まず、生徒の持っている音符カードを取り出して、全音符に棒線を付けて、2分音符にしてみる。
黒く塗りつぶして4分音符にする。付点をつけてみる。
そういう風に、生徒の音符カードを色々な種類の音符カードに作り変えるのです。
たった、これだけの事で、子供達は面白いように、音符カードが読めなくなるんだな!これが!!
白丸の音符カードと黒丸の音符カードは子供にとっては別物なのだよ。
それが分かると、なぜ音符カードが直接楽譜に結びついていかないのかの理由が分かる。
いや〜!本当に教育とは面白いものだ!
さて、気を取り直して、黒丸の4分音符や2分音符に塗り替えた音符カードを作って、新しくまた練習を始めたとしても、初めて音符カードをやった時の様に手間隙が掛かるわけではありません。
今回はほんの一瞬で総ての音符カードが取れるようになるでしょう。
この過程(grade)はほんの一瞬でクリヤー出来るから、「最初からやり直すのだ」という事とは別物であるので、curriculum的には心配は要らない。
子供が白丸でも黒丸でも、付点が付いていても同じ音だ、という事に気づきさえすれば、一瞬でカードが取れるようになるのだから。
でも、「気づく」と言う事は、先生が幾ら言葉で説明しても、分からないのだよね。
体験として気づけないと本当に分かった事にはならないのだな、これが・・・!!
ある程度は譜面が読めるようになったのだけど、時々楽譜を読んでいる時に躓く事がある。
そういった時には、今度は逆に譜面の中から、「始めて出てきた音」や「分からない(忘れた)音」があったら、その音符のカードを選び出して、そのカードの中でまた音符カードゲームをして遊ぶ。
遊びを通じて、「譜読みが苦手」という意識や「譜読みが弱い」という気持ちがなくなって、「譜読みは楽しい」、「大好きだ」という気持ちになれれば、このgradeの目的は達した事になる。
(譜読みをさせない教室から逃げてきた生徒の指導)
勿論、音楽を別の教室で習っていた生徒が、私達の教室に代わって入会してくる生徒の多くは親の転勤等による引越しが多いようです。
しかし、それ以外にも、新しく生徒が入会してくるいろいろな理由があります。
「lessonに行き詰って、でも音楽をやめたくない」、とか、母親が「子供が音楽がすっかり嫌いになったので何とかして欲しい。」という事で、生徒を連れてくるという理由もあります。
そういった生徒の場合には、音楽教室に疑問を感じながらでも、教室を探して私達の教室に代わってくるわけなので、それは音楽に熱心なとてもよい生徒です。
その中の一番多いタイプは、その教室が譜読みをさせないと言う事に不安を感じてそこの教室から私達の教室に代わってくる生徒です。
そういった生徒を実際に教えて一番困るのは、Pianoの経験年数も長く、ある程度指が回って、難しい曲をすでに弾いている生徒の場合です。
勿論、そういった生徒には音符カードは使えませんし(prideの問題もあるからね!)、1音符、1音符ずつ教えるには曲が大き過ぎてとてもそれでは間に合いません。
そういった生徒には連弾で初見の遊びをさせる事にしています。
lessonでは当然先生と一緒に連弾しますが、本当は年の近いお友達と連弾するのが一番です。
教室の連弾のcurriculumはまだ、完全ではありません。
初級の課題の連弾が少なすぎるからです。
ある程度、譜読みが出来るようになると、今度は初歩の生徒の譜読みの手伝いをさせるようにします。そうすると、譜読みがだんだん自信に代わっていきます。
(初見力を身に付ける)
私が、音楽の勉強・・・、というか、Pianoのお稽古を始めたのは、高校2年生の時からでした。
「作曲科を受験するわけだから、まあ、何とかなるかもしれない。」と、自分自身、ある程度、受験を、なめて軽く見ていたのかもしれません。
まさか、入学試験で、ピアノ科の生徒と一緒に試験されるとは思いませんでした。
(それは大学入学後も同じでした。lesson時間も、先生《通常は副科の生徒のピアノは講師の先生が見ます。》も、ピアノ科の生徒《は優秀な生徒は1年次から教授に付く事が出来ますが、入学試験の成績で芳しくない生徒は講師の先生になります。》と同じだったのです。
《ちなみに私は講師から主任教授迄、いろいろな先生に付きました。》ヒエ〜!)
