私の教室の生徒さんではないのですが、ピアノを習っている年配の男性の方からの質問を、その先生から回されてきました。
調に関する質問で、どう答えて良いのか分からなかったので、教えて欲しいという質問です。

例えば ニ短調 とかの曲をハ短調で弾くことはできますが 雰囲気が 変わるのは何故ですか?

作曲家は、出来た曲を、イからト迄のどの調を原曲にするか? を、どういう風に考えているのですか? 歌謡曲などの場合には 歌手の人の音域や 慣れ親しめる領域(簡単な調という意味かな??)を考えて 決めると思いますが。

例えば ニ短調 とかの曲をハ短調で弾くことはできますが 雰囲気が 変わるのは何故ですか?

⇒pitchの話: 
音の高さによる違いBeethovenの合唱は当時のニ長調は現代のハ長調であったという話がまことしやかに話されています。
だからソプラノのハイHは、実際の音はAの音だったという話です。
私は眉唾としか思いませんけれどね。
その理由は長くなるのでやめます。

それは、「バロックや古典派の時代は基本のAがとても低かった。」という風説から来る話なのです。

バロック時代や古典派の時代のpitchが低かったとする説は、今では風説にしか過ぎません。
答えはその日のコンディションで、自由にpitchを決めていたからなのです。
つまり、ガット弦はその日の天候や湿度によって影響を受けたり、古くなって伸びてくると高い音では切れやすくなったりします。
だからその日の弦のご機嫌でpitchが決まったのです。
勿論、管楽器はそんな事はありませんがね。管楽器は今もそうですが、放っておけばどんどん高くなる傾向があります。
だから、当時も448とかのサイクルで演奏された事もあったようです。
弦楽器はとても無理ですけれどね。

この話は詳しくは、ホームページのあちこちに書いてありますので、そちらを参考にしてください。

(芦塚先生のお部屋⇒楽典の話⇒バロック時代とピッチ

 

絶対音感の話:

@歳と音感 リヒャルト シトラウスは晩年自作の曲を指揮しなくなったのだが、それは歳をとって、調がhighに聞こえてしまうので指揮するのが苦痛になった。

A精神状態と絶対音感 **子ちゃんが音楽大学の入学試験のプレッシャーでPianoの曲やviolinの曲がhighに聞こえて練習はおろか、本番も苦労した。
同様に、++君が中学受験の時に同様に絶対音が狂って演奏が難しくなってしまった。
・・・という風に、極まれに、精神的なプレッシャーで絶対音感が狂う人もいるようなのですが、ほとんどの人はその経験は無いようで、半音の100分の1も狂う事はありません。
Mozartの幼少期の逸話で「このヴァイオリンはパパのヴァイオリンと半音の半分違うよ!」という絶対音感の話は、教室の生徒なら普通のお話で、誰かがtuningをサボると(いい加減にtuningすると)、「半音の半分も違って、気持ち悪いよ!」と、直ぐにクレームたつきます。

毎回オケ練習のtuningの時に、半音の10分の1ぐらいでも、芦塚先生に叱られていますからね。芦塚先生が、小学生に向かって、「今日は鬱なのかい??」ってね。

 

B湿度と絶対音感 湿度が異常に高い時で、雨が続いていて、「空気が重たい!」と感じる時で、先生の欝が酷かったり、生徒の乗りが極端に悪い時には、ごくごくまれなことではありますが、芦塚先生が、「今日は空気が重たいから、444でやりましょう。」と生徒達に指示を出すことがあります。
・・とはいっても、1年に1回ぐらいの話だけどね。

それだけで、見違えるように子供達が元気になるから不思議です。

練習のpitch A=443を一つ上げて、444にするだけで生徒達の乗りが良くなる分けなのなら、「普段もそうすれば良いのでは?」と思われるかもしれないが、そうはいかないのですよ。

普段、それをやろうとすると、生徒達から「え〜っ!!pitchが高い!!」と、クレームがついてしまう。

「Pitchを一つ上げて、気分を一新する」 、それは年に一回の、非常手段だから出来るのですよ。

 

作曲家は できた曲を イからト迄のどの調を原曲にするか? を考えているのですか?歌謡曲などは 人の音域や 慣れ親しめる領域を考えて 決めると思いますが。

⇒この二つは同じ質問だと思うので、纏めて解答します。

できた曲:

