ヨージーの法則 99%の意識と1%の努力

このessayは未だ書きかけです。


芦塚先生が、orchestraの練習やone lessonの時などに、いつも、繰り返しお話する言葉が、この「99%の意識と1%の努力」という言葉であります。
芦塚先生の箴言集の中でも、もっともよく色々な論文に引き合いに出される言葉でもあります。

「え〜っ??99%の努力と1%のヒラメキじゃあないの??」
そうだよね??
一般的には、エジソンが言ったとされる名言は、
「天才とは1%のひらめきと99%の努力である。」とされているよね??

でも、本当に、エジソンが言いたかったのは
「1%のひらめきがあれば、99パーセントの無駄な努力はしなくてもよい」という事を言いたかったのですよ。」
つまり、こんにち、私達がエジソンの格言として、知っている言葉とは、エジソンは、真逆の事を言っていたのです。

どうして、そんな「真逆の間違い」が起こってしまったのか?・・・・というと、エジソンにインタビューをした新聞記者が、エジソンの言った
「99%の無駄な努力」という言葉の意味を、全く理解出来なくて、一般の常識的に、「ひらめきよりも、努力が大切だ!」と、勘違いをして解釈をしてしまって、新聞にインタビューの記事として、間違えたままで、その言葉を掲載してしまったのです。

だって、常識的に考えると、「努力に勝るものはない」と、言うのが、一般通念なのだからね。

新聞記者は、正しくmessageを伝えるのが職業なのだから、そんな真逆の意味の取り違えをする分けは、普通は、ありませんよね。
新聞記者が、間違えてしまった、そのエジソンの言葉は、新聞記者が間違えるようなとても不可解な言葉でした。
だから、間違えたのだよな・・・・???

エジソンがその時に新聞記者に言った言葉を
、そのままWikipediaから引用しましょう。

エジソンのお話では、
「生またばかりの赤ちゃんの頭脳にはリトルピープル(地球外生物)が住みやすい構造になっている。このリトルピープルが人間をコントロールしているのだが、大人になるとこの声が聞こえなくなるのだ。
しかし、この1%のひらめき(リトルピープルの教え)を感じとることができれば、99パーセントの無駄な努力をしなくとも大丈夫なのさ。」
という人を喰ったような言葉だったそうです。

芦塚先生に、
「エジソンは何を言いたかったのか?」と、この言葉の意味を尋ねたら、「産まれたばかりの赤ちゃんは、『ものを真っ直ぐに直感的に見る事が出来る』のだけど、歳と共に、雑念が多くなってきて、物を正しく見る事が出来なくなるという事なのだよ。」という事を説明してくれました。

この事は、心理学的には、常識としてよく知られている事なのですが、年齢の低い小さな子供達は、経験上の知識が不足しているので、その分、直感力が本能として、優れているのです。
これは、動物が自然界で生存していくための、生まれついて身についている能力なのです。

これは、本能のなせる技なので、本当に自分に何が大切なのかを、一般の常識や経験としてではなく、本能として、理解して、行動します。

一般の社会常識では、子供の親に対する愛情は、血であり、本能的なものだと思われていますが、生物学的には「初めて目にした物を親と思い込む」とか・・・のように、それ程、血の縁の愛情は強くないのです。

ですから、小学校も3,4年の子供が、自分の親よりも、先生や周りの人の方の愛情を優先して、平気で「私、先生の子供になりたい。」とか、至極真面目に言ったりします。

勿論、家庭環境に少し問題がある場合なのですが、身近なより自分を支えてくれる人を、親よりも優先しようとする事がよくあるのです。

「まさか?!そんな事が・・・?!」と、思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、生涯を誓った夫婦が、より良い男性を見つけて、さっさと離婚するのも現実なので、そんな、不思議な事とは思えないのですがね。

ただ単に、そのEnergieとなるのが、大人の女としての経験によるものか、子供の本能に因るものか??の違いだけなのですからね。

しかし、その優れた能力も、小学校の高学年ぐらいになると、経験則による判断力や学習による知識という、後天的な、学んだ知識や刷り込みと交換されてしまいます。

その頃に人間の大人になるための学習は、社会性を身に付ける事になります。

心理学的には、ギャング・エイジと言って、「集団で行動するための練習」の時期であり、思春期という事で、生殖をするための相手を探すための、かっこの良い異性
(注)に憧れたり、楽な方やより刺激的な世界を憧れるようになります。

