「前書き」
この話は教室に見学に見えられた父兄の方や、或いは論文などでも何度となくお話ししてまいりました。父兄の方とのお話はともかくとしても、論文に関しては、何度書いてもこのお話は長ったらしく難しくなってしまってどうも上手く行きません。教室のモットーでもある「誰にでもよく分かるように、シンプルにやさしく」と言うのが、このお話に限っては上手く行ったためしはないのです。
何を省けば良いのか?何にポイントを置いてお話すれば良いのか?
いまだにこの話に関しては成功した事はありません。
と言う事で、このお話は再再度の挑戦になります。
とても多くの父兄の方達が、お稽古事や勉強に「厳しさ」を求めているという話を伺います。辛い勉強を辛抱して無理やりさせるとか、あるいはお稽古に行くのを嫌がって泣き喚いている子供を引きずりながら教室に連れて行く、そういったことにあこがれて、それが教育に熱心な親の姿と勘違いしている人達が数多く見受けられます。
日本人は何故、勉強やお稽古事が厳しいものでなければならないと思うのか?
それは日本の(子育ての)教育の歴史的な背景に原因を見出すことが出来ます。
ちょっとここで蛇足ではありますが触れておきたい事は、先生が怖いのと、指導の内容があるという事は全く関係がない事なのですが、その点も一般には、よく誤解されて「怖い先生=偉い先生」であるように勘違いされてしまう傾向にあります。
(そのことについての文章も、ゆくゆくはホームページ上に掲載する予定なのでそちらを参考になさってください。)
怖い先生とよく似ているのですが、ありとあらゆる細かいことに気が行ってしまって、小言ばかり言うようになって、それで教育しているつもりになっている先生のケースもよく見受けられます。
そういったいろいろな誤った教育法は、逆に教育に熱心であればあるほど、勘違いしやすく、陥りやすいようです。
私の兄はオランダの大使館の文化部と言うところに勤めていました。外人の中で30年40年生活してきたわけなので、教育の問題に関してもその視点が国際的で、私の主義主張をよく理解して、擁護してくれるような、ひらけた考え方の持ち主でしたが、何と自分の子供達が学校に行くようになったり、お稽古事を始めるようになったときには、(自分の子供の事に限っては)「苦労を厭わず、その苦労を乗り越えた上での達成感」を、自分の子供のピアノの発表会などの目的に求めてきました。それなのに他人の子供に対しては実に的確な評価をするのです。しかし、これは、日本人の教育熱心な多くの方の共通の考え方であると思います。
先ほど、「日本の教育の歴史的な・・・」と書きましたが、本来的にはこういった儒教的な教育の考え方は、日本本来の考え方ではなく、徳川家康が封建制度を確立するために中国のいろいろな思想の中から選び出し、採用した思想でありました。
ですから、本来の日本人は、江戸時代以前の日本人ということになります。その頃の日本人を見ると、かなり自由な発想をする人種であったと言えるようですよ。
ですから、NHKの「おしん」にみられるような「あかんたれ」的な「どんな逆境をものともせず・・・」と言った、日本人像は儒教の影響下によるものといえます。しかし、過去の日本の社会がそういった考えを取り込んで行き、また、そういった考え方が今日の私達まで残って、伝達されてくるのには、それなりの理由があります。
いずれにしても、この「歴史認識の話」をするとなると、とてつもなく話が長くなって、難しくなるので、細かい事は、いずれホームページの方に掲載することにして、軽く触れておくだけに留めて、次の項目に進む事にしましょう。
原因U 貧しさに
何故、難しい歴史認識の話を長ったらしくしなければならないのか?
今日、それは世界では、もう既に誤った教育とみなされる儒教的な教育も、成果を上げた時代があったからです。儒教の考えたピラミッド型の中央主権は、中央の意見を末端にすこぶる正確に伝達するのにはとても良いメトードであったのです。しかし、今日よく大企業が犯す誤りのように、末端の意見が上には全く伝わらないと言う、構造的な欠陥を最初から持っていました。そのために多くの国が滅びて行ったのです。最初からその欠点が分かっていた事なのに、どうしてその教育でなければならなかったのでしょうか?
