という質問を受けた事があります。
その答えは、上に書いた通りで、「私の指導の下では、教室の生徒ですら、2時間ぐらいしか練習出来ないのだから、他の先生の下で、6時間練習出来た生徒が、私の指導の下で1時間しか練習が出来ない・・としたら、誰も変わって来る分けはないでしょう??」という事で、他の教室の生徒達は、自分が当然、今まで出来ていた・・と、思っていた所が、あからさまに、自分が出来ていない・・という所を見せつけられて、今までの努力が無駄に思えて、ショックなのだよ。親としても、今まで払ってきた莫大なlesson代が、何の意味もなかった・・という事になってしまうと、今までの努力は何だ??という事になって、芦塚先生の事を認められないのですよ。
認めると、それまでの努力が不意になってしまうからね。
それと、他の教室の先生が、芦塚先生のlessonの感想を言っていたのだけど、「芦塚先生のlessonは、練習の逃げ場がない。遊びがない!」という事らしいよ。
でも、最初から芦塚先生の下で、育った生徒は、そういった勉強法が普通なので、逆に、一瞬だけ集中すれば良いので、極めて楽なのだけど、一般の子供達には、そこが楽という事が分からないのだよ。
音楽の勉強でも、時間だけを掛けて、練習をする事を芦塚先生は「闇雲練習」と言って、キツく戒めています。
音楽の勉強法は、芦塚メトードでは、3原則というのがあって、その中で、機械的な練習が必要なのは、その3番目に過ぎないのです。つまり、後の2つは練習、そのものが必要はないのです。
これは、一般の勉強も同じです。学校の勉強は、その殆どが暗記に関するものです。無味乾燥な意味の無い暗記ばかりさせるから子供達は勉強が嫌いになってしまいます。公文式の計算問題も然りです。大学の受験には計算力は必要はありません。電卓OKですし、英語も辞書OKという大学もあります。東大の入試でも計算の答えが合っている必要はありません。計算式とその組立が合っていれば、合格なのですよ。
それが本当の勉強です。
でも、そこの所の意味が分からないと、勉強の本質が分かっていない・・と、いう事になるよね。
それじゃあ、幾ら練習しても、上手くなる分けはないだろうよ。
日本人には、もっと、変な話があります。
自分の子供の可能性を、周りの人達と同じ事をさせるために、否定してしまう事です。
この話は、私達の教室に限った話ではないので、音楽に限定しなくても良いのですが、取り敢えず、分かり易く音楽に限ってお話を進めます。
それは、教室の生徒達が中学生、高校生になった時に、人よりも、優れた才能を示している音楽を捨てて、一般学生の平均よりも劣っている学業を優先する事です。
何故、好き好んで、好きでもない勉強、勉学を優先して、好きでしょうがなくんて、人よりも優れているのに、音楽を捨ててしまうのか、・・私には、理解出来ません。
それほど一般が良いのか??でも、現代社会では、一般的な普通の能力では、仕事としては、生活出来ないのにね??
好きでもない学業を幾ら時間を掛けて、労力を掛けて、勉強したとしても、それで、大学を卒業する時に、人よりも優れた人材になっている分けは、ないのですがね。
それでも、そんな、そんな道を子供に歩ませるのです。摩訶不思議な話なのですが、それが一般的で普通なのだそうです。
父兄達の話合いで、それがbestな選択だそうです。
私にとっては、最悪の選択にしか見えませんがね。
楽しい、自分の好きな事をして、生活が出来るのなら、それに越した事はない・・と思うのですがね。
このお話は、今年の話や、昨年の話、或いは、特定の誰それ、という限定された或る一人の子供への話ではなく、教室を創設した30年前よりも、ず〜と、以前からの、私が生徒を指導し始めた50年も前から繰り返される、・・・・毎年、毎年、必ず、誰かがそのように、繰り返すという、今までに教室で育ってきた生徒達の話なのです。
つまり、このお話も、教室では、ただの一般論に過ぎないのですよ。
この事も、50年間言い続けているのに、教育を受ける側は、常に始めての話なのですよ。
勿体無い!!勿体無い!!
「将来音楽家になりたいのに・・・」
※将来を高望みをする人に限って、そのための努力をしようとはしない。
※「出来る事は可能な限り、一生懸命やりました。」と、親や子供は言う。
人並に出来る事を出来る範囲で一生懸命やったとしても、それでproに成れる分けはないだろう???
どうしてそれが、分からないのだろうね。そこのところが私には分からない。
proとしての夢に向かうのならば、誰にも真似の出来ない努力をするのが、普通だろう??
人の上に頂点として立つのなら、その努力も頂点で、人が真似の出来ない努力でなければならないのだよ。
そして、その努力を少しでも「辛い」と感じるのなら、その人は「proになるべきではない」のだよ。
本当のproの人達は、その努力をする事が、「楽しくて仕方がない!」「嬉しくて仕方がない!!」 その努力をする事、そのものが、「他の事で、時間を失う事が勿体無い!!」と、思うぐらい・・・寝食を忘れるぐらいに、熱中出来るのなら、自然に、なんの無理もなく、至極当然に、proになれるだろうよ。
でも、proの世界と学校教育とは根本的に違うのだよ。
学校教育の世界は教育の世界であって、現実の世界とは違う!
プロの世界は、職人の世界であって、そこは仕事の世界なのだよ!!
