芦塚メトードによるデジタル型の仕事法
または怠け者の仕事法
芦塚メトードの1番大切な骨子は「時短」であると言えるでしょう。
しかし、一般では「時短」は、「手抜き」とよく誤解されることがあります。
私がよく「無駄な練習をしてはいけない。練習をして、10回間違えるのなら、正しい練習を1回した方が良い。」とか、「その練習で何をどう練習するのか、無意味に場当たりで練習をするのなら、練習しない方がましだ。」というような言い方をすると、それを自分なりに都合よく誤解して「練習をしなくてもいいんだ!」という風に解釈されることがあります。
「芦塚メトードならば、練習しなくても上手くなる」・・そんな美味い話は何処にもないし、私も言った覚えはありませんよ。
「時短」とは無駄を省いて、効率を上げる・・という意味です。
時短の法則は、仕事の徹底した能率化であり、努力や時間よりも、ノルマを中心にした考え方なのです。無駄な努力と徒な時間を費やす事を止めて、その無駄な時間を頭を使って効率よく仕事をするという意味なのです。
それは日本人の本質的に持っている、儒教的な根性主義的な考え方や、努力中心の精神論と正反対の日本人のもっとも忌み嫌う考え方でもあるのです。
もしも、同じ時間を作業するのなら、「時短のテクニック」を駆使して作業した方が、勤勉にコツコツ努力するよりも数倍、能率的に仕事が出来る・・という事なのですよ。
10年ほど前にパソコンがやっと一般にも普及しはじめたとき、外注のパソコンの作業は、ほとんどが時給制でした。
ですから、教室の管理運営をパソコンでシステム化を自称プログラマーに人達にお願いしたのですが、私のプログラムを見て、「これは簡単です。直ぐに出来ます。」と言ったのにもかかわらず、1年掛かっても、全く作る事が出来なくて、しかし、こちらは毎月、時給として高いギャラを払わなければならなくて、頭に来たことがよくあります。その人達は、結局、何一つ作る事が出来ないままに逃げてしまいました。
つまり、腕のいい職人だったら、半分や3分の1の時間で同じ仕事が出来るだろうから、その分少し割増でギャラを払ったとしても、その分、私達も早めに仕事をスタート出来るので、私たちにとっても、その分のメリットが大きいわけです。
今はパソコンの世界は、どういう風になっているのか分かりませんが、教室にパソコンを導入した頃は、ソフトの開発をお願いする時でも、出来上がるまでの時間で請求されて、「そんな仕事のやり方なんて、あるのかな!?」と、憤慨していましたが、それがパソコン黎明期のパソコン業者の一般的な考え方だったのです。
ある時に、生徒さんの税理士の方から相談を受けたことがあります。
「税金の入力作業を学生のバイトで雇いたいのだが、数字の入力は一文字でも間違えたら困る作業だし、あまり時間がかかっても困るので、どういうふうに募集したらよいのか?」というご相談でした。
彼は、よりよい学生を求めるために、「時給に対する料金を相場よりも、かなり高額に設定しようかな?と思っているのだが・・・」と、私に相談してきました。
それで、私は 「時給を高額に設定するよりも、ノルマ給にすればよい。」とアドバイスしました。
そうすれば、仕事の早い人たちにとっては、お金にもなるし、仕事が早く終わったら、自分の時間にゆとりを持って使うことが出来るので、二重にメリットがあるし、雇う側も、それで仕事が早く、ミスを犯さない優秀な人材をより確かに確保できるので、税理士さんも、自分の仕事に早く取り掛かる事が出来るので、一石二鳥の話となるのです。
パソコンに数字を入力する作業やその仕事のミスの多い少ない等、単純作業による仕事の格差は、寧ろ、個人の能力に起因する事が多いと思われます。
心理学のテストの中にも、人の基本的な作業の能力を計るテストが、それこそ無数にあります。
実は、私は生まれつき、とてもぶきっちょで、大学生の時に、図書館の資料の整理の作業を手伝っていた時でも、簡単な作業をA⇒B⇒C⇒Dとこなしてその作業をワン・クールとして、同じ作業を繰り返して行く、という単純な図書館の仕事の一つだったのですが、他の人達がワン・クールの作業を終わる時、私が半分も三分の一も出来なくって、作業がなかなか終わらなくって、先輩が「芦塚さんって、本当にぶきっちょだったのね!」と驚いていたものです。ハッ、ハッ、ハッ!
