親の過剰期待

 [這えば立て。立てば歩ゆめの親心]

 江戸時代から知られているこの句は、一般的には「親心のありがたさ」を歌ったものとされていますが、 実は、この句が一般に流布していた江戸時代では、決して親の愛情に対しての褒め言葉や、或いは親のありがたさを歌ったものではなく、本当は(落語家の人達の話しによると)親馬鹿を皮肉っている句なのだそうです。

実際の子育てでも、そういった過保護な教育をしてしまっては、子供は健全な成長が阻害されてしまって社会適応が出来なくなってしまい、成長と共に、社会性の適応力の欠乏による挫折を繰り返してしまいます。

一見すると「親のありがたさ」を歌っていると思われるこの言葉も、教育心理的に解釈すると、親の過剰期待を皮肉った言葉に過ぎないのです。

 

[啐啄の教育]

子供には成長の過程で、年齢に応じてその時期時期に学んで行かなければならない事がありますし、また子供自身の学び方(学ぶべき姿勢)も小学校の低学年の時と、小学校中学年時では変わらなければなりません。当然親や、先生達の教育方法、指導方法も年齢に応じて変えていかなければならないのです。

幾ら、同じ小学校だからと言って、小学校低学年と高学年の指導法が同じでよい訳ではないのです。

子供がそれを必要としている時に、子供が必要な事を当意即妙に指導していく事を、卵に中にいる雛鳥が卵を突いて外の世界に出ようとしている時に、親鳥が外から卵の殻を突いて雛鳥の巣立ちを助ける事を啐啄」ソクタツと言います。(いろいろな読み方がありますがね。)早すぎると雛にも成長出来ていなくて、卵から孵る事が出来なくて死んでしまうし、遅すぎても卵の中に閉じ込められて死んでしまいます。そのタイミングは時間との絶妙のタイミングだといえます。

では、今日の(日本の[1])教育界では、子供の成長の時期時期で即応した教育がなされているでしょうか?現実は、理想的な教育には程遠いものです。

現代の社会では教育に関しては、あまりにも情報過多で、選択肢が多すぎて、何を持って正しい教育であるかの判断が、一般の保護者にはつかなくなってしまっています。

その結果、現代社会では、マスコミや企業の宣伝による一番安直で明確な判断に委ねてしまうことになってしまいます。その一番安直で明確な自分の子供に対する識別が、有名大学の進学率であり、同時に自分の子供を点数で他者と比較し、評価するという事です。

でも本来、教育に与えられる役割と言うものは子供の心の成長や体の健全な発育でなければなりません。

 

しかし、その体を作り上げるという基本的な親の役割すらも、日本の社会の現実では、水泳教室やサッカー教室に任せて、子供達の家族との精神的な絆を無視して、子育て自体も、「周りがそうするから」と無批判に、(あたかも、金魚やかぶと虫の育て方を取説のマニュアルでするように)、何歳から何歳までは、何を学ばせてという風に、企業に任せっ切りにして、「子育ては一生懸命やっています」という。あたかも企業にお金を払うことが、一生懸命に教育をしているかのような錯覚に陥っているのです。

企業の方も、勉強の成果(所謂、点数と成績)だけを親に見せて、親達に教育の成果が上がったように説明します。

現代日本の社会では、マスコミや企業が掲げる情報に、すっかり親達が振り回されて、何が「子供にとっての本当の幸せ」なのかを判断する力が失われてしまっています。言い方を換えると、成績そのものが教育の全てであるかのように、思い込んでいる親達が多いという事です。日常の生活も、学校や塾の成績だけに一喜一憂して、子供の心の声を聴こうとしません。

それである時に、突然、「子供が親の言う事を聞かなくなった!」とか、「子供の気持ちが分からない!」とか言い出します。

でも、今まで子供の声を聴かなかったのは、自分達なのにね。

 

