芦塚メトードによるlessonのpoint

(練習のしつけについて)


[練習の価値付けの必要性]

[指導者に必要な事]

[練習の躾]⇒[全く練習してこないA子ちゃんの例で]⇒[よく練習をするB子ちゃんの場合にも]

[指導者の意識]

[double teachers systemのlessonの方法]


まえがき

若い先生から「生徒がちっとも家で練習をしてきてくれない。」という話を聞きます。

また親が子供と一緒に練習をするようになって、せっかく毎日練習をするようになっても、「勝手な通し弾きばかりしてちっともlessonで注意した事を練習してきてくれない。」という嘆きを聞きます。

そういった事を先生は子供や親のせいにしているようですが、本当にそうなのでしょうか?

 

[練習の価値付けの必要性]

子供は練習の躾をしなければ、練習をしてくるようにはなりませんし、また日頃から規則正しい生活をするようにさせなければ、そういった練習の癖のような生活慣習が身につく事はないのです。

そういった規則正しい勤勉な性格を身につけさせる事は、親が大人のかってな都合で子供のローテーションを振り回すのではなく、子供の規則正しい生活のリズムを狂わせないように、細心の注意を払って子供の生活を中心とした生活環境を保てるように親達が努力して勤めなければなりません。

しかし、残念な事にそれが幾ら子供達にとって大切なものであったとしても、赤の他人の先生がそういった日常生活を相手の家庭に要求する事は出来ません。

ですから、相手が自らそれを嫌がらないでやるように、或いは、それがその家庭にとっての重要な教育であるように、家庭生活の規則正しさの価値付けを指導者がしなければならないのです。

 

そういった「勤勉性を身につけるための教育」についての私の論文はかなり多く書かれていますが、それは私自身がそういった教育を受けることが出来なくて、そういった性格が育たなかったために、大人になってから非常に苦労をしたからです。

しかし、私がそういった教育を受けてこなかったからと言って、私が自分の親や社会を責めているわけではありません。それはあくまで、私が育ってきた戦後の日本社会の状況のせいであって、それが決して特殊な話ではなくって、実に当時としては一般的な話であったからなのです。

私がすごしてきた幼年時代は、「今日、食べるものが手に入るか?」という非常に貧しい時代でした。

お米がなくて、お茶碗にかぼちゃが4分の1カケラ入っていた事もよくありました。

かぼちゃといっても、今のようにとっても甘くておいしい「栗かぼちゃ」の事ではないですよ。

今は見ることの無いパサパサしたごつごつしたかぼちゃでした。

私たちの時代は、戦後の時代で、「先ずは、生きていく」と言う事が大前提の目的であった時代でした。

しかも戦争で、男達を全て失った女だけの片親で育った子供達が大変多かった時代です。

そういった時代的な背景で、私自身の家庭も、私が物心付いた時には、母親は生活のために、朝は7時には家を出て、夜は9時過ぎに帰ってくるという、現代的に言うとシングルマザーの家庭であったからです。

しかし、当時はそれが私達の家庭だけの特殊な話という訳ではなく、そういった家庭が当たり前の時代だったのです。

 

今のご時勢では、親が財産を子供に残すのが、甲斐性のように思われがちですが、財産の価値とは子供自身が自分で得た財産でなければ、その価値は親が考えるほど価値のあるものではありません。

子供の頃から贅沢な生活になれてしまっていれば、親がどのように苦労をして、そういった贅沢な生活を子供に与えてきたとしても、子供にとっては生まれついてからの、身近な、極、普通の当たり前の事にしか過ぎません。そういった当たり前のことに対して、子供が価値を感じる事はないのです。

そこが、親と子供の断絶を引き起こしている価値観の落差になるのです。

ですから、今日の時代という事ではなく、昔昔の、江戸時代からそのまま言われている事なのですが、「親が与えた経済的な財産は、子供には受け継がれては行かない。」ということが多いのです。

江戸時代にはそれを「長男の甚六」と言う言葉であらわしました。

しかし、親が子供に残してあげるものが、「勤勉な性格」であり手に付けた「技術」であるとすれば、一旦身に付いた技術や勤勉性は失われる事はありません。一生その人を支え続けることが出来ます。

 