(注)ここで言う「かっこいい」という意味は、内面的な意味を殆ど含みません。
何故ならば、自然界に於いては、種を存続させることが最優先なので、どちらが種として強いか・・・?? という判断だけが、重要なのです。
若い女の子が、内面的に優れた男性よりも、マッチョな頭の弱い男の子に惹かれるのは、自然界で、より強い種を残すために過ぎません。

そこで、社会的に未成熟な女の子達は、真面目な男の子よりも、社会のルールに反抗的な男の子に魅力を感じたりする危険な時期でもあるのです。

つまり、「社会のルールに従わない・・・と言う事は、社会を構成している人達よりも、強いのだ!」・・という勘違いです。

世界の若い多くの女の子が、「IS」に憧れて、親や祖国を捨てて、テロリストの世界に飛び込むのも、そういったちからの強さに、憧れるからに他なりません。

また、集団で行動するためには、共通の認識力や価値観を持っていなければなりません。

だから、その集団の考え方で、行動するのです。

一般の社会通念ではなく、ギャングだったら、ギャングの基準で物事を考えます。
それを、ギャング社会の共通認識と言います。

普通の人達が理解出来ないような「IS」のテロの活動も、その「IS」の世界の中では、正しい、当たり前の行動なのですよ。

話の内容が、テロの常識の話と、一般社会の常識的な話の比較であるとすれば、その話は、かなりの語弊があるように思われます。

しかし、その本質的な意味合いは、結局の所、(とどのつまり)、brand嗜好も、一流の大学や企業に憧れる権威主義的な発想も、無意識の中で、人と同じ事を考えて、行動すれば、安心だという、ギャング・エイジの考え方の延長線上にある、未成熟な思考パターンの延長上の考え方なのです。

テロの発想も、ブランド嗜好も、未成熟な、自分の判断基準を持たない、自分のi dentityが育っていない、結局の所は、精神的には、大人には成りきれていない大人が抱く行動であり思考であるに過ぎないのですよ。アッ!ハッ!ハッ!

自分に判断力が無いから、自信が無いから、人の判断を自分の判断基準として、判断するのです。

自分が、間違えるのが怖いから、あたかも多数決の原理のように、一番多くの人達が「そう思う事」を、「正しい」と判断してしまう。
それが、日本の社会特有の、肩書き尊重の風習であり、権威とブランドに、一般の人達が価値の基準を見出している日本社会の社会現象なのです。

有名塾、有名学校、名門大学、一流企業、と辿って行けば、人間は必ず幸せになれる・・という、権威と作られた(一流)というブランドに、依存する事によって、自分の精神的な安定を得ようとします。

それに反する事は、非常識的であり、非日常的であって、不安で仕方がないのです。

それに反する考え方を認める事は、自分の属している社会を否定される事であり、自分のi dentityを破壊される事でもあるのです。

実際に、自分でその社会の中で生活をしていて、それで、「幸せだ!」と、感じた事は一度もないのに、(その社会の中で押し潰されそうになっているのを、ひたすら耐えて生きているのに、・・)他の人達へは、優越感にしがみついているのです。
それを、安定志向と言えるのかな??

価値観は、今、現在、その人が、属している世界の中の価値観でしか、判断しないし、それを自分の判断であると、思い込んでいるのです。

特に、未成熟な、若い女の子の場合には、それが将来的に、どんなに、自分の人生に災いしようと、目先の煌びやかさにとらわれてしまうのですよ。

普段だったら、絶対にしないような行動を、スマホで、チョッと冒険をして見ようと、思って、取り返しのつかない失敗をするのも、成長期の本能的な行動の一つの表れなのです。

