プロになるには

(プロになるための条件)

 

 

まえがき

一般的には、音楽に限らず、どのような分野でも「プロ」が育つことは、環境と才能の両方が揃った非常に稀な特殊なケースでしかありえないと考えられています。

つまり、普通の平凡な家庭に生まれ育った人は、基本的にはプロになれない、というのが一般論なのです。

ところで私は仕事上、各界の色々なプロと知り合う機会を持つ事が出来ました。

そこで私が、気付いた事は、「プロ」と呼ばれる人達は、分野の違いにもかかわらず、全て皆、同じプロ独特の性格(生き方)や考え方をしている!・・・という事でした。

言い方を代えれば、一般的な家庭に生まれた人達であったとしても、その性格(生き方)や考え方を身に付ける事が出来れば、誰でもプロになれる・・・つまり、「プロになるための条件」さえ身に付ける事が出来れば、どのような凡人であったとしても、プロになれる、という事なのです。

これからその「プロになるための条件」を、色々な角度からお話しましょう。

 

冊子公開に当たって、「部外者閲覧禁止」のお願い

勿論、この冊子に書かれている 「これだけの条件をクリアできれば、誰でもプロになれる」 というマニュアルは何所からも出版されていません。

従って、この「プロになるには」は、教室の門外不出の重要ソフトに分類されます。

ソフトの流失を避けるために、教室外の人には絶対にお見せにならないよう、ご協力お願い致します。

(第一稿製本に関しての「但し書き」 1998年09月11日第一刷)

 

 

 

 

 

 

プロになるには

 

これからお話しようとしている、「プロになるための条件」とは、本当は全て同じ視点に立った考え方であります。たった一つの心の置き場所を、色々な角度から、その視点を代えて言っているに過ぎないのです。

基本的な「プロになるための必要条件」は大項目としては次の4つが挙げられる。

 

●プロになる為の必要項目

混望・・・・・・・・・なにがなんでもその目標を自分のものにしようという気持ち。

誠実さ・・・・・・音楽 ( レッスン、練習)に対する姿勢や気持ちが誠実であること。

練習量・・・・・・根性、技術

カリキュラム・・・・正しい指導者。「今この人に何が必要か」という判断が的確にできる先生。又、それを見つけ出せる生徒側の力量。

 

 

 

 

 

 

これらを分かりやすく視点を変えて説明する為に、次のような7つの項目に分類した。

 

●index

1.プロ意識

2.学ぶ姿勢

3.生活

4.性格

5.方法 ( プロをめざすにあたって )

6. 練習の心得

7.技術

 

 

 

1.プロ意識

●その人がアマチュアかプロフェッショナルであるかは、音楽に対しての考え方の相違であり、才能とか、まして練習量ではない。

 

●99%の「プロ意識」と1%の「努力」

(エジソン日く「99%の努力と1%の才能」)

なぜならば意識が伴えば、努力は自然についてくるものであるからだ。

まして集中を伴わない糠習量では、なんの意味もない。(自己満足しかない。 )

 

●潜在意識

人間は無意識に、潜在意識に支配されている。

潜在意識と意識が一致したときには、人間は120%の能力を発掻できる。

潜在意識とは、その時の情緒や感情を支配するものである。(今は眠いから寝る。学生のうちは遊びたい。等)

意識では「こうなりたい」 「勉強したい」のように思ったり、口で言ったりはしていても、潜在意識的に「できない」という前提に立って努力している場合は、その行動は結果として中途半端なものになってしまう。

目的にひたすら向かっていたとしても、達成する前に投げ出してあきらめてしまう。

潜在意識的に本当にそう思っていたら、一度言われれば一度で直せる。

2度言われて直らないということは、直そうとしないか、直らないと思い込んでいるか、直したくないか。

努力しても直せないということは、その人が潜在意識的には直そうと思っていなからである。

 

●   マイナーな潜在意識からは成功はあり得ない。

出発点が潜在意識的にマイナーな考え方であれば、必ずマイナーな結果になる。

「これがだめだったから、 ( しかたなく ) これをやろう。」「どうせできないのならこうしよう」等のマイナーな考え方をしたことがあったなら、そこの根底から考えなおさなければ成功は絶対にあり得ない。

何かにいきづまったり失敗したりしたら、過去にさかのぼって自分の潜在意識を思い返してみると良い。どこかに必ずマイナーな潜在意識があったはずである。

練習にしても然りである。

嫌々ながら、一生懸命努力したとしても、成果が上がるわけがないことは自明の理である。

 

●自信とうぬぼれのちがい

*自信=自分の能力を正当に判断してそれを認めること。

自信は、他との比較をしなくても持てる。自分が他の人より劣っていたり、又、その時点ではまだ思うように出来なかったとしても、努力し続けることのできる自分に対しての誇り、プライド。

「どこが出来ない。どこが自信がない。」 ということが正確に判断できることが自信と自惚れの分かれ目である。

 

*うぬぼれ=ありもしない自分の能力を「できる」と思いこむこと。

出来てもいない事を「出来た」と思い込むこと。

自惚れは、常に自分と他の誰かを比較し、「自分がその人よりも優れている。」 と思う ことによって自己満足すること。従ってその事について、自分が他人に負けたと自覚した時には挫折する。

 

自信が無いよりもまだ自惚れている方がましである。ただし、この場合でもやはりプロにはなれない。 自惚れはジェラシーの母である。

 

●   ジェラシー(jealousy ) 

 ジェラシーとライバル意識との違い

ジェラシーとは、やろうとすれば出来るかもしれないのに、それに対して何の努力もせず、 自分は今のレベルのままで、他人が出来ていることを認めようともせずに批判だけすること。自分が出来ないことを「自分の努力の到らなさ」とは考えようとはせずに、環境や自分自身の生まれつきの才能などのせいにし、努力しないことを正当化しようとすること。

自分が出来ないことを正当化しているから、他人が出来ることは認められない。

そしてそこにジェラシーの念がわきおこる。

 

ジェラシーを持つ人間はプロにはなれない。

ジェラシーとは自分に出来ないこと〔自分より優れていること〕を批判することによって、相手を自分より低いレベルに置くことで満足してしまう事である。その結果として自分自身を、相手の水準より低いレベルに持って行く結果をもたらしてしまう。

 

蛇足:一般的なjealousyは男と女のjealousyに代表される。

Jealousyは束縛であり、不信である。「愛しているから、相手を束縛したくなる。」という事は所詮、相手の人格の否定である。「愛しているからジェラシックになる。」という夢のような話は、すぐに冷めてしまう熱病のようなものである。所謂、相手の人格を否定し、束縛する所にjealousyがある。あくまで自分の所有物としてであり、相手を一人の人間として認めている分けではない。Jealousyの心理は、「自分に自信がなく、相手を信頼出来ない」からジェラシックになるのである。そのまま、逆を言えば、「自分に自信があって、相手の事を信頼している人」が、その相手に対してjealousyを起こす事は有り得ないからである。Jealousyを起こす人間とはかかわらない事がベストである。Jealousyは国でさえも滅ぼしてしまう。男と女に限らず、子供に挫折を与え、子供の将来を不幸せにするのも母親のジェラシックである。全てのジェラシック、所謂、負の連鎖からは、メジャーなものは何も生まれてこない。当たり前の話である。

Jealousyはブラックホールである。与えても、与えても満足する事はなくやがて自滅する。本当の母親の愛情にはjealousyはない。

母性とは与えるものであるからだ。

まあ、男と女のJealousyは、ここで話す筋合いのものでもないし、それに一般的なjealousyにしても、話すだけの値打ちはない。

プロとして人に、或いは社会にアピールするだけのその人のi dentityがあれば、その人はjealousyに何らかの価値を見出す事は絶対にないし、興味も示さないからである。

つまり、jealousyに興味のある人は、自分に自信がなく、自分自身というi dentityもない。

そういった人がプロの道を目指せる分けは有り得ないからである。

プロは与える側であり、奪う側ではない。

 

●ライバル意識 (一般的にジェラシーと同じような意味で使われることがあるが、ここで は良い意味でのライバル意識)は、自分の事も相手の事も正当に評価し、相手の良いところを認めた上で、その人を目標にしたり、自分を向上させる為に競走心を持ったりすること。

 

ジェラシーとライバル意識は、自分より優れた者に対しての評価の負と正の関係である。

 

●プライドの持ち方

*プライド(pride) = 誇り、自尊心 (自分を尊敬する気持ち)

プライドという言葉も日本では一般的に、マイナスのイメージで使用されている。

「あの人はプライドが高い。」・・・等々、悪いイメージで、「自惚れ(conceit:vanity)ている。」と同義語の間違った定義で使われている。

プライドの本来の意味は、自分自身に対する誇りである。

 