ここからのお話は、むしろ「経営のお話」として、私の別の論文である「教室経営について」に詳しく書かれている。だから、この話はここでお話をしている「練習が楽しくあらねばならない理由」と言う内容には少し不向きではありますが、なぜ日本人が儒教的体質から抜け出せないのかを知る上では、一応知っていた方が良いと思いますので、先に進める事にします。
まず、知っておかなければならないことは、絶対的封建制の時代には、為政者、所謂トップが、自らの誤りを認めるということは無かったのです。「トップは絶対に誤りを犯さない」そういった前提の上に社会の構造が構築されていたのです。なぜなら、トップが自らの誤りを認めるということは、その権威の失墜を意味するのです。ですから、封建社会において、トップが間違いを犯すわけが無い。
だから、何らかの間違いが起こったときには、それはあくまで末端の失敗であらねばならないのです。今でも、よく聞く「トカゲの尻尾切り」です。
絶対的にトップの失敗を認めず、失敗は必ず末端が犯すものでなければなりません。そのために、末端からの意見や状況の分析等が入りにくい構造、・・というよりも、末端の意見を最初から聞かないための構造であるのです。
それは何故なのか、と言うと、企業トップ(封建時代の為政者)が末端の意見を聞くことで、決断のタイミングを失したり、迷って判断を鈍らせないための方策でもありました。トップの考え方は常に正しく、末端の考え方や判断は聞くに値しないと言う、戦国時代のワンマンの考えが常に(現代の社会でもいまだに)根底にあります。
どこかの国の政治家達と全く同じ、・・・というか千年以上も前の思想なのに、いまだにその歴史的な失敗を学習し学びとり、改善し進歩していないというか、日本社会のそのお粗末さには驚かされます。民間から大臣になった**氏が漏らしたあの有名な一言「此処まで酷いとは思わなかった!」に尽きる。
そういったワンマン経営の中では、もしも、社長が非常に優れていたとしても、それで100の成功を収めてきたとしても、たった一つの致命的な失敗(ミス)で潰れてしまう会社は多いのです。
生き残る会社は何とかその封建的な体制を変えようとしますが、潰れてしまう会社は、会社の伝統の重みを云々して、経営体制を変える事が出来ずに、その構造的な欠陥から、何時かは潰れていきます。
中央集権化された社会では、如何に中央の考えを無批判に、ロボットのように忠実に、言われたように言われた事だけを忠実にこなすかが、課題になります。あたら自分の考えや意志を持つ事は中央集権的な社会構造を否定する事になってしまいます。自分の意志を持ち自分の考えで行動するという事は、そういった社会構造を否定する人間を育成する事になってしまいます。つまり、」言われた事を考えないで忠実に実行に移す、(それはまるで軍人のようですが)それが、日本社会の期待された人間像なのです。
戦後の大学入試などに見受けられるように、所謂受験戦争の時代では、受験生を徹底的に落ちこぼして、それに残った人だけを入学させる、と言うような時代に突入しました。所謂、私達の生きてきた、「頂点に達した、たった一人のエリートを求めて、後は全員を落ちこぼす」、と言った、「団塊の世代」の始まりです。
きょうび、人々はその時代の中で、立身出世することが出来たたった一人の人しか、見ようとはしませんし、その人からしか、話を聞こうとはしません。
今でもそうですが、そのときに落ちこぼれて行った人達の嘆きに耳を傾ける事はありませんでした。
そこには私達の教育を間違えた方向に導いた、(今日では誤った教育となったその教育も、その時代にはある程度効果を上げていたと言う)もう一つの要因(時代背景、時代認識)があるからです。
そこで私達が知っておかなければならないことは儒教が日本の為政者に採用されるに至った、時代の背景です。それは、徳川幕府による所の江戸時代にしても、明治、大正時代、或いは、昭和の初期の軍部による富国強兵の時代にしても、人々がまだ大変貧しく、みんなが食べるために豊かになろうとしていた、と言う共通のスローガンを持っていたという事なのです。
第二次世界大戦後にしても、戦後の荒廃からの「追いつき追い越せ」のスローガンの下に、大企業中心のそれこそ、企業があたかもお城で、社長が殿様に代わっただけで、基本的には江戸時代と何も代わっていなかったのです。
そしてその目的は団塊の世代の頑張りや、世界の文明の発達によって(少なくとも)先進国と呼ばれる国だけは飽食の時代という歴史的に見なかった時代を生み出し、食べるために生きる、生きるために食べるという原点の考え方が失われていき、逆に人々は人生の目的を見失ってしまうことになってしまいました。
それなのに団塊の世代の大人達が、自分達が生きてきた時代、食べたくても食べれなかった時代の不安を、飽食の時代に生まれ育った子供に求めたとしても、今の子供達には、そんなことはわかるわけは無いでしょう。子供が生まれたときには、もうテレビも、パソコンもあったのです。
でも私が生まれたときにはテレビはおろか今日普通にあるものが何一つ無かったのですよ。まだ、月に人類が行く事すら、完全なSFの世界で、夢物語だったのですから・・・。
そのギャップは埋めようと思っても、埋められるものではありません。
現代になって、そういった子供達の無目的な勉強に対しての努力が、(心理学の用語で)負の転換点(SNBP)としての一つの社会現象を生み出し、いじめや家庭内暴力、逆に、自分の心の内に引きこもって、緘黙児(所謂心身症ですが)自殺の低年齢化、ひきこもり、ニートと呼ばれる人種を作り出して、現在は若者のネットカフェ難民等と言う新語まで生み出される結果となっています。
何故、長い時代に渡って続いてきた儒教の教育が、近年になって崩壊してきたのか?
それは、生活が豊かになってきたから、と言うと驚かれる方も多いと思います。
今でも、生活貧困国に行くと、子供達の夢は「貧困から抜け出すための努力をすること」(学校に行く事!勉強をする事!)である、ということが全てであります。団塊の世代のお父さん達が聞いたら、嬉しくって、泣き出したくなるような話です。でも、それは、その後進国が団塊の世代のお父さん達の時代と同じであるからに過ぎません。Aの国はちょうどバブルの時期だ、とか、Bの国は今はまだ戦後の日本と同じlevelだとか、日本の歴史は世界のいたるところにあります。
そういった後進国(生活貧困国)の、子供達に尋ねると、必ず「学校に行きたい。」「勉強したい。」と言う答えが返ってきます。その勉強したいという意味は、「学力を身に付けたい。」と言う意味ではありません。あくまで「貧困から抜け出したい。」と言う意味なのです。(或いは、『自分達の国を貧困から救いたい。』と言う子供もいます。)
貧困が辛ければ辛いほど、それを抜け出すための努力は(その貧困の苦しさに対して)たいした事ではなく、むしろ望んで(勉強をする、或いは勉強が)出来ると言う、もっと積極的な意味での楽しい努力になるのです。ですから、「蛍の光、窓の雪」と言う言葉は、辛いつらい苦節の努力を意味するのではなく、貧困から抜け出して、立身出世をするという、夢と憧れに満ちた、身の回りに溢れている辛い貧困から抜け出すための、希望に満ちた楽しい目標でもあったのです。
例えば、今、現在私達の周りにいる「現代っ子達」でも、身近なはっきりとした目標、例えば、「甲子園に行く」或いはラグビーで「花園に行く。」という具体的な明確な目標があれば、監督やコーチからのどんなしごきでも耐えているではありませんか?
