Beethovenのcellosonateの原典版について
原典版と校訂版の違いについて
Sent: Monday,
February 08, 2010 7:22 PM
Subject: ベートーヴェン
こないだお話したチェロソナタの初稿版というものは、調べてみたらば(というか楽譜を取り寄せようとネットで検索したら)、ボンのベートヴェンハウスに唯一保管されていて一般には出版されていないというものだそうです・・・。てんてんてん・・・一体どういうのなんでしょうか・・・
ちなみに私が昔アカデミアニュースで見かけたのは、「校訂批判版」でした。校訂を批判してるってことですか??批判して校訂してるってこと??
どういう意味でしょうか?とりあえず注文してみました。
2010/02/08 (月) 20:18
RE: ベートーヴェン 原典版の説明
批判というのは 、どこかの誰かが、G線上の空気とAriaを訳したように、kritik ausgabeをkritik批評するausbage 出版と言葉通りに訳したという事で、お脳の良さが反映されて良いですね。
日本語で言う校訂という言葉は異本が色々あるときにそれを比較対照してべストを選び出す事を言いますが、外国ではむしろ、校訂よりもUrtext原典を参考にする事を大切にします。
昨日のオケ練習の時に子供達に話をしたように、作曲家は色々と横着をしています。
MozartのPianosonateでB Durの1楽章で再現部に入るところで、ナチュラルか♭かで諸説紛々で、いろいろな版があります。
その原因は、Mozartは同じpassageは、小節数を数字で15とか書いて、同じpassageの繰り返しを音符では書かないのです。
しかし、提示部と再現部では、つなぎのpassageに転調楽節が入ってきます。
だから、転調のpassageではある音符がナチュラルなのか♭なのか、判断に苦しむ事になります。
音の間違いという事でも、MozartのPianoQuartettのfacsimile版がアカデミアに2万5千円ぐらいで売ってあって、ちょっと調べたいpassageがあるんだがね。
Bachの場合も、短調の導音の#を書かない癖がある。
で下降の時のナチュラルも書かないんだよ。
だからインベンションのような超popularな曲でさえ、めちゃめちゃ、版によって音が違ってきて混乱している。
この時代には、Bachのinventionを弾く生徒は、みんなBachの門下生だったからね??楽譜を正確に書く必要が無かったのだよ!!
そこで、Urtext、所謂、原典版というのが出てくる。
しかし、困ったことに、Urtext(原典)は誰が見ても同じ本になりそうなのだが、今書いたような理由のほかにも、作曲者自身が書き間違えている場合などもあって、そういった意味で、kritikが必要になってくるのだよ。Kritikという言葉には、批判、批評、異議、論評のほかに、実は判断という意味もあるんだな、実はこれは・・・。
だから、同じ原典版を底本にしていながらkritikerが変わると解釈が変わってしまうのだよ。そこで、不思議な事に誰々のkritik Ausgabeというのが色々な出版社によって出てくる。同じ手書きの楽譜でも、見る人が違うと音やその他色々と変わってしまうのだよ。
そこで、色々な校訂者やkritikerの出版した、kritik Ausgabeの出版社別によって異なる部分を、そこの部分だけを集めて、「何々の定本によると何になって、だれそれの校訂だったらこうなる。」という論文が出来る。一般だったら大学の卒論程度のlevelかな?
うちの教室だったら、中学2,3年生の夏休みの宿題の課題程度だけれど・・・。って話ですよ〜!!
2010/02/08 (月) 20:23
RE: ベートーヴェン
ちなみに、出版されていない楽譜はハイツに大量にあります。
世界中でMuchenの図書館に1冊しかないはずの超貴重書のコピーや、記念に一回だけファクシミリとして出された楽譜、100年以上前のもう誰も知らない楽譜等々、武蔵野の音大の図書館が狙っていた貴重書がハイツに誇りまみれになっているんだな、これが・・・!!
千葉教室 秋の発表会へのリハーサル(10年9月19日)後の、教室が井口版を使用していることへのクレーム
(春秋社版 《井口版》に対する不信感)
春秋社版の愛の夢のミスプリって何処ですか?
