インターバルについて

(教育と習慣)

 

 

「インターバル」とは、直訳すると「間隔」という意味ですが、私達はこの言葉を教育的意味合いを含ませて「時間の感覚の概念」とか「体内時計の様なもの」の意味で使っています。子供達の教育に於いて「インターバル」を身に付けることがいかに大切なことであるかをお話していきたいと思います。

「インターバルを身に付ける」というのは、時間の感覚を体内時計のように体に覚え込ませていく、ということの意味になります。

 

インターバルの種類

時間の概念を子供の身に付けさせるに当たって、私はインターバルを時間によって基本的に三種類に分けることとしました。以下のとおりです。

@短期のインターバル・・・・・・・・・・・一日の

A中期のインターバル・・・・・・・・・・・一週間からニヵ月位の

G長期のインターバル・・・・・・・・・・・半年位から一年位の

 

子供達に教室で指導するに当たって、それぞれに次のような役割を与えました。

    

@短期のインターバル・・・・・・・・・・・家庭での学習の躾    勤勉性

A中期のインターバル・・・・・・・・・・・レッスン 短期カリキュラム 短期の計画性

G長期のインターバル・・・・・・・・・・・発表会 長期カリキュラム 長期の計画性

 

こういったカリキュラムの中で、子供達が時間に対する感覚を身に付けることが、教室の重要な役割の一つであると考えています。芦塚メソードの骨格を成す「頭脳開発」や「記憶法」など数々のソフトの一つ一つが子供達の身に付くか否かも、このインターバル教育の如何に係わっていると言っても過言では無いと思います。

 

@短期のインターバル(家庭での学習の躾)

短期のインターバルとは毎日決められた時間に練習や学習が出来るようになるためのカリキュラムです。これは「勤勉生を身に付ける。」ためのカリキュラムと言い換えることが出来ます。

 

大人達が子供に対しての教育によって子供自身に勤勉性というものを身につけさせることが出来るとしたら、それはなによりもかけがえのない財産をプレゼントしたこととなるに違いありません。しかも親の努力さえあれば、それは可能なのです。また、子供に勤勉性を身に付けさせたいからといって、全ての事柄に対して躾をしていく必要もありません。たった一つの「練習の」それだけで充分なのです。

 ●勤勉性は財産

 教室に入会された御父兄にまずお願いしていることは、子供さんの一日の練習時間を決めること、そしてそれを守ることです。決まった時間に起き、決まった時間に学校へ行き、決められた時間に帰宅し、練習をする。日常をいかに規則正しく生活するか?そしてそれが、(歯を磨かないで寝る時のように)練習をしないことが子供にとって「気持ちが悪い。」と感じられるようになったとき、習慣(=勤勉性)が身についたことになるのです。

親は子供に歯が生え始めて、固形の食事がとれるようになったとき、子供に自分で歯を磨く習性を身に付けさせます。そして何気なく「歯は磨いたの?」という質問を子供にします。この事がすなわち、勤勉性を身に付けさせるということなのです。

 勤勉性とは努力することではなく、習慣(=勤勉な性格)なのです。

勤勉な性格が身に付いている者にとっては、勉強にしても練習にしても(大人であったら、仕事にしても)、何の苦痛もなく(努力を努力とも感じないで)勤勉になることが出来ます。しかしそれが身に付いてない人達にとっては、勤勉な生活を送ることや、努力を続けることは大変な苦痛を伴うことになってしまいます。

勤勉性を子供に付けさせることは、親が子供に残すことの出来る最高の財産です。

家屋敷や金銭的な財産を残せるということは、それなりに素晴らしいことかもしれません。しかし、我々がかつて経験した様に、一寸先はどうなるか分かりません。金や物は有限なものだから使っていく間に無くなってしまいます。大金持ちの人の子供が財産を相続したけど、使いはたして歳をとったときには一文無しになってしまったというのはよく聞く話です。私の友人に日本でも幾指に登るというお金持ちのお嬢さんがいました。家は・・・・・車は‥‥・・余り詳しくお話することはできませんが。そのお嬢様が「お店をやりなさい。」と業者に話を持ち掛けられ、うまく騙されて、本人は勿論近親縁者の土地や財産まで派手に取られてしまいました。ある日突然身一つになってしまったのです。お嬢様の道楽でよくある話といってしまえばそれまでですが。

物を財産にして残すということより、性格を親が作ってあげることが出来ればどんなに素晴らしいことか。

性格として身に付いた能力は、例えどの様な時代になろうとも、どの様な年齢になろうとも、失われることはありません。

 