それは、目標が明確であって、人生を通じて、などというかったるいものではなく、「高校生の時期の、青春を何にかけるか?」と言う「短期的で明確な」分かりやすい目標だからです。
同じ甲子園児でも、「甲子園での活躍を認めてもらって、将来はプロになりたい。」と言う子供達は、他の子供とは、ちょっとまた考え方が違います。
子供の頃から、一途にその夢にかけて、ライフワークとして、ひたすら人生をそれに捧げるタイプの子供なのです。
もし音楽上で、そういった子供を育てたければ、教室の先生と相談してください。
プロになるにはプロとして育てなければならないからです。
簡単に言うと、(誤解がないようにあらかじめ先に言っておきますが、だからと言って教育が厳しくなるわけではないのです。)プロになるには、プロとしての性格を作れば良いから、プロの性格作りの環境を家庭で作ってもらう、と言う事の相談なのです。
どうして練習は楽しくなければいけないか?
まず、儒教教育とは、為政者の(雇用主の)考え方であるので、落ちこぼしを作って、[上澄みのほんの一握りの人だけを、採れば良い]という考え方に根ざしているからなのです。そうすれば常に優秀な人材を確保できる。それは、雇用サイドにとってはすこぶる都合の良い考え方ではありますが、育てる側が考える「考え方」ではありません。
第一次ベビーブームの時には270万人の子供が生まれました。2006年の少子化の問題を抱えている現在でも、109万人の子供は生まれているのです。
毎年、100万人以上の子供が生まれる中で、そのトップに貴方の子供をしたいのですか?
一クラス僅か30名のクラスの中でのトップを争う事を一喜一憂するのなら、100万人の中でのトップは考えにくいですよね。
昔、私達の千葉教室に千葉県の高校のテニスの試合でいつもトップを争っている高校生の男の子がいました。国体にも出場したことのある生徒です。彼が言うには「千葉県ですら、トップになるのは難しい。自分は常に2番だが、1番の子は、夏も冬も、家族でアメリカにテニス留学に毎年行っていて、普段の練習の時にも、専門のコーチがついている。それでも、日本一になれないのですよ。」
ついでに私達がそこで付け加えるなら・・・、それで日本一になったとしても、プロになれるとは、限らないのですよ。
本当のプロとは
皆さんがプロになるための方法として考えている「困難を克服して、それを乗り越えて始めてプロになれる」という考え方・・・・それは大間違いです。
それでは永久にプロにはなれません。
分かりやすく音楽に限定してお話すると、技術的に完璧だとしても、プロになれるわけではないのです。歴史的に名を残したピアニスト達がよく言う言葉があります。
コルトーという名ピアニストが、自分の名前が冠されたコンクールで審査員長になって審査に行った時に「私がこのコンクールを受けても、入賞はおろか、予選にも残らない(選外)だろうな?!」と言っていました。だからと言ってそのコンクールに入賞した人達が、プロになったと言う話は聞きません。
ではどうしてなのでしょうか?
コンクールでは、上手下手を評価します。
しかし皆さんが音楽を聞いて、その音楽にお金を払うときには、その音楽が自分をハッピーにしてくれるかどうかで、評価するのです。
ピアニストは言います。「私は、こんなに上手いのよ!全てを犠牲にして、ただピアノだけにかけてきたわ!私の苦労を分かってよ!」・・・・・・それは分かるけど、お金を払ってまでは、聞きたくないな〜!それが実感でしょう?
全くのミスが無く、完璧だけど、機械のようで(今のコンピューターは「ヒューマン・***」と言って、あたかも人間がよたって弾いているように、演奏出来るので、機械のようには、コンピューターに失礼かな?)
私達の間では、「面白みの無い演奏をするピアニスト」の事を、一般的に「コンクール・ピアニスト」と呼んで揶揄しています。(これは世界の音楽家の間での、共通の隠語です。)
人に認められようが認められなかろうが、自分の行く道はこれしかない。
・・・と言える人がプロでしょうし、プロになる人は、どんなに行き詰まったとしても、所詮自分の進むところを止めることはないので、当然挫折はありません。(挫折についてホームページ参照)
プロなんてとても・・
「うちの子がプロなんてとても・・」と、言われる親御さんがいます。プロとはどういう人達の事を言うのか?・・という定義の問題です。プロという定義は人によって全く違いますので、プロの定義については、ホームページの別のサイトで詳しく書いていますので、「プロの定義」のPageを参照してください。お話が長くなってきたので、ここらで要点を整理すると、苦労に苦労を重ねてそれを克服していくには、それ相応の「目的、目標」が必要なのです。
今、一般の大人達が子供に言う目標(大義名分)・・・・「必死に人よりも勉強をして、良い高校、良い大学、良い会社に入って、良い名門大学を出たお嫁さんを貰って・・云々・・・。」そんな話がいまどきの子供に通用すると思っているのですか?
1985年に出版された、当時の小学生の短歌を集めた文庫本があります。
「親を見りゃ ボクの将来 知れたもの」
長年学校の先生を勤めていた、矢野先生の集めた小学生の短歌(?)集ですが、読んでみれば、ぞっとするほど、子供達はシビヤーに大人達を見ているものです。
(でも、それを書いた子供達は、今はもう、貴方達と同じ年齢のはずなのですがね・・。)
いまどきの女の子達の中では、もう既に殆ど〔絶滅して〕そのような女の子を見つける事は不可能に近くなってきましたが、私達が幼かった頃、一昔か二昔前までは、小さい女の子に「将来何になりたい?」と質問すると、可愛らしく「お嫁さん!」と言う答えが一人、二人は帰ってきていました。
意地悪く「でもお嫁さんと言うのは、セレモニーだから、『今年の目標はクリスマス』と言うのと同じだよね!
将来の目的にはならないよね!
