練習につて(芦塚メトードによる練習法)

 

・・・・・introduction

練習しても出来なかった(弾けなかった)場合、音楽の世界のみならずスポーツや勉強の世界でもアドバイスとして指導者がよく口にする言葉がある。

「百回やって出来なかったら、1万回練習すれば出来るようになる。」と。

 

 

世間一般では当然の言葉として、なんら疑問も抱くことも無く使われている格言でしょう。しかし、本当にそうでしょうか?

そういった一般的常識に対して、一度疑問を持って見る。じっくり考え直してみる。そうすると社会には意外とおかしな常識がまかり通っていることに気づきます。

一般的には常識であるこの箴言も、私にとっては全くの誤りとしか思えません。

私の著書、逆説的箴言集である「ヨージーの法則」では、「100回やって出来ないことを、1万回やっても出来るわけがない。」と書いています。

これ等はスポーツや音楽の世界の練習ということについてのお話しとしてのみ、捉えられがちですが、本当は「勉強の躾け」についても言える事で、別に音楽の練習に限った事ではなく、全く極普通の日常的に存在するお話しなのです。ですから、ついつい専門的になってしまいがちな音楽の勉強をテーマにするのではなく、一般的にも分かりやすいように、私が大学に勤めていた頃、小、中学校の先生を対象に、子供達への指導に関しての教育相談をしていた時の事例を題材にしてお話しする事にしましょう。

 

 

例①ただひたすら・・・・

 

ある小学校の4年生の学年です。学年主任のベテランの先生と新任の若い先生のクラスがありました。4年生のクラスは全部で4クラスあって、毎週土曜日に一週間のまとめとして、漢字20個をいくつ覚えることが出来たかを、クラス対抗で競っていました。(土曜日というのはまだ週休2日制になる前の話しだからです。)ベテランの先生は漢字ノートに毎日10個ずつ書かせて午前中に提出させて、チェックをして、帰りに渡す、と言う事をやっていました。大変な手間と時間です。新任の若い先生のクラスではベテラン先生と全く同じに覚えさせているのに少しも子供達は漢字を覚えることが出来ず、若い先生は私のところに相談に来ました。私が子供達の漢字ノートをチェックして見ると、あることに気づきました。(漢字20個を10個ずつ書くと言う事は合計で)200個の漢字を書かなければならない事になります。子供達は最初の10個ぐらいは丁寧に書いていますが、流石に毎日200個ともなると、段々書いている字が乱雑になってきます。「私の論文の中に記憶に関する論文がありますが、私の記憶法をシステム化する前に、記憶することより難しいと言われている忘れる方法(記憶をリセットする方法)を作り上げました。人間の頭には如何でもいい記憶や記憶したくない出来事などが無作為に(本当は無意識に成された作為に伴って)記憶されていきます。この記憶をリセットする方法があれば、その正反対が何の努力もいらずに記憶する方法なのです。それと人間の記憶にはもう一つの大問題があります。それは憶えると云う事に関してのみ言えば、人間の記憶には一つの事を憶えるにあたっては、誤ったものや、間違えたもの、或いは曖昧な物でも(それに対しての適切な判断がなければ)正しい記憶と(混同)して脳にインプットされるのです。そのために集中力も身につかず、記憶された内容も曖昧になってしまいます。」私は若い先生にこうアドバイスしました。

「生徒には、漢字を書く宿題は『覚えられるだけ書けば良い。』と言いなさい。次に毎朝、授業の始まる前に宿題になった漢字のテストをする。それだけでいいンだよ。」

若い先生が生徒にそう言って、次の日ノートをチェックすると、最初はおっかなびっくりで、5個ずつ書いたり10個全部書いたりした生徒もいました。書いて覚えると言う事が身についてしまっていたからでしょうか。しかし、1月も経たないうちにクラスの生徒全員が一個しか字を書かなくなりました。しかし、とても注意深く丁寧に(一個しか書かなくてその文字を覚えなければならないのだから丁寧になるのは当然でしょう?)書くようになりました。と同時にその若い先生のクラスは、全員がいつも100点を取るようになったのです。

このアドバイスをした時期は、まだ私が芦塚メトードを完成させる前のお話で、アドバイスには条件がありました。それは「他のクラスの先生や生徒にはその勉強法の事については絶対に教えない。」と言う事でした。そうしないとメトードを使った時と使わない通常の場合の比較対照になりませんからね。と言う事で若い先生に負けてしまったベテランの先生は子供に漢字の宿題を10個ずつでは無く20個に、それでも出来なくて30個ずつ、それでも子供達は100点を取る事が出来なくて、そのうちにとうとう「100個ずつ書いてらっしゃい。」という宿題を出してしまいました。たとえ10個の漢字であっても200個も書くとなると現実的には大変です。でも、ベテランの先生の言う事だから、間違いはないと思って母親も父親も子供が他の宿題をしている時も漢字ノートに子供の代わりに書く手伝いをするという、悲惨な結果になってしまいました。ベテランの先生だから若い先生に聞くと言う事も出来なかったようだし、若い先生の方からあえて教える事はもっと僭越な事になりますからね。これも10個書いて覚えられなければ、100個書けば覚えられるという日本流の単純な考え方の結果といえます。[1]

この文章を描いている矢先に、野球の試合に負けた罰として2時間、3時間追加練習させられた生徒が熱中症で死んでしまったというニュースをやっていました。有名な先生らしいのですが、相変わらず根性教育が全てなのでしょうかね。

