記憶について


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まえがき

人間はどうして忘れるのか?

忘れるためのmethode

記憶のメカニズムについては一般的には次のようなことが言われています。

子供達へのお話・・・「うる覚え」

「映像記憶」

「ケンプ先生の記憶法」
全体の8分の1ぐらいを残して、文章全体が  ぶっ飛んでしまいました。運良くワープロから  パソコンへの移動の時に、OCRをした時の  wordの文章が残っていたので、取り敢えず  その原稿を、このPageに取り込みました。  あくまでも、反故の書き散らしの原稿なので  元の文章とは較べるべくもありませんが、  「ないよりはマシ・・」という事で、ご了解 ください。
芦塚メトードの記憶法

ビットによらない一般の記憶法

子供達へのお話・・・勉強の仕方@

勉強の仕方A

外国語の覚え方

勉強は机に向かってしてはいけない

解説

あとがき

記憶について :追加

記憶法について2、(記憶とは、思い出す訓練)

陸軍中野学校のお話し

記憶(暗譜)とは、習慣である





まえがき

よく「年をとると物忘れが激しくなる」と言われます。

まず固有名詞が思い出せなくなり、次に普通名詞、そして副詞・・・・。
一般的には、年をとれば記憶力が失われていくのが当たり前のように思われています。

・・・・ですが本当にそうでしょうか?

いいえ、それは違います。

記憶力とは加齢によって失われるものではありません。
むしろ、失われていくのは、人生に対しての興味、人や物に対しての興味なのです。
だから、いつまでも仕事で忙しくしている人達には、記憶の減退や、ボケはありません。
物忘れや、人の名前が覚えられないのは、私の場合には高校生の時からですから、その頃から、加齢が始まっていたという事なのかな??アハッ???


よく私が子供たちにいう言葉があります。
それは
「物は使えば使うほど消耗して行くンだけど、使えば使うほど良くなっていくものが唯一つだけある。それは君の脳なのだよ。」ということです。

地方には「あまり幼いときに脳を使いすぎると、大人になってから、逆に馬鹿になってしまう。」という馬鹿げた迷信がある地方もあるようですが、それには何の根拠もありません。
子供は適当に馬鹿な方が可愛い・・(つまり、子供はいつまでも子供らしく・・・)という、大人社会のエゴでしょうかね。
昔のことわざに、「三つ子の魂百まで」ということわざがあるように、3歳、4歳で学んだ事がその人間の人生を決めるのは事実です。


また、子供の内から勉強をし過ぎると、脳を過剰に使用し過ぎて、使用出来る脳が無くなって、馬鹿になってしまう・・とかいうお話は、全く、お笑いで、根拠のない話です。
それは、脳の構造や発達段階を全く知らない人の言うことです。

もし仮に(人間が全く睡眠を必要としないと仮定して)人間が24時間寝ずに勉強を続け、脳をフル活動させ続け一生を過ごしたとしても、脳全体の1/4しか使いきれないのです。
殆んどの人は自分の脳の3/4は全く使わないまま死んでしまいます。

年をとって物忘れがひどくなるというのは、老化に伴って脳細胞が死滅することによって起こります。ですから、死滅しそうになった脳細胞に記憶された情報を未使用の脳細胞に写し替える(記憶しなおす)作業をすれば物忘れはなくなります。

アルツハイマー症のような起因性の病気でない限り記憶力の低下はむしろ人生や物事に対しての新な興味や感動が失われ、記憶をしようという意欲が削がれることによって起こるのです。
言い方を変えれば、新鮮な興味や感動を持ち続けている人は、80、90歳になっても記憶力が低下することはありません。
ある国会議員のように、・・・意識的に自分に都合が悪いことを忘れようとする人は別ですが。

「それは、記憶にはありません!」
それ以外の事は、完璧に覚えているのにね。
いや、不思議だ・・・!!!アハッ!
都合の悪いことは、忘れるようになったら、本当に人生は楽なのにね。



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人間はどうして忘れるのか。      

人間は1/4しか使いきれないほどのキャパシティーをもった脳を持っていたとしても、「忘れる」ということがなされずに、例えば日常の全てのことを記憶していったとすれば、その記憶量は膨大なものになり、あっという間に記憶の量が脳の持つ容量をオーバーしてしまい、パンクしてしまいます。
その為に人間の脳は、自分にとって必要な記憶と、必要でない記憶の「識別」を行います。
自分が見た物、聞いたもの、触ったもの、匂ったもの、味わったもの・・・全ての情報に対して自分にとって大切だと思うものだけをチョイスして記憶しているのです。
「じゃあ、どうして一生懸命覚えようとしているのに、学校の勉強は覚えられないの??」
それは、当たり前のお話です。
一生懸命の意味が違うのよね!!
学校の勉強が好きではなくて、成績を上げるという必要に迫られて覚えようとしているのに過ぎないので、潜在意識的には、本当は覚えたくはないからですよ。

芦塚メトードでは、「人間が必要とするのなら、それは100%完璧に覚えられる」という法則に従っていますが、芦塚メトードの必要絶対条件は、「それを潜在意識的に100%望むのならば・・・」とか、「それをDurst(渇望)するのならば」、という条件を満たす事が出来れば、それは100%叶えられるのですよ。

人間は自己の「無意識」に支配されています。
幾ら必要であったとしても、無意識がそれを
「嫌だ!」と判断するのなら、その記憶は嫌な、不必要な記憶として処理されるのですよ。
但し、コンピューターと同じで、記憶から消去される事はありません。脳の奥にしまい込まれるだけなのです。つまり、無意識の潜在意識となって行くのです。

だから、学校の勉強を全然覚える事が出来ない女の子が、テレビのアイドルの少年達の名前を驚く程、パーフェクトに記憶していますし、また、彼氏の事になると、滅茶苦茶、詳しいのですよ。

私は、可愛い、少女アイドルやスターは、顔は比較的に正確に思い出せるのですが、何度、聞いてもその名前を絶対に覚えられないのですよね。
いや、不思議だ!!

学校の成績では、ビリの生徒が、家庭教師等で、素晴らしい先生に巡り合って、その教科の面白さが分かって来ると、何の努力もなく、アッと言う間に、学校の成績がトップになってしまうのですよ。
勉強が出来るようになるには、なんの努力もいらないのですよ。
ひょっとしたら、その家庭教師の先生の教え方が上手かったのではなく、イケメンだっただけかもしれません。

それでも、女子力で、その先生に認められるために、成績が一気に上がったりする。
中、高生なんて、そんなもんですよ。
学力を上げるのには、勉強なんて必要ない。
しかし、それが一般の人達には分からない。
「勉強は努力の結果だ」と、思い込んでいる。
阿呆らしい・・・!!



