子供達が普段、家庭で練習しているピアノは、ほとんどがアップライトピアノである。
基本的に日本製のアップライトピアノの鍵盤は軽い。
そのために、教室に来てグランドを弾いてみて、とか、発表会の会場などで、子供が初めて、グランドピアノに触れると、グランドピアノ特有の「鍵盤の重さ」に驚く事がある。
家のアップライトのピアノと比較して、子供が「教室のグランド・ピアノは重くて弾きにくい。」と言っていることをよく聞く。
と言う事も、理由の一つだし、一般的なピアノを弾く人達の好みとして、近年は大手のピアノ製作のメーカーでも、軽いtouchのグランドピアノを作っている。
昔々は、音楽大学では、入学試験や、入学後の、前期、後期のピアノの試験は、新しいピアノで弾かされる事が多く、まだ楽器が弾きこなされていなくって、鍵盤やそのtouchの当たりが出ていないので、鍵盤が重たくって、毛嫌いされたものである。
それでも、ピアノのタッチは、ちゃんとした調律師に頼むと、ある程度は満足のいくように調整してくれる。
アップライトピアノは、機構的に本来touchが軽いので、逆にグランドピアノのtouchの重さを想定して、重くしてもらうこともある。
勿論、touchの重さだけではなく、音色に関しても、調整して希望の音色を作ってくれる。
ある程度以上に鍵盤を重くしたい場合には、鍵盤にウエイトの鉛を埋め込む事もある。
私の所有する2台のアップライトピアノは、一台は輸入ピアノ(ヨーロッパ製のピアノは概して鍵盤が重たい)だし、もう一台はオーダーメイドなので、両方とも鍵盤はヨーロッパ仕様で、とても重たい(グランドピアノ並みの重さである)。
何故、ピアノの鍵盤が「重くなければならないのか」とか、或いは「軽い方が良い」とか言う鍵盤の重さの好みの差には、その理由を、勿論、音楽のgenreは当然としても、それ以外に、その人の好みとする「ピアノのtouch」に求める事ができる。
touchについての考え方は、大別して三種類ある。
その一つは求めている音色と音質や、演奏する側のtouchの確実性の問題である。
音色と音質に関して、分かりやすく言うと、「日本刀」と「なた」の違いということが出来る。
ある程度柔らかい物を確実に鋭く切るための「日本刀」と、かたく太い木をぶった切るための、重く重量感があって分厚い刀身の「なた」では、全く厚さや重さが異なる。
ピアノで言うならば、古典派の時代のsingle actionのフォルテピアノの非常に軽いfeather・touchの鍵盤と、double actionの重厚な鍵盤に必要となる重さの違いとなる。
次の一つは、touchの原則論であるが、このことを意識している日本人のピアニストは、殆どいない。
鍵盤上で手を置くその位置は2種類に分かれる。
その一つである、本来の伝統的な「自然体の奏法」では、通常は鍵盤上に軽く触れるような感じで手を置く。
その手を完全に脱力させると、鍵盤は手の重みで沈み込む。
その状態から軽く手を元の状態(鍵盤が沈む前の状態)に戻すようにすると、その位置をキープするためには、ある程度の(その状態を保持するための)力が必要であるということが分かるであろう。
この原理は、日常ではありとあらゆるものに使用されている。
一番、身近で、分かりやすい例は、エレベーターであろう。
エレベーターは、大型のモーターで持ち上げるとは言っても、それ自体ではモーターに負担が行き過ぎて、壊れてしまう。
だから、エレベターには滑車の反対側にエレベーター自体の重さを打ち消すためのウエイト(オモリ)が取り付けてある。
Pianoのtouchの場合にも、腕を楽に保持した状態で、その腕を中空に浮かした状態をキャンセルするウエイトに相当するのが、鍵盤の本来の重さである。
つまり、言い換えると、鍵盤の重さとは、forte-pianoのように、single actionの楽器のように、楽器的な特性で重さが決まる楽器は、現在の楽器にはない。
つまり、現代楽器であるdouble actionのピアノは、鍵盤の重さを、ウエイトで調整するので、任意の重さを作り出す事が出来る。
自然体の奏法では、touchをするということは、一般の奏法とは逆に、力を入れて保持している状態から、完全に脱力させた状態に戻すということなのである。
そのtouchで出た音量を、通常は音量の基本となるmfとする。
伝統的には、MozartやHaydn等、多くの作曲家は、そのmfの音量は書かない。つまり、基本の音量なので、書かれていないということは、取りも直さずmfを意味する。自然体の力を脱力した状態で出る音量、所謂、mfの音量を、私達は0touchと呼んでいる。力を抜いた状態で、速度だけで出す音だから0touchなのである。