だから、子供だから学校が最優先でないと・・・と、考えるのなら、そりゃ、proはおろか、教育産業であったとしても、「芸大」に入学する事でも無理だろうよ。
一般の人達で、外の世界からproを憧れる人達は、所詮、生活の基盤が違うのよね。
「学校が一番、家庭が二番、音楽が三番・・??」じゃあ、proに成れる分けはないのだよ。
それに、一般の子供達は「学校が一番」でもないのだよ。
その前に「友達との遊び」があるのよね??
それで、小学校、中学高と人生を送って来た子供が、高校生になって大学受験になった途端に、芦塚先生のところに、「proになりたいのですが・・・?」と、相談に来られてもね???
そりゃあ、聞こえませぬ、伝兵衛さん!・・だよ!!
テレビで林さんの「世界で一番受けたい授業」のテレビ番組を見ていて・・・・
授業や講義で学べる可能性は、5%
人に教える場合には90%以上をマスター出来る、と言っていた。
言葉やその意味が流派によって全く異なるのは、別に音楽に限った話しではなく、厳格な定義の元で、研究がなされていると思われている日本の心理学界でも、教授を※頂点にする家本制で言葉の定義がなされているために、言葉尻に引っかかって、会議自体が平行になってしまって、混乱してしまうことがよくあるそうだ。
それは、protocol・・・・所謂、共通言語がない・・ということだ。
音楽の場合にも、それぞれの先生が演奏用語を世界共通言語と思い込んでいる。
世界共通言語であるのは、楽典の音楽用語迄で、演奏に関する用語は、それぞれの流派で全く異なる。
もっとも、演奏家は自分が学んだ用語が世界のstandardだと思い込んでいるのだがね。
※ハイポジションが低くなる!
その理由は幾つもあるのだが、その一番大きな原因は、当然、pressureであり、心因性である。
受験や、コンクール等の明確な理由が見出される場合と、曲の一部で、フラットになってしまう場合がある。
proの場合には、人に音楽を伝達しようという意識が抜けると、pitchがフラットになってしまって、演奏している事があるのだが、但し、自分の心がフラットになって、音に表れている分けなので、自分で意識する事が難しい。
心で「正しい」と認識している音がフラットになっている分けなのだからだ。
後日、彼女の心が、元に戻った時に、録音、録画した演奏を見せると、「え〜っ??私こんなに低かったの??」と、驚くのだが、演奏当日の場合には、その奏者の心が落ち込んでいるので、「音がフラットになっているだろう??」と認識させる事は難しい。
また、その場で、認識させたとしても、同じ箇所を再び演奏した時には、やはりフラットになってしまう。
困ったものだ!!
その場所がフラットになっているという、自覚はあるのかよ?
(ないから、フラットになるんだろう??)
※語り部
以前、Chopinが「Pianoの学習のためには、オペラを聴くように!」とadviceをした事を、日本人は意味を誤解して、Chopinが「歌手が歌を歌うようにPianoを歌わせなさい。」と言っているように勘違いをしていた。
「Pianoを歌わせる・・」という言い方は、すこぶる紛らわしいので、補足説明すると、日本人は、情緒的、感情的にtempoを揺らして、演奏する・・と勘違いしたのだ・・・という意味ですよ。
しかし、Chopinがオペラで例えたのは、「音楽で会話をする」ということなのだが・・・??
本当に魂を込めて演奏する事の出来る卓越したpianistの演奏を聴いていると、Pianoの音が、言葉に聞こえて来る時があるのだよ。
音楽の基本は「歌う事」よりも「語る事」なのだ。
そういった演奏で会話の出来るpianistには、「語り部」の称号を与えようではないか??!
※日本人はPianoの練習は、技術を磨く事だ!・・と、信じて疑わない。
そのために、演奏は上手なのだが、音楽は薄っぺらで、魂に響いて来ない。
音楽と意識が噛み合わないのだよ!
音楽とは「心から心に到らんものを!!Von HerzenMoge es wiederZu Herzen gehn!」ものなのだよ。
作曲家の魂の叫びなのだよ。
それが分からんお嬢ちゃん、お坊ちゃんの演奏は聞きたくないのだよ。
※ポニョミス!
生徒があまりにも、音楽に対する意識が希薄なので、指導上の都合で、原因のあるミスと、意識に寄るミスを区別するために、ポロミスとポニョミスという言葉を作って、区別するようにした。(よく宮崎駿のポニョからのimageと勘違いされるのだが、残念ながら、宮崎駿の坂の上のポニョの映画は、未だ見た事はない!何故??って?? そこまでの赤ちゃんチックな幼稚な映画は、老人としては、興味はないからだよ!!)
ポロミスは、言葉の通りに、ポロリとミスしてしまうミスなのだが、その言葉にミスの区別がないので、定義を厳格にして、技術的な理由があって(しっかりとした原因があって)、ミスをし、しかもミスをする場所が限定されるミスをポロミスと呼ぶことにした。
さて、ポニョミスなのだが、ミス自体は、ポロミスとは変わらないので、間違えて指導されやすいのだが、その原因は全く異なるので、その差を把握させるために、ポロのポは残して、フォニョ〜!!としたimageで、(コマーシャルでは、フォニョ、フォニョリ!という言葉もあるようだが)ポニョ・・という言葉を作った。
勿論、語源的には、ホンワカ・・とした、とか、ふわふわの・・とかいう、本人の意識の欠如を意味からである。
という事で、ポロリとミスをするミスを厳格に分類して、生徒達が自分のミスを正確に把握出来るようにした。
という事で、理解出来るようになった、・・・・・のかな??