どんなに、小さな子供の時の思い入れが大きかったとしても、一度、道を外した女の子達が、その年齢を過ぎて、中、高校生ぐらいになったとしても、その時には、もう、自分自身が「子供時代に、本当に自分が、将来何をしたかったのか?」「何に成りたかったのか?」「何を求めていたのか?」を思い出す事は、もう、ありません。
女の子には、過去はないのですよ。
生きている今が有るだけなのですから。

音楽に限ったお話ではなく、芸術や科学、或いは、職人として・・・でも、ひとかどの仕事を成し遂げる人達は、そういった外界の煌びやかさに惑わされる事もなく、子供の頃の純粋な目を持ち続けた人達なのですよ。

エジソンが言った言葉の意味はそういう事なのだそうですよ。
本当に、奥が深いよね?!!


さて、本題に戻って、芦塚先生の
ヨージーの法則の「99%の意識と1%の努力」とは、エジソンの、深〜い!人生のお話とは意味合いが少し違います。

人生の効率論と言っても良いかもしれません。

一般的には、『努力の量でその人達の将来が決まる』ように言われています。

人よりも少しでも多く努力する事が、成功の秘訣であるかのように・・・言われています。
「あるかのように・・・」という意味は、それが、「そうでは、有り得ない」という前提にあるのだ・・という事を意味しています。


芦塚先生は、その意見、見解(効率論)には、否定的です。
芦塚先生がいつも、口を酸っぱく、言われている事は、
幾ら努力をしたとしても、意識が伴わない努力では、成果を上げる事(効率を上げる事)は出来ない・・という事を言っているのです。

日本の教育では、「机に座っていると、勉強をしている」ように思われてしまいます。
また、「どれぐらい勉強をしているのか??」という判断は、「どれぐらいの時間を、勉強に費やしているのか??」という事に尽きます。
つまり、「その人の勉強力を時間で判断する」のですよ。

(音楽の社会では、その生徒のlevelを推し量るのに、
「今、Etudeは何の曲をやっているの?」と聞かれます。
でも、巷の音楽教室で学んでいるEtudeのlevelと、同じ曲をコンクール等で演奏するlevelとは、その曲の出来上がりの水準が、とても同じ曲とは思えない程の、雲泥の差があります。)
という事で、本当はEtudeの課題を持って、その生徒の技量を推し量る事は現実的には無理な話です。

芦塚先生が音楽を中心にして勉強しようとしている生徒を指導する場合には、或いは、音大を受験する生徒達のような音楽を主軸にして勉強をしている生徒達を指導する時には、通常のBurgmullerのEtudeを終わると、Czernyの小さな手のEtudeや、Czerny30番を二往復させます。
一回目は、通常のlessonと同じですが、二回目は、課題曲を楽譜上で指定されたMetronomの tempoで演奏させます。
半年に、5,6曲のEtudeをselectして、半年、掛けて曲を仕上げて行きます。

Czerny30番に指定されているMetronomのtempoは、一般的な感覚では、余りにも、早い速度を要求しているように思われます。
しかし、指定された課題は、その速度で勉強しなければなりません。

そこまでの段階に仕上げる事、それが、コンクール型の練習法です。

でも、芦塚先生の場合には、その後の練習曲ですが、Czerny40番や、50番、或いはcramerのEtudeは、その中の曲を抜粋して、しか課題を与えません。

その生徒の弱いtechnicの練習曲を抜き出して、その課題を数曲練習するだけです。

「何故、全部の曲をやらないの??」って??
答えは明白です。

全部の曲を、その段階で仕上げるには、60年の日数を要するからです。
小さな手は、省いて考えたとしても、Czerny30番が30曲で、40番が40曲、それに50番が50曲あれば、それだけで、120曲になります。
半年間で、5曲をマスターするとして、1年で10曲なら、Czernyの教材を終わるのに、12年掛かる事になります。
勿論、Etudeの教材は、Czernyだけではありません。

cramerの60曲のEtudeや、Moschelesの24のEtude、KesslerやMoszkowskiのEtudeも結構、日本のコンクール等では出題されるEtudeです。

