Niveau(水準)のお話

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「年齢とNiveau」

「目標とNiveau」

一般の音楽の指導者は、音楽の教育教材について

 

[年齢とNiveau]

学ぶ事というか、勉強の中には、ある程度の事を勉強すれば、終わりがあって、それ以上そんなに勉強をする必要のない、ちゃんと終わりの来る勉強と、永久にエンドレスの勉強があります。

世の中の勉強と言う勉強の大半は、エンドレスの勉強の方が、90%以上を占めていると言えるでしょう。

勿論、音楽の勉強では当然な事なのですが、それ以外の一般的な勉強でも、「一回で出来上がる勉強」と言うものは[絶対に]存在しないのです。

 

この話をすると、一般の人達は「そんなことは当たり前ではないか!?」「何をいまさら・・・。」と、おっしゃるかもしれませんね。

しかし、周りをよく見るとその当たり前が、ちっとも当たり前ではない事に気付かされるのです。

という事で、音楽教室の例をあげて説明していきます。

普通、一般の音楽教室等では、曲を学んで発表会等で演奏すると、その曲は卒業となります。曲だけではなく、BeyerやCzerny等のエチュードも当然、一回、lessonで合格すると、その曲を改めて勉強し直す事は,殆どありません。勿論、先生を変わったりした場合には、やり直させられる事はよくありますがね。それが、普通で当たり前、疑問に感じる余地はありませんよね。

しかし、そこには課題の「Niveau(ニボー・水準)」の問題が歴然と残っているのです。Czernyのエチュードのような純粋に技術的なエチュードでなかったとしても、初歩のBeyerの教則本であったとしても、音楽的なアプローチ以外にテンポの設定の問題があります。Beyer教則本の101番代からの曲は、その拍子感を生かすためには、あるテンポ以上のテンポで弾かれなければなりません。新しい編纂のBeyer教則本ではそういったテンポ感(拍子感)やそこのlevelの課題を無視して、ただ単に「その課題の曲を遅く弾くと簡単だから・・。」という理由で、順序を入れ替えている教則本が多く見受けられます。これもBeyerの指導の意図、が見えない編纂者の愚鈍さの現れでしょう。

 

私のlessonの場合ですが、音楽大学の進学を目指す小さな生徒が、Beyer⇒Burgmullerと進んで、その次にCzernyの30番のエチュードに進んで、子供が30番を全曲クリヤーしたら、もう一回Czerny30番を最初から学ばせる事をよくします。

但し、2回目では、譜読みは、当然終わっているし、暗譜も出来ているわけですから、弾くだけなら、一瞬で出来ます。

だから、次の課題はin tempoで、しかもnon missで、例えEtudeであったとしても、音楽的な表現も含めて演奏する事が課題です。[1]

 

同様な課題の与え方は、発表会等で演奏するChopinのEtude等も同様です。

一つの例としてお話しますと、上達の早い生徒は小学生の4,5年生の時にはChopinのEtüdeの中の「革命」や「黒鍵」、或いは「木枯らし」といった有名な曲を発表会で演奏することがよくあります。

しかし、私のcurriculumでは、その曲はそれでその曲が合格し、卒業出来た分けではありません。

その生徒が中学生になった頃にも、その生徒が次のstep(level)に達したら、再び、また小学生の時に勉強した同じ曲(この場合は「革命」や「黒鍵」、或いは「木枯らしのEtüde」という曲になりますが)を再び発表会などで、演奏します。

同様に、高校生、更に大学生になってからも、その生徒のstep(stage)が上がるたびに同じ曲をlessonして行きます。

しかし、その都度、目標のNiveauは高くなります。

つまり、生徒はその年齢や技術水準、或いは心の成長によって、その曲に対してアプローチ出来る限界が自ずと決まっているからなのです。

ですから、小学生のときはどんなに一生懸命頑張っても、その曲の目標の達成度の50%以上は到達出来ないでしょうが、中学生になれば、曲のアプローチの水準を70%まで上げても、そのlevelまでは、私のレッスンの内容についてくることが出来るようになります。ましてや、おなじChopinのEtüdeでも、大学を卒業してプロになるためにレッスンを受ける時では、そのアプローチのNiveau(水準)が全く違うのです。

