[初めてのmemo]
そういったメモはあくまで大人が書いたメモを子供が読んでいるのに過ぎませんが、そこで初めて、子供達は、まず箇条書きの書き方を知ることになります。
子供達が、親や他の人達から手渡されるメモではなくて、自分自身でメモを取るようになるのは、学校に行くようになってから・・・、つまり「学校の授業の中で・・・」で、でしょう。
まだ長い文章がメモをとれなかったとしても、まずは先生の授業に持ってくる物のメモや、父兄への伝達事項などを、手短に自分のノートに書き取って、家に持って帰らなければなりません。
それが出来る学年(年齢)に達すると、今度は、先生が黒板に書いたものを自分のノートに移すということをさせられます。
本当は、学校の授業の中でも先生がお話をする事や、説明をする事などを、確実に学んでいくためには、その前に「メモを取る」と言う技術が身についていないと、いけないはずであるのですが、それなのに不思議な事に学校の授業の中では「メモの取り方」を学ぶ事はないのです。
先ほども言ったように、学校の授業の中では、先生が黒板にメモを書いて、それを生徒が丸写しをする、ということをします。
しかし、逆にそのことが、学校の先生達や父兄達にとっても、メモのとり方(要約の仕方)を学んだような(或いは、習ったような)気にしてしまっているのではないでしょうかね。
まず授業が始まると先生が凄い勢いで黒板に重要事項を書きます。
それを必死で子供達がノートに写している時に、先に黒板に書き終わってしまった先生は、その重要な注意事項の説明を始めるのですが、(大人でもそうでしょうが、)特に子供達の場合には、一生懸命ノートをとっている最中には、先生が何を話していても、先生の話は何も聞こえてきません!
鉛筆を動かしながら話を聞く、(同時に二つのことをこなす)と言う作業は、年齢が行って大学生になっても難しい事なのではないでしょうか?否、それは社会人になっても、難しい事なのです。
今だったら、コピー機や印刷機(輪転機)等で結構安くコピーすることが出来るので、「生徒達にノートをとらせる」という作業は、教育的には私はあまり必要性を感じません。
教室も以前は通常の業務用のコピー機と、理想科学という会社の印刷機(輪転機)を使っていました。10枚、20枚ならともかく、100枚とかだったらコピー機よりも1枚あたりの単価がかなり安くなったからです。
しかし、その後、コピー機自体のランニング・コストが下がってきたので、100枚印刷したとしても、枚数あたりのメリットがなくなってしまって、またおく場所もコピー機と同じスペースが必要だったので、処分してしまいました。
(リース代も1枚あたりのランニング・コストに反映されるから、1枚あたりのコストが安かったとしても、ランニング・コストではコピー機と変わらなくなってしまうのです。)
今のご時勢だったら、私が学校で指導される立場なら、「じゃぁ、最初から、コピーして、製本して配ってよ!」と言うかもね。いやな生徒だったからね!
だけど、今のようにコピー機がなかった時代、私がまだ幼かった頃だって、私はよくガリ版を削っていたよ。
今の子供達はガリ版と言っても分かりませんよね。
(小学生)
「あっ!おすしのつまみでしょう?」
・・・う〜ん、ちょっと違うかな??
(大学生)
「あ〜、トレーシング・ペーパーでしょう?」
・・・うん、よく似ているけれど、それとも違うんだよな?!
教員養成の大学のように、教員採用試験や国家試験等でそれ相応に必要なノルマがあるときには、メモを書くためだけに費やす授業時間は、教師にとっても学生にとっても、少ない授業時間の(年間、22単位ぐらいだったからね!)貴重な時間を浪費する、とてももったいない無駄な時間だったのですよ。(ちゃんと受験までに、そのlevelに達しておかなければ、受験すること自体が無駄になってしまいます。)
私が大学で授業を担当していた時にも、私自身が黒板に書いたとすると、授業時間をフルに使ったとしても、黒板に全部の内容をメモ書きする時間はとてもなくて、何人かの学生に頼んで、休み時間にあらかじめ書いておいてもらったりしました。
それでは、学生達はわずか10分間の授業と授業の間の休憩や、教室の移動のための時間、あるいはトイレタイムが取れなくなってしまうので、かわいそうになって、大切な重要なメモをB4の紙、数枚にプリントして学生に配ったら、今度は「紙代や事務員の手間が大変だから!」と、大学の事務局にすっかり怒られてしまいました。
子供が一番最初に出会う事と言う意味で、学校の話を先にしてしまったのですが、勿論、「メモを取る」と言う事は学校の勉強のみで必要なものではありません。
むしろ、日常の生活の中にこそ、その重要性があるのです。
メモとは一生のうちで、色々な所でつき合っていかなければならないものなのです。
私自身は30歳を過ぎる頃までは物忘れをする事は絶対にありませんでしたので、メモを取るという事自体をした事がありませんでした。
・・・ですから当然、メモのための手帳すら持ち歩く事は決してありませんでした。
しかし、寄る歳波には勝てず、30代の後半ぐらいからは、チョコチョコ物忘れをするようになって、60歳を過ぎた今ではちょっとした、たった一つの何かを買いに出かけるときですら、メモを書いておかなければ、何を買うか、忘れてしまうだけではなく、買う事自体を忘れてしまう事もあるようになってしまいました。
私は昔、教室で特別lessonの中学生、高校生の生徒達の指導をしていたときに、「芦塚メトードにおける楽典」を指導する・・いうことで、必然的に「メモのとり方」のlectureもよくやりました。
生徒達が余りにも、メモを取るのが下手で、「書く」という習性すら無かったからです。
しかし、それを指導している張本人の私が、「メモを持ち歩く」という習性がないのですよ。
いや〜、困った!困った!
書いたメモを持ち歩かないのでは、メモを取るという本来の意味すらないからね!
このメモにかんする論文の中で、所謂、筆記用具についてのお話が全く書かれていなかったのは、チョッと問題なので、新たに追記する事にしました。
筆記用具には、鉛筆とシャープペンとボールペンと万年筆があります。
勿論、日本の筆や、マジックや、ポスターカラーとか、製図用のカリグラフィーペン等もあって、教室でも音符を書く時に生徒達に指導して来たのですが、それを言い出せば限がないので、今回は、学校教育用の延長という事で鉛筆とシャープペン、ボールペンに限定してお話を進めて行くことにします。
日本の学校教育では、筆記用具は原則として鉛筆か、シャープペンシルのみで、ボールペンや万年筆では、消す事が出来ないので、逆に、先生に怒られてしまいます。
つまり、日本の学校教育では「消す」という事を前提に指導するのですよね?
ちなみに、シャープペンシルと言うのは、日本のシャープという(今では超一流の大手の)会社が開発したボールペンと鉛筆のハイブリットであり、ヨーロッパやアメリカではこの筆記用具はお店では売られている事が非情に稀だし、ヨーロッパの風土には馴染みません。
そのために、日本では不思議な事に、「消せるボールペン」と言うのさえ、売られているようで、私は、理解に苦しみます・・というか、それってブラック・ユーモアなのかな??
消せないからボールペンの意味がある分けなので、消せるのならばボールペンである必用すらないからですよ。
間違いを残す・・という事は、研究する人間に取っても、勉強する子供達に取っても、とても大切な事です。
人間は、間違いから多くの事を学ぶのですからね??
日本の常識は、世界の非常識・・という言葉はここにも歴然とあって、ヨーロッパやアメリカの小学校では、3年生ぐらいからは、ボールペン、若しくは万年筆しか認められないのです。
それは、ヨーロッパやアメリカでは、子供が何をどう間違えたのか??を非情に大切にするからで、間違えて書いた場合には、取り消し線か、斜線(スラッシュ)で間違えた文字(文章)を消して、正しい答えを書くようにします。
ノーベル賞なみの研究でも、失敗から産まれたものだ多いのです。
エジソンの弟子が「また、失敗した!」と言った時に、エジソンは、「この方法では出来ない・・という事が分かったのだから、失敗ではない」と、弟子をたしなめた、という話があります。それは全く正しいのです。
また、同じ事をして、3回、失敗して、4回目に成功したとすると、その成功と3回の失敗は何が違ったのかを探すのは難しいのですよ。
しかし、日本ではそういった慣習が全く無いので、楽典やlessonは、教室では「消しゴム禁止、ボールペン禁止」と教室開設以来言い続けて居るのに、殆どの子供達が、未だに、シャープペンで書いているのは困ったものです。
楽典のlessonの後で、小学生の生徒が一生懸命に間違いを消しゴムで消して、正しい答えを書いて赤鉛筆で、丸を付けていたので、「消しちゃあ、ダメだよ!」と、注意をしたら、「全問正解でないと、お母さんに思いっ切り怒られてしまうし、ご飯も食べさせて貰えない!」と言っていたので驚いてしまいました。
確かに、その生徒のお母様は、それぐらいに怖いお母様なのですョ!!
その子供の幸せのために、その生徒が消しゴムで書き直しているのは、黙認する事にしてしまいました。
親が子供に完璧を望む気持ちは分かりますが、勉強途上の子供が完璧にミスなく育って行くはずはありません。
もし、そうなら、親は常に小さな子供の頃から、100点満点で育って来たのですかね??
常に全問正解なんて、そんな教育は嘘です。
子供達は間違えて育つのですがネ。
教室では、生徒が間違えても、叱ることは絶対にありません。
それよりも、間違いには、良い間違いと悪い間違いがあります。
だから、子供が間違えたとしても、その間違いを褒める事すらあるのですよ。
そこの所が分かっていないと、子供達の指導は出来ません。
Pianoやviolinのlessonでも、鉛筆は或る程度柔らかい2Bや3Bでないと、書くのは難しいのですが、特に、
書き取りのスピードが必用な聴音では、殆どの音楽大学でも、鉛筆は2B以上4Bまでと指定されています。
私達の教室でも、筆記用具に関して、再三、子供達に言い続けているにも関わらず、教室の聴音の時も、殆どの子供達が学校で使用しているシャープペンをそのまま使用しています。
HBでは、速度が必用な書き取りでは、芯が折れたり、音符(玉)が消えたりします。
つまり、或る程度の筆圧の柔らかさと、速度を出すための、芯の強さが必用だからです。
私は、楽譜用(五線紙用)には、には、三菱のhigh-uniの2Bから4Bを使用します。
これは、世界中の五線紙に音符を書く音楽家達の共通だと思います。
だから、教室ではシャープペンは使わないので、教室には置いていないはずなのですが、子供達が片っ端から忘れて買えるので、教室には山のようにシャープペンが貯まってしまい、半年に一回の割で処分しています。
教室の先生達が、シャープペンを使用する事はないからです。
しかし、lessonでは、楽譜を見て、一瞬で、読めないと(判断出来ないと)いけないので、もっと太い赤鉛筆や、トンボのデルマトグラフ(剥き鉛筆)を使用します。
昔のワープロでは、印刷を感熱紙にしていました。
しかし、感熱紙は、1,2年で印字が薄くなって読めなくなってしまいます。
ワープロの時代は、印刷もままならなかったので、当時の大切な資料は劣化して使用出来なくなってしまっています。
日本の学校教育ではmemoの取り方を指導しませんが、それは学校ではシャープペンを使用する事を推奨している・・という意味でもそのconceptが理解出来ます。
学校教育では、鉛筆の芯を研ぐ・・とか、替えの鉛筆を何本も準備する・・という事よりも、シャープペンならば、ノックをするだけで、芯が出て来るので、替えの鉛筆の準備は必要ないので、折れても即対応出来るという利便性がある・・という事だけなのです。
しかし、ノートを取るという事、所謂、notationとは、notice・・つまり、注意する、警告するという意味すらあるのです。
notationとは、後日、それを必要とするから、notationをするのです。
右側のmemo帳のコピーは、教室の生徒が、自分のシャープペンでメモをしたmemo帳を業務用のコピー機でコピーした例です。
これでは、何も読めないのだけど、元のシャープペンの文字自体が、私には読めないぐらい薄いので、業務用のコピー機で、コントラストを最大に強くしてコピーしたものですが、それでも読めません。
つまり、今の子供達は学校でメモを取ってもそのメモを読み返す・・・・という習慣が無いからなのですよ。
自分の書いたメモを、読んでごらん??
と言っても、自分が何を書いたのか分かりません。
薄くて、読めないからです。
ならば、何故メモを取るの??