自己弁護のためにあえて付け加えて起きますけれど、確かに音楽を始めたのは高校2年生と非常に遅かったのだけど、Beyerを3ヶ月で終了させて、Czerny30番を半年で・・・etc,で、音大受験直前にはCzernyの50番の真ん中以降はやっていたよ。
それから受験の課題曲が発表になってからの半年間に渡っては、毎日12時間食事もしないし、トイレにも行かないし水さえ飲まないで練習したのだよ。
でも、私の受験の主科はピアノではないので、それから、主科の作曲の勉強を毎日夜の2時、3時までやったのだよ。
受験の時の8月の夏期講習の時に、作曲の先生の所にホームレッスンに行っていた時の話だが、お父さんが芸大の作曲の教授で(かなり有名な人)お兄さんが芸大在学中で、・・云々という作曲科志望の女の子と一緒に作曲のlessonを受けたことがあった。
私が先生に提出している作曲の課題を見て、その女の子がせせら笑って、「まだそんなところをやっているの?」と言っていた。
紅顔の若者としては、すこぶる傷ついたね。
厚顔ではなかったからね。
ビビットで傷つきやすかったのだよ。
それから半年後の受験の会場で、その女の子に再び出会った時に、その女の子が課題について質問をしてきた。
私は「何だ、そんな事も知らないのか?」と言ってあげたね。
女の子は真っ青になって泣きべそをかいていたよ!
いや〜!すっきりした。
勿論、その女の子は大学の受験には落ちたのだが、その後どこの大学に行ったのかは知らない。
ここでも同じ注意は二度とされないという私の性格がよく出ている。
生意気で、嫌な奴だよね!hum! hum!
日本の音大では、特に初見力を要求される事は無かったので、初見には結構自信があったのよね。ところが、ヨーロッパは初見のcurriculumがあるんだよね。
だから初見の暗譜から、初見の移調なんていうのも平気でみんな出来ちゃうのよね。凄い!!
それもコルペチ(所謂、ボイストレーナー)の先生が、70段ぐらいある現代作曲家のオーケストラのスコアーを生徒がオペラの本番の練習のために持ってきたのを、(ちなみにMunchenの音楽大学の生徒は殆どの生徒が実際に演奏活動をしているプロの演奏家です。)教授がin tempoで初見しながら、「今日は君は声の調子があまりよくないから、3度ぐらい下げて弾こう!」だってサ!
私が留学していた頃のMunchenの音楽大学の学長さんのケラー先生も初見力はすごかったね。
Chopinのエチュードlevelの曲をin tempoで弾きまくるのだから!
それに対して日本の音楽大学の場合には、初見の授業すらない。
curriculum自体が無いのだからね。
日本の音楽教育って何だろうね。いや、ほんと!
困ったものですよ。
(初見力を付けるために)
初見力には自信があった私だったのですが、ヨーロッパでは全くそれぐらいでは初見力とは言えないのだということがすぐに分かりました。
余談:私がドイツで生活を始めた頃、道を歩いていてドイツ人から話しかけられました。
「アー ユー スピーク イングリッシュ?」
学校で教えている「do you 」は失礼なのよ。
「お前! しゃべれ!英語で!」という意味になるのよね。
「are you」は「あなた、英語でしゃべってくれる?」とかいう平たい感じになります。
で、それに対して「イエス、アイキャン!」なんて軽々と言ってはだめなのよね。
「I can」は英語で夢を見る、英語でものを考えられる場合が、「I can」なのだよね。だから、頭の中で日本語を英語に訳している日本人の場合、自信があれば、「ja! A litlle!」 か、私ぐらいの英語力の場合には 「no! I can’t!」でいいんだよ。それでも、英語でしゃべってくるからサ!
(話を初見力の話に戻して)
ルーム・シェアーしていた、プロのオルガニスト(女の人なので、オルガニスティン)の人にお願いして、一年間、毎日1、2時間、連弾譜が出版されている全てのシンフォニーを買ってきて、彼女に初見練習に付き合ってもらった。
その連弾の楽譜は教室に今もあります。
敵さんはプロだから、初見と言えどもin tempoなのだよね。「scheisse!」 (翻訳不能な用語です!悔しがる私の感嘆符!)