この人間のselectのお話をもう少し、根源的にしましょう。

例えば人間の聴覚ですが、人間の耳は聞こえてくる色々な音の中から自分の興味のあるものだけを無意識に選別して聞き出しているのです。

もしそこに「識別」が行われず、全ての音が同じように聞こえるとどのようになるか。
それに近い状態を、私達は機械で作り出す事が出来ます。
それは、録音機器を使用して、360度の無指向牲マイクで周りの音を録音する事です。

時計の針が動く音や、ページをめくるときの紙の音、布ずれの音その時には気づかなかった遠くの子供の泣き声や、車の音等々、私達が、普段、聞こえていなかった音や、意識もしなかった意味の無い音が、思いのほか、やたらと大きく聞えていることが分かります。
無指向性のマイクがない場合には、マイクを天井に向けて周りから音が入らないように、マイクの周りを囲むとインスタントの無指向性のマイクが出来ます。
実際に、自分が注意して聞いていて、その後で、録音の音を聞くと、余りの違いに驚いてしまいます。

でも、この事は、本当は別に、機械や高性能のマイクを使用しなくても、肉体の訓練で、ある程度は体感する事は出来ます。

私が体感したおもしろい例があります。
若い頃は、ある時期には、座禅の道場に通っていました。
座禅をして、ぼんやりと何にもとらわれず、何も考えていないという状態になったときのことです。
周りの音が無指向牲マイクと同じように聞こえて来たのです。
普段は、絶対に聞こえるはずのないようなお線香の灰がおちる音が、「ボタッ」と非常に大きな音に聞こえて来たりするのです。  

こういった感覚は、非日常的な感覚で、非常に不思議な感覚です。
人間は、普段、無意識に、そのような、音の洪水の中から、自分に興味のある音や、その人が気になる情報だけを常に選択して取り出しています。
その束縛を離れた時、本当に日常の周りに溢れている音を聴く事が出来ます。

これは、音に限ったお話ではないのです。
つまり、匂いや、味、触覚等の五感の全てを、常に自分の必要な情報だけを、無意識にselectして、感知しているのです。


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忘れるためのmethode



逆に人間は何故いやなことをいつまでも忘れられないのか、ということも実はこれと同じ原理なのです。「いやなこと」は、それがその人にとって非常に比重の大きいことだから忘れられないのです。脳は、日常の中で興味のあることだけを記憶に留めようとする性質があり、興味の無いことはその場で消去されてしまいます。比較的比重の軽いものは脳の奥の潜在意識にしまわれ、中位のものは前意識という層にしまわれます。そして意識の中に保存されたものだけが「記憶」として私たちの脳の中に蓄積されるのです。

 確かに記憶力には個人差があります。電話番号や歴史に関する年号、数学の公式などのような無意味なものでもいくらでも覚えられる人もいれば、親しい人の名前すらなかなか思い出せずに嘆いている人もいます。現代の日本の教育の現場では、勉強の90%は記憶によるもので、丸暗記さえすればいくらでも成績をあげることができます。しかし、実際に人間の脳の能力には、判断力、理解力、創造力、想像力、構成力、などなどや、それとは別に言葉には言い表しがたいが、閃きというものもあります。そして、その中のたった一つの能力として記憶力があるにすぎないのです。ところが日本の一般的学校教育では、そのたった一つにしかすぎない記憶力を、成績やその人の能力を判断する基準にしてしまうという神話があります。20世紀の学校教育では、その神話に基づいて教育が行われて、進学をし、就職をしてきました。その為に感性や判断力、すぐれた分析力などを持ちながら、ただ単に記憶力が人から劣っている為に、その才能が見過ごされて、落ちこぼれてしまうということがまま多く見受けられてきました。しかし、実社会では記憶力を要求されるウェイトはさほど多くないのです。「プロになるには」にも少し書いていますが、プロとして、著作をしたり、公演を行ったりする場合は、曖昧な記憶というものは絶対に許されるものではありません。その為、年代や人の名前のスペル、単語の一つ一つに至るまで、いちいち文献や辞書による確認の作業がなされなければなりません。きちんとした仕事をするには(どのようにその人の記憶が正確だとしても)記憶に頼ってはならないのです。それなのに、学校教育では「丸暗記」一色の教育がなされているのが現状です。

右脳と左脳の違い・・・右脳信奉者には左脳の長所を認めない。

記憶法の違い・・・老人のボケと記憶法の違い

右脳はひらめき型

左脳は情緒表現にはいいが記憶法には良くない。・・・・俳句のはなし

「天才」と呼ばれる人達に共通していることは、非常に右脳の働きが活発である。ということです。物理学者のアインシュタインや有名な画家のアングル等が、右脳を刺激する音楽に対しての造言旨が深いということはうなずけることです。日本の学習法は左脳教育であり、記憶法自体も左脳に偏った記憶法になっています。それに対しては右脳と左脳のバランスがとれた教育がより望ましいのです。

 私の教え子がある小学校に就職しました。その学校ではクラス対抗で漢字の成績を競っていました。「自分のクラスの漢字の成績がなかなか上がらない。」ということで相談を受け、指導の実際を見てみることになりました。まず、今どのような方法で子供たちに漢字を覚えさせているのかを聞きました。1週間に30個の漢字の課題が出て、毎日6個ずつの漢字を覚えるようにしていました。そして、その6個の一つずつ対して20回(つまり合計120個)漢字を書いて覚えさせるようにしていました。子供が書いたノートを見せてもらいましたが、最初の方はきれいに書いてありますが、だんだんきたなくて雑な字になっていき、20個目に書いた漢字などは細部が曖昧になり、どんな字なのか分からないように書かれていました。そこで、私が先生にアドバイスしたことは、「漢字を覚えられるだけ書きなさい。」というふうに生徒に指導しなさい、ということでした。その通りに実行すると、最初は子供たちも4〜5個くらいは書いていましたが、次第に書く個数が減ってきて、しまいには1個しか書かない子も出てきました。しかし、その1回だけで覚えられるようになったのです。そして、その先生のクラスは全員が100点満点をとれるようになり、学年でトップのクラスになってしまいました。「他の先生にはこの方法を教えてはいけない。」という条件でアドバイスしたので、他のクラスの先生は「どうして?」と不思議がり、やっきになってもっと沢山漢字を書かせるようになりました。最初は20個ずつ書かせていたのに、40個書くようにしたり、学年主任の先生などは、100個ずつ書くように宿題を出し、子供たちは毎日600個も漢字を書かなければいけなくなってしまいました。毎日4時間も漢字を書き、母親が手伝っても間に合わないという状態にまでなり、それでも成績は下がる一方でした。時間をかけてコツコツと600個書いたクラスの成績が下がり、1個ずつしか書かせなかったクラスがトップになったのはどうしてだと思いますか?

