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[芦塚メトードは音楽だけのmethodeではない]

芦塚メトードは、音楽理論に関するものと、教育理論に関するものに分かれます。それどころか、経営戦略に関する理論もあります。

つまり、音楽の指導methodeだけではないのです。

だから、大阪の教育関係の有識者達に、「理論ではなく実践でも可能である事を証明して欲しい。」と直接、懇願され、その委託を頼まれた時には、必ずしも音楽教室を想定していたのではありません。偶然、そのときに私の指導法の良き理解者となってくれた人が(芦塚メトードの最初の弟子が)音楽家であったからに過ぎないのです。つまり、芦塚メトードを学ぶためには、その人達が学んできた、20年間の努力と学習の積み上げを否定する所から始めなければならない。つまり自分自身が積み上げてきたi dentityを破壊する所からやらなければならない。そのことが、芦塚音楽研究所が一般的になれない、預言者的な立場を取らざるを得ない、ウイークポイントになるのです。芦塚メトードは日本の教育上の矛盾を是正する所から、正しい理論の勉強が始まります。外部から教室に来て芦塚メトードで学ぼうとする人は、自分が今まで積み上げてきた所の問題点を真正面から突きつけられることになるのです。

最初に研究に協力してくれる事になった先生も、最初はほとんどが私の理論には懐疑的でありました。私は作曲が専門ですので、その先生から「ヴァイオリンを弾いた事のない人間が何でヴァイオリンのことが分かるの?」と、言われました。全く、素朴な疑いであります。それに、一番最初のヴァイオリンの構え方、弓の持ち方から、一般の日本の音楽教育と芦塚メトードは全く違うのです。信じられなくても、不思議はありません。「自分は音大を卒業していて、音楽で仕事をしているし、コンクールにも入賞した事がある。それがヴァイオリンのずぶの素人に何が言えるの?」

私は彼女と一緒に、彼女のヴァイオリンの生徒(子供達)を私のmethodeで指導しました。

「私が音大でも弾けなかった曲を、子供が何の難しさも感じないで、さらさらと弾いてしまう。」

彼女が私のmethodeに驚愕して私のメトードを勉強することを快諾してくれるまでには、半年は掛かりませんでした。それほど子供達は著しい進歩を示したからです。

 

もし、そのときに、私の身近にいて、芦塚メトードを学んでくれる最初の人が、塾の先生であったら、今の教室は芦塚教育塾になっていたのでしょうね。

何故なら、私自身が最初に、このmethodeを確立するために、methodeを指導していた先生達は、昔々、私が勤めていた教育大学の卒業生達で、彼等が勤めていた小学校、中学校の生徒指導のためのカリキュラムなのだから。音楽とは全く関係がなかったのですよ。

 

だから、一般の学校や塾の勉強だとしても、芦塚メトードとそのカリキュラムで教育すれば、楽しく学んでしかも早く確実に習得でき、好きにさせることができるのです。

ではなんで、塾を作らないの?・・・・・・・・簡単です!芦塚メトードを勉強してくれる先生がいないからですよ!

子供が嫌いなものを無理やり学んで、仮にほんの少し成績が上がったとしても、それは長い人生では、何の意味もなさないのです。(私の兄貴が、言うように、「子供が艱難苦労を克服して、達成感を味わう事が勉強の意味だ。」と言う様な、「お国のために、万歳・・・」なんて事はありえないのです。)現実に、そういった苦労に苦労を重ねてやっと認められたヴァイオリニストがたくさんいます。そのもっとも有名な人は、若い頃コンクールにも優勝して、NHKにも多数出演して、将来が約束された風に見えたのですが、哲子の部屋でのインタビューでは「私の子供にはヴァイオリンは絶対に、やらせません。私と同じ苦労はさせたくないから。」と言っていて、同じ体験をした(黒柳さんは音楽大学の出身だと言う事を知っていた?)彼女が、「本当にそうだわよねぇ~!」とか言って、意気投合していたのを見て、「あぁ~、あぁ~、やっぱり」と失笑したものです。しかもその人は、今有名な事は有名かもしれませんが、最後にテレビでヴァイオリンを弾いたのは何時の事だろうか?キャスターとしてはテレビには出ていますが、ヴァイオリニストとしてテレビに出てきたのを見たことは無い。

子供が勝手に音楽を好きになってくれるのか?

いいや、そんな事は無いし、又先生が子供を音楽を好きにさせることは、決してそんなにたやすいことではありません。

事実、一般の音楽教室では親が嫌がる子供を無理やり引っ張って、教室に連れていきます。先生は、子供がいつも遊んでばかりいて、ちっとも練習しようとしないのを、親のせいにして怒るし、親は家に帰ると子供が練習をしようとしないのを、無理やり、怒鳴りながら練習させます。子供は泣きながら嫌々、叱られるから練習をする。小さな子供の時期は、それでも親の言う通りに言うことを聞いていますが、その内、親に反抗しだして、いやな事は嫌だと言うようになって、「音楽なんてやめる。嫌だ!」といって、結局、音楽を学ぶ事をやめてしまう。

で、親は子供が音楽をやめたことを、自分ががみがみ言い過ぎたことにするのではなく、子供に才能がなかったと言う理由で片付けてしまう。

そうすれば自分のせいではなくなるからね。

同様に音楽教室の先生も「あの子は音楽の才能がなかったのよね。」で一件落着であります。

いやはや、才能とは便利な言葉でありますな。

 

[一般の考えは「音楽の練習は厳しいものだ・・当然でしょう!」です。]

私が教室の先生を雇おうと思って、芸大や桐朋の卒業生を面接した時に、私が「子供達には、音楽を楽しく指導してください。」とお願いした時に、「音楽は厳しいもので、楽しいものではありません。」と逆切れされたことは、芦塚音楽研究所のホームページにも書きました。

しかし、それは彼女等にとっては当たり前の事で、それ以外の学び方は存在しないのです。

だから、私の言った言葉、「音楽を楽しく指導する」と言う事は、彼女達にとっては、とりもなおさず、「趣味的にいい加減に教える。」ということを強要された事になります。

つまり、私は彼女等のプライドを著しく傷つけてしまったのです。

世間一般では、音楽大学に進学したり、ましてやコンクールなどに出ようと思ったら、最低でも、5時間、6時間は、毎日、一年中一日も休まないで、練習しなければならいのです。

 

一日練習を休んだら、自分に分かって、

二日練習を休んだら、先生に分かって

三日練習を休んだら、聴衆に分かる、

という諺があります。

 

辛い練習を耐えて、ただひたすら練習する、それが、彼女等のi dentityになるのです。

そんな彼女達に「練習は楽しいよ!」「ピアノは大好きだよ!」と言って御覧なさい?

多分、発狂するように怒り出すと思うよ・・・・。

ハッ、ハッ、ハッ!

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[学校のlevel]

我々がいちばん困ることは、ご父兄の方から、「教室の水準(Niveau)」と「学校の水準」の差をよく理解していただけないということなのです。

学校で子供達が、どんなに熱心に部活をやったとしても、所詮は趣味の世界にしかすぎません。教室で勉強している、levelとは比較対象にならないのです。

幾つかの実例を挙げて説明をしていきたいと思います。

①テニスの男の子の例:(学校の部活のレベル)

私が一番分かり易いのでは無いかと思って、よく引き合いに出すのは、教室の生徒でテニスに狂っているK君が自分でよく話てくれたお話です。

彼は学校のテニスの部活で国体にも出たことのある、常に千葉県では2位の成績をキープしていました。そのために好きなコーラも飲まないで、厳しい食事制限にも耐えて頑張っていたのです。勿論、夏休み、冬休みにも、強化合宿に参加する等、彼なりの努力をしていたのです。だから、当然彼はプロを目指して頑張っているのだと思いました。しかし彼が言ってくれたことは、「自分は万年2番で、一番の子とは全く水準が違う。」ということでした。

