日本では、というか、実際には、ヨーロッパでも全く同じなのだが、ヴァイオリンを学んでいる人達は、一般的なcurriculumとして、ヴァイオリンも中級程度くらいのレベルになると、サブ教材として、バッハの無伴奏の曲を先生から与えられて、練習をする事になる。
しかし、現実的には、バッハの無伴奏組曲の演奏技術のlevelは、最高難度の技術の曲であり、四和音を連続して演奏しなければならないとか、内声だけの音を際立たせるとか、それまでに学んだ事のない(或いは、baroque時代の音楽以外では、出て来ない、非常に特殊で)高度な技術の連続で、中級者ぐらいのlevelの生徒達には、教材としては、余りにも難し過ぎるので、それが弦楽器を学ぶ人達のトラウマとなってしまい、結果として、「バッハ嫌い」の原因になるcaseも多いようだ!
ある程度の技術が身に付いてくるとBachのcurriculumが始まって来るのは、別にviolinに限った話ではなく、鍵盤楽器であるPianoを学ぶ子供達の多くが、演奏技術が中級levelになると、弦楽器と同じように、処方薬のように、Bach=curriculumとして、「inventionとsinfonia」を勉強させられる。
否、寧ろ、Pianoのinventionの方が、弦楽器の無伴奏組曲よりも被害が大きいのかもしれない。
私達の教室は、単なる巷の音楽教室に過ぎないのだから、生徒達が音楽への道を目指す場合を除いては、基本的には、Etude、Bach=curriculumを生徒達の教材として導入する事は無い。
趣味で音楽を学んでいる生徒達に、教育教材は必要ないからである。
Bachや、Etudeやscaleを勉強させる事は、基礎をちゃんと指導しているという証として、やっているのに過ぎないのだが、学校教育と同じで、その勉強の本来の意味を指導する事無しに、幾ら計算問題をさせたり、意味もなく覚えさせたとしても、それで、知識や学力が向上する分けではない。
音楽の指導で、Bachの音楽やBeethovenの音楽を指導する事が、正しい音楽の基礎的な指導をcurriculumとしてやっているという、指導者が自分への価値付として、・・或いは、あたかも、音楽を勉強する上での正当的な伝統のように捉えて、それを指導する事で、自分の音楽水準の高さを示しているようにしか見えないのだよ。
しかし、学校の勉強や塾の勉強と同じで、その音楽で表現しなければならない事や、学ばなければならない基本的な知識を全く指導者自身すら理解していない分けなので、その教育の姿は推して知るべしである。
まあ、それは指導者側の問題なので、これ以上は追求しない事として、それにしても、Pianoの教材としては、こんにちでは、inventionに入る前に、極、初期の段階からpre=inventionのような教材の楽譜が数多く出版されるようになったし、また、Bach自身が、自分の家族達のために書いたAnna
Magdalena Bachの練習帳のような優れた教材も出版されるようになったので、後は、指導者の教材研究によるものだけになっている事は、喜ぶべき事である。
しかし、それは、あくまでもPianoに関してのみの、限定的な話であって、violin等、弦楽器を学ぶ者達にとっては、未だに一般的(日本では)には、無伴奏というと、J.S.Bachのviolinのためのソナタとパルティータや、チェロの無伴奏の組曲だけしか、出版されていないように思われて、また一般的にも、他に弦楽器用の無伴奏の曲が無数に存在するのは知られていない。
実際の話としては、弦楽器に限らず、色々な全ての楽器に、無伴奏というgenreがあって、無数の曲が作曲されていた。
楽器を人と合わせられるようになる・・という技術を持つ事や、また、そういった人とensembleを楽しむ機会を持つ事は、一人でその楽器を演奏する機会よりも、機会が少ないハズである。
だから、そう言ったgenreがあって、そういった曲が数多く作曲されて来たという事は、自明の理であるのだよ。
しかし、如何なる楽器に於いても、そういった無伴奏というgenreの曲が余り一般的に知られていないし、また、出版されてもいない(こんにちでは、多くの出版社が、色々な楽器の無伴奏の曲を出版するようになったのだが、それは、1990年代以降の話である。)のは、その演奏形態が地味であり、独奏で、曲を曲として、演奏するには、技術的に非常に高度な技術を要するからである。
つまり、melodie集のような物は、無伴奏という形態にはならないからなのだよ。
音楽を学習する生徒が中級levelから、上級のlevelに差し掛かるに当たって、教育教材として、Bachの無伴奏の曲を教材として、勉強させる事が、通常の音楽指導のcurriculumとして、一般的になっているのだが、それは、無伴奏の曲を教材として導入する事で、その指導者の音楽の水準を表すstatusとしている事にほかならないのだ。
自分の教育、或いは指導力の高さを、示す分けなので、そこに勉強のし安さや、curriculumは最初から存在しない。
「無伴奏という言葉の定義」
此処で、チョッと蛇足になってしまうのだが、無伴奏という定義についての勘違いの話をする。
Pianoや、Organ、或いはCembalo等も、一人で演奏するから、「無伴奏」という勘違いをしてしまう人もいる。
しかし、一人で演奏したとしても、旋律のpartと伴奏のpart、或いは、4声体(合唱体)の全てのpartの演奏も一人でする事が出来るので、基本は、無伴奏というgenreには、該当はしないのだよ。