 実は、この600個書くという作業は、覚える為の作業ではなく、忘れる為の作業なのです。

 覚える為にはどうすれば良いかという本は沢山出ていますが、忘れるにはどうしたらいいかという本は1冊も見たことがありません。人間は忘れたいことだって沢山あるはずなのにどうしてなのでしょうか。どうして忘れたいと思ったときに忘れられないのか。忘れるということはどういうことなのか。私は高校生の時にそこに着眼し、忘れる為の方法論を創りあげました。

 例えば、大嫌いな人がいたとします。その人のことを名前も思い出せないように忘れたかったとします。それが例えば田中さんという人だったら、まず、その人の名前を別のよく似た名前に覚え直します。例えば田村さんとか。「あの人は田村さん、あの人は田村さん・・・」と自分で思い直すようにします。そして次にはもっと違う名前にしていきます。

例えば村川さんとか。また「あの人は村川さんだ。あの人は村川さんだ。」と覚え直します。そしてまた‥・・・というようにどんどん別の人の名前に置き換えていくのです。

するといつの間にか本当にその人の名前が思い出せなくなってしまいます。違った情報を頭に入れて「思いかえ」をしていくことによって、だんだんそれを曖昧なものにしていくやり方です。

 先程の漢字を沢山書かせたというのは、実はこの記憶を曖昧なものにしていく方法に他なりません。沢山書けば雑に書くようになります。すると漢字の細部をいいかげんに書くようになります。書けば書く程忘れていく「うる覚え」の状態を作りだしているのです。 又、このような「思いかえ」を無意識に行ってしまうタイプの人もいます。自分の都合の良いように過去の出来事などを思いかえていく、という性格の人です。最初は自分に都合の悪い事をひた隠しにする為に嘘を言っていたのに、いつの間にかその記憶がその人の脳の中で都合の良いように書き換えられてしまうのです。困ってしまうのは、それが他の人にとっては全くの架空のことであったとしても、本人はそれを本当のことだと信じてしまっていることです。一種の心の病気とも思われますが、意外とこのタイプの人は私たちの周りにも多くいることに驚かされます。


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 記憶のメカニズムについては一般的には次のようなことが言われています。

ひとつは、「ビット」という考え方です。どちらかというと心理学の分野で使われている言葉です。「ビット」の考え方は、人間が短期記憶で貯蔵できる最大数は7ビットまでである、というものです。7ビットというのは、T−a−m−a−b−0−yという文章があったら、1文字を1ビットとするとこれだけで7ビットになってしいます。しかし、それをTとamとaとboyのそれぞれの単語として記憶すると4ビットになります。あと3ビットは一度に覚えることができます。またこれを一くくりにして「1文章を1ビット」として記憶すれば、あと6ビットは覚えられる、というように、1ビットにくくる量を増やすことによって、人は記憶する量が増えていくという考え方です。

 もうひとつは、ドイツの実験心理学者で、エビングハウスという人が考えた「忘却曲線」というものです。人間が記憶したものが何分で忘れられるのかということを研究しました。それをグラフで書き表したものを「忘却曲線」と言います。要するに忘れる量のグラフです。エビングハウスによれば、意味のない事柄については、記憶の47%が20分以内に、66%が2日後に、79%が31日後に失われる、と言います。その忘却曲線に沿った勉強法が現在の予習、復習をしましょうというものです。常にフイードバックすることで、忘れる→思い出す→忘れる→思い出す‥・・を繰り返して記憶を確実なものにしていこうというものです。人間は常に忘れるという前提に立った考え方です。

 しかし、私が疑問に思ったことは、「人は興味のあることは一度で覚えられるし、しかも忘れないではないか。」ということです。例えば、学校の勉強はなかなか覚えられない子供でも、自分の好きなテレビ番組については、その番組の曜日と時間とチャンネルと、番組に出演する俳優の名前など、こと細かに記憶しています。自分にとって楽しいこと、必要性を感じることなどは、しっかりと覚えられるのです。反対に興味のないことは、頑には入っていても脳の奥深くにしまわれて二度と「記憶の引出し」から出されることがありません。

記憶量は、その人がそれに「どれだけ興味があるか」「どれだけの価値観を持っているか」によるのです。当教室の発表会を見にきたヴァイオリンの先生が「どうして何十曲も覚えられるのか。これだけ弾けるということはきっと毎日泣きながら何百回も弾かされているに違いない。」と思い、子供たちに「きみは毎日何時間位オーケストラの練習をしているの?」と聞いてまわっていました。ところが「オーケストラの練習は月に2〜3回しかありません。」「家ではオーケストラの曲や室内楽の曲は殆んど練習しないかな。」と言う返事しか返ってこなくて全然納得できない様子でした。芦塚メトードが「音楽を好きにさせる教育」であるからこそ楽に確実に覚えられるということは、そう簡単には理解していただけないのです。

 芦塚メトードでは記憶に対しての基本的概念は、一般的な「ビット」の考え方とは根本的に違い、「人間は一瞬で数億ビットでも覚えられ、そして忘れない」という前提のもとに築いたものです。しかしこの覚え方は、私が初めて思いついたものではなく、属に「天才」と呼ばれてきた人たちは皆できることなのです。将棋の天才は、何手日の駒でも思い出して再現することができるし、モーツァルトは1回聴いただけでその曲を再現できるし、天才の絵描きは、一度見ただけの風景を完璧にキャンバスの上に再現することができるのです。その覚え方を一部の天才だけでなく、誰でも習得できるようにカリキュラム化したものが芦塚メトードの記憶法なのです。芦塚メトードでは記憶を色々な面からアプローチします。構造分析による記憶、視覚的(映像)記憶、パターン化による記憶、・・・・・記憶に対する沢山のカリキュラムがあり、一人一人の性格に合った覚え万を習うことができます。しかし、どんなにすぐれたカリキュラムでも、一度「単純に繰り返せば良い」という安易な左脳型記憶法に頭脳が移行してしまうと、(人間はより安易な方に逃げる性質があるので、一度身についた記憶法であったとしても、)元の記憶法に頭脳を戻すには大変な苦労を伴います。

ここでは芦塚メトードの記憶法の全てをお話するにはあまりに膨大すぎて紙面が足りませんので、そのうちのひとつである「映像記憶」について、ご紹介したいと思います。以下は「映像記憶」について、あるオーケストラ練習の日に私が子供たちに話したことをそままに記します。


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子供たちへの話

 「うる覚え」

みんなにまた1つ言葉を覚えてはしいのね。なにかっていうと「うる覚え」という言葉。

人によっては「うろ覚え」とも言う。これがね、アナウンサーなんかもテレビで言ったりする言葉なンだけど、何故か辞書[1]には載っていないことが多いのね。不思議なことに。そういう言葉ってけっこうあるンだよ。「うる覚え」っていうのは、要するになんとなくしか覚えていないところ、目をつぶって思いうかべたときにボヤーツとして思い出せないところ、そういうのを「うる覚え」っていう。

では、うる覚えをなくして正確にしかも速く楽譜を覚えるにはどうしたらいいと思う?

「・・・・・?」

簡単でしょ。楽譜を見ないで練習すればいいんだよ。

「な−んだ。そんなのあたりまえじゃん!」

そっ??

