表情について
(レッスンの目的)
(子供とのキャッチボール)
(lessonの時の先生の表情)
(「発表会に出たくないという生徒が居て・・・」という相談に対して)
(表情のよみとり)
怒鳴る、体罰は指導力不足
lessonを好きにさせるまで
譜読みの話
練習時間の躾をつけるには
先生の立場で、練習課題の与え方
楽しいlesson2
練習のさせ方@
練習の目標のNiveauA
ヨーロッパでの音楽は
発表会の選曲
level的には無理なのだが、本人が弾きたいと言ったので・・・
弾けるという事には、曲のテンポも入ってくる・・・・・・・・・・・
グレード1
グレード2
メトードに関する先生の把握の仕方・・・・・・・・・・・・・・14Page
Beyer教則本
Beyer教則本の問題
曲を仕上げる日数
読譜力の不足
音符が読めない生徒
片手ずつ順序だてて
左手を曲として覚えるメリット
左手を怪我をしてきた生徒に
暗譜について
指導の心構え
初見力
初見初心者の場合の指導法
課題の与え方
Metronomの導入
宿題を出すにあたって
音符カードの使い方
(表情について)
指導者は子供の表情だけではなく、親が来ている場合は親も含めてlessonの時の親の表情も一緒に観察するようにしなければならない。
(レッスンの目的)
Lessonは、子供がPianoを上手に弾けるようにするのが目的ではない。音楽を好きになって、Pianoが好きになる事。子供が楽しいと感じられるlessonで、子供達がまた来週もlessonを受けたいという気になれるように、レッスンを演出しなければならない。
(子供とのキャッチボール)
先生にとって、lessonで最も大切なものは子供とのcommunicationである。
しかし、子供がlessonに来ると、子供に前回のlessonから今日までの、状況を聞きもしないで、いきなりlessonに入る先生が多いのははなはだ問題である。それでは子供とのcommunicationは成立しない。
しかし、子供とのcommunicationを全く否定していて、先生たるものは音楽を指導すればそれでよいのだ、と考えている若い先生も多い事は事実である。
そういった先生に、生徒とのcommunicationについての、話を聞くと、まず「子供と雑談をしていると、親から『レッスン時間がもったいないから早くレッスンしてくれ。』と言われるから。」と弁解する。
確かに、そういう事を言う親は多い。そういった場合には、親は、先生の子供との雑談を、大人の単なる井戸端会議と同じように感じている。先生が生徒の心を把握するための手段として、生徒と雑談をしている等とは思っていないのである。「子供の精神的なフォローをする事が、生徒が早く上達する秘訣である」と言う価値付けを親に対してしていく事が、先生として大切な作業である。
親とのcommunicationが不足していては生徒の教育は出来ない。
それと同様に、自分が指導している生徒の毎日の関心事や、学校の事、家庭内の事を、ちゃんと把握して、子供が音楽を勉強するための環境をつねに正確に把握しておかなければならない。そして親と相談して、子供が落ち着いて音楽の勉強(練習)に集中しやすい状態を作ってやる事を先生として、常に心がけるべきである。
そのためには、子供とのcommunicationだけではなく、親に対しても子供の教育に関してのャッチボールが大切である。
(lessonの時の先生の表情)
lessonをしている時の自分の表情を見た事があるのであろうか?
私の弟子が他の教室でlessonをしていた時に、lessonの相談を受けて、その生徒のlessonの時のビデオを撮らせたら、レッスンをしている時の自分の表情が、あまりにも怖くて鬼のような表情をしているのを、自ら驚いていた。
生徒と上手なcommunicationを取るためには、先生の表情はとても大切である。先生が恐ろしい顔をして、lessonをしていれば、歳が下がれば下がる程、怖がって先生のいう言葉を聴かなくなる。ニコニコして楽しそうな雰囲気でlessonをすれば、子供は喜んで先生の話を聞いてくれる。楽しそうに教える事は、ダラダラと弛んでlessonをしている事と勘違いしている日本人が多い。楽しそうに指導する事と、ダラダラと指導する事は全く違う。
にこやかに楽しそうに教えてしかも生徒が「ピリッ!」と出来れば、先生としての指導力は本物である。
(lessonをしているときの生徒の表情の観察のcheck事項)
* 目が輝いているか⇒輝くと言う事の意味
* 集中して弾いているか ?
* そのことに一生懸命になっているか?
* 先生の話を聞いているか?
* 先生の話に興味を示しているか?
* Pf の音に集中しているか?
* 音楽に集中しているのか?
ある先生のlessonのlectureである。
まず第一番目の問題点は、
先生が生徒の弾く曲を予習してきていないので、lesson中に先生は生徒の譜面をしがみついて見ている。そのために、生徒の表情を見ていないという事はおろか、生徒の指使いのcheckさえ出来ていない。
第二番目の先生の問題点は、
先生が生徒の横に座ったままlessonの間中、一度も椅子から立たないでlessonをしていた。そのために、生徒が不自然な姿勢でPianoを弾いていても全く気づく事はなかった。
私は生徒がPianoを弾いている時に、生徒の傍に座っている事はない。なるべく生徒から離れた位置で生徒の演奏を全体的に観察するように気をつけている。また、父兄が聴講している時には、目線上に生徒と父兄が同時に見れる位置に居て、両者を同時に観察している。
兎に角、私はlesson中は、生徒を観察するためのベストポジションをキープするために、兎に角、lessonの間中よく室内を動き回っている。
正しい指使いをしているかを観察する時には肩越しに覗き込んだり、pedalの操作をcheckする時には、少し、低い位置で足の動きを見たりする。
子供達は自宅やlesson室で生徒がpedal操作をする時に、靴下だけでpedalを踏む事が多いので、足の指だけでpedal操作をしていた生徒が居た。(靴のままlessonをする教室ではこの問題は起こらないのだが。)
つまり、発表会の会場では、コンサート用の硬いエナメルの靴を履いたりするので、足の指は曲がらないので、本番ではペダルの操作が出来なくなるのだ。
靴下のままでpedal操作をしても、pedalの奥まで深く足を乗せていれば、指先だけでpedal操作をする事はなくなる。
しかし、先生自身が、生徒が足の指先だけでpedal操作をしていることに気づかなければ、生徒が発表会の会場で、pedalを上手に踏みこなせる事はないのだ。
それも、ちょっと目線と意識を足に持っていって観察すれば分かる事である。
(「発表会に出たくないという生徒が居て・・・」という相談に対して)
この話には二つのケースが考えられます。
今まで、発表会に出演していたのに、発表会で挫折を感じたり、或いは発表会に向けて音楽を練習していくのが辛くなったり、という場合と、ただ単に、生徒が塾や学校の勉強と発表会の練習が平行させる事が辛くなった場合です。或いは塾や学校の勉強ではなく、部活との両立や別にやりたい事が出てきたという場合です。
それぞれに、先生に対してのadviceは代わりますが、今回の質問に関してのお話は先生がそれらの諸事情を一緒くたに考えて、生徒の側の考えを全く理解しようとしていないという事が、一番の問題点でした。生徒に質問をして、よく話を聞いてい見ると、今回の場合は、ただ単に学校の勉強や塾の勉強を優先にするので、発表会には出ないということでした。先生は生徒が発表会に出ないということだけで、パニックになって、生徒の考えや状況を理解しようとしなかった、ことに大きな問題点を見つける事が出来ました。
「Pianoが弾けない。」ということで、表情が暗くなったり、発表会に出たくない、というのはレッスンのやり方に問題があるのだが、しかし勘違いをしてはいけないのは、生徒が「発表会に出たくない」、と言う事自体が問題なわけではない・・・という事なのです。
例えば、高校生ぐらいになってくると、勉強との兼ね合いで発表会に出なかったり、人の前で演奏をすることが恥ずかしくなったりする。「自分の個人的な楽しみでPiano を弾きたいから、発表会で人の前では弾きたくない。」という子供達は結構多く居て、珍しい存在である分けではない。
だけど、それはそれで、本人の音楽とのかかわり方の問題で、別に挫折ではないわけなので、教室としても、生徒が発表会に出ようと出なかろうと、別に何の問題もない。発表会費が入らなくなるだけで、しかし月謝はちゃんと入るのだから・・・。
但し、そうは言っても、これも先生の指導上の問題はあります。
生徒が「発表会に出たくない。」と言い始める前の、小学生の時期に、「その生徒に取っての発表会に対しての価値付け」や「生徒自身と音楽と勉強の兼ね合い」をしっかりと付けておくと、高校生、大学生になっても、学業と並行して、テストがあろうと受験があろうと、喜んで平気で、発表会などの行事に参加します。教室としては、その方がよりベターであります。
また、本人が塾や学校を中心として、音楽は完全な趣味で、息抜きとしてPianoを続けていた場合でも、本人がどうしても発表会で弾きたい曲に遭遇した時には、突然、「今回は発表会に出ます。」等と言い出して、先生を驚かせる事もある。兎に角、音楽を続けられるようにしてあげる事が先生の役割であり、上手くする事や、まして、発表会に参加させることが先生の目的ではないのです。
「発表会に出る!出ない!」ということを大騒ぎするよりも、「どういう理由で・・」という事を生徒の立場で理解出来るような先生になって欲しいです。
(表情のよみとり)
lessonのpointは、どういうレッスンをしたら子供が活き活きするかということを常に考えながらレッスンをするとよい。
子供の笑いという事を一つ取っても、友達の悪口を言いながら笑う嫌な笑い顔から、先生や上級生に対してへつらってへらへら笑う笑い。好きな子に気に入られたくって一所懸命にお世辞を言っている笑いもある。
本当の子供の活き活きした笑いとは、私が音楽の演奏を指導して生徒が説明を受けている時に、分かった瞬間に「あっ!分かった!」と思わず顔に溢れて来る笑いや、自分が演奏をしていて、満足の行く音を出せた瞬間にこぼれる笑いである。
小さな生徒を指導している先生で、小学1,2生の生徒がお世辞笑いをしているのを、子供が活き活きしてlessonを受けているのと勘違いしている先生が居た。言語道断である。
それを厳しく注意したら、その先生は「小学校の低学年や幼稚園の子供は愛想笑いはしないのでは?」と聞き返してきた。
アホコケ!
生まれたばかりの赤ちゃんだって、愛想笑いはするんだよ!
自分がお母ちゃんやっている癖に、そんな事も知らないのかい!!
それは、兎も角として、私は小学校の低学年ぐらいまでは別としても、5,6年生の高学年になった生徒に対しては私は愛想笑いをする事はない。生徒も私に対して、普段通りのままである。その必要がないからだ。
活き活きとは目が輝いている事であり、表情が活き活きしている事で、表面的に笑いかけてくる事を指す訳ではない。
(怒鳴る、体罰は教える指導力不足)
話が余談になるけども、NHKのテレビの討論会で、武田鉄矢とか教育関係者や政治家達が参加して「体罰の是非」の話をやっていて、面白そうだったので、仕事をしながらの「・・・ながら見」で仕事ををしていたのだけれど、五分も経ったら話の内容がちっとも煮詰まらなくって堂々巡りをしているので、詰まらなくなって、飽きてしまって、テレビを切ってしまった。
話の内容が、体罰が「良いか悪いか」の話に始終して、話が教育の本質に入ることはなく、建設的ではなかったのが詰まらなくなった主な原因です。人が変わって、それぞれが自己主張をするのだけれど、皆、体罰が良いか悪いかの同じ内容の主張に過ぎず、聞いていることに飽きてしまった。
私に言わせれば、「体罰が、良いか悪いか」は、その指導者の価値観の問題に過ぎない。
それ自体が「教育上、必要か否か?」の話にはならないはずである。
私が思うのは、「指導者が怒鳴ったり、体罰をする」というのは、その先生の指導力が不足しているのにすぎない・・ということ。
その先生に指導力があれば、最初から怒鳴る必要もないし、ましてや体罰なんて必要ない。
私は生徒に一度も体罰をした事はない。生徒を叩いた事はない。
民間の教室ならば、体育系の武道の教室以外は、体罰などはありえないだろう!
音楽教室や絵画の教室で体罰なんかありえない。音楽大学ではないのだから当たり前の話だよ!!
それでも、ちゃんと指導は出来る。
どんな小さな子供であったとしても、言葉で充分説明出来るし、話は通じる。
体罰は所詮、力関係の上に成り立っている。
相手が弱く、自分が強いから体罰が出来るわけで、自分が
弱くて相手が強ければ体罰なんて絶対出来ない。
反抗されて、終わりだ。
音楽を指導していて、幾ら怒鳴ったって、叩いたって、分かっていない者が、叩かれたから弾けるようになる分けはあるまい。常識だよ!そんな事は!
分かっているのなら、怒る必要もないし、叩く必要もない。
分かっていないのなら、何をしても、そりゃ無理だろう??
それが、理屈だわな。
日本の政治経済の話で、アメリカが日本に、関税の話とか、基地の話とかで、よくゴリ押しをするという事が新聞やテレビにもしょっちゅう取り上げられるけれど、その時に日本人はアメリカに対して大国のエゴだといって怒る。
先生が子供に対して、体罰をしても、力関係で言う事を聞いているだけで、高校生ぐらいになって、子供の方が先生よりも強くなると、同じ事を言っても、子供はもう先生の話は聞かなくなる。
つまり、ただ強制されたから従っているだけにすぎなくて、心では従っていないからなのだ。
強制的に従わせて、表面的に格好だけ出来ていたとしても、それを持って教育とは言わない。
ちゃんとした指導者は、しっかりとそこの所を押さえてくるから、子供達が先生の言葉から逃げることはない。
心を指導していくということはとても大切なこと。
よく状況を説明し、分からせた上で、最終的には本人が選択をするということが大切。
先生として、レッスンの時についつい、怒鳴ったりした時に、怒鳴ったということは、その時に自分になにが足りなかったのかを考えてみるとよい。
(Lessonを好きにさせるまで)
練習をしてこない生徒に対して、指導する先生が呆れてよく口にする言葉に「なんで練習して来ないの?」という言葉がある。
大学の卒論のために、大手の音楽教室のlessonを見学に行った学生から相談を受けた時の話で、「大きな教室のえらい先生のlessonを聴講していたら、生徒が全然弾けなかったので、「なんで弾けないの?私、あなたが何がわかんないのかわからない。」と先生が言い出して、そのlessonを見ていたら、生徒への虐めとしか思えない感じのレッスンだったので、生徒が可哀想で私はその先生につきたくないと思いました。先生はそういうlessonどう思いますか??」
それって、私に感想を求められてもね〜ぇ??
ということで、私は「生徒は弾けないからお金を払って弾けるようになる為に来るのではないのかな?」「最初から弾けるのなら、お金を払って習いに来る必要はないよね?」「つまり、先生は生徒が弾けないのを弾けるようにするのが先生だよね。」「なぜ弾けないか分からないのなら先生は出来ないよね。」と、答えておきました。
趣味の人は基本、練習して来ません。だから、「何で練習して来ないの?」って言ったら、趣味の人は教えられないね。ああ、練習してくる人だけを指導するわけね。それはいいなぁ!?私も、うらやましい!そういうチャンと練習してくる生徒を教えてみたいものだ。それは先生としての夢だなぁ〜!
