食育について

                        (手抜き料理の勧め)

 

                    「よまなくてもよいページ」

 

洋の東西を問わず、学校などで「食育」という言葉が定着して久しいが、イタリアやフランスの食育を取材したものや、日本の学校の食育教育などのテレビのドキュメントなどを何気なく見ていると、いつもその道のプロフェッショナルな料理人が出てきて、本格的な材料と道具と訓練されたスタッフ達が出て来て、本格的な技術の粋を尽くして素晴らしい料理をする。

確かに本当の本物の味を知るという上では、非常に良いことには思われるが、一般家庭の日常の中で、そんな高価な材料を揃えたり、調理用の器具や道具を揃えたり、また熟練者さえも煩わせる、手間隙のかかる料理は、学校での授業の中で、熟練のスタッフ達に見守られて、やっと何とか子供に出来るわけで、家庭の中では、子供はおろか、母親達にとっても、右から左へと、おいそれとは出来るものでは無い。

私達が今日の子供達の食生活を心配しているのは、そういった日本や世界の食文化の勉強や教養としての「食育」ではなく、子供達の日常生活の中の食事について・・である。

食事を与える側である親の日常生活の忙しさや、親自身が学校や塾の勉強の為に、料理と言うものを子供のときに親から学んでこなかった事による、知識不足と自信の無さ、(今からもう40年近く前のことではあるのだが、東京の某国立の教育大学の女の先生と「子供の食育」についての話をしていた時に、その女の先生が突然、「結婚をするときになったら、料理教室にでも通えば良いのです。」と烈火のごとく怒り出した。
教育大学の先生の娘だから、塾の勉強の他に、家庭の味(料理洗濯)ぐらいの手ほどきは、当然していると思い込んでいたのだが、そこがその先生の逆鱗に触れたようでした。

私自身は料理教室の料理は、日常生活の料理ではなく、家族の健康を慈しむための「家庭の料理」では無いと思っていますがね。

音楽教室でも、書道の教室でも総て同じなのですが、型に嵌めて行くlessonなのですよ。
枠に入らない物を赤字で修正する、Pianoのlessonも同じですよね。
でも、或る書道教室では、縦線の書き方、跳ね、止めと、指導するそうです。
その教室では、コンクール等の入賞者を輩出しているようですがね。

兄貴が、留学生の審査のために、色々な音楽大学を卒業する学生達の演奏のtapeを毎日、何時間もcheckしていて辟易して言っていました。
「大学が別でも、先生が別でも、全員が全員同じ音で同じように弾くんだよね!」「拷問だよ!」
そんな兄貴が、教室の発表会を手伝いに来て、子供達の演奏を聴いて、
「同じ先生なのに、或いは同じ曲なのに、全く別の弾き方や音色で演奏して来るので、面白いし、疲れない!」と喜んでいました。

Pianoの演奏には、ルールがあるので、そのルールを正確に指導すると、後は本人の個性になるのですよ。
だから、一人一人が違った演奏をするのです。
日本の音楽の先生達には分からない理屈かも知れませんね。

料理教室の料理は、食材も、使用する道具も教室が、全く同じ物を、準備しておきます。
先生と全く同じように先生の真似をしながら、ワイワイと作るのですが、不思議に、作る人(group)によって、味や見た目も変わってしまいます。
大雑把なグループの料理は、やっぱり大雑把な味がするし、神経質な人達のグループでは、神経質な味がするのですよ。

通常、私達が料理を作るときには、まず冷蔵庫の中に材料が何があるかで、作るものを考えますよね。
「何が食べたいか?」と、予め作るものが決まったら、次には、「冷蔵庫には何が入っているのかな??」と、食材のcheckをしてから、買い出しに出かけるのです。
その季節や、スーパー・マーケットに置いてある食材によっては、希望する料理が作れない場合だって、あるわけなのでね。