プライドが自分の欲に支配されてしまうと、それは「自惚れ」に変わってしまう。自尊心を持てるようにするには、「自己」の本質を見極め、それを認め、理解する事が必要である。誤ったプライド(自惚れ)にならないようにするには、白分のプライドが潜在意識のどこから来るのかを正しく見つめることが大切である。

 

*   欲 (五欲) = 食欲、性欲、睡眠欲、金銭欲、支配欲

通常、宗教は五欲を否定する所から始まるが、宗教やモラルはうつろい逝くものである。

五欲の評価は、宗派や時代、国によって異なる。もし宗教が普遍的なものであり、同一のものならば、宗教戦争は起こらない。

芸術は人間そのものの情緒や本質を扱うわけだから、優れた芸術家で五欲の塊のような人物にもお目にかかることがある。 ( しかしそれでもその人の芸術は素晴らしい事がままある。)

欲はそれ自体では、善悪に依る事はないからである。

 

自己の潜在意識を正しく認識するためには、自分が一番醜いと思える五欲を認め、許す所から始めなければならない。人は不完全なものだ。それを認めずして他人を思いやることは出来ない。

 

*内観 = 自己〈潜在意識〉を観ること。着ているものの内側に入って、本来の自分を見ること。

 

●価値観の持ち方

記憶力、集中力、勤勉さ等の全ての能力(才能)は「価値観」によるものである。

プロのピアニストになりたければ、「なりたい。」 という価値観が自分の生活の中で一番比重の大きい欲求でなければならない。

 

「上手に弾こう。」という潜在意識は「○○よりも」という比較が含まれてしまい、結果としてマイナーな価値観になってしまう。マイナーな価値感(「これが出来ないと誰々に負けてしまう。」とか「練習しなければ先生に怒られる。」など)は、一時的には効果があったとしても、長続きすることはない。また、レッスンや発表会などで、問題の箇所が運良くうまくいったとしても、次に弾いたときにはうまくいくとは限らない。これでは達成とは言えない。ただ単に偶然にうまくいったに過ぎない。その時、瞬間を求めるとすれば、その技術は身につくことはあり得ない。〔学校の試験の一夜づけの勉強のように、次の日にはすっかり忘れてしまっていることだろう。〕

「楽しく弾こう。」とか「お客さんを喜ばせよう。」などのメイジャーなイメージを強く 持つようにすることが大切である。

そこには刹那的なものは存在しない。

また、自分の芸術に対する価値感を育てることも勉強していく上で重要である。例えば、ほんの小さなミスタッチを「恥ずかしい」と思うようにすることや、或いは「汚い音は絶対に嫌だ。」と思う心を持つように(育てるように)しなければならない。

汚い音や間違いに対して無神経であるということは、所詮アマチュアにしかすぎない。

 

●技術は時間によらず意識によって身につく

例えプロフェッショナルに近い技術レベルを持つ人で、も、ある目、その人が何らかの事情で音楽に対しての意識が喪失しただけで、 ( 例えば「ピアノをやめたい。」 とか「練習が辛い。」とか思っただけで、 ) 第三者的に見ると、音楽上の技術の急激な低下を見てとることができる。それが本人の意識だけの変化で、練習の時間 ( そのものに懸ける時間〉やその他に懸けるものが変わらなかったとしても、である。一般の人は、練習に懸ける時間さえ変わらなければ、例え技術的なレベルが向上しなかったとしても、その時点でのレベルはキープ出来ると思いがちである。

しかし本当は、音楽に対する意識が失われたときには、同時に本人の集中力や達成しようとする目標のレベル自体も、無意識に失われてしまうのだ。(目標が変わってしまったり、Niveauが下がったりするという事。)

当然ながら、音楽に立ち向かう意識によって産みだされる「音楽に接する時のエネルギー」も同じように低下してしまう。

しかしながら本人にとっては、音楽に対する意識の低下と同時に、音楽への目標になるレベルも低下するわけだから、自分が下手になったという事すら意識出来ない・・・・という面白い現象が起きる。外から見ている周りの人達には分かっても、中に居る本人だけはそれを気付かず、また信じないという事である。

日常の生活の価値観の中心が音楽であれば、人は限りなく進歩、成長し続けることができる。技術は時間によるものではなく、意識によるものなのだからだ。

 

●親の意識

また、子供を指導している場合によく見受けられることなのだが、子供自身は前のままに 熱心に練習していたとしても、親が子供の「音楽に対しての夢」に懸ける意識が変わったり、失われたりしただけででも、子供の音楽的意識レベルは、(他人にとっては)誰にでも分かるように著しく低下する。それにも係わらず、親だけには、子供がより下手になっていくのが (意識として)分からない。なぜなら、親自身が「(潜在的に)子供が下手になる事」を期待している分けなのだが、子供の成長を阻害する事は社会的モラルとして許されないことであるから、(子供が下手になっていくという)その事実は親として認める事が出来ないのだ。

(これも上記の例と同じで、潜在意識のなせる悪戯である。)

 

大人の生徒と異なり、子供をプロとして育てあげるにあたっては、常に親の意識(両親の) が子供の上達を左右するということをよく理解しておく必要がある。

 

「子供を挫折させてしまう親の意識」としては基本的に次に述べる三つのパターンがあげられる。

 

まず第一に、「親は(他人の子供に対してはともかく、)自分の子供に対しては、評価があまい。」という原則がある。一見すると、非常に厳しく見える親でも、(どうでもいい処では、やたらうるさく注意するくせに)、正しく注意し、批判し、是正しなければならない処では、滅多やたらと子供に対して甘く接してしまう。」と言う事である。

会社などで部下を指導するような立場にある人でも、(優れた上司として、部下を客観的に評価して適切な指導が出来るような人でも、)事が自分の子供の事になった途端に、正当な客観的な判断が出来なくなるというケースを数多く見受ける。

これは親であれば必ずおこりえる問題であるかも知れない。

(「子供からの親の自立」については教育心理論文集参照のこと)

 

自分の子供を見るとき、他人を見る時と、同じ評価を自分の子供に対して出来るようになれば、そのような問題は防ぐことができる。

例として、子供をコンクールに出すときに、大人が日本一になることも、子供が日本一になることも、大変さに関しては、何等変りないはずなのに、ついつい自分の子供に対しては大人目線で「子供のコンクールだから大人のコンクールよりも楽なはず」という考え方をしてしまう。勿論、子供のコンクールのレベルは大人から見れば確かに楽なレベルであるかもしれない。しかし、その年齢の子供にとっては大人が日本一になるのに必要な努力と同じエネルギーは必要なはずである。だから、子供にとっては、大人のコンクールと同じぐらいに大変なのだ。

それと、コンクールに出して、子供が一生懸命になると、無意識のうちに「子供に楽をさせてあげたい」という( 潜在意識的に)甘い親心が働き、「そんなに必死になってがんばらなくてもプロになれるのでは。」と、子供に対してのNiveauの要求が甘くなっていくのである。

そしてそのケースの場合には、コンクールに入らなかった時には、子供の努力が足りなかった・・・という事ではなく、先生の力が足りなかったということになる。( ヴァイオリンの生徒の場合には、伴奏者に恵まれなかったとか。)

全て他人の性、至らなさの性にしてしまう。(子供の性にはならないという事)

 

第二番目のケースとしては、「子供の意識的水準が親を越えようとしたときに、親が子供に(潜在意識的に)子供の成長を止めようとしてしまう。というパターンである。

これは特に親がピアノの先生などの子供と同じ職業をしていて、「子供をプロにしたい。」「あとを継がせたい。」という願望がある場合に、数多くの例を見ることができる。

子供の持つ〔「技術」ではなく「意識的な水準」〕 が親のレベルを越そうとしたときに、親は急速に「子供をプロにしたい。」という意欲を失うのである。

その理由は、子供が自分の持っている技術的なlevelや精神的levelを越そうとすると、突然、親は「親の尊厳が失われてしまう。」という恐怖心を持ってしまう事にその原因がある。

正しい教育を施すと、子供の技術の成長は驚くほど早い。

日本の従来の教育などで大人がやっとたどり着いたレベルなどは、正しい指導では、ほんの一瞬でたどり着いてしまう。

またそれは誇張した話ではなくって、そうでなくては、プロの道に到達する事は出来ない・・という必然の話なのだ。

「親が頑張って、音楽大学を卒業してきたとしても、それはプロの山登りのせいぜい三合目か、五合目にしか、たどり着いていないケースが殆どである。」

頂上を目指す子供の道程は果てし無く遠いのである。

そんなに、ゆっくりとのんびり歩いてはプロの山の頂上を目指すことは出来ない。年齢とNiveauの問題に引っかかってしまうからだ。

〔私が実際に指導した子供達 ( 小学高学年から中学生で)約3〜4年で、コンクールに出演可能なレベルに達する。

(親達は有頂天になり、子供は自分に才能があると自惚れ、錯覚する・・・が、本当はそれからがプロとアマの分かれ道なのだ。)〕

 親はそのような低次元なレベルで子供と張り合うのではなく、その道程を歩む子供の精神的な支えとナビゲーターとなってやらなければならないのに・・・、である。

 