つまり、先生に「書け!」と言われたから書いたに過ぎません。
私ならば、読み返さないメモならば、最初から書きません。
無駄だからです。
メモの本来の意味は、自分が忘れた時にパッと思い出せるようにするためのものです。
大人になって、社会人になると、そのメモは、自分だけのものではなく、人に読ませるためのものでもあります。
自分が或る程度、時間が経って、読み返したり、人に見せたり、コピーをしたり、Faxをしたり・・・するためには、ボールペンであったとしても、或る程度の芯の太さが要求されます。
私がボールペンを買う時には、コピーをした時や、人に読ませるために、読みやすいように、ボールペンの軸の太さも決めて、他の人達にもその芯の太さの軸を買うように勧めています。
日本では、学校教育が基本なので、0.7ミリが主流なのですが、美しくはあるのですが、文字が細すぎて、私のように目が弱い場合には、読む方としては、かなりストレスが多いので、仕事としてボールペンを使用するのなら、通常は中字の1ミリと太字1.2ミリ、超太字の1.6ミリをお勧めしています。
筆記用具には、色々な用途に応じた筆記用具があります。
その中でも不思議な鉛筆は、コピー機にかけても、コピー出来ないnon copy pencilの・ようなものもあります。
DVDやBlu-rayのdiscに直接文字を書く事は、通常のボールペンでは難しいのですが、写真やdiscに直接書くための写真ペンというのもあります。
(本来は写真用紙に書くためのペンですが)
物書きや漫画家等の『書く』という作業が仕事の人達は、それこそ筆記用具だけでも、何百本も机の上に置いて描き分けています。
道具を正しく使用出来るようになる事は、仕事の勉強の第一歩なのですよ。
道具の選び方は、「勉強をただの無意味な見せかけの勉強」にしないように、それが将来的に本当に役に立つ勉強になるようする事が必用なのです。
その一歩が筆記用具を正しく選ぶと言う事です。
でも、学校では、皆がシャープペンを使うから・・・・、と言って、いつまでも、本当の勉強の体勢に自分を持って行け無ければ、何も始まらないのは、自明の理でしょう???
下の鉛筆はコピーが出来ないトンボのnon copy pencilです。
ボールペンの芯のサイズは、普段は、基本的に、1ミリから、1.6ミリのサイズのボールペンを使用しています。
しかし、会社の契約書類のように極端に小さな文字を書く事が必用とされる場合には、5ミリの持ち手(軸)の太いボールペンをその為だけに、鉛筆立てに入れています。
契約書類は読むことを必用とはしないので、それだけ文字が細かいのだそうです。
文字が大きくなると、それだけ真似がし易いのだそうです。このcomputerの時代に、契約書だけは、信じられない事に、未だにアナログです。
人が生活をしていく上で、必要不可欠なメモではあるのですが、当然学校等で決まった定型のメモの取り方などを習った人はいないので、人によってメモの取り方はまちまちです。
項目だけを@・・・、A・・・・、と書きあらわす人や、あたかも文章を書くように、緻密に書いている人等もいます。
一般に、メモを取った経験がない人達にメモを取る事をお願いすると、言った通りに細かく書こうとして、言われた内容を書く事が追いつかず、結局、メモを取る事が出来ない人が殆どです。
メモとは、買い物メモのように、物忘れを防止するための覚書のためのメモ・・・というだけではなく、仕事メモのように実利的なメモの他に、、論文等の長い文章を書くときにも、「どういった事を、どこに書くか、」といったようなラフなレイアウトを作る時にも、非常に重要な役割をします。論文や長い文章を書かなければならない時のメモ等、あらゆる用途に必要な重要なアイテム(item)なのですが、不思議な事に、学校教育等で、メモの取り方のhow-toを学ぶ事はありません。
その大きな理由は、メモという言葉のimageから、単に覚書としての、意味しか、考えていないからなのです。
私達、音楽家にとっては、Beethovenの時代から、Richard StrausやIgor Stravinskyに至るまで、緻密に音符の断片をメモをして、大曲を作って行くので、音楽のメモ書きは、作曲に取っての重要な要素になります。
一つのthema、所謂、メモを展開して行く技術でもあるのです。
日常のメモ書きとは違って、作曲技法のメモ書きの手法なのです。
そういうふうに、メモを正しく取れる・・という事と、正しくそのメモを活かして、使って行ける・・という事は、一般の人達が思っている以上に、仕事をする人達にとっては、仕事が出来る人と出来ない人の分かれ目になってしまうのです。
つまり、正しいメモの取り方を学ぶ事は、人生の分かれ目になるのかも知れません。
歴史に名を残す偉人達もメモ魔であった事については、とても有名なことなので語るまでもないでしょう。
有名なダ・ビンチの鏡文字や、そこいらにある紙に何でも書き散らかしたBeethovenやSchubertのメモは、今でも出版されていて、誰でも読むことが出来ます。
勿論、Beethovenの書き散らかしを集めた「卵をメイドに投げつけた」とかという「文庫本の話」はさておいて、ノッテボームと言う人の作品の反故を集めた上、下2巻の研究書もあります。
(ひょっとしたら日本語訳の本は絶版かな?私は日本語版で、上下、2冊とも持っているけれどね。)
そのほか、新しいものでは、ストラビンスキーが「春の祭典」を作曲するにあたっての、スケッチ集のファクシミリ(手書き草稿の写真版)は、私が最も大切にしている書物(facsimile)の中の一冊です。
また、Schumannの子供のためのPiano曲集の手書きのsketch(勿論、facsimile版)も、持っています。
私も、若い頃は(青年時代の殆どは)まだパソコンはおろかワープロさえない時代でしたので、メモはBeethoven同様にそこらにある紙に書き散らかしていました。
私が日本に帰ってきて、再び東京に住み始めた当時は、コピー機も業務用しかなく、(コピーをするのにコピー屋さん迄、いちいち出かけて頼んでコピーしてもらわなければなりませんでした。江古田にも、当時は沢山のコピー屋さんがあって、仕事をするには、とても便利な町だったのですよ。)
コピー専用の厚紙もそれこそ売ってすらありませんでした。コピーもお粗末なもので、指でこするとガリガリと粉になって落ちてしまう代物でした。文字が盛り上がって紙にくっついていただけなのだよ。
しかし、私が再び日本に帰って来て、東京に住み始めるようになる時よりも、6,7年前の音楽大学の学生時代はそういったコピー機すらなくて、設計用の青写真のように青い専用の紙に焼いていたのです。
ページあたりの単価も非常に高く、お粗末で使用に耐えなかったので、今では、その頃の紙は資料としても1枚も残っていませんがね。
と言う訳で、厚紙の代わりに、画用紙に楽譜をコピーする事を業者にお願いしていました。
それで菊倍判の楽譜と画用紙のサイズでは大きさがだいぶ違うので、端切れが大量に出ます。それを「A4、30穴」に穴を開けて、分類をして、そこにホッチキスで端切れを止めてfileしていました。
勿論、市販のビニール袋のfileも活用しましたが、file自体が高かったと言うことと、仕事が終わったら、そのままポイと破って捨てられると言う事もあってビニール袋型のfileや、当時の情報の処理の草分けであった京大型のシンクボックスのtypeよりも、機能性と言う面で厚紙の端切れの方が私に取っては情報処理の仕方としては、使いやすかったのです。
捨てる端切れという事で、お金もかからなかったしね。
京大方式のメモのセットです シンクボックスの中の分類(京大カード)
若い青少年にとっては、恋文を除いたら、長い文章を書く事は、大学の論文やレポートしかないのかもしれません。
私が音楽大学の学生時代にクラスメートの女の子に恋人が出来て、毎日のように美しい便箋にラブレターを書いていました。
みるみると、その女の子は字がきれいになっていって驚いてしまいました。
恋人に書く手紙は最大級に美しく書くのでね。
携帯もmailもない時代のお話でした。
ところが、今現在では、その愛しい人に書く、恋文でさえ、今日の若者にとっては手軽な携帯電話で済ませると言う事の方が多いと聞いています。
つまり、今の若者にとっては、長い文章を書くと言う機会はまったくないのかもしれません。
我々の世代では、うら若い女の子の文字が突然綺麗になったら、それは恋人が出来たと言う事でした。(恋文は丁寧に書くからね。)それが各家庭に電話が入ってきて、手紙の代わりに電話で済ませるようになって、それから現代の携帯電話となると、確かに文章を書く必要はなくなるよね。
それに、恋愛自体も、昔のように情緒的でウエットなものではなくなって、もっと、ドライで即物的な遊びの延長上の話のようにしか見えません。「キスより簡単!」ってね??
あかねさす紫野行き標野行き野守 は見ずや君が袖振る・・なんて、ウエットな女性は、もう考古学的な存在になってしまったようですよね。
「でも、メールも文章なのでは?」
それは、ちょっと違うね。
メールは会話なので、文章を自分の力で構成する事はないのです。
だから、文章を書きつけていない人のメールは、兎に角、短い!
一例を上げると
今日は元気?
元気!
今何してるの?
メール、打っている!(^−^)
そりゃそうだろうよ!(>v<)
・・・てな具合かな!
一般には、文章力は、才能であるかのように言われています。
しかし、学校で作文の授業はあったとしても、文章を書くためのノウハウを指導してくれる事はないので、殆どの生徒が、暗中模索状態で文章を書いています。
才能は努力と学習の結果なのです。指導も受けた事がない子供達が、「才能がない!」の一言で片付けられては、たまったものではありません。
私達の教室は、巷の音楽教室に過ぎません。芸大の教授達のように、音楽を職業としたい生徒達が全国から集まって来るわけではありません。
近所の子供達が、学校教育の合間に、趣味の一貫で習っているのに過ぎません。
親も子供も、音楽の方に進ませたくって、全国から集まって来る分けではないのです。
しかし、私達の教室で育った多くの生徒達が、実際に音楽の現場で活躍しています。
芸大の教授達と比較しても、凄い%なのですよ。
つまり、才能とは、「好き」と「正しい指導」の結果に過ぎないのですよ。
しかも、「好き」も、正しい指導の結果なのですよ。
ある時に、教室の講師になるために、面接に来た音大生に、「私達の教室は、巷の音楽教室なので、子供達が音楽が好きになるように指導して欲しいのですが。」と、言ったら、その女の子が、怒り出して「音楽は楽しいものではありません。」と、言い返して来ました。
私達は、「私達の教室は、巷の音楽教室に過ぎないので・・」と、慇懃丁重にお断りしました。
楽しくもない音楽の演奏を聞かされる方は、幾らピアノが上手でも、たまったものではないよね。
音楽大学に入学するために、嫌々ながら、先生に怒鳴られながら、必死に勉強して、コンクールを目指して、留学して、日本に帰って来て、自費で音楽会を1,2回開いて、そして、「音楽家でございます。」なんて、言われてもね〜ぇ???
ましてや、小学校の先生達のように、メモの取り方も、指導もしないで、文章力を評価するのは、無知の成せる業なのですよ。アハッ!
さて、私がこの無駄話を長々としたのには、一つの理由があります。それは多分、コクヨのカタログだった思いますが、そのfilingのページに、「ある大手メーカーの社員が書類を捜すために、3分の時間を費やすとしたら、年間の損失は幾らになるか」という試算がしてありました。それは それは国家予算的な、天文学的な数字になるのです。
fileの上手下手というのは、家庭での物のしまい方にも現れます。
私の知り合いで物をしまう事がとても上手な人がいます。
しかし、彼女のしまい方の欠点は、一度しまったものが、必要な時に二度と出てこないのです。
彼女なりに工夫して、しまう場所にメモを書いて貼って置いたり、しまった物の地図を書いたりしているのですが、必要なときにそれが何処にしまってあるのか、どうしても分からないのです。
それとは反対に、高校生の時に、僕の友人が住んでいる下宿に遊びに行った時です。
彼の部屋には、本が乱雑に散らかっていて、床が見えないのです。
「どこに寝るのか?」と聞くと、本を掻き分けて「ここだよ!」と言うと、本の下から布団が出てきました。
「菓子を食うか?」と言って、足元の2,3冊の本をどけると、ゴキブリと一緒にお菓子が出てきました。
彼にとっては、その乱雑な何処に何の本があるか全部分っているのでした。
彼にとっての一番迷惑なことは、年に何回か母親が尋ねてきて、彼の部屋を徹底的に掃除することです。
彼の膨大な蔵書が何処に何があるのか分からなくなって混乱してしまいます。
また、最初から覚えなおさなければならないのです。
そういったことは、私も似たようなもので、当時は人に本の事を尋ねられると、「何段目の棚の左から何冊目!」と正確に答える事が出来ました。
但し、ちょっと彼氏と違うのは私の場合には、本棚の中での話ですから、部屋が散らかると言う事はありませんでしたがね。
今現在は、私の膨大な蔵書はともかく、楽譜は教室の先生達にオープンしています。
と言うよりも江古田の教室の本棚にあります。
そのために、何処に何を直すかと言う事を細かく決めているのですが、先生達がなかなかちゃんと元の場所に戻してくれないと言うことなのです。
そのために楽譜がよくなくなってしまいます。ピアノやヴァイオリンのソロの曲と違ってアンサンブルやオケの曲は1冊が何万円もします。
2冊もなくなってしまえば、私の1、2ヶ月分のお小遣いがなくなってしまいます。
例の通り、30代の後半からは、教室を作ったので、自分ひとりのためにではなく、他の人も私のfileを探せるように、「何関係の本は何処そこへ」とか、「何関係の資料やfileは何処のfileboxにしまう」とかきちんとしまっておかなければなりませんでした。
私にとっては当たり前のこの作業が、「意外と一般の人達には出来ない」と言う事が分ったのは、ずいぶん後のことです。
物をしまうときに「それは何関係のfileにしまった方が、最も効率が良い」と言うことを考えなければならないのです。
単純に「これは何だから何処にしまおう」と思ったら、本当に必要な時には2度と出てこなくなります。
必ず、使う時の事を考えてしまわなければならないのです。先程の二度と出てこない人のfilingのTitleの付け方は教科書的であり、使う立場での書き方ではなかったのです。
一つの資料であっても、それを使うときには色々な角度からアプローチします。それを見越して、Titleを付けなければならないのです。
しかし、分類を決める事は容易なことではありません。
まして日常にどういう状態でそれが必要になるかは、事前に判断する事は難しい。
私の場合にはその場合はまず大きく分類します。
論文用のメモ、とか買い物メモです。(所謂、仕事とプライベートです。)
買い物メモには、毎日買いに行ける江古田の買い物と、意を決してお出かけしなければならない買い物があります。
それを池袋の買い物、電器量販店での買い物、などに分類します。
私の場合には、体が中々動かないので、買い物に行く事もままならないので、仕事の内容で纏めるのではなく、体の動きでまとめています。つまり、江古田周りで済ませられる買い物と、池袋迄、わざわざ電車に乗って行かなければならない、買い物です。
そうして、買う物が溜まるに溜まって、或いは、どうしてもtimelimitがあって、保留にする事が出来ない買い物の場合には、諦めて池袋まで行かなければなりません。そういった時に、池袋の買い物をまとめて、買い物のために、池袋に出かけます。でも、体力が無くなってしまって、途中で帰って来る場合もあります。
timelimitがある場合には、代わりに先生が池袋まで、出かけてくれるのですが、やはり、池袋迄出かけないといけない買い物は、難しい事が多いので、何度も買い直しのクレームに行き直して貰う事も度々です。
やはり、自分で出かけないとね!