教室の先生達には、大きなスーパー・マーケットにある肉や、魚の鮮度や美味しさを見分けるコツを説明します。
食べたくても、食材が揃わないと、食べれないし、スーパー・マーケットで美味しい食材を探すコツが判らないと、安いけれど、処分品を買わされるはめになってしまいますよね。

しかし、鮮度が同じでも、「美味しい」と言われる肉は、包丁を当てる角度が違います。
だから、同じスーパー・マーケットの同じ種類の肉でも、それを切った人によって、美味しさが全く違うのですよ。
先生達に、肉の筋目を見せて、どの切り方が一番美味しく切れているのかを説明します。
生徒達が合宿の一番の期待をしている、お昼のカレーライスに入れるお肉が、固くて、食感が悪かったら、折角の合宿も台無しですからね。

本来ならば、料理とは、それぞれの家庭の味で、延々と子供達が、母親の食事を作るお手伝いをすることで、覚えて来たものが、正しい食育のあるべき姿であると思います。

(この文章は、2016年に、追記補筆されたものです。
ですから、時事(世間一般のお話)は2016年の話に飛んでしまいます。)

今、少子高齢化になって、働く人が少なくなって、介護士不足や、幼稚園保育園の保育士不足が、社会問題化しています。
「保育園おちた。日本死ね!」というblogが、国会を揺るがして、毎日のようにテレビで問題化されています。
「子供が欲しくても、お金がなくって、子供を育てられない・・」、「お金を稼ぎたくても、子供がいれば、働く事が出来ない。」
つまり、子供を預かって、育ててくれるのは、保育園であり、幼稚園であり、学校なのですよ。

食事は、近所にコンビニがあれば良い!!
犬や猫は、マンションで近所迷惑だから、飼っちゃいけないし、
地方に引っ越せば、そういった問題は総て解決すると思ったのだが、地方には、家庭の経済を支えるだけの仕事がないのだよ。
コンビニも量販店も無ければ、時代にはついて行けないしね。

老人を抱えた家庭なら、もっともっと問題や課題は大きくなるのですよ。

私達兄弟も、年老いた母を一人故郷に残して、面倒を見たくても、仕事が無いし、男手だけでは、母の介護は無理でしたね。
ホームに、申し込んでから、入居出来るようになるのを、「3年待ち」、「5年待ち」ではお話にならないし、しかも、兄貴が住んでいる千葉県では、「過去に千葉県に在住していないから、」という理由で断られてしまいました。
しかし、故郷の長崎でも、殆ど状況は同じです。

原爆被爆者の保険を使って、兄貴が毎月15万を払って、お袋の旦那の医者仲間のツテを使って、やっとホームにもぐりこんだのですよ。
勿論、それまでには、お袋と同居をするための、涙ぐましい努力と試みはあったのです。

・・そこまで、しないと、老人ホームには入れない・・というのは、やはりおかしいですよね。
普段からも、一々会いに行くにも、車で二日掛かりか、飛行機で行く、故郷で探すしか方法は無かったのですよ。  


兄貴が借りた、横浜のだだっ広い家も、千葉の山奥に購入した家も、お袋と同居するための家ではあったそうなのですが、お袋の性格から、例え、息子とでも、人と暮らすのは無理だったのですよ。

私の場合には、経済的にも、それ以上に私自身が、介護が必要なぐらいなので、とても無理だという事は、周りの人達からも認めて貰っていたので、私にお袋の介護の話が来る事はありませんでした。

人と合わせる事が出来ない母親だったのですが、それが流石に、90歳ぐらいを超すと、「もうとても独り暮らしは無理だ!」ということで、お袋自身が、
「独り暮らしは寂しい!」と言うようになって来たのですが、その頃には、幻聴や徘徊が起こり始めていたので、医者に診断書を書いて貰って、「最優先!」と言う事で、やっと、ホームに入る事が出来たのですよ。