つまり、腕の重さに極めて近い分の鍵盤の重さが必要なのだから・・である。
極めて近い・・というのは、腕の重さは極めて重たい・・・大人の場合には、15kgから20kgぐらいの重さがあるので、鍵盤の重さを15kgから20kgに設定するのは、それは無意味である。
もっとも、ベートーヴェンの時代には、未だ、ピアノの黎明期で、double actionのカンブリア紀でもあり、ベートーヴェンも、腕の重さに近い鍵盤の重さのdouble actionのピアノを試演させられて、ベートーヴェンが「double actionのPianoなんか、二度と弾かないし、そのPianoで演奏しなければならないのなら、二度とPianoの曲は書かない!!」と言わせるほど、ご立腹でした。
もう一つは、ホームポジションが鍵盤上にあり、そこから指の力で鍵盤を、しっかりと底までtouchをするという奏法である。
ほとんどの日本人のpianist達がこのtouchで演奏しているし、また音楽教育の現場でもこのtouchが主流である。
しっかりと鍵盤の底まで弾き切ろうとすると、ほとんどのピアニストの場合には、touchをしたときに指が伸びきった手の形になる。
どちらの場合においても、手は鍵盤上に置かれているので、両方の奏法に関しても、上体そのものの構え方に異差は見受けられない。
しかしながら、このtouchの差は、音楽表現の基本的な差になって、演奏家の演奏styleの根本的な違いになって現れて来る。
話を元に戻して、鍵盤の重さの話を進めると、つまり、自然体の奏法では、ピアノがフォルテピアノから現代のグランドピアノに代わり、アクションがダブルアクションになった時から、その重厚な音を出すために、腕が完全に脱力した状態と、鍵盤自体の重さが釣り合うために、鍵盤自体に十分な重さが必要となったのである。
日本人たちの軽い鍵盤の嗜好は、Pianoのtouchを、指や腕の力で演奏しようとするからである。
腕を完全に弛緩させて、指先に加わる力を計ると、約17kgぐらいの力が加わる。それで、鍵盤を弾き切ろうとすれば、例え、現代のグランド・ピアノであったとしても、ハンマーぐらいは一瞬で折れてしまうであろう。
ほとんど、脱力したままの、必要最小限の力で演奏が出来るのだ。
それに対して、指先が出す力は、男性であったとしても、5kgから7kgに過ぎない。(この数字は、あくまでも、訓練されていない状態の人達のdataである。毎日、勤勉に練習を積み重ねているpianistにはこの数字は当てはまらない。)
日本人の好む奏法では、常に全力で力を加えておかなければならない。
それで、軽い重さの鍵盤が必要となる。
Pianoを制作する側にとっては、鍵盤の重さを軽くする事は難しい技術ではない。
だから、鍵盤の重さとは、嗜好と考え方の差の問題となる。
今の若い世代の音楽家達にとっては、キーボードのような、とって付けたような、鍵盤の重さの楽器を演奏する事は、格別嫌なことではない。
基本的には、パソコンのキーボードのtouchと同じようなものだ。手の触感が全くない。
キーボードの音量はtouchによってもたらされるものではなく、スピーカーと鍵盤のトリム・スイッチで作るものだ。
つまり、touchの強さは、音楽全体の音量としては、あまり関係がないのだ。(勿論、教室で使用しているキーボードもtouchで音量が変わるのだが・・、それ以上に、スピーカーやアンプで音量を調整する方が重要なのだ。
また、音の重厚さは、楽器の性能ではなく、スピーカーの大きさによるところが大である。
しかし、幾ら大きなスピーカーを使用したとしても、それで音自体が重厚になることはない。
いずれにしても、キーボードが出す音は、軽くデジタル的で人工的である。
教室のorchestraで管楽器の代わりにキーボードで、子供達に演奏させるために、新しいキーボードを買いに、キーボードの専門店に行ったのだが、キーボードの作る音色が、実際の音と同じであると信じて疑わないベテランの店員には、辟易させられた。また、今のキーボードでは、とてもエキセントリックなvibratoが付いていて、そのvibratoを消す事が出来ない。そのvibratoを、「美しい」と信じて疑わない店員達には、参ってしまった!!
本当の音とオシログラフが作り出す音の違いが分からないのだよな。私達音楽家は誰でも、violinとcelloとviolaの音色の違いを聞き分ける事が出来るのだが、波形では同じ音になってしまうのだよ。困った事には・・・・!!