でもそのあたりまえのことがなかなかみんなできないね。じゃあ楽譜を見ないで練習するとどうなるか?見ないで弾けば、うる覚えのところがどこなのかはっきり分かるね。うる覚えのところは弾けなくなっちゃうから。はやく正確に覚えるコツはね、うる覚えなのかをしっかり把握することなんだよ。

どこが




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 「映像記憶」

 モーツァルトは一度楽譜を見ただけで覚えてしまったという。もし曲の最初から順番に目で追っていって覚えていたら、パッと見ただけで覚えられるはずがない。じぁあ、モーツァルトはどうやって覚えたんだろうね。それは、写真のように楽譜を頭の中に写すという覚え万なんだよ。正に1ページ或いは見開きで2ページを1ビットとして覚えられたってわけだ。いや、一楽章が1ビットだったのかもしれない。そうでなければ一瞬のうちに曲を覚えるなんてことできるわけがないからね。では、我々常人がそのような覚え方をマスターするにはどうしたらいいか。よし、じゃあ実際に今やってみようか。楽譜を開いてみよう。最初のページを開いて1秒だけ見る。はい、写真を撮ります。カシャツ。はい楽譜を閉じて。目をつぶって今の楽譜の映像が頑に浮かぶかな?浮かんでこないところがあるでしょ。ぼや−つてしていて見えてこないところ。そしたらそのうる覚えのところを1秒間見る。見るのは1秒だけ。写真を撮るみたいに楽譜を頑の中にカシャッて写してしまえばいい。はい、カシャッ。じゃあ目をつぶって。こうやって何度か繰り返すんだよ。それでは質問です。ではAちゃん。2段目の3小節目は何の音だった?

「ェーツ!わかんない。そういう風に聞かれるの−?」

そうだよ。写真に撮るみたいに覚えるわけだから。じゃあ次Bちゃん。下から3段目の2小節目は?・・・・・

じゃあこの覚え方で全部覚えてくること。宿題。2週間後に同じように質問をしますのでちゃんと答えられるようにしてくること。


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 「ケンプ先生の記憶法」

 このように写真に撮ったように覚えるやり方は、世界一級の演奏家はみんなやってるね。

例えば、ピアノが神様のように上手な人、ウィルヘルム・ケンプ先生っていう有名なピアニストがいます。ある時ケンプ先生が日本に演奏しに来たときのこと。おもしろい話がある。ピアニストが来日すると、大抵は日本中をまわって演奏会をするんだけどね。そのときもケンプ先生は、四国に演奏会をする為に、フェリーに乗って移動していたんだ。四国についたらその日の晩に演奏会をすることになっていた。で、ある人がケンプ先生に相談をもちかけてきたのね。「今日の演奏する曲を変更して、バッハのフーガの技巧を弾いてもらえないか。」っていうことだった。その曲は、全部通すと4時間くらいかかるとってもながーい曲なんだけどね。ケンプ先生もその曲を弾くのは久しぶりだったわけ。そこでケンプ先生はどうしたかというと、「私に20分だけ時間をください」と言って目をつぶってしまった。

「ねちゃったの?」

いやいや、別にねむかったわけではない。目をつぶって何をしていたか。その曲をずっと思い出していたんだよ。頑の中でずっとね。もちろん、手元に楽譜なんかないわけよね。

その曲は弾く予定じゃなかったんだから。そして、20分したらパッと目をあけて、「はい。分かりました。全部覚えていました。フーガの技巧を弾きましょう。」と返事をしたんだって。

「すっご−い!」

うん。ただね、すごいことはすごいけど、不思議だと思わない? 4時間かかる曲をなんで20分で思い出せるのかね?

「そ−いえば、そ−だよね」

最初から順番に思い出していったら絶対4時間かかると思わない?

「うん。」

だから、ケンプ先生の覚え方は、写真にとるような映像の記憶法なんだね。映像記憶だと、1ページを思い出すのに1秒しかかからない。そのページの中でもし「うる覚え」のところがあったら、そこをもう一度おもい起こして、合計してもやっぱり20分しかかからないんだよ。

「なるはど。」


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芦塚メトードの記憶法

この「写真にとるみたいに覚える方法」はね、うちの教室でしか教えてもらえない方法なんだよ。

「えっ? そうなの?」

うん。だって学校でそんなこと習ったことないでしょ。塾に行ってる人は?勉強の内容は教えてくれるけどね。じゃあ、それをどうやって勉強したらいいか、どうやって覚えたらいいか、それは誰も教えてくれないでしょ。

「うん、うん。そうだね。」

普通、音楽教室とかで教わるのは、沢山練習して覚えるまで何度も繰り返し弾くようにっていう覚え方ね。だからみんな曲を最初から通して何度も弾く。この覚え方はね、お経の覚え方とそっくりだね。だから、1か所でも忘れてしまうと「次はなんだっけ?」というのが思い出せないんだ。それに、「今25小節日の3拍日の昔が違ってたよ。」って注意されても、楽譜を見てもそれがどこなのか分からない。また最初っから弾いていかないと25小節目を思い出すことができないんだ。だから、発表会で曲の最初の方で間違えたり忘れちゃったりすると悲惨なことになってしまう。

「そしたらどうするの?」

しょうがない。また最初から弾きなおすしかない。

「また同じところ忘れちゃったら?」

う−ん。困っちゃうね。だから、他の教室の発表会なんかを聴きに行くと舞台の上でとんでもないことが起こっていることがよくある。止まったり、弾きなおしたり、曲の半分以上ぶっとばしちゃったり・・・・・。忘れたら次の小節から入ってくればいいっていうのは、うちの教室だからできることなんだよ。いつもオーケストラ練習のときにやっているでしょ。練習番号を言ったらそこから入れるように、小節番号でも、何ページの何段目と言われても入れるように、それから、ソロのパートを聴いてすぐ入ってくる練習・・・・もちろん、自分のパート譜にはソロのパートは書いてないけど、それでもソロパートを聴けばどこを弾いているのかすぐ分かっちゃう。ソリストが間違えて3小節とばしちゃったらオーケストラも皆で3小節とばすとかもよくやっていることだね。だから本番でソロの子が間違えたりしても、その忘れた拍の分だけ空白にして、拍がずれないようにすぐ入ってこれる。みんなはあたりまえだと思ってるかもしれないけど、実はこれ、すごいことなのよ。コンマスの「助っ人」練習もあるでしょ。ソロの子が落ちちゃったら、コンマスの子が忘れた所だけ代わりに弾いてあげて、ソロの子が思い出して入ってきたらコンマスは自分のパートにもどる。これもね、うちの教室では普通のことだけど、音楽教育の専門家が見ると「ぎょっ」としてしまう。この前のオーケストラの顔合わせのときには先輩のチェロのAくんがおもしろいことをやっていたよね。顔あわせの時の曲目紹介で、上級生が模範演奏をして聞かせてあげるでしょ。そのときにたまたまAくんがいたから「この曲は何度も発表会でやっている曲だからAくんも絶対弾いたことがある」と先生たちは思い込んでいて、「模範演奏をするからチェロパート弾いて」と言って弾かせた。先生たちはAくんが弾いたことのある曲だと思っていたから楽譜も渡さずに暗譜で弾かせた。Aくんは何も言わずに暗譜で模範演奏していたんだけど、終わってから「先生、僕、この曲弾いたことありません。」って言うんだよね。「あれっ?そうだっけ。でも暗譜してたからいいじゃない。」って言って笑ってしまった。一度も楽譜を見たことがなくても聴いたことがあるというだけで覚えてしまうというのもうちの教室の特徴なんだよ。