できた曲を イからト迄の、どの調を原曲(原調)にするか?という考え方は、その前提として、メロディーの弾きやすさや歌いやすさ(音域)等を配慮して、作曲家が作曲をする・・・と、思われているように見受けられますが、プロの作曲家が、調を決定する場合には、音域に関する条件はありません。
勿論、作曲家はその楽器の音域と音の特性を考慮してmelodieの音域を決めていきます。
しかし、それで調を決定する事はありません。
楽器の特性と調の設定は別の次元のお話なのです。

音楽の情緒を決定するのはメロディーなくてharmony(和声)なのです。

メロディーが、どんなに美しかったとしても、メロディ自体が情緒を決定するわけではないのです。
それはシンフォニーやオペラなどで、とても美しいメロディーが、作曲家の手によって、場面、場面で全く違った情緒表現をすることでお分かりと思います。

その場合も、その美しいメロディーは変更された情緒表現に従って、調性や楽器を変えて、最もその表現をするのにふさわしい状況を作り出しています。

 

歌の曲の調性の決め方: リートや歌曲の場合には、Zyklus(組曲)として作曲する場合には、(例 Schubertの美しき水車小屋の娘や冬の旅等)全曲を歌えるように、声域を限定します。Sopranoやbarytone等と指定します。
そして、Zyklusの中には、前後の調性を限定している曲もたくさんあるのです。
その場合の移調は致命的なものになってしまいます。

ですから、本来的にはその定められた声域の歌手が歌う事が望ましいのです。

作曲家の意図した調を歌い手の音域に合わせて、移調して出版するのは、出版社側の利益の売るための考えですから、簡易versionの楽譜同様に、本来的には作曲家の意図にはそぐわないのです。

作曲家は、リートや歌曲の場合には、歌詞が先行するので、歌詞の内容にあった、調性をあらかじめ決めます。

歌手の声域や音域で調を決めるわけではありません。

その調性内で作曲をする時に、歌の音域を決めて行けば良いからです。歌詞⇒調⇒音域の順です。

歌詞にあった調性については、後述します。

 

曲を歌う歌手が予め決まっている場合: 

歌の場合には歌手が決まっていて、その人に対して作曲する場合がよくあります。
この場合にはsopranoでも、リリコやドマティコ、その他、その歌手の声の質と性格(ジャンル)で歌詞や曲のimageが決まります。
それで、ある程度は調性等も限定されます。
勿論、歌のジャンルが違うので、おのずから歌詞なども自由に選べるわけではありませんしね。

 

先程の楽器の特性の補足説明です。

楽器が決まっている場合: 作曲家が特定の楽器に対して作曲をする場合ですが、ヴァイオリンの楽器を例にとって説明すると、

violinは下からG,D,A,Eと調弦されているので、Dを主音として、下属調のGと属調のA、上属調のEを持った、D調の楽器ということが出来ます。同様に、violaやcelloはC調の楽器と言えます。

ですから、violinを一番良く生かした調性はD Durやd mollです。

その次に良く鳴る調性は、AとGの長短両調です。

E調が次に準じます。

ほとんどのオーケストラの曲や室内楽の曲が上記のいづれかの調になっているのは、この楽器的な特性でviolinやviola、celloが良く鳴る調性だからなのです。
古典派のorchestraの音楽は弦楽器がリードをします。
だから、一番弦楽器がよく鳴る(響く)調が選ばれます。

しかし、ロマン派になると、弦楽器は(特にBrahms等のオーケストラの曲は、古典派のような輝かしい音ではなく)いぶし銀のような、霧に霞んだような音が好まれてきます。

そうすると、当然、そういった弦楽器が籠った響きになるような調性が好まれてくるのです。

 

同様に、ブラス・オーケストラの場合には、中心になるクラリネットやトランペットの管楽器の調がB♭の調か、Es管の場合がほとんどなので、ほとんどの曲は♭系の曲が輝かしく響く調性になるのです。

 

調の持つ絶対的な特性: この話は作曲家の中では、意外と一般的な話なのですが、あまりにも情緒的、感情的な話なので、音楽の楽典や通論には書かれていません。

作曲家の経験上の話です。

ですから、調の持つ音楽の特性のお話は、芦塚先生個人的見解として、作曲家の間でまことしやかに囁かれている風評or一般論として聞いてください。

 

ハ長調: プリミティブ、天上的な神々しさ(Mozartジュピターシンフォニー)

