Genzmer先生とは
Genzmer先生のアドバイスについて
プロとアマチュア
ついでに芦塚先生からのadvice
向上心について
世界的に有名な先生に師事して
門を去る時
留学希望者へのadvice
このお話をする前に、Genzmer先生とは誰なのか?という事を知らない人達のために、Genzmer先生のご紹介をします。
私の留学時代の作曲の師匠である、ハラルド・ゲンツマー(Harald Genzmer、1909年2月9日 -2007年12月16日、ミュンヘンにて98歳で死去。)は、現代最高の作曲家であるPaul
Hindemithの門下生で、ドイツの誇る現代作曲家である。
Hindemithはドイツ人でありながら、ナチズムに抵抗したために、弾圧を受けた。
Genzmer先生は、お父さんがヨーロッパで有名な数学者であって、ユダヤ人であったために、ナチのユダヤ人排斥運動で苦労した話を私にしてくれた。
Genzmer先生とは、Münchenの音楽大学に受験をする時に口頭試問の会場で始めてお会いした。日本の音楽大学在学中は、私はFrank Martinに師事したいと思っていたのだが、色々と難しく、Pringsheim先生の勧めもあって、留学先をスイスのバーゼルから、急遽、Münchenに変更する事した。
師事する先生が見つからなかった事もあるのだが、日本の音楽大学を卒業するに当たっての、timelimitで、仕方なく・・という気もあった。
受験の会場で、進行をしている先生が色々とMünchenで勉強する方針や、それまでの作品等の質問を色々と受けた後、肝心要の、「どの先生に師事するのが希望なのか?」という質問を受けた。
ヨーロッパの音楽大学では、本来は、自分が師事したい先生に、先ず、(作曲科であれば自分の作品を見てもらって、)教えて貰えるか否かの確約を取る。その先生から「教えても良い」・・・という許可が出たからといって、それで、音楽大学に入学出来るわけではない。
その次に大学でその先生の生徒の指導する教室の人数に空きがあるか否かである。
人気の先生ともなると、その空きまで、5年待ち、6年待ちはざらである。私の尊敬するCembalistでorganistであるHeiller, Anton先生も5年待ち、6年待ちの先生である。
という事で、師事したい先生の欄が空欄になっていたので、その進行役のr先生が、「君はどの先生に付きたいのか?」という質問をして来て、一人一人の教授達の名前を紹介した。
試験場の審査の先生達12名ぐらいの先生と、全員握手してまわったのだ。
その時の、司会をしてくれた、Münchenの音楽大学でも、一番の売れっ子の先生の一人で、一番厳しい事でも有名で、その先生のもとで、卒業出来た生徒がいないと有名なGenzmer先生であった。
その超怖い師事をする事が難しい先生が、私の指導を引き受けてくれたのですよ。
あまり、自分の事をひけらかさない先生が、一つだけ私に自慢していた事は、「Berlinに自分の名前のついた道路がある」ということでした。ドイツでは、通りの名前に、国家に貢献した人の名前を付けるMünchen時代のGenzmer先生との思い出は、何かと尽きないので、またいずれ、折に触れて書く事にしよう。
Genzmer先生のadvice
レッスンを受ける為に、Genzmer先生の教室に伺うと、Genzmer先生が若いピアノの女子学生から相談を受けていた。
その生徒は、カール リヒター教授に見染められて、ミュンヒェナー・カンマー・オーケストラの専属の伴奏者にならないか?というお誘いを受けたのだが、彼女にとっては、カール・リヒター先生のお誘いを受けるにあたって、大きな問題点を感じていて、そのアドバイスをゲンツマー先生に仰いでいたのだ。
彼女の相談内容の問題点のポイントは2つあって、その一つは、カール・リヒター教授とミュンヒェナー・カンマー・コアーとの練習曲目は、教授のその日の気分によって、会場で決まる場合が殆どで、その伴奏のためには、Bachのカンタータの全ての曲を伴奏出来なければならない、という事で、その負担についての相談であった。
それと、女性である彼女にとってのもう一つの大問題は、演奏旅行は半年に渡るもので、その半年間の演奏旅行に随行しなければならない、というような二つのポイントだった。