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ビットによらない一般の記憶法

 一般に知られている記憶法もいくつかあります。その一つに「サブリミナル」というものがあります。つい最近では、あるテレビ局がオウム真理教の麻原教祖の映像をニュース番組の途中にほんの一瞬割り込ませたということで大問題になりました。テレビなどの映像は、1秒間に約30コマの映像を送っていますが、そのうちの1コマに全然関係のない映像を割り込ませ、人の潜在意識に記憶させ、無意識のうちにその影響を受けるという効果のことを「サブリミナル効果」と言います。
人間の目には1秒に約240本の操作線が
走っています。人間の目が見た物を認識するには、最短1/60秒が臨界です。

(1/240秒では1本の操作線にしか写らないことになり、認識ができません。)無意識のうちに人に記憶させるには、1/30秒で十分なのです。

 アメリカで、サブリミナル効果の実験が行われました。ある映画館で、普通の映画の映像の間に1コマだけ全くストーリーとは関係の無い映像を割り込ませるというものです。最初に乾ききった広い砂漠の映像を、しばらくした後に冷たくよく冷えたコカ・コーラの映像をそれぞれ1コマずつ割り込ませました。映画を見終わったお客さんたちは、喉の渇きを感じ、コカ・コーラを買いに走ったという、アメリカの有名な実験です。

そういう風にサブリミナル効果というのは一瞬にして記憶に残すことができるけれど、記憶した本人は覚えたことすら分からないという欠点があります。だから、ヒットラーのような人がマインドコントロールに使うことはできますが、自分の為の記憶法としてはあまりにも危険が多いのです。

 それとよく似た方法で「速読」というのがあります。本を読むのに順番に読んでいくのではなく、ページをパーッとめくって一瞬だけ見て、それを2〜3回だけやって覚えるというもので、これもサブリミナルと同様に無意識に記憶される記憶法です。その為、頑には入っていても、本人が自分の意識として自覚することができません。韓国では20年程前にこの「速読法」が盛んに取り上げられていて、それを日本にも取り入れるべきかどうかという相談を受けたことがあります。当時はまだ南北の対立が深刻な時代でした。そのときに韓国の小、中学生が使っていた「速読法」の教科書を見せていただきましたが、内容的に非常に国民色、軍事色の強いものでした。私はそれに心を傷め、速読法は国家的な教育方針(文部省のカリキュラム)からは外すことを提言しました。

 潜在意識に記憶させる記憶法としては、他に催眠学習法というものもあります。眠るときにテープを聞いて記憶するというものです。この場合、テープに吹き込まれたその人の読み癖なども全くそのままに記憶され同じになってしまうという欠点があります。又、覚醒状態から睡眠に移行する中間地点の催眠状態というのはほんの数分しかありません。その為、市販の催眠学習横というのはほとんど役に立たないのです。催眠学習を効果的に使用するには、催眠術師の手助けを得るか、もしくは自己催眠法をマスターしてからでなければならないのです。自己催眠法は、自律神経失調症の人がリハビリに使ったり、スポーツ選手が自分の力を最大限に発揮する為に訓練を受ける、といったことには成果をあげているようです。

 それに対してサブリミナルや速読法は、企業のエゴイズムや軍事目的に使われる危険性をはらんでいます。現に第2次対戦の時に軍事目的として開発された洗脳の手段なのですから。そのことを私たちは忘れてはならないのです。 記憶とは、「本人の意思をもってなされるべきである」というのが芦塚メトードの考え方なのです。

 正しいシステムを学べば記憶力をつけるということは決して難しいことではありません。

最初に記述したように、記憶力の低下は年齢に関係は無いし、年をとってからでも記憶力を増大させるということは十二分に可能です。基本的に記憶力というのは、それ自体では学校の成績を上げる以外に何の役に立つものではないのです。いたずらに計算問題を沢山やったとしても、現に実際の大学入試では電卓使用可のところもあり、辞書の使用を認めている大学も数多くあります。記憶力や計算力よりも分析力や構成力などを重視する大学が増えてきているのです。

 記憶力だけを重視した教育の結果はどうでしょう。あるテレビ番組で、東大生や京大生を集めて、小学校や中学校の入試の試験問題をやらせるというものがありました。平均解答率は50%にも達しませんでした。現役の大学生(しかも日本でトップの)がこの有り様です。ましてや大学を卒業して10年もたった人たちではどのようなひどい結果になることでしょうか。

 英語の教育についても大きな疑問があります。私が高校生の時にアメリカから交換留学生が来ました。彼は英語の試験で60点しかとれませんでした。学年トップの子が80点をとっているにも係わらずです。彼が言ったことは「アメリカの国語のテストよりも難しかった。」ということです。ところが、80点をとった学年トップの子は英語を片言もしゃべれないのです。学習が他の先進国よりも遅れていると思われている東南アジアでは、小学校4、5年生から英語の授業があり、半年もたたないうちにアメリカ人の先生と普通の会話ができるまでに上達しています。日本では英語の先生でさえ会話ができる人は何人いるのでしょか。

 本来の正しい勉強のスタイルとは、前にも述べたように分析力、理解力、構成力、創造力、想像力、閃き・・・等をバランスよく育てるということです。又、学校教育に望まれるのは、勉強だけではなく、社会性や感受性、おもいやり、責任感・・・・・といった人間性に関することも当然集団教育の中で養われるべきことなのですが、今は望むべくもない状況になってしまいました。世界の教育スタイルに対して、日本の教育がいかに歪んでいるかということは、これまでに数々の講演や論文で明らかにしてきました。成績を上げるということは取るに足らないことで、本来的には「何のために、何を、どのようにして学ぶか」ということだけで十分なのです。やみくもに時間をかけて勉強するのではなく、より少ない時間で効率よく楽しく学習することができれば、理解力、分析力、等が身に付き、おのずと記憶力はついてくるものなのです。

以下には、学校の勉強法について子供たちに話したことをそのままに記します。直接記憶法とは関係ありませんが、芦塚メトードによる学習法のほんの一部を少しでも、勉強の仕方の参考にしていただければと思い掲載致しました。勉強法を工夫することによって、成績を上げることができます。