つまり、私のlessonは、あくまで本人が理解出来るようになって、演奏表現が出来るようになった技術まで、その曲のレッスン内容、指導内容のアプローチを上げていくのです。

少しくどいかもしれませんが、あえて言わせて貰うと、教室のインストラクターや演奏家を目指す人達は、逆に、どんな簡単な曲(Beyer程度の曲やBurgmuller程度の曲)でも、Pro-versionのNiveauで、私のレッスンを受けなければなりません。

 

繰り返しになってしまいますが、この話、つまり、同じ曲を年齢や技術が上がるに従って、繰り返しアプローチさせると言う勉強法は、私の音楽教室に在籍している全ての生徒を対象にした指導法ではありません。

あくまで、音楽専科の特別な生徒のためのカリキュラムなのです。

つまり、私達のレッスン内容は、その生徒のキャパシティや将来の目的によって、その日その時のアプローチのNiveau(水準)が決められるのです。

 

[目標とNiveau]

ここで、あえて、「将来の目的」という言葉を使ったのは、子供(或いは親)が「将来、音楽を職業としたい。」「音楽大学に進学をしたい。」という夢を持っているとすれば、当然、音楽大学の受験が出来るようになるlevelまでや、プロとして活動するという年齢までに、あらかじめ習得されていないとならない音楽技術の年齢のタイムリミットとの相関があるからです。

少しややこしい言い方になってしまったので、具体的に例を挙げて説明しましょう。

AちゃんとBちゃんという同じ年齢の子供がいたとします。

 

Aちゃんは、一般の生徒で、父兄も本人も「音楽を趣味として楽しんで接して行きたい。」という希望だとすると、Aちゃんには、年齢で到達すべき音楽技術の縛りはありません。

あくまで、日常の生活の中で自分の息抜きとして趣味として音楽と接していけばよいのです。音楽の勉強には何の制約も問題もありません。(指導者への蛇足)[2]

 


問題はBちゃんの場合です。

Bちゃんは、本人の希望か親の希望かは知りませんが、Bちゃんの将来の希望が「音楽大学に進学したい。」ということであるとすれば、当然、Bちゃんは、何年か後には、音楽大学の受験をするわけですから、必然的に、それまでに、専科の勉強の他に、楽典やsolfege等の勉強も平行してしなければならないし、何年後かには、その目的となる大学の技術の合格圏内のlevelに到達出来ていなければなりません。

そのためには、音楽大学の受験のためのNiveauから逆に、現在のBちゃんの音楽技術の水準まで、レッスンの内容や課題曲のアプローチの線を引く事になります。

本人や親にとっては、音楽大学の受験なんて、何年も後の話なので、ついつい今の学業や学校の生活を重要視して、音楽の勉強を後回しにしてしまいます。

極端な話をすると、「将来音楽大学に進学するか、どうかは一生の事だから、高校生にでもなってから決めればよい。」と言った親がいましたが、これは論外です。

音楽の勉強は技術職であり、専門職なので、スケートやバレーのように体を作っていかなければなりません。

同じ芸術でも、絵画や彫刻、或いは小説家や詩人になる事とは違います。早期教育、早期の勉強のスタートが必要条件になります。

それだけではなく、どんな勉強でもそうですが、受験の最後の年は、受験生にとっては山登りの8合目、9合目のラスト・スパートになります。この段階でどのように頑張っても、同じlevelをキープ出来るのが関の山です。皆同様に必死に頑張っているのですから、そこで、自分の周りの受験生を「ごぼう抜き」が出来るような奇跡は絶対に!ないのです。

それに、このお話で問題にしているNiveauの問題があります。それぞれの年齢で到達していなければ、次のstepには進めないからです。小学生の時に学んでおかなければならないcurriculumを中学生になって挽回しようと思っても、中学生の時には学ばなければならないcurriculumが目一杯にあるからなのです。一度遅れると、それを取り戻すのは大変な根性が要ります。親が子供を甘やかしてそのタイミングを逃した場合には、親の願望とは無関係に、その子供にはそのcurriculumの遅れを取り戻すだけの根性は、最初から無いと思った方がよいのですよ。

もし、その根性があるのなら、小学生の時にタイミングを逃す事はないからです。

つまり、富士山の8合目、9合目で短距離選手のような走り方が出来る生徒なら、小学生の時にタイミングを外すような事は、絶対に有り得ない、ということなのです。

音楽の場合には、音楽の道に進みたかったら、「進もう!」 と努力しないといけません。絶対に、「あわよくば、なれるかも・・」 という世界ではないのですよ!