・・・・のかな?? ・・・かな? ・・・かな?? かなかな??カナカナ?、カナカナ?・・・・カナカナ?
ポロミスは、何らかの原因があって、ミスをする事を言い、ポニョミスは、意識が飛んでミスをする事を、そのように名付けた。
つまり、それ以外のミスは、単なるケアレス・ミス(careless mistake)である。
このcareless mistakeは、不注意によるものであるから、注意すれば良い分けなので、抜き出し練習はする必要はないのだよ。
という事で、「ポロミス」はその原因を見つけて修正を加えて練習すれば、簡単に克服出来るのだが、「ポニョミス」はそうは行かない。
意識の問題なので、「ポニョミス」を起こすタイプの人間は決まっている。
人生をホンワカとして、過ごしている人達が、演奏中に犯すミスだからであるぞな。
その性格を直せば、ポニョミスは治るのだから、日常の生活の中で起きる、ポニョミスを、厳格に犯さないように、その原因を修正していけばよい。
ポニョミスは本人が治そうという意識があれば、比較的に簡単に治す事は出来る。
もう一つは、ポニョミスを犯す人間は、日常の行動をする時に、手馴れた作業を無意識にこなしてしまう傾向がある。
finaleの作業を教える時に、shortcutの方法を教えて、時短の方法をlectureしているのに、次のpassageでは、自分のやり慣れた自己流の方法で入力してしまう。
無意識に手が動く分けなので、確かに、新しく習った、shortcutよりも、その方法の方が早いかもしれない。
しかし、自己流のやり方では、間違いを誘発してしまうし、この先、早くなる事はない。
shortcutを覚えて、その打ち方に慣れると、そちらの方が数倍も早くなる。
時短の技術は、薄利多売のやり方にも似ている。
慣れている5つのキーを打つよりも、shortcutで1つのキーを打つ方が、その時には、慣れによるtime lagが出て遅くなったとしても、将来的には、結果的には、時短になるのだよ。
ポニョタイプの人達は、その事実を認めようとはしない。
時短を今現在の時間の時短と考えて、新しい正しいやり方を覚えようとしないのだよ。
キーを打つ回数を減らすために、単語登録をわざわざ作っても、それを覚える努力を惜しむのだよね。
日常の行動全てを、薄利多売的に、効率を上げて無駄な動きを排除していけば、結果的には仕事は、早くなるのだが、どうしても、そこのところが、先生にも、生徒にも分かって貰えない。
困った事だ。
という事で、ポニョミスを治すには、「江古田詣」しかない。
一般の人達にも、分かり易く言い直すと、昔ながらの、古い古い職人の勉強法・・だよ。
教育では、ポニョミスは治らない・・、職人としての自覚が出来るとポニョミスは犯さない・・のだよ。
しかも、プロのpianistを目指す人達は、ポニョミスは絶対にしないのだよな。
そこが意識の差なのだよな。
「音楽とどのように関わって行きたいのか?」という前提で、その夢を叶えるためのお話(advice)を、マンツーマンでお話していたのですよ。
論文とか、講演でたくさんの人達を対象にしてお話をする事は、事が「その子供の夢のお話」であるとするならば、それは出来ません。
一人一人の夢が異なれば、その生き方、生活そのものも変わってくるし、その人に必要なadviceも、真逆になってしまうからです。
芦塚先生の持論は、「夢はそれを望むのならば、必ず叶う」という考え方です。
勿論、それには、条件があります。
その条件をちゃんと満たすのならば、望んだ夢は必ず叶える事が出来るのです。
その条件の先ず、第一は、「本当にその夢を叶えたいのか?」という事です。
そこに、芦塚先生のヨージーの法則の「一つを望むのならば、一つを失う」という大原則が入ってくるのです。
proになるためには、或いは、アスリートになるためには、一般の人達が遊んでいる時間も、片時も休まないで研鑽をしなければなりません。
家族と旅行したり、友達と部活をしたり、塾に行って勉強したり、・・・という一般人の日常的な生活は、許されないのです。
そんな暇が、一芸を極める人達に、あるわけはないのですよ。
それが、当然と思える人や、子供のために、そんな親の犠牲は当たり前・・と考える親なら、子供の夢を叶える事は出来るでしょうね。
でも、第一番が家族の関係で、二番が学校教育で、三番が・・・、ならば、その子供は、芸大に進学する事すら無理です。
ひょっとしたら、私立の音楽大学には、入学出来るかもしれませんが、それも保証の限りではありません。
運が良ければ・・としておきましょう。
つまり、夢が、第三番目、第四番目であったとしたら、叶う事は難しい・・という事は、当たり前だとは思いませんか??