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子供たちへの話

勉強の仕方@

あのね。学校の勉強もね、楽譜の覚え方と同じように時間をかけないでやるんだよ。

ある生徒が教室に入会してきてね。そのお母さんが「うちの子は学校の成績が悪くて」って言ってたんだけどね。先生は2つだけそのお母さんにアドバイスをしてあげた。まず1つは、学校でノートをとってはいけません。

「え−? なんで?」

皆は知らないかもしれないけれど、アメリカやヨーロッパの学校では先生がしゃべっているときにノートをとるととても厳しく怒られます。

「え−? ほんとですか。どうして?」

人間というのはね、同時に2つのことに集中するということはできないのだよ。ノートを書いているときには、理解力や判断力、記憶力などが失われてしまうんだよ。アメリカやヨーロッパの授業では、先生の言ったことを生徒がいかにその場で理解できているか。ということが一番大切にされるんだ。だからノートに書かなくても後でレポートをコピーして渡せばいいし、授業中は先生の話しを集中して聞くことができる。そこには「学校で教わったことは、学校の中で、一回で理解しなければならない。」という前提があるんだ。

 それでその子にもう一つアドバイスした。もし、その授業で分からないことがあったら休み時間でもなんでもいいから、先生に聞いて分からないことが1つも無いようにして家にかえること。だから、家には絶対に教科書をもってかえらないこと。学校の勉強は学校で全ておわらせて家ではヴァイオリンの練習に専念すること。以上のようなことをアドバイスしたんだよ。それで「はい。分かりました。」と言って帰ったんだけど、その子はそれをずっと守って続けたのね。そしたら高校卒業するまで学年でトップをとおしたよ。

「え−つ。すごい」

先生もね。中学生の頃はいつも学年トップでね。勉強が楽しくて楽しくてしょうがなかったのね。試験なんかがあるとうれしくなっちゃうくらい。で、高校も県で一番の高校に行ったわけ。その学校から毎年東大に10人も20人も入るっていうすごい進学校でね。だけどほら。先生は音楽の方に進みたいってその学校に入っちゃってから決めたのね。だから音楽の作曲の勉強とかピアノの練習とかしなくちゃいけない。でも、学校も留年するわけにはいかない。で、どうしたと思う?教科書は一度も家にもって帰ったことはなかったね。それで、試験の10分前に友達に「おい。今日の試験はどこがポイントなんだ?」と聞いて教えてもらう。そしてその10分で覚えてしまう。それで県で一番の高校を卒業できちゃったからね。で、家に帰ったら楽典やらピアノの練習やら音楽の勉強ばっかりやってたわけ。

勉強の仕方A

みんな学校の勉強はどういう風にやってる?いい勉強の仕方があるんだけどね。まずなるべくうすーい問題集を買ってくる。で、それをざーっと解いてみる。わからない問題はそこで考えないでとばしてやってしまう。とにかく時間をかけないで。そしたら、その出来なかった問題を別のノートに写すんだ。そしたら出来なかった問題集ができる。そして、参考書をみるなり先生に聞くなりしてそのできなかった問題をできるようにする。で、またそれをザーッと解いてみる。そしたら出来ない問題は減ってくるね。で、全部できるようになるまで、もう問題を覚えてしまうくらいまでとことんやる。で、その薄い問題集が全部クリアーできたら、今度はもう少し厚めの問題集を同じようにやる。でも、殆ど内容は同じだから、最初にやった問題集よりはスラスラできるね。その問題集が全部終わったらまたもう少し厚いのに挑戦する。できなかった問題だけをやればいいから時間も少なくていいね。これを例えば、算数を10分、国語を10分とかって、10分で全部の問題をざーっと解くようにすればいいんだよ。


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外国語の覚え方

先生は音大に入ってから、外人教授についたから、ドイツ語もおぼえなきゃいけなかったね。留学したら全部周りはドイツ語でしょ。で、最初語学学校に行ったのね。そしたら、ドイツの語学学校にはドイツ人はいなかったんだよね。不思議なことに。

「・・・・・・?」

あたりまえでしょ。日本語学校に日本人はいかないでしょ?

「あっ。そうか。」

ドイツ語学校に行ったら周りにドイツ人がいないんだよね。それで2ケ月も通わないで止めてしまったわけ。でもドイツの先生にレッスン習ってたんだよ。

「えーっ。じゃあドイツ語どうしたの?」

うん。そのドイツ人の先生に「きみ、ドイツ語はどこでおぼえたのかね」ってきかれたんだけど僕はこうこたえたよ。「ドイツ語は道の上で覚えました。」

「あはははは」

道の上ならドイツ人もいっぱいいるし、ドイツ語をしゃべる機会も沢山あるってわけ。


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勉強は机に向かってしてはいけない??

先生がドイツにいるときはね、毎日掃除をしてた。掃除をしてくれる係の人がいるのになんで掃除を自分でやってるの?ってきかれたんだけど、掃除をしながら実は作曲の構想を練っていたんだよ。掃除のために掃除をしているのではなくって、作曲の勉強の為に掃除をしていたんだよ。部屋が片づいていくと頑の中もすっきりと片づいてくるしね。人間はね何かしているとき、体を動かしているときに一番いいアイディアが浮かぶんだよ。ベートーベンもね、作曲をするときは散歩しながらしていたんだよ。ず−つと曲のことを考えながら歩いていたら、ふと気づいたら隣の町までいつのまにか来てしまっていた。っていう話もある。だからね、勉強はみんな机にむかってやるもんだと思っているかもしれないけど、それは大きな間違い。勉強とか覚えたりとかは、歩きながらするのが一番いい。

よく「ちゃんと机に向かって勉強しなさい」って言うけど、大抵の人は机に向かっている時間の半分はボーツとして別のことを考えているんじゃないかな?それでも親というのは子供が机の前に座っていると勉強していると思って安心する。これはとても変なことだと僕は思うよ。


