人の名前ではありませんので、勘違いのないように。(昔、ピアノの先生がメトードが名前でローズさんという人だと思っていた先生がいたので、老婆心からです。作曲者の正式名称はエルネスト ヴァン ド ヴェルドという人です。ちなみに、バイエルさんは、フェルディナンド バイエルという名前ですが、今風に発音するとバイヤーさんになります。)

「バイエル教則本」は、ピアノを初めて習う人達のために作られたたいへん優れた教科書で、世界中で愛用されています。
日本だけでも、いろいろな出版社を合わせると今でも年間数万部売れている、いわばベストセラーであり、ロングセラーでもあるといえます。
 しかしながら、残念なことに今日の日本では、バイエル教則本に対しての批判も多く聞かれるようになってきました。
また、先ほどお話したように、バイエルで行きづまってしまう子供が大勢いると聞きます。
けれどもそうした批判や行きづまりのほとんど全ては、バイエル教則本を正しい方法で利用していないことに原因があるのです。

どんなによくできた教則本でも、その内容を理解せずにただやみくもに弾かせていたのでは、上手にならないどころか音楽嫌いになってしまうでしょう。
良い薬は、正しい方法で飲めば、適度な量で効果を発揮します。
けれども間違った方法をしてしまうと、いくら飲んでも効かないどころか副作用で、死んでしまうかもしれませんよ。



(Beyer研究全3冊)



そこで芦塚先生は、バイエルがどういうメトードで教本を作ったのかという事を、バイエル教則本を細かく分析し、研究しました。

その詳しい解説は、「芦塚陽二のバイエル研究」という、膨大な本に著してあります。
そこにはBeyerの考えた、メトードだけではなく、その教則本を使用するに当たって、どういう間違いをどいう箇所でするか、という事まで、詳細なデータとして入っています。
 
研究を通じて、バイエル教則本には、ピアノを演奏する上での、非常に大切な基礎が、全てシステマティックに網羅されて、その構成上の上で、それぞれの課題が正確に書かれている、ということが理解出来、指導する側が、Beyerのメトードをしっかりと把握し、それを正しく生徒に指導する事が出来さえすれば、短期間で、大きな効果を上げる事が出来る、という結論に達しました。

実際のケースでも、たとえば、中、高生ぐらいに遅くピアノを始めたケースでも、平均3ヶ月、速くて3週間くらいでBeyer教則本を終了して、Burgmullerの教則本や、sonatineのlevelまで上達した生徒も数多くいます。
勿論、教育大学等を目指す特殊な必要に迫られた生徒の話ではありません。極々、一般の子供の頃、ピアノの先生が怖くて、ピアノが習えなかった生徒達のお話です。

 ここまでピアノの技術についてのべてきましたが、ほかの楽器についてもすこしだけ、お話しておきましょう。

 30歳でチェロの勉強を始めた芦塚先生ですが、そのころに習ったことを体系的にまとめてチェロの教本を作っています。
アマチュアの人でも1ヶ月(たった4回のレッスン)で簡単なアンサンブルが出来るようになる、という信じられないような教則本です。一般的には、チェロという楽器はその習得が大変難しく、音が出せるようになって、音階が弾けるようになるまでには、7年掛かると、一般には言われています。
だから、当然、チェロで他の人達とアンサンブルが出来るようになるには、それこそ10年、20年、辛い練習に耐えなければならない、というのが一般の概念です。
芦塚先生は「趣味で音楽をやるのに、そんなに基礎が必要な訳はあるか?!大人は子供とは違うのだから、大人のcurriculumで指導すれば、1月でensembleは出来るようになるはずだよ!」と豪語して、この教則本を作りました。大人なのだから、まず、楽器を弾けるようにして、それから気長に基礎を作って行けば良い、という逆転の発想です。
この教則本の一番のフアンは、先程の日本の大出版社の超有名編集長だった**さんです。
彼は「この教則本は出版しない。誰にも見せたくない。」とひた隠しに隠していました。
編集長がそういう事を言うのは、まづいんじゃない???
そのチェロ教則本は大人のためのcurriculumなので、指導の仕方や、方法論は子供達の指導の教則本とは全く違います。
子供の場合には、まず基礎をキチンと身に付けさせる事を先行します。だから、大人の場合とcurriculumが真逆になるのです。
という事で、芦塚先生は子供の為のチェロ教則本も当然作ってくれました。




表紙の絵は斉藤先生が描いてくれました。


同じようにしてヴァイオリン奏法やチェンバロ教本(バッハの小プレリュードを例にとってチェンバロ奏法の色々を個別に指導したものです)を作っています。
 芦塚音楽教室では、これらのメトードで技術を習得した子供たちが、無理なく楽にしかも短期間でそれぞれの楽器をマスターしています。

ただ漠然と教本を進めていくのではなく、システマティックに効率的に指導すれば、「楽しく、早く、確実に、」技術を習得できるのです。

「楽しくてしかも上達する」メトードは、以上のような綿密な教材研究の上に成り立っているのです。
しかし、このお話は、音楽技術のお話なので、専門家の人達のためには、もっと細かい詳しいお話を、別サイトでお話する事にします。