一番の子供(高校生ですが)は全くちがいます。

常に学校ではなく一般のクラブに所属していて、常にプロの個人レッスンを受けながら練習しているし、夏休み,冬休みには、海外へテニス留学をして、一流の指導者や一流の自分達と同世代の世界レベルの人達と練習するのだそうです。

しかし、彼は、それでも全国で名前は出ているけれど、まだ一番にはなれないのだそうです。

それが高校の全国大会であったとしても、或いは国体であったとしても、全国という壁はそれほど厚いのです。

 

②学校で常にオール5の女の子の例

「いゃあ、うちの子はとてもそんなレベルではないから」ということでしたら、もっと身近な話ということで、k子ちゃんのお話をしましよう。

k子ちゃんは、学校では小学校から中学校まで、常に全教科で1番をとる優秀な子供です。

で、勿論近所の教室でも、とてもピアノも上手でした。

それで、「もっともっと、ピアノが上手くなりたい。」と教室に入会してきました。

彼女としては、勉強やピアノも今まで同様に、チャラチャラと持ち前の器用さだけで勉強すれば、私達の教室でも当然一番を取れると思っていたのです。

ところが、そこに水準の差の問題が立ち塞がってきます。

k子ちゃんは、普通に勉強するだけで、充分学校の成績は、全ての教科で一番と言う大変立派な成績です。

チャラチャラと勉強して、要領の良さと器用なだけでも、学校では一番になれたかもしれないのですが、教室ではそう簡単には行きません。

教室にはl子ちゃんというk子ちゃんと同じ年の、(学校の成績は普通よりも少しいいぐらいの成績の普通の)女の子がいます。

ところが、ピアノだけに関しては、普通では無いのですよ。中学1年生で、Bach=BusoniのCiacconaを楽々と弾きこなします。半年クールのlessonでその他にもBachの平均律やchopinのEtüdeから数曲、コンチェルトなど、合計20曲程の曲を一緒に勉強しています。それぐらいのキャパシティがあるのです。

k子ちゃんとl子ちゃんの差は、k子ちゃんが学校の勉強と同じ感覚でピアノの練習を捉えているのに対して、l子ちゃんは音楽の方に進みたい、という希望があります。二人の練習時間だけを考えると、器用なk子ちゃんが毎日ちゃんと一時間練習するのに対して、勉強に行き詰まっているl子ちゃんも学校との兼ね合いで、2時間出来るか出来ないかと言う練習時間しか出来ません。当然、K子ちゃんの要領のよさと器用さを考えると、k子ちゃんの方がI子ちゃんよりも、ピアノが上手くなっても良いはずなのですが、その技術差は歴然としています。

と言うことで、k子ちゃんは、少し学校の勉強時間を犠牲にして、l子ちゃんと同じ時間だけピアノの練習をする事にしました。

 

しかし、彼女としては出来る限り努力はしたのですが、どうしてもその差が埋まりません。

実は、そのlevel差は、練習時間の差というよりも、むしろ意識の差なのですが、そこの所をどうしてもk子ちゃんには理解できないのです。

何故、k子ちゃんが理解できないのでしょうか?

それは、学校では彼女の要領の良さと器用さだけで、全てが上手く行ってしまうからなのです。

 

それで小学校6年生の時に、k子ちゃんは私達の教室をやめました。

その理由は「毎日2時間、練習をしても、l子ちゃんを抜けないから、今まで通り、一時間の練習でも一番になれる教室の方が良い。」という理由でした。それも一理あるので、教室としては、特には反対しませんでした。

まあ、そういった考え方もあるのかな、ということです。

そこで彼女は彼女の家の近くの元の大手の音楽教室に通うことにしました。

その教室では、彼女ぐらい弾ける生徒は全くいないので、その当時は、K子ちゃんは音大に進学する気は全くなかったのですが、「K子ちゃんのピアノのlevelが高いから」と言う事で、本部から音楽大学を進学する生徒を専門に指導している先生が、毎週、その教室に通ってきて、彼女を指導してくれることになりました。

その後、(と言っても、半年ぐらいですが)その先生の研究発表会のようなものがあって、その先生の指導している、彼女よりも3年も年上の、その先生の一番上手な生徒の演奏を聴いて、彼女はその教室をさっさとやめしまいました。

そしてまた私達の教室に戻ってきて、彼女は言いました。「だって、一番上手な子が、あの程度のレベルじゃ、この教室で二番の方が良いわ!」

う~ン、私としては、何とコメントしたら良いのか??

 

[Niveauの考え方(一芸に秀でるという事)]

この話には、二つの重要なpointがあります。

実はこの話もホームページや論文で何度もお話している話なのです。

それは、一つは勿論、Niveau(水準)のお話です。

学校教育のように、低い水準では、器用な子(要領の良い子)は大して勉強しなくとも、とても良い成績を上げる事ができます。基本的には小学校では、オール5という成績は出してはいけない事になっています。しかしながら、困った事にどうしても出さざるをえない子が、いることも事実なのです。子供達にはよく上野の山と富士山の例で説明します。どんぐりの背比べのように、普通の事は普通に出来るのです。

この話は先ほど同じ話をしましたので、繰り返しません。

しかし、ここで同じ話をするのは、「広く浅く」の「何でも出来る」という事は「なにも出来ない」という事と、同じ事なのだ、ということなのです。

それを、理解するためにはNiveauという考え方を理解しておかなければなりません。

先ほどのテニス男の子は高校生であって、k子ちゃんのように小学生では無いので、社会認識や事実認識はちゃんと出来ていて、自分の実力やレベル、それと自分のテニスに対しての情熱の度合いもよく理解しています。だから幾ら自分が上手くても、自分とプロとして学んでいる友人を比べる事はしません。

l子ちゃんは小学生ですが、音楽に進みたいという願望があります。

ですから、音楽のlessonを受ける時の、真剣さがk子ちゃんとは違うのです。

勿論、k子ちゃんだってまじめな子です。Lessonを受ける時には、真剣にまじめに聞いています。しかし、まだk子ちゃんは、音楽のレベルを小学校が学校で求めているレベルと、音楽を専門に勉強する生徒のレベルの差が、見えていないのです。

(まだ、というのはその後、k子ちゃんは、どうしても音楽を専門に勉強したいという事で、進路を変えて、教室から音楽高校に進学したからです。)

専門的に音楽を学んでいる子供になればなるほど、音楽で要求されるNiveau(水準)と、学校の授業で求められるlevel(広く浅く)の落差に苦しむ事になります。

つまり、子供達が勉強している曲は、他所の教室では、「音大に進学する。」と決めて、辛い練習やレッスンに耐えて頑張っている生徒しか弾けないような曲を、私達の教室ではその子達と同じlevel、同じ水準で練習しているのです。

しかし、それを一般の人達からは、(辛い練習、厳しいlessonと言うわけではなく、ただ楽しく練習していると言うことだけで、)低いレベルに見られてしまうのですから、困ったものです。

 

楽しく見えるのは、先生が楽しそうに教えているからとか、叱かって教えていないからだけなので、要求されている事は、とてもレベルの高い事なのですよ!

「楽しい」という事と、「水準(level)の高さ」と言う事は、無関係であり、なんら整合はしないのです。

逆に私の場合は、ヒステリックに怒鳴りまくりながら、子供達を教えている先生によく遭遇しますが、アドバイスとしては、「怒鳴る前に教材研究をしたら?」と言います。先生がちゃんとわかっていれば、怒鳴る事も、叱る事も、必要は無い事なのです。私にとっては、その先生の、パワーは、いつも言うように、全く必要のない無駄なエネルギーで、ちっともエコっぽくないですね。

怒鳴る事、所謂、「厳しく教える事が、必ずしもlevelの高度な事を教えているのでは無い」という話は、もう皆様には、耳たこですよね!

そこで、話を本題に戻して、学校や塾の水準が低ければ、子供は(一時期にはlevelが音楽上の水準まで上がったとしても)そのうち、必ず、本来の勉強の低い水準に順応するのです。

ですから、そうなってから、あわてて、再び教室に戻ったとしても、元の音楽上の水準の技術levelで続けられるわけではないのですよ。一旦、勉強上と同レベルの音楽の水準まで戻らないと、子供は付いて来れないのです。

そこの所は分かりますか?