それに対してGenzmer先生のアドバイスは、最初の質問に関しては、バッハの常設の曲は190曲のカンタータであり、それは大曲ではないので(一つのZyklusが30分程度から1時間程度)、夏休みを有効に使って練習して、実際に演奏旅行のcurriculumが始まる前の半年間、頑張って下準備にかければ190曲を制覇するのは難しくないということであった。
常設曲のその曲数さえ、ちゃんとこなせれば、伴奏が非常に難しく困難な、h mollのミサ曲や、その他のマタイ受難曲のような大曲は、オケや合唱にとっても、ソリストたちにとっても難しい曲なので、それをいきなり練習するということは基本的にない。次の彼女の問題の半年間に亘る演奏旅行は、演奏家の通常の仕事の内であり、しかも、ミュンヒェナ・カンマー・コアーはプロの集団ではなく、アマチュアの集団であり、(リヒター教授は、プロが合唱を歌うと、vibratoが入るので、baroqueの合唱にならないと、極端に嫌って、アマチュアしか雇わないのです。)そのアマチュア達が当然の如く、半年間のツーリングを楽しみにしているのに、伴奏者はプロなので、プロを続けたいと思うのなら、それはプロとしては望むべき事でありプロの必須条件でもあるので、これはアドバイス以前の問題で、アドバイスの対象にはならない、という事でした。
そして、Genzmer先生は自らの体験を話てくれました。
それは、「人は一生の内に、たった3回しか、チャンスは訪れて来ない」 というお話でした。
先生はそのチャンスを逃がす事無く、全てを生かす事が出来たので、先生の現在の地位と名誉がある、というお話を彼女に切々と説いていました。
Genzmer先生のアドバイスで、「一生に3回のチャンス、それを生かせるかどうかで、自分の運命が変わっていく」というお話は、芦塚先生がそばで聞いていてとても共感を得るものでした。
それから、日本に帰ってからも、今現在の自分のターニングポイントをとれば、将来どうなるか?という事を、正確に意識、判断出来るようになりました。
ただ、そのチャンスは、本当に自分が望む将来か否かは、別物なのです。
自分が本当に望む人生と、目先の眼前の成功とは、必ずしも一致はしない。
芦塚先生もドイツから帰国後の2年間、3年間は作曲家としてマスコミの世界で働く事を考えました。
ドイツで知り合った人、日本に帰ってから、NHK等の仕事をしている時にそこで知り合った人達がたくさんいました。田中千香士さんや徳永さん、指揮者の岩城さん達にも大変お世話になりました。
彼らは職人なので本当に誠実で紳士です。
しかし、マスコミはとても酷い!
中身が何にもないのにお鼻だけ高い人達の集団に苦しめられる事になります。
自分達はなんの技術もないのに、えばるだけえばる!(別にそんな方言がある分けではないのですが、芦塚先生の口癖です。)という事で、マスコミとは付き合わないようにしたそうです。
その後の話はちょっとオカルトじみて来ます。
次に、「自分にはマスコミは合わないから、大学にでも就職しようかな?」と考えて、恩師のPringsheim先生の元を訪れたそうです。
「では、学長に紹介するから、明日学校にいらっしゃい。」とPringsheim先生が快く言ってくれました。
次の日の朝、新聞を見て驚いたのなんの?? 前日、芦塚先生が帰った、その後で、Pringsheim先生はお亡くなりになったのです。
武蔵野はその頃は、学長派と前学長の甥の先生との相続争いで、芦塚先生の家にも怪文書が届けられる始末でした。
ちょっと武蔵野はね??という感じでいたら、洗足学園の学長で作曲家の戸田先生が「日本にはまだ、通奏低音を指導してくれる先生が、小林道夫先生と君しかいないので、洗足にCembaloの通奏低音科を作ってくれないか?」という相談がありました。
芦塚先生が了解の旨を伝えると、「何月何日に洗足に来てください。」と言われました。
そこで、当日洗足に行くと、面接会場があって、講師志望者がたくさん来ていました。
芦塚先生が戸田学長先生に呼ばれて来たのですが?」と言うと、「戸田学長は昨夜お亡くなりになりました。芦塚先生のお話も通奏低音科のお話も、誰も聞いていません。」という事でし
た。芦塚先生は憮然として、家に帰ったそうです。
で、その次は・・・
という事で、芦塚先生が大学に就職しようとすると、紹介しようとした誰かが必ず死ぬという事で、大学は諦めたそうです。
こわ~い!!