ハッ、ハッ、ハッ!
「じゃぁ、生徒が練習してこない場合には、先生はどうするのですか?」
「自分も練習したいので、一緒に練習するだけだよ。」「Beyerぐらいのlevelの曲なら、半年もすれば、一緒に練習してあげるだけで、マスター出来るからね。」
「僕も、生徒の時間を使って指の訓練が出来るから楽しいからね。」「だって、指の訓練なんて一人でやっても退屈でつまらないからね。」「練習してこない生徒が3人も居たら、3時間は指のトレーニングが出来る!」「すばらしい!」
私達の教室に途中から入会して来る生徒は、よその教室で散々いびられて、すっかりPianoが嫌いになって、親が「何とかしたい!」とhelpを求めて来るケースが多い。
当然、子供は「レッスンに行くのも嫌だ!」という状態で、教室を訪ねて来る。
そういう生徒に対して、「先週、注意したでしょう?!何で、練習してこないの!?」なんてlessonをする事は言語道断である。
その一言一発で折角教室に入会しようとしている生徒や父兄は教室に入会する事を(或いはPianoそのものを学習する事を)やめてしまう。
そういう言い方をしても生徒がやめないのは音大生だけだよ。音大生でも大学で師事している以外の生徒、所謂、プライベートな生徒はやめちゃうよ!適当におだてておかないとね。
Pianoを初めて習う生徒であろうと、よその教室から来た生徒であろうと、「lessonを好きにさせるまで」には、当然順序がある。Stepがあるのだよ!
第一stepは、Pianoを嫌いになった生徒や、中高生になって受験体勢に入って練習する時間がなくなってしまった生徒達はlessonに通って来る目的が「先生の顔を見たいから」とか、「先生と話をしたいから」という理由だけでよいのである。
ピアノを練習してきたかどうかなんか、全く気にする必要はないのだよ。
兎に角、先生とのコミュニケーションが生徒の受験に対するストレスを少しでも解消出来ればPianoのlessonに通ってくる意義はあるのだ。
但し、気をつけなければいけない事は、親がそういったカウンセリングとしての、Pianoのlessonの価値観をしっかり理解している(持っている)ということである。
そういった、親との意思疎通を欠いていると、「あの先生はおしゃべりばかりして、ちっともlessonをしてくれない!」と不満を述べるようになってしまう。
そうすると、先生が生徒の悩みを聴いてあげたりする事が無駄な努力になってしまうし、「あの教室の先生はまじめにlessonしてくれない。」という風潮が立ったりして、教室にとっても迷惑な事になってしまう。今の子供達は競争教育で、悩みを相談できる友人や学校の先生、塾の先生を持っていない。それが、子供達を思いもしない方向に進ませたりする。特に、中高生の成長過程の女の子には危険が多くたった一回の過ちでも道を踏み外してしまう子供がいる。
そこに、大人で信頼のおける先生が子供の話し相手になる事は今の社会では非常に重要である。そこの所の教室の教育に対する指導方針をよく親に理解させておく必要がある。
親がそういったカリキュラムを望まないのなら、子供の将来を危惧することは兎も角としても、そのcurriculumは教室としてはやるべきではない。
子供にとっていくらそれが必要であったとしても、あくまでクライアントは親だからである。
そのstepを飛ばして、次のstepから始めなければならない。
それでも生徒とのcommunicationは上手に作れる。
子供と信頼の輪を作るのは、会話のみによるものではないからである。
それから第二stepとして、そのうちに「音でも出してみょうかな?」となって、その次にだんだん、「ピアノもいいな。」と思い始めて、週に1、2 回でも、 ピアノに触って見るところから、始まるのだよ。(練習するのではないよ。触るのだよ。)
第三のstepとして、「やっと次に、毎日!少しだけPianoに触れる様になって、・・・」ということを半年、 l 年、 2 年とかけて、気長に癖をつけていって、それでやっと「練習のしつけ、くせ」を付けて行くように、子供達を育てて行くのだよ。(この項の詳しい内容は、ホームページに掲載されている。)
(譜読みのお話)
私の教室で育った先生は「Pianoを習っている生徒なら、譜読みは出来て当たり前!」 とか、思い込んでいて、それを外部の教室から入会して来た生徒に対しても、当然のように「譜読み」を要求する先生がいる。
その先生は教室で育って来て、自分が、何の努力もした記憶がなく、当然のように譜読みが出来ていたから、他の教室で学んでいる生徒も当然出来て当たり前と思い込んでいたのである。
しかし、その先生が譜読みが出来るのは、最初から芦塚メトードという非常に特殊なsystemで勉強してきたからであって、**でも、***でも、「譜読みは出来ないもの」、あるいは「譜読みは必要ない。」というのが、一般の企業サイドの考え方なのだよ。
つまり、音楽を指導する指導者の前提としては、「譜読みは出来なくて当たり前!」 という考え方が一般的なのだよ。
「譜読みが出来て当たり前!」というのは私達の教室だけの非常に特殊な事なのだよ。
だから、そういった企業の音楽教室から来た生徒に、いきなり譜読みを強要したり、「譜読みが出来ないから」という理由で、教室を代わってきた生徒に、いきなり教室の譜読みのcurriculumのシステムを押し付けても、一般の音楽教室のlessonのやり方とは、根本的に指導方針が掛け離れているから、教室の譜読みのsystemについて来れるわけではない。
外部から来る就職希望の先生方ですら、殆どの先生達が初見が出来ないのだから、ましてや外部の教室から来た生徒が譜読みが出来ないとしても、それは至極当たり前の事である。
だから、教室では、外部の教室から来た生徒に、いきなり私達の教室のcurriculumで指導するのではなく、***から来た子には***のシステムで、**の子には**のメトードで・・・と、その外部教室のシステム教材を使用して、その指導のcurriculumで指導します。
そういった指導をしながら、のんびりと1年以上かけて徐々に少しずつ私達の教室のcurriculumを取り入れて、システムを入れ替えて行くのです。1、2年掛けて、のんびりと教室のシス
テムに変わっていけばよいという気長なやり方で、子供の気持ちを優先して行きます。
勿論、そのためには指導する先生達が、私達の教室のsystemだけではなく、***や**等の他の教室のメトードをある程度は熟知しておく必要があるのです。
話題を元に戻して、
「叱ったり、怒鳴ったり、体罰でしか、練習しない」ということは、子供の教育を根本から間違えている。子供は楽しければ自主的に練習をする。
だから「なんで練習しないの ?」 ではなく、「どうしたら子供連が楽しく練習してくれるのかな?」 とか、子供達が練習を楽しいと感じてくれるのは、先生の練習の課題の与え方によっても決まるし、子供のlessonや練習の集注出来る時間の設定にもよる。
以前に論文にも書いたけれど、練習の勤勉性を作っていくには、子供に与える練習の時間の(量の)問題があるね。
例えば、家庭が親の勝手な日常で子供の練習時間や勉強時間を決めていなくて、その日の成り行きで、長時間練習させてみたり、ぜんぜん練習をさせなかったりでは、子供に集中力や勤勉性を身に付けさせることは不可能。嫌がる子供を無理やり長時間練習させても、子供の努力することを阻害させるだけで、それで子供を育てることは不可能。
まだ小さな訓練のされていない子供を、いきなり「このgradeでは30分練習をしなければならないから!」といって、いきなり30分練習させるのは、親にとっても、子供にとっても、不可能。
最初は子供の集中が持続する時間を見計らいながら、3分、5分ぐらいからでいいのだよ。
3歳ぐらいなら、最初は3分からスタートすればよいのだよ。
しかし、その3分練習を、朝起きてから 3 分、学校から帰ってきてから 3 分、外での遊びから帰ってきてから 3分すれば、1日10分は練習出来た事になる。
1年、2年掛けて一回の練習時間を10分ぐらい出来るようになれば、1 日
3 0分練習出来るようになるんだから。
また、長時間練習が出来ない生徒には、一つ事を長く続ける事が出来ない、と言う生徒もいる。
一つの練習を続けるだけの根性がない、あきっぽい、長時間もたない・・・、そういった生徒は、練習のメニューを盛り沢山作って、それぞれの練習時間は短時間で済むようにするとよい。
譜読みの教室で使用している音符カードは、私自身が生徒を指導する時に使用する事はありません。私のlessonの場合や生徒の自宅の練習では、curriculumをこなす事、宿題をさせる事で、30分ぐらいのlesson時間、練習時間が目一杯になって、音符カードまでは手が回らないからなのです。音符カードはまだ生徒を集中して引っ張っていく事が出来ない先生や集中力が持続しない生徒に対して、目先を変えることで、集中力を持続させる事がその目的です。またはlessonがお勉強化しないように、遊びの延長線上に音楽の教育が位置するように、と言う意味もあります。
3分間だけ練習をするという事は、時計を前に置いておくと意外と出来るものだ。しかし、子供に3分と言う時間を把握させるものcurriculumなのだ。集中が出来ない時には、時計はデジタル式時計はお勧めできない。時間が目に見えないからである。一番良いのは砂時計。今では100円ショップにも売っている。次がアナログ式の時計である。タイマーはある程度上級にならないと、上手く使いこなせません。
いずれにしても、まずは、3分と言う時間を把握し体感する事です。
一日のうちに、3分の練習を色々な練習方法で練習するとよい。そうすると飽きなくって練習出来る。
しかし、そういった練習を際限なく続けて練習出来るようになると、これが結構勤勉に練習出来るようになるんだよな!
1 日に3分を
3回というのは子棋達はいつでも出来る。
そういった練習が、いつの間にか、一日の中に規則正しくプログラミングされれば、自然に体内リズムとして身に付いていく。
そうなると「練習しなさい。」といちいち親が言わなくっても、子供がその時間になれば喜んで、練習するようになるのだ。
子供の日常の生活の中に体内時計としてパターンとして、組み込まれるからである。
これも心理学のトリックである。
しかし、よく、お母さん達が「そんな躾はとても出来ない!」「うちの子はとても自分からは練習しない」と言う。「しかし、お母さん、あなたの子供はちゃんと歯磨きは出来るでしょう?」 「子供が自主的に歯磨きが出来るようになったわけではないでしょう?」 「子供が赤ん坊の時には、ちゃんと歯磨きを、しつけとして教えたでしょ ?」 「朝起きてとか、夜寝る前などに。」
それがちゃんと教えられたのに、Pianoやヴァイオリンの練習の躾が出来ないというのはありえないよね。
それは親に音楽に対しての(或いは勉強に対しての)価値観が無いからだよ。
その価値観を親に対して、つけてやるのも先生の役目!
(練習時間の躾をつけるには)
親は、決められた時間に「Pianoの練習時間だよ!」 というだけでいい。
無理やり練習させる必要はないし、練習に付き合う必要もないのです。
無理やり練習させたとしても、それで子供達に体内時計が身に付いたり、集中力が身に付く事はないからだ。
教室では生徒に「ピアノを練習しなさい。」とは言わない。
練習をしたくなければ、しなくてもいい。
但し、もし練習をしないという事であれば、「いまは練習の時間である。」という事を子供に認識させなければならない。
楽器を弾きたくない時は、無理やり弾かせなくてもいいから、その決められた時間に、ピアノ(ヴァイオリン)を磨くだけでよい。
「ピアノさん!今日は遊んであげられなくてゴメンネ。また明日ね」 と、子供に言わせながら、ピアノを磨くことで、時間を認識させればよいのだ。
決められた練習時間の時には、ピアノの前にいる。
それが躾けだ。
「どうせ、練習しないのだから、Pianoの前にいる必要はないのでは?」と言うのは、親の甘えである。親自身が教育に対しての意識が足りないと言う事だ。
親が勤勉に、子供に体内時計を教え身に付けさせようとしていると、1 0 分が 2 0 分、20分が3 0 分と、子供が自然に、親の手を借りなくとも、自主的に練習出来る様になっていく。体内時計を身につけることは、そのまま子供の自主性を育てる事にも繋がっていくのだ。
(先生の立場で、練習課題の与え方)
もし、親が先生に対して協力的で、子供もPianoが好きだという、すばらしくあり得ない様なラッキーな前提で、しかも「練習が上手く行かない!」と言う事であれば、それは、先生の指導力の問題になる。レッスンの時に生徒に「何を練習させるか?」「何を宿題にするか?」と言う事が子供達によく伝達されていない、理解されていない、という事からおきる。
そう私が言うと、必ず先生は私に言う。
「私はそれをちゃんと教えたけれど、子供達はやってこなかった!」
えっ!?ちょっと待って!!
そこには、二つも、三つも間違いがある。
まず第一点は、「先週、私(先生)が、教えたことを、何故、やってこなかったのか??」と先生が言ってしまっては、生徒は先生から、怒られているように感じる。
それでは、生徒がやってこないという状態は、当然で、何時まで経っても、改善される事はないのだよ。
そうじゃなくて、私だったら、自分自身の前回のlessonに対しての自己反省のために子供に「どういう理由で今週はやってこなかったのか?」を根掘り葉掘り尋ねる。
「やって来なかった」という事を叱るのではなく、そのやって来れなかった理由を子供から聞き出すのである。
そうすれば子供なりに色々なことを言い始めます。
それが嘘かホントかはどうでもよいことです。
嘘ならば、先生に対して、「本当の事を言えない」という関係に原因があるからです。
嘘をそのまま受け入れてやれば、(子供の嘘を認めてやれば)、子供は嘘をつく必要がなくなるので、その内に本当の事しか言わなくなります。
それが信頼関係の樹立です。
親が子供の事で「弁解して」言っている事と、子供の言っている事が全く違う事は、非常に多いです。むしろ、親と子供が同じ弁解をする事の方が、気持ちが悪い。
それでも、子供が言っている事は、常に認めてやらなければなりません。
それが先生の条件だからです。
「子供がいくらそういう事を言ったとしても、それは子供の自己弁護で、親の話の方が正しい。」と考えるのなら、あなたは先生をやめるべきです。
子供の事を信じなれない先生は、先生としてはいる必要はないですからね。
そうして、子供が先生に対して嘘をつく必要がなくなった時には、練習をしてこなかった理由は実につまらないものになります。
つまり、「練習したくなかった。」とかです。
それは面白い練習の方法を指導出来なかった(思いつかなかった)先生の方に、原因があります。
例えば「練習の仕方がよく分からなかった!」
「言われたように、練習
してみたけど、面白くなかった、つまらなかった。同じ練習ばかりで、飽きてしまった。」とかです。
そして、その時に子供の注文に応じて、どう宿題を出せば、子供が面白く楽しく練習、しかも効果が上がるか、どうやったらいいのか、その時に本当に楽しいlessonのためのマニュアルが必要になる野です。
(楽しいlesson2)
子供とのcommunicationが上手く行くようになって、子供の表情が明るく楽しく変わってきて、lessonを受けるときの子供の表情が常に輝いているようになったら、lessonの運営は100%成功したと言える。
私が常日頃から、指導者に言っていることは、子供への指導のpointは子供が上手くなるか否かは、どうでもいいことで、指導上の真のconceptは「子供達が本当に楽しんでピアノに向かい、ピアノを弾く事、練習する事を、心から楽しんでいるか?」である。
ピアノと接していくことが好きな子供を育てる事、それが私達の教室の一番の課題である。
音楽を愛し、一生、音楽と付き合っていける子供達を育成すること、それが正しい音楽教育の姿である。
「lessonは楽しく!」とか、「練習は楽しく!」とか、この話をしつこく繰り返し話ているのには、それ相応の理由がある。
一見(一聞)すると当たり前のような話ではあるが、不思議なことにこの考え方は一般には受け入れてもらえない。
なぜなら、日本人は音楽教育を勉強としてとらえているからである。
日本人の心の中にある儒教的な独特の教育感は、「levelの高い物、水準の高い物、価値の高いものは無味乾燥で、難しくつまらないものである。」「楽しいものは、軽薄で中身がなく薄っぺらで、迎合的である。」 という発想だ。
だから、日本人の根底には、「クラシックの音楽なんかはつまらない。退屈で面白くない。」という発想がある。曰く、「つまらなくって、面白くなくって、やたらと難しいから、奥深く意味がある。」と、分かったような、分からないような、解釈をする。「お経は価値があっても、むにゃむにゃと面白くない。つまらない。だからお経で、有難いものなのだ。」 だから音楽家は音楽をつまらなく、無味乾燥に弾く。それが、有難く崇高で価値深いものだからだ。
でも、教室の生徒達はBachでもMozartでも、StamitzでもBartokでも皆、大好きである。好きだから、先生に言われなくとも練習をする。風邪で、学校は休んでも、lessonには駆けつける。顔を真っ赤にしても、ネ??
