勉強は楽しくなくちゃ!教育は叱っちゃダメ!
昔とは大分教育も変わってきて、「楽しく生徒を指導する」という事が、普通に言われるようになってきました。
それはとても良い傾向ですよね。
一昔前は、多くのピアノの指導者達が「優しく教える」と言う意味を「子供にへつらって音楽の水準を低く下げて指導する」と言う意味に取り違えて解釈していました!
教室で、若い先生を面接する時に、私達の教室で子供達を指導する時の留意事項として、先生達に、「子供達が音楽を好きになるように、音楽を優しく(易しくではないよ!!)楽しく指導するように・・。」という事を言ったら、それこそ、子供に迎合して、「水準を下げて、子供達がよく知っているCMソングや、テレビの音楽をピアノで弾かせたりする。」とか、「子供が譜読みが出来ていないくても、弾けていなくても、ただ闇雲に褒めて教えれば良い。」とかいう風に、曲解されたりもしました。
しかも、音楽のレベルの高い内容を指導するには、兎に角、厳しく、それこそ怒鳴りながら指導するものだと思い込んでいる先生達が多かった・・(殆どだった!)・・のです。
しかし、流石に近頃はそういった、とんでもない誤解をする先生達は少なくなって来たようには思います。(・・・かな?・・かな?・かな?かな?)
いずれにしても、流石にこんにちでは、多くの指導者達が音楽のレッスンでも、「レッスンは楽しく」と、思っているでしょうが、現実的に指導してみると、実際にはそう簡単には行きません。
なんとか、子どもを誉めちぎって、指導しようとすると、その1回のレッスンは何とかなるのでしょうが、2回目、3回目ともなると、子ども達は逆に甘えてしまい、だんだん先生の言う事を聞かなくなって、練習もしなくなって、先生の言う事も全く聞かなくなってしまって、レッスン自体が成り立たなくなってしまいます。
ということで、結局の所、元の木阿弥で、先生が教育に熱心であればあるほど、子どもに対して厳しく接してしまうことになります。
まあ、世間の保護者達も、厳しい先生=優れた先生、教育熱心な先生と思い込んでいるので、それで、生徒が潰れてしまっても、「自分の子供に才能がなかった!」としか、思わないだろうしね。
それが、またそういった先生の、拠り所になったりして、負のスパイラルがおこるのよ!
スパルタ教育で自殺した高校生に対して、周りの生徒や父兄達が「あの先生は教育熱心で・・」とか擁護をしている。
それに対して、桑田さんは「自分がスパルタ教育を受けていた時に自分が成長したことは絶対になかった!」と言い切っている。
説明をして子供達に理解をさせることもなく、闇雲に「こうしろ!ああ、しろ!」では、その狭い世界の中では通用する事も、あるかもしれないが、広い社会の中では全く通用しないのだよ。
だけど、話をして子供に理解させようとすると、大人にそれだけの知識と経験が必要となる。だから、ついつい面倒くさくなってしまって、頭ごなしに感情的に対応してしまう。
勿論、音楽の先生だけのお話ではなくって、学校の先生や家庭での躾に対しての親も、勉強のことだけでなく、日常の生活に関しても、ついついガミガミと厳しくなってしまいます。
ということで、芦塚音楽研究所のホームページを見た人達は、「教育は楽しく!」とか「楽しいlessonで・・」とか書いてあるのを見て、「そんなのは理想論じゃない?!」「私も頑張ってみたけど、それじゃ、教育は出来ないわ!」という声を上げてしまいます。
私達も「褒めて指導する」という事は、非常に難しいという事は、よくわかっています。
その難しさも含めて(何故、褒めて指導する事が難しいかも含めて)先生達に指導しています。
芦塚メトードとしても、先生達に褒める教育の方法論を指導する事は、大変な時間と労力を費やしてしまうという事を重々承知しています。
誉めて育てる教育とは、それなりのシステムがあって初めて可能なのです。
日常の子供達への教育や躾けですら、褒めて教育する事の難しさは、その例を、ずいぶん以前にホームページにアップしています。
まして、音楽や勉強の指導上で、褒めて指導するということは、ただ単に、情緒的に、或いは感情的に褒めても上手く行くわけではありません。
褒めるという事を、それなりに成果を上げるためには、その為のメトードと技術があって初めて可能になるのです。
ということで、芦塚音楽研究所の先生になるためには、ピアノやバイオリンの技術の勉強だけでなく、子どものそれぞれの年齢と技術レベル(技術レベルはその生徒の精神的な発育のレベルにもシンクロするのです。)に応じた指導内容と、保護者への適切なアドバイス等を、長期に渡って学び習得していきます。