自分で、決めて入居したホームだったので、周りとのトラブルは流石に起こしませんでした。

ある日、toiletteに行く途中で転倒して、それから3日後ぐらいに突然死んでしまいましたが、死ぬ1時間前までも、意識はしっかりとしていたようです。

その後、病院では、「死者を預かる事は出来ない!」と言われて、「近親者がいないと葬儀社でも引き取れない」と「やいのやいの・・」と催促されて、取る物も取り敢えず、郷里の長崎に出掛けたのですが、何か世間一般の大きな行事とダブっていたようで、全く飛行機のチケットが取れずに、仕方なく、徹夜で車を飛ばして長崎まで駆けつけました。冠婚葬祭の時には、車を使わないのが私の方針だったのですが、他に手段も無かったのでね??


私の父親が、長崎の原爆で爆死したので、私の母親は、幼子の私を祖母に託して、働きに出かけました。
だから、私は物心ついた時から、母親と一緒に過ごした事はありませんでした。
当時は、女性には殆ど仕事が無かった時代なので、私の母親は、それでもラッキーだったのかも知れません。
しかし、一緒に暮らしたとしても、母親は、一日中働いていたので、一緒にいた覚えは無いのですよ。
だから、私の味覚は母親の味ではありません。

先程も言ったように、日本には代々祖先から伝わる伝統の家庭の味というものがありました。

(ここでは「日本には・・」と、言ってしまいましたが、ドイツで同じ話をした時に、ドイツでも、ヨーロッパでも同じ状況で、子供の味覚障害が起きるようになった・・と言っていました。)

つまり、私達の母の時代は、戦争で、家庭の味を伝承する事が出来なかったのです。
祖母の時代迄は、脈々と受け継がれて来た、その家庭の味が、戦争で途切れてしまったのです。

それでも、貧しい日本の戦後の時代の話です。

まだコンビニも、食育という言葉もなく、家庭で料理を作るのが普通の時代の話で、やっと少し、塾教育の問題がささやかれるようになり始めた時代ではありましたが、いち早く復興を遂げた東京の町では既に、食育の問題が囁かれ始めました。

私自身は、中学、高校生の頃から、母親とは別居生活をしていたので、食事はどうしても外食に頼ることが多かったのです。
そういうわけで、私は、中学生の頃から、生存の為に食べる食事(平たく言えば、お腹がすいたから、そこらにあるものを食べる食事)の事を「えさ」と呼んで、美味しいもの食べるときの事を、「食事」と呼んで区別していました。

それで大学時代に、うっかりと友人の女の子達に「おい!えさ食いに行こう!」と声をかけてしまって、
「えさって、何よ!」と、怒られてしまい、顰蹙を買ってしまいました。

しかし、当時の私の友人の女の子達は、私が食事の事を、そういう風に区別していた事は、知りません。

お腹が空いたから、お腹を膨らませるためだけに、なんでも良いから食べる「食い物」は、私にとっては、やはり今でも「食い物」であり、「えさ」なのです。

楽しい会話と、美味しいお酒、美味しい食事は、兎に角、楽しまないとね。

また或る時に、女性の友人から「美味しいものを食べようとすると、お金がかかる。」と言われた事があります。

これは、その女性のとんでもない間違いです。

「旬のもの」と「初物」とがあります。

高級なお店では、「初物」を美味しい食材として売っています。

その季節では、未だ珍しいから、「貴重」という意味でも、「初物(珍しいもの)」は、高価なのですよ。

しかし、「初物」は、未だ未成熟なので、完熟はしていないので、美味しくはないのですよ。

しかし、高価なので、
「美味しい食材である」と勘違いしている人がいるのです。
困った事です。

初物は珍しくはあるが、まだ成熟していないから、美味しくは無い・・という事は分かり切った事なのですが、自分の味覚を信じないのでしょうね。

旬のものは(特に終わりかけのものは)、食材もよく熟成されていて、美味しいし、当然、いっぱい出回っているのだから、安いのです。

しかし、ブランドに拘る人達は、いっぱい出回って、安いものは
「美味しくはない」と解釈してしまうのですよ。
不思議な事に・・・???