音楽が嫌いならお金を払ってはlessonに来ないだろうよ。ましてや、学校を休んでいる時に、lessonに駆けつけるなんて、大体、親が許さないだろうよ!
尤も、私が子供達と音大生に同じ曲を同じようにレッスンをしていても、私のlessonを楽しいと感じるのは教室の子供達だけで、音大生は私のlessonはとても厳しいと思うらしい。
私は大人も子供も全く同じようにlessonしているのに、その違いは何だろうね?それこそ面白い課題だよね?
(練習のさせ方について)
生徒に練習をさせる場合に、先生が配慮しなければならならいpointが2つある。
その第一点は、
生徒自身が、自分がした間違いの箇所を分かっているのか?
その間違いの原因を理解できているのか?
そしてその原因はなぜ起こるのか?
どうすれば、(どういう練習をすれば、)その間違いを是正出来るようになるのか?
その練習のcheckの水準は正しいのか?
間違いの原因の探し方は、芦塚メトードの間違いの原因の3原則に拠るので、ここでは述べない。
(練習の目標のNiveau)
第二点は、生徒がその練習の方法論が正しく行われたとして、その練習が「出来た」とcheckし判断出来る水準が、本当に正しい水準で判断できているのかを指導者がちゃんと理解しているか、という事である。
ある先生のlessonを聴講した時に、生徒が間違いを10回繰り返し、たった1回、偶然正しく演奏で来たのだが、先生はそれを「やっと出来たね。じゃあ、合格にしよう!」とさっさと合格にして、次の曲に行ってしまった。
「おい!おい!おい!そりゃぁ、ないんじゃないの?」
私は生徒に「5回弾いてごらん?」と言って、5回ともちゃんと正しく弾けないと、合格にしない。
それが、生徒に演奏の確実性、安定性を身につけさせるということであり、生徒のNiveauを作るという事でもある。
勿論、5回というのは、5回という回数の事を言っているのではない。
5回が3回でも、10回でも確実性が身に付けば同じ事であるからである。
初心者の場合にはその確実性を身につけるには、小節の抜き出しは、1小節でも充分なのだ。
抜き出し練習で、checkされたpassageだけでよいのである。
そして確実性が身に付いてくるにしたがって、より大きな小節でcheckをするようにする。
練習の箇所をone phrase、或いはone Stollenで練習し、checkするようにすればよい。
しかし、生徒が曲を間違えずに弾けるようになると、その先何を指導してよいのか分からないという質問を若い先生から受けることがよくある。
それは単なる、先生の勉強不足、教材研究不足である。
私はその先生達に言う。
「私のlessonは生徒が間違えなく弾けるようになった所から始まるのだよ。」
生徒が曲を弾けるようになったという事が、lessonの目的ではないのだよ。
音楽は表現なのだ。
生徒がその曲の表現を正しく出来る様になって初めて、「音楽のlessonをした。」といえるのだよ。
(ヨーロッパでの音楽は―生活の中の音楽)
世界の視点で音楽教育を捉えると、音楽に対する受け取り方は全く違う。
家庭の中に普通に音楽がある。
例えば、若いカップルが始めての記念すべき初デートにこぎつけたときに、どこに行くのか?
今の日本ならば、きっとディズニーランドにでも、遊びに行くのだろうが、ヨーロッパではオペラに行くのだよ。
若いカップルがキチンと正装してオペラを見て、素敵なお店でワインを飲んで・・というお定まりのコースがある。
そのカップルが、長い年月を経て、おじいちゃん、おばあちゃんになったときに、金婚式銀婚式で、全く同じ恋人時代のコースを歩くのだよ。
オペラ劇場で同じオペラを見て、同じレストランでワインを飲んで、・・・ってね。
でも、ディズニーランドでは年を取ってからはカップルではいけない。
特別な日として着飾ることも出来ないし、アトラクションなら心臓が止まってしまう。
昔の日本であったら、歌舞伎を見に行くと言った事も出来たのだが、今は若い人達には歌舞伎はすっかり忘れられている。
(現在は、海老蔵達が若者にも理解できるように、若者の視点で見れるようにがんばっているがネ。しかし、まだまだというところか?)
しかし、ヨーロッパだとお定まりのデートコースがあって、若い人達でもフォーマルに着飾って行ける場所がある。
それがコンサートでありオペラである。
そういったものが、ごく一般の大衆、ごく普通の少年少女達の心の中に根づいている。
音楽芸術が、そういった伝統の中にあるのだが、ヨーロッパのクラシック音楽は、日本人にとっては、所詮借り物である、という所が、日本で音楽教育をやっていくのに難しいところである。
つまり音楽を学ぶ上での厳しさばかりが強調されてしまって、音楽を学習塾の延長として親も捉えている。
子供達への学習の一環として、ストレスやプレッシャーをかけ音楽を指導する。
指導者達もそういった一般の風潮に順応して、何の疑問も感じないままに音楽を厳しいものとして指導している。
私達の教室では、日本の教育界で失われたしまった集団の教育、協調して何かを作り上げていくというconceptの下に、室内楽やオーケストラを早い時期から体験させて、ともすれば単純な訓練の繰り返しで無味乾燥になりがちな音楽の勉強を、集団教育に置き換えて、楽しく有意義に、しかも集団性、協調性も同時に育成しながら勉強をするという、独自のcurriculumを作って指導している。
(発表会の選曲)
指導者にとって、選曲は非常に重要であり、且、難しい課題である。
よその教室の発表会を見ていると、発表会を最後に(区切りにして)教室をやめてしまう生徒が非常に多い。
先生の思いとは反対に、発表会まではがんばるけれど、発表会を区切りにやめてしまおうという親や生徒の考え方である。
私達の教室では、発表会を契機に教室をやめる生徒は全くいない。
それは何故か?つまり、発表会に対しての考え方が全く違うからである。
一般の教室では発表会はセレモニーとして開催される。
だから子供達が演奏する曲も子供達が好きな曲、かっこいい曲が大半である。
当然、選曲も発表会のための曲として選曲される。
そこに音楽教育の目的はない。
だから、発表会も短いintervalででも1年、通常は1年半ぐらいのペースで開催される。
私達の教室では、発表会は普段のlessonの延長線上に、課題曲の達成目標としてある。
そのために年2回のペースで発表会があるのだ。
大学の前期、後期と同じcurriculumである。
発表会は学習の発表であり、勉強のための達成目標なので、発表会を契機に教室をやめる生徒はいない。
ピアノの先生に「それはどうしてですか?」と質問されたが、何故、lessonの延長線上だと生徒はやめないのか、という質問は複合的なcurriculumなので、ストレートにその質問に答えることは難しい。
ただ、一言だけ言わせて貰うのなら、一般の教室のように、セレモニーとして発表会をやる場合には、生徒をその生徒の実際にlevelよりも上手に見せるために、選曲も生徒や父兄に無理をさせる事が多いように思う。
私達の場合には曲決めはcurriculumに従った選曲なので、その生徒のNiveau(level)にあった選曲がなされるので、普段のlessonの指導や生徒の家庭での練習にも無理がない。
(勿論、生徒の希望で、「どうしてもこの曲を弾きたい。」とか言って来て、無理な曲を選曲させられることも極々稀にはあるのだが、その場合の失敗は、本人の問題だから、生徒が自分の失敗を先生の性にする事はまずない。
幾ら子供が「弾きたい曲だから」と言って来ても、無理難題な曲を選曲することは、勿論、ないのではあるが、それでも、子供の場合には、学校の都合が突然変更になったり、思いもかけない病気になったり、それこそ親の都合とか、色々な原因で子供のrotationを崩したり、curriculumがめちゃめちゃになったりする事は、当たり前に(普通に)よくある事だ。
それで、子供を失敗させては先生の沽券にかかわる。そう言った不可抗力も考え合わせてのcurriculumであり、rotationなのだ。それを私は先生達には「risk計算」という言葉で言っている。
「**ちゃんにその曲を選曲するという事は、ちゃんとrisk計算はしたのかな?」と言う具合にである。
(level的には無理なのだが、本人が弾きたいと言ったので・・)
前に述べた事と、同じ事の繰り返しになってしまうのだが、一般の教室で、発表会を契機にして教室をやめる生徒の大半の原因は、発表会で上手く演奏が出来なかった、(むしろ大失敗をした。)という事に原因がある場合が非常に多い。
つまり、セレモニーとして選曲がなされているので、曲のlevelが生徒のlevelに対して合理性、整合性にかけるのである。つまりその生徒のgradeにマッチしていなかったり、その生徒のcurriculumの延長線上にその選曲された曲がいないのである。
一般の音楽教室の場合には、生徒に対しての選曲の主な理由は、生徒側からの「この曲が弾きたい。」という希望による事が多い。
それに対して、指導者が「弾きたいのなら、ひけるかもしれない。」という安直な希望的な考え(願望)で曲を与えてしまって、それが発表会の大失敗につながる事が多いのである。
子供のlevelよりも「より難しく、より長い曲を弾きたい」、「弾かせたい」というのは、生徒本人やその父兄のみならず、同時に指導者にとっての願望でもある。
生徒がより難しい曲を弾ける事は、自分の指導力の評価や見栄にもつながるからである。
そのために、無意識に、自分の生徒の実力を高く見積もってしまうものである。
しかし、そういった先生の儚い願望は、他の人達、他の先生や生徒達、或いは聴衆にとっては全く無意味なものである。
世間の評価は常に冷徹なものである。
他人の目は、所詮、他人の目でしかない。
「生徒や父兄のたっての希望で、ついつい負けてしまって、無理だとは思っていたのだが、弾かせてしまった。」という理由ならいざ知らず、指導者自身が、生徒のlevel、技術を無視して、より難しい、長い曲を弾かせる事がよくある。
私はその先生が自分の指導力を高く見せるために、無理をしているとしか思えない。
それで偶然その曲が発表会で上手く演奏出来たとしても、生徒がそのgrade(level)上にいない場合には、当然、次に与える課題曲がなくなってしまう。そのgradeの中の選曲は難しいからである。
つまり曲のgrade(level)の曲の難易度が高くって、生徒のそのgradeでは弾ける曲がなくなってしまうということだ。
生徒が無理なlevelの曲を「弾きたい。」と持ってきたときには、私は教室のcurriculumを説明する。
「まづこの曲を弾いて、上手く弾けたら、次にはこの曲になって、それが弾けたら、次の課題が君の憧れのこの曲だよ!」
そうすると生徒には明確なcurriculumとそこにいたるstepが見えてくる。
「今与えられた曲を頑張って演奏しよう!」という曲に対する価値付けも自然と出来てくるのだ。
そうしないと、グレードを飛ばして、課題を与えてしまうと、練習していく上で先生の負担だけでなく、生徒自身の負担も非常に多くなり、結果として発表会に対してのプレッシヤーが不必要にかかったり、発表会で失敗した挫折感などから、「次の発表会には出たくない!」とか「二度と発表会に出たくない」とか、発表会嫌いになってしまったり、ひいてはlessonにくること自体を嫌になってしまって、教室をやめてしまう原因にもなる。
というわけで、選曲は常に生徒の正しいグレードの中で、選曲していく事の方が、結果としては生徒への安全策だけではなく、先生にとっても、とても重要な指導上のpointになるのだ。
(弾けるという事には曲の持つ本来のtempoの事も入ってくる)
(遅く弾かせればよい、と言う筋合いのものではない)
子供が演奏したい曲をそのままやらせようとした時に、技術の不足でテンポを上げる事が出来なくって、7分しか掛からない曲を倍の14分のテンポで、平気で演奏させたりする先生が居る。
リハーサル等で「曲をカットするか、して時間内に収めないとね。」と言うと、「この子は普段は全く練習しないので、発表会直前になると頑張るので、何とか時間内にひけるようになると思います。」 と担当の先生が一生懸命弁解する。
リハーサルで生徒の失敗を先生がどう弁解しようと、発表会当日大失敗をしてしまっては、生徒本人も親にとっても、それ以上に聞きに来たお客さん達にとっても、可哀想でいたたまれない事だ。
それで、大幅にタイム・オーバーしたりして、進行の担当の人達をも困らせるのだが、それでも、そういったタイプの先生は、次の発表会にもまたまた同様の無理難題な選曲をしてくる。
曲には、その曲個有の定まったテンポがある。著しく早すぎてもいけないし、遅すぎてもその曲の特有のrhythm感が出ない。その曲の独特の性格が表現されないのである。つまりその曲には、ならないという事なのだ。
発表会で曲を聞いている多くの人達は、家族でも、近親縁者ではない。その殆どは関係のない人達である。それに学校のお友達と言えども、表面的には褒めてくれたとしても、それはそれ、本音はではない。他人に対しての本音は常に厳しい。
発表会で2,3回そういったアクロバットな演奏を続けていると、そのうちにその生徒は発表会に出なくなる。・・・というか、そのうち部活か、受験に熱中して音楽自体をやめてしまうのがオチだろう。
生徒に無理をさせる先生は、その先生の経験上、そういった結果が分かりきった事なのに、それが分からない。いや、分かりたくないから、分からないのかな?