手先の器用さ、指先の器用さは、生来のものですから、如何せん、こればっかしは致し方ありません。
ピアノでも、殆ど練習しないのに、指だけよく回る人がいます。
とても羨ましい限りです。
私の場合には、残念ながら、幾ら練習しても、指は回るようにはなりませんでした。
ピアノでもそうなので、パソコンのキーボード入力も同じです。
ブラインドタッチであるのにもかかわらず、私のキーボード入力の速度は限りなく遅くて、パソコン初心者で、キーボードを見ながら打っている子供達の方が私よりもキーボードを打つ速度は早いです。でも、打つ速度と入力の速度は違います。結果的には、私の方が入力速度は速いのですよ。
それは、当然、入力時の、色々な時短の為のテクニックによります。
その内の一つは単語登録による日本語の入力なのです。殆どの常用単語を子音だけで登録しています。その数は2千文字ぐらいです。
私がその事を説明すると、必ず返ってくる言葉は「それを覚えるのが大変だ」という言葉です。
でも、怠け者のメトードなのです。幾ら常用単語だったとしても、2千語もの単語を、怠け者の私が覚える分けはないのです。それはたった一つのルールによって導き出される単語登録です。
まず、文章の最後に必ず出てくる、「です。」は「d。」と打ちます。「だそうです。」は「ds。」
文章の初めの「私」はしょっちゅう使用するので、一文字で「w」です。常用単語はそんなに多くないので、寧ろ音楽用語を原語で打つのに多く使っています。
「私がパソコンのキーボードで文章を打つのは上手ではありません。」という文章は次のようになります。
「wgapcnokbddebnswoutunohajouzudehaarms。」下に普通に打つとどうなるのか、打ってみます。
「watasigapasokonnnoki-bo-dodebunnshouwoutunohajouzudehaarimasen。」ざっとこれぐらいの差になります。でも、これは、たった一文章でですよ!!これが、薄利多売で、長い文章になると、大きな差が出て来る事になります。
ちなみに、私が長い文章を打たなければならない場合には、今は音声入力を使用しています。その方が比べ物にならないぐらい早いからです。でも、教室の中では、音声入力を使っているのは私だけです。
音声入力ソフトは使用する単語を覚え込ませるのが大変な作業なので、その手間を掛ける勇気と忍耐力が必要だからです。でも、いつもの時短の法則と同じで、大変な時間が掛かるのだが、後は早いのですよ。そこの考え方の差です。
時短の話の時によく引き合いに出す話は、私自身の体験上の話です。
私は生まれついてからの、生来の怠け者だったので、自分が怠け者である事を自分自身に常に責め続けていました。
それは、「自分が自分を責めている」という事であり、とても辛い事でした。
心理学で改めて勉強してみると、「勤勉な性格」とは、親の子供への躾けで身に付く性格であるという事だそうです。所謂、「三つ子の魂百まで」の三つ子の魂とは、親の躾によるものなのです。
私のように戦争で、親を亡くして、母親も働きに出なければならない時代生きて来た人間には、勤勉性を身に付けるような躾けや教育を受ける事が出来なかったのは、日常の生活の中心が生きるという原点である終戦時という特殊な状況下では、ある意味仕方がなかったのだ、という事を子供心にも理解せざるを得ませんでした。
「子供心にも」・・・というのは、当時は私達家族のように親族縁者も含めて、未亡人だけの家族はとても多かったのですよ。何も私達の家族だけの特別なものではなかったのですよ。昭和の20年代は帰還兵や国外に移住した人達が帰ってくる混乱の時期でした。そういった時期でも、男の働き手が運良く帰って来た家庭は早々と経済的にも立ち直って行ったのです。
しかし、私達のような、男手を失ってしまった家族には、昭和の戦後期はとても辛いものでした。
という事で、私達の子供時代には、子供の教育にお金を使うと言う事は、基本的にはありませんでした。
だって明日の食べ物が手に入るかの時代に勉強に使うお金があるわけはないでしょうしね?
私達の時代は子供の教育よりも、寧ろ、「今日は食べれるのかな?」という事が男手を亡くした家庭の関心事であったからです。そういった条件下では、例え、シベリアに抑留されていたとしても、男性がちゃんと生きていて、3年後、5年後と男性の家族が帰って来れた家庭は幸せな家庭だと言えます。運よく、戦地から男性(父親や夫、或いは子供)が帰ってきた家庭は、早々と生活を立て直して行きました。まだ、当時は男性社会で、女性の仕事自体がなかったのですよ。
でも戦争で、5人兄弟の全てが戦死してしまった私達の家庭では、勉強よりも、子供の衣装の事よりも、その日の食事の方が、大切な問題だったのですよ。
米がない時には、ご飯茶碗の中にカボチャが四分の一かけ、入っていた事があります。それでも、食べれるだけましだったのです。カボチャも当時のカボチャは、今日の栗カボチャのように、おいしくはありません。固くてぱさぱさしていて、とてもまずかったのを覚えています。そのカボチャは今は売っていませんがね。
私の小学校時代の学生服は誰のお下がりだったのでしょうかね。
着古された、ずいぶんよれよれの袖口が真っ白に汚れたみっともない学生服だったのです。小さな子供心にも黒々とした真新しい学生服を着ている同級生を見るとうらやましかったものです。
小学校1,2年生の時の写真
しかし、中学生になると、もうそういったコンプレックスにさいなまれる事はありませんでした。昭和24年から始まった朝鮮特需から、高度成長期へと、日本の社会生活も少しずつ楽になってきましたから。
というわけで、Alwaysの世界は、そんなに懐かしく(ノスタルジックで)幸せな時代ではなかったのですよ。
生活をする事自体がその日その日の目的である、誰に取ってもずいぶん辛いものであったのですよ。
長ったらしくこの話をするのは、当時は勉強なんて出来る時代ではなかったのですよ、私達には・・、・・・と言う事を言いたかっただけなのです。
だから、私は勤勉ではない。私が勤勉でないのは社会が悪かったのであって、私のせいではない。・・・という事でも、言いたかったのかな???
ハッ、ハッ、ハッ!
お疲れ様でした。
こつこつ型の人材であるか否かは、親の躾と教育が決定します。
肉体を酷使する職業や、芸術家を含めた職人達の勉強ですが、演奏家やバレリーナ、アスリートたちがそういったプロフェッショナルな職業ですが、この人たちには一般的な勤勉性というよりももっと高度な「絶対的な勤勉性」が必要です。
「絶対的な」 とは、一日の内の何時何分まで細かく決められた生活を、時計のように正確に守って行く勤勉性の事です。
新体操を目指して頑張っている鹿児島の全寮制の有名女子校は、小学校に入学時から、10年後のコンクールの演舞のその時間に合わせて、毎日練習のピークを作るために、トレーニングを(それこそ1年中時計のように正確に)訓練を続けます。
単なる女子校の新体操の訓練ですら、それぐらいの厳しさが必要なのです。
ましてや、プロとして、優秀なピアニストであり続けるためには、1日たりともその練習を欠かすことは出来ないのは当たり前でしょう?!