云々、云々で、大学に就職したときも、「大学は努めたとしても、5年以内!」「それ以上大学に居たら、人間がおかしくなる。」と言っていました。
よく意味は分かりませんでしたが。
芦塚先生が本当にやりたかった事は、日本にはありませんでした。
卒業の時にGenzmer先生が音楽大学の先生の口を二つ程、提示して、「ドイツに残るのなら、紹介するけれど?」と言われた時に、凄く悩んだそうです。
しかし、ドイツに骨を埋める気はない・・・ドイツの十字架の墓に収まっても・・・という事で、Genzmer先生のお誘いを断ったそうです。
でも、それは、今でも後悔はしていないそうです。
「自分はBrahmsにはなれない。」との事です。
しかし、それぞれのターニング・ポイントを選択する事によって、次に訪れる将来が、より明確に見るようになったということではGenzmer先生のアドバイスは非常に有意義なアドバイスであった、と芦塚先生は何時も口にしています。
ただ、芦塚先生にとっては、大学の先生になることや、マスコミで活躍する事は、虚しい事にしか思えなかった・・という事で、有名になる事が、芦塚先生の目的ではなかったということです。
でも、芦塚先生は、一般受けはしないけれど、その道の業界の人達からは、結構、名前は知られているのですよ。
Genzmer先生のアドバイスについて
このアドバイスは一般の人には向かない。
何故なら、一般人はより楽な方、着実な確実な方にアドバイスを受けようとするからである。
Genzmer先生はproなので、プロとして歩む過酷な道を進めているに過ぎない。
彼女がGenzmer先生に言っていない本当の本音の話は、彼女に彼氏がいて、「演奏旅行を半年もすると、彼氏が待ってはくれない。」という事なのだ。
しかし、もしその話をGenzmer先生にしたら、…いや、Genzmer先生でなくても、誰でも、音楽のプロなら、そういった前提の下では、どの先生でも、相談に乗ってくれる先生はいないだろうよ。
要は、彼女がプロの道を選択するか否かの話であり、それは彼女自身の問題だからなのだよ。
Genzmer先生に、もしも、本当に相談を望むのなら、その相談は「自分がプロとして歩むとして」という前提の元にGenzmer先生に相談をしない限り、、先生のアドバイス自体が何の意味もなさない・・からであるよ。
Genzmer先生は、プロとしての立場でのアドバイスでしか、しないからである。
アホらしい・・・・!!!
プロとアマチュア
人生に於いて、確実なものはない。
芸大の先生に師事したからと言ってプロに成れる保証はなく、ましてや、芸大に入学出来るという最低保証もないのだよ。
それを可能にするのは、本人自身だからだ。
しかし、一般の人達は、そこに王道があるように、信じて、疑がおうとはしない。
芸大の教授に付けば、縁故か何かのsomethingで、絶対に芸大に入れると思い込んでいるのだ。
芸大の先生についた人達が全てproになれるのなら、その先生の門下生の全ての人がproになっているはずである。
そんな人は一人もいないのに、そういう事実がないのにも関わらすそれでも、信じる。
信じる者は、救われる事はないのにもかかわらずである。
不思議だ!!
これも、日本人の七不思議だなや???
歳を取って、すっかり鬱になってしまった芦塚先生は、昔ほどはストイックではなくなりました。
という事で、次のお話には、芦塚先生の次の条件が入ります。
人は享受する人達と、奉仕する人達がいる。
人間は自分が誰かに必要とされるようになる事を求める本能がある。
ニートのように、必要とされる事を自ら否定する人達はプロという職業にはつけない、という前提がある。
以上の、条件の上でのお話です。
分かり易く、ヨージーの法則風に言うと、享楽する人達はproにはなれない。誰かのために・・という人のみがproになれる素質を持つ。
音楽家の大半が自分のために、演奏をする。
自分のための音楽は、表面的な薄さであるよ。軽く薄っぺらだよ!!