もう一つの記憶法

ヨーロッパの大学生達は5ヶ国語や6ヶ国語話せる人はざらでなかには8ヶ国語以上しゃべれる人もいます。我々日本人から考えるとうらやましい限りですが、よく考えてみると当たり前な事なのです。ヨーロッパの学生達は小学校の内からギリシャ語やラテン語を学びます。実はラテン語はイタリア語、フランス語、スペイン語のウア(源)言語で、ギリシャ語はドイツ語や英語、英語とドイツ語をちゃんぽんにしたグリンゴン語、(失礼)オランダ語などのウア言語になる。と言う事で英語とドイツ語が話せるとなんとなくしゃべれなくとも、オランダ語は聞いて分かるし、スペイン語とフランス語とイタリア語の違いは、鹿児島の人が東北の人と会話するより簡単でしょう。音楽用語のポリフォニー(複音楽)のポリは集合したものを表すギリシャ語でメトロポリス(別に地下鉄と言う意味は無い)=都会、から派生してポリス、警察まで来る。同様にアウトは自動と言う意味から自動車アウトバンで高速道路を意味します。(英語の読みはオートだよね)で、オートバイとかの単語が出来ます。そういった風に、いくつでも合成語を作りだす事が出来ます。英単語を大量に憶えるにはそう言う風に言語の成り立ちや派生語を憶える事によって簡単に覚えて行く事が出来ます。

同様に日本語の漢字を憶える時も、基本(基礎)になる象形文字を理解しておくと、後は偏がその単語の持つ意味を表し、旁がその単語の読みを表わします。(子供達は小学校などで教わっていて当たり前のこととして知っているのだとばっかり思っていたのですが、以外にもそのことを理解している子供は少なかったので驚いてしまいました。)漢字を憶えるということでもただ単に無意味に何度も反復して書いて憶えるのではなく、そういった漢字の生りたちの原理や感じの持つ本来の意味を理解して憶えると、漢字の勉強そのものが楽しくなり記憶する能力も飛躍的に向上します。

ついでにもう一つ

漢字を憶える時に是非にして欲しい事があります。

例えばこの憶えると言う単語ですが、覚えると憶えるの二つがあります。これはなんとなく分かりやすいものですが、難しくなると辞書を引いても分からない文字はざらにあります。同音異語ですね。以前どちらが正しいかと言う辞書が出ました。「これはすごいぞ!」と喜んで買い求めたのですが、実際に使って見るとあまりにも情報量が少なすぎて座右の本としては役に立ちませんでした。

 

例②日本の学校教育は能力主義を否定する

 

現実的には社会に出ると、根性よりも能力を要求されます。ある人が100回やらないと出来ないことを別の人が1回で出来るとすれば、会社はどちらの人を雇うでしょうか?こんな分かりきったことを、教育の現場では認めないのです。普通の生徒だったら1時間かかるような宿題を先生が出しました。しかし、A子ちゃんは10分でその宿題を軽々とやってしまいました。先生はどうしたと思いますか?先生はA子ちゃんが他の子と同じ時間宿題が出来るようにA子ちゃんに対してだけ宿題を沢山出したのです。頭の良いA子ちゃんは、つぎからは(本当は10分で宿題が出来るのに、)だらだらとたっぷり一時間掛けて宿題をするようになりました。なるほど、というより当然かな?学校の先生にその事について質問すると「宿題というのは家庭での学習の躾である。つまり1時間なら1時間を勉強できるように躾けるのが目的なのだ。」という回答でした。という訳で「1時間掛かる宿題を10分で終わらされるのは困る。」と言う事でした。あほくさ!

宿題については以前音楽を専門に勉強している子供を指導していた頃、よく子供や親に「学校の宿題は休み時間や放課後、学校で済まして家には持ち帰らないように。」「そう言う風にしたら音楽に専念できるよ。」と言っていました。「先生のお話を良く聞いて、分からない事は直ぐに質問して、授業中に憶えてしまうようにすれば、家で勉強する必要はないンだよ。」そうやって勉強して来た生徒は、皆高校を卒業するまで、学校で1、2番ぐらいの優秀な成績をキープできました。授業で先生が説明する事を憶える事ぐらい、半年に20数曲の楽譜を憶える事に比べれば、(何ということも無い)とても簡単な事に過ぎないからです。[2]

ある時にやはり音楽に進もうとする生徒が私のもとに来ました。いつものように音楽の勉強のコツを説明していたのですが、困った事に母親が学校の先生の所に行って「自分の子供は音楽に進むから宿題などは学校でしたい。」と私の言った通りの事を話しました。学校には黙っておけばいいのにネ。すると先生は怒って「宿題は家庭学習の躾の為にあるのだから学校でやってはいけない。学校で宿題をすましてしまうのなら、家庭で宿題が出来るように別に追加で宿題を出す。」と言って譲らなかったそうです。

何かしら意固地になっているように見受けられますね。別に学校の勉強を軽んじたわけでも無いのに、(子供の夢も認める事の出来ない、)学校が(自分が)全て(中心)で無ければ気がすまないと言う事でしょうね。

又は、好意的に思い見るとして、大人だったら「子供が1時間で勉強が終わるのなら残った時間は別の勉強をすれば良い。」と考えがちであります。その子供にだけ宿題を追加して出すというのは先生の親心なのでしょう。