勿論、私には、そんな生活は耐えられません。
怠け者の私には、とても無理です。
私はその当時の小学生の頃から、「こつこつ型の勉強が出来ない」 ということで、ずいぶん悩みました。
何度も言うように、勤勉性は親の教育の結果ですからね。(いやぁ〜!人の性にするという事は何と楽な事だろう!)
放任主義では勤勉性は身に付かないのです。(放任主義でも、勤勉性が身に付く方法があります。これは、Bachや私の戦前の親達がやってきた子供の教育systemです。それはそれで、そういった環境を作る事は非常に難しい。)
しかし、そういった環境もなく、私のように野放図に育てられた人間には、勤勉性が身に付いていないのは当たり前の事なのです。
もしも、あなたの子供が勤勉でないとすれば、それはあなた自身のせいなのですよ。(土器っ!!)
でも、私は当時の親の生活を良く分かっていましたから、私の勉強や成績の事で親に責任を転嫁する事は絶対にしませんでした。
反対に私が勉強していると、母親が「そんなに勉強なんかしないで、遊びに行ったら??」と言っていましたしね。「勉強しろ!」なんて、親や肉親縁者に言われた事など、一度もありません。
今、90歳になった母親が初めて私達に言った事は「これだけ子供の事を、ほったらかしていたのに、ぐれる事もなくよく育ってくれた。私は子供達に感謝しています。」と言う事です。
「ふ〜ん?!一応、自覚はしてるんだ?!」と言う感じかな?
それよりも何よりも、私達が思春期の時に、何もかまってくれなかった事に、とても感謝しています。
だって、貴重な青春時代を自由に人生を生きる事が出来たからね。
自分で、生きて行かなければならないとしたら、自分で社会的な責任を取らざるを得ないでしょう?
そんなもんですよ。・・子供なんて!どういう環境でも何とか生きて行くもんです!!
まあ、そんな昔話(愚痴)はさておいて、実は、大学に入ったり、仕事をするようになったりして、私のような怠け者でも優れた仕事を完結させることは出来ないのであろうか?・・・・そういった方法は無いのであろうか?ということを20代の間とても悩んでいたのです。
そして、30歳を迎えた頃、ある時、突然気がついたのです。啓示を受けたのですよ。
その答えは、「やりたくないのであれば、やらなければよい。また、やりたくなったらやればよい。」という法則でした。
という分けで、さっそく、背広の箱を大量に買ってきて、大元の原稿や資料、楽譜、鉛筆類や定規に至るまで、背広の箱の中に放り込んで、自宅の半間の押し入れの中に積み上げました。
勿論、外からindexが見えるように、「テプラして・・!」ですよ。
仕事の瞬間冷凍です。・・・・所謂、フリーズドライ!!
編集長が私の部屋にやって来て、「**の資料を見せて欲しいのですが…」という話が出て、私が後ろの半間の押入れに積み上げている背広の箱の中から、言われた資料を出して見せると「さすがは芦塚先生ですね!どんな資料でも一瞬で取り出せるのですね。」と驚いていました。
その当時は、まだ全ての仕事を、私一人でやっていた時代ですから、「一般の人たちが資料探しに苦労している」 という事は、全く知らなかったし、理解も出来ませんでした。
編集長が、私の何を驚いていたのかさえ、当時の私には分からなかったのです。
ちょっと話を戻して、先程もお話したように、私は大学時代や留学時代も、自分の持つ怠け癖の障壁に悩まされ、コンプレックスを抱き続けていました。
しかし、そんな自分を(自分なりにも)自己反省して、高校時代、大学時代と、自分なりには、ほんの少しずつではありますが、作業のやり方や勉強の仕方を、より効率的になるように、変えて行きました。
今度はその効率化の例を上げる事にします。
私が怠け者であった、一番大きな原因の一つは、メモを取るめんどくささです。
メモを取るという事がめんどくさいという理由を箇条書きにすると、メモを取ろうと思った時に@書かれるもの(鉛筆やボールペン等)がそばにない。A書くもの(メモ用紙)がない。Bメモを書く速度C保存する場所D必要な時にメモ用紙をぱっと取り出せる。という問題点があります。
それらのそれぞれの解決法はホームページの「メモの取り方」という文章に詳しく書かれていますので、そちらを参照にしてください。
ここではBの「メモを書く速度」のみに限定して、お話ししましょう。
文字を書くのが下手で遅くて苦手だった私は、あまりにも筆記の速度が遅いので、メモを取るのが苦手でした。
まわりの人達は、先生の言う事を、リアルタイムで書き取ったり、黒板を写したり、書く事がとても速かったので、それがとても羨ましくって、(パソコンもワープロもなかった当時は、)「花形の仕事だった速記法を勉強しようか?」と思い立って、本を買い込んで来て調べてみました。
しかし、速記法は習得に最低でも3年はかかるという、とてつもなく難しい技術である、という事が分かり、あっさりと諦めました。
怠け者だから、速記法を学ぼうとしているのに、そんなに難しい技術を習得しなければならないという事は、主格転倒で有り得ない事だからね。
パソコンを私が勉強し始めた時でも、私が誰にもパソコンの操作の仕方を習わなかったのは、パソコンを教える人達は、「パソコンの難しい操作のhow-toを教えようとしてしまう。」という事です。