つまり、育てるのは何年も掛かって本当に丁寧に努力を積み重ねなければならないのですが、落ちるのは、ほんの一瞬です。転げるだけですからね。

そして、一度「楽を味わった子」が再び元に戻る事は、殆んど不可能といえます。

 

確かに、小学校の勉強のレベルならば、子供の達成する音楽のNiveauと学校や塾の勉強のNiveauは大して落差は無いので、両立は可能です。あまり高望みをしなければ!

(それでも、音楽だけに決めている生徒のlevelは凄まじい物があります。それはどうしようもない事実です。)

しかし、事が中学校とか高校になると話は違ってきます。

 

h子ちゃんは4年生の時に、他所の教室から代わって来て、短い間にめきめきと頭角を現してきました。親も将来、音楽に進ませるのはやぶさかでは無いようでした。しかし、h子ちゃんが中学1年生になった時に、h子ちゃんの父親が相談に見えられて、「もしも、音楽に進学することが、だめだったときの保証が欲しいから、塾に通わせたい。」と言って見えられました。私が「塾も中学の1,2年生だったら良いけれど、3年生になって、本格的に進学のための競争が始まったら、音楽との両立は出来ませんよ。」と、お話はしたのですが、「もしも・・と言う事の、親心は分かるでしょう?」と言われて、それ以上は私としては、何も言えませんでした。

中学1年生になって塾に行き始めた途端に、やはりピアノは驚くほど下手になって、それを周りの父兄達に分からせないようにするために、その選曲が大変でした。(これも芦塚マジックですが)

そしてついに、中学2年生の後半になって、塾がいよいよ受験体制に入ると、彼女が幾ら頑張っても、もう音楽と塾の両立は不可能になってしまいました。

そこでh子ちゃんは「ピアノと塾の両立はとても無理だから、私、ピアノやめる。」と言い出したのです。

それはちょうどその頃から私自身に体力的な問題が起こり初めていて、私が体力の限界を感じて「趣味の生徒は、指導しない。」と宣言していたからです。

今更、私以外の別の先生には付きたくないので、というのが、h子ちゃんの気持ちの中にあったからです。それでお母様が見えられて、「芦塚先生が、『趣味でもよいから教えてあげる。』とh子に言っていただければ、『芦塚先生に教えてもらえるのなら音楽は続ける。』と言っているのですが。」とお願いに来られました。私としては、それは別にかまわない事なので「大丈夫ですよ。」と言う事で、h子ちゃんのレッスンはその後の高校受験の間も続けられました。

その後、希望した高校に進学してから、1年生の時だったか、2年生の時だったか、やはり「先生、どうしても音楽大学に進学したいのですが。」と言い出したので、私は「一番大切な音楽上の基礎となる勉強をしていなければならない中学生の時に、塾や受験勉強などで塾型の頭脳になってしまっているわけだし、音楽も趣味としてやってしまったわけだから、今現在はとても音楽大学を受験できるlevelでは無いけれど、音楽大学に合格させる事だけだったら、私ならは出来るけれど、入った後、授業についていけるかどうかは知らないよ!」と言って音楽大学の受験勉強を始めました。

勿論、ストレートに憧れの大学に入学できたわけですが、もし、そういった、横道にそれることがなく、ちゃんと音楽に邁進出来ていれば、今頃はとても優れたピアニストになっていたでしょうに。

でも、人生なんて、何が幸せかは分からんからね。

それも含めて人生なのよ・・!

 

この話は敢えてここでいうまでも無く、本当に子供達に優れたものを与えたければ、そのエネルギーは一つに絞り込んだ方が良いに決まっています。優れたものを沢山与えようとすれば、子供はオーバーフローを起こして、必ず潰れていくのです。それがSNBPの原因なのです。

学校の勉強もちゃんと出来て、***も、++も出来て!と考えるのなら、それは広く浅くという考え方なのです。学校の進学にしても音楽やその他のお稽古事にしても深みに嵌らない様に気をつけなければなりません。全ての習い事が一番下のNiveauに留まる様にしないと、潰れてしまいます。そうしないと又同じ挫折を繰り返す事になります。

 

音楽大学、特に芸大に進むような人達は、とても学業の成績も良い人が殆んどです。

しかし、間違えていけないのは、普通、音楽大学の先生は、生徒が塾に行った時点で、生徒が音楽受験を諦めたものと見なすのです。

つまり、毎日5時間6時間と練習するためにはそんな塾などに通っている時間はありません。

ましてや、音楽受験には実技だけではなく、沢山の音楽の受験に必要な教科があるのです。Solfégeや楽典、副科の実技や和声などです。それらの指導をしてくださる先生は、一人一人専門が違いますので、毎週その教科のlessonに行くとすると、毎日どこかの先生の所でlessonを受けて今ければなりません。実際には勉強どころか、練習する時間さえも作れないのです。

ホームページ:音楽大学 音楽高校進学へのアドバイス:

参照http://ashizuka-onken.jp/ondaishingaku.htm

 

それなのに、なぜ音楽を勉強している子供達は、成績が良い子供が多いのでしょうか?

理由は簡単です。

家で、宿題や勉強を全くしないからです。

昔は、よく音楽大学に進学したい生徒には学校の勉強を家に持ち帰らないように、とアドバイスしていました。宿題は学校で帰るまでに済まして、授業で分からない事があったら、休み時間に質問をしてちゃんと分かった状態で校門を出る。覚える事は授業で先生のお話を聞きながら覚えてしまうこと。

小学4年の音大受験希望の子供にこのお話をしましたが、その生徒は高校3年まで学校でトップを通しました。だって楽譜を覚えるよりも数倍、情報量は少ないのですよ。家で絶対に勉強が出来ないとなれば、ちゃんと覚えられるのですよ。勿論、その話は子供に対して、親が強要したわけでは無いし、私が「音楽に進むのならばそうしなさい。」と言った事もありません。同じアドバイス(?)はどの子にもしていますし、それを実行するかどうかは子供が自分自身で決めた事なのです。

あくまで、子供が自分で私のアドバイスを試したに過ぎません。

この勉強道具を家に持ち帰らない、とか授業の時には一切ノートは取らないとか言う教育は、ヨーロッパやアメリカでは一般的なのです。ノートを取っている時には、先生の話は聞いていないわけですから、当然、授業が理解できなくなります。昔々、私がその話をしていた時に、私の生徒である日本女子大の講師の先生が、「本当は日本女子大の小学校もそうなのですよ。ところが父兄が、どうしてもその意図が分からなくって、教科書を家に持って帰って予習復習させたりして、形骸化してしまっているのですよ。」と言う話をしてくれました。それも、30年近く前のお話です。

 

[音楽大学と一般大学の比較をすると・・]

音楽大学の、受験生を指導する立場としては、大学のランク付けの表は困ったものである。一般の父兄ならいざ知らず、何と高校の先生ですら、勘違いをするのだから!芸大の共通一時の60点以上の得点はさておいて、音楽大学のランキングは4年生でもかなり低くランキングされるので、高校の先生軽く見られて、「何だ、お前、そんな低い所を受験するのか?」とさえ言われた子供がいる。失礼な話である。東大を卒業して、現在オックスフォード大の名誉教授かをしている先生だったかが「芸大を受験する人達は、東大は軽いですよ。」と言う話を、NHKで茂木さんと話していた。

大学のランキングは、何でするのかと言うと、共通一時の主要五教科でする。しかし、音楽大学では、芸大でも主要五教科で合否が決定される事はなく、ただの参考に過ぎないし、私立の音楽大学では、英語と国語の二教科があるだけであり、参考のための主要五教科の試験するない。しかし、音楽大学にはそれ以外の、solfégeや和声、楽典や副科の実技テストなど、一般大学(高校)では聞いた事もないであろう専門教科の試験があるのだ。つまり、音楽大学や美術大学では、一般の大学と比較する教科は何もないのだよ。比較する事自体が無理なのだ。

私がまだ高校生の時に、お馬鹿な受験担当である学年主任の先生が、「音楽大学受験などは、学校の音楽の授業を真面目に聞いていれば良いのだ。なぜならば、どんな大学でも文部省が定めた、指導要領から以外は出題できないのだから。」と言って受験生である私を困らせた。その先生は、文部省の指導要領を読んだ事は無いんだよね。だって、指導要領には、小学4年生から6年生までの間に、ヴァイオリンやピアノを上手に演奏出来て、solfégeや楽典の勉強にも通じていて、中学生になると、和楽器の演奏も出来なければならないと書いてあるのだけどね。そんな教育を、やっている小学校はどっかにあったっけ??