Haydnから始まってBeethoven、Brahms、ブルックナーに至るまでのシンフォニーやオーバーチュアー、否、もっと近現代までの作品を初見で弾いた。
でも、これは私にとっては、初見の勉強であるだけではなく、作曲の勉強でもあるんだよ。
いろいろなシンフォニーを、ピアノでスコアーリーディングして、それから初見の連弾で実際に音にしてみるという事なのだよ。
日本の音大でもドイツの学校でも、そういった基礎的な勉強は無いから、そこの所は自分でこつこつやらないとね。
私の一石三鳥の理論がここで既に始まっているのだよ。
そういった勉強の続きは日本に帰ってきた後でも私の役に大変立って、私の友人のピアニストがMozartのピアノコンチェルトの全作品の連続演奏会をN協の選抜メンバーと一緒に定期的にやる事になっていたのですが、指揮者と勉強するためのセカンドピアノ(オケパート)を私が2、3年間に渡って弾いて、指導するお手伝いをすることになりました。
Mozartの全Pianoconcertoの連続演奏会という事で、曲が事前に分かっているので、初見ではないのですが、毎月必ず2回ぐらいの選曲で、3,4曲ずつ、(言われるまでもなく全楽章)の伴奏をやっていました。
毎月10曲近くのMozartのPianoconcertoのorchestra partを、(プロだから一回目の合わせから当然in tempoで)弾かされるのだよ。
Mozartの連続演奏の時には、それでも古典派の曲だからともかくとしても、BartokのPianoconcertoのorchestra partの演奏は、難しくってきつかったね。それは大変だった!
でも、当時はよく指が回っていたんだよね。
今考えると驚くね!?
伴奏ピアニストで舞台で稼いでいたこともあったんだよね。
今は病気で(リューマチです)全く指が動かなくなってしまって、簡単なsonateでも、演奏出来なくなってしまったけれど。
(発表会までのcurriculum)
lessonで一番大切なのはしっかりとしたcurriculumをたてることです。
目標とそこまでのlessonの回数をしっかり見定めて、lessonをしていかないと、発表会に間に合わなくなってしまいます。
lessonが上手く行っていて、軌道に乗っていたとしても、子供は病気をしたり、親の都合で旅行や勉強に振り回されたりして、ローテーションを崩してしまうことがよくあります。
夏休みや冬の休みでローテーションを全く崩して、今までの練習の積み上げが全く0になる事もよくあります。
そういったリスクも含めてcurriculumを計画していかなければなりません。
子供が発表会で不安なく演奏出来るようになるためには、ゆとりが必要なのです。
私達の教室の場合には、その安定性をcheckするのが一月前のリハーサルです。
中級、上級の生徒達は半年のintervalで練習をします。
ですから、譜読みと暗譜のstep、抜き出し練習のstep、intempoまでのstep、でリハーサルです。
不安な箇所、表現の弱い部分を探して、全体が安定して演奏出来るようになるまでに、一月を予定しています。
発表会までに仮に6ヶ月あるとすれば、通常は24回のlessonがあるはずですよね。
しかし、夏休みや冬休み、休日で抜けることもあります。
実際のlessonの回数は20回ぐらいでしょう。
それを4っのstepに分けます。
そうすると、それぞれのlesson回数は5回ずつになります。
これは上級生のcurriculumですから、中級や初級になれば、intervalはもっと少なくしなければなりません。
初級の場合には、一月半から二月ぐらいから始めなければなりません。
ですから、初級のリハーサルは発表会の2週間前にします。
いつ、どのタイミングで曲を渡すのかも、先生の腕になります。
(自分の生徒に甘い先生)
よく指導者が犯す誤りに、「発表会迄に弾けるようになればいいや。」とか、「発表会迄に・・・」という、言葉です。
それで、生徒が発表会でちゃんと弾けたことは無いのに、10個あった間違いが、5個に減っただけで・・・、或は、目標の倍ぐらいも遅いテンポでやっと弾いたとしても、「まあ、今回の発表会は何とかなったわ!」と、先生と本人だけが満足している事があります。
しかし、父兄や一般のお客様はそこまで先生や生徒に対して好意的ではありません。
生徒が招待したお友達も、目の前では褒めてくれるかもしれませんが、お友達同士の間では、「上手だったわよ!」と、評価してくれるわけではないのですよ。
身内と外の評価は違うのです。
発表会は子供達の外へのアピールの練習の場所でもあるのです。
先生達や生徒の身内だけの贔屓目な評価とは違うのです。