まあ、至極、当たり前の事ですがね。

 

昔々ですが、教室に高校1年生の可愛い女の子が母親と私の元に訪ねて来ました。千葉中の音楽の先生で「音大に進学させることの出来る先生」(若しくは音大に生徒を入学させたことのある先生)の所を片っ端から回ったのだが、Pianoの水準が少し足りないので何処の先生からも、断られてしまったのです。(勿論、その生徒は高校生になって音楽を始めようとしたわけではありません。子供の時からちゃんと音楽の勉強をそれなりにはしてきたのだけれど、憧れの音楽大学の合格ラインには達しなかったという意味です。)

母親もその音楽大学を卒業しているので、「何とか自分の卒業してきた音楽大学に進学させたい。」と言うのが、母親の夢でもあり、子供も、「幼いときから音楽を勉強して来たので、音楽の道に進みたい。」と思っているようでした。

その女の子のネックは勿論、技術面の遅れでしたが、私が危惧したのは、彼女が通っている高校が千葉県でも指折りの受験高校だったので、音楽の勉強と学業を両立させる事は不可能である、と言う事を本人や母親が納得出来るかという事でした。

という事もあって、一度はお断りしたのですが、母親の、千葉中の音楽大学に進学させる事の出来る先生はそんなにはいないので、全て訪ね歩いて、高校からと言う事で最初から断ってくるssが大半で、殆どの先生は会ってもくれないので、私に断られたら「もう他に訪ねて行く先生がいない。」と言う悲痛な頼みであった。

彼女が受験の名門校に行っている事もあって、当然学校の勉強との両立が不可能である話をして、「学校の勉強を犠牲にして、音楽の勉強に専念するという条件なら、特別に私が引き受けてもよい。」という約束を母親から取り付けて、音楽大学受験のための指導を始めました。

4月から7月頃まではなかなか順調に音楽の勉強をしてきて、遅れを取り戻しつつありました。

ところが、7月のある日、母親から電話があって、「学期末の試験があるので、lessonをお休みさせて欲しい。」と言う話でした。

私が「学校の勉強や試験よりも、lessonを優先すると言う約束だったのでは?」と、母親に質問すると、「でも、学期末試験は、成績に直に影響するし、周りのお友達と勉強で差がつくと、子供が可哀想だから・・」という話でした。

「お休みされるのなら、もう来なくとも結構ですよ。」と言って、その場でその生徒は破門しましたがね。勿論、母親は電話の向うで、うろたえていましたがね。そういう親はその時は、認めてあげても、断っても、必ず同じ事を繰り返してくるのです。そうなると、私は自分のcurriculumを通す事は出来なくなってしまいます。「それにしても、1回のそんな話で即破門は厳しいのでは・・・??」

「厳しい??」・・・だって、受験生なのですから、私のcurriculumに乗ってくれないと、私が責任を取る事は出来ないのですよ。

私が責任を持って、音楽を教えている以上、私の親との約束・・・、つまり「音楽大学に入学させる」と言う責任が、私にとっては何よりも優先しますからね。これを一般的には至上命令といいます。

もし、親が勝手に学業を優先した事で、私が生徒を受験時までにNiveauに到達させることが出来なかったとしても、親はその原因を、自分達の甘さではなく、必ず、先生の性にするのですよ。絶対に自分の性にはしないのです。

だから、責任の取れない事は、最初から「夢を見せない事」が、先生としての良心なのですよ。

 

蛇足:

どうでもよい話ですが、先ほどのAちゃん、Bちゃんの例に戻って、父兄は私達が優しく教える趣味のAちゃんを「先生はえこひいきしている。」と言ったり、音大に進学させるために厳しく指導しているBちゃんの方を「先生はえこひいきだ!」と言ったりして来る父兄がいたりします。[3]

