留学をして、まもなく、Munchenの有名な後ろ盾(スポンサー)のおばあちゃんにpartyに招待された。
多分、西ドイツのMGD(音楽総監督)で、Pringsheim先生のお兄さんからの紹介だったのだろう。
ハガキには、「普段服でいらしてください。」と書いてあったので、Genzmer先生に、「madame**から、partyに招待されているのだけど、普段服と書いてあったのだけど・・」と言うと、「あそこの普段服は、formalwearだよ!」とGenzmer先生に教えて貰って、取り敢えずは黒広に、普通のネクタイを締めて、蝶ネクをポケットに入れて出掛けて行った。
玄関を入ると、これはやばい!!
タキシードにメイド服だ!!
慌てて、ネクタイを外して、蝶ネクに交換した。
メイドさん達が、それを見て、ニヤリとしていた。
大きな広間にgrandがあって、100人程度の世界中のお客さんが来ていたのだが、中に若くて美しい女の子が一人いて、その子だけがお洒落な衣装なのだけど、普通の服で、ショボンと縮こまっていた。
女性は、みんな、正装のカクテルドレスだったのだよ。
もっとも、おばあちゃん達だったけれどね。
BerlinフィルのコンマスやWienフィルのコンマスやニューヨークからは有名な建築家とかが、集まっていたのだが、要は、そのおばあちゃんがパトロン(後ろ盾)をしている若いpianistの男の子のお披露目も兼ねていたのだよ。
ポリーニとかのね??
確かに、カラヤンが見つけ出しただけはあって、Pianoは上手かったけれどね。
40年も前の話だよ!?
彼らの雰囲気は、チョッと軽くて、好きくなかったな??
その軽さで、その場で、直ぐに仲良くなったのだけどね。
周りの雰囲気に圧倒されて、テーブルで、小さくなっていると、おばあちゃんがやって来て、「周りとおしゃべりをするのが、マナーだよ!」と言われてしまった。
仕方なしに、隣のおじさんと話をしようとしたら、「東京の面積は??人口は??経済力は??」と矢継ぎ早に質問されてしまった。
そんな事聞かれてもね~ぇ???
そのおばあちゃんの家には、二階に客室が一杯あって、私も、その日は、若い燕のpianistと泊めて貰う事になった。
彼は私の事を新しい若い燕と勘違いして、根掘り葉掘り色々と聞いて来たのだが、そんな事聞かれてもね~ぇ??
ここは何処??
私は誰??・・・・状態なのでね。
Genzmer先生に感想を聞かれて、「いやあ、兎に角凄かった!」と言うと、Genzmer先生が「あのおばあさんには、呼ばれる事自体が凄い事で、私も滅多に呼ばれないのだよ。」と言っていた。
恐れをなして、それ以降は、お呼ばれされても行かなかったけれどね。
留学から帰国して、1年ほど郷里で体を休めながら、次に何の仕事をするのか・・と考えていたのですが、取り敢えずは、ある人からの紹介で、音楽大学の講師をする事になりました。
就職が決まった後で、学長から、その音大の「子供科の生徒で、他の先生達が指導出来ない、問題の子供達を13名預かってくれないか?」と言われて、大学生の生徒達の合間、合間に、子供達も指導する事になりました。
問題児は、家庭の問題で、心の問題で扱いきれない生徒と、指導の問題で全く幾ら指導しても、弾けるようにならない生徒達でした。
勿論、その生徒達は特別手当が出たので、子供科の主任の先生よりも、高給で雇って貰えるという条件でした。
また、教育大学でも、この音楽大学でも、私の留学した年月日を、大学で働いた年数に加算してくれる、という好条件でもありました。
しかし、不思議なことに、色々な音楽大学や教育大学で生徒の指導をしたのですが、私は、作曲や楽理の先生としてではなく、Pianoの先生としての就職だったのですよ。
その音楽大学の同僚の先生のコンサートを、友達のよしみという事で、よく聞きに行く機会がありました。
その中の一つの話なのですが、「コンサートが終わったら、帝国ホテルで打ち上げをやるので、そちらにも是非参加して欲しい。」という話があったので、連れて行く女性を物色してみたのですが、若い未婚の女性のコンサートだったので、私の知り合いの女性では、年齢と格が違うので、その当時に私が指導していたその音楽学校の生徒である小学生5年生の女の子を連れて行く事にしました。(勿論、親御さんには了解済みです。)
当然、その子供にとっては、そういった帝国ホテルでのformalのpartyは始めての経験なので、私が、食事の方法や、テーブル・マナーをその女の子に説明しながらでしたが、周りのpianistの女性達が、羨ましそうに私達を見ていました。
「私もそういう風に、教わりたかったわ??」
Cembalo(spinet)を弾いている可愛い女の子・・・、
何と、この子も今は50歳なのだよね。
花の色は うつりにけりな いたずらに・・・だよな??