私達はそう言った一人で曲の全てのpartが演奏出来る楽器の事を、「一人orchestra」という言い方をしている。
そう言った、一人orchestraが出来る楽器は、鍵盤楽器だけではない。guitarのような楽器も、一人orchestraの楽器に成り得るのだよ。
音楽は、縦のlineを見ると、伴奏を伴うか、多声的に演奏するか、であるし、横のlineを見ると、「質問に対しての答え」や、「仕手と脇」のような主従関係等々、所謂、対話で成り立っているので、仮に無伴奏である場合に於いても、その対話(会話)を表現しなければならない。
つまり、一人(一つのmelodie)の中で、「質問と、それに対する答え」という対話をしなければならないのである。
そこが、無伴奏の難しさを引き起こす根本原因になっていて、無伴奏というgenreの音楽が、演奏者達から忌み嫌われる元凶になるのだよ。
という事で、先程のそれぞれの楽器に対して、集められたmelodie集のような本は、無伴奏というgenreの曲にはならないのだよ。勿論、melodie集なのだから、一人で演奏するとしても・・・、一人で演奏する曲集なのであって、それを無伴奏曲集とは言わないのだよ。
「Agogikのお話」
昔々、結構名前の売れているpianist(その人は女性なので、pianistinと言うべきなのだろうが・・・) に、演奏の感想を望まれて、曲の演奏を批判したのだが、その時に古典派の音楽の演奏上のtheoryとして、「音楽では小節の頭は弱拍になり、最後の拍が強拍になるのだよ!」と言って、「このsyncopationは、syncopationではないので、弱拍を意味する」とか、「このsforzandoは、強く弾くという意味はなく、ただ拍頭を意味する」とか、言って説明を始めたら、panicを起こして、怒り心頭に発していたよ!!
今まで、信じて来た音楽理論を真っ向から否定しているtheoryなのでね。
私の言っている事が、eccentricで、信じられなかったのだよ。
・・そんなら、最初から、俺には、質問するなよな??
褒めて貰えるとでも思ったのかな??
私だって、普通なら、人に感想を求められても、「いや〜あ、感動しました!」「素晴らしかった!」「とても良かったですよ!」としか言わないのだよ。そのpianistinに、厳しい感想を求められたから、マジに応えたのだよ。
J.S.Bachの無伴奏の曲等で難しいのは、拍頭が前のphraseの終わりの音符を意味し、当然、弱拍になるのだが、その同じ音が次のphraseの頭の音になるので、強拍にもなるのだよ。
同じ音が、強拍と弱拍の両方を意味する事になる・・・それを、一つの音で表現しなければならない。・・・いや〜あ??・・そりゃあ、無理だわさ〜!!
しかし、baroque時代のCembaloやOrganは、そういったAgogik上の強勢は出来なかったので、tempo(と言うか、phraseのbreathで、)その強勢を表現しなければならない。
CembaloやOrgan等の鍵盤楽器では、音の強弱が出来なかったので、それを代用する方法として装飾音を用いてAgogikを表現した。
しかし、いつの間にか、装飾音はその本来の意味を見失って、その名の齎らす如く、装飾的な意味合いで演奏されるのみとなってしまった。
そこで、次のような、誤った見解が述べられるようになる。
「 バッハの装飾音についてあえて難しさを指摘すれば、それはむしろセンスでしょう。指示されていない装飾音をどこに入れるか、装飾の開始音をどれだけ長くするか、装飾音の回転を何回入れてどのような速さで演奏するかなどです。これには曲自体をどんなテンポで演奏するか、どんなアーティキュレーションで演奏するかなどが関係してきます。当然のことながら「唯一の正解」はありません。」
Bach inventionとsinfonia notiz(装飾音について)
violinやcelloのような弦楽器の奏法のみならず、Cembaloのような鍵盤楽器ですら、そういった装飾音の持つ本来の意味を見失って、演奏されるようになってしまった。
装飾音とは違って、Agogikに関しては、困った事に、その表現は、非常に難しい。
意味が分かって(理解出来たとしても、それで演奏出来るか?はまた、別の課題になってしまうのだよ。
その奏法の問題をクリヤーするためには、当時の演奏慣習に弾き慣れるのがベストの解決策ではあるのだがね。
勉強途上の人達にとっては、そうばかりは言っていられないのも事実だしね。
日本では、自称baroqueviolin奏者が、baroqueviolinも持たないままに、自分の師匠の演奏を見よう見まね(音楽なのだから、聞きよう聞き真似)で演奏しているのをよく見受ける。
しかし、そのbaroque奏法には、「何故、そのように、弾かなければならないのか?」という答えではなくって、「何故、そう奏くのか??」という質問(question)さえないのだよ。
だから、格好ばかり真似している、AIRーviolinのようで、lacherlichである(*゚▽゚*)
この文章がその「何故??」の参考になれば、幸いである。
当時の演奏法の解説では、その個別の曲、一つ一つで、そのpassageの演奏法を述べて行かなければならない。
それについては、その曲をクリックして、そのPageのその箇所を参照してください。
indexから
