教室の蔵書と備品

指導者の楽譜や楽器に対しての価値観のお話

 

初めて教室を訪れられる先生達が、まず驚かれるのは、教室の楽譜や研究書類の蔵書の多さについてであります。

それで、各教室は勿論、私の自宅にはそれ以上の楽譜、研究書類の資料があるという話をすると、さらに驚いて、「それだけの楽譜が教室に揃えてあるというのはすごいですね。普通、自分で(個人で)楽譜を買い揃えるというのはなかなか難しいし・・・・」という話になります。

勿論、「それだけの楽譜が・・・云々」という、

素直な驚きはともかくとして、「自分個人で、楽譜を揃えるのは難しい、云々」という感想は、音楽を職業として生活している人としては、すこぶるいただる話ではない。

私が若い音楽家と話をしていて、ある曲について、名演奏家の演奏のbestselectのCDを推薦すると、「そのCD、今度、貸してもらえますか?」とくる。

そういったCDや楽譜類は自分の仕事上の、或いは勉強のための財産とは考えないのかな?

若い音大生にある曲の優れた演奏家のCDを推薦すると、そのCDをお店で探し求めようとはしないで、図書館に聴きに行く。

私にはそれは信じられない事である。

手元に置いて、いつでもその曲について疑問が沸いた時に、勉強に必要な時にすぐにcheck出来るようにするのが、仕事ではないのかな?大家の演奏は図書館で一回聞いただけで分かるのかいな?本当の良い演奏はそれこそ、何度も何度も聞かないとその演奏家の解釈や表現は理解出来ないのではないだろうかね?

私は疑問に思ったphraseを色々な楽譜を対照させたり、facsimileで作曲家の筆の跡をcheckしたりするために、Bachにしても、Beethovenにしても、同じ曲を色々な校訂の版で少なくとも10種類は持っている。演奏に関しても色々な人の演奏を、そのphraseはどう解釈しているのか、提示部では、或いは再現部では同じpassageをどのように弾き分けているのだろうかと、何度も聴き比べてcheckするのだが。

音楽のLiebhaber(愛好家)ならばいざ知らず、指導者がそういった考え方をする事については苦言を呈せざるを得ない事であろう。

尤も、音楽のliebhaberならば、図書館で借りたりする事は絶対にしないだろうがね。それは既にliebhaberとは呼べないからね。

 

「個人では・・」という考え方は、本当は逆に考えるべき事である。

個人でこそ、資料となるCDや楽譜は勉強のためにいつも座右に置いておく必要なものであるからだよ。

 

ここで、少し、楽譜やCDなどの資料や楽器や録音機材等の設備に対しての一般の考え方を説明する。

但し、ここでいう一般という言葉は、音楽家以外の一般人という意味に於いてである。

また一般というよりも何よりも、公的に何が経費や設備として認められるのか否かの話である。

 

公的な意味に於いて、音楽教室等の会社で、楽譜等の資料を揃えたり、Pianoや電子楽器以外の楽器を教室の設備として認めるかという話は、現実的にはあり得ない事なのである。

一般の音楽教室では、楽譜等の教材を集める事は担当の先生の責任であり、それに会社サイドから経費を払われることはない。

勿論、公的にも必要経費としては認められないからである。

会社として、あるいは音楽教室としての認められている必要経費は、直接的に利潤を生むものに限られている。

それが、間接的であるとすると、いかに多くの利潤を生み出すものであるとしても、それを公に認めさせるのは難しい。

楽器等も指導のために必要なPianoやキーボード等は設備費として認められるが、violinやcello等は個人の所有物となるので設備費にはならない。

まして、Cembalo等のような、特殊な楽器は音楽教室で揃えるべき領域を超えるものなので、経費とはならないのは、一般常識的に至極当然のことであろう。

 

音楽教室の立ち上げについての、お話で既にお話した事があるが、個人の家で音楽教室を立ち上げて、子供達を指導する場合には、設備費は必要ない。

使用するグランド・ピアノも自分が音大時代に使用してきた楽器をそのまま使用すればよいし、lesson室も、楽譜も、CDプレイヤーも資料の教材も、今まで自分が使用してきたものをそのまま使えば良いだけである。

教室を立ち上げるために特別に準備するものは全くない。

むしろ生徒を迎えられるように、プライベートな部屋をlesson室用に片付ければよいだけである。

 

でも、そういった事前の設備が無く、教室を全く新しく立ち上げるとなるとそう簡単には行かない。Lesson室を借りるための家賃や楽器を揃えるのに必要な経費等々、ざっと見積もるだけでも、500万以上の経費が掛かるだろう。

勿論、税金の控除の対象になりえる備品は、直接的にお金を生み出す楽譜や楽器に限られている。

というか、楽譜やCDの類は指導者が自ら勉強し知識として持っているべきものとして看做されるので、音楽教室の必要経費として控除される事は基本的にはない。

私達の教室も教室の備品として楽譜代や楽器代を見積もりして買い揃えたわけではない。

教室の備品として認められなければ、幾ら指導上必要であったとしても、教室の備品として見積もりをすることが出来なければ、その楽譜を必要な人が、個人で(自分で)買わなければならない。

