欠けた湯呑茶碗と金継ぎのお話



2013年と言う事は、Facebookを始める前の事なので、文章のback・upは全く無い・・という事になります。延々と教育に対しての愚痴が書いてあって、本文の欠けた湯呑茶碗や、ギリシャ製のお気に入りのマグについての記述は見受けられません。
そして、前段階のままに、突然、金継ぎのお話になって、そこで、ぶっ飛んでしまっています。
一体これはどうした事じゃろう??

(2013年の12月の23日(月)冬合宿の前日に、鬱々と、この文章を書いています。)

「教育に関する愚痴」


音楽を教育する事で、子供達に指導しなければならない事、或いは、子供達の能力として与えられなければならない物は、「本当の本物を知る」という力である。
「情操」という言葉の持つ本来の意味とは、心の豊かさを学ぶ事であり、人を愛し、自分を慈しむ事を学ぶ事でもある。

教育とは本来、物事を深く追求するという事を学ぶべきはずなのに、現代日本の学校教育は、真逆の、広く浅く知識を得る・・という事を前提としている。

これまでも、教育の世界では、既にその
「広く浅くの教育」が齎す欠点を知り、新しい本当の教育を目指した教育改革が既に幾度かなされているのにも関わらず、日本の学校教育に於いては、その反省が取り沙汰される事はあっても、未だに何ら改善をしようという姿勢は見受けられない。
というか、その具体的な解決法が見い出せない・・・、或いは指導する側の教育に対する意識や知識がそこまでに至らない・・という、ジレンマに陥っている。

教育の目的、目標は、江戸時代から、その本質を変えてはいない。
富国強兵を目指す儒教の考え方であり、徳川幕府を作る時に、為政者が最も自分達の体制の維持に都合の良い考え方を、教育教材として取り入れたに他ならない。
江戸時代が終わって、明治時代になっても、為政者が江戸幕府から、明治政府に変わり、敵対する相手が藩から、世界の国に変わっただけであり、富国強兵の思想はなんら変わる事は無かった。
二次世界大戦後に至っても、為政者が国から、企業に変わっただけであり、国家は企業に奉仕をする形で、世界の覇者たらんとした。

企業にとっての、都合の良い人材をselectするための、方法論として、学校教育上のカリキュラムが、文部省の手によって、作られるようになって、久しいのだが、その教育が齎した
「ロボトミー的な人間の育成」の弊害(上司の判断や決断がなければ、何一つ自己判断の出来ないロボット的な人材)は、既にこんにちでは、日本社会の常識ではなく、globalな世界を対象とした競争社会の中では、ヒラメキによる独自性や瞬発力に富んだ判断力やスピードによる決断力を持つ人材を必要としていて、儒教教育による忠実なロボットとしての人材は、既に企業戦士としても成り立たなくなってしまっていて、今までの会社運営に儒教の教えを拠り所としていた企業自体がいち早く、その体質を変えて、「言われた事のみを忠実に果たす、優れた企業戦士(兵士)としての人材」ではなく、「ひらめきと分析力や判断力、決断力(自己判断力)に富んだ個性豊かな人材」を求める事に、会社の方針を転換している。
こんにちのglobalな社会に於いて、必要とされる人材は、そういった自己判断の出来る人材の確保であり、それこそが、企業にとっての、生き残りの生命線ともなっている。

しかし、そういった人材を育てる側である学校や塾では、未だに旧態然とした指導方針で、改革を唱える学校や塾であったとしても、目先のチョッとした看板のすげ替えだけで、お茶を濁すような教育が未だになされている。

「個性を育てる」・・とか、「着想に優れた人材」、或いは、「構築力や、指導力に優れた人材」を育てる・・・という事を、学校や塾等がしないのは、そういった子供達を育てるだけのmanualを持った、或いは、指導力を持った教育者を育成する事が現在の教育のcurriculum的に不可能である・・という事に因っていて、あながち、学校や塾の体制体質だけを追求しても、それで良いという分けではない。