だから、敢えて繰り返して言わせて貰うと、安いものは美味しいのだよ。

私も自分で何度か野菜等を手作りした事がある。
当然素人だから、型は綺麗では無いし、整ってもいないのだが、愛情たっぷりに肥料をやって、手塩にかけて育てたものは、やはり贔屓目でなくとも美味しい。

江古田でも野菜をたっぷり食べたくなると、とても安いスーパーまで遠出をします。
(とは言っても、ほんの7,8分の距離なのですが)そこは、事務所の近くのスーパーのように、きれいな野菜ではなく、虫食いが合ったり、泥がついていたりするが、兎に角、安いのですよ。
食材の材料もいろいろ豊富です。

業者の人達(江古田の町でお店をやっている人達)も「纏め買い」に来る程なのです。

魚も旬になると、発泡スチロールに山のようにつまれて、一山幾らで売っています。

つまり、「美味しいものは安い」のですよ。
旬の食材は安いのです。

「旬の物」と、「初物」は違うのですよ!

江古田は、食に関してはとても住み易い所で、またまた、自転車で15分も走ると、お魚の新鮮で安いスーパーもあります。
忙しくてなかなか行けないのだが、箱売りなので、とても新鮮で超安いのです。

大きな鯛などもしこしここりこりで美味しい。
頭は潮汁も良いし、塩焼きもいけるね。

肉も合宿などで大量に必要なときには、郊外型の大型スーパーに行きます。
肉の筋目を見るのは、先生達にとっても、難しいらしく、どうしても、未だに私が見に行く事になります。

お肉が美味しいか否かは、そのお肉を、「切り出すとき」の料理人の腕にかかっています。
同じ部位の肉でも職人の切り出す時の「切り目」で味が変わるのだから、不思議なものです。

安いスーパーの話はさておいて、話の本題に戻ると、今日日の子供達は、朝、昼、晩をコンビニ弁当に頼っていたり、パンでもおやつのような菓子パン、所謂、甘食で食事を済ませてしまう子供達が意外に多いということなのですよ!

親の子供への食事に対しての意識の欠如は、子供の好き嫌いを増長させて、極端な偏食の子供が増えている事も事実であリます。
それは、成長期の子供の健康を害し、アトピーやアレルギー、ただ単に体力がなく病気がちであるいというだけではなく、延いては骨粗鬆症などのいろいろな重篤な病気すら惹き起こす要因になるのですよ。

私達の教室では、子供達には味の好き嫌いは許すのだが、食材の好き嫌いは認めません。

今の子供達はそれにもまして、食わず嫌いが多いのです。
まあ、親がその食材を嫌いならば、子供はその食材を使った料理は食べた事がないはずです。
だから、教室では、合宿に参加する子供達には、「嫌いでも、必ず味見をする・・・」これが子供達の教室の合宿に参加するための鉄則なのです。

勿論、「口に入れて見て、どうしても嫌いならば、食べる必要はありません。」
一度、口に入れたら、次からは、嫌いな物が、プレートに乗る事はないのですよ。 

学校教育やNHKなどの教育放送による、食育は「本来的には、子供達が日常生活の中で食べる食事に対して、どれだけ充実した食事を食べさせる事が出来るのか?」、という食本来の大切さを教える事が目的であるはずなのだが、食育という大義名分だけがまかり通って、子供の日常の生活の中で必要とされているはずの切実な本来の教育から、本筋が遠く外れたところの文化という観点でのみ、学校やテレビ等の食育の教育が行なわれているような気がしてなりません。

学校教育というものは、子供に対して料理を作る事を指導する事は、本来の目的から外れてしまうだろうし、ましてや、学校が親に対して料理を指導するわけにもいかないでしょう??
そこが、現実的な食育の難しさであるのです。