私自身が音楽教室を立ち上げて以来、よく子供達の母親達から色々と深刻な相談を受けることがあります。その中でも、一番多いのが(子育てに関する問題を除けば、)離婚の話でしょうね。

そういった深刻な内容では、他に相談する相手もなかなかいないでしょうからね。

そう行った相談を受けた時には、私は相手の相談を批判するわけでも、賛同するわけでもありません。それよりも、実に現実的に具体的にお話をします。

「離婚したとして、今よりも収入が幾ら減るのですか?」「どれぐらいの部屋に住むのですか?」「子供の養育費はどうするのですか?」「それぐらいの収入で、今よりも自分の幸せを感じる事ができますか?」等々です。殆どの人はそれで、離婚をやめてしまいます。

離婚は夢ではなく、現実の生活だからです。

それを望むと望まぬとにかかわらず、母親は「経済的な幸せ」を取るか、「精神的な幸せ」を取るかを選択しなければなりません。

そこで「手に職さえあれば、離婚しても子供を育てる事ができるのに。」と、私の目の前で泣かれる事が良くありました。

「手に職がある」と言う事は、離婚をする、しないにしても、精神的な安定と強さを与える事には違いはありません。

離婚するかしないかは本人の問題ですが、もし離婚しなかったとしても、自分で生活を立てることが出来る、(子育てが出来る)力を持っているかいないかで、生活が家庭とは夫に従うだけの従属的なものになるか、夫婦で協力的に生きていくかの違いを生み出します。

現実的には夫婦関係もそういった力関係で成り立っているのです。

 

音楽大学の学生への音楽教育はステータスとしての教育なので、音楽大学の中では、実際に職業としての演奏活動や子供達への指導や教育を学ぶ事はありません。

しかも、音大卒業と言うプライドだけは、「うぬぼれ」と言える位に強くて、人を見下したりして、困ってしまいます。他の先生が「それはうぬぼれそのものでしょう!」と言っていました。

そして、二言目には 「音楽では飯が食えない。」と、じぶん達が子供達を教えられない事や、音楽としての仕事を出来ない事を、社会的な仕事に対して知識の無さや、自分の音楽や教育に対しての勉強不足を棚上げにして、「音楽が職業にならない」と[音楽というgenre]のせいにしてしまいます。

本当は音楽という職業はたくさん分野があるし、そういった就職関係の本もたくさん出版されているのに、音楽学生達は就職のための勉強する事は勿論、就職活動すらすることはありません。

そういったところは就職活動を2年次、3年次には始める一般大学の学生とは大きな違いがあり、お坊ちゃま、お嬢ちゃまの集団であることには変わりありません。

私達の教室で子供の頃から、一生懸命に職業としての音楽の勉強をしていたとしても、一旦音楽大学に進学すると、大学の教授達から当然音楽の現場とは無関係のステータスとしての音楽の勉強を習います。

音楽大学の先生は、そのお嬢ちゃまの頂点にいるので、大学の先生以外の職業の事はまったく分からないので、当然、職業意識もありません。

勉強としての音楽がその全てです。

そこのところだけは、芸術至上主義を採っているのですが、でも追求しているのは音楽ではありません。

では何か? 求めているものは、オリンピックのようなものかな?

日本人の演奏会に行くと、サーカスを、或いはオリンピックの競技を観戦したときの様な気持ちに慣れます!(それ以上は言わぬが花!)

そういった音楽に対する考え方の甘さは、たった4年間の学生生活だけでも、困った事にすっかり体に浸み込んでしまい、卒業後、運よく音楽を職業として仕事に付けたとしても、そういった学生時代に身に付いてしまった音楽に対しての甘さが出てしまって、現場の人達を困らせてしまっています。

夢だけを追い求め、そういった現実的な意識のなさが、音楽界の現場の人達を困らせています。

 

たった4年間、音楽大学にいただけなのに、どうしてそういった考え方から抜けなくなるのか?