次に第三番目としては、「父親と母親の(家族間の)教育方針が著しく異なっているケース」である。

子供はその家族の中で、一番強い立場にある親の方の方針に合わせて日常生活(練習や勉強等の意識)を営む。家族の中で、一番強い立場の親が、子供をプロにすることを望んでいたと仮定すれば、当然(見かけ上は)プロをめざしているような日常生活を送る。

ここで「見かけ上は」という言い方をした意味であるが、・・・もう片方の親が本質的に(潜在意識的にと言いなおしでもよいが、)子供がプロになることを望んでいない場合(親が子供に対して甘く、子供がより楽な日常を送るように期待している場合・・)には、子供は、子供自身の意識(プロになろうという気持ち)とは別に、(潜在意識的に)より楽な生き方を選んでしまう。

その結果、子供が一生懸命努力をしているように見えたとしても、 ( 心の奥底では、より楽な生き方を選択する事で)「子供の努力の割には、ちっとも成果が見られない。」という結果をまねいてしまう。

一生懸命努力しているのに係わらず、ちっとも成果が現れないという場合には、両親のどちらかが、子供に対して「可哀想だ!」という意識が無意識にでも働いていないか、或いは、「プロになるよりも、もっと楽な生き方があるのでは?」という潜在的な考え方を持っていないか、を疑って見ると良い。

 

(上記の例は10年前の父兄会の「挫折のパターン」に詳しく書かれているので重複してしまうので詳しくは述べないが、)子供が中、高校生ぐらいの時期になると、親が子供に対して、いろんなことをやらせてみたいという雑念がおこり、それが子供の挫折に繋が っていくというケースが数多く見られる。

まず、この思春期の時期の子供達は、自己の確立を中心とした幼年期の成長過程から、初めて社会に興味を向けるようになる。

音楽の勉強というものは自分自身との戦いであるから、部活等の子供の社会に対して目を向けたほうが、子供にとってより楽である。

何故か?というと、子供の言う社会とは、学校などの、子供を取り巻く環境にすぎず、その範囲も子供自身で手の届く範囲に過ぎない。

ましてや、学校で一番になったところで、プロを目指す子供達にとっては、所詮はアマチュアの一般の平凡な域を越すことはない。

学校社会とか、子供を取り巻く社会は、大人の言う社会とは基本的に異なる。子供の世界として大人が管理している世界しか過ぎないのである。

まず第一の問題点はそこである。

 

また親は、自分の夢として、子供に音楽をやらせていくわけだが、子供が小さい場合は現実性の無い「将来の幻の夢」に過ぎない。

子供と一緒に「夢」を見る事を楽しんでいるわけだ。

それが、子供が成長していく事によって、夢は、「より、現実の話」となって、今まではただの夢に過ぎなかったものが、より現実的に見えるようになってしまうのだ。その時に、現実の社会の中での「子供の夢」というものが、初めて具体的なリアリティを持ったものとして見えて来て、突然、今まで見てきた「プロになるという夢」が逆に非現実的なものと思われ始める。

その反動で「子供には別の才能があるのではないか?」という、「逃げの発想」が心に浮かび始めるのである。

つまり、「プロにしたい。」という一途な要求が失われて来て、「もっと別の可能性があるのではないか?」という迷い(逃げ)に変わって来る分けである。

子供はそれまで、努力を積み重ねてきているので、当然、一般の子供達に比べて、ある程度のレベルまで来ている分けなので、山登りに例えると8合目、9合目の、頂上近くの一番険しい上り坂に来ている。

それに対して、親が新しい色々な可能性(別の目標)を見せれば、その、見せられたもの(目標)は、一合目の山登りの登山道の入り口にしか過ぎないのだから、それは、当然、今現在、登っている山より、とても楽な道となる。

子供は幾ら、しっかりしていても、所詮は子供に過ぎない。

殆どの子供達は、親の与えたより楽な道に逃げていくのは、当たり前の事であろうし、その事で子供を責める事は出来ない。

それは、子供に対して本当の愛情を注ぐ事が出来なかった親の責任である。

目標の山の登山を止めさせなかったとしても、(具体的に言えば、例えその後も、音楽の道を歩み続けたとしても)一旦、子供の気持ちが、他の所(音楽以外のより楽な所、所謂、迷い!)に逃げてしまった事によって、音楽に向かい合う「子供自身の緊張感、厳しさ」というものが失われてしまい、音楽に対するアプローチの意識も低下してしまう。

 

そこで、利発な子供は、「音楽以外の道でプロになることを選択したとしても、今現在は楽であったとしても、何年か後に、音楽と同じ水準に達した時には、やはり同じ険しい山道(8合目、9合目)に差しかかる」事を知っている。

しかも、今の努力を止めたことで、「失われてしまった時間は、もう取り返すことが出来ない!」ということも知っている。

そして極少数の聡明な子供は、そこで正しい選択をする。

しかし、ほとんどの子供の場合には(再び、ある程度の期間が過ぎると、また同じプロの壁(スランプ)にぶち当たる事に気づいていたとしても)、より自分を楽にしようという選択をする。

なぜなら、人間は本来、より楽な道を望むものであり、且つまた、自分を導かねばならない立場であるはずの親が、より楽な道を選択して見せているのだから、そこで、挫折したとしても、その責任は親にあって、自分自身に責任が降りかかってくる事は、絶対にないからである。

 

生徒へのアドバイス

●同じ注意を二度とは受けないこと。

一度教えられたことは、同じ注意を二度と受けないようにする。

それがプロになるため の一番の近道であり、又、確実な方法でもある。

私は高校2年から音楽の勉強をスタートしたが、たった10年で国際コンクールで1位をとることができた。その努力の過程で、自分として座右の銘として守ってきたことは「一度受けた注意は二度と受けない」という事、それだけであった。

 

(音楽のlessonの時の応用)

また一例として、モーツアルトのコンチェルト第3番を習ったら、他のモーツアルトのコンチェルトも、全て同じように応用して弾けなければ、結果としては同じことをもう一度教わることになってしまう。一つ学んだことに対して、それを応用する事もまた「一度言われた注意は二度と言われないようにする」ということである。

同じ事を繰り返して教わるということは、いつも同じレベルに留まっているということだ。

同じ注意を二度と受けないということは、常に新しい事を学べるということである。

プライドと意識の問題である。

 

●音大生がなぜプロになれないか?

渇望の欠如

音大生の殆どは、「練習量(時間)」はクリアしている。

練習している時の態度も真剣そのものである。

しかし音楽的な内容に対しての「渇望」という点を見てみると、これは充分とはいえない。

練習の目的が、ただ単に「先生に褒められたい。」とか、「試験で良い得点を得たい。」が為だけだったりする。

つまりめざしている目標(Niveau)が低すぎて、夢を見ている「プロになりたい」という願望と、練習の目標が現実味を帯びない。所謂、私達がいう所の「プロになるためのカリキュラム」からは、ほど遠い。

立場を変えて、指導者側の場合にも同じようなことが言える。

得てして、大学の先生たちは 音楽を機械的にアカデミズムに弾かせたがる傾向がある。

何故、大学の先生達は、機械的にアカデミズムに演奏させるのかという、最たる理由は、試験やコンクール等の評価が、複数の審査員の減点法で審査されるからである。

減点法の場合には、個性的で豊かな音楽を表現するよりも、よりミスの少ない人の方が得点は上になる。

それは何故かというと、個性的な演奏は、ある先生には高得点を貰えたとしても、別の先生には全く評価されない、というように、評価の基準が分かれてしまうからなのである。

結果として機械的に、より間違いが少なく、没個性的な演奏の方が、複数の審査員からの評価を確実にし、より高得点を得ることが出来るからである。それが、大学の試験やコンクール等で確実に高得点を得れる最も効率の良い方法である。

 

しかし、その評価は、一旦、音楽を演奏する対象を、音楽大学等の教授達やコンクールの審査員のようなアカデミズムな場所ではなく、一般大衆に向かって演奏する演奏会場になると、そういったアカデミズム的な演奏は全く評価される事はない。

つまり、より多くの聴衆のsymbthyを得るには、音楽が分かりやすく、一般大衆にも共感を得れるものでなければならないからである。

そのためには、音楽の表現はより直接的で、簡明なものでなければならない。

しかし、そういった音楽上の表現は音楽大学等の先生方には、極端に嫌われる。

プロとして演奏活動を続けるには、音楽大学の学生のように、自分の先生の演奏を義務として聞かなければならない、可哀想な特別な聴衆モドキでなく、本当に、一般の聴衆が聴衆として演奏会を開催するたびにリピートしてくれないと、プロとは呼べないし、その後の演奏会を続ける事は出来ない。

