古典派のtrillの演奏上の留意点

(MozartのPianosonate k.311D Durを例にとって)

 

日本人のtrillの演奏は、素早く乱暴に!というのが定説のように思われる。
だから、私がtrillには強拍やaccentを表す早いtrillと、弱拍を表すゆっくりとしたtrillがある。というと、驚かれてしまう。
一般に日本人の演奏するtrillは一種類だけなのだかだ。
またtrillが、単純に弱拍を表す場合とprall=trillerが弱拍を表す場合があって、話は複雑怪奇になっていく。
そこに時代様式で演奏法を捉えて行くことの重要性が生まれてくる。

〔prall=trillerとtrill〕

「古典派のtrillの入りは、原則として上方から入らなければならない。」
等と古典派の薀蓄を口にすると、驚いて「そんな事は決まっていないのじゃあないの?」「趣味の問題じゃないの?」 とか、言いだす先生もいて、困ってしまう。

しかし、これは音楽の歴史的な時代様式から来るものであって、個人的な趣味としてのPianoの奏法の話ではない。

Cembaloやbaroqueviolin等を研究している人達にとっては、自明の事なのではあるが、trillの最初の音を上から始めるのは、バロックやロココのCembaloのornament奏法の名残である。

そもそも、trillerは、短いtrillと、長いtrillがある。
短いtrillと長いtrillの区別は、trillを表すゲジゲジマークが短い、とか、長いでよい。
・・・えっ?!そんな安直な・・・!!
そう、Bachもそう説明している。

trillの速度は、面白い事にヴァイオリンのvibratoの速度と同じである。

という事で、Cembaloやforte-pianoのような鍵盤楽器で、あたかもvibratoのように、音を震わせる役割をする。

という事で、短いtrillはmelodieの要所、要所のaccentvibratoが必要な箇所にaccentvibratoの代わりとして、短いtrillやmordent等が使われる。

勿論、短いtrillにはaccentを表す意味や、逆に弱拍を表現することもある。

 

長いtrill(この例の場合には、音の持続を表すtrillである。)は、beatがゆっくりから入って、早くなって、再びゆっくりと終わるというタイプのtrillもある。
膨らまし(messa di voce)を意味するtrillである。
フランスのCembaloの曲の場合には、そういった不定速のrhythmのtrillを使用する事の方が多い。(不定速とかいう不可思議な言葉を使ったのは、不規則ではなく、等加速度運動の規則的なrhythmに基づいた加速度運動であるからである。)

長いtrillの中には、保続音(持続する音)を表すものもある。
Cembaloやclavichordの場合には、Orgelのように保続音が続かなく、すぐに音が聞こえなくなるからである。

譜例:Bach invention W番 d moll 保続音を表すtrill

 

 

 

 

 

 

 

 

 

蛇足:

注意書きに書いているが、この長いtrillのmiの音に隣接する音をfa#にしている版があるのだが、それは間違いである。
Miの音はこのpassageのa mollのdominanteの音であるから、miに対して、faの音は下行導音でなければならない。fa#の音では、隣接する下行導音には成り得ないからである。
だから、fa#という事は有り得ないのである。

それに対して右手の動きの、mi⇒fa#⇒sol#は、sol#(導音)とmiの音に対しての経過音(非和声音)であるから、faとfa#の音が同時に鳴ったとしても、その音と音は、対斜にはなりえないのである。

要するに右手のmelodieと左手のmelodieの音が、faとfa#でぶつかったとしても、和声学的には何の問題もないという事である!

この時代は、声部ごとの動きが重視されて、音の対斜的なぶつかりは二義的であったからである。

Bachの作品の中には四声体のfugaに次のようなpassageも見受けられる。

このパートだけを抜き出すと、かなりショッキングな凄まじい音になるのだが、残りの2声の音を加えてみると、かなり緩和されたぶつかりの音になる。

意識をして聞かないと分からないのかも知れない。

 

trillにはvorschlag の付いたものやnachschlagの付いたものがある。

それも音ではなく、記号で表示される。

参考例:Bach直筆の装飾音の奏法一覧

同じvorschlagでも下からのvorschlagと上からのvorschlagがあるのが分かる。

勿論、Bachがこれを書いた意味は、装飾音はこれだけである。という意味ではない。当時一般的に使用された装飾音はこれだけではないし、Bach自身がこれだけしか使用しなかった、という意味でもない。Bachは装飾音の大家であるCouperin等のフランスの作曲家達の作品も写譜して勉強していた。当然、フランスの装飾音に対しても詳しかったはずである。つまり、Bachがこの装飾音の一覧を書いた意味は、「初心者だとしても、最低これだけは知っておきなさい。」という、必要最低限しらなければならない装飾音という意味である。Bach自身も色々な装飾音を書いているし、その奏法を実際の楽譜に書き表した譜例もある。