●勤勉性を身につける時期

この「勤勉性を身に付ける」ということですが、何才からでも身に付けられるというものでもありません。勤勉性が身に付く年齢があります。                                                                           

3、4才頃から、小学校の低学年までの間に「1日の時間を時計のように規則正しく生活していく」そういった生活を送ることが大切なのです。

そういった時期を逃して、勤勉な性格を作ろうと同じ生活を中学生・高校生になって努力してもなかなか身につきません。テストのため、受験のためと、苦痛と戦いながら努力しますが、テストが終わり、受験が終わると奇麗さっぱりと勉強したことは忘れてしまいます。しかし一旦身についた勤勉性で勉強する人達にとっては、苦痛もないし、テストが終わったからといって勉強したことを忘れることはありません。

 一般によく言われる言葉の中で、「小さな子供は、遊ぶことが勉強だ。」という言葉もあります。また中学入試や高校入試の無い小学校3・4年生までの間に、うんと遊ばせてあげたいという親心もあります。しかしそうすると、勤勉性が楽に身に付く大切な時期に自由に遊ばせてしまい、逆に中、高生ぐらいになって、受験などで勤勉性が必要に迫られた時に、「勉強しなさい。」と繰り返しいっても、性格が身に付いていないから(逆に遊ぶ性格が身に付いてしまっている訳だから)なかなか勉強出来ないし、精神的な苦痛を強いることとなってしまいます。

ジレンマとなるような感じですね。[1]

確かに小さな子供の間は、うんと遊ばせてやりたいのが親心です。

しかしながら、それならばどのような遊びでも子供の育成に役立つのかというとそうでもありません。むしろ現代社会の中では子供達の健全な心身の成長に有害な物の方が多いように思われます。TVゲームなどはその最たる物です。子供が友達の家に行っても楽しく会話するでもなく、黙々とテレビに向かってゲームをしている。一種異様な光景と言えます。その内容も破壊と暴力が殆どです。

何故いじめや、校内暴力などが増えているのか。原因の無いところには、結果はありません。その原因の一端を垣間見るような気がしてなりません。

 

●子供にとっての遊び                  

先程の「子供は遊ぶのが勉強ですよ。」という話に戻りますが、例えば音楽は、子供にとって遊びなのか勉強なのかということを例に取ると、小さい子供にとって勉強と遊びの区別はありません。楽しく音楽が出来れば遊びになるし、厳しく教えられれば勉強になってしまいます。

私達が子供の時に遊んだ伝承の遊びというものがあります。「花一匁(いちもんめ)」などといったような遊びです。子供達が近所の子供達と遊ばなくなって、そういった遊びが廃れていっているので、学校で伝承の遊びを教えようということになりました。授業の中でその遊びをやらせると、その遊びというのは勉強になってしまい、何とも味気ないつまらないものになってしまいます。子供達の自主性の中で初めて、生き生きとした遊びとなっていくのです。

音楽の勉強もまた、子供の内から勉強しようという姿勢や、学ぼうという姿勢を育てなければなりません。全てを教え込むのではなく(教え込むことは簡単です。)、時間がかかったとしても、本人が分かった(理解した)という所を大切にしなければならないのです。     

 

●楽しい教育とは

話がちょっと横道に逸れますが、私達の教室を見学に来た先生方が生徒達によく同じ質問をします。

「音楽は好き?」

「レッスンは楽しい?」

「練習は?」

子供達は「なんでそんなことを聞くの?」「あたりまえじゃない!」という顔をします。発表会などでよく見かける光景ですが、これが一般的には普通ではないのです。そして「先生、どうして子供達が、そういう風に答えるのですか?」と不思議そうに尋ねられます。確かに音楽で遊んでいる教室もあります。しかしそういった所の音楽的水準は決して高くありません。何故なら音楽で遊ぶということは子供の好きなこと(子供の好きなアニメソングや流行の歌)をさせる、言い方を変えると子供に迎合すると言うやり方をとっているに過ぎないからです。前提にクラシックは子供にはつまらないもの、退屈なものと言う発想があります。また普通私達の教室のように、生徒達の音楽技術の水準が非常に高い教室は、子供自身のやる気とは無関係に(親の希望で)一般的には非常に厳しいレッスンをします。ですから、先程のような質問をすると、子供は「音楽は大嫌い」「レッスンは嫌」「練習はつらい」という答えしか返ってこないのです。

当然そういう答えが返って来るものと思い込んでいる先生方にとって、「音楽は大好き。」とか「レッスンは楽しい」とかいう答えが返ってきてしまうと、すっかり困惑してしまってどういう風に生徒達に対応してよいのか、分からなくなってしまいます。

 世間にとっての通説である「楽しい教室は水準が低く、レベルが高くなればレッスンは厳しい。」でもそれは本当でしょうか?