もっと社会の根幹を成すものは、子供達を教育するバックボーンとなる社会全体を作り出している親達自身が、そういったglobalな社会の時代の流れに乗る事を、極力、否定しているからでもある。

自分の夫が、その荒波に呑まれて、溺れそうになっているのを見るにつけ、
「子供には、そういった目には合わせたくない!」という親の浅慮が、子供の幸せを望むあまりに、不幸を呼び込んでいるのだ。

また、啓蒙をすべき学校や塾等の体質が変わらない原因は、そういった教育機関で育ってきた指導者自身が、そういった教育で、従順なロボトミー的な生徒として、育って来たからであり、上からの指導や、システム上のmanual無しには、そういった指導をする事は出来ないのだ。
つまり、現代の教育を支えている指導者達自身が、現代社会が求めている優れた人材とは、真逆の指導の元に、育って来たからであり、個性と決断力に満ちた人材を育てる・・という事は、指導者が自分自身の努力して来た物を、全否定される事に繋がって行くからなのだ。
                                                    
こんにちまでの学校教育の結果を省みると、塾や学校で育って来た、優秀な子供達であったとしても、
「何故、その回答が正しいのか?」という本来教育で最も大切な事を、指導される側の生徒が、全く分かっていなかった(理解してはいなかった)・・としても、与えられた設問に対して、その回答さえ合っていれば、それで良い・・という安直な教育がなされて来た。

それは、本当にその解答の意味を理解させようとすると、指導上、教育上の進行が、すこぶる良くない・・非効率的になってしまう・・という指導者側の考え方に因るもので、回答率を上げるだけであれば、設問に対しての解き方だけ指導すればそれで良いし、そこに質問が入って来て、それを理解させようとすると、甚だ非効率になるからであり、企業(教育産業)としての、経営が成り立たないから・・という、潜在的な意味も内在する。

何故、そういった学ぶ事の本質を理解させるような教育がなされて来なかったのか???それは、簡単で当たり前でもある。
生徒へ、そういった質問に回答をさせ、その原理や意味を解き明かすような優れた指導者である人材を育てるという事は、文部省においても、塾においても、たった1人、2人の人材の育成ならいざ知らず、一般の学校や一般の塾の指導者がそういった能力やlevelを持つような水準に持って行くのは、至難の業であるからである。



そう言った誤った教育への反省からであろうか、子供達に対して、教育の社会的な意味を教えるための、社会科見学とでも言うのか、世相の影響で、やむなく、文科省の肝いりで、大人の仕事の体験学習や社会に対してのボランティア活動等も、仕方なく、教育の現場に取り入れられて来た。
・・にも関わらず、
「子供は大人社会の仕事は出来ない」という前提の下で、音楽教育で言う所の「簡易楽器(楽器に対するチープなおもちゃ)」のような、「良いとこ取り」の、自己満足的なお仕着せ教育がなされていては、子供の大人の社会を教える・・という意味ではなく、大人社会への認識が、ますます、軽薄な物になって行くに過ぎない・・・、社会悪の原因にもなっているのが、教育の現場では分かっていないのが現状である。

優れた教育とは、なんたるかを知らず、昔の旧態然とした教育をのままに、有名塾に行って有名校に入学して、一流の企業に入社する・・、あたかも、それしか人生がないような・・・それだけが人生の勝ち組であり、それ以外は脱落者であるかのような、日本と韓国の教育の偏見に満ちた現場を見るにつけ、globalstandardのなんたるかを知らない
「井の中の蛙大海を知らず」を地で行っているような父兄達を見ると、暗澹たる気持ちになってしまう。

その誤った教育の結果が招き出した、・・・
「自分一人では社会生活をする事の出来ない大人子供」がニートや引き籠もり、或いは、若者の自殺に結びついている事に、ひらすら目をつぶる暗愚な大人達を見るにつけ、日本の将来に暗澹たる気持ちに囚われて、他人の話なのに、自分までが欝に苛まれてしまう。