でも、私はパソコンの操作を勉強したい分けではありません。私は、パソコンを道具としてしか、把握していません。操作は必要ないのです。私の仕事が効率よく出来れば良いだけなのです。其処の所が、どうしてもパソコンの専門家には分かって貰えませんでした。というよりも、パソコンの専門家は、音楽の事が分からない。だから、finaleのソフトの使い方も、フォトショップの使い方も分かりません。こちらが必要なパソコンの操作の知識は持っていないのです。注意深く見ていると、基本中の基本のソフトであるワードやエクセルの基礎的な知識も分かっていない。
パソコンの操作で仕事をしている人達にとっては、それは、必要ないのです。
ですから、自分で勉強する他はない。
パソコンの話から話題を元に戻して、まだ昔々のアナログの時代の話ですが、勉強しなくても、練習しなくても、思い立ったその日から簡単に使用出来る速記法を自分で考案しました。
その方法論とmethodeは、メモ書きは、その当時の鉛筆と紙の時代から、今現在のパソコンや携帯の時代になっても、そのまま実に役に立っています。
高校生や大学生の時に少しずつ、改良しながら作っていった速記法は、パソコンの導入で、もう少し合理的でsystematicになっています。
例えば、パソコンのキーボード入力の速度は、私達の世代はパソコンの世代ではないので、指も動かないし、とても遅いのです。ですから、若い人達にはとてもかないません。
それでも、「結構、若い人達と同じ速度でパソコンの入力が出来るのは、ショートカットと単語登録のおかげです。」単語登録では、先程の文章は、私は、「k、若いhtcと同じ速度でpcをnyrdkるのは、stctとtgtrのおかげd。」と、入力しています。
後は誤変換が長い文章になってしまったら、Ctrl+Zで一気に消去して入力し直します。その方が一々誤変換の文字を修正していくよりも、早いからね。カ−ソルの移動も、stctで「home」や「end」等を使用して、カーソルがのんびり動く手間を省きます。
(詳しくは、ホームページ:「芦塚先生のパソコン教室」から単語登録のPageを参照にしてください。)
自分が持つ人よりも劣っている能力や性格、気質の一つ一つを、systemを作る事で効率を上げて、人よりも早く確実に仕事をこなす様にする事、それが芦塚メトードの基本的な概念であって、その方法論を集大成したものが芦塚メトードです。
別の言い方では、怠け者の学習法とか、怠け者の仕事法とか呼んでもいますがね。
しかし、教室で「芦塚メトード」を指導していて気づく事は、勤勉な人はmethodeを使用して、自分の仕事法を合理的に改善するよりも、「そんな事を一々覚えるよりも、仕事した方が早いわよ!」と言って、自分の仕事の手順を改善しようとはしないし、勤勉さとは程遠い怠け者はそういった仕事法(手抜き法)を覚える事もめんどくさがって、結局の所、やろうとはしないのだよね。
結局、芦塚メトードを覚えて仕事をしようとする人はいないのだよね。
それが人間さ!!!
芦塚メトードによる、怠け者の仕事法による仕事の効率化は、そのまま音楽の暗譜や記憶術にも、応用されます。
ほとんどの人たちは、楽譜を覚えるのに、お経を唱えるように、或いは教科書を読むように記憶をします。具体的には、何度も、何度も繰り返し弾いて、覚える分けです。
これを私はアナログ型の記憶法と呼んでいます。
アナログ型の記憶法には、致命的な欠点があります。
それはたった1カ所でも間違えてしまうと、最初からやりなおさないと思い出す事が出来ない、という欠点です。
もう一つは、覚えたか、覚えていないか、分からないという事です。そのために、何度もテストを繰り返さなければなりません。
アナログ型の記憶は、ビット型の記憶法であり、記憶も、3分ぐらいから、1,2時間の間の短期記憶から、中期記憶と、何度も繰り返し移動させて、覚えなおさなければなりません。それで、長期記憶に移行できる情報は本当に微々たるものです。
儒教型、アナログ型の記憶法はとても効率の悪い記憶法である、という事を断言する事が出来ます。
私のような怠け者には、とても出来ない記憶法だからです。
毎日、きちんきちんと与えられた勉強をコツコツこなす、そういった理想的な模範的な子供だから、出来る記憶法であり、勉強法だ、という事が出来ます。
芦塚メトードでは、楽譜も音楽も映像として記憶します。
楽譜を写真のように、目の中に映像で記憶してしまうのです。
これはまたデジタル型の記憶法とも呼びます。
この記憶法の利点は、覚えたかどうか、或いはその記憶がどの程度確実かを一瞬で判断する事が出来るという点と、覚えるのに1秒の時間も要しない、という事なのです。
でも、おことわりしておきますが、芦塚メトードでは、単純に、楽譜をそのまま写真に撮るように記憶する分けではありません。
それではあまりにも芸がなさすぎるからです。
同じ音型の繰り返しの場所は、型に置き換えて記憶します。
上記の譜面の例は、同じ音型(melodie)の箇所を、蛍光ペンで同じ色に塗った譜面です。
実際に、子供の指導する時は、英語や数字等の記号ではなく、色の蛍光ペンを使用して、子供に暗譜の指導をします。
それは、子供が幼い時期には、A.B.C.のような記号よりも、色の方が、子供の記憶に残りやすいという心理学的なdataがあるからであります。
子供がPianoを習い始めたばかりの段階のBeyer教則本の段階から、デジタル型の記憶法の訓練を始めます。
この練習は、そのまま室内楽やオーケストラの練習をする時に、練習番号付にも応用されます。
室内楽やオーケストラのパート譜には、最初から練習番号がついている譜面が多いのですが、練習番号の付ける位置が、練習する時には、役に立たないだけでなく、すこぶる都合が悪い。