確かに一般的にはそういった傾向が見られるかもしれません。しかし、ここに私達の教室の大きな発想の転換があります。その沢山の発想の転換の一つに「子供自身の音楽」と言う発想があります。

子供自身の音楽=それは自主性を育てるということから生まれます。

 

 

●プロの音楽

教科書や研究書を書いている学者達は自分の研究が楽しくて楽しくて何時間勉強しても飽きないし、疲れない人なのです。その人達にとって学問は遊びなのです。ましてプロの音楽家にとって音楽とはこれほど楽しいものは他にないでしょう。好きで楽しくてしょうがないから、プロになるのです。楽しければ一生懸命になれます。自然と集中力も付いてきます。

 では一般的な楽しい教室の生徒達は何故上手にならないのでしょうか?                                                                    

それは簡単です。先生方が生徒の御機嫌を取っているに過ぎないからです。

流行の曲を生徒に弾かせれば、子供は喜ぶかもしれません。一時期には熱中するでしょう。でもすぐに飽きてしまいます。それでは子供の精神の成長は望めません。教材や技術に妥協をせず、子供に本当の音楽の喜びや楽しさを教えていくことが大切です。その子の年齢や心の発達に合わせて少しずつ判断力や理解力を高めていきます。子供が理解できなかったときには、子供のせいにしないで「先生(自分の)の指導力が足りなかったのだ。」と反省します。上手に弾けなかったときには、「何を指導すれば弾けるようになってくれるかな」と、考えます。

「どうしたらもっと練習してくるようになるのかな?」と皆で相談することもあります。「叱る」ことや「怒る」ことは、とりもなおさず、教師の指導力のなさの証明であると考えます。緻密な教材研究と指導案作成の結果、初めて子供の興味を引き出すことのできる楽しいレッスンが可能になるのです。

 

●練習時間の探し方

話は変わりまして、次には「時間を子供に守らせて練習させているのにもかかわらず、なかなか習慣がつかない。」とか、「練習が好きにならない。」とかいう相談を何度か受けたことがあります。このお話は「母親への手紙」と題する私のカウンセリングの本に詳しく書いてありますが、幾度かの聞き取り調査の結果、時間の設定が上手くいっていないことに原因が有ることが分かりました。親が練習を監督をする為に、食事を作り終わり、家事全般一通り片づいて、おちついた時間(夜8時,9時ぐらい)に練習をさせようとしていたのです。親にとって一番落ち着いて楽な時間、しかしそうすると、子供にとってはあまりよい時間の設定とはいえません。その時間の子供にとっては、既に一日の終わりの時間に近づいていて、「もう疲れた、眠たい。」という気持ちが先にたってしまいます。そうすると「ヴァイオリンの練習=疲れた、眠たい」という条件反射ができてしまうのです。多くの場合には、どうしてそのような時間になるかと言うと、一日の時間の中にまとまった時間が見出せないと言うこともあるようです。そのような場合、練習時間を子供が集中できる時間に、しかも小分けに分けて時間をとるように勧めています。例えば、30分毎日練習させたいとしたら、10分を3回に分けるのです。まとまった30分の時間を作るのは無理でも、10分や5分の時間はいくらでも作れるでしょう?学校に行く前に10分,学校から帰ってきて遊びに行く前に10分,遊びから帰ってきて一休みをして10分・・・・といったように、まだ子供が元気でゆとりのある時間に30分の練習を分けて組み込んでいくのです。そうしたら子供はいやがらなくなるし、練習のくせがついてきて、学校から帰宅したら休憩をしたあと1時間〜2時間も集中して平気で練習できるようになっていきます。集中がまだ持続できないうちは、1回の練晋を5分とか10分ぐらいから始めると良いでしょう。ただ、朝早く起きられる子だったら、学校に行く前の朝30分の方が、学校から帰ってからの30分より有効かもしれないし、一人一人やはり個人差がありますので、気がちってどうしようもない時間に強引にやらせるようなことがないよう、面談で「どの時間だったら子供にエネルギーがあって一番集中できるのか」という時間を子供と相談しながら見つけてあげて、規則正しくできるような時間割りを作ってあげるのです。

 又、これは「習慣をつける」ということが最大の目的なので、必ずしも決めた時間分だけ練習しなければいけないというものではありません。子供の体調がわるかったり、疲れていて気分がのらない時などには、始める時間はきちんと守って必ず楽器を弾く準備まではやらせるようにします。そして楽器を磨いて「今日は練習できなくて楽器さんごめんね。」と言ってきちんと片づけるところまでするようにします。ピアノなら弾く代わりにピアノを拭いて「ちゃんとピアノにご挨拶をするのですよ。そしたら今日の練習は終わりにしましょう。」というふうにしていきます。これが、反対に何が何でも時間を守らせようと、無理をして練習をやらせてしまうと、練習=散漫ということを勉強してしまい、全然集中していなくてもとにかく時間の「ノルマ」だけはたせばいいというようになってしまいます。集中の無い練習は逆に子供に悪影響さえ及ぼします。短い時間でも練習=集中という図式が子供の体にしみつくようにすることが大切です。