中学3年生の女の子が恋をしました。その女の子は学年でトップの成績の子供です。でも恋をした相手の男の子は、ハンサムで(今はイケメンというのかな?)運動は抜群なのですが、成績はビリから数えた方がいい位です。恋をした当初、彼女は高校受験でも一番の高校に受験出来たでしょうし、勿論問題なく合格したでしょうが、男の子の方は一番ランクの低い高校にしか入学出来ません。TVドラマやマンガだったら女の子が男の子を特訓して、めでたく二人して名門校に入るのでしょうが、現実ではそんな夢物語はありません。女の子は恋人のためにあっという間に成績が下がって(本人によると意識してそうしたわけではないのだそうですが)、受験間近の12月頃には(本人が望むか望まないかにかかわらず)そのランクの学校しか受けられないようになっていました。その後、勿論二人して一番ランクの低い学校に入ったのですが、入学してから半年も経たないうちに、二人はけんか分かれしてしまいました。と言う事で、彼女は彼氏も自分の未来も無くしてしまったのです。

世間でも良く知られていることですが、何事も(達成するのがいかに大変だったとしても、)失うのはいとも簡単なことです。いったん失ったものを取り戻すのは、(以前出来ていたから簡単に取り戻せるだろうと考えるのは甘い結果をもたらします。)0から学ぶのと同じぐらいに大変な事なのです。[3]

思春期の男の子の場合には全く困った方向に興味を持ったとしても自分を見失うことは殆どありません。そういった意味では男性の方が計算高いのかもしれません。女の子の場合にはいったん落っこち始めると見境無く加速度的に落ち込んでいきます。自分の将来がどうなるか等と言う事を考える事はまずありません。その分だけ無軌道と言う事が出来ます。又思春期の女の子の場合には、殆どの転落していくケースがSEX絡みになってしまいます。それが問題解決を理屈だけで終わることのできない複雑な状況に導いているのです。事実、少年少女鑑別所の統計に置いても少年の更生率に比べて少女の更生率は非常に悪いという結果が出ています。現代社会は先ほどもお話したように思春期の少年少女にとっては(売れれば内容はどうでもよいという商業ベースの情報で溢れかえっています。)刺激が強すぎる時代になっています。子供達が非行に走る原因の多くは、そういった社会現象とその他に、子供を認めてあげる大人の目が学校の成績のみになって子供の人格や思いやりのようなものを全く評価しようとしない現代の日本社会の風潮にその根本の原因を見出すことが出来ます。言い換えれば、学校の先生や両親の成績偏重の教育にそのもっとも根深い所の原因があると言っても過言ではありません。「全ての成績がよい子供」などと言う事はただの親の妄想にしか過ぎません。小学校でオール5の生徒がいました。オール5というのは基本的に小学校では認められません。しかし、どんなに学校の先生がマイナス点を探そうとしても見つける事が出来ません。そんな得難い様な児童がどの学校にも2,3人はいます。そんな珍しい事ではありません。しかしその子が専門の教室に入ったらその子は極普通の成績しか取れないのです。例えば絵の教室や水泳の教室、或いはテニススクールなど。そういったこの子の一人が私達の教室に入会したことがありました。同じ年のピアノの生徒を目標にしたのです。しかし、その子は学校では一番をキープ出来ても教室では一番にはなれないのです。その子が教室にはいった目的は別の子を抜いて教室で一番になる事。しかし、何人もうまい子供がいて1番はおろか2番3番にすらなれないのです。その当時は音楽に進むために一途に音楽の勉強をしている生徒が沢山いました。その子達は全てが出来る事よりも(音楽のみの)一芸に秀でる事を目標にしていました。勿論学校の成績も抜群でしたよ。(ぜんぜん勉強しないに関わらず。)[4]その違いが分かりますか?全てが出来ると言う事は何も出来ないという事と同じなのです。社会に出た時に必要とされるのは何でもできる子供よりも一つの事に抜き出た能力を有している子供なのです。

今本当に子供に必要とされている教育は子供に自信を持たせるための教育であり、一芸に秀でる教育なのです。

 

 

話の大筋が練習や勉強からずれてきたので話を戻すと、10分で出来る事を1時間掛けて、だらだらやる方が正論で、10分で出来たら他の色々な勉強をする、というのは大人の奇麗事にすぎません。

小学校や中学校では平等という観点で教育がなされています。しかし、平等という意味を履き違えているのです。所詮、能力の違う子供達を同じ時間に閉じ込めてしまうことは真の意味での平等とは言えません。私は小学校の時には絵の授業が大変苦手でした。何故なら絵を書かされても1時間という限られた時間の中で書くことが出来なかったからなのです。ですから提出した絵は全部雑な絵ばかりで成績も5段階でいつも2でした。高校に入って音楽と美術が選択になった時には躊躇無く音楽を選択しました。高校二年の時に大学病院に入院してその病床で書いた百合の花の色鉛筆画が西日本のコンクールの代表になったときは僕自身も信じられませんでした。(学校対抗のではありません。社会人のです。)病院ではゆっくりと絵を描く時間があったからにすぎません。自分で勉強した憶えも、誰かに習った憶えもありません。社会的な評価は、私の絵に対してのコンプレックスが少しは拭えたのかもしれません。(それまでは私が絵を描くたびにクラスの皆は「変な絵!」と失笑していたので。)

その後ミュンヒェン時代には、「閉じ込められた欲望」というタイトルの12枚の色鉛筆画を描きました。それが自分で絵を描いた最後になりました。その作品集は友人であったプロの絵描きさんにネタ帳としてあげました。その画集は、本来は油絵の方が合っていたのですが、私にはそれだけの絵を描くだけの力量は無かったので。

私どもの教室では無意味にただ繰り返すだけの練習を「へたな鉄砲、数うちゃ当たらない。」と言って、「むだな練習なら、まだしない方がまし。」と教えます。なぜなら、その時間をもっと有意義に使うことが出来るからです。無駄な練習をするくらいなら、面白いTVを見たり、家族でおしゃべりをしたり、外で友達と遊んだりする方がよっぽど、人生を有意義に送る事が出来ます。