それは、夢が、その人に取って、第三番目や第四番目の価値しかないのならば、その人は、本当にその夢を望んでいるとは言えない・・という事だからなのですよ。
3番目、4番目ならば、何処の誰でも、それを望むでしょうし、それでその夢が叶えられるとは思ってもいないでしょうからね。
Pianoを始めた人達の殆どの人は、一度は「proのpianistになってみたい。」と思うのでしょうが、仮にそういった夢を見たとしても、それは妄想であり幻である夢であって、将来の夢(人生の目標)ではないのですからね。
第二番目は、自分を導いてくれる先生が本当に、夢を叶えさせてくれる先生であるか?・・・という事です。
日本人は、権威に弱い国民です。
大学の教授や、大手企業の役員のように、地位と権力がある人達には、人が群がって来ます。
面白い事に、その教授や、役員が定年を迎えた次の日からは、その人の元には誰も訪れては来ないのですよ。
日本人は、猫も杓子も芸大や有名音楽大学です。
しかし、憧れの有名大学に入学して、自分を誰が指導してくれるかは、誰も知らないのですよ。
その先生が、全くダメ先生でも、芸大の先生なら良いのです。
それじゃあ、proになるのは無理だよね。
日本人は、権威に弱い・・・・そうじゃなくて、自己判断が出来ない、他者に判断を委ねる・・国民なのですよ。
自分で評価が出来ないので、ブランドに拘る。
老舗や有名大学等々、であれば、安心するのですよ。有名高校や有名塾等・・・。
ヨーロッパでは、生徒達は、大学に行くのに、有名一流の大学を目指して、行くのではありません。自分が尊敬し、憧れる有名な教授に、自分を見て貰って、弟子になる事の許可をもらいます。
そして、その先生が指導している大学での、その先生の生徒の空きを待ちます。
有名な人気の教授ともなると、5年待ち、7年待ちもザラなのです。
それでも、待って、空きが出来た段階で大学に入学するのです。
それが徒弟制度の名残なのですよ。
指導してくれるのは、大学ではなくって、先生なのですから、当たり前の話なのですがね。
ブランドに拘っていて、proの道に進める分けはないでしょうが???
そんな、当たり前の事ですら、日本人は分からない。
マーラー先生の「お魚に説教する聖・・・」ってとこか???
夢を叶えるには、必ず守らなければならない原則論があります。
でも、それは、夢に向かうには、(夢に向かって歩いている人達には・・)当たり前の課題なのです。
正しい夢の持ち方
よく、保護者の人達が、その夢を叶えた人ではない、身近な別の道を歩いている人にadviceを求めているのを見受けます。
相談を受けた人も、それらしく自分の考えをadviceをしているのですが、私達から見ると、それは見当はずれのadviceに過ぎません。
子供をproの音楽家にしたい・・という夢をお持ちだとして、音楽大学を卒業した人にadviceを求める・・というケースです。
仮に、その相談を受けた人が、昔、音楽大学を卒業していた人だった、としても、その人がたった一度のproとして活動をする事無しに、主婦をやっているとすれば、その人には、proとしての意識や生活の有り様は、全く理解出来ないはずです。
音楽大学を卒業したとしても、それは教養課程を終了しただけで、そういう人をproとは呼ばないからです。。
子供を音楽のproにしたいのならば、その相談は、別に音楽のproである必要はありません。
どんな分野でも良いから、ある分野で、ひとかどのproと呼ばれる生活をしている人にadviceを求めるべきでなのです。
音楽への道であるから、音大の卒業生に・・・というのは、全く、無意味です。
音楽大学は、あくまで、お嬢さん達の一般教養のための花嫁学校であって、職業の訓練所ではないからです。
ブランド社会の、ステータスに過ぎないのです。
お嬢様学校とは言っても、そこで、料理洗濯、裁縫等を学ぶ分けではないのですよ。
チャラチャラした華やかな、音楽とは全く無関係の世界に過ぎないのですよ。
音楽大学の意識と、音楽の現場は全くの別世界なのですよ。
音楽の現場はお金を稼ぐために音楽をやっているのです。
音楽大学の卒業生達は、お金を払うために、音楽のコンサートをやっているのですからね!??
結論、proのadviceを受けるのなら、genreを問わずproと呼ばれる人にadviceを貰う事。
自分と同じ「主婦」にproになるためのadviceを受ける事は、無意味ですよ。
ヨージーの法則
「人は自分が求めるadviceをしてくれる人に、adviceを求める」
つまり、adviceを求める人達は、自分がそのadviceを受け入れられないような人には、adviceは求めないのですよ。
音楽で、生活を立てている人達、所謂、proの活動をしている人達に、proになるための、adviceを求めるとすれば、かなり厳しいadviceが返って来るのは分かりきった事です。
自分が「主婦になりたい」と願っているポニョの時期に、そういった厳しい人達に、adviceを求める事はありません。
proとして、音楽活動をしている女性がいました。
仕事の事で芦塚先生がよく相談を受けていたのですが、その女性が結婚を考えるようになった途端に、(仕事と結婚の両立についての話なのですが、その相談を)音楽大学を卒業はしているけれど、一度も音楽活動をした経験のない主婦の人に相談をして、そのadviceを受け入れたのです。
結婚をした途端に、その女性は音楽活動の場所を無くしてしまいました。
活動の場所を無くした事について、「どうして??」本人は悩んでいたようですが、それはその人の、「意識が変わった」からに過ぎないのです。
それについての、adviceはその、主婦である先輩女性には出来ません。
何故なら、一度もproとしての音楽活動をした経験がないからです。
残念ながら、私達はその女性に二度とadviceをする事は、ありませんでした。
(勿論、adviceを求めて来る事もありませんでしたがね。)
当たり前のお話で、住む世界が変わってしまったからです。
芦塚先生の立場で言うと、結婚をしたから、音楽活動が出来なくなった分けではないのです。
proとしての意識を、主婦の立場に変えてしまったから、音楽活動が出来なくなってしまったのです。
結婚しても音楽活動をしている人はたくさんいます。
しかし、主婦になっても、proとしての意識を保つ事はそれなりに、難しいのです。
彼女は、そこのところを、しっかりと考えて、結婚に望むべきだったのです。
勿論、「結婚後も音楽活動をしたければ・・・・」の、話なのですがね。
最初から、「proの世界を経験したことがない・・・・」、或いは、「結婚と同時にproの音楽活動を全くやめてしまった」 そういう人にadviceを求めても、所詮、無理な事は明白なのですが、それでも、そういった人達にadviceを求めるのは、adviceを求める人達の「潜在意識の表れ」なのですよ。
「音楽活動は、勉強が大変だ。もう、活動をやめたい。」という潜在意識です。
確かに、そういう潜在意識を持っている人が、芦塚先生的にadviceを求めるのならば、先生は、「嫌なら、やめれば???」としか、言わないよね・・??