 又、逆に決めた時間だけの練習ではものたりないようであれば、練習時間が30分と決まっていても30分でピタッとやめる必要はありません。集中が持続している間はいくらでも時間を延ばしていっても良いのです。開始時間はきちんと守るようにしても、終わりの時間は柔軟にその日の集中度合いに応じて変化させて良いのです。そうすれば、子供の集中力をドンドン持続させる勉強になっていきます。私たちの教室ならあっという間に半年ぐらいで1時間や2時間の練習時間を集中できるようになっています。 ‘

 このように、子供が集中できる時間帯に集中できる長さの時間を組み込んでいけば、学年が上がってきたときには遊びにいかずにそのまま2時間〜3時間練習することが可能になります。規則正しい時間を作るということはなかなか親にとっても大変なことのように思われますが、寝る前や朝の歯磨きの習慣を子供の身につけることができた親であれば練習の時間もくせをつけることができるはずです。時間がパターン化されてしまえば「時間に従ってその通りに動く」ということは簡単なことですし、逆にそれは親にとっても子供にとっても日常が楽になっていくことです。又、時間のパターン化は一生のうちに子供の成長にともなって何度でもやっていかなければいけないことです。それを怠るのなら、親が子供を「教育した」とは言えないのではないでしょうか。

(教育心理論文;母親への手紙;「教育とは」参照)

 

●親が家にいない場合                                                                               大変難しいのは、3歳ぐらいから小学3年生、4年生位までの一番習慣性や勤勉性を習得しなければいけない時期に、共稼ぎで親が家にいない、完全な鍵っ子にされてしまうケースです。おばあちゃんでもいてくれれば、おばあちゃんにしつけを頼むこともできるのですが、それすらいない完全な鍵っ子の場合は、インターバルを身につけることは殆ど不可能です。そういった状況の場合は、親がいない時間に子供が何時から何時まで何をやったのか、又、それができたのかできていないのかを丁寧にチェックする必要があります。根気よく続ければ、5,6年生くらいになればチェックしなくても子供は自分でやるようになります。ピアノやヴァイオリンなどでそういうことを身につけておけば、勉強でも自然と集中が持続できるようになります。それは子供にとって大切な武器になっていくのです。ですからやはり3・4年生ぐらいまでが教育(躾)をする上で一番大切な時期だということを忘れてはならないのです。

 

●集中の時間

 心理学の通説、或いは一般的にも子供の集中力について次のように言われています。

 

「3歳なら1分しか集中できない。小学校1年生でも普通5分も集中できない。」

そしてその考え方をベースにして、幼稚園や小学校のカリキュラムが組み立てられるようです。

 

でも、それはあくまで訓練されていない子を対象にしているわけで、訓練されている子なら1時間2時間極端な話8時間9時間でも平気で集中できます。我々の教室では、子供が5〜6時間平気で集中し、親の方が音を上げて集中を持続できないということもあるくらいです。正しい訓練の上では集中の時間はのばしていくことはできるのです。一般的に言われている「子供は3〜5分しか集中できない。」という通念は、はじめから、「できない」という前提に立った大きな誤りであると言えます。

 

心理学では、一般的な児童の統計でその理論を組み立てていきます。何故ならば、天才児や訓練された児童とはあくまで特殊な例外であって、何の統計にもなりえないからです。(もちろん特別に劣っている児童も、その統計から外されます。)[2]

 従って心理学の理論上で教育のカリキュラムを組み立てても天才児は勿論、優れた児童すら育てることは出来ません。(前提に無いのですから当たり前な話です。)

 雑談になってしまいますが、TVで都内の某有名幼稚園で園児の集中力に関する教育が放送されていました。子供達に段ボールを与え、その段ボールで何分子供が遊ぶかということです。結局約40分間段ボールで遊んでいたのですが、「子供は40分集中することが出来る」とか「発明発見の天才だ。」とかまとめていました。しかしもしも教育者たらんとするならば、「子供は興味の有ることには集中はするが、飽きるのも早い。」ということも知っておかねばなりません。

同じ段ボールを同じ子供に与えた場合には、もう興味も示さず集中もしないはずです。

 私達の教室の生徒達は同じ曲を半年に渡って毎週練習します。その子供の集中力と技術のグレードに合わせて、30分、一時間、二時間と曲数と時間を増やしていきます。2、3年経って、生徒が小学4、5年生位になると6〜7時間のカリキュラムをこなすようになります。

 集中力を身に付けるには緻密なカリキュラムが必要なのです。

 