丁寧に一回だけ練習すると言う事は、傍目には一見怠けているように見えてしまいますが、効率的にも集中力を養う意味でも、本当はとても重要な方法なのです。

 

勉強の態度=セレモニーとしての勉強

次に日本では勉強する姿勢(態度)も重要に扱われます。机の前に威儀を正して座って、初めて勉強していると認められます。しかし、偉人達が偉大な研究を成し遂げたり、作曲家が歴史に残る作品を作曲するのは何れも散歩中です。(散策が脳の活性化にいかに効果があるかは、現代の医学や心理学の世界でも証明されています。)

そのことについては「アイディア等の閃きだったらそうかもしれないけど、記憶に関しては違う。」と言われそうです。

私の生徒の話ですが、彼女が小学1,2年生の時に学校までの登校下校の時に(子供の足で確か2,3分の距離だったと思いますが)メンデルスゾーンのコンチェルトを暗譜するように言ったのですが、(勿論楽譜を見ながら登校したわけではありません。)1週間もしないで暗譜してしまいました。

我々も有名な作曲家のベートーベンや(近頃ではリヒャルト・シュトラウスなども)でも作曲をするのに、ピアノの前に座ってするわけではありません。1ヶ月も2ヶ月も頭の中で作曲するのです。机の前に座って、楽譜を書く時には頭にあるものを譜面としてただ書き下ろすだけです。私も子供のためのピアノトリオなどは10分ぐらいで、一気に書き上げてしまいますが、ある時TVドラマを見ながら楽譜を書いていたら、弟子が気を利かしてTVをけしてしまいました。「もう!今面白い所なのに・・・!」もっとひどい時には別の曲を聴きながら作曲することもあります。

でもいかな私でもピアノを弾きながらTVを見る事は出来ません。ハッ、ハッ!

私の心臓の手術をした先生は手術の時にはカルメンのレコードを聞きながら手術するそうです。TVドラマのERの手術風景も冗談を言い合いながら手術をしていて、一見不謹慎なようにも見え、ドラマだからと考えてしまいがちですが、あれは現実なのです。そうして自分自身の集中力のコントロールを計らなければ4時間から長い時には12時間以上も掛かる手術中の集中力を維持する事は出来ないでしょう。

勿論生活慣習の異なる日本人には考えられないことかもしれませんが。

別の論文でも触れている事なのですが、私は異常に仕事が遅いのです。大学時代に図書館の仕事を手伝っていたのですが、20人ぐらいいて皆が二回り位の仕事を片付けている間に私はまだ一回目の仕事が終わっていないぐらいに遅いのです。特に指先の器用さなどは不器用の典型です。インスト・マニュアルや子供のための教育論文などにも同じ話を触れていますが、その自分のコンプレックスをどうすれば直る(?感じさせないで済むのか?)を幾つかのほうほうで回避しています。その一つは「同一行程で出来る作業はなるべく一回で済ませる。」と言う事です。買い物は同じお店で買うものは纏めて置いて、一回いけばよいようにする。或いは池袋の買い物は纏めて置いて一日で済ませる。と言うような事を自分の行動の全てにそうすると言う事です。ベートーベンと言う作曲家がいます。運命と呼ぶシンフォニーを作曲するのに30年掛けたそうです。そのほかのシンフォニーも同じぐらいの時間を掛けて作りました。でもベートーベンは200歳で死んだのではないですよね。つまり5,6曲のシンフォニーやピアノ・ソナタ、室内楽の曲を全て並行して作曲して言ったのです。その方が「今日はどの曲を作ろうかな?」と気分に合わせて作曲できるからいいですよね。一つ事が出来るまで他の事が出来ないと言う事は、あまり能率的ではありません。色々な事を同時進行でやる事の方が、散漫になりにくいのです。一つ事を一生懸命にしていて、疲れてきて集中が切れそうになったら、別の事をやれば良いのですから。その二つの方法論を自分のものにしたおかげで、私が不器用だと気付く人はいなくなって、逆に器用だと勘違いされることが多いのです。

事のついで・・・学習法

練習をしていて不器用と言う事以上に私を悩ませた私自身の欠点は勤勉性の欠如でした。何事かに集中していると、1日2日は一心不乱に寝食を忘れて没頭できるが、一度それが切れるともう続かない。それでは大作を物にすることはできない。ミュンヒェン留学中にも尊敬するゲンツマー教授に「どうしたら師匠のように勤勉になれますか?」と言う質問をしました。師匠は「ウ・・・・・ン!」と20分ほど考え込んだあと、「僕の師匠のヒンデミット教授はとても勤勉な人で、自作画家マティスのパート譜をⅠ月で書き上げた。」と独り言のようにぼそっと呟くと、「じゃあ、レッスンを始めようか?」とレッスンを始めてしまいました。その後も師匠が開いてくれた作曲科学生のパーティの時、同じ質問をぶつけてみましたが、女医である奥さんが「怠け者はダメよ!」と言うだけで、明確な解答はもらえませんでした。[5]心理学の本を調べても、「後天的には勤勉性は育たない。」としか書いてありません。ミュンヒェンから帰ってきて、大学に勤めるようになると作曲や原稿を書くことは本当に忙しい時間の合間合間を見ながらしなければなりません。出版を計画している本の草稿ですら毎日書くことは困難でそのうち色々な原稿が平行して机の上に溜まってくるようになりました。ということで思いついたのがタイム・カプセル型仕事法です。書きかけの原稿を資料や定規鉛筆に至るまで、背広入れのダンボールのケースに纏めるということでした。当時の全音の編集長が遊びにこられた時「先生の家は「何々の資料は・・?」というと押入れの中からぽんと出てくるんですよね。中々よい整理方法ですね。」と感心されていました。これならいつでも始めようと思った時に、ケースから出すだけで、以前終わった時のまま始めることができますからね。今名付けるなら瞬間冷凍保存方整理法とでもしますか。背広のケースは幾つでも背広を作るお店で手に入れる(買う)ことができます。文房具のA版やB版のケースと違って、安く大型のケースを買うことができます。(それでもS,M,Lの3種類はあります。)家が広ければデスクを2,3台買ってそれぞれの仕事が何時からでも始められるようにできるのですが。