ClmentiのGradus ad Parnassumに至っては、100曲以上の超絶な練習曲が控えています。

Clmentiのselect版の60曲は、決して難しい曲だけを選んだ分けではありませんからね。

Czerny30番の全ての曲が、in tempoで演奏出来たら、ChopinのEtudeでも、スラスラと演奏出来るハズです。

現に芦塚先生の指導した生徒達は、Czerny30番からChopinのEtudeに飛んでいます。
その代わり、Czerny30番と言えど、Wien風の音楽でとても美しく演奏していますよ。


コンクール型の練習では、曲に正確さ、完璧さ・・を要求されます。
完璧に練習を仕上げて行くのなら、当然、練習の量、(所謂、時間)は、余り掛ける事が出来ません。

コンクールversionの練習では、たった、1小節、2小節の間に、10箇所、20箇所のcheckpointが出て来ます。

だから、その小節で、AとBが上手く演奏出来たとしても、後のCから、D、E、F、Gと、練習の課題がこなせてないと、練習は何の意味もないからです。

初心者のように、1個ずつを丁寧に仕上げていては、コンクールのtimelimitに間に合わないからですよ。
それこそ、完璧にその曲が弾けるようになるには、何年も掛かってしまうでしょうしね。
一度に、5個も10個もcheckをしながら、control出来るようにならなければ、コンクールに出場する事は出来ないのですよ。
趣味の人達が、そう言った練習が出来ないのは、それだけの集中をする気力と体力も無いからです。

という事で、練習の時間でその努力の価値を判断するのは、あまりにも、幼稚な一元的な判断です。

一日に10時間も勉強する学生が、二流、三流の大学に進学して、全く遊び呆けているような学生が、東大に合格しても、それは、本人の能力でも、素質でもないのです。
それは、勉強の仕方に他ならないのです。

そこが理解出来ないと、本当の勉強という事の意味は、理解する事は出来ません。

以前、清水和音さんという若手の大変モテモテのピアニストがいました。
でも、清水さんは、練習をあまりしない事で、結構、音大生の間では物議を醸していました。

徹子の部屋で、黒柳さんが、
「あなたはPianoの練習はあまりしないのよね?」と質問すると、清水さん困った顔をして、「それは、勘違いですよ。自宅の狭い部屋では、音が割れてしまうので、3時間、4時間が音を聴く限界になるのですよ。でも、Pianoを弾いていない時間でも、楽譜上でcheckをしたり勉強をするのは、一日中やっています。その時間も入れると、10時間以上はPianoの勉強をしていると思いますよ!」と、憮然として、反論していました。

勿論、私も清水さんのお話は正論だと思います。
もし、音の粒粒や表現を細かく注意して、勉強しようとすれば、人の集中力の持続時間は自ずから限界があります。
音を聴かないで、指だけで練習するのならば、そりゃあ、何時間でも練習出来るでしょうよ!

でも、教室では、そんな練習は練習とは言わないのだよね。

同じように、机にしがみつくだけの勉強も、勉強とは言わないのよ!!

勉強とは言わないで、なんていうの??って??

そりゃあ
「時間の無駄」って言うに、決まっているでしょうが・・・!!

もったいない!!もったいない!!南無阿弥陀仏!!

教室では結構、優秀だった生徒が、自宅で練習をしようとすると、どうしても、2時間、3時間が限界で、それ以上練習をする事が出来ないと悩んでいました。

教室をやめて、外の大学の教授に師事をするようになったのですが、その途端に、5時間、6時間も楽々と練習出来るようになったのです。

親御さん達は、
「やっぱり、芸大の教授は凄いなぁ?!教授にlessonを見て貰って良かった!!」と、喜んでいました。

でも、私達からすると、その生徒は、自分が演奏している音の粒粒を聴かなくなって、スピードと流れだけで練習するようになっただけなのです。
そんな練習なら、集中力はいらないので、それこそ、何時間でも練習出来ますよ。素人さん達にはその水準が理解出来ないのです。

もし、教室で、そんな無意味な練習をするならば、芦塚先生から、厳しく怒られてしまいます。

「そんな練習をする暇があるのなら、ディズニーランドにでも行って遊んで来い!」「そっちの方が、よっぽど有意義だろうよ!!」
と、怒られてしまいます。

つまり、先生を変わって、一番やってはいけない練習をするようになったのですよ。
お気の毒に・・???なんまいだぶ・・!!ダブダブダブ!!