自分の指導力を過信するのか、生徒のやる気を信じるのか、相変わらず、無理難題の選曲をしてくる。
私はそれを「妄信」と呼ぶのだが。
(グレード1)
教室のcurriculumの中でgradeが意味するものは、そのgradeに対しての選曲ではなく、「そのgradeでは何について学ぶのか?」というgradeの本来の課題をよく知っておかなければなりません。
[Beyer]
Beyerを例にとって説明すると、Beyerの60番代までには、譜読みのgradeが終了していなければならない。
所謂、読譜力が身についていないといけない。
それと同時に、Piano演奏上の三つの基本のpointが身につけなければなりません。(姿勢、手の基本の形、打鍵の位置の三つが芦塚メトードの最初のcheckpointです。)
それから以降の課題は、その基本のメトードの上に積み上げられるべき課題なのです。
Beyerの60番以降はその基本に乗っ取った延長線上で、型の展開がなされます。
ポジションも変わるので、当然vorbereitの勉強なども入ってきます。
正確な型(formation)による演奏が出来なければなりません。
また、片手を弾きながら反対のpartを歌うといったようなsolfege力も、同時に身につけなければなりません。
それがBeyerで学ぶべきcurriculumです。
[Burgmuller]
Burgmullerは、全く新しく、新たな課題を勉強するわけではありません。
あくまで、Beyer教則本のcurriculumの延長線上に、Burgmullerで出てきた新たな技術を積み上げて行かなければならないのです。
そして、新しい技術と同時に音楽の表現力が、課題となって曲に入って来ます。
一曲、一曲が独立した性格を持って作曲されています。
生徒はその1曲1曲のキャラクターの多様性を上手に、演奏して表現出来なければなりません。
[Czerny30番]
Czerny30番は指の運動が課題です。
私は「音楽を専門に勉強したい。」という生徒には、Czerny30番を2回学習させます。
一回目はゆっくりでもよいから、曲の課題や技術を正確に演奏することが課題になります。
二回目は指定されたテンポで演奏します。
私がCzerny30番にそれだけ時間をかけるのは、同じCzernyのエチュードの40番は30番と同じ課題で、曲の長さが変わるだけだからです。
曲の性格の表現は30番の方が40番よりも遥かに優れています。
だから、30番をin tempoで演奏させれば、40番は省力することが出来るのです。
Pianoを専門に勉強する生徒にはエチュードprogramというのがあります。
初歩の間は一般とは変わらなく、Beyerから始まって、Burgmuller、(カバレフスキー、Burgmullerの併用教材として使用します。)Czerny30番と進みますが、30番を終了すると、後は、全てのエチュードからのつまみ食いをします。
[それ以降のカリキュラム]
クラマーから始まって、モシュレス、モシュコフスキー、ケスラー、等々ありとあらゆるEtudeから特徴的なよい課題だけを抜粋して練習させます。
4,5曲をワンセットにして、半年をかけて練習します。エチュードprogramで合格できなければ、それこそ1年かけて練習することになります。
そこでテンポや表現、ペダリングを含めて完璧に演奏させます。
Czernyや色々なエチュードをつまみ食いする意味は、それぞれの曲を丁寧に本当にその曲に設定されたテンポでノンミスで、しかもエチュードとしての表現をさせるような所まで、マスターさせるには、最低でも半年は掛かるからです。小学生や中学生がちゃんとin tempoで演奏している所を、見たければ学生コンクールの小学校部門、中学校部門を聴きに行けばよいのです。予選を通過する生徒は皆in tempoで完璧に演奏出来ています。しかし、普段のlessonでちゃんとその水準がキープ出来ないと、完璧なlessonとはいえません。
ということで、それぞれのエチュードを4曲ずつセットにして、半年掛けてlessonしても、1年間に出来る曲は8曲に過ぎません。10歳から60歳まで、50年間練習したとしても、こなせる曲数は400曲に過ぎません。Czernyの30番、40番、50番とcramerの60曲のエチュードをちゃんと練習するだけでも、22年間掛かってしまいますからね。やっと32歳で、Czernyとcramerのエチュードが終了するわけですよね。それにBachの平均律があってChopinのエチュードがあって、ほいほい!
やめた!やめた!
めんどくさい!
人間は出来る事をちゃんとやればよいのですよ。真摯に、誠実にね!
さて、話を元に戻して、このlevelにまで達すると、このクラスの生徒達には、もう技術的に演奏出来ない曲はありません。
課題はあくまで音楽表現なのです。
(グレード 2)
話を元に戻して、そういった超上級の生徒達を育てるために、最も必要なcurriculumはBeyerで学ばなければならない基本(基礎)です。
音楽の勉強では最も基本的に生徒が身に付けておかなければならない基本のcurriculumです。
生徒達が本当の意味で、一生音楽をつづけていくことが出来るか否かを決定付けるのは、BeyerとBurgmullerのエチュードによります。
その段階で正しく基本(基礎)がcurriculumとして、身に付いていれば、音楽の勉強で行き詰ることは決してありません。
(メトードとは物に対するものではない。)
(メトードに対しての先生の把握の問題)
今回、**先生のlessonを聴講して気になった事があります。
**先生が、生徒に音符カードを使用した時に、音符カードの事を説明していた時の事です。
**先生は、「音符カードは、市販の物を使用しているので、音符カードでのlessonは、芦塚メトードとは関係ない。」と生徒に説明していましたが、それは大変な誤りです。
教室では先生の負担を取り除くために、市販で利用出来る物があるのなら、市販の物を使用します。
芦塚メトードはその音符カードをどう使用して、子供達に「譜読みの方法を指導するか」というソフトなので、音符カードは、敢えて教室が作成しなくても、市販のいずれのメーカーの音符カードを使用してもよいのです。
一般の人達は、道具をソフトと勘違いする傾向にあります。
実は「道具は何でもよい」・・・と言う事は、私自身は、Beyerからの生徒の指導でも音符カードを生徒にさせた事はないからです。
私のレッスンの時には、生徒に何処から弾くと説明しないままに、私がいきなりPianoを弾き始めたり、左手を私が弾き始めると、生徒はそれに反応をして生徒もまず右手を弾き始め、それから私の左手と生徒の手を交換するとか、何気ないlessonをしています。
2台目のPianoで私が弾き始めるとすぐに生徒が一緒に弾き始めたり、譜面台を立てていないのに、「じゃあ、26Pageの3段目の2小節目のauftaktから!」と言うと生徒はすぐに弾き始めます。
そこら辺のlessonが、あまりにも普通にlessonをしているので、見学の先生達が「私のレッスンが何が特別なlessonをしているのか?」を全く理解出来ないと言う事がよくあります。
また、それがあまりにも高度なlessonと勘違いをされるために(一般の先生は自分の出来ない技術は特別に高度なlessonだと勘違いをする傾向にあります。)、私がやっている高度なlessonを、色々と遊びの要素を加えて、道具を使用して、その一つ一つのtechnikをソフトに置き換えるという作業をしました。
そのひとつが音符カードであり、またはオセロチップ練習法なのです。
道具はそこらへんにあるもの、何でもよいのです。
しかし、日本人はあたかも道具がソフトのように勘違いをする傾向があります。
***を買うと英語がぺらぺらとしゃべれるようになるという勘違いと同じです。
と言う事で、音符カードはソフトではないのです。
つまり音符カードを買ったからと言って譜読みが出来るようになるわけではないのです。
音符カードを買って、そこに芦塚メトードで譜読みのlessonをします。それで、譜読みが出来るようになるのです。音符カードがソフトではないのです。そこを勘違いをしてしまう先生が居ます。
ちょっと、情けない話ですよね。
それで、repeatなのですが、音符カードは道具に過ぎないのです。
ちゃんと芦塚メトードの譜読みのcurriculum(ソフト)を学ばないと子供の譜読み力が育つ事はありません。
追伸:これにはもう一つ困った事があります。つまり、子供達が喜んで訓練してくれるように、遊びの要素を取り入れると、見学に来た先生達は、子供にへつらって子供を喜ばせる楽しいだけのただの遊びであると勘違いをしてしまうのです。
それで得る事が出来た子供達の優れた才能は生まれつきの才能であるという風に思ってしまいます。
追伸2:
ちなみに、Beyerの教則本の話を例に挙げるとすると、Beyer教則本の指導のcurriculumも私の独自のメトードになります。つまり、Beyerがその指導のcurriculumを書き残した分けではないからです。
要するにBeyerを使用した、芦塚メトードによるPiano奏法のcurriculumとなるのです。
悪しからず!
(Beyer教則本)
私自身は、小さな生徒を指導するときでも、全音の標準版か原点版の楽譜を使用します。
しかし、教室の先生達にはドレミで出版されている全五冊のBeyer教則本を使用させています。
子供達に対して、確実な達成感を与えるために、と言う事とイラストが楽しくてきれいなので、という理由です。
実は、昔私もおなじように全音からBeyerの 5 巻組の教則本を出版しようと企画していたんだけど、残念ながら、他の先生に全く同じようなアイディアで先を越されてしまいました。
こういった事は、早い者勝ちで、後の人は何を言っても意味はありません。
但し、幾つかの要点は、今出版されている5巻セットのBeyerと私の企画は同じではありません。
もし、私が企画構成するとすれば、まず第一点は絶対にBeyerの原点版の順番を変える事はしません。
それはそれぞれの課題がgradeに準拠しているから、配列を変えるとBeyerのcurriculumが成り立たなくなるからです。
もうひとつはどうでもよいのですが、Beyerの課題曲の無味乾燥な60番とか、81番とかのタイトルに、もう少し、夢のあるサブタイトルをつけることです。「森の小人 」 とか「風車小屋」とか、いろいろと子供達が親しみやすいように、サブタイトルをつけて出版しようと思っていました。
子供達には、そうしたほうがもっとBeyerに馴染み易いし、曲の好みも出来るのでね。
そのほかにも色々とアイデアはあるのですが、情報の流出にも繋がってくるので、今回は、そこら辺までにしておきます。
(Beyer教則本の問題)
一般的にはPianoを習い始めて、挫折する子供の大半は、Beyerの80番あたりから、BurgmullerやCzerny30番に入った辺りで行き詰ってやめてしまう。
Beyer教則本を使用したから、生徒が挫折したと、指導者達からBeyerが、無味乾燥でつまらない教則本であるかのように、悪者扱いされる所以である。
しかし、Pianoを挫折した生徒の原因を調べると、約93%(全音調べ)の生徒は、「譜読みが出来ない」と言う理由でPianoをやめているのです。
もし、それが生徒がPianoをやめた理由ならば、Beyer教則本を使用したことに責任を転嫁させることは出来ないはづです。
譜読み力、所謂、初見力を身につけさせるのは指導者の責務だからです。
一般的によく売れている教則本を調べてみると、読譜が必要のない楽譜が優れた指導教材として売れているようだ。
大手のPiano教室では、前提として生徒の読譜力は必要ないという考え方の上に立っている。
なぜなら、ポピューラー音楽では楽譜が必要はない事が多いからである。
Popularの楽譜の殆どはコードで記号が書かれているだけである。正確に音符を表現するという立場ではない。それぞれの人がそれぞれの感覚で演奏すればよいからである。
所詮、クラシックとpopularでは、求める音楽が違うから、それはそれでよい。
大手の企業にとっては、音楽業界のマーケットの大半(クライアント)はpopular愛好家である。
クラシック愛好家は1%に満たない。そんなクライアントを対象としていては企業としては成り立たない。
今日まで、クラシック音楽を支えてきたあの私達の憧れの(垂涎の)Pianoであるsteinway pianoですら、現代では音を金属的にして、pedalのバランスを変えるなど、今はすっかりpopular仕様になっている。ある町のホールにsteinwayのフルコンサートピアノを納品するときに、そのPianoをcheckしていて、あまりにも高音域の音の伸びが少ないのと、音が金属的な事に不満を抱いて、文句を言っていたら、納品に来た専門の調律師の人に説明された。今は全てPianoがクラシック仕様ではないのだそうな。
所詮、私達、クラシック愛好家は消えていく運命のマイノリティーに過ぎないのだよ。
私達の教室は「クラシック・オンリー」の教室という事を売りにしているのだけど、所詮、それは1%ではなく、0.5%の生徒を集めようとする、マイノリティーの教室だという事です。
この私達の教室のポリシーを他の教室が真似ようとすれば、一般の教室はすぐに潰れてしまいますよ。
という事で、私は、私の弟子達が教室を立ち上げる時には、こういったマニアックな事は要求しません。
発表会レパートリーあり、宮崎駿の曲あり、・・・で良いのですよ。
その中から自分が指導したい生徒を探していけばよいのですから。
私達の教室とコラボする時だけ、私達の教室の規約に従って選曲すればよいのです。
自分達の教室の発表会まで、芦塚音楽研究所の規約に従う必要はありませんよ。
(曲を仕上げる日数)
例えば、Burgmullerを課題として与えた場合であるが、暗譜や曲を間違えずに弾けるようになるまでに、一月か、それ以上かかったとしても、一月半ぐらいではその水準までは持って行けなければならない。