古来、日本には各家庭にそれぞれの伝統の味がありました。
結婚をすると言う事は、同時に、それぞれの家庭の味を覚え、踏襲すると言う事でもあったのです。

しかし、第二次世界大戦の時期に、(ちょうど私の母の世代になるわけであるが)祖母達が受け継いできた伝統の味や家庭の風習などが、戦争によって引き継がれなくなってしまいました。

先程もお話したように、このお話は日本だけのことでは無ありません。
同じ二次大戦を経験した、ヨーロッパ社会も同じことなのです。
空襲で逃げ回っている人々に、料理もへったくれもあったものでは無いし、その時代には食べ物自体がなかったのだから、家庭の味、祖先の味が踏襲されなかったのは当然の事なのですよ。

直接、戦争の被害を受けていない私達の世代の子供の頃も、御飯茶碗にかぼちゃが一かけらと言う時代が続いたのですよ。
(昔、懐かしい人と人の触れ合いに溢れたalwaysの時代は、必ずしも良い時代ではなかったのですよ。

それはただのノスタルジーに過ぎません。
本当は戦後の食糧不足で皆必死だった時代なのだから・・・。

それについでにもう一言、かぼちゃと言っても今みんなが口にしているとても甘い栗かぼちゃの事じゃないんだよ。
硬くって不味い、昔のかぼちゃなんだよ。)

中学校や高校の先生が良く冗談に「お前達は食べる食料が無い時代に成長してきたから、頭が悪いんだよ!」とよくからかわれたものだ。

味そのものよりも、兎に角食べ物にありつくこと、そういった時代に私達は育ってきました。
その後、再び日本が生活に窮しなくなったとき(食料に困らなくなったとき)には、子供達には既に受験戦争というものが始まっていて、子供が料理や洗濯を学ぶよりも、勉強勉強で、子供が自分の食べた食器を自分自身で流しに運ぶことすら、させない親が増えてきたのですよ。

そういった時代の流れで、家庭の味は崩壊して忘れ去られてしまいました。

日本全国同じ味のファミレスでは、味の違いは分からない子供達が育ちます。

よほど強い味しか分からない若者や、全く味蕾がいかれてしまって、辛いかと甘いとかの違いしか分からなくなった若者達・・。

そして、食べると言う事に全く興味すら持たない世代・・・味覚音痴の時代が始まってしまいました。

そういったこともあって、教室でも、合宿などの時には、先生達が、少しでも、子供達の買い食いやコンビニ食を減らすことが出来る様にと、簡単な料理の仕方を手ほどきしています。

その延長線上で、先生達からは、反対されたのですが、私の主義主張で、いとも簡単に「子供でも出来る手抜き料理の仕方」をというconceptで、とりあえず「子供のための料理教室」と言うサイトを立ち上げてみました。

ありあわせの材料で、何処の家庭にでもある簡単な道具で、手早く料理が作れるように、私の考案した手抜き料理のレシピを幾つか載せてみました。

いろいろな料理の知識がなくっても、手早く自分で作れるようにと言うconceptなのです。  

しかし、私は、この手の食に対しての手法を述べていくには、残念ながら、ただの門外漢であり、所謂、料理のプロでもなければ、学校給食や料理店に何らかの点で携わっている人間でもありません。

しかしながら考えてみると反対に、プロでないからこそ、プロの人達が、言いたくても言えない料理の方法・・・、例えば市販の調味料をふんだんに使ったり、洗う必要のない、炒めれば良いだけの出来合いの、ミックス野菜などを使用した手抜き材料も、臆面もなく平気で使用することが出来るのではなかろうか??という事なのです。

だから、忙しくても、本当に手間隙をかけて、ちゃんと作るのだけが料理だと思い込んで、ついつい手抜き料理が出来なくなってしまって、反対に店屋物(てんやもん)で間に合わせてしまうような母親にとっても、手抜き料理とは言っても、忙しい中での母親が作る愛情と工夫のこもった料理は、子供にとっては、それはそれでも母親の味には違いないのだ・・・、というエールになれば良いと、大それたことを思っています。


手抜き料理の勧め