論文の仕事に取り掛かるか否かも、メモが決定します。
メモが少なくて、論文を書いても情報が足りなくて或る程度迄しか書けない間は、論文を書くだけの時間が出来たとしても、論文には取り掛かってはいけません。
そのときには、充分に準備の出来ている他の作業をすれば良いのです。
私の場合には、仕事の論文を、更に、教育関係の論文と音楽関係の論文に分けます。
(仕事上の論文という言い方は、私にとってmemoは、仕事以外のプライベートの雑談やエッセイ、小説、詩等に関する反故もたくさんあるからです。)
最初はあまり細かくは分けないで、それぐらいざっくりと大きく分けた方が良いのです。そうして、メモが纏まって来るのにしたがって、項目をより小さくしていくのです。[1]
そうすればmemoがたまった量によって、何の論文だったら書けるのか、自ら決まってくるので、「出来もしない論文に挑戦をする」などと言う無駄な努力をしないで済みます。
メモを上手に活用するには、大きく二つの事を学べば良いのです。
一つ目は、この論文の課題であるメモの取り方と、二つ目はここではあまり詳しくはアプローチはしませんが、そのmemoを何処にfilingするかの仕方です。
メモは、メモしただけでは何の価値もありません。
いつどのような場所でそのメモが必要かで、そのメモの分類が決まります。
必要な時に、即、呼び出せるか否かで、そのメモの価値自体が決まります。
その呼び出し方(分類の仕方)は、芦塚メトードでは、芋づる式(ツリー構造)記憶法を使用します。
(記憶について:参照)
芋づるには、根っこの本体である蔓の部分と所謂髭と呼ばれる部分があります。
MemoのTitleは髭の部分で名づけてしまうと、そのTitleの関連のときにしか探すことが出来なくなります。
ですから、memoを書いたらそれが何に属するのかその根っこ(茎となる部分)を探して、そこに属させるとよいのです。
思い出すときには、それが何について書かれたものかだけを思い出せば、それが分類されたfileを簡単に見つけ出す事が出来ます。
大本の根っこが二つ、三つに跨る場合には、それぞれに同じmemoをコピーして置いておけばよいのです。
きれいに分類する必要はないのです。
如何に有効に活用できるかがもっとも大切だからです。
メモ(memo)とは、英語のmemorandumの略である。
英語のmemorandumと日本語のメモの意味は大差はない。覚書であり、手控えなので、箇条書きで思い出せればよいだけである。
先ほども述べたように、メモはそれを控えるのに時間がかかっていてはメモの意味を成さない。
「如何に早くメモを取れるか?」が勝負どころである。
私はそういった意味では、文字を書く事自体が苦手で、項目だけを、丸付き数字で箇条書きにして書き表すtypeであったのだが、それですら(鉛筆を走らせる事自体が)非常に遅く、その頼みの綱の箇条書きをする事でさえ、講義の速度に間に合わないで終わってしまう事がよくあった。
そういった差し迫った事情から、私は大学生の時には、少しでも自分のメモを取る速度を上げるために、自己流の略記法を考案した。[2]
最初考えた方法は、固有名詞の単語を冒頭の音と末尾の音をアンダーバーで結んで、書くという方法である。例えば、楽譜と言う単語はが ふと書く。芦塚音楽研究所のような長い単語は、文節ごとに頭文字を取って、あ お け ょと書いた。後年、この略記法を教室でも生徒達に指導していたのだが、その頃やっと身近になってきたワープロやパソコンのワードを使用するようになって、この方法がそのままワードに応用できる事に気がついて、(ワープロの場合は100文字ぐらいしか単語登録できないのだが)応用する事にした。しかし、親指シフトのワープロと違って、ローマ字変換のワードでは、兎に角、誤変換が多い。
と言う事で、それまでの私の作った変換のルールの一部を変更して、単語の漢字の冒頭の音節のローマ字の部分だけを子音で表す事にした。
例えば、「先生」と言う単語は、「先、と、生」の音節なので、sen-seiの冒頭の子音を取って、ssと打つと「先生」と変換されるようにした。当然、「生徒」は、「sei-to」の2音節なので「st」と打てばよい。
また、使用頻度によって、非常に優先度の高い1文字で変換される単語、例えば「w」で「私」とか、「p」で「ピアノ」とかの変換と、次の常用単語を、1文字で変換される単語、先ほどの「ss」「st」とかの単語は次のグループなので、2つの子音で変換されるようにした。
「生徒達」や「望ちゃん」のような、「生徒」という単語と「達」と、或いは「望」という名前と「ちゃん」という尊称と、二つの語が合わさっている単語は「達」や「ちゃん」をそれぞれに「tc」「c」として、任意に組み合わされるようにした。
「駐車場」や「高校生」のように漢語が三つ以上に渡るものは、「駐と車と場」「高と校と生」の漢字の頭の音を採って「c、s、j」とか「k、k、s」と単純に決めた。先程の「芦塚音楽研究所」のように非常に長い単語なども、「芦塚と音楽、と研究所」の三つの頭文字を取って、3文字でそれぞれ「aok」等と書き表した。
これ等はあくまで、如何に思い出しやすいかの一点から導き出したルールである。しばらく、使わなくて、思い出す事が出来ない単語登録や、当てずっぽうに打っても、出て来ない単語登録は、当てずっぽうの文字に変更した。何も考えなくても、打てば変換されるのが理想であるからだ。
必要のない人名や単語は削除を頻繁にする。必要な時にもう一度、入れ直せば良いだけだからである。
また、「教育」のように、k,I,と打つと「き」と変換されるような単語は「ky」と打つことによって、誤変換を防いだ。だから、「勉強」は「bky」となる。
近頃は、子供の名前なども、凝っていて人名事典を引いても出てこないものが多い。一般で変換できない人名は、利用頻度によって、そのまま単語登録するか、子音だけの略語で登録するかを分けている。
また、間違いやすいドイツ語や英語の単語、音楽用語等も単語登録して、綴りのミスを防いでいる。
同様に半角英数の文字や無意味な音節の羅列であるメールアドレス等も単語登録をしておくと間違いがない。(mrad1〜3⇒変換で各教室のメルアドが出る。セキュリティの数字キーも同様である。)
変わったところでは、常用句と言うのであろうか、例えば「に対して」も,「ts」とか「しました。」を「s。」とかで省略した。文末には必ず出てくる定型句であるからだ。
文末の定型句「する。」が敬語になって「します。」なら「m」を足して、「sm」と打ちます。
「ます。」だけなら「m。」です。
過去形は「た」ので、「t」を足して、「しました。」ならば、「smt。」で「しました。」と変換されます。
そのセオリーを覚えれば、単語登録自体を覚える必要はないのです。
(以下、より詳しく知りたい方は、「芦塚メトードによる単語登録の作り方」を参照の事:)
音楽のlessonを受ける場合には、先生の指導されている諸注意を、いちいち細かく楽譜に書いていては、その都度lessonが中断されてはなはだよくない。
立場を変えて、先生の立場でも然りである。
そこで(これはあくまで)私の場合の例なのだが、初級の場合には、一回のlessonではcheck箇所は2,3箇所であり、且つ、子供は私達と一緒に練習をするので、そこで改めて子供達は練習のfeedbackが出来る。
生徒がよく分かっていなかった場合でも、その時点で先生が細かく説明する事も出来るし、忘れないように書くこともそこの時点で(lessonのfeedbackの時に)出来る。
問題は中級や上級の場合であるが、時間と指導の箇所がとても多くなって、細かく説明が出来なかったり、指導のためのcheckの箇所を指摘するだけで、目一杯の時間になることが往々にしてある。
そういった場合には、私は楽譜に問題の箇所を色鉛筆でcheckし、(色がその問題の意味を表す。)後は、次回までに修正してこなければならない箇所を(@、Aのように)丸付き数字で表す。
具体的に例を上げれば、Pianoの練習の場合には・・・
楽譜を覚えていない場合@AB
指使いCDE
指が回らないFGH
等々です。
買い物memoならば、
江古田の自宅付近の買い物
池袋周り
そのために出かける必用のある買い物
ただ単にメモをするのは、芸がないので、携帯で自宅のパソコンにmailでメモをして件名に買い物memoと書いて送ると、outlookの中で買い物memoのfolderに自動的に入ります。
後は、フラグを設定して、timelimitを付ければ総て自動でcheckされます。
上級のlevelになると、指摘する箇所が20箇所とか50箇所とかになる事すらある。
しかし、そのlevelの生徒達は、丸付き数字だけで(或いは色文字だけで)自分が何をどう間違えたか、そして練習の内容や方法などを理解できる。
それはそれまでのlessonの積み上げで練習法やcheckのpoint等がマスターできているので、事細かく指示する必要はないからである。
最終的にはいかなる状態であろうとも、まず最初の一歩は本当にシンプルなものからはじめなければならない。
この丸付き数字の練習法、或いは色鉛筆の練習法は、昔々、始めて親に頼まれて、お買い物に行く小さな子供が、親から指に紙縒り(こより)を巻いてもらって「小指と薬指の買い物は済ましたから、後中指の買い物は何だったっけ?」と考えているという、日本の昔ながらの記憶法の発展した形なのだ。
こういった記憶法の事を、(2014年の今現在では心理学の世界では、アルツハイマー症などに効果的な方法と立証されている方法でもある。)芋づる式記憶法(と私は呼んでいる)の最初の一歩なのだが。
拠所(よりどころ)さえちゃんとあれば、記憶を呼び覚ます事の出来るという、最も簡単な記憶法でもある。
その拠り所は、自分に都合の良いもので良い。
話が長くなりましたが、文章を書いていて、ある程度内容的に文章が出来上がってきて、長くなってしまった原稿を、清書の前に一度そのまま書きとるというめんどくさい作業、(どうしても、文章にする前に一度この作業をしなければなりませんが・・・)こういった作業には芦塚メトードの速記法が大変に役に立ちます。
ちょっとした慣れだけで覚えられて、読み取りもそのままパソコンに向かえば、原文に戻るからです。
メモの取り方の第二点は、これは経験が必要です。
メモの取り方のコツは、本来は小学校、中学校、高校で、そういったメモの取り方を学ばなければならないのです。
何故ならば、普段の授業で、メモを取る技術があるか否かでは、生徒の成績に直に影響して来るからです。
しかし、「メモの取り方」に限らず、現在までの日本の学校教育では、本当に社会に必要な実用的な教育は一度もなされた事はありません。
ですから、社会で仕事をするのに必要な、そういった技術が全くないままに、若い人たちは社会に巣立って行くのです。
学校の評価では、秀才で通した真面目な生徒達が、社会に出た途端に、自主性のない判断力のない、大人子供として評価されてしまいます。
本人は親の教え、先生の教育をちゃんと守って、言われる通りにやって来て、「良い子」として、育って来たので、社会に出ても、上司の言う事を聞いてその通りにやっているつもりなのに、何故批判されるのか、その理由や、原因が全く分からないので、困ってしまいます。その結果、人生に行き詰まって、ニートや引き籠もりになってしまいます。
社会適応が出来ないのですよ。
経験が必要なこの方法とは、話を要約する(所謂、箇条書きにする)という手法です。
しかし、箇条書きされ、要約された話は、元の話の細かいニュアンスはともかくとして、大まかなアウトライン上では必ず復元されなければなりません。
アウトラインが変わってしまっては、全く違った内容の文章になってあいまって、それでは「要約をした」とは言えないからです。
メモを取ることが出来たとして、そのメモ通りに行動したとしても、その構造が理解出来ていなければ、オーダーに応えた事にはなりません。
教室でも、私が注意した事を「ちゃんと言われた通りにやったのに先生に怒られた!」と泣きべそをかく生徒がいます。
でも、私にとっては、言われた事を守ってやってくれていないのです。
そこのボタンの掛け違いなのですよ。
学校等でも、本などを読んで、要約する場合には、何度も本を読み返して、作者の意図を熟考することが出来ます。
よくある「あらすじ」とは、意味が少し違います。
作者の意図を汲み取って、その内容を要約する事なので、「あらすじ」とは直接は関係ありません。
本は、何度も読み返す事が出来るので、ポイントをはずさないで要約することが出来ます。