その時の父兄の願望と感情[4]で、あちらサイドになったり、こちらサイドになったりする訳です。

「AちゃんとBちゃんでは、音楽を勉強する目的が全く違うから・・」と言う話をしても、なかなか分かってはくれません。

自分の子供が、趣味で、練習もしなくっても、しかも教室で一番上手なら、文句はないのでしょうがね。そんな美味しい話は、有得ない話なのです。

 

この話を長々とするのは、このお話が別に音楽に限った事ではないからです。

どんな仕事でも、人生に目標がある場合には、その時、その年齢での技術のNiveauを達成していかなければならないという、そこの処はどんな職業でも同じなのです。

 

蛇足ついでに、音楽を専門に進む生徒についてのお話ばかりになってしまったので、先ほどお話をした、Beyer教則本の話を追記しておきます。

音楽を学び始めた生徒が、上手になっていく過程で挫折させないように、Beyer教則本の段階でNiveauをしっかりとキープする事は、とても大切な事です。指導者がBeyerの中のそれぞれのgradeのlevelをクリヤー出来なければ、次のstepでの躓きの原因になってしまいます。ブルグミュラーやsonatineの段階で挫折する生徒の大半は、Beyerの教則本の課題をクリヤー出来ていない事に原因を見出す事が出来ます。

しかし、ホームページでも詳しく説明しているように、Beyer教則本の後半、特に80番代から以降のcurriculumは課題が少なすぎて、技術levelの勾配が急激過ぎます。そのために生徒はどうしても、クリヤー出来ない曲が出てきます。私はその場合には、(というか、80番代の話ではなく、Beyer教則本を学び始めた初歩の段階からなのですが・・・、)その曲が3週間、4週間かかってもクリヤー出来ない場合とか、(或いは、その曲が3,4週間かかった場合には)☆マークをつけて、後回しにします。そしてBeyerの教則本が終了した時点で、もう一度☆マークの曲だけを、勉強します。Beyerをクリヤー出来た後では、その☆マークの曲も軽々とクリヤーする事が出来ます。

その事によって、Beyerの目標のNiveauを下げる事もなく、Beyerに点在する非常に難しい課題を、生徒の負担もなくクリヤーさせていくことが出来ます。

 

 

これから先は音楽の指導者に対しての「指導上のNiveau」のお話です。

本来的には、この文章の中には、入る内容の文章ではありませんが、「Niveau」という(括弧括り)なので、この文章が入っています。

指導という事に、興味がある方は、ご参考までに・・というぐらいの意味合いです。

 

[一般の音楽の指導者は、子供の教育教材について・・・]

音楽大学を卒業した先生の多くは次のように考えています。
(・・・或いは自分では気付いていなくとも、潜在意識的にそう思っているのです。) 

「子供の音楽の指導ぐらいは勉強しなくとも、教えられる。」

 「子供のBeyerやBurgmüllerなどの初歩の教育教材なんか、予習も復習もしなくても充分理解できている。
私は音楽大学という最高学府を卒業したのだから、そんな初歩的な教材など、勉強しなくとも出来て当然だ。」とそのように思い込んでいる音大生が多くて、なかなか面接にいらした先生達に「子供の教育教材を勉強するということ」を説明しても、なかなか理解してもらえない・・・、という事は、再三に亘って、論文やホームページ等にも書いてまいりました。

ではどうして、将来、音楽教室や自宅で教える事の多い音大生が、そういう風に思うのでしょうか?

それは、よく調べてみると、必ずしも、「音大生の無知やうぬぼれによるもの」とばかりではないような気がしてきます。

 

私なりに、今まで、色々とその原因を探って見たのですが、従来の(西洋音楽の導入時からの)「子供達の音楽教育」そのものや、子供を取り巻く、音楽の環境自体に、その究極の原因を見出す事が出来るように思われます。

とっても難しい言い方になってしまいましたが、まずは一番目には、音楽大学を卒業した学生の殆んど90%以上の人達が何らかの子供の指導に携わっているのにもかかわらず、対象年齢による子供の心理学的な成長、或いは、実際に指導するときに必要なバイエルやBurgmuller或いはソナチネなどの基本的な教材の研究と指導方法、そういったカリキュラムのある(授業のある)音楽大学ないという事です。[5] 

ですから音楽大学を卒業した若い先生に対して、私が「初歩の教材にもその曲の演奏法や指導のための勉強が必要である。」と言う事を説明して、初歩の教材の指導案や演奏法をlectureすると、まずそこでカルチャーショックを起こします。「えっ?!、こんな曲がそんなに難しかったの!?」それで、何度弾かせても弾けないんだな・・これが・・! 