そういったeasyな勉強や、お膳立てを全部された上でのcheapな努力で、
「自分が何かを出来るようになった」・・と思い込んでしまう、子供を見るに付け、子供だから、できなくて当たり前・・・、という親のエゴで甘やかされた今の世代の子供達を見ると、本当に、その子供達の将来が・・・、否、日本の未来が危うくなってくるような気がしてならない。

そういった原因を産み出したはずの日本の一流大手の企業であるにも関わらず、そういった誤った教育の結果、産み出されて来た日本人学生の就職を無しにして、海外の学生だけにするという企業さえ出始めているのが現状なのだが、親達はその現実さえ直視しようとはしないで、昔ながらの日本の学校教育、塾教育にしがみ付こうとしている。



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嘘か本当かは知らないけれど、ネズミは個体が増え過ぎると、崖から集団飛び込み自殺をするという。どうも、日本の教育の現状を見ていると、そういった光景を連想してしまう。

教育の基本理念は、子供達が社会人の一員として、社会の中で生きて行けるようにする事である。
社会に必要とされる人材を育成する事が、教育の基本であり、理念でもある。
しかし、このまことしやかな理念は、一歩間違えると、軍国主義、全体主義を引き起こしかねない両刃の剣でもある。


全体主義と個人主義

この全体主義に対抗するものが、個人主義であり、それがもっと退行したものが家族主義となる。
しかし、テレビをつけたままで、この文章を打っていたら、テレビの番組で、
「今の若者達の一番居たい場所は、親の元であり、一番親しい人間は、恋人ではなく、兄弟だ」そうな。

そのインタビューを聞いていたコメンテーターは、その事を当然として捉えていて、アイドルの女の子達が
「私もスマホの待受画面は弟なんです。」と自慢そうに話しているのを、そのまま極、普通に捉えている事には、私はすっかり驚いてしまった。

それって、
「ウエンディ症候群だ」って事、知ってた??

親も子供を外に出したがらないし、子供も兄弟家族でまとまろうとする・・、確かに、女系家族の場合には、そういった傾向がよく見受けられるのではあるが、それが、
「現代の日本社会の歪みなのだ」と事に、気づかないのかね??
コメンティーターって、昔風に言うと、有識者ではないのかな???
そういった有識者と言われる人達ですら、時流に迎合追従してその一翼を担っているのだから、始末に負えない。

一芸を愛し、その道に勤しむ者は、その道のspecialistになる。
また、一芸に秀でる者は、その他の道も、一般の人達よりも遥かに秀でるのは、自明の理である。

しかし、塾型の親達には、その事は理解出来ない。
音楽に熱中する事が、勉強の成績を上げる事に、繋がって行くという事は、とても理解の出来ない事なのだよ。

芸大を受験する学生達は、一度も塾に行った事はないのにも関わらず(塾に行くようでは、音楽の専門家にはなれないからね)常に学校の成績もトップである、という事は理解出来ないのだよ。

その事は、私達にとっては、極めて当たり前の事に過ぎないのだが、子供達の学業の成績や水準を決めるのは、その子供の人生に対しての一途さであり、人生に対しての真摯な姿勢なのだよ。

だから、塾教育や、学校教育での、問題の解き方だけの教育で、人間が育つ分けはないのだよ。

私の教育理念はsimpleである。
子供達が本当の意味で、何かに価値を見出すのは、その対象を好きになって、興味を持った時だけである。
「好き」という気持ちが、心にあれば、その事に興味を抱いて、理解して行く事は当たり前である。

でも、残念ながら、日本の諺である「二兎を追う者は一兎をも得ず」は、究極の事実である。
「一芸に秀でる事無しに、二芸、三芸に秀でる」事はないのだよ。
つまり、ヨージーの法則で言うのなら、
「一芸に秀でる者は、二芸、三芸に秀でる」という法則が出来るのです。