しかしながら、現実の社会生活の中での箇条書き作業は、初めて聞く話を頭で理解しながら、それを箇条書きして行くという作業をしなければなりませんので、そこにはある程度の経験と慣れが必要になってきます。
理解出来ないからといって、何度も聞き直してしまったら、上司から怒鳴られてしまいますし、それが嫌だからと言って、自分で、適当に思った通りに自己流に直してしまっては、ヘタをすると首になってしまいます。
そういった経験のない学生にとっては、「どうすればよいの??」という世界ですよね。
現実に、普段のlessonでは、そういった問題は起こりませんが、「江古田詣」の生徒にとっては、それが日常なのです。
「江古田詣」はproとしての仕事を覚えるための勉強だからです。
その勉強の仕方は、私の教室では、インスト予備軍の中、高生達にフローチャートの書き方としてlectureしています。
フローチャートは図式の箇条書きだからです。
それと練習をさせる課題が、本人達が一番身近なもので、練習する事が出来るからです。例えば、美味しい紅茶の入れ方のフローチャートとか・・。
生徒達が何気なく毎年作っている、発表会の進行表は、そういった作業の全てが入っています。(勿論、進行表を見て動く事ではなく、進行表を作る事にですが・・・)
大切な事は、一つ一つの言葉を聞いて、それを忠実に守って仕事をしたとしても、ダメなのです。
以前に習った事の上に、ちゃんとツリー構造として、積み上げて守って行かないとダメなのですよ。
積み上げが出来る人と出来ない人は、全くの別の人種になります。
単純に守って仕事するのと、ツリーの上に組み立てて行くのでは、全く別の結果が出るのですよ。
メモのまとめ方
外国の映画などを見ると、自分の書斎にあたかも図書館のように本が整然と並んでいます。
私も高校時代にはもうすでに約6000冊から1万冊の詩や小説等の本を持っていたので、本棚にどういう風に収納するかが、一つの課題でした。
それで、映画を見習って、本のサイズ別にしまってみたのですが、見た目はとてもかっこいいのですが、何せ使いづらい。
本の分類別に収納すると、使いではとても良いのですが、見た目にはとても乱雑に見えて格好良くない。(しかし、やはり本は活かさないと意味がないので、乱雑でも使いやすいようにする事にしました。)
それで、映画に良く出てくる書斎の蔵書は、実用的ではなく、ただの飾り(インテリア的なイメージ)かな? と、把握していました。
しかし、そういったかっこいい蔵書の収納も実は、機能的であったと言う事を、ヨーロッパに留学して、初めて知ることになります。
アメリカの女の子達は本を剥き出しにしてベルトで締めて、よく道端の上で本の上にお尻を乗せて休んでいます。
私の友人のアメリカの女の子もご他聞にもれず、書物に関する意識は低いようでした。
古いタイプの日本人である私も、或いはヨーロッパ人もそれだけは許せない行動です。
私が留学中には、日本に居た時と同様に古本屋を訪ねるのがとても楽しみでした。
そしてドイツの古本屋のオーナーのお爺さんに、古本についての色々な事を教えてもらいました。
昔のヨーロッパでは本はとても高価で貴重なものでした。(昔と言うのは、100年前、50年前のお話で、そんな近い時代でもそうだったのです。)
それで、本が傷まないように丁寧に製本をして保存したのです。
ヨーロッパの古い本は余白が非常に多くとってあります。
それは、傷んで補修、製本をするたびに、少しずつPageの端が切り取られるので、その切り取りの部分をあらかじめ余分に作ってあるのです。
ですから、本が本棚に整然と並んでいるのは、一冊一冊を丁寧に製本して保存していたと言う意味だったのですよ。
しかし、何世代にも渡って、受け継がれて修復が繰り返されるとついには、その余白も今日の本と同様にギリギリになってしまいます。
まあ、それだけ大切にされてきたと言う証なのですがね。
私も二度と手に入らないような貴重書を結構大量に所有しています。
ですから、知り合いの製本屋の人に頼んで数冊製本をしてもらいました。
それで分った事は、私の経済力では私の持っている貴重な本を、きちんと製本するのは無理だと言う事でした。
ちなみに、この製本というのは金のモールにタイトルを印刷した、ちゃんとした厚手の表紙の製本のことで、今流行の簡易製本ではありませんのであしからず。
ただの簡易製本でしたら、まだ本が新しいうちに、ビニールの粘着カバーを貼り付けておけば結構補強されます。
楽譜と違って一般的な本等は、一度読むとなかなか二度とは開きません。
捨てるか、取って置くか悩む所です。
一般の人の場合には、私達のように本が物を書く為の資料となるわけでないので、不必要なものは捨てるか、古本屋に売るか、すれば良いのです。
原則論は「一年以上使用しない物は捨てる」と言う事です。
近頃は、「断捨離」という言葉が流行っています。
断捨離の仕方ですが、読んだ本を本棚の一番左側に置きます。
次に読んだ本も、また一番左に置くのです。
そうすると、常に右側にある本は1年間、一度も手に取った事のない本と言う事になります。
意を決して、一年に一回、右側から何冊かの本を処分すれば良いのです。
日にちを決めておくとすれば、その日の分に、仕切りの板を置いておけば良いのです。
そうすれば、何処が1年分かすぐに分かりますからね。
勿論、一年に一回しか開かない本でも、貴重書があるかもしれません。
私達のように、仕事として本や楽譜を集めている場合には、1年に一度も開かなかったとしても、捨てる事の出来ない貴重な書物になります。
それは断捨離の対象にはなりません。研究の資料になるのです。
だから、当たり前の話ですが、それは最初から、資料として、別の棚に置いておけば良いだけなのですからね。
「いやぁ〜、蛇足でした。ハイ!」
左側と右側の本棚は、部屋の境目の壁を挟んで繋がっています。
近頃よくテレビ等で話題になっている話に、「片付けられない女」の話があります。
但し、「片付けられない女」と一言で言いますが、実はその例は二種類あります。
「片付けられない・・・」と言うと、一般的には単に怠け癖で「片付けられない」ように思われがちですが、実はその一部の人達は、実は精神的な病で片付けられないのです。
ADHDとかADD症候群などで、医学的に脳のスキャンをすると脳に異常が見られるのです。
ですから、本当に自分が片付けられないと悩んでいる人でしたら、一度病院で見て貰うと、薬を処方して貰うだけで、かなりの改善が見うけられます。
このお話には専門的な知識が必要なのでここでは触れない事にします。
但し、ついでのついでという事ですが、本当は「片付けられない女」よりも「片付けられない男」のほうが多いと言う事は知っておいてください。
精神障害には、男女差はありませんし、大人子供の差も殆どないのです。
それ以外の心的な要因の場合には、まず「片付けよう」と言う気力が起こらない・・と言う事に原因があるようです。
気力の場合は、ホルモンバランスの崩れや精神的、或いは肉体的、病気による鬱という原因もありますが、それも、病の話になりますので、ここでは問題にしないことにします。
つまりここで問題にしたいのは、「片付けられない・・」と言う事が単なる「怠け癖」の場合のお話です。
「片付ける気がない」と言う主な原因は、「めんどくさい」と言う事に尽きると思います。
例えば洗濯をしたら、必ず干さなければなりません。
だから、どんなめんどくさがりやの人でも、干す事はします。
しかし私は時々、この干すと言う簡単な作業すら出来なくって、洗濯機の中で洗濯物がくさくなって、洗濯のし直しをした事がよくあります。
じゃぁ、全自動の洗濯乾燥機を買えば良いではないか、と思われるかもしれませんが、私がこの洗濯機を買った頃は、まだ(ビックカメラ価格で)16万円以上出さなければ、全自動の洗濯乾燥機は買う事が出来なかったのです。
そんな高価な洗濯機を買う事は出来なかったので、私の洗濯機は10万以内の安物で、乾燥がちゃんと出来ないのです。一夜干し乾燥とか言う分けの分らない乾燥機です。(意味は、半乾きで、一晩干せばちゃんと乾く、と言う意味だそうです)
但し、私の場合には、「洗濯物を干さない」のは「めんどくさい」と言う理由ではありません。
病み上がりで体力がないので、洗濯物を干そうとすると、干す動作をするだけで、腰が痛んで、立っている事すらできなくなって、動く事すら出来なくなってしまい、洗濯物を干す事が体力的に満足に出来なかったのです。
ですから、洗濯物が出来上がると、腰が痛くなる寸前まで、何度かに分けて、干しました。
干したら、今度は畳んで片付けなければなりません。
これも同じように、腰の痛くなる作業でした。
しかし、畳まなかったとしても、洗濯機から出せば、洗濯物は臭くなる事はありません。
それなら、無理をして、畳んだり、片付ける必要もないのです。
そこは、私の部屋は誰も来ない、誰もいない一人暮らしですからね。
また、同じように、食事やお茶をすると洗物が出ます。
食器を洗うと言う作業も洗濯物を干すという作業以上に腰を痛める作業なのです。
先ほどもお話したように、私は一人暮らしですから、台所の流しの中が汚くても、私だけの問題です。
だから、流しの荒い桶に洗い物をためる事にしました。
何せ食器類ですから、洗わないでそのままにしておくと言う事には、最初の間はかなり意識的に抵抗があったのですが、如何せん自分の体力の衰えはどうする事もできません。
そのうちに慣れてしまいました。そして、体の調子が良いときに、まとめて洗ってしまうことにしました。
そう言う風に、何かが駄目なら、無理をしようとしないで、「自分流」を創ってみると良いのです。
例えば、先ほどのお話の、片付けるのが苦手の人は、「何でも箱」を作っておいて、まずそこに放り込むと言う癖を付けていって、やる気が起こったら、その「箱の中」を片付ければよいのです。
つまり、必要最低限自分が出来る範囲でやっていけば良いのです。しかし、病的に片付けられない人はもっと深刻な例の方が多いと思います。
そう言う風に、何でも箱のようなものを作ったとしても、それですら、面倒臭がって、身近な所に放りなげてしまう−という傾向があります。
つまり、10センチ横にゴミ箱があったとしても、そこに捨てようという気が起こらないのです。
手元にゴミがあっても、それをとる事すらしないのです。
そこまで行くと、問題はむしろ精神的なような気がします。
以前、掃除が嫌いな人がいました。
布団を畳むのに、パタパタすると部屋の空気が汚れるからとか部屋にゴミが落ちるからと言って、布団のゴミを落とさないように丁寧に折りたたんで、押入れにしまっていました。
犬と一緒に寝ていたので、シーツなどは犬の散歩のときの砂粒や犬の食べ残しなどでざらざらしていたのですが、気持ち悪くないようでした。
不思議な衛生感覚ですね。私はそんな布団だったら気持ち悪くって、とっても眠る気にはなれないのですがね。
部屋に埃が舞うのなら、窓を開けて布団をパタパタすれば良いのにね。
その人達にとっては、部屋が(布団が)汚い事は気にならない事なのです。
「片付けられない症候群(シンドローム)」という病気で悩んでいる人の殆どが、片付けられない事を、自殺を考えるほど、悩んでいるのです。
しかしながら、同時に片付けられない事が気にならないことも事実なのです。
では、「片付けられないと言う事で、自殺を考える」とはどう言う事なのかな?
矛盾していますよね。否、それが病気のもたらす所なのです。
余談の余談として、モンスターペアレントの話があります。
話がこれ以上長くならないように、要点だけを纏めますと、最初のきっかけは文句を言う事が、子供のためにだったとしても、それを繰り返すごとに子供のためではなく、自分の為になっていくのです。
最後には文句を言う事がi dentityになってしまいます。
ですから、非常に強く強烈に逆襲されると、子供の事は放って於いて逃げ出してしまいます。
つまり、自分の事「私は子供の為にこれだけしているのだぞ!」と言うアピールをしているのに過ぎないからです。
つまり先ほどの「自殺を考える」と言う事は、自分が人からどう思われているかに原因があるからなのです。
「片付けられない事を夫に注意された。」「回りの人に馬鹿にされた。」等々です。
その人が、(もし私のように一人暮らしで、)片付けられないのなら、自殺を考える必要もないのです。
私の場合には片付けられないシンドロームが起こって来たら、片付けられない部屋を一箇所作ります。
そこに全てを放り込むのです。
そして体調の良い時に、何ヶ月掛かろうと気長に片付けていきます。
(そう言う風に言うと、私は大変気の長い性格だと思われるかもしれませんが、若い頃から短気で喧嘩っ早くて有名な性格でした。
一見、気の長い人が上手そうに見える釣りは、本当は短気な人の方が向いているのだそうですよ!)