 

何故間違えるのか?自己判断能力の欠如

無駄な練習のもう一つの大きな要素は自分が何故間違いを犯すのかと言う事を理解出来ない(判断出来ない)という事にその原因を見出す事が出来ます。

ピアノでミスタッチをしたとしても、音楽大学を卒業したような人でも、自分が何故ミスタッチをしたのかを理解できる人は少ないのが現実です。

それは音楽教育のみならず、日本の教育全般に見受けられる姿勢が、「考えるよりもまず練習」ということにあるからです。私達の音楽教室では音楽を通じて考える力を養わせるように心がけています。小学生の早い時期にメトードの意味を理解させ、楽曲の分析や何故間違えるのかを自分自身で判断出来るように育てていきます。しかし、子供達が4年生5年生ぐらいになって塾に行くようになるとそれまで培ってきた能力は瞬時に失われて、(確かに成績は上がるのかもしれないけれど)条件反射的な(パブロフの犬のように)能力のみで大人になっていくのです。(ここでも先ほどお話した、登るのは難く、落ちるのは一瞬に過ぎない。という原則が生きています。)

私が30年前の論文で厳しく指摘し批判した事は、「学校の成績は全て記憶で決定される。」という現実です。仮に数学を学んでいたとしても何故そうなのかという意味を知って問題を解いているわけではないのです。それでは数学的な思考能力を育てると言う事は出来ないでしょう。

私達が中学生の時に始めて虚数をまなびました。私は初めて虚数を教わった時、「現実の数を扱っているのに何で虚数が出てくるの?」と不思議に思って先生達に質問して回りました。しかし虚数とは何かを説明出来る先生は私達の中学校には居ませんでした。その理由を教えてくれたのは、同級生の友人でした。現実の数字を扱っているはずの中で突然降って湧いてくる虚数、そう言った現実を子供達に理解させることが数学の面白さを教える事につながります。考えさせる教育の欠如が日本の教育制度そのものの欠陥になっている事はユネスコの統計によっても明らかで良く知られている事です。

 

怨み重なる絵の授業についてまたまた・・・。

私は小学校時代から絵が苦手だと言うお話は先ほどしましたね。私達の頃はまず水彩画から習ったのですが、画用紙の白い部分が残らないようにしっかりと塗ると言う風に教わりました。当時の粗悪な画用紙は何度も塗りなおすとだまになって黒くみっともなくなってしまいました。画用紙も波打ってきてとても美的とは言えないようなものでした。別に小学校の絵の先生の悪口を書く気はないので、話を先に進めると、中学を卒業して絵の授業がなくなった事で私の絵に対しての興味がやっと掻き立てられる事になりました。「ああこれで好きなように自由に絵が描ける。」油絵は子供のお小遣いではとても無理だと言う事は従兄弟の事で分かっていました。(金持ちの従兄弟達がいました。油絵を小学校の時から習っていたのですが、月謝は当時、月1万5千円ぐらいしていました。昭和30年の時代ですよ。東大卒の初任給より多かったのです。一人当たりが)憧れの画材屋さんに入って店の女の人に「水彩の道具ください。」と言いました。店の女の人は優しく聞き返しました。「筆はどんなのにする?こんなに種類があるのよ。何の毛がいいの?筆洗いは?定着液は?・・・・」全て始めて聞く言葉でした。「色は何が必要なのかなァ?白はこれだけあるよ!・・・・・・」壁一面にディスプレーされている絵の具(チューブ)「絵!絵!絵!絵!・・・!」私が習ってきた水彩の世界私何処に行ってしまったのだ・・!私の小、中学校で学んできた9年間はなんだったのだ・・・!未開の裸族が突然ニューヨークの町にぽつんと置かれた心境でしょうか?

私が中年になった頃も小学校の先生達に会ってそういった私の子供時代の話をすると、必ず言われる事は「今もたいして変わっていませんよ。」

小学校の先生にお願いしたい、せめて筆の種類や水彩に必要な道具の種類・・つまり画材屋さんに行って水彩用具を買って来れるだけの知識は付けてよ!

 

再び中学校の授業の思い出・・・習字の授業

私が中学2年生になった時に初めて習字と言うものを習いました。(もう筆の話はしませんよ。)その時初めて文字に返り点や撥ねなどがある事を知り、且つ文字には書き順があることも勉強しました。しかし今更書き順なんて憶えられないよね。それまでそんな事、一度も教わってきて無いから。私の祖母も母も習字では結構な腕前です。しかし、家庭で勉強を学ぶと言う様な豊かな時代ではありませんでした。私が祖母や母に一番感謝している事は一度も「勉強をしろ。」とか「宿題をしろ。」と言わなかった事です。と言う事で字の書き順はおろか習字が身につくことは無く、文字に対してのコンプレックスは延々と私を悩ませました。「外国のように日本語でもタイプライターが出来ればいいのに。」外国の映画で主人公がタイプを打つシーンでは、うらやましくてため息が出そうでした。

私の字を誉めてくれた人はごくごく限られた人達です。出版者の編集長や同級生で有名な詩人の人です。何れも「達筆な人の字は逆に読みにくい。貴方の字はとても読みやすく、味があるよ。」と言うご意見でした。

どういうこっちゃ!