音楽に秀でれば、学業には秀でる。
学校で勉強する程度の学問は、学問とは呼ばない。
本当に学問を理解しようとすると、1+1は2になる、という事すら怪しいのだからね。
リーマン幾何というのがある。
平行線は2点で交わり、3角型の内角の和は180度よりも、大きい。
なんのこっちゃ??
スイカの話だよ。

ギリシャの時代から、船で旅行をする時にでも、90度、90度と回って来ても、元の港には戻れない事は当たり前に知られていたのだよ。
だから、ユークリッドさん本人でも、平面幾何学は現実的には役に立たない事は知っていたのだよ。
ユークリッド幾何学は、あくまで数学の入口の理論の世界なのだよ。
今、小学校で学んでいる2000年前の、ユークリッド幾何学でも、本当にちゃんと正式に勉強しようとすると、非常に難解で難しいという事を、人は知らない。
原始的でprimitiveな学問であると思われているユークリッド幾何であるとしても、小学校や中学校で学ぶそれは、そのメトードのホンの一部を学んだにしか過ぎないからなのだよ。

学校の勉強なんてそんなもんよ。 
実際の社会にはなんの役も立たないしね。

ましてや、世の中の親達は、一介の音楽教室に、優れた本当の本物の教育なんか、期待してはいないしね。
ただのお稽古事やお遊びの延長の、野球教室やサッカー教室と、同じ水準として捉えられている事だしね。

親が望む音楽教育とは、ピアノが少しだけ弾けるようになれば、それで充分なのだから、教室のように、私に師事した生徒達のたった一人でも、私の下で、proになろうとは思っていないのだしね。
教室で勉強して、教室から育った人達でも、proの演奏家になったり、一般の大学に進んだ生徒まで、今でも音楽活動を続けているなんて、人に言っても、誰も信じないだろうからね。

今の日本の音楽教育では、子供が「音楽が好きだ」という事は、全くの偶然であり、環境の与えたもの・・という考え方が、一般的であり普通である。

だから、「音楽を好きになる」・・という事ではなく、「音楽を好きにする」・・というメトードがある・・という事だけでも、本当は凄いのだけど、音楽を好きにさせるメトードがある・・・或いは、勉強を好きにさせる方法論がある・・と周りに言っても、それを誰も理解しようとはしなくて、
「私の子供は音楽が好きなので・・」と、自分の子供が自然に音楽を好きになったように、言っているのだが、私達が子供が音楽を好きになるようにさせるのに、どれだけ苦労したと思っているのかね。

勉強は嫌いでも当たり前・・という事が常識なのだが、それは音楽も同じよ!
世間一般の教室で、・・しかも、Classic専門の教室で音楽が好きな分けはない。
皆、厳しいlessonに、怯えながら、先生に叱られて、母親に怒鳴られて、それを耐えながら、ひらすら辛抱しながら、練習をしているのだけど、嫌々練習するのだから、幾ら、練習しても、全然上達しないのだよね。

教室の生徒達は、所詮は趣味の生徒達だから、練習を強制させられた事はないし、そもそも練習もしようとはしない。

orchestraの曲なんか、一度も練習しないままに、楽譜を一度も見ないままに次の練習に来るのだから、始末が悪いのだが、それでも、pro並みの演奏が出来るのだから、呆れてしまうのだよ。

それが、
一芸とは、好きこそものの上手なれ・・の諺なのだが、それを40年間、言い続け、啓蒙し続けて来たのだが、誰も理解してくれないし、理解しようともしないし、信じる事もない。

言っている私は常に一人が言っているだけなのだけど、言われている子供や親の方は毎年変わるからね。
聞いている方は、常に初めてなのだよ。
チョッと、油断していると、教室の子供達も、何度教育し直しても、またぞろ、安易、安直な方向に流れていってしまう。


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