ということで、私達の教室でも、(教室で使用している楽譜であったとしても)、芦塚先生の個人の所有の物をそのまま貸与してもらって使用している。

また同様に、教室で使用している楽器の大半は芦塚先生の個人所有の楽器である。

グランドピアノやアップライトのピアノ、スピネットや2段のチェンバロ、パイプオルガンも同様に芦塚先生の個人の所有である。また、殆どのリコーダー類も芦塚先生の所有である。

しかし、そこで間違えてもらっては困ることは、それらの楽器や楽譜類は、芦塚先生が教室を開設してから以後に、「教室用として集めたものではない」ということである。

資料として楽譜を集めたり、CDを集めたりする事は、仮にお金が十分にあったとしても、それは一朝一夕で出来るものではない。一日一日をこつこつと折に触れて集めていったから、それだけの資料が集まったのだ。

教室を作る何十年も以前から、つまり芦塚先生が中高生時代から、一貫して買い揃えて来たものである。

 

本来は個人で揃えるべき楽器であるbaroqueヴァイオリンやbaroquebowも、教室の備品としては認められないので、私自身が先生達の勉強のために個人で買い揃えて貸与している。

Baroqueの演奏を先生達にさせているのは、楽器の特性を知る上で、そのルーツを知る事が正しい奏法を理解する最も早道であるからである。と共に、まだ未開拓の学問の分野でもあるからである。私がいつも言っているプロの条件は「人の出来ない事を出来る事である。」ということなのだ。その道のオーソリティーになるためには、人のやっていない分野を研究するのが一番手っ取り早く確実でもある。でも人のやっていない事をやるにはそれ相応の投資も必要となる。でも、誰もやっていない事に投資する事は、誰も経費として認めはしない。それで結果、私財を投げ打つ事になるのだ。例えば、教室の備品としてグランドピアノを買ったとしても経費としては認められるだろう。しかし、同じ金額でforte-pianoを買ったとすれば、それは経費には成り得ないのだよ。

と言う事で、教室が経費として買い揃えた楽器は、Fiori musicali の活動のためにと、教室の発表会のために買った一段のCembaloや、クリスマス会や発表会で用いられる、子供達が使用する木琴や太鼓等である。

Cembaloは備品として認められることは難しいが、木琴や太鼓等は、音楽教室として、経費として認められる。決して、金額が安いからという意味ではない。ちなみに、木琴といえども大型のものは20万以上もする高価な楽器であるからだ。(子供のおもちゃと勘違いしてはいけない。)

もっと複雑なのは経費として認められるかという事が、必ずしも利用頻度であるということでは無いと言う事である。

楽器としては最も安価で、学校でも使用されている一番子供達にも馴染みのあるrecorderは経費としては認められない。それは一般的には個人の楽器と看做されるからだ。学校にすら、recorderの教室用の備品は置いてはいない。「口をつけるものだから、個人でしか使用できない。」という理由もあるしね。

 

一般の人達の勘違いは、もう一つある。

「音楽大学や大規模な図書館ぐらいになると、教室が所有している教育教材や楽譜ぐらいの資料は当然あるはずだ。」と思われるかもしれない、という事である。

これには大きく三つの勘違いがある。

 

その一つ目は、音楽大学や公的な図書館は、公的な意味で広域に亘って音楽の重要な文献を集めなければならないという義務を持っている。

そのために、ヴァイオリンの教育教材やbaroque音楽等のある意味では狭い特殊な(マニアックな)分野に限って見ると、それ程資料が集められている分けではないのだ。一般の図書館や音楽大学の図書館が公共性というものを持たなければ成らない。という必然的な条件があるからである。(音楽大学にとっては教育教材は、資料的な価値の低いものと看做される。権威の対象にはなりにくいからである。)

 

わずか、二、三百年音楽の歴史の中だけを限定したとしても、出版された楽譜だけをとっても、ある程度はその分野の中ででもselect していかないと、直ぐに資料が天文学的な量になってしまい、幾ら国家的な規模でそれらを収集したとしても、集められる事が出来る分けではないのである。

それは日本の国会図書館のように巨大なお金に糸目をつけないような図書館であっても同じである。

それは無限に膨大な音楽関係の資料を考えると、現実的に考えて不可能な話である。

今や、現実のものとなろうとしているクラウドのような仮想空間上の図書館でもなければ、無尽蔵とも言える資料を全て網羅するのは無理な話なのだから。

しかも、そのバーチャルなクラウドの技術が可能になったのはこの2、3年の話である。

 

教室で使用しているスチューデントコンチェルトや、室内楽の譜面は、教室にとっては普通の譜面なのだが、一般的にはとても珍しい、収集困難な譜面なのです。

スチューデント・コンチェルト一つを採っても、関東のベテランの先生方と芸大の主任教授の先生が集まって会議をしたときに、スチューデント・コンチェルトやそのほかの教育教材がないかという話をしていましたが、私達の教室では誰もが学んでいるスチューデント・コンチェルトの多くの曲は、日本の先生達はそういった楽譜がある事自体を知らないのです。