ページ段数小節の順でお願いします。
2010/09/20 (月) 18:15
春秋社の件で
あいにく今「春秋社版」を持っておらず、ページ、段がわかりません。
申し訳ありませんが小節数だけお知らせさせていただきます。
64小節目(冒頭のアウフタクトから数えはじめ、後半に戻る手前、高音から半音階で両手で下ってくる装飾音の始まる一小節前になります)
左手の「ミ♭-ソ-レ♭-ソ-シ♭-レ♭-ソ・・・・・」の二番目の八分音符の「ソ」の音です。
これは絶対に「シ♭」です。
春秋社がミスプリのつもりでなくとも、マイナーすぎて明らかにおかしいので直した方が良いと思われます。
因みに、世界の主要な版を確認してみたのですが、一社だけ「Klvierwerke社」リスト全集第六巻が「ソ」になってます。確認できた限り他の全ての版はシ♭でした。
2010/09/21 (火) 2:02
愛の夢の音の違いについての説明
ご指摘のミスプリの話ですが、「愛の夢」は教室では常設曲の一曲で、今までにも数十名の生徒達が発表会やコンサート等で演奏しています。
という事で、シ♭の版がある事と、ソの音になっている版がある事は、教室の先生達は了解しています。
ここでは、井口版のソとシ♭の違いについてと、井口版を使用する事の是非についてご説明します。
私も、以前は今程は目も酷くなかったので、生徒が持ってきた楽譜でそのまま指導していました。
殆どの日本版はご指摘のようにソではなくシ♭で書かれています。
全音版のピースですら、シ♭なのです。
ですから、その事を井口先生がご存じなかった分けは無いのです。
つまり、井口先生も異なる定本があると書かれているので、ソの音になっていると言う事は井口先生のミスプリではなく、異なった解釈にしか過ぎないという事で、私はどちらでもよいという立場をとっています。
シ♭である根拠はロマン派の時代にはピアノの音域が広がって、またpedalの性能も上がったために、一番その音響が最大に生かせる(倍音率に従った)開離体で書かれるようになったという事がその理由です。
しかし、Lisztはピアノの性能と効率を最大限に引き出す才能を持った作曲家なのです。
その特性は同じ愛の夢の中のpassageでも、例えば、ハ長調に転調したダブルバーから数えて6小節目の4拍目のレ#が8beatで書かれているのに対して、12小節目の4拍目のレ♭は単音の2分音符であり(8beatでもoctaveでもありません)、「愛の夢」も例に漏れず、至る所にこういったLisztならではの、Pianoの音の響に対しての素晴らしい配慮が見受けられます。
Lisztは曲の中で爆発的なimageが欲しい箇所では、非常に低音域でも密集体の和音を使用します。
例えばあの美しい「ため息」の突然に爆発的にfortissimoが来る14小節目からのpassageがそのよい見本であるといえます。
つまりこれ以降にはfortissimoは使用されていないのです。
同様に、この「愛の夢」の58小節目の和音はこの曲の全体のクライマックスの部分になります。
しかし、右手の和音があまりにも高音域にあるために、appassionato assai・・・affrettandoと盛り上げていったとしても、幾ら右手の和音にaccentを付けてfortissimoを強調しても58小節目ではクライマックスの「鶴の一声」を表現する事ができません。
又、当時のピアノはforte-pianoから、発展の最中で、当然、現代のフルコンほどの音量はありません。
そういった当時のピアノの音響の脆弱性も考えて、Lisztの作曲法を見ていかなければなりません。
また、Lisztという作曲家はそういった事に、十分配慮している作曲家なのです。
決して、現代のconcertoPianoの音量を考えてはならないのです。
そのために左手は分散和音ではありますが、密集体を使用して音量を補強します。
この音が最高音量でなければならないのです。
それが低音域に密集体を使用する理由なのです。
そいった解釈の結果、井口先生は敢えてソの音の版を使用したのです。
決して音を間違えたり、ミスプリを見逃したのではありません。
ソの音が正しいか、シ♭の音が正しいかは出版されている版の数で決定してはいけません。
ミ♭からシ♭は完全5度なので、和音的には安定した響きになって落ち着いた和音の感じがします。
導音であるソの音が低音に現れる事で、この最後の和音は非常に不安な響きになります。
それが、この音がソである所以です。
「Henle版であるから、正しい」という考え方は、音楽大学の先生達に見られる権威主義的な危険な考え方で私は推奨はしません。
世界的な権威であるヘンレ版ですら、既に幾つかの誤りが既に指摘されています。
では、何版を信用したら良いのか??
それは、本当に正しい版は作曲家自身の筆跡によるfacsimile版です。
例:Mozart rondo a moll 167小節目のslur
risちゃんが弾いたa moll の rondoも 春秋社版等の楽譜では幾つかのphrasierungの誤り、(解釈の違い)が見受けられ、私はfacsimile版で、Mozart自身の手書きのphrasierungを確認して、演奏させています。
以下は発見された旧versionのワープロのback・up原稿です。Gott sei Dank!