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「解説」

子供の能力を育てるということが、ただ単に学校の成績を上げれば良いのだとすれば、それはとても簡単なことです。それには、前文に記したように勉強の仕方や方法論について工夫するだけで十分なのですから。東京にもいくつか優れた塾があります。そこでは、例えば数学の公式が、何の為にどういう方法で導かれたかということを子供たちに理解させるように指導しています。円周率が3.1415・・・・という数字は誰でもご存じと思います。でも、これが何と何の比であるかということを(小学校のときに習ったにも係わらず)覚えている人は多分少ないと思います。歴史に於いても同じようなことが言えますし、漢字一つにしてもどうしてそういう漢字になったのか、ということを教わる機会は少ないでしょう。分析力や判断力を身につけることができれば、或いは理解力や構成力をマスターすることができれば、生きていく上で一生役に立ちます。一人一人の子供たちの能力の開発とは、そういうものでなければなりません。又、音楽の勉強では一般社会で必要欠くべからざる、忍耐力や持久力、継続力等も身につけることができます。勿論、ただ音楽を学んだからと言ってそういうものが身に付くわけではありません。それは、芦塚メトードのカリキュラムの中にそういったものを含ませて構成させているからなのです。又、カリキュラムは、ありとあらゆる目的を持った生徒たちを対象にして書かれています。プロになる為にはプロになる為の、生涯教育としては生涯教育の為の、といったように、それぞれの家庭の目的に応じていくつものカリキュラムが複雑に構成されています。それぞれがこの記憶法のように、ひとつひとつのマニュアルを持って作られています。ただ、こういった論文の紙面上では、技術的な内容や指導マニュアルについて詳しく記述してしまうと、一般の方にとっては理解不能な非常に難しい領域となってしまい、おもしろくない論文になってしまいます。ですからどうしても共通の接点である「教育」を話題の中心とせざるを得ません。ですが、音楽を専門に勉強したい方や、インストラクターをめざす方、音楽の指導の勉強をしたい方には、専門的なレクチャーをしています。ソフトの流出を恐れて閉鎖的に当教室だけのマニュアルに留めようとしているわけではないのです。ですから、レッスンの聴講はいっでもできますし、色々な相談に応じたり、公開レッスンなども行っています。芦塚メトードの記憶法は大手の業者などの専門家の間では有名で、音楽とは関係のない大手の学習塾などが、記憶法のソフトを買いたいということで引き合いにきます。皆さんもよくご存じのKUMON式のくもんさんも見えられて、ぜひソフトを買いたいというお話しもありました。ただし、当方としては、「芦塚メトード」の名前でソフトを売りたいという、どうしても譲れない条件がありました。そのことで話しがまとまらず、結局KUMONは将棋の記憶メトードを取り入れることにしました。別のソフトの話しですが、NHKからもぜひソフトを売ってほしい、金額はいくらでも出しますから、というお話しがありましたが、同じようにNHKのマニュアルとして使いたく、芦塚メトードの名前を残すことはできない、という条件でした。「芦塚メトードの名前で」という条件さえ受け入れられれば、可能な限りマニュアルを提供し、公開したいと思っています。

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あとがき

 一般的に、優しく、しからず、楽しい音楽教室はレベルが低く、音大受験や海外留学するような高いレベルの先生は、厳しいと言われています。当教室のレベルを見て、「あの教室は入会するにも試験があって、とても厳しい教室だ。」という噂が広まってしまい、困ったことがあります。優しくて楽しいことと、技術レベルが高いということは、通常では両立しないのです。このような一般論は、技術とかカリキュラムというものと、「厳しさ」というものを取り違えていることに起因しています。日本での「厳しさ」とは、ただ単にこうるさい、ヒステリックに怒鳴る、威圧する、冷たく突き放す・・・・そういった態度のことを言っているにすぎません。そして、厳しい=えらい先生=レベルが高い、というふうに考える傾向が強いのです。しかし、本当の「厳しさ」とは、そういうものではないのです。私が生徒の指導にあたっているときに、槙で見ていたお母様が、「芦塚先生ってすごく厳しいのね。」と、子供に言いました。ところが子供の方は「芦塚先生はとっても優しいよ。」と言います。母親はその受けているレッスンの内容を見て厳しいととらえるのに対して、子供はその課題の与え方や人当たりの柔らかさによって優しいととらえます。ちょうど、口に苦い良薬を、砂糖やチョコレートや色々な調味料を加えることによって、とてもおいしいお菓子のようにして子供に与えているのと似ています。この調味料にあたるカリキュラムがあるからこそ「優しい」「楽しい」ということと、技術レベルを上げることが両立するのです。ところが、それは通常ではあり得ないことなので、一般の方が教室のイメージをどうとらえていいのかとても分かりにくいということが言えます。当教室では、一番最初の初歩の段階から基本をしっかりと教えます。楽器の持ち万、座り方、指のタッチ,弓の持ち方・‥等に対する細かい指導だけではなく、レッスンの挨拶等のしつけに関する部分も細かく指導しています。これらのことを初歩の段階で指導する為には、インストラクターはその内容だけではなく、指導法や楽曲研究、心理学などを総合して勉強しなければなりません。これまでにお話ししてきた記憶法についても、これらはHow toにしかすぎません。それらをいかにして子供たちに楽しく分かりやすくゲーム感覚で、しかも内容に関しては一切の妥協を許さずに習得させるか、というもうひとつのポイントがあるのです。色々な楽器の奏法の技術も同様で、楽しく無駄なく習得する方法を何種類も作って子供に与えることによって初めて「優しく」しかも技術を上げるということを両立させることができるのです。

 前述の漢字の記憶のことにしても、どうして学校の先生が20個書くことをやめさせることができないのだと思いますか?それはただ単に書く個数を1個にするだけでは、それを覚えるには至らないし、1個書くだけで覚えられるということが現実に起こるということが信じられないからなのです。それは、1回で覚えるためのゲームを考えたり、1つだけ書くことに対する価値づけを子供たちに話したり、覚えることの楽しみ方を教えたり・・・といったマニュアル的な操作が伴って初めて実現することなのです。一見楽しく遊んでいるように見えて最大の効果を上げることができるのは、システムとマニアル、そしてそれを習得しようとするインストラクターの努力があってこそなのです。このシステムをもってすれば、(親が望むのならば)楽しくレッスンを受けながらも音大や留学、コンクールレベルまでに上達させることは可能です。子供は「楽しいから」「好きだから」つらいことでも乗り越えていけます。楽しくて好きで、どんなにつらくても頑張れる、こんなにすばらしい理想の教育は他にはないのです。

 子供の教育が一番難しい時期は、幼児や小学校低学年ではなく、むしろ小学校5、6年生から高校生になるまでの時期です。男の子の場合には基本的には一貫したシステムで教育できますが、女の子の場合は大変難しいのです。小学校5,6年生までは通常の教育システムで育てることができますが、6年生から中学1年生にかけて体の成長に伴い、思春期挫折症候群という状態に入ります。体の成長の為にエネルギーの大半が使われることによって、学校の成績や記憶力、体力が、通常の60%〜50%くらいにまでに落ちます。