●価値観の身につけ方

 「子供が集中できない日は、その時間に楽器を拭かせるようにすると良い。」

ということをお話致しましたが、これは「習慣性を身に付ける」ということの他に、「価値観を身につける」という効果も有ります。楽器をみがくというセレモニーによって、音楽に向かう大切さを理解し、やがてそれが音楽に対する集中へと変わっていきます。また別の次元の話ではありますが、楽器店に下取りをしてもらう時などにもやはりピカピカの楽器を楽器店に戻すことは、楽器を売る方の側からしても、とても気持ちの良いことですし、楽器を大切に扱っているということは楽器店からも強い信頼を得ることができます。信頼できるお得意様の場合には、楽器を高く下取りするなど、楽器店も気を配ってくれるようになります。実際ピカピカに丁寧に扱った楽器は高く売れるということもあるのです。

 一般の教室ではきれいに磨かれた楽器をめったに目にすることがありません。

いろいろな教室に行って子供の楽器を見ると楽器が非常にきたなくて悲しくなってしまいます。だからといって先生も「楽器を磨きなさい。」とか特に注意するわけでもありません。又、ピアノみたいな大きな楽器は「子供は手入れが出来ない。」という想定があり、ピアノを拭くという行為であったとしても、全く子供にはさせないということもあります。しかし、子供にピアノを本当に全部きれいに拭せる必要はありません。それも1つの躾のためのセレモニーとして考えるのです。本当にきちんとピアノを磨こうと思ったら、やはり大人にしかできませんし、逆に子供が拭くことによって汚れてしまい、あとで親が拭きなおさなければならないはめにもなります。ですが、そこで無駄だからといって子供に全くやらせなければ結局楽器を大切にする習慣や、音楽を大切にする心は身につきません。

 教室でのオーケストラや室内楽の練習の後で、子供達に分担させ、譜面台や椅子などの片付けをさせます。中学生くらいになると軽く掃除をさせたりもします。

そうさせることで先生達の後片付けが楽になるわけではありません。逆に掃除の仕残しがないかチェックし、片づけた椅子や譜面台のしまい直しをしなければならなくなり、結局普通に片付けするよりも手間がかかってしまうのです。ですが、一見無駄に見える「後片付けをさせる」ということが、子供たちに自分たちが使っている部屋を大切に使うことや、自主牲などを教育できる最大のチャンスとなるのです。そういった勉強する心の根本となる部分は塾や他の音楽教室などではなかなか学べないようです。それは一般の先生方に教育に対しての「甘さ」があるからではないでしょうか。

 

●セレモニーについて

昔から良く知られている「人の前であがらない方法」として手に人という字を書いてそれを飲むと言う方法が知られています。これはあがらないためのセレモニーの初歩的な方法と言うことが出来ます。セレモニーは集中を必要とする学習などに効果的です。

 

とても面白いハイドンのお話があります。ハイドン先生は「整理整頓」が第2の天性と言われるほどとても几帳面な人でした。ハイドン先生の日課は時間できっちりと決まっていました。

比較的暖かい時期は6:30に起床。直ちに髭を剃りますが、73歳になるまで絶対に他人の手は煩わせませんでした。その後正装に着替えました。その間に生徒がくると、宿題をクラヴィーアで演奏し、誤りは即座に指摘され、それについての楽理上の教授があり、次の宿題が与えられました。それから指輪をして祭壇にお祈りをし、8時に朝食をとります。その後はクラヴィーアの前で作曲のスケッチに入ります。11:30からは訪問を受けるかあるいは訪問に出かける時間です。2:00からは昼食の時間と決められていました。食事の後はこまごまとした家事上の仕事や書庫に入って本を探したりする時間。4:00からは再び作曲の時間。朝書いたスケッチをスコアに書き上げる作業です。これは3〜4時間掛かります。8:00〜9:00は外出の時間。9:00〜10:00は作曲の続きか本を読んで過ごし、夕食は10:00と決まっていました。夕食のメニューはパンとぶどう酒だけと決まっていて、ご招待を受けたときだけはそれ以上の食事を摂るのです。寒い季節でもこの日課は30分ほどの遅れがあるくらいで、あとは全く同じように繰り返されました。

 

ある日ハイドン先生はいつものように作曲の構想を練っていましたが、今日はどうも調子が出ない。なかなか筆が進みません。どうしたものかと考え込んだハイドン先生は、ハッと気がつき祭壇に戻り指輪をはめ、即座にクラヴィーアの前に戻りました。そしてさらさらと作曲を進めたのです。

毎日のセレモニーをきっかりと几帳面に行っていたハイドン先生は、「指輪をはめる」というひとつのセレモニーをその日はうっかり忘れていて、そのおかげで生活のリズムがいつもと違ってしまい、作曲が振るわなかったと言うわけです。

 