それは、その原因が「うぬぼれのようなプライド」だからです。

正しい道を学ぶ事は大変難しく、誤った道には一瞬で行く事が出来ますが、一度誤った道に踏み込んでしまうと、再び正しい道に戻るのは困難だからです。

誤った道に踏み込んだ人を、正しい道に連れ戻す事、それは非常に難しい。

それよりも何も学んでいない人を最初から新しく指導する方がよっぽど楽です。

 

音楽教室は音楽を趣味として、娯楽として捕らえているし、音楽大学では音楽を学問、芸術として、捕らえています。

しかし、私達の音楽教室では、音楽をあくまで職業として指導しています。

 top

[指導者に必要な事]

音楽を人に指導すると言う事は、指導する内容を本当に分かっていないと、指導する事は出来ません。

それだけではなく、本当に優れた指導者は生徒がどのように間違えた演奏をしたかを理解するだけではなく、再現演奏も出来る事が重要です。

人は間違えた演奏をしている時、「自分は正しく弾いている。」と思い込んでいるのですから、それをそのまま真似ただけでは、「自分の間違い」に気づく事はありません。ですから、指導者はその演奏をオーバ-にデフォルメして演奏出来なければならないのです。

デフォルメの技術は、指導の時のみならず、舞台での演奏の時にも大変重要な技術になります。

幾度か、私は女形の玉三郎さんのお話を引き合いに出して、舞台上の表現という事で、デフォルメの重要性を私のホームページにも乗せておきましたが、舞台で演奏するには、表現の幅を変えなければなりません。

それこそ、30名ぐらいのサロン・コンサートと、500名ぐらいの小ホールの発表会、2000名以上の大ホールの演奏会ではcrescendo等の幅を含めて、全ての表現を変えていかなければならないのです。

デフォルメ(déformer)の技術は指導のみの技術ではなく、演奏家を目指すものにとっても、非常に重要な技術になるのです。

ですから、子供の時期に後輩の指導をさせているという事は、早い時期から、指導の勉強を通して、音楽の構造や演奏の方法等をその(後輩を指導させている)生徒に、自分が学んできた経緯をフィード・バックさせ、具体的に理解させてから後にlectureさせているのです。

ですから、私達の教室の生徒達がリーダーとしての指導が上手いのは、子供の性格によるものではなく、あくまで、先生からの指導で得た技術なのです。

 

しかし、そういった非常に優れた技術も、本当に子供達の身に付くには、大変な時間と労力が掛かります。

それだけ、苦労して得た優れた技術も、音楽大学の100年も前からの、昔ながらの誤った教育によって、たった2,3年間で、もろく失われてしまうのです。

「落ちる」のは、ほんの一瞬ですからね。

子供達の教育に行き詰っている弟子達に、二言目には「あなたは子供の頃は私からどう習ってきたのよ!?」と意見します。でも、昔学んだ事が、・・・それが現実の指導に反映してこないのです。

それは大学の先生達の「音楽の指導者の態度はこうあるべきだ」という意識が身についてしまっているからです。

「あなたの態度は音大の先生の態度でしよう?」 「個人の教室でそういう指導をしたら、皆すぐ音楽を嫌いになって、教室をやめちゃうよ!」 と意見をするのですが、その時は一時的には立ち直って、ちゃんとしたlessonをするのですが、しばらくするとまた同じような威張りくさったlessonを始めてしまいます。

結論的に言うと、音楽の初期指導が男性の先生よりも、女性の方が好まれると言うことでも分かるように、その理由は、母親と歳が近いので先生と話し易いと言う事と、もう一つの理由が「子供に対しての第一印象が男性とは違って、女性の方が優しい感じを与える」と言う事だからです。

と言う事はとりもなおさず、一般の音楽の指導者達がそう思い込んでいるように、日本型の(先生然とした厳しい威張った)先生として、子供へ接っするのではなく、子供に対しての優しさや思いやりが先生に求められていると言うことなのです。

 

[練習の躾]

練習をまったくしてこないA子ちゃんと、よく練習をしてくるB子ちゃんの例で・・・

Lessonの指導のもっとも大切なpointは、lessonと言うのは、ピアノを弾く上での基本を子供の身につけさせると言うことなのです。

Beyerの場合にはそれが順番に積み上げられる形を取っています。

ですから、Beyerの45番で勉強したテクニックは、次のBeyerの56番の曲のテクニックを勉強する時にちゃんと土台になっていなければなりません。80番、100番と進んでも、同じです。常に10番で学んだ事がフィードバックされていなければなりません。

 

[まったく練習してこないA子ちゃんの例で・・・]

私がA子ちゃんを指導する時にも、A子ちゃんが全く練習してこなかったとしても、ぜんぜん構いません。本人が音楽を好きになって、練習が好きになれば、自然に練習してくるようになるからです。