習字の授業は1年間あったのですが、最後におばあちゃん先生は僕に言いました。「少し字らしくなってきたわネ。」それ以来文字に対してのコンプレックスは、直りませんでした。ミュンヒェンに留学中にある若い女性から手紙をもらった事があります。とても読みやすい楷書で美しい字で書いてありました。そして、手紙の最後に「かしこ」と素晴らしい草書で(崩し字)書いてありました。知的で聡明で温かく、参ったね!これこそ日本女性・・!

ミュンヒェンから帰ってきて、しばらく禅の道場に通いました。それで比叡山の山奥の山寺(一日にバスが朝晩二回しか通わないバス停から、さらに山の上まで30分以上山登りをした所にある山寺で、和尚さんが独りで自給自足をしながら座禅三昧をして暮らしています。)を訪ねて座禅の修行をさせていただいた事がありました。その後和尚さんから素晴らしい絵手紙を何通か頂きました。勿論文は毛筆で書かれています。素晴らしい仏様の絵ですが、文字はお義理にも達筆とは言えません。以後版画家で有名な(小学校の教科書にも乗っている)版画家の小崎侃(かん)氏と知り合って幾つか版画を頂いたり、ガラス絵なども頂いたり、お手紙なども何度かやり取りした事もあります。しかし、やはり山頭火同様に達筆ではありません。「味はあるかも知れないけれどね。」それでもやはり私の文字コンプレックスは直りませんでした。いまだに・・・。残念!

始めて家庭用のワープロが発売された時、歓喜したものです。私にとってワープロや、コンピューターは夢の道具です。手書きで文字を書かずに文章が書けるのですから。それが未だ16ドットだったとしても・・・。

 

蛇足

文明の発達は私達にとって非常に便利な物をもたらした反面、溢れる情報は殆ど無秩序に(望むと望まずとにかかわらず、)私達の前にやってきます。と言うわけで今、子供達の周りには信じられないぐらいの俗悪な世界が充満しています。一度親の目になって教育的見地から子供達が目にしているTVやコンピューターゲーム、マンガなどを見てください。教育の崩壊はすでに貴方の家の中で始まっているのです。ここは教育の問題をお話する場所ではないので本題に戻る事にして、

 

口伝の教育・・・日本古来の一番日本的な古い古いかび臭い・・・・・

今日の学校の成績は記憶力によって決まります。ですから成績を上げることが目的である塾が記憶や単純な計算を繰り返しさせるという非人間的な教育に偏っていくのはやむをえないことかもしれません。塾は企業に過ぎません。利潤を生み出さなければ潰れてしまいます。ですから一般の親の求めるもの=成績を上げるという当面の目的が全てになってしまうのです。

これは小、中学校の義務教育に於いてのみの問題ではありません。大学に於いても同様の問題が数多くあります。

その一つの例として、大学のお偉い先生達に何か質問をするのは、絶対的に許されることではありません。本当に分からなかったとしても、それを先生にぶつけてはいけないのです。まして「どうしてそうなるんですか?」などと批判がましい事でもいったら、(先生に対して批判的気持ちを持っていなかったとしても)即破門される事は請け合いである。というわけで、やがて生徒はいろいろな疑問を持ちながら、(その疑問を質問する場所も無く)いつの間にか忘れていく、或いは何の疑問も持たなくなってしまうようになる。確かに考えさせようとしない今日の教育では生徒達がそうなっていくのはしかたがないことです。

私の弟子が大学の先生についてよく言っていた事があります。(彼はピアノの生徒)

ピアノの先生は原則として口下手なので先生の言っている事を信じてその通りに弾いてはいけない。

「こう弾くのよ。」と先生が模範演奏をしている場合、音楽をその通りに真似して弾くと、先生は必ず怒り出す。先生が弾いて欲しい演奏は音を聴かないで「感じて判断」しなければならない。

私のレッスンでは、私自身ピアニストではないので自分が望んだようにピアノで表現する事は出来ないし、レッスン室のピアノも大したピアノではないので、よくレッスン中に「ここの所はこういう風にこういうタッチをしてこう弾くと、スタインウエイだったら(或いはベーゼンドルファーだったら)多分こんな音がするはず。」と言います。生徒も慣れたものでそれらしく弾く。画家が沢山の色を使い分けるように、ピアニストはピアノの音色をタッチによって弾き分けなければなりません。それには最も大切な事はピアニストがピアノの音色を、あたかも画家がパレットに自分の望む色を調合するように、しっかりと音の色をイメージ出来ていなければなりません。それは(イメージは)ピアノの音色のみならず、楽曲の構成やベースの音(Baβ führung)内声の音、メロディの音の弾き分け等も、心の中にしっかりとイメージすることが大切です。野球選手などもシャドー練習といって投球するイメージや、バッティングするイメージなどを頭の中だけでします。頭の中でイメージするだけだから、簡単だと考えた人はまだ練習と言うものが良く分かっていない人なのです。頭の中で正しくイメージできたとしたら、練習は90%以上出来上がっているのです。

 

私は基本的には、教える事は大嫌いだから[6]逆に生徒が自分で考えられるように教育する事にしています。自分で分かるようになれば、教える事は少なくてすむからね。

その最たるものが、芦塚メトードでいう間違える原因についての「間違いの3原則」と冗談に呼んでいるものでしょう。3原則という呼び方はともかくとして間違える原因が3つしかないのは確かなことであります。原因が3つしかないのだったら小学校の4年生やちょっと頭の良い子だったら3年生でも自分で間違える原因を見つけることが出来ます。練習はその原因を正しく理解する事によって初めて正しい練習の方法を見つけ出すことが出来るのです。風邪をひいて頭が痛いのに、便秘の薬を飲んだって治るわけが無いと思うのだがいかがなものか?