それだけなら、まだしも、頼みの綱の教育の専門機関であるはずの学校自体が、「分からない事があったら、塾の先生に質問するように!」と平気で口にします。

あたかも、小学校、中学校の教育の目的が、成績を上げるという事だけであるかのように、学校の先生達が、自分達自ら、自分達の本来の教育という理想に基づく責務と権利を放棄してしまっているのです。

子供への教育に対して、悩みを持つ保護者達は、本来、相談すべき学校が、教育の本質に全く対応してくれないので、大上段に大学病院の精神科や心療内科のカウンセリングを受ける他は、気軽に相談する箇所がなくなっている、と言うのが現在の日本家庭の教育の現状です。

という事で、適切な相談場所やアドバイザーを持たない保護者は、周りの友人やパソコンの情報等で(父親は赤提灯で、飲み友達に相談して)教育のアドバイスを得ようとします。

それが、どんな一般の誤った風評的な誤解であろうと、自分の子供とは正反対のアドバイスであろうと、それが間違えたアドバイスであるという判断基準さえないのだから、致し方ありません。

そういった、誤った社会的な通念や、通り一遍のマスコミ向けのhow-to型の教育法等を、唯一で正しい教育であるように、誤解して、ちょうど、電子レンジの取説を読むような感じで、子供の教育をし、子供の心を把握しようとする親が多いのには、辟易させられます。

 

また、子供達の教育に携わる学校の先生や塾の先生達ならまだしも、音楽教室の先生迄もが、子供のhelpの声を聴くのに、自分の耳ではなく、手短にこういった子供の声を聴こうとしない親の目を通して、子供を把握しようとします。

学校の先生達に、私が「子供がヘルプを出している」という事を指摘すると、「両親に聞いてみたけれど、親はそういう話はしていませんでした。」と、自分の目を通してではなく、親の目を「親は大人の社会人であるから・・」と信じて、その判断に基づいたままの対処をしようとする教育者が多いのには、困らさせられます。

私達段階の世代では、まだ学習塾はなかった[2]し、水泳教室のようなものもありませんでした。だから、現代のような、「ああしろ!」「こうしろ!」と、何をするにも、取説が付いて回るような、子供時代ではなく、自然のままに、子供らしい青春時代を送る事が出来ましたよ。

成績を上げる事がもしも教育であるというのならば、教育をするという事は、指導者に取ってこれほど簡単で安直な事はありません。

誤った情報と意図的に(企業の戦略的に)改竄(かいざん)された情報の氾濫で、親はすっかりパニックになってしまって、子供の一生の幸せと言うものを数字(成績)や形の見えるもの(有名校)だけで判断しようとして、子供自身が抱いている一生の夢(ライフワーク)や、子供の心理的許容の範囲を超えた過度な教育を要求してしまいます。

塾や学校教育で評価されている子供の能力は、記憶の能力だけです。高校や大学入学までの勉強の90%以上が暗記の課題なのです。それにもまして、一つ一つの事案をしっかりと子供達に把握させ理解させるにはとても指導者のスペックと時間が必要になります。そんな事を丁寧にやっていたのでは、とても文部省の定めたcurriculumをこなせません。

塾等は本来的には教育機関ではありません。教育産業で、成績を向上させる事で儲けている企業に過ぎないのです。だから、一日でも早く、預かった生徒の成績をupさせるという成果を見せないといけません。当然、成績を上げるという事が実際の目的なので、子供が勉強の内容を理解出来たか否かとか、勉強に興味を持ったか、好きになったか、ということは、二の次、三の次になってしまいます。成績を上げることが、教育産業の最終的な目的である分けなので、当然の事です。

塾では、子供に対して、100回同じ事を説明しても、その生徒が理解出来ないのならば、出題された課題に対して、正しい答えを出すように指導すればよいのです。その問題が理解出来ているか否かは先生としては、関係がありません。塾の先生のノルマは、あくまで成績が上がればよいという事だからです。

でも、先生としても、「子供が反応として正しい回答をする」というように育てるのなら、先生にとっては、生徒指導は非常に楽になります。先生にとっても、子供がどこまで反応するようになったのかは、同時にクライアントである親達も、成績という数字に具体的に表れるので、分かり易くて(判断し易くて)楽です。