芦塚先生は、綺麗事のような無駄な話が、大嫌いなのでね。
「音楽の演奏は誰にでも出来る。」
「でも、彼の奥さんはあなたしかいないでしょう??」
そんな風に、音楽の事を思っている人が、音楽の事を分かっているわけはないでしょう??
芦塚先生は、そこの所は、非常に厳しい、と思いますよ。芦塚先生にadviceを求めたら、ストレートにしか、反応は返って来ませんよね。
お追従型の、綺麗事のadviceはしないからね。
人生から、逃げようとしている人には、芦塚先生のadviceはちょっと、キツイかもね・・・・??
潜在意識的に「自分の望むように、好きにすれば・・・?」というのが、芦塚先生の「常のadvice」ですよ。
でも「他にある???」
それから、一般の人達から、よく勘違いされる事ですが、芦塚先生は学校教育や塾教育に対して批判的だ!と、思われているときがありますが、それは全く違います。
基本的には、その生徒の、将来の夢(大人になった時の夢)が一般大学を卒業して、一般企業に就職をして、夫婦円満な家庭を築く事が、その生徒や親の将来の夢ならば、学校教育や塾教育そのものを、否定することは、絶対に有り得ないし、その生徒の学校の部活等も教室で援助しています。
現に、今も、教室の多くの中、高生の生徒達が、学校のorchestra等で、部活に熱心に参加しているし、また、リーダー的な存在で活躍していますが、それで、教室が何かその生徒達の活動に、批判をする事はありません。
生徒達は、学校の部活では、指導者の立場になります。
でも、未だ学生に過ぎないのですから、後輩にlectureしようとしても、出来ない事がよくあります。
そういった場合には、生徒は私達教室の先生に質問をしてきます。
その質問、疑問に先生達は懇切丁寧に説明してあげます。
学校の部活を批判する事は、絶対にありませんし、寧ろ、先生達は積極的に、生徒の部活動に対して、援助をしているのですよ。
それなのに、では、何故、「芦塚先生は学校教育や塾教育に対して批判的だ!」と勘違いされるのでしょうか??
このお話は、結構、色々なPageで芦塚先生も、お話されているようですが、それが先程お話をした、「音楽の方に進みたい」という人達の、夢と日常生活の行動の不一致なのです。
芦塚先生のとても厳しい格言集であるヨージーの法則の中の一つの格言に、「一つを得ようとすると、一つを失う」という格言があります。
音楽でも、「お友達と音楽を楽しむ」 と、いう事と、「proの世界」は両立はしません。
(勿論、pro同士で、proとしての音楽を楽しむ事は、当たり前の事ですが、それは所詮、一般的なlevelとは、Niveauが違います。)
つまり、「音楽でproになりたいと思ったのなら、orchestra等の部活とは両立は出来ない」・・という事なのです。
「音楽を楽しむ事には変わりはないし、同じ音楽だから」・・と思われるかも知れませんが、それは、同じ音楽をやっていると思っても、実は、「音楽に対する考え方や意識が全く違う」、別物なのだからです。
音楽に限らず、全ての社会はピラミッドの構造になっています。
という事で、頂点に立つ人は、一人しか必要ないのです。
オリンピックでも同じでしょう??
一位が二人居る事はないのです。
(その場合には、一位無しの二位が二人という事になるのですよ。
国際コンクールでは、一位、二位無しの、三位が一人というケースもよくあります。)
proとは、その頂点の一人である人の事を言うのですよ。
では、proの演奏家は、一人しか居ないのでは・・??