そういった努力があって、初めて楽しいレッスンの運営や子どもの自主的な練習等が可能になります。
よく、教室にいる保護者の方や、生徒達までにも勘違いされる事があります。
それは芦塚メトードで学んでいるという事は、芦塚メトードで指導出来るようになるという勘違いです。
芦塚先生のlessonを聴講に来た余所の指導者の方が、芦塚先生の指導している所を見て、「普通のlessonを普通にやっているだけですよね。」「それで何故、子供達は上手くなるのですか?」と、不思議がります。もっとも、習っている生徒や保護者も、「自分(子供)に才能があって上手くなるのであって、先生の指導力の差ではない。」という風に思ってしまいます。
それで、「もっと有名な偉い先生の所で学んだらもっと上手になるに違いない!」と思って、先生を変わった生徒も何人かいます。で、その人達はどうなったの・・・??? それは、言わぬが花ですよね。
でも、私達は芦塚先生が何も教えていないように普通に冗談を言いながら、指導しているのは、凄いと思うのですが、それを「凄い」と感じとれる人は聴講に来た人達の中でも、非常に少ないようです。
また、よく教室で勉強している生徒さんの保護者の方や一般の先生達が犯す勘違いがあります。
それは、「生徒達が自然に、無理なく上達出来るのは、あくまで、芦塚メトードで学んでいるから・・・」という所までは、理解が出来たとしても、その先の、「芦塚メトードで学んだからと言って、芦塚メトードが理解出来て、芦塚メトードで指導出来るようになる分けではない」という所です。
芦塚メトードで学ぶという事と、芦塚メトードを学ぶ、という事には雲泥の差があります。
だって、薬を飲んで病気が治ったからと言って、病気を治したとは言わないでしょう??
適正な薬を処方したのは医者であって、薬を飲んで治った患者ではないからです。
同じ風邪だとしても、症状だけでなく、年齢や体重、血圧や他の病気との兼ね合いで薬の処方が変わってしまうからです。
当然、生徒が勉強しないといっても、何故勉強しないのか?はそれぞれの家庭環境や本人の性格などでも変わって来ます。だから、同じlevel(グレード)であったとしても、指導の仕方は一人一人、全く変わって来るのです。
一般の大手音楽教室では、こういった子供を取り巻く環境や精神の成長への教育や、保護者へのアドバイス等は、先生方に極力避けるように指導します。
それだけの技術がない指導者の場合には、そういったことが教室経営上の大問題に発展しかねないからです。
このお話は別に音楽の世界のお話ではありません。
一般の有名塾などの場合でも、あらかじめ生徒の生活指導に結構厳しい条件を付けていて、塾が出した条件を生徒や保護者が守らない場合には、そこで保護者生徒に対して指導はなく、塾をさせるという事が一般的です。指導をする・・という事は、教育をするという事であり、塾は勉強に対しての指導はしても、生徒や親に対しての教育はする事はありません。
それは経営的に無駄な時間になるからです。
さっさと、やめさせて、他の優秀な生徒を取れば、「あの教室は厳しい」という風評が広がって、優秀な生徒が集まってくるからです。ダメな生徒を教育指導していては、ダメな生徒を集めて指導する教室と思われて、一般からは敬遠されてしまうからです。
私達の教室では、なるべく子供の教育に手助けになるように、アドバイスを積極的にするようにしていますが、それでも、子どもを指導していく上で困ってしまう事があります。
それは、親の理想と、子供を取り巻く日常の生活が著しく異なる場合です。
親心とでも言うのでしょうか、音楽だけでなく、日常生活や学校、親のお付き合い、部活、進学等々全てを子供に与えようとします。しかし、二兎を追う者は一兎も得ずの諺通り、オーバー・ワークになって、全てがいい加減になってしまいます。
大人ではないのだから、キャパシティが少ないのは当然です。子供のキャパに合わせて、子供の能力の最大を引き出すようにするのが本当の教育なのです。
分かりきったことですが、子供達が目指す目標には、当然、勉強や意識上の水準があります。
その目標によって、子供の意識も勉強の量も変わってくるのです。
世間一般では、音楽大学を目指すのなら、小学校に入学した時点で、塾や学校、(勿論、部活等)も著しく制限されます。一般の音楽指導者に向けての、指導の本には、「塾に子供が行くと言った時点で、音楽への進学は無いものとする。」という一節がよく見受けられます。
困った事に、子供達が自分で「音楽に進みたい!」とか、「音楽を職業として生きて行きたい。」と考え始める年齢は、高校生になった、1年生の夏休みです。その年齢になって初めて自分の将来が見えるようになるのです。