「なにを、あほな事いっとるんかい!?」と憮然としていたら、担任の先生と、音楽の先生がやって来て、「あれは頭が固いから、気にするな!」とか言って、受験勉強で東京に通ったり、長期休校して受験勉強に専念する事を色々配慮してくれたよ。受験高校の受験担当の主任ですら、その程度の知識だよね。いやぁ、困った!困った!

 
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[親の言うことを聞かせるために、子供の好きなもので釣る]

一番、「親がやってはいけない。」と思うことは、成績が上がるごとにお小遣いをやる事ではなかろうか?

つい、1,2日前何気なくテレビを見ていたら、「物で釣るのはよくないのですか?」という父兄の質問に対してテレビのコメンテータ(大学教授?)が「親が意図したもの、例えば問題集とか、を褒美で与えるのではなく、本当に子供が欲しがるものを与えるのなら、別に物を報酬にしても良いのですよ。」とか言っていた。

学者がそう言う事を言うか・・・?? 

信じられん!

それは、大変な誤りである。

勉強は仕事では無いし、且つ、又、子供の要求はエスカレートする。

最初は子供のお小遣い程度で買える(済む)ものかもしれないが、中、高生になって、子供が欲しがるものはだんだんエスカレートする。それを親は買い与える事が出来るのか?パソコンや携帯なら何とか出来るかも知れないが、「ポルシェが欲しい。」とかいってきた時に、「ああ、いいよ。」と言えるのかな?(あぁ・・・、でも、買ってやっていた人も いたには、いたか・・・!?)

 

勉強とは、本人の為にするものであって、決して周りの大人達が「お願いだから勉強して。そうしたらお小遣いあげるから。」と頼んで、していただくものではない。周りの大人がそういう姿勢で勉強させてきた子供は、行く行くは「嫌な勉強を、お前達親のために我慢してやっているんだぞ」という考え方になり、報酬がなければ努力しないような(物の価値を金にしか見出せないような)人間に育ってしまう。

そして、大人に対する尊厳なども全く育たず、大人をバカにしたような(・・・ではなく、馬鹿にしているんだよね。)言うことを聞かない「大人子供(子供のような大人)」へと成長していくのだ。

 

[守れない約束で、子供を縛る親]

物(褒美)で勉強を釣る事だけでも、やってはいけないことなのに、子供が折角一生懸命になってきた勉強で、嫌いな勉強をさせると言う大変な過ちを犯してしまう人がいます。

このお話は「子供のためにやってはいけない」と言うだけではなくって、実際に社会人としては自分の子供を託している先生に対しても非常に失礼な事になるのでは無いでしょうか。

なぜなら、先生が生徒を育てるために、頑張って勉強をして、一人一人の生徒に対しての努力や思いやりを認めようとしない、というばかりではなく、芦塚メトードのシステム自体を真っ向から否定することにもなるのですから。

これは大人としては、絶対にやってはいけないことです。

つまりオケや室内楽の練習に参加する事が、塾との兼ね合いで、駄目になったのなら、素直に「オケ練習は、駄目!」と言えば良いのですよ。それを、「塾の成績が上がったら・・・」とか、「学校の成績が・・」とか言う打算的な条件を出してはいけません。それは子供の親に対する信頼を失う結果になるからなのです。

勉強は勉強で子供の努力の結果ですが、音楽の勉強も子供の努力なのです。

それを認めないと言う事は、子供のi dentityや母親の子育てに対して努力すら否定する事になるのです。それに教室や先生の努力に対してもね。

 

それだけでも許せないのに、更に子供が絶対に守れない事を知りながら約束させる(不可能条件を出す)親もいます。

親が子供を自分の権威を認めさせて、自分に絶対に服従させるために、敢えて子供が絶対に出来ない事を約束させると言う事なのです。

例えば、「全ての教科が何点上がったら、音楽の勉強を続けて良い。」とかである。

子供は死に物狂いで努力するかもしれない。好きで、好きで、たまらない音楽のために(・・と言うよりも、音楽をやっている仲間と会うために、音楽の先生と少しでも一緒にいれるように・・)涙ぐましい努力をする。

親はそれを見てすこぶる、上機嫌である。「ほら、うちの子は、俺が言えばちゃんとやるではないか?」

しかし、それはとんでもない間違いだ。そういった負の条件を出された子供は、必ず自分の限界を越した時には負の転換点(SNBP)を迎えてしまう。

先ほどお話をした、褒美で釣ると言う話は、子供にとっては少しでもメリットがある。つまり、努力をして、褒美は貰えるからだ。

しかし、牢獄に入れられて、そこから出てきても、与えられるものは何一つ無いのだ。

そこには努力の結果、得れる物は無いのだ。

成績が上がった。オケ練習に戻れる。しかし、それは望んで与えられたものでは無い。オケ練習にしても、元に戻っただけなのだ。つまり、今まで自分が努力して来たもの、そのものが褒美になると言う事はありえない。

 

そう言った事が、子供の例で、分かりにくければ、自分の会社の例で考えると良い。

会社で努力に努力を重ねて2年越し3年越しで、やっと、プロジェクトを成功させた。そこへ自分の上司がやって来て、今にも壊れそうなプロジェクトを持ってきて、これを成功させたら、さっきのプロジェクトも、お前の仕事だと認めてやろう。失敗したら、お前の仕事ではなく、他の人の仕事となる。」と言われたら、どうする?

俺なんか、そんな社員を大切にしないような会社は、さっさかやめてやるけれどね。

 

精神的にまだ成長の途中である、子供にとっては、そういった教育ゲームは、子供に対しては、はなはだ危険なゲームなのだ。子供が自分を信じられなくなった時に、子供はプッツンしてしまう。

その一番軽い状態が、何に対しても興味を失った子供である。小さな子供の場合は基本的には自殺の例は少ないと思います。小学生では4人ぐらいですから・・。

でも、自殺が少ないだけで、心身症や子供の欝を数に入れて考えたら、決して少ない数では無いのですよ。

 

[負の転換点の蛇足]

この話をすると、いつも「そんな、オーバ-な!」と思われる方が多いのに、逆に驚かされます。

しかし、このお話は決して特別な話ではないのです。

私達が教室を置いているこの小さな町の、(それも小さな祭儀場)でも、30歳未満の若者の自殺があまりにも数多く見受けられるのだそうです。

そんな話は聞いた事もないですよね。そういった若者達の自殺は、もう既に稀な出来事ではなくなって、今では極ありふれた事として、日常化していて、決して珍しいことではなく、極々日常の普通の出来事として、もう新聞にも載る事もありません。ましてやテレビなどのニュースには取り上げられる事すらないのです。

その若者の大半が超有名塾を出て、一流大学を卒業して、一流の会社に入った、将来を嘱望された若者であるということなのです。

その話をしてくれた父兄の方は、「それまで一生懸命に子供を育てて来ただろうに、その結果が子供の自殺では、親の心痛は如何ばかりか?自分も小学生の男の子がいるので、塾にやって、・・・って、ちょっと考えさせられます。」「だって、私は自分の子供に自殺される事だけは、絶対に嫌だから!」と言っておられましたが。