「片付けられない女」の例は、ただの余談としての話でしかありませんが、仕事をしている上で実際上部屋が散らかって来たり、資料が散乱(したり)して来ると、自分だけではなくまわりの人にもパニックが移ってしまいます。
「片付けられない・・・」は仕事の上では、新型インフルエンザのように、結構回りの人にも伝染します。
仕事をしていると、教室でも「後で作業をするから・・」とか、反対に「今は時間がないから、後で纏めて片付けるから・・」と言って、事務所に資料が出しっぱなしになっています。
私はそういったことが大嫌いだし、また資料の楽譜は私の個人財産で若い頃からなけなしのお金を使って集めてきたものだから、共有するのはかまわないのですが、それ相応に大切に扱って欲しいのです。
それがどうしても、「時間がないから、後でコピーするから・・」とか、「しまう時間がないから」と言って出しっぱなしにしておいて、「部屋は散らかってくる」、「大切な楽譜は紛失する」、となって、結果的には探すための膨大な時間や、失われた楽譜を補充するために、新たに買うための莫大な経費が無駄となって出費されていきます。
でも殆どの人は、そのときの1分、2分の時間の方が貴重なので、それを探す時の膨大な時間の事は考えようとはしないのです。だって、今、仕舞う場所は分かっているのですからね・・!!
でも、探す時には、それは「今」ではないのですがね。もう、何処にしまったか、忘れたので、探すのでしょう??
それを説明しても、「今は分かっているし、覚えているから・・」と言って私の言うことを聞こうとはしません。
女性には、今しかないのかね???
しかし、それを感情論はさておいて、損益と言う事で考えるのなら、後で、その資料が必要な時に膨大な時間をかけて探して、やっぱり見つからなくって、海外発注させられて、2,3ヶ月も保留になる方が教室としては莫大な時間と金銭の浪費になってしまうのですが、そこのところがみんなにはどうしても分らないらしい。
この事は教室を創ってから、延々と30年間以上言い続けているのだが、やはりいまだに直らない。
確かに、私もその場では、疲れてしまって、後片付けまで手が回らない事もよくある。
ただ、他の人と私が違うのは、「次の日の作業が、まず昨日片付けられなかった所を片付ける所からその日の作業を始める。」と言う事だけなのだ。
そこが私と他の人の違う所かもね。
後は、教室に行くと、さすがにlesson室はちゃんと綺麗に片付けてある。
しかし違うんだよね。
私が弾いているセカンドピアノの前に片付けたものがしまわれているので、私がlessonをしようとすると、それをどかす所から始めなければならない。その先生はセカンドピアノを弾かなかった、としても、私はそのピアノを弾くのだからね。
私はとても太っているので、グランドを弾くときにも、両足のスタンスが大きい。
だからピアノの足の周りに物を置かれるとピアノを弾けなくなってしまう。
しかし、いつも子供の足台がピアノの足の所に置いてある。
本人達は片付けたつもりになっていても、他の人にとっては、ちっとも片付いていないのだ。
「片付ける」と言う事と、「機能性を考える」と言う事は両立できるはずである。
その片付け方を見ていると片付けらない原因が分る。
きちんと整理整頓されていたとしても、それが、仕事をする上で、機能的とは限らないのだ。
それならば片付ける事は無意味である。
疲れて片付けられなくなる気持ちがよく分る。
次の日を時短しているわけではなく、今を素早く終わらせたいからだ。
私は仕事を片付ける時には、次に仕事を始める時にどうすれば、直ぐにその仕事を始められるかと言う事を常に考える。
本を書く仕事には、締め切りに追われて、書かなければならない仕事と、自分でやっている期限のない仕事や、情報が溜まってある程度形になった時に初めて終了する仕事がある。
Beethoven等も、ゲーテなども20年、30年と一つの作品を書き続けるわけである。
私もある程度仕事をしていて、行き詰まってきたり、飽きたりすると、その仕事を無期限に凍結する。
資料や楽譜、五線紙や鉛筆、定規までを反故の用紙と一緒に洋服の箱に放り込む。
全音の編集長が私の部屋に来て「芦塚先生のあの資料は・・」と言うと、私が天袋を開けて、そこに積み上げられた洋服ケースの中から、「これですね。」と言って出してくると、「先生の所では、一瞬で資料が出てくるのですよね。」と、笑っていた。
正に凍結状態である。
そのうち、お菓子とか、食べかけのパンも、ゴキブリと一緒に出てくるかもしれないよ!・・・それは、高校生の時の私の友人の下宿の話か???
ハッ、ハッ、ハッ!
この文章は、Titleと内容が、著しくズレていたので、補足して新しい文章と追加しておく。
という事で、以下の文章は、「メモの取り方」とは、少し内容がズレてしまうかもしれないのだが・・・。
ミスには、自分が犯すミスと、外注で人様が犯すミスがあります。
昨日(16年の6月7日のオケ練習の時に)(小学低学年の)子供達に注意をしていたのですが、「自分の仕事を人に代わって貰う時には、その仕事が『終わったのか否か?出来たのか否か』をcheckする所のまでの責任は、自分にある」という話をしました。
大学生ではなく、小学生の子供達にですよ!!
人に仕事を委託する時には、相手の力量を見る所は、やはり自分の責任になります。
頼んだ人が、ミスを犯した時に、相手の力量が足りない場合には、そのミスは、その人の技術が劣っている・・という事で引き起こされるので、それは、ミスを犯して当然、と言うか、ミスが必然になるので、それは頼んだ人のミスとなってしまいます。
相手の人のミスは、当然、引き起こされたミスなので、ミスとは言えなくなるので、あくまで、発注者側のミスになり、ミスをしないための手順には当てはまらないのですよ。
という事で、以下の話は、当然、与えられた仕事をこなすだけの能力を持った人の起こすミスという条件で、話を進めて行きます。
ハインリッヒの法則
車の運転でもそうなのだが、幾ら、運転がベテランになったとしても、事故を起こす人は、しょっちゅう事故を起こすし、運転の初心者であったとしても、事故を起こさない人は全く起こさない。
私も、事故を起こした経験はないのだが、・・・・だからと言って・・「それは単なる性格の問題である」・・等とは言わないし、思いもしない。
事故を起こさない人達は、事故に対しての思い入れが強く、事故を起こす人達は「絶対に自分は事故を起こさない!」と、思い込んでいるのだ。
よく勘違いされる事は、必ずしも、法律を守っているから、事故が防げるという分けではない・・という事なのだ。
無事故無違反の人達が、本当に無事故であったとしても、無違反である・・とは、警察の人達自身が思ってはいない。
警察の人が、無違反の人達を前に「あなた達が無違反なのは、単に運が良かっただけなのですよ。」と、暗に車を走らせる事が、無違反では不可能な事を認めている。
首都高や、京葉道路は、時速60キロの制限速度である。もし、その速度を守る車がいたとしたら、首都高は大渋滞になるだろうよ。
首都高を車を走らせていると、「今日は遅い日だな?」とか「今日は早い日だな?」とか、日によって車の流れが違う。
だから、私もいつも定速で走っている分けではないのだよ。
私の場合を例に挙げると、私が常日頃から注意している事は、三つある。
その一つは、「怖い=ひやりとした」・・という運転をしない事である。
それを「ハインリッヒの法則」という。
事故を起こすことを、「カタストロフィ=取り返しの付かない事故、事件」とするならば、「危ない」という確率と、「ヒヤリとする」という確率があって、その比は1:29:300の比になる、という確率論である。
つまり、「ヒヤリとする」事を減らすならば、「事故にあう」確率は、不可抗力の案件だけになる、という事でその確率を極端に減らす事が出来るからだ。
また、その日のコンディションは、その日に犯した「ヒヤリ」で判断する事が出来る。
横道からの子供の飛び出しに「ヒヤリ」としたのなら、その日一日の運転で、飛び出しに注意をする・・という事である。
第二番目の注意は、危ない車の後ろには、絶対につかない、近づかないという事だ。
フラフラしている車がいたら、それは居眠りか、酔っぱらい運転か、さもなくば、運転未熟である。その後ろで走っていたら、事故を起こさなかったとしても、疲れる。
疲れは事故の大敵である。集中力が衰えるからである。
第三番目の注意は、イライラとしている時には、車を運転しない事である。
近親縁者が死んだ時や、家族が病気で病院に急行しなければならない時にはタクシーを呼ぶべきだし、医者でもその原則は守っている。大病の時には医者は家族を診断はしない。当たり前の話である。
たった、この三点だけを注意して、しっかりと守るだけで、事故は防げる。
さて、この三点は、どうして編み出したのか??
車を運転しようとする人で、教習所で貰う安全運転の栞という本以外に、安全運転の本を自分で買って迄、読んだ人は少ないだろう。
私は、免許を取る前に、そういった本を片っ端から買い込んで、教習所で教える知識以外に、そういった勉強をペーパー上でやった。
その中のadviceで、「これだけは??」と、思えたのが上の三点である。
要は、車の免許を取る時に、事故を起こさないようにするには、・・・という事に意識があるかどうか・・という事である。
殆どの人達が、免許さえ取れれば、事故は起こさないのでは?と、思っているのではないかな??
仕事上でも、ミスを犯す人は、「自分はミスをしない。」と、思い込んでいる人が、圧倒的に多い。
勿論、ミスを犯す人達は、自分の犯したミスに対して、寛容であるし、ミスを犯さない人達は、自分の犯したミスを、自分自身に対して、許さない。そういった人達は自分のミスに対して、非常にstoicである。
それ以上に、二番目の注意である、貰い事故は、本人がどんなに注意をしていても、体のコンディションに気を付けていても、防ぎようが無いのだよ。
私は車間を忠実に守るのだが、そうすると、車間が空いているから・・と、割り込んで来る車が多い。そういった車が追突事故を起こし、毎日のように、玉突き事故のニュースがある。
急ブレーキを踏む時には、ポンピングブレーキを踏んで、後続の車に合図を送り、後続の車がブレーキを踏んだのを確認してから車を停止させる。急ブレーキには、それだけのゆとりが必用なのだよ。
此処までの話は、当たり前の事ではないか??・・・なんで、そんな当たり前の事を、今更・・・・と、思われるかもしれない。若し、あなたが、そう思われるのなら、あなたは、ミスを犯すタイプの人である。
何故ならば、当たり前のはずなのに、現実的には、毎日死亡事故が起こっている・・。死亡事故とは、カタストロフィの事なのだよ。その日の1回の死亡事故に対して、300回のヒヤリ運転と、29回の事故が起こっているのだよ。
一日の死亡事故の平均は12人だそうだから、毎日、348の事故と3,600のヒヤリ運転が起こっている計算になるのだよ。
ミスを犯す人に対して批判をする人は、よく「詰が甘いのだよ!」と、咎める事が多い。
人が言う事は、「もう一歩、或いは別の視点でcheckをすれば、ミスは防げたのに」という事である。
しかし、その一歩がないから、ミスを犯してしまうのである。
とすれば、このミスの話は堂々巡りをしてしまう事になる。
つまり、ミスを犯す人に対して、幾ら、注意をしても、そのミスが治らないのは、そのミスを再び犯さないように努力をするだけで、意識を変えようとも、治そうともしないからなのだよ。
私は子供達をlessonする時に、このミスを治すために、ミスを大きく二つに分類して、「ポロミス」と「ポニョミス」と名づけた。
ポロミスは、本人が気がついていないだけで、原因があるミスなので、指導者がそのミスの原因と修正方法を指摘指導してやれば治るミスの事に定義をした。
ポニョミスは、必然性がなく、突然ミスをする事を名づけて、これは性格や意識の問題であるから、音楽の指導そのもので治す事は出来ない。
音楽を好きになって、チョッとしたミスも許せない性格(意識)になれば、理想的なのだが、巷の音楽教室では、そういう事は望めそうもない。
本人がポニョミスに悩むようになれば、ポニョミスは犯さなくなるのだがね。
本人がポニョミスに悩むようになって、その相談を受けた時には、私は次のようにadviceをする。
日常の些細な動作の中で、「しまった!」と、思うような事を、常に正して行くように注意すれば、ポニョミスは防げるようになるのだ。これはハインリッヒの法則の応用である。
また、この文章を打っている時にも、キーボードの感知ミスがよくある。
勿論、Keyboardを買い直せば、それで良いのだろうが、そうでなくても、それを修正する事が出来るのだよ。
そこが芦塚メトードだなや??
