音楽大学時代

 

勿論、田舎の地方都市にいた私が音楽に対して夢を抱き、音楽のproを目指すには、何かしらの選択権は全くありませんでした。

お定まりの、100年も前からの、コースで、プロになるためには、何とか、音楽大学に入学してそこで勉強と研鑽を積むより他の道は有り得なかったのです。

数多(あまた)音楽大学がある中で、その当時、色々な音楽大学で活躍している重鎮の教授達を育てたPringsheim先生が棒音楽大学でまだ教鞭をとっていらっしゃる事を知りました。

しかし、その音楽大学は作曲科の募集は基本的にやっていませんでした。

調べると、私よりも前の世代は4年に一人ぐらいの割合で合格者をとっているに過ぎませんでした。

だから、その音楽大学の作曲科の競争率は大変なもので、20倍、30倍という競争率でした。

という訳で、私がその音楽大学の作曲科を受験して、競争率20倍というよりも30名近くの受験生の中で、合格者は私一人だったのだよ!

他の受験生は、当然皆子供の頃から英才教育で音楽を有名な先生に習って、作曲やPiano等も準備も万全にして受験している生徒ばかりでした。当然、お父さんが有名な某国立の音楽大学の作曲科の教授で、お兄さんがその某国立音楽大学の学生で、その先生に師事するために、わざわざ国立ではなく、その私立の音楽大学を受験した、・・とかいうエリート中のエリート等もいたりして、受験する生徒達は皆、絶対に受かるという自信満々だったのに、不思議な事に皆、落っこったのですよ。

そして、音楽の勉強を始めて2年しか経っていない、音楽初心者の私が、合格したのだから、有り得ない。当然、その女の子は、狂いまくっていたね。「なんで、私が・・???」

知るか??まあ、いずれにしても、不思議だね??

その音楽大学ではPringsheim教授の授業の時には助手の日本人講師がついたのだが、その助手をする助教授の先生が無断でPringsheim先生のレッスンの資料を使用して自分の名前で出版したという事で、Pringsheim先生とのなかが気まずくなって、外の大学に教授となって転勤してしまったので、ドイツ語のしゃべれない他の助手の先生と私とで二人して、Pringsheim先生の授業を受ける事になったのですよ。

ドイツ語と英語のチャンポンな奇妙な授業であったのです!

授業内容は、一般の音楽大学生よりも、より高度な和声学と和声対位法で、私が希望する作曲の授業やオーケストレーションの授業はなかったのだな!

という事で、和声学に至っては、一般の音楽大学の学生の授業のサポートをして、バイト代を稼いでいたのだよ。

いづれにしても、「作曲の授業がない作曲科なんて・・!!」と、その不満を図書館に勤務している作曲家の先生に相談したら、「自分で勝手に作曲して先生の所に持って行くのだよ」とアドバイスを受けた!さっそく、自分なりに作曲をして教授に見て貰ったのだが、誉めてくれただけで、取り立ててアドバイスはもらえなかった!


オーケストレーションの授業もしてもらえなかった!

当時はまだ、自分で、コツコツと勉強を貯めて、先生に見て貰うというような性格でもなかったしね。

お題を頂ければ、本当にありがたかったのだが・・。

作曲の先生達にPringsheim先生の授業の内容の話を聞くと、大学の学長の方針で、Pringsheim先生にそう指導するように、随分以前から、そういう方針の指示を出していたらしい。

という事で、私としては、入学したばかりの一年生の時から授業に不満で、(・・・当たり前でしょう?このまま音楽大学を卒業しても、作曲家としては生活して行くことは出来ないからね。私は男性だから、結婚して養って貰う訳にも行かない。・・とは言っても、あまたの女の子達が私を養ってくれると言っていたがね。勿論、結婚するという条件でだけど・・・。ビルをくれる、とか山を二つ、三つくれるとか、留学の費用を出してくれるという切実なのもあったけれど。

大学4年生の時には、私が留学するというのが結構知れ渡っていて、上野のコンサート会場に行く山手線の車中で、周りに外人教授やPiano科の生徒達が沢山いるのに、「芦塚さん、留学する時に、私も一緒に連れて行ってくれたら、身の回りの面倒を全部見てあげるから・・」と言われたのには参ったね。一人では親が留学させてくれないのだけど、俺が連れて行くのなら、いいという話なのだそうだ。その親は何を考えているのかね??)