私自身も、教室を作る以前のずいぶん昔から、色々な場所でもっと切実で遺憾ともしがたい相談を受ける機会が多かったのです。

だから私にとっては、ニートや引き篭もりなどは珍しい話ではないのですよ。

私の話は、もう少し先があります。

これは自殺の例なのですが、世間の口に乗ってこない、心身症や引き篭もり、ニートとなると家庭の問題なので、人々の口にすら乗りません。そのパーセンテージを考えてみた事がありますか?秋葉原の事件は、本当は起こるべくして起こった事件なのです。

それをハインリッヒの(カタストローフェの)法則と言います。
(社会に大事件の起こる確率の法則ハインリッヒの法則とは300のなんでもないちょっとした事故から、ひやりとした29の出来事が起こり、それが大事故に繋がると言う法則性を言います。)

蛇足ですが:

小学生の自殺は年間約4名ぐらいですが、中学生、高校生ともなると、だんだん増えて行きます。大人の自殺となると、ロシアに継いで世界第二位で、平成17年のデータでは、三万552名、それは交通事故で亡くなる人のかずの5倍に相当します。1日約90名、16分に一人の割合ですが、統計的に見ると自殺未遂の人は、その10倍はいると推測されます。つまりあなたの身近に自殺願望者は幾らでもいると言う事なのです。幼児期のトラウマは怖いのですよ。

 

私は教室で先生達になんでもないちょっとした事を、とても厳しく指導します。私が怒っていると、よく先生達は「どうでも良いことに、どうして芦塚先生はそんなにむきになるの?」といぶかります。

それには私なりのちゃんとした意味があります。

それはほんとうに人が後悔するような重大な過ちは、叱っても仕方がないからなのです。

人を殺したり、物を盗んだりしたら、喩え充分な罰を受けたとしても、社会では二度と許される事は無いのです。医者だって誤診で人を殺してしまったら、いくら「自分は一生懸命やったのですが。」と、謝ってみても、患者の家族からは許してはもらえません。車の運転でもそうなのです。だから飲酒運転が厳しく処罰されるのです。まだ、何とか出来る範囲ならば、そのカタストローフェ、(300:26:1)を300の段階で防ぐ事が出来るのだ、と言うことなのです。

ですから、私は不可抗力で犯したミスは、追及することも叱る事もしません。

何故なら、叱った所で改善される事は無いからです。しかし、些細なミスは、ちょっとした注意で直す事ができます。そうして、些細なミスを犯さなくなる事が、重大な大きなミスを犯さないという危機管理になるのです。

最も、私は最初から直す気がない人達に対しては、注意すらしません。無駄な努力だからです。

「腹がたたないの?」

だって、ほっておけば、自業自得、因果応報で、いつかは報いを受けるからです。

 

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[その「好きなもの」が他の勉強であった場合はもっと問題である]

音楽であろうと、語学であろうと、勉強と言うものは努力を伴うものである。

どんなに楽しい事に見えていても、それは勉強と努力の結果なのだ。

だから「好きな勉強」を餌に、「きらいな勉強」を努力させる事は、飴と鞭にはなり得ないし、褒美にも成り得ない。どんなに甘くておいしいお菓子でも、それは本人の努力の成果によって得られたものだからだ。

そのようなやり方で勉強をさせると、結果としては、その両方を失うことになるのだ。

親に反抗する事の出来ない幼い時期には、仕方なく親に従っていたとしても、反抗期には「それなら、好きなこともやめる」と言い出す。

何と当たり前の事だろう!

 

子供に限らず、大人でも、人間は楽な方へ逃げたがる生き物である。

「好きな勉強」の為に「きらいな勉強」を強いられるのであれば、両方やめてしまえばその方が楽になれるのに決まっている。

子供がゆくゆくは、「両方ともやめる!」と言い出す事は、当たり前で分かり切っている事なのだが、その事を大人は(分かっているはずなのに、敢えて・・・)分かろうとはしない。

だから、子供がそう言い出した後で、慌てふためいて、「せめて「好きな事」だけでも続けて欲しい。」と大人が懇願し、切望したとしても、既にその時には、それを聞き入れるような子供はまずいないのだよ。

それは二つの理由があるからである。

一つは、一度楽な道へ進んでしまってから、又もとの楽しい勉強をコツコツと努力を続ける道へ戻れる子供は、まず居ないと思った方が良い。

 

[立場の差ではなく、技術レベルに縁る意識の差]

(自分の子供のレベルが下がったのなら、周りのレベルを下げれば良い)

例えば、高校受験で、半年オケの練習を休んだ(ブランクを作った)とする。

そのとき、オケ練習を休まなかったお友達は、既にもう一つ先のstepに行っているのであるから、休んでいる彼女がオケ練習に戻った時には、一つ下のstepのグループと組まなければならない。

それは子供にとっては屈辱である。(親にとっても・・。)しかし、それは実力の世界なので、曲が弾けなければしょうがない。

それで、Nさんは、受験のためにオケ練習を半年間休んでしまった自分の娘のために、こう教室に申し出た。

(ここで言うk子ちゃんは、音楽を専門(中心)に勉強している生徒で、Cオケは彼女が引っ張って、他のお友達は彼女に引っ張られて行くと言う型を取っていた。)

 

そこでNさんは「皆が皆、音楽に進むわけではなく、教室としては、息抜きで音楽をやっている人の方が多いのだから、K子ちゃんのためではなく、みんなのためにオケ練習を考えて欲しい。」という話であった。

私の立場としては、そういった考え方は、教室の独自性を否定し、ひいては、教室の衰退を招き兼ねない考え方なので、断固として反対したかったのであるが、先生方多数の意見として、教室としては受け入れざるを得なくなって、仕方なく折衷案として私が出した案は、Aオケ、Bオケ、Cオケと言うオケ作り、それぞれに練習の回数や曲のレベルを定めて、オケを選抜制ではなく、申し込み制に変えたのである。

当然、Nさんの子供はAオケを申し込んだのであるが、他の人達は結局全員Cオケを申し込んできたので、その話は自動的に立ち消えになった。・・・と言うよりも誰もAオケは申し込まなかったのである。

これは当たり前の話で、喩え受験がメインの生徒でも、教室で長く勉強していて、それ相応の技術を持っている生徒にとっては、A,Bオケでは自分自身に対しても、周りに対しても屈辱的だし、練習も飽き足らなかったからなのである。

Nさんは、子供が専門的に勉強するか、趣味的に勉強するかよりも、Niveau(水準)で、価値観(関わり方)が変わると言う事を理解できなかったのである。

多分、K子ちゃん以外の生徒達のために、Aオケを作ったのに、どうして他の子供がそれを申し込まなかったのかは、今だに理解できていないだろうね。

結局、今の技術と年齢によるグループ分けのAオケ、Bオケがその時の名残として残った。

 

[子供が、せっかくやる気を起こしているのに]

子供が折角やる気を起こしている時に、そのやる気を阻害するような事を親が要求するという事は許せない事である。

一度失ったやる気を取り戻すという事は、不可能に近い。

何故なら、そのときにはもう既に、芦塚メトードのマジックは崩壊していて、「楽しい音楽の勉強」では無いからで、一般と同様の辛い技術習得の音楽の勉強に過ぎないからである。

つまり、音楽の勉強が楽しいわけではないのだよ。一般の音楽大学に進学する子供達でなくとも、極々、普通の音楽教室の子供でも練習は辛くて早く音楽なんかやめたくって、やめたくって仕方がないのに、強引に親がやらせているのに過ぎないのだから。

だから,「家(うち)の娘は、音楽が好きで好きで、教室に行く事が、何よりも楽しみなんですよ。」なんて、私達の教室の周りで、別の先生に音楽を学ばせている親に言ったとしても、誰一人としてその言葉を信じる人は居ないだろう。

そればかりか「本当は親がそう思っているだけで、子供は、音楽なんか、嫌で嫌でしょうがないのを、親が知らないだけなのよ。」とか思って全く認めないか、さもなくば、「そんな教室なんて言うのは、趣味でやっている教室で、子供の好きなアニメソングやゲームソフトの曲ばっかり弾かせていて、ちゃんと音楽を学んでいる家(うち)の子よりも遥かにレベルが低いのだろうから・・。」ぐらいにしか思わないんじゃないの?