でも、それでは、一般的にはプロとして、或いは職業として、音楽を始めなければならない年齢のスタートの限界を遥かに過ぎてしまっているのですよ。
「音楽は特別だから・・・!!」
いえ!!それは違います。
技術職は全て、始める年齢に掛かっているのです。
音楽の演奏家だけではなく、新体操や野球でも、或いはクラシック・バレー等もそうです。
しかし、同じ芸術の分野でも、絵画や詩、小説、演劇の世界は、子供の内から勉強するのは有利ではありますが、遅くから始めたとしても、無理ではありません。
技術職でも、年齢が高く始めたとしても全然無理のない職種もたくさんあります。
そういった意味では、音楽は早期教育が必要な特殊なカテゴリーに属するのかもしれません。
また、同じ音楽の世界でも、その水準によって、カリキュラムが全く変わってしまいます。
音楽大学に入学する事を目標とするという事と、音楽を職業としたい、という事は、残念ながら殆どの場合には、両立はしないのです。
先程、世間一般の音楽大学の先生達に師事すると、学校の勉強や一般高校への進学のための塾や部活をインジョイしたいという願望があるのなら、先生から破門になるという話をしました。これが、一般の通念です。
但し、私達の教室は、巷の音楽教室に過ぎません。殆どの生徒さんが、趣味で音楽を学んでいるのに過ぎないのです。ですから、小学生の時期や中学生の頃には、思いっきり青春を謳歌して、部活やschoollifeを楽しんでいます。親が将来の事を考えて塾に励ませている場合もあります。
それが、魔の高校の1年生の夏休みがやって来ます。
「先生!どうしても音楽大学に進学したいの。何とかして??!!」
教室では芦塚先生の指導の元で、オケ練習や室内楽の勉強をしています。
本来ならば、小学生の時から死に物狂いで勉強しなければ、マスター出来ない高度な音楽技術が、オケや室内楽の遊びの中に網羅されているのです。プロのオケマンでも、演奏不能な技術も、オケや室内楽のカリキュラムの中に入って、何年も掛かって、少しづつ習得出来るようになっています。
だから、大崎や八千代のような一般のお客様を対象にした演奏会で、「なんで、子供達の演奏なのに、あんなに豊かな響きがするの?」と驚かれるのです。
しかも、殆どの曲が本邦初演の曲です。
それは私達の音楽の演奏に対する考え方の違いに理由があります。
私達にとって、音楽とは上手な演奏を求めるのではなく、感動させる演奏を求めているからです。
音楽が好きだ!音楽を愛している!という感情はストレートにお客様に伝達されます。
音楽を演奏するという事は、音楽で感情を表現する事です。技術はそのための手段にしか過ぎません。
でも、一般の音大生に「音楽を好きですか?」と質問すると、皆不思議そうな顔をします。
音楽は辛いもので、厳しいもので、戦うものなのだから、克服しなければならない敵なのですよ。
それじゃ、幾ら勉強しても上手くならないし、感動がなければ、音楽を伝達する事もないだろうし、不幸だね!!!
つまり、教室の生徒が高校生の1年生になってからでも、「音楽大学に進学したい」という夢を叶えてあげられるのは、オケ練習や室内楽の練習の遊びの中にそういった基礎的な基本のベースが入っていてそれを習得させられているから、闇雲に音楽大学を目指して頑張っている子供達に遜色を取らないで、受験する事が出来るのです。
だから、「あそこの教室は高校生からでも音楽大学にしんがくさせてくれるそうだよ!」という分けにはいかないのですよ。あくまで教室で育ってオケ練習や室内楽の勉強をして来た生徒達だけの例外の話なのですよ。
という事で、これから以降は教室だけの独自のカリキュラムのお話になります。
勿論、一般的にはそういった事は常識的にはありえないという前提でお読みください。
教室では、音楽大学を卒業してもそれでプロとは認めません。
それはどんな大学でも同じだと思いますよ。
子供達が夢を持って勉強したとしても、親の願望と子供の夢が両立しない事は、日常茶飯事にあります。
先程の例では、子供の夢が音楽大学に進学する事で、親は学校の勉強や高校進学の為の塾に行かせたい。子供は学校の部活に専念したい。という条件だったとします。一般の音楽大学の先生の場合には、それは、音楽大学に進学させる事は不可能でしょう。でも、教室のNiveau(水準)は一般のとはちょっと違うので、それは可能かも知れません。(ここで、「・・・かも!」という言葉を言ったのは、高校生になっても、中学生と同様に部活や塾に狂っていたのでは、いくら私達の教室と言えど、音楽大学の進学は無理だからです。)当然、心を入れ替えて、音楽の勉強を必死にやったら・・という条件が入ります。当たり前でしょう????