(勿論、ここで言う曲を仕上げるという意味は、間違えずに正しいテンポ(in tempoではないよ。)で弾けるということで、曲を完璧に仕上げるという意味ではない。)
もし、子供が譜読みや暗譜にそれ以上の日数がかかるようならば、それは子供に負担を強いていることになる。
先生が付きっ切りでの譜読みというのはBeyerの前半の段階で終了していなければならないし、Beyerの後半では、生徒が自主的に譜読みが出来るlevelまでは持って行けなければならない。Burgmullerでは、Beyerのような基礎的な課題ではなく、ある程度の音楽的表現を課題としてこなせなければならない。
Burgmullerの位置づけはBeyerのような手の形の基礎付けや譜読み、暗譜のメトードといったvorschule的なアプローチでもなく、Czerny30番のようなfigurationの指回しの課題でもない。
BeyerとBurgmuller、Czernyのエチュードがそれぞれに独立した異なる課題で作曲されているわけなので、その一つ一つの課題を生徒達には正確にクリヤーさせていかなければならない。
(読譜力の不足)
くどくどと同じ話を繰り返すのは、それが一番先生達に重要な課題だからである。
繰り返し、繰り返し、述べるように、ピアノを習い始めて、挫折する生徒の大半はその原因が読譜力の不足によるところが多い。
全音楽譜出版社の調査によるとPianoを習い始めて、挫折する生徒の90%は、Beyerの後半、70番台からの譜読みで挫折しているという。
確かに、Beyerの70番台からはかなり急激にlevelが高い曲が網羅されている。
読譜力という事のみではなく、生徒の無理のない進歩という事では、Beyerの70番代以降のlevelには、もう少し同levelの技術の曲が後、数曲は欲しい所である。
練習量や家庭学習の不足等で生徒の技術上の進歩が著しく遅く、そのlevelの曲数をもっと必要とする場合には、Beyer前半の60番代からメトードローズ2巻に進めて、時間を稼いでからBeyer後半に進ませる事を推奨している。
本来ならば、連弾などのサブ教材を併用する事の方が望ましいのだが、教室でこれといって推奨できる教本の定番の本がない。
話を読譜力の話に戻して、
生徒が読譜力がないとしても、それをただ単に「音符が読めない」と把握してはいけない。
もっと細かく、緻密に音符が読めない原因を分析すべきである。
例えばではあるが、
*
音符は読めるのだが、音符を理解するのに時間が掛かる場合。
*
ト音記号は読めるがヘ音記号は読めない場合。
*
音は分かるのだが、リズムが分からない場合。
*
記号及び臨時記号、タイ等が付くと分からなくなる場合。
*
色々な理論的知識が不足している場合。
等々、考えて行けば限がない。
読譜以外にも、他の理由で練習の進歩が行き詰まってしまう場合もあるが、それは先生の指導のpointに掛かっているので、別の機会に譲ることにする。
(いつまでも音符が読めない生徒の原因)
音符を読めない生徒に困っているという相談を受けて、その先生のlessonを見学していると、生徒が音符を間違えて悩んでいるときに、生徒がキー(鍵盤)を見つけるよりも先に無意識に先生がキー(鍵盤)を叩いていた。
生徒は先生の弾いた音を一瞬で聞き取って、そのキー(鍵盤)を叩いていた。
その事を、lessonの後で、その先生に指摘したら、先生は「キーを叩いていた、という覚えがない。」という答えであった。
生徒が音符を読めないので、無意識に鍵盤を叩いて、生徒にsuggestしていたわけだ。
つまり、その先生は無意識に「子供は譜読みが出来ないものだ。」という前提に立っているのだ。lessonを見学していると、生徒に「じゃあ、楽譜を見てごらん。」という呼びかけが全くない。
そして「この音は何の音?」という問いかけをしないままに、先生がPianoの鍵盤を叩いて音を出してしまうから、生徒は「先生が鍵盤を叩いて音を教えてくれるものだ。」と思って待っている。
当然生徒は先生に頼り切って、ますます譜読みをしなくなる。
それを堂々巡り、負の連鎖(SNBP)、dilemma(ジレンマ)と言う。
(片手ずつ)
lessonを見学していてもう一つ気が付いたことは、まだ読譜力、初見力が育っていないのに、いきなり両手で譜読みをさせようとしている先生の多い事だ。
あるいは両手で弾けている生徒なのだけど、確実性に疑問を感じて、左手だけ弾かせてみると(両手ではちゃんと弾けるのに)片手ではまったく弾けなくなる。
でも、本当は片手で弾けないのに、両手で弾ける分けがない。
それは「弾けた。」と思い込んでいるだけだ。
よく指導力のない先生が、「生徒が普段のlessonでは、ちゃんと弾けていたのに、発表会で、間違えてしまった!」と、悩んでいる。
それは、先生が「生徒がちゃんと両手で弾けていた。」と思い込んでいるだけの話である。
先生が「弾けている。」と思い込んでいるその生徒に、私が右手を弾いてあげて、生徒に左手だけで、片手で弾かせたりすると、生徒は全く弾けなくなってしまうので、その先生が「えっ?!」と驚いて、絶句してしまう。
「ちゃんと弾けている。」のと、「なんとなく弾けている。」のは、よく聞くと分かるのよね。
「なんとなく、弾けている。」ところは、リハーサルや発表会等でプレッシャーがかかると、全く弾けなくなるのだよ。
だから、私は生徒には、片手ずつ確実に記憶させて行きます。
(Bachのinventionや平均律などは、私は各声部ごとに覚えさせます。sinfonia等の3声の曲でも、2声部を右手と左手で弾きながら、残ったもう一声部を口で歌うという練習です。)
通常、訓練されていない一般の人は、複数の声部があると、より高い声部の音域をセレクトして聞きます。一番上の声部を聞いて、後の声部は背景として聞く性質を持つのです。
また、日本人の殆どの人が右利きで、左手が上手く使いこなせない、というか、それ以上に、日常の社会生活でも、全てが右手用になっています。
電車の自動販売機や改札でも、左手で作業しようとすると非常に難しく困難を伴います。
当然、左手はあくまで右手の補助の役しかされず、左手を使って日常を送るのは一般の人には困難です。
と言う事で、一般の音大生等でも、左手を生かす事が出来ないから、音楽が立体的にならず薄っぺらになってしまいます。
「左を制するものは世界を制する。」という言葉は、私が常日頃生徒に言っているPianoの練習のmottoでもあります。
だからまず(必ず)左手だけを片手で練習をさせる。
その時点で暗譜も一緒にさせる。
これも時短(練習の効率化)になる。
勿論、lesson時間にゆとりがあるときには右手も一緒に片手ずつ練習させる。
左手、右手、それぞれがちゃんとスムーズに弾けるようになったら、初めて両手であわせて練習させるのだ。
スムーズに弾けるようによく生徒に口で歌わせる。Solfegeの勉強ではないのだから、別に階名で歌わせる必要はない。「ア〜、ア〜!」でもよいのだ。
そういった練習を普段に何気なくしていると、左手を弾きながら右手のpartを歌うなんて事も、普通に出来るようになる。
内声部もきちんと歌えるようになると、(聞き取れるようになると)、「なんとなく」と言う曖昧な記憶は自動的になくなるのだよ。
(左手を曲として覚えるメリット)
ある程度、初見力が付いてくると、誰しも左手のpartを右手に対しての縦の流れで覚えていく。Bach等のbaroque時代の複音楽の作曲家を引き合いに出さなくとも、Haydnのような古典派の作曲家でも、基本はオーケストラの弦楽器の書法である。
オーケストラや室内楽では、当たり前の書き方なのだが、PianoのSonateアルバムの中にも、終止の音で左手が4分音符なのに右手が8分音符のpassageが出てくる。
某音楽大学の教授が「古典派の時代は楽譜の書き方がそんなに緻密じゃなかったのよ!」「Haydnなんて、結構いい加減に書いていたのよ!」なんて宣(のたま)わっていた。
無知という事は、本当に恐ろしい。別にHaydnだけがそう書いたわけではなく、MozartやStamitzのような古典派の作曲家は皆そう書いたのだよ。
弦楽器の演奏家や管楽器の演奏家達は曲を旋律の流れとして横へ見ていく。
しかし、ピアノ奏者は、一人で演奏するわけなので、一つ一つの和音として、縦に音楽を見る傾向がある。
特に近現代になると、色々な楽器を弾きこなすという事よりも、一つの楽器、(PianoならPianoだけ、ヴァイオリンならヴァイオリンだけ)を学ぶ人が増えている。
日本では私達の教室のように色々な楽器を一人の生徒が勉強する教室があると言う事は、非常にまれな話だ。
昔、私が作曲家として色々な楽器を勉強使用としていた時に、周りの音楽家達に「そんな素人的なアプローチをして!」と喧々諤々と批判されたことがある。
しかし、それは日本流の考え方で、ヨーロッパでは寧ろ色々な楽器が弾ける事の方がよりプロフェッショナルである。
全ての作曲家は(ChopinやSchumannのような限られた特別な例外の作曲家を除いては)色々な楽器をプロフェッショナルに演奏出来た。
Mozartは当代随一のピアニストであると同時にヴァイオリニストでもある。
あのBeethovenでも、不遇の幼い頃は父親の代わりに宮廷のオーケストラでヴァイオリンを弾いて、家族を養っていたし、ウイーンでは、プロのピアニストを目指して、演奏活動をしていたのだよ。30歳頃になって、耳が聞こえなくなるまではね。
ピアニストとして活躍していたSait-Saёnsも、世界一のviola奏者として活躍していたHindemithも、殆どの作曲家が一流の演奏家でもあるのだ。名前を挙げれば限がない。
私の師匠であるGenzmer先生も、私が先生にした「先生の弾けない楽器は何ですか?」と質問に対して、先生、速答出来なくって、すっかり考え込んでしまったよ。
その時に、先生答えて曰く 「Pianoは伴奏ピアニストとして、かの有名なHindemithの「マリアの生涯」の初演をしているし、パイプ・オルガンは生活のために、教会でオルガニストをしていたし、大学を卒業してすぐのまだ生活の立たない不遇の時代にはオペラ座で第二ヴァイオリンを弾いていたし、クラリネットはHindemithのクラリネットコンチェルトをクラリネット奏者としてオケで初演をした。云々」 20分近く延々と続くのだな、これが・・・・!!
だから、作曲なんてそういった演奏上の実体験によるものが大きいのだよ。
経験が豊富ならばそれだけ音楽の要素も充実していくのだよ。
日本のPianoの先生達はPianoしか演奏出来ないし、そういった室内楽等の異種楽器と合わせた経験も少ない。だからそういった作曲学的な語法があることすら知らないのだよ。勿論、楽典の本にはそういった事は説明されていないしね。
ということで、縦の長さが揃っていないと、「古典派の時代は楽譜のかきかたが・・・・」なんていう話になってしまうのだ。
古典派の作曲家はその曲がPianosoloの曲であったとしても、一つの和音の中の音を、それぞれのpartとして、個別の演奏者の立場で、(オケや室内楽の演奏上の書法として)緻密に書いたから、縦の長さが揃わないという、非常にめんどくさい書き方になったのにね。
作曲家といえど、無意識にそんなめんどくさい事をするわけはないのだよ。
後世では、進歩ではなく、逆に退化して、そういう面倒な緻密な書き方はしなくなったのだよ。
めんどくさいからだよ。
それが日本の音楽大学の先生達には分かっていない。そして自分の無知をひけらかす。
(左手を怪我をしてきた生徒に)
ある時に、私の生徒が小学校の運動会の練習で右手を怪我をしてレッスンに来た。
彼は、「3ヶ月間はギブスが取れない。」 という。発表会は3ヶ月半後だ。ギブスが取れても、発表会まで2週間もない。曲はLisztのハンガリア・ラプソディだ。超絶技巧的に難しい。練習が全く出来なくなったので、生徒は泣きの涙である。「先生、俺、発表会に出れないのかなぁ?」
私は「それはよかったね。君は右手は、よく回るんだけど、左手がいつも課題だったのじゃないっかな!右手を怪我したのなら、3ヶ月、みっちり左手の練習が出来るじゃない!左手が完璧なら、右手は2週間もあれば大丈夫だよ。」と生徒に言った。
発表会当日、生徒は一個の音もミスをしないで、完璧に弾いたね。
要は 「左を制するものは世界を制する。」だよ。
(暗譜について)
彼が片手の練習だけで、本番をちゃんと弾けたのにはもう一つの理由があります。
それは、練習したのは、左手だけだけど、暗譜は両手ともちゃんと出来ていたからです。
教室では弾いて、曲を覚えることは禁止しています。
曲を覚えるのは譜面を見て覚えるのが原則だからです。
だから生徒が暗譜してlessonを受けている時に、「右のPageの3段目の2小節目から!」とか言って、lessonをしています。
生徒は小節番号だけではなく、楽譜上の何段目の何の音まで正確に覚えています。勿論、そのためには、生徒と同じ楽譜を使用する必要がある、という前提ですがね。
生徒が上級生になってきて、大曲を指導する時には、私が譜面の最初からlessonを見る事は殆どありません。
その生徒の弱いpassageをいきなり抜き出して、lessonします。
楽譜の途中からや、後ろのPageから前のPageに向かってlessonをはじめるのです。
その時には 「今日は、15Pageの3段目から弾こう!」と言って、レッスンをいきなり始めます。
また、いきなり私が曲の途中の左手のpassageだけを弾き始めたりすることもよくあります。
それで、私が1小節を弾き終わる以内に、生徒が弾き始められないと、それはちゃんと暗譜が出来ていない事になってしまいます。
当然、お説教です。「そんなんじゃ、君のlesson時間が足りなくなるよ!」
当然、生徒は、私が1,2個、音を出したら、即弾き始めます。
これが出来る生徒は、私の特別な個人的な生徒だけではありません。
他の先生達が指導している室内楽のlessonや、オケ練習の生徒達でも同じです。
私がオケでヴィオラのpartを弾き始めると、チェロでもヴァイオリンでも、Cembaloでも、皆、すぐに自分のpartで入ってくるんだよな。
これが・・・!