ちゃんとしたベテランの先生ならば、例え自分の生徒であったとしても、一般のお客様達の評価と同じ基準で評価をするはずです。
(リハーサルについて)
リハーサルの意味を勘違いしている父兄や生徒がいて、困ることがあります。
教室の規約では、リハーサルに参加できない人は発表会にも参加できないことになっています。
何故、リハーサルの参加がそこまで厳しく決められているのかは、生徒、父兄だけではなく、外部から来た先生達もよく意味を理解できていない場合があります。
それは、発表会の規約や教室の規約にかなり詳しく書いてありますので、本当はそちらを参考にしていただきたいのですが、規約に書いてあること以外の理由もあるので、ついでに少し書いておきます。
発表会では、一人の生徒が演奏を間違えて、弾き直しをしたり、舞台への出入りをもたついたとしても、その一人の人の遅れは僅か15秒や、30秒の遅れで、「大した事は無い」 と考えるかもしれません。
しかし、それが発表会の全programで考えると、一日全体では、30分の遅れ、1時間の遅れとなって、実際に発表会の最後の方では生徒が演奏が出来なくなってしまう、というような致命的な失敗が起こったりします。
昔々、私が教室を立ち上げる以前の話ですが、私が大学に勤めながら、個人的に指導していた数名の生徒を、他の教室に便乗させて発表会に出演させた時に(教えていた生徒数が少なかったので発表会が出来なかったために)、最後に出演する予定だった私の生徒がホールのタイムリミットのために演奏出来なくなった事があります。
リハーサルでも本番でもその教室の生徒さん達は大人の生徒さん達が多く、おしゃべりをしながらだらだらと弾いていました。
その先生は演奏時間の計算を実際に弾いている曲の演奏時間だけで計算をしていました。
勿論、Intervalの時間は加算していたのですが、その教室の生徒さんの一人一人のintervalの時間が、だらだらしていたとしても、最後の生徒が演奏出来なくなるとは全く考えてもいなかったのです。
会場は公共で会場の片付け等は老人などがアルバイトで働いている事等がよくあるので、時間にはとてもうるさいのです。
子供の発表会だから、或は子供が可哀想だからといって、許してくれることは絶対にありません。
それは企画をした主催者の責任になるだけなのです。
それ以降その先生と一緒に発表会をすることは、二度とありませんでしたがね。
私達の教室の場合には、intervalも含めて、タイムをパソコンで計算できるようにソフトを作ってあります。そして、リハーサルでintervalの時間もちゃんと計算します。
IntervaltimeはtimeAからtimeF,G,Hまでの時間があって、自動的に計算してくれるようになっています。
発表会の会場では演奏時間を調整することは出来ません。
「時間が押しているから、曲を早く弾いてくれ。」とはいえないからです。
ですから、発表会のスタッフにはタイム・キーパーという役があって、子供達がタイマーを2台使用して、理想タイムと実際のタイムのラグを計っていきます。
そして、押している場合には、舞台のセッティングを早くするとか、コメントの読み方を早くするとかして、発表会の全体の進行を調整しているのです。
ですから、私達の教室の発表会は例え、1日がかりの発表会でも、ラグは1,2分以内に収まるのです。
そういった進行の勉強の外にも、教室では発表会は演奏の上手下手だけではなく、舞台マナーの指導もしています。
教室の行事には、発表会とおさらい会、クリスマス会、サロン・コンサート等の種類があって、当然、TPOが違います。
舞台ではズックやジーパンで演奏する事はマナー違反になります。
(popularの世界では、フォーマルの衣装の方が、極めて稀なので、舞台でもジーパンで演奏するようですが、ですから、カザルスホールや上野の文化会館などの公式の舞台では、popularの演奏会は開催する事は出来ません。これは世界中のホ−ルでも同じ事です。アメリカのカーネギーホール等も同じなのです。)
というわけで、おさらい会でも舞台でやるときには、男性は黒広、黒の皮靴、蝶ネクタイのフォーマルの衣装になります。女性もそれに準じます。
東京の発表会で、本来的にはおさらい会であるべき時に、おさらい会に適したホールが見つからない場合には、ホールでおさらい会をやる場合があります。しかし、本当は舞台で演奏するときにはおさらい会とは言いません。
基本的にはステージ衣装になります。
サロン・コンサートの場合にはお出かけ衣装になります。
おさらい会は、普通の衣装です。
そういった社会的なTPOも音楽と一緒に学びます。
セッティングの勉強は社会人になるための、最も大切な勉強になります。