春秋社版のslurとTie(167小節目)
しかし、残念ながら、「愛の夢」のfacsimile版は、現在は手に入りません。
ですから、Lisztがどちらの音符で書いたかを知る方法はありません。
しかし、作曲学的に言うとどちらも間違いにはならないのです。
ですから、二種類の版が出版されているのです。
ですから「この版が正しい!」という事は許されません。あくまでも「私はこの版の方を好む。」と謙虚に言うべきなのです。
Chopinは、こういった低音域を密集体で固めるような作曲法は殆ど使用しません。
それはChopinがPianoの低音の響きに対して、よりピュアーであったからだと思います。
それに対してLisztは、よく、低音域に密集体を使用します。
よりピアニスティックな演奏効果を狙った作曲をしています。
ドラマティックな演奏効果、それはLisztの専売特許かもしれませんね。
という訳で、私が春秋社版を使用するようになって以降は、先生のご指摘のシ♭の音は、私は生徒達には、逆にソの音に訂正するようにさせています。
子供達の演奏では、力が足りないので、ミ♭、シ♭ レ♭では低音の和音の響きが美し過ぎて、どうしても音量や迫力に欠けるからです。
Liszt Liebestraume(愛の夢) Miho Endo(13Jahre alt) - YouTube
経緯
2010年10月13日00:14:15〜
M:春秋社版の脚注を読み上げて・・・・
え〜なになに右手の変ロ音は変二音になっている版もあるが、(云々)
I:昭和の名ピアニスト井口さんという人、 奥さんは愛子さんといって名教師だった。 基成さんは演奏もするけど分析もする人
音にこだわりがあってね、わざとドイツ版じゃない音を使ってる。
これはちょっとすごく(困る!)・・・
これはこれで綺麗なんだけど。
勉強する時は君が将来大人になって これは基成先生がこれが好きでこうしてるんだけど(?)
勉強するときは楽譜通りオリジナル版の♭で弾こう
これを?で弾く人はまずいない
それぐらい古い古典の(解釈)だからね(?)
I:演奏(2通り弾く)
M:(聴いて・弾いてみて)う〜ん レ・♭のほうだよなあ
I:本番でも、これ(?)はしない
今でこそこの春秋社版は世界一正確な楽譜って言われているんだけど それは今は基成さんでない人が編集しているからなんだよね 今の版は信頼出来るんだけど、この時代はいろいろ議論する箇所が多いんだ!
ドイツ版だとこれはレ・♭
ドイツ版というのはHenle版のことらしい!
2010/10/14 (木) 15:21
Beethovenのsonateのヘンレ版
先生は音楽大学時代に自分が使用してきた版に対して絶対的な信頼があるみたいで、「昔はそういう版もあったけれど、君が音楽界に出た時に井口版の間違いを弾くと・・」と前回と同じように、またまた井口版を古いからと言って批判してけなしていた。
という事で、私のBeethovenのsonateのヘンレ版は椎名町、江古田のどっちにあるのだ?
2010/10/14 (木) 16:35
再び、井口版について
A.まず最初に版による音の違いについて
先生は楽譜の版についてのこだわりがあるようで、とても良いと思います。
生徒に指摘されていた、春秋社版についてのお話ですが、私は春秋社版について、特別に思い入れがあるわけではありません。
以前もお話したように、春秋社版は印刷が綺麗で目に優しいから、使用しているにすぎません。
と言うか、世界的な権威のHenle版を含めて、私が信用している版はないのです。
しかし、では常にファクシミリが正しいかというと、そうでもありません。
Chopinでも、バッハやベートーベンに関しても、人間である限り作曲上の間違いはあるからなのです。また、作曲家の技術が至らなくって、明らかにミスであるという場合もあります。ChopinのEtudeにすら、そういった作曲上のミスは見受けられるのです。
ということで、私の自宅であるハイツには、例を挙げるとすればBachのインベンションに関しては、10数冊の版がありますし、平均律やベートーベンに関しても、数十冊のいろいろな版が揃えてあります。
当然、その中にはHenle版やSchnabel版もありますが、Schnabelがその箇所(62小節目)で注意書きとして書いているのは、左の文章を読んでいただくとお分かりと思いますが、「殆どの版がこの音をレ・?で書いているが、私はレ・♭が正しいと思う。」と書いてあります。