そういった、分かり易い演奏を「素人ぽい演奏」と感じるか、「質実剛健な表現力に溢れたもの」と感じるかの評価は、スコラ派のような、窮めて狭い音楽社会のアカデミズムに属している人達ではなく、広く一般の聴衆の一人一人に委ねられるべきである。

アカデミズムとプロフェッショナルは両極にある。

 

職業意識の欠如

一般の音大生の殆どは、「音大を卒業したら、何もしなくとも、そのまま就職出来る。」という妄想に陥っている。

その妄想を引き起こす原因の一つは、「学生の間は演奏活動の場が意外と多い」、という事による。

その理由は、学生である間は、無料奉仕や安く「こき使う」事が出来るからである。

しかし、卒業した時点で、音楽家を雇う場合には、一般の音楽家と同じ金額を払わなければならない。それなら、音楽界に慣れているプロを雇った方がリスクは少ない。音大の卒業生を雇う意味はなくなるのである。という事で、音楽大学の卒業と同時に音楽関係の仕事は来なくなる。

そこの所を、既にその事を経験して来た先輩が、何を今、学ばなければならないのかという事を、後輩に幾らアドバイスをしても、学生達は皆、「自分の実力で仕事が来ているのだ。」と自惚れて、勘違いをして、せっかくの先輩の忠告を聞こうとはしない。

音楽の仕事が出来るようになる為には、今何を勉強しなければならないのか、という事をクライアントサイドからは、殆どの人は考えたことがない。

音大の先生から教わった事を、その通りにやることは出来るが、自分自身で何かをしようとする自立心は全くない。

なまじ「練習量」だけは、こなしている為、「自分は一生懸命やっている」という安堵感に浸って満足しているので、より始末が悪い。

 

音大生の卒業生の中の超エリートの中で、さらに淘汰された人が、プロとなって音楽家として社会の中にいるという現実を認識するとよいのだが、今お話したように、なまじ、音大のアルバイトがあるので、自分の実力と勘違いをして、自惚れてしまって、先輩達に対しての尊敬の念は全くない。

 

●プロの作品(プロの演奏)プロの作品について説明するにあたって、一番分かりやすく例えるならば「文章」であろう。

言葉というものは単に意思の伝達に過ぎないのだから、仮に言葉を尽くすことがなく、箇条書きの状態であったとしても、自分の意思を充分に伝達することはできる。しかしながら、その作品をプロの文章にする、或いは芸術の域に達する文章にするために、と言う事となると、書かれた内容的なものは同じであっても、より優れた文章となるためには、言葉そのものが優れたものでなければならない。

もう少し、分かりやすく、例を取ってお話するならば、大学の紀要等に掲載されている「大学の先生達の研究論文」というものを例にするとよい。理系の論文は数式の羅列なので問題はないのだが、問題は文系の紀要である。

その文章の殆どは、伝達したい内容について、より難解な難しい単語の羅列や複雑古文の言い回しを使って、まるで判じ物のように、難解に語られている。

読めば読むほど言いたいことが分からなくなる。

ところが不思議なことに、えてしてこの手の文章は、一般大衆からは「この本はすばらしい。」と評価され「あの先生はこんなに難しい本を書いた。」 と尊敬されることがままある。

それがいわゆる権威主義の象徴であろう。

悪文の典型はカントの純粋理性批判であろう。

延々と2Page、3Pageに渉ってたった2つの単語を修辞する。その大仰な事!

また、国民性であろうか、日本人は意味の分からないもの、理解出来ないものを有難がる傾向がある。

その際たるものは、お経である。「ハンニャーハーラーミー・・・・」と、よく分からない呪文が読み上げられると、老人は「はぁ〜!」と、有難がって平伏する。(私は高校生の時に、般若心経講和という鈴木大拙先生の本を読んで、般若心経の意味に甚く感激した覚えがある。)

 

しかし、大学の先生の論文が大学を対象として、紀要等に書かれたものではなく、一般大衆を対象として、文章のプロが書いた著書として、その本を評価するとすれば、その書かれた文章がいかに広く人々に読まれるかという事の方が評価の要になる。

必然的に文章はより簡明でなければならない。

しかし、簡明であればあるだけ一般の人々はその文章に対して軽い受け取り方をする。

平易に書こうとすれば、その内容がいかに薀蓄を傾けたものだとしても、受け取り手はそれを内容のない軽いものとして受けとめる傾向がある。

文章が簡明でありながらしかも薀蓄に富んだものを書くには、難しく分かりにくい文章を書くことよりも、もう一段上のレベルが必要である。

つまり、プロの文章というものは、「伝達をしたい。」というそのもの自体の内容の善し悪しではなく、「如何に多くの人に意思を正しく伝えることができるか。」というアプローチが強くなされているものでなければならない。

 

2.学ぶ姿勢

●積極性

ヨーロッパの大学の先生にしても日本の膏大の先生にしても同じ注意を2度してくれる先生はいない。

一般的には良い先生ほど丁寧に何度でも教えてくれると思われがちだが、それは根本的に間違いである。

何度でも同じ注意を受ける生徒は上手くなる事はないからである。生徒が上手くならなければ、よい先生とは言われない。つまり、よい先生の所には、一度注意したら、ちゃんと次にはきちんと直してくる生徒、与えられた課題はちゃんとこなしてくる生徒が集まっているからよい先生なのだよ。

良い先生のところには良い生徒が集まるから、皆がうまくなるのであって、うまくなるかどうかは生徒側の力量にかかっている。

どんなに良い先生についても、 生徒が受動的な教わり方をしていれば、上達には限りがある。

本当に大切なことは先生から教えてもらうのではなく、先生から盗んでいくものである。良い生徒ほど先生から技術を盗もうとする意識が高い。

 

●「学ぶ 」 は「真似ぶ 」から

「学ぶ」という言葉は「真似ぶ」という言葉から来ている。

この「真似ぶ」というのは、プロの作り上げた作品や演奏を、ただ物まねとしてコピーするのではなく、プロの意識や生活、勉強の仕方(ひっくるめて言うと人生)を「真似ぶ」ということが基本である。

 

●   先生にたいする信頼

本人の師事している先生への信頼が、子供はもちろん、親もゆるぎないものであること。

( もちろん生徒が大人であれば、親の信頼度はあまり関係ない話ではあるが)もしもネームバリューにしか価値を見いだせない親であったとしたら、子供のレベルとは関係なくなるべく早い時期に有名な先生についた方が良い。

先生を信頼できないよりも、指導力のない先生でも信頼できる先生についた方が子供にとってはまだましであるからである。

仮に生徒が教師の技術や音楽性を正しく評価し認めていたとしても、人間性に対してついていけない場合にも、その生徒の音楽的成長は望めない。

技術や音楽性が劣っていたとしても、別の教師に師事することの方が望ましい。

技術や音楽性はその人の人間性の上に成り立っているのだから。

生徒が自分の師に対して、技術的な部分は認めることができたとしても、精神的に信頼できなかった場合は、指導されたことを100%吸収することはありえないからである。

 

3.生活

●皆と同じ生活をしていれば皆と同じにしかなれない。

(平凡な生活をしている人が、非凡な人になれるわけはないのだ。)

「プロ」という人種がいるわけであって、ピアニストだろうと、作家だろうと、バレリーナだろうと、どんな分野の人達でも「プロ」という人種は、皆同じように、プロになるような人生(生活)を送っている。プロとは、皆が出来ない事が出来る人の事を指す。

(おいしいお蕎麦を誰もが作れるのなら、わざわざお金を出してお蕎麦屋さんに食べに行く事はないはず。)

●「プロになれるか。 」 という相談はあり得ない。

但し、「あなたはこのままなら100%プロになれませんよ。」という保証は出来る。「なれるか」ではなく、「なるか、ならないか」「なりたいか、どうか。」 の問題だけであるからである。

プロになるにはプロになれるような性格になる事と、プロになるための生活をすれば良いだけだからである。

 

●日常を音楽にする事。

日常の中心が音楽であるようにする事。日常の全ての事から、音楽(人生)を学べるようにする事。

 

●   何かを得ようとするなら、何かを捨てなければいけない。

学生生活をエンジョイしたい。

ピアニストになりたい。

恋人と沢山デートをしたい。・・等の望みを全て叶えるのは不可能である。

楽しく遊びをエンジョイする生活と、プロになるための生活は決して両立することは出来ない。その両方を望んだ場合、その結果は両方を失うことになってしまう。

二兎を追うものはー兎も得ずということわざもあるが、一見矛盾したことのように見えるが、一芸に秀でた人は、二芸でも三芸でも秀でることができる。

山に例えるなら、高い富士山のような山が一つできれば、そのすそ野は果てし無く広がり豊かになっていく。

しかしながら、小さな山を幾つも作ったとしても、その山は孤高な深山にはならないし、すそ野も豊かに広がっていく事はない。

 