つまり若い先生は教室に面接に来られた時には、「自分は何処そこの音楽大学を出ているのだから、巷の音楽教室なんて、何処の音楽教室でも、もろ手を挙げて、即戦力として迎えてもらえる。」と考えているからなのです。

しかも、私達の教室の先生になる条件として、「先生たるものは、自分が指導する教材は必ず全曲暗譜をして指導しなければならない。」とかいう条件を突きつけられると、面接にこられた若い先生方のすさまじいプレッシャーになるようです。

でも、子供の指導をする時に、譜面を見て指導していては、生徒が間違えた指使いをしていたとしても、間違えた手の型をしていたとしても、それをcheckする事は出来ないと思いますよ。若い先生の中には生徒が間違えた音で弾いていたとしても、気付かない先生もいるのですからね。つまり、その曲を予習していないので、正しい音が分からないからです。

それに、例えBeyerが106曲あったとしても、Chopinのバラード1曲よりも音符の数は少ないはずです。それ(それついで)に、その教則本で10年20年と、100人以上の生徒を指導するわけなので、その努力は報われない事は絶対にないのです。しかし、若い先生達にはそれが分かりません。初歩の教材等は勉強しなくても教えられると、固く信じているのです。

そして、私達が教育の理念とか、子供を指導する上での心構えなどを説明すると、若い先生達はとても驚いた顔をして「先生方は子供を指導することに対して、とてもプライドをお持ちなのですね?」と言います。

「おい、おい!君らはプライドがないのかい?」
プライドがなくて、どう生徒を指導するのだろうね。

音楽大学を卒業しても、音楽教室等で子供の指導を続ける先生達は、proの演奏家として活躍したいという願望を持っています。
そのために音楽に関わって行くために音楽教室で指導をする人達が多いようです。
しかし、その割には、子供の音楽への蔑視が無意識にあるようです。
それが初歩の教材を疎かにする原因でもあるようです。
子供の音楽や教材に対しての蔑視が、自分がproになるための道を阻害しているという事に気づいてはいません。
私がアマプロと呼んでいる人種の人達は、自分で音楽を意識的にも、或いは無意識ででも、自分がproの活動と思う活動と、ただ生活のためにやっている仕事を分けて捉えています。
それを私は、サラリーマン的なproと呼んでいます。
つまり、働くという事は仕事のためではなく、家庭という自分の最も大切なものを守るための仕事なのです。だから、自分の居場所は仕事場にはなく、家庭がその人の全てなのですよ。
トレンディー・ドラマを見ていると、バリバリのキャリアが、家庭的であるという夢みたいなドラマが展開して行きます。まあ、それが一般人の願望なのでしょうから、致し方はありませんが。
本当のproと呼ばれる人達は、初歩の教材でも、初心者でも全力を尽くして指導します。
獅子は、ネズミを捉える時でも全力を尽くすのですよ。
それがproです。
proに手抜きはありません。
何故??って・・・???
手抜きをしたら、その手抜きの位置がその人のNiveauになってしまうからです。
恋人の事を考えて、一瞬でも演奏にホコロビが出来たら、そのホコロビの位置がその演奏の水準になってしまうからなのですよ。

家庭に帰って、そこで自分の魂を脱力させたければ、その家庭の脱力をした姿がその人のproとしての水準なのですよ。
proは家庭人には成り得なくって、家庭人はproには成り得ないのですよ。
一つを得る事は、一つを失う事です。
トレンディ・ドラマでは、それだけは認められないようですが、proとはi dentityなので、その原則は変わらないのですよ。