それは、練習番号を付ける人が、自分の感覚、情緒的に、合理性を考えないで、付けるからです。自分の練習には都合がよいのかもしれませんが、他のパートの人達には、どうもよくない。
私はよく、生徒達に練習番号付けを宿題に出します。10人、20人の生徒がいても、同じ場所に同じ記号で練習番号を付けてきます。だから私がいちいち練習番号の指示を出す必要はありません。
それは、私の(芦塚メトードの)練習番号の付け方の法則にあります。
子供達がBeyerをならっている時期に、暗譜の為に色分けした、方法がそのまま、音楽形式の構造分析法のlectureになっているからです。
Classic音楽は、基本的にツリー構造で作曲されています。今から300年前、200年前にはコンピューターはまだなかったのですがね。それでも、基本的な構造は、フローチャートのツリー構造式で作曲されているのです。それで構造分析の文字のランク付けをします。
大項目は大文字のA,B,とします。中項目はA1、A2とします。更に細かく分類して、小文字のa,b,cになります。
勿論、更に小文字から細分する時にはa-イ、a-ロとします。a-1としないのは、練習の時に、声で
「アーの1」とか言うので、生徒が「今先生が言ったのは、A-1なのかな?それとも小文字a-の1という事かな??」といたずらに混乱するからです。
ちなみに、これは小学校の高学年から大人の生徒やプロの音楽家達の為の分類です。
小学校の低学年、中学年生には 「あ、い、う」 とか、カタカナや数字を使用します。
小文字aとか大文字のAとかが、まだ瞬間的に判断が出来ないからです。
残念ながらこの非常に優れたデジタル型の記憶法や思考方法は、一旦、身に付いて、非常に素晴らしい能力となっても、塾に行くようになると、ほんの2,3か月もしないで、簡単に失われてしまいます。
それは塾の指導方法が徹底したアナログ式の記憶法や思考方法を採用しているからです。
人は簡単なものには、すぐに影響されるのですが、一旦影響されてしまうと、元の記憶法に戻るのは、殆ど不可能です。
本人の一生懸命の努力で、かなり戻る事は出来ても、習い始めた時のようには、完全には戻りません。
「一度出来なくなっても、以前は出来ていたので、戻すのは簡単でしょう?」と親はよく言います。
具体的には、高校の受験等で、オケ練習や室内楽を半年、1年休んだりして、受験が終わったら、もう一度やり直す時の、親の話です。
勿論、音楽の勉強が学校の勉強の息抜きなら何の問題もありません。
しかし、その生徒の将来の目的が、音楽学校進学や音楽家になる事だったら、この事はその生徒にとって致命的になります。
何故なら、もし1年休んでも、1年後もlevelが落ちなかったと仮定します。(・・そんな事は有り得ないけれどね)
でも、一年後には、音楽を目指すライバルの生徒達は、次の1年分先に歩いて行っているのですよ。だから、更に一生懸命頑張って、1年分を取り戻そうと頑張ります。
しかし、1年後には、ライバルは、また1年先に行っています。
これはパラドックスの弓矢の話ではありません。実際の現実の話なのです。
極々当たり前の事なのですが、父兄はどうしても目先の事に囚われてしまうようです。
酷い親になると、人の2倍勉強すれば良いのでしょう??と言います。でも、音楽進学が絡むと、それはもう趣味の世界ではないのです。
音楽に進む事を目指している子供達は、全員、ひたむきに一心不乱に勉強をしているのです。
山の麓では、10歩の差はちょっと小走りに歩けば、追いつく事が出来ます。
しかし、エベレストの頂上では、たった1メートルの落差でも、追いつく事は出来ません。
100mの短距離でも、アスリートが争っているのは、100分の一秒の世界なのですよ。
一般の音楽社会では、塾に専念した時点で、「音楽に進む事を諦めた」、と見做されて、音楽大学の先生からは破門になり、個人の教室では、趣味の生徒と見做されてしまいます。
私達の教室の場合には、目的の大学よりも、少しlevelを下げてそのまま音楽大学にチャレンジさせてますが、たまに子供のlevelが下がったのを認めない親がいて、「何故、levelを下げるのか?」「目標の音楽大学のlevelを落とさなければならないのか?」と、自分達の事は棚に上げて、食いついて来る親がいて困ります。だって、子供が将来どのlevelに成れるかは、その子供が同じ努力を続けた場合に線を描く事が出来るのです。
一年のブランク、半年のブランクがあると、その分、Niveauが下がるのは当たり前でしょう?
大半の音楽大学を目指す音大の先生の弟子達は、受験とは関係なく、音楽の勉強を続けているのですからね。
名古屋の憧れの名門高校に入学したPianoの生徒が、学校の行事とlesson時間がダブってしまって、親が担任の先生に「将来、音楽を専門にしたいので、音楽の勉強の都合でその行事をお休みしたいのですが・・。」と申し出たら、先生から「高校生なのだから、学校行事に参加する事は絶対条件です。学校の行事が優先出来ないのなら、即、退学です。」と言われてしまいました。
という事で、その生徒は直ぐに学校を転校しましたがね。
学校が音楽に進む生徒の責任を取ってくれる分けではありません。子供の将来の事を考えてくれる分けはないのです。先生にとっては、一人ひとりの生徒の事よりも、学校行事の方が優先なのです。だから、親が学校よりも子供の将来の夢を優先したのは当たり前だと思いますが、皆様はどう思われますかね??