上手になるのには、大変な努力と時間が掛かりますが、下手になるには、ホンの一瞬です。
10分、5分で、すっかり下手になってしまいます。
それは、どうして??って??

それは意識が抜けてしまったからなのですよ。

そして、反省をして、元に戻ろうとしても、一度、楽な方法で人生を生きてしまうと、厳しい人生には、なかなか戻れないのですよ。
中学生ぐらいで、
「周りが遊んでいるから良いか?」と、チョッと遊んで見た女の子が、元の道に戻れないのと同じです。

今の女の子が道を踏み外す原因の一番は、スマホだと知っていた??
それぐらいの事が・・、が一番危険なのですよ。

私はよく女の子達には、「李下に冠を正さず」とか、「君子危うきに近寄らず」というお話をします。
それぐらいは、もう道を踏み外しているのですよ。

正しいmethodeで勉強していたとしても、一度、誤ったmethodeで勉強をしてしまうと、その誤ったmethodeを訂正し、修正すれば良い・・とは、いかないのです。

才能教育の鈴木先生は、
「100回練習して、出来なければ、1000回練習すれば良い」、とおっしゃられていましたが、それは根本的に間違いです。

100回練習して、出来なければ、100回分は確実に下手になるのですよ。それで、更に1000回練習をすれば1000回分下手になるだけなのですよ。どうして、それが分からないのかな??不思議だ??

「100回練習して出来なければ、たったの10回、或いは5回、正しく出来た練習をすれば良いのです。
その方が、1000回の無駄な練習よりも、数倍上手になります。

芦塚先生の練習の理論で、オセロ練習法というのがあります。
100回間違えて、100回正しく練習出来た・・としたら、その生徒は、何回練習した事になりますか??
200回練習したのかな??

その考え方が鈴木先生の間違えた考え方です。
勿論、その考え方は違います。

正しい練習が100回で、間違えた練習が100回なので、練習の回数は(±)0回か、否、寧ろマイナスになるのですよ。
つまり、200回の練習分の時間は使ったかもしれませんが、練習そのものの、回数は0回なのですよ。
それが分からないと、練習の効率化は出来ないのです。

芦塚先生が、子供達に正しい練習の仕方を指導するために、編み出した幾つかの方法論があります。
このお話は学校教育でのお話なので、音楽には直接関係はありませんが、学校でおこなわれていた漢字のテストのお話です。

昔々、芦塚先生が指導していた教育関係の大学の生徒達が小学校に努めたのですが、その学校ではクラス対抗で、生徒の漢字の成績を競う試験が毎週ありました。
その週に新しく出てきた漢字を5つから10個ぐらいまでを、宿題にして、毎週テストをして、その成績の総合とクラス対抗で争っていました。

基本的には、毎日、10個から20個の漢字を漢字のノートに書いて、覚えて、月曜日に試験をする・・という宿題でした。
結果は、常に、ベテランの学年主任の先生のクラスがトップでした。

芦塚先生の大学での生徒さんから、「子供達がなかなか漢字を覚えられない」という、相談を受けたのですが、芦塚先生は、ちょうど芦塚メトードの論文を、まとめている最中だったので、dataを取るために、その記憶の方法論を他所のクラスの生徒や先生には、教えないという条件で次のadviceをしました。

芦塚先生のadviceは、つまり、子供達が覚えるだけ漢字をノートに書くという宿題を出して、土曜日に確認のためのテストをしました。
そこで覚えていない漢字を確認をして、月曜日に臨んだのです。
最初の、半月ぐらいは、生徒も怖がって、10個を書く宿題だったから、5個に減らして書いたり、3個か2個を書いたりしていましたが、一月目には、全員1個しか、漢字を書かなくなって、しかも、その結果、全問正解になったのです。

不思議に思った先生達は、言葉を書く個数を増やして、それでも成績が上がらない・・という事よりも、逆に成績が落ち込んでしまうので、そのうちに毎日100個、漢字を書くように宿題が出てしまって、子供達の手には負えなくなって、母親や父親まで、子供達のために、宿題の漢字を清書する事になってしまいました。