親は通常、「子供がどれだけ学力が付いたか」「勉強を理解出来たか」という事を判断する力があることは稀です。結果として、子供の学力を評価するのに、(どれぐらい子供が勉強を努力したのか?)という事を判断するのは、テストの成績で評価をすれば、極めて楽です。しかしながら、テストの成績は、その子供が正しく、その教科の勉強を理解したかどうかのバロメーターではないのです。

 [音楽の場合]

私が教室を開いた当時、私が指導している生徒について、同じようなことを父兄から言われたことがあります。

「子供が先生のもとで一生懸命頑張っているようだけど、私は音楽に対して全くの素人だから、どれぐらいのレベルに自分の子供が入るのか分からないので、コンクールに出して、子供のレベルをみたいのです。」

その次に、コンクールで全国大会で入賞した別の親から「コンクールに入ったという事は、音楽大学に進学させても、入学できるでしょうか?」という質問をされました。

この二つの親の例は、コンクールと音楽大学のNiveau(level)を全く理解出来ていないという事です。確かに、企業が主催するコンクールはその企業で勉強している生徒に、勉強の価値付をするためのコンクールなので、そういったコンクールや地方のコンクールでは、その親達の疑問は当たっています。普通の子供達が、普段の音楽の練習を少し、一生懸命やったに過ぎないのです。所詮はアマチュアの延長線上のコンクールであり、そういったコンクールのNiveauは大したものではありません。ただ、まだ全国大会の規模を持つ、非常に難しいコンクールがあり、そういったコンクールは、就学年次以前の、4歳児、5歳児から、プロを目指して、日常の全てを音楽の練習にかけている、ひたむきな親や子供達が集まって来ます。それは、企業のコンクールや地方のコンクールとは違って、とても水準が高いのですよ。音楽大学の水準と比較しても比べ物に成りません。現実的に、高校ブロックや、大学ブロックでは、音楽高校や音楽大学の学生達が出場者の殆どなのですから。(音楽大学進学を目指す生徒でも、上を目指す生徒は、音楽高校から行く場合は少ないのですからね。何故??って?だって、目標が音楽大学だから、安全パイを狙って音楽高校に行くのでしょう。音楽を職業としたいのなら、大学受験のぎりぎりまで、水準を上げる事に専念するはずですからね。)

まあ、本当は、私の音楽技術への指導力を、音楽社会の中の他の指導者の先生達と比べてみたかったのでしょうが、それはともかくとして、私個人の解釈では、音楽のコンクールの有様は、生徒が「音楽のプロになりたい」、「音楽を職業としたい」、という本人の希望や勉強とは真逆の勉強になってしまいます。

コンクールは一般で言われるように非常に難しい、コンクールに参加する事自体が、ステータスであるような、非現実的なレベルのものではありません。コンクールは、音楽大学の受験と同じで、その曲の持つ課題を一つ一つていねいに、(重箱の隅を箸でつつくように)直していけばよいのです。ということで、指導する先生に課題への教材研究の知識がちゃんとあるのならば、コンクールに入賞させる事はそんなに大変なことではないのです。

一つ一つのコンクールの課題曲の細部に渡る課題を、生徒に具体的に理解させ、その課題を克服するための正しい練習法や、音楽を勉強する人が陥る誤った奏法を、勉強する側が正しく理解出来れば、その課題全部をクリアすることは、普段の週1の1時間程度の通常レッスンで、日本のコンクールの全国大会ぐらいは入賞出来ます。

私のlessonの場合には、週一、一時間程度の通常のlessonしかしないので(他の先生のように、一日おきとか、週3とかの)追加lessonをしないわけなので、lessonにある程度の効率(ノルマ)は必要です。