私も、「中学生の時や、高校生までは、普通の子供として、日常生活を送らせたいのだけど、それで音楽のプロに成れるでしょうか?」と相談を受けたことがあります。勿論、私は「そんな都合の良い事があるのなら、皆プロになったと思いますよ。」と答えておきました。自分の子供の事でなければ、そんな都合の良い事を人様の子供に対して考える分けはないでしょう??「何、馬鹿な事言っているのかしら??」というはずですよね。自分の子供の事になると、親は盲目になるのです。
これは、江戸時代からよく言われている事ですがね。
「親は盲目!」・・・・勿論、このお話の前提は、「その子供が、音楽の道を歩みたい」という夢を持っている子供の場合だけですがね。
趣味で、音楽は息抜きにしか過ぎない生徒達が、学校行事を優先する事は当たり前でしょうからね。
反対に、音楽を目指す子供が一般の生徒と同じ考えではプロの道は歩めないからです。
こういった事でも分かるように、一般では、プロに成れるか否かは、技術を指導する先生の指導力と思っている人が多いようですが、既にプロを育てた事のある先生にとっては、子供がプロに成れるか否かは、親や子供の意識の問題に過ぎないのですからね。
先程の塾の話に戻って、折角身に付けた技術も、他の楽なlevelの低い技術が身に付いてしまうと、山登りと同じで、道から転げ落ちるのは、ほんの一瞬なのですが、登るのには最初と同じ努力をすればよい、と思われがちですが、失った年齢と時間と身に付いた悪癖の分だけ、より大変になるのです。
だいぶ脱線してしまいましたので、仕事の効率化の話に戻って、
一般の会社の場合には、見習いの会社員には、まずお茶汲みと電話番を教えるのですが、それではあまりにも非効率です。
ですから私達の研究室では、新しい先生の卵たちに、取り敢えず、会社の中の仕事で、簡単で即出来るであろう作業から指導します。
その簡単な単純作業は、逆の立場から言うと、誰にでも出来る作業なので、先生達がやらなくてもよい作業でもあります。
それは、先生達は、その先生達しか出来ない、もっと難しい作業に集中した方が良いからです。
という事で仕事を分担する事になります。
でも、一人が仕事を全てこなすのではなく、多人数で仕事を分担するためには、その仕事の分担をさせる先生が仕事の工程を構造的に把握出来なければならないのです。
一つの作業が幾つの工程で出来ているのか、そのフローチャートが見えていなければなりません。
先程のBeyer教則本の記憶法で、構造分析力を身に付けた生徒には作業の工程とカッコ括りの作業を見分ける事は難しい事ではありません。
という事で、作業がA⇒B⇒C⇒K⇒Dの5段階の作業から出来ているとします。
その中の工程のカッコくくりの定型作業の仕方を、若いアシスタント(日本流に言うと見習い)の先生に指導します。
一番分かり易い定型作業はコピー作業でしょう。
コピー作業なら、誰でも出来るはずです。
しかし、コピー作業と言っても、自宅でやるコピーと、会社のコピー作業は基本的に違います。
会社の作業となると、両面のコピーや、2up、中綴じ、或いは製本を想定したコピー作業等多種多様な作業があります。
それに、コピーの時に、考えなければならないのは、経済効率です。
業務用のコピー機は、B5 版やA4版でコピーしても、A3版でコピーしても、1枚当たりのコピーに掛かるランニングコストは変わりません。
機種によっては、A4版までと、A3版では値段が変わるものもあります。
勿論、「毎月、何枚コピーしたか?」という事でリース会社から請求が来ます。
だから、会社的には、1枚でもコピーの回数を減らす方が、効率的なのです。
楽譜をコピーする時には、菊倍版と言って、ほんのちょっとA4版よりも大きめのサイズになります。版によってはフランス版のように、とてつもなく大きなサイズの楽譜もあります。
お金の問題は勿論の事、教室では大量の楽譜を楽譜棚に整理しなければならないので、コピーをする時に、書式を統一する事は、膨大な楽譜の整理の上で、とても大切な事です。
という事で、菊倍版の楽譜をA4版に縮小して、しかも2upでA3版で印刷します。
コピーのランニングコストが半額で済むからです。
以前、教室に来たばかりのアシスタントが平気で50枚とか、100枚とか、間違いのコピーをして、コピー用紙を没にしなければならなくって、先生達を怒らせていました。
コピーの間違いなら、輪転機を回す様に一度に大量にコピーするのではなく、まずテストコピーをして、確認をして、問題がなければ、必要枚数を一気にコピーします。
でも、原稿の打ち間違いのcheckは、print outしてから、ではなく、パソコンの画面上でcheckをしなければなりません。
それも、会社の仕事としての、常識です。
そういった当たり前の事を、当たり前に出来るようになるまでには、大変な時間と経費と労力が掛かってしまいます。
一人の先生を育てるのは本当に大変です。
でも、そういった事が、若い見習いの先生達に徹底できないと、直ぐに発表会費や月謝に跳ね返ってくるのですよ。この不況の折に、10年前、20年前の月謝の金額を維持するのは先生達のそういった努力の集合なのですから。
何故、コピーする前にcheckをしないのか?