じゃぁ、主婦になりたいって事?」と聞き返すと「主婦だけは絶対に嫌!!」と言う答えが、即答で返ってきます。
当然、良い高校に入れば、もっともっと勉強を強いられます。同様に良い大学も・・・。そして良い会社に入ったとしても・・・。
「親を見りゃ ボクの将来 知れたもの」・・・・だそうです。
それに、今はもう既に日本社会の会社も終身雇用制ではないのですから、昔のように良い会社に入ったら(たとえ窓際だったとしても)一生その会社で面倒見てもらえる・・・・と言うわけではないのです。
良い会社に入ったら、その分だけ競争も激しくなります。
で、最後の例で、有名な名門の大学を出たお嬢さんは、きっと子供の頃から、勉強やお稽古事に明け暮れて、「米のとぎかた」も知らないのではないかな?
でも、料理、洗濯の上手なお手伝いさんが、いたとして、そういった人を雇えるような、収入を得たとしたら?
(或いはもっと、もっと現実的なのは、もう直ぐ炊事ロボットが出来るそうです。僕としては、やった〜!!)
で、何で結婚するの?
・・・?(まあ、これは飽くまで私の現代社会に対する個人的なぼやきですが・・・・・)
夢が伴っていなければ、勉強する目標なんて所詮、こんなもんですよ。
つまり、「遠い将来楽をするために、今一生懸命勉強しなければならないのなら、(遠い将来なんてどうでも良いから、)今楽をしておいた方が良い。」と言うのが、今の子供の考え方でしょう?
いやぁ、実に合理的な考え方です。・・・・素晴しい!
ある時期までは、子供達はその素直さから、親の言う事の矛盾を感じていたとしても、親の事を信じて、一生懸命に学校の勉強や塾の勉強に励みます。しかし、子供は常に「何故、そうしなければならないの?」と言う疑問を感じているのです。そうして大人社会の矛盾を受け入れる事がこれ以上耐えられなくなったときに、所謂、「負の転換点(SNBP)」に陥るのです。
それがニートであり、ひきこもりであり、家庭内暴力や、社会をにぎわしている多くの事件となります。
繰り返して言いますが、昔の子供は貧困から抜け出すことが、人生最大の目標であり、勉強することや努力する事は、今抱えている現実の世界(である貧困)から抜け出すための必然的な努力であったのです。
と言う事で、まだ貧しかった時代、(所謂貧困の時代)には、自己の克服(辛さを辛抱して、将来の豊かさを求めるという希望)こそが、目的や目標に到達するための艱難辛苦を辛抱する事の原動力になっていました。つまり、儒教的な忍耐と苦渋に耐える事は、向上心に溢れた若者にとっては当たり前の努力であったわけです。
しかし、しかし現代の日本社会にとって、所謂飽食の時代と呼ばれる今日では、若者の生活の中には生活苦はありません。
(NHKがニートの特集をやっていましたが、まず驚かされるのはひきこもりの子供というのが、(私達が感覚的にニートと言う言葉でimageする年齢は、多分中学生、高校生ぐらいの年齢の子供達の話と思っていたのですが)そこで特集されていたニートの人達の年齢は30歳代から50歳代以上に渡る中年、或いは壮年と言われる年齢の人達の特集(ドキュメント)であったと言う事です。
なんじゃ、コリャ?
不思議な事は、「それでも、ひきこもりの人が餓死しないで生きていける世の中である」ということなのです。
つまりひきこもりの結果は、それ以前の親の世代(現在30歳から50歳ぐらいの年齢の大人の親と言う意味です。)の過保護の結果でもあったということです。
そしてひきこもりの親は自分が70歳、80歳になった今現在も、まだ子供を保護をし、養い続けていると言う事なのです。
それについては私のアドバイスは有りません。
「好きにしたら・・・?」としか言えないからです。
しかし、現代の日本、所謂、豊満、飽食の時代に育った子供達には、努力するための目標はありません。
何故、そうなってしまったのか?幾つかの事件にその回答を見出すことが出来ます。
それは子供に無目的な努力を要求した結果と言う事なのです。
私達が皆さんに「子供には好きなことを・・」と言うお話を常にしているので、努力することを否定しているように勘違いされる方もたまにいます。
私達は勿論、子供が努力をすることを否定しているわけではありません。儒教的な教育では、努力は当然挫折を生むと言う事が前提としてあります。挫折していく人達を押し退けて、一人だけ勝ち抜いていく、と言う教育なのです。しかし、芦塚メトードには、挫折と言う言葉は無いのです。それは、その努力が子供のキャパシティと大人の夢を前提にプログラムされるからなのです。それは潜在的な願望を知ると言う事なのです。(ホームページの論文に詳しく語られています。)一般の音楽大学の教授達の話では、「子供が受験の為に、塾に通いだした時点で、音楽大学進学はありえないものとする。」と言う鉄則があります。(この受験は小学校から中学の話ですが。)私達も音大進学希望の中学生(教室で一番ピアノが上手であった女の子ですが)が、厳しい受験高校に進学するのを反対した事があります。でも、先生の反対を押し切って、levelの高い高校(私はそうは思いませんでしたが)に行きました。1年生の時には、まだ良かったのですが、2年、3年となって、いよいよ学校が受験体制になったときに、音楽大学進学と高校の勉強が両立せずに、教室にやってきて先生に「練習が全然出来ない。」と訴えて本人はよく泣いていました。
「先生の言う事を聞かなかったのが悪いんだろう?」
「でも、そのときには〜、そう思ったんだもん!うぇ〜ん!!」
「何を今更・・・・、知った事か・・・・!」
・・・・・と言うわけには,行かないんだよネ、これが・・・。先生としてはネ・・・。