私のレッスンの場合には、生徒に譜面を渡した(曲を決めた)段階で、その曲を演奏する上で必要な課題を細かく説明をします。そして、その演奏を可能にするのに必要な練習法や、人がよく犯しやすい、誤った弾き方のサンプルなども説明します。また、レッスンがしやすいように、構造分析的に曲を幾つかの節に分けてナンバリングをします。生徒は、1週間後に曲の全体を譜読みしてくるのではなく、節の一つをある程度の水準まで密度をあげて練習をしてきます。これは、コンクールまでの日数と課題の量で、追加のワン・レッスンをしないで良いように、レッスンの無駄を省き、時短を図るために、生徒が自分で出来ることは生徒に任せる・・・という私の指導方針によります。ちなみに、私達の教室は、巷の音楽教室にすぎないので、私が指導している生徒たちも「プロになりたいから…」と言って、私のもとに集まってきた選抜された生徒でも、教室に入るために特別に試験をして入会して来た生徒ではありません。全く一般の音楽教室と同様に、教室の近くに住んでいる普通の子供たちです。ただ、一つの条件はクラシック専門の教室という事です。つまり、当世風の宮崎駿のBGMやテレビ等のCMソングは発表会のprogramにも、教室のcurriculumにものらないし、電子楽器のlessonもありません。その代わりにオリジナル楽器によるCembaloの奏法や、コントラバスやrecorder等の楽器をlesson内で(副科として)習う事が出来ます。そういった、近所の趣味で音楽を始めた子供達でも、日本の音楽コンクールの全国大会に出場している生徒たちと肩を並べて、コンクールで互角に戦うことが出来ます。私たちの音楽教室の生徒たちは、音楽が大好きで趣味でうまく勉強しているわけだから、コンクールのためのレッスンや練習も楽しくてしょうがないのですよ!先生も叱ったり、怒ったりすることは無いしね!だって、趣味でしょう?それで「プロになりたい!」などと言いだしたら、その時に改めてしごけば良いのだよ!

事実、生徒の何人かは、私から与えられたクリヤーしなければならない課題の中の20カ所くらいが、本選当日までに間に合わなかったのですが、それでも、全国大会で入賞した生徒が何人もいます。「それは何故か?」というと、中学生、高校生のレベルで、曲を100%完璧に演奏出来る生徒は、全国レベルでもいないからです。しょせんは、小学生、中学生のレベルならば、趣味であろうと、プロを目指していようと、技術レベルには大差はないからです。

 

[正しい教育とは]

ホームページに何度か掲載したことがありますが、本当は小学校や中学校で、テストの課題の解き方ではなく、その課題の意味や正しい理解を指導すべきということで、何度か県単位の先生たちを集めて模範授業を生徒たちにやらせたことがあります。見学に見られた先生たちの評価は、「授業の内容的にはとてもおもしろかったのだが、そういった授業やるとなるとカリキュラムが遅れて実際上は不可能です。」というのが、いちばん多い意見でした。しかし、現実的には違います。子供たちが自分で本当に理解が出来たのならば、その後の指導は先生の手助けを得なくても、自分たちの力で伸びていくので、とても指導が楽で、しかも早いのです。ですから、curriculumに遅れてしまうという、先生達の心配は杞憂に過ぎないのです。そういった指導では、先生たちは、子供達が「次にぶち当たるであろう、壁」の適切な指導に対して心を配っていけばよいのです。先生たちも、ポイント、ポイントを集中的に指導していればいいので、先生たちの予習も、多くの生徒達のランダムな指導に振り回される事は無く、一つの課題に専念できるので、生徒指導のための予習もとても楽しいものになります。

 

[子供の幸せとは?]