私がこの段階で、最も大切にしている事は、前回指導した事を何処まで正しく理解し把握しているかです。

(ちゃんと練習したかどうかという事は関係ありません。)前回のlessonの内容を理解できていなくて、間違えた練習をしてくるとすれば、先生と一緒に正しい練習をした方が、進みが速いのです。

そして、ゆとりのある生徒には、先生と一緒に練習して、正しい練習と間違えた練習の違いをちゃんと分からせて、何が誤りか、何が無駄かを指導する事は、その生徒の財産になります。

それがlessonのpointなのです。

くれぐれも、「無駄な事も、間違えた事も人生には糧となる」等と暴言を言わないように!

指導講師の先生が怒っていました。
「新しい先生に前回のlessonで、生徒の指導上の留意点や教材の説明を丁寧にしたのに、ノートを取るわけでもなし、そして今度のlessonでは、私の前回の注意を全く無視して自分勝手にlessonを始めた。それに前回自分が生徒に出した宿題を覚えていなくって、生徒がちゃんとやってきたのに、見もしない!」
勉強をしてこないのは、生徒だけじゃないんだ!!
ふ~ん!!

 

[よく練習をするB子ちゃんの場合にも]

あまり練習をしないA子ちゃんも当然そうなのですが、一日中まじめに一生懸命に練習しているB子ちゃんですら、練習を量でこなしているところがあります。つまり、B子ちゃんの場合には、冷静に判断して分析して、論理的に練習を組み立てるのがめんどくさいので、考えるのよりも、練習の量で乗り越えようとしています。そういった事を考え、吟味し、推敲していく事がめんどくさくって、嫌いなのです。

音楽で何を表現すべきか?どう解釈すべきか?そのためにはどういった練習が必要なのか?

そういった事を考えるのがめんどくさいので、練習の方法を分かろうとするよりも、何も考えないで、練習を始めようとする。何も考えなくって、唯練習量で曲をこなして、それで乗り越えようとしています。

(あたかも、禅の瞑想のように・・・・・違うだろう!ハッ、ハッ、ハッ!)

だから、幾ら練習しても、音楽の細やかなnuanceが理解出来ていない。

曲の分析がまだ良く出来ない小学生の場合には、それでも仕方がないと思いますが、中学生、高校生と年齢が上がるにしたがって、ちゃんとした分析をして理論的にも正しい練習が出来るようにならなければなりません。

A子ちゃんやB子ちゃんの場合には、曲のimageを捉えるのが上手いので、音楽の理論的な理解や正しい練習法が分からなくても、それでも何とか弾けるようになってしまうのです。

しかし、それでは将来的に本当に上手くなる事はありません。

練習の量はとても大切で、必要な事でしょうが、頭を使う事なしに、何の考えもなしに練習の量だけでこなしたものは、結果的には身には付かないのです。

いずれにしても、A子ちゃんやB個ちゃんは私達の教室では、とても優秀な生徒です。それでも、正しい練習が出来ているとはいえないのです。きちんとした解釈でその解釈を表現するための練習を構築する。それが正しい練習なのです。それぐらい「正しい練習の仕方」を覚えると言う事は難しい事なのです。

 top

[指導者の意識]

学生が音楽教室で子供達を教える時に、学生同士の仲間内で、「明日はバイトがあるんだ!」という言い方をします。学生同士ならいざ知らず、そういう風に普段言い続けていると、lessonをしている最中に無意識に父兄の前で「バイト・・」という言葉を口に出してしまいます。

しかし、父兄は子供の指導を学生である先生に頼んだ覚えは全くないし、同じ金額の月謝を払うのですから、学生ではない「バイトではなく、職業として捕らえている先生」の方が良いのに決まっています。

(一般の音楽教室では学生は雇わないのが通例です。)

しかし残念ながら、音大生や音楽大学の卒業生を面接しても、「ピアノの勉強の片手間に子供を指導したい。」という人達が殆どで、私が「教育の難しさ等」を説明すると、「先生達は教育に関してプライドをお持ちなのですね。」と驚かれたりします。

仕事に対してプライドを持たない、・・・そっちの方が私にとってはよっぽど、驚きなのですがね。

よく皆さんから、勘違いされる事ですが、私達の教室で芦塚メトードでピアノやヴァイオリンなどの楽器を学んで、音楽大学に進学したとしても、それで教室で指導出来る(芦塚メトードの先生になれる・・)というわけではないのです。