一般の音楽大学や音楽大学の院を卒業してきた人達や留学を果たしてきた人達が、芦塚音楽研究所に就職しようとしたときに、子供達や先生達のlevelの高さに悩まされる事になります。教室の水準は一般の水準とは遥かに違うからです。(此処で教室の水準の話をしても、手前味噌と取られかねないので、さっさと次に行って・・・とっ、とっ、と、・・言いたい事は)私達の教室の子供達だと誰でも出来ている、いとも簡単な事が、苦労に苦労を重ねて勉強してきたはずのエリートの音楽大学の卒業生なのに、ちっとも子供と同levelですら出来ない・・・ということなのです。
そうして人々の間では変なうわさが流れます。「あの教室はとても大変で、親も子供も相当決心して泣きながら努力しないとついていかないのよ?」
敵情視察に来た先生に、発表会のときに質問された子供もいました。「君、ヴァイオリン好き?」
子供は当たり前の事を聞かれたとしか思わないので、不思議そうに、怪訝な顔で答えます。「うん!」でも、その先生は納得できません。こんなに小さいのにこれだけ上手く弾けるのは、相当、親も先生も、顔を真っ赤にして、子供を苛め抜いているに違いない?だから、これだけヴァイオリンが上手い子供はヴァイオリンが絶対的に嫌いなはずだ。だからこの子供は先生や、親から「もし、人に『ヴァイオリンは好きか?』と尋ねられたら、『ヴァイオリンが大好き。練習も大好き。先生はやさしい。・・・云々』と答えなさい!」と言われているのに違いない。絶対に子供の本心であるわけは無い。・・・・と、思い込んでいるのです。
でも、私達の考えでは、そういう風に厳しくすればするほど、子供は上手くはならないのだ、と言う風に考えています。いじめればいじめるほど、音楽の乗りがなくなっていって、生き生きとしなくなって、つまらない音楽になります。技術的にもだんだん下手になっていくのです。でも、一般の先生はそういう事が理解できないのです。言い方を変えれば、音楽が好きだから、どんな難しい練習にも喜んでチャレンジできると言うのが分からない。いや分かっていたとしても、どうすれば音楽のレッスンを楽しく出来るのかが分からないのです。
私がまだ若い頃小学校の先生達の指導をしていましたが、あるベテランの女の先生が「勉強は辛いものです。それに耐えなければいけないのです。」とおっしゃられていたので、私が「でも貴女達の教科書を作っている先生方は、勉強が好きで、好きでたまらないのですよ。だから一生勉強が出来るように、金にもならない学者になっているのですよ。」と言いましたが、やはりそこのところ(勉強は楽しいと言う事)がよく分からないようでした。
以前、大人の方ですが、会計士の方が、私達の教室にチェロを学びに来ていらしゃいました。「一日中数字ばかり見ていると嫌になりませんか?」と私が尋ねると「いやぁ、数字を見ていると、とても心が和むのですよね〜。」とおっしゃられていました。それでこそ、プロだとは思いませんか?
ヴァイオリンを弾いているだけで、心が和む・・・・それだけでいいのではないですか?
まずは、そこをクリアーする事です。
それで、芦塚メトードの第一段階は理解できたと思います。
では、どうして「私はヴァイオリンが好きだ。」と言う事が、儒教的な貧困に立ち向かう必然的な目標に代わり得るのかと言うお話を次にします。
芦塚メトードで、オケ練習や室内楽を子供の内から勉強させるのは、子供の柔らかな頭の内に、協調性や思いやりの心を育てておきたいからです。別の見地から見ると、本当の思いやりを持てる人が本当の意味でのリーダーになります。オケ練習はある意味ではリーダー育成のカリキュラムなのです。
好きだという気持ちに技術が伴ってくると、自信になります。しかし最初は人との比較による自信に過ぎません。そこにリーダー教育が伴ってくると、自信は人を認めること、自分の欠点を知る事に代わります。己を正しく知って、人を批判し、且つ認めることが出来る。それが本当のリーダーです。人と比較する事がなくなれば、ジェラシーは起こりません。ジェラシーとは自分が努力する事のない、他人を羨(うらや)み嫉(そね)む気持ちです。ジェラシーが無くなれば、挫折はなくなります。つまり出来ないのは自分の努力の欠乏であって、誰のせいでもないからです。努力を楽しめばよいのです。
人は、よく悩みます。
自分は、いったいなんでこの世に生まれてきたのだろうか?
自分自身は何のために生きているのだろうか?
自分の価値とは何なのだろうか?
それで悩んで、自分の価値を見出せなくって、自殺してしまう人もいます。
(大学生や、大人が勝手に悩んで自殺する事は、別にかまいませんが、小学生の精神的に未熟な年齢の子供達の自殺は、さすがに困ります。)
悩む事はとても良いことですが、悩んで自殺する事はやはり困ります。
何故、若者の悩みが解決できないのか?
それは、その人の持つi dentityを、自分自身の立場でしか判断しないこと、つまり、言い換えると、自分が自分自身に対してしか、向かい合っていない所から、人生の矛盾が引き起こされて来るのです。
此処に一本の日本刀があります。でも、その日本刀は、実は何のi dentityも持っていないのです。それを美術品として見る人がいたとすると、日本刀は芸術品になります。しかし、ある人がそれを武器としてみた場合は、それは恐ろしい人を殺すための道具になってしまうのです。人も、同じです。人、それ自体では何の価値もありません。つまり、ただの人なのです。(路傍の石といった人もいますよね。)それに価値をつけるのはその人の魂の在り様なのです。
あなたが、残念ながら自分自身に何の価値も見出せなかったとします。
(中学生、高校生の時の自分は正にその物ずばりでした。自分に何の価値も見出せなくって、生きる価値もなくなっている、そんなニヒルを地で行っている様な若者(ばか者)でした。あるときにふっと気がついたのよね〜!価値を決めるのは、自分自身ではないのだ、って・・。人が決めることで、そんな悩む事はないでしょう?好きに決めればよいのよ・・さ!)