4.性格

●精神のコントロールが出来る

親の死に自に会えなくとも、恋人にふられようとも、楽器に向かった瞬間に音楽に集中できること。(もちろん音楽に向かっている時だけでよいのだが。)

 

●セルフ・コントロールが出来ているか、出来ていないかを判断出来ること。

(潜在的により楽な解決に逃げながら、セルフ・コントロールをしていると思い込んでいる人もいる。)

 

●暖昧なものが許せない性格であること。

音楽に進むと決めた人が、全く学校の勉強をしなくても学校の成績が良いのは、音楽を学ぶ過程で媛昧なものが許せない性格が身についているから、学校の勉強をするときも、分からないことがあると自分を許せないのでその場で理解をしようとする。

その結果成績が良くなるのだ。

暖昧な理解や、記憶を許せなければ必然的に成績は良くなる。

自分の中の暖味な、(いい加減な)性格を直すためには日常の習慣的なこと(どうでも良い小さなこと) から媛昧なものを無くしていくようにすればよい。

難しく大変な事に挑戦するよりも、どうでもよいことがきちんと出来るようになれば、自然と難しく大変な事でも出来るようになって、結果としてそういった性格を身につける事が出来る。

やることなすことがほどほどで満足出来る性格であるとすれば、学校などで一番になることは出来ても、ただの器用貧乏に終わるだけで、プロになれるわけではない。

 

●常に自分に満足することがないこと。

演奏家が自分の演奏に満足し、「もうこれ以上すばらしい演奏はありえない」と思ったら、そのときはその演奏家が音楽をやめるべき時なのである。

常に自分の演奏に満足出来ずにいる限り、その人は音楽家であることを続ける事が出来る。プロとは、生きている限り常に成長し続けなければならないからである。

 

自分の演奏に満足できるのはアマチュアだけである。

 

世界的プロの話

葛飾北斎

本人の死ぬ間際の言葉「天が私にあと10年時間を与えて下されば、私は天才になれたのに。」

 

ダ・ビンチ

「モナリザ」は、40年かけて描いているが、結局未完のままに終わっている。あれだけすばらしい作品でもダ・ビンチは満足することはなかった。

 

ゲーテ

彼のライフワークであった「ファウスト」は、青年時代に書きはじめられ、死の床でも推敲が重ねられていた。「ウワ・ファウスト」では、ヒロインのグレートヒェンは救われないが、「ファウスト」では、神の救いの手が差し伸べられる。ファウスト博士は「満足する事」を悪魔と契約するが、その望みはファウストの夢の世界の中でしか、叶えられない。

 

完全への満たされざる欲求、それらは全ての芸術家に共通する思いである。

 

●正確な自己評価

自分に対して、過大評価でも過少評価でもない正確な判断ができること。

過大評価は「うぬぼれ」を産み、過少評価は「いじけ」の元となる。

自分の長所と短所を正確に理解でき、又、短所を克服することに対する努力を決して怠らない謙虚な性格であること。

 

●一病息災

  息災=無事な事。災難を防ぐ事。

  無病息災=病気がなく 健康な事

  一病息災=一つの病を持つことによって、自分の健康管理に気を配り、逆に健康は人よりも長生きをする

 

自分の能力の欠如を悲観し、恥じることはない。 ( 例えば、絶対音がないとかなど )

 

この、一病患災と同じようなことが、人の性格的なことにも言える。自分の欠点を克服することによって、逆に人よりもすぐれた能力を得ることができる。つまり、短所はそれ自体が長所に成りえるということ。

目の見えない大オルガニスト、ヘルムート・バルヒャや、絶対音を持たないハイドンやワ ーグナーなど、数え上げれば限りがない。

 

●感性について

プロは常人を驚かせるような鋭い感性をもっている。

感性は一般的には生まれつきその人が持っているものとされているが、実際は感性とは技術と同じように努力によって身についたものである。

感性を磨く方法を学び、それに対する努力を本人が惜しまなければ、プロと同じ豊かな感性を育てることができる。

 

5.方法(プロを目指すにあたって)

●職業としての音楽のとらえ方

ピアニストやバイオリンニストという職業や、作曲家という職業は誤解されて受け取られている事が多い。

作曲家という職業は、ポピュラーや流行歌の世界では信万長者がいる。

日本の古賀正夫や外国のフランシス・レイ等。

しかしクラッシックの世界では、かの有名なストラビンスキーやメシアン、ジョリべなどの歴史に残る作曲家ですら自分の作品だけでは食べていけない。

オーケストラの指揮をしたり、評論を書いたり、マスコミで働くか、大学に勤めるかで収入の大半を得なければならない。それはピアニストやバイ オリニストにとっても、大差無いところである。

如何に有名な演奏家であったとしても、普段の生活では、練習の合間に生徒を指導したり、地方回りをして、公開講座などを開いたりすることを厭う人はいない。

 

●有名なプロは下積みをいやがらない

どんな有名な演奏家でも、地方回りでは本当に小さな(個人の家みたいな)所で弾かされる。ただし、有名な演奏家の中で、もコンクールなどで一時的に少し有名になったような人達は、プライドが高くてそういう所では演奏することがなく、次第に忘れ去られていく。

 

日本のピアニストの中でも、中村紘子さんや神谷郁代さん、清水和音さんなどは、地方の どんな小都市でも、〈ピアノがアップライトしかなかったとしても〉演奏したり、指導したりして回っている。クララシューマンやリストなどの歴史に名を残す名ピアニストであったとしても、然りである。

『有名になる』ということは、そういった地道な努力の結果であるということができる。

 

また地道な努力ということで、プロを目指している弟子達にいつも繰り返し話していることがある。それは、コンクールなどで一度有名になった人達の話である。実際に長い事、音楽に携わっていて分かる事は、コンクールに入賞した人の大半が、そのまま忘れ去られて行くということである。

これは、日本のコンクールだけではなく、驚くことに、ショパン・コンクールやチャイコフスキーー・コンクールなどの世界一級と呼ばれるコンクールにおいても、また然りなのである。

そのような人達は「コンクール・ピアニスト」と呼ばれ、永遠にプロの演奏家にはなれない。

また、日本のマスコミのように、一時的に持て囃されたとしても、その人がスターの条件の「若くて美しいアーチスト」という条件を満たさなくなった頃、 (27〜30才位の頃)から、別の人達が名前を出し始めるからである。

若くもなく、特に美しくもない?(要するに、そういう事を必要条件としない)実力派の人達である。

そういう人達は、テレビでキャスターの真似事等もすることはなく、地道に音楽の道を歩んできた実力派なのである。

一般的にはコンクールがプロの演奏家になるためのきっかけになると言われるが、実際にはきっかけにすらならない。

コンクール・ピアニストやコンクール・ヴァイオリニストがなぜプロになれないか。

それは、先ほども述べたように、洋の東西を問わず、コンクールというのは基本的に減点法であるから、アカデミックに間違えず、完壁に弾ければ一定の評価を受ける事が出来るが、一般の聴衆の心を掴むにはそれでは、不足だからである。

プロとしての演奏は、作曲家の求める表現を、より個性的に、(個性的でなければ、その演奏家は名前すら覚えてもらえないであろうよ。)より簡単明瞭に伝達するということが強く要求されるからである。

「個性的に」とは言っても、その音楽の基礎や作曲家の意思等を全く無視し、ただ自分の個性だけをアピールした演奏は、単なるエキセントリックなものにしかならない、ということも演奏家は肝に銘じておく必要がある。

 

●コンクールのとらえ方 (コンクールの功罪について)

コンクールを受けたときに、「予選に落ちたら、ピアノをやめよう。」等と考える生徒がよくいる。これに対するアドバイスとしては大きく三つの事が考えられる。

 

一つは、「コンクールに入るとか入らないとか」という事よりも、コンクールの演奏が自分にとっては、何パーセ ントの出来であったのか?本当に自分が納得し、満足の出来る演奏が果たして出来たのだろうか?という事を考える方が、より大切な事だということを、まずしっかりと肝に命じておく事である。

コンクールを自分が演奏家になる為の勉強過程として受けとっていれば、その成績がどうであるかよりも、コンクールを受けていく過程で自分にとってプラスになるような収護があれば、その方が「一位をとるよりもずっと価値がある。」と思えるはずである。

それがいつのまにか 「良い成績をとりたい」という目的にすりかわってしまい、せっかくの努力が無になるどころかマイナスになってしまう結果を招くのである。

 

それから、二つ目は、「コンクールにこれだけ努力をしても入賞出来なかったんだから、コンクールに入賞するためには、もっともっと多くの努力をしなくてはいけないのだ。」 と勘違いをして、思ってしまう、と言う事である。