ドイツの版と言いますが、いちばん古く出版された譜面はペーター版だと思いますが、その版もレ・?で書かれています。
ちなみに、日本で出版されていて、殆どのピアノの先生たちやピアノを学習する子供達が使用している全音版や音楽の友版のソナタアルバムも定本はペーター版になりますので、当然レ・?で書かれています。
つまり、日本版、ヨーロッパ版を問わず、レ・? の方が一般的なのです。
でも、私自身がレ? を支持しているわけではありません。
私個人的には、井上先生の言われている レ・♭の方でも構わないと思います。
で、本当はベートーベンはどう書いたのか?・・・は前回でもお話をしましたように、ファクシミリ版を見ない限り、ベートーベンの意図はわかりかねます。
但し、私が「facsimile版でも信用しない。」 と言っているのには、ちゃんとした理由があります。
それは原点版(Urtext Ausgabe)やkritik Ausgabeでも、初版やその他の権威のある版を参考にする場合が多いからです。
その必然的な理由の一つは、作曲者が自ら出版に携わるときに、自分の作品をその場で校訂、加筆、訂正する事が良くあるからです。
ですから、facsimile版よりも初版の方が作曲家の意図にそぐうものが多々あります。
明らかに初版に作曲家の手が入っている場合には、そういった点を加味してfacsimileよりも初版を優先して校訂します。
又、今回のご指摘の箇所は、Henle版ではこの音の違いを示唆していません。
しかし、他の版では全ての版が脚注として、その音の違いについて触れています。
という事で、井口版が、Henle版同様に、そこの音の違いを指摘をしないまま、レ? としていたのなら、先生の指摘のように、井口先生が思い違いや大きなmissをしていたのかもしれません。
でも、脚注で書いてある事は、「こういう版もあるけれど、私はこう思う」 という事を、主張しているだから、それに対して「この版は間違いである。」 とあなたが言ってはいけないのです。
それは「自分の解釈のみが全て正しく、他は全て間違いである。」 と主張している偏見と自惚れに満ちた人達の言い方だからです。
「何故他の人はそう書いたのか?」と言う事が、理解できるようになれば、「・・こうでなければならない!」というような独断的な言い方は自然にしなくなります。
だから、「・・・こうでなければならない!」という言い方は、自分の無知をひけらかす事になるのです。
私は子供達には 「何故、そういう考え方の違いが出てきたのか?」 という事を、それぞれの主張を分かりやすく説明する事にしています。
そういった、幾つもの解釈を学ぶ事、それこそが本来の楽典の授業だからです。
教室の先生達も、そういった異なった解釈がある所は、必ず、私に「どうしてここの所は、こうなっているのですか??」と、聞いてきます。
私達の教室では先生の主観で「こういう風に弾かなければならない!」 と、生徒に押し付ける事は絶対にしません。
それは生徒の可能性を否定する事にすらなるからです。
今のコンクールでも、そういった版による違いは、評価する上で、審査基準の対象にはなりません。
さもなければ、主催者が最初からコンクールで使用する版を指定してきます。
B.本題に戻って、・・・
でも、多くの版がレ・?になっている理由は、作曲学的なSequenzの理論から来ています。
当時の時代の音楽では、3度が減3度になるという事、つまり、減3度という音程は一般的ではなく(非常に珍しく)、むしろレ・?は教会旋法ということで、現代の調性が確立するまでは、珍しくはなかったのです。
しかし、Beethovenのその62小節目は現代人には不自然に響いてしまいます。
むしろ、減3度の音程の方が自然に響きます。
レ・?の方が正しいという説にはもう一つの(現代的な解釈になる)理由があります。
それは次の小節の和音がc mollのドミナンテ(ソシレ)の和音であり、その前の和音はドッペル・ドミナントの和音でなければならないからです。
その場合にはレの音はc mollの属音であり、レの音は属音の属音の根音で、絶対的に変異の許されない音であるから、という和性的な理由からなのです。
では、どうしてそういった解釈の違いが生まれるのか?