注:Bachはよくornament(即興)を楽譜に忠実に書き表した。それはBachが作曲をするときに、奥さんのマグダレーナやエマニエルやクリスチアン等の息子達、或いは当時人気の作曲家であったBachの忠実な弟子であったクレプス等の教育の為に・・・、という意味を含めて作曲していたからである。
Bachの装飾音の一覧表は、この表が後世の全ての装飾音を決定付けたと言っても過言ではない。
私が音楽大学でBachを勉強している時でも、それがFranceの音楽であるCouperinやRameauの曲を演奏している時でも、常に、教授が引き合いに出して来たのは、この装飾音の一覧表である。
しかし、Bachがこの一覧表を書いたのは、愛する子供がCembaloの勉強を始めた時に書いて与えたものであって、少なくとも、Bachの高弟達に対してではない。
Bachの最も信頼する子供であった、C.P.E.Bachは、もっと複雑で素晴らしいornamentの使用の仕方の教本を作っているが、そこでは、父親であるBachの言葉を、よく引き合いに出している。

http://music.geocities.jp/ashizuka_sensei/bc-ivt-to-symp-note.html#装飾音について

この装飾音の一覧表の位置づけに関しては、上記のPageでも詳しく説明しているので、参考にして下さい。 

 

古典派の時代になると、trillはtrillとして書き表され、nachschlagは音符としてかかれることが多くなった。

 

〔トリラーの開始音〕

trillは前の音が係留してその次の音から奏される事が間々あった。
また係留して演奏されるprall=trillerをtrillと混同して、呼ぶ場合もままあった。

(注:1) F Couperin 修道尼モニカ

それが、今日のように、トリルのその音から上方にかかるトリルを生み出す元となった。

という事で、MozartやHaydnの時代は、まだ作曲家達はトリルの奏法はtraditionalなプラルトリラーの原則を忠実に守って演奏していた。(これらは当時の文献にしっかりと述べられている。)

しかし、古典派も後期のBeethovenの世代になると、トリルの開始音はかなりあやふやなものになる。

という事で、Beethoven等は、トリルの開始音が誤って奏されないように、開始音を前打音でわざわざ書き表す事もよく見受けられた。(注:2)

そうなると今度は、その前打音をaccentと間違えて演奏するピアニストが現れた。

困った堂々巡りである。

それをLisztは逆手にとって、トリルをしながらcrescendoしていき、accentをしてdecrescendoするという奏法を作り出した。

笑えるね。転んでもただでは起きないと言う事か!?


〔トリルの数(beat)〕

トリルはいつも感覚的に演奏される事が多い。

だから、どのようなトリルでも、目いっぱいの速度で痙攣的に演奏されてしまう。

だから私が「トリルは数を決めて演奏してください。」というと、「えっ?!」と驚いた顔をされてしまう。

しかも、1曲のsonateの中で、トリルが出てくるたびにトリルの速度が変わってしまうと言う事も演奏もよくお目にかかる。それも1曲の中の整合性ということでは芳しくは無い。

「トリルの数には、上限と下限がある。寧ろ、選択権はないといった方が良いのだ。」という事をお話すると、やはり「えっ?!どうして??」と驚かれる人が多い。

Mozartの簡単なPianosonateの終止句のトリルを例にとってお話をしよう。古典派の曲は古典派の様式で演奏される。という事で、後は以下同文だからである。

生徒達がこのpassageで躓いたり、間違えたりする原因の殆どがトリルをあてずっぽうに弾く性である。

トリルの数を決めて、正確に練習させると、正しく演奏出来る様になる。

先ほども書いたように、トリルの数には上限と下限がある。まず、一番少ない数は等倍(1:1)なのだが、これではトリルとは言えない。ただのターンにもなり得ない。

この例は、あくまでもトリルの練習に入る前の、予備練習としての譜例である。

練習1 step1:等倍(1:1)の練習

 

 

練習2 step2:一番数の少ない(2:3の)トリル(初心者には速度的に、これが限界か?)