Keyboardの感知ミスは、「する」と打っても、「sる」と入力されてしまうという、キーボードの特性のミスである。
(勿論、新しいキーボードに買いなおせば良いだけなのだが、このキーボードは気にいっているので、今はその気はない。)という事で、私は「sる」を「する」に変換するように単語登録をしてしまった。
後も、同様に、「mす。」とか、誤変換が起こるので、「mす。」を「ます。」に単語登録をしている。
機械的なミスであれば、ミスをそのように正しく入力指せる事も出来るのだよ。
教室で、斉藤先生が、小さな子供の伴奏をする上級生の生徒に、soloをする子供が本番の演奏の時に犯すであろうミスの対処を指導していたら、それを見学していた先生が「子供がミスを犯すという想定で、練習をするのは、相手の子供に対して失礼でしょう!」と、烈火の如く怒って来た。
斉藤先生は、「ミスを犯す場所が分かっているのなら、ちゃんとそのミスに対処出来るように指導すべきでしょう?」と、説明したのだが、その先生は、soloを演奏する小さな子供にちゃんと指導するべきと、思い込んで、納得しようとはしなかった。
そのpassageでその子供がミスを犯すのは分かっているのだから、そこの所をちゃんと指導するのは当たり前の、コンコンチキだよ!!
それを放り投げて、上級生に指導をしている・・と思ったら、先生に対して、大変失礼な話だよな!!
小さな子供達の場合、幾ら、噛んで含んで、手を取って、ちゃんと指導したとしても、舞台で何が起こるか分からないのだよ。
それは、athleteを見れば分かるのではないのかな??
athleteは、舞台でミスをしないように、それこそ血の出るような努力を、産まれた時からやって来ている。
それでも、本番にはミスをする時にはするのだよ。
athleteがproになった時には、舞台でミスをする事はない。
上手くなったから??・・・そんな事ある分けないじゃん。
ミスしないように、pro仕様の演舞をするのだよ。
危なげのないように・・・・。
そういったtechnicは、実際には受験指導の場合や、コンクールに出場する場合には、私もそういった危機回避の指導する事が、よくある。
所謂、pro仕様の危機回避のtechnicなのだよ。
でも、それは、学習者には教えない。
easy goingな勉強なのだから、やはりちゃんと正しい基本は、学んだ方が良いに決まっているからね。
実際に、子供が舞台でミスをした時に、何の対処も出来ない方が、よっぽど子供に対してかわいそうだとは、思わないのかね??
また、これは、リスク管理として、とても大切な事なのだが、人間はミスを犯さないとでも思っているのかね??
そういった人達の特性では、「出来る範囲で、精一杯の努力を・・」何て言い出す。
「出来る範囲で、一生懸命にやりました。」何て事があるのかよ??
「出来る範囲」とは、それを「一生懸命」とは、言わないのだよ。
最初から自分を限定していたら、成長はないと思うがね。
そういった生き方をする限り、proにはなれないのだよ。
当たり前の事だがね!!!
こういったミスの話は、そのまま時短の話にも、繋がって行くのだ。
時短が出来ない人には、大きく二つの理由がある。
routine作業
その一つは、「時短のための手間暇を掛けるよりも、作業した方が早い」と、思い込む事なのだ。
時短のroutineを覚えるには、そのroutineを熟せるようになるための努力が必要で、一旦、そのroutine作業を、覚えてしまうと、非常に早く熟せるようになるのだ。
しかし、そのroutine作業を、覚え込む迄には、逆に時間や手間が掛かるので・・・覚えてしまおうとはしないからである。
routine作業が一番必用で、時短が求められる時は、忙しい時なので、時短のroutineの手順を覚えるための時間はない。
しかし、暇な時は、時短そのものが必要ないので、そこで時短のroutineを覚えようとはしないのだよ。
必要に、迫られてはいないのだからね。
だから、暇な時に努力をする・・という発想がない。
暇で、時間がある時に、弟子にroutine作業を指導すると、routine作業が覚えられるよ!!
並行作業
仕事を効率的にこなす(時短の作業のため)には複数の仕事を平行してやっていくとよい。
これは器用さや勤勉さに著しく劣る私が、他の人と同じ程度の仕事を出来るようにするための私なりの方法論でもあった。(とても分かりやすく、そのもっとも単純な形が買い物メモである。普段から思いついた池袋の買い物を「池袋の買い物memo」に書き溜めておいて、池袋に行く用事が出来た時に、一緒に済ませてしまうと言う事である。[3])
しかし、あるタイプの人達は、次の日に仕事を残すと言う事が出来ない。
私も大学時代は2日、3日徹夜しても、その時に仕事を片付けなければ気が済まないタイプであった。
そういったタイプの人は、面白い事に、池袋に行くのにも、当所の目的の用事しかしない。
「ついでに・・・」と言う事が許せないのである。
しかし、現実的には学校の勉強と違って社会の仕事はその仕事が終わるまでに、何年もかかる仕事のほうが多いのである。
そういった長大な仕事をこなすには、幾つもの仕事を同時にこなしていけなければならない。(先程の池袋の買い物の例でも、私のように病気で、すっかり体力がなくなってしまえば、一回池袋に行く事で、何処まで一緒に他の仕事が出来るか?効率よく動けるか、の方が大切になってしまうのだ。)
Beethovenであっても、40年間、たった1曲の「運命シンフォニー」だけを作曲していた分けではないでしょうが??
同時進行で、無数の曲を作曲していたのです。
しかし、いくつも課題を同時に進行させていくという仕事術、方法論を、学校で学ぶ事は、まずないと言っても良いでしょうね。
(勿論、学校では色々な教科を平行して勉強していくわけなのだが、一つの研究課題をそれぞれに平行して研究すると言う事とは根本的に意味が異なる。)
先程の例のように、世の中には不思議な事に、一つの事ならば与えられた仕事をちゃんとこなす人が、その仕事が二つ、三つにまたがってくると、突然、作業が出来なくなるというtypeの人達がいる。
一つ事なら一生懸命できるのに、二つ、三つとなると、その内の一つにしか目が行かなくなって、他の事を無視してしまうのだ。
そういったタイプの人が自分自身を「仕事の中で・・・」直していくのは難しい。
もし本当に、そういった自分の性格を直したければ、もっと簡単な日常的な生活の中で自分を直していけばよいのである。
例えばそういったタイプの人の話として、一例を挙げる。
ある人がメールで私に対して色々と質問をして来た。
しかし、突然、自分の生徒が「こういう風だから、どう指導したらよいのか?」と聞いてくる。
しかし、私はその生徒の学年も知らなければ、どのlevelの曲を勉強していて、今まで何を学んできたのか?どういう性格か?将来の目的、(趣味なのか、或る程度音楽を目指しているのかすら・・・分からない。
だから当然、「回答するのに情報が足りないから、その生徒の情報を教えてください。」と逆に質問を返すと、その話はそれっきりになってしまって、全く別の質問をしてきたり、仮に質問の内の一つだけ(例えば学年だけ)は答えが返って来たとしても、それ以外の質問に対しては、それ以降は何回も同じ質問を繰返しても、その返事はない。
そういった質問をする人の事を、「自己完結型人間」という。
質問した事で、・・・或いは、それに対して、たった一つの答えだけが返ってきたことで、安心してしまって、問題が解決した気になってしまうのだ。
問題を提示しただけで、もう解決した気分になってしまうのである。
このタイプの人は結構多く見受けられる。
しかし、質問をされた側は「それなら最初から質問なんかするなよ!」と怒り出したくなる。
一つだけ回答をしたとしても、本人は、当面自分が回答できる事だけを回答したと思っているのだろうが、それは相手に対して大変失礼な事だ。
自分が質問した事の一つ一つに対して、してもらった回答の一つ一つに、実際にそれを応用したらどのように問題点が改善されたのか?或いは上手くいかなかったのか?一つ一つに対してしっかりと感想を述べていくべきである。
そこのキャッチボールはしっかりとやるべきである。
答えをもらったら、それよしとして、すべて終わりにする事は大人としてはやるべきことではない。
その結果は、どうなったのかの返信はちゃんとするのが礼儀だろうよ!
私の場合には、相手から質問をされた事に対して、「回答のし忘れ」がないように、そういったミスをしないように、或いは思い違いがないように、私は「相手の質問を返信で返す」ようにしている。
(勿論、携帯やパソコンのメールの設定は相手の文章をそのまま残す設定にしている。)
通常のメールのやり取りの時に、相手のメールを残して返信をする場合には、相手のメールが自分が書いたメールの後に表記されるようだが、私の場合には、まず不要なアドレス等のデータ部分や、相手のメッセージ中の不要な部分を全て消去する。
そして、回答が必要な部分だけをメールに残して、その案件をひとつずつ、事項にあわせて、丸付き数字で箇条書きにしてしまう。そして相手の質問のそのまま後に、私のコメントを書きます。
(そういった文章を私は割り込み回答と勝手に呼んでいます。)
その回答があまりに長期に渡ったり(回答を書く時間がなくってしばらく保留されてしまったり、回答が複雑で込み入っていて、文章がとても長文になる場合には、(例えば、一つのメールに5つの質問があって、回答をすると非常に長文になる場合には、)そのメールの回答を、二つ、三つのメールに分けて、それぞれに前半部の質問@AB、後半部の質問CDとか分けて、回答していきます。
一つのメールを複数のメールに分けて、それぞれに回答していくのも、幾つもの複数の質問に対して、答えを忘れないようにするためにです。
実は、一つの文章の中に、二つも三つも問題点を見つけ出す事があるのです。ですから、その場合には、「あなたの質問はこの問題とこの問題を含んでいるのです。」と複合的に回答していかなければなりません。つまり、相手が自分自身に問題を抱えている場合には、一つの問題を解くだけでは、問題は解決しない事が多いのです。
実際上は、先程書いた「池袋の買い物」等も、一つの事しか出来ないtypeの人の自分を直していく方法なのですが、そういった単純な事でさえ、結局はmemoを集めると言う作業をめんどくさがって、やらなくなってしまいます。
そうして、仕事がだんだんたまってきて、もう自分ひとりで解決できないところまで来ると、パニックが起こります。そのパニックは、その人の態度や服装などいろいろなところに表れます。
そういったその人の心の乱れを感じ取って、その人と話ししている時に、私が「貴女の部屋は、今は片付けられない症候群になっているでしょう?(散らかっているでしょう?)」とか言うと、相手はどぎまぎして「そうなんです!」と驚きます。(えっ、どうしてばれたの?おしゃれも気をつけていたし、態度も結構気をつけていたのに・・・???)
本人が仕事などでパニックになっているときや、鬱状態になっている時には、その人の住んでいる環境も必ずといっていいほど精神状態そのままです。(それはその人の住んでいる部屋が、他の人から見られることがないから、その人の内面の状態を表してしまうからです。勿論当たり前の事ですが、しょっちゅう誰かが訪ねてくる部屋はその人の内面を反映する事はあっても、それほど極端ではありません。)
一端、そういった混沌とした状態に部屋がなってしまった時には、そういった状態の部屋の中で考えても良い答えは勿論、見つかりません。
そういったときは、まずその部屋から出て、気分転換を図る事が大切です。
欝の状態の人は、自分の部屋から外に出ること自体が難しいからです。
兎に角、混沌とした自分の部屋を出て、“こじゃれた”雰囲気の良い喫茶店などにでも行って、まず座って落ち着いてみて、何が「片付けられない」原因かを見つけ出して、その原因をどのように作業すれば、簡潔に、易しく、片付ける事が出来るかを、珈琲でも飲みながら「楽しみながら」考えればよいのです。
つまり「かたづけよう」とするから、プレッシャーになるわけなので、「もっとおしゃれに出来ないだろうか?」とかいう風に考えてみればよいのです。
「片付ける」というマイナーな要因を、「部屋を自分の好きにアレンジする」という趣味の楽しい世界に変えていくと良いのです。
これを私は「付加価値をつける」と言っています。
退屈なめんどくさい単純な嫌な仕事でも、それを若い先生に指導すると言う事になると、その仕事は別の意味を持ってきます。
何でもよいから、自分の好きな仕事に置き換えてしまえば良いのです。
私も教室の先生から「気分直しに、食事に行こう。」と誘われると、そそくさと(この言葉は本当はこういう使い方はしません。
あわただしくと言う意味の他に少しマイナーな意味が含まれるからです。
「嫌々ながら・・」とかいった意味も少しは含まれるかもね?
でも「いそいそと・・」では全然違うしね!)