それはb mollからc mollへの転調楽節の共通和音の部分だからなのです。
つまり、Beethovenは共通和音を設定しないままに突然、c mollへ転調してしまったのです。
そういったセオリーを無視した箇所は同じこのOp.2 Nr.1の作品には随所に見受けられます。
1例を挙げると、27〜28小節目とrepriseの126〜127小節目ですが、右手左手と同音を打鍵するという和声上の禁則を使用しています。
現代のピアノではペダルの残響で音がやせた一瞬がほとんど分かりませんが、ペダルを使用しないで一個一個の音を確かめながら演奏してみると、突然、レ、♭ラ、レ、♭ミで、音が突然痩せるのが分かります。
「Beethovenは理論より感情を優先する作曲家だから!」 といった、Beethoven擁護の声も聞こえてきそうですが、実はBeethovenはこれ以降の作品ではそういった作曲理論上のmissと思われるpassageは2度と書いていないのです。
同じBeethoven擁護の声としては 「Haydn時代とは楽器の性能が上がって、ペダルの能力も良くなったから」 という意見もあるようですが、その当時Beethovenが使用していたピアノも、晩年のピアノとは違って(まだピアノの性能が未発達だったので) HaydnやMozartと同じsingle
actionのforte-pianoで演奏しています。
この最初のPianosonateの問題点
この当時のBeethovenは、まだ自分の作品のcheckを、いろいろなHaydnやその他の作曲家や音楽理論家に見てもらって勉強している最中の時代の作品です。
初めての作品であるこのOp.2Nr.1は大変人気のある作品ですが、作曲技術的には同じOp.の作品でも、Nr.2や3の方が完成度は高いのです。作曲学的な見地と人気は常に一致しません。それが普通です。
Beethovenは推敲を積み重ねるタイプの作曲家です。
一つの作品を書き上げるのに、何十年もかけて作曲する作曲家なのです。
彼の性格で、作品も同じように感情的であると誤解して捉える方も多いようなのですが、20年も30年も同じ感情的でいられる人間はいないと思いますよ。
私が音大生の時には、ピアノの先生からはそういう風に習った覚えがあります。
「Beethovenは粗野な人だから、そういう風に(少し感情的に・・と言う意味かな?)弾かなければならない」と・・・。
ですから、そういった時代様式の解釈の違いや和声学上の解釈の違い、あるいは感性の問題で、現在ではその二つの版が並行して存在してしまっているのです。
それに、歴史に残るような作曲家で、感情の赴くままに作曲する作曲家なんて一人もいませんよ。
そういう作曲家は歴史には残らないからです。
そういった意味でも演奏家と作曲家では基本的に違います。
ですから、今回問題になっている音の違いは、前回のLisztの「愛の夢」の時にもお話しましたように、解釈の問題であって、「どちらが正しいか?」という問題ではありません。
私は音楽的に解釈するのならSchnabel版のレ・♭でもよいと思いますが、気をつけなければいけないのは、井口版と言うのは井口先生の独断と偏見ではないのです。
それまでにも、(昔々から)そういった二つの解釈があって、井口先生はSchnabel版の減3度の解釈よりも、和声の原理を優先したレ・? の解釈の方を採用したということにすぎません。
だから、その解釈を井口版のせいだけにして、「井口版は古い」 と言うのは音楽大学の先生方の常識のようですが、それは「日本版は悪書である」と言っている、音大特有の頑迷な偏見や欺瞞に満ちた、しかも勉強不足の教授たちの話です。
笑い話としては、「日本版は絶対に買ってはいけません。ペーター版を買いなさい。」と生徒に怒って言っている教授がいました。それこそ、私がまだ音楽学校の学生の頃でしたが、私達は笑いころげてしまいました。
つまり、日本版はペーター版のコピーなのです。
ですから、ペーター版を買ったところで、それはドイツの版ではなく、まったく日本版と同じ版なのです。
それと井口先生の版が、誤った古い解釈であるとするならば、その新しい解釈とされている版が井口先生の出版年次より後に出版された版でなければなりません。
殆どの出版物は、初版が出版されて以降は、全面的な変更はなされません。
私たちが差し替えと呼んでいる1、2ページの入れ替えぐらいしか、なされないのです。ですから、初版本で間違いが見つかった場合でも、30年、あるいは50年経ったとしても殆どのケースの場合には訂正されることはありません。
ですから、井上先生が正しいと思われている版の原本がいつ出版されたのかを、知ることが、井口版が古い版であるか否かを判断する材料になるのでは、と思います。
井口版は出版されて、せいぜい50年ぐらいにしかすぎませんが、ヨーロッパの版でいちばん権威のある版でも、100年以上は経っているので、井口版よりは古いかもしれませんよ?