でも、もし、あなたの回りに、(たった一人でも)あなたを必要とする人がいれば、あなた自身の価値観は全く代わってきます。
最悪、もし自分が自分自身に全く価値を見出せなかったとしても、そういった自分を必要としている人が周りにいるとすれば、どうでしょう。
それでも、あなたは無価値ですか?
つまり勉強とは、自分が他人に必要とされる自分になるために、するのです。
そこで次の問題はi dentityの問題です。
必要とされている自分は、つまり自分で無くっても、誰でも良かったのか?
自分でなければならなかったのか?
そのことでその人の人生は全く変わります。
「私が一人前になるには(人のために尽くせるようになるには)貴方が必要なのです。」と言われるにはそれ相応の相手に与えるものを学習しておく必要があります。
そのためになら、いくらでも必死に勉強で出来るでしょう?
人のために尽くすと言う事は、自分に自信が無ければ出来ない事です。自分に自信をつけるには、自分のために何かが出来なければなりません。
自分の為に何かをすると言う事は、自分が嫌いでは、出来ないのです。自分が好きでなければならないのです。自分が好きということは、・・・分かりますか?自分を本当の意味で愛してくれて、理解してくれる人が必要なのです。
貴女は親です。「子供を愛さない親はいない。」、と世間一般的には言われています。
そうかもしれません。
しかしその前に、貴女は子供の事を、一人の人間として、見ていますか?
子供は貴女の事を信頼していますか?
貴女は「自分の子供は、こうあるべきで、こうでなければならない。」・・とか考えてはいませんか?
子供を自分の所有物と考えていませんか?
子供は自分の分身で、自分と同じ者だ!と考えていませんか??
子供が壊れるのは、communicationが成立していないからなのです。
それなのに親は「自分は子供の事を愛している。常に子供の事を考えている。子供中心に生活をしている。」と言っています。
でもそのときに子供は「僕の事を見てよ!私の事を理解してよ!」と叫んでいるのです。
子供が母親を好きになるのは当然です。
子供は母親を愛しています。
人間に限らず、全ての動物は親を愛さないと生きては行けないのです。
もっとも、生まれた時から一人っきりという動物や人間もいますがね。
でも、家族以外を愛するのは、先生に対して、が始めてではないでしょうか?
愛される先生になるためには、子供の事を本当の意味で理解できなければなりません。
と言う事で、教育の基本は、まず子供が先生を好きになると言う事が出来るか否かが、骨子になります。
世の中には二種類の人間しかいません。
人のために生きる人と、その享楽を受ける人です。
私は、別に人間は人の為に生きなければならない・・・なんて儒教の教えのような、かったるい事を言う気はありません。
享楽的に生きようと、それは「本人の好き」なのですから、それはそれで良いのです。
人生を、うんと楽しく生きる、それはそれで達観した生き方ではないでしょうかね。
僕は好きですけれど・・・。 そういう生き方も・・。
しかし、もし親が子供を甘やかして育てたいのならば、そのように育てるべきです。
なまじ、格好だけ、「施す側の人間」であってはならないのです。そこの区別はしっかりして置かないと、子供は立場を失ってしまいます。
以下は芦塚メトードによる、教育のグレードです。
本当は門外不出なのですよ!(本日は特別サービスです。)
Step1は「好きになる」と言うことです。
きっかけですから、「好き」になる要素は、別に音楽で無くっても、それ以外のものでも、何でもよいのです。教室では、生徒とのコミニュケーションを上手くとることで、「先生が大好き」と子供に言わせるようにしています。当面は先生で・・充分なのです。
Step2は「お母さんと練習するのが楽しい。」・・・・一緒の「時間の共有」と言うstepです。
子供の性格を作る事は先生には出来ません。
そこはやはり家庭のしつけなのです。
体内時計を作って勤勉な性格を作ります。
怠け者では、人生を享楽するだけで、何にもなれませんからね。
Step3は自主性の確立、所謂親が「木の上に立って見てる人」になる時期です。
付かず離れず・・一番親にとって難しい時期かもしれませんね!