しかし、世の中には、proであって、しかも良き家庭人であったBachのような人も希にはいます。仕事と家庭と親を両立させている女性も何人もいます。
しかし、そういった人達は、ある意味ではずば抜けたスーパー・ウーマンであるのですよ。
我々のような一般人には、とても真似は出来そうにはありません。
水準はその人の持ち物の一番低い所で、決まるのですからね。

 

医者は、誤って誤診をしてしまうと、患者を殺したりすることがあります。

私自身は、殺されはしませんでしたが、私も若いインターンの過ちで、高校生の時に腎臓を一つ失ってしまい、半年以上の大学病院での入院生活を余儀なくされました。

勿論、今では医療過誤の問題として大きな事件になったかもしれませんが、当時は大学病院のそういった事件は、大学病院内部でひた隠しに隠されて、そういった問題が表ざたになることはまず無かったのです。
では私がなぜ表ざたになるはずのないその事実を知っているのか?
答えは簡単です。
私を執刀したその大学の教授は、私の養父の友人でもあったからです。
(ついでにいうと、そのときの教授は、私の死んだ父の後輩になります。)
・・・というわけで、私を含めて、その事実を知ってはいたのですが、身内の不始末と言う事で、裁判にもならなかったわけです。

とある先生が、Pianoを指導していたとして、その先生の指導のマズさで、子供が一生、音楽を嫌いになってしまったからといって、それが子供の命と何ら関係があるわけではありません。

しかし、私にとっては、「もし、子供が、その先生の指導で、一生(ピアノを嫌いになる)或いは、音楽を嫌いになった」としたら、その事は、健康になる可能性のある子供から、腎臓を奪い取る事と、大して変わらない事のように思えますが、いかがなものでしょうか?

蛇足ですが、日本の学校教育では先生が子供を傷つけるのは大変な問題になります。
ただの教育上の体罰であったとしても、新聞やテレビのニュースになったりします。

しかし、子供の心の傷については、先生だけではなく父兄でさえも殆ど無関心です。
それがトラウマになろうと、体さえ傷つくことが無ければ問題視される事はありません。ですから、音楽を指導する先生達は、子供達があれだけ憧れていたピアノの練習を嫌がるようになったとしても、或いはPiano自体を嫌いになったとしても、それは本人に才能が無かったとしか思わないのです。
(音楽に限った話をしているわけではありませんよ。)

 確かに、一般の音楽教室でもベテランのピアノの先生になると、先生も生徒に暗譜で教材を指導していらっしゃる先生はたくさんいますが、それは経験年数で自然にたくさんの教材を覚えて行ったにすぎません。

大学病院に勤めている私の友人の言葉で言うと、「医者が一人前になるには、最低でも2,3人は殺さないとね!」

 

勿論、大手の音楽教室では、少しでもより良い先生を迎えるために、大学自体に期待するのではなく、会社としての対抗策を講じています。

大手の音楽教室では、それぞれの会社で独自に、先生になるための資格審査試験をして、その試験に合格した先生だけを採用するようにしています。又、昇給も試験のグレードによって歩合が変わるようにしています。しかし、残念ながら、その試験内容は、音楽教育の実践的な内容ではなく、音楽大学の入学試験の内容と基本的に変わるものではありません。また、グレードの試験も、内容的に直接子供の指導力を見るのもではありません。

また、大手教室の音楽教室では、その教室の先生を対象とした教材研究などの公開講座などを催しておりますが、殆どは受講する先生の自腹であり、しかも希望参加に過ぎません。
音楽教室によっては、その教室のオーナーの考えで、若い先生を強制的に公開lesson等に先生を参加をさせて勉強させているケースもありますが、いずれにしてもその受講費用は殆どが本人負担です。
先生が教材を研究して、Niveauを高めるための、費用も自腹では、そこまで指導に価値観を持っていない若い学生上がりの先生では、勉強しないのも当たり前です。

しかし、学ぶ方の生徒の父兄も、「所詮は学業の合間の教養の一環だから、そこまで深く勉強する必要もないし・・。」なら、利害が一致して問題はないわけですよね。
つまり、音楽大学の付属の教室のような例外的な教室を除けば、私達の教室のように、巷の音楽教室の場合には、父兄の人達もそれだけの教育を望んではいないのですよ。
だから、巷の音楽教室が、Niveau云々という事を口にする必要もないのです。
・・・ということは、この文章自体が、既に、無駄な文章になってしまうということなのですよね??!
ハッ、ハッ、ハッ!