向上心について
Genzmer先生のアドバイスに於いて、芦塚先生の体験では、「人にチャンスが訪れる時は、必ずその人が一番大変な時である。」という事です。
その理由は、芦塚先生の説明によると、「人がそのstageで実力がついて、次のstepに上がろうとする時には、次のstepの仕事が入って来るからなのです。」「人は上の段階に行けば行くほど、仕事のcapacityが増えて来ます。だから、次のstageに登ろうとすると、大変なのですよ。」という事でした。
その一番大変な時に、どれぐらい仕事をこなせるかで、その人の能力が判断され、評価されるのですよ。
受験が近づいたからと言って、音楽の勉強を疎かにするようでは、受験のための勉強も、所詮は大したものではないという事なのですよ。当然、その人の音楽もね。
その話も、教室を創設した、30年も前から、延々と同じ話をしています。
ホームページのあちこちに、30年も前からの実例を入れて話ているのですがね。
プロに成ろうとする人が、自分の向上のために、相談を求めて来る事は、意味があって有意義だが、アマチュアの相談は、自分を認めてくれと言っているのに過ぎない。
それなら、相談相手は、最初から自分を認めてくれる人を探すべきである。
世界的に有名な先生に師事して
日本人の音楽学生が勘違いをしている事がある。
それは、留学をすれば、もっとより高度な勉強が受けられる・・・という勘違いである。
BerlinやMünchenの音楽大学は、Berlinがcontemporaryな音楽大学であるのに対して、Münchenはtraditionalな方針を貫いているという違いを除けば、その二つの音楽大学はproを要請する職業学校である事に違いはない。
日本の音楽大学のように、良家の婦女子を養成する花嫁学校とは、基本的に目的を異にする大学である。
音楽大学に限らず、一般の大学に於いても、専門家の育成を行っている大学は日本では極めて数少ない。
特に、音楽のように教養としてのcurriculumを中心に育成している学校では、専門的な教育は望むべくもない。
小、中、高、大を問わず、日本の教育機関は、すべからく、教養としての教育であり、何かを学ぶという姿勢はそこにはない。
そういった、教養としての日本型の教育を受けた留学生が、ヨーロッパの超一流の音楽大学に留学した場合に致命的に困る事がある。
それは、Münchenの音楽大学でも、Berlinの音楽大学でも、先生が生徒を教えると言う事はないからである。
私も、Pringsheim先生からも、Genzmer先生からも、何かを学んだ事はない。
少なくともMünchenやBerlinの音大に入学してくる生徒で、先生に指導して貰えると勘違いをして来る生徒は居ないはずである。
何故なら、MünchenやBerlinに来る生徒達は、皆proを目指して勉強に来る生徒達だからである。
つまりproとは、職人の技術を学びに来る生徒達であって、職人は教えて貰って勉強しても、職人にはなれないからである。
寧ろ、学ぶものは、先生の背中だよね。
考え方や、その仕事の仕方を見て覚えるのだよ。
それが出来なければ、留学しても無意味なのだな??
門を去る時
Münchenの国立音大で学んでいる私が、「Genzmer先生の門を去る時」と書くと、日本人の人達は不思議に感じられるかもしれませんよね??
だって音楽大学では、通常は4年で自動的に卒業するわけだからです。
Münchenの留学の時のお話でもうお話した事とは思いますが、ヨーロッパの音楽大学には、入学式も卒業式もありません。勉強したいだけ、或いは教授が必要と認めるだけ、大学に在籍出来るのです。
日本人はある意味不思議な国民です。
私が、音楽教室を作るまでは、私の門下生は、私が合格と認めるまで、私の下で研鑽を積んでいました。(とは言っても、私が卒業の証明を書いたのは、条件付きで金子賢治君だけです。その条件はである、未だ完成していないtechnicは、留学して師事をする先生に書面で申し送りされました。
ヨーロッパで、音楽大学の教授に師事する場合には、それまでに師事していた先生の、申し渡し書が必要なのだからです。
彼の場合には、touchの音色が未だ2,3種類しか弾き分けられないという課題を残していました。program的には、2時間半のrepertoryをA,B,Cの3program、つまり、7時間半の持ち曲を持って、留学しました。
しかし、私が音楽教室を開設してからは、当然、音楽大学の学生達や卒業生達ではなく、子供達を指導する事になったので、その子供達が中学生や高校生になる時に、音大の先生の下に、逃げて行くようになりました。