不思議な事に、私は初版本の井口版のChopinの楽譜を持っています。
その本によると、その本の初版の出版は昭和16年です。
戦争にまっしぐらの時に、敵国であるフランスの作曲家であるChopinの作品を出版するのですから、春秋社も井口先生もたいしたものです。
そういった社会情勢の時に音楽ではあっても、敵国の作曲家の作品を出版する事はとても勇気と信念のいる事ですよね。
現代に出版されている版では、(私達が普段使用ているVivaldiのリコルディ版等のイタリアの版を除いては、)世界中で出版されている版で、音の間違いを見つける事は、よほどの例外を除きまれです。
リコルディ版では、それそこ丸々1Pageも間違っているという箇所も、よく見受けられます。
今回、珠加ちゃんの弾いたVivaldiのh mollのcelloconcertoですが、音の間違いが、何Pageにも渡ってあるので、発表会では、既存の版を使用するのではなく、全曲を新しく私が校訂をし直した版で演奏しています。
それには、それなりの理由があるのですが、その話はとても長くなるので、後日にします。
日本版も私が高校、大学時代にはmissプリントが多かったのですが、80年代後半以降は、日本の出版物もきちんとcheckされ、訂正されて、以前のようなmissと言えるmissは殆どなくなりました。
はっきり言って、ベストチョイスの楽譜を、楽譜の音のmissで選ぶ事は全く無意味です。今時、音符のmissのある版を探す事の方が難しいからなのです。
繰り返し言いますが、先生が指摘しているのは、彼が思っているような井口先生の校訂missではなくって、解釈の相違なのです。しかも、井口先生はちゃんと、「Schnabel版ではこう書いてあるが、私はこう思う」と書いています。だから、それを「間違いだ!」と決め付けるのは、絶対にやってはいけないことです。
それと、私達の教室では世界的な権威であるHenle版を、教室としては所有しているのに、敢えて子供達に買わせたり、使用したりはしていません。
それはHenle版は(教室の子供達にとっては)指使いが非常によろしくない。
指使いは、論理性や整合性が全く無く、子供達に使用するには無理があります。
具体的に例を挙げると、黒鍵を1の指で弾かせたり、4→5という難しい指使いをそれほど必然的でなく使用したり、同じphraseを2回目には別の指使いをしてみたり、等々です。
致命的な事はドイツ人の身長が180センチ以上もある男性の大きな指を想定した指使いなので、日本人の女性や、小さな手の子供達にはその指使いを守って演奏する事は不可能なpassageが数多くあります。
勿論、音大生のような大学生(大人)になったとしても、小さい手の女性であればその指使いを使用する事は無理です。
という事で、Henle版を子供達の練習用の譜面として使用することについては、それこそ権威主義的で、使用するべき根拠は全くありません。
前回のrisちゃんのMozartのa mollのrondoには、春秋社版には、解釈上の誤りと思われるものがありました。
Czerny達のロマン派の時代の解釈と、現代の最先端の解釈、所謂、古典派の様式による、当時のarticulationを再現した解釈です。
勿論、私はMozartの直筆によるfacsimile版でcheckし、当時のMozartの書いたままのarticulationでrisちゃんに演奏させています。
その時のMozartの校訂のHenle版は、どうにかMozartの書いている正しいarticulationで書かれていました。
但し、その楽譜を忠実に譜面通りに演奏していくと、現代の人達にはブツ切れの如何にもエキセントリックな表現に聞こえます。
それは、Mozartのピアノの曲はまだforte-pianoのために書かれていて、しかも弦楽器の表現で演奏をしていたからです。
当時のピアノや弦楽器は細かい表現が楽器の性能的に無理でした。
だから、articulationでそういった細やかなnuanceを表現したのです。
それを忠実に演奏すると、一つ一つの表現がぶつぶつに聞こえてしまう。
だから現代のdouble actionのPianoで演奏するときには、melodieの流れを優先して、それをおーざっぱに翻訳して演奏します。
そうすると、今の一般に演奏されるようなMozartになるのです。
・・・で、どちらが正しい演奏か?
当時の様式で演奏するのか、近現代的なdouble
actionのPianoのための、昔のままのarticulationで演奏するのか、二つの解釈の是非は演奏する人が決める事です。
それは、ドイツ語でDas ist Geschmackssache!(それは趣味の問題だ!)だからです。
ちなみに、今教室ではオケの年長のクラスでは、HaydnやMozartを古典派の様式で演奏するようにレッスンしています。
まずは、早い時期に、baroqueや古典派の時代の様式を学ぶ事、それが正しい勉強の仕方です。
その上で、現代的な解釈が好きならば、その時に自分の解釈を作ればよいのです。
古典派の基本を知った上で、現代の解釈をするピアニストと、最初から現代の演奏をする人では、月とすっぽんぐらいの演奏の差があるからです。
以上、ご参考までに
2010/10/14 (木) 16:52
RE: Beethovenのsonateのヘンレ版
先生が言っているドイツの信頼のおける版と言うのが、なに版のことか分かりかねますが、要するに「日本版は…」という音大の先生たちの考え方、そのままです。
音大の先生も、音大生も、自分が習った版が(先生が推奨してくれた版が)常に正しくて最良であると、頑迷に信じ、思い込んでいます。
前回のLisztの「愛の夢」の時にも、井口版について、先生の思い込みに対して、今回のBeethovenのsonateの場合と全く同じ話をしています。
でも、音大の先生達やフランスの先生たちから受ける、楽譜に対しての思いこみは、私がメールで書いたくらいでは、是正出来そうにもないということですね。
いずれにしても、そういった原典版に対する権威主義的な考え方をする人たちには、ヘンレ版をコピーする方が、文句が出なくて良いと思います。
その代わり、指使いも何も書いてないから、その分だけ先生の自分の負担や指導する内容が増えて、大変になるのだけどね!