もちろん、ヴァイオリンやピアノのレッスンを受けていても、なかなか身に入らないという症状がおこります。学校では、沢山の生徒たちを一同に会して指導するので、2,3名の生徒がその状態に陥っても、それに合わせてカリキュラムを変更することはできませんが、私たちの教室では、マンツーマンの指導ですので、その子の能力の低下に合わせて、本人にも周りにも気づかれないようにレベルダウンを図ります。この時期は、半年から約1年程度続きます。その時期が終わると体調は急激に復調してきて、子供たちは自分が何でもできるような錯覚に陥ります。又、ちょうどその時期はギャングエイジとも言われ、友達や周囲に目がいく時期ですので色々なことをやりたがる時期でもあります。しかし、出発点は能力が60%に落ちたところからのものなので、この時期に色々なことをさせてしまうと、その子の成績や能力は60%のままに確定してしまうのです。ですからこの時期には、5,6年生までに積み上げたものを、元のレベルまで戻すことに専念させると、とても優れた資質を育て上げることができます。中学2年生〜3年生、高校1年生くらいまでの間の女の子は異性に関心が移ります。体は成熟していても精神的には未発達の時期なので、そこで大人の目が届かないと、大変なことにもなる危険な年齢でもあります。高校1年の夏噴から2年の夏ごろにかけてやっと精神的にも分別のある大人に成長します。進学や一生の色々なことも自分の力で判断が出来、又、周りの批判なども正しくできるようになります。こういった内容は、「思春期の挫折」という講座や色々な講座で詳しく説明してありますので、またの機会にパンフレットを配ることにします。

一静庵庵主 
江古田の寓居にて
2002年 315


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記憶について追加

文学型記憶とパターン認識型記憶

人間の記憶の方法には、「文学型」もしくは「日本型」と、「パターン認識型」の2種類があります。
前者は、文章を覚えるように、一節一節を一つの流れとして覚えていく方法で、後者は図形的に絵を見て覚えるような方法です。私どもが研究し、子供たちに指導しているカリキュラには、この後者の「パターン認識型」を応用しています。音楽は一見順に流れを追っていくお経のような要素が強いように思われがちですが、実はそうではないのです。

何度もレコードを聴いて真似したり、繰り返し何度も練習して指だけで覚えていく「文学型記憶法」は、その中の一つを忘れてしまうと、後の残りの音符が全く思い出せないという欠点をもっています。文章等の記憶も同じです。たった一つの簡単な文章の、なにがしかの単語が出てこなかったばかりに、残りの膨大な文章が全く思い出せなくなるという事があります。文学型記憶によって覚えたものは、理解をするにしても、理解をしたものを修正していくにしても、非常に大きな苦労を伴います。例えば「25小節日の3拍日の音が違っていましたよ。」と注意しても、曲の最初から弾いていかない限り、25小節目を思い出すことができないからです。次第に先生からの注意が聞けなくなり、自己中心的に凝り固まりやすい、という非常に大きな欠点を持っています。

それに対して、いわゆる「映像認識型記憶法」というものは、どのようなセンテンスが仮に欠落しても、次の文章へ、次のパッセージヘ、次の記憶へ入っていく事が出来る、という特徴を持っています。つまり、欠落した部分はそのまま空白になって、その次の記憶に飛び込める、という長所があるのです。

理解力の良し悪しや判断力の良し悪しというのは、多分にこの映像認識型記憶によるものがより優れていています。映像認識型記憶法というのは、音楽や勉強だけに留まらず、日常の記憶にも頭脳のトレーニングを必然的に経験していくので、老人ボケなどになりにくい、というメリットも持っています。 以前、他の教室から替わってきた生徒で、文学的記憶法を取っている子供や、ある程度年齢がいった中、高生ぐらいの生徒達に、実験的にパターン認識型の記憶法にチェンジするいろいろなカリキュラムを試みたことがあります。その一つは、暗譜の問題です。同じパターンから次のパターンに移るときに、どの音をきっかけに次のパターンに移るかという意識をもてるようにしたり、絵を一瞬だけ見て覚えるなど、図形的に記憶をするトレーニングをしてみました。その結果、学校の成績が顕著に上がってくるといった成果がみられました。

記憶法を私が試みるきっかけになったのは、俸大な昔の作曲家達(いわゆる天才と呼ばれる人達)が、記憶に関して非常に特徴のある記憶の仕方をするということを知ったことでした。それは、演奏時間が3時間にもなるようなシンフォニーの全楽章を、瞬間的に思い出す事が出来る、という特徴です。膨大な情報を一瞬で覚える(思い出す)には、映像的記憶でしかあり得ないことだと気づいたわけです。


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記憶法について2.(記憶とは、思い出す訓練)

よく教育の現場では、「しっかりと覚えなさい。 とか「何度も書いて覚えなさい。」といったことが言われています。これは「覚える」ということを一生懸命にやらせているわけですが、記憶のメカニズムを分析したときには、これがいかに無駄なことであるかがわかります。私共のメソード(カリキュラム)で古享節理学の研究や頭脳のメカニズムから記憶の方法をあみだしています。それは、「覚えることに時間をかけてはいけない。」とし増噂のです。「記憶」とは、「覚える」のではなく、「思い出す」ものであるからなのです。「覚える」ことを一生懸命やってはいけない。「思い出す」訓練をするのです。

人の脳について、いくつかのおもしろい事実があります。



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陸軍中野学校のお話し

これは、陸軍中野学校で実際に行われていた教育ですが、軍人やスパイなどを養成するのに、記憶に関する厳しい訓練が行われていました。それは、まず、2〜3時間遭を歩かせた後、「黒い帽子をかぶった人とすれちがったはずだけど、その人の人相、服装、すれ違った時間を答えなさい。」という質問をする。といったものです。答えられなければ厳しい罰があたえられました。この方法は、記憶しようとして覚えるのではなく、ただ漠然と目の前で起こったことを、「思い出す」訓練なのです。潜在意識の中には、目で見たものは全てインプットされていて、それを潜在意識の中から引き出す訓練をしているわけです



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記憶(暗譜)とは習慣である

記憶だけでなく、学習するということはなんでもそうですが、最初の1曲目を覚えるのは大変です。しかしそれを乗り越えてしまうと憶えるのが習慣になり、楽に簡単になります。

あるコンクールを初めて受けた生徒が「今回こんなに大変だったのに、もっと上をめざすとしたらもっと大変だからもうやめたい」と言いましたが、果たしてそうでしょうか?次に受けるときにはそれまでの実力の上につみあげればよいのだから倍たいへんになるということはないのです。今回1つのことを習得するのに大変苦労したとしても、次回はそれはもう身についていることなのでもっと楽に出来るはずです。習得していけば逆に楽にこなせるようになって行くのです。記憶力も同じです。さいしょAのことを覚えるのに10のエネルギーが必要だったとしても、次に憶えるときは5のエネルギーですみます。だから同じエネルギーで倍のことが覚えられるのです。そしてそれに習慣性がつけば、もっと楽になり、なにもしなくても頭に入っている(いつでも引き出せる)という状態になるのです。


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脚注

[1] NHKなどのアナウンサーでも「うる覚え」という言葉を使用しているようですが、殆んどの辞書では「うる憶え」という言葉は出てきません。そのうる憶えが載っている極わずかな辞書も、「うる憶え」ではなく「うろ覚え」として書かれています。うろ=洞、「ほこら」のなかの薄暗い感じのような覚え方と言う意味に書かれています。この解釈は間違いだと思いますが、権威のある辞書に逆らう気はありません。「長いものには巻かれろ。」「親方日の丸。」等々

 

 


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