(指導の心構え)
暗譜について、こういう話をすると、「それは大変だ!」「そんな事は絶対に出来ない。」と言う先生が多い。
しかし、先生が「暗譜が大変だ。」と思っていれば、子供は絶対に覚えられるようになる事はない。
「自分(先生)が暗譜が出来ないから」 と言って、「子供も出来ない」と思うのは生意気である。
先生が出来なくとも、ちゃんとsystemに乗って、正しく指導さえすれば、子供は1回のlessonで暗譜が出来るようになる。
それはsystemによる技術に過ぎない。
言い方を変えれば先生も生徒と同じ努力をすれば、生徒と同じように出来るようになれる。
つまり、生徒に指導しながら、先生も一緒に訓練をすればよいのです。
そして生徒が出来るようになったときには、先生も出来るようになればよいのです。
確かに技術は、大人の場合には子供のように早くは身に付きません。
しかし、それは、「年を取ったから、単に子供よりも、倍時間が掛かる」 という意味で、「大人の場合には習得できない」という意味ではありません。
大人の人は自分の経験を大切にしていて、新しいものを受け入れようとしないからなのです。
人と接していても、相手の事を信じる事が出来ない。自分が今師事している先生ですらです。
子供は受け入れるのに、何の束縛もない。
それが私が「子供を指導してもよい」と考えるに至った動機です。
生徒を指導するコツは、「自分が出来ないから、当然生徒も出来る筈はない」という考え方を捨てる事だ。
小学4年生ぐらいの生徒でBurgmuller程度の技術の生徒が、私についてレッスンを受け初めて、私の技術を越して、LisztやChopinの曲をin tempoで演奏し始めるのに、4年はかからない。
つまり、生徒が出来るか否かは、systemを正しく指導出来るか否かにかかっているのだ。つまり先生の指導力によるものなのだよ。
そのためには、生徒に対して、一番大切な指導は、確実に一回一回のlessonで「出来る」と言う事を教える事だ。
それが生徒に自信を与えるのです。
技術は心構えによって出来るようになるのであって、練習の量で出来るようになるものではないのです。
プロフェッショナルとしての心構えを作る事が、技術をみがくより数倍大切なのである。
しかし、先生の音楽に向かう姿勢がプロフェッショナルでなければ、生徒がプロフェッショナルに育つことは絶対に無い。
生徒は先生の背中を見て学んでいくからなのです。
巷の音楽教室の先生に過ぎない私の生徒の殆どが、プロフェッショナルとして、今も現場にたっているのは、私が自分をしてプロフェッショナルとしてフライドを持っているからに過ぎない。
勿論、私は演奏家としてはプロフェッショナルではありません。
でも、演奏家でなくとも、プロフェッショナルの心得は指導出来ます。
仕事の職種は色々な種類があるが、プロフェッショナルは一種類に過ぎない。
どんな仕事をしていたとしても、プロはプロなのである。
プロにはプロにしか分からない考え方がある。
非常に上手いアマチュアと下手なプロが居たとしても、プロはプロで、アマチュアはアマチュアにしか過ぎないのだよ。
仮にアマチュアの方がプロよりも数倍上手かったとしても、アマチュアはアマチュアであり、プロとしては生きていけないのだよ。
それが分からないと技術の指導は難しい。
(初見力)
私の師匠のGenzmer先生は初見の名手でもある。
授業中、研究する現代作曲家の楽譜を先生と一緒に初見でPianoで演奏するのだが、スコアーの右Pageの一番上の小節に来ると、先生はページをめくらせる。
常に1Page先を見て演奏しているのだ。
私はせいぜい1段ぐらいしか先読みが出来ない。
つまり私の場合には、後、1段を残してPageをめくらせるのだが、Genzmer先生は1Pageを先読みする。
オーケストラの譜面ならば、1Pageだとしても、せいぜい数小節なのだろうが、Piano譜だと、70小節ぐらいになることすらよくある。
それを一瞬で覚えるのは結構難しい。
楽譜を正確に読むという事と、初見の譜読みのやり方は根本的に違う。
初見では曲の全体の構成を理解するためにするから、細部には拘らない。
そのpassageの和音(響き)が正しければ細かいことは、ちゃんとした譜読みの時に、きちんとすればよいのだ。
初見のやり方はGenzmer先生のお話で分かったと思う。
譜面を見て瞬時にその楽譜を覚えてしまうのだ。
だから、初見力は、実際に弾いている場所よりも、何小節先まで先行して譜面を見れるか、にかかっている。
Genzmer先生は勿論、作曲科の教授である。
初見は作曲科の授業だけではない。
私が在籍していた指揮科のクラスでも、一人が指揮台に立って別の生徒達が2台のPianoでスコアーを初見しながら教授と一緒に指揮のcheckをする。
またスコアーリーディングとして、Bachのコラール集を初見で演奏しなければならない。
コラールなので、ソプラノ、アルト、テノール、バス・パートの4声体のハ音譜表で書かれた譜面を初見しなければならないのだよ。
原則として、右手はソプラノ譜表とアルト譜表を弾く。
左手でテノール譜表とバス譜表を弾くわけだ。
日本の音楽大学では、こんな勉強はした事がなかったので、大学に行ってから最初の1一月は全く出来なくって、周りの生徒達に笑われて泣きの涙だったよ。
だから初めての指揮の授業の帰りがけに、聖マリア教会のすぐ傍の楽譜屋に寄ってBachのコラール集全8巻を買ってきて、そのコラールを1月で全部をいつでも弾けるようにしたね。
だから、次からは私がコラールの初見はいつも一番だったよ。
同じ注意は二度と受けないのが私のmottoだからね。
随分以前からグランドピアノに向かっているときには、めがねを掛けていても楽譜がおぼろげにしか見えなくなってしまった。
(めがねを外すと譜面自体が全く見えないので論外である。)
それでも初見は出来る。
細かく楽譜を見ているわけではなく、おぼろげな全体を見ることで、和音も分かるからだ。
細かい音符を読んでいるのではなく、むしろ絵を見るように楽譜を見ているからだ。
だから、音自体に性格がない(音に機能を持たせない)現代曲、ウエーベルンやシェーンベルクのような曲は正確に初見する事は困難である。
大体の表現は出来ても、無正確な音を正しく初見する事は出来ないからである。
困った事に、日本の音楽家達は初見が苦手な人が多い。
しかし、色々な曲を勉強する上で初見力の不足は致命的なことになる。
演奏家として活動したければ、半年も前から決まっている演奏会とは違って、仕事としての演奏活動は注文は殆どの場合には、2日前とか1週間前に来るケースが多い。
Genzmer先生が伴奏ピアニストとしてデビューした時も、前日にベテランの伴奏ピアニストが病気で倒れて、急遽Genzmer先生に代役が回ってきたからである。
先生は2時間掛かるその曲を1時間で完璧に覚えて、1時間後にはその代役を引き受けた。
それが先生の音楽家としての最初のデビューだったそうである。
ドイツで学んだ師匠達の共通のadviceがある。
「人生にはチャンスが3回ある。人をそれを物にするか否かだけなのだ。」と言う話である。
その話にはもう一つ必ずついてくる話がある。
それは「そのチャンスは一番大変な時に必ず訪れる。」と言う鉄則である。
チャンスはチャンスに専念出来るような暇な時には訪れないという事である。
私はそのチャンスと思われるケースを2回は逃している。
その一つは、Genzmer先生の好意による、Munchenの二つの音楽大学の先生の仕事を断ったことである。一週間、先生に待ってもらって、悩んだね。ジョーク的な理由は、「Munchenにはすし屋がない」という理由である。本当の理由は祖母が高齢でもまだ健在であった事と、そこで就職をしてしまうと、墓はMunchenの墓地になって、ドイツ人の女性と結婚して、一生、ドイツの料理を食わなければならないということだ。米の飯と味噌汁は欠かせないからな。悩んでいる間に、強烈なホームシックにかかったね。私がここで決心をすると、本当にコスモポリタンになってしまうのかな?ってサ!
(私は回りに近親縁者の血がないので、友人のように、年を取って、子供達が現地の大学を卒業したら、日本に帰ってきても、そこで転がり込む家はないからね。)
もう一つは、NHKの昔話の仕事を断った事と、母校の音楽大学の先生になる事を断った事かな?
それはポリシーの違いだから、そこで、私がそういう風に選択した事を、後悔はしていない。
神仏に頼らず、事を後悔せず、来るものは拒まず、去るものを追わず・・・だよ。
しかし、第三の選択は後悔しているのかな?
つまり、音楽教室を作った事だよ。
道に至ってはそれを後悔せず、だとさ!?
(初見初心者の場合の指導法)
子供達に譜読みを指導するときには、絶対に五線紙の段を数えさせてはいけない。
それが芦塚メトードの基本である。
そこの話は音符カードの使い方でmanualとして説明したはずなのでここで繰り返しお話する事はしない。
いずれにしても、「何故譜読みが出来ないのか?」という事は、一番最初の音符カードを与えるときに、「五線紙を数えさせてはいけない。」というcurriculumの原則論を守らなかったからである。
基本的に「5線を数えない」という原則を守って指導した生徒の場合には、読譜に苦労する生徒はいない。
メトード的にはrhythmはrhythmでrhythmカード、音符は音符として音符カードでそれぞれに指導するのであるが、それを総合する段階で、初見が上手くいかない場合には音符の指導が遅れているのか、それともrhythmカードの指導が上手くいっていないのかを判断してちゃんとバランスを取って整合させていくとよい。
譜読みの指導を怠っていると、或いは軽く扱っていると、或いはめんどくさがっていると、必ず近い将来に生徒が行き詰って伸び悩んでしまって、Pianoをやめる原因となって、自分も後悔する事になる。
譜読みの指導が完璧であればあるほど、生徒は将来的に音楽で挫折することはなくなる。
(受験や経済的な理由の音楽以外の理由で挫折する事を別にすれば、・・・というべきかな?受験や経済的な理由は、家庭の問題で教室が介入するべき問題ではないからだ。)
私事で恐縮なのだが、私は17歳で音楽の勉強を始めた。
だから、solfege力や読譜力は全くなかった。
と言う事で、音大時代には常に楽譜を携えていて、コ−ヒーを飲みながら、(正しくは紅茶なのだが)Pianoの楽譜やオケの楽譜を常に読んでいた。
理想はサンサーンスの「作曲家たる者はスコアーを、小説を読むように読めなければならない。」という言葉であった。
まず、自分の家でスコアーを片手にレコードを聴いてその音や響きを覚えた。
そして、楽譜を見ながら、その音や響きを思い出せるように訓練し、努力した。
しかし、それは大した努力でもなかったし、時間も必要はなかったよ。
半年もしたら、レコードで聞いた曲は音や響きをスコアーから聞き取れるようになったね。
勿論、先生から出されるPianoの課題曲も必ずそういった訓練をした。
ドイツから帰ってきた頃からは、楽譜を買いに行ってスコアーを見ると、ちゃんと曲が聞こえるんだよ。そのorchestraのその楽器の音でね。
だから、ヤマハ等の楽譜売り場でBGMが流れているのは許せないな!
ドイツでは楽譜屋では音楽は流れていないのだよ。
当たり前だろう。楽譜を見て買うのに、音楽が流れていたら、音が分からんじゃないの??
私の場合には、一旦楽譜に集中すると、殆ど周りの音が聞こえなくなるから問題はないけれど、非常によい曲が流れている時には、ついついそちらの方を無意識に聞いている時がある。
ハッ、ハッ、ハッ!
未だに、教室のオケ練習等では、練習会場についてからスコアーを渡される。
ほんの5分ぐらいでスコアーリーディングをしなければならない。
Pianoでスコアーリーディングして、音や曲想を確かめる事など、現実社会ではありえないのだよ。
そこまで皆親切じゃなくてね!
初見どころではなく、一瞬楽譜を見るだけでちゃんと曲を覚えて、しかも曲想を練って音楽を作って指揮をしなければならない。
そんな事出来る??
でも、クライアントの要求は総てだよ。
プロは「出来て何ぼ?」 の世界なのだからね!
前回、指揮した事と違う事を言ったり、やったりしたら、即、生徒からでも(プロでなくとも)、野次が飛んでくるからね!
「先生!先週はそこの所は・・・!!」
ハッ、ハッ、ハッ! そうは問屋が卸すかい!
ちゃんと覚えているんだよね。
5年ぐらい前のlessonであったとしても、自分の言った事はサ!
これがプロのプライド!
(そのくせ、人の名前は覚えない!)
悪かったわネ!!
(練習課題の与え方)
子供達が上手になるためには、まず練習の仕方が上手にならなければならない。
と言う事で、私はまず抜き出し練習の宿題をBeyerの最初の段階から生徒に与えるようにしている。曲を合格にした後でも、抜き出し箇所だけを宿題で残したりして。
そうすれば、Beyerの一つの曲を1月とか1月半とかさせなくて済むからだ。
まだ、初心者の段階では一つの曲を与える期間は限られている。
発表会の曲でも年齢と技術levelが低い場合には、課題の曲を飽きさせないで指導していくには、1月半ぐらいか2ヶ月位から始めなければならないからだ。
抜き出し練習の箇所が決まったら、片手ずつの練習だけではなく、子供達が練習に退屈しないようにリズムの変奏やいろいろなメトロノームのテンポ等、多種多彩に宿題を出さなければならない。
一通り一回ずつでもやれば、都合何回同じ箇所を練習した事になる、・・というようにである。
片手の段階では、先生が反対の手のpartを弾いてあげたりして、アンサンブルの導入に導いてやるのもよい。
上手く行くようになってきたらそのまま、連弾のcurriculumに進める。
(Metronomの導入)
MetronomはPianoを学び始めた頃の比較的に早い時期から積極的に導入するとよい。
但し、最初の間はMetronomをrhythmの矯正のために使用してはいけない。
そう言う事を、私が言うと殆どの指導者達はびっくりする。
rhythmの矯正に使用しないとしたら、「何のためのMetronomなのか?」ということなのである。
その理由はすこぶる簡単で、子供にとっては、(あるいは、音大生にとっても)「Metronomのrhythmに合わせて曲を弾いていく事は、難しいのだから。」ということなのだ。
「うちのメトロノームとテンポが違うんだけど…!」
「教室のメトロノームは速くなったり遅くなったりするのだけど、ひょっとして壊れてるんじゃないの?」
この言葉は音楽の練習を始めた初心者の言葉ではない。
実はオケや現場で演奏会を開いているプロの言葉なのだ。
器械的なMetronomならいざ知らず、教室で使用しているデジタル式のMetronomが100分の1秒も狂う事はありえないのだよ。
100分の1秒なんて言うと、随分ミニマムな世界のように思われるかもしれないが、あにはからんやの世界だな。
Metronom=60は1秒なので、四分音符1個で1秒、これは非常に遅いrhythmである。16分音符で1秒の16分の1、32分音符、64分音符、128分音符と進む。「128分音符なんて見た事はないよ。」 と言われる御仁もいるかも知れないが、通常のギャロップのMetronomのテンポは120なので、その場合には、64分音符で既に、100分の1秒を切っているのだよ。だからちょっとPianoの上手い生徒は常に100分の1秒を切ったテンポを扱っているのだな?・・・これが!!
人間は舞台の上とか、先生の前とかで緊張すると、弾けない所は早く感じるし、指だけ回っているところは遅く感じるのだよ。
BeyerやBurgmuller等の初歩の短い曲は兎も角として、sonatineやsonate、levelの曲や短くてもchopinのMazurkaのような曲は、Metronomのテンポを細かくphrase毎に指定しなければならない。
それこそ第一テンポ(tempoT)や第二テンポ(tempoU)のように、である。
そしてそれぞれのテンポから次のテンポへ正確に入れるように練習しなければならない。
テンポの話とは違って、pitchも感情に支配されやすい。
だから、Metronomの話と同じように、tuningの時に、「教室のpitchは低いのではないですか?」と怒り出したプロも居る。
「音楽教室なら、正確なMetronomを買わないと!」と、大変なお怒りで、教室に対して説教しまくっているので、プロを傷つけるのは悪いとは思ったのだが、何とか収めないといけないので、仕方がないので、私が「電子式のtunerは基本的には狂わないと思うのだけど、それじゃあ、どれくらい教室のtunerが狂っているのか、調べてみましょう。」と言って、彼女が使用しているtunerのAの音を鳴らさせて、教室のtunerと比べてみると、ピッタンコなのだな!・・・これが!
つまり、教室で使用しているtunerはオケや室内楽でも使えるように、音が大きいのだが、彼女のMetronomは携帯用にヴァイオリンのケースに入るように超小型のを、持ち歩いている。
だから音が細くて電子音で耳障りなので、教室の大型の音の柔らかいtunerよりも、pitchが高く聞こえるのさ!
ハッ、ハッ、ハッ!
話がまた難しくなってしまったので、最初のMetronomの導入の話に戻して、Metronomを導入する一番最初は、子供が正しいrhythmでちゃんと弾けるようになってから、その子供の演奏しているテンポにMetronomのテンポを合わせて練習させるのである。
決して、生徒の弾けないようなメトロノームのテンポで生徒の演奏の速度を上げて行こう等と考えてはならない。
子供は合わせるだけ(Metronomを聞くだけ)でも、精一杯なのだからだ。
Metronomの第一stepはMetronomを聴くという事なのだ。
間違っても「合わせる」という事ではない。
また、Metronomで生徒を指導するからといって、lessonの間中、最初から最後までメトロノームを鳴らしっぱなしにしてlessonをしている先生がいるのも、困ったものである。
Metronomは神経戦なので、最初の間は、本の小節ぐらいの、抜き出し箇所だけをMetronomに合わせて練習出来ればよいし、上級になったとしても、数小節ぐらいのphraseの抜き出し箇所以上にはMetronomは使用しない。
tempoから次のtempoへのtempoの変化の表現を損なってしまうからである。
Metronomの選び方や使用の仕方は「Metronomについて」という論文に書いているのでそれを参考にしてください。
(宿題を出すにあたって)
Metronomの練習にしても、抜き出し練習にしても、先生がざっと説明をして、後は「家でちゃんとやっといてね!」で生徒に押し付けて、済ませてしまうのは最低以下の先生である。
レッスンの時間の中でちゃんと生徒が難しい抜き出し箇所を演奏出来るようになったとしても、それで自宅で練習して来る分けではないし、ちゃんと演奏出来るようにして家に帰したからといって、次の週のレッスンでは同じ所がちゃんと弾けるようになっているとは思わない事だ。
一週間経ったらすっかり元の木阿弥よ!ゼロだよ!ゼロ!!