教室で学んできた先輩達が会社や学校等に就職して、新人であるのにそういったTPOや仕事や企画力でベテランの上司から驚かれるのは、そういった教室の発表会の進行で学んだ力です。
リハーサルとは、勉強出来る所が違いますが、発表会やリハーサルで最も大切な手順書は進行表です。
私が教室で生徒達に進行の勉強をさせようと思い立って、プロのorchestraのインスペクター(進行担当者)の人達に「進行表を見せてくれ」と頼んだことがあります。
日フィルをはじめとして、どこのオケのインペクの人も「芦塚さんの頼みなら何でも聞くけれど、それだけは勘弁して!」といわれました。
そして、何処のorchestraのインスペクターでも、全員進行表は作らないのだ、ということを教えてもらいました。
細かい時間のmemo書き(走り書き)を自分用に書くことはあっても、進行表を書くと、その人のソフトを持っていかれるから、絶対に書かないのだそうです。
ということで、たった一件、私に門外不出の進行表を見せてくれたのは、NHKの大河ドラマの進行表で、大道具、衣装が何日に出来上がって、背景がいつ書きあがって、俳優の練習がいつ終わって、とか言う膨大な全ての進行が一冊にまとめられている電話帳よりも巨大な辞書のような進行表で、とても個人で作れる代物ではなかったのですよ。
というわけで、教室で使っている進行表は私が生徒達のために考えた、私のオリジナルのものです。
「江古田詣」で、進行表の作り方やパソコンでの入力を学んで、進行表を打てる(手伝える)ようになると、全ての大手の企業の人達が「いつでもいいからうちの会社においで!」と諸手を上げて、お誘いの声を掛けてきます。
パソコンを打てても、企画し進行表を作れる人はめったに居ないからです。
会社は何年もかかって企画や進行表が作れる人を養成するのですから。
今は未曾有の就職難といわれていますが、実際にはそう言う事はありません。
就職するのは簡単なのですよ。
企業も優れた人材は求めているのです。
要は企業が求めている事が出来ればよいだけだからです。
しかし、今の日本人の学生は自分の事しか考えない、会社にとって一番欲しくない人材なのですよ。だから、企業は外国の学生を積極的に雇おうとする。
しかし、本当の所は日本の会社だから、日本の人材を欲しいのが本音なのです。
しかし、そういった人材は私が見ていても居ません。
でも、今の若者達は自分の事を認めて欲しいとばかり思っていて、その会社がどういう人材を欲しているのかは知ろうとはしません。
もし本当に自分がやりたい事があって、それが出来る会社に就職したければ、中小の会社であったとしても、自分を認めてくれる会社に就職活動をすればよいのでしょうが、やたらと体面ばかりを気にして、大手の会社ばかりを受けて、自分を本当に生かせる会社を探そうとはしません。
あくまでも大手の会社が良いからです。
本当にその大手の会社に入社したければその会社が必要としている人材になればよいのです。
大手の会社が必要としている人材は、有名大学を卒業した成績優秀な学生ではありません。
個性豊かで、発想が優れていて、実行力のある人材です。
実行力とは達成力でもあります。
アイデアと思い付きを、ぶち上げるだけなら、猿でも出来るからです。
でも、就職しようとする学生は、大学で学んだ事だけで、社会に通用する、と勘違いをしています。
誰でも出来る事が出来るのなら、会社はそんな人材はいらないのだ、それがどうしても今の学生には分からないのです。
ちゃんとした社会に必要な技術を学ぼうとすると、学校ではそういった技術は学べません。
しかし、社会でそういった技術を勉強しようとすると、1年コースで100万以上かかりますよ。
パソコンのちょっとした打ち方を勉強するだけでも、半年コースで60万以上掛かります。学校で教えるパソコンなんて殆ど実用価値はありません。
パソコンに限って言えば私達の教室で勉強するのだと、ただだけれどね。ハッ、ハッ、ハッ!
余談はさて置いて、リハーサルの話に戻って、子供達に誘導をさせたりする事は、現在の教育で常に問題とされる縦のつながりの勉強になるのです。
発表会の会場だけではなく、オーケストラの練習や室内楽の練習の間に、公園でお兄さんお姉さん達と一緒に遊ぶのは、年上の生徒は年下の後輩の面倒を見る事で、社会性や責任感を勉強します。
年下の生徒も社会の協調性を学んでいるのです。これも芦塚メトードの一石3鳥のメトードなのです。
リハーサルにはそういった数多くの複合的な目的と意味があるのですよ。
(選曲)
よく弟子から、「生徒の曲を決めてくれ。」と頼まれることがあります。
その時に私がその先生に要求する資料は、
@ 今はどの技術levelか?