Mozartのこのk.311のsonateはAllegro con spiritoなので、about四分音符が120ぐらいであろう。そうすると、32分音符は初心者の限界tempoになる。初心者、中級者ではこのトリルが限界である。

練習3 step3:早い等倍(1:2)のトリル

このstep3の1:2の倍速のトリルは指の回る上級者に於いてのみ可能である。初心者や中級の生徒達にとっては、このstep3のrhythmを含めて、より早いトリルは現実的には演奏不能であろう。

そうなると、このsonateでのトリルの可能性はstep2の(2:3の)トリルしかないということになる。

つまりbeatに関しては、選択権が無いのだよ。

不思議な事なのだが、これが現実なのだよ。  

よく見受けられる素人の間違いの例としては、指に任せて最初のトリルを弾くのだが、nachschlag(後打音)が入らなくなって、結局、躓いて弾けなくなってしまう。

参考  間違えたトリルの例

この曲のtempoでは、32分音符の速度では、初心者には音符が入らないので、step3のトリルは無理である。

それを強引に入れようとすると、結局、nachschlagが入らなくなって、躓いてしまって、上の譜面のようになってしまう。

という事で、このsonateで使用されているトリルは、全てのpassageに於いて、step2の2:3のトリルとなる。(勿論、指に自信がある人はこの限りではないが・・・。)

トリルの数の整合性は終止(kadenz)のpassageだけではなく、下のような主題上のトリルも、終止のトリルとbeatを整合させなければならない。


譜例:7小節目のトリル

 

 

 

16分音符のtoriolenで全体のトリルを纏めてみようと思ったのだが、そうすると、nachschlagの音と繋がらないので、当然、次のように32分音符を混ぜて弾かなければならない。

という事で、上記の譜例のようになるのだが、これは途中でrhythmが変わるので、意外と難しい。

という事で、初心者は次のように演奏すると良い。

譜例:書かれたnachschlag(後打音)をトリルの中に含めて演奏する。 

7小節目の4拍目の裏の16分音符は「書かれたnachschlag(後打音)」なので、実音として正確に16分音符にする必要は無い。

だから、当然、上記のような弾き方も間違えた弾き方ではない。

 

〔音楽大学の教授が言った不可思議な話〕

昔々、私が小学生の生徒に、トリルの弾き方をMetronomでlessonしていたのだが、その時に子供の母親 (その母親も某有名音楽大学のピアノ科の出身者なのだが)が、顔を真っ赤にして「先生、トリルに3連音のトリルはありませんよ!」と烈火の如く怒り出した。

あまりの勢いにたじたじとして、「まあ、練習ですから・・!」というと、「練習ですか?」と納得してその場は収まった。

で、彼女の尊敬する音楽大学の教授が何故、彼女に「3連音のトリルはない!」と言ったのか、不思議に思って色々と調べたのだが、内外の文献では、そういった記述はとうとう見出せなかった。また当然、そう指導する先生も私の前にはいなかった。

寧ろ、ヘルムート・バルヒャやフランスのチェンバリスト達のように遅いbeatからだんだん早くしてまた遅くするような膨らましを表す装飾音をふんだんに使用したり、ブゾーニー版のように、最初から3連音指定している版も多く見受けられる。

では何故、その音楽大学の教授はそういう風に勘違いをしてしまったのか?

勿論、私はその先生ではないので、本当の事は分からないのだが、以下は私なりの結論なのだが、

昔々、私がヴァイオリンを指導していた時に、ヴァイオリンの生徒は必ず「トリルとvibratoのbeatが同じである」という事を気がついた。

つまり、ヴァイオリンの初心者にとっては、vibratoは本当に3連音のbeatはないのだよ。

手首を振るだけなので、前と外しかないのだ。

だから、ヴァイオリン(弦楽器)という楽器では、3連音を弾くという事は、難しい。
弓を3連音に合わせて、up、downさせれば、可能かもしれないが、それは早いテンポでは無理である。
それにヴァイオリンの場合には、下の音はshiftしたままでPianoのように打ち直しはしないので、幾ら上の音をしっかりと打鍵したとしても、下の音は如何ともしがたい。という事で、ヴァイオリンのトリルの3連音は基本的には無理である。

それでも、私はヴァイオリンでも、3連音のトリルをよくやらせるのだが、確かにそれはより高度な技術を追求している上級生で無いと出来ない超高級難度の練習である。

Pianoの場合には、2の倍数のトリルでは、上か下かの音が(無意識に)強くなってしまって、バランスが悪い。だから、3連音で練習させると、トリルがとても美しくなる。上の音と下の音が同じ強さでバランスが良くなるからである。

という事で、ヴァイオリンにもおなじ練習をさせるのだよ。

勿論、3連音でトリルを弾かせるには、もう一つの重要な意味もある。

つまり、伴奏のpartの倍数のbeatであれば、人はトリルではなく実音として聞いてしまうのだよ。

ゆっくりした楽章で伴奏の音符一個に対して4個ぐらいのトリルであればトリルとして聞こえるのだが、単なる2倍速ではトリルに聞かせるのは難しい。

3連音なら、不定形として聞くので、トリルがゆっくりしたテンポであっても、ちゃんとトリルに聞こえるから不思議である。