だが、実際はそうではない。

つまり、ここで忘れられているのは「積み上げ」という事なのだ。

つまり、同じ努力をずっとしていても、それが一年間努力を続けたものと、二年間努力を続けたものとでは、その成果は倍違う。

これは、一年目で築いた成果の上に二年目の努力を積み上げていくためである。

出来たものの上に積み上げるのだから、二年目は一年目よりも楽にもっと上のランクまで自分の能力をもっていくことができるはずだ。

同じ努力の量でも、その努力をずっと続けることによって、格段のレベル・アップが出来るはずだ。

 

その証拠としては、(もちろん一生懸命、地味な努力を積み重ねている、勤勉な生徒と仮定しての話であるが)一年前の自分の演奏を、テープやビデオで、もし聴いてみるならば、一年前の自分の実力と、今現在の実力の差を見る事が出来て、大変びっくりするだろう。

一年に一回ぐらいは、自分の努力の成果を見てみるのも、悪くはない。

それはまた、本人に多大の自信をもたらす事にもなるからである。

また、一年前と同じように、勉強に対して情熱を以て、その地道な努力を続けるならば、必ずや、入選、入賞ということも不可能ではない。

ただ、えてして人間というものは努力をなかなか維持できないと言うことも事実である。

コンクールを長年継続的に見ていると分かるのだが、コンクールの常連者(入賞者でなく受け続ける者という意味の)というのは、非常に少なく、ほんの一握りの人達に過ぎない。

何故一握りの人達だけなのか。他の人達はどこへ行ったのか。

つまり、殆どの人達は、一年、二年と努力を続けてみて、「これだけ努力して入賞できないのならこの次はもっともっとその二倍も三倍も努力をしなければいけないのではないだろうか?」「それだったら自分はとても無理だ。」と考えてしまって、努力をする事を止めてしまうからである。

 

よく言われることは「コンクールで賞をとれる人は、自分とは異なった特別の才能を持ったほんのひとにぎりの人に違いない。」と言うように、「自分とは別世界の人間で、いくら努力しでも到達できない世界なのだ。」と決めつけてコンクールを受け、「所詮幾ら努力したとしても自分には無駄である。」と思い込む事によって、音楽の勉強を挫折させてしまう人達が大半である。しかし、考えてみるとそれも淘汰の一つにすぎない。

よくコンクールを受けている人達から聞く話だが、「日本のコンクールを受け続けていると、何時受けても、何所で受けても、出演して来る人は子供の頃から同じ顔ぶれだ。

だから、外国の田舎の名もないコンクールを受けて、『こんなコンクールだったらいつものメ ンバーは絶対にいないだろう。』 と思って受けたら、やはり同じメンバーが来ていた。」という笑い話のような本当の話をよく聞く。

コンクールに入賞する人達は、結論的に言えば、入賞するまでコンクールを繰り返し受ける人達である (だから、コンクールに入賞出来るのは当たり前である。)

 

三つ目は、コンクールの評価についてよく理解しておくことである。

コンクールとは、そのとき弾いたその曲だけを評価するのではない。

その演奏にあらわれるその人の持っているキャパシティーや総合的な技術、安定性などが評価されるのである。

入賞出来るかどうかは、そういった入賞出来るだけの条件をクリアしているかどうかによって決まるのだから、受ける前に本人でも「受かるか落ちるか 」という判断を簡単に下すことが出来る。

それは、自分を客観的、総合的に評価できれば、コンクール出演者の中で、どのくらいの成績であるかを自分で判断できるからである。

もしそれが当たらなかったとすれば、「自己の客観的判断力」に問題点がある(うぬぼれている)と言う事だ。

その時に弾いた曲が、他者よりもうまく弾けていたかという事ではなく、自分の総合的な技術やキャパシティーが他者よりもすぐれて安定していたかという評価をすれば、正しい判断をすることが出来る。

本人の実力であるか、先生の指導力の賜物であるかの判断がその次点でなされるからである。

 

●   正しいカリキュラム ( 良い先生の条件)

他の全ての条件がそろっていたとしても、正しいカリキュラムにのった勉強の仕方をしなければプロにはなれない。

プロになるためのカリキュラムを持った先生を探すことが大切である。

先生の善し悪しは、その先生の持つネームバリューではなく、その先生の持つカリキュラムによって判断するべきである。

生徒側(または生徒の親〉の、先生を選ぶ力量と判断力が、その生徒の人生を大きく左右する。

 

(良い生徒の条件)

世界的に有名な先生や指導力のある先生は沢山いる。

ところが、そういった高名で優秀な先生の生徒たちが皆等しくプロになれるわけではない。生徒をプロに育てられる先生が生徒を皆同じように教えたとすれば、その生徒は皆プロになれるはずである。

だが、現実はそうではない。その違いはどこから生まれてくるのか。

これを人々は一言で才能という言葉で片付けてしまっている。

しかし、この一般的に「才能 」と呼ばれているものを生み出すのは、その生徒の音楽に対する意識と先生に対する信頼との結果である、と言う事を忘れている。

本当に「プロになりたい。」と望むのであれば、プロになるための意識を持つ事、そして本当に自分が信頼出来る先生を見つけ出すこと。

そして、しかもその先生が生徒をプロに出来る(育てる)能力を持っている先生であることである。 (私の友人にはプロの人達がいるが、彼らにとってこの条件は当たり前のことでも、一般の人にとってはとても大変な事に思われるようである。)

 

( 再び良い先生の条件〉

「有名な先生のところからは、プロがいっぱい育っている 」 という、いわゆる「権威主義的」発想をする人が多い。しかし冷静に考えてみるとそれがいったいどのようなことなのかが分かるはずである。

「有名塾からは有名大学に進学できる。」

確かにそうである。

その有名塾では「うちの塾はレベルが高いから試験に合格しないと入れません。」 といったアピールが「あの塾は勉強のできる人しか入れないすごい塾 」 と評判を呼び、最大のセールスポイントになっている。「うちの子は○○塾に言っているんです。」 という自慢をしたいが為に必死に勉強させて試験を受けさせようとする。

そして沢山の生徒が集まると、ふるいにかけてレベルの低い者をどんどん落としていって、その中で、生き残った生徒だけを教育していくというシステムである。

良い生徒だけが残れば良い大学に進学できるのは当たり前のことである。

これと同じことが音楽の世界でも成り立っているのである。

実際にあった生徒の例を挙げてそのことを記すことにする。

 

その生徒の父親は、「もっと有名な先生にかわりたい。」と希望し、その父親の会社の上司に、ネームバリューのある先生を紹介してもらった。その生徒の話によると「入会したい人が 5、6人待っているから、3ヶ月くらい待ってください。」 と言われたという。

だが、実際には2、3週間くらいで、その先生に師事する事が出来た。

これは、言い換えれば1ヶ月もしないうちに 5、6人の生徒が、その先生の下をやめた、と言う事である。

その生徒がその先生の元に弟子入りしたのち、我々はその先生の発表会を何年かに渡って見学した。発表会は年に一度行われていたが、そこであることに気づいたのである。

それは、前年の発表会に出演していた生徒のうち、次の年の発表会にも出演しているのは殆どいない、ということであった。

つまりその先生の生徒のなかで、ほんの一人、二人の生徒を除いて、全ての生徒は一年も満たないで教室をやめてしまったのということである。

しかし、発表会に出演している生徒の人数は、毎年減ることもなく、常に20〜30人だった。

このことは、1年の内に殆どの生徒が入れ代わっているということを意味している。

その先生のところに来る生徒達は、「プロになりたい」という意識を持った生徒達だけである。しかもその中から更にふるいにかけ、精神的、性格的なことなど、技術以外の全ての条件がそろった生徒だけが残っていく。

技術だけを教えれば、皆ちゃんとついて来れる生徒ばかりなのだから、先生にとってこんなに楽に上達させることのできる環境はない。

そのようなベストな状態であるにもかかわらず、そのうちの殆どの生徒はコンクールにも入賞させる事が出来なかったり、芸大の先生でありながら芸大に合格させる事が出来ないというのは、よほど教え方が下手で、技術的な事でさえ、ろくに指導出来ない、という事にない論はしないか?生き残った選りすぐりの生徒のうちほんの数名だけがコンクールに入賞したり、音楽大学に合格したりして、その先生のネームバリューをさらにゆるぎないものにしている。そして、「あの先生のところからは、いつもコンクールに入賞する。」という賞賛を呼び、さらに 「師事したい。」という生徒が集まってくるのである。

 

個人的な特定の有名教授ということではなく、芸大や桐朋などの有名大学に集まってくる生徒たちは、皆「プロになりたい。演奏家になりたい。」という夢と、それ相応の技術、また、意思をもって入学してくる、既に選び抜かれた、ほんの一握りの学生達である。