だから、それすらしないで、(lessonで実際に身を持って教えなくってと言う意味)ただ口だけで説明して「こういう練習をすれば、ちゃんとできるようになるよ!」と宿題に出す先生は、だめ先生の見本のような先生なのだよ。
そこの所の原則論は、一番優秀な生徒であったとしても、子供は「lessonの中でちゃんと出来た事しか」家では練習してこない。
だから、普通の生徒がlessonで出来なかった事を、自分で自主的に練習出来る分けが無いのだよ。
子供の理屈からいえば、「先生と一緒に練習して出来なかったのに、自分で一人で練習して出来るわけが無いじゃん!」だよね。
そりゃ、そうだ!子供の方が正論だわサ!
「先生が折角宿題を出してあげたのだから、自分でこつこつやれば出来るでしょ!」と言うのは、音大に進学しようとしている生徒か、実際に音楽大学の学生かのlevelなのだよ。
「こういう練習法とこういう練習の仕方があるから、全部やっておいで!」と言って、「ハーイやってきます!」と言う生徒がいたら、是非是非、私の生徒に紹介してよ。
だから私の小学生の生徒でFちゃんやK子に、「このpassageはこういう練習をやって、この部分にはこの練習を・・」と、言えるようになるまでには、気の遠くなるような「一緒に練習をしてあげる」という、基礎訓練が積み上げられた結果なのだよね。
超上級の生徒になると、例え、音大進学を想定している分けではない、趣味組の生徒であっても、それぐらいの水準になれば、「そこん所、やっといてね!」で済むんだけれどね。
超上級の趣味組の生徒のcurriculum
毎回のlessonに(一回のlessonで)
芦塚先生の基本のscale一式
(それぞれの調でoctave、3度、6度、10度、arpeggio、分散和音、2:3、3:2、逆行形等々)
Czernyやクラマー等のエチュード5曲、
Chopinのエチュード5曲、
concerto 1曲、
室内楽の曲、
Bach program プレリュードとフーガをセットで5,6曲
その他に15分程度の課題曲、2,3曲
の課題曲を毎週自分で練習して持って来る。
勿論、1時間でそれらの曲を全部check出来る分けはないので、Czerny1曲、chopin1曲、Bach1曲、も無理かな?
普段は1曲見るのが精一杯だろうな?
だから生徒が自分で自主的に練習していて、見てもらいたい曲を持ってくる。
勿論、こちらが「次のlessonでは**を見るから持っておいで!」と指定する事もある。
半年の行程なので、(工程は鉄工所みたいで、嫌だな!)発表会迄に、一曲単位では、その曲を3回見れるかどうかだ。
それでもちゃんと仕上げてくる。
うらやましい生徒だと思うかもしれないけれど、それでも教え始めの段階では、最初はBeyerの2,3曲を毎週checkする所からlessonを始めるのだよ。
それが4年、5年も経つとそのcurriculumをこなせるようになる。
人間の成長って奴は、て〜したもんだ!
(音符カードの使い方)
先日、お手紙で誤解を招くような書き方をしてしまったので、もう一度確認しておきます。
「五線譜の段数を数えたら駄目」と言いながら、「しっかり数えなければならない。」と書いてしまったけれど、これは言っている意味が全く違います。
例えば、加線が3 本 4 本あったとしても、それを順番に1本、2本、3本と数えるという事ではないのです。
小さな子供でも、瞬間的にデジタル的にパッと見せると、「これは一番下の線」とか「一番上の線」とか判断できます。
(これにも順番があります。一番上の線から始めるか、下の線から始めるか?はどちらでもかまいません。次に真ん中の線です。第2線と第4線が最後になります。
間も同じです。
最初は第1間から、次に第4間を教えます。
その次が第2間、第3間の順でなければならないのです。
なぜこのような手順を踏むのか・・・?
これは発達心理学上の理由によります。
子供の視点の発達を追いかけているのです。
小さな子供はまだ図形認識の能力が育っていないから、譜読みのgradeを通じて、図形認識を教えなければならないからなのです。
加線も1本、2本までなら、問題なく認識することが出来ます。
3本までは??
4本、5本になると、これは子供には無理です。
私でも確認します。
何故なら、私にとっては、いつも加線はぶれて見えているのでね。
お月様はお空に幾つ?
今は三つ、四つはあったかな??
子供達は音符カードが大好きです。
「今日は何枚取れるかな?」
音符カードのメトードに従って、curriculumを進めていくと、ほんの一瞬で全てのカードを取れるようになります。
しかし、困った事に、それがなかなか楽譜に繋がって行かない。
と言う事で、まずは音符カードの使い方をいろいろと変えてみます。
まず、生徒の持っている音符カードを取り出して、全音符に棒線を付けて、2分音符にしてみる。
黒く塗りつぶして4分音符にする。付点をつけてみる。
そういう風に、生徒の音符カードを色々な種類の音符カードに作り変えるのです。
たった、これだけの事で、子供達は面白いように、音符カードが読めなくなるんだな!これが!!
白丸の音符カードと黒丸の音符カードは子供にとっては別物なのだよ。
それが分かると、なぜ音符カードが直接楽譜に結びついていかないのかの理由が分かる。
いや〜!本当に教育とは面白いものだ!
さて、気を取り直して、黒丸の4分音符や2分音符に塗り替えた音符カードを作って、新しくまた練習を始めたとしても、初めて音符カードをやった時の様に手間隙が掛かるわけではありません。
今回はほんの一瞬で総ての音符カードが取れるようになるでしょう。
この過程(grade)はほんの一瞬でクリヤー出来るから、「最初からやり直すのだ」という事とは別物であるので、curriculum的には心配は要らない。
子供が白丸でも黒丸でも、付点が付いていても同じ音だ、という事に気づきさえすれば、一瞬でカードが取れるようになるのだから。
でも、「気づく」と言う事は、先生が幾ら言葉で説明しても、分からないのだよね。
体験として気づけないと本当に分かった事にはならないのだな、これが・・・!!
ある程度は譜面が読めるようになったのだけど、時々楽譜を読んでいる時に躓く事がある。
そういった時には、今度は逆に譜面の中から、「始めて出てきた音」や「分からない(忘れた)音」があったら、その音符のカードを選び出して、そのカードの中でまた音符カードゲームをして遊ぶ。
遊びを通じて、「譜読みが苦手」という意識や「譜読みが弱い」という気持ちがなくなって、「譜読みは楽しい」、「大好きだ」という気持ちになれれば、このgradeの目的は達した事になる。
勿論、音楽を別の教室で習っていた生徒が、私達の教室に代わって入会してくる生徒の多くは親の転勤等による引越しが多いようです。
しかし、それ以外にも、新しく生徒が入会してくるいろいろな理由があります。
「lessonに行き詰って、でも音楽をやめたくない」、とか、母親が「子供が音楽がすっかり嫌いになったので何とかして欲しい。」という事で、生徒を連れてくるという理由もあります。
そういった生徒の場合には、音楽教室に疑問を感じながらでも、教室を探して私達の教室に代わってくるわけなので、それは音楽に熱心なとてもよい生徒です。
その中の一番多いタイプは、その教室が譜読みをさせないと言う事に不安を感じてそこの教室から私達の教室に代わってくる生徒です。
そういった生徒を実際に教えて一番困るのは、Pianoの経験年数も長く、ある程度指が回って、難しい曲をすでに弾いている生徒の場合です。
勿論、そういった生徒には音符カードは使えませんし(prideの問題もあるからね!)、1音符、1音符ずつ教えるには曲が大き過ぎてとてもそれでは間に合いません。
そういった生徒には連弾で初見の遊びをさせる事にしています。
lessonでは当然先生と一緒に連弾しますが、本当は年の近いお友達と連弾するのが一番です。
教室の連弾のcurriculumはまだ、完全ではありません。
初級の課題の連弾が少なすぎるからです。
ある程度、譜読みが出来るようになると、今度は初歩の生徒の譜読みの手伝いをさせるようにします。そうすると、譜読みがだんだん自信に代わっていきます。
私が、音楽の勉強・・・、というか、Pianoのお稽古を始めたのは、高校2年生の時からでした。
「作曲科を受験するわけだから、まあ、何とかなるかもしれない。」と、自分自身、ある程度、受験を、なめて軽く見ていたのかもしれません。
まさか、入学試験で、ピアノ科の生徒と一緒に試験されるとは思いませんでした。
(それは大学入学後も同じでした。lesson時間も、先生《通常は副科の生徒のピアノは講師の先生が見ます。》も、ピアノ科の生徒《は優秀な生徒は1年次から教授に付く事が出来ますが、入学試験の成績で芳しくない生徒は講師の先生になります。》と同じだったのです。
《ちなみに私は講師から主任教授迄、いろいろな先生に付きました。》ヒエ〜!)
自己弁護のためにあえて付け加えて起きますけれど、確かに音楽を始めたのは高校2年生と非常に遅かったのだけど、Beyerを3ヶ月で終了させて、Czerny30番を半年で・・・etc,で、音大受験直前にはCzernyの50番の真ん中以降はやっていたよ。
それから受験の課題曲が発表になってからの半年間に渡っては、毎日12時間食事もしないし、トイレにも行かないし水さえ飲まないで練習したのだよ。
でも、私の受験の主科はピアノではないので、それから、主科の作曲の勉強を毎日夜の2時、3時までやったのだよ。
受験の時の8月の夏期講習の時に、作曲の先生の所にホームレッスンに行っていた時の話だが、お父さんが芸大の作曲の教授で(かなり有名な人)お兄さんが芸大在学中で、・・云々という作曲科志望の女の子と一緒に作曲のlessonを受けたことがあった。
私が先生に提出している作曲の課題を見て、その女の子がせせら笑って、「まだそんなところをやっているの?」と言っていた。
紅顔の若者としては、すこぶる傷ついたね。
厚顔ではなかったからね。
ビビットで傷つきやすかったのだよ。
それから半年後の受験の会場で、その女の子に再び出会った時に、その女の子が課題について質問をしてきた。
私は「何だ、そんな事も知らないのか?」と言ってあげたね。
女の子は真っ青になって泣きべそをかいていたよ!
いや〜!すっきりした。
勿論、その女の子は大学の受験には落ちたのだが、その後どこの大学に行ったのかは知らない。
ここでも同じ注意は二度とされないという私の性格がよく出ている。
生意気で、嫌な奴だよね!hum! hum!
日本の音大では、特に初見力を要求される事は無かったので、初見には結構自信があったのよね。ところが、ヨーロッパは初見のcurriculumがあるんだよね。
だから初見の暗譜から、初見の移調なんていうのも平気でみんな出来ちゃうのよね。凄い!!
それもコルペチ(所謂、ボイストレーナー)の先生が、70段ぐらいある現代作曲家のオーケストラのスコアーを生徒がオペラの本番の練習のために持ってきたのを、(ちなみにMunchenの音楽大学の生徒は殆どの生徒が実際に演奏活動をしているプロの演奏家です。)教授がin tempoで初見しながら、「今日は君は声の調子があまりよくないから、3度ぐらい下げて弾こう!」だってサ!
私が留学していた頃のMunchenの音楽大学の学長さんのケラー先生も初見力はすごかったね。
Chopinのエチュードlevelの曲をin tempoで弾きまくるのだから!
それに対して日本の音楽大学の場合には、初見の授業すらない。
curriculum自体が無いのだからね。
日本の音楽教育って何だろうね。いや、ほんと!
困ったものですよ。
初見力には自信があった私だったのですが、ヨーロッパでは全くそれぐらいでは初見力とは言えないのだということがすぐに分かりました。
余談:私がドイツで生活を始めた頃、道を歩いていてドイツ人から話しかけられました。
「アー ユー スピーク イングリッシュ?」
学校で教えている「do you 」は失礼なのよ。
「お前! しゃべれ!英語で!」という意味になるのよね。
「are you」は「あなた、英語でしゃべってくれる?」とかいう平たい感じになります。
で、それに対して「イエス、アイキャン!」なんて軽々と言ってはだめなのよね。
「I can」は英語で夢を見る、英語でものを考えられる場合が、「I can」なのだよね。だから、頭の中で日本語を英語に訳している日本人の場合、自信があれば、「ja! A litlle!」 か、私ぐらいの英語力の場合には 「no! I can’t!」でいいんだよ。それでも、英語でしゃべってくるからサ!
ルーム・シェアーしていた、プロのオルガニスト(女の人なので、オルガニスティン)の人にお願いして、一年間、毎日1、2時間、連弾譜が出版されている全てのシンフォニーを買ってきて、彼女に初見練習に付き合ってもらった。
その連弾の楽譜は教室に今もあります。
敵さんはプロだから、初見と言えどもin tempoなのだよね。「scheisse!」 (翻訳不能な用語です!悔しがる私の感嘆符!)
Haydnから始まってBeethoven、Brahms、ブルックナーに至るまでのシンフォニーやオーバーチュアー、否、もっと近現代までの作品を初見で弾いた。
でも、これは私にとっては、初見の勉強であるだけではなく、作曲の勉強でもあるんだよ。
いろいろなシンフォニーを、ピアノでスコアーリーディングして、それから初見の連弾で実際に音にしてみるという事なのだよ。
日本の音大でもドイツの学校でも、そういった基礎的な勉強は無いから、そこの所は自分でこつこつやらないとね。
私の一石三鳥の理論がここで既に始まっているのだよ。
そういった勉強の続きは日本に帰ってきた後でも私の役に大変立って、私の友人のピアニストがMozartのピアノコンチェルトの全作品の連続演奏会をN協の選抜メンバーと一緒に定期的にやる事になっていたのですが、指揮者と勉強するためのセカンドピアノ(オケパート)を私が2、3年間に渡って弾いて、指導するお手伝いをすることになりました。
Mozartの全Pianoconcertoの連続演奏会という事で、曲が事前に分かっているので、初見ではないのですが、毎月必ず2回ぐらいの選曲で、3,4曲ずつ、(言われるまでもなく全楽章)の伴奏をやっていました。
毎月10曲近くのMozartのPianoconcertoのorchestra partを、(プロだから一回目の合わせから当然in tempoで)弾かされるのだよ。
Mozartの連続演奏の時には、それでも古典派の曲だからともかくとしても、BartokのPianoconcertoのorchestra partの演奏は、難しくってきつかったね。それは大変だった!
でも、当時はよく指が回っていたんだよね。
今考えると驚くね!?