セレモニーとよく間違えられるのは「縁起かつぎ」や「おまじない」です。

アメフトやサッカーなどで円(スクラム)を組んで「味方は強い!敵は弱い!」などと掛け声をかけるのはセレモニーで、ゴールが出来たからといって、その次の試合も次の次の試合も靴下を履き替えなかったり、髭を伸ばしっぱなしにするのは縁起かつぎ(ジンクス)に成ります。先ほどの「人の前であがらないようにするために、手に人という字を書いて飲むまねをする。」というのはセレモニーになるのか、おまじないになるのかはその人の心構えで決まります。日本流に言うと自力本願と他力本願の違いです。神頼みにするのか、自分自身に奮起を促すためにするのかの違いでしょうか。

 

 

B.中期のインターバル(レッスン)

 

●一般的教室のインターバル

 社会のインターバルは、1年,1月,1週間が基本にされています。又、学校は1年を1学期,2学期,3学期といった大きな3つのクールに分割しております。大学の場合は1年を大きく前期と後期の2つに分け、その中に夏休みや冬休みを組み込むという構成にしている学校が一般的です。普通、音楽教室では、年に43回のレッスンがありますので、夏休みや冬休み以外は通常月に4回(5週目はお休み)のレッスンになります。とても不思議なことなのですが、年に43回という回数は変わらなくても、ある曜日にばかり5週目や祭日が集中し、休みの多い曜日が出てきてしまいます。年の回数は変わらないのに不思議な話です。

 音楽教室などでは一般的な慣習である「一週間1回」というベースは、曜日を把握する上では便利ではありますが、何かを勉強し習得する上では本当に効率の良い合理的なインターバルであるかというと、必ずしもそうとは言えないのです。一人一人の生徒の成長過程や、レッスンのカリキュラム(内容),子供が勉強し、消化できる時間を考えると、逆に週に1回というインターバルではうまくいかないことも多々あります。又、音楽大学の先生にプライベート・レッスンについた場合は毎週レッスンをする先生の方が少ないのです。それは、「前回のレッスンで出た課題をマスターしてから次の課題をもらう」というレッスンだからです。音楽大学の先生やプロを養成する先生などはそのスタイルで、だいたい隔週か月に1回のペースが一般的です。

 

●先生どうしの連携について(下見について)

 高名な音大の教授などに師事した生徒がよく落ち込む大きな問題点があります。

通常売れっ子の有名教授は忙しくて一箇月に一回か一箇月半に1回ぐらいしかレッスンを見てもらえないのが殆どです。他の週は下見の先生がレッスンしたり、下見の先生が殆どレッスンをして、教授が最後の仕上げだけレッスンするという場合もあります。一見合理的で有効に思える方法ですが、その下見のレッスンで一番困ることは、「下見の先生が教授の意図どおりにレッスンをしてくれない」ということです。下見の先生の求めている音楽と教授の求めている音楽がまるっきり食い違う場合があって、下見の先生にみてもらえば見てもらうほど教授が怒りだしたりして曲が仕上がらなくなってしまった、というケースが往々にしてありました。                  

昔、芸大の著名な教授について芸大を受験する生徒が全くその状態に陥ってしまい、下見の先生の言う通りに練習すればするほど、曲が合格しなくなってしまい、(勿論下見の先生は教授の紹介です。)私に「レッスンをしてほしい。」と頼み込んできたことがありました。私も「下見はしないから。」といって一度は断ったのですが、「どうしても」と頼み込まれて、「レッスンはしないけれども、曲を一度だけ聴いて、ワンポイントレッスンでよければ」ということでワンポイント・アドバイスをしました。半年以上も合格しなかった曲が次のレッスンで一回で合格して、それから曲が仕上がるとワンポイントレッスンで合格というパターンになってしまいました。

私の場合には、曲を一度聴けばその先生が何を要求しているかが、分かるので、それに合わせてワンポイント・アドバイスが出来ますが、普通はそれぞれの先生がその曲の理想を持っているので其以外の解釈はしないのです。

当教室では、全員の先生が同じひとつのメソードで同じ教え方をするということが確立していますのでそういう問題はおこりにくいのですが、それでも尚、下見のレッスンをする場合は、私のレッスンをビデオに撮って、それを先生方が見て勉強し、その上で生徒の下見をするという方法をとっています。不思議な事かもしれませんが、こういったやり方も、日本中で私達の教室でしかやっていないことです。(私達の教室の先生方には芦塚メトード以外にも色々なメトードでそのまま教えられるように色々なメトードも研究させています。《芦塚メトードについて参照》ですから、色々な先生の教え方をそのまま指導することが出来ます。)

 

●特別レッスンのインターバル

 当教室での私の特別レッスン(音楽大学や演奏家をめざす生徒)の場合のインターバルの取り方を、実例を挙げながら説明したいと思います。

 

実例@(小学5年生 女子)  芸大受験希望 ピアノ科

・スケール(音階)(スケール教則本 芦塚陽二著)