生徒が「留学をしたい」という希望なら、音楽大学に進学する必要もありません。時間とお金の無駄だからです。教室から高校卒業と同時に直接留学した生徒はたくさんいます。
私達の教室の先生になりたいという生徒や、プロの演奏家になりたいという生徒は、音楽大学に進学しているようでは無理です。
一般の勉強の延長線上にプロがないことは、この100年の歴史でよく見えています。
それは、何故かというと、プロを目指す子供の場合には、プロとしての勉強をしなければなりません。
オリンピックを目指すのならば、幼い時から、日常の生活を犠牲にしてオリンピックのための努力を続けなければならないのです。普通の生活や普通の勉強を幾ら一生懸命にやったとしても、普通の事をする子供がオリンピックに出れる事は無いはずです。
「一日練習をしなければ、自分に分かり、二日練習しなければ先生にばれて、三日練習しなければ、観客に分かる」という言葉があります。
でも、芦塚先生の箴言集の「ヨージーの法則」では、そうではなく、「一日練習しなければ先生にばれて、二日練習しなければ観客に分かる。しかし、本人が自覚する事は永遠に無い。」という事です。
プロを目指すとても優秀な生徒がいました。
あるステージの本番の直前に、その生徒が、「プロになる事をやめる!」 と周りの人に宣言しました。
その一時間後の本番のステージでは、会場にいらした人達、皆が「彼女の演奏が軽くなった」と驚いていました。
つまり、彼女が「プロの演奏家になるのをやめた!」と宣言した途端に、彼女の演奏する音楽のlevelが、プロのlevelの演奏ではなくなってしまって、単なる演奏の上手なアマチュアの演奏に変わったという事が、聞きに来ていた観客のすべてに分かったのです。
それぐらいに、演奏する人の意識がそのまま、他の人に伝わるものなのですよ。
そういった事は我々の場合にはざらにあります。
子供達を指導していると、しょっちゅう、そういった事が起こります。
そして、オーディエンスから、質問や評価を受けます。
「前回は、あの子は、あんなにうまかったのに、今回はどうしたのですか??」っていう風に・・・。
でも、演奏した本人だけは、自分がどれぐらい下手になったのか、その落差が分からないのです。
子供達や親の意識は必ずしも一定ではないからです。目標が下がれば、当然、目的のNiveauが下がります。
だから、本人には、自分のlevelが下がった事が分からないのです。
もっとも、自分のNiveauが分かるようになったら、もうプロの一歩手前に居るのでしょうしね。
一般のオーディエンスが、演奏家の演奏の上手、下手を感じるのは、演奏する人の音楽に対する意識なのですがね。
親や子供達が、自分達の将来の目的や意識が、ぶれなくなった時、その時に初めて「プロへの道を歩み始めた」という事が出来るのですよ。
しかし、日本の(ヨーロッパでも珍しい事ではありませんが)音楽を学ぶ人達の意識では、人よりもより、技術が優れていれば、プロになれるという、盲信(迷信)があります。
つまり、プロの技を技術と勘違いしてしまっているのです。
優れた技術を持つ事は、単に表現力を持ったに過ぎない、という事であって、本来の音楽のプロという姿ではない、という事に気が付かないのです。
人に打ち勝ち、人よりも上手い演奏を目指すのであれば、それは単なるコンクール(ピアニスト)です。
永遠にプロに成れない人達なのです。
日本人の音楽のプロを目指す人達がプロに成れないのは、そこに原因があります。
音楽は芸術かもしれませんが、その人が芸術家であるか音楽家であるかを判断するのは、その人でもないし、周りの人達でもないからです。
話を少し戻して、意識がぶれる、ぶれないよりも、もっともっとず〜と前の段階の話なのですが、親の中には、子供に対して、音楽への道を目指させながら、一般の子供達と同じように、優秀な高校に進学させるために、塾に通わせたり、逆に、一般の子どもたちと同じように、旅行に遊びに連れ回して、普通の子どもと同じような生活をさせようとする親がいます。
極端な例では、コンクールの前の週に、子供と一緒に旅行をするという親までいました。