つまりこの小冊子に書かれている条件は、全てクリヤー出来ている子供達なのである。

それにも係わらず、その一握りの生徒達すらプロとして育成出来ないのは、指導者側の指導力のなさ、技術のなさと言うより他はない。

プロになるためのカリキュラムなど全く無く、また、「プロになりたい。」という意識をしっかりと持った生徒でさえ落ちこぼしてしまう程度の指導力しか持っていない。

そんな先生でも、**大学教授というネームバリュー(肩書き)を求めてやってくる生徒は、後を絶たないという摩訶不思議な現象がそこに存在しているのである。

しかし、一概に指導者のみを責めるわけには行かない。

結局、自分自身の日や耳で判断する能力 (基準)のない人は、内容はどうであれ有名で権威のある先生を選ぶ。判断出来ないのだから、当たり前である。

 

上記の例で紹介したその生徒は、「前の先生の所に戻るか、それが出来なければ、ヴァイオリンをやめたい。」と希望したが、父親の会社の上司からの紹介で、その先生の下に入会したということもあって、やめるにやめられず結局6年間その先生に師事することになった。

大学進学の時にはすっかり音楽が嫌いになっていて、 「ヴァイオリンだけは二度とやりたくない。」ということで、一般大学に進学した。(その家族にとっては、最良と思われる選択をしたのであろうが、私達指導する側にとっては、毎年繰り返される同じ挫折のパターンにしか過ぎない。)

 

6.練習の心得

●一流のプロほど基礎に戻れる

一流のプロになればなるほど基礎を大切にする。楽器のかまえ方、音の出し方等のような最も基礎的なことへのアプローチを大切にする。

又、練習も必ず段階的に手順を追っておこなう。

アマチュアは、いきなり曲のできあがりの状態から練習を始め、練習の手順を追わない。

又、基礎的な練習に対しては「自分は基礎は、もう出来ているからやる必要はない。」と思いこみ、馬鹿にして、基本の所を直そうとしない。

 

●コピーをするのではなく研究をする事こと

レコードを徹底的にコピーさせるというあるメトードが近年批判されたことで、「レコードを聴くことは勉強中の学生にとって、マイナスになる。」という一般的な概念が定着してしまった感がある事は残念である。

しかしレコードを聴くことそのものに、事の是非を求めるのは、甚だ問題であり、「コピーをする。」 というレコードの聴き方(そのもの)により大きな問題があるのではないだろうか。

芦塚メトードでは、演奏方法に疑問が生じた場合、何種類かのレコードでいろいろな演奏家の演奏を聴き、その違いを指摘することや、複数の演奏家の演奏を真似る事ということでインタープリテーション(解釈)の違いを把握させて、その学生の楽曲解釈の理解をさせる。こういった方法によって、レコードを正しく聴く勉強を指導する。

ただ無批判にレコードのコピーをするのではなく、楽曲研究の一つ、教材の一つ、として捉える事によって、プロの音楽表現の技術を学ぶ事が出来る。

良き指導者はレコードを生徒に聴かせながら「ここの所は、こういう解釈をしているからこそ、このように弾くんだよ。」と説明しながらレコードの聴き方を指導する。

 

●エチュードについて

一般的なエチュードの勉強の仕方は、「ミスもなく、弾けたら合格にして次の曲に進む」・・・というやり方である。

だいたい、2〜3週間で1曲というペースがオーソドックスである。

しかし、エチュードで本当に学ばなければならないことは、ただ曲を弾くと言う事ではなく、タッチや手首の使い方、音楽的な要素を取り入れた指の動きをマスター出来るまで、突き詰めて学んでこそのエチュードなのである。

だから、本当は「間違えなく弾けて完全に暗譜が終わった時点で」初めて、エチュードの練習(勉強、lesson)が始まる分けである。

きちんとエチュードの技術をマスターするまで勉強し、更に音楽的にエチュードを弾けるようになるまでには、少なくとも1曲に対して半年〜1年ぐらいはかかるはずである。

従ってツェルニー30番から50番までを、全てに対してきちんとアプローチし、仕上げて行ったと仮定すれば、最低でも、60年はかかってしまう計算になる。

ところが20才にも満たない人が 「 私はツェルニーの30番、40番、50番のエチュードを全部、弾きました。」 と自慢しているとすれば、これはどういう習い方をしたのか、と疑いたくなる。

考えてみればすぐ分かることだ。

要するに、その人は「全部のエチュードを譜読みだけして、通り一辺に弾いた」にすぎないのである。

そのように他の教室ではツェルニーを30番から順番に弾いていって、譜読みが終わってある程度、イン・テンポで、ミスなく弾けたら合格だろう。

その曲を弾く為の技術を教えたり、音楽的なアプローチなどは全くしない。

ましてや、その曲がどういう構造で作曲されていて、どういう時代背景の元で作曲されたか、等々の勉強する事はないだろう。

そんな雑な教え方でエチュードを弾かせてしまうと、逆に不自然にそのパセージを弾く癖をつけるだけの事になってしまう。

エチュードは「やみくもに、ただ数だけこなせば良い。」というものではない。また、エチュードだから、「早いテンポで弾ければよい。」と言う筋合いのものでもない。

雑に音楽を指導する癖が着いてしまうと、譜読みが終わって、いよいよ音楽の勉強に入ろうとするときに、もう飽きてしまってそれ以上のアプローチが出来ない生徒が育ってしまう。

エチュードの正しい勉強の仕方は、その生徒の持っている弱点、(弱い技術)についての課題で作曲されている曲を何曲かピックアップして、その曲を完全に弾きこなせるようになるまで、何年もかけて徹底的に仕上げるという方法をとらなければならない。

だから本当にエチュードをアプローチするとなると、かなり深く追求しなければならないし、高度な要求をされることになるので、趣味の生徒にはとても無理である。

私達の教室では、音大に進むとかプロの演奏家を希望する人だけがエチュードを学ぶ。 音楽を楽しく勉強したい生徒達には曲の中で、エチュード的なpassageをしっかりと指導すれば充分であるからである。それでも、ChopinやLisztの難曲はin tempoで、間違えずに、ちゃんと弾けるようになる。曲をしっかりと教える事が出来るのなら、エチュードは必要はない。

エチュードは漢方薬のようなもので、何も分からないままただ量を多くのんでしまえば逆に体に害を与える事になる。

 

また指導者がよく忘れてしまいがちなことであるが、技術は音楽を表現をする為の道具にしかすぎないのに、技術だけを目的に練習してしまえば、音楽的な表現や音に対する意識が欠乏していき、エチュードの練習は苦痛なものになっていってしまうのである。

その結果、音楽性を失い、技術が身につくどころかどんどん下手になっていくのである。

音楽の本当の素晴らしさを学ぶこともないままに、最後には音楽が嫌いになってやめてしまう。

苦痛な練習に耐えてエチュードを練習し、そしてへたになっていく。

そんな無駄な練習ならまだなにも練習しない方がましではないか !

 

エチュードをやらないで、育ってきた子供が、音大の先生に見てもらったりするときに、必ず言われることは、「エチュードはやっていない。」とか「音階はやっていない。」とか、生徒が言うと、相手の先生が驚いて、「それじゃあ、基礎を全然習っていない、と言う事だよね!」と言い出す事だ。

しかし、「基礎」とは何なのか?

日本人は「エチュードや音階を沢山弾くことが基礎を学ぶ。」と言う事と、勘違いをしているのではないだろうか。

ヨーロッパに於ける基礎の勉強は、ただ順番にエチュードを弾かせるという安易なものではなく、「この部分をもっと易しく弾くには、こういう練習をするとよいというように、実際の曲の中で基礎を盛り込んでいく方法をとる。その為、本人や親は基礎を習う上で、無味乾燥なエチュードの練習の苦痛を感じたことがない。

よく、Beyer教則本の悪口を言う人が、ヨーロッパの音楽教育を引き合いに出して、「ヨーロッパではBeyer教則本は殆どの人が使用していない。」という事を言う。その癖、Czernyを勉強していないと「基礎がない。」と、怒り出す。しかし、本当はヨーロッパ人はBeyerをあまり使用しないが、Czerny等のEtudeも同じぐらい使用はしないのだよ。

本当の基礎の学び方は、曲の中で自然に基礎を身につけさせていく事である。

そのように実際の曲の中から練習の仕方を考え出して、曲の中で基礎力を身につけさせ、より簡単に楽にその曲が弾けるように練習方法を教えていく方が、ただやみくもにエチュードを順番に沢山やらせるよりも、教える側の技術ははるかに上である。

実際の曲から自分で練習の仕方をあみ出すことができない先生は、生徒にエチ ュードを沢山弾かせることでしか基礎を教えることが出来ない。

自分で曲からエチュードをつくることができる人は、エチュードをただ弾くだけという練習をする必要がない。

実際の曲の中のどこの部分を何の為に練習しているのか分からずにただ音階やエチュードを弾くのと、「この部分をこのように弾きたい為にこのような練習をする。」 ということが分かっていて練習するのとでは、遥かに、後者の方がレベルは高いのである。