だから「うちの子は今、この曲とこの曲と・・・・・・以下20曲ぐらい、やっています。」と言っても、誰も信じてはくれないよね。

それと、先生がlessonのときに、一度も怒ったり、叱ったりした事がないということも・・・。

叱らなくっても指導が出来る事、それが自体が芦塚メトードなので、私に厳しく指導される所なのだけどね。

何で、怒らなくても指導が出来る可、なんて事は、幾ら説明しても、分からんだろうね。世間様は・・・。

 

日夜、先生達が、こういった音楽に対する地道な努力(教育上の指導するテクニック)をしているのにかかわらず、そういった先生達の努力を認める事も感謝する事もなく、美味しいお菓子と引き換えにするように、音楽を学校の勉強との対価にしてしまう。

或いは、「音楽は厳しいものだから、音楽が好きで音楽のほうに進みたいのなら芸大の先生に付きなさい」なんて、とんでもない事を言い出す。

 

私が音楽教室を創る前の、まだ色々な所の大学の先生をやっていた時には、それこそ、棒国立音楽大学や超有名私立音楽大学から、生徒達が私の所に逃げ出してきて、弟子入りをしていた。その人達は今はすべて海外で演奏家として活躍しているのだが・・。

しかし、私が37歳の時に音楽教室を作ってからは、上手くなってプロを狙えるようになると、回りの何も分からないからす達が、赤提灯で父兄をそそのかして、教室からそういったどうしようもない教授連中の先生の所に連れて行って、その生徒の大半は挫折してしまう。

 

[半年のブランクは二度とは埋まらない]

半年のブランクをして、再びオケや室内楽の練習に戻ったとしても、その時には、半年前に一緒に勉強をしていたお友達は、半年後には、半年先に行っているのである。

頑張ってその後の半年努力しても、そのときには更に半年先に行っているのである。

大人は自分や自分の子供に、いかにも都合の良いように、ウサギと亀の理論を持ち出す。

つまり大人達は「半年間、別のことをやったとしても、亀さんよりも倍の努力をすれば、ウサギさんは絶対に亀さんに追いつけるのだよ。」と考えるのだ。

つまりウサギさんは半年間、ほかの事をしていたわけだから、亀さんがウサギさんより、半年分先に行っているのなら、うさぎさんは半年後に、亀さんが今までやって来た半年分とこれから亀さんを追いかけて追いつくまでの半年間を足して、1年分の努力を半年でやってしまえば、半年後には、亀さんに追いついて、一緒に並べるはずだ、と自分達に都合よく考えるのですよ。

(蛇足ですが、本当のウサギと亀は、ウサギさんが亀さんよりも倍以上の器用さを持っていて、亀さんを離してしまいます。そこで安心したウサギさんは昼寝をするのですが、こつこつ型の亀さんは休んでいる亀さんを追い越して、気がついた時にはウサギさんがいくら頑張っても追いつけない、ゴール近くまで来てしまっていたのです。と言うお話でしたよね。)

私はこのウサギと亀の話を色々と状況を変えて、子供に仕事の考え方を指導します。

例えば、ウサギさんが昼寝をしないで、ゴールまで走ったら?・・・これはお話にはならないよね。

例えば、ウサギさんが亀さんに負けないように、亀さんが先に行くことを見越して、ゴール直前で追いつけるように、タイマーをかけて寝ていたら!

例えば、亀さんにハンディをあげたら?

あと幾つの可能性があるでしょうか?その内の幾つかは有効な対処なのですがね。

 

しかし、大人はその前半の半年と、後半の半年間では、Niveau(水準)が違うと言うことを忘れているのだ。勉強は山登りと同じで、頂上に近づくほどに、きつくなって来るのだよ。半年前は5合目で、まだ無理が利くのだが、次の半年は4合目で、5合目の技術が身に付いていないと、それほど楽ではないのだよ。言い方を返ると、前半の基礎がないと、後半の追い上げは出来ないのですよ。

小学生が小学生の実力のままでは、中学生を追い越す事は出来ないのだ。

中学生の努力の他に、小学生の基礎がいるのだよ。それがないと、幾ら努力だけしても、時間だけかけても、所詮は無駄なのだよ。学校や塾などの算数の勉強は解き方だけを教えるのだから、半年間病気で休んでも、次の半年で頑張れば何とか授業についていく事は出来るのです。しかし、もしその勉強が、解き方でなくって、数学の原理を理解して、と言うことであったとしたら、半年の休みは致命的なものになります。要するに、音楽は技術なのですよ。解き方が(この場合は弾き方といったほうが良いのかな?)分かったとしても、実際に弾けなければ、なんの意味も無いのです。

技術の習得には時間と努力の積み上げがいるのです。その半年の積み上げの上に、次の半年の努力が来るのですよ。「同じレベルで競争するのではないのだ。」と言うことを、親はよく理解しておかなければなりませんよ。

結論的に繰り返して言いますが、だからその半年と次の半年の努力は、そのまま倍の努力ではないのですよ。

もしも、頑張って亀さんに追いつこうと思って、一生懸命努力したとして、Niveau(水準)の分を考えると、3倍も4倍も努力して、やっとそれで、結果としては、こつこつ淡々と勉強していた亀さんと同じ所迄しかたどり着かないのですよ。

 

[一度失ったパターンを取り戻す事の難しさ。(半年のブランクは本来的には埋まらない)]

実は、勉強にはその年齢の時にしか身に付ける事が出来ないものがある。3歳までの語学感とか、絶対音感とかもそうである。練習の躾(勤勉さ)なども小学校の低学年までの方が望ましい。

それ以降は同じことを学ぶのには2倍も3倍も努力が必要になるからなのだ。

子供の内には、オケや室内楽の練習の躾も比較的に楽である。しかし、中学生ぐらいになって、オケや室内楽の練習に入ってくるのには大変な努力を要するのだ。

同様に一度持てたオケや室内楽を皆で勉強する情熱を、一度なくしてしまって、再び取り戻そうとするのは、殆んど不可能と言っても良い。(親にとっても、子供にとっても、或いは先生にとってもそれは変わらない。)

そういった例は、一人ひとり実名を挙げなくとも、本当に無数に見出す事が出来る。

少しずつ、環境や状況の設定は違ったとしても、結果は全て同じ。

全てはlevelの問題である。

 

上に行くのはとてつもなく大変だが、落ちるのはほんの一瞬だよ!

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[教育はドラマではない]yk子の例

yk子がオケや室内楽に参加しなくなったのは、本人のせいでも、塾のせいでもなかった。親の自分達の勝手な都合に過ぎなかった。それで日曜日が暇になったとしても、塾に行って勉強するの分けでもなく、又、ヴァイオリンを一人で努力して練習するわけではない。

中学1年生という時期は女の子にとっては、思春期の真っ只中で、一番危うい時期でもある。時間を持て余しているから、当然のように、彼氏が出来た。受験勉強で皆が一生懸命頑張っている中学校では、ガールフレンドを作る暇のある(興味のある)男子学生は、所詮受験勉強でドロップアウトしてしまった、(或いは人生の目的のない)遊んでいる問題生徒に過ぎない。

しかし、まだ社会を(人を)見る目が育っていない幼い年頃では、そういったチンピラ的な生徒は、逆に社会に反抗している、いっぱしの大人に見えて頼りがいがあるように思えるのである。勉強ばかりしている、優等生が、ガリ勉の親の言う通りにしか動かない自立心のない、どうしようもなく頼りない子供に見えてしまうのだ。不良の粗暴さを男らしさと勘違いしてしまうのだよ。

そういったチンピラは所詮勉強なんかしないから学業の成績はおのずと知れたものだ。

yk子はヴァイオリンを勉強していたわけだから、当然勉強も学年でトップである。

テレビドラマでは、駄目彼氏を叱咤激励して、晴れて彼氏と一緒に目標の憧れの高校にいくのだが、そんな話は現実的には、勿論、ありえない。

そんな事があり得ると思える人がいるとしたら、それは青春ドラマの見すぎだよ。

二人が同じ学校に行くことだけが目的なのなら、yk子が成績を下げれば何の努力も必要ない。すこぶる簡単な理屈だよ。

ということで、彼女はたった半年の間に学年トップの成績からびりまで落ちたね。

親も諦めて、結局、殆んど無試験で入れる高校に二人して行ったよ。

それでやっと父親が、とうとうかんしゃくを起こして、結局二人は分かれることになったのだが、だがそれでどうなったのだろうね。

だって、学校は最低ランクだし・・・そこで幾ら一生懸命勉強したとしてもね。

結局、彼女は私のところで勉強していた、音楽に頼ったのだよ。ガンバって何とか4年制の音楽大学に入った。

それが彼女の出来得る最大の努力だったのだろう。

本当に、落ちるのは一瞬でも、元に戻すのは無理なのだよ。

どうして親は、そんな事が可能だと思うのだろう?