そんな、阿呆な質問はありません。
音楽のgenreには、無数のgenreがあるのです。
中学生ぐらいから、本当にproを目指して、世界の頂点を目指した人がいますが、Chopin奏者としてそれを求めるのなら、そりゃあ、不可能でしょうよ。
しかし、それなら、それで、遅く音楽を始めたとしても、世界の頂点を目指す事は出来るのですよ。
それは、人の出来ない事をすれば良いからです。
その分野で、世界の頂点に立てば、世界一になれるのですよ。
このお話はまたまた超長くなるので、別のPageを参考にしてください。
どっかに同じ話を書いていたので・・・。
世間一般では、「子供達がある程度、歳をとって、自分で職業を決断出来るようになって決めれば良い。」というすこぶる、優しい親がいる。
「音楽大学に進学するなんて、高校生になってから決めれば良いよ。」
将来、大学を卒業して、一般の社会の職業に従事する場合には、それは全く、問題はないし、正しい判断でしょうね。
しかし、ある種の職業(手に職の技術職)は、体をその年齢、年齢で育てなければ、proとしては生きてはいけない職種が多数あるのだよ。
例えば、アスリートや、野球でも、技術と体が伴わないと、proとしては、活動する事は出来ない。
高校生になって、それから野球を始めても、proになる事は出来ないのですよ。
それまでに体を作っておかないと、望みと希望だけ持っていても、そりゃあ、夢のまた夢の話に過ぎないのですよ。
子供の時の努力が、その子供の一生を決めてしまうのですよ。
もしも、親が「高校生になってから自分の将来を決めたら??」と子供にadviceしたとして、若し、その夢が、音楽やら、野球やら、アスリートや、技術職というのが、子供の将来の夢であるとすれば、一見、優しいと、思われるその甘い親のadviceは、その優しさで子供の夢を潰してしまう事になるのだよ。
それは、もしも、子供の夢が、「将来、violinistやpianistになる」という夢なら、その決断は、小学校入学時よりも、前に、人生の決断をして、一般的な普通の子供達の生活とは決別して、pianistになるための人生をstoicに生きていかなければならないのだよ。
また、音楽家として必要条件である絶対音感のように、小学校低学年迄に、身に付かないと、その後は、幾ら勉強しても、中々付かないという習得が年齢に関係していく能力もある。
意外に思われるかもしれないが、「練習の躾」も、そういった習慣付けが必要な能力という事が言える。
「練習の躾」も基本的には、「勉強の躾」と同じなので、何時の年齢でも出来そうな気がするのだが、それは、日本流の机にしがみついているだけの勉強に過ぎない。
ここで言う「練習の躾」は、そうではなく、ちゃんと「内容の伴った、集中力を伴った練習が出来るか否か」の話である。
小さい年齢の時に、短い小節の範囲で、如何にたくさんの注意事項をcheckしながら、練習出来るのか??という難しい問題をクリヤー出来ないといけない。
そういった密度の高い「練習の躾」が、仮に、小学校の低学年、中学年迄に、その「練習の躾」が身に付いたとしても、それで、一生、緻密な練習(勉強)が出来るようになった、と、それ以降も安泰であるわけではない。
子供は、小学校の高学年の5,6年生から、中学校の一年生ぐらいまでは、ギャングエイジと言って、社会性に目覚める時期であり、また女の子の場合には、思春期症候群の時期とも重なる。
その時期は、一芸を目指す子供達が、一番挫折し易い時期なのだが、この時期の挫折は体の成長が引き起こすものであって、本当に本人が夢を頓挫させるのではない。
子供がやる気を無くして、怠けているのを、親が「うちの子供は、今思春期症候群で・・、やる気が起こらないのです!」と言って来たので、芦塚先生が「思春期症候群は、毎日を90%、100%で過ごしている女の子にしか表れない症状なのですよ。」「日頃、60%で生きている子供が50%になったからといっても、誰も気がつかないでしょう??!!」「それは、単なる怠け病であって、思春期症候群とは無関係です。」と、親に厳しく叱責していた。
だから、この話も、音楽を一生懸命に頑張っている生徒達だけの話なので、その前提で、聞いてください。
この時期は、親が必死に、backupをして、喧嘩してでも、音楽を一途に頑張らせて、その思春期の時期を乗り切ると、驚く程、元の、集中力のある状態に戻ってしまって、結果は、一時的には、子供に文句を言われたとしても、結果的に、子供から感謝される。。
しかし、そこで、良い親を演出して、子供のわがままを聞いてしまって、夢を頓挫させてしまうと、中学2年、3年になって、その思春期症候群の時期を過ぎた時点で、その子供は、自分自身が夢を頓挫させた事を一生悔いる事になるのだよ。
何故、一生か??・・というと、自分が自分の夢を頓挫させた事が、自分自身の本意では、なかったからなのだよ。
だから、そこで親に支えて欲しかった・・という事で、親は、逆に、良い親になった事で、一生子供から恨まれてしまうのだな。
理不尽なように見えるかも知れないけれども、それは子供の心を感じ取れる親にとっては決して理不尽な批判ではないのだな。
つまり、時期時期で、子供にback・upをするのか、強引に引っ張らなければならないのか?それとも子供の自由な裁量に任せるのかが、決まるのだよ。
それに、この時期は、4,5年生から始まるとしても、何時からか??は人によるので、その時期そのものは、1年は続かない。
早ければ、半年ぐらいで終わってしまう。
私の教育論文では、子供の成長と指導という精神面を取り上げて、approachしているので、音楽技術の技術習得についての説明はない。