夢と現実の生活は必ずシンクロしなければ、その夢をかなえることは出来ません。
これもずいぶん昔の論文として「夢の現実化」という話で、ホームページにアップしてあります。
子どもに普通の生活をさせたいのか、それとも夢をかなえてあげたいのか、それは子どもの才能のあるなしではなく、親の願望と親が作る環境の問題です。
親の中には、子どもが小学校の時は「中学受験があるから!」、中学生になったら「高校受験があるから!」それでいて、「将来、音楽の方に進ませたい!」と言いながら、子どもを塾に専念させる。
それでは、めちゃくちゃな願望です。
そんな要求を「ああ、そうですか?!」と、まともに聞く先生はいないはずです。
もしそんな先生がいるとすれば、一度も音大に生徒を進ませたことのない未熟な先生か、お金だけを儲けようとする、よっぽど無責任な先生か…です。
それでも、芦塚音楽研究所では、子どもたちがオーケストラや室内楽に参加する限り、水準をある程度、キープさせることが出来るので、例外的に、高校生からでも有名音楽大学に進学させる事は出来ます。
ここまでは、先程全く同じお話をしましたね。私が言いたいのは、その次のお話です。
生徒の夢を叶えて、音楽大学に入学させる事が出来た。・・・でも、教室が面倒を見れるのはそこまでです。
音楽学校を卒業したからといって音楽家になれるわけではないし、当然、プロにはなれません。
勿論、音楽教室も同様です。鈴木の才能教室の先生になるには、鈴木の本部で勉強をしなければなりませんが、それには音楽大学卒業という条件は入りません。
殆どの大手の音楽教室も指導者を募集するのには、その会社の認定している指導グレードの試験に合格していなければならないのです。
音楽大学を卒業したからと言って、***音楽教室の指導グレードに合格出来る分けではないのですよ。
それは、私達の教室も同じです。
勿論、巷の音楽教室の中には、音楽大学を卒業している事を条件にしている教室も例外的には、あるようですが、それは先生を採用する判断基準をその教室が持っていないからです。
関東には、教室の先生募集の採用条件で、「芸大か桐朋学園の卒業者に限る」という教室が幾つかあるようですが、それはまるで進学塾みたいで、勿論、名門崇拝も、そこまで行くと、「あほらしい!」としか言いようがありません。
面接をする方にとっては、一人一人の実力を見る分けなのですが、所詮は音楽大学の卒業生に過ぎないのですよ。
まだまだ現場のプロと比較したら、ほど遠いのですよね…?
勿論、プロという言葉の定義の問題もあります。
一般の人達は、音大を卒業するとプロと呼ぶそうです。
しかし、一般大学の場合には、大学を卒業したというだけの人に対してプロと呼ぶケースは殆どないのですがね!
大学の医学部でも、卒業しただけでは、医者の卵としか言わないでしょう??
それから、国家試験に合格して医師免許を取得して、初めて医者と呼びます。
それでもまだ、卵に過ぎません。大学を卒業してから、インターンで、現場研修をします。
今はレジデントかな??
それでも、日本は医者になるのは簡単な方です。
アメリカは本当の医者と呼ばれるまでの道のりは本当に大変ですよ。
(ホームページ「プロの定義」参照)
あとがき
当然、音楽教室という立場から、音楽を職業とする場合を中心にして、子供の夢の話をしました。
しかし、この話は音楽に進まない一般の生徒たちにも大切な話なのです。
この音楽の話を、音楽=子供たちの将来の夢と置き換えて読んでみてください。
ステータスとしての大学受験の時代はもうずいぶん過去の話になってしまっているのですよ。
千葉教室のお母さんが葬儀場で働いていました。
驚いたことに、若い30代の自殺が非常に多く、しかも有名大学の卒業で有名企業に就職をして、そしてあまりの競争についに自分を見失ってしまって自殺に至るケースが非常に多すぎて、自分の子供の大学受験を考えて、暗澹たる気持ちになってしまったそうです。
「折角、一生懸命育てて、やっと一人前にして、その結果が… !」とお母様は、おっしゃっていました。
むしろ、蕩児であったとしても、引きこもりやニートの方が、自殺されるよりも、まだマシかもしれませんね?