芦塚メトードで学んだ生徒であると言う事と、芦塚メトードを勉強した生徒(弟子)とは全く別のカリキュラムなのです。

芦塚メトードでは、生徒は音楽を何の困難も無く、失敗も、必要以上の努力も要らないで、学ぶ事が出来ます。

しかし、その指導法である、芦塚メトードを学ぶ事は、反対に大変難しく、また音楽の指導だけではなく、音楽理論、教育論、心理学等の広範囲の芦塚メトードの理論を学ばなければならないのです。

芦塚メトードを理解するには、非常に時間が掛かる、・・というリスクを考えて、教室の指導者になりたいと考えている生徒に対して、教室では非常に早い時期の中学生や高校生の段階で芦塚メトードのlectureを始めます。

また、外部から来た先生で、芦塚メトードを学習したいと思っている先生にも、double teachers systemというlessonの形態で生徒を指導させながら、芦塚メトードを学習するという方式を取っています。

そのいずれもが、芦塚メトードの習得に掛かる時間と労力を如何に短縮できるかという事で考えられたことなのです。

私にとっては「たった一人の音楽の指導者を育成する」と言う事は、10年掛り、20年掛りの一大projectなのです。5年に一人、10年に一人の育成をしているわけです。

しかし、残念な事に女性はやっと自立して働けるようになる頃になると、結婚して子育てに入ってしまいます。勿論、一旦子供が産まれると、5年間ぐらいは現場から遠ざかってしまいます。仕事としての教育の感覚が失われてしまうのです。そして、職業としての意識も当然、家庭や子供が一番になるので、ここ一番の時の詰めが甘くなってしまいます。

勿論、人によっては、主婦である先生の方が、「子供を持っている親であり、同じ主婦だから、子供の事を良く分かってくれる」と言う人もいますが、やはり、それは子供がまだ小さく音楽の導入levelの初心者の段階の生徒であるという、条件が重なった場合だけのようです。

そういう事を言われていた、ご父兄も、生徒が中級や上級levelになってくると、或いは子供の年齢が上がってきて、小学生の中学年、高学年ぐらいになると、やはり主婦である先生に対しては「子供を育てようという指導者としての意識や責任が伴っていない」と批判される事が多くなります。

結局の所は、やはり指導者の側の意識の持ちようが、先生としての評価の差に表れてくる、という事です。

 

先程も言ったように、音大を卒業したばかりの先生では、Beyer程度の曲の正しいfingeringも付けられないのです。(音楽学校ではfingeringの付け方は習わないのですから。)

そういった事が当たり前に出来てしまう、子供の頃から教室で育ってきて、そのまま教室の先生になった人が、結婚や子育てで指導が出来なくなったとしても、その先生の代わりはいないのです。

幾ら、色々な世代の人や色々な大学を卒業した人達を面接して見ても、最初から習っていないし、出来ないものは出来ないのだから、・・・というか、そういうことを言われても出来なくて、当たり前なのだから、しょうがない。

つまり、職業として指導しない、日本の音楽大学と私達とでは基本の考え方がまったく違うのです。

教室で育った先生が結婚してやめて、指導する先生がいなくなってしまうと、残った先生にその生徒の負担が掛かる事になります。

音大卒業の先生達を雇って、教室のlevel自体をうんと下げるか、或いは、今いる先生達だけで指導出来る生徒数までに教室の規模を縮小するのか?と言う極限の状態に陥ることになりました。

そこで私が考え出した、教室のlevelを下げないで先生達の負担をある程度減らすという一石三鳥の解決策が、まったく新しいメトードであるdouble teachers systemの考え方です。

 top

[double teachers systemのlessonの方法]

通常の私達のLessonのカリキュラムは、生徒に新しい曲を渡す時には [曲のimage、課題、難しい箇所と練習の方法、練習のpoint等の説明] を先にします。

その次のlesson、(2回目のlessonになりますが、)生徒がある程度譜読みをしてきたら、「間違えている箇所や読めていないところの譜読みのコツ等」 を説明しながら、練習の仕方の説明をします。