確かに前回の便秘はそれで治ったかもしれないが・・・。

 

抜き出しの重要性について

100回練習して・・という言葉には抜き出し練習は含まれていない。100回なら100回とも最初から弾き始めると言う事なのです。

公開レッスンなどで色々な生徒を見ていると、曲を(間違えたちょっと前)途中から弾き始めることの出来る生徒は非常に少ないようです。

私のレッスンでは生徒には次のような場合に於いてもすぐに入って来れるように訓練しています。

①先生が曲の途中からピアノを弾き始めて、すぐに生徒が入れ替わる。

まず生徒は左手を被せて、弾いている先生が椅子から降りて、生徒は右手をかぶせて、先生は手を抜いて生徒が椅子に座る。音楽は絶対に途切れてはいけない。

②何小節目から弾いてといったらすかさず弾き始められる。考えるようではだめ。

③勿論譜面は閉じたままだけど先生は「ページの何段目の何小節目から弾いて」という。これも考え込むようだと暗譜は不確実ということであります。

 

練習に対しての意識付け

私は子供のレッスンでよく「間違いの練習」についての価値付けに対して指導します。

(わざと意識して間違えて練習する「間違いの練習」のことではない。)

レッスン風景

芦塚先生マッチ棒を3本出す。(本当はオセロのカードのようなものの方が分かりやすいのだけどレッスン室にはマッチしかなかった。此処では分かり易くするために碁石を例にとってみる。)ピアノの生徒響子ちゃんに抜き出し練習の仕方を芦塚先生が指導しています。

いいかい?抜き出し練習でとても大切なことは、間違えないということなンだよ。「僕が君に、此処を10回練習しておいで。」といったときは、間違えないで、10回、抜き出し練習するということなんだよ。人間の頭の中はコンピューターにとっても良く似ているンだよ。だから間違えた情報を、インプットしてしまうとそれを正しい情報に置き換えるためには、正しい情報を打ち込んだとき間違えた情報と相殺されて0になってしまうンだ。

だから、響子ちゃんが100回練習したとしてもそのうちの50回が間違えて練習したとすれば、正しい練習50回と間違えた練習50回でプラス・マイナスで0回練習した事になるンだ。0回と言う事は練習しなかったことと同じだということだよね。もし、響子ちゃんが10回しか練習しなかったとしても丁寧に間違えないように練習したとすると、それはちゃんと10回練習したことになるよね。だから丁寧に間違えないように10回練習することの方が雑に100回練習することよりよっぽど得なンだよ。

「え~っ!?100回より10回の練習の方がいいの?」

そうなンだよ。じゃぁ、この一小節の抜き出し練習を3回だけやってみようか?

「3回だけでいいの?」

そう、3回で十分だよ。

響子、一回目弾く。間違える。

「あ~ん、間違えちゃった。」

はい、黒の碁石1個

2回目弾く今度は間違えないで弾ける。

はい、正しく弾けたから、黒の碁石は無しね

芦塚先生黒の碁石を取る。

響子、3回目弾く。間違える。

間違えたよ。はい。黒の碁石一つ。

「嫌だ~!」

間違えないように、良く気をつけて、丁寧に注意して!

正しく弾ける。

こういう風に遊んでいくと、だんだん間違いの回数が減ってきます。1週間ぐらいも経つと殆どの生徒が10回の抜き出し練習ぐらいだったら、12回か14回で達成出来るようになります。練習をゲーム化することによって子供の練習に対しての嫌悪感を失くすことも出来ます。

仮に新しい練習を5回するという課題があったとする。

1回間違えたら1回正しく弾いて帳消しになるとすると、もし4回間違えたとしたら、更に4回正しいものを弾いてやっと0に戻る。そこから更に5回正しいものを弾かなければならないので、間違い4回+正しく4回+正しく5回=13回となる。つまり、4回間違えたら13回弾かなければ5回弾いたことにはならない。

このように考えると、いかに間違いをインプットしてしまうことが、重大なミスであるかということが分かる。

また宿題が5回といっているのに関わらず、実際には子供は13回も練習しなければならなくなると言う事は、少なからず、子供にプレッシャーを与える危険がある。

というわけで、この「抜き出し練習法」は初心者には全く不向きで、ある程度レッスンがうまくいっている抜き出し練習の癖が付いた生徒にのみに与えてよい課題である、ということを先生達は知っておかなければならない。

まだ抜き出し練習の癖がついていない生徒や、抜き出し練習を教え始めたばかりの生徒では、間違えずに練習出来たか否かよりも「5回練習しようね。」とか、練習回数を決めて練習の癖を付けるようにすることのほうが望ましい。何故なら、この練習法では、生徒が曲を良く知らず、上手に曲を弾けない時に限って、逆に練習回数が増えることになるので、生徒の忍耐力と、集中力の持続が必要になるからです。

 

間違いの意識付けには別のページに書いてある「水たまりのお話し」などもあります。

 

非効率な練習の例

(さっきの碁石の例に良く似ているけど内容は全く違います。)

(一つの抜き出し箇所(2~3小節)の間に複数の注意事項がある場合)

一般的には音楽教室の先生は生徒に指導する時、

 

①  最初譜読みをさせ、

②  出来るようになったら指使いを教え、

③  最後に強弱を付けさせる先生が多いようです。

これは最悪です。非効率の権化と言ってよいでしょう。

 

ある日、芦塚先生の生徒さんが、「今週はたくさん練習してきました。」と言ってレッスンを受けました。ところが、先週の注意事項は全然直っていませんでした。「ここのところはこのような練習をこのように注意して練習するように宿題を出したはずだけど、それはやったの?」と聞くと、「毎日1回はやったけど、あんまりよくできないから、あとの9回は自分のやり方で練習した。」という返事が返ってきました。そこで芦塚先生は次のようなお説教をしました。

Aチャンは毎日10回ずつ練習はしたんだよね。でもどうして合格しなかったのかな?