どうして芦塚先生は、漢字を書かせない事にしたのでしょうか??
それは、その先生にadviceをする前に、生徒達の宿題の単語帳を調べると、10個、20個と書かれている文字なのですが、最初の2,3文字は丁寧に書かれているのですが、8個目や10個目の漢字はかなり乱暴で乱雑に書かれていたのです。
芦塚先生の理論では、この雑に書くという事は、忘れるための方法論なのですよ。
記憶に必要な文字は丁寧に書かれた1つ、二つの文字に過ぎないのです。
意識をして、丁寧に、文字を一個書けば、乱暴に10個、20個書くよりも、効率的である事は自明の理でしょうね??

その漢字のテストの勉強法を、もっと効率よく、高度にして、遊びにしてしまったのが、「オセロの練習法」です。
オセロで合格か否かは、子供自信に判断させます。
オセロ練習では、白のコマを3個で練習した事にしようと思っても、最初の間は黒、黒 白となかなか白が3個には到達しないのです。
実際の練習回数でいうと、
「3回練習しなさい。」と言われても、現実的には、10回、20回練習する事になります。
そこで、練習の無駄を学ぶのです。

でも、それで、要領を掴んで、正しい練習が出来るようになると、たった3回の宿題を3回の練習で合格にする事が出来るようになります。
それで、練習の水準を上げる事が出来たのです。

オセロ練習はかなり厳しい練習法なので、ある程度の集中が出来るようになった生徒にしか与えてはいけません。
小さな学び初めの子供達には、意識して集中をする事は難しい事なのです。
しかし、ある程度の水準のある生徒達にとっては、この練習法は、子供達の練習の負担を減らす最良の方法になります。

また、長いpassageには、オセロ練習は適しません。
オセロ練習法は、曲の抜き出し練習にしか使用しません。
ホンの1小節ぐらいを抜き出しして練習するのに使用します。
合格するオセロの個数は、子供達の能力で決めます。
最初は、2個、3個で充分なのです。

オセロでも同じです。
集中して、間違いを犯さないように注意して、練習するのならば、2,3回練習するだけで演奏出来るようになるはずなのです。
でも、間違えて練習してしまうと、それはマイナスの練習であって、その次にちゃんと弾けたとしても、(±)0になってしまうのですよ。
つまり、鈴木先生の「100回練習して出来なければ、1000回練習しても・・・」、は、間違いで、決して、上手くなる事はないのですよ。芦塚先生はそういった練習の事を
「闇雲練習」と呼んでいます。

意識を持って勉強するのならば、努力が必要な事案は、ほどんどありません。
肉体的な指を回す事とか、体のmotionを作る時だけ、努力が必要で、それは、現実的には1%もないのですよ。
芦塚先生が指導者に常に注意している事は、闇雲に練習させるのではなく、練習のpointをしっかりと分けて指導するという事です。
芦塚先生はそれを指導の3原則と呼んでいます。
指導の3原則は、
@正確な譜読み
A正しい指使い
B指の確実なtouchや、体の使い方です。

つまり、@とAは、Pianoやviolinの前での練習は、不必要になります。芦塚先生は、音大生の場合には、喫茶店等で、楽譜を前にして説明をします。楽器を離れて、頭の中で音楽が作れるかの話になるのです。imageや、ちゃんとした指使い等が出来てから練習をすると無駄がなく、時短になるのです。
幾ら、数で、練習をこなしても、当てずっぽに練習するのでは、効率は期待出来ません。
それが、闇雲練習という事なのですよ。

正確な指使いを理解して、正しい楽譜を頭に入れて、それから、Pianoやviolinを前にして、始めて指の練習をするのです。
それが正しい練習法なのですよ。


学校の勉強でもそうですが、机に何時間座っていても、
「心此処に在らざれば、」・・・そこに座っている事自体無駄になります。
床に寝転がって、ぼんやりしているように見えても、ちゃんと、頭の中で勉強していれば、そちらの方が数倍の能率を上げる事が出来るのです。勉強をする時の態度や姿勢ではないのですよ。