You Tubeへのlink: 左側の「lesson風景」のロゴをクリックすると、You Tubeのlesson風景(2015年6月の15日、芦塚先生の椎名町教室での本田梨紗(高3)のlesson風景です。)の動画へ、linkします。
この無伴奏のlessonは第一回目のlessonなので、全楽章のarticulationの演奏法の説明を、一気に解説しています。
楽譜での解説:より詳しい楽譜上での解説は、上の曲目のTitleのロゴをクリックして頂ければ、そのPageにlinkします。
link
baroqueと、modernの弦楽器を演奏する上での一番の問題点は、駒のR(カーブ)が大きく異なる点です。
baroque楽器の駒のR(カーブ)がなだらかなのに対して、modernの楽器の駒は、強い弓の圧力に対応するように、R(カーブ)が、強くなっています。
そのために、baroque楽器では、比較的に簡単に演奏出来る重音奏法が、modernでは、強い力で押さえつけないと出来ない事になって、それが、逆にmodern楽器でbaroqueの音楽を演奏する時の、和音を演奏する時のneckになっています。
しかし、ちゃんとbaroque楽器での和音の響きを覚えてしまうと、modernの弦楽器ででも、柔らかいbaroqueや古典派特有の和音の演奏をする事は簡単です。
この無伴奏のcello第一番のpreludeは、そういった、baroque楽器で演奏可能な、重音奏法として和音のpassageが書かれています。
しかし、殆どの演奏家達がこのpreludeの和音の響きを単音で演奏して、acoustic(ホールの残響)でその和音の響きを出そうと努めています。極端な場合には、echoadapterを使用して、残響を出そうとしています。
しかし、ホール効果による残響は、残響を必要としない場所でも、その残響が残って音が濁る・・という欠点が引き起こされてしまいます。
そう言った、楽器による演奏の難しさは、modern楽器でbaroque奏法をするための難しさ、として、modern楽器でbaroque音楽を演奏をする生徒達も、知った上で、(理解した上で)のbaroque音楽へのapproachとして、勉強をしていかなければなりません。
という事で、このlessonも、そういったbaroque奏法を念頭に置いて、lessonが進められています。
link
Bachのviolinのための無伴奏sonateとpartitaという難曲中の難曲を、弾きこなすためには、技術的にBachの無伴奏よりも、楽な演奏技術の曲で、無伴奏という独特のgenreである奏法の特徴を理解しなければならない。
そういった、無伴奏というgenreを弾き慣れるためのcurriculumとして、最適で、理想的なこの曲は、いみじくもBachの親しい友人であるTelemannの作品である。
しかし、この12のfantasienを奏くためには、無伴奏というgenreの独特の演奏技術を学ばなければならない。
その一つが、一つのviolinのmelodieの中から、Basのmelodieと旋律のmelodieを、奏き分けなければならない・・という、点である。
Bachを始めとして、多くの作曲家の人達に影響を与えたBiberの無伴奏のPageです。
簡単な略歴と、曲の分析についての解説のPageです。
2006年7月25日東京江古田珈琲館「ぶな」でのbaroque音楽のコンサートです。
biber Rosary SonateNo.1 Rameau harpsichord suiteよりめんどり、
biber passacaglia、16分からのスタートです。
biber 8sonateよりNo.6
baroqueviolin斉藤純子、spinet大場美紀、監修芦塚陽二
装飾音やornament奏法につては、日本では、感性の産物とされて、天の与えたまいしgiftである、とされています。
しかし、それは、ornamentの発展の歴史を知らない人達の主張にすぎません。
baroque時代や、古典派の時代では、Tasteninstrumentは強弱や細かいarticulationが出来ない欠点を補うために、装飾の技術が発達発展して来た分けです。
ですから、accentを表すtrillや弱拍を表すtrill、曲の頂点を表すdoppel=prall=trillerというのも良く使用されます。
そういった、基本を知っておくと、即興の技術は、schleifer(CembaloやOrganでのglissandoのようなものですかね)の延長で結構、出来てしまいます。
次の曲は、無伴奏とは関係はありませんが、非常に通奏低音(basso continuo)やornamentの難しい曲とされる、Hennry purcellのtriosonateのgのChaconyの私のornamentの譜面ですが、実は、感性的なornamentは一切使用していません。
基本のAgogikの装飾音だけを、使用した、情緒的な感情的なornamentを一切排除したornamentになっています。
つまり、情緒的なGenie(天賦の才能)ではなく、機械的に数学的に付けています。
装飾音は本来はそれで充分なのです。1曲の中に「鶴の一声」分だけの自由な即興がなされるぐらいでも良いのです。
生徒達への教室の指導では、その基本のornamentをlectureするので、解答のornamentはどの生徒がやっても、同じになります。
そんなもんですよ。
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