幾ら、楽譜に書かれているからといっても、Locatelli のcapriceを楽譜通りに演奏するのは、現実的ではない。
勿論、プロの楽団の演奏でも、楽譜通りに演奏する団体はないと思う。
(というか、それよりもLocatelli の演奏自体が、コンサートのprogramに乗る事は余りないからである。)
時代考証的に言うと、baroque時代には、今日我々が耳にするような元の曲のthemaを即興風に発展展開させる様式のkadenzの形はまだ存在していない。
baroque時代の曲の一部に見受けられるkadenzの萌芽のようなpassageは、episodeや(ドイツ語ではeingangと呼ばれる、極めて短な、melodieとmelodieを繋ぐ、繋ぎのようなものである。
Locatelli の曲に見受けられるような大規模なcapriceが、付随した音楽だとは言っても、今日の我々が見知っているkadenzと呼ぶには、capriceは基本的に異質のものであり、Etude(練習曲)のように単純な音型(figur)を繰り返すfiguration形式であり、曲に付随するkadenzとは、言う事は難しい。
それぞれの小節数は、tuttiの部分が、A=31小節, B=28小節、C=33(最初の2小節はsolo部分の繋ぎで、実際のrepriseは全くAと同じ31小節である。)にも及ぶ大規模なtuttiなのに対して、capriceの後のdのtuttiの部分は、ホンの8小節のthemaの暗示と思わせるに過ぎない。
事実上は、この曲は、Cのcapriceの前迄で、曲は終わっていると言えるだろうし、また、実際にそう演奏する団体も多い。
capriceと最後のrepriseを演奏する場合においても、そのfigurationの中から、適宜抜粋して、短くして演奏をするのが一般的なのです。
こんにち我々が耳にし、目にする曲のthemaからの即興的な発展展開的なkadenzの作曲法は、古典派の時代に入ってから確立したkadenzstyleの様式である。
通常は、Locatelli のkadenz(所謂、caprice)は、上記に掲載されている楽譜(このPageはcapriceの一部であり、本当は2Page、3Pageに及ぶ事も多い。)から、適宜に抜粋されて演奏されている事の方が多い。(全体を演奏すると大変な長さになるからだ。)
しかも、曲の本来の要素とは無関係の独立したthemaになる。
だから、まだ、我々の言っているkadenzとしてのimageはこのcapriceにはない。
あたかも、U楽章、W楽章のように、独立した楽章と考えても、その曲のimageは異質である。
という事で、左側の楽譜は、子供達が発表会でLocatelli を演奏するにあたって、capriceの中から、figurationを抜粋して、曲本来のMotivの展開でつなぐ事によって、曲としての整合性を出すというconceptで、編集作曲し直したkadenzである。
同じ話の繰り返しになってしまうが、baroque時代には未だ今日我々が耳にするような、曲のthemaを発展させて、展開させたような、即興のstyleのkadenzはない。
古典派の前期になって、kadenzの様式が確立したと思われるのだが、残念ながら、kadenzは即興による演奏が主流なので、その即興が楽譜上に残されているcaseは極々、稀である。
教室でLocatelli を演奏する場合であるが、このLocatelli のcapriceを抜きで生徒に学習させるのは、**のない++のような物だ!注
注 グリム童話では、「**は、塩の入っていないスープのような物だ。」という言葉があるが、高血圧の私としては、塩の入っていない方がよりベッサーだからね。
しかし、幾ら勉強には、良いとしても、この無味乾燥なEtudeをそのまま練習させる事は、オーケストラの練習にとっては、無意味で無駄に過ぎない。
という事で、チョッと時代考証的には、時代錯誤的なのだが、そのcapriceの中から、必要欠くべからざる内容のpassageだけをchoiceして、後は、そのつなぎのpassageを、不肖私が作曲をした。
時代的には、合わないのだが、生徒達の教育上必要であるという、理由による承知の上でのkadenzの作曲である。