しかし、音楽技術の習得に関しても、やはり、その年齢や、その技術のlevelの時にしか、身に付かない技術や意識があるのだが、そういった内容についての説明は、教育論文というgenreでは、精神面に偏ってしまうので、どうしてもapproachが疎かになってしまう。
学校教育は、単なる勉強であって、技術の習得とは無関係なので、年齢に関係なく、高校生や或いは大学生になっても、その勉強が充分に、間に合う。
だから、一般の学校の勉強しかして来なかった、父兄にとっては、音楽の夢を叶えるためには、特殊な勉強を積み重ねる事や、その能力が体や心の発達と密接に関係して、その年齢でしか、身に付かないという、年齢が重要なpointになるという事は、理解出来ない。
自分が一般の教科を学習して来た時と全く同じ、そのままの感覚で、「音楽の方面に進むか、一般に進んで音楽を趣味とするかは、高校生ぐらいになってから決めればよい。」という、音楽(或いは、技術習得の必要な職業の勉強)に無理解な父兄が結構、いるのだよ。
(いくら、親が音楽教育に対して無理解であっても、子供自身が音楽家になろうとしなければ、それは個人個人の家庭の問題なので、私達は一切、関知しない。私達が問題にしているケースは、そういった一般的な考え方のままで、子供が音楽家に成れる、・・と、とんでもない勘違いをしているケースに限って・・の場合のみである。)
先程も、お話したように、しかしながら、職業のある分野には、野球であろうと、フィギュアスケートであろうと、幼年期から、一日でも練習を休んでしまうと、その世界では生きていけない・・という特殊な職業もあるのだ。
そういった職業を、私達は職人(professional)の世界と呼んで、一般の就活のある職業とは区別している。
特殊な技術を要求される職人(professional)の職業と、一般企業の就活では、その根本から全く違う世界なのだよ。
音楽の世界も、そういった職人の世界であって、professionalになるためには、早期の教育を始める事が必要で、しかも、早い時期に音楽に進むか否かの決断をしなければならない。その決断のtimingが、proになれるか否かを決定する。
音楽でproになるには、勉強を始めるtimelimitがある。
ここで言うtimelimit・・・の意味は、(当たり前の事ではあるが)、「音楽の勉強を始める」という意味ではない。
それまでに、音楽の技術水準がちゃんと、そのlevelに到達出来ていて、その上で、proを目指すための決断をする時期という意味である。
その決断をするのが「高校生になってから・・」という事は有り得ないのだよ!
音楽の道に進む、・・という決断は、それは同時に、学校教育や家庭での良い子であるという役割等の全てを捨てるという意味でもある。
それはそれは、厳しい決断を強いられるのだよ。
自分の子供を音楽家として、育てている親達は、自分達の日常の全てを犠牲にして、子供の夢、所謂、子育てに掛けている。
自分達の日常の生活が、子供の夢よりも大切なら、子供を本当のproに育てる事は出来ない。
・・とは言っても、まあまあ、のsemi-proぐらいには、充分、育てる事は、出来るのだけどね。
殆どの人達はそれで、充分だと思うよ。
本当のproは、自己犠牲の上に社会に奉仕しているのだから、子供の幸せを願うのなら、自分の幸せも得る事が出来るsemi-proが充分ではなかろうか??
まあ、semi-proの生活は、私達には辛抱は出来ない煮え切らない半跏な世界なのだがね。
まあ、いずれにしても、高校生になって、proの音楽家に成れるか否かの決断をする事は、絶対に有り得ないのだよ。
それでは、遅きに失しているのだよ。
父兄はそういった無理難題を要求してくる人達もいるのだな。
それで到達出来る世界は、趣味の領域の世界にしか過ぎない。
音楽も、一般の勉強、教育とは全く違っていて、それぞれの年齢や、それぞれのlevelでしか学べない、技術が多いのだ。
特に、意識の点では、日本の学校教育の中では、中学生の年齢(時期)の勉強の姿勢が、その生徒のその仕事への、一生の意識を決定する、特別に大切な時期でもあるのだ。
高校生からでは、音楽の世界では、何も間に合わないのだよ!!
でも、それは私が言っている事ではなく、音楽社会では、極々普通の一般常識なのだけどね。
抜き出し練習で、同じpassageを先生の言った内容に注意をして練習をしたり、先生の言った通りの練習をするには、「単純練習の躾」が出来ていなければならないのだが、その「躾」は、楽器を教室で、学び初める時に渡されるlessonnoteの、使用法にそのmethodeがある。
ここでも、「lessonnoteを生徒に渡すと、毎日の練習が出来るようになる」等と、うっかりと書いてしまうと、またまた、一般の先生達に、「lessonnoteそのものにmethodeがあって、どこの教室でも、どの指導者でも、そのメーカーのlessonnoteを使用すると出来るようになる」=「市販のlessonnoteを使用しているので、そのnoteを使っての、練習の「躾」は芦塚メトードではない。・・・とか言われそうだからね。
市販のlessonnoteは、教室の生徒が家庭で練習をするようになって来た時に、1日の中でも、練習を繰り返す場合には、その回数分シールを貼ってよい。とか、先生から指示された練習の内容別に練習した場合に、その都度シールを貼って良い。とか、また、教室の生徒は複数の楽器を習っているので、violinの練習とPianoの練習では、担当の先生が違うので、それぞれの楽器別に、lessonnoteにシールを貼るとか、或いは好きなシールを貼って良いとか、使い方に色々な工夫がなされていて、本当には、市販のnoteでは、対応は出来ない。