Beethovenや、歴代の作曲家は、Idea(ひらめき)を見つけるために、よく散歩をしていました。
曲の暗譜をするために、学校の登校下校の時に、楽譜を思い出しながら、登校下校させた事もあります。勿論、完璧でしたよ。ひらめきを見つけるために散歩していたのは、歴代の音楽家達だけではありません。勿論、このお話に登場しているエジソンさんも、散歩の途中でIdeaを得た・・というお話を何度もしています。


次に大切なお話は「時短」と効率化です。
一工程で済ませられる事は1工程で済ませる・・という事です。
日本の音楽教育の場合には、譜読みをして、部分練習をして、曲のimage(forteやPiano)を作ってから暗譜をして曲を仕上げますが、それを譜読みの段階で暗譜やimage作成を同時にlessonします。
日本人の音楽を学ぶ人達の殆どは暗譜が苦手な人が多いようなのですが、1小節や2小節、或いは1phraseを覚える事は簡単です。全曲を一遍に覚えようとするから難しいのです。
たった、1小節だけを勉強するのならば、全部の課題を一度にclearするのは簡単です。

「時短」は先ほど書いた指導の3原則と同じ事なのです。
弾けない原因と、どう演奏表現をしたいのか??を作るには楽器は必要ないのですよ。
芦塚先生が音大生の生徒達を指導する時には、喫茶店でCafeを飲みながら、生徒の楽譜上で指使いまで指導、lectureしていましたよ。それで一瞬で生徒が弾けるようになるから不思議です。・・というか、当然なのですがね??

生徒がどこまで上手になるのか??は、生徒自身の心の持ち様で決まります。
芦塚先生は『心の置き所』と言っていましたがね??
『心の置き所』とは、生徒が例え「proになりたい!」と言っていたとしても、日常では彼氏に心を奪われていたとするとproには成れる分けはありません。その生徒の心の置き場所が彼氏で占められているからなのです。
例え、proという言葉であったとしても、色々なproの範囲があります。
テレビ等で活躍する、所謂、芸能人としてのproや、solisteとしてのproもあります。

同じ音楽という言葉で片付けられても、趣味の音楽もあれば、仕事としての音楽、宗教としての、哲学としての音楽もあるのですよ。
それを同じ言葉で片付ける事は出来ません。

昔々、音大に入学した生徒から芦塚先生が相談を受けて困った、・・と言っていた話があります。
彼女の大学を卒業した後の夢は、「大学を卒業したら、solisteとしての演奏活動をしたい。」「伴奏pianistは絶対に嫌だ」「音楽教室等で指導するのはもっと嫌だ!」「音大の学生生活をenjoyしたい。」「彼氏も欲しい!」という希望だったのですが、この夢を総て叶えるのは、彼女の技術的には難しい!!

彼女が全てのEnergieを使って、大学の4年間勉強をすれば、solisteとしての活動をする事は、決して夢ではないのですが、それにには、「音楽大学での学生生活を・・」とか「彼氏が欲しい」というのは、練習の時間や心の持ち様的には難しいのですよ??

「音大の学生生活をenjoyしたい」とか、「彼氏が欲しい」と思うのならば、「音楽教室での就職」ぐらいしか可能性はないと思うのだけど、「それは絶対嫌!」ならば、その可能性もないよな??
結局、何年も決断出来なくて悩んでいたようなのだけど、その内に成り行きで、結局は、彼氏と半同棲をして、教室との関わりは無くなってしまいましたがね??
音楽大学を卒業と同時に結婚をして、音楽への夢は無くなったのだけど、それはそれで良いのかね??
それならそれで、料理や家事等を専門的に勉強すれば良かったのにね??
全てが中途半端・・というのが、現実なのだろうかね??

夢と現実が噛み合わなかった例なのですが、実際には自分の夢と潜在意識が噛み合っている人は幸せな人なのですよ。
芦塚先生もいつも、「ここは自分の居場所ではない!」と言っているぐらいなのですからね??

自分の潜在意識を詳しく知っていても、現実の居場所には住む事が出来ないのですよね??





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