音楽家のフォーマル・パーティのお話


生まれて初めてのスーツ
高校を卒業して、音楽大学に入学した時に、雲仙の伯母が「お祝いに、スーツを作ってあげよう。」と言って来た。
生まれ故郷の諫早市の小さなテーラーで、
「生地を選ぶ所から、好きに作って良い」・・という、話であった。

当時は、未だ吊るしの洋服屋は数少なく、吊るしのスーツ等も、ブラック・ホーマルを除いたら、殆ど皆無であった。
だから、スーツを作ると言ったら、テーラーで注文するのが普通だったのだよ。
寧ろ、一般の人達は、ジャケットだけで、スーツ自体を持っている人は少ない・・という「夕日ヶ丘」の時代だったのだよ。(当時、東京で、住んでいたのは旭ヶ丘だったけれどね)
今なら、普通のスーツの方が、一般的で、black・formalを作る人の方が少ないと思うけれど、当時は、スーツを着るという時代ではなかったからね。(戦後の貧しい時代だったのだよ。)

だから、
「大学に入学したぐらいで、スーツを作る・・というのは、オーバーな??」とは、思ったのだが、折角、自分の好きな色生地で作って良い・・というので、小さな一ツボぐらいのお店で、生地選びと、寸法取りにお店に行った。

生地見本から、生地を選び出したら、何と、そのお店で一番高価な特別のロンドン製の生地であったそうだ。
昭和は30年代の話だよ。
小豆色の複雑な色の、とても落ち着いた色で、それを見た伯母は、
「地味だね〜ぇ??40過ぎで合うような生地じゃない??」と半ば呆れて、驚いていました。

音大時代は元より、留学中も、また、再び日本に帰国して来てからも、結構、着る機会が多く、大学講師を辞める迄の40歳近くまでの、その背広がボロボロになるまで、しょっちゅう着ていたよ。

勿論、その頃は、日本の経済力も上がって、普通に皆さん背広を着るようになっていたし、私も色々と背広を自分でも作るようにはなっていたのだが、やはり、自分でselectして作ったスーツなので、一番お気に入りの背広だった。


初めてのformalwear
一般の大学生ならば、大学を卒業するまで、スーツを着る機会はまずないだろうし、ましてや、formalwearの背広を着る機会はないだろう。
しかし、音楽大学に入学した途端の1年生の時に、学校から、
「明治神宮で合唱を歌うので、black・formalを準備するように!」というお達しがあって、夏休みに長崎に帰郷した時に、慌てて、母に、デパートで吊るしの黒ビロを買って貰った。
要するに、音楽大学では、黒ビロは、演奏会に出演する時やlessonの時の、制服になるのだよ。

勿論、演奏の時には、黒広であるが、演奏会に行く時には、伯母に作って貰った背広が役にたった。
音楽会が終わると、そのまま打ち上げのpartyになる機会が多かったのでね。

大学の一年生の時には、次に師匠のPringsheim先生の88歳の米寿のお祝いのpartyが学長の家を開放して、帝国ホテルの出張サービスで、あった。

玄関で、メイドにコートを預けたり、全員がformalwearで、お年を召したお爺さんの集まりで、著名な評論家や、芸大等の学長達を始めとして、日本の音楽界のお歴々が一同に集まってのpartyであって、最年少で、しかも、学生に過ぎなかった私は、甚だ場違いであった。
しかも、生まれて初めての立食のformalpartyであった。
いや〜あ、cultureshockだなや!!

ちなみに、基本的に男性用のblack・formalとformalwearは同じものである。
黒ネクは葬式で、白は別に結婚式という分けではない。

もう少し続けて

黒のスーツに黒ネクタイは、葬式の衣装という考え方(慣習)は日本だけの風習だという事は知っていた??
外国のドラマでは、結婚式にも、黒スーツと黒ネクタイで参列している人達をよく見かけるし、大統領の護衛官もblack・formalだったしね。
普段のおしゃれ着で着る人達も多い。
また、結婚式は白ネクというのも、本来的ではない。
寧ろ、銀ネクが一般的であろうよ。

ネクタイだけで、着分けが出来る。
その点、女性用よりは楽である。


私がPringsheim先生の門下生であるという事で、Pringsheim先生の故郷であるMunchenに先生の紹介で、私が留学したように、よく、思われていますが、ドイツの音楽大学は国立なので、そういった紹介等は絶対にありません。

それに、学生が留学するといっても、学校は何一つ、その手順等を教えてはくれませんでした。

だから、留学から帰って来たばかりの、若い先生に、色々と相談をしながら、必要な書類や、手続きを一つ一つ自分でやらなければならなかったのですよ。

それに、私は、本来的には、Munchenに留学する気はなかったのですが、その頃、私が師事したかった著名な作曲家の先生がスイスから、ポーランドの方に転勤されて、その後、ソ連のポーランド進行等が起こったので、留学をする事が、困難になってしまって、急遽、留学の直前になって、留学先を変更せざるを得なかったのです。
勿論、留学に関して、学校が何かしてくれる訳はないのだから、その全ては自分でやらなければならない。

お金がなかったので、石神井公園にあるキリスト教の修道会の神父さんにタダで、ドイツ語を習ったり、毎日のように手続きのために大使館に通ったり、大学の4年生は、とても忙しく過ごしました。
留学というのも、結構、大変な手間であったのだよ。

という事で、ドイツの国立音楽大学は、大学の先生からの紹介でヨーロッパの大学に入れる事はないのですよ。
そんな、甘い話はないのよ!!
日本とは違うのだからね。
ちゃんと試験を受けての留学なのだよ。









ドイツの語学学校で
Munchenに着いて、先ず最初に訪れたのは、アルプスの麓のKochelという村の語学学校でした。

飛行機でMunchenの空港に着いたその日のうちに、ローカル線に乗って、なんとかKochelの村に辿り着きました。
語学学校に入る予定よりも、2日程早くの到着です。
駅の傍の小さな旅籠に飛び込みで、その2日間を過ごしました。
旅籠のラジオから流れて来るBayernの民謡に、旅情の侘しさを掻き立てられたものです。

2日後には、Kochelにある、語学学校に、入所の手続きをしに行きました。
不思議な事に、ドイツにやって来たのに、語学学校にはドイツ人はいないのですよ。
留学生は寧ろ少なく、企業の海外出張のためとか、旅行なのだけど、語学研修も兼ねて・・という人達が殆どでした。

同じクラスになった人達に、
「音楽の勉強に来た!」という話をしたら、フランスのカンヌ地方からバカンスに来ていた老夫婦が、「音楽家になるのなら、世界中の人達と付き合わなければならないから、Franceのマナーを学びなさい!」と、その日から昼食、夜食の時には、必ず隣に座って、ビシ、バシと、「NON!!NON!!NON!!」が飛んで来ました。
大学入学当時の、初めてのformalpartyで、テーブルマナーの必要性を身に染みて感じていた私にとっては、渡りに船でしたので、従順に教わりましたよ。
私の二ヶ月間のドイツ語の学校は、寧ろテーブルマナーの勉強でもあったのですよ。
Kochelにいた間に、結構入り浸っていた飲み屋兼の食堂です。
観光地なので、何でも屋です。




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