・エチュード(ツェルニー,クラマービューロー,等)2〜3曲

・バッハ(インベンション,シンフォニア,平均律 等)

・小品4曲或いは大曲1曲

・アンサンブル

室内楽曲1曲(ピアノ三重秦 等)

弦楽オーケストラの通奏低音パート 等 3〜4曲

・コンチェルトソロ1曲(モーツァルトピアノ協奏曲 等)

・伴奏 5〜6曲

 

実例A(高校一年生女子)  留学希望 ヴァイオリン科

・スケール(音階)(カール・フレッシュ版・小野アンナ編 等)

・エチュード(ドント,クロイツェル,パガニーニのカプリス 等)

 2〜3曲

・小品4曲或いは大曲1曲(コンチェルト全楽章等)

・アンサンブル

室内楽曲 5〜6曲(ピアノ三重奏,弦楽四重奏 等)

弦楽オーケストラ(伴奏パート) 7〜10曲

・コンチェルトソロ1曲(モーツァルトヴァイオリン協奏曲 等)

・副科ピアノ

ソロ(ハイドン,モーツァルト等のソナタ)1曲

伴奏 3〜4曲

 

特別レッスンクラスの生徒は、以上のような曲を同時にこなしていかなければなりませんので、1回のレッスンで全ての曲をみることは不可能です。そのため毎週レッスンを行っていても、1度レッスンした曲を次にレッスンするのはちょうど1ケ月〜一ケ月半後くらいになります。1つの曲に偏らないよう、緻密にレッスン内容を組み入れ、バランスよくレッスンをしていかなければ、上記のような曲数をこなすことはできないのです。又、生徒側も「今週はバッハをみてもらう週だから」と言ってその週はバッハばかり練習し、他は全く練習しなかったとすると、それは何も勉強にならず、身につきません。もしもその生徒がそれだけのキャパシティーしかもたなかった場合は、課題を減らすか、レッスンを2週間に1回にしたほうがより効果的と言えるでしょう。その生徒に対する課題に応じたインターバルなのだから、1週間ごとに次のレッスンの曲を練習してしまうようであれば、その生徒は2週間インターバルのレベルに達したとは言えないのです。

 

●ノルマによるインターバル  

逆に毎週レッスンをすると結局先週と同じことを注意することになり、毎週同じことを言われることに対して慣れてしまい、反省がなくなってしまうという危険性があります。毎週レッスンを受けることによって「レッスンを受けているのだ。」という気分になり、先週と全く同じレッスンを受けているにもかかわらず、自分は新しいことを習っているという錯覚にとらわれてしまう、先生側としては非常にありがたくないレッスンになってしまうこともあります。先生に依存し、まかせきってしまう典型的な悪例です。では、どのようなレッスンの受け方がより効果的なのでしょうか。レッスンの中で「どういうところを気をつければ良いか」「どのように練習すれば良いかなど、細かい所を確実にチェックできていれば、あとはそれが本当に子供の身になるように練習していく段階です。それはレッスンの回教をより多く受ければ良いというものではなく、むしろ家での練習をいかに上手にこなせるかということになります。それは、本人、(又は小さなお子様の場合は親の領域)になってくるのです。特に音楽のように毎日練習をし、自分を磨いていくという分野では、自宅での練習がうまくできなければ伸びなくなってしまいます。

 レッスンのインターバルは、「ノルマ」という考え方をすると分かりやすいと思います。レッスンのときに先生から受けた注意を消化するまでの「ノルマ」は、前述の実例のように1曲に対し1ケ月の子もいれば、10日間のノルマの生徒がいたり、2週間のノルマの生徒がいたりするわけです。ノルマを考える場合には、「小さい子供(初級)だから短い方がよくて、大きい子(上級)だからレッスンは離れていた方がいい。」などということは全くありません。むしろ課せられたノルマを生徒が何日で消化できるかということで初めてインターバルが決まるのです。そのように考えれば隔週レッスンや隔隔週レッスンに対しての不安を感じることは全くありません。

レッスンを毎週やらなくてはいけないという考え方は、暦から便宜上、1週間に1回としているに過ぎません。

(逆にレッスンが一週間に一回という前提からカリキュラムを立てているのです。)

  特別レッスンクラスの場合は、1回のレッスン時間が1時間ですが、曲が一回通して演奏するだけで30分も掛かるような大曲なだけに、1曲か2曲しか見ることができません。本当は3週間〜1ケ月ノルマの生徒なのだから、隔週レッスンにしてレッスン時間を2〜3時間にした方がより効率の良いインターバルだと言えます。ところがそうすると1日に2〜3人ぐらいしかレッスンできないことになってしまい、物理的に無理が生じてきます。又、生徒にとっても2、3時間に渡っての集中を要求されることとなり、精神的にも体力的にもとても持ちません。その為に1ケ月ノルマの生徒でも毎週レッスンをしなければならなくなっているにすぎません。しかしながら一つ一つの曲については、3週間〜1ケ月のインターバルになっているわけです。

