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安いスーパーの話はさておいて、話の本題に戻ると、きょうびの子供達は、朝、昼、晩をコンビニ弁当に頼っていたり、パンでもおやつのような菓子パン、所謂、甘食で食事を済ませてしまう子供達が意外に多いということなのだよ。

親の子供への食事に対しての意識の欠如は、子供の好き嫌いを増長させて、極端な偏食の子供が増えている事も事実である。それは、成長期の子供の健康を害し、アトピーやアレルギー、ただ単に体力がなく病気がちであるいというだけではなく、延いては骨粗鬆症などのいろいろな重篤な病気すら惹き起こす。

私達の教室では、子供達には味の好き嫌いは許すのだが、食材の好き嫌いは認めない。
今の子供達はそれにもまして、食わず嫌いが多い。
嫌いでも味見をして、本当に嫌いかを確認する・・・これが子供達の合宿の鉄則(ルール)である。

 

学校教育やNHKなどの教育放送による、食育は本来的には、子供達が日常生活の中で食べる食事に対して、どれだけ充実した食事を食べさせる事が出来るのか、という食本来の大切さを教える事が目的であるはずなのだが、「食育」という大義名分だけがまかり通って、子供の日常の生活の中で必要とされているはずの切実な本来の教育から、本筋が遠く外れたところの文化という観点でのみ、学校やテレビ等の食育の教育が行なわれているような気がしてならない。

学校教育というものは、音楽の教育用楽器や、学校音楽の合唱の発声でも同じように、学校教育にのみ有効な、独特の教育用のメトードで教育される。
社会科見学で大人社会の体験学習にしても、ボランティア活動にしても、総て教育用に改ざんされて、子供に与えられる。
学校の生活で、自信を持っていた学生が、実際の会社に就職して、自分が学んで来たものが、何一つ、現実的ではなかった・・・と、気がついて、引き篭もりになったり、ニートになったりしても、それを社会の性にしてしまう風潮がある。
でも、それは誤りである。子供達を、鳥カゴの中で、水槽の中で、過保護教育をした結果が、社会に対応出来ない、人や動物を愛する事の出来ない若者を作り出したのだよ。
そうして、それは必ず、自分に跳ね返って来るのだよ。
子供が自分の子供達の教育で忙しくなって来ると、姨捨山の感覚で、老人ホームに親を入れてしまう。
親も、未だ働ける50代から、サッサとホームに入って、余生を楽しむ。
何か違っていない??
あたしゃ、理解出来ないけれどね。

学校教育の話に戻って・・・、
アジアの教育の劣っている貧しい民族の小学3,4年生の子供達ですら、3,4ヶ月も英語を学ぶと、片言でも喋れるようになるのに、日本では10年以上学んで、大学を卒業するようになっても、片言の英語も喋れない人達の方が殆どである。
勿論、塾や英会話教室に通っている子供達は、別の話だよ。
ここでは、あくまで学校教育の話をしているのだから。
英語は勉強ではないのだよ。単なる会話なのだよ。
学校は英語を勉強にしてしまった。
アメリカ人の交換留学生が、高校の英語の試験で、全く英語が喋れない日本人の学生が80点、90点を取っているのに、
「60点も取れなかった!」「アメリカの国語の試験よりも難しい!」と驚いていたよ。
「それで、なんで、英語を喋れないのだろう??」と不思議がってもいたけれどね。


学校教育というものは、子供に対して料理を作る事を指導する事は、本来の目的から外れてしまうだろうし、ましてや、学校が親に対して料理を指導するわけにもいくまい。そこが、現実的な食育の難しさである。

先程も同じ話をしたのだが、古来、日本には各家庭にそれぞれの伝統の味があった。
結婚をすると言う事は、それぞれの家庭の味を覚え、踏襲すると言う意味でもあった。
今時、結婚した相手にそんな事を言うと、大変な事になるだろうね。
子供が大学を卒業した時点で、・・或いは、夫が定年を迎えた時点で、離婚届を書かされる時代なのだからね。
それに、意外と多いのは、「死んだ後まで、同じ墓には入りたくない」・・という妻が増えている現状なのだよ。
「嫁」という字は、家に居る女性を表しているのだが、今は女性の仕事も増えているし、地位も男性と同様の地位を得れるので、家でかしずくのを夢とする女性は、今時大変貴重な化石のような珍しい存在なのだよ。

だから、相手の男性の家庭の味を守るような女性に巡り会える事は、エイリアンを探すのよりも難しい事なのだよな。
食育の崩壊は、この戦争と女性の地位の向上の、2つの理由が偶然に重なって起きた事によるのだよ。

しかし、第二次世界大戦の時期に、(ちょうど私の母の世代になるわけであるが)祖母達が受け継いできた伝統の味や家庭の風習などが、戦争によって引き継がれなくなってしまった。
別にこの話は日本だけのことでは無い。
ヨーロッパも同じことなのだ。空襲で逃げ回っている人々に、料理もへったくれもあったものでは無いし、その時代には食べ物自体がなかったのだから。