もう一度、繰り返し言いますが、塾や学校教育上の成績を上げる事が目的だけの教育には、子供の本当の目標や夢が育つ事はありません。よい大学に入って・・・という漠然とした目標は、心理学的には、目標には成り得ないのです。子供に正当な夢(子供自身が抱いている本来の夢)の伴わない目標の結果、子供達の精神は壊れていくのです。

今テレビや新聞などで社会をにぎわせている子供の自殺や殺人などの問題の大半は、問題のある家庭と問題児に起こっているのではなく、30年前に私が問題提起してきた、家庭的に恵まれた教養の高い高学歴である優れた親と、その親の言う事をよく聞いて育ってきた、素質の優れた模範的な子供達が事件をひき起こしているのです。それは子供が精神的に負の転換点(SNBP[3])を越した事によって惹き起こされる事なのです。

参考までに、子供が学校生活を幸せと感じているか?の世界統計があります。世界中の学校の子供達が不幸せと感じている生徒の率は、全体の5%ぐらいで、例外的に多い国でも、全体の10%にも満たないのです。

しかし、世界中で、ただ一国、その例外が日本で、子供達の不幸せと感じている率は30%を超す勢いで、世界中の教育界の問題になっています。

しかし、不思議な事に、日本人でその問題を感じている人はいません。日本政府や教育委員会でも同様です。

しかし、世界は何度も日本にその異常さを通告し、改善を要求しています。しかし、日本の対応は・・・・・???

 

子供にとっても親にとっても、その夢が、子供が望む夢であれば、子供の心理崩壊(所謂、SNBP)は惹き起こりません。普通の(一般)家庭から見れば、異常なぐらいの厳しい教育であっても、(甲子園球児を見ても分かるように、)子供の人生の目標(ライフワーク)がプロ野球の選手になることであったとすれば、高校の甲子園を目指すための練習は、辛くとも、当然乗り越えられる辛さなのです。しかし、その中に一般大学を目指す普通の高校生が入ってくると、その世界はいじめの世界になってしまうのです。

より良い小学校から、塾に入って、有名進学中学、有名進学高校、有名塾に入って、受験に打ち勝って、良い大学(有名大学)に入学して・・・。

それは良い会社(大きい会社)に入ってたくさん給料を貰って、結婚して子供を作って子育てをして・・。おじいさんも、お父さん、お母さんもそうして生きてきたのですよね。それで今とても幸せな人生だったから、是非子供や孫にもそういった人生を体験させたいと望まれるのなら、私は何も言う事はありません。しかし、何かその事に疑問を持ちませんか?

本来の学校の役割とは、子供が自分の将来(ライフワーク)を探すところであり、且つ社会の一員としての責務を学ぶ所でもあります。

 

芦塚メトードと塾教育について

「芦塚先生は塾のことを批判してる」 と受け取られている人が多いが、学校教育の勉強力の不足を補うため塾に生徒を通わせることについて芦塚先生は基本的には反対していない。

ただ現代の自分を支える物は成績をあげるという一点に絞られそのためにいう他のHPでも掲載しているように何故、そういう回答を引き出さなければならなかったのかという、根本的な基本的な原理を指導することの出来る指導者教師の育成が日本の教育界においては殆どなされてなくてテクニカルなこの問題をこう解けば正答が得れるというテクニカル的な一面だけを教育に施すので子供達は何一つ理解しないままにその回答力だけを上げていく、そのことがユネスコやその他の他の国との教育の格差となって現在あらわれている。同じような経過をたどった韓国やその他の国々も一時はそういう学力偏重主義をっていたのであるが、その基本的な欠陥に気が付いて今はそういった塾ブームは下日を迎えて、そして本当の教育という物を目指すように変わってきている。芦塚メトードというのはこうすれば弾けるようになるというのではなく、今生徒たちにマテリアルとして教えているように、こういう様式にはこういう奏法がある。こういう様式にはこういう技術で弾かなければならないという根本的な原理を指導することによって、あるいはそのテクニカルなその技術のそれ自体を指導することによって、先生のコピーでなく生徒の自主的な音楽の理解力を育てることを目的としてそれも塾教育と全く基本的な観点を同じにする物である。

 

[学校までの通う時間のロス]

学校教育の崩壊が叫ばれるようになってから小学校の1年生から越境入学が珍しくなくなった。安全な学校、よりよい学校に入れるために、1時間2時間の通学は当たり前になってきたように思われる。