 

答えは簡単だ。目標のNiveauが変わっている事に、親自身も認めようとしないからだ。子供が一つのものに目標を定めて、努力をしているときには目標が100%である事に対して、落ちた後で元に戻ろうとした時のNiveauは50%以下でしかないのに、親は戻った事だけを評価して、その落ちた(音楽で言えば、目標が下がった。或いは、なくなってしまった)と言う事を認めようとしないのだ。そして、目標を達成出来ないのは、相変わらず、子供の努力のせいか、さもなければ、子供の才能のせいかにして、自分のせいであることを認めようとはしない。)

このお話はなんとも分かりにくい。分かりやすく、山登りに例えよう。子供と山登りをする時に、今日歩ける時間があと3時間だとする。今6合目にいるのだから、あと3時間で頂上につけるわけだ。しかし、「別のルートから登りたいから」と言う理由で、ふもとまで降りてしまった。で、3時間頑張って、登ったとしても、結局の所、4合目迄しか登れないんだよ。

水準を下げれば、同じ努力をしても、結局は元の6合目までには帰れないのだ、と言う話なのだ。

 

[誤った教育の結果]

これまで述べてきたような、謝った教育を子供のせいにして来た親に対する反抗が、出来ない自立心の弱い子供は、多くの場合、心身症になって、一生病院通いになる。そして大人になった後でも、対外的社会活動(つまり就職の事だよ!)が出来ない。

(当たり前でしょう?!自立するべき成長過程の時期に、親の見栄で子供の自立を阻害したのだから。タイミングを失したそれ以降は、自立させようと幾ら何をやっても無駄だわさ!:啐啄の話参照)

殆んどの子供は、負の転換点を自分の内面に籠もっていくのだが、極稀にそのSNBPが外に向かって発散されるケースがある。それが秋葉原事件のように、新聞やテレビなどのマスコミを騒がせて、「その子供時代は内向的ではあったかもしれないが、成績優秀で親の自慢の子供であった」と書かれる。そして「そんな優秀な子供が如何してそういう事件を起こしたのか、その原因が分からない。」とマスコミで大騒ぎをする。しかし、それをSNBPというのだよ。ちゃんとした心理学者だったら、誰でも知っている事実なのだがね。どっぷりと儒教思想と、塾教育に侵された日本人はそれを認められないのだよ。私は30年以上前から言い続けている事なのだがね!

それから、ついでに言っとくけれど、オケ室内楽を小学生からカリキュラムとして勉強しているのは世界広しと言えども、私達の教室だけなのだよ。子供達が子供達同士で音楽を学べる環境は世界の何処に行ってもありはしないのだ。又、音楽だけにとどまらず、子供同士の思いやりや自立心の育成、リーダー教育等々を同時に盛り込まれたカリキュラムで指導しているのは、世界広しと言えども私達の教室だけだろうに。

それすら、誰も分かろうとしないのだよ。

それを一般のたかが学業を頑張らせるための「えさ」に使われたのでは、たまったものではない!

頭にくるわさナ~!

 

[勉強とは、それ自身は、目的とは成り得ない]

勉強とは学業の成績を上げて、入学試験に合格することをいうのであろうと、私は思う。

そういった前提に従えば勉強はただの不特定代名詞に過ぎず、勉強自体が人生の目標に成り得る事はない、と言う事を親は認めようとしない。

成績を上げる事も、大学進学も、幼い女の子が自分の夢や未来の目標を、クリスマスや結婚に夢を描いている事と、なんら変わらないのだ!

「『結婚をしたい。』ということは、 『主婦になりたい。』ということなのだね?」と意地悪く、「結婚したい。」といっている女の子に言うと、「それだけは絶対に嫌!」と真っ赤になって怒り出す。「主婦にならない結婚って、いったい何だ?????」と質問すると、考え込んで、答えが返ってこなくなる。成績を上げるということも同じだ。

幾ら成績を上げても、それは一つ上のクラスに行けば、やはりそこでは最低になるんだよ。

それがどうして分からんのかね。

東大を出て、ホームレスをしている人をたくさん見てきているのは、私だけではなかろうに・・・。

親はそれを認めようとしないんだよね。

 

[人生の目標]

今から30年前に書かれたこの話には、最も大切な一文が落ちている。

それは、「子供達は、何のために勉強をするのか?」と言う事である。

何のために勉強をするのかと言うconceptがなければ、勉強をしてなにを学ぶか?或いは何を学ぶために勉強をするのかと言う事自体がなくなってしまうのだ。つまり、勉強をする上での、目的がなくなってしまうのだ、と言う事である。

それは、本来、子供に要求する話ではなく、親の「子供の将来」に対しての考え方なのである。

つまり子供をどう育てたいのか、と言う事である。

親は子供に、「何のために勉強をさせるのか?」と言う、その本来の目的(大前提)をしっかりと持っていなければならない。

 

しかし、もしも、「何のために子供は勉強しなければならないのか?」と言う、子供に対しての親の答が、子供が「有名大学に入ること」であり、且つ、「大手の会社に就職すること」であるなら、今の子供達には、その説得力は全く無い。

今の子供達は、私達の子供時代よりも、もっと醒めている。

小学生の時から競争競争で、有名大学に入って、社会に出てからも、一流の会社で競争競争とこき使われるのなら、何が目的になりえるのか?と言う素朴な子供の疑問である。

絶望は死に至る病である。

 

①よらば大樹の陰

(1,2年前に、この論文に「よらば大樹」の一例として、年金の話を付け加えた。それは今、信じているものが、10年後20年後には頼るに値しないものに変化してしまうと言う現実の話としてである。同様の話は年金の話以外にも、ありとあらゆる所に見受けられるのだ。)

子供が勉強をすると言う、目的がそういった「よらば大樹の陰」的な発想にある場合、子供がちょうど働き始める頃、或いは中堅と呼ばれるその年齢に差し掛かった辺りで、その仕事が「よらば大樹の陰」ではなくなっている場合が多い。

そんな事は、ありえない、と言われる方のために、ここで幾つか具体的な話をしよう。

私たちの高校生の頃は、あこがれの職業、ステータス的な職業は医者であった。リッチで尊敬もされ、何よりも楽でお金持ちでもあった。

当然、私も、高校生の時には1年生、2年生と医学進学クラスに在籍をしていた。(当時私たちの高校は、進学別にクラス分けがなされていた。)

しかし、私の友人たちの話を聞くと、今現在では、医者はそんなよい職業ではないそうだ。私たちの次の時代に花形の職業であった有名企業、保険会社、銀行、航空会社、そういったものも、全て今は、逆に全て経営の危機に瀕している。

本来は、ダイヤモンドなどは、困ったときの財産価値のためにという意味もある。しかし東京の大手の宝石の店が倒産してしまったときに、そこで100%保証されるべきはずのダイヤモンドは、まったく財産価値を失ってしまったのである。