直接、戦争の被害を受けていない私達の世代の子供の頃も、御飯茶碗にかぼちゃが一かけらと言う時代が続いたのだ。(alwaysの時代は必ずしも良い時代ではなかったのだよ。それはただのノスタルジー。
本当は戦後の食糧不足で皆必死だった時代なのだから・・・。
それと、ついでにもう一言、・・・かぼちゃと言っても今みんなが口にしているとても甘い栗かぼちゃの事じゃないんだよ。
硬くってまずい昔のかぼちゃなんだよ。)

中学校や高校の先生が良く冗談に「お前達は食べる食料が無い時代に成長してきたから、頭が悪いんだよ!」とよくからかわれたものである。

味そのものよりも、兎に角食べ物にありつくこと、そういった時代に私達は育ってきた。その後、再び日本が生活に窮しなくなったとき(食料に困らなくなったとき)には、子供達には既に受験戦争というものが始まっていて、子供が料理や洗濯を学ぶよりも、勉強勉強で、子供が自分の食べた食器を自分自身で流しに運ぶことすら、させない親が増えてきたのだ。

そういった時代の流れで、家庭の味は崩壊して忘れ去られてしまった。
日本全国同じ味のファミレス、味の違いが分からない。よほど強い味しか分からない若者や、全く味蕾がいかれてしまって、辛いかと甘いとかの違いしか分からなくなった若者達。そして、食べると言う事に全く興味すら持たない世代・・・味覚音痴の時代が始まってしまった。

そういったこともあって、教室でも、合宿などの時には、先生達が、少しでも、子供達の買い食いやコンビニ食を減らすことが出来る様にと、簡単な料理の仕方を手ほどきしている。

その延長線上で、いとも簡単に「子供でも出来る手抜き料理の仕方」をというconceptで、とりあえず「子供のための料理教室」と言うサイトを立ち上げてみた。

しかし、一般の人間の考え方からすれば、きちんと料理の手順を教えるのが、筋であって、最初から手抜きの料理を教えるのは、邪道だと言う事で、先生達からも猛反対を食らってしまった。

しかし、これはあくまでも緊急避難的な措置出会って、私が音楽を指導する時にも、一般の音楽教室や音楽の先生からすっかり音楽嫌いにさせられてしまった生徒に対して、音楽の楽しさを教える教え方のメトードと本質的には何ら、変わりはないのだよ。
そこで、興味を持ってくれれば、ちゃんとしたメトードで学ぶ事は一瞬で出来るのだよ。
料理の基本を教えるのではなく、食べる楽しさを教えるのだよ。
以前、中学生の女の子で、お菓子以外は、全く何も食べれなくなっていた女の子がいた。
未だ、中学生というのに、顔の皮膚は粉を吹いていたよ。
最初は、「食べなくても良いから」、とトマトの皮むきを教えた。
それから、同じ剥き方で、魚や果物を剥かせた。
自分が作った野菜サラダは美味しそうに食べていたよ。
勿論、ドレッシングの作り方も教えて・・なのだが。
「ドレッシングの基本は、2種類しかないのだよ。そこから無数のドレッシングが作れるのだよ。」と、私のオリジナルのドレッシングを作って味見をさせたら、ドレッシングに嵌っていたよ。
ドレッシングにハマる・・という事は、野菜も食べると言う事なのだけどね・・・?? アハッ!

ありあわせの材料で、何処の家庭にでもある簡単な道具で、手早く料理が作れるように、私の考案した手抜き料理のレシピを幾つか載せてみた。

いろいろな料理の知識がなくっても、手早く自分で作れるようにと言うconceptである。

 

しかし私は、この手の食に対しての問題を述べていくには、残念ながら、ただの門外漢であり、所謂、料理のプロでもなければ、学校給食や料理店に何らかの点で携わっている人間でもない。

しかしながら考えてみると反対に、プロだからこそ言いたくとも言えない料理の方法、例えば市販の調味料をふんだんに使ったり、洗う必要のない、炒めれば良いだけの出来合いの、ミックス野菜などの手抜き材料も、臆面もなく平気で使用することが出来るのではなかろうか。

だから、忙しくても、本当に手間隙をかけて、ちゃんと作るのだけが料理だと思い込んで、ついつい手抜き料理が出来なくなってしまって、反対に店屋物(てんやもん)で間に合わせてしまうような母親にとって、手抜き料理といっても、忙しい中での母親が作る愛情と工夫のこもった料理は、子供にとってはそれでも母親の味には違いないのだ、というエールになれば良いと、大それたことを思っています。

もう一つは、インスタントの味噌汁に、本当の豆腐を細かく切って入れたり、三つ葉を足したりしただけで、一般のお母様達にはバレなかったよね。
「芦塚先生のお味噌汁美味しいわね?」
いや、それはインスタントのマルコメ味噌の粉末だよ!!
それに、生の具材を足して、チョッと本だしの素で味を整えたものだよ!!