有名私立学校に入学して片道1時間半往復3時間通学にかかるとして単純計算では、12年間に約15ヶ月を電車の中ですごす計算になる。

勿論、それでは、ピアノやヴァイオリンなどの練習時間はおろか、学校の宿題をする時間さえ無いだろう。

学校と自宅を往復するだけで目いっぱいの生活を12年間しなければならない、と言う事で子供の勉強の為に、一家で引越しした例も結構見てきた。

不思議な日本の教育社会である。

 

[目先の選択で高校を選んだ生徒]

音大を志望する生徒であるのにも関わらず、教室の近くや、自宅の近くに彼女のプライドを満足させるだけの良い高校が無かったという理由で、私達のアドバイスも聞かないで、教室とは正反対の方向の遠くの高校に入学した。制服も素敵でおしゃれな学力も申し分のない、高校生活を過ごすには理想的な学校でした。しかし、学校が終わっても1時間に1本しか電車が無いために帰りが遅くなって、練習の時間を全く取る事ができず、授業に追い立てられて、ピアノの練習も出来ず、3年生になった時には、さすがに本人が泣いて「何で私はあれだけ先生がアドバイスしてくれたのに、先生の言う事を聞かなかったのだろう。」と嘆いていました。

幾ら本人が「勉強したい。」「練習したい!」 と思っていたとしても、練習の絶対時間の不足は如何ともしがたいものです。

音楽大学を受験する生徒が、有名受験高校を受験するのは、全く無意味です。

それは父兄にも何度も繰り返し行ったのにもかかわらず、「先生、もし音楽大学がだめだったら、一般大学しか受験するところは無いのでしょう?」こちらが「音楽大学はレベルにあわせて、いくつでもあります。」と説明しても機構とはしない。

一般大学を受験するのに「東大に入らなければ行く大学が無いから・・。」なんていう父兄はいないのに、音楽大学だけは、「芸大」しかないと思っている親が多いのです。

何を考えているのかね?

普通は「東大を受験するよりも、芸大を受験する方が難しい。」という一般的な言葉があるのは知らないのかね?

 

[登校拒否の子供へのアドバイス]

登校拒否の子供の親に頼まれて子供のカウンセリングをした事があります。

親は私に子供が学校に行くように説得して欲しかったのでしょうが、私のアドバイスは、「自分でやりたいことがあるのなら、学校なんかどうでも良いから、そのやりたい勉強を徹底的にしなさい。でもやりたいことが見つからないのなら、学校に行って自分のライフワークを探して来ないとね?」

子供はちゃんと学校に通うようになりましたよ。勉強をしに・・、では無くって、自分探しのために・・。

「何故?」って…?だって、「成績を上げること、よい大学に入ること」が夢であり目標ならば、人生の夢そのものは何もないということでしょう?人よりも良い成績をとって、人よりもよい大学に入って、……「それで人よりも良い会社に入れる」…という保証は無いのです。現実を見れば、ある大手の企業が採用試験で450名の合格者を取りましたが、そのうちの400名以上が外国人だったのです。アメリカでは、超エリート大学の卒業生の50%以上が就職口が全く見つからず、就職難民となっています。今現在の日本も全く同じような状況なのです。つまり、よい成績をとって、よい大学に行く事が、今の時代では安定思考にはならないということなのです。つまり、子供が精神崩壊(SNBP)を引き起こす程、頑張ったとしても、その将来は何も約束はされていないし、その将来は子供の望む夢で有るわけでもないのです。そこに、心の発達や育成はあり得ないのです。

 

就職難に関して

でも、専門職には就職難は無いのですよ。夢を職業と取り違えている学生や親達がいて、音楽大学を卒業しても、プロになれないといっているだけです。音楽であれ美術であれ、体育であれ、必要なものは技術とそれを支える心です。その両面は学校では学べるわけがないのは当たり前でしょう。プロは職業であって、academismではないからです。結論をいうのなら、その専門職の技術レベルと心意気に学生達が到達しているか、否か?!の話ですよ。

「正しい夢の持ち方」に関してはまた別の論文で述べていますので、そちらをご参照ください。

 