だからそういった学び方をしてきた生徒に対して「基礎を全くやっていない。」と言う先生は、おそらくエチュードやスケールをただ雑に、通り一遍に弾かせて、基礎を教えたつもりになっている先生で、「曲の中で音楽の基礎を勉強する。」という根本的な発想等が全くないお粗末な人だ、という事が言える。

 

●スケール ( 音階〉について

日本ではめったにピアノの試験にエチュードがないのに、ヴァイオリンやチェロなどの作音楽器の試験では、スケールを課題にすることが多い。

その為、音大の受験生は、「2年も3年もスケールだけを勉強させられた。」という極端な練習を強いられた生徒も数多くいる。

しかし、「正しいスケール、音程というものはいったい何であるか。」という問題に着眼する先生は少ない。

「なぜヴァイオリンにはフレットがついていないのか。」ということを深く考えてみると、正しいスケールというのは、より高度な音楽のNiveauにおいては、存在しない、という事が分かるであろう。

私がそのことを説明するのによくVitaliのchaconneという曲を例に挙げる。

この曲はg mollで、冒頭は「g→fis→g→a→b」という、音で始まる。この場合のfisの音は導音のfisであるから、普通のfisよりかなり高めに弾かれなければならない。

(実際にピアノ伴奏で演奏する場合は、そのようにfisをかなり高めに弾かせる。

しかし、orchestra・versionのchaconneの場合には、その問題の導音のfisの音の下に、他の弦のパートが6度下のaの音を弾いている。

このaの音は属音のdの5度上の音なので、動く事は出来ない。正しい、dの音をキープしなければならないのである。

という事で、soloviolinの導音のfisの音は、実際の導音のfisの音よりも、(ピアノ伴奏のfisの音よりも)《導音であるにかかわらず》かなり、低めに弾かれなければならないし、また、orchestra等でsoloをする場合には、orchestraのpitchよりも、soloviolinは、少し高めに演奏しなければならない。Orchestraのpitchよりも、少し高めのpitchを取る事でorchestraに対してsoloviolinの音を際立たせる事が出来るからである。これを通常、solopitchという。

また、ピアノの調律でも、音の低い方ではオクターブの幅を少し詰めぎみに合わせ、高い方になればなるほど少しずつoctaveを広め(高め)に調律しなければならない、という原則がある。

高いoctaveの音を正確にぴったりと合わせると、人間の耳は逆にその音を低く聞いてしまうという性質があるからだ。

下のaの音とそのオクターブ上のaの音、更にその上の2オクターブ上のaの音の振動数は、実は完全な倍数の比にはなっているわけではないのである。

という分けで、調律師は2台のピアノを同じピッチに調律する時には、1台ずつ個別に調律する分けではなく、1台のPianoのpitchを決めたら、そのpitchをもう 1 台のPianoに移していくという作業をする。

それは調律師といえども完全に同じ調律を2度と同じようには出来ないからである。

つまり、言い換えると、正しい音階というものが存在するのではなく、その感性に従った心地よい音階というものが存在するだけなのだ。

平均率的なニュートラルなスケールを学ぶことは初心者にとっては益もあるのだろうが、ある程度の技術に達した高度な水準を持つ生徒にとって、平均率的スケールを学んでもそれを正しい音程とは呼べないのである。

日本の音楽家達が外国の演奏家達に「音感が悪い」と言われる所以である。

平均率、純正謂、ソロピッチなどなど、それらが弾き分けられるようになってこそ、正しい音程で曲を弾けるということになるのである。

つまり、ニュートラルな音程〈しかも間違えた平均率) では、正しい音感を育成することは出来ない。私達の教室の生徒達でも、コンクール組や専科の生徒達は、半音の4分の1ぐらいまでは聴き分け、奏き分ける事が出来る。

 

7.技術

●水準の安定

練習する時間がなかったとしてもそれを感じさせないように弾けなければいけない。

それには、練習する時間がなくても、楽曲分析や暗譜など、楽譜上でできることを済ませておくこと。

練習していなくてもある程度の水準が保てるという「安定性」がなくてはいけない。

 

●コンスタントな90%

どのようなコンディション(楽器、舞台、観客など)でもコンスタントに演奏できる。

いつでもどこでも自分の能力の90%以上を発揮できる。(100%という事はありえない。)      

調弦がくるった、弦が切れた、前日に指をけがした、ピアノの調律が半音狂っていた、鍵盤が上がらないまま止まってしまうようなボロピアノだった、子供を対象にした演奏会で会場がうるさかった・・・・など、舞台演奏家になれば日常茶飯事である。

それでもお客さんが納得出来るような演奏をしなければならない。

楽器が悪いから・・・、ホールが悪いから・・等の理由で「弾けません。」と言うのはアマチュアなのだ。

 

例 : おそば屋さんの話

いつも同じ味でコンスタントに美味しいお蕎麦屋さんが、流行るお蕎麦屋さんである。

「昨日はとっても美味しかったけど、今日はまずい。」というお蕎麦屋さんは流行らない。

いつ行っても、いつも同じように美味しいから皆が安心して食べに行くのである。

プロは、どんな時でも同じように上手に弾けなければいけない。

それには、普段の練習が、「ミスなく弾ける事を目的に練習してはいけない。」という事である。「自信を持っていつも演奏出来るようにする事」を目的にしなければならない。

だから、音楽を学び始めた初歩の時からの練習の意識が大切である。

たとえ初歩であったとしても、普段の練習で、でも、「10回弾いて10回ともきちんと弾けるようにする」ということが大切なのだ。

10回中3回弾けたら、それはマイナス 7 回練習したことになる。

マイナス7 回ということは、あと正しく7回練習したとしても、0回練習したことにしかならない。

そういった練習を日常からちゃんとやっていると、生徒は確実に上手くなる。

後は「自信」というものを練習の尺度にすること。そうすれば自ずから、自信が持てるようになる。

 

●レパートリー

例 : さかな屋さんのはなし

お店を開こうと思っても、売るものがなければ開くことはできない。

お魚屋さんに行って「さんまをください」と言ったら、「じゃあ今から海に行って釣って来ます。」 というお魚屋さんがあったら誰も買いに行かないであろう。

いつでも色々な種類の新鮮な魚がそろっているから、皆が魚を買いに来る分けである。

音楽の場合もこれと同じである。

いつでもどこでも90%以上の実力で弾ける曲が沢山できたら初めてお店をひらく(プロになる)事が出来るのだ。

 

まとめ

プロになるためには、その人の根本的な潜在意識が「プロになりたい。」と思っていなければ、どのような努力を積んだとしても結局はプロにはなれない。

また、自分がプロにあるまじき行いをしたときに、「恥じる 」 という心がなければならない。

プロにあるまじき振る舞いとは、「あやふやに覚える。」「音やリズムを間違える。」「汚い音で弾く。」「演奏に集中出来ない。」とか言う事である。

そういった事を、心底、恥じる気持ちがなければ、プロになれる事はない。

また先生に同じ注意を二度受けるという事は、その人は潜在意識的には「プロになりたい」と思っていないという事である。

本当に心からプロになりたいと思っている人は、同じことを、二度注意される事は、プライドが許さない。

それは求められたことに対しての価値観が大きく 「出来ない。」ということが本人にとって恥となるからである。

そういう価値観を持った人は、必ず求められたことを一度で直してしまう。

また逆に先生の立場としては、「プロになりたい。」と、どんなに口では言う生徒であったとしても、二度、三度同じ注意を受けても直せないような生徒は、初めから信用しない方がよいのだ。

また、何も教えてあげる必要もない。

潜在意識が変わらない限り、何を指導しても無駄なのだから。

そのような人は初めからプロになることなど出来ないからなのだ。

自分の欠点を許せるような性格、先生に頼りきって、積極性の感じられない受動的な勉強態度の生徒が、プロになれるはずがない。自明の理ではないか。

 

もし努力を積み重ねていたとしても、成果が思ったように見いだせない人がいるとすれば、 自分をよく内観し、その後でこの小冊子をもう一度よく読んでみることである。

そうすれば自分がその中の間違った意識の持ち方の例のどれかに該当していることに気づくはずである。

そしてそれを反省し、克服すれば、コンクールで賞を取る事や、プロになる事、或いは希望の大学に合格する事、・・・・そういった事は何の問題もなくなる。

目覚しい成果を挙げることが出来るであろう。

 

「プロになれるか。」は「プロの性格になれるか。」にかかっている。

たったそれだけの極めて単純で明快で簡単な原理をなぜ分からないのか。

・・・その事の方が大きな疑問ではないだろうか ?

 

 

 

 

1998年11月27日(金) 

江古田一静庵にて