この時期に子育てに失敗すると、一生独り立ちできない半大人子供が出来上がります。ひきこもりやニート達も所詮は(半大人ですから)この時期の失敗に拠ります。
step4になって初めて、音楽そのものが好きになります。
しかし、この段階ではまだ、音楽が「自分の音楽」にしか過ぎません。ですから、より上手い人が目の前に現れたりすると簡単に挫折したりします。コンクールなどに来る子供達はこの時期で止まってしまうことになります。音楽はやっと好きになったとしても、それは完全なものではありません。分かりやすいように塾の話として説明すると、自分の評価を試験の点数として、友達との点数の比較としてしか、判断できないのです。人より優れている事が自分の価値を評価する絶対条件になります。自分のi dentityとは人よりも優れている事だけになります。それでは永遠に人を認めることも出来ないし、人を認めることが出来ないと言う事は、とりもなおさず友人ももてないと言う事に繋がります。受験をさせる親がよく言うように周りの友人はみんな敵だと思え!自分が油断している、人が自分を押し退けて、先へ行くぞ!と言います。それでは、人を信じることは出来なくなってしまいます。
Step5は自分に本当の自信が出てきて、自分を評価するのに人と比較することも無くなります。
なぜならば、理屈抜きに音楽が好きだから、人と比較する必要も無くなるし、100%の完璧な状態から自分の立場を判断できるので人との評価の対象は必要なくなるのです。
(本当は、人を愛することもそうあって欲しいものです。そうすれば、無駄なジェラシーなんていうものは無くなります。)
そうなると、他の子供達への思いやりも本当の思いやりになります。(ジェラシーがないのだから、自分よりも上手い子でも正当に評価が出来ます。と言うことは、常に客観的に人を見ているので、人から学ぶことも上手になるのです。人の振り見て我が振り直せ、では無いですが・・。)
そういうことで、将来は確実にプロになれます。この段階に達することが出来れば教室としても将来は100%保証します。
但し、子供達が勉強の成果を上げてきた時には、周りから結構、横やりが入ります。
「それだけ上手なのだったら、ちゃんとした大学の先生等につけなければプロにはなれないわよ!」「音楽を仕事とするのなら音大に行かなくっちゃね。そのためには音大の先生につかなくっちゃ!紹介してあげるわよ!」余計なお世話なのですが、結構、相手の人が、自分の子供の実力を認めた上での話なので、親としてもそんな悪い気はしません。紹介している本人達も、本当に思いやりで言っているのですから、なおさら始末に悪い!確かに、私だって、一般の音楽教室でそれだけの子供がいたら、同じようにアドバイスをするかもしれません。
しかし、私がそのアドバイスをするときは、その子供が勉強に行き詰まっている時だけです。
本人がまだ伸び続け成長し続けているのなら、その先生は、まだまだ実力(余力)があるからなのです。某国立大学の教授という肩書きだけで、ろくすっぽ指導も出来ない先生に師事して、本当に下手になって挫折して潰れて行くよりも、無名でも実力のある巷の先生の方が、数倍マシですからね。
でも紹介するといっている、世話焼きのおば様達は、子供がその先生のところで伸び続けているのか、どうか等は、意に介しません。(最初から、分からないのですよ。分かっていたら、紹介なんか出来るわけはありません。子供が挫折するのは、目に見えているからです。)
私達の教室に対しても、余計なお世話を言ってくる人がいます。「こんなにうまいのに、まだ音楽教室の先生についているなんて!早く音大の先生につきなさいよ!」
まさかその巷の音楽教室から、音大に進んでいる生徒が数多くいる事や、全国大会で入賞している生徒が数多くいることや、多くの生徒が直接(高校から大学に行かないで)海外に留学している事も、知っているわけでは有りません。
私の生徒で、今現在もヨーロッパやアメリカでプロとして活躍している弟子が数多くいることもご存じないのです。
そのおば様達が思っていることは、音楽教室というだけで「レベルが低い。」と決め付けてしまっているのです。
その教室の先生達が、いろいろな場所で演奏活動をしていることも当然知らないでしょう。(音楽大学の先生で(学外で)演奏活動している先生は全くいません。音楽大学の先生の演奏活動は学内と決まっています。学内ならキップは全部生徒に買わせれば赤字にはならないからです。でもwの友人で桐朋学園のピアノの主任教授をやっていた先生がいましたが、(勿論今は歳で退官していますが)主任教授になってから、やっとコンサートでも赤字にならなくなったそうです。)
最初は断っていても、いつの間にかその気になってしまって、大学教授の所に連れて行って、圧倒されます。
「さすがは大学教授は貫禄が違うわよね!」
しかし、子供は大学教授のところで「この先生からは技術的には学ぶものは何も無い」と言う事を瞬間的に見抜いてしまうので、しらけています。
しかし、親は残念ながら音楽の技術の事は分かりません。大学教授と言う事とその偉そうな雰囲気だけで、圧倒されてしまうのです。
私が心臓の病気で余命あと*年と大学教授に言われたとき、セカンドオピニオンの先生を探して、優れた手術をしていただいたのは、私同様に大学のそういった体制を疑問視している、マンガ「ブラックジャックによろしく」のモデルでもある心臓外科の南淵先生でした。
しかし、もし、「大学の教授が宣告したことだから。」と諦めていたら、今、私がこの論文を書くことも、子供達や父兄の前でお話することも無かったと思います。
教室の先生達が、大学の教授の意見を最終判断としないで、必死にパソコンで良い医者を探したおかげで、今、私がこの文章を書いているのですがね。
「大学が学問や技術の最高峰である」と言った、そういった誤った社会通念から、子供の未来をなくしてしまう親が、本当に多いのです。
しかし、私が大学の先生をしていたときに、まず先輩教授から注意された事は、「100人生徒がいたとして、下の10人を落ちこぼさないように、下の10人に合わせて授業をすると、上の90人が退屈する。上の10人に合わせて授業をすると、残りの90人が落ちこぼれる。と言う事で、授業のコツは真ん中の80人に合わせて授業をすれば良いのだよ。」と言うアドバイスでした。
大学で学生達を教えてみて、まず感じたことは、「間違えた基礎を学んできた学生を、僅か4年で社会に通用する音楽家にまで育てる事は、不可能である。」と言う事でした。
本当にプロとして社会に通用する人材を育てたければ、子供の内から基礎をちゃんと作っておかなければならないと言う事だったのです。
ですから、最初は日本の音楽教育を含めてそういった日本の教育に対して疑問を感じて私達の教室のメトードで勉強を始めたはずなのに、富士山で言うと8合目、いや、9合目のホンのあと少しの所で、権威主義的日本の社会に躓いてしまいます。
後日、他の父兄から聞いた話ですが、父親が娘を(父親は教室には一度も来た事はありません。当然私のlessonさえ見たことは無いのです。あくまで人の話で某国立音大の先生に紹介してもらったに過ぎません。その、某何がし教授のlessonすら、勿論、見ているわけではないのですから。全て人の話です。赤提灯での人との話に、自分の娘を託すかね〜??