学校や塾、各教室のそれぞれの位置付け

指導者のレベル

生徒に勉強を教えるプロと呼ばれる人達は、学校の先生であり、塾の先生であるかもしれないし、大学の教授達かもしれない。技術を教えるという意味では、水泳教室のインストラクターや音楽教室の先生も子供達を指導している事には変わりない。

そういった人達はそれぞれの教科の問題を解くテクニックや技術を指導する。もう少し、レベルの高い先生は、その技術の意味や何故、その解き方をしなければならないのかというhow-toまでも、指導するであろう。

しかし、同じインストラクターでも、もっと高度な水準を求める指導者達は、技術よりも、人生に対しての考え方や、生き方を指導する。

また、プロとしての生き方や心構えには、所謂、王道となるhow-toはないのだ!

 

よく、私が勘違いをされる事は、私が小学生や高校生等の子供達を指導し始めたのは、日本に帰国してから、或いは、音楽教室を立ち上げてから、ではない。

実は、親の(私の場合は養父ではあるが)反対を押し切って、自分勝手に音楽大学に入学してからは、音楽大学に進学するのならば、経済的援助はしないという、養父の条件だったので、(大学入学後の一年生の夏から)日常の生活のために、音楽大学を受験しようとする浪人生達の指導を始めた。

その時に、2,3名だけの事ではあるが、小学生や、中学生の子供達も指導し始めたのだが、受験生も、子供達も音楽大学に進学する、と言う前提の下の指導だったので、練習や予習復習をしないでlessonに臨むとか、或いは、もっと根本的な相談、将来についてとか、音楽の方面に進学して・・とかいう悩みの相談や、疑問点等の質問をされる事も、私がアドバイスをすると言う事も全くなかった。

又、私が千葉市の花園に音楽教室を立ち上げた当初も、あくまで、芦塚メトードのじっせんの場としての教室であり、その前提条件を入会時によく説明して理解、賛同しての教室の入会が前提だったので、その生徒達の将来の目的が、一般大学への進学であり、音楽を目指すものでなかったケースであったとしても、音楽という媒体を通じて、芦塚メトードの理論と考え方を学んで実行して行くと言う姿勢は常に一貫していて、私達の教育に対して批判的な父兄や疑問を持つ生徒はいなかった。

それが、崩れ始めたのは、当初の芦塚メトードの理論の証明が終わって、次の世代になった5年目以降からである。つまり、芦塚音楽研究室から㈲芦塚音楽研究所として、会社になってから、初期の目的の芦塚メトードを学ぶという姿勢から逸脱し、単なる非常に優れた指導者のいる音楽教室としての色合いが強くなる。

 

 

         1007年6月 改訂版脱稿 一靜庵庵主



[1] ここで敢えて「日本の」としたのは、塾型の過熱した受験型の教育がなされているのは、日本とお隣の韓国だけだからです。ヨーロッパは教育制度そのものが違うし、世界の教育では塾そのものが無い国の方が多いくらいです。アメリカでも私塾のようなものはありますが、その場合には私塾が学校を兼ねるので、学校に行く必要はないのです。

[2] あったとしても、予備校として、浪人生を対象にしたものでした。

[3] 私が30年前に書いた教育論文では、負の転換点(SNBP)と言ったような、そういった心理学の用語はまだありませんでした。当時はまだ家庭内暴力や校内暴力もまだほとんどない平和な時代でしたが、塾教育や有名大学の進学の競争が起こり始めの頃でした。そういった、成績オンリーの教育が一般の社会でまかり通り始めると、次の世代では教育の崩壊が起こるという私の教育論の予言の書だったのです。その論文の中で、私自身の造語として、子供への過剰期待の結果として、それまでの家庭環境によるものとは異なった教育に熱心な極々一般的な普通の家庭でも、教育の崩壊(所謂、子供が切れるという状態)が起こるという論文を大学に提出していました。私は親の期待に副うために一生懸命に努力をしている子供が突然、切れて、信じられない子供に変貌する瞬間のpointを「臨界点」と呼んでいました。