ハ短調: 激情的、攻撃的(Beethoven、Pianosonate悲愴)

ニ長調: 輝かしさ、華やかさ(殆どのオーケストラの曲)

ニ短調: 暗い攻撃性、悪魔的、デモニッシュ(Beethovenの第9シンフォニー)

変ホ長調: 天上界を表す、神の世界、三位一体(Mozart魔笛Beethoven英雄symphony)

ホ長調: 愛の調、エロスの調、(R シュトラウスの薔薇の騎士の序曲のベッドシーン)

ホ短調: 死を表す。(特にBrahmsの下行3度 Brahms第四シンフォニー、最後の4つの歌)

ヘ長調:田園的、素朴、(Beethovenの田園交響曲)

纓へ短調:不気味、妖怪、魑魅魍魎の世界、ウェーバー魔弾の射手よりお化けのシーン

ト長調: プリミティーフ、可愛らしい、子供じみた

キリがないのでこの程度にしておきます。

すべてのシンフォニーや室内楽がこの調の性格の原理に従っているのはとても面白い現実です。

蛇足:
 私達の教室で4歳の時から習っている、小学2年生の女の子です。
パパがスマホを買って来て、tuningの音が出せるのを発見しました。
「おい、このAの音に合わせて調弦するんだよ!」
「パパ、その音低い!」
「だってスマホなんだから低い分けはないだろう?」
「でも、低いもん!」
・・・という事で、パパは先生に質問に来ました。
「うちの娘が変な事を言っているのですけど!」

「ああ、それはAのpitchは、通常は教育用のpitchで440サイクルになっているからですよ。でも、オーケストラやコンサートでは、演奏会用高度(pitch)として、440サイクルを使用する事はないのです。一般のホールでも、殆どのホールは443サイクルになっているので、教室も443サイクルを使用しています。」
「ああ、それで・・・・!じゃあ、うちの子が言っていたのが正しいのか・・・・くやしいなあ・・・!」

mcy君は弟とpitchの当てっこをして、遊んでいるそうです。「このAは447だ!」「このAはbaroquepitchの435だ!」ってね。

追記:
反古の文章です。

そのうち、ちゃんと書くつもりです。
なかなか、時間がない。

05年1月19日
@ピッチと湿度と乗り
生徒にオケの指導をしている時に、湿度が多くて鬱陶しくてあまりにも子供達の乗りが極端に悪いときには、最後の手段として、ピッチを443の演奏会高度から、高めの444サイクルまで上げる事がある。そうすると、子供達の乗りが見違えるように良くなってくるから面白い。
こういったやり方は、僕自身が個人的に思いついたやり方なので、一般的なorchestraの場合には、そういうことはすることがあるのか、どの程度意味のある事か分からないけど、という話を、06年の8月の22日のレッスンのときに、生徒にピッチの話しを雑談でしていたら、その時に、生徒の担当の先生から「岩城さんの本でウイーンのオケの話の時に、全く同じ事をいっていた。」という事を聞いた。

教室では、気分によってピッチを変えるのは珍しいことではないのだが (⇒これは誤解を招きそうだ。教室でもpitchを変えて演奏する事は、baroque楽器を除いては、基本的にはしない。ただ、生徒の気分の乗りが悪くて、先生が引っ張るだけでは直りそうもない時には、仕方なしに最後の手段として、pitchを変えるという事だ。)日本のorchestraでは、通常、気分でpitchを変える事なんて事は普通やらない。
というか、一般的には、「ピッチを変えると気分が変わる」なんていうこと自体、考えたことも無いだろう。

A拍と拍子とリズムについて
次に、拍子の話なのだが、
本で読んだ所によると、人間が安定した速度(所謂と感じるテンポはM=60〜80位で人間の脈拍と関係しているそうだ。
嘘か本当か、知らないけれど、メトロノームのなかった昔は自分の脈拍でテンポを量ったそうだ。
一つの本(書物)という事ではなく、私が読んだいろいろな本に、まことしやかに その事について書かれている。
(Metronomのtempoを正確に把握出来る能力については、文献を見ると、絶対音感よりももっと習得が難しく、殆ど生まれついての才能のように書かれている。私のように高校生にもなって音楽を始めた人には、絶対音感と同様に身に付く事はないそうだ。