というわけで、この話は御父兄を対象とした内容ではなく、あくまで就職をしようという先生達を対象としたお話なので、ここではこれ以上は踏み込まない事にします。

こういった内容に興味をお持ちの場合には、芦塚音楽研究所のホームページの就職の欄や「芦塚先生のお部屋」の「インストマニュアル」にかなり詳しく書かれていますので、そちらの方をご参考にお読みください。


今回、講師募集の希望者の先生達と音楽教室の求める人材のギャップに、新しく講師募集のPageを増やしましたので、講師希望の先生達はそちらのサイトをご覧ください。

 

 



[1] まだ、同じエチュードを繰り返し勉強する事を嫌がる生徒には、曲を変えるために、小さな手のためのエチュードを先に勉強させて、それからCzerny30番のエチュードに入らせる事もよくします。小さな手のためのエチュードと30番のエチュードは殆ど同じlevelのエチュードだからです。

[2] しかしながら、よく音楽を指導する先生方が誤解をする事は、幾ら生徒が趣味で、楽しみで音楽を学んでいたとしても、「その曲の必要最低限のボーダーラインは厳然として存在する」 という事なのです。

よく一般の先生が犯す間違いに「子供が好きな曲を弾きたいのだから、少々下手でもいいだろう。」「どうせ、聞きに来るのはお友達なのだから、好意的に評価してくれるに違いない。」と、思い込んで、子供に無理な選曲をする先生がいます。

それがレッスンだけならまだしも、(お友達の評価の対象にはなりませんが、)発表会等で生徒が弾いた時には、表面的にはお友達は褒めてくれたとしても、子供達の本音はきつい(厳しい)ものです。

その生徒の発表会の演奏を聞きに来てくれたお友達から、嘲笑の矢面に立たされる事になってしまいます。結果、発表会が終わったら、音楽を学ぶ事をやめてしまう生徒が出てきます。

それでも、先生は「**ちゃんの好きな曲を弾かせてあげたのに、何でやめたんだろう?」と、考えています。まあ、そういう先生は放って於いたとして・・・。

[3] 優しくという意味は、趣味のAちゃんに対しては優しく接して、音楽専科のBちゃんに対しては厳しく接する、という意味では、勿論、ありません。私達の指導の場合には、子供に対しては例え、相手が受験生であったとしても、当たりをきつくして、指導する事はないからです。たとえ受験生であっても、プロを開いてとする場合でも、冗談を言ったり、笑いながら楽しくlessonをする姿勢は変わらないからなのです。

[4] 親の子供のlessonに対しての感情と願望は極め付けに勝手なものです。発表会が近づくと、子供の技術や表現に口を挟んで来て、もっと厳しくとか言って来るのだけれど、発表会が終わって学校のテストが近づくと、「練習よりも勉強をしなさい!」とまくし立てるのですから・・。振り回される子供達もかわいそうです。

[5] そう言う事を言うと必ず音大生や音楽大学の卒業生に、「私の音楽大学には子供科があるし、子供を指導するための、先生達の講座もあります。」と反論されます。しかし、わざわざ自宅から遠くの音楽大学まで無理をして通ってきている生徒達は、最初からその音楽大学を目指している(或いはもっと上の音楽大学を目指して頑張っている)どんな厳しいしごきにでも親子して耐え得る特殊な生徒父兄なのです。

そういった生徒を対象にした講座を音楽大学の先生が100年したとしても、それは一般の音楽教室の生徒や父兄に通用するわけではありません。世間一般の「音楽大学に進学させるのならば、音大の先生に付かなければ。」と言う風評に踊らされて、音楽大学の先生の所へ行った教室の優秀な生徒の数多くが挫折して楽器を二度と弾かなくなっています。何とか音楽大学に入学できた生徒も教室に来て、後輩達と一緒にオケを練習しながら「私、下手になったでしょう??」って、嘆いています。

・・・って言うか、教室には寄り付かないOGの方が普通なのですがね。