そこまでが練習のconcept出しのstepになります。

それから先は、練習を子供達と一緒にして、先生が指導したconceptを生徒が正しく理解できているかの確認作業になります。

実はそういったレッスンでは、指導担当の先生が付きっ切りである必要は無いのです。

要するに、担当の先生が、指導講師が出したlessonの課題を、生徒と一緒に練習をしてあげればよいのです。

「指導講師が出した課題を、生徒と一緒に練習させる、」 ・・・この方式だったら、いつでも、どんな先生でも、簡単に出来そうなのですが、あにはからんやそれがそれほど簡単ではありません。

 

実際の私のlessonのビデオ撮りに際しても、私は単にその曲の説明だけではなく、生徒の時間の中で可能な限り、子供と一緒に難しい箇所を抜き出しし、練習して、その練習箇所や練習の仕方等を理解をさせます。そして、そのlessonの中で、生徒がある程度、キチンと曲が弾けるようにしてしまうので、それを見学している初心者の先生達が、その段階で「子供が完全に弾けるようになった。」つまり「その箇所のlessonが終了した」 と勘違いをしてしまうのです。

そこで、私のlessonから、3日後の次のlessonや、1週間後のlessonで、その生徒を担当する事になっている初心者の先生が、(私のlessonを引き継いで、生徒と練習してくれるのではなく)、まったく新しい次の曲のlessonを(自分勝手に)始めてしまう事が良くあるのです。

そこには、大きな勘違いがあります。つまり、私のlessonの時間の中で、生徒がその曲の課題を弾けるようになったから、「ちゃんと弾けるようになった」 と思い込む事です。

しかし、実際には、生徒に次のlessonで、同じ箇所を同じように弾かせて見ると、生徒はその箇所はやっぱり弾けていないはずなのです。

その場で弾けるようになった、という事と、ちゃんと弾けるようになった、という事はまったく違うことなのですが、そこの差が判断出来ない先生が多いのです。

もう一つの原因は、生徒がある程度弾けるようになったら、それ以上何を指導して良いのか、分からないと言う事なのです。ですから、本当は私のlessonで私が子供と一緒に練習をしていたわけなので、それをそのまま、続けてくれれば良いだけなのですがね。

くどいようですが、私は、私のlesson中に、生徒がその曲の課題を演奏出来るようになったとしても、それをもって「私の出した課題を全部合格する事が出来た」 とは思わないのですがね。

つまり、その次の(3日後のlessonで、或いは1週間後のlessonで)生徒にその抜き出し箇所を弾かせて見たら、やはりまた、弾けなくなっているはずなのです。

「私が子供と一緒に練習していた箇所を、もう一度、担当の先生が同じ説明をしなおし、一緒に練習しなければならない」 と思うよ。

正しい、double teachers のやり方では、先生が教室で子供と一緒に練習をして、出来るようになったら、そこで宿題にする。

「えっ~?!出来るようになったら、合格ではなく、宿題にするの??」

そうなのです。出来ない箇所を宿題にして、生徒が練習してくるわけはないのですよ。そこが芦塚メトードと一般の考え方の違いです。

出来ないから宿題にする。⇒やり方が分からない。(或いは、難しいのでコツコツ練習するのが、めんどくさい)⇒やる気がなくなった⇒だから宿題をやってこない。⇒だからlessonでも、やっぱり弾けない!⇒先生がカンカンに怒っている⇒先生が怒るから、ピアノは嫌いだ。⇒だから練習をしない⇒だから弾けない・・・・宿題をやってこない生徒の負のスパイラルの図式です。

それに対して芦塚メトードでは、抜き出し箇所は先生と一緒に練習したから、当然、抜き出し箇所の練習出来る⇒出来るから楽しい⇒楽しいから練習を良くするようになる⇒よく練習出来ているから、lessonで先生に褒められる⇒褒められるからピアノは大好きになる⇒大好きだから、よく練習をする⇒よく練習するから、先生に褒められる・・・・・芦塚メトードの生徒達が「ちゃんと練習をしなさい。」と一度も言われないのに、練習をしてくるようになる、正しいspiralの図式です。

それを繰り返せば、子供は自発的に練習をするようになります。

しかし、先生がlessonで子供が弾けない所を取り上げて、「此処のところは、ちゃんと弾けるように、自宅で練習をやっといて!」 と言うだけなら、100年経ったって、子供には自主的に自宅で練習する習慣が身につく事はないでしょう。

結局、いつまでも親が無理やり子供をピアノの前に座らせて、練習させることになります。

そういった、先生の多い事!