事前のcheck、それは金銭上の問題だけではなく、先生としての意識付にも繋がって行くのです。そういった細かい事にまで配慮が行き届くようになると、、初めて見習いの先生達に先生としての仕事をするための責任感が身に付いてきて、仕事の効率化、能率化を意識しようと考える第一歩になります。
ハインリッヒの法則ではありませんが、殆どのミスは、事前のcheckで防ぐ事が出来るようになるからです。
ミスを常に犯す人は、逆説的な言い方ですが、自分が犯したミスの為にやり直す事やその時間を惜しみません。
でも、そのために仕事の時間が膨大に遅れてしまって、会社に多大の迷惑を掛けても、ミスを犯す事を厭わない分け(性格)だから、自己反省をする事もありません。
いつも同じ作業の繰り返しである「定型作業」のような場合には、その作業自体に問題はありませんが、色々な作業をしている先生が、どこからが定型作業になるのかということを理解出来ているのか、ということを把握する事は難しいようです。
一見すると定型作業で、ついつい丸投げをしそうな感じですが、作業には下準備や纏めの作業があり、作業内容で、微妙に変化するからです。という事で定型作業と言えども指導する側の先生の、作業の全体的な把握の仕方が非常に重要になってくるのです。
また、会社の場合には、複数の先生が定型作業をオーダーしてきたりするので、若い先生がパンクしないように、仕事を頼む時間を他の先生と調整する必要もあります。
逆に、アシスタントの先生が、限られた曜日にしか事務所に来ない場合には、その先生のrotationに合わせて、仕事を回せるように、仕事の手順を決めなければなりません。
先程の仕事の手順(フロー)を例にとって説明すると、「A⇒B⇒C⇒k⇒D」と言う作業と「あ⇒い⇒う⇒k⇒え」という作業があって、「k」の作業はコピーの定型作業です。A先生は「A⇒B⇒C」でコピー作業をアシスタントにさせるために、仕事を待機させて、別の作業に入ります。B先生も「あ⇒い⇒う」 迄仕事をして、次の仕事を始めます。アシスタントが土曜日に事務所にやって来て、溜まっているコピー作業を一気に片付けます。
そういったprojectの企画が、上手く行ようになると、それなりにかなりの時短が計れるはずです。
お話だけならば、当たり前のようなお話ですが、実際にはそれを実行するのは、大変難しいのです。
人を使う事が苦手な先生達は、見習いの先生に仕事を、ついつい丸投げしようとします。
私がそれを批判すると、「音楽大学を卒業しているから、出来て当たり前でしょう?」と言います。出来ないのはその人だけで、普通の音楽大学の卒業生なら、教室で子供達が出来ている事ぐらいは、先生だから、出来て当たり前と思い込みをします。
どんな職業であったとしても、(職業の専門学校を卒業していない限りは、)大学生が社会で通用する事がないのは当たり前です。
大学は社会人を育てる所ではないからです。
教室で本当に必要とされる人材を育成するためには、その事を自覚している学生でなければ、無理です。
教室が先生を採用する条件は、音大生が思っているのとは違って、演奏が上手いかどうかは関係ありません。音大生が幾ら「自分は上手い!」と思っていたとしても、それは指導する先生の指導力であって、音大生がBeyer程度の曲にすらちゃんと演奏出来るとは思っていません。
自分が何も知らない、と言う事を自覚していない学生が殆どですが、教室が、そういう自覚と謙虚さのない学生を、先生として採用する事はありません。
社会に出て、社会人として、もう一度学び直さない限り、社会で通用する事は無いからなのです。
音大生は自分が大学で学んだぐらいの基礎知識で世の中が通用すると思い込んでいます。
勉強に対して(仕事に対して)の謙虚さがありません。
それでは100年面接をしても、採用出来る先生はいません。
勿論、指導する側も、学生上がりの人材が仕事が出来るという夢は持たないように、しなければなりません。
いくら簡単な基本的な定型作業であったとしても、定型作業というのは、実際上丸投げすることは出来ません。
長い作業の中のある部分だけを、定型作業にして行くのですから、どこからどこまでが、見習いの先生が仕事が出来るであろうか?という事を常に把握をしながら、作業を指示しなければなりません。
指導者側が、こういったことが出来なければ、会社で新しい人材を育成することは出来ません。
次に、「誰に」 「何の作業を任せるか?」 そういった事が明確に指示出来るようにするには、まず、指導する先生が、作業内容をちゃんと把握し、仕事の分担を決めなければなりません。
幾ら、分担と言っても、見習いの間は、出来る仕事が限られてくるからです。
仕事を指示する先生サイドが、仕事をprojectとして、明確に理解出来ていないと、仕事の指示をする事は難しいのです。
という事で、指導者の先生達に自分のprojectをしっかりと把握させるために、projectを作るためのprojectの作成用紙を作りました。
ある大手の有名楽譜出版社に、とても優秀な編集局長がいました。
一人で10も、20もの仕事をこなすような人でした。
彼が社長に栄転をした時に、彼が難なくこなしていた、残された編集の作業を、10人のスタッフが3年掛かって、やっと終わらせることが出来ました。
その出版社は、何と3年間も、新しい楽譜の出版が一切ストップしてしまったのです。
確かに彼は自他共に認める優秀な非常に有名な編集局長でした。
しかし彼の大きな欠点は、自分の後継者を作ることが出来なかった事です。
彼自身があまりにも優れた仕事の仕方をしていたので、誰も彼について行くことが出来ませんでした。
編集部に10人のスタッフを抱えていたのにかかわらず、常に彼は一人で仕事をしていたのです。
彼が優秀であればある程、自分の後継者を作る事が難しかったのでしょうね。
教室でも、若い新しい人材を育成したいからと、10年間、某国立音楽大学の学生や超有名私立音楽大学の学生達を面接しました。面接すればする程、先生達が落ち込んでしまいます。
一般の音楽大学のlevelはこんなものなの?