原稿やノートパソコンを準備して出かけます。
食事をしながら、お茶をしながら、今日の作業をまとめたり、普通の人がする雑談の代わりに、生徒の指導の話などの先生の仕事の打ち合わせや反省をします。
食事をしながら、仕事の話をするということは、忙しい1日の時短をするという意味でも有意義です。
よく「食事の時まで仕事の話をしたら、ストレスが溜まりませんか?」と言う質問を受けます。
実は、仕事の話が「ストレス」になってしまう原因は、次の仕事の時まで持ち越さなければならないようなマイナーな話(仕事上の問題点)が、会議などで、いくら話し合っても進展しなくて、いつまでもマイナーなままにその日を持ち越して、次の日に引き継がれていくからなのです。
例えば、今問題になっている生徒の指導の問題だとしても、「その問題を解くにはこういった方法や、こういったやり方があるんだよ。」と言うadviceを貰う事は、その先生が前回のlessonで問題を抱えていて、本当ならば次の週のlessonまで持ち越さなければならなかったストレスが、食事中の雑談の中で解決してしまうことになりますよね。そうすれば、抱えていたストレスが、「じゃぁ、次のlessonではその方法を試してみよう!」と言う前向きの気持ちに変わっていきます。つまり、ストレスが、ポジチーフに変わったのです。
一般的には、「食事のときまで仕事の話をするのは嫌だ。」と考えがちなのですが、本人がその時に頭の中に考えていなかった、或いは意識していなかったとしても、実は心の奥底(潜在意識的)では解決しない問題は、ストレスとして持続し続けているのですからね。
「体に過剰なストレスを与えない。」と言う一番良い方法は、如何に早くそのストレスの根を断ち切れるかにかかっているのです。
仕事が上手く行かない最も大きな理由も、その仕事をしている世界の中から抜け出せなくなっているからです。
中からしか見れなくなってしまっていて、外からの見方が出来なくなっているのです。
気分転換に場所を変えて、外食をしているときには、仕事そのものの束縛から離れて、外から物事を考える事が比較的に容易になります。
ですから、そう言う風に考えて、環境を変えて行動すると、食事の時間に、食事をしながら、仕事の話をするのは、非常に効率がよくって、有効な事なのです。
決して、人が思うほど嫌な事にはならないのですよ。
勿論、人を批判し、責めるタイプの上司とは食事を一緒にしない事がコツですよ。
世の中には、仕事が好きだから仕事をする人と、お金のために嫌々ながら仕事をする人達がいます。
今、私がしたお話(advice)は、お金の為に仕事をする人には、勿論、無意味です。
お金のために仕事をする人は、仕事が所詮は好きではないからです。
ですから、問題が解決して、ストレスの原因がなくなったからと言っても、だからと言って、リラックスできるわけではないのです。
私たちは、当然後者の「仕事が好きだから、仕事をする」人に該当します。
仕事=ライフワークであり、趣味でもあるという証なのです。
一般人にとっては、食事やお茶の時間は、仕事を離れたプライベートな時間であって欲しいわけでしょうが、我々にはそんな時間はありません。
そうすると、「先生達は忙しくてかわいそう!」という風に思うようですが、私たちは逆に、「暇と言う事は、それだけ社会に必要とされていないこと。」「暇だったら仕事をすれば?」としか思えません。
「今日は暇なの?かわいそうに。」としか思えないのです。
本当に音楽が好きだから、私だって、留学をしてまで勉強を続けたのです。
(殆どの人達はステータスのために留学をします。留学は自分の箔付けに過ぎないのです。)
もしも、音楽を好きで、ずっと学び続けてきたのならば、子供達や大人達に、好きな音楽の素晴らしさを伝達(指導)する事は、指導する側にとっては、一番楽しい時間であるはずではないでしょうか?
「私は演奏する事は好きだけれど、教える事はねぇ?」なんていっている人がいたら、その人は音楽で仕事をするのは諦めた方が良いのです。
なぜなら、音楽は伝達です。
人に伝える事ができないのでは、音楽家は無理です。
もしあなたがMozartの良さをワインを飲みながら語る事が出来ないのなら、ピアノを弾いて演奏しても相手には伝わる事はありません。
ましてや、BurgmullerやCzernyの音楽の美しさを子供に伝達することが出来なければ、Mozartやchopinの音楽の美しさを一般の人達に伝達するのは不可能でしょうね。
好きな事、楽しい事をして、それで生活が立つのなら、これほど幸せなことはありません。
そう言う話を音大生にすると、「音楽は楽しいものではありません。厳しいものなのです。厳しさに耐え抜いたものだけが、音楽の素晴らしさを知っているのです。」と返されてしまいました。
ひたすら厳しさに耐え、しかられ怒鳴られながら音楽を学んで来た人達が、音楽を嫌いなのはいた仕方がないことです。
そういった人達が、ほかに職業がないので仕方なく子供を指導する場合、自分のトラウマで当然子供に対しても厳しくなることはいた仕方がありません。
なぜならば、「楽しい音楽の学び方」が存在するということが、理解出来ないからです。
その人達にとっては、愉しい・・という事は、一般大衆に迎合するという事なのです。
自分を貶める事になるのです。
でも、音楽を好きでもない所にあるstoicは有り得ません。stoicは好きが孤高の地位に行ってしまったからです。
人を嫌いで鬱に徹していたとしても、過去の偉大な作曲家達を尊敬する気持ちまで失われる事は絶対に有り得ないし、音楽そのものを嫌いになる事もないのですよ。音楽が宗教になってしまっただけの事なのです。
しかし、残念ながら音楽大学の学生の大半が音楽を好きであるとは思いません。
好きで、音楽を心の拠り所にしている分けではないので、好きな男性が出来た途端に、音楽の事は、二の次、当然、子供が出来ると三の次になってしまうのは、やむを得ないことでしょうね??
しかし、私はそういった先生には、音楽は習いたくはありません。
音楽を好きにさせてくれる先生、音楽のすばらしさを教えてくれる先生に付いて、習って行きたいと思います。
大変長くなってしまいましたが、この話のまとめは、「片付けられない女」が片付けられないのは、部屋を片付けなければならないと思うからだと言う事なのです。
同様に、音楽も厳しく辛く学ぶものではなく、楽しく、本当に音楽を聴いて音楽の美しさに涙を流すように感動をする事なのです。
私はこの年になってもまだ演奏もされていない、CDすらない曲に出会う事が出来ます。
そして、その曲を先生達や子供達に演奏させて、曲の素晴らしさを教えています。
そしていつも言います。「下手でもいいから感動させる音楽を・・」 と!
でも、一般の音楽大学の学生に取っては、「下手なのに感動させて来れる音楽」っていう前提すら理解出来ないでしょうね。
音楽は、技術的に完璧に演奏出来て、初めて人を感動させる事が出来るのだ・・と信じて疑わないからです。
そんな事ないのにね??
第3点は、まとめの作業です。
いろいろな資料や、書き散らかしや反古などが溜まってきたら、どのタイミングでその作業をすればよいのでしょうか?
長い論文などの文章を書く上で、最も大切な事は、構成です。
書きたい内容を書き散らかしや反故の紙を纏めて、起承転結などの形式に当て嵌めて集めなおします。そうすると、同じ内容の文章がいたるところに出てきます。同じ内容のメモが沢山出てくると言う事は、そこが書き手にとって最も重要なポイントなのです。(潜在的に言いたい事なのです。)場所を決めて、そのポイントだけを集約していきます。
そうすると、今度は逆にメモが殆ど集まっていない所も出てきます。
そこは逆にあなたの弱い部分になるのです。
そこをしっかり補強しなければなりません。
それぞれのパートが大体同じ比重でなければならないのです。
そういったアイディアは机の上に座っていてはなかなかでないものなのです。(心理学的にも、頭に血を巡らせるには適度な運動をしながらのほうが良いと言う事が証明されています。)
但し、それぞれ行動と思考法は密接な関係があります。
それを上手に利用する事がより楽しく楽に思考をめぐらせることが出来るのです。
例えば、歴代の作曲家達は作曲のアイデアを練るのに、散歩をしました。
フロックコートに五線紙を突っ込んで、アイディアを練ったのです。
散歩はそう言う風にアイディアを練ったり、構成を練ったりという作業が適しています。
デスクの上で(私は作曲は殆ど机の上でします。今は直接パソコンで五線紙に入力します。)考えが行き詰まったり、頭が混乱して来た時には、掃除や洗濯が良い結果をもたらします。
部屋を綺麗にするという動作が、同時に頭の中をすっきりとさせるという働きをするのです。
ヴァイオリンの生徒がチューニングの狂ったヴァイオリンで美しい音を出せるわけがありません。
ピアノの生徒でもそうです。
調律の狂ったピアノで練習していては、美しい良い音楽を勉強出来るわけはないでしょう?
頭がパニックになってしまって、仕事をやる気が全くなくなったとき、そして、お掃除すらやる気がなくなるときもあります。
そういう時には、私は頭を全く使わなくて良い、単純作業をします。
反故の紙をあらかじめ定められた所に寄せる作業や、原稿のprint outなどの単純作業や、参考資料にする写真や楽譜などを探したりもします。
本当はそれはすごくハッピイな事なのですが、資料が溜まり過ぎて、書こうとする文章に納まりきらない場合、その時には、文章を二つに(或いは三つに)分けると良いのです。
文章を書くときに、話が色々な方向に行ってしまうと、文章の全体の纏まりに欠けたり、説得力が弱くなってしまいます。
言いたいことが沢山あると、ついついあれもこれもと書きたくなってしまいます。
この文章も「余談」が多いようですね。ハッ、ハッ、ハッ!
思いついた事を、瞬間的にメモをするという「メモ書き」の癖は比較的簡単に身につけることが出来るようになります。
さて、ある程度文章を書く事に慣れて来ると、それ相応の長い文章を一気に書けるようになってきます。
そういった長い文章を、正確にすばやく「メモる」ということは不可能に近いので、本当に(一言半句違わないで)正確な文章が必要ならば、録音機器の出番になります。
テープレコーダが一般に普及するようになって、エグゼクティブや、小説家、大学教授などの、常時必要なことを書き留めておかなければならない職業の人たちが、マイクに向かって話をするという光景が映画等でよく見受けられるようになりました。
しかしながら、自分で録音したものを自分でワープロにおこすという作業、所謂、テープ起こしの作業は作家にとっては不愉快極まりない時間の掛かる大変な作業の一つであると言えます。
と言うわけで、アメリカなどでは、そういったテープ起こしの専門職があります。
つまりそういったテープ起こしの作業は職業としても充分に成り立ったということなのでした。
私自身も、以前は車で大学に通っている時間がもったいないので(高速を使って1時間位掛かっていました)、車の中で出来る作業ということで、論文をテープに録音しながら車を走らせたのですが、30年以上経った今日も、その(100本以上の)テープは保存されたままで、いまだにテープ起こしがなされていません。
(2015年5月21日の補足説明)時間を置いて、改めて文章を読んで見ると、舌足らずで意味の分からないところが多いので、補足説明を入れておきます。(この補足は2015年5月21日の補足です。)
(これは便利だ!)
携帯電話が、発明されて、まもなくは、バッテリーをショルダーにして、一緒に持ち歩かなければならないように、不便なものであったのだが、やがて、携帯電話のサイズが、普段に持ち歩けるようなサイズに代わってからは、いち早く携帯を購入しました。
ただ、最初の頃は、基本の料金が2万円ぐらいだったので、費用対効果はなかったのだが、1万円以下になった時に、いち早く、購入したのだが、殆ど通じない、相手もいない・・という、無用の長物であった。
しかし、50歳を過ぎたあたりからは、携帯電話が一般的に身近になって、常時、携帯電話を持ち歩くようになった。
初期の携帯とは違って、住所録や予定、アラームやメモ等も、携帯で出来るようになったので、メモを持ち歩く習慣のなかった私も、携帯は常に持ち歩く事を要求されるので、(携帯が未だなかった時代にも、ポケベル等で、プライベートを拘束されていたので、携帯電話は嫌いで、無意識に忘れます。)携帯に依存するようになってきました。
その後、本来的には体調不良が原因なのだが・・・・
・・・・・これも、楽屋内の話で、分かりませんよね!
未だ、江古田に住んでいた頃は、2階の階の部屋全部を借り切っていたので、仕事でパソコンを使用する時には、2号室の事務所の部屋に行けば良かっただけですし、豊玉に当時は住んでいたのですが、体力的に仕事場に通う事は、全く問題はなかったのです。
ワープロからパソコンに移行するにあたって、教室の先生達のために、パソコンを指導してくれる業者を雇って、教室の作業も全部の進行表や、入会申し込み等の書類が連動出来るように、私の考えたソフトをprogramして貰うようにお願いしていたのですが、1年以上掛かっても、全く先生達のパソコンの腕が上達しなくて、ワープロからパソコンへの移行が全く出来ませんでした。
・・という事で、私がテレビ通販のジャパネットで、放送用に使っていたノート・パソコンを安く・・・(とは言っても25万ぐらいしたのですが)、ノート・パソコンとしては、当時の値段では極めて安かったので、・・・それを半額ぐらいの値段で、購入して、私が先ずパソコンの使い方を覚えて、先生達にパソコンの使い方を伝授しました。
つまり、パソコンの業者の人達は、教室のソフトも作ってくれなかったし、パソコンの指導も出来なかったし、で、お金だけをフンダクッて逃げてしまいました。
次にもう一人、雇って同じ事をしたのですが、やはり、結果は同じで、同じだけ100万単位のお金をフンダクッて逃げて行きました。
どうして、そんな人を・・って??
父兄と当時の講師の人の紹介で、断れなかったのですよ。
という事で、私はパソコンは誰にも教えて貰ってはいないのですが、パソコンの基本は芦塚メトードのsystemと同じなので、知能レベルを下げて、「機械で道具」である・・という事すら忘れなければ、簡単に操作する事が出来ます。
パソコンは動き(操作)の決まった部分を覚えれば、難しい事はありません。その一つはshortcut・keyの幾つかを覚えれば良いのです。全部ではなく、10個ぐらいかな??