 

●一流演奏家であるW氏の場合         

ヴァイオリニストのW氏の場合、演奏旅行で海外に居ることが多く、定期的なレッスンが不可能なので、基本的には弟子をとらないと決めていました。ところがどうしてもW先生に習いたいという生徒が何人かいました。W氏は、「海外に居るときはもちろんだが、日本でも演奏活動を優先にし、その演奏活動の合間にしかレッスンはできない。」という条件でその生徒達を教えることにしました。

その為、W氏の生徒は、先生が海外から一時帰国したときに集中的に何回かレッスンを受け、次にレッスンを受けられるのは4カ月後、長いときには7〜8ケ月も開いてしまうこともあるそうです。このようなインターバルでのレッスンを受けるのは、既に演奏家として活動している人や、ある程度音楽の勉強が身についていて、更に上質の演奏をめざそうとしている人には有効的なレッスンになりますが、まだ勉強過程にある子供の場合はここまでレッスンが不定期になってしまうと上達は全く望めません。可能ならば、ちゃんとした先生に付いて学んで、年に何回かW氏に見てもらえればよいのですが、結果的にはその先生はW氏の下見をすることとなってしまい、先生のプライドとしてだけではなく教育的な意味においても、それを認めてくれる先生はいないでしょう。(ヴァイオリンやピアノのメソードとは学校の教材のように、統一されたものがあるわけではなく、十人の先生がいれば十種類のメソードがあるからです。しかも各先生が自分のメソードに自信とプライドを持って教えているのですから。)

 

C.長期のインターバル(発表会)

 発表会のインターバルについては、かなり詳しく他の本にも書きましたが、長年の調査といろいろな試行錯誤を経て半年に1回というインターバルが一番子供たちが勉強しやすく、且つ有益であるということが分かりました。普通では1年〜2年に1回のインターバルで発表会を催すのが一般的です。それは、先生側の体力的、精神的負担を第一に考えた、より楽なインターバルと言えます。ところが我々の場合は、子供をメインとし、発表会というものを教育の場としてとらえています。「どのくらいのインターバルが子供にとって最も良い目標となりえるのか」と、これまでに色々試行錯誤を試みてきました。そして次のような結果を得ることが出来ました。

 インターバルが3〜4ケ月以内の場合は、先生も生徒も親もみつどもえで発表会に追い立てられるようになり、曲を何とか演奏できるように、仕上げていくことだけが目的のようになってしまい、子供を教育していくカリキュラムをたてるだけのゆとりがなくなってしまいます。

 又これに対してインターバルが8〜10ケ月以上になってしまうと子供達にとっては発表会が遠い先の未来のことのように感じられるようになって子供の音楽に対しての緊張感が抜けてしまい、果ては発表会自体が子供達にとって「目標である。」と捉えることが出来なくなってしまうのです。(具体牲の欠如と言います。)

長年の調査の結果、発表会のインターバルは最大8ヵ月、最小5ヵ月の間が一番良いという結論に辿り着きました。というわけで私達は発表会を「1年に2回」開催しているわけではなく、「5ケ月以上8ケ月以内」という考え方で企画しているのです。それが結果的に年に2回の開催となっているにすぎません。おちついて準備ができ、発表会が自分の勉強の1つの目的と発表の場所になり、今習っていることの具体牲や目的・意識がしっかりと身につくインターバル、それが私共が一般的感覚に流されずに確固とした意味を持って構成している発表会のインターバルなのです。

 しかし私達の教室の中でも、プロをめざす人や受験生にとっては、年2回の発表会ではとても足りず、年に4回というインターバルをとっています。音大をめざす人達にとっては2、3カ月の早いペースで曲を仕上げるという勉強がとても大切だからです。これは、先生の方も生徒の方もとてもハードな為、特別な意識を持った子に対してのみ行うカリキュラムです。

このように、私共の教室では発表会のインターバル一つとっても、子供の教育としてのアプローチから設定しています。全てのインターバルは子供を中心にした考え方でなければいけなくて、曜日や月日が中心になった考え方であってはならないのです。

 

 

インターバル第二稿脱稿1999,10,22

一 静 庵 寂 鬱 拝

江古田ハイツ一静庵にて



[1] 中学、高校の時期はむしろ子供の目が社会に向き始める時期でもあります。その時期に習慣になっていない自分だけの勉強に向けさせることは子供の成長とは逆の躾を要求することになります。

 

[2] 一般的という場合、通常は仮に子供が100人いるとして上位の10人と下の10人を切り捨てた残りの80人を指します。真ん中の80人から得たデーターで上位の10人を育てようというのは何か変ではありませんか?