Henle版に指使いが書いてあっても、それは180センチ以上のドイツ人男性用に書いてあるので、子供達は当然ですが、音楽大学の女の子、所謂、女子学生にとっても、指が広がらなくて、その指使いを後生大事に守ろうとすると、大変な思いをすることになります。
教室の方針として私が版を指定したわけじゃぁないし、先生が指使いで苦労したところで、私としては、知ったことじゃないけどね!
2010/10/14
(木) 19:47
徒然なる
先生の話とは全く別というか、同じというか、の話ですが・・・
新しくピアノの楽譜をそろえる時など、芦塚先生が春秋社版にこだわってらっしゃる理由についてちょっと不思議に思っていました(芦塚先生が井口先生の解釈の内容にこだわっているわけではないのはレッスンの様子から知っていましたが、とにかく春秋社版は注文すると時間がかかるので!それに楽器店の担当の人などは、楽譜を注文するときに「○○先生の版ですね?と確認してくる習慣がある)。ですのでいつだったか、新しく楽譜を注文するときに「春秋社版で注文しといてね、やっぱり音符が見やすいから」とおっしゃったときに「ズコッ」となったのを覚えています。
(井口版を推奨する理由が・・・)「・・・見やすいからなのか〜」・・・と(笑)。
先生と芦塚先生の考え方のズレは、楽譜というものに対する立場が根本的に違うからだと思います。
先生はイチ・ピアニスト(?演奏家?)として作曲家や研究者たちが解釈・研究した事柄を享受する立場でしかありえないのだと思います。
「自発的に解釈する、研究する」 というスタンスにはならない(もちろん演奏家の中にはそこまでするのが当然な方もいるのでしょうが・・・)。
ですので、先生のように、(自分で)「正しいと思う版」が存在して、だからこそ一つの版を「正しい」と思ったら、その考えを変えることはないのだ、と思います。(考えを変えるだけの判断能力は本人は持ち合わせていないわけですし、もし考えを変えるとしたら先生に言われたから・・とかそんな理由なのでしょう)
私としては教室の生徒たちには、人の言ったことを鵜呑みにするのではなく、自ら考えて判断できる大人になろう!というスタンスでいたいです!
平たく言うと・・・・・、つまり自分で
解釈できるだけの勉強を積まないといけない。
そういうスタンスで、(楽譜に対して)臨まなきゃいけないという・・・。
それがまた一つ芦塚メトードの特異なところだと思います。
だから楽典は大事です。。
2010/10/14
(木) 20:29
RE: 徒然なる
もう少し追記すると、楽譜のインクは基本的に皆黒ですが、古くなるとインクの劣化で青みがかって来て、薄くなるインクがあります。
東ドイツや共産圏のペーター版にも昔は良く見受けられました。
インクの質が悪いからです。
楽譜の音符の大きさと5線の比率は初見の時には、致命的になります。五線紙に対して、音符が大きすぎても、小さくても見にくいのです。フランス版に多い五線紙と音符の玉の比率です。
それよりももっと、目を疲れさせる一番大機な要因は紙の色です。
楽譜に使用される紙は絶対に白色ではないのです。
乳白色が目を疲れさせない反射を防ぐ色です。
しかし、殆どの版が反射を防ぐために、黒っぽい灰色の紙を使っています。
楽譜をきれいに見せるために、白っぽく印刷された楽譜は、長時間見ると目が疲れてしまいます。
(出版されている日本版の楽譜で、白色の紙はさすがにありません。)
乳白色が一番目が疲れないのです。それに紙の表面のでこぼこによる反射もあります。
でも、私達の教室みたいに、どんなに良い楽譜でも、一度コピーしてしまえば、全部白になってしまうから、何版でもいいのだけれどね。
世界中のChopinの楽譜の定本になっているのは、不思議な事にペーター版だそうです。
ところが、困った事にペーター版の楽譜では、Chopinが書いていない和音を補強してあったり、またその逆もあって、徹底的にChopinの作曲をkritikしています。(本当は改ざんという言葉を使うところでしょうがね。)
楽譜の記譜上の誤りを修正するのではなく、Chopin自身の作曲を修正しているのです。(平たく言えば、勝手に書き換えたってことですね。)
世界中の出版されたChopinの楽譜は、今日でもそのペーター版の(何処の誰だか知らない校訂者の)修正された楽譜を定本として使っています。
つまり、最初にChopinの曲を出版した初版本だから権威があるのですよ。(誰かが勝手に書き換えたとしてもね!)