いや、そうではなくて、音楽を仕事として捉えていないから、真剣さがないのですよ。
人材を育成するという事だけなら、教育はある程度は可能なのです。
編集長の後継者と言うのは、自分と同じように仕事をこなしてくれる、という事で思ったので、育成が出来なかったのです。
私にとっては、後継者を育成するという事は、「私のすべてを後継してくれる」という意味ではありません。
それは、不可能なことだからです。
得た知識というものを正しく判断し理解共感出来るか否かに関しては、知識の深さによるものよりも、年齢によるもの(経験上によるもの)もあります。
人生経験の少ない若者が、すべてを理解するのは困難だからです。
ですから、そこも私がある程度考慮して、その人その人の特性に合わせて、知識を伝達するようにしています。
自分の知識や技術の全てを後継する人がいなかったとしても、自分の知識や技術の一部だけを後進に後継させる事にするのならば、それは可能な話となります。
そして、その有名出版社の例のように、そういったスタッフが10人いて、それを的確に配分すれば、結果的に自分の仕事を後進に譲る事が可能になります。
これも、基本的には、時短の考え方なのです。
私の場合も、私達が指導する先生の性格や雰囲気に合わせて、例えば子供が大好きで、子供当たりの良い先生は、まず初期指導を中心にして指導教育を開始します。
子供との会話が苦手で、どちらかというと教育よりも、演奏する方が好きな先生ならば、取り敢えずの指導は中級や上級の指導から始めます。子供への指導自体が苦手で、演奏活動の方に興味がある先生は、演奏活動や論文等の作業や教室の事務所作業を中心に指導します。
教室は会社なので、それなりの事務もあるし、研究室としての作業もあります。発表会や対外出演等は、projectとして、組み込まなければなりません。音楽教室といえど、演奏すればよいだけ・・というのは、個人の音楽教室の場合だけなのです。
教室は会社なので、結果として会社として総合的に教室の全ての仕事がこなせれば良いからなのです。
一人、一人、各自の適正を計れば、教室全体としては、すべての作業が無理なく、こなせるようになります。
で、この話は会社としてのprojectの話ですが、先ほど言いましたが、いったいprojectの何処がデジタル式の記憶法と関係があるのでしょうか?
楽譜の記憶の時にお話したように、アナログ型の楽譜の記憶法では、どこかで躓いたら、最初からやり直さないと、先へ進める事が出来ないのです。同様に、アナログ型の人は全てを、自分でしなければ、仕事が完結したのかが理解出来ないのです。
つまり、ワンマンの社長が率いるトップダウンの会社になります。
アナログ型では「自分に付いてこい!」と言うパターン以外は、弟子を指導する事が出来ないのですよ。
構成がないからね。
しかし、デジタル型の楽譜の記憶法は、何処からでもスタート出来るのです。間を飛ばして演奏する事も出来るし、その場で、変更をさせても、問題もなく平気で演奏出来ます。それは構造が理解出来ているからに他なりません。
構成が理解出来るというのが、デジタル型の特徴になります。
つまり会社にとっても、勉強も何処までが出来て、何処からが理解出来ていないのかを判断出来れば、仕事は格段に早く進みます。能率や効率が上がります。そういった事が出来るのも、デジタル型の特徴なのです。つまり、仕事でも、会社としてのprojectでも、それをフローとして、構成し直す事によって、何処が遅れても、何処が躓いても、その仕事を恙無く進行させる事が出来るのです。
[仕事を人に委託する時の話し]
人に仕事を委託しなければならない時は自分に時間がない時である。
だから委託する仕事を伝達したり説明する為の時間を取る事が難しくなって、つい後回しになってしまう。そして、自分に時間が出来てその仕事を委託すると、その仕事が出来るまで、待たなければならないので、ついつい、自分でその仕事をしてしまう事になって、結局、仕事の分散化は出来ないままになってしまう。せっかく、人がいても、人を使う事が出来ず、全ての仕事を一人で背負わなければならない負のスパイラルに陥ってしまう。
仕事には、その負のスパイラルから脱却する為の、或いは負のスパイラルを正のスパイラルにするために、一度は遣らなければならない決断のポイントがある!仕事を委託する為の時間をある瞬間にでも捻出出来れば、自分がこなさなければならない仕事が一段落した時に、委託作業が出来上がっているので、そこで委託作業の説明をするのとは、仕事の能率で決定的な差が出来るのだ。
その原理は平行作業と同じなのだが、コツコツ型の人間は人に作業工程を説明したり、パソコンなどの使い方を覚えて、仕事の能率化を図る事よりも、コツコツとその作業がいくら、非能率的な作業であったとしても既に作業に入っているからと安心して、出来上がりの時短を意識する事はない!
従来型の職人型の仕事法である。
本当に、大きな仕事を丁寧に完璧にこなすには、プロジェクトとしての考え方が必要である。
色んな分野の人達がそれぞれの仕事をこなして、大きな仕事になって行くというプロジェクトである。
自分の仕事をプロジェクトとして見る事が出来なければ、その人はいつまでも、個人の仕事しか出来ない。
百回推敲を重ねてもうこれ以上推敲しようがなくなったら、二、三年寝かせるとまた、客観的に原稿を見ることが出来るので、推敲するところがいっぱい見えて来ます。
「Memoの取り方」の論文にも書いていますが、私は日常的にmemoをボックスにfileしていきます。今は、パソコンにmemoのfolderが作ってあって、携帯のメールでパソコンに送ります。パソコンは自動処理で、項目別、分類別に自動的に分類されます。その資料がある程度溜まってくると、内容別に、更に細かく分類します。
ある原稿を、書き上げて、納得がいかなくっても、二、三年寝かすと、その頃にはまた反故がいっぱい溜まってくるので、それを書き加えながら、また推敲します。
それをエンドレスで続けるのです。
原稿には、最終稿と言うのはあっても、完成稿というのは無いからです。
音楽もそのように、努力して勉強しても、作曲や演奏が完成するという事はありません。自分が完ぺきだと思ったら、その時が音楽家をやめるタイミングです。それ以上は成長できないからです。