しかし、親が先生の代わりに、自宅で練習を続けさせる事は、子供が小学校の高学年や、中学生ぐらいになったら、反抗期で、もう親の言う事は聞かなくなりますので、自宅練習を続けさせる事自体が、無理になってしまいます。

子供の「自宅練習のしつけ」は、先生や親が幾ら「練習しなさい。」と言い続けても、それでつくわけではありません。

子供が自発的に練習を喜んでするように、そこの所までを、先生が導いて上げなければならないのです。

それが、一見無駄と思われるかもしれない、lessonで出来るようになった所を、先生と一緒にlessonでfeedbackする事であり、feedbackして弾けるようになった所を、宿題にする・・という宿題の出し方の違いなのです。まず先生が、子供に「楽しい練習の仕方やpointをつかんだ練習のさせ方」を指導し、それがちゃんと理解が出来た時点で、初めて子供が、自主的に練習をするようになるのです。

そこの部分は決して焦ってはいけない「要の場所」なのです。気長に丁寧に指導しなければならないのです。

double teachersで指導講師の先生がlectureをした「練習のpoint」を、担当の先生は正しく理解し、指導講師の先生の指示通りに、生徒と一緒に練習していけばよいのです。

間違っても、自分勝手に新しい事を教えない事です。

double teachers systemに慣れていない先生の中には、「指導講師の先生が、生徒にこの曲を指導したから、自分は先の次の曲を生徒に説明して・・・・」 と、double teachersのシステムを無視して、課題をどんどん先へ進める先生が多いのですが、それはその曲を合格させるためのその曲のNiveauを知らない、という事であり、且つ又、一番下手な教え方です。

 

Beyer教則本終了までには、子供に次の事がしっかりと身についていなければなりません。

椅子の座り方:

ピアノと椅子の位置、椅子の高さ、腰掛けたときとピアノの位置、(肩、肘、お尻)の位置は正しいか?

鍵盤とおへその位置は正しいか?

指を構えた時の、打鍵の位置は(親指と5の指はちゃんと白鍵のセンターの同じ位置にいるのか?)正しい位置にあるのか?手の甲はちゃんと丸くなっているのか?手首は高位置と低位置の間にちゃんと収まっているのか?

それ等がBeyerの60番までの課題でしたよね。

子供の指導のコツは、子供に対してlecture(この場合にはlectureの意味は、説明をする事とでもしておきましょうか・・)するのではなく、「子供と一緒に練習をする」と言うことです。

練習の仕方が上手になれば、その子供のピアノの技術は自然に身についてきます。

 

後は、先生自身の勉強、所謂、教材研究に掛かっているだけです。

BeyerとBurgmüllerとソナチネ・アルバムとソナタアルバム、それにハチャトリアンとカバレフスキーの2冊の曲集がちゃんと指導出来るようになれば、ちゃんとした一人前のピアノの先生に成れます。

勿論、この段階の指導教材に限っては、すべての曲を暗譜する事は、絶対条件です。

「だって、忙しいから、覚えるだけの時間がない。」

「曲が多すぎて、覚えられない!」

とか言う、弁解の声が聞こえてきそうな気がします。

しかし、たったこれだけの数冊の教則本で、何百人という生徒達を何十回と指導するのですから、その都度一緒に練習するとすれば、仮に 絶対に「暗譜しない。」 と思ったとしても、自然に覚えてしまうでしょう?同じ曲を、百回も子供と一緒に練習すれば 「覚えるな!」と言う方が無理難題な話ですよね。

 

それを、子供を指導するための指導教材ですら「覚えられない!」というのは、「プロ意識の欠如」とか「意識のなさだ」とか、お説教を始めるその前に、如何に 「子供と一緒にピアノを弾いていないか?」 「子供と一緒に、練習していないか?」 という一番初歩的で基本的なlessonですらやっていないという 「怠け癖」以前の問題ではないでしょうかね??

ハッ、ハッ、ハッ!

 top

芦塚メトードによるlessonのpoint

「 練習のしつけについて 」

2010年1月 改訂版 脱稿

江古田の寓居「一静庵」にて

芦 塚  陽 二  拝