それに怒ったポーランド政府は、昭和60年代に、ポーランド政府監修(!)の原典版に、しかもfacsimile(写真)を添えて、facsimile版としては、非常に安い値段で世界に配信しました。
世界のChopinの楽譜の、間違いを正すためです。
おかげで、苦学生であった私もChopinのたくさんのfacsimileを非常に安く購入する事が出来ました。
しかし、それから、40年以上経った今日でも、世界のChopinの楽譜は何一つ変更されてはいません。相変わらず、ペーター定本のままです。
もしも、facsimile通りにコンクールや音楽大学の入学試験で弾こうものなら、即、失格です。
ハッ、ハッ、ハッ!
Bachの場合も、短調の導音の#を書かない癖があります。
それで下降の時の?も書かないんだよ。
だからインベンションのような超popularな曲でさえ、めちゃめちゃ、版によって音が違ってきます。てっきり、子供が間違えて弾いたと思ったら、版が違ったりしていて、しっかりと子供に怒られたりして、lessonが混乱してしまいます。
アハッ??
そこで、Urtext、所謂、原典版というのが登場します。
しかし、困ったことに、Urtext(原典)は誰が見ても同じ本になりそうなのですが、今書いたような楽典的な理由の他にも、作曲者自身がうっかり書き間違えている場合などもあって、そういった意味でkritikが必要になってくるのですよ。
Kritikという言葉には、批判、批評、異議、論評のほかに、実は判断という意味もあるんですな!実は・・・!?
だから、同じ原典版を底本にしていながらkritikerが変わると解釈が変わってしまうのですよ。
そこで、不思議な事に「誰それのkritik Ausgabe」 というのが、色々な出版社によって出てきてしまう。
同じ手書きの楽譜でも、見る人が違うと音やその他の色々な所が変わってしまうのだな。
通常はこれだけの話になるのでしょうが、問題はもっと複雑になります。作曲家が初版や第2刷等の校訂に立ち会った場合、作曲家が自分の作品を出版の段階で訂正する事がままあるのです。その場合には大元の原稿(所謂、facsimile)は訂正されないままになってしまいます。
又出版された曲が何度も刷り直され、その都度作曲家が立ち会った場合には第1刷ではこう書いてあるのに、第2刷ではこういう風に訂正されている、という事もあるのです。しかも、作曲家の死後も、校訂者によって、勝手に書き加えられた譜面も数多く存在します。そこで、原典版(UrtextAusgabe)というのが、必要になってきます。しかし、気をつけなければいけないのは、多くのpedalの記号や指使い等は作曲者は記入していません。(Chopin等はMazurka等の曲で一部だけpedalを記入しています。しかし、それはほんの一部にしか過ぎません。)
Mozartにいたってはpedalを書かない事は当然ですが、forte、Pianoすら書いていない事のほうが多いのです。(それどころか、Mozartの場合には前述のように、reprise(再現部)や単純な繰り返しは、書かない場合の方が多いのです。そのpassageに中に転調楽節等が含まれていたら大変です。又、Mozartの場合には、その転調楽節の変化する音が入っているpassageが、省略されたpassageの中によく含まれているのだな。これが・・・!)
そこで、色々な校訂者やkritikerの出版した、kritik Ausgabeの出版社別によって異なる部分を、そこの部分だけを集めて、「何々の定本によると何になって、だれそれの校訂だったらこうなる。」 と纏めるだけで、一冊の論文が出来る。
一般のlevelとすれば、大学の卒論程度のlevelかな?
うちの教室だったら、中学2,3年生の夏休みの楽典の宿題の課題程度のlevelだけれど・・・。
って話ですよ〜!!
2010年2月20日
東京 江古田の
一静庵の寓居にて
最終更正終了
芦 塚 陽 二 拝