芦塚メトードのKeyboardのblind・touchの覚え方があって、勉強しなくても自然にblind・touchが出来るようになるmethodeもあります。
これも芦塚メトードの単語登録と合わせて使用すると、全く勉強しなくても、仕事をしている状態だけで、音声入力と同じぐらいにスピディに入力する事が出来るようになります。
また、私自身が、体調不良になって、江古田の事務所でパソコンに向かうのが億劫になってしまったので、この二つの理由で、)自宅にパソコンを買って、プロバイダーを開いたので、携帯電話とパソコンを連携して、outlookの自動仕分けの設定を利用して、論文のメモ書きや、後日必要になるメモ等は、携帯電話の件名の欄にあらかじめ単語登録しておいた、「買い物メモ」「論文メモ」「仕事メモ」等のキーワードを打ち込んで、自宅のパソコンに送り、自宅のパソコンのoutlook上で自動仕分けによって、項目がfile別に分類されて保存されるようにしました。
わざわざ携帯電話の単語登録を使用するのは、件名を間違えて入力した場合には、自動で分類されないからである。(例えば、「買い物メモ」と打ったつもりで、間違えて「買物メモ」と打った場合などはもう、分類仕分けをしてくれない。パソコンはそういったところは逆に融通は利かないので。)
そういった、パソコンの使い方は、「芦塚先生のパソコン教室」を参考にしてください。
私のパソコンの理想像は、私自身がパソコンと簡単な会話が出来るようになることです。
声で、パソコンに話かければ、それなりに答えてくれるようになると良いな?
ですから、音声認識ソフトが、私のしゃべった声をそのまま、文字にしてくれると言う事は、私にとっては、夢でもなんでもない現実の事なのです。むしろ、私の大学生の時には、外国の人がタイプをすごい速さでうつのを見て、「日本語でも出来ないのかな?」と考えていました。当時は、夢の話だったのですよ。当時世界初の音楽タイプライターと言うのも出来ました。見る事は見たけれど、それはそれはお粗末なもので、今では考えられないものでした。
ですから、Via Voiceが発売された時には、喜んで飛びついたものです。しかし、なかなか思うようには文字変換をしてくれません。Versionを上げて9から10へとグレードアップしたのですが、それでも、やっぱり駄目でした。そこで、ViaVoiceからドラゴンスピーチという音声認識ソフトに思い切って移行してみました。ドラゴンスピーチは使用しない単語をどんどん消去して、音楽用語など単語帳に入っていない単語を追加するなど、教育する事が出来て、だんだん認識精度もアップして行ってとても満足していました。完全ではないまでも、時短にはなったからです。
(手入力で打つと大変だよね!いや〜、ドラゴンスピーチはいいなあ!大分、僕の声に対しての認識精度も上がって来たよ。)
と思っていたのは、早計でありました!
高いお金を出して最新versionのドラゴンスピーチを買ったのに、ドラゴンスピーチがだんだんと壊れてきてしまって、インスツールのし直しはおろか、アンインスツールさえ出来なくなってしまったのです。
と言う事で、メーカーに問い合わせた所、「ドラゴンスピーチは、マイクロソフトとはサービスパック2までしか、対応出来ていない」と言う事で、「アンインスツールのためのソフトを添付するか、サービスパック3をアンインスツールしてくれ!」と言うことであった。
泣く泣く、ドラゴンスピーチをアンインスツールして、前に使っていた音声認識ソフトのVia Voiceを最新版で入れなおしてみたのだが、やはり、全然ヘボくって、結局そのソフトも諦めて、唯一、サービスパック3に対応しているアミ・ボイス2008と言う音声認識ソフトを入れなおした。
これがまた、ヘボいんだな!?
ただ単に、故障しないので、不満なままに、そのまま使っているのだが、音声認識のソフトが利用可能になるにはまだまだ時間がかかるようですね。
その後、やはりアミ・ボイスは使い物にならない、ということで、おっかなびっくりXPにドラゴン・スピーチを入れ直して、使用しています。
windows7に付いている音声認識ソフトも試してみたのですが、やはりまだ、まだの段階です。
この段階であれば、使用している専門の単語や用語を自由に設定出来るドラゴン・スピーチの方が良いようです。
しかし、ドラゴン・スピーチはwindows7にはインスツール出来ません。
対応していないのです。
メーカーに問い合わせても、今のところその予定はないそうです。
そんなもんかね??
応用編
論文を書くだけのメモが集まったら、その論文の形式を決めます。
私は、長い文章を書くときには、基本的に起承転結か、起転結の3段論法かのいずれかの形式で書きます。
まず、メモを準備したら、それを論文の課題に基づいて、そのどちらかの分類でメモを仕分けします。この段階で何処が弱いのかが分かります。起が弱ければ文章は唐突なものになりますし、結が弱ければ尻切れトンボの感じがします。転が弱ければ説得力のないものになりますし、承が弱ければ舌足らずの独断的な文章になってしまうでしょう。
ですから、起承転結に分けた時に、どのメモが少ないかで、その文章のある程度の出来上がりが想定できるのです。
私の学生時代、あるいは30代から40代の中頃までの時代では、まだ一般の家庭にはパソコンはおろかワープロでさえ、まだない時代でした。そのために、すべての原稿は手書きだったのです。ということは一つの論文を書き上げるのに、何度となく原稿描き直さなければならなかったのですよ。大変な手間と時間がたった一つの原稿を書き上げるのに必要でした。
まず、いきなり高価な原稿用紙に原稿を書くのではなく、大本の原稿の草案は藁半紙に丸付き数字で箇条書きをしました。
それから藁半紙の状態で箇条書きされたそれぞれの原案の細かい部分を修正したり描き加えたりしました。
その次の最も大切な作業は、起承転結などの構造式を決めて、その分類に従って箇条書きされたメモ書きを配列して行く作業である。
起承転結のそれぞれの部分で、さらに脈絡を作って行く作業をするのだ。そして一応形ができあがると最後に文脈の際の部分が不自然にならないように、文章を修正して行く。それが終わってやっと原稿用紙に清書をして行くのだ。
今ではそういった手間ひまのかかる作業はパソコンで一瞬で出来る。
ワープロやパソコンのおかげで、文章を書くという作業がそんなに根性の要る大変な作業ではなくなったのである。
でも、私達の場合、文章のタイトルが決まってから、メモをとるわけではありません。常日頃メモを残しておいて、そのメモが幾つ使えるかという話なのです。メモが100枚あって、そのうちの3枚が使えたらよい方かな?
作曲にしても、ものを書くことにしてもそんなものなのですよ。
私がドイツに留学した時に、私の師匠から言われた事があります。
「良い曲を作りたかったら、まず100曲書いて、その中から3曲を抜粋すれば良い。」そう師匠は言って、私に100曲の課題を出しました。
毎週、30曲程書いて持っていったものです。
でも、その作品が、国際コンクールで一位の入賞をしたのですがね。
それから、日本に帰ってきて、ちょうど、(というか、やっとと言うか)江古田に居を構えた頃、音楽大学の図書館から雑誌の仕事の依頼を受けた事があります。
科学技術庁の雑誌で図書館や学校に配布される楽しい雑誌です。お題は「笛の科学」なのですが、勿論、そんな学術的な(物理的な)話を書ける人は音大の先生にはいませんので、私に話が回ってきたわけです。
実際に今までに出版された本を見てみると投稿している人は一般有名大学の皆、名誉教授クラスの人達だったね。(東大とか、東工大とかの・・!)だから30歳ぐらいの人は一人もいなかったよ。
と言う分けで、20万円ぐらいかけて本や資料を買い込んできたけれど、そのうちで原稿を書くための参考になったのは、たった2,3冊で、それも数百ページもある中の1ページか2ページぐらいだったよね。
勿論、だからその仕事が私に回ってきたのだけどね。
(そうでなければ、誰か音楽大学の先生が書いていただろうよ。)
その原稿の報酬として(原稿料として)例外的に5万円貰った。
「例外的に」と言うのは、普通は一人一文章で、1万円も貰えない。
名誉教授といえども、こういった本は「書かせて貰う」という世界なのだよ。
だから本来なら、私も1万かせいぜい2万円貰うところだったのだが、特別に、書く人がいなかったので、2文章も書かせて貰ったから、特別報酬と言うわけだ。
官公庁の仕事としては思いっきり奮発してくれたんだな。
(当時はNHKなども、日本放送協会だったので、出演しても基本的には無給なのだよ。
NHKのロゴ入りの置時計を二つも、三つも貰って処分に困って兄貴の家に行って、「いらない?」と聞いたら、兄貴も押入れから、時計から、バスマットから、タオルから、出して見せてくれたのだが、それには全部NHKのロゴが入っていた!二人で大笑いをしたね!)
母にその話をしたら、「何故そんなお金にならない無駄な仕事をするの!?」と怒っていた。
最も、母はその後、広島大学の医学部の学長さんに「一冊の本を書くのにそれぐらいの投資をするのは当たり前です。それよりも本を出版すると言う事が大切なのですよ。」と反対に怒られてしまったのだけれどね。
2万部ぐらい印刷して、それを一般の本屋に売るわけではなく、官公庁や学校、図書館、病院等に(勿論、ただで)配られるんだよ。すごいよね!
話が大変長くなってきたので、読むのも大変でしょうから、今日のお話はここら辺までにしましょう。
と言う事で、「総括」ですが、文章を書くという事は、本来的には慣れです。
ですから、子供の内から、日記や覚書などを書く癖を付けることが出来たらと思います。
しかし、ラジオの子供電話相談室で、「夏休みの宿題で、夏休みの日記が出たのだけれど、書くことが見つからない。」と言う子供からの相談に対して、高名なお坊さんの先生が「今日一日、嫌な事、腹の立つ事3回ぐらいはあったでしょう?それを書けば良いのですよ。」と言っていた。
それだけは、私達の教室の中では絶対にやってはいけない方法だけどね。
(マイナーな言葉や、嫌な事は教室では口にしてはいけないことになっています。)
年をとって昔を思い出す時でも、楽しかった事を思い出す方が、よりいいに決まっているし、それでも駄目なら嫌な事を思い出すよりは、何も思い出せない方が良いのです。
後日、自分の日記を懐かしく見たときに、子供時代の嫌な事しか書いてなかったとしたら、捨ててしまいたくなるでしょう。そしたらその人の子供時代自体がなくなってしまうでしょう?
楽しかった事だから一生覚えていたいのですよ。
子供は、文字を覚えて、何か書けるようになったら、お手紙でも良いのですが、日記の方が、継続性があって良いのです。しかし、日記を子供に書かせるときには、子供達が書き方を覚えるまでは、親が見ても良いのですが、子供が嫌がったり、年齢的に小学校の高学年になったら、「うちの子供は親が日記を見ても、嫌がらないのですよ!」なんて事は言わないで、子供のプライバシーはちゃんと守ってやる事です。
そうしないと、子供は日記に嘘ばっかり書くようになります。
信じない大人が多いようですが、子供はとても嘘が上手なのですよ。子供は、大人が思うほどきれいごとではないのです。あなたの子供のときの自分を思い起こせば分ると思いますがね。
子供が、日記を書けるようになるのも、まずはメモ書きからですよ。
楽しいことを書けるようになったら、子供は自分から喜んで文章を書くようになります。
今一番欠けているのは、そういった教育なのです。
[1] 例えば、論文と言うTitleで集められていた論文は、ある程度数が纏まれば音楽関係論文と教育関係論文に分けることが出来ます。音楽関係はそれぞれ父兄に対する啓蒙のための論文と先生達に対しての指導関係の論文、教材研究等に関する論文に細かく分けることが出来ます。そういう風に最初から細かく分けるのではなく、反故が纏まってくるに従って、分ければよいのです。そして、ある程度纏まったら、1冊の論文にまとめることが出来ます。
[2] 当時はまだテープ・レコーダーも発売されていなく、新聞記者や国会などで活躍している速記者が高収入の大人気の職業であった。私も勉学上の必要に迫られて、速記法に興味を持ったのだが、学ぶための費用の高価さ、2年3年にわたって学習しなければならないその技術習得の難しさ、等々既成の方法は自分にはとても無理だとあきらめました。それなら、自分で簡単に覚える必要がない速記法を作ろうと思い立ったわけです。
[3] 私の場合には自分の携帯の定型文に「池袋の買い物memo」と登録しておいて、気がついた(思いついた)時に、その買い物のmemoを携帯で自宅のパソコンに送る。その時に件名に「池袋の買い物memo」と打ち込んで、パソコン側のoutlookの自動仕分けルールで仕事の中に作った池袋の買い物memoに自動的に仕分けされるようにしてある。勿論、池袋だけではなく、近所の買い物等も自動仕分けをする。勿論、ついでに言うと、買い物だけではなく、論文の原稿のmemo書きから仕事の予定にいたるまで全部「件名」で仕分けして携帯でメールする。