毎日一回ずつ練習したのだから最低6回は練習出来たはずだよね。でもしかしね、後9回別の練習をしたその練習が間違えた練習だったのだから、毎日8回ずつ下手になって行ったのだよ。だからAちゃんは頑張ったつもりで、先生にきっと誉められると思ってきたのだろうけど、48回分先週からへたになってしまったのだよ。今日レッスンから帰ってから次のレッスン日まで、毎日8回丁寧に間違えないように練習したとしても、8掛ける6日間で48回正しい練習をしたとしても間違えた練習の48回分と相殺して、結局練習した回数は0回にしかならないんだよ?!つまり丁寧な練習を毎日一回だけした方が、いい加減な練習を沢山やるよりよかったんだよね。それでも最低8回分は練習したことになったんだよ。

次にそれと良く似たことだけど一小節の中に二つ以上直さなければならないことがあったとする。分かりやすく2個にしようか?それを注意A,と注意Bにする。

注意Aを気を付けて間違えないように5回練習したとすると、注意Aはプラス5回だけど、注意Bはマイナス5回になるよね。次に注意Bを気を付けて又5回練習すると、注意Aはプラスマイナス0回になって、注意Bも0回になるよね。

「えっ!そうだっけ!!」

つまり、合計10回練習したとしても、成果の面では練習をしなかった事と同じになるんだよ?分かる?

「ウン、なんとなく・・」

例えば、1箇所につき10個の注意事項があったとする。10個の注意のうち1つの注意しか守らずに10回ずつ練習(1番目の注意を守っている時には2~10番目の注意は忘れてしまっている)し、合計100回も弾いたとする。すると、次のようになるよね。

 

最初の10回   1の注意・・・・・・・・・・・・・・○

2~10の注意・・・・・・・・・・・×   

次の10回    2の注意・・・・・・・・・・・・・・○

         1、3~10の注意・・・・・・・・・×

次の10回    3の注意・・・・・・・・・・・・・・○

テキスト ボックス: ・・・・・・     1~2の注意、4~10の注意・・・・×

 

 

 

これを単純に計算すると、○が100個、×がなんと900個になってしまう。つまりプラスマイナス800回分下手になってしまうのだよ!!

10個の注意事項を10回ずつ練習したら、100回練習しなくてはいけないね。100回練習して800回分下手になる、ということだよね。

では、10個の注意を全部守って10回弾いたらどうなるか?それは、100回分上手になると言うことだね。

さて、きみは100回練習して800回分下手になるのと、10回練習して100回分上手になるのとどっちがいい?

言うまでもなく10回でもきちんと注意を守って弾く方がいいよね?どんなにゆっくりでも構わないから、10個の注意を同時に守って練習すれば、ずっと効率よく上達すると言うことだね。

どんなに数をこなしても、それが間違えた練習であれば絶対に目的に達成することは無いのです。下手な鉄砲は数を打てば打つほどもっと下手になるわけです。きちんと意味を理解し、正しい練習をしていれば、間違った練習をたくさんしている人よりも上達が早いのは当たり前と言えば当たり前です。勿論、正しい練習をしかもたくさん練習できれば、それに越したことは無いでしょう。正しいメトードで正しい練習をすると確実に上手になって生きます。壁にぶち当たることもなければ腱鞘炎になることもありません。それは間違えた姿勢や奏法で演奏していることの証でしかないのですから。正しい練習をするならば何時間練習したとしても筋肉疲労することはないでしょう。腱鞘炎を起こすような演奏法が美しい音を醸し出すことはありえないのです。

では最初に戻って言いましょうか?

「100回練習して出来なかったことは、1万回練習すれば出来るようになる!」

はっ!はっ!はっ!はっ!はっ!・・・・

 



[1] この文章の大元の文章は25年も前に書かれました。しかし、25年たった今もなんら変わっていないことは驚きです。

[2] 勿論誰でもが、そう言った事で学校の成績をキープできるわけではありません。レッスンが上手くいって集中力や暗譜力が身について初めて可能な事なのです。

[3] 親のこういった考えは必ずしも問題が起こった時のみではありません。例えば音楽大学に進学しようとしている子供が、中学受験や高校受験のために1年程音楽の勉強を休みたいと言ってくることがあります。理由は如何あれ、いったん中断して衰えた技術を元に戻すのは容易ではありません。まして他の音楽大学受験生はその間も努力を続けているのですから、差は留まるわけではなく、際限なく広がっていくのです。

[4] 一芸を目標にした人が、逆に色々な事が出来るようになると言う事はなぜかと言う事は、2兎を追うものは、一兎も獲ず。一途を追うものは・・・という論文に書いています。そちらを参考にしてください。

[5] 「親の与えられる財産」という論文の中に勤勉性について詳しく書いています。

[6] 学ぶ事が嫌いな人を、わざわざ学ぶ事を好きにさせてそれから勉強の仕方を教えて、それから・・・。そんなまどろっこしい事をするより、自分で勉強した方が早いもんね。