生音ではなく、デジタルの音に慣れた現代の音楽家は、古い重たい重量感のあるアナログな音は、好まないのだよね。
特に、日本人の若者達は、古い重厚な音自体を望まない。
音の美しさはkonsonanz(残響)とノイズ(雑音)であるということをみんなは知らないのだよね。
デジタルで音を作ると味気ない音になってしまうのは、加味されたノイズと楽器自体の(ホールの残響ではなくって)残響、所謂、konsonanzによるものだ・・ということを、今の人達は知らない。
しかも、そのノイズと残響は、オシログラフには表示されないのだよ。
だから、今も楽器の本当の音を作る事が出来ない。
wineと一緒で、同じメーカーの同じ等級の、同じ商品なら、同じ味だと思う人なら、wineを売りに来るなよ!!一本、一本、wineは味が違うのだよ。同じwineをcartonで取り寄せても、一本を開ける時には、「次は、当たりかな??」と期待に胸が躍るのだがね。ほとんどは外れるけれどね。
Pianoのメーカーにとっては、それ以上に、現実的な、Pianoを演奏する人達のneedsの問題が絡んで来る。
つまり、購買層の嗜好の問題だよ。
つまり、Classicを愛する人口は、実に少数派であり、それに比べて、ポピュラーやジャズを好む人達が圧倒的に多く、Pianoを買う人達の大半は、そういった若者向けの、軽い華やかな音を好むのだよ。
だから、日本のヤマハの音のように、高音域の伸びを押さえて、軽いtouchでコロコロと弾く事が出来る楽器が主流になってくるのだが、私達、音楽家の憧れの楽器であるsteinwayやBosendorferのような、演奏家の理想とする楽器まで、そういった楽器を作るようになってしまったのは、痛恨の極みと言わざるを得ない。
touchには、もう一つのPianoの表現として、打楽器として捉えたPiano奏法がある。
指先を伸ばして、鍵盤を指先で突くように演奏するスタイルは、近、現代になって、ピアノを打楽器として把握する考え方から生み出された。
本来的には、jazzのpercussionのsessionとしての考え方から生み出されたこのjazz独自の奏法は、バルトークやプロコフィエフなどの近現代の優れたPianoの演奏技術を持つ作曲家たちによって、Classicの音楽の中にも取り入れられてきた。
指先を極端に伸ばし、突っ張らせたようなその独自の奏法によるピアノの音は、金属的で、打楽器的な、乾いた音になる。
その奏法は、当然のことではあるが、特にジャズミュージシャンに好まれ、ジャズを演奏するための奏法として今日では、定番となっている。
しかし、別の理由でそういった構え方を推奨するClassicの指導者もいる。
桐朋の井口基成先生の一派である。
勿論、クラシックを勉強する音楽家の卵たち全てが、そういった極端な手の形のスタイルをとっているわけではない。
これは、指のウイークポイントをカバーするために考えられた奏法なので、本来は突くtouchを意味する分けではないのだが、弟子達の或る人達はそのまま、jazz奏法のように、突いて演奏している。
井口先生が生きていたら、さぞご立腹だろうよ。
しかし、完全にtouchをした状態(音を出し終わった状態)が、さきほどもいったような狐の顔型の状態になるということは、結果的には音はやはり金属的な硬い音になってしまうので、Classicの音楽の演奏としては、いかがなものか??
指先を伸ばした(弛緩させた)間違えたホームポジションとtouchのままで、ロマン派的な柔らかい音を演奏しようとすると、鍵盤の底までしっかりとtouchされないので、ふわふわとしただらしない音になる。
私達はそれを不誠実な音と呼んでいる。
今日では、こういった誤ったtouchのままで演奏するピアニストたちも多い。
勿論、日本人に限った話であるが。
別の文章に書いていることなので、詳しくは触れないが、ピアノをtouchするということが、「ピアノを響かせる」という意識に繋がって行けば、そういった間違えたテクニックで、音を出すということはあり得ない。
音色、音の重量感、遠音の音、等々、クラシックにはクラシックの音があり、ジャズにはジャズの弾き方がある。
どうして、日本人のピアノ達は、そういったピアノの本来の音に無神経なのか?
それは、日本の音楽大学の教育そのものに、原因を見出す事が出来る。
日本人(特に音大生)のピアノを演奏するという目的(或いは指導すると言う目的)が、「曲をインテンポで間違えずに弾く」という事だけに始終しており、美しいふくよかな、心のあるしっかりした音・・・・、「音そのもの」を目的として、ピアノを勉強する、或いは学ぶということは、全く無いからである。
音楽は、音を楽しむと書く。
美しい音を求める事無しに、音楽を極める事は有り得ない。
っていうか、「極めたい」とも思っている分けではないからね。
ただ、華やかさ、輝かしさを求めているだけなのだから・・・。
だから、軽い音で、充分なのだよ。
Brahmsの逸話の中で、今まさに散歩に出掛けようとしているBrahmsに対して、尊大な紳士が「おい、君!!Brahms博士はご在宅かね?」と、尋ねたら、Brahmsが「あぁ、あなたが訪問しようとしている人は、あそこにいるよ!」と言って、そのまま、散歩に行ってしまった。という話がある。
この話の意味が分かるかな?Brahmsは、何故、そう言ったのだろうかね??
アッ、ハッ、ハッ、ハッ、ハ!!
2008年7月脱稿
江古田の一静庵にて
芦塚陽二