しかし、私達の教室では、訓練をすると、メトロノームのtempoの80と81の違いを正確に言い当てることが出来るようになる。
それは、Metronomに対する普段の意識の問題なのだよ。
曲のphraseに関して、この場所ではメトロノーム幾つで、ここからは幾つで演奏をするという、ensemble上の約束事は、特に子供達が次のensembleの練習の時の目標課題として、大切である。
ピアノやヴァイオリンを皆で一緒に練習する時には、「82では全員が安定して気持ちよく弾けるが、83ではピアノの子供が不安になってしまう。」 という風に、メトロノームの一目盛りの違いで弾けなくなってしまうのだ。指導者は、それを正確に把握しておかなければならない。

だから、子供達も練習に際して、自分の弾けるtempoではなく、全体が弾けるtempoに対しての一目盛りの違いの把握を要求される。・・・というと、かなり高度な難しい事を、しかつめらしくやらさせられているように感じられるかも知れないが、子供達にとって、常にメトロノームを使って練習しているので、それは普通である感覚しかない。

メトロノームを否定する人は、音楽大学の先生等には多いのだが、プロには基本的にはいない。プロは音楽家同士で打ち合わせをする機会が非常に多い(というよりもそれが普通な)ので、絶対tempoが必要だからだ。ましてや、正確に揺らしをするためにはその基本となるtempoが必要だからである。演奏会毎に、感覚的にtempoが違っていてはその演奏家は評価の対象にはならないだろうし、プロとも呼んで貰えないだろう。
私がまだ現役の頃は、リハーサル、本番だけで、練習が全く出来ない時もよくあった。だから、前日に楽譜を片手に電話で、綿密に、メトロノームを決めていくという作業をよくした。正確なメトロノームの感覚を持っていればそういう事は当たり前の事になってくる。
子供達のレッスンでも、普段のレッスンで、メトロノームを日常的に使って行くと、メトロノームの一目盛りの違いは、ごくごく普通に分かるようになる。
寧ろ、一般的なメトロノームの一目盛りは、(72、76、80〜)と、あまりにも大雑把なので、教室で使用しているメトロノームは、電子式で目盛りがないものや、beat専用というか、rhythmトレーニング用のメトロノームであるドクター・ビートとかいう機械を使用している。そこで、72では安心して演奏出来るけれど、73では・・・という、正確で大きな違いが理解出来るようになるのだ。

本の話に戻って、メトロノームのなかった頃の昔は、人間の脈でtempoを測ったという話であるが、人間の持っている感覚より脈の方がよほど不正確である。
教室の子供達は、一目盛りの違いも言い当てる事が出来るし、中学生や高校生で音楽を始めた生徒であっても、メトロノームに関しての絶対値を言い当てられるようになるのは難しくない。
古の昔のプロが、自分の脈でtempoを知った等と言うのは、とても音楽家の感性を小馬鹿にしている素人の言葉で、あほらしくて信じがたい話である。
・・・・信じがたい、という意味は、そういう事を、まことしやかに書く人がいるという事が・・・という意味である。


次にrhythmではなく、拍と拍子のお話をしよう。
辞書では拍と引くと拍子と出て、拍子と引くと拍と出てしまう。全く困ったものだ。

それに対してAgogik(独)と呼ばれるものもある。
日本語では拍節法とか訳されているようだが、本当の意味を知っている人は少ないだろう。


私達が知っている、「春が来た」という唱歌のmelodieの区切りは、以下のようになっている。
はーるがきーたー/はーるがきーたー/どこにーきたー/

しかし、こういった小節の切れ目と歌詞の切れ目が、同じになる事は、歌曲の場合であって、器楽曲の場合には寧ろ、以下のように、歌詞と小節の切れ目がずれている場合の方が多い。


♪=(あ、)3/4
はるが、きた、は/るが、きた、どこ/に、きた、○○○/

(拍子とは無関係にテーマが拍節を持つ。Bachなんか何時もそうだ。

拍に対して、リズムと呼ばれるものもある。これらは全て厳密に区別されなければならないものだが、その違いを言えるピアニストやヴァイオリニストは少ないだろう。

verschobene Takt(verschoben⇒verschiebenの格変化:verschoben⇒p、a @位置の狂った、ずれた、形の崩れたA)と呼ばれるものもある。ヴィヴァルディなどが良く使う。

Agogikと間違いやすいが、拍子がずれているだけで、リズムがずれているわけではない。

6/8
あ/かい、りんご、や/すい、ねだん、で/○○、
(逆に)6/8γ

あかい、りん/ご、やすい、ねだ/ん、で    Etc.etc.