しかし、そういった練習量や楽器別の練習をするために、たくさんのシールを貼るスペースが必要な生徒は、必ずしも多くはなく、習い始めた楽器の練習にゆとりが出来て、新たに他の楽器を習い始めたくなる時には、その生徒は、既に練習の躾は終わっていて、lessonnote自体を使用しなくなっている頃なので、市販のlessonnoteのlayoutの問題がいつでも起こる問題ではないので、そのまま、現在も市販のlessonnoteを使用している。
また、外部教室から転入して来て、Beyerのlevelを既に卒業した状態で、入会してくる生徒の場合には、練習の「躾」が未だ、出来ていなかったとしても、lessonnoteを使用して、育てる事は、生徒のprideとの兼ね合いで難しい。
ということで、外部教室から、ある程度のlevelで入会して来る生徒の場合には、私達の教室での一番の基本である、「単純練習の躾」が落ちていて、練習自体は、毎日、ちゃんとしていたとしても、その練習の内容は先生の言った通りではなく、自己流になりやすい。
勿論、ちゃんと、lessonで先生に言われた通りの練習法で練習をするのだが、その課題が一回でも出来たら、それだけで満足してしまい、その後の練習を、そのままの練習法で練習する事はない。
市販のlessonnoteではあるのだが、lessonnoteを教室のmethodeで使用する事によって、芦塚メトードの基本的な練習の仕方を学んでいるのだ。
そういったprideを傷つけないで、集中力と練習の正しい「躾」を習得させるために、私は、「オセロ練習法」というのを作り出した。
「オセロ練習法」には、無駄な練習をしない、という意味の他に、生徒の練習のNiveauを上げるという意味がある。
だから、オセロを合格か否かの判断をさせるのは、子供が出来るように、少しずつ、checkの仕方を指導していかなければならない。
「積み上げの出来ない先生」
昔、一般の音楽教室の先生から、「Beyer教則本のmanualを勉強したい」、という申し出があって、当時は、私の生徒にBeyerのlevelの生徒がいなかったので、その先生の生徒を教室に先生と一緒に連れて来て貰って、実際に子供にバイエルの指導の仕方をlectureした事があります。
月一の割合で、私がlessonをして、その後、その先生に、私のlessonをfeedbackして貰うという約束だったのですが、不思議な事に、いつまで経っても、その生徒が、上手くならないのです。
不思議に思って、私のlessonの後で、その先生が生徒にどういうlessonをしているのかを、videoに撮って貰ったら、な、な、な、何と、その先生は、(私のlecturelessonで、その生徒がBeyerの曲の課題の曲を弾けるようになったので、自宅のlessonで、feedbackして見る事は全くしなくて、その曲を合格にしてしまっていたのです。
だから、私のlectureを、その先生が復習する事もなく、私と同じlessonをする事もなく、・・・・・それ以上に困った事は、Beyer教則本は、それぞれの課題の上に次の課題が作られているのですが、その課題が終わったら、次の課題だけを指導して、前の課題を復習する事は、全くしていなかったのですよ。
一度、習って合格したら、その課題は卒業と思っているのです。
つまり、その課題の曲が、一度、合格してしまうと、その課題を復習する必要はなく(!!!)、次の課題を順番にこなして行けば、「生徒は、上手くなる」 と思い込んでいるのだ。
しかし、音楽は、・・というか、全ての勉強は、積み上げを無しには、上手くなる事は、絶対にありません!
「技術は、常日頃の練習の積み上げなのだよ!」・・・と、その先生に、幾ら説明しても、その考え方は、とうとう分かって貰えなかったのですよ!
一つが合格すると、その技術はmaster出来て、もう練習を積み重ねる必要はない・・と、思い込んでいるのだ。
つまり、「その課題が合格したので、その技術は習得出来た」と、いう思い込みなのです。
(勿論、その事を注意すると、口では「分かりました!」とは言ってくれるのだが、指導や日常の生活に反映される事は、決して無かった!)
その話は指導の話に限った話ではない。
一般に音楽の指導者は、子供のための曲を 「音楽的に軽く、内容のない曲」である、と思い込んで、Beyer等を、真面目に勉強しようとはしない。
ある時、教室の講師募集に来た先生に、「教室で指導するためには、BeyerとBurgmullerぐらいの曲は、全部暗譜してください。」とお願いしたら、その先生が、「Beyerは106曲もあるのだから、とても覚えられません。」と応えて来たので、「でも、ChopinのBallade1曲よりも音符の数は少ないと思いますよ。」と言ったら憮然としていた。アハッ!
或る、大手の音楽教室の先生が「生徒をコンクールに出すので、生徒を指導しているvideoを見てくれ」と言って来たので、videoを見ると、生徒が、課題曲を演奏しているのに、その先生は、楽譜を暗譜していないので、生徒が演奏している時に、楽譜を必死に見ていて、生徒の指使いや、手の型、姿勢に全く注意が行っていなかった。
その先生にvideoを見せながら、生徒の指使いがめちゃめちゃになっている事、や手を不自然に動かしている事、等々を説明して、必要最低限は先生も楽譜を譜読みをして、生徒の全体を観察すべきである、・・・と注意したら、反省していた。
Beyerに限らず、Burgmullerや、Diabelli等の曲を、勉強しようとしない先生に、「この曲はこういう風に演奏するのですよ!」とlectureすると、その曲に対してのみ「この曲は奥がふかいのですね〜ぇ」と、驚く。
そうではなくって、歴史に残っている教材なのだから、それが子供用の教育教材であったとしても、どの曲でも、それだけ奥が深いのだよ。
子供の曲だから、奥がないと思うのは、浅慮な傲慢な考え方だと思うよ。