A 今までどんな曲をやってきたのか?
B これからどういう曲を弾かせたいのか?
C 早く指をまわす曲か?歌い込みの曲か?
D 曲の長さはどれぐらいか?
E どういうタイプの生徒か?
F 将来的にその生徒をどういう風に(目的)育てたいのか?
G 指導は緻密にアプローチするのか?それとも、楽しみとして弾かせるのか?
H将来的にどういう性格の生徒(精神的に)に育てたいのか? そういった事を先生に説明して貰ってから、初めて選曲するのです。
「弾ける曲を弾かせる」という発想は教室にはありません。
教室では全ての曲をcurriculumとしてgrade化しています。
その中で上記のような配慮をして、ちょうど医者が薬を処方するように、曲を処方するのです。
今その生徒に何が必要なのか?
どういった配慮が必要なのか?
それが曲決めの基準になるのです。
編集後記
この文章は、主に指導者の音楽教育の心構えを中心に書いたつもりです。
ともすれば、音楽を指導する人は技術の指導に偏りがちで、子供の精神に対しての配慮が欠けている傾向があるように思います。子供との信頼を構築する事は、その指導者の人間性を問われる事になります。その分、自分の性格や欠点と向き合わなければならず、自分を克己しなければならないという大問題に対峙しなければなりません。でも、それを克服出来た時に、生徒達や父兄に与えられる音楽のもたらす心の至福感、満足感は比べるべきものはありません。教育者の冥利に尽きる所です。努力は大変なものかもしれませんが、それによって得られるものも素晴らしいものなのです。
音楽の技術的な指導には、それぞれの技術についてのcurriculumがあり、譜読みに関しては譜読みのcurriculumがあります。rhythmについてはrhythmとしての独立したcurriculumがありますし、テンポに関しても、初見に関してもそれぞれに独立した個別のcurriculumがあります。
それぞれのcurriculumを説明するのには、それぞれにこの文章と同じぐらいのPageを必要とします。
ということで、音楽技術の指導に関してのお話は、また別の論文を参考にしてください。
後書き
この論文の元の原稿は、まだワープロ時代が主流だった20年以前に、私のお弟子さんに送った文章です。(まだ、メールもなかった頃の話です。)しかし、ワープロが過去の遺物になってしまって、フロッピーディスクも散失して、print outした文章だけが、奇跡的に反古の形で残っていました。
ワープロで打ち出した時に、定形外の印刷でB4版1Pageの中に行間や文字数もぎっしりと詰めてprint outしてあった為に、パソコンでのOCRの作業が非常に困難・・・、・・というか読み取り不能で、パソコン的にはおろか、肉眼的にも判読不可能でした。
というわけで、OCRをした文章の文字化けの状態と、元の原稿の文章を見比べながら、文章を復活させる事に努めました。
しかし、もともとのお弟子さんへの原稿は、論文としてではなく個人的なお手紙として書かれたものなので、まとまった文章ではなく個人的な業務連絡や生徒に関するお話が入り混じった乱脈乱文でしたので、その中からlessonのadviceや教室に関する説明の内容の文章だけを抜粋して構成しなおしてみることにしました。
今回、昔の反古からこの文章を起草するのは、これから子供達の指導法を学んでいく若い先生達に対しての問題提起として、或いは参考としてだけではなく、生徒を指導する様になって20年30年経ったベテランの先生達に対しても、初心に立ち戻って芦塚メトードをもう一度、見直して欲しいという、私の願望があったからです。
文章としては いまだ起草状態の未完のままの文章なのですが、ちょうど今現在のタイミング的に、結婚や子育て等で、演奏活動や音楽の指導を一時的に離れていた先生達が、また演奏者として、或いは指導者として、現場に復帰してくる時期になっていますので、ちょうどそういったタイミングで、この文章が必要であると思われるので、とりあえずの形ではありますが、敢えて未完のままのこの文章を掲載する事にします。
文章の内容や構成は折に触れて気長に手直しや加筆をして行きたいと思っています。
未完のままにこの文章を掲載する事は、こういった教室のニーズに合わせて、という事で乱文乱脈はご容赦ください。
2011年 4月 某日
江古田 一静庵の寓居にて
一 静 庵 庵主
芦 塚 陽 二 拝