しかし、音大の先生が私よりも優れた指導が出来るかは、甚だ疑問です。
私がよく、音楽に進む人達にadviceをしているのは、その先生を見切った時、つまり、その先生の下で学ぶものがなくなった時が、先生を替わるタイミングなのです。
もし、そういう生徒が出てきたら、私は喜んで卒業の証明を書きます。
残念ながら、音楽教室を開設して以来、卒業の一筆を書いた生徒はいません。
皆、まだまだ、未熟な状態で音大の先生達に変わってしまいます。
私は音楽教室として、私の教室で指導しているわけではないのですが、それは、生徒の誰一人それを理解している生徒はいません。まるで、カサンドラのような状態です。
Genzmer先生のお話に戻って、Münchenで順調に勉学に励み、国際コンクールで一位の入賞を果たしたり、それなりの成果は上げたのですが、いよいよ卒業の年次になりました。
Genzmer先生は私に、「ドイツに残りたいのなら、Münchenの音楽大学の2校に君を推薦してあげるし、日本に帰りたいのなら、芸大に推薦状を書いてあげよう。」という話になりました。
勿論、もう一度音楽大学の学生に推薦入学ではありませんよ。大学へ就職としてのGenzmer先生からの紹介文です。
私としては、作曲家として独り立ちする自信が、チョッと足りませんでした。そこで、「私は、もう一年先生の下で修行をしたいのですが・・?」というと、Genzmer先生は少し考え込まれて「君は私の下で、これから何を勉強したいのか?作曲技法やorchestrationはとても優れているし、これ以上、私の下で学ぶ事はないはずだが・・」と言われました。
私が「私は、天性の怠け者で、先生のように勤勉に作曲をしたり、生徒達を指導したりする事が出来ないのです。」「先生の下で、先生のそういった気質を学びたいのですが・・」というと、先生はしばらくの間、考え込まれてから、一言「私の師匠のHindemith先生は、兎に角勤勉だった。彼の大作である画家マティスのpart譜をひと月で全part書き上げたのだよ!」「そういった気質的な事は、君が社会に出て、仕事の中で学ばなければならない事で、私から学ぶ事ではないのだよ。」と私に諭されました。
それで、私はGenzmer先生門下から、日本に帰国する事を決めたのです。
だから、私はGenzmer先生から、独立をしなさい、というお墨付きを頂いているのですよ。
だから、4年間が過ぎたから「4年生になったから、卒業します。」という話の日本人達とは違うのですよ。 私がGenzmer先生の下を卒業したのは、3年次です。私が、ドイツに居たのは4年間ですが、Genzmer先生の下で、勉強したのは3年間なのです。
アハッ!
だから、4年間勉強したから卒業という考え方は、学校教育的な発想です。
Münchenの学生証は10年以上分のハンコが押せるようになっています。
自分の技術がちゃんとproとしてのNiveauに達するまで、大学で勉強するのだよ。
日本の場合には、生徒が先生を選ぶことも、先生が生徒を選ぶことも出来ない。
大学に入学して、どの先生に習えるか分からないのだよ。
だから、師事する先生は、学校側の運次第だ。
それでも、音大の先生の方がいいのかな??
ましてや、自分の先生のNiveauを知ることもなく、肩書きに走るとはね~ぇ??
それで、音楽の勉強が出来る訳はないでしょう?
だから、芸大の先生でも桐朋の先生でも、自分の秘蔵っ子は自分が指導している音楽大学には進学させないのだよな。だって、その音楽大学で自分が指導出来るか否かは賭けになってしまうからね。
それなら、一般大学を受験させといて、自分が教えた方が間違いがないからね。
日本の音楽大学なんて、そんなもんだよ。
その点ヨーロッパの音楽大学は違う。
先ず、自分がつきたい先生に演奏を聞いて貰ってに2、3回lessonを受けて、その先生の大学での生徒の空きが出たら、音楽大学の受験という事になる。だから、超有名な指導者の場合には、5年待ち、7年待ちというcaseもある。
それでも、皆その先生の下で、音楽を学びたいのだよ。
詳しくは他のPageを参照してください。
音楽は真理、真実の追求のはずなのだからね。
お粗末よね~~ぇ??
道に至るは易く、道より出ずるは難し
この言葉を発したのは、世阿弥ではありません。何千年も前の古代仏教の経典にも同様の言葉が載っています。それほど昔から知られた格言なのですよ。
留学希望者へのadvice
(このPageがぶっ飛んだままです。print outした原稿が見つからないので、諦めます。)
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