私がミュンヘンに留学していたころの話です。
午前中の授業が終わって、友人とともに郊外の下宿に帰ってきて、何気なくラジオのスイッチを入れたら、美しいドイツリートの調べがスピーカーから流れてきました。何という美しいリリコ・ソプラノでしょうか!その声のつややかで華美で透明なこと!リリコの特徴である軽やかで、まるで天上から響いてくるような、優しくて温かい声です。
あまりの素晴らしさに友人と「これはいったい誰なんだろう?」
エリザベート シューマンやシュバルツコップのなどの超一流のリリコの歌手を思い浮かべました。しかしこんな素晴らしい歌い手は想像がつきません。「いったい誰なんだろう?」数曲歌い終わると、男性のインタビュアーと対談が始まりました。たどたどしいというほどではないが、あまりうまくないドイツ語―ということはドイツ人ではないということです。
インタビュアーは彼女に質問をします。「あなたは大変リートが好きだと聞きましたが、リーとをレコーディングする気はないのですか?」彼女は答えて「私はリートが大変好きなので、家でよく歌っています。私にとってリートは勉強であると同時に大切な趣味なのです。ですからコンサートなどで歌うことはもちろん、レコーディングなどする気は毛頭ありません。」
それからインタビュアーとの話はワーグナーの話、バイロイトの話、ブリュンヒルデの話に移って行きました。私と友人は納得して感嘆していました。今世紀最大のワーグナー・ゼンガリン、ビルギット ニルソンだったのです。
でもビルギット ニルソンは世界最大のドラマティコ ゼンガリンです。ドラマティコといえば、あの広いオペラ座の最上階ですら、そしてワーグナーの大オーケストラの耳をつんざくばかりの大音響をつぶしてしまうほどの声量を持っている歌手です。ニルソンの声量を思うにみると、チャーリー チャップリンの無声映画などで、ソプラノ歌手が家の中で声を張り上げると窓ガラスや壁に吊るされた鏡が割れるシーンなどがありますが、それが本当のような気がしてきます。
ドラマティコとは正反対の極致にあるリリコを完璧に歌いこなせるニルソン、しかも世界最高、と呼ばれている人があたかも学生のように見えるように、その完璧さは筆舌に尽くしがたいものがあります。世紀のドラマティコ ゼンガリンであるビルギット ニルソンが、世紀の(隠れ)リリコ歌手でもあったということです。