う~ん、不思議なことに、自分が歳を取った分だけ、人も歳を取るのよね。
思い出は何時も若々しく、楽しいものであって欲しいのだけどね。
本当は、思い出も、色々と、色褪せて行くのだよね。
この可愛い女の子は、実は、私の門下生ではなく、作曲の生徒です。
芸大の作曲の教授の門下生で、私はPianoを指導していました。
つまり、私がこの子に指導していたのはPianoで、私のPianoの生徒でなのです。
私が帰国したばかりのこの頃の12名の子供科の生徒(小学生)の内の3名がpianistとして、実際に音楽界の現場で活躍しています。
但し、全員、作曲家としてではなく、pianistとしてなのですよ。
この女の子は、音楽大学には進学しませんでした。
その理由は、芸大の有名な作曲科の教授は、この学校の作曲科の小学生達を、自分の考える作曲家を養成するための、実験材料として使っていたようです。
私が驚いたのは、この子供達が中学生になった時にも、和声や対位法の作曲の勉強のための基礎的な知識が全く無かったのです。
現代の音の響きを教えて、現代音楽の作曲家を育てようと試みていたのですよ。
色々な現代作曲家の使う和声法を教えて、その響きに慣れさせようと試みていたのです。
古典の知識がなくって、avant-gardeな音楽の響きを作り出すのは不可能なのですが、その教授はalienでも作りたかったのかな??
という事で、私は親には何度かその話をして、注意はしたのですが、超有名な芸大の教授がやっている事を、疑う親達はいなかったので、結局は、芸大に行く事は出来ず、一般の有名大学に進学してしまいました。
私がこの生徒を指導しても良かったのですが、当時は私は、Pianoの先生でしかなかったのですし、ましてや、芸大の教授と比較されてもねえ。
何の権威もない一介の巷の作曲家なのでねぇ??
実は、私はこれまでも、作曲の生徒は、一人も教えた事はありません。
作曲の生徒のPianoや、楽典等は教えた事はあるけれどね。
私の直接指導した作曲の生徒はいないのですよ。
いやあ、不思議だなや~!!
ハッ、ハッ、ハッ!
ちなみに、ここでお話している時代は、私が音楽教室を作る30年前よりも、更に10年も前の、つまり、40年も前の時代のお話です。
日本に帰国して、大学の先生という職業を5年以上やって、35歳の時に、全ての大学の先生を辞任してしまいました。
マンネリになって、楽しくなくなったのでね。
大学の先生をやりながら、教育に関しての色々な疑問を、一つの論文に纏めて、紀要に掲載しました。
また、他の有名な心理学の先生が、私の当時の研究を(私に無断で)心理学の学会に発表してしまった事も、大学に対する情熱を失う原因にもなりました。
という事で、2年程の、moratoriumの期間を経て、大阪の友人の説得もあって、実験的に私の教育理論の実践の場として、千葉に音楽教室を立ち上げました。
その第一期生が牧野先生達です。