これが自分の娘でなくって、普通の会社の話だったら、そんなあてずっぽの話でプロジェクトを進めたら、社長から即刻「首・・・!」と言われるはずだけどね。)
無理やり某国立音大の教授の所に連れて行って弟子入りさせたのですが、そのすぐ後の、冬の寒いある日に花園教室の下に、車の中に何時間もお母さんと二人で黙って座っていたそうです。
それを見た父兄の方は、「あまりにもかわいそうで、声もかけられなかった。」と言っていました。
それでも、親が先生を選ぶ能力も子供の才能の内ですから、まあ、しょうがないですね。
あー、またか?
かわいそうに!!
日本のある有名なヴァイオリニストの女の人がインタビューで「自分の子供にはヴァイオリンはさせません。子供にはそんなかわいそうな思いはさせたくないので・・!」と言っていて、インタビュアーの玉ねぎおば様が「本当にそうですよね。」と言っていました。
そのときに、「そういえばこのインタビュアーも音大出だったよな」と改めて思い出しました。
そうして(そんなに辛い思いをして)学んだ技術で、音楽家で、いれるのかな?それはありません。彼女は美人であって、芸能人であって、音楽家ではないからです。日本ではそういった、美人でちょっと楽器が弾ければ、もてはやされるところがありますが、それはマスコミが作り出した虚像です。私は教室の生徒にはスタジオミュージシャンだけにはなるな!と言っていますが、音大に行った生徒の中には、私の言いつけに反して、テレビなどで活躍している子もいます。
名前は聞かないように!
あまり、教室がスタジオミュージシャンになることを、賛成しないのは、お金のためにだけに音楽をやると言う事だからです。ですから音が荒れて、最終的にはクラシックの演奏は出来なくなってしまうのです。
今年は、テレビ局に就職して、ニュース・キャスターを目指して頑張っている教え子もいますが、キャスターはヴァイオリニストではないから、直接音楽には関係がありません。音楽を軽んじたアプローチが許せないだけであって、別にマスコミや芸能関係の就職を禁止しているわけではありません。
話を元に戻して、喩え話を少しすると、・・・特に料理などは、いくら技術的に完璧な料理を作る人でも、料理が好きでない人の作る料理は、どこか味気なさが残ります。勿論この話は音楽の話をしているので、音楽が好きでない、音楽は辛いものだ、と言う音楽家の音楽は聞きたくは無い、と言う話です。まして、お金の為に、「音符何個で幾ら」と言うスタジオミュージシャンの音楽を聞いて、「心が休まった。」という経験は、私にはありません。音楽を演奏するには、まず「音楽が好きでなければならない。」のは、当然だとは思いませんか?
しかし、音楽家の中には、そういった音楽を好きと言う事を通り越して、音楽自体を宗教その物の様に、或いは(楽譜を)あたかも聖書のように尊敬し、敬愛している人もいます。
その人達にはとっては、音楽(芸術)はその人の人生そのものであり、且つ又宗教そのものなのであって、音楽教と呼べるように信仰の対象でもあります。ですからその人達にとっての音楽は、ストイックで楽しいものではなく、神のように神々しくあがめるものであるのです。その人達にとって音楽は、自分の命よりも大切なものなのです。
音楽家と言うよりも、芸術家と呼ばれる人にそういった人は数多く見受けることが出来ます。
しかし、数多くというのは、あくまで世界的に、歴史的に見た場合の事で、見かけだけの自分の芸術を無批判に信じきっている(自分がそういったストイックな芸術家であると信じて疑わない)似非(えせ)芸術家は、幾らでも、何処にでも居ます。本当の芸術家は・・・、そうめったに居るものではありません。
楽しくって好きになって、かけがえの無いものになって、それから初めて、本当の芸術への探求が始まります。言っときますけれど、そういった本当の音楽家、芸術家に会える機会は一生の間でそんなにあるものではないのですよ。特に音楽大学には音楽家は誰も居ません。テレビや音楽界を賑わしている音楽家の大半でも、後、50年もすれば覚えている人は誰もいないでしょう。
私が20代の時に騒がれていた演奏家の人達で、今日でも演奏活動を続けている人は殆どいないからです。
では何を求めて音楽の勉強をすれば良いのでしょうか?
芦塚音楽研究所の子供達は、時々ボランティア活動をします。
癌センターや老人ホームでも・・。
子供達の演奏を聞いて、涙を流して聞いてくれる人達がいます。
そこにはプロの演奏家の人達がしょっちゅう来て演奏をするのですが、聞いている老人達はしらけて聞いてます。(昔、そういった音楽関係や芸能関係の仕事をしていた人達だからです。)近所の幼稚園や小学校の子供達も演奏に来るそうなのですが、本当の音楽を扱ってきた人達には、いくら可愛い子供達の演奏でもつまらないのだそうです。
しかし、私達の教室の生徒達の演奏は、どうして、なんでこんなに泣かせるのか分からないそうです。それは大人の作為の伴わない、純真な音楽の心の訴えかけだからです。子供が大人のプロの演奏に技術的に勝る事はありません。だからといって子供の演奏だから媚びるのでもなく、素直に自分を表現して、真剣に音楽に立ち向かっている姿を聞いてもらうのです。
そうすると、なぜか子供の演奏でも泣けてくるのですよ。それを、プロの演奏といいます。人に訴えかけるために、必死に練習する事、それは決して辛くないもんね!
で・・・、ついでに「冷や水」をかけておくと、そういった100%の自分を出した演奏を持続できるのが、本当のプロといいます。コンクールに入賞したり、音楽大学を卒業したりしたぐらいでは、プロとは呼べないのよね。そういうのは、私達は「音楽をかじった事のある・・・。」といいます。
だから、兎に角、将来どんな生き方をしようとも、最初の一歩は、「音楽を楽しく勉強しよう」・・・・でなければいけないのですよ!!
本当に音楽が好きで、本当に楽しむことが出来れば、一生挫折する事もなく、音楽と付き合っていくことが出来ますよ。
うん。
2008年6月某日
江古田の一静庵にて
芦塚陽二拝