長期に亘って、私個人の研究の為に世界中のカタログや資料の中から、私が一人でこつこつと収集したものなのです。

私が37歳になって音楽教室を立ち上げる前までに、大学で教鞭をとる傍ら、色々な仕事や本の出版等をされていて、その私財の大半を個人の研究のために買い揃えていました。

特に、その中でも、orchestraの楽譜や室内楽の楽譜等は個人が集めるとすると、莫大な経費が掛かります。教室の教材のために買い揃える事は事実上不可能なのです。

例えば、Haydnのピアノ・トリオの楽譜は2冊組みですが、その1冊を買うだけでも1万5千円ぐらいは掛かります。1冊の値段が5万を越す金額の楽譜も数多くあります。私の個人財産である楽譜の棚の室内楽とオーケストラの楽譜だけでも、家一件分ぐらいの金額はします。それに楽器を足したら、どれぐらいの設備投資になるでしょうかね。

 

私は音楽大学に通いながら、日本の音楽大学の音楽教育に対して常日頃疑問に感じてきました。というよりも、音楽のみならず、所謂、教育全般・・・、つまり、日本の子供の教育に関してというべきかもしれません。

特に、音楽教育は幼少期からこつこつと、体や意識を作っていかなければなりません。金食い虫であると同時に、莫大な時間と労力を伴います。時間と労力は多く、且、実入りは少ない。

 

私のコレクションでも、特に貴重は楽譜はbaroque等のアルヒーフの楽譜と、私の特別のコレクションであるFacsimileausgabeです。

日本人はヨーロッパ崇拝が強く、特に日本人の音楽大学の先生達はヘンレ版等の原典版に対して、聖書のような絶対的な信仰心を持っています。

ある生徒が、音大の先生にレッスンを見てもらうのに全音版を持って行った事がありました。そこで音大の先生が、生徒が日本版を持ってきたことに対して烈火のごとく怒って「日本版なんか持って来て!ペーター版を買ってらっしゃい!」と言っていました。

その話を聞いて、私は呆れたね!だって、全音版はペーター版のコピーなのだから…!

 

確かに、私がまだ音楽大学生であった頃の日本版の楽譜は、ペーター版のコピーといえど、コピーの時の間違いも多く、あまり信用度の高い版ではありませんでした。

しかし、その後の全音版を含めた日本版(春秋社版や音楽の友版、その他の出版物も)は、しっかりした先生たちの校訂によって、外版よりもかなり正確な安心したkritikのなされた出版物になっています。ヘンレ版と言えど、数多くの間違いを見いだすことができます。また、ヘンレ版の1番大きな問題点は指使いが、論理性が乏しく、しかも外国人の男性の手のサイズで指使いを書いているので、日本人の女性や小、中学生の子供たちにとっては、かなりつらい不自然な指使いになっているということです。一般の人たちの場合には、私のように個人的にfacsimileausgabeで、楽譜の正しさをチェックするわけではないし、またfacsimileがすべての出版物に対して出版されているわけではないので、そういった意味では、ヘンレ版はまだ権威があるかもしれません。しかし、MozartやBeethovenの版においても、もはやヘンレ版でなければならないという、絶対的信仰は、権威主義的な信仰的な意味合いを除いては、出版物としての価値としては、絶対的という価値はもう、存在はしないのです。

複雑な言い方をしましたが、所謂、ペーター版のコピーである標準版を除いて、00先生の校訂版と銘打ってあれば、ヘンレ版と遜色をとることはありません。

しかし、教室にはヘンレ版や春秋社版、ペーター版を含めて様々な版が揃えてあります。

教室の指導の特性で、生徒に「何ページ目の何段目の7小節目の音から…!」という言い方をして、レッスンをします。そのために生徒と先生が同じ版を使用する必要があるからです。

 

 

話がすっかり長くなってしまったので、結論から言えば、音楽大学のような公的な機関を除いては、音楽教室や一般の教育関係の会社が楽譜や楽器を揃えるという事はあり得ないという事を先生方はしておかなければなりません。

つまりその意味は、楽譜や楽器は、個人で集めることが出来なければ、集める事は出来ないと言う事です。

要するに、音楽を職業としない一般人は、音楽は趣味の分野にしかすぎないので、音楽でお金を使うことは基本的にありません。

趣味の勉強のために、どの程度の金額を使うのか、或いは使わないのかという事なのです。

それに対して、音楽が自分の生計を立てるものであったとすれば、音楽にお金をかけるのは、職業人としては当たり前の話です。だから、私は自分の稼いだ金を全て音楽につぎ込んだというわけなのです。

で、音楽を指導しようとするあなたは、楽譜や楽器にお金をかけるだけの価値観を見出しますか?

そこが、私との考え方が違うところかな?