また"Agogikはrubato(伊)と混同されやすい。

蛇足:
これは、一昨年、教室の生徒さんが音楽大学の受験のために、学校まわりをしていた時に、その大学の教授で某プロオーケストラの団員でもある人のレッスンの時の話です。
その先生曰く「tuningの時にAの音を聞いて、そのAの音に合わせてtuningをするのは、ヴァイオリンの習い始めの初心者だけだよ。プロはチューナーのメモリを見て合わせるのだよ。耳でAの音を合わせたり、上下の弦の5度を正確に合わせるのは絶対に不可能なのだよ!」というお話でした。
それをその生徒から聞いた芦塚先生は、唖然として、「そりゃ、どこのオケの人だよ??」と驚いていました。
舞台上で、オーボエのAが鳴っている時に、一人だけおもむろにチューナー等の器械を出してtuningしていたら、指揮者どころではない、コンサートマスターからも、「首」を申し渡されてしまいますよね。
「首!首!首!」
それに、私達の教室の子供達は、半音の10分の1や20分の1を聞き分けて、「高い!」とか「低い!」とか、文句言っているのだから、チューナーのメモリよりも、1サイクルの100分の1の世界なのだけどね???

これはまた別の音楽大学の先生の例ですが、tuningの話ではないのだけれど、ロマン派の曲を演奏している時に、「あなた、何でそんなに体を揺らして弾くの?!」と怒られたそうです。

ロマン派だろうと、Bachの曲だろうと、その先生の生徒さん達は、硬直して直立したまま、演奏するそうです。
本当に体を少しでも動かすと怒られるそうです。怖いね!
昔々、江戸時代に、正しい歩き方の勉強で水桶を頭に乗っけて、歩く練習をしたという話を聞いた事があります。
殆どそれに近い話だよね。
体を揺らさないでどうやって音楽を表現するのか?って??
音楽を表現するのは下品なそうですよ。
楽譜に忠実にforteはフォルテで、Pianoはピアノで弾けば良いのだそうです。なまじ、感じた音楽を表現しようとするから、ダメなのだそうな!!
確かに、何の理論の裏付けも、時代考証も無しに、感情的に演奏するのは、そりゃあ、ダメだけどね。だからと言って、無味乾燥に弾く事もなかろうに・・???
その話を聞くだけで、その先生の生徒の演奏というか、その先生の演奏も聞きたくないよね。
きっと、機械のように、ロボットのように、無機質に冷たく演奏するのだろうね。
日本の最高学府がそれでは、プロの演奏家が育たないのは当たり前だよね。

確かに、芦塚先生も無意味に自己陶酔で体を揺らすのを極端に嫌がります。

特にピアノの演奏で前後に体を揺する人や、もっと酷くなると、前後左右に体をくるくると回しながら演奏する人もよく見かけます。

本人は気づかないかもしれないけれど、その揺れはちゃんとピアノが拾っているのですよ。

音が目を回しています。

芦塚先生はレッスンでは、実に理論的に体の揺らし方を説明し、lectureします。
どこにも感情的に揺らす所はないのだけれど、見ている人は、まるで音楽に乗って、体を揺らしているように見えるようです。
本当は、一番よく音が表現出来るように、体を揺らしているだけなのですがね。


これは、また別口の音楽大学の先生の話・・

素晴らしい上品なピアノの教授が生徒がピアノを演奏していたら、pedalの踏み変えをせつめいするのに、「そこのところは・・・」と言って、ハイヒールで、生徒の靴の上を押したそうです。その女の子は、「その音楽大学には絶対に行かない!」と泣いていました。
困った事にそこは音大では一流校なのですよ。
まあ、こういった、訳の分からない音楽大学の先生の話は、数え上げたら、キリのない話ですが、それを話た所で、とても冗談にしか聞こえない話で、ひょっとしたら冗談を言っているようにしか、聞こえませんよね。

しかし、それが、困った事に、冗談ではないのだな・・・・。

音楽界に関わらず、所謂、教育界という所は、常識が通用しない世界なのだよね。



10年近く前の、原稿の反古なのに、まだ反古の状態の書きかけのままです。
なかなか時間がないので、続きを書くことがなかなか出来ません。!

悪しからず!
気長にお待ちください。




次ページ