でも、このことは幸せの定義を履き違えたから引き起こされた悲劇なのです。
有名大学を受験して有名企業に就職するという事は、確かに人生の勝ち組かもしれません。
親としては、今までの教育の成果なので、誇らしい事ですよね。
しかし、子供には有名企業であるが故の熾烈な争いに毎日打ち勝たなければならないのです。
今の、大手の企業は日本人の学生を採用する所はだんだん減ってきています。その理由は、グローバルな時代に社員もグルーバル化を図るという風に思われているようですが、実際には違います。
中小の企業等も、日本人の社員よりも、第三国の人達の方が真面目で、仕事に対しても一生懸命で文句も言わないから、日本人を雇うよりも、外人を雇った方がいいのですよ。
私も時々、日本人の音楽家なんかやめて外国の人達を育てた方が良いのでは・・と思う事がよくあるのです。
特に、一般の音楽大学の学生と話をすると、そういう気持ちについついなってしまいます。
日本人は自分の技術を過信するだけで、技術不足を認めようとしないし、自己主張だけで、クライアントがなにを望んでいるのかを考えようとはしません。
常に、上から目線なのですよ。人のアドバイスも聞こうとはしない。
これでは日本の将来はもうないよね。10年後、20年後の日本が見えるようです。
しっかり大地に根をおろしてじぶんのめで世の中を見ていけばそういった誤りは起きないのです。
周りの言動に惑わされて、周りの言う通りにすれば、間違いはないという日本人独特の事なかれ主義の現れなのです。
よく言われる、「今苦しくても、その苦しさに耐えて、努力をすれば・・」といHNkドラマの「おしん」の様な生き方は、そういった時代背景の元に成り立つのです。それこそ、私達の様な団塊の世代の考え方です。今の時代にはそういった考え方は通用しません。
グローバル・スタンダードな時代なのですよ。
こんにちは!!
今日の延長線上に明日があります。
今日が不幸せなら、未来永劫不幸せなのですよ。
NHKのドキュメントのお話です。
チベットに10歳ぐらいの少女がいました。
彼女の日課は毎日それこそ雨の日も雪の日も、断崖絶壁を桶を担いで、4,5キロの道を下って、谷底の川から水を汲む日課でした。
彼女の夢は学校に行って、勉強することだそうです。でも、その一言を言っていた彼女の眼が澄んでいて輝いていたのが強烈な印象だったのだよね。
日常生活の苦労は、彼女にとっては当たり前の事で、それ自体はなんの苦労でもないのだよね。
それが生活の一部で、皆が生きるために、同じように一生懸命働いている。
・・それだけなんだよ。
彼女の顔には不幸せな表情はない!
しかし、NPOの人達は、彼女が不幸せだと決めつけている。
そのあとで、物質的に満たされた、少女達として、NHKの取材陣は渋谷の女の子達のインタビューをしていたのだけど、その濁りきったドブのような少女達の目を見て「幸せとはなんだろう??」と改めて考えさせられてしまったのだな。
人を教育する事が大嫌いで、音楽大学にも就職しなかった、(しても、直ぐに辞めた)私が、子供達を指導するようになったのは、音楽に熱中している子供達の目が澄み切っていて、とても素晴らしいからなのだよね。
こればっかしは、音楽大学で100年間、生徒達を教えていても、巡り合えないピュアーな瞳なのですよ。
プロの音楽家とは、その目を大人になってももち続けていれる人達の事を言うのですよ。
その純粋な眼差しは、大人のたった一回の目先に囚われた欲望で、失われてしまう。
子供の一途な目を、他へ向けることで、失わせてしまう。
どうか、その眼差しを壊さないでください。
周りの意見ではなく、今ある幸せを壊さないでください。
それが一生幸せに送る秘訣なのですよ。
蛇足:
毎日を怠けてルーズに暮らしている人には、そのルーズな日々しかやっては来ませんよ。
でも、そういう人は毎日怠けている事が幸せなのでしょうから、そういう生活がやって来る事が幸せなのですよ。
そういう人達の人生のコツは、勤勉に生活をしている人達が得れる幸せをうらやましがらない事です。
私にはそういうルーズな生き方は耐えられないけれどね。
人は、それぞれだからね。