二年生の時には、結構、私も追い詰められて、Pringsheim先生との間が、結構、険悪になってしまった。二年生で大学を中退して、留学しようか?と本当に悩んだのだよ。

そこで、Pringsheim先生のお世話をしている、西武デパートの顧問で、プロダクションの社長でもある先生に相談したら、「その残された二年間をフルに、留学の準備に使ったらどうだろう。」というadviceを貰いました。

そういえば、留学するにも金がなかったのだよね。

そこで、大学中退をやめた(諦めた分けではないですよ。あくまで、やめたのです。先延ばしにしただけですよ。)私は結構スッキリとして、身の回りの改革に努めました。自分が勉強し安い環境作りです。

当時は作曲の授業がないので、作品発表の場もなかった!そこで私が目を付けたのが、大学祭でした。それを利用して作品発表の場とするために執行部に申し込みました。執行部の先輩や委員長の同級生は、あまたの申し込みから、優先して最良の時間と場所を提供してくれました。個人の作品発表を大ホールで、やったのは後にも先にも私だけだったのですよ。

勿論、音楽大学に入学したばかりの一年生の時には、そういった音楽大学の現状は知るべくもなかったので、学祭で作品発表をしたのは二年生になって以降の三年間です。

また、授業の中で指揮の授業もあったのだが、基本の縦振りと横振りを教えるだけで、何の指揮の技術の指導もなかったのです。

という事で一年生の夏休みには、里帰りしない学生達を集めて、音楽大学の大ホールを借りて、楽譜屋さんのアカデミア書店で自腹を切って買って来たヘンデルのコンチェルト・グロッソの練習をしました。勿論、私の指揮の元に、です。

当然、音楽大学には、バッソ・コンティニュオのチェロやチェンバロは演奏出来る学生がいなかったので(当時は日本にはチェンバロが数台しかなく、私がチェンバロ科を作るまでは日本にはチェンバロ科の学生はいなかったからなのです。)当然、外で活躍している先生達が私の練習に付き合ってくれました。

一回目のオーケストラの発表の場所は学祭には間に合わなかったので、音楽鑑賞の授業を音楽評論家の教授に貰って、大講義室で演奏しました。

勿論、次の年からは、準備に一年かけて、大学のAオケに対抗して大学祭でやりました。

それが私の次の代では、講師の先生達に受け継がれて、今はBオケとしてその大学に存続しています。

作曲科の作品発表も学祭ではなく正規の作曲科の授業の一貫として、今はその音楽大学に存続しているし、私がチェンバロを習いたかっただけの理由で作ったチェンバロ科も現在もそのまま存続しています。

勿論、当時一緒にチェンバロ科を立ち上げた先生はもう大学にはいませんし、当時の経緯を知っている人もいませんがね!?

という事で、視点をちょっと変えて自分なりに大学を上手く使って行くと、大学生活もそれなりに楽しい事もありましたよ。お金も貯まったしね!

勿論、やる事なす事全てが上手く行ったわけではありません。

作曲家たるもの、室内楽の知識がないと・・・という意味で、室内楽の研究をしなければ・・・・、という事で、御茶ノ水の下倉楽器に行って、ハンガリー製のヴィオラを買って来ました。

勿論、肩当てやロージン等の落としがないように、同級生のヴァイオリン科の女の子達を引き連れて・・・、当時はまだ楽器は安かったのよね。弦楽器等もね。

でも、私の方が、友人達の東大卒の連中よりも稼いでいたからね。

そりゃ、専門職だもんね。当たり前よ!!

猫も杓子もの音楽教室とは違うわよね。

意気揚々と、さあ、ヴィオラを練習するぞ!と言って、練習を始めようと思ったけれど、何から手をつけて良いのか分からない。

友人に相談しても、先生の所に行っても、「弦楽器は子供の時からちゃんと練習しないと、弾けるようにはならないのだよ!」と言う話ばかりで、結局、折角買った楽器は弾けるようにはならず、そのヴィオラは同級生が借りて行って、自分達の室内楽のlessonに使用するだけでした。自分で買った初めての弦楽器ですが、貸していた友達が又貸しをして、帰ってきた時には、楽器が壊れていました。

又貸しされた事で、すっかり頭に来た私は、その楽器をヴァイオリンの先輩に高く叩き売ってしまいました。(安くではないよ!)儲けた!儲けた!

勿論、それで厄払いで、飲んじゃったけれどね!!

ドイツに留学してから、副科としてヴァイオリンを学んでいる友人に連れられて、副科ヴァイオリンの指導の権威であるRuba教授(ヒットラー時代のRuba Quartettで名を馳せたヴァイオリン奏者)のlessonを見て、ヴァイオリンも速成法があって、その方法を垣間見る事が出来ました。

そこで、初めてヴァイオリン等の弦楽器でも、短期に習得出来るメトードがあるのだという事を知りました。

しかし、勿論、その速成法は、Pianoや他の楽器をちゃんとproとして弾ける人達が副科として、学ぶための習得方であり、とても一般の人がそのメトードで学べるものではありません。

音楽に対してのある程度以上の素養と、練習に対してのストイックさがなければ、無理な話なのです。

それは、日本で私がチェロを勉強するために師事をした、清水克雄先生も同じ条件です。

歳をとって始めたいと思うアマチュアに向けての、systemはなかなかありません。

ですから、いまだに、一般的には音階8年で、チェロを始めて10年ほどで、やっと、きらきら星程度の曲が弾けるという常識がまかり通っています。

私のメトードでは、ある程度の曲を弾けるようになるまでの、期間はひと月もあれば良いのだけどね。