バブルと言う言葉は土地に付帯的な価値を付けて価格を上げて行くことを言う。だからバブルは必ずはじける。(だから、バブルと名づけたのだから)

その話をすると、ある父兄は「それは民間だからですよ。」と言った。しかし、民間ですら、安全でないのは、年金問題でも、民営化の話でも、天下りの話でも、既に安泰では無い事は、今の人達には理解できるのでは無いだろうか?少なくとも、今から20年前には、それは不可能だったのだが・・・。

同様に、街づくりも同じである。人が家を買う時には、生涯そこに住むつもりで、その街を見るのでは無いだろうか。しかし、街も、約20年から30年かけて成長し、また衰退を繰り返して行く。

新しい都市が計画され、そこに若いカップルが住み始め、子供達が生まれ、成長し、巣立って行き、その街に住んでいる親たちが老人になって、その街の人口が急激に減少し始めて行くのに、20年から30年しかかからないわけである。

私が最初に作った花園教室も、当時は小学校が1学年に11クラス、12クラスあった。しかし、今はわずかに1クラス、2クラスにすぎない。(勿論、少子化の問題がその大半の原因である事には間違いないのだが。)

江古田の街も同様である。私がまだ音大生であったころの商店街は、若い華やかな音大生の女の子たちであふれていて、江古田の商店街のお店も銀座や六本木にひけをとらないセンスに飛んだ高級なブティックなどにあふれていた。30年の歳月を経て、今やこの江古田の街は商店街であるのにかかわらず、空き地が目立って、お店であった所に住宅が立ってしまっている。

今や商店街を支える人たちもほとんどが老人である。江古田の街は昔同様に大学を三つも擁しているのにもかかわらず、すっかり老人の街になってしまった。

この西武線沿線上で若者たちの活気に溢れた街は、かなりの郊外に移動してしまっている。

人間が成長して子育てをして死んで行くように、町並みもそういった生まれて死んで逝くと言うサイクルを繰り返しているのである。

 

②ちょっと儲けた話

実は、ここでこの話をするのは、この話が大学に於いても同じ事であるからなのだ。

私の従兄は、私たち同様に父親がいなかったので、自分で苦学をして、殆んど無試験で入学出来るボンクラ大学を卒業した。運良く一流の企業に就職した彼は、自分の出身した大学のことを恥じていた。しかしながら、就職をして15年ぐらい経った頃から、その大学は東大にも匹敵する(まさるとも劣らない)名門大学に変貌したのである。彼はよく、私たちにそのことを苦笑いをしながら話していた。

 

③それとは反対に、損をした話

私の高校は、人口が40万にもある市に、たった二つしかない県立高校で、そのために競争率が4.5倍以上の当時としては(競争率だけは)灘高にも匹敵する超難関校であった。

しかし度重なる市民たちの突き上げによって、私が入学した年の次の年に南校、それからしばらくして北校ができた。それでもまだ何とか、学力はキープ出来たのであるが、人口の割に高校が少ないということに目をつけた名門私立学校が、いくつも新しい学校を作るにあたって、県立高校のレベルは急速に低下していった。今、母校を誇りにしている人間は、我々世代までのごく限られた人間だけであろう。これも一つの盛衰である。

本当の意味で、信頼に足るもの、親が耐え得る最大の財産というものは、技術であるということを私たちは常日頃主張している。どのような時代においても、どのような社会においても、技術は自分を裏切ることは無い。技術とは人と並ぶことではなく、人よりも突出するべきことなのだ。

そういった意味で、学力に頼り、「よらば大樹の陰」を当てにすると言うことは、ある意味では愚かしいことだと言えるのではないだろうか。

そこに私たちのプロフェッショナル教育の根底となる理念がある。

人より優れるということは決して難しいことではない。人がやっていないことをやることもその一つなのだ。

今それが出来なかったとしても、やり続けるということを、自分の性格にすれば、その人が挫折をすると言うことはあり得ない。

「挫折について」の論文にも書いているように、挫折とは、そこで中座することを言い、気を取り直して、再び続ける場合は、もう挫折ではない。

音楽で挫折を恐れるのなら、今の世の中は、もっと不安定な不確定要素が多い。

あなたの明日も分からんのだよ!

 

第一刷脱稿

01年1月25日

江古田ハイツにて

芦塚陽二拝

 

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第二刷の脱稿に関して

[前書きの追記 第二刷に際して]

お子様が室内楽やorchestraに参加できるようになって、子供達がやっと音楽を皆で勉強する楽しみを覚えると、親は凄く不安になることがあるようです。

それは、「こんなに遊ぶ事にエネルギーを発散させるのならば、もっと勉強の方に、そのエネルギーを使ったほうがよいのではないか?」 と言うことでしょう。

私の兄貴は自分の子供を私達の教室で学ばせる時に、その条件として、「発表会まで、うんと厳しく指導して、その厳しさに耐え、克服出来たという達成感を教えて欲しい。」と、私達に要求しました。

私達が、「子供の教育には段階があって、まず音楽(ピアノ)を好きにさせて、そして本人がその厳しさや辛さに耐えられるようになった時に、初めてそういった達成感を学べる厳しい教育が出来るのだよ。」と何度も説明しましたが、とうとう理解してもらえませんでした。(奥さんも高校の先生だったしね!そりゃ、無理だわさ!)

ほとんどの人達が自分の好きな事を、一生見つけ出す事が出来ないまま人生を終わってしまいます。

ただ父親は仕事がありますから、何かに人生の生きがいを見出そうとすれば、仕事に見出す事は可能です。ですから私が普段いつも言い続けている人達は、むしろ母親の方で、教育に熱心であればあるほど、(子育てに熱心であればあるほど、)子供が自立して、自分達のもとから巣立って行った時の母親の喪失感は、危惧するものがあります。

自分の好きなライフワークがある人は、自己の自立の確立と言う意味で非常に強いものがあります。

言い方を代えると、自分に好きで好きでたまらないものがある人は、とても幸せな人なのです。

本来の学校教育の目的は、そういった生涯を通じて社会貢献出来るライフワークを見つけることにあるのです。

成績を上げる事はそういったライフワークを探す事には繋がって行きませんし、人生の幸せを掴む事には繋がらない事は、現代社会の中で既にバブルが崩壊し、終身雇用や、年金など全ての、今まで当たり前とされたものが、グローバル社会の中で崩壊している時に、自明の理となってしまっているのです。(もっとも、私がその話を大学や教育委員会などの会議で講演し始めた頃は、まだ日本の中ではバブルさえ起こっていなかった時代なので、皆、私の話を半信半疑で聞いていたのですが、終身雇用が崩壊してしまった今現在では、教育関係者で私の主張を疑う人は、すっかりいなくなりましたが・・・。)

このささやかな文章が少しでも子供達や父兄の方々の幸せを導く道標になってくれれば、と願ってやみません。

 

06年10月30日第二刷脱稿

江古田ハイツ 一静庵 庵主

芦 塚 陽 二

 

[第三冊の印刷に寄せて]

この論文は、最初の論文を書いて、比較的に早い時期から書き始められたものです。そのために、書かれた時代や、当時の教育界の出来事など、その時代時代で、話があっちこっちに飛んでいますし、文章自体も色々な論文やホームページに掲載されているものもあります。もともと、私の論文の書き方が、思いついた時にメモしていた反故を集めて、少しずつ膨らまして行って、最終的に一つの論文に纏め直して行くと言う書き方なので、どうしてもその時々の話題の整合性は取れません。古い反故の論文の断片を1998年頃から、こつこつ書き溜めたものですから、今はもう話題性のなくなった資料もあります。それと、その頃、書き溜めた論文には「子供の夢、親の夢についてや、将来の設計の話は書かれていませんでした。今回その一文をほんの少しだけ書き加えて、文の脈絡があちらこちらに飛んでいるのを、なるべく寄せて、まとめなおして見ました。少し、分かり安くなっていれば良いのですが。

 

08年10月24日

江古田ハイツにて

一静庵 芦塚陽二拝






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