伴奏ピアニストで舞台で稼いでいたこともあったんだよね。
今は病気で(リューマチです)全く指が動かなくなってしまって、簡単なsonateでも、演奏出来なくなってしまったけれど。
lessonで一番大切なのはしっかりとしたcurriculumをたてることです。
目標とそこまでのlessonの回数をしっかり見定めて、lessonをしていかないと、発表会に間に合わなくなってしまいます。
lessonが上手く行っていて、軌道に乗っていたとしても、子供は病気をしたり、親の都合で旅行や勉強に振り回されたりして、ローテーションを崩してしまうことがよくあります。
夏休みや冬の休みでローテーションを全く崩して、今までの練習の積み上げが全く0になる事もよくあります。
そういったリスクも含めてcurriculumを計画していかなければなりません。
子供が発表会で不安なく演奏出来るようになるためには、ゆとりが必要なのです。
私達の教室の場合には、その安定性をcheckするのが一月前のリハーサルです。
中級、上級の生徒達は半年のintervalで練習をします。
ですから、譜読みと暗譜のstep、抜き出し練習のstep、intempoまでのstep、でリハーサルです。
不安な箇所、表現の弱い部分を探して、全体が安定して演奏出来るようになるまでに、一月を予定しています。
発表会までに仮に6ヶ月あるとすれば、通常は24回のlessonがあるはずですよね。
しかし、夏休みや冬休み、休日で抜けることもあります。
実際のlessonの回数は20回ぐらいでしょう。
それを4っのstepに分けます。
そうすると、それぞれのlesson回数は5回ずつになります。
これは上級生のcurriculumですから、中級や初級になれば、intervalはもっと少なくしなければなりません。
初級の場合には、一月半から二月ぐらいから始めなければなりません。
ですから、初級のリハーサルは発表会の2週間前にします。
いつ、どのタイミングで曲を渡すのかも、先生の腕になります。
よく指導者が犯す誤りに、「発表会迄に弾けるようになればいいや。」とか、「発表会迄に・・・」という、言葉です。
それで、生徒が発表会でちゃんと弾けたことは無いのに、10個あった間違いが、5個に減っただけで・・・、或は、目標の倍ぐらいも遅いテンポでやっと弾いたとしても、「まあ、今回の発表会は何とかなったわ!」と、先生と本人だけが満足している事があります。
しかし、父兄や一般のお客様はそこまで先生や生徒に対して好意的ではありません。
生徒が招待したお友達も、目の前では褒めてくれるかもしれませんが、お友達同士の間では、「上手だったわよ!」と、評価してくれるわけではないのですよ。
身内と外の評価は違うのです。
発表会は子供達の外へのアピールの練習の場所でもあるのです。
先生達や生徒の身内だけの贔屓目な評価とは違うのです。
ちゃんとしたベテランの先生ならば、例え自分の生徒であったとしても、一般のお客様達の評価と同じ基準で評価をするはずです。
リハーサルの意味を勘違いしている父兄や生徒がいて、困ることがあります。
教室の規約では、リハーサルに参加できない人は発表会にも参加できないことになっています。
何故、リハーサルの参加がそこまで厳しく決められているのかは、生徒、父兄だけではなく、外部から来た先生達もよく意味を理解できていない場合があります。
それは、発表会の規約や教室の規約にかなり詳しく書いてありますので、本当はそちらを参考にしていただきたいのですが、規約に書いてあること以外の理由もあるので、ついでに少し書いておきます。
発表会では、一人の生徒が演奏を間違えて、弾き直しをしたり、舞台への出入りをもたついたとしても、その一人の人の遅れは僅か15秒や、30秒の遅れで、「大した事は無い」 と考えるかもしれません。
しかし、それが発表会の全programで考えると、一日全体では、30分の遅れ、1時間の遅れとなって、実際に発表会の最後の方では生徒が演奏が出来なくなってしまう、というような致命的な失敗が起こったりします。
昔々、私が教室を立ち上げる以前の話ですが、私が大学に勤めながら、個人的に指導していた数名の生徒を、他の教室に便乗させて発表会に出演させた時に(教えていた生徒数が少なかったので発表会が出来なかったために)、最後に出演する予定だった私の生徒がホールのタイムリミットのために演奏出来なくなった事があります。
リハーサルでも本番でもその教室の生徒さん達は大人の生徒さん達が多く、おしゃべりをしながらだらだらと弾いていました。
その先生は演奏時間の計算を実際に弾いている曲の演奏時間だけで計算をしていました。
勿論、Intervalの時間は加算していたのですが、その教室の生徒さんの一人一人のintervalの時間が、だらだらしていたとしても、最後の生徒が演奏出来なくなるとは全く考えてもいなかったのです。
会場は公共で会場の片付け等は老人などがアルバイトで働いている事等がよくあるので、時間にはとてもうるさいのです。
子供の発表会だから、或は子供が可哀想だからといって、許してくれることは絶対にありません。
それは企画をした主催者の責任になるだけなのです。
それ以降その先生と一緒に発表会をすることは、二度とありませんでしたがね。
私達の教室の場合には、intervalも含めて、タイムをパソコンで計算できるようにソフトを作ってあります。そして、リハーサルでintervalの時間もちゃんと計算します。
IntervaltimeはtimeAからtimeF,G,Hまでの時間があって、自動的に計算してくれるようになっています。
発表会の会場では演奏時間を調整することは出来ません。
「時間が押しているから、曲を早く弾いてくれ。」とはいえないからです。
ですから、発表会のスタッフにはタイム・キーパーという役があって、子供達がタイマーを2台使用して、理想タイムと実際のタイムのラグを計っていきます。
そして、押している場合には、舞台のセッティングを早くするとか、コメントの読み方を早くするとかして、発表会の全体の進行を調整しているのです。
ですから、私達の教室の発表会は例え、1日がかりの発表会でも、ラグは1,2分以内に収まるのです。
そういった進行の勉強の外にも、教室では発表会は演奏の上手下手だけではなく、舞台マナーの指導もしています。
教室の行事には、発表会とおさらい会、クリスマス会、サロン・コンサート等の種類があって、当然、TPOが違います。
舞台ではズックやジーパンで演奏する事はマナー違反になります。
(popularの世界では、フォーマルの衣装の方が、極めて稀なので、舞台でもジーパンで演奏するようですが、ですから、カザルスホールや上野の文化会館などの公式の舞台では、popularの演奏会は開催する事は出来ません。これは世界中のホ−ルでも同じ事です。アメリカのカーネギーホール等も同じなのです。)
というわけで、おさらい会でも舞台でやるときには、男性は黒広、黒の皮靴、蝶ネクタイのフォーマルの衣装になります。女性もそれに準じます。
東京の発表会で、本来的にはおさらい会であるべき時に、おさらい会に適したホールが見つからない場合には、ホールでおさらい会をやる場合があります。しかし、本当は舞台で演奏するときにはおさらい会とは言いません。
基本的にはステージ衣装になります。
サロン・コンサートの場合にはお出かけ衣装になります。
おさらい会は、普通の衣装です。
そういった社会的なTPOも音楽と一緒に学びます。
セッティングの勉強は社会人になるための、最も大切な勉強になります。
教室で学んできた先輩達が会社や学校等に就職して、新人であるのにそういったTPOや仕事や企画力でベテランの上司から驚かれるのは、そういった教室の発表会の進行で学んだ力です。
リハーサルとは、勉強出来る所が違いますが、発表会やリハーサルで最も大切な手順書は進行表です。
私が教室で生徒達に進行の勉強をさせようと思い立って、プロのorchestraのインスペクター(進行担当者)の人達に「進行表を見せてくれ」と頼んだことがあります。
日フィルをはじめとして、どこのオケのインペクの人も「芦塚さんの頼みなら何でも聞くけれど、それだけは勘弁して!」といわれました。
そして、何処のorchestraのインスペクターでも、全員進行表は作らないのだ、ということを教えてもらいました。
細かい時間のmemo書き(走り書き)を自分用に書くことはあっても、進行表を書くと、その人のソフトを持っていかれるから、絶対に書かないのだそうです。
ということで、たった一件、私に門外不出の進行表を見せてくれたのは、NHKの大河ドラマの進行表で、大道具、衣装が何日に出来上がって、背景がいつ書きあがって、俳優の練習がいつ終わって、とか言う膨大な全ての進行が一冊にまとめられている電話帳よりも巨大な辞書のような進行表で、とても個人で作れる代物ではなかったのですよ。
というわけで、教室で使っている進行表は私が生徒達のために考えた、私のオリジナルのものです。
「江古田詣」で、進行表の作り方やパソコンでの入力を学んで、進行表を打てる(手伝える)ようになると、全ての大手の企業の人達が「いつでもいいからうちの会社においで!」と諸手を上げて、お誘いの声を掛けてきます。
パソコンを打てても、企画し進行表を作れる人はめったに居ないからです。
会社は何年もかかって企画や進行表が作れる人を養成するのですから。
今は未曾有の就職難といわれていますが、実際にはそう言う事はありません。
就職するのは簡単なのですよ。
企業も優れた人材は求めているのです。
要は企業が求めている事が出来ればよいだけだからです。
しかし、今の日本人の学生は自分の事しか考えない、会社にとって一番欲しくない人材なのですよ。だから、企業は外国の学生を積極的に雇おうとする。
しかし、本当の所は日本の会社だから、日本の人材を欲しいのが本音なのです。
しかし、そういった人材は私が見ていても居ません。
でも、今の若者達は自分の事を認めて欲しいとばかり思っていて、その会社がどういう人材を欲しているのかは知ろうとはしません。
もし本当に自分がやりたい事があって、それが出来る会社に就職したければ、中小の会社であったとしても、自分を認めてくれる会社に就職活動をすればよいのでしょうが、やたらと体面ばかりを気にして、大手の会社ばかりを受けて、自分を本当に生かせる会社を探そうとはしません。
あくまでも大手の会社が良いからです。
本当にその大手の会社に入社したければその会社が必要としている人材になればよいのです。
大手の会社が必要としている人材は、有名大学を卒業した成績優秀な学生ではありません。
個性豊かで、発想が優れていて、実行力のある人材です。
実行力とは達成力でもあります。
アイデアと思い付きを、ぶち上げるだけなら、猿でも出来るからです。
でも、就職しようとする学生は、大学で学んだ事だけで、社会に通用する、と勘違いをしています。
誰でも出来る事が出来るのなら、会社はそんな人材はいらないのだ、それがどうしても今の学生には分からないのです。
ちゃんとした社会に必要な技術を学ぼうとすると、学校ではそういった技術は学べません。
しかし、社会でそういった技術を勉強しようとすると、1年コースで100万以上かかりますよ。
パソコンのちょっとした打ち方を勉強するだけでも、半年コースで60万以上掛かります。学校で教えるパソコンなんて殆ど実用価値はありません。
パソコンに限って言えば私達の教室で勉強するのだと、ただだけれどね。ハッ、ハッ、ハッ!
余談はさて置いて、リハーサルの話に戻って、子供達に誘導をさせたりする事は、現在の教育で常に問題とされる縦のつながりの勉強になるのです。
発表会の会場だけではなく、オーケストラの練習や室内楽の練習の間に、公園でお兄さんお姉さん達と一緒に遊ぶのは、年上の生徒は年下の後輩の面倒を見る事で、社会性や責任感を勉強します。
年下の生徒も社会の協調性を学んでいるのです。これも芦塚メトードの一石3鳥のメトードなのです。
リハーサルにはそういった数多くの複合的な目的と意味があるのですよ。
よく弟子から、「生徒の曲を決めてくれ。」と頼まれることがあります。
その時に私がその先生に要求する資料は、
@ 今はどの技術levelか?
A 今までどんな曲をやってきたのか?
B これからどういう曲を弾かせたいのか?
C 早く指をまわす曲か?歌い込みの曲か?
D 曲の長さはどれぐらいか?
E どういうタイプの生徒か?
F 将来的にその生徒をどういう風に(目的)育てたいのか?
G 指導は緻密にアプローチするのか?それとも、楽しみとして弾かせるのか?
H将来的にどういう性格の生徒(精神的に)に育てたいのか? そういった事を先生に説明して貰ってから、初めて選曲するのです。
「弾ける曲を弾かせる」という発想は教室にはありません。
教室では全ての曲をcurriculumとしてgrade化しています。
その中で上記のような配慮をして、ちょうど医者が薬を処方するように、曲を処方するのです。
今その生徒に何が必要なのか?
どういった配慮が必要なのか?
それが曲決めの基準になるのです。
編集後記
この文章は、主に指導者の音楽教育の心構えを中心に書いたつもりです。
ともすれば、音楽を指導する人は技術の指導に偏りがちで、子供の精神に対しての配慮が欠けている傾向があるように思います。子供との信頼を構築する事は、その指導者の人間性を問われる事になります。その分、自分の性格や欠点と向き合わなければならず、自分を克己しなければならないという大問題に対峙しなければなりません。でも、それを克服出来た時に、生徒達や父兄に与えられる音楽のもたらす心の至福感、満足感は比べるべきものはありません。教育者の冥利に尽きる所です。努力は大変なものかもしれませんが、それによって得られるものも素晴らしいものなのです。
音楽の技術的な指導には、それぞれの技術についてのcurriculumがあり、譜読みに関しては譜読みのcurriculumがあります。rhythmについてはrhythmとしての独立したcurriculumがありますし、テンポに関しても、初見に関してもそれぞれに独立した個別のcurriculumがあります。
それぞれのcurriculumを説明するのには、それぞれにこの文章と同じぐらいのPageを必要とします。
ということで、音楽技術の指導に関してのお話は、また別の論文を参考にしてください。
後書き
この論文の元の原稿は、まだワープロ時代が主流だった20年以前に、私のお弟子さんに送った文章です。(まだ、メールもなかった頃の話です。)しかし、ワープロが過去の遺物になってしまって、フロッピーディスクも散失して、print outした文章だけが、奇跡的に反古の形で残っていました。
ワープロで打ち出した時に、定形外の印刷でB4版1Pageの中に行間や文字数もぎっしりと詰めてprint outしてあった為に、パソコンでのOCRの作業が非常に困難・・・、・・というか読み取り不能で、パソコン的にはおろか、肉眼的にも判読不可能でした。
というわけで、OCRをした文章の文字化けの状態と、元の原稿の文章を見比べながら、文章を復活させる事に努めました。
しかし、もともとのお弟子さんへの原稿は、論文としてではなく個人的なお手紙として書かれたものなので、まとまった文章ではなく個人的な業務連絡や生徒に関するお話が入り混じった乱脈乱文でしたので、その中からlessonのadviceや教室に関する説明の内容の文章だけを抜粋して構成しなおしてみることにしました。
今回、昔の反古からこの文章を起草するのは、これから子供達の指導法を学んでいく若い先生達に対しての問題提起として、或いは参考としてだけではなく、生徒を指導する様になって20年30年経ったベテランの先生達に対しても、初心に立ち戻って芦塚メトードをもう一度、見直して欲しいという、私の願望があったからです。
文章としては いまだ起草状態の未完のままの文章なのですが、ちょうど今現在のタイミング的に、結婚や子育て等で、演奏活動や音楽の指導を一時的に離れていた先生達が、また演奏者として、或いは指導者として、現場に復帰してくる時期になっていますので、ちょうどそういったタイミングで、この文章が必要であると思われるので、とりあえずの形ではありますが、敢えて未完のままのこの文章を掲載する事にします。
文章の内容や構成は折に触れて気長に手直しや加筆をして行きたいと思っています。
未完のままにこの文章を掲載する事は、こういった教室のニーズに合わせて、という事で乱文乱脈はご容赦ください。
2011年 4月 某日
江古田 一静庵の寓